緑の髪

あらそいを やめよ。
あらそいをやめ おそれよ。
ただ この世の終わりをのみおそれ 歌をとなえよ。
世の終わりは
勝者にも 敗者にも
富者にも 貧者にも
あるじにも しもべにも
赤子にも 老いたるにも
へだてなく おとづれるものなればなり。
ただ 歌のみが 救いの扉を開く。


「緑の髪(ウヴェ・サリ)」の話をオレアに持ってきたのは、幼馴染みの僧侶、エルクだった。
「ウヴェ・サリ?」話を聞くなり、オレアは切り返した。「あの、巷で噂の?」
エルクは、さっと右手を上げ親指と人差し指を交わらせて唇の前で振り、声を潜める合図をしてみせると、キツネの気配を捉えた森の子ウサギのように、おびえた視線を左右に走らせた。
「大丈夫。ここには今、あまり人がいない。」オレアは、エルクと対照的にゆったりした態度で、声を低めることもせずに言った。「もっとも、故意に盗み聞きされるようなら、別の話だが。」
もともと、秘密の話をしたい、といわれていた。オレアが住む学術院の宿舎は、ちょうど休暇中で静まりかえっていた。オレアは左右の部屋の住人が帰省してしまったことを知っていたし、たまたま真下に住んでいる同僚が、ちょっとした調査で町を離れていることも知っていた。真上の住人のことまでは、あえて把握していない。だけどオレアは、経験上、窓を開けてよほど大声で話さない限り、下の住人が何を話しているか聞くことなどできないことを、知っている。
それに、雨が降っていた。夏の暑さが秋の涼しさに取って代わられるこの季節は、よく軽い雨が降った。細かい雨が、長く続くことはあまりない。だが、それはうんざりするほど頻繁に訪れた。冬の寒さが来るまでに、せっかくの爽やかな涼風を楽しめる期間は、ごく短い。
雨は、いろんなものを消すことができた。視界を遮り、臭いを流し去り、そして、音を吸い込む。
内緒話には適した晩だ、とオレアは思う。
暗い部屋に、ろうそくの光がいくつもの輪を作っていた。あるものは丸く、あるものは長い。その中に、積み重ねられた本の四角い影や、オレアやオレアの師匠が森から持ち帰った奇妙な置物のいびつな影が、浮かび上がっている。
それらの奇妙な置物が、オレアの部屋に世間と隔絶した雰囲気を与えていた。オレアは、ほかでもないその雰囲気を、愛している。その中で、世間を騒がすウヴェ・サリという者の話をするのは、いかにも不似合いに思われた。
「そう、その、ウヴェ・サリだ。」エルクは落ち着かない様子でこころもち肩をすぼめたまま、続けた。
オレアは片手に杯をもてあそんでいるのに、エルクは目の前に出された杯に手すら触れていない。酒におぼれる聖職者もいるのに、と、オレアはまじめすぎる友の顔を見る。
目も眉も細めで、唇も薄い。顔全体が、腕のいい彫刻家の手によって掘り込まれたような、繊細な線でできていた。同じように繊細な小さな耳が、短く整然と刈り込まれた黒髪の間から浮き上がっている。首もほっそりとしていて、ねずみ色の僧服からやけに白々と伸びている。もともと色白だが、今日はいつもよりさらに白く見えた。
 思いつめた顔で、エルクが言う。「君に、どうしても頼みたいことがある。」
オレアは、純粋な好奇心でエルクを見つめ、軽く身を乗り出した。
だが、エルクはそれを、なにか他の感情によるものとはき違えたようだった。
「こんなことは、君にしか頼めない。いや、他にも何か道があるのかもしれないけど、少なくとも今現在、私の周りの人の知恵と知識によるところでは、これが一番の方法だということになった。」
 エルクが、わずかに息継ぎをする。
「ひさしぶりに会って、頼みごとが用件だというのは、本当に申し訳ないんだ。でも、君のことを持ち出したのは、誓って、私じゃない。他にも何人か、君や君の父上のことを知っている人がいて、話が持ち上がった。ただ、個人的に君に話をすることができるのは、私だろう、ということになった。」
放っておけば、エルクはいつまでも言い訳を続けられそうだったが、オレアのほうは、それに興味はなかった。
「それで?」
オレアが水を差すと、エルクは読みかけの本を目の前で急に閉じられた人のようにきょとんとした顔で、一瞬言葉を呑み込んだ。
「その…、連れ出して欲しいんだ。」ようやく言葉を取り戻したと思ったら、何か間違いを犯してしまったとでもいうようにエルクはまた言葉を呑み、そして、あわてて付け加えた。「逃がす手助けを、して欲しい。」
「待てよ、エルク。」オレアは、口元に笑みを浮かべて見せた。「ぜんぜん意味がわからないじゃないか。筋道立てて話してくれ。」
言ってしまってから、オレアは、エルクの話をさえぎったのは自分だったことを思い出した。あの言い訳のあとで、エルクは筋道を話すつもりだったのかもしれない。
「連れ出すって、ウヴェ・サリをか?」
「そう、そういうことだ。」エルクが、救いを見出した人のように、オレアの言葉にすがってきた。
「ふうん。」オレアは、不精ひげの伸びた自分のあごを撫でた。休暇になると、つい身だしなみがおろそかになる。
「そうやって簡単には動じないのが、君のいいところだ。」エルクは、オレアの様子を見て、少なからず落ち着いたようだった。
「そうかな。」
驚かなかったわけではない。ただ、すぐには表情に表れないのだ。
ウヴェ・サリと自分は、何の関係もない。どうしてこんな話を持ち出されるのか、まったく理解できない。
「まずオレア、彼女について、どのくらい知っている?」エルクは、説明するより先に、質問をしてきた。
「そうだな。」オレアは、あごに手を置いたまま首をかしげた。「旅芸人の少女で、緑の髪をしている。流浪の民であるにもかかわらず、「終末の歌」を完璧に歌うことができ、そのために悪魔と濡れ衣を着せられ、捕らえられた。」
「おおむね、そんなところだ。」エルクがうなずく。
ウヴェ・サリがロテルナ公国を、そしてロテルナを含む七つのアスール教国全体を賑わすようになってから、半年程になるだろうか。
ウヴェ・サリとは、その名のとおり緑の髪をした少女だといわれる。オレアはいまだかつて緑の髪の人を見たことがなかったが、それが染めたものであるのか何なのかは、知らない。
もともと、ロテルナの国境の西、異教徒の国タゴーウ王国で活動する旅芸人の娘らしい。タゴーウで商売をして戻った者たちが、娘がかなり正確に「終末の歌(アスリカ・ソウォ)」を歌える、という話を伝えてきたのが、事の発端だった。
アスリカ・ソウォは、唯一絶対の神アスールが救いのために人々に与えたといわれる。信者が祭礼の時に寺院の中だけで歌うことが許されている、神秘の歌である。異国の旅芸人風情がどこかで偶然耳にし、地元の人々を喜ばせるために歌うそのあたりの民謡とは、わけが違う。
この不思議な話は、たちまちロテルナの人々の心を捉えた。人々は、娘が何者であるのか、知りたがった。国境を越え、娘の歌を聞きに出かける者が現れた。国境付近の辺境の町からだけでなく、ロテルナ公国首都グエタ・ロテルからわざわざ出向いた者もいた、との噂である。
ロテルナ公国政府も、そしてアスール教院も、これに過剰反応することで娘に分不相応なお墨付きを与えることや、罰して人々の反感を買うことを、避けようとしていた。だが、どこにでも、金を目当てに余計なことを思いつく者がいるものである。娘をロテルナ公国内まで連れてきて歌わせ、観客から金を取る者が、現れた。
有力者の屋敷の一室を借り、人づてでのみ客が集められた。金を払ってでもそうして聞きに来る客は多かったが、そのうちそんなことで金をとるのはけしからんという者が現れ、そのうち娘は正式な寺院の祭礼にも招かれるようになった。
国内で神秘の歌を歌う得体のしれない娘を、ロテルナ公国も無視できなくなってきた。ひと月ほど前、タゴーウとの国境近くの街ガンリューで、娘は異端の疑いで捕らえられたのだった。
「彼女が捕まってからのことは、何か聞いているか?」エルクが、さらに尋ねた。
「いや。」オレアが首を振った。「ただ捉えられただけで、その後あまりに動きがないから、何か秘密のことが進んでいるのでは、という噂は聞いた気がするが。」
エルクが、神妙な顔でうなずいた。「ロテルナは、彼女の扱いに困っている。」
「そうか。」オレアが、さらりと言う。「捕まえずにそっと逃がせばよかったのに。」
「そうするつもりだったのだ、という話も聞いた。」エルクが言った。「だが、うまくいかなかった。」
「まあ、そんなものかもしれないな。」
五つのアスール教国はそれぞれが独立した国家だが、これらに共通の国教たるアスール教の最高僧ダ・スーマは、この五つの国のどこにも属さない聖地アスリカ山にあって、各国内のアスール教院を支配している。その影響力は国により、ありは時代によりまちまちであったが、ロテルナ公国は比較的ダ・スーマの支配から距離を置いている。もとよりアスール教国以外の国との交易で栄え、厳しい戒律よりは自由な気風を重んじる国であった。これを面白くないと感じる教院勢力が公国への干渉を強めようとし、国内の独立路線勢力と衝突して不安定な時代もあったが、現大公のアリュマは両勢力の間をうまく立ち回り、公国内を安定させていた。
そんな努力の積み重ねが、一人の旅芸人の娘風情に壊されそうになっているのである。
娘を国内で歌わせたのは、おおかた比較的裕福な商人階級の改革派に違いなかった。彼らは常から自由交易に口出しし、公国税に上乗せして独自に寄付という名の負担金を回収しようとする教院に、反感を抱いていた。彼らは、娘の存在によりダ・スーマの権威に傷をつけつつ、民衆の信仰心を刺激して共感を得ようとでも考えているのだろう。
対する正統派は、怪しげな娘を撃破することで、権威と信仰を取り戻そうとしているのだ。
地方都市の警察と司法は正統派の影響力が強いため、大公アリュマの思慮などお構いなしに、追い出せば済むはずだった娘を捉えてしまったのである。
娘の処遇により、大公アリュマはその立ち位置を試されることになる。娘を処刑するか、ダ・スーマに引き渡せば、改革派を刺激するし、見逃せば正統派が黙ってはいない。いずれの場合も、再び両者の均衡を取り戻すには、これまで以上に大きな努力を払わねばならなくなるはずだった。
「アリュマ公にしてみれば、娘に蒸発して雲にでもなって欲しい気分だろうね。」
 言ってしまってから、オレアは、エルクがここにやってきた理由の核心に自ら飛び込んでいったことに気づき、はっとする。
エルクの強い視線を感じながら、オレアは言葉を継いだ。「あるいは、密かに殺して、消えたことにしてしまうかだ。」
エルクが後ろめたそうにオレアから視線を離し、ためらうように言った。「君の洞察力には、感心する。」
オレアは、エルクの様子を眺めながら、卓の上に置いたままにしていた杯を手に取ると、琥珀色の酒で舌先を湿らせた。エルクは、まだ杯に手すら触れていない。
「誰にでもできそうなことだが。善良な市民の手を借りなくても。」
エルクが、うなずく。
エルクは、隠し事が上手ではない。話をうまく組み立てて相手を断れなくするような技も、持ち合わせていない。いや、ひょっとして持っていたとしても、彼の心の別の部分が、そうした技を姑息だとして、使わせないようにしているのかもしれない。
「教院の若い僧たちが、娘に共感を覚え始めているんだ。」エルクが、重い口を開く。「牢獄ですら、客人の扱いだそうだ。」
 ほう、とオレアが喉の奥から声を出した。「それこそ、神業かもしれないな。ほめられてもいい。」
警察と司法を握る教院は、囚人の管理も引き受けている。罰せられるのは、アスール神が人に与えた戒律に背く者である。そこには、窃盗や殺人を犯した者はもちろん、アスールとダ・スーマを侮辱する者、寄付金を払わない者なども含まれる。
そしてこれらの囚人がどんな扱いを受けるかは、だれもが知るところであった。
囚人には、罪状や共犯者を自白するまで、拷問が与えられる。自供の必要がない場合でも、拷問は行われる。それはほとんど、看守の娯楽のようなものだった。罪人は多かれ少なかれ悪魔に魂を奪われていると考えられていたから、拷問に対する罪悪感も少ない。
そういうところが、アスール教の、あるいは宗教の、いやなところだ、とオレアは心の中でつぶやく。神の美名のもとに、平気で人を傷つける。それでは、人のための宗教ではありえないではないか。
神のために生きるなんて、真っ平だった。そして、本当は多くの人がそう思っているに違いない、と思っていた。他にすべきことはいくらでもある。
「ある者は、彼女の歌を呪われている、といっていた。」エルクは、教院の牢獄での囚人の扱いにオレアが内心非難を向けているのを察して、話を変えようとしたようだった。「聖なる歌を、ほとんど完璧に歌うのだそうだ。三声すべてを、一度に、たった一人で。」
「そんなことが、本当にできるのか?」
 こんな出来事に関して、いろんな妙な話が聞こえてくることそのものに、オレアは何の疑問も抱かなかった。
 だが、ひょっとして、と思う。
 ひょっとすると、娘は本当に人の心を惑わすような、ふつうと違うことができるのかもしれなかった。
 オレアは、アスール教の信徒ではなかった。だからアスリカ・ソウォを聞いたことはなかったが、この歌の主要な部分が三部合唱になっているということは知っていた。
 男性は主旋律のみ歌うこととされていたが、女性は十三歳で成女となると、三声のうちどれを歌うかが割り当てられる。そうすると、彼女たちは口々に、自分はどれだ、といった話を町中でし始めるのだ。どれが割り当てられるかで、その娘の将来が占われるともいわれる。
「私も自分で彼女の歌を聞いたわけではないから何とも言えないけど、歌を聞いた者がそう言っていた。」エルクが言った。
「直接会った僧たちが味方になるくらいだから、本当に神の使いかもしれないぞ。神に仕える者なんだから、見分けられるはずだ。」
「オレア、」エルクが、嗜めるように言った。「そんなに単純な話なら、アスール教の中に分裂が起きるはずがない。人の心は迷いやすい。教院の中にいても、常に純粋に神を見ることができるわけではない。」
それからエルクは、アスール教の分裂などということを口にしてしまったことを後悔したように、声の調子をわずかに落とし、どこか取り繕うように付け加えた。「とりわけ若い僧たちは未熟で、惑いやすい。」
「純粋で、真実が見えるのかもしれない。」オレアは目を細め、友人の白い顔を眺めながら、自分も若い方だろうに、と考える。「こういうのはどうだ。教院のほうで、娘を神の使いとして受け入れてしまう、というのは。そうすれば、娘の周りの勢力を骨抜きにできる。」
エルクが、厳しい瞳でオレアを見る。
オレアにだって、分かっていた。ダ・スーマと教院は、決してそんなことはしない。
教院には、異教徒を迫害してきた歴史があった。異教徒であることだけを理由に財産を取り上げ、他国を攻めるようなことが、繰り返し行われてきた。今更どんな顔をして、異教徒の娘を神の使いと認めることができるだろうか。異教徒の中に神の使いが表れうるのだとすれば、異教徒を神の名の下で迫害すべきではなかったということにならないか。
それに、現ダ・スーマとアスール教院は、いろいろな意味で力を問われる、微妙な立場にあった。
「話がそれてしまったけど、看守を務めている若い僧たちがそんな様子だから、まず、こっそり殺すということは、不可能に等しいんだ。でも、彼らが、こっそり逃すということはありうるかもしれない。」ため息のように息を吐きながら、エルクが続けた。「幸いにも、それはまだ起きていない。娘を慕うのと同時に、やはり教院の力を恐れているのかもしれない。実際にそんなことをする無謀な者が現れる前に、娘を別の方法で消さなくてはいけない。もし若い僧たちが彼女を逃がして改革派に引き渡しでもしようものなら、新たな火種を作ってしまうから。」
エルクが、熱心にオレアを見つめてきた。
オレアはエルクの次の言葉を待ったが、それは放っておけばいつまでも表れないのではないかと思えるほど、長い間出てこなかった。黙って見つめていれば、オレアが自然と説得されると思っているかのように。
「それで、なぜ、俺が出ていくことになった?ひょっとして知らなかったかもしれないが、俺は人を殺したことがない。」
 オレアが問いかけると、エルクは思い出したようにオレアから目をそらし、うつむいた。
「君に人殺しをさせようなんて、これっぽっちも思ってない。娘を殺すつもりも。娘を、国境の向こうに連れて行ってほしいというだけだ。できれば、もうこの国の人を惑わせることがないくらい、遠いところに。」エルクが言った。「君は、アスール教徒じゃない。だから、正統派でも改革派でも、どちらでもない。娘をどちらかに引き渡すことに何の意味も感じないだろう。教徒でない君なら歌で惑わされることもない。それになにより君は、腕も立つ。」
「腕が立つ方は、本業ではないんだが。」オレアは、手にしていた杯を卓の上に戻し、腕を組む。「それに、俺を過信してやしないか。金を積まれれば、俺だって娘をどちらかに引き渡すかもしれない。逆に、どちらにも義理立てする理由がないからね。」
エルクは、その繊細な眉をわずかにひそめながら、小さく首を振った。
人を説得するのに騙したり理詰めにしたりできない男は、真摯な眼差しのみで人を動かそうとする。
オレアは、その友の胸の中にあるものと、そしてその後ろにあるものを透かし見ようとして、目を細める。「それでお前は、一体だれのために動いているんだ?」
 エルクは、オレアの問いに、覚悟を決めるかのように息を吸って、吐き出す息とともに答える。「この国のためだ。知ってるだろう、私は、争いを好まない。」
「そうだな。」
 言いながら、オレアは床に伸びるエルクの影を見る。
 エルクが自分を陥れようとしているとは、考えにくかった。
 むしろ、エルクも追いつめられているのだ。あるいは、純粋に信じているのかもしれない。多少腕が立てば、この依頼は完遂できる程度のものである、と。
 もちろん、エルクの話のどこにも陰謀はなく、言われた通りにすれば、オレアは無事にここに戻ってこられるという可能性も、完全に否定されるものではなかった。
 ただわかっているのは、断ることはできないということ。
 こんな話をされて断れば、命の保証はないに違いなかった。
 自分が断れば、エルクにしても危ない立場に立たされるかもしれなかった。
 エルクがどこまで自覚しているかはわからなかったが、例えばオレアが依頼を受けたふりをして逃げ出したりすれば、エルクが責任を問われることになるだろう。
 そして、そこまで考えて自分に白羽の矢が立ったのだとすれば、実に忌々しい話だ、とオレアは思った。
「アスール神の名に懸けて。」オレアは、つぶやくように言った。
エルクが目を上げ、オレアを凝視する。
それは、承諾を意味していた。
「神の名を軽々しく言ってはいけない。」エルクが言った。「君は信徒ではないのに。」
「ほとんど挨拶みたいな言葉じゃないか。」オレアが、軽く笑ってみせる。「それにこの仕事は、その神様のためでもある。違うかな。」
 エルクが、おびえたようにオレアを見る。
 それが頼みごとを引き受けた人を見る目か、と、おかしくなる。
「それとも、お断りした方がよかったのかな。」
 エルクは足元に視線を落とし、力なく首を振る。
 ミッションを達成したはずなのに、戦いに敗れた戦士のように、苦しげで力のない顔をしていた。嫌な話を持ってこられたのに、持って来た者の方が気の毒に思えるくらいだった。
「それで、俺はどうすればいい?」
 オレアが問うと、エルクは逃げ出すようにそそくさと立ち上がった。
「詳しいことは、改めて連絡する。」オレアと目を合わせようとせずに、エルクは続けた。「私は、もう行かなくては。」
「そうか、結局また俺の酒を飲まなかったな。」
 早くも扉に手をかけていたエルクは、振り返り、改めてオレアの顔を見た。「すまない・・いや、ありがとう。」
「いや。またな。」
オレアが言うと、エルクは扉を開き、まだ降り止まぬ雨の向こうに消えていった。
扉を閉めながら、エルクがすまないと言ったのは、酒を飲まなかったことに対してだろうか、それともこの話をもってきてしまったことに対してだろうか、とオレアは考えた。

