きみのいた町(7月29日完結)

きみのいた町(7月29日完結)

退屈な町だったけど、翔び出していったっていうほど格好のいいものじゃないんだ
空回りできるほどの意地もなくて、本当はいつもどこかもどかしい
ただなにかをしたいって言葉だけでは生きていけないこともわかってる
そうでなければ、もちろん帰ってみようなんて話にはならなかったんだしな

1 気のない里帰り

 目が醒めると、車は相変わらず深夜の街道を疾駆していた。見飽きた風景をいくつも通り過ぎて、このドライブももうすぐ終わる。ぼくはいらない時間をほぼ眠っていたことになる。これから用のない地元に帰って、いらない時間をどれほどやり過ごすというのだろう。
 千絵はぼくのとなりで、後部席に浅く腰掛けていた。ぼくが顔を振り向けると、必要以上に生意気な流し目を送りつけてくる。
「起きたんだ」
「なんとなく起きた」
「もうすぐ着くよ」
「風景を見れば、いやでもわかるさ」
 よっと身体をを起こした千絵が、運転席のほうに乗り出す。真吾はかまいもせずに、黙々と運転していた。ただ街道をまっすぐに走っていくだけだが、真吾は車の運転にも律儀だった。そこら辺は、千絵もよくよくわかっている。
「ねえ、真吾。切太(きりた)(きりた)が起きたよ」
「ああ」
「ねえってば」
「狭い車内だ。そんなことは、いちいち報告しなくてもいいんだぜ」
 真吾にあしらわれて、千絵は元の後部席にどすんと腰を降ろした。ぼくに向かってぶーっと頬の風船を膨らましてみせる。ぼくは丁重に、見て見ぬフリをした。
 一生帰ることはないかも知れないと、本気で考えていた町だった。深い理由もなく、実際にはたったの三年で顔を出すことになる。いい気分も悪い気分もしないし、つまらないのはもうずっとわかっている。
「真吾は相変わらずつれないし」
「うん」
「切太は相変わらずぼーっとしているし」
「うん」
「あーあ、あたし、なんでこんな三人組の一員なんだろうね」
「別に、三人組でいいじゃないか」
「結果が出てないってこと」
「三人して放浪しているようなものだものな」
 千絵はふあっとウソあくびをした。
「社会や世界のいろんな不安の中で、すぐになんでも敵になっちゃう。どんなに広い世界にいても、小さな世界を護れる仲間がいてほしいのよ。それが、思い切りおおきな世界へ乗り出していける条件だと思うから」
 ぼくは思わず、ふーんと鼻息でうなずく。
「いまさら、確認することでもないだろうさ」
「女は、言葉のほしい生き物なのよ」
「男は、そこが苦手な生き物でさ」
「あーあ、どうなんだか」
 どうなんだか、いつも、千絵には忘れてはならないことを再確認させられる。
 約三年前、三人はそろって名門涼成大学に入学した。ぼくたちはそのとき都心住まいを決めて、三人の親はだれ一人反対しなかった。涼成大学のあるJR渋谷駅までは、地元から電車でたった三〇分、西東京地区でもかなり便利な場所で生きてきたぼくたちには、無理に実家を出る必要もなかった。それでもぼくたちは親にとってひどく扱いにくい子供だったから、別居はいたってスムーズにいった。
 ぼくが神保町住まいの文学生をしているのは、国語的志向も数学的志向もない親との決別でもあった。
 同じような立場で地元のつながりをえぐり取った三人が、都心の片隅で細々と生きていた。これからどうやって生きていけばいいのか、肝心なところで文殊の知恵はない。
 そうしてうだつの上がらない日々で、ぼくたちは死んだ元同級生、秋野幸平の葬式に帰ってきた。愛着もないし、死んだ同級生を振り返ってみたこともないし、それでもなんとなく故郷を訪れることになった。
 久しぶりの地元は、やっぱり何事もない町だった。もう、車は東側から市内に入っている。時間は午後十時ちょっと過ぎ、閑散としはじめた道路状況はそれなりに走りやすい。
「真吾」
「あん?」
「車、停めてくれ」
「ここでか」
「次のバス通りに曲がったところでだ」
「やむを得ないな」
 真吾は、ひょいっと車を右折させた。車はタイヤも鳴らさなかったが、車体はおおきく傾いだ。生意気に足を組んでいた千絵が「おっとっと」とシートに手をつき、ぼくも、身体の重心をドアにゆだねる。
 なにか文句を言おうと運転席に身を乗り出した千絵は、車が沿道に寄って停まったとき、派手につんのめった。のけぞったりつんのめったり、まったく忙しい奴だ。ぼくは千絵のトレーナを後ろから引っ張って、その細い身体がシートの奥にとすんと尻もちを着く。千絵はとりあえず、もう一回座り直して体勢を立て直した。漫才はそのくらいにして、ぼくはドアを開け、手早く車から滑り降りる。
 二月真っ盛りな寒さはあるが、風はここのところ吹かない
「すぐ、戻るよ」
「あたしたちもいくよお。ね? 真吾」
「そうだな」
 ぼくはとりあえず、一人でさっさと歩いて行った。バス通りの横には新式の大型団地が出来ていて、巨大な公園広場を矩形に囲っていた。
 いわゆる公営団地というやつだが、駅前には大規模な都営団地もある。この新東団地は、もともと市の所有地だった場所に都の援助で建設された公団だった。都も団地をつくるし、市も団地をつくる。ぼくたちが生まれ育ったのは巨大な団地の町だった。もはや完璧なベッドタウンで、ぼくたちはこの町に困ったまま、ずっと育ってきた。
 団地を見上げる芝生の庭園広場は、すっきりとシンプルな場所だった。敷地面積は縦長に田んぼが二枚分と、それだけ敷き詰められた芝生があるというから驚きだ。以前はただの広場だったはずだが、その時の記憶はない。ずいぶん長らく工事をしていたのだろう。規模を考えれば妥当なところなのか。
 千絵が背後からパタパタと駆けてくる音がする。いろいろと人なつっこい千絵は、結局、愛嬌抜群だった。ぼくに追いついた千絵ははあはあぜいぜいと、膝に両手をついて律儀に肩で息をした。そんなに急ぐ用事はないのに、千絵の義理は、ちゃんと急ぐ。
「真吾は、コインパーキングに車を停めてくるって」
「わざわざ、ぼくが手間を増やしちゃったな」
「そんなことはどうでもいいんだけど、ねえ、切太のご実家はもうすぐじゃん。こんなところになにかあるの?」
「なにもないさ。ただ、秋野くんはよくここいら辺をよく散歩していたらしいんだ」
「えーと、そうなんだ」
「こんなきれいな庭園を見て、秋野幸平はなにを思っていたろうな」
「ねえ」
「ん?」
「やっぱり、なにか考えているんじゃない」
 考えていると言ったら多少は考えているが、千絵がわざわざ気にするほどには、考えていない。
 秋野幸平か、あえて口に出してつぶやいてみる。
 秋野幸平は大学で郷土研究を専攻していて、ここいら辺もよく探索していたという。この町に団地が増えていくいきさつに関しては、ぼくよりずっと、郷土学を学んだ秋野幸平の方が気にしていたろう。
ぼくは芝生を突っ切る遊歩道を歩いて行った。千絵が横にしっかりついてくる。遊歩道は小さな丘の脇を上っていくルートで、かなり蛇行していた。もしまっすぐ進むと、かなりの勾配になる。言い方は広場でも丘でもいいが、あちこち見回すものもない小山だ。ただ、遊歩道から外れた丘の頂上に、三〇〇年以上は生えているという一本杉がそびえ立っている。
 千絵が横からぼくを見上げ、ぼくは深い意味もなくうなずく。真吾は、やはり車の中で待つことを選んだのだろう。もともと、秋野幸平の死は三人とも深入りするべきことじゃなかった。
「ぼくたちはこの地元に見切りをつけて、都心に出て行った人間だ。秋野くんは、それと違う。この町に残って、この町で生きていきたかった人間だ。でも、秋野くんには、なにか、未来にはばたく翼があった。秋野幸平という人間は、なにをしたかったんだろう。なにをできないまま、死んだんだろうな」
 千絵は遠いようにぼくを見上げて、心配そうな顔をする。
「お互いの選ぶ道が違っていて、あたしにはわかり合えていたとは思えなくてさ」
「秋野くんは、バカじゃなかった。ぼくたちの間抜けさと比較する必要はないよな」
「切太があたしに教えてよ。秋野くんっていうのは、どんな人だったのか。どう尊敬して、偲んだらいいのか」
 千絵のすねた唇に、ぼくは意外と似合った紅の赤さを見る。
「千絵は人がいいよな」
「バカにしてるの?」
「バカにできるさ。秋野くんとは、違ってさ」
「困った言い草なんだからさあ」
 一度振り向くと、千絵が唇ですねたへの字をつくっていた。
 秋野幸平は在郷名士の子で、この町を生まれついて愛していた。この町の問題点をだれよりも把握して、この町の未来をだれよりも信じていた。そんな人間はぼくたちとは違うまっとうな道を歩いて行く。だから、ぼくも秋野幸平とはぜんぜん親しい間柄じゃなかった。
 ぼくたちは建ってみて初めて団地の規模に呆けるが、この町を愛し続けた秋野幸平としては、ずっと前から心に抱えるものがあっただろう。
 詳しい話はともかく、秋野幸平は市内にある金居大学附属の金居第一高等学校内で、校舎裏の古井戸に転落して死亡したそうだった。昨日警察が自殺と断定して、遺体は今日秋野家に返された。通夜は終わっているはずで、明日は葬式。
 地元に愛想の尽きているぼくは、金居大学にも金居の所属高校にもまったく興味がなかった。だから、古井戸のことも初めて聞いた。古井戸は、文化財でも観光スポットでもなく、地元の人にさえほとんど知られていないそうだった。
「ん・・・」
 ぼくは右手に登る丘の頂上にぞくっと目を奪われる。そこには杉の大木が生えている。
「ねえ、ちょっと」
「え?」
 いま、ぼくがこの町のことを気にしているといったら、千絵にはたいそう怒られてしまうだろう。
「いっつも、あたしばっかりバカにしてさ」
「真吾や、秋野くんみたいに優秀扱いされるのは大変だぞ」
「うーん。確かにそれはそうだねえ」
「じゃあまあ、バカでいいんじゃないかな」
「なにこれ。丸め込まれてるの、あたし」
 千絵は斜め後ろから、えいっとぼくに追いすがろうとした。しかし、ぼくは遊歩道をそれて芝生に入り、丘の頂上を目指した。
 ぼくは、やはり結構きつい勾配を昇っていった。こんな凹凸のある地形にまで団地をつくる必要があったのか。このベッドタウンに団地をつくるというのは、ぼくが思っているよりずっと利権の動くことなのか。
 丘の一番上にそびえ立っている一本杉は、さすがに樹齢三〇〇年の威容たっぷりだった。その杉の木が新型団地との違和感を浮き彫りにする。名物になるわけでもないだろうに、大木は切り倒されなかった。
「どうしたのよお」
「あれさ」
「ええ?」
「さっきからずっと、気になっていてな」
「だって」
 一本杉の下にはひとりの女学生が立っていた。夜目に距離は五十メートル先、女学生は細身の中背で、姿勢良く立っている。ストレートの黒髪を長いおさげにして、左右の胸元に垂らしていた。両手で学生鞄を前に垂らし、あまり工夫のない白地のセーラー服をまとっている。真冬まっただ中に、コートもなにも上着を着込まない。
 これが有名な「杉高女学生」だった。略して「杉女(すぎじょ)(すぎじょ)」。だれがそんな呼び方をつけたのかは知らないが、ネット上でけっこうな話題になっている。ひきこもりの妹が教えてくれた情報だった。
 杉女は色白だが、しっかりと立ちはだかっているふうで、いかにも健康そうなたたずまいだった。杉高という高校はなく、制服は現存するどの学校のものでもないらしい。そういうことを調べるヒマ人もウェブ上には少なくないが、杉女自体はどこの誰だかだれも知らないようだった。
 杉女の存在を確かめ、千絵はとりあえず激怒したようにぼくを見上げる。ぼくとしても、意味なくこくんとうなずいた。こういうときにどうすればいいかというと、千絵もぼくも、しっかりなにもわかっていなかったのだ。それでも、話題の人間がいたからには接触してみたいのが、ぼくの正直なところだった。
 ぽーんと千絵の背中を押すと、千絵はやはり怒った顔でぼくを見た。しかし、千絵はこういうとき、ちゃんとぼくの強力な味方になる。千絵としても不愉快かどうかはともかく、表情ほど怒るような気分じゃないのだ。
「こういうとき、気さくな女子がいると助けてもらえるよな」
「なにを、この町なんかで気にするっていうの」
「かわいい女子さえ? こんな町にいたら色褪せるかな」
「一目惚れだとかいったら、笑えなくて笑っちゃうよ」
「いや、恋愛じゃないけど、これは、一目惚れみたいなものかも知れない」
「そりゃ、すっ飛ぶわ」
「だって、あのシチュエーションを見ろよ」
「いやあー、むしろホラーだよあれは」
 杉女の白い肌もセーラー服も、こんな夜更けの木陰にいればすっかり影になる。ちょっとしたゴーストみたいな雰囲気だ。
「怖いほどかわいいかも知れないのに、視力が悪くて残念だ」
「すごくかわいいけど、怖いほどとか震えるほどとか、そこまではどうもねえ」
「すべては千絵の気さくさがこたえてくれることかな」
「えー? なんでかなあ」
「人を見る目もいいしな」
「やっぱりバカにしてんのね」
「お互いのバカに関しては、神保町に帰ってからいくらでも打ち明けられるさ」
 千絵はいかにも渋々と、一本杉のほうに傾斜を登っていった。なんだかんだといってその背中はやっぱり頼もしい。ぼくはなんとなく一つうなずいて、千絵に続いた。
 一本杉の下に立つ少女の奇妙ぶりに、本当は千絵だってなにも感じないはずはない。杉女はぼくたちが近づいていっても動ずることなく、少しも姿勢を崩さなかった。
 千絵はさっさと一本杉の下までたどり着き、少女となにやら仕草でコンタクトを交わしたようだった。ぼくは千絵に遅れて丘の上に登りつき、ふたりの女子と少し離れた場所に立つ。千絵はいったんぼくのほうにはっきりと振り向いてみせて、強い視線を飛ばすと、もう一度杉女のほうに向き直った。
「どうも、こんばんわ」
「こんばんわ」
「なにかの待ち合わせですか?」
「はい、そうなんです」
 女子ふたりの会話はいたってスムーズに始まった。千絵のひとなつっこさはこういうときばっちりあてになるし、杉女も応対は気さくでクセがなかった。杉女はこの目立つ高台にいて、話しかけられるのに慣れている様子でもあった。
 千絵のふわっとした吐息が、空気を和ませる。
「一本杉の下で待ち合わせなんて、ロマンチックですねえ」
「いえ、待っているのは、家族なんです。なんていうか、どっちかっていうと面倒事ですよ」
「えーと。ご家族とも巡り会いはありますし、お世話っていうのはどうもその。深くはお聞きできませんけど、軽率な言い草でした。すみません」
 いえいえとおどけたように両手を振ってみせた杉女だったが、涼しげにおおきく周りを見渡して、どこかさみしそうに、そして少し哀しく鼻ため息を吐いた。
「この辺一帯って、都市計画と道路計画で整地されたんです。計画の話は三十年前から上がっていて、実際にここが公園広場になったのは約三年前のことです」
「だから、えーと、それは知ってるんです」
「それなのに、この杉の大木は三〇〇年以上そびえ立っているんですって。すごくありません? 整地されたときも、この木だけは残されたんです」
「えーと、そういうのって、伝説とかあるじゃない。その木の下で待ったら、恋が叶うとか、死んだはずの人にまた巡り会えるとか」
「あはは、そういえば、不思議とそういう伝説はひとつもないですね。わたしはやっぱり、はぐれた家族とここで落ち合う約束をしているだけです」
 かくんと千絵が両肩をそびやかした。
「だって、そんなの、ふつうのケースならiPhoneとかで連絡を取り合えるのに」
「わかっています」
「だから」
「電池が切れてるとか、そういうことじゃないんです」
「だから、その、そうなんだ」
 興奮を隠さずに、千絵が一歩身を乗り出す。迫ってくる千絵の気合いに、杉女はやはりさみしく笑う。いままでネットでの書き込みを見てきて、杉女がこの高台で家族を待ち続ける情報は、ほとんどがアテのないネタだった。
 千絵は素直に杉女を心配し、ぼくは町に吹く哀しみを感じる。ネット上の人間は、杉女の存在をネタにしていて、下世話な話題も多い。一部にはいぶかしく思う人もいれば、必要以上におもしろがる人間ももちろんいる。
 リアルの世界では、杉女はいま、周囲の人間にたいてい気味悪がられている。それも無理はないと思うが、立ち続ける杉女がなにを思うのか、近隣住民は知りたくならないものか。
 ずっとネット上で見掛けてきた杉女を目の前にしてみて、ぼくはなんだか深くため息をつきたい気分だった。杉女は、精神や気分がおかしな人ではなく、むしろ見事に礼儀をわきまえた淑女だった。そして、ネット上でけっこうな人気が出るだけの基本的な美少女だから、いわくがくっついてくれば話題には事欠かない。
「ぼくは男だからぴんとこないけど、女子ひとりこんな吹きさらしで、身の危険はどうなのさ」
「広場が開けている分だけ、案外に安心な場所だから」
「そうみたいだけど」
「心配してくれてありがとう。でも、これはわたしの身が安全ならいいとか、そういうことではないから」
「わかったよ。でも、きみはこうして毎夜ご家族を待っているのか?」
「うん、毎晩だよ。午後十時から四時間ずつ」
「えーと、なんか決まりかなにかがあるのかな」
「ただ、ひたすら家族と落ち合うはずの時間」
「落ち合うはず?」
「最初はそんな時間、決まってなかったんだけど」
「それが決まったんだ」
「ごめん。わからない話だよね」
「いや、こっちが事情も知らずに失礼なんだ」
 杉女の笑顔はまっすぐ遠くに瞳を馳せるようだった。
「うまく説明できないんだけどね、落ち合う時間は決まってるの。ずっとその間、一人。さみしいから、こうして声を掛けてもらえるのはいつでもうれしいの。ありがとう」
 ぼくは戸惑いを感じながらうなずいたが、ともかく杉女の状況は理解できていなかった。
 杉女に手を振って、ぼくはゆっくりきびすを返した。千絵がふうっと空気の流れを乱さずに、ぼくの横へ続く。千絵とぼくはタイミングを合わせたように、丘をゆっくり降りていった。吹きさらしの公園広場は空々しく、うそきれいで、偽りの風呂敷を開け広げているような感じだ。
 この町の生ぬるさを嫌って、三年間、都心で暮らしてみた。もちろん今度は、こっちがその街でお客様になるだけだった。ぼくたち三人組はゆかりのない神保町の地で、なにも見つけられずに毎日を生きたままだ。二十歳という逃せない日々を、失うために生きている。
 千絵が、横からのぞき込むようにぼくを見た。二人で歩きながら、わかり合えていることに苦笑する。
「もし、あの女の子になにかを見たんならさ」
「うん」
「おもしろそうだとは思うけど」
「ぼくもそう思うけど、それじゃぼくたちは、いくら都会で生きる決心をしてみても、結局この町から出て行かれない」
 ふと正直すぎる弱気を見せた千絵に、ぼくも目をこらすのはしんどかった。
「あの女の子のこと、どうするの?」
「きっと、千絵はもう会わなきゃいいさ」
「本当にこれっきりにさせてもらいたいよ」
「ぜんぶ、もう千絵には用のないことさ」
「なによ。人を話し掛けるおとりに使ってさ」
「ええと、ごめん、そして、ありがとうだ」
 千絵はべっと舌を出して、ふんと鼻息を吐いた。ぼくは軽くうなずいただけで、ざっと周囲を見渡した。なにもかもぎくしゃくしている風景の中で、千絵の姿ははっきりと存在を主張している。
 杉女は町を捨てた千絵よりも、この風景の中で絵になるたたずまいを知っている。そして、樹齢三〇〇年以上の杉の大木が守護神のようにそびえている。
 冗談ではなく、この庭園風景は、ひとりの女の子のためにある。よそ者の千絵もぼくも、杉女と化学反応を起こした。
「真吾はどうしたのかな」
「待機しているだけさ」
「じゃあ、呼び出す」
「問題がなければ、ぼくはここで別れる。実家まで、歩くよ」
「車に積んだ荷物はあ?」
「それこそ、どうにでもなるだろう。ヒマがあったら届けてくれよ」
「ずうずうしいじゃん」
「おまえだからいうけど、ちょっと風鷺(ふさぎ)(ふさぎ)が気に掛かってな」
「ああ、そっか。でも、結局車の方が早いと思うけど」
「だからな、夜風に吹かれながら、いろいろ自分のダメさを考えたいんだ」
「素直に承知したくないけど、了解だよ」
 千絵の感じる嫌悪感を、ぼくも感じている。お互いの嫌悪感を分け合いたくない。なにかいつも一枚足りなくて、一枚の薄い壁が破れない人生を過ごしている感じだった。ぼくたちは、いまのままならいつだってもどかしい。
「当たり前に頼めることって、相手があってのことだよな」
「さっきの子のこと、だいぶん考えてるのね」
「秋野くんのことも、少しだけな」
「でも、もうこの町に振り返る事はないはずじゃないの?」
「結局、帰る頃にはそうなってるはずさ」
「一時的でもいやだけど」
 頑なな千絵の顔には、曲がることのない意志があった。
「人間ってどうなっちゃうかわからないよな。あの子だって、あんなところで家族を待つ毎日が来るなんて、考えてなかったはずだしな」
「どうなっちゃうかわからないから、あとにした町のことが気になり出したりするの」
「杉女が本当にいることがわかってからな」
「でも、三人の約束では、反則じゃないの」
「振り切りたいんだ。このまま神保町に戻ったら、この町に気になってることを残してしまう」
「まあ、気になっちゃったら取り消しはきかない性格だもんね」
「ぼくは、本当に先が見えていないさ」
 あーあ、とでもいうように千絵が天を見上げて、ふてくされた下唇を突き出す。
「だからさ」
「え?」
「がんばろうよ。縁あるうちはさ」
「そうだよな」
「じゃあ、荷物のことは任されておくね」
「うん、ありがとう」
「まったく」
「うん、まったくだよな」
 ぼくは、なるたけぶっきらぼうに手を振り、千絵から離れて駅の方に向かっていった。背後に、千絵の投げてくる視線を充分感じていた。