 2
雨がしのつく夕暮れ、崖から空に向かって一本の指のように突き出された塔の前で、一頭の馬が、止まった。
どの街からも離れ、ただでさえ整備されていない道は悪天候のためさらに悪くなり、とてもそんな日にわざわざ訪れてくるような場所ではなかった。明かりがない中で迷わずたどり着けただけでも、奇跡に近かった。
男は馬から下りると、馬に乗せていた大きな麻袋を引きずり下ろして肩に担いだ。絶え間なく降り注ぐ雨のために視界がひどく悪く、雨をしのぐためフードを目深にかぶった男の顔を判別することは、ほとんど不可能だった。
麻袋はすっかり濡れてしまっていたが、男は少しも気にする様子はない。
荷物から自由になった馬が、体に染み入る雨を少しでも減らそうと、ぶるる、と胴を大きく揺すった。
男は、雨のために滑りやすくなった石畳の上を、歩きにくそうに塔の方に近づくと、重苦しい鉄の扉の前に立った。
扉の横に小さな鐘があり、垂れている鎖を引くと、ガラガラガラ、とさえない音がした。錆びつきすぎていて音もしないかと思ったが、そうでもないようだった。
「たれか。」
中からの反応は、早かった。まるで、扉のすぐ向こう側で、男の来訪をずっと待ち構えていたかのようである。
「ユト。医術師の、グエン・ユト。」
鍵を取り出して回すにぎやかな金属音が、鍵を持つ者の内心を表しているように思えた。
期待と、焦り。
重くきしむ音を立てて扉が開かれ、中から灰色の僧衣を着た若い僧が現れた。体格はいいが、血色が悪い。長い間暗闇の中で過ごしたために、肌の色を奪われてしまったように見えた。
「お待ちしておりました。」僧が、両手を胸に当て、恭しく頭を下げる。
グエン・ユトは、ここに立ち入る依頼であり、許可であるところの、署名入りの手紙を手にしていたが、僧はそれにほとんど注意を払わずに、グエンを扉の中に導き入れた。
僧が入り口の扉を閉じると、外の冷えた空気と雨の音が遮断され、ねっとりと肌にまとわりつくような湿った空気と、ろうそくの頼りない光と静寂が、残された。その中で、僧が再び鍵をかける音が、反響する。
「こちらです。」僧が足早に階段を上り始め、グエンは荷を担いだまま、その後ろに従った。
塔の中には、壁沿いに上に向かって伸びる螺旋階段しかなく、前進することはすなわち階段を上ることであった。
昔、アスール教徒が先住の民と闘ったときに立てられた古い見張りの塔であった。近隣を見渡すのによい場所であったために強固に建設され、それが時を経て牢獄として使われるようになったのである。
塔の側壁には、足元をやっと照らし出すに十分な最低限の灯りが、石がむき出しとなって崩れかけた壁に取り付けられた飾り気のない燭台に灯されていた。時々見張りのための小さな窓が開いていて、通りかかると冷たい風を投げかけてくる。
塔の中央にいくつか小部屋があるようで、階段の途中に時々扉を見かけた。いくつかの扉は閉じられたままであり、いくつかは開け放たれているか、または壊れていた。どの扉の向こうにも、あるのは空虚な闇だけである。暗闇を愛する、人の目に見えない異形のものが、そこですくすくと培われているようだった。
だいぶん上ったところで一旦階段が途切れ、そこに別の僧がいた。やはり若く、がっしりした体躯をしているが、顔が青白い。この僧も、最初の僧がしたのと同じように、両手を胸の前に当てて、頭を下げた。
それを見届けると、最初の僧は、階段を下りて自分のもとの配置へと戻っていった。僧たちは、まるで話すことを禁じられているかのように、始終無口だった。
新たな僧が、さらに上に続く階段にグエン・ユトを導いた。だが、その階段は長くはなかった。塔の側壁を半周ほどしたところで、鉄の扉にぶつかった。この屋敷の他の扉よりもさらにそっけなく、さらに頑丈そうに見えた。僧が、その扉の鍵穴に懐から取り出した鍵を差し入れて回した。
沈黙の中に鍵が回る音だけが大きく響き、鍵を持っている当の僧が、それに驚いているように見えた。ゆっくりと、なるべく音を避けようとするかのように慎重に扉が開かれ、でもその意思に反して、扉はかしましく軋んだ。
 扉が開くと薄い光が漏れ、人の気配がした。
「医術師グエン・ユト殿がおいでになりました。」僧が、光に向かって話しかけた。まるで、決められたせりふを言うことだけが許されている役者のように、演技がかって見える。
 中からの返事は、ない。
グエンが扉をくぐると、がらんとした部屋の奥に、娘の姿があった。
足元に置かれた、たった一本のか弱いろうそくの光に照らし出されるその姿は、まるで闇から浮かび上がってきた、一点の染みのように思えた。
白い衣に包まれたその肢体も、白かった。頭の上にきっちりと編みこまれた髪は淡い金色で、こちらにぼんやりと向けられる瞳も、金色だった。その姿はまるで、闇の中で一度すべての色を奪われ、ろうそくの光によってかろうじて、金色のみを取り戻したかのようだった。
娘は寝台に腰掛けてすっと背筋を伸ばし、建物の片隅で人が通り過ぎるのを見下ろす彫像のような硬く冷たい目で、静かにグエンのほうを伺った。不遇な運命を憂うように、眉間には小さなしわが刻まれている。美しい娘なのに、瞳が厳しく、人を寄せつけない。
いつの間にか、僧の姿はなく、扉が閉ざされていた。
グエンは娘から目を離すと、肩に担いだ麻袋を下ろした。何もかも心得た様子で、淡々と袋の口の紐を解いて開き、中から、何か大きなものを引っ張り出す。
薄暗い部屋の中に、グエンが麻袋を探る音だけが響いた。娘はまるで、自分の存在がまだグエンに見つかっていないと信じているかのように、身動きひとつしない。
グエンが麻袋から出したものを抱えて娘に近づくと、娘の体がわずかに緊張した。だが、頑ななまでに、体を動かそうとしない。
グエンは、寝台にその大きなものをどさりと置くと、そこに投げ出されていた布団でくるんだ。
わら束をいくつもまとめて縛りつけたものだった。布団の中に入れてしまえば、そこに人が寝ているように見える。
「これからお前をここから連れ出す。聞いているか?」タゴーウ語で、グエンが語りかける。
 娘は、本当に彫像になってしまったかのように、微動だにしなかった。
 グエンは、麻袋のそばにかがみこみ、袋の口を開いて娘の目の前に突き出して見せた。「ここに入って。」
金色の瞳がわずかに人間の娘らしい戸惑った表情を見せたが、体は、寝台に貼り付けられてしまったかのように、まだ動かない。
「急いだほうがいい。」グエンが、わずかな苛立ちを含んだ声で言う。
一瞬のためらいの後で、やっと娘の体が寝台から離れた。
その後は、素早かった。娘は黙って袋の中に入り、グエンが袋の口を持ち上げると、娘の体はすっぽりと袋に包みこまれた。娘の頭の上で、グエンが手早く袋の口を縛る。
グエンは、娘の腰のあたりを抱え、麻袋を両腕で持ち上げた。娘の腹を肩に乗せ、娘の上半身を背中側に押しやると、娘が居心地悪そうにもがいた。
やがて、少しはましな体勢をとることに成功したのか、あるいはあきらめたのか、袋の動きが止まる。
グエンが扉を内側から引くと、警鐘を鳴らすように、扉はぎぎっと不快な音を立てた。すぐ目の前に僧がいて、目礼した。
「疲労と緊張により、体力が弱っています。」グエンが言った。「薬を飲ませ、休ませています。たくさん眠れば、少しは調子を取り戻すでしょう。」
僧は、部屋の方を一瞥したが、それはあまりに短い動作で、本当に中まで見たのかどうかはわからなかった。
僧は拍子抜けするほどになにも問わず、扉を開いたときと同じ丁寧な手つきで鍵を閉め、麻袋を担ぐグエンに先立って、入り口に向かって足早に歩き始めた。
グエンよりも僧のほうが、よほど焦っているように見えた。ついさっき上ってきたばかりの暗い階段を降りて塔の入り口まで戻ると、そこには最初の僧が、置物のようにひっそりと立っていた。
二人の僧は、話すことばかりでなく、少しでも一緒にいることを禁じられているようだった。もう一人の僧の姿を認めると、もともと独房のそばにいた僧は、グエンに挨拶することもなく、自分の場所へと戻っていった。
玄関の僧も、グエンになにも尋ねなかった。僧がただ黙って鍵を開けると、外の湿った空気と雨の音が、流れ込んで来た。
「アスール神のご加護を。」
グエンが外に歩み出ると、言葉少なかった僧が、わざわざそう声をかけてきた。
グエンが振り返ると、外の空気から逃れようとするかのように、早くも扉は閉ざされていた。

ウヴェ・サリははじめ、他の犯罪者と同じように、捕らえられた場所からさほど離れていない小さな寺院の粗末な地下牢に入れられていた。
何ら特別扱いはしない、という教院の意思表示でもあった。地下牢には、殺人者も、姦淫罪の者も、異端の罪の者もいた。
だが、彼女の歌は、看守の僧や、さらには他の罪人たちに影響を与え始めた。彼女が歌うと、皆涙を流して罪を悔い、神を讃えたという。彼女は皆に大事にされた。そしてそれがわかると、教院は慌てて彼女を単独で監禁できるところに移動させた。
塔であれば、どこからも離れていたし、壁も強固で、看守の僧たちが歌を漏れ聞く可能性もなかった。一説によると、独房の鉄の扉の下方に設けられた小さい扉を開いて食事や着替えを差し入れる時、僧たちは綿で耳をふさぐことを義務づけられていたという。
それでも看守の僧たちは、娘の味方となった。グエン・ユトという医術師に身をやつしたオレアを独房に入れるため、囚人の病気を報告したのも、そして、事前に娘に話をしたのも、看守たちだった。
娘の不思議な歌は、綿も、あるいは鉄の扉も、貫いたのかもしれない。あるいは、娘の力は本当は歌によってではなく、なにか全く別の、妖気のようなもので運ばれたのかもしれなかった。
はじめてその娘の姿を見たとき、オレアは、歌で人を惑わす精霊の話を思い出した。ろうそくの光に縁取られたその姿は、闇から生まれた魔物のように見えた。魔物に魅入られたとしても、牢獄が悪いのでも、看守が悪いのでも、きっとないのであろう。
ひょっとすると、あれだけ陰気な空間で仕事を続けていると、捕らえられているのは看守であるはずの自分であるかのような錯覚を覚えるのかもしれなかった。救いを求め、ある者は、自分の正当性と相手の凶悪性を証明するために、囚人に暴力を振るう。ウヴェ・サリとともにいた僧たちは、そうすることもままならず、結局は娘を敬い恐れることで、闇からの救いを求めたのかもしれない。
僧たちが娘の逃亡を報告するのは、明朝になるはずだった。今夜食事を運ぶ僧は、布団にくるまれたわら人形を見て、娘が薬のためにぐっすり寝ているのだと思ってしまう。明朝食事を運ぶ僧が不審に思い、布団の中まで様子を伺ってはじめて、異常に気がつくという筋書きである。
オレアは密かに、裏切りと暗殺者の存在を警戒していたが、幸い、今のところ追う者の気配はないようだった。
オレアは、塔を取り巻く森について多くのことを知っていた。森は広く奥深く、決して油断のならない迷路のようなところだった。だが、だからこそ、いくらかでもその実態を知っていることは、まったく知らないより何倍も有利なのだった。