 ぼくの生まれ育った町は、東京都のど真ん中からかなり北方に位置する。東西を突っ切る私鉄線の沿線で、ベッドタウンが発展していった。ぼくの生家はその中で、駅から歩いて五分と掛からない好地点にある。父親が建て替えて築三年、三〇坪弱の一軒家だ。父親からすれば、退職金を前借りして手に入れた後生大切な城だった。
 ぼくも信念みたいなものを少しでも曲げていたら、この生家から都合よく都心の大学に通っているだろう。神保町なんかで暮らしてもおたおたことばかりだが、無難に生きすぎたぼくには、おおいに戸惑う真似が必要だったのだ。
 たとえ実績がぜんぜん上がらなくても、ぼくの実生活はもう、神保町にあった。三年ぶりの実家は、なんだかこぎれいでこじゃれていて、いつも売り出し中のモデルハウスみたいだった。両親が大切にしたくてたまらないのも、よくわかる。
 午後十一時近く、玄関から実家に入っていくと、両親は奥のリビングでまだ起きているようだった。ぼくは二人に遠慮して、リビングには入らず二階に上がっていった。互いに顔を合わせても気まずいだけだから、これはこれで長年の約束事みたいなものだった。基本的には、ぼくも両親には平和に生きていってほしかった。
 二階に上がると手狭なホールがあって、妹の部屋からは、いやでもよく知った気配がする。
 妹は強力なひきこもりだったが、不意に部屋のドアを開けて、ぼくの前にひょっこり顔を出した。ドアの隙間から斜めにちょこんと笑顔をのぞかせるお茶目さは、人付き合いのよさを思わせる。それにすっきりとした中背は、血管が透き通る白さで贅肉がぜんぜんない。妹本人は、目だけがでかけりゃサマになるでしょと言うが、実際は運動神経もかなりいい確信犯だ。かつては、心身ともに活発で、健全な女子だった。
 すすけた顔の風鷺は、きょろっと瞳を動かして、あらためてぼくを見上げた。
「ちょっと、いい?」
「いやいや、こっちこそ」
「ご無沙汰だったね」
「まあ、いろいろごめん」
 いわゆる生きにくい人間だと知りながら、ぼくは風鷺のことをどうにも出来ないでいた。自分のこともどうしようもないのだから無理もないが、やっぱり風鷺が目の前にいると愛着が切なくなる。
 ちょいちょいと手招きする風鷺にうなずき、風鷺の部屋に入っていく。とたんに目の前をぷーんと小バエが飛んでいって苦笑する。どうせ万年フル稼働状態なのだろうが、部屋の中は強烈に暖房が効いていた。でなければこの二月に小バエが飛び回るはずはないが、それにしても、いかにも小バエの好むゴミだめが部屋中にあった。とりあえず、45リットルのゴミ袋が五つ、口を開けている。
 そろそろ掃除の業者を一回入れておかないとならない。さすがにゴキブリが住み着き始めるとまずいし、ウジがわいても困ってしまう。
「三人組は健在?」
「寄り合って、寄り添っていないと、ちっぽけでつぶされてしまうからさ」
「そして、秋野さんみたいに死んじゃったりね」
「そうさ。秋野くんだって、死を止めてくれる人がいなかった」
「それが哀しい」
「だから・・・」
 床に座れるスペースもなく、ぼくはベッドに腰掛けた。風鷺はぼくにスポーツ飲料のペットボトルを投げてよこすと、なかば背を向けてパソコンに向かった。ネット上に秋野幸平の死を追っているのだろう。風鷺には頭を回転させていないと気が済まないような体質がある。
 この部屋にこもってウェブ上にすいすい入り込めることが、風鷺の住めば都という現実そのものだった。
 風鷺の生活には、仙人のような悟りと、人間世界から逃れられない硬質な哀しみがある。
 漂いそうな視線の中で、風鷺の唇がぽてっと開くのが見える。液晶画面の光が、暗い部屋で生気のない風鷺の青白さを、遠慮なく浮かび上がらせる。
「とある大魚が、いま死んじゃったんだね」
「風鷺も釣れる魚じゃないけどな」
「わたしは大魚じゃないし、どうせ無念に死ぬなら、最初から死んでいたいよ」
「秋野幸平には、確かに最初から名士のお家で誕生するおおきな意味があった。生まれた重さ自体、おまえやぼくとはまるで違う」
 ぼくは口元でペットボトルを傾けながら、気を取り直す。風鷺には風鷺しか悟っていない真実がある。
「弾けたくないんだよ」
「なに?」
「人が生まれることって、どかーんって爆発するようなものでしょ。そうじゃなくって、ただそのままっていうか、ずっと「死んでいたい」んだよ。「ずっと生きて」はいられないからさ」
「いや、風鷺はずっと、生きていればいいんだ。心の中では、変わることなく生きていくしかない。なにかが起こったら、それはご愁傷様だ。なぜなら、「死んでいること」や「生まれてこないこと」も、大変なことだから」
「わかってんだ。「ふつうに生きていく」ことがなによりもいちばん楽なこと。なにか大冒険をしても、「ダメになったらふつうに生きていこう」って思うのがいちばん楽なこと」
 風鷺の中には風鷺の現実感がある。風鷺が東京大学や京都大学ではなく、国立で一橋大学を受験し、私学では金居大学の哲学科を第一志望にしたのは、実家から通学しやすい西東京地区で進路を探した結果だった。
 けれど風鷺は、大学での社会生活そのものが自分にはこなせないと、最終的なこたえを出した。軒並み合格したのに、風鷺はどこにも入学しなかった。
「秋野くんは、才子だった。活躍してしまう人間は、派手好きでふつうには生きられないかな」
「残念ながら、そういうことだと思うよ。好奇心は、隠せないと野望になったりするね」
「秋野くんが、野望を果たそうとしていたと思うか」
「堅実そうで、意外に派手好みは派手好みだったと思うかな」
「人ひとり、ちっぽけすぎて、救いもいらない気がするけど」
「自分で自分をびくびく護ってるだけだよ。わたしだって、他人から見れば死ねばいいんだし、別に生きててもいいんだし」
 ぼくはスポーツドリンクを飲み干して、深く息を吐いた。照明のない部屋では液晶テレビの電光が明かり取りになって、その中に落ち着いた風鷺の気配がする。
 結局、ぼくもあちこちの明るみでずいぶんバタバタしてきたと思うが、すべて、内容が伴わない。
 いまのぼくにあるのは、このままやり過ごせば名門大学を無事に卒業して、学生生活を終わらせられることだった。新卒での目算もだいたいには立つが、残念ながら、ぼくにはこの有利な立場を利用して、つけ込む夢が見つかっていなかった。だから大学も院に進むことを考える。
 ぼくの中にある夢という言葉が、秋野幸平が抱いていた野望より途方もなくちっぽけなものに感じられる。
「風鷺」
「なに?」
「秋野幸平は、自分の野望に殺されたといいたいのか?」
「それは、そうだけど」
「つまり、結局だれかに殺されたっていいたいのか?」
「結構、危ない位置にいてもおかしくなかったし」
「秋野くんは、名士の跡継ぎで将来、金居大学の学卒としても勇名を馳せたろう。でも、秋野くんはこの町の人間で、この町から出ない人生を選んでいた」
「基本はそうだろうけどさあ、あらゆる高い能力を持っていたあの人が、地元でどんな大活躍をしたやらねえ?」
「まあ、おまえだって、一橋大学の学卒で数学的な哲学書を出版するかも知れないわけだしな」
「そう思うよ。どんなにおおきく見ていても、どこかでちいさく人は変わり身してしまうよ。そのとき、人は押し出された場所で死人同然に成り下がるんじゃないのかな」
 ぼくたちももう二十歳だ。かつての同級生の中には、井戸に転落死しても思い出してもらえない人間がたくさんいる。それが風鷺のいう死人同然か。
 秋野幸平には、死人とは明らかに確実に違う存在感があった。
 立ち上がったぼくに、風鷺が初めてはっきりと振り向いて、いたずらっぽく笑った。人を茶化したその顔の中で、つぶらな瞳の奥に見える切なさが哀しい。まるでいろんなことをどうすればいいのとさまよい歩くように、風鷺のくるりとした瞳が傷んでいた。
 杉女の話は、今夜はやめにしておこう。もし話せば、そのときから話は激しく走り出す。
「おやすみ。おまえがいつ寝るのかは聞かないけどな」
「うん、まあいろいろだけど、おやすみ。ありがとう」
「どこか、まともにやりすぎかな。ちゃんと休んだ方がいい」
「貧乏性だけどね」
 風鷺は、自分が安眠できる場所と時間と、そして自分自身を探している。
 ぼくのほうがだいぶん、軽いノリでいいかげんなだけだ。今日も、もういいやと思っている。そう思えるぼくが、やっと眠れるのだ。
 ぼくは風鷺の部屋をあとにした。ホールに暗めの照明が瞬き、それでも少しまぶしい。ぼくは、一日を終えて眠れるだけのことを、今日も果たしてはいない。

2 この町で生きていくこと

 目が醒めるとすぐ、今日も相当寒いことがわかる。冷たい空気が部屋を覆って、寝ている間に肌が恐ろしく乾いていた。今年の寒さもまったく遠慮ないが、こんな冬にも杉女は午前二時までセーラー服姿でりんと立っているらしかった。
 ぼくは、気分もしまらないまま暖房をつけた。カーテンを開けて窓の外を眺め、思わずうなってしまう。一軒家の二階から見る景色だから、たいして見渡せるわけじゃない。それでも見慣れた家々が住宅街に並び、その奥で駅前にある都営住宅の棟群れが君臨している。その完成度の高さは完璧で、圧倒的にこの町の色を決めている。
 父親の建てたこの家もこの町で存在を主張してきた、立派な景観の一部なのだ。
 ぼくは窓際からきびすを返して、服を外着に着替える。まだ朝は早くて周りが活動を始めていないが、この部屋で町が動き出すのを待つのは間が抜ける。
 たぶん間違いなく、風鷺は昨夜のまま自分の部屋で起きているだろう。いまは、そんな風鷺を邪魔したくもない。ぼくの感傷もあるが、風鷺の感傷もあるかも知れない。
 ぼくの名前は切太。昔の映画に出てくる企業スパイの名前らしい。風鷺の名前は、逆に傷をふさぐ、という意味がある。たいして深い意味もないくせに、両親はこの自分たちのネーミング・センスをいまでも気に入っていた。風鷺の場合は、加えて当て字の美しさがある。
 ぼくは洗面所を拝借して洗顔歯磨きヒゲ剃りと済ませ、リビングに侵入する。リビングはダイニングをかねていて、出社前の父親が背広姿でiPadをいじっていた。顔を揚げずに気配でぼくを確認した父親は、まるで気に入らなさそうな顔をつくってみせる。
 母親は毎朝キッチンに入る職業主婦だったが、珍しく辺りにいなかった。ぼくはリビングのソファを挟んで、父親とまともに二人で向かい合うはめになる。
「おまえ、帰ってたのか」
「帰ってないさ」
「なんだと?」
「ここにぼくが帰ってくれば、またそっちと言い争いになる。だからぼくは帰ってきてない。その方がお互いにいいんじゃないのかな」
 もっと仏頂面になった父親は、目線の隅までこちらから完全にそらす。ことさらにiPadを操作してみせる姿が、もう憎々しささえ放たない。なにがあっても、父親にぼくと目を合わせる気なんかなかったのだ。
「あのさ。三年ぶりの帰省だけど、そっちには、風鷺を育てるのは無理だったよな」
「だからって、面倒見るしかしょうがないだろう」
「そのいい加減な気持ちをさ、少しはどうにかできないもんかなって思うのさ」
「おまえ、だれにものをいってるんだ」
「さあ? 子育てができなくても、しょうがないで済ませるどこかの肉親さ」
「おれは、やることはやった」
「そっちがやることをやったのかどうかなんて、ぼくは知らないよ。風鷺の人生を考えたら、よくやったねってねぎらう問題じゃないしさ」
「知ったようなことを、生意気に言うんじゃない」
「小学、中学高校とさんざん時間はあったはずだよ。その間にそっちが風鷺をなんとかしていれば、ぼくは生意気なことなんか一切ほざいていないよ」
「なにも知らんくせに、いい気なもんだな」
 ぼくはどうしても正直なため息を吐き出しそうになってしまい、やっぱりいやな想いから脱出する。たぶん、父親との会話はもう、今回の里帰りでこれが最期だった。
 リビングの入り口を出たら廊下を渡って、すぐに実家の外に出てしまう。自分でも変に速いスピード感だなと思いながら、止まることなく近所の私道を歩く。駅まで五分の道は歩き慣れていたはずなのに、いまはなんだかよその町で迷ったような気分だった。
 父親があれほど風鷺のことを心配していないのは、風鷺が身近な実生活に困っているわかりやすい原因だ。しかも、鋭敏な神経の風鷺にとって心理的な負担になる。この家にはちゃんとわかりやすい娘が生まれればよかったのだと、風鷺は自分をどこまでも責められる。
 ぼくの頭の中では、いつも風鷺があきらめたような笑顔で、遠い目をしている。
 どうあがいても、あの家には四人のスタッフしかいない。父親も母親も社会生活に素朴な人間だ。だから風鷺やぼくのことも、型にはめて育てた。この四人しかスタッフのいないユニット家族なのだから、ぜんぶ父親の言うとおり、しかたのないことだったのだ。しかも、無理矢理本家の籍を移した父親は、縁戚関係が非常によくない。両親に育てられなくても、だれか親戚筋に頼れたわけじゃない。自分でなんとかできる歳に育つまでは、子供のほうが可能性を小さくしていくしかなかったのだ。
 それなのに、大学進学を控えた時点で、風鷺はもう自分が社会生活に不適切な人間だと硬く知ってしまっていた。あがくことさえ気力の出て行かないような風鷺の笑顔が、ぼくの脳裏で妙に哀しく優しい。
 通勤ラッシュの道を、人々は規則正しく駅に向かっていた。ぼくは少し呆然と、たくさんの人間が歩いて行くのに追いすがっている気分になる。もう、この町の嘘も本当も、ぼくをだませはしない。



 隣町は駅前も開けていて、整然とした企業通りもある。通りには有名私立、金居大学の大型キャンパスもある。ぼくの生きてきたベッドタウンと市は同じだったが、ぼくはぼくで、隣町の知り合いには違う人間の毛色を感じていた。
 ぼくには自分の生まれて生きてきた町に、千絵と真吾の二人しか深い知り合いはいない。それとは違って、隣町の人間には多少見知った人間関係の輪があった。
 ぼくは裏路地にある懐かしいコーヒーショップに入っていった。隣町には、思い出の中にまだ残っている場所があった。
 優子は、ぼくが五分もコーヒーを飲んでいると、すたすたと無造作にやってきた。朝のコーヒーショップは通勤前の客で賑わっていたが、上下白のプライベートスーツをきちっと着こなした優子はすぐにわかった。
 ぼくを見つけた優子は長く垂らしたストレートを払って、おかしそうに笑い掛けてきた。ぼくが照れ隠しにうなずくと、優子は妙にこっくりうなずいて、向かいに腰掛ける。この店ではぼくたちのいちばん慣れた席、一番奥の角の席だった。店は混んでいるが、二面は完全に壁で囲われていて、話をするにも勝手のいい場所だった。
 優子はやってきたウェイトレスにさっさとブレンドコーヒーを注文して、ぼくのお代わりも頼む。その手早さに、ウェイトレスもとりあえず水を置いて、颯爽と一度引っ込んでいった。
 あらためてぼくに向き直った優子は、なにもない真顔をしていた。ただただぼくを正視するのは、自信を持って美しい人生を生きている証明だ。いまさら、ぼくもわかっていることにいちいち戸惑いたくはない。
「やあ」
「うん」
「相変わらず天使だよな」
「そんな言い方ってあるかしら。切太くんしかしないけど」
「もう、慣れているくせに」
「皮肉に笑いたくなるのよ」
「なるほど。笑顔ならいいわけでもないかな」
「笑顔だけでいいんなら、それはそれでそういうものかしらね」
「うん、まあその、だから、かなわない返事だものな」
 結局、優子は輝くように笑って、ぼくはなんとも目を細めてしまう。たぶん、本当に優子は天使なんだろうが、ぼくにとってはやっぱり、間違いなく天使だった。
 コーヒーがやってきて、カップを取り上げた優子に真っ白なスーツは似合いすぎる。辺りの空気を一変してしまうような優子の雰囲気に、天使というぼくがバカでも、いわれる優子の方が絶対悪い。
「それで用事はなあに? なんだかんだ言ってわたし、切太くんに呼び出されるの、好きなのよ」
「そんな簡単に好きになってほしくないけどな」
「じゃあ、ほかのことがおもしろくないだけ」
「うん、まあその」
「自分に照れちゃうのね」
「言ったろう。ぜんぶ天使が悪いからさ」
「言ったっけ?」
「まあその」
「だから、照れちゃうのね」
 しゅっと優子がコーヒーをすする。たしなみも見事なものだが、美しさの中にかわいさも隠せない。小学校時代、同じ進学塾に通っていた頃のあこがれが強く残っている。ふつうに見ればただの美人女子大生でも、そういう問題では済まない個人的な歴史がある。
 ぼくはお代わりを口に含んで、気を取り直す。
「秋野くんが死んだな」
「ええ、ご愁傷様」
「ぼくは今回、きみの前で、そのことについてはなるたけ触れたくない」
「あら。そうなの?」
「でも、きみもまた、この町で生きている人間だ。秋野くんが関係していることは、聞いてしまうと思う」
「こちらには、それほど折り入ったこだわりはないわよ」
 なんというか、やはり白の優子のほうは、ぼくみたいにいやな濁りがない。澄ましてコーヒーをすする姿には、あまりにぼくをまっすぐ見つめる瞳がある。
 いまのぼくが白の優子に抱く愛着は、どんなものなのか。ぼくは優子の清廉さに、心の中ではこの白木優子を白優子(しろゆうこ)(しろゆうこ)と呼んでいた。かなわない男の、わずかな抵抗かも知れない。本当は優子と呼びつけすることが、ぼくにはできていなかった。
「東側団地のほうでさ、杉の木の下に立つ妙な女学生がいるよな」
 白優子はぼくの心をすっかり見通したように、いっそう神々しく笑ってみせる。
「あら、ええ、なんというか、もう出会っていたの」
「どれだけ運命の星が瞬いたかは、知らないけど」
「いまいちかしらね」
「いままでは気づかなかったんだからな。ただそれだけのことなら、それだけなんだ」
「そう、言い切れる?」
「ぼくにとってはさ」
「でも、会いに行った」
「杉女の場合、会いに行かなきゃ会えないだろう」
「どうせなら、恋が芽生えればよかったのにね」
「風鷺の情報は、時に恋より大事だしな」
「ウェブ上を賑わす美少女。風鷺ちゃんの好奇心。この町に帰ってくるきっかけ。それだけそろえば、意地っ張りな神保町の切太くんも杉女に会いたくなるわよね」
 ぼくはものすごく素直にうなずいた。白優子は、どんなにバカなことも、どんなに事態の入り込んだことも、唇をひとつなめてぼくにこたえてくれる相手だった。
 白優子も秋野幸平と同じく、地元名士の家を継いで、家系を次世代に引き継がせる人間だ。家のことも、この町のことも、最低限の責任は果たす。ただ、白優子はこの町に愛想を尽かせていて、秋野幸平はこの町を立て直すために生きようとしていた。
 白優子が駆け引きをするようにぼくを眺め、ぼくとしては苦笑いに裏表もなかった。
「あの杉の木の女子高生は、何者だ?」
「どこからどこまでを話せばいいかしら。わたしは特に彼女を調べては、いないけれど」
「どこからどこまでってことなら、直感力から、感応力までかな」
「簡単に言うのね」
「ぼくのほうも、直感がうずくからさ」
「どういうふうに?」
「闇が深く、怖いなってさ」
「なるほどね」
「ぼく、おおげさじゃないかな」
「まだ、割り切ってしまいたくはないわ」
白優子はふわりとおかしそうに笑って、流し目で店のシックな内観に目をやった。相変わらず店内は朝の慌ただしさで騒がしい。
「本当は、この町も、深い闇の中で恐ろしいものだ。それは、この町にも、人間が住んでいるからだ。ぼくの中には、人の怖さというひとつの根拠がある」
 白優子のほほえみは、すべて承知というようにぼくを包み込む。ぼくも、照れているひまはなくなる。
「あの、一本杉はポイントとして最適ね。ポイントというより、フラグね」
「旗印か」
「もちろん、杉女だって、ただであそこにいるわけじゃないでしょう。そうして、ただで町の噂になるわけじゃないでしょうね」
「これがスキモノの営業だっていうなら、人への恐怖も薄れるけどな」
「話は、脇にそれているひまがあるの?」
「リハビリテーションさ」
「はいはい」
「きみが知っていることをかいつまんではくれないか。その方が最初は、早いと思う」
 一瞬、ぼくにうかがうような笑みを見せた白優子だったが、すっと目を落とすと腰元からiPhoneを取り出した。ぼくのほうもiPhoneを取り出す。おもしろい話でもないが、このふたりの間でモバイル機器をつきあわせるのは自然と気分に合う。
 手慣れて真実の愛を語る技なら、ぼくは白優子の足元にも及ばない。友人というカテゴリーで互いといられるのも、たとえばモバイル機器みたいな仲介役があっての話だ。
 白優子がさっさっとiPhoneを検索して、ぼくはいったんコーヒーで口をしめらす。白優子は口元を引き締めてみても、なんだかやっぱり笑みを含んでいる。ともかく、白優子はウェブの検索結果からすぐに見当をつけたようだった。
「彼女が杉の木の下に立ち始めたのは、二年前の年度替わり。もうすぐ三年というわけね。その約三年前、切太くんたちは大学進学とともに都心に上った。つまり、入れ替わりみたいな感じ。そして、新年度計画で新東団地の広場も、整地工事が終了して開放された」
 いわゆる学区域の東部といわれる場所で、新東団地の棟群れは低地から高地に伸びている。だが、ぼくは着工当時から団地を新設していることさえ知らなかった。こうしていまも隣町でなじみの美少女に会っているぼくとしては、用のないベッドタウンそのものの東部地区には近寄ることもなかったのだ。
 しかし、いまは庭園広場が整地されてふたつの街道を臨み、恐ろしいことに、完璧な交通事情としても東部は有力なベッドタウン化をしている。杉の木は、車道からふつうの走行音がぎりぎり届かない位置に奥まっている。けれども、歩けば数分で交差点交番まで出られる。
 地形的には、ぼくもだいぶん把握できた。
「三年間杉女は家族を待ち続けて、なにか変化はあったのかな。あの場所は、女子ひとり立っているのに安全でも危険でもないしな」
「変化があったのは人々の見方だけで、彼女自身はいたって変わらないままだった。ただひとつ、最初はね、彼女、女子ふたりで立っていたのよ。半年くらいでその相方がいなくなって、あとはずーっとただひとり木の下に立ち続けてる。じっと、こらえるように、どこか、そわそわするように」
「その、半年くらいでいなくなったもうひとりの女子というのは?」
「中学生くらいだったそうだけど、妹っていう話が有力ね」
「なるほど」
「ウェブ上のどこかでつくられた設定じゃなくて、実際見た感じも、疑いなく姉妹のようだったそうよ」
「補導はされなかったのか?」
「制服警官に軽くとがめられる程度よ」
「おい、彼女は実際の住所住居や、通い先みたいなもの、どうなっているんだ」
「籍みたいなものは一切不明。けれど、そうだってことはこの町の人間じゃない可能性が高いということよね」
 地元の名士白木優子にも籍が不明なら、杉女はただの団地住民というわけではない。所轄警察からのデータも取れないのか。
「周りは、そんな彼女にどう接しているんだ」
「杉女さんね、妹さんとふたりでいた頃はいろいろな人から声を掛けられたりしたみたいだけど、いまではなんだか、だれも放っておいている感じ。周りからは、もうだいぶ気味悪がられているわね」
「頭のおかしい人でも幽霊でも、いくらでも気味悪くなれるしな」
「そうよねえ? 最初の頃はみんなのほうにも好奇心があったけど、いつまでも毎夜あの杉の木の下に立っていられたら、なんなのってなるわよね」
「けどさ、それならさすがに地域課も交差点交番で身柄を確保しておくと思うけどな」
「さあ? 交番の国民台帳には、杉女のデータ、ちゃんとそろっているんじゃない?」
 愉快そうに含み笑いをする白優子の前で、ぼくとしても苦笑いをしてみる。本来、イタズラ好きとしては、ぼくより白優子のほうがはるかに優れた素質を持っていた。警察が実は市民の知らないうちに意外と重要なデータを持っているなんていうのは、イタズラ好きの発想としては見本だ。
「交番の国民台帳に記載されているんなら、所轄に杉女のデータがあるよな」
「それが、なんとなく、あると思うのよね」
「所轄にデータがあるのに、白木産業の令嬢が調べても、そのデータをつかめないのか」
「逆よ」
「え?」
「もちろん、市内の公的なデータ、イコール市内の名士が管轄するデータじゃないわ。こんな所轄の警察署にだって、護られる秘匿事項はあるわよ」
「ちょっと待てよ。それじゃ、まるでおおげさなことじゃないか。杉の木の下に女子高生が立っていて、どれほどのことができるっていうんだ」
「少なくとも、援助交際の営業じゃないわけだしね」
「いや、だから・・・」
 すっと腕を振り上げて、白優子がウェイトレスを呼ぶ。
 なんとなしに、白優子はお代わりをつぐウェイトレスの手つきを見上げ、両手の甲で頬杖をついた。いままではそれなりにちゃんと座っていたが、ぼくはいすに浅く腰掛け直して足を組んだ。なんだか背中がひどくむずがゆい気分だった。
 ウェイトレスが二つのカップを満たすと、白優子が小首をかしげ、ぼくも頭を下げる。ウェイトレスはきちんとした礼をして、風のように立ち去っていった。
「いままでだってそうだったじゃない。おとなの事情は、わたしが回した。でも、公的機関からすべての情報が回ってきたわけじゃなかった。そのときは、切太くんだっていつもすんなり退いていたでしょう?」
「久しぶりで、気の乗り方を間違えているわけじゃないと思う」ぼくは、はっきりと困ってしまった。「ああいう孤独な場所でひとり立ち続ける人間が、なにを考えて生きているのか。ぼくは、そういうことが知りたくなる人間でよかったけどな」
 白優子はすっと斬って捨てるように笑った。
「ふつうは違うわ。国なら国、町なら町の中で自分の生活を決めるのが人生よ。むしろよけいなことは知るべきじゃないわ」
「模範解答かよ」
「そっちこそ」
「杉の木の彼女は、名物にもならないわけか」
「そうね。あの三〇〇年以上生えている巨大な杉の木だって、フラグとしての力を失っているわ」
 だれもが知らなくて困っていることは、やっぱりだれも知らないということか。しかし、そういうことも知っている人間は、どこかにちゃんといるものだ。
 ぼくは苦笑いする。教えられるのは、いたって現実的なことだ。現実を知らなくては、イタズラは成功しない。特に、大人になってもイタズラを仕掛けるのなら、子供より子供の顔ができないとならない。
「きみと話をして、もちろん、よけいに杉女のことは気に掛かった。きみなら、片手間に杉女のことを抜け目なく調べてくれるよな」
「いつも、やっかいな用事をあっさり頼んでくれる人なのよね」
「おおげさな」
「いままでも、意外とおおげさでもないことが、結構あったのよ?」
 ほほえみを崩さない白優子に、ぼくの目が一瞬かすむ。もし、いったん目をこすって白優子を見たら、そこに真顔があるかも知れない。ぼくのほうも、白優子には本音の顔ばかりを見せられたわけじゃない。切羽詰まっていたときも、皮肉に笑ってその場をしのいだ歴史がある。
 天使が歳を重ねてはいけないと、ぼくは意味があるんだかないんだか自分でもわからないことをつぶやいた。
「もともと、ぼくにはこの町に帰ってきて、やることはないんだ。お互い、かまわないことにかまう必要はない。だからきみも杉女のことは、結びつきがないと判断したらあしらえばいい」
「それだけのことなのかしら」
「ぼくのほうが物好きならそれでいいしさ。でも、この感じた悪寒は、ぼくのイタズラ好きだけじゃ済ませてくれないかも知れない」
「ずいぶんじゃないの」
「本当はきみに杉女の正体を聞いて、それで終わりだったのに」
「だから、わたしに会いに来てくれたの?」
「そうだな。きみの夢を聞かせてくれよ」
「会いに行くのではなくて、取りに行く。わたしの人生はぜんぶ、ほかに生き方がないだけ」
「ただ、ぼくもそんなきみのようでありたくてさ」
「それならそれで、わたしはうなずくだけだけど」
「この土地にいるうちにまた会いに来る。ぼくみたいな間抜けには、きみみたいに抜け目のない人格が勉強になるよ」
「またまた。でも、わたしにとっては思わぬ楽しみができたわ」
 白優子がふわりとうなずき、ぼくもうなずき返す。本当にいつも素早い女だとは思うが、白優子はそのまま無造作に席を立って、いかにもすたすたと去って行ってしまった。
 ぼくは背後に白優子が店を出て行く気配を感じて、ひとり、虚空にうなずいてみる。
 こいつはずいぶんと予想外だ。地付きの名士も事情を知らず、ウェブ上を網羅する妹も正体を知らず、よくそんな隙間に杉女が存在した。幽霊以上に、ただ者じゃない。
 白優子も強気だが、変わらない見掛けの裏に大人びた雰囲気がにじんだ。もしかしたら、やはりもう天使ではいられない哀しみを、ぼく以上に感じていたかも知れない。