オレアは、大分日が高くなってからようやく、川のそばで馬を止めた。娘を袋から出すために一度止まった以外は、ずっと走り通しだった。
娘は、馬が走る間、オレアの腕の中でほとんどまどろんでいたようだった。馬が止まった時もうたた寝しているように見えたが、オレアが馬から下りると、自分も素早く馬から飛び降りた。
と思うが早いか、息をつく間もなく、子鹿のように走り出す。
「おい、待て!」
すぐに、オレアは後を追った。
娘は身軽で素早かったが、オレアが駆ければすぐに追いついた。長く光の当たらないところに閉じ込められ、虐げられていた子鹿は、すっかり弱っていた。
それでも、オレアが背後に迫ると、娘は器用によけた。ほとんど、宙に飛び立ったかのように見えた。娘の体はふわりと浮かび上がり、あっという間にオレアの手の届かないところに行ってしまう。
かと思うと、再び勢いよくこちらに向かってきた。
ちょうど頭上にさしかかっていた木の枝を掴み、勢いよく前に振った体を、振り子のように後ろに振り戻してきたのだった。その細い鞭のような足で、オレアに一撃を入れようとする。
だがオレアは蹴り上げてくる両足を難なく避けると、再び前方に振れていく娘の胴を両腕でしっかり捉え、木から引き摺り下ろした。
オレアと娘は、折り重なるようにして地面に倒れた。娘の口から悔しそうな呻きが漏れる。
「離して!」地面に押さえつけられながら、娘は立ち上がろうともがいた。オレアの束縛を自力で解くほどではなかったが、小柄な割には、力がある。
「落ち着け。逃げて、どうなる。」
 娘はひとしきりもがくと、やがて諦めたように体の力を抜いた。
「あそこから出してくれたことは、感謝している。」流暢なロテルナ語で、娘が宣告するように言った。「でも、もういい。あとは、自分で行く。」
「森に蝕まれるだけだ。」オレアは立ち上がりながら、娘の腕をつかんで引き起こした。
 向かい合って座ることになったオレアをまっすぐに見つめながら、娘が言う。「私には、神がついている。」
 オレアは、改めて目の前の娘を見る。
昨日独房の中で見た魔物のような娘と、同じでありながら、全く違っていた。
娘は、せいぜい十四歳くらいに見えた。十四歳といえば、まだ子どもである。うつむく娘の目元や頬には、まだあどけなさが漂っていた。
油断のない金色の瞳は青ざめた顔の中で相変わらずぎらぎらと輝いていたが、そこにいるのは魔物などではなかった。おびえのあまりただ相手の隙を狙うことだけに意識を集中させる、動物の子どもだった。
どんな魔物も、光の中では闇の力を受け取ることができないのかもしれない。
「俺は、おまえのことを何も知らない。本当に神の加護があるのかもしれない。だが、本当のことがどうあれ、とにかく俺はお前をこの国から出すように依頼を受けていて、そして俺はそれを遂行しようとしている。」
「この国から出す?」本当に噛みついてきそうな勢いで、娘が言った。「誤った信仰の人たちがそう言ったの?誤った信仰を、私が邪魔しないように?」
「何が正しくて何が誤っているのか、俺にはわからない。俺はアスール教徒じゃないからね。」
オレアがいうと、娘は驚いた顔をした。
「俺が信者でなくておまえにとっていいことは、俺がおまえを異端とみなして迫害するようなことがないこと。おまえにとって悪いことは、俺を歌で籠絡できないことだ。」
娘は、険しい表情でオレアを見た。それは、神の威厳というよりは、未熟な強情に見えた。
「俺が信用できないか?信用させるような決定的な材料は、あいにく持ち合わせていないが。」娘の手を放して立ち上がりながら、オレアは言った。「神の娘は腹も空かないというのでなかったら、先ずは何か口に入れろ。」
娘はむっとしたようだったが、結局はあきらめたようにうつむいた。
馬の腹にくくりつけていた荷物の中から、薄くのばした米生地を出し、同じく荷物の中にあった干し肉を巻いて与えると、娘は急に空腹を思い出したというようにそれを奪い、一気に食べてしまった。
「俺は、オレア。オレア・デイ。グエン・ユトというのは、仮の名だ。」
オレアが言うと、娘はまだ食べ物を口に入れたまま、しばらく不審そうにオレアの顔を眺めた。オレアが水が入った革袋を差し出すと、また奪うようにそれを手に取り、水を飲んだ。拾ったばかりの野良犬のようだ、とオレアは思う。
「おまえ、名は?」オレアが尋ねた。「まさか、ウヴェ・サリじゃあるまい。」
娘は、しばらく拒否するように黙っていたが、オレアが落ち着き払って自分の分の干し肉巻きを食べていると、意地を張るのがばかばかしくなったのか、やがて小さな声で言った。
「アマラ。」
「そうか、アマラ、もう一つ食べるか?」
 ためらいの間を少し置いてからアマラが頷き、それを見届けるとオレアは手早くもう一つの干し肉巻きを作った。
「あまり時間はないが、その髪は何とかしなくてはな。」アマラが食べるのを見ながら、オレアが言った。
頭の形に沿うようにきっちりと編み込まれた娘の髪の色は、均一ではなかった。一見金色のようでありながら、角度によって、虫の羽のように微妙に色を変える。それが、緑色に見えるのだ。
ロテルナでは金色の髪も珍しいが、タゴーウの西方から、金色の髪をした商人や旅芸人がやってくることはあった。だが、緑の髪というのは、初めてだった。
人々がこの娘を特別扱いしたとしても仕方がないのかもしれない、とオレアは思った。歌だけでなく、雰囲気や髪の色や、色んな点で、アマラは人の目を引いた。
オレアは、荷袋から拳ほどの大きさの革袋を取り出すと、向かい合って座っていたアマラに投げ与えた。
「染め粉だ。」とっさに袋を受け止めて不思議そうに目を向けてくるアマラに、オレアは言った。「川で髪を染めてこい。それから、」オレアはまた何かを荷袋の底から引っ張り出した。「着替え。」
さらに今ひとつ、オレアは荷物の中から探り出すと、今度はアマラのすぐ足下に投げ落とした。
それは重々しい音を立てて地に落ち、日の光を浴びて鋭く輝いた。
「それは預けておく。髪を切るもよし、自分の身を守るのに使うのもよし。一応大事なものだから、大事にしてくれ。」
アマラはしばし驚いたように、視線をなめらかな金属の曲線の上に落としていたが、やがてその短刀をおもむろに拾い上げると、まるで長い間失っていた大事なものを見つけ出したかのように、それを自分の胸にしっかりと抱え込んだ。


目覚めたとき、自分があまりに見覚えのない場所にいることに気づいて、居心地が悪かった。
朝はまだ遠く、部屋の中も殆ど闇に閉ざされていた。一瞬、自分がまだ牢の中にいるのだと思ったが、自分の体に触れてくる柔らかい布団は、幻ではなかった。辺りには、日の光を思わせてひどく胸の奥をかきたてる、わらの芳香が漂っていた。
落ち着きなく、寝台の上に起き上がる。
体は疲れ切っているはずだった。オレアの行程は容赦なく、川辺で休んで以降ほとんど休憩を取らずに、夜半まで馬で駆け回った。緊張と慣れない馬上の旅とで、身も心もくたくたになった。
窓からほんのわずかに月明かりがあり、それで部屋の中の小さな円卓と、その上にある水差しと杯が、目に入った。それを見ると、急にのどの渇きを思い出して、アマラは水差しから杯に水をくみ、一気に飲み干した。
杯を円卓に戻すと、その音がやけに大きく耳の奥に響いて、彼女をぎくりとさせた。
ひどく、静かだった。全ての音が闇に食べられてしまったかのように。
そこは小さな集落で、この家の人はどうやらオレアの知合いのようだった。突然の訪問に、軽口を叩きながらもいやな顔一つせず、泊めてくれることになった。
つい一昨日の夜まで牢獄の中にいたのが、嘘のようだった。あのとき自分が夢を見ていたか、さもなくば今夢を見ているのではないか、と思った。
アマラは、寝台の端に座り込んだ。部屋の向こう側では、オレアが低いいびきをかいて、よく眠っている。
 得体の知れない男だ、と思った。
 髪が赤く、タゴーウ語を自在に扱う上にアスール教徒でないとすれば、タゴーウ人なのかもしれなかった。だが、なぜここで、タゴーウ人がアスール教徒である看守の僧たちの信頼を得て堂々と自分を牢から助け出し、またロテルナの小さな村の知人の家に易々と泊まれるのか、理解ができなかった。アマラが知る限り、アスール教国の人々は野蛮な異教徒であるタゴーウ人を嫌っている。一部商人等の間では交流があるものの、一般の人や、まして聖職者が、気軽にタゴーウ人に交わることは、あまり考えられなかった。
オレア自身が言ったように、アスール教徒でないことが彼が信頼された理由なのだとしたら、金でも積まれたのだろうか。それにしても、ここの家の人との関係は、わからなかった。そしてなによりわからないのは、自分がこの男のことを信用してもよいかどうか、ということだった。
 アマラは眠っているオレアの顔を眺め、それからオレアの寝台の下に無造作に転がっているオレアの荷物を見た。
少しの間考えた後で、アマラはそっとオレアの寝台に忍び寄ると、引き寄せられるように、半開きになったその麻袋の口に手を差し入れた。
袋の中のものは、いくつかの小袋に分けて入れられていた。布の塊のようなもの。小石のようにゴツゴツしたもの。弾力のある手触りのものは、パンかなにかだろうか。
アマラの細い手は、さらにスルスルと難なく袋の奥に入っていき、そこになにか、じゃらりとした金属質な手触りのものを見つけた。
やっぱり。
金だった。たくさんのコインが、しっかり口を閉められた袋に、パンパンに詰め込まれていた。
これだけの、お金。
アマラは、内心恐ろしくなる。
かなりの量だと思った。
金を積まれて依頼を受けた男は、どれだけの気持ちで依頼を受け止めているのか。
金を積まれて依頼を受けた男は、金で裏切るのではないか。
金の入った袋のザラザラした表面を撫でながら、アマラは、部屋の隅で生き物のように呼吸している暗闇の中に、自分の今の気持ちを見るように思う。
今は、誰も信じられないのだ。
若い僧に助け出されたとしても、ごく普通の黒髪のアスール教国人に助けられたとしても、信頼できなかったに違いなかった。それは、仕方のないことなのだ。
細い指を袋のさらに奥へと滑り込ませ、手探りで中の袋の口を開こうとしたとき、袋の中身が、ジャラ、と音を立てた。
音は、思った以上に大きく、部屋の中に響いた。
次の瞬間。
目の前の寝台がきしんでそこから急に黒い影が伸び上がり、アマラに向かって飛びかかってきた。
 何が起きているのか理解できないうちに、それは、強い力でアマラを床にうち伏せた。
「誰か!」
叫ぶつもりが、喉元にしっかり手を当てられ、掠れ声しか出なかった。
必死になってさらに叫び声を上げようとしたとき、相手の方がはっとして、あっさりとアマラから離れた。
「なんだ、おまえか。」気の抜けたような声は、オレアだった。
円卓を照らし出したのと同じ月の光が、オレアの大きな体をうっすらと浮かび上がらせる。
「なにをするの。」喉元を抑えながら、アマラは起き上がった。
すっかり眠っているとばかり思っていたのに、オレアは戦士のように、あるいは狩人のように、敏感で抜け目なかった。
「荷物には、いろいろ危ないものも入っている。」寝台の端に座りながら、オレアが両手で顔をこすった。「間違うと、怪我をするぞ。」
それだけを言うと、オレアはまるで何事もなかったかのように、再び寝台に横たわる。
その悠然とした態度を見ていると、心臓がまだ大きく脈打つアマラの胸の中に、怒りが広がった。
アマラは立ち上がり、オレアの枕元に歩いていって大きく両手を振り上げると、その手を寝台の端に勢いよく叩きつけた。
寝台を揺さぶって脅かすだけのつもりだったが、オレアはとっさに避けるように体を奥に転がした。そして、その勢いのままに起き上がる。
アマラを見るオレアの瞳に、ちょうど月の光が反射して、睨みつけるように輝いた。
「荷物の中の、あのお金は?」アマラが、問い詰める。
「お金?」あまり重要でもないことのように、オレアが繰り返す。
「お金で、私を連れ出したんでしょう。お金で私を…殺すんでしょう。」
アマラが言うと、オレアは困ったように黙り込んだ。月の角度が変わったのか、オレアのいる場所が変わったのか、今はもうその顔に月の光が届いていない。
「殺すなら、とっくにそうしてる。」オレアが、ごく穏やかな調子で言った。「逃げるのにも、金が必要だというだけだ。」
オレアは様子を伺うように少し黙ってから、言い足した。「疲れているんだから、よく休んだ方がいい。」
オレアの落ち着きが、アマラの高ぶった神経を逆撫でした。
アマラはくるりとオレアに背を向けると、部屋の扉を開けて外に飛び出した。
そのまま家の外に出てしまうつもりだったが、扉を閉めると廊下は完璧な闇で、アマラはどっちへ行けばいいかもわからなかった。
アマラは壁を背にして座り込み、悔しさに溢れ出してくる涙を飲み込んだ。
神を神とも思わない男に対して、自分はなんと無力なことか。
だけどアマラは、本当のところ自分が何に対して怒りを覚えているのか、自分でもわからなかった。
頭を抱えるようにしてうずくまると、短い髪がざらりと手に触れた。
河原で髪を染めた時、切ってしまったのだった。変装のため、と自分で納得して切ったのに、今はその短い髪がひどく惨めに思えた。朝起きると決まって自分で髪をきつく編みこむのが、物心ついてからほぼ欠かしたことがなかった決まりきった動作だったのに、しばらくは、あるいはずっと、それを再びすることはないのだろう。
この暗い暗い廊下に少しでも朝の光が差したら、そのときこそ逃げ出してやろうと構えていたのに、結局はそのまま眠りに落ちていた。

目を覚ますと、寝台の上にいた。
心地よい寝台の上での違和感は、二度目だった。夜中目覚めてオレアとやりあったのが、夢だったのかもしれない、と思った。
既にオレアの姿は部屋の中になく、がらんとした部屋に、太陽の光が柔らかく差しこんでいた。久しぶりに雨が上がり、青空も覗いているようだった。
やっぱり疲れていたのか、遅い時間になってしまったようだ。
起き上がると、オレアの寝台の下に、昨日の夜中のまま、荷物が無造作に転がっているのが見えた。
僅かに迷った後で、荷物に近づいて中に手を入れた。
小分けにした袋の間に腕を滑り込ませる感触の末に、金属質なものの集まりに触れるのを感じて初めて、アマラは、夜中の出来事が夢でなかったことを確信した。
アマラは耳を澄ませ、オレアの気配が近くにないことを確かめると、昨夜やろうとしてできなかったことを、始めた。
コインが入った袋の口を解き、中から一掴みを取り出す。
金貨だった。少量でもかなりの価値になるだろう。
アマラは続けて、大きな袋の中の小袋を一つ、適当に引っ張り出した。中には、薄く割かれた木の皮に包まれた米粉の皮が入っていた。
米粉の皮はそのままにし、脇に手の中の金貨を流し入れる。
危険なものが入っていると言っていたけど、脅しだったのだろうか、とアマラは考えた。そして、ほんの一瞬だけ躊躇したが、すぐに心を決め、もう二掴みの金貨を米粉の皮の袋に詰め込んだ。
オレアの荷物の中の金貨の袋をきつく閉め、自分の手元の小袋の口も閉めようとしたが、ふと思いついて再びオレアの荷物に手を入れると、干し肉の袋を見つけ出して自分の袋の方に押し込んだ。
急にどこかから笑い声のようなものが聞こえてきて、アマラははっとした。
一瞬のうちに脇下に汗をかいたが、すぐにそれが階下から聞こえてくる声だと気がつく。
落ち着きを取り戻し、アマラは小袋を自分の寝台の布団の下に潜り込ませると、大きく息を吐いて、オレアの荷物の方を振り返った。
荷物は、始めに見た時となんら変わらない様子で、そこに無造作に転がされている。
アマラはそっと部屋を出て、階段を下りた。

階段の下は食堂になっていて、食卓にオレアと女性が向かい合って話していた。
「起きたか。」アマラを見るなり、そっけなくオレアが言った。いつのまにか無精ひげをそり落とし、ずいぶんすっきりして見えた。
「おはよう。」女性が振り向き、一つにまとめた長いまっすぐの黒髪が、肩の上をさらさらと流れた。
昨日ここについたときに、リジー、と紹介されたことを、アマラは思い出した。
「夜中に急に訪ねてくるものだから、女連れかと思ったら、男の子だから、逆に驚いた。」リジーが、明るい声で言った。
「危ない仕事でね。」
オレアが意味ありげに言うので、アマラは一瞬どきっとしたが、リジーのほうはそれを聞いておかしそうに笑い始めた。
「やだ、オレアってば、キブロ様と同じような話し方をするのね。」
オレアがかすかに笑いながら、アマラのほうをちらりと見る。
「さて、俺は町に出てくる。」立ち上がりながら、オレアが言った。「おまえは、朝食兼昼食でもご馳走になっておけ。めったにありつけないちゃんとした食事だから、せいぜいしっかり食べておけよ。」
のんびり起きてきたことを馬鹿にされているように思ってむっとしたが、何も言い返せずにいるうちに、オレアはリジーに「よろしく」とだけ言い残し、出て行ってしまった。「さあ、アミール、こちらに掛けて。」
リジーが言うので、アマラは一瞬きょとんとしたが、すぐにそれが、オレアが告げた自分の偽名であると思い当たった。
オレアがアマラに手渡したのは、少年の服だった。髪も短く切ってしまったので、今は男の子ということになっている。
「お腹がすいているでしょうから、まずはこのパンでも食べておいて。すぐに料理を持ってくる。」リジーは、パンが盛られた籠だけを食卓の中央に残して他の食器をひき、奥の厨房へと姿を消した。
香ばしい香りと艶やかな焼き色のパンにぐうっと腹が鳴り、アマラは思わず両手で腹を押さえながら、椅子に腰掛けた。
昨晩は、到着が遅かったのと、泥のように疲れていたことから、何も食べないまま寝たのだった。オレアが休憩を取らせてくれなかったために、河原で干し肉巻きを食べてからは、何も腹に入れていなかった。忘れることで何とか耐えてきた空腹を、パンを見ることで思い出してしまったのだ。
パンをひとつ手に取って割ると、吸い寄せられるようにかぶりついた。香ばしさとわずかな甘さが広がり、口の中が一気に唾液で満たされる。
こんなにおいしいパンを、これまで食べたことがないんじゃないか、と思った。
今このときの空腹のためだけではなかった。幽閉されている間、自分が囚人にしてはよい扱いを受けていたことは自覚していたものの、食事が粗末であることはどうしようもなかった。これまで生きてくる中で、およそ裕福とはほど遠い生活をすることのほうが多かったが、ひからびたパンと味のほとんどないスープばかりという牢獄での食生活は、かけはなれてひどいものだった。まれに見張りの僧たちの思いやりで干した果物や漬物が伴うことがあったが、いつもいくらか空腹が残ることには変わりなかった。それが半年ほども続いたということを、今更ながらに思い返す。
パンを一つ夢中で平らげたところで、厨房からとてもいい匂いが漂ってくるのに気がついた。何かはわからなかったが、匂いに刺激されて、また腹がぐうっと鳴った。
ふうっと、目に涙が溜まってきた。
この家に溢れる、なにか静かでふくよかなものが、胸の奥に触れたように思った。
それは何度も何度も、たたみかけるようにアマラに迫ってきた。肌触りのいい布団やわらの匂いや、日の光や、そんなすべてのものが、一緒になって、アマラの固く強張った心をほぐそうとしていた。
だが、自分がこれまでいたところと、そしてこれから向かおうとする漠然とした困難のことを思うと、それは、ありがたいというより、痛かった。そしてそれがまた、自分の苛立ちの原因になっているのかもしれない、と思った。
リジーが、盆にいくつもの皿を載せて戻ってきた。アマラは目のやり場に困って、手元のパンに視線を落とす。
「はい、牛乳に、焼き卵。」食卓のそばに来ると、リジーはきびきびと、盆の上のものを並べていった。「それから、リンゴ。」
アマラがリジーの顔を見上げると、リジーは、さもおかしそうに笑った。
「どうせろくなもの食べてなかったんでしょう、あの人たちの旅なんて、そんなものだから。」
あの人たち、というのを、アマラは不思議に思う。
「オレアを、よく知っているんですか?」
「よくってほどでもないけど、少しは。」言いながら、リジーはアマラの目の前の椅子にストンと座った。
日に焼けた引き締まった顔に、つり上がり気味の黒い瞳がしっくりと収まっていた。その黒い瞳にまっすぐに見つめられ、アマラは逃げるように俯く。
このひどく善良で健康で、粛々と自分の生活を営んでいる女性に対して、自分がなにかとても異様な存在であるかのような、後ろめたさを感じてしまう。
「まずは、食べてみて。」
リジーに言われてうなずくと、アマラは逃げ場を求めるように食事に向かった。
さっきの匂いの正体が焼き卵であることは、すぐにわかった。鮮やかな黄色のふわりとした表面を匙で割ると、飾り文字を描くような細い湯気と濃厚な香りが沸き上がってきた。「このあたりは、はじめて?」リジーが話しかけてきた
ここがどこであるのかもわからなかったが、とりあえずうなずくと、リジーが続けた。
「その中に入っているものが何か分かる?」
まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったので、戸惑いながら、首を振る。
「ペレイっていうキノコよ。」リジーが、誇らしげに言った。「聞いたことない?この辺りの名物なのだけど、町に持って行けば高級食材として高値で取引されるの。ちょっと季節には早いけど、狩人が集まってくる前で人が少ないから、あなたたちみたいな人にとってはよかったかもしれないわね。」
アマラは、黄金の卵の中に、なにか茶色っぽい小さなものが混じっているのに気がついた。刻んだキノコが混ぜ込んであるのだ。
「初めて食べました。」アマラは言ってから、高級食材なのだから当然か、と思い当たり、取り繕うように付け加えた。「そんなに高価なものを、すみません。」
「高価かどうかは、問題じゃないの。おいしい?」
「本当に、おいしいです。」心から、アマラは言った。
リジーが、嬉しそうに笑う。
「オレアの師匠のキブロ様はこのキノコが大好きで、そのためにこの町によくいらしてたの。オレアもつれて。」
それでリジーは、オレアのことを知っていたのだ。
ついさっきリジーが言った「あの人たち」というのが、オレアとその師匠のキブロだということが、わかった。さっきも確かリジーは、オレアに対して「キブロ様みたいな」と言っていた。
このオレアの師匠という人のことをもっと知りたい気もしたが、恐らく今の自分は知っているふりをしなくてはならず、この人に尋ねてはいけないのだろう、と思った。
「あなたも、医術師の卵なの?」リジーに問われ、アマラは戸惑う。
オレアはここでも、医術師ということになっているのだ。それとも、本当にそうなのだろうか?
「ええ、まだなにもわかりませんが。」アマラはできるだけ曖昧に話を合わせることにした。
「それはそうでしょう、まだ若いんですもの。私から見れば、幼いくらい。」リジーが朗らかに笑った。「でも不思議なものね。キブロ様もとても弟子を持つように見えなかったけど、オレアは受入れられた。オレアも、弟子を持つようには見えなかったけど、あなたを受入れたのね。」
 自分がオレアの弟子ということになっているのだ、と理解しながら、アマラは何となく尋ねる。「弟子を持つようには見えない?」
「何というのかしら、一人で気ままに過ごすのが好きなように見えるから。風変わりだし。弟子なんか煩わしい、と思うのかと。」笑顔のままで、リジーが言った。「キブロ様とオレアは似た者同士でうまくいったのかしら、と思ったものだけど、あなたはどうかしら。でも同じようでないと、一緒に旅するのは、きっと楽じゃないでしょうね。」
アマラは、曖昧にうなずいた。
「キブロ様が亡くなってから、オレアはすっかりここから足が遠のいてしまって。」リジーが続けた。「オレア自身は、本当はペレイが好きじゃなかったのかもしれないわね。あなたがもし好きなのだったら、オレアに頼んで、またぜひここに来て。」
キブロという人は、今はもう亡き人であるらしかった。そして、そのキブロとオレアは、リジーにずいぶん気に入られているらしい。
「それか、」思い出したようにリジーが付け加える。「腕を磨いて一人ででも来れるようになりなさいな。一人ででも十分医術が施せるようになれば、みんな大歓迎だし、お礼にただでペレイが食べられるから。」
どうやら、キブロとオレアは本当に医術師のようだった。村の人々に医術を施し、お礼にペレイを食べさせてもらっていたのだ。
リジーは自分から多くを話してくれたが、アマラにはほとんど質問をしてこなかった。ひょっとすると、オレアが「危ない仕事」だといったのを、いくらか信じているのかもしれなかったし、自分が来る前に、オレアから既にいろいろと聞いたのかもしれなかった。
リジーがリンゴを勧め、アマラがすっかり満腹であることを伝えると、リンゴは部屋に持ち帰ることと、別棟の湯屋に沸かしてある湯を使っていいということを言い残して、厨房へと去っていった。