 コーヒーショップを出たのが午前九時、ぼくはそのまますぐ駅前に出て、金居大学行きのバスに乗った。ほとんどバス通りをまっすぐいくと、途中の金居大学附属金居第一高校前で降りる。当然だが、この二月の後半、学生は休みでほとんど見られない。付近には金居大学のキャンパスがあり、そして、企業運動場や都立広場がある。一つの隔離された緑地のような地域で、環境を乱すようなものは混じらない。西東京の武蔵野台地には所々にこういう場所があって、緊急時の避難場所にも指定されている。
 ラフな普段着のぼくでも、引き留められることなく金居第一高校の中に入れた。すぐ隅の校舎脇を右手に進み、噂の古井戸へ向かう。井戸に落ちて死んだ秋野幸平とぼくは同年代に見えるだろうし、学校側としても、冥福を祈りに来た同級生をやたらにとがめる気分にはならないのか。
 話に聞いていた古井戸は、すぐに見つかった。ぼくが地元に暮らしていた頃、周りの人間もほとんどこの井戸のことを知らなかった。秋野幸平が転落死しなければ、話にすら聞くことはなかった場所だ。
 目の前にすると、古井戸はすっかり警察の張った黄色いテープで仕切られていたが、ぼくにとっては関係ない。井戸はちょっとした東屋みたいな感じで、テープを乗り越えて屋根の下に入る。組木のしっかりした木蓋を開けると、穴が下に向かってずっと続いていた。丸井戸ではなく、日本古式の角井戸だった。
 奥底は見えないが、水のたまっている気配はない。
「あ・・・」
 なんとも背をそびやかしたくなる不安げな声に、ぼくは身体を起こして振り向く。妙にスーツのぶかっとした感じがするグラマラスな女性が、おずおずと立っていた。この学校の若手の女性教師か。
「ああ、ぼくは秋野くんの元同級生です。冥福を祈りに来たんですけど、勝手に入ってしまってすみません」
「いえ、あの、その、そういうことは、学校サイドといたしましては警察やお役所にご遠慮いただいてでも、お力添えできるように尽力させていただく所存です」
「えーと、それなら、ぼくのこともそんなに驚かないでいただきたいです」
「あのその、これは、だから、えっと、すみません」
「気を遣わせてしまって、なおさら申し訳ありません」
 ぶんぶんと首を激しく左右に振って、女性教師はこっちに歩いてきた。ぼくは井戸に乗り出した身体をのけて、ふたを閉め、木屋根の下から抜け出す。
「あ、いえその、あの、別にお引き留めするつもりじゃなくて」
「では?」
「いちおう敷地内なので、あらためさせていただいただけです。おじゃましました」
 古井戸は二方を高い壁に囲われた敷地の端にある。西側には昭和中期の古校舎、周囲は草ぼうぼうだから、このあたりは高校内でも人の立ち入らない場所なのだろう。古井戸はせいぜい明治大正のつくりだったが、デザインの印象としてはもっとずっと古めかしい感じだった。武家社会の木造井戸をリメイクして整備管理していたものか。意外と、ちゃんと運営すれば文化財として充分通用しそうだった。
 秋野幸平は大学のゼミ室で、郷土の歴史研究をしていた。秋野幸平がこの古井戸の価値を重要視していたのなら、やはりそこに死と関係があるのか。周りの人間ならだれもが考える筋道だ。そしてもちろん、秋野幸平を殺した人間もわかっていたことだろう。
「せんせい」
「はい」
 ぼくは去って行こうとするグラマラスな高校教師を呼び止めた。高校教師の方は、もう戸惑いを見せずに、確かなりりしささえあった。
「この井戸、見た目にはたいしたことないですけど、なにか歴史があるんですか」
「ありますよ」
「どんな歴史です?」
「知りませんよ」
「ええ?」
 先生はにっこり笑った。
「どんな歴史かはわかりませんけど、秋野さんが一生懸命調べていたんですから、きっと、歴史があるんですよ。そうでしょう?」
「ええ、まあ」
「では、失礼します」
「・・・・・」
 ぼくとしても、去って行く高校教師がのんきに笑ったのか哀しくほほえんだのかさえ、判断できなかった。どちらにしても、教師の背中はあまりに無防備だった。
 ともかく、これでぼくも里帰りをして、なにもしないわけじゃなくなった。葬式場より、この場所のほうが祈りがいがある。



 ぼくはひっかけ屋で日本酒を注文していた。焼き串はねぎが三本、すっかりしなしなに冷めている。酒が飲みたいわけではなく、焼き鳥を楽しみたいわけではなく、奥の古座敷で半ば呆然と座り込んでいた。結局、日本酒のコップにはまったく口を付けていなかった。
 ひっかけ屋は昼間から一日中戸を開けている店で、いちおう焼き鳥を店頭に並べていたが、要は発祥が浮浪者だとかドカチン相手の貧乏飲み屋だった。ぼくはかなり昔から千絵や真吾と出入りしていて、七八年も通っていれば要領もわかっている。
 ここはボロ屋なりきに、座敷部屋がひとつひとつ別れているから居心地は最高だった。かつてぼくたちはこの場所に集まっては、どんなときもいたずらを考えていた。結局はいたずらだけで、なにもできないことばかりだと哀しく笑っていた。いつもいちばん気に入らないのは力の足りない自分だった。
 のしのしと真吾がやってきて、ぼくの向かいで腰を下ろす。だらしなく丸まったぼくの格好に冷たい視線をひとつくれ、カウンターでもらってきたコップ酒を軽く宙にかざす。ぼくはひらっと手を上げるだけで、乾杯の代わりにしておいた。
 なんだかぜんぶいい加減だが、とりあえず真吾はコップ酒をぐいっとあおった。店の無愛想なおかみさんが勝手にふすまを開けて、叩きつけるように一升瓶を置いていく。
「やあ、ろくに交わす挨拶もないよな」
「それはそれでいいだろう」
「どっちが気ぃつかいなんだかな」
「進める話もないのか?」
「ああ、いや」
「おれはどうでもいいんだぜ。この里帰りもなにもかも」
「ため息くらいはついておくけど」
「それもいらない話だ」
 真吾が身体をひねって一升瓶を取り寄せ、自分のコップに冷やを満たす。座敷のかび臭さも冬の乾きで引き締まり、冗談で残っているような殿段では、まともな日本人形が扇を持っている。真吾は串をくわえて、しなしなのネギを無表情で噛みしだいた。
 ぼくは結局、冷やの香りを楽しんだだけでコップを遠ざける。困った心を貫通してしまいそうなやけくそさがある。これからもずいぶん茶化さなければ、人生を生きていけないんだと自覚する。けれど、結局捨て鉢では生きられないことも、いいかげんわかっている。
 もし、たったひとつの真実を追究するのなら、千のウソをつかなくてはならない。
「でも」
「・・・・・」
「でも、秋野くんは死んだ」
「まあな」
「ぼくたちには、わだかまりがある。それはあまりにいろんな形だ」
「無理にこたえを出そうとするからいけないんだ」
「千絵も同じようなことを言うな」
「町を捨てて都会に出るためのルールみたいなものだろう」
「そうなのか?」
「さあな。最近、そんな気がする」
 真吾は肩を揺すっただけで笑い、またコップ酒を傾ける。本来、真吾は驚くほど優しげに笑う男だった。愉快そうな顔もよくするし、はにかみもある。けれど、どこかわりと意識して、いかついイメージをしているわけだ。結局、照れくさい男っぽさが、真吾の格好良さだった。
 真吾もまた、自分自身をどう生かせばいいのか、いろいろ考えて、そして困っている。
「それで、噂のじゃじゃ馬千絵嬢は? どうしてる?」
「葬式関係で、元同級生に挨拶回りをしている」
「あいつがマメで助かるよな。こういうときも、しっかりしてる」
「言わずとも、それぞれは支え合っているんだ」
 ふいっとぼくはコップの水面から顔を揚げ、まじまじと真吾の顔を見る。真吾は笑いを納め、真顔に戻っていた。やはり、気のない素振りをした男も、気にしぃな本性を隠せない。
 ぼくは降参したいくらい両手が手持ちぶさただったが、やっぱり冷やに口が届かなかった。
「聞き直すと、人と人は支え合っているとかいったか? 真吾、おまえ」
「聞き直す必要はなかろう」
「おまえさえ、おセンチなのか?」
「だから、どうでもいいと押し通そうとする」
「なるほど」
「人なんて、そんなものだ」
「おまえ、だんだんそんな言い草が増えたよな」
「世の中や人間ってもの自体が、それほど複雑ではないだけだ。ますますな」
 真吾はぐいっとコップ酒を飲み干した。ふーっと考え込んだような息を吐き出して、一升瓶からおかわりをつぐ。いらだちみたいな真吾の気持ちを、ぼくも持っている。
「秋野くんの死だけどな。もっと言えば、不審な死だけどな」
「ああ」
「不審なだけ、疑問も浮上するわけだ」
「相変わらず、せわしない奴だな」
「薄情なだけさ。だから、二三日もすればどこかに捨ててしまう話だ」
「それで済ますんだろうが、失礼な奴だ」
「せわしないだの失礼だの、うるさいぞ」
「誉め言葉だろう?」
 漫才のようで漫才ではない。少なくとも、秋野くんの死にはいまいち笑えない。しかし、そこはそれ、放っておけばなにも起こらないことだ。不審な死も、すぐに捨ててしまう話なら、最初から切り出さずに都心へ帰ってしまえばいい。
 この町には、古くからの名士たちと、ベッドタウンを頼ったふるさとの亡者と、そして根付けないまま流れたぼくたちがいた。ぼくたちは昭和住宅街在住の二世で、いちばん中途半端な市民だった。その居心地の悪さに我慢して生活することを、ぼくたちの未来は選べなかった。
「秋野くんは、土着の金居大学に進んで、エリート学生だった。地元で期待の星だった。この町の風土歴史にも精通していたし、生活していく人間の姿も把握していた」ぼくはなんだか気合いが入るようで入らずに、コップを向こうに押し返した。「秋野くんはこの土地に立つ地固めをしていた。この土地には秋野くんの人生を決めるこたえがあった。秋野くんはどうしても自分の生きていく世界を知りたかった。それは、うまいこと叶っていたはずじゃなかったのか」
 一瞬、真吾とぼくの間にしらけた空気が漂ったが、なんとか話題の正当性は成立した。
「まあ、叶っていたろうな。少なくとも、無責任な周りから見ればな」
「それなのに、なぜ自殺で処理されたことが話題に上らない?」
「みんな、切太みたいにミーハーじゃないからだ」
「じゃあ、言い方を変えるか。秋野くんの自殺を疑問視するのは、ぼくたちの役目だとな」
「それならうなずけるが、関わって吉の出ることか?」
「反対だ。いやな空気感がする。この町には、思ったよりもぼくの嫌いな風が吹いている」
「それは、三年前この町を出て行ったときと、風向きはだいぶん違うのか?」
「違うとは言わない。けれど、同じでもない。少なくとも、いまは自分の生まれた町を嫌いたくはない。それなのに、これじゃ好きになれないっていうジレンマがある」
 真吾の方は、まるで気もなさそうにコップ酒をあおる。いつの間にか、もう五六杯は飲んでいるだろう。ぼくは畳についた肘の角度をずらし、少し腰をよじる。じっとしていて、身体がこる。勢いもつかず、どこに、なんの動きようがある。
「やっぱり、せわしない奴なんだな、切太は」
「真吾。おまえはどうなんだ」
「嫌いたくないのは同じだ。だが、この町を好きになりたいなんて気持ちは、いまでもさらさらないぞ」
「ただ、離れているだけで人はちょっと前のことを忘れる。ずっとこの町を嫌ってきたことも、忘れられるか」
「そうだ。切太のようにここでおおげさには動きたくないということだ」
「ぼくは、秋野幸平の死を追っていたら、この町を好きになってしまうか?」
「それほど単純なら、それもよかったかも知れないな」
「この町に縛られて、平和で便利な生活に埋もれたくなるかな」
「おれに確認を求めても、結局切太の意地には無駄になることだろうぜ」
 ぼくもやっぱり、こりずに同じ失敗を繰り返し続ける。この町なんか余裕で呆れているフリをしても、吹いてくる哀しみはぼくを圧倒する。秋野幸平の死が気に掛かるのは、この町の大事件に気を奪われていることだ。ましてや、秋野幸平の死が哀しみの色をしていると感じるなら、言い訳のしようもない。
「ぼくたちがいやでも青春時代を生きてきて、いいところなしのままなのにな」
「人は、なにも選べないまま、変わっていってしまうものだぞ」
「なにを、重みのあるようなことを」
「茶化してもかまわないんだぜ?」
「舌打ちを我慢しただけさ」
「それもひとつだろうな」
 もっとちいさかった頃もっとちいさかった頃と考えて、青春時代を生きる場所なんて、ほかに選べたか。いまはこの地元と離れて暮らすことができる。でも、そんなことはずっとできなくて、いらついていたことではないか。
 パターンはわかっている。ダメさもわかっている。それなら、たぶん間違いなく、救いもあるはずだ。
 ぼくはよっと身体を起こした。真吾は、ぼくに一言ありそうな顔をしていたが、軽く鼻息を吐いただけで口は開かなかった。
「つまり、はっきり言えば、たぶん無条件で、秋野くんは殺された」
「ほう。そこまで言い切るのか」
「この地に長く逗留はしない。それなら話は早いほうがいいと、そういうことさ」
「短絡的じゃないが、ある意味、暴力的だけどな」
「嵐を巻き起こせる力が自分にあるなら、本当はもっと、落ち着いている」
「まあいい。切太は、好きにやるさ。あとはどれだけ好きにできるかだろうが」
 もう殺すしかないなと、犯人が決意するほどの無条件があった。いま考えれば、秋野幸平は殺されるほどのことをやってのける秀才だった。秀才には秀才の、才能の使い方がある。
「真吾は、秋野くんが殺されたことを、どう思い考えるのさ」
「ひとつのストーリーなら、正義物語かな」
「真吾が話に乗ってくれて、よかった」
「茶化しているんじゃ、ないんだよな?」
「照れているだけさ」
 真吾は黙々とコップを傾けていた。ぼくを睨みそうで、睨まない。千絵とはまったく違う受け取り方をしていた。それでも、三人の目的は最終的に、やっぱり同じはずだった。
「秋野くんは、もともと優秀な頭脳を持って、人より優れた人間だった。だから、人のわからないこともわかるし、人の探れないことも探れる。この町に骨を埋める勢いだった秋野くんは、この町の奥に隠されて知ってはならないことを、明晰な頭脳と行動力で知ってしまった」
「名探偵秋野幸平じゃ、町ゆく人の気を引く題名にはならんな」
「秋野くんも地元の007にはなれたかも知れないけど、それは、おまえのいう正義物語なのか?」
「おれの見る秋野の人となりも、意外と鮮明だった。殺されたとするなら、正義が絶対でいいかな。おれにはこの町に覚悟もいらんしな」
「確かに、ものの道理には合うけど」
 真吾は少しいらだってみせて、コップ酒をぐいっと飲み干した。
「切太の質問自体が、誘っていることだろう。秋野の死を他殺に決めてしまうなら、おれの中ではそういう話しか後付けできないということだ」
「ぼくのジレンマに、真吾が決着をつけてほしかったのさ」
「秋野みたいに死んでしまう奴もいる。それだけのことだ」
「ぼくの中では、その頼もしい言葉でオチがつく」
 真吾は仏頂面の笑みを浮かべて、にらみの利いた笑顔をぼくに向ける。
「おまえ」
「なんだ?」
「要するに、ちゃんとだれかに言い残しておきたかったってことか? 秋野は他殺だってことを」
「いろいろ予定が狂うかも知れないし」
「なんだと?」
「悪いな。たとえば、白木優子に会った。もうずっと、会うことはないはずだったのに」
「ほだされたってのか?」
「いや、そうじゃない。いまさらほだされたわけじゃないけど、振り切りたいものがあるってわかったのさ」
「いままで都心に出ていても、その間延々と引きずっていたってのか」
「真吾。おまえにはおまえのこだわりすぎがあるぞ」
「最低限の約束もある。こだわりの感情で済まないこともある」
「じゃあ、ラフに許してくれ」
「おまえは・・・」
「いや、悪いな。本当にさ」
 多少恨めしい顔をしてみせたが、もともと真吾にはそういう顔は似合わない。真吾らしい俗っぽさが、やはりぼくは好きだった。
 ぼくは背後の窓枠にとすんと背中を預け、腰で座って足を組む。真吾はなんだかんだといって、とどまることなくコップ酒を満たし続けて、順調に日本酒を胃に入れていく。
 そろそろ葬式もたけなわだろう。確かに、千絵の挨拶回りは助かる。こんなところで精進落としをしている元同級生ふたりは、よっぽど悼みの心がある葬送屋ではないか。どうせ、焼香した同級生のほとんどが、哀しみの心なんかさらさら抱いてはいない。