湯を終えて部屋に戻っても、オレアはまだ戻っていなかった。
部屋は、相変わらず静かで平和だった。外から時折鳩が鳴く声が聞こえてくるほかは、あまり音がない。
田舎町で、隣の家すら遠くに見えるほど家がまばらだった。街からも離れているのだろう。今日は街に市が出ているとかで、リジーも買い物に出ると言っていたので、今は家に誰もいないのに違いなかった。
アマラは、布団の下に隠しておいた金貨や食べ物の入った袋を引っ張り出すと、そこにリジーが持たせてくれたリンゴも押し込んだ。それから、河原でオレアが投げ寄越した短剣が寝台の隅に転がっていたのを拾い上げ、しっかりと腰紐に取り付けた。
荷物を背負い、寝台の角に無造作に引っ掛けられていた黒いフードつきマントをはおる。そして、静かに部屋を出て階段を下り、家を出る。
家の外に出て扉を閉めたとき、あのペレイというキノコの、大地の恵みをいっぱい取り込んだような香りがまだ空気に残っている気がして、ほんの一瞬だけ、アマラは足を止めた。それは、ここにいたほんの短い期間に絶えず心に打ち寄せてきた切ない気持ちを、アマラに思い起こさせる。
ここにある平和は、自分のためのものではないのだ。
アマラは、今この建物にある全ての甘い優しいものを振り切って、一歩を踏み出す。
どこかで、鳩がくくう、くくう、とつぶやくのが聞こえた。


 研究室の扉を開き、ネポキスは、そこで彼を待ちうけていた冷やりとした空気と、静寂とを楽しんだ。
 休暇を終えて久々に戻った町は、神の娘がどうとかで、なにやら騒がしかった。
 森のそばの、打ち捨てられた塔に幽閉していたはずの娘が、逃げたという。
 誰かが逃亡の手引きをしたのだ、と人々は噂した。
雨の夜、音のない稲妻が塔を打ち、そのときから娘の姿が消えたのだ、と話す人もいた。
 その当たりから、噂がいかにいい加減なものかというのが伺い知れた。ロテルナからも教院からも娘の逃亡について正式な発表はなく、誰も真偽の程を確認できない、というのが、本当のところであるらしかった。
 救いの歌を歌う不思議な娘について、興味を引かれないわけではなかったが、不確かな噂に気をもむほど暇でもなかった。もし本当に逃亡の手引きなど命知らずなことをした者がいたのだとしたら、よほど熱狂的な信者だったに違いない、と思った。
 ネポキスは几帳面に整頓された机の前に腰を下ろすと、実家から運んできた荷を解いて中のものをとり出した。その中には、オレア・デイから借りた、すり切れた革の表紙のノートもあった。
 一息ついたところで、扉を叩く者があった。
「だれだ?」座ったままで声をかけると、「シエク。」と控え目な声で返事があった。
「どうぞ。」
 ネポキスが言うと、ゆっくりと扉が開いて小柄な男が姿を現した。
 小柄で、黒い巻き毛が豊かに頭を覆っており、丸みを帯びた顔はあどけないようにも見えたが、その実、ネポキスよりも年上なのだった。
「戻ったのが見えたから。」シエクが言った。「これを。君宛てらしい。」
 シエクの手の中には、灰色の小さな鳩がうずくまっていた。
「オレアか。」
 この学術院で鳩を使うのは、オレア・デイだけだった。政府が時々諜報で使っていることは知っていたが、学者は普通、鳩が必要となることなどない。便利だぞ、とオレアは言っていたが、どこぞの森の民の入れ知恵で、この学術院だけには届けものができるよう訓練したらしい。放浪の多いオレアであればこそ、便利だと思えるのに違いなかった。
 鳩は、自分が育てられたオレアの部屋に帰ろうとするから、学術院で鳩をちゃんと名宛て人に届けるのは、最初に鳩を見つけた人の仕事だった。とはいえ、オレアは皆と仲良くする方でもなかったので、実際に鳩を受け取ったり届けたりするのは、数人の者に限られる。
シエクが器用に鳩の足を引っ張り出し、そこに結わえてある紙を示すと、確かにそこには「ネポキス」と書いてあった。
ネポキスは礼を言い、鳩を受け取った。

「森の民たちが、金色の目の人間を殺すよう依頼を受けている。」と、手紙は始まっていた。
「森の民は報酬のため手当たり次第に金色の目の人間を殺しているようだ。外出はなるべく避け、どうしてもの時はマントなど、自然と瞳を隠せるものを身に着けるように。
主謀者は不明。だが、俺の森の民とのつながりを侮るな。また連絡できることがあれば、連絡する。」
もともとオレアはそれほど字がきれいでもないが、荒っぽく崩れた字が、焦りを表しているようでもあった。
「金色の瞳」として、一体誰が、誰を狩り出そうとしているのか、全く想像もつかなかったが、ただの噂と切り捨てることもできなかった。
どこにいるのか知らないが、オレアがわざわざ旅先から鳩を送ってくるからには、それなりの意義があるのに違いない。
風変わりだが、信頼できるやつだった。人を騙したり陥れることは考えない。いい加減なことを言って人を惑わせるようなことも、なかった。
金の瞳は、珍しかった。
どんな人が金の瞳で生まれるのか、ネポキスは知らない。父も母も茶色の瞳で、兄弟もほとんどそれと同じ色だったので、なぜ彼だけが金の瞳となったのかは、わからなかった。家族以外でも、金の瞳の者を、自分以外で見たことがなかった。
黄金は恵みの色であるに違いない、と父は言い、家族の中で一番小さな彼を、ことさらにかわいがってくれた。学校では目の色のためにいじめられることもあったけど、学校には他にも太っているためにいじめられる子や足が遅いためにいじめられる子もいたので、ネポキス自身はさほど気にならなかった。だが結局は、動物の色や形が何によって違ってくるのか研究してみようという気になって学術院に入ったので、自分で意識している以上に、心のどこかで目の色のことを気にしていたのかもしれなかった。
これまで探し求めても出会うことのできなかった同じ色の目をした仲間が、こんな形でつながり合うのか、と思うと、おかしくもあった。
これを知ったのが休暇後でよかったな、とネポキスは思った。オレアと違い、休暇でもない限り、わざわざ外に出なくてもやっていけた。
たまに飲みに出るのができなくなるくらいか。学術院の中でも、一応は気をつけた方がいいのかもしれない。
少なくとも、次の休暇までには収まってくれればいいのだが。呑気に、そんなことを思った。


ヴァーナは、ヘビを探していた。
「ちゃんと大人しくさせておいてくれよ。」ダム・フェが口を尖らせる。
「あんたよりは大人しいし、いい子よ。」ヴァーナが言い返した。「それに、臆病。ここをひとりで出るはずないわ。」
どうだか、とダム・フェがつぶやいた。
青い布が張られた天幕の中には、ごちゃごちゃといろいろなものが散乱している。ヘビが入り込んで休めそうなところは、いくらでもありそうだった。
「ねずみでも追いかけて、そのまま外に出たんじゃないのか。」
 ダム・フェが言ったそのとき、天幕の入り口近くで、短い悲鳴が上がった。
「だれ?」ヴァーナが鋭い調子で尋ねる。
ヴァーナはそのとき初めて、天幕の入り口を覆う布切れの向こうにいる人影に気がついた。
「驚かせて、すみません。」少女のような、声変わり前の少年のような声が、わずかな訛のあるロテルナ語で言う。「ここに、ヘビが。」
「やっぱり外じゃないか。」ダム・フェが、勝ち誇ったように言う。
ヴァーナが入り口の布を持ち上げると、そこには、金の瞳の少年が立っていた。

人見知りのチェイナーが擦り寄っていくなんて、とヴァーナが笑った。
「人見知りって、ヘビは普通、人に慣れるものじゃないだろう。」ダム・フェがあきれ顔で言う。「脅しにいったんじゃないのか。」
「そんなことないわよ。私には分かるんだから。」
 ヴァーナは、細い金色のヘビを首飾りのように首に巻きながら、天幕に招き入れたアミールという少年を見た。
 黒い髪は短く、無造作に切られていた。金色の瞳が、珍しい。ひどく端正な顔立ちで、赤みの差した頬やふっくらした唇は、女性のもののようにも思えるし、幼い少年が持ちうるもののようにも見える。
ロテルナとタゴーウを行き来する行商の者なのだという。話す言葉には、タゴーウの訛りがあった。
旅の途中で病気になった祖父のための薬を薬師に頼んだら、思った以上に作るのに時間がかかったため、祖父と自分だけがこの町に残り、春に再び仲間がロテルナに戻るのを待つことにしたという。だが、途中で祖父が亡くなってしまい、雑務を手伝うことで滞在費を軽減してもらっていた薬師の家からも追い出されてしまったので、知らせをかねて、今、自分だけで、母親のいるゴガの街に行こうとしているのだ、とアミールは言った。
数週間ひとりで旅をしてきたが、何かと危険や不便が多いので、一緒に連れて行ってくれる人を探しているのだ、とアミールは言った。
「それはそうだ。」ダム・フェが口を挟んだ。「女性や子どものひとり旅は、勧めない。来年家族が戻ってくるまで、元の場所で待つ方がいい。」
「でも、追い出されてしまったんでしょう。」ヴァーナが、助け船を出した。「それに、おじい様が亡くなったんだもの。早く知らせたいでしょう。」
ヴァーナは、黒曜石のような黒の瞳で、擦り切れたじゅうたんの上に胡坐をかくアミールを見た。
「私たち、ゴガに向かう予定は、しばらくないのよ。」ヴァーナは、細かいうろこに覆われた光沢のあるヘビの腹を手で撫でながら、思案している様子だった。「でも、三日後にはエリリテに向けて発つ予定なの。エリリテはここよりはゴガに近いから、少しは役に立てるかも。そこから、別の人たちと一緒にゴガに向かってもいいかもしれないし。」
「では・・、」アミールが控えめに言いさす。「では、エリリテまで、一緒に行かせてもらってもいいでしょうか?何でも手伝います。」
ええ、と、ヴァーナがすぐにうなずく。
「でも待て、ヴァーナ。」ダム・フェが、不満そうに言う。「連れてくって言ったって、何も食べさせないわけにもいかない。座長がなんていうか。」
「座長になんか言うわけないじゃない。」ヴァーナが、ぴしゃりと言った。「食事なんて、数日分くらい何とでもなるわ。」
「ヴァーナ、またいつもの…」ダム・フェはヴァーナを見てあきれたようにため息をついたが、それ以上はなにも言わなかった。
「いい、あなたはこの天幕に隠れてなさいよ。」ヴァーナが、艶めかしくほほえんだ。「移動するときも、私たちの馬車から絶対出てはだめ。それで我慢できるなら、よろこんで、エリリテまで連れてってあげるわ。」

 ダム・フェとヴァーナを見ていると、兄のイゼマを思い出した。
 二人とも、アマラよりは少し年上に見えたが、互いにからかったり、ののしったりしながらやりとりを楽しむのは、いくつになっても変わらない。
アマラとイゼマとの違いは、ヴァーナのほうが姉であるということだった。たおやかに見えるヴァーナに、大男でも年下のダム・フェは、結局かなわない。
声をかけたのがヴァーナの天幕だったのは、アマラにとって幸運なことだった。
ロテルナ西部の中核都市メヴェラには、そのとき三つの大きな技芸の一座が留まっていた。アマラは時間をかけて街中をかぎまわり、ヴァーナの一座だけが北へ移動する可能性があることを、調べていたのである。
ソモでリジーの家を抜け出したアマラは、名物のキノコを大きな街へと運ぶ馬車に忍び込んで村を出た。その後も、街から街を渡る荷馬車に隠れることを繰り返し、ほぼ十日間を過ごした。
ゴガという街を目指していた。兄のイゼマが、そこにいるはずだった。
ここまでは、いたって順調だった。だが、体を小さく折りたたみ、人に見つからないように荷台に潜むのは、決して楽なことではなかった。また、たいていの馬車は近距離しか走らないためにしょっちゅう乗り降りしなければならなかったし、思ったとおりの方向に行く馬車を探すのも、簡単なことではなかった。危険な目に会うことがなく、また奪ってきた金のおかげで食べるものにも不足がなかったのが、救いだった。
もともと、大きな街に入り次第、技芸の一座を探すつもりでいた。技芸の一座であれば、少しは勝手が分かるだろうから、丸め込んで一緒に連れて行ってもらうこともできると考えたのだ。
自分がちゃんと行商人の息子に見えるかどうかはわからなかったが、他にいい嘘が思いつかなかった。考えに考えた嘘だった。行商人の息子なら多少の金を持たせられて一人で行動していてもおかしくないだろう、と考えたのだが、ほとんどはいい加減な賭けだった。技芸の一座と同じように街から街を渡り歩く行商人たちのことを、アマラは少しは知っていたが、よく知っていたわけではない。他の技芸の一座の者たちも、行商人たちの知識については大方似たようなものだろう、と考えたに過ぎなかった。
ヴァーナは特に疑問を挟むことなく、アマラを受け入れてくれた。ダム・フェは、あるいは疑っていて、そして不服だったのかもしれなかったが、ヴァーナには逆らえなかった。
同じ技芸の一座でも、アマラの一座とヴァーナのそれとでは、ずいぶん異なっていた。
もしアマラが一座にいるときに、今の自分のような身の上の者に会ったとしたら、家族ぐるみで助けただろう、と思う。その者が最初に出会うのがアマラだったとしても、一座の他の者だったとしても、結果はたぶん同じで、座長トビユルの許しのもとで、その人を助けることができただろう。
だが、ヴァーナの一座は違っていた。
もしアマラが、同じ一座でも他の天幕に迷い込んで、ヴァーナ以外の者に声をかけていたとしたら、助けを得られなかったかもしれない、とヴァーナは言った。
ヴァーナの天幕と馬車は、一座の他の者たちから独立しているように見えた。そこでは、ヴァーナを筆頭に、ダム・フェと、十二歳から五歳までの六人の子どもたちが一緒に生活している。アマラはヴァーナたちといる間、常にこの八人とともに食事をとり、寝起きした。
彼らがみんなで分け合っている素末な食事を分けてもらっているのが分かっていたので、アマラはお礼として金貨を数枚渡そうとしたが、ヴァーナは受け取ろうとしなかった。
後でもっとそのお金が必要となるときがあるでしょうから、とヴァーナは言った。困ったときは助け合わなくちゃ。

ヴァーナたちが属するフェラの一座は、アマラがいたトビユルの一座より大所帯だった。トビユルの一座が大体二十人くらいだったとすれば、フェラの一座にはその倍くらいの人数はいた。ここでは、男たちが複数の妻を持つことができるということだった。
ヴァーナとダム・フェの父親であり座長でもあるフェラは、乱暴な男だった。
一座の者で、フェラに殴られたことがない者はたぶんいない、とヴァーナは言った。女も子どもも、容赦なく殴られた。
私と妹と、そして私の母上を除いては。
ヴァーナは、ヘビ使いだった。祖母の代から、あるいはひょっとすると、もっと以前から、ヴァーナの家系の女性は、みなヘビ使いなのだという。フェラも、ヘビ使いが使う毒蛇が怖くて、手を出せないのだ。
ヴァーナは自分の天幕と馬車には、決してフェラを近づけさせなかった。ヴァーナの天幕には、チェイナーを筆頭に数匹のヘビが常に放たれていた。小さな子どもたちはすっかりなついてヘビたちと共生していたが、フェラは近寄れなかった。
どういうわけか、女の子の言うことしか聞かないの、とヴァーナは言った。
慣れていると言っても、ヘビを本当に意のままにできるのは、私と妹のラーナだけ。
「ばあ様は、自分がアスール教徒が来る前にあった古い国の王の娘だった、なんて言ってたわ。王が、娘の身を守るために、人が恐れるヘビ使いの術を習わせたんだ、って。」ヴァーナが言った。「でも、私の解釈は、こうよ。弱くて貧しい技芸の少女が、自分の身を守るために、魔法使いに頼み込んで、ヘビ使いの業を教えてもらったの。」
ヴァーナの母親も、ヘビを使ってヴァーナと兄弟たちを守ってきた。母親が亡くなってからは、ヴァーナが三人の弟たちを守った。その後、ダム・フェの母親が亡くなると、ダム・フェとその弟も、ヴァーナが自分の天幕に導き入れた。
そして、片手のペジカを引き取った。この一番小さな男の子は、フェラの怒りを買い、片方の手首から先を斬り落とされたという。
「放っておけば死ぬところだったの。」ヴァーナが、声を潜めて言った。「あの子のお母さんも、かたわの子を育てる自信がなくて、棄てたの。」
そんなことで、家族と言えるのか。座長と言えるのだろうか。アマラは怒りを覚えた。だが、ヴァーナはただ諦めたように、それ以上は何も言わなかった。
子どもたちはみな、ヴァーナに守られてはいたが、常に天幕に隠れていられるわけではなかった。食べるために働かなくてはならなかったし、食事をもらいに行ったり洗濯をしに出ることもあった。そんなときは、ヴァーナの目がいつも届くわけではないために、幼い子どもたちが、フェラに言いがかりをつけられて殴られてしまうこともあるという。
だけど、他の子たちよりはまし、とヴァーナは言う。
フェラには、今二人の妻があり、それぞれに子どもたちがいた。それにフェラは、自分の子でなくても、一座にいる子どもたちは皆殴っていいと思っていた。
「とっさに、私のもとに逃げ込んでくる子どもたちや女たちは多いの。でも、いつも、みんなを守ってあげられるわけじゃない。一座のほかの男たちが自分の家族を守ることもあるけど、その男たち自身が家族を殴ることもある。」
そうして育ってきたから仕方ないのね、とヴァーナがつけ加えた。
アスール教国の技芸の一座の多くは、アスール教徒に土地を奪われ、生活の手段を奪われた古い民たちが、街を転々としながら、貧しくも見目のいい子どもたちを拾って仲間に加えてできてきた。だから、一座は、いろんなところから来た者たちの寄せ集めである。
「生きていくためよ。一座に拾われなかったら、あるいは追い出されたら、飢えて死んでしまったに違いないから、皆、耐えるしかないの。」
「この国はいい方なの。」ヴァーナが続けた。「暮らしのことよ。すごく、いい方。アスール教国でも北の方はもっと貧しくて、人々は子どもを売らなければ生きていけない。売る先が、奴隷商人なのか技芸の一座かの違いだけ。」
 ヴァーナが、沈んだ声で言った。「胸がつぶれるような話よ。親が自分の子どもを物のように売り飛ばすの。自分のためではなく、子どもが生きていけるように、と売る親もいて、それでも十分胸が痛いことなのだけど、もう最初から、物のように子どもを扱う親もいる。同じアスール教を信じる人たちの間で起きていることよ。私には理解できない。」
 アマラが長く暮らした異教の国タゴーウでは、親が子を売るようなことはなかった。子どもは神からの預かり物として、親の好きにすることは神により禁じられている。貧しい者たちは貧しいままで子供たちを育てる。そこで生まれる悲劇も、勿論あった。子供が飢え、あるいは病気で死にそうになると、家族は身を削りながらその子の世話をする。
 タゴーウの技芸の一座は、タゴーウ北部の遊牧の民の末裔だった。
タゴーウの土地の多くは、森の多いロテルナとはずいぶん違い、雨が少なく乾燥している。ほとんど岩と砂ばかりの土地もあれば、わずかな草やかさかさで無愛想な木が時々生えているだけの土地もある。
遊牧の民は長い間、そのわずかな草と水を求め、羊や犬たちを引き連れ、季節ごとに移動して生活してきた。やがて、南から来た異民族がその地に居座り、膨大な量の時間と人の命を費やして都市と道を作ると、遊牧の民は草地ではなく都市から都市を転々として生きるようになった。征服された先住の民という点においては、アスール教国の流浪の民と似ているかもしれない。
遊牧の民だったときの生活の名残で、一座の者たちは、親族関係にあることがほとんどだった。
アマラは例外で、拾われた子どもだった。赤子のとき捨てられていたのを、座長のトビユルが拾って育ててくれた。
拾われ子は珍しかったが、アマラにとって幸運だったのは、座長のトビユル自身も一座によそから加わったという過去があったことだったかもしれない。アマラは、拾われ子でも、他の家族と同じように育てられたし、トビユルにも、一座の他の男にも、殴られたことはなかった。むしろトビユルは、アマラに自分の身を守る術を教えてくれた。
 トビユルはロテルナ語も教えてくれた。それがこんなところで役に立とうとは、アマラも、そしてトビユルも、少しも予測していなかった。