 なんと言うか、真吾ほどの重量はないが、たいした迫力で千絵がのっしのっしとぼくたちのいる奥座敷までやってくる。
 勢いよくふすまを開けた千絵は、いきなり堂々とすっぴんの顔を見せつけた。格好はラフなスエット姿で、千絵は鼻息も荒く真吾の脇へ腰を降ろした。よく見るとすっぴんではなくて、ぬぐい取るように化粧を落としていた。葬式ではたいした黒服の淑女をこなして、だいぶいらついたに違いない。
 ぼくは、布巾の下からコップを拾い上げる。一升瓶を持ち上げて、なみなみとコップ酒を注いだ。千絵がひょいっとコップを取り上げて、三人で適当な乾杯をする。千絵はすーっと日本酒をのどに滑り込ませていった。ぼくは相変わらず飲み気が起きないままで、コップに口もつけなかった。
「やあやあ、やっと落ち着けたよ」
「みんなと顔を合わせて回るっていうのも、大仕事だものな」
「それにしても無関心なもんだったよ。秋野くんは殺されたかも知れないっていうのに」
「ん? 秋野くんは殺されたのか?」
「それくらいの可能性は考えてるよ」
「はああ。うん、へーええ」
「なによ。その人をおちょくってるような返事」
 千絵がいたずらっぽい目で部屋を見渡し、とりあえずぼくと密やかな目配せを交わす。あっさりと葬式のフラストレーションを解消したい感じだった。
「早速話は合うみたいだな」
「なによ。あたしたちはなんのためにこの町に帰ってきたのよ」
「地元の小さなことなんかで騒ぎ立てない訓練さ」
「そうよねえ。よく死んでくれたもんだ。秋野くんなら、この先もっと業績を残せる人だったけどね」
「秋野くんの未来が楽しみじゃなかったか?」
「そりゃ、楽しみだったんじゃない?」
「他人事だったら、大切にしているフリだって簡単だよな」
 千絵がぼくのセリフを跳ね飛ばすように、指の長い手をさっと払った。
「そういうことじゃないわよ。秋野くんみたいなヒーローが死んでも、元同級生はぼんやりしてるから、葬式でも平和に笑ってるってこと」
 人の価値も、評価する人次第ということか。ぼくたち三人も、死んだら葬式は別の土地で無縁にやってほしいところだ。
 秋野幸平の場合はそれとは違う。この千絵も、秋野幸平の死がただごとじゃないことを認めている。方々の分家や市議、ひいてはたいした企業重役や代議士までが、葬式に出席したはずだ。千絵はその風景を抜け目なく観察してきている。
 葬式疲れが心地よく抜けてきたのか、笑みを含んだ千絵の鋭い目が、獲物を狙い澄ますように辺りを見回す。部屋には真吾とぼくしかいないが、気合いはちゃんと伝わっている。
「でも、あたしの本題は違うんだよ」
「え?」
「言ってみれば、秋野くんなんか別に死んだって気にすることないってこと」
「一気にそっちへ行ったか」
 やっぱりこの土地はこの土地と、もう帰る準備を済ませる千絵の勢いは最初の予定通りだ。いつも実直に迷いない千絵の瞳は、輝きを失わない。
「あのね」
「うん」
「あたしが引っ掛かってるのは、昨日のさ、杉の木の女子高生よ」
「なんだって?」
「ウワサでは目立つわけよ。秋野くんの死より、杉の木の女子高生のほうが」
「まあ、話題にしても害がないものな。秋野くんが裏ではなにをいわれてるか、知らないけどさ」
「あの女子もお化けだとか妖怪だとか言われていたけど、絶対におかしな点があるのよ」
「なんだよ」
 笑顔が消え、千絵はぶすったれた顔でコップ酒をずずっとすすった。困ったほどアゴを突き出した頬杖で、それでもブスには見えないんだからたいしたものだ。
「本当の意味で排除されないってこと」
 ぼくは思わずこっくりとうなずいてしまった。
「まあ、警察や民生委員の責任もあるだろうけど、このベッドタウンの異常さだよな。整地された広場の木の下に女子高生がぽつんと立っている。それも約三年もの間、毎晩だ。そこにいられても迷惑だけど、無理にどかすよりは、ことさらに関わらない。あの子を放置しても責任を問われることはないけど、構えばやっかいなことに巻き込まれたりするかも知れない」
「まあ、基本的な人の心のさみしさなんだよね」
「だからなんなんだよ。そんなことは、知れたことだろうにさ」
 千絵はずずーっと日本酒をすすり上げて、上目遣いにぼくを見上げた。
「秋野くんだったら、あの子をあのままいさせたかなってこと。この町に精通した秋野くんなら、彼女のことを知っていたはずなのにって。あたしはこの町で市議会議員とか地元の名士とか、だれが偉いのと、知らないよ。でも、彼女が毎夜、杉の木の下に立っていることを、秋野くんは許していたんじゃないかなって。ほかの人とは違ってね」
「だから、彼女は排除されなかったと?」
「ひとつにはね。そのほかにもいろいろ特権はあったと思えるよ」
「なるほど」
「ますます、秋野くんを正義の役周りに押しやるみたいだけど」
「秋野くんがあの子とまったく接点がなかったとは、思えなくなってきたんだよな」
「でしょう? 秋野くんは、彼女と会って、ちゃんと話したことがあるのよ。それで、了解事項みたいになったようなさ」
 ぼくは腕を組んで、長い鼻息を吐いた。ずっと気分はわだかまっていたが、いまはもう、酒を飲まないことに決めた。葬式に出席して同級生たちの動きを見てきた千絵は、自分の役目は終わったとばかりに遠慮なくコップを傾けていた。
 真吾が千絵のコップにどんどん酒をついで、二本目の一升瓶を取りに行く。
「つまりさ」
「うん」
「千絵のいいたいこととしては、秋野くんは、この町を、この町の事情を動かし始めていた」
「まあ、ちょうどいいよね。大学三年でゼミに組み込まれて、郷土の歴史と同時に現在の市内の様子をよく勉強していたみたいだよね」
「杉の木の女の子は、市内の特徴的な事柄だったりしたのかな。その、秋野くんの中でさ」
「彼女のおかしな行動をやめさせるには、公的な指導か民主的な手配か必要だからね。それがこんなに人間の集まったベッドタウンで都合できないはずはないもん。秋野くんもまた、この町の良心だったってことだし」
「その人が本当にやっていた素顔っていうのは、なかなかわからないもんだよな」
 千絵があごをしゃくって催促し、戻ってきた真吾がつつましく千絵のコップに日本酒をつぎ込んでいく。真吾も、いまは自分の意見を主張したりはしなかった。この場は千絵がすべて正解だろう。
 千絵は鼻息を吹き出して、ずずーっとコップ酒をあおった。
「あたしはやっぱり、この町に帰ってくるべきじゃなかった気がする。この町の矛盾がこれだけあたしの目につくのは、あたしが過敏だからなんだ。それは、あたしがあたしを抑えるのに、よくないんだよ」
「あたしがあたしを抑えるのか」
「あたしがあたしであるためにとは、えらそうでいえないってこと」
「三人そろってこの町に帰ってくるだけで、自分に疑問を持つようなことなんてさらさらないと思っていたけどな」
 千絵の額に深く縦皺が刻まれ、ぼくもうまい言葉が浮かばなかった。千絵がまたテーブルを叩き、今度はずばっとぼくに指を差してきた。
「なんでこんなおかしなことになるのよ」
「うん」
「夜中にあのだだっ広い公園でバカな不良が騒ぎ回っていたってほほえましいじゃないさ。街道にはもう目立った暴走族もなくて、モラルのないマフラーの音やクラクションが、素人っぽく鳴り響いてる。そう、このベッドタウンは、そして東京ってやつは、深入りしない人間が多い、素人の町になっちゃってる」
「お役所や地主や名士は、自分のことで精一杯だしな。この町のマンションに入った人たちは、精神的な素朴さで生きていくだろうさ。それは税金の問題だけじゃなくて、人は人の社会の中で生きていくものだからな」
 カラクリにもならないこんな理屈を、なんでいまさら千絵と確認し合わなくてはならないのか。ぼくたちは結局、そんな当たり前の社会に左右されている。杉女が風の中に聞く声も、ぼくたちにはわからない。
「人は便利に団地に入ってくれる。新入りほど、この町の風紀を乱さない。そうすると、杉女みたいなのって、すごくイレギュラーな感じがしない?」
「確かに」
「だから、あの子に良心が注がれるなら、それはちゃんと町で力を持った秋野くんの役目だったってことよ。それと、秋野くんが殺されたことは、関係あってしかるべし」
「ある意味、口封じや、いろんなことを、封じた」
「そう思えない?」
「千絵がもっと、そうだそうだとけしかけてほしい」
千絵がぼくにしらっとした目を向けて、ぼくも力の入らないため息を吐く。もともと千絵はこの町から早く帰るべきだと思っているのだから、秋野幸平の件なんかすでに片付けに入っている。杉女には興味があるが、引っ張られてこの町にとどまるわけじゃない。
 ぼくの方はもう、千絵とは完全に違う。杉女の思惑も、秋野幸平がなにを考えていたのかも、知りたくなっている。千絵のような割り切りで、この町を見切って立ち去れない。
「真吾」
「あん?」
「ずっと黙っていてもいいけど、同意できるならしてよ。反対意見があるならそれもいいんだし」
「返事がいるとも思えんな」
「やっぱり、そうだろうね」
 なにやら粛々と真吾のついだ酒を、千絵はぐいぐいと乱雑に飲み干した。どうだか、千絵も飲み過ぎる気はないだろう。もう明日にも帰りたいのは千絵だ。絶対に、二日酔いは残さない。
 真吾は、千絵と行動を同じくする。ぼくだけがおかしな真似をしていることになる。ぼくひとりが、破ってはならない三人の約束を破る。それでも秋野幸平の死を追うのは、おおきな意味のあることだった。ずっと、三人とも同じスタンスでこの町を捨ててきた。もう、この町に転がるものなんか、なにひとつ拾い上げるつもりもなかったのだ。
「結局、千絵はどうする気なんだよ」
「そんなことは問題じゃないわよ」
「いや、問題さ」
「そうじゃない。気づいてみたら杉女と秋野くんに関連があったってことになれば、事態は見なくちゃならないでしょ」
「どこから、どういう視点で見るんだ?」
「ヒロイズム」
 うーむむ、とぼくは完全にうなってしまい、千絵の用も、本人が声高に叫ぶほどとは思えない。ぼくは二人にある宿命を少しまぶしく感じて、地元のヒーローを見直した。その間も、相変わらずぼくたちには宿命を見つけられない日々が続いていく。
 真吾が酔った身体を、のそっと前のめりにしてきた。いい具合にすわった目で、遠慮なくぼくを睨み付けてくる。
「千絵をダシにするんじゃない」
「結局は、茶化せないどころか、信頼し直すハメになる」
「それも、千絵が抑えてくれれば、おまえだってわりと粛々としていられるっていうのにな」
「やっぱり、こたえがほしいのかな」
「まだ、その気持ちを抑えられる気でいるのか?」
「いいや、この性分に懲りても、自分が嫌いじゃないのは悪くない」
「世話がないってやつだよ」
 よしとぼくはうなずいて立ち上がった。ひらっと二人に手を振って座敷をあとにする。もどかしさがぼくたちを迷わせる。ぼくたちはいくらだって迷っていい。散々わかっているこたえに、解き明かしたいなにかが、ぼくの心にすごく引っ掛かっていた。



 なるたけ実家に帰りたくないぼくは、カラオケボックスで一室を借りた。iPhone片手に調べ物をする。やはりぼくには、最新モバイルよりごてごてしたパソコンのほうが性に合っている。けれど、贅沢をいう必要もない。
 夜も頃合いになって、電車にバス、それで新東団地にたどり着く。街道はもう、午後十時に帰宅ラッシュが終わっていた。緑の勾配を上がっていくと、頂上に杉の大木が生えていて、セーラー服の女の子が背伸びをするように立っていた。きっと、ずっと変わらない風景のようだった。
 杉女に迷いがないほど、ぼくは焦った不安を憶える。杉女に追いすがるように、ぼくは勾配を力強く登り出す。
 杉女のほほえみは影のかけらもない美少女ぶりで、圧倒的な清潔感があふれている。
「やあ、いいのかな」
「来てくれてうれしいよ。やっぱり、いつもさみしくて」
 その健康的な肢体は、いつまでも平然と立ち続けて揺らがない。思いっきり我慢強そうなその心の想いも、なかなかはかれないのだろう。
「家族に再会できるまで、ずっと抱えていかなければならないさみしさなのかな」
「代わりのきくものじゃないから」
「家族は、ここで待っていれば、必ず会える?」
「必ず会える。必ず会えなきゃ、こんなんして、待ち続けているわけがないんだよ」
「確かにな。でも、きみが途方に暮れているように見えてさ」
「はっきりとこたえを出しちゃうことが怖いところは、あるんだ」
 ぼくはあらためて、杉女を食い入るように見つめてしまう。杉女は少しうつむいてさみしそうに笑い、ひとり、ゆっくりと首を左右に振った。
 ぼくは杉女の横に回り、芝生に腰を降ろした。寒さは身体をつんざくようで、しかし横では杉女のしっかりした足首が革靴を芝生に押しつけている。もしぼくにも、この町を出たときから見つけたい夢や希望が激しくあるなら、この寒さの中でかまわず杉女のように立っていられる。
「なあ」
「なに?」
「ここから動くっていう選択肢はないのか? ご家族の探し方を変えるっていうか」
「あるよ。このままじっと動かないのも効率悪いと思う。でも、ここで待っているっていうのは、約束だから。わたしは、約束だから、ここにいるんだよ」
「きみのはまるで、鬼気迫るものがある。必死なものがある。まるで、後がないことのような、追い詰められた」
「そう思ってもらってうれしいくらい。わたしは、なんで信じて待っていることをバカにされなきゃならないのか、わからないもん」
 怒ってみせたような頬の風船も、見事に美少女ぶりを格上げするだけだった。人々の評判で杉女の印象が悪くなるほど、ぼくは得した気分になれる。なんにしても、ぼくは小高い丘の上で美少女と二人きり、邪魔も入らずにゆっくり話していられる。
「やっぱり、世間はわかりやすいほど避けてくる感じなのかな」
「世間もそうだし、この町もそうだし、時代もそうなんだ」
「時代?」
「なに?」
 ぼくは思わず、少し本気で頭をひねってしまった。
「いや、電話もない時代、電報もない時代だったら、それこそきみの行動は当然必死のことだろうなと思ってさ」
「そうだね」
 ぷらーんと、杉女がバッグを横に振った。ぼくはその軌道をなぞるように目を投げる。
「ほかの人間がきみみたいな待ちぼうけをしないのは、この世間がいちおう平和だからか」
「わたしは平和なんて考えたことないけど、いまの世界ではふつうに生活していれば電波で連絡が取れるね」
「でも、その条件から外れて、ピンチになっている人もたくさんいるんだよな」
「わたしだって、好きでこういう状況になって、家族を待ち続けているわけじゃないんだよ」
「それは、特にここいら辺のだれも興味ないことだろうな」
「単なる迷惑でしょ」
「人って、やっぱり人の事情で生きられないか」
 いまはもう、ぼくはこの杉女の懸命さをきっちり理解したかった。ぼくは自然にこっくりとうなずいて、杉女の口元がもう一度引き締まる。
「わたしはこの町が好きとか嫌いとか、そんな人間じゃない。家族と一緒に生きていくことしかできない人間だし、それにはここでいくらでも待ち続けなきゃならないだけ。わたしの世界はとても狭い。その狭い世界の中で、懸命に自分のできることをしているだけ」
「うん」
「おとうさんもおかあさんもそういう人だし、和子もそう。ああ、和子は妹で、わたしは里子です。名乗るのが遅れちゃった。ごめんなさい」
 里子はすっとお茶目にアゴを引いて、鮮やかな礼をしてきた。でもそうなんだよ、とでもいうふうに里子が目をむいて、ぼくはおどけるほど圧倒されたまま、深くうなずいた。
「ぼくは切太だ。簡単な字なのに説明しづらいんだ」
「切太くんって、呼びやすい感じでいいな」
「呼びやすい感じなら、いいかもな」
 里子がしゅっと鼻をすすり、暖かそうに笑う。ぼくは里子の迷いない顔を見上げて、どこまでも呆然とする想いだった。
「そうして、素朴な人の輪の中で、生きていきたいんだ」
「そうだな。きみとぼくも、素朴な友達って言えるかな」
「丘の上で二人きりで語り合ってね」
「それだけ聞くと、恥ずかしくなるような青春みたいだけど」
「青春は、ある?」
「青春は、絶対、ある」
「ありがとう。すごく、ありがたいよ」
 ぼくたち三人組とも地元を捨てて、乾いた生き方をしようとした。だからよくわかる。里子の抱きしめる胸には、しっとりと手心地のいいぬくもりがある。人はきっと、その中で多少放っておいたって、元気に生きていける。
「そうか」
「え?」
「それで、ぼくにはきみの、なにか連絡先を教えてくれるのかな」
「そんなにかたくななことなんかないよ。わたし自身は、時代に反抗してるわけじゃないし、iPhoneのデータでよければオーケーだよ」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
 ぼくはよっと立ち上がり、自分のiPhoneを取り出す。里子の方もiPhoneで、ぼくたちはスムーズに連絡先を交換した。気になって見ていたが、里子はiPhoneの扱いにはぼくよりずっと手慣れていた。ふつうに考えれば、家族の連絡先をiPhoneのデータから消失してしまうはずがない。
 ぼくはiPhoneを懐にしまい込むと、そのまま寒さに身を縮めて、里子のとなりで背を伸ばした。高台からスロープを下る風景に、なにもありはしない。足元では芝生が風に細かくたなびいている。寒さがなければ、ほほえましい風景だ。
里子は垂らした学生鞄を軽く揺らせたりもするが、基本的にはその場にしっかり足を踏みしめて立っている。身体の芯から気合いの熱を発して、寒さも硬質に弾いてしまうような雰囲気がある。だから、よく見たらふつうの女子高生にしては気迫がありすぎる。
「わたしは家族とだって、わざわざ連絡先を交換していないわけじゃないんだよ」
「どうも、いまのぼくがつかめる範囲じゃ、きみの状況はいまいちわからないよな」
「最初は、ただ、電話連絡とかがうまくいかなかっただけだった。でも、いまの状態では会えなくてじりじりしてる。大震災だとか、人は急にそういうふうに自分の置かれた状況を変えられちゃう生き物なんだよ。だから、むつかしいことはなんにもないんだよ。よくいうでしょ。今頃は毎日元気に学校に通っていたはずなのにねぇとか、無責任で良心的な近所のおばちゃんが」
 なんの含みもなく、すっきりと里子が笑って、気分良さそうに緑の風景を見渡した。この悟ったような感じが、強さでもあって、たじろがない里子の迫力そのものだった。
 やはり、里子は両親に会えるか、相当な結果を知るまでここを動かないみたいだ。
「ちょっとしたすれ違いで巡り会えなかったとか、そんなことじゃ済まない信頼感だな」
「むしろ、必ずこの木の下で再会できるんだよ。絆は確かなものだよ」
「そうだな。きみがこんなにも会えないでいるのに、返って強く信じられるはずだと思えるよ」
「わたしのこと、切太くんはちゃんと把握してくれようとしてるよね。わたし自身が、人から見ておかしな状態だってことはわかってるし。だから、わかってもらおうとするのも、むつかしいし」
「ぼくには及びもつかない事情があるんだな」
「ひとはそれぞれ。それぞれの中で、わたしにはちょっと変わった事情があるだけ。ううん、本当は、少しも変わった事情なんかないんだよ」
「iPhoneもちゃんと使いこなしているんだしな」
「わたしを試したんでしょう?」
「自分を試すことでもあったけど、ごめん」
「でも、なにかあったときに困るのはいやだから、連絡先はちゃんと取っておいてね」
 ぼくは連絡先を聞いたときから、激しくバツ悪くなることを覚悟していた。それにしても、里子のまっすぐさはすごく痛い。なにかあったときとは、なにがあったときなのか。
 里子はぷらーんと鞄を振って、ぼくの方にいたずらっぽい横目を投げた。それでもにじむ里子の気迫に、ぼくは強烈に照れくさくなった。少しうつむいて、里子になんとも言えないような口元で笑い返す。
「よくわかるようで、ぼくじゃよくわからないんだよな。けれど、きみはかたくなな意志でここにいる。ぼくは、だれかをそれほど待ち焦がれたことがなくてさ」
 笑顔は消えなかったが、少しだけ目を伏せた里子のまつげに、戸惑った風が吹いた。ぼくは少し、言葉を失った。ぼくは、千絵や真吾とはぐれたとき、里子と同じ想いで待てるだろうか。
「あはは、ごめんね。それぞれはそれぞれ。でも、聞いてくれて、うれしいんだよ」
 風の中で哀しみが吹いてはいけないと、ぼくは焦るように感じていた。
「なんだかさ」
「え?」
「ずっとここで草の上に座り込んでいたいと思うんだ。きみの隣で。でも、ご家族を待つきみを、デートに誘う場合でもないもんな」
 里子の垂らしたお下げが揺れる。かすかに里子が小首をかしげるだけで、空気の粒子が踊るように動く。
「家族を待つことしか頭にないわたしは、たくさんのチャンスを逃して生きてることも、わかってるよ」
「だれかに嫉妬できるわけでもないし、きみとの縁や大切なすべての縁には、きっと、やたらには出会えないんだな」
「わたしは、たくさんの縁を待ちたい。器用じゃないから、いまは家族だけなんだけど」
「家族に再会できたら?」
「切太くんと、この場所以外で会うよ」
「いい返事だよな。今日は帰って、よく眠れるよ。ありがとう」
「こちらこそ。また、来てね」
「家族に会えるよう、祈ってる」
「うん、そのときはiPhoneに連絡入れるからね」
「うん、まあその、ご家族に再会できたときは、iPhoneを構えて連絡を待ってる」
里子の事情はまだぴんとこない。だが、里子は高台の頂上でぽつりと三年間家族を待ち続けた。里子をあとにして少し冷静に考えてみれば、ぼくはちゃんと結論を出していたのだ。
 里子は、家族に再会できない。里子にはいつかつらい結果が出て、杉の木の下に立ち続けるのをやめる日が来る。里子の意志的な顔は、いずれ決着をつけるためにあるものだ。そのための覚悟のものだ。
ぼくには里子ほど家族を愛した経験はまったくない。ただ、風鷺へのもどかしさが、ぼくの中にも家族の意味を感じさせる。家族に焦がれる里子の心がうらやましいというのは、安直すぎる。
 ぼくは一度も後ろを振り返ることなく広場の敷地から出ていった。



 ぼくが帰宅したのは午後十時頃だった。里子が家族を待つ強い姿と、我が家のささいなたたずまいがぼくの中で交錯する。あっけらかんとしたきれいな家に、思いの外笑えてきた。
 さっさと二階に上がって、風鷺の部屋にノックひとつで滑り込む。風鷺は昨日と同じもあっとしたゴミためで、青白い顔をパソコンのディスプレイに向けていた。ぼくは風鷺とうなずき合って、やはりベッドの縁に腰掛ける。手をついた感触に、風鷺が最近ずっとベッドを使っていない堅さがある。
 ベッドもベッドであることに疲れている。洋服ダンスも鏡台も、ここにいることにもう耐えられなくなっている。あちこちから、部屋の隅へ隅へ追いやってくれという悲鳴がきしみ、廃品回収に出してくれという叫びが響く。
 それに比べてパソコンは息絶えるその瞬間まで動き続ける地力で、四台の大型デスクトップがフル稼働している。パソコンは風鷺に膨大な情報と、知識や技術を与える。風鷺がずっとこの生活を続けたら、どんなこたえが出るのだろう。風鷺自身は闇の中で猫目を光らせ、なにを見るだろう。
 風鷺はディスプレイに振り返って、もうぼくのほうは見なかった。
「とりあえず、今日も帰ってきた」
「その言葉はダメだよ」
「なんでさ」
「ここは、おにいちゃんの帰る場所じゃないから」
 確かにそれは、そうだった。ぼく自身いつも「都心に帰る」という。
「正直をいうと、ぼくも違和感がしていたんだ」
「そうじゃんね」
 風鷺は画面に視線を貼り付けたまま、おおきく伸びをして、今度は鼻で笑う。正直、茶化しても風鷺のやつれた雰囲気は隠せない。
「だけどな」
「え?」
「そのわりには、風鷺とはうまく兄妹ができていたと思うんだよな」
「そんなの、うれしくないけど」
「ああ、そう」
「あたしは、おにいちゃんがおにいちゃんじゃなくてもよかった。好きは好きだけど、不全家族の中で兄とだけ慰め合っても、よけいにダメな気がする」
「この家族に対して、あらゆる方向から、ずいぶんだな」
「救いがほしいのはあたしだよ」
 こましゃくれた風鷺にしては、まともなことをいう。風鷺はうつむき加減にディスプレイを見ていて、表情は一切見えない。
 風鷺は、瞳の中で笑う妹だった。物事をビルの上から眺めているような人間だった。いまも、ネットの向こうに見える世情をこっちから見渡している。しかし、風鷺は自分のいる側で、もうすべての居場所を失くしたのではないか。
「風鷺は、この町を出るのか?」
「むつかしい質問だね」
「そうか。むつかしいか」
「あたしだって世に出たいよ。でも、あらゆる条件が不利に働いているから」
「そうなんだよな。風鷺は、ぼくから見ても、なにかおおきなものに頭を抑えられているように見える」
「そう、見える?」
「うん」
「だから、風鷺はどうすれば、いちばん可能性を輝かせられるんだ?」
「なにもしないこと」
「いや・・・」
「自分の可能性なんて、考えの中に入れないこと」
「それは、いかにも惜しい」
「ひいては、だれかやなにかの、なんの力にも、ならないこと」
「うーん」
 徹底的に見極めてくれる妹だが、白とか黒とか、真実のほしい風鷺は物事にきちっとした色をつける。
「違う?」
「だれかの役に立ちたいとか、自分の力を試したいとか、そういう俗っぽいことをすべて切り捨てることか」
「あてつけているわけじゃないよ」
「人は、くだらない夢を見るもんだ」
「でも、そんな夢じゃ、いつか人は自分をだませなくなるんだよ」
 この町はぼくにとって狭すぎて、それ以上に可能性を感じさせてくれなくて、それは風鷺も同じように感じていることだ。風鷺もまた、すごい勢いでこの町を出て行かないとならない。遮るものは両親がつくった空間じゃない。この町そのものだった。そして風鷺は、都心に出たぼくみたいに中途半端ではなく、もっと成層圏まで突き抜けたいだろう。
「ここに、こもり続けるのか?」
「この部屋から出ることはできても、心の出口はないし、入り口もないよ」
「それは、ぼくが都心の生活で行き詰まっていることと、どれくらいか同じか?」
「いま捨てているものの違いなだけだよ。人間として行き着く先は、まるで同じだよ」
 風鷺には実際に残してきた実績がある。悔しいことに、その風鷺が、ずいぶん長いこと可能性を揺らがせてしまったのだろう。ぼくには、三年前、この町に風鷺を置いていく覚悟はなかった。しかし、結局風鷺は町を出なかったし、家を出なかったろう。
 今回この町にいる間に、風鷺をどうするか、それも決めなくてはならない。ぼくは静かに風鷺の部屋をあとにした。あとは自分の部屋で、寝かせてもらうだけだ。。

3 それぞれの想い

 昼というとなぜかきっちり昼に起きられる自分の体質がよくわからない。時計を見ると時間は午後零時十分過ぎで、身体はさっさと布団から出てしまう。ぼくは内ドアを開けてホールを覗き、全体的に屋内の様子を探る。階下では台所に母親がいて、風鷺は自分の部屋でもぞもぞと起きていた。父親は会社に出ているはずで、とりあえずはやっぱり平和な家庭だった。
 階下に降りてキッチンに入っていくと、母親はのんびりとアイロンがけをしていた。さすがに主婦業の母親で、家事には抜け目がない。
 母親は派手なウエーブの掛かった頭と中途半端に脂肪のついた身体で、なかなか豪気に見える人だった。父親よりはよっぽど見てくれに貫禄がある。しかし、生活感はすごく標準的な人だった。適度におしゃれをして、適度にブランド品を身につけて、適度に節約をする、いってみればそんな完璧な基準をクリアしていた。
「おはよう」
 お面を貼り付けたような無表情で、母親がコンロの方から振り向いた。ぼくは台所を過ぎ、ダイニングのいすに座らせてもらう。
「うん。やっぱり、寝坊した方が気が楽かな」
「なんでよ」
「父親がいるからさ。父親も、出社前にわざわざ生みそこないの出来損ないを見て、気を悪くしたくないんじゃないかな」
 ふっと母親は笑うでなく、軽く噴き出した。
「いいじゃないの。考えようによっては、あれほど安定している人もいないんだから」
 ぼくはコーヒーを飲む気にもならず、母親の言い分に曖昧なうなずき方をする。
「時にさ、そっちはこのまま風鷺を昼間に置いておいてもいいの?」
 はたっとした沈黙が流れて、くだらないとでもいうような母親の息づかいが聞こえる。
「あなたからそんなことを聞くなんてね」
「さあね。ただ、耐えられないのはそっちじゃないかっていってるのさ。風鷺のほうも、ただじゃ済まないし。男親なんか抜きにして、同性同士ってやつさ」
「どうしようもないのよね。確かに、ずっと同じ屋根の下にいるわけだから。正直きついときも多いわ」
「ぼくなら、風鷺は箱入り娘で構わないさ。埃のない家より、よっぽどいい」
 母親は、しゅーっと見事にアイロンを滑らせる。母親は家事が趣味で、パートも趣味で、何事ものんきにこなすのが心情だった。
「じゃあ、風鷺のことはどうすればいいというの?」
「うん、そっちが夫婦よく好き合ってるってわかったから」
「なにをしようもないこと言ってるのよ」
「だって、あれほど安定している人は確かにいないじゃないか。そりゃ、だいたいの奥さんは、大好きになれるよ」
「まあね。それじゃあんた、離婚しろとでもいうつもりだったわけ」
「そういわれれば、それもあるかな」
「でも、風鷺の将来を考えたら、この家がしっかりしてないとね」
ぼくはほっと息を吐き出して、いちおう母親の言葉を頭に入れておく。風鷺のためにこの家があるという理屈なんか、承服できるわけがない。
「悪いけどさ、結局この家があってうれしいのは、自分の家庭を築いて、安定した生活が出来るそっちの夫婦だけなんだよな。本家を移した事情で親戚中にも歓迎されていないし、子供ふたりとも、この家を好きになれないし」
「いまはそういう時代でしょ。親戚づきあいとかそういう昔のことより、あんたたちがなんでもできるようにこうしてマイホームを建てたんじゃない」
「だからさ、いまの時代なんて、どこの家庭も夫婦で勝手につくるものなんだから、風鷺だけはどうにかしてくれよ。そっちもそこがなんとかなれば願ったり叶ったりだろう。なんでもできるんなら、ぜひ、どうにでもしてみせておくれよ」
 母親は軽く口をとがらせて無責任そうな顔を向けた。
「とうさんも風鷺をいまの状態では外に出さないだろうし、わたしもあの子をずっと家の中に置いておいたら、もうどうしようも手の打ちようがなくなるとは思うのよね。切太の近くに暮らしたらいいかってのも、ひとつでしょうね」
「あの人は風鷺の面倒をぼくに見させても頭を下げられる人間じゃないさ。もちろん風鷺を納得させられる力もない。そして、どんなにエリート路線を突き進んできた人間も、風鷺のように派手なドロップ・アウトをしてしまうと、おおきくはカバーできない」
「うーん。困ったわね」
 母親はたいして困ってない顔で、たいして困ってなさそうなため息を吐いた。ぼくもバカらしくなりかけたが、一度始末してしまえばあとが楽だ。今回都心に帰ったら、もう本当にこの家には戻りたくない。
「ため息で風を吹いているうちにさ、風鷺なんか、すぐ三十歳を超えちゃうよ」
「当然、お嫁にもいけなくてね。どうしましょうかしらね」
「いっそ、どこかのお嫁にやっちゃえば」
「そんなことできるわけないじゃないの」
「風鷺は元々なんでもできる子だよ。少なくとも、縁談話の二十や三十はあると思うけど」
「そんな時代じゃないでしょ」
 またかとため息をついても、相手にはやっぱり伝わらない。
「知らないよ、そんな時代なんてさ。そっちのいってるのは、なにもかもそっちの時代のことじゃないか。時代の問題じゃないよ、親戚縁者とちゃんとおつきあいしなかったから、ミソッかすで縁談をもらえないだけじゃないかな。少なくとも元々本家のあった甲府では、話はいまでもたくさんあったはずだよ」
「そんなの、風鷺が承知するわけないじゃない」
「いや、縁談だけだったら、風鷺は出掛けていくよ。そこになにもないとも限らない」
「そんないい加減なことはできないわ」
「自分たちの恋愛結婚のほうがまじめな話だったとでも思っているのかい?」
「少なくても、正式に踏まえるものがあったわ」
「そんなもの、見合いの方がなおさら正式なもんじゃないか」
「あんな外にも出掛けていかれない子を他人様の家にやるわけにはいないでしょう」
 本音が半分は出たかと、ぼくは自然とため息をつく。
「そうかい。じゃあ、いまの風鷺の状態を現代風ってやつでなんとかすればいいさ。最期にはぼくに任せればいいなんて考えは、とりあえず捨てるようあの人にいっておいて。実は最近、専攻研究が忙しくなってきてさ。結構大学にこもりっきりってことになる。本当のことをいうと、今回、そのことを報告に来たんだ。風鷺のことは、くれぐれもよろしくってさ」
 能面より無表情になりそうだった母親が、髪を逆立てたメデューサのように変身した。ずいとぼくのほうへ身を乗り出してくる。アイロン片手に、母親はぶるぶると震えていた。
「ちょっと、切太。冗談でしょう?」
「まさか、それほどあからさまに押しつけてくるつもりだったなんてさ」
「だって、しょうがないじゃない。あの娘、最初からわたし達を受け入れないんだもの」
「そんなことどうでもいいじゃないか。親を受け入れない子供なんて、いっぱいいるよ。ぼくもそうだし」
「切太は、自分でなんとかしたじゃない」
「それじゃ親元で育った意味がない。もしも本当に自分でちゃんとしただけならさ」
「だから・・・」
 こんなことはこの家の特別な事情でもなんでもない。ぼくがことさらに振り返る問題でもない。ぼくは前に進まなくてはならないし、風鷺はもっとだ。
「いいかい。かあさん、このことは、よくよくあの人に含み置くようにね。ぼくも努力はするけど、たぶん間違いなく、これから風鷺の面倒を見ることはできない。この時代にあえて文学部に進んだぼくは、いろんな進路を考えながら、忙しく目の前のことに応じていくいく生活に追われるよ」ぼくは、自分の中で驚くほど血の気が引いているのを感じていた。「そして、千絵や真吾と同居している部屋は、文学資料で要塞化している。風鷺をただ置いておくことすらできないし、いまや、引っ越しも不可能なんだ」
 裁断するように言い切って、ぼくは、今日も手ぶらで歩き出す。ポケットの中には財布とiPhoneだけ。
 母親としても、ぼくを追うに追えないだろう。いまぼくを引き留めても、ぼくの学業を引き留められるわけがない。ぼくは、さっさと玄関扉を抜けた。
 風鷺は、ぼくの人生に必要な知恵者だ。だれが引き取れないもんか。
 アスファルトに歩を進めながら、ぼくは首を左右に振る。四人で固まっていたら、うちの実家は必ずダメになっていた。けれど、やっぱり老後も両親が夫婦二人なら、ずっとうまくいく。
 こうなるべくしてなった四人家族に、なんとなく苦笑する。どうにかしてくれと天を仰いでも、どうしようもないことだ。



 駅前の第一都営団地内にある図書館は、それなりにパソコンや電子機器の装備が導入されていて、ちょっと立派な研究室もあった。
 しかし、図書館には郷土の歴史を記した資料みたいなものはほとんどなかった。ただ、秋野幸平の転落した古井戸に関して、多少データはあった。古井戸は、戦国時代の初期につくられた館の庭にあったらしい。その館は関東管領扇ガ谷上杉家の所有物で、名前を金居館と言った。特にぜいたくな構えではなかったが、ちゃんとそろうべきものはそろっていて、子孫を残すシステムも整っていたということだ。
 戦国大名に跡継ぎを残すための第二妻第三妻がいるのは当たり前、ぜんぶを大奥に詰め込めないこともまた、考えられることだった。館の構えは軍事的ではなく、屋内には特に女子供が多かった。
 そして有事の際、館内の人間を逃がすために、古井戸は脱出路の役目を担っていた。戦国時代も進行していくと、多摩地区はもう扇ガ谷上杉家にとって、どんどん群雄が割拠する危険きわまりない土地になっていたのだ。もはや、気付いた時には館内の人間をそば元まで呼び寄せることも困難だったという。
 金居館は、結局、野盗に襲われて炎上したということだった。その際、側室の娘、鞠姫が側近と古井戸の抜け道から脱出を試みたが、出口の高台に出たところを待ち伏せされて、斬り捨てられたという話だ。そして、その高台こそ、新東団地の一本杉が生えている丘で、抜け道の距離はデータ上、ほぼ直線で三キロメートルに及んでいた。
 抜け穴は極秘のルートで館内の人間が脱出する最終手段でもあったが、すべてギリギリの時代にその場しのぎで立てられた対策だった。しかし、抜け穴自体の工事技術は非常に優れたものだったという。
 わかったことは、秋野幸平に聞けば三分で済む内容だった。秋野幸平が調べていた古井戸には抜け道があった。抜け道の出口は、あの里子が立つ杉の木の下だった。だから秋野幸平は杉の木の周りを探索した。ぼくは単純な構図だけは理解して、図書館を後にした。



 私立金居大学は、ぼくから見るとすごい大学だった。もともとは昭和三十二年創立の金居経済大学というカレッジが前身で、高校の付属大学と呼ばれていたくらいの些細な規模だった。しかし、十年前に十一学部を保有する総合大学になってからは、金居の森という大キャンパスを持った地元密着の人気大学になっていた。
 時代はどんどん少子化が進み、大学経営も厳しいのに、総合化した金居大学は躍進していった。偏差値的にも入りやすく、西東京武蔵野台地の立地も、いまや人気があった。ぼくの入った涼成大学は明治三年開校の老舗だが、在学生は金居大学なんて名前も知らない。おおまかに偏差値も十ほど、金居大学の方が下だ。しかし、金居大学は相当革新的な教育カリキュラムを敷いていた。
 金居大学には若い教授が多く、ゼミ講も多く、女学生が多かった。基本的に研究熱心な学生が集まるから、ぼくが覗いてみた限りではどの大学よりも教授部屋の賑わっている大学だった。若手の教授たちが野心的な研究をしていて、そこに優位の学生たちでチームができる。そういう好循環が力を感じさせる大学だった。



 iPhoneに入っていた白木優子の情報では、死んだ秋野幸平の体内からは結構大量のアルコール反応が出たそうだった。さすがに白木優子もあざとい奴だ。警察から聞き出したのか、地元新聞社からのデータか、どちらにしても白木優子を取り囲むコネクションは広く情報網を持っている。
 秋野幸平の死因は脳陥没による脳挫傷で即死。これは井戸の底に敷かれたコンクリートにぶつかったもので、現場検証から疑惑の余地なし。現場に遺書があったことから自殺と断定。遺書の内容は「オレは、飛び込む」。筆跡も本人のものと確認済み。
 白木優子の調査データは、近いうちに警察発表されるものだろう。
 ぼくは白木優子の紹介に従って金居大学に向かった。ぼくは白木優子に、秋野幸平ではなく杉女のことが知りたいとはっきり頼んだはずだった。しかし、白木優子はむしろ秋野幸平の死に妥協しない情報ばかりくれた。残念ながら、ぼくとしても白木優子に依頼した時とは事情が変わっていたから、クレームを付ける理由はなくなっていた。



 ぼくはナチュラルな金居大学のキャンバスに感心しながら、指定された七号館の新しい校舎に入り、すぐエレベータに乗った。八階で降り、居並ぶ教授部屋の中で山波教授の部屋を覗く。
 ドアの開け放たれた部屋で、六つ並んでるスチールデスクの一つにすらっとした男性が腰掛けていた。他に人はなく、男性はぱくぱくと宅配弁当を平らげながら、ちゃんとぼくに気付いてくれた。男性はぼくに向かってうんうんとうなずき、その男性がどうやら山波教授らしい。
 ぼくは教授の反応を見て、部屋の奥に向かった。教授部屋なんて大なり小なり散らかっているものだが、山波教授の部屋も派手に雑然としていた。地質学教授で関東ローム層に関する研究の権威だそうだが、部屋に散乱している資料は相当専門的で、ぼくにはちんぷんかんぷんだった。
 ぼくは、教授が背を引いたスチールの回転椅子にさっさと腰掛ける。教授とぼくは互いに回転椅子を滑らせて、斜めに向かい合う形になった。教授がおっくうそうに指さしたのは、机の隅に置いてある茶のペットボトルだった。ぼくはボトルには手を伸ばさず、素直に頭を下げた。雰囲気だけで、教授はなんとも面倒くさそうだった。
「いかんな。ここのところは、ここに詰めっきりでいまいち人とのつながりがつかめん。きみにもそこらへん、すまないな」
「いえ。でも、それでは先日亡くなった秋野幸平の葬式とか、失礼ですけど、お出ましになられましたか」
「きみ、そんなものはいくらでも代理が立つよ。秋野くんのゼミ講教授は納棺もした。わたしは、心では冥福を祈ったがね」教授はあごをしゃくるように中空を眺めた。「秋野くんの葬式じゃ地元のいろんな人間が出張って来たろう。わたしはそういうところは苦手でな。用件が用件だけに、申し訳ないとも思うがね」
 秋野幸平にとって、大学の公式な系列で恩師に当たるのはゼミ講の歴史学講師だ。しかし、抜け穴の問題でこの地質学教授と縁があった秋野幸平は、ほかにもいろいろと親交を深めていたという。端から見れば、山波教授はその一人にすぎないか。
 なにしろ、山波教授も焼香するためだけにさくさく出掛けていくほど、律儀なタイプではないらしい。ただ、それほど俗世を離れて生きている感じにも見えないし、どちらかというと、根っからの面倒くさがりなのか。
「もともと、ぼくは先生ほど、秋野くんの能力を知っていたわけでも買っていたわけでもありません」
 薄いあごひげを手で軽くなぞりながら、山波教授がちらっとぼくを眺める。ぼくは曖昧な畏怖で、見上げるように教授を見ていた。
「うん、まあねえ、わたしは彼の才能をよく知る者のひとりだったと自負しているがね」
「ぼくのほうは、ただの元同級生です」
「それが、今回はいったいなんの用なのかな?」
「事実を知っておきたいだけです」
「ただの元同級生が、かね」
「では、最初はその程度に含み置きいただければ」
「まあ、地元でも事情は多々あるものだろうがね」
山波教授はペットボトルの茶をひとしきり口の中に流し込み、鼻からおおきく息を吹き出した。横に視線を流して、回想するようにどこでもない部屋の壁を見る。ドアを閉じた部屋は空間が広く静かで、だれも入ってくる気配はない。隣の部屋から声も聞こえず、どこにも人の気配がしないのは相当建物がしっかりしているせいだろう。
「秋野くんが転落した古井戸、モノとしては文化財にもなろうかという遺産だそうですね」
「実際、あれは文化財だよ。ただ、こんなベッドタウンに見物人や研究者が来られても困るし、公的に申請も認定もされなかった。この名物のない西東京地区だしね、私としては騒ぎにならなくて幸いだよ」
「あの古井戸をひとびとが見に来たら、いろいろ迷惑かも知れませんね」
「売り込みたい者はこぞって黙っちゃおらん代物だろうしな」
 ぼくはちらっと教授を見上げ、教授はちらっとぼくを見下ろしたが、うさんくささだけが漂い、いたずらを成功させたオトコ同士みたいな友情は芽生えなかった。
「教授にも、この地域が発展していくためのビジョンみたいなものがおありのようですね」
「まあな。古井戸も、秋野くんさえ死ななければ自然と地元のだれかが働き掛けて、文化財に押し上げられたろうよ」
 見事に年季の入っていた井戸は、まさに戦国時代を彷彿とさせる代物だった。
「では、あの古井戸にはどんな価値があるんですか? それを秋野くんは調べていたんだろうし」
「まったく知らんのかね」
「今回、府中城下鞠姫伝説なるものは、多少調べてみましたけれど」
「うん、まあ、そういうことだ。そういうもっともらしい戦国時代の伝説があるわけだ。どうかね、きみ、映画化でもされたら、見に行くかね」
「フィクションはともかく、少なくとも秋野くんは、歴史的事実を探っていたのでは?」
 教授がつくった渋い顔も嫌気が差している感じではなく、だいぶお互いに慣れてきた感じだった。本当に教授はこもりきりで、人付き合いが感覚的につかめなかっただけなのか。
 ぼくは初めてペットボトルのふたを開け、一礼して一口、茶を飲んだ。
「うん、わかった。じゃあ、つまらないノンフィクションを説明しよう」
「ロマンチストなんですね」
「いや、夢もそこそこに見たいだけだ」
「ぼくは、秋野くんみたいなおおきな夢を見たいです」
 案外あっさりとうなずいた教授は、机へ真正面に向き直って、パソコンを起動させた。マウスやキーボードの扱いはさすがに手慣れたもの、ディスプレイの画像はぱっぱっと手際よく切り替わっていった。
 教授はひとつ頭をぽりっとかき、何度か小刻みにうなずいた。最初に会った時よりはずいぶん人好きがするが、秋野幸平とはきっと気が合ったに違いない。
「もともと、あの金居高校は関東管領金居館のあった場所でね。この金居館のことは知っているのかね?」
「関東管領の、なんというか、別荘みたいな、休憩所というか」
「まあ、そういうことだな。詳しいことは記録されてはおらんが、扇ガ谷家の大奥に入れなかった側室が寵愛されていた場所だと言われている。よくある話ではないか」
「その側室と関東管領との娘が、鞠姫ですよね」
「アテにはならんが、ウソにもならん」
「そんなものですか」
「考えてもみたまえよ、何度も言うがね。関東管領ってなんだね。そんなもの、いまの時代の人間にはわからんだろう。秋野くんの根深い研究は別にして、表向きは、どうでもいいことになるな。問題は、現代で物語になったとき、観光スポットになるかどうかだけだよ」
 確かに、「なにか戦国時代に幼き悲劇のヒロインがいた」というストーリー性が大事なのであって、それが正統な側女の実子かどうかなんてどうにも設定できる。しかも、揚げ足を採れるような資料も現存していないようだ。
「その鞠姫は夜盗に襲われたとき、あの古井戸の底に開けられた抜け道から脱出しようとしたけれど、出口で待ち伏せを食らって殺された。それで間違いありませんか」
「だいたいは、そういうことだ。秋野くんの記録にも残っているから、話はできあがるだろう。しかし、いざというとき脱出路が古井戸の底というのは、当時を考えても、いかにも有り体だと思うがな」
 市立図書館の資料室でも、ほとんど鞠姫伝説のことを記載された文献は見当たらなかった。けれど、山波教授にはだいぶ知識があるようだし、秋野幸平自体はどれだけのデータを持っていたというのか。
「現に、あの古井戸にはそういう脱出路の役目があったんですか」
 教授はおおきくくるっと机上でマウスを回す。この地域の大地図がディスプレイにぱっと展開する。
「わたしは知らん。どっちかというと、聞き心地のいい伝説だと思っている。だがな、秋野くんはよくよく調べていたよ。彼なら、こたえを知っていたんじゃないか」
「いままでは水が張っていて、底は見えませんでしたよね」
「本気で潜ってみようとしていたのは、やはり秋野くんくらいのものだよ。金居学園側も、彼になら許可を出しても良さそうなものだったがね。なんなら、水を抜いた方が話は早かったんじゃないのかな」
「皮肉にも、秋野くんが死んだことで水は抜かれた。それで、底からはなにか出てきたんですか」
 マウスから手を離して、教授は付近の大地図を画面に眺める。ふーむと腕を組むと、揚げたあごだけでぼくのほうへ顔を向けた。
「きみね」
「はい」
「そんなことは、だれも興味ないのだよ。きみだって、そんなもので故郷の風景に心を動かされんだろう。大学の研究というにも、せいぜい一部の人間にとって重要な課題なのだよ。」
「秋野くんもあくまで一人で調べていたみたいですね」
 教授は、鼻息だけで、ふむと返事をよこした。
「わけが違うのは、秋野くんのように大学を出てから、この町の役所つとめをするような人間くらいというわけだ。その先で、秋野くんは市議会議員にでもなる気じゃなかったのかね」
 教授も、秋野幸平が発揮していたヒロイズムは重々承知しているはずだった。ただ、世間では秋野幸平の生き方なんか、どうでもいいものだったのだ。
「秋野くんがひたすら市政に生きても似合ったでしょうけど、それは公平な見方なんですか」
「別にわたしは悪役ではないよ。秋野くんも、利害を考えて市議会議員になるような人間ではないと思いたいね。将来のことはわからんが、若き秋野くんは、確かに郷土を愛する青年だったよ」
 教授は上体を退いて、ディスプレイの図面をおおきく眺める。確かに、郷土と言ってもこの町には特に歴史的産物があるわけではない。まるでこの町の遺跡がいまつくられているかのように、つぎつぎと団地が建築されている。その展開図には、ちょっと目を見張るべき巧妙さがある。変な話だが、この町は本気で団地を建てている。
「それでは、鞠姫伝説のほうは、これからどうなるんですか」
「それがどこから漏れ出たのか、妙に話題になっていてな。意外に世間を賑わすかも知らんよ」
「なんか、どうもしらけた話ばかりですね」
「うん、話を聞きに来てくれたきみには悪いが、なにもかもがスカスカしているな」
「ただ、どこにも人の欲がある」
「まあ、あっても、セコい欲だよそれは。そう思わんかね」
 地図上でも新東団地は、本当に井戸からほぼ三キロといったところだ。金居街道と青梅街道で縦横の路線は整備されている。新東団地の公園広場も、ゆったりとした間取りをしている。
 北東へさらに北東へと埼玉、杉並、練馬方面にベッドタウンを拡張してきたこの町の歴史が、教授の地図でわかる。反対に、西南へ西南へ大学や企業誘致をしている。結局、南下すれば中央本線が走っていて、吉祥寺や三鷹、そして、国分寺、国立がある。
「先生は、東側団地公園に生えている杉の大木のことはよくご存じですか。三〇〇年以上生えているという」
「なんだね? むろん、あんな目立つものは知っているが、急に話が変わるじゃないか」
「すいません。話が変わります」
「うん、それで、それがなにかね」
 教授も伸びをして、疲れをみせる。ぼくとしてはそろそろおいとまするタイミングを考えないとならなかった。
「つまり、井戸の底の脱出路は、あの杉の木の下へ抜けるようになっていた。あの杉の木自体も、三〇〇年は生えているということですけど、鞠姫伝説の頃はどうだったでしょう。たとえば樹齢が五〇〇年くらいになる場合、鞠姫伝説のころあの杉の木が若木だった可能性があります。なぜ三〇〇年なんでしょう」
「そりゃきみ、鞠姫伝説なんてどうでも逸話だからだろう。昔話とあの杉の木の樹齢を結びつけるきっかけなんぞはなかったわけだ」
 鞠姫伝説は鞠姫伝説で戦国時代の初期らしい昔話だが、現代の背景をうまく照らしているところがある。
「それで、昔話の鞠姫は、どうなったんです?」
「秋野くんのストーリーでざっと流せば、鞠姫は杉の木の下から確かに飛び出た。しかし、平原へ下っていく途中でわずかな側近と共に殺された」
「平原へ下っていくといっても、あんなちいさな丘は幼子だって苦もなく下れると思いますが」
「つまり、待ち伏せされたということだ。鞠姫の一行は、抜け道を出て視界が開けたときには、もうどちらにも逃げ道がないことを悟ったと言うな」
「まるで本当に映画のストーリーです」
「それならそれでいいということだ」
 ぼくにとってわざとらしさがないのは、秋野幸平の調査結果が信頼できるからだ。ロマンチストな秋野幸平も、この件ではずいぶん真実を追い掛けたろう。
 ふと、白木優子のいたずらっぽい笑顔がぼくの脳裏をかすめる。
「秋野くんにとってはささいな基本事項だったことが、いまのぼくに知ることができないわけですからね」
「まあなあ? いまさらなんだが、きみ、彼自身に話が聞ければよかったなあ」
「事実だけでなく、夢の話もしたかった気分ですかね」
 鼻から軽く息を吹き出して、教授がパソコンの些細なデータを操作する。空気の中に引き潮を感じながら、ぼくは少しだけ身を乗り出す。教授もディスプレイに目を向けたまま、少しだけ圧迫感に眉をひそめる。
 教授がディスプレイから顔を揚げ、遠慮なくしかめっ面を向けてきた。
「だが、やはりそんな事実はない方がいいのだ。金居の館から新東団地公園までは市の西南から東の端まで突っ切る三キロの道程。その間、昔のトンネルが掘られていて、史跡なんかが発見された日にはヘタに話題が起こる。この武蔵野台地というのは、なにもない場所だからいいところなのだ」
「教授は、鞠姫伝説に興味を持っていると思いましたけど」
「興味はあるが、全長三キロの抜け道などと、それほど巨大な史跡が顔を出すのは遠慮してもらいたい。地質もヘタに関連してくるではないか。どいつもこの豆腐のような大地に自覚もないくせに」
「ふつうの市民なら誰彼もなくよそ者を嫌っても、歴史学教授の先生なら見方も違うのでは?」
「きみね、たとえばこの大学を整地してスカイツリーを建てることを考えてみたまえ。さっきもいったが、歴史的産物よりも、生活環境だ。だれにもじゃまされず思い切り研究できるのなら、どんな歴史的新発見があってもいいさ。しかし実際には、そんな新発見なんぞわたしが取り合いしたところで、いいところの教授がさらっていくよ」
「利権はそれほどおおきく左右するということですか」
「それは実際にあることだ。しかし、最終的にはやはり、おおげさなものはたやすく実在しないものなのだ。まあなんだな、秋野くんの死が絡んだからつきあったが、ふたりでずいぶんバカなことを話してしまったものだ。そう思わんかね」
 さすがにこれ以上粘る気もない。話は充分に聞けた。ぼくは席を立って、あとは素直に深く一礼した。
「思わぬお時間をいただいて、申し訳ないことでした。秋野くんの死が、ぼくにとっても引っ掛かっていて。お時間いただきました」
「いやまあ、きみの秋野くんへの想いもそうだが、若きの猛りは頼もしい。きみはきみの若きを謳歌してくれ」
「いや、お恥ずかしいです。今日は、お忙しいところ、どうもありがとうございました」
 ぼくはなるたけ愛想を振りまいて、スキップでもするように教授部屋をあとにした。気分がいいわけでもないのにやり過ぎだと思ったが、どこかでやけくそな気分が嵐のように渦巻いているのは確かだった。
 山波教授がディスプレイに投影した抜け道の地図は、図面上、古井戸から一本杉まで三角法でほぼ直線の正確なトンネルだった。秋野幸平は、その威容をぜひとも見てみたかったろう。そして、この一連の事態に対するこたえを、絶対に解き明かしたことだろう。
 たとえ埋まった史跡となってしまっていても、古井戸の抜け道はあるはずだ。



 昼間に行動して、夕暮れ時から調べ物をする。そんな習慣も付かないだろうが、少なくとも里子に会うには午後十時まで時間をつぶさなければならない。そして、かたや時間を無駄遣いはしたくない。ぼくは里子に関してネット上の書き込みを洗った。里子だけでなく、この町全体の事も検索して頭に入れていた。そのうち、感覚だけでは前に進めなくなる。行動には、やっぱり地道なデータ集めが必要なのだ。
 そして、一通りネット上を飛び回ったら、遅い昼寝を決め込む。



 新東団地の公園広場を駅側から登っていくと、もうそれはだんだん丘にしか見えなくなっていた。演出は、杉の大木を背にするおさげの女学生。いま、時間は午後十時半、女学生里子はすっかりシルエットになっていた。くっきりと浮かび上がった姿は、いつもと同じように鞄を身体の前にぶら下げて、弓のようにしならせた背筋で立っている。
 相変わらずインターネット上で話題になっている里子だが、今夜も現実世界では触らぬ神にたたりなしだった。
 今日は夜になってから寒風が吹きすさんでいた。
 いまではほとんど近隣住民の間で、里子の話題がなにかの発見や発展につながることはないらしい。本来、人はただそこにいたことさえ、すぐに忘れられてしまう生き物だ。
 ぼくはやあやあと手を振りながら里子の前を通り過ぎ、昨日と同じ芝生の上に座り込んだ。右に見上げると、暗みの中にも里子の長いまつげが揺れる。里子の方もぼくにずいぶん慣れたようで、たいしてかまうことなく、遠くの低い空にまなざしをまっすぐ向けている。
 ぼくはうつむいて見事な芝生を眺め、一度ゆっくり深呼吸をした。
「ぼく、元同級生が死んだんだ。それで、地元にちょっと顔を出しているところなんだ」
「ふーん」
「きみ、秋野幸平という人物を知らないか。その自殺した同級生なんだけど」
「知らないよ」
 ふと、少し顔を揚げてみたが、里子の方はまったく動じていなかった。シャープなあごから首への稜線が、闇の中で浮き出るようによく見える。
「ぼくのような年頃の大学生で、きみになにか話を聞きに来た男はいないかな」
「いないよ」
「そうか」
「だけど、昼間にこの杉の木のあたりでなにかしていた男の人はいたよ」
「なにかって、なんだ?」
「ちょっと穴を掘ってみたり、木の根っこを調べてみたり」
「そうか」
「切太くんが聞いているのは、その人のことかな」
「間違いないと思う」
「そう」
「なにをしていたのかな」
「知らないよ」
「それを知りたいんだ」
「ああ、そうか」
 賢く冷静で涼やかなくせに、やや単純すぎた秋野幸平は、人のいい自分に殺されたということか。
「秋野幸平はこの場所で、ただ単純に鞠姫伝説を確かめていたのかも知れない。きみは、鞠姫伝説を知っているかな」
 里子が音のない口笛をひゅっと吹き、鞄をぷらーんと振る。けれども、自分がここにいるという信念には絶対的なものがある。その里子に秋野幸平が目をつけなかったはずはないが、ふたりが気さくに話したことはないらしい。
「鞠姫のお話なら知っているよ。じゃあ、その秋野さんはここの抜け道を調べていたんだね」
「そうなるな」
「バカだな、その人」
「なんでだ」
「だってその抜け道は、本当にこの下にあるんだもん。その秋野さんも、ちゃんと調べれば簡単に見つけられたのに」
 気もなく見下ろしてくる里子に、ぼくは半ば呆然とした顔を振り上げる。
「きみは、なんでそれほど自信を持って知っているんだ?」
「だって、うちに写真があるもん。おおおばあちゃんの時代のだけど」
「おおおばあちゃんは戦国時代の人じゃないよな」
「大正時代のモノクロ写真だよ」
「戦国時代には、写真もないよな」
「だいたい、画像も戦国時代って感じじゃないしね」
「えーと、だからつまり、なんの写真になるわけだ?」
 里子はたーんときびすを返し、杉の木の方へぴったり三歩歩いた。ぼくが知る限り、里子が定位置を動いたのは、これが絶対初めてだった。里子は芝生の切れ目にたんたんと足を踏みならすようにして、その場所を指差す。
「ここにね、下へ伸びる穴があるんだ。直径がマンホールくらいでね」
「そんなに具体的に知っているのか」
「写真では厳重に木造りのふたがしてあって、大正のころ、一般市民は近寄っちゃいけなかったみたいだよ」
 里子はあっけらかんと笑いながら元の場所に戻ってきた。それは本当にかたくなな定位置だった。ぼくは、だいぶきょとんとしてから、なんとか気を取り直した。
「この町では、鞠姫伝説がずっといちばんの昔話だったんだな」
「わたしが鞠姫伝説を知ってるのも、おおおばあちゃんが眠る前に話してくれたからだよ」
 昔話は簡単なほうがいいという山波教授の言葉が、耳を軽くかする。しかし、次の瞬間、ぼくの中で電撃みたいなものが全身に走った。
「待てよ」
「え?」
「なんで大正時代にその穴は開いていたんだ?」
「埋めなかったからだよ」
「戦国時代からずっと?」
「要するに、江戸時代には館の方が公方様のお偉方御用達だったから」
「江戸時代にも、脱出路は役目を果たしていたというのか?」
「そうみたいだよ」
「いつ埋められたんだ?」
「太平洋戦争の戦後だよね」
「詳しいなといいたいところだけど、そういういきさつが妥当なところか」
「結果的にはいまも開いてたっていいんだけどね。ふつうは昭和の高度経済成長してる間に、埋められちゃうもんだよね」
「なるほど。歴史的遺産は、新しい歴史で消されたか」
 いまのところ、秋野幸平は膨大なデータを持ちながら、抜け道の中に入り込んだ痕跡を残していない。
「歴史的遺産なんておおげさで、わたしたちの世代にとっては、経済成長もおおげさで」
「まあ、そうだ。秋野くんは、郷土の歴史学を専攻して、この町を経済成長させる人間だったんだけど」
「そう。そういう人にとって、この抜け穴はすごい宝物だね」
 三キロの抜け道は、戦国時代の初期から都市開発の間まで、どこも掘り起こされることはなかったのか。それともビル建設の時に地階をつくっても、崩れた痕だとわからないほどつぶれていたものか。
 どのみち、抜け道があったいちばんの証拠は、入り口と出口にある。秋野幸平が出口を当たって、この杉の木の下を探索するのは当然だ
「じゃあ、きみは、鞠姫にゆかりでもあるのか?」
「ううん。ぜんぜん」
「鞠姫はここから抜け道を脱出したところで殺された。きみはその化身としてここに毎夜立っている。そんな物語もできそうだけどな」
「できないよ。わたしは、セーラー服の女学生だからね」
「そうだな。きみが毎夜なにやら華美な着物を着て立っていたら、それは間違いなく幽霊なんだけどな」
 里子はくっきりと笑い、ぼくは風の中に少し耳を澄ます。風鳴りの中に里子の衣擦れの音や、お下げ髪のたなびく音が聞こえてきそうな感覚だった。
 里子は、頭のいい人間だ。もし取り乱したかったとしても、静かにチャンスを待つような、そういう賢さだ。いつももどかしくてじっとしてられないぼくとは、わけが違う。
「ねえ」
「え?」
「鞠姫の享年ってやつ、知ってる?」
「市立図書館には、幼姫っていうデータしかなかった」
「おおおばあちゃんの話では、五六歳だったらしいんだ」
 ぼくは少しぞくっとして、座り込んだ地面の冷たさに、温度感覚がなくなる。
「きみ、なにが言いたいんだ」
「人という生き物の話。伝説の中で鞠姫が五六歳なのは、幼児は足手まといで野盗も殺してくれるから。わたしのような年頃の女子だったら、野盗が鞠姫をどうしたか、だれでも想像がつくから」ふっと静かに里子は目を伏せた。「でも、人々の悪意は後を絶たない。鞠姫は、売られたかも知れないし、野盗の根城でずっと鎖につながれていたかも知れない。ましてや、なんなら五六歳だって立派な娼婦になれる。鞠姫が幼姫だったことを美談にしようとしても、とうてい無理だということだよ」
思わず、ぼくはおおきく肩で息をついた。
 もともと、金居館で歴史上に存在した人間が確認されているわけでもなく、鞠姫が実在したかも不明だが、いままで調べた感じでは、架空の人物だろう。古井戸からの抜け道に関しては地元の確認作業もおぼつかずに、鞠姫伝説も流行らなかった。鞠姫もヒロイン化しなければ、この町の歴史で幼女犯罪の被害者になってしまった人間でしかない。
 なにかの事情で、鞠姫伝説という哀しき逸話は、曖昧で中途半端に伝承されてしまった。
「きみの待っている家族は」
「あはは。それはやっぱり、ふつうの家族だよ」
「ふつうがいちばんむつかしいのかな」
「だれかにわかってもらって、探し出してもらうわけでもなし」
「それにしても、三年は長い」
 なにもかも、里子と鞠姫伝説は重ならなかった。ぼくにはもう、里子の両親が無事だとは思えない。多くの死人が出た鞠姫伝説と結びつけたかったのは、自分としても無理ない。もっとも、それくらいのオチなら秋野幸平がとっくに解き明かしているだろう。
 ぼくが現れなくても、里子はこの町に紛れて、ずっと一人だった。ぼくの知らない哀しみが、本当はこの寒さの中で風に吹かれている。ぼくはずっと、人のことをいえないほど間抜けでのんきだった。
「和子はどうしてるかな。まだ、一人で電車にも乗れないだろうから、心配だよ」
「和子ちゃんは、ご両親と一緒じゃないのか」
「和子は、わたしが連れていたの。あんまり友達のできない子で、わたしがいつも一緒に遊んでいたの」
「それで、二人で遊んでいるときに、ご両親とはぐれてしまったのか」
「うん」
「ご両親は、その時なにしていたのさ」
「ふつう」
「ええ?」
「お父さんは仕事に行っていて、お母さんは夕餉の炊事」
「ああ、あまりにもふつうだな」
「早くみんなそろって、夕飯食べたりしたいよ」
 それでは、あるとき突然なにか予想外のことが起きてしまったかのように、それぞれの出向いた先でバラバラになったというわけだ。三年待ち続けて会えないというのは、いまさらながらに重大なピンチだ。
 そう言えば、三年前から半年間、この杉の木の下で里子と一緒にいた女子は中学生くらいではなかったか。あれが妹という話ではなかったか。里子の話では、妹和子は、もっとずいぶんちいさな子供ではないか。
「きみ」
「なに?」
「やっぱり、鞠姫の化身じゃないのか」
 ぼくは立ち上がり、深くジャケットのポケットに両手を入れながら肩をすくめた。
「別に、ムキになって違うとは言わないけど」
 ぼくたちは、横顔で含みのない笑みを交わし合う。たぶんこれは、駆け引きとはいわない。
「鞠姫の時代なら、金居の館にはどんな生活があったのかな。大奥のように厳しくはなかったろうから、意外に一家団欒でご飯を食べたりさ」
「それは、あながちうちと違わないんだよね」
「ええ?」
「近くにはおおおばあちゃんも暮らしていたし、お盆やお正月には親戚衆で本家に必ず集まったよ。わりと厳格な家でね、家長がしっかりしてて、うちのおとうさんは次男の次男で分家だったけど、わたしの目には仲良くやっているように見えたよ」
「なるほど、旧家ってやつだな」
 ぼくは、充分納得して絶句した。戦国時代の生活なんて、史学系の講義で勉強していてもわからないことだらけだ。しかし、古来の一族という決定的な言葉があった。それは、ぼくの実家みたいな核家族の対義語みたいなものだ。
 なんとなく笑えない鼻息を吐いて、ぼくは里子の勝ち気で純真な瞳を眺める。里子は、少し視線の焦点を浮かせて、町を広く眺めていた。
「わたしは、なんか人々のあったかさがあるあの家が好きだったんだ」
「うん」
「その中で、一番最初に護りあうのが、両親と妹の四人家族だったから」
「うん」
「ここで待つって約束を、再会できるまで護り続けたい」
 里子がぺろっと舌を出して笑い、ぼくはため息を我慢する。里子はやはり、すべての覚悟ができているし、すべてがどういうことになっているのか、わかっている。ぼくは、なににうなずいたろう。
 死んだ家族を待ち続けているとしたら、もちろんふつうの人間にはとうていできない気力で、里子は大切な人との約束を護っていることになる。
「ありがとう。また」
「いっちゃうの?」
「いたほうがいいかな」
「ううん。また逢えるなら、それでいい」
「また、明日」
「その言葉って、大切な響きだね」
「そうなんだな」
ぼくは里子に手を振り、早足に丘を下っていった。突き刺すような寒風が吹いてきて、ぼくはダウンジャケットに首を埋めた。
 結局、人ひとり、なにができるものでもない。それならやはり、さっさと都心に帰ってカキモノか文芸論のひとつでもネット上にあげるべきなのか。涼成大学の研究室も恋しい。この町には、ぼくの居場所なんてどこにもないのがよくわかる。
 じいさんの世代、昭和三十年四十年代には、ここいら辺の西東京私鉄線駅前は、もっと重要な意味を持っていた。そのころ生まれたかったというよりは、どうせなら、秋野幸平や白木優子が町作りをした後、この土地を見てみたかったか。
 しかし、秋野幸平も無力だから死に、白木優子も、結局、おとなになっていくごとに神通力を失って、ぼくの中でのあこがれではなくなっていくのだ。



 ぼくは駅前に出て、隣町まで電車に乗る。駅前を裏路地に入っていって、のれんをくぐるのはひっかけ屋。ふてくされたにおいまでよく憶えている場所だ。
 千絵からの呼び出しはiPhoneに数限りなく入っていた。さっさと奥座敷まで廊下を突っ切り、ふすまを開けて中に入っていく。けれども、ぼくは閉めたふすまのすぐ手前で腰を降ろし、部屋の奥へは進まなかった。
 ぼくの行動も意思表示もはっきりしていて、千絵はさっさと部屋を出て行こうとしているぼくに、どこまでも気に入らないという顔を向けた。なんというか、千絵の表情は正直すぎて、どんな気分の時も目一杯だ。無節操なぼくも、千絵の前ではだいぶん律儀になれる。
 ずるっとあぐらの尻をこっちに滑らせた千絵が、ぼくを叱りつけるように威容のある上体を伸ばした。すぐに千絵は、横にあるテーブル台をガシッと拳で打ち付ける。
「まったく、このやることもさらさらない土地で切太、あんたはなにをやっているのよ」
「考えはきみと同じさ」
「なんだっての」
「秋野幸平の自殺には疑惑を持っているし、杉の木の子も、不審に思っている」
「確かに考えは同じだわね。だけれど、この町を去るあたしたちには、捨て置くことでしょうに」
 どんなことがあっても、都心に出た当初の予定を変えないことが原則で、三人の約束だった。ぼくもそれは痛いほどわかっていて、本来、決して破ってはならないことだと肝に銘じている。
「正直言うとな」
「ええ?」
「怖いんだ」
「なによ」
「この世の闇が」
「だから、なによ」
「闇に追い立てられるようで、じっとしていられないのさ」
「そんなの、切太のセリフじゃないわ」
「いや、案外さ」
ぼくの困った言い草でも、親身な千絵は懸命に理解しようとする。千絵には、いつまでも憎まれ役はできないのだ。千絵の震える拳は、今度は振り上げられなかった。
「それで、だから切太はなにをしているっていうのよ」
「少なくとも、いまは杉女のところに行ってきた」
「それで、どうなったのよ」
 ぼくは真吾と千絵を順番に見渡して、深くため息をついた。
「なあ、真吾もよくよく聞いてくれ」
「おれは、おれの立場をわきまえている」
真吾は千絵とぼくが向かい合う空気の外で、背中を丸めてコップ酒をあおっていた。こっちから話し掛けなければ、一切黙っていたろう。けれども、真吾はちゃんと話の内容を聞き取って、真吾らしいこたえを持っている。三人寄れば文殊の知恵というのは、三人の中でもいちばん真吾の好む言葉だった。
「確か、三年前から半年間目撃されていた杉女の妹は、中学生くらいだったという」
「その杉女っていうのも、どうもな」
「名前を知りたいか。杉の子は里子で、妹は和子だ」
 千絵がふがっと鼻を鳴らす。
「ずいぶんマメだことよね」
「それで、里子の妹の和子は、どうも、ずいぶん幼いようなんだな」
「幼いもなにも、見掛けはわかってるわけだから、程度はあるんでしょうに」
「いや、一人で電車にも乗れないし、よく迷子にもなるそうだ」
 千絵がむずがゆいような表情を突き出してくる。
「社会性とか精神状態の問題じゃなくて、ただ単純に和子ちゃんが幼いっていう話なの」
「千絵、話はそういう単純なことだと思う。もし、一緒にいた中学生が妹なら、里子ははぐれた事情をちゃんと説明するはずだと思うんだ」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、妹さんは大変じゃないのさ。それとも、親御さんの方に連れられてるってこと?」
「妹は、親と合流はしていない。それどころか、親が無事かもひどく疑わしい」
 口を半開きにした千絵が一瞬全身固まり、鋭い目をいったん真吾の方へ滑らせる。真吾は話を続けるよう、千絵に向かってあごをしゃくる。
「里子さんが一本杉の下に立ち続ければ、おおきな宣伝になる。親御さんが無事ならどこかで噂を聞きつけられるかも知れないし、再会するための有効な方法なのかも知れない。でも、妹さんはわけが違うじゃん」
「妹を探す場合、待つより里子の方からかけずり回らないとな」
「だけど、きっとそれはできないんだよね」
「ん? なんでさ」
 賢いともバカとも言える千絵は、頭の中に状況を必死で思い描いていた。呆けそうになったあごを引き締めて、ぼくをにらみなおす。
「もともと、ご家族を三年間も杉の木の下で待ち続けるなんてのは、意味のわからないことなんだよ?」
「まあ、そうなんだけどな」
「里子さんは頭のいい人だよ。待つと判断したら、待つんだよ」
「そこに、やたらな口出しはできないわけか」
「できるわよ。ただ、説得することができないだけでさ」
 なんだか筋道もおかしなこの話で、千絵のこたえはぼくよりずっとはっきりしていた。結局、肩を貸してくれる千絵に、ぼくは複雑な気分で口元を引き締める。
 しかし、このまま千絵を乗せられるわけじゃない。ぼくはやっぱり、わかってくれとはいえない立場だった。
「実は、秋野くんが転落死した古井戸からあの一本杉の下までは、抜け穴が通じているかもしれないんだ」
「はあ? なにそれ」
「かつてはちゃんと通じていたんだ」
「ただ事じゃない長さのトンネルだよね」
「戦国時代の秘密の抜け道だと思ったら、違った」
「秋野くんには関係はあるの?」
「それが、絶対にあるわけさ」
「だから、どういうふうに?」
「うん、それがわかればいいんだけどさ」
「里子さんの方は?」
「うん、それもわかればいいんだけどさ」
 おおげさに肩でため息をつき、千絵はコップ酒をずるっとすする。千絵も真吾も秋野幸平の死から、抜け道の話になるとは考えもつかなかったろう。しかし、秋野幸平の存在が、抜け穴があったことを証明していた。
 この町には、ずっと未来が見えなかった。ぼくたちの生きているいまがどうとか、もう一切そういう問題じゃない。きっと、少しだけこの町を出た頃のこたえが出てきていた。
 ぼくは軽く下唇を噛み、千絵は千絵で少しひるんだ表情を見せた。
「確かに、あたしも気味が悪くなってきたわ」
 ぼくは、たまに見えてしまう千絵の弱気が恐ろしく苦手だ。
「真吾はどうだ?」
「どうだというんだ?」
「ふつう、残してきた町に帰っても、飽き飽きしたことしか起きないのを感じるだけさ」
「だが、いまはおれたちを呼ぶなにかがあると?」
「もともと、ぼくたちは都心の風土を知らなさすぎるまま、神保町に上がっていったと思える」
「確かにな。持てあましているのより、持てあまされているな」
「秋野幸平も杉の木の里子も、自分で問題にしているのは、狭い事情だ。でも、おおきな心を持って、相対しているように思う」
「むげに上京したおれたちが間違っているというか」
「いや、それでよかったんだ。こんな古した言い草もいやだけど、とにかくこの町を出られたことに意味があったんだ」
「いままでは確かにそれでもよかったろうが、もう、このままではいられんな」
「ぼくがこの町で動いていることなんか、ぜんぶちいさな事なんだ。だから、二人の方が正しくて、ぼくたちは最初に決めたとおり、いますぐにでも都心に帰らないとならない。でも、ぼくはいま、そのちいさな事にこだわってしまったんだ」
ぼくはよっと立ち上がり、きびすを返しながらおおきく二人へ手を振った。なんとなく千絵に視線をやらずじまいだったが、千絵の眼光が鋭く光っていることはわかっていた。千絵は本気でぼくを引き留めていない。逆にぼくに賛成もしない。千絵には千絵のこたえがある。
「いまは、なにかを途中で斬り捨てる勇気が必要よね」
「それも、わかってる」
 こういう千絵のかたくなさが、ぼくの迷いを支えてくれる。ぼくはふすまを開けて、座敷をあとにした。



金居第一高校の正門前に着いたのは午後十一時半頃、秋野幸平の転落死した午前零時過ぎとも近い。ぼくは迷わず正門をよじ登って、乗り越えた。
 根深い草の間を進み、古井戸へ向かう。すぐにうしろから、ガサガサとだれかの走ってくる音が聞こえた。背後から照らされた懐中電灯が、ぼくの先で風景をちらちらと照らす。ぼくはすぐに立ち止まって、振り向いた。相手はぼくから懐中電灯をそらし、急停止する。やや狼狽した様子でこちらをうかがっているのは、やせぎすの老人ガードマンだった。
 やっぱり、とがめられるなら、すぐにとがめられる。ぼくだって、自分が完全な不法侵入をしていることはわかっている。軽くうなずいたぼくは、相手の反応を促した。
「ああ、いや、おたくさん、どなたさんで?」
「失礼しました。秋野幸平の、元同級生です」
「はーあ、それはどうも、今回は残念なことでして。でも・・・」
「わかってます。この時間にそっと来た方がご迷惑にならないかと思ったんですけど、甘かったですね」
「いやいや、いいんです。お帰りの際、お教え願えますか? ええと、昇降口を入った右手にある警備員室なので、すぐわかると思いますんで」
「では、しばらく、冥福を祈らせていただいて」
「ええ、なにとぞ、ご遠慮なく」
「ご迷惑をおかけします」
「いえいえ、そんな、まあ、ごゆっくり」
 警備のじいさんは深く礼をして、すぐに去って行った。ぼくは深く息をつき、古井戸の方に振り返る。警備員とやりとりしている間に、ほぼ秋野幸平が死んだ時刻だ。
 縄ばしごのひとつでも持ってくれば、いますぐ底まで降りることができる。けれど、ぼくは今夜、最初からそこまでするつもりはなかった。
 結局、昨日昼間覗いた時には、なにも上から見えなかった。いま、懐中電灯で照らしてみても井戸の深さはわからない。抜け道の入り口も見えなかった。
 それにしても、辺りは草ぼうぼうの敷地庭だ。腰まで来る茂みもあるくらいだ。井戸を管理する人間がいるなら、常識的には茂みの間に通路くらいつくるはずだ。
 もともと、ぼくは秋野幸平の死んだ手掛かりが転がっていると思って、この場所に来たわけじゃない。さっさときびすを返して、井戸から離れた。校内中央通りをまっすぐ進み、奥の新築本校舎に入っていった。
 なんとなくいらだった気持ちを抑えて、ぼくは警備員室のドアを叩く。周りが暗闇なだけに、警備員室のドア窓からは眩しいくらいの光が差している。人のいい返事がして、すぐにさっきのじいさんが低姿勢に現れる。
 ぼくはじいさんから少し目をそらし、一拍、軽いため息を吐いた。
「献花は、遠慮させていただきました」
「ああ、そうですか。いや、いや、せかしてしまったようで、誠に申し訳ない次第で」
「いえ、その、いままでの献花もありませんね」
「はあ、それが、だれかが片付けてしまいますんで。昼間の教職連ですかねえ。あたしは意見できる立場じゃないので、なんとも、はあ」
 じいさんが恐縮することはないし、逆にこっちがもっと恐縮してしまう。ぼくは訪問帳に、適当な名前と連絡先を書いた。秋野幸平の死にまつわる人間を捉えて、ぼくの素性を正直に明かすときは必ず来る。いまは迷わず自分の存在を偽った。
「ちょっと、先生にお会いしたいんですが、よろしくお計らい願います」
「ええ?」
「なにか?」
「先生って、それは、どの先生です?」
「今日、居残りの先生でかまいません」
「いやあ・・・」
「大学の研究室の件だといえば、わかります」
「はあ、はあ、大学の、へえ。それはまた、大変なことなんでしょうねえ」
 じいさんは慌てて部屋を奥に下がっていき、電話でなにやら盛んに話を済ませると、やはり慌てて戻ってきた。
「ご足労ですが、二階の職員室まで回っていただけますか。階段を昇って右手に折れた奥ですよ。すぐわかると思いますが、もしなんなら、ご案内いたします」
「いえ、その、ありがとうございます。帰りはここには寄らないでおいとまします。お騒がせしました」
「遅ればせながら、ご愁傷様です」
「恐れ入ります。では、失礼します」
 ぼくは深く一礼して、あとはきっちりときびすを返した。もちろん、二階職員室への道のりは、すぐにわかる。ぼくは階段を上がり、廊下を右折する。
 職員室もドア窓からこうこうと明かりが照っていた。入り口のドアを強めに二回ノックすると、ぼくは返事を待たずに扉を開け、中に入っていった。歩きながら一礼して、四列に並べられた机の間を奥へ向かう。女性教師が一人、パソコンに向かっていた。教師はこちらに冷静な目を向けながら、キーを叩く手を止める。
 シックな髪は上品にはねたレイヤードで、テイラード・スーツの似合う教師は、ちょっとしたモデルみたいだった。瞳が垂れ目のつぶらで、頬も少しふっくらしている。けれども、どこかつくったような愛嬌で、りりしさが隠れていた。
 最初に古井戸を訪れた時の女性教師は若干垢抜けなかったが、だいぶ顔立ちが整っていたことを思い出す。
「ぼく、秋野幸平の元同級生です。いま、古井戸のところで冥福を祈らせていただいてきました」ぼくは女性教師の美しさに、遠慮なく恐縮していた。「お隣、失礼してもいいですか」
「うかがっています。お茶をお出ししますね」
「すぐ退散しますから」
「でも、すぐ退散しなくてもいいのではない?」
「あまり、長居してボロを出したくはないです」
「そう。お好きにしてくださいな」
「あまり好きにはできませんけど、お茶は、やっぱりありがたくいただきます」
「そうね」
 先生は給湯室で日本茶の用意を始め、こちらからはスーツの後ろ姿が半身で見える。職員室はごくごく一般的な高校の職員室で、正直にいい感じはしない。中学高校の職員室も、もう自分が人生で入ることのない場所だと思っていた。
「せんせい」
「なに?」
「こんな場所に、深夜、女性ひとりっていうのはいかがですかね」
「そりゃ、襲われる時は、襲われるでしょうね」
「そんな感じでいいんですか」
「だって、どこにいたって、襲われる時は、襲われるでしょう?」
「まあ、そうですけど」
 先生は盆の上に二つの湯飲みと茶請けのせんべいを持ってやってきた。茶とせんべいを手際よく机の上に置くと、盆を後ろに伏せて手振りでお茶を勧める。ぼくは一礼したが、まだ熱い茶をしばらく冷ますことにする。
「回りくどい聞き方は、お互いのためにやめにしたらどうかしら」
 どのみち、ぼくが駆け引きできる相手でもないのだ。ハンカチがあったら、眉間の汗でも拭きたい気分だった。
「秋野幸平の死後、古井戸に訪ねてくる人間が多々いるわけですね」
「多々というほどではないけれどね」
「でも、こうして丸一日張り番を置いておかないとならないくらいではある」
 先生は湯飲みを取り上げて、すっと茶をすすった。ぼくは猫舌だが、先生の方は相当平気なタチらしい。先生がほっと息を吐き、ぼくたちは再び目を合わせる。
「理事会の指示です。理事会は現場なんか知らないし、わたしはただの一教師」
「でも、先生みたいな美人をこんな真夜中にこんな場所へ残しておかなくても済むでしょう」
「そういうことも、ぜんぶ、現場を知らない人たちの事情なの」
「それなら、その代わりに職員会でフォローできます」
「そうね。頼めば、フォローできるわね」
 ぼくはなんともため息のつきかたがわからなくて、しばし湯飲みから立ち上る湯気を見つめてしまった。湯飲みをそっと先生のほうへ押し返す。
「ぼくはこの町が苦手です」
「あら」
「でも、実際はよくわかりません」
「えーと」
 人の出会いの中で、ぼくの想いを先生にわかってもらう関係はあり得ない。人と人はそれでいいことを、先生のほうがわかっている。
「理事会なんて言われても、どんな人の集まりか、ぜんぜんわかりません。そして、先生がこの学校にいて、どんな教育をしているのかも、わかりません」
「こたえ方がわからないけれど」
「簡単です。先生は、大人になりたくない子供をあやすだけです」
「少しだけ、他の子より困った子のようね」
「せっかくお茶を入れていただいたのに、すみません」
 ぼくはすぐに直立して、礼をする。後はさっさとその場を去るだけだった。頭の中で消えていくことなく、先生の柔らかい笑顔がぼくを軽くうつむかせる。なんとなく、こうして人は歳を取っていく。そこには先生のような優しさがあればよくて、それでも人はたおやかな愛に眼醒めることなく、感情を乱しながら毎日を生きていく。



 ぼくは隣町の駅前で閉店寸前のドーナツショップに入り、値引きされたドーナツをひとしきり買い込んだ。
 実家に帰り着いたぼくは、ドーナツの詰まった箱を手にぶら下げて、風鷺の部屋に入っていった。嬉々として箱を受け取った風鷺は、ドーナツを無造作にほおばり出す。今日の風鷺は昨日と打って変わってあっけらかんと明るかった。しかし、主張していることはずっと変わらないのだ。
 風鷺はこの世で生きていくとき、最初から自分自身の内に問題があることをわかっていた。
「おにいちゃんは、結局、なにを出歩いてるの」
「始まりは、おまえが送ってきた杉女の情報だ」
「それで? どう?」
「秋野幸平の他殺ともつながるようなつながらないような、どうも簡単にはいかない話のようだな」
「おもしろそうだね」
「都心に早く引き揚げたいふたりを、ずいぶん困らせてるんだ」
「そこにも、それぞれの思惑があるよね。お互いが間違いだと思えないから、苦労するんだよね」
 ぼくはふっと風鷺の横顔を見上げて、ドーナツをかじる。風鷺の言い草は自分にいい聞かせているようでもあった。
「杉の木の子な」
「うん」
「とりあえず名前は里子だ」
「リコではなくて?」
「なに? いや、うん、本人が確かに、サトコといった」
「うん、了解」
「こっちは了解していないぞ」
「ネットの掲示板では「リコ」って読みで、表記が里子だったよ。でも、もともと彼女の名前はわからないし、何者なんだかわからないんだよ」
 やっぱり、ポイントは里子の素性をだれも知らないことにある。そして、その目的もわかっていないことにある。ただ、本当は知っていて知らないフリをしている人間がいる可能性を、ぼくは考え始めていた。
「杉女の里子はいまも謎ばかりでさ、家族を待ち続けてる。事情もいまだにとんとわからないけど、彼女は、おまえやぼくとは違う家の中で育ったようだ。それは親の性格とか才覚とかじゃなくって、要するに、戦前の大家族みたいな」
 妹がたんたんたんっとキーボードを叩く。
「実はなにかのお姫様だっていう素っ頓狂な例外を抜かせば、里子さんを特別名家の娘だっていう意見はネット上で展開していないよ」
「里子は、間違いなく、ふつうの生まれってわけじゃない」
「なんで、そういい切れるの?」
 ぼくは頭の中に里子の姿を思い描き、いまさらながらに冷や汗をかく思いがする。里子の基本的な姿勢は、変わることなくまっすぐ立っている。二月の寒風にさらされても毎日意地のようで、凍えても凍えたとはいいそうにない立ち居姿は、並の意志じゃない。
「里子は、ふつうの女学生だ。本人が、いい張っているだけなら」
「本人がそういっていても、裏を返してみたら、違うんだ」
「ただ、里子はふつうだから意味がある。里子のいい分は、そういうことだと思えるんだ」
 しゅっと鼻をすすった風鷺が、ぼくのほうにちろっと目を向ける。
「実際に接した感じは、わたしにはわかんないことだよ。ここは、おにいちゃんの直感力を信じるべきだしね」
 ぼくとしても鼻息でうなってしまいそうになる。
「ましてや、杉の木の妖精でもお化けでもない里子の正体だな」
「だれかの演出だっていう線も、もう完全に消えているよ」
「そうなると、本当にふつうの子がふつうの両親を待っていることになる。それが実はいちばんおかしな話なんだけどな」
 とーんと身軽な仕草でいすを回転させ、風鷺がぼくのほうに向き直る。澄まして笑う奥深い目には、やはり才女の雰囲気がある。
「ねえ、おにいちゃん」
「なんだ?」
「ふつうだったら、女子高生が家族全員とはぐれた時、保護されて施設で安全を保証されているってところかな」
「その前に親戚じゃないか?」
「戦前の大家族っぽいならね」
「逆にいったら、家族を待ち続けるっていうのも大時代的なのかな」
「おにいちゃんたち不良グループのように、どこかの廃屋や友達の家に居続けるっていうのは?」
「えーと、おにいちゃんたちは不良グループではない青春のアレがコレだったけど、里子の性格は気さくだ。置いてもらえる友達の家には困らないかもな」
 妖しく瞳を光らせて、風鷺が斜に笑った。
「里子さんの行動がおかしいって考えるからいけないんだよ」
「なんだって?」
「親とはぐれたら、里子さんのように約束した場所で待ち続ける方が当たり前だって考えるんだよ」
「うーん・・・」
「里子さんは、当たり前のことをしているだけなんだよ。それが効率悪くて理不尽なほど、肉親の愛でしょ」
「しいていえば、お百度参りとか、そういうものに似ているか?」
「お百度参りはいまでも行われているけど、昔の方がずっと盛んな風習だったよね」
「要するに、いまより安心して人間が生きられなかった時代の、無茶な願掛けだな」
「いまより必死で生きなきゃならなかった頃の話だよ」
「おまえからすると、うちみたいにあっさりした家族の方が異常だってことか?」
「そうはいわない。ぜんぶこれくらいドライでいいとも思う。けど、そんな世の中だから、里子さんのやってることにはメッセージ性があるんじゃないのかな」
「メッセージ?」
「考えてもみなよ。里子さんの見える東側団地の全世帯に、里子さんと同じ真似ができる人が一人でもいる?」
 里子は、自分のやっていることが当たり前だとしかこたえないだろう。しかし、この二月の深夜に毎日四時間立ち続けるだけでも、基本的に限界を越えている。
「メッセージって、結局家族愛のあり方でも訴えたいのかな」
「わからないけど、そんなことじゃないと思うよ」
「違うことだけはいい切れるわけだ」
「やだなあ。おにいちゃんがそういうヒューマニズムみたいなこというの、自分でとんちんかんだと思わない?」
 ぼくはやたら恥ずかしくなって、ついあさっての方に目を泳がせてしまった。風鷺はぼくのほうに身体を向けたまま、マウスを器用に操る。ディスプレイの画面が、軽快に次々と切り替わっていく。ぼくの目も、いつまでも泳いではいられない。
 風鷺の中には、強い瞳に映る里子がいる。ぼくよりよっぽど目移りしていない。風鷺は、自分と境遇の違う里子のことを、どれだけ見極めて、語りたいのだろう。
「おまえはだいたい、鞠姫伝説を知っているのか?」
「そりゃ、知っているよ。いわゆる都市伝説ってやつは、ネット上でハヤるじゃん」
「鞠姫伝説は、都市伝説で、史実ではないのか?」
「そりゃあ、できすぎっていうか、ありがちっていうか。あれは、ほかの町の伝説を丸写ししたものだったはずだよ。この町にももっともらしい昔話がほしかったんでしょ」
「なんだって?」
「驚くほどの物語?」
 ふたを開けたら中身は隣の箱に入っていたというのか。セコいとか、まだそんな文句をいえる次元なのか。少なくとも、ぼくはずいぶん振り回された。
「史実じゃないっていうのは、確実なのか?」
「うん。全国的に展開しているネット情報で見れば、おにいちゃんにもすぐわかることだよ。だから、確実だよ」
「物事っていうのは、能力のあることにキャリアがないとな」
「鞠姫伝説を本気にしてるってことは、おにいちゃんは本当にこの町にもう、縁がないってことだよ。もはや捨てたものに、キャリアはいらないよ」
「それは、騙され役でいいんだ」
「わたしもそう思うよ。鞠姫伝説がウソだなんて、その方がムダな知識だね」
 確かに、すんなりと知った鞠姫伝説は充分ウソでかまわないが、それにしても、ぼくはかみしめた奥歯が痛くなるほど頭がこんがらがってしまった。
「でも、秋野くんは鞠姫伝説に歴史的事実を見ていたように思える。彼の人格を考えるなら、あながち絵空事じゃないと思うんだけどな」
 風鷺はこっくんとうなずいて、また取り出したドーナツをくわえる。手は机上を滑り、キーボードを手早く叩く。風鷺はちょいと横目で画面を確認しただけだった。
「いい? おにいちゃん。あの古井戸の抜け道を出て、姫様が殺されたなんて史実はないんだよ。だけどね、あそこに昔、いざというときのための非常口がつくられたのは、史実なんだよ」
 ぼくはかがみ込み、散らかった床から茶のペットボトルを拾うと、中身を口の中に流し込んだ。特別口の中が乾いていたわけじゃないが、うまく口が回らなかった。ぼくをうかがって、返事を待つように見つめてくる風鷺の瞳が光る。
「正直に、頭が痛くなったな」
 こっちがあがいていても、風鷺の好奇心には迷いのない光がある。
「どうも納得いかないんだよね。戦国時代の初期、府中城主ゆかりの館がこの地にあったなんて史実はないし、痕跡もないんだよ。だけれど、いつからか鞠姫伝説は語られるようになった。もっと新しい時代に、いつかどこかでだれかが作為的に流した作り話なんだよ」
「おまえは、いま自分でいったことを保証できるのか?」
「できるよ。実際には、鞠姫のことを語った公式の文献や資料なんて、なにもないから。本当の意味でその存在を示すものは、欠片もない。でもね、抜け道の記録はちゃんと細かいデータで残っているんだよ」
 ちょいちょいと風鷺が手招きをして、ぼくは飛んでいくような気持ちで風鷺の傍らにつく。ディスプレイには詳細なデータが記されていた。鞠姫については、正式名称不明、家柄不明、母不明、享年不明で、その存在を示すものはなにも現存していないそうだった。ちなみに、当時の府中城主自体が不明で、置き城だから、固定の武将の持ち物ではなかった。むしろ現代でいうと砦で、正確なデータはまったく現存していないらしい。
 それに対して、古井戸から一本杉への抜け道は、詳細な数字でデータが残っていた。全長三一二八メートル。直径二メートル。最大高低差三メートル。途中一カ所で右矩形十二度の角度変更をするが、全体的にほぼ一直線。
 古井戸のへりから降下八メートルのところに横穴があって、一本杉の丘を登る形で外に出られるようになっている。入り口と出口の海抜がほとんど変わらないことも計算されていたようだった。あらゆる意味で、見事な地下道ということになるらしい。
「たいそうなデータだけど、結局鞠姫はいないわけだもんな」
「それならなおさら、人は逸話をつくりたくなるものだから」
「さも疑わしい口調だな」
 風鷺の笑声がぼくの首筋をかすり、ぼくはかがんだ上体を少し起こす。おかしそうにぼくを見上げる風鷺の視線は小気味よかったが、笑い事ばかりじゃないことは互いに了解できている。
「結局さ、その鞠姫と、里子さんが重なったわけ」
「それは別にいいんだ。ぼくにそんなロマンがあったとしてもなかったとしても、それは別にいい」
「おにいちゃんはそれでよくても、秋野さんは、現実的なはずだもんね」
「そうさ。ある意味振り出しに戻る。それじゃ、秋野くんはなにを探求して、殺されたんだ」
 提供資料や探査報告などを確認すると、抜け道のデータは実際に人間が入って確認されたものではない。いつの頃かの昔のデータを書類上で引き出したに過ぎない。最近この抜け道について確かめた人間は、まったくいなかった。その探索が、秋野幸平にとって未来を占う決心だったのか。
「ねえ、おにいちゃん」
「なんだ」
「本来は、秋野さんが殺されても、おにいちゃんにもわたしにも、関係ないことなんだよね」
「そんなものだけどな」
「でも、秋野さんの殺された原因が、鞠姫伝説に深入りしすぎたせいだと思ったの?」
 ふと、エアコンが急稼働して、ぼくはふいと顔を揚げた。少し呆然と暗い部屋の隅を見つめる。
「弱ったな。呪い殺されたっていうなら、まだわかるにしても」
「呪い殺されたのかもよ?」
「でも、鞠姫伝説は作り話なんだろう?」
「そうだね。秋野さんが殺されたのなら、それはやっぱり、なまぐさい理由で殺されたんだろうね」
 なまぐさい理由なら、その方がいくらでもありそうだ。地元の名士の嫡子が、有望なためにいまのうちに処理される。古井戸に転落したのなら、手がけていた学業と関連して不自然さが薄れる。それに、なんとなく強引に自殺で処理されていることも不可解か。
 そうなると、一気に現実の方へ行く。
「ある意味、振り出しに戻るべきだったのかもな」
「わたしは、里子さんのほうだって、よっぽど現実的だと思うけど」
 いかにも、風鷺が有能な秘書としてひきこもっていることはもったいない。
「うーん」
「どう?」
「里子も、いつまでも家族を待つという冗談ばかりいっているとは思っていない」
「きっと、シャレじゃないってことだよ」
 風鷺が唇の端にきゅっと力を入れて、そしてうなずく。ぼくは思わず風鷺に向かって伸ばし掛けた手を止める。風鷺は気力のこもった手でマウスを握り直し、画面を繰った。
 資料提供者は金居大学郷土研究、と書かれている。やはり、金居大学のだれかが研究したもので、だれかといったら中心人物は秋野幸平しかいないではないか。実際に金居大学で会話を交わした山波教授の人となりを思い出すが、「金居大学郷土研究」というそんな無難な表記をするしかなかったのだろう。
 結局、人間は都合の悪いことをもみ消すのか。秋野幸平も市政からすれば余計なことを調べていたはずなのだ。
「やっぱり、大人の事情なんだな」
「そうだね。子供はかなわないね」
「おまえより鈍いけどな」
「さあ? それはどうかな?」
 ぼくはパソコンから離れ、ひとつ軽い伸びをする。ほとんどはくだらないことだ。秋野幸平はやっぱりこの町の事情で動いていたし、それでこの町の事情に殺されたんだろうし、里子もあの場所からどれほど大それたメッセージを発信できるだろう。この町にはこの町の事情があって、もめ事が起きて、事件が起きる。隣の町へ行けば、そこでも同じような事件が起きているだけだ。
 しかし、その向こうのやっかいな場所で、秋野幸平は殺されている。
「いっておくけど、ネットで秋野くんの死の真相は、わからないからね」
「里子のほうは?」
「そっちは、もっと深いものがあるし」
「結局、肝心なところで電脳の秘書は役立たずか」
「わかっていることだよ」
「わかっていることだから、いえるのさ」
「結局、打たれ弱いからね」
「なにが?」
 風鷺はにっと笑った。
「もし、IQが200あったら、コンピュータの演算能力がついていけないし、ネット上で収集できる情報もすぐ不足する。この部屋のコンピュータもたいしたもんだけど、だれにでも扱えるものだってこと。そうしたら、秋野さんと関連があるような犯人は、こちらの知りたいことをつかませないってこと」
 ぼくはなんともいえないむずがゆさで、困った身体をおおげさによじった。秋野幸平と関連があるような犯人なら、確かに、さも優秀そうだ。本当はむずがゆさがもどかしさだということを、ぼくだってちゃんとわかっていた。
「おまえのIQは、本当に200あるんじゃないか」
「もしそうだとしても、このパソコンのコンピュータじゃ、計測できない」
「じゃあ、だれが、どうやって計測できるんだ?」
「実数値では、なにをしても不可能だよ。それが、演算能力の正確なコンピュータの、最大の弱点なんだし」
「要するに、最期には無限の可能性を秘めた人の愛がさ、奇跡を呼んで勝つってことか?」
「皮肉もヒューマニズムなの?」
 最期のドーナツに勢いよくかぶりついた風鷺は、ぽいっと箱を部屋の奥に投げ捨てて、またディスプレイに向かった。ぼくは手を振ることもなく、風鷺の部屋を後にする。
 ぼくにだって、風鷺の内心にうずくキツさはわかる。
 風鷺はこの部屋にこもりながら、光速の電気力で驚くほどのデータを収集することができる。しかし、ほんの近所でなにがあったか自転車を飛ばして確かめに行けないひきこもりだ。
 たとえば、ぼくが捜査課の警察官で、風鷺が科学捜査研究所にいるのも形にはなるが、それではきっと、確かに無限の可能性を秘めた人の愛さえ、奇跡を呼ぶことはないだろう。

4 哀しみも吹くけど

 父親と母親にあいさつをした以上、この町に早起きする用事はなかった。ぼくは昼も三時を回って起き出す。まったく、神保町では考えられない生活だ。
 ぼくは実家にお邪魔をしてから、服は寝間着一着しか出していない。外着は都心から出向いてきた時のまま毎日同じ、寝床では裸でもぜんぜんかまわないが、母親がいやがるから寝間着を着る。それだけだ。
 手荷物の黒いバックだけがいやに目立って、部屋はがらんどう。きれいなままでここにあってくれるものが、両親にとって大事な我が家なのだ。だから風鷺やぼくが葛藤を繰り返して生きてきた歴史なんかは、両親にとってひたすら余計なものでしかない。
 なにしろ、ぼくはここ何日も着慣れた服をまとって、まっすぐ家を飛び出した。
 隣町に出てコーヒーショップに入っていくと、やっぱり白優子はもうすでにやってきていた。一番奥の席でのんきそうにコーヒーをすすっている。ぼくはすれ違ったウェイトレスにブレンドを注文して、すぐ奥に向かうと、白優子の向かいに滑り込んだ。
 白優子は両手であごの前にカップを掲げ、軽い笑顔で小首をかしげてみせた。急いできたのはいいが、一度座り込んで一息ついてしまうと、とりあえずぼくは白優子の前で一回赤面する。
「やあ、すごく天使に会いたかった」
「なにか、切太くんの勢いが感じられて得した気分だわ」
「勢いづいて、天使も利用しようとしている」
「もともとあなた、そういう人でしょう?」
「わかってくれていれば、だましたことにはならないで済むよな」
「どのみち、承知しているんだから、いいことよ」
 ぼくのぶんのブレンドコーヒーがやってきて、白優子とカップを掲げ合う。白優子は真っ白の袖無しワンピースで、首回りにファーがふさりとついている以外、上から下まですっと引き締まっていた。壁に掛かったコートは薄い茶色と白の漂ったような柄、やはり白優子は淡い色を着こなして街角で輝く。
「いろいろこの町の情報を回してもらって、助かってる」
「さてね」
「なんだよ」
「わたしはこの町の名士のお嬢さんだものね。でも、秋野くんはこの町に骨を埋めるつもりだった」
 返事のしようもなかったが、特に返事が必要だとも思わなかった。もともと、白優子はそういう相手だった。
「やはり、杉女の正体がわからない。そして、いまのところ、だれも知らない」
「あれは、知らないわ」
「どういうことだ?」
「わたしも調べてみたけど、どこにも当たらないの。本当に戸籍のない幽霊かと思うくらいよ」
「きみがそう言うなら、よっぽどなんだな」
 ぼくからはっきりと目線をそらして、白優子は柔らかい頬杖をついてみせる。流した視線の先で、白優子の思惑がくるくると回転する。白優子のほほえみは、笑っているのではなく、状況を静かに数えていた。
 白優子が洗えるのは、たとえば市内の戸籍だ。だから、白優子が告げているのは、里子の籍が市内に存在しないことだ。里子はあの一本杉の下に立つために、どこかから通っていることになる。
「切太くんからの返信通り、鞠姫伝説はデタラメみたいだしね」
「本人も根深いところでは、一本杉の下に立ち続ける理由を自分で口にしないしな」
「家族を待っているというのは、なにかしら本当でしょう。それなら、なぜ家族を待っているのか、そこが見えない。それから、あちこちわざと話が合わないようなところがある。たとえば、妹さんは中学生くらいだったはずなのに、ちいさい子のようだとか、そういったところになにか作為がある。あの子はなにか、強く怖いものを持っているわ」
 ぼくも困ってしまったが、「わざと話が合わない」というのも、大変なことだ。結局、妹は中学生くらいなのかちいさい子なのか。そのことさえ、はぐらかすのではなく、里子はパズルの配置を換えるように言葉を紡いでいるのか。
「怖いものって、どんなふうに怖いものだ」
「ボロが出ないってことよ。でも、ぜんぶが作為だったなら、なにか相当な無理がある。つまり、あの子は、ウソをついていないってことよ」
「きみからネットの話が出たけどさ、電脳娘の妹には、解けない謎だそうだ」
「あら、主任秘書官に?」
「更迭して、きみを主任にするかな」
 にこっと白優子にあしらわれるのも、なんとも無理はない。
「杉女と呼ばれるだけあって、彼女は一本杉の下に三年間立ち続けている。そんな目立つことでもネットでは結局、新聞を読むのと変わらないようなことしかわからないのよ」
「検索エンジンではいくらでもヒットするだろうし、専用の掲示板だっていくつもあるはずだけどな」
「ニュースと情報番組の違い程度だわ」
「どのみち、上がってこないデータは、得られないんだからな」
 思慮深くあごを引いた才女白優子の瞳は、不敵になんでも捉える。互いにこの世の許せないことを解き明かしたかったが、もう一緒に歩いてはいけない空気がある。それは距離感ではなく、振り向いた先の違いだった。だんだん、相手の顔さえ、ぼくたちは忘れていく。
「確かに、彼女のやっていることはメッセージ性の強いものだわ」
「問題は、その杉女の事情を知っている人たちのことだ」
「毎夜杉の木の下に真っ白なセーラー服の少女が立ち続けるなんて、相当気味悪くて、市民にも悪影響よ。もちろん住宅の都営利や市営利にも関わってくるわ。それでもああして放っておかれるのは、単純に規模のおおきい話だからじゃないかしら」
 そうなると、やはり、団地建設の利権問題だとか、そんなことになるのか。白優子の前では、ヒューマニズムもドライだ。
 ぼくはカップを取り上げ、ぬるくなったコーヒーをずるっとすすった。
「まるで、杉女がきみのライバルみたいだな」
「彼女は、杉の木の妖精という名の、アイドルよ」
「きみにはアイドルより、女優やモデルでデビューしてもらいたい」
「女優ならアイドル女優、モデルならアイドルモデル。最初からトウが立ってみせるよりは、若作りして出て行くものよ」
「彼女は、やっぱり、清潔感たっぷりの若きアイドルか」
 ふっと薄く白優子が笑い、それだけで済ませたというように、身じろぐことなくコーヒーに手もつけない。ぼくは勝手に、激しく恥ずかしくなった。
「もののけにも美しいタイプはたくさんいるものだけれどね」
「やっぱり、嫉妬なのか?」
「いやだわ。そういうシチュエーションにしたいの?」
「ぼく個人の問題だ。初めてきみと同じくらいの天使性を人に見た」
「天使性ね。いわれる方も、どうしたものやら」
 ぼくはあらためてコーヒーをすする。白優子には天使としてあきらめたような部分がある、ぼくの割り切り。そして、その天使の翼を失っていても、自分の獲物を探して、どこへでも飛んでいけばいい。
 里子はあの地に縛られて、いつまで飛べないのか。一息ついて、ぼくはカップをそっとソーサーに置いた。
「それで、現在でも、抜け道は貫通しているのか」
「あの古井戸は、秋野くんが転落したことで水を抜かれた。けれど、井戸の底についてのデータは公表されていないわ。それに、一本杉の下を掘った事実もない。ましてや、入り口出口はあっても、その間がいまでも貫通しているかどうか、三キロの道程を確かめるのはかなり大変なことよ」
 ぼくの中でぴしりとヒビの入った音が響く。
「いや、待てよ」
「なに?」
「優秀だった秋野くんのことだ。最初から、あの抜け道が貫通しているかどうかなんて、調べられるはずがないことを、わかっていたんじゃないのかな」
「わたしは、そのほうが妥当だと思うわよ」
「過去に抜け道が崩れて事故が起きたりしたことは?」
「あのね、昭和三十二年の市内計画要綱で対建築補償はついてるけど、実際に事故が起きた例はないの」
「でも、補償がついているってことは、賭けみたいなもんじゃないか。地下に横穴があるかどうかなんて、賭けとしては率が悪いぞ」
「そうね。昭和三十二年の計画要綱では、全体的な都市化がされたのよ。言ってみれば、どんな事故が起きても補償が利いたのね。この抜け道も、計画の中では留意点に組み込まれていただけで、結局、当時って市内全体で地面の下がどうなっていたか、それほどわからなかったわけでしょう?」
「いまより、調査がずさんだったということか?」
「この町だっていちおう、高度経済成長中だったから」
「計画自体ずさんだったというのかよ」
「わたしたちのまったく知らない時代の話よ?」
 近代史でも、昭和三十年代というのは発展を優先した時代だったが、都市化計画はどれほど事故の危険性を承知していたか。当時のこの町は金居大学もなく、企業誘致も行われず、都営団地も鉄筋コンクリート建築の進んだ時期か。
 常識的には抜け道を埋めてから地上の施工が行われるところだろうが、いままで見てきた感じでは、抜け道のデータ自体が公に存在しなかったかも知れない。
「秋野くんが調べたかったことってなんだ? 戦国時代初期の工事技術とか掘削技術とかか? たとえば、井戸の底から横道が掘られていて格子蓋が張ってあったとする。そういう実際的な工作を見て、彼がなにを感じたというだろうな」
「間違いのないことは、秋野くんの郷土歴史学専攻はだてじゃなかったってことね。彼の本当の目的は名士の子としてこの町に土着して生きていくことだったし、郷土の歴史はその中で絶対必要なことのひとつだったはずよ」
「専攻としては、立派な専攻だろうな。だけど、この町は町おこしをしたいわけでも、文化財がほしいわけでもない。山波教授の話を聞いてみれば、返ってこの町に新しい文化財なんかが出てくるのは迷惑な話だった。ぼくもいまは、それがよくわかる」
「ここは、何者もない平穏なベッドタウンよ。豊かな人口が市民税を払う町。いまの人口が大事、これからの人口統制計画が大事。そして、観光のように訪れる人間は、じゃまになる」
 白優子の良さは、浮き世から離れたような雰囲気だ。それでいて強い現実派だから、ぼくの未来にさみしさを呼んだのだろう。ただの美人なら、これからの人生で探す。そういう意味で、夢を見ることのできないぼくには、白優子とたもとを分かつ道しかなかった気がする。
「じゃあ、秋野くんは文化財を掘り当てたから、殺された」
「そんな短絡的なら、それでいいけど?」
「どのみち、秋野くんも、杉女も、この町では邪魔者のような気がするな。彼らは頭がよすぎる。彼らの考えてる世の中と、実際の動いているこの町とは、まるで違うように思える」
「頭の良さならね、あなたもわたしも負けてはならないはずだけれど?」
「ぼくたちは、自分の頭をこの町っていう狭い世界で使う気がないじゃないか」
「うふふ。どこで使うかも、使い道さえまったく見えてこないクセにね」
「きみもか」
「上を狙えばね」
 ぼくはなんとも、中途半端な苦笑でうなずいた。
「狭い世界では行き詰まる。広い世界では迷う。そして、だれも人生には成功しない。それが、この平等な世の中だ」
 今度はぼくが笑ってみせたが、白優子は笑顔を返してはくれなかった。ぼくはわかったようにまっすぐ白優子を見る。白優子は、身じろぐことなく、そのままの位置でぼくを捉えていた。
 目線を交わすことが哀しさだけになりそうになる。
「ねえ」
「なにさ」
「わたしの言いたいことがわからないの?」
「いや・・・」
 やはり、白優子と恋人同士になれるとか、そういうことは夢の夢だったろう。ぼくは尻に力を入れて、腰は重たく抵抗しようとする。
「秋野くんは殺されたのよ。ちょっと帰ってきてその間に事の真相を暴こうだなんて、虫がよすぎるわ。あなたみたいに派手に動いていたら、みんながおもしろく思わないでしょう? いままでもずいぶんこの町でやり合っていたけど、いま、切太くんの行動は、自分の命運さえ奪いかねないものなのよ」
 白優子はぼくのあこがれ、本当はしゃれたラブストーリーの脚本も考えてはみたい。
「ぼくを、止めるのか?」
「止めるわ。これ以上いけば、必ずあなたは危険になる」
「それほど、言い切れるのか」
「この町の風土をキャッチしているわたしには断言できる。秋野くんに説得してもらいたいくらいよ」
 ぼくは重さを感じないくらい勢いよく腰を上げて、テーブルの上のiPhoneをひったくるように拾い上げた。根本的に、白優子とぼくは、互いにふたりで会ったときの役柄を間違える。この時間も、悔いたければいくらだって悔いられる。
 ぼくは奪い去るように、伝票を拾う。
「いろいろ参考になった。ありがとうな」
「ううん。また会えてうれしかったわ」
「哀しい想いはさせたくないけど、きみはどの道を行くんだろう」
「まだ、見させてほしいものばかりなのに」
「ぼくには選べないやり方なんだ」
 ぼくはためらいを残さないようにきびすを返して、そしてフロアの通路を出口に向かって歩き出す。白優子はそう遠くないうちにこの町を出る。都心の大学院で深く研究に打ち込むし、その先で目的を果たそうと生きるだろう。友人も恋人も夫も子供ももくろみの中でつくるだろうが、事ごとに成功率が高いのは、白優子がもうすでに人生をあきらめているような雰囲気の中で生きているからだ。
 確かに、なにもできないのが人生だ。もしぼくが白優子と結婚していたら、立派なかかあ天下ができていただけだ。結局、白優子の愛嬌ではないか。



iPhoneには連絡が入っていて、相手は真吾だった。三人組の連絡網は千絵が担当するから、はっきりいっていま、しっかり気まずい状態にある。
 千絵も真吾も、この町では徹底して最低限の処理事項しかしていない。まだ捨て遺したゴミをちゃんと捨てに来ただけのように、あとは、だれにも用がないと沈黙している。
 ぼくには、なぜ生まれた場所をこんなに避けたのか、いま少しで説明できそうだった。
 白優子を残してコーヒーショップを出、ひっかけ屋に入っていったのは午後四時だった。ぼくは靴を脱ぎ捨てながらふすまを開けて、さっさと奥座敷に上がり込んだ。しかし、むっつりとコップ酒を傾けた千絵と真吾は、ぼくに目もくれやしなかった。なんというか、こっちから返事をせかすのも無理だろう。時間は、確実に二人の人情で正しく流れている。
 ぼくは今日も閉めたふすまの前で、すぐ出られるように座り込んだ。一息ついて、真吾がぼくのほうに顔を上げる。千絵は、その瞬間にぷいと顔をそらした。
「切太」
「ん?」
「おれたちはとりあえず今回、解散だ」
「そうか」
 真吾はくっとコップ酒をあおった。その顔つきは、なんともいえない無表情だった。
「原則的には、この町を捨てたおれたちは、むろんここで帰るべきだ」
「そうだよな」
「だから、千絵は迷わずまっすぐ帰る」
「うん」
「おれも、本来かならず帰る。だが、おまえを一人残したくないから、それだけの理由で、残る」
 ぼくは、ほんの少しでもいまのこの町にとらわれたくない。ぼくが知りたいのは、いろんな分岐点があった中で、「こういうふうにならなかったこの町」だ。そして、その町が、たぶん間違いなく好きなのだ。すべての想いを、今回のことを済ませたらふたりにわかってもらう必要がある。
「わかった。申し訳ない」
「謝っても、意味はない」
「選択肢は、ないんだ」
「ああ」
 ぼくだって、いまはこの会話がどうにもならなくて、もどかしい。
「ねえ、ダメだよ」
「そうだよな」
「約束だったじゃん。流されちゃダメだって」
「うん」
「もっとちゃんと言い訳してみなよ」
「どっちにしてもあがいてるだけだなって思うかな」
「そんなことはわかってるわよ。だから方向性だけは中途半端にしたくないんじゃない」
「方向性な。それなのに、ぼくはたまらず動き出してしまったんだ。いまはもう、止まれない」
「・・・・・」
「確かに、謝っても意味はないよな」
「それじゃ、本当に止められないじゃないのよお」
「うん」
千絵は弾かれたように身を起こして、ぼくの真ん前まで詰め寄ってくる。顔を突き出してきて、その唇を斜めにぐいっとひん曲げるが、全体的な千絵の表情には弱気がにじみ出ていた。
 ぼくは切なさを抑えて、両手を千絵の両肩に置くと、そっとその身体を引き離した。この切なさが、ぼくを間違えさせない。ぼくはただ、目の前で気になっていることに追いすがっているわけじゃない。
「ねえ」
「なんだよ」
 どれくらいなのかはわからないが、見つめ合う千絵とぼくの心はやっぱり、ちゃんと通じ合っている。
「秋野くんを殺した人間は、あたしたちが捨てたリアルの中にいるんだよ」
「捨てたリアルか」
「そうだよ。拾おうとする夢物語より、遠くへ追いやった