「ヘビはもともと、占いのための道具だったのよ。」とヴァーナは言った。「そして、私のばあさまは、占術師だった。」
ヘビが、裏返されたカードの山の中から、客のために一枚のカードを引き出す。ヘビが引いたカードと、ヘビが体をくゆらせて示すメッセージを読み取って、占術師が未来を語る。
だが、一座の者がアスール教に改宗してから、占いは行われなくなった。それは、ヴァーナの両親が子どもの頃のことで、このため、ヴァーナの母親は、すでに占いをしたことがなかったという。
「改宗?」アマラが、尋ねた。
「今まで信じていた神様を捨てて、違う神様を信じるようになる、ということよ。技芸の一座でも行商人でも、異教徒は国から追い出されるという法律がもう何十年も前にできて、皆生活のために改宗したの。あなたのところは、違った?」
アマラは、さあ、と曖昧にいい、嘘がばれないかと不安になったが、ヴァーナは納得したようだった。
「敬虔な信者には、あまりこんな話はしない方がいいのかもしれないわね。」
ヴァーナはどうやら、アマラが、改宗などからは縁遠い、古くからのアスール教徒の家庭で育ったと思ったようだった。安心しながらも、アマラは後ろめたいような気持ちになる。
アマラがアスール教徒になったのは、ほんの最近、神の娘と持てはやされるようになってからのことだった。
それは、簡単な儀式だった。僧の祈祷を受けながら、アスール神の色とされる緑の衣に袖を通すのだ。
「あなたは、神のおぼしめしで異教徒の家にお生まれになった。」僧が、厳かな声で言った。「でもこの儀式により、ただアスール神のみを神とする、正式な教徒になられるのです。」
僧の頬が感涙に濡れるのを、アマラは不思議な気持ちで見つめた。
アスール神の娘なのであれば、アスール教徒になるのは、当たり前のことだ、と思った。アスール教の教えをちゃんと学んだのは、その後のことだった。
少しずつ学ぶ中で、アスールが慈悲深くも厳格な神であることをアマラは理解するようになった。
アマラはもはや、かつて家族が信じていた偉大なるカドレスアスを信じてはいけないのだ、ということを知った。それは、もう母親に会ってはいけない、と言われた子供のような気持ちだったが、自分がもう戻れないところまで来ていることも、アマラは理解していた。
北の空から雲に乗ってやってくる、偉大なる神カドレスアス。
乳色のすべすべした動物の骨に彫り込まれた瞳の大きな恐ろしい顔のお守りを、子供の頃からいつも持ち歩いていたのに、ロテルナにやってきてからのゴタゴタで、ついに失ってしまった。
神を棄てただけではなかった。今アマラは、自分が生まれ育ってきた生活の全てに別れを告げていた。そこにやがて戻っていけるのかどうかも、わからなかった。信じたくはなかったが、ときどき、父にも母にも、もう会えないかもしれない、と思うこともあった。
「改宗について教えて。自分が敬虔なのかどうかもわからないから。」アマラは、ヴァーナがいう「改宗」というものを、もっと知りたかった。
「それぞれの民や国が、それぞれの神を持っているのよ。」ヴァーナが言った。「それぞれの神は、自分の民の祈りを聞き、自分の民を守る。戦に負け、民が他の民に支配されるということは、民を守る神も他の神に敗北するということ。征服された神は勝った神に民を譲り、征服された民は、有無をいわさず、より強い神に祈りを捧げさせられることになる。そして、それまでとは異なる教えの下で、生きることになる。」
「それでは、神様ではなくて、王様みたい。」
アマラがつぶやくと、ヴァーナは、そうね、と頷いた。「今までの神を信じていい、 という勝者も、ときにはいるそうよ。でも、アスール神は違うみたい。みんなを守る全能の神は、一人いれば十分だから。」
「他の神は、どうなってしまうんだろう?」アマラが尋ねる。「負けてしまった神は?」
「アスール神は、しもべにしてしまわれるの。アスール神の言葉を伝える聖霊メイラになるものもあれば、人がアスール神の心にかなうよう手助けをする聖霊ソウラになったものもいる。中には、こうしたメイラやソウラを、今でも昔と変わらない形で祭っている人たちもいる。死んでしまったわけでも、消滅してしまったわけでもなくて、ちゃんと残っているの。中には、人とアスール神の結びつきを阻もうとする悪霊タブラになったものもいるけど。」
アマラは、神と神との関係を、うまく理解することができない。
カドレスアスはどうなるのだろう、と考えてみる。まだアスール神と戦ったことがなく、そのために別の地で信仰され続けている、カドレスアスは。
アマラは、タゴーウで広く信じられているティトが、アスール教徒から邪神と呼ばれていることを知っている。だがティトは、カドレスアスのように小さな民をそっと守り続けているような神を、無理に消し去ろうとはしなかった。
「ヘビ占いも、古い神と同じようなもの。アスール神は、古い信仰がお好きじゃなかったのよ。世界が未熟だった頃の信仰は。」ヴァーナが、自分の父親について話をするような調子で、言った。
アスール教では、神の声を聞くことができる僧侶以外が予見や占いをすることはできないとされており、これに反して予見や占いをする者は、嘘を騙り神を冒涜する異端とみなされたのだ、とヴァーナが続けた。だから、ヴァーナの祖母も、改宗後はヘビ占いを止めた。
「でも、」アマラが言った。「でもそれじゃあ、それまでヴァーナのおばあさんがしてきた占いは、なんだったことになるんだろう?」
「占いよ。アスール教がやってくるまでされてきたものだって、ちゃんとした占い。」ヴァーナが、きっぱりと言った。「動物は、人間なんかよりずっと危険を察知する能力が高いでしょ。生きていくために、彼らは自然とその力を身につけている。ヘビだって、その能力をちゃんと持ってる。私たち人間が、それを読み取る訓練をすればいいってだけ。」
「でも・・」
アマラは、アスールの教えと、ヴァーナが占いと言い切るヘビ占いとの関係を、どう理解すればいいのかわからない。
「占いとして、他の人に告げなくなっただけ。いろんな人がいろんなことを言うと、みんな混乱するでしょう?アスール神は、神の声は一つにしてしまいたかったのよ。」
それは、何かが違う気がした。ヘビ占いが神と違うことを言うのであれば、禁じる意があるのかもしれないが…。
そこで、アマラははっとする。ヘビ占いが、神と違うことを言うのであれば。そしてもし、へび占いの方が正しいのだとすれば。
ひょっとすると、ヘビ占いが間違えることも、あるかもしれない。では、僧侶の予見はどうなのだろう?
アマラは、同じアスール教徒たちの中に、自分を神の娘と信じる人と、異端として罪に問おうとする人がいることを思った。正しいのは、一体誰なのか。
「元を正せば、みんな改宗者なのよ。」ヴァーナが言った。「もともとみんな他の神様を信じていたけど、名もなき僧たちが現れてアスール神の教えをもたらしたから、アスール神を信じるようになった。最初の人々はただ、改宗させるのに、戦ではなく言葉を使っていた、というだけ。」
アスール教の神は、唯一神アスールである。アスールは、世界を創り、支配する。収穫も災害も、人の世の善も悪も喜びも悲しみも怒りも、そして生きとし生けるものすべての生死も、主る。
最初にアスール神の教えを広めたのは、「名もなき僧たち」であると言われている。
あるとき、聖なる山アスリカが轟音とともに輝き、頂きから名もなき僧たちが現れた、と伝説は伝える。
その頃、アスリカ山の周りでは、小さな無数の部族が、血で血を洗う戦いを繰り返していた。戦いは日常の一部で、人は生きるために戦うのではなく、戦うために生きているかのようだった。勝てば、富が手に入った。だが、そのために多くの人が命を落とした。家族が、友が、絶えず殺された。ある日勝っても次の日には負け、負けてはまた勝つために、戦う日々が繰り返された。戦いやめれば征服され、奴隷の生活が待っていた。
アスール神から使わされた名もなき僧たちは、そんな未熟な人間たちに光をもたらした。山の頂から大地の申し子のように現れた僧たちは、争い乱れる地上の様子に心を痛め、戦火をくぐって人々に説いた。

あらそいを止めよ。
あらそいを止め、おそれよ。
ただこの世の終わりのみをおそれ、歌をとなえよ。
世の終わりは
勝者にも敗者にも、
富者にも貧者にも、
あるじにもしもべにも、
赤子にも老いたるにも、
へだてなく訪れるものなればなり。
ただ歌のみが、救いの扉を開く。
 
 アスールは、完璧な世界を創った。よいもの、美しいもので世界は彩られ、人も動物も、生きるものはすべて神に感謝した。
だが、アスールが眠るうちに、一度創られた完璧は綻びはじめた。眠りから覚めた神は、悲しみ、世界のほころびを正す者として人を選び、神の業を教えた。
神の業は、よきことを行い、美しいものを創ることであった。直接には、僧たちがこの仕事を神から承り、受け継ぎ、人々に伝えた。
だが、人は弱い生き物だった。僧たちの努力の甲斐なく、人がアスール神の言葉を忘れたとき、世界はやはりほころびを起こす。人がその行いを正すことができず、ほころびがあまりにひどくなったとき、神は世界に大きな破壊をもたらす。これを、「終末のとき」という。
 そのとき、大地は裂け、空は崩れ、海は荒れ狂い、山は火を吹く。富める者も貧しい者も、強い者も弱い者も、勝者も敗者も、獣も人も同じように、ただ死に行かねばならなくなる。
だが、神は決して、世界を見捨て、人を見捨てるために終末のときをもたらすわけではない。穢れを取り除き、世界と人間に新たな完璧を与えるために、この苦難のときを与えるのである。その証拠に、神は、人間に「終末の歌」を与えた。アスール神に従う心正しい僧たちを始めとした人間が、「終末のとき」を生き抜き、新たな世界へ旅立つための歌である。
 「終末のとき」に人を救うことができるのは、このアスリカ・ソウォだけである。人々が心を合わせて歌を歌えば、「救いの扉」が開かれる。人はあらゆる争いをやめ、愚行を退け、部族を越え、階級を越えて、ただ無心にこの歌を歌わなければならない。そうすれば、恐ろしい「終末のとき」を経験せずにすむかもしれないし、例え悪魔のような一部の人間たちが神の怒りを買い、「終末のとき」を呼び寄せてしまったとしても、「救いの扉」により救われるだろう。
度重なる戦に疲れ果てていた人々にとって、名もなき僧たちの言葉は、まさに神の言葉に思えた。
終末のときのことを思えば、戦いがいかに無益なものであるか。
戦いに勝ったところで、アスール神の教えに従わなければ、恐るべき「終末のとき」が世界を呑み込み、悲惨な死を待つのみである。
人々は、武器を捨てた。そして、アスリカ・ソウォは終末のときに備える歌であるとともに、平和の象徴となった。
アスール神のもとに、人々が集い、かつての敵同士も手を取り合って、歌を歌うようになった。これが、アスール教の始まりである。

いろんな話をするのに加えて、ヴァーナはアマラにヘビを操る方法を教えてくれた。
女の子の言うことしか聞かないんじゃ、とアマラが言うと、ヴァーナはいたずらっぽく笑って見せた。
「実はそこのところは、よくわかっていないのよ。声の問題かもしれない、といわれているの。あなたは声がいいから、ひょっとしたらいけるかもしれない、と思って。本当言うと、できるかどうか、私も興味があるの。」
あまり時間がないけれど、ヘビたちに自分を攻撃させない呪文くらいなら、教えて上げられるかも、とヴァーナは言った。
ヴァーナが教えてくれる呪文は、思った以上に難しかった。何を言っているかわからない、抑揚に欠けた詩のような呪文を、延々と口の中で唱えるのだ。その声は低くて小さく、とても声の質が問題になるとは思えない。
ヴァーナに言われた通り繰り返してみても、自分がうまく言えているのか、全く自信がなかった。
だが、ヴァーナはひどく満足そうだった。
「思った通り。あなたみたいに音を正確に捉えられる人は、珍しいわ。」
何十回も口の中で唱える練習させられた後で、ヘビたちの中でもひときわ大きく美しいチェイナーに向かって呪文を発してみるように、ヴァーナは言った。
チェイナーはヴァーナの分身のようだったが、アマラの練習に手心を加えるようなことは、決してなかった。こちらに向かってくるチェイナーがアマラの体に触れる前に動きを止めるようになるまで、発音を変え、抑揚を変え、何度も何度も呪文を繰り返した。
ヴァーナがくれたアドバイスは、声の出し方に加えて、ヘビを恐れてはいけない、ということだけだった。
「恐れる気持ちは、必ず相手にも伝わるから。」とヴァーナは言った。「恐れる気持ちはそれだけで、相手と自分の距離を作ってしまう。」
その日の終わりにやっと、アマラはチェイナーを思いのままに止めることに成功した。
思った以上の上達ぶり、とヴァーナは喜んで、さらに次の日には、ヘビに人を攻撃させる方法を教えてくれた。やはり丸一日を費やして、アマラは、自分の前方、後方、左右のいずれの方向の敵でも、自在にチェイナーに攻撃させる技を習得した。
飲み込みが早いわ、私の見込み通り、とヴァーナがほほえんだ。
一座がエリリテに到着するまでには、アマラは、教わった呪文がチェイナー以外のどのヘビにもちゃんと効果があることを確認できるほどになっていた。

緑の髪

緑の髪

あらそいを やめよ。 あらそいをやめ おそれよ。 ただ この世の終わりをのみおそれ 歌をとなえよ。 世の終わりは 勝者にも 敗者にも 富者にも 貧者にも あるじにも しもべにも 赤子にも 老いたるにも へだてなく おとづれるものなればなり。 ただ 歌のみが 救いの扉を開く。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-03

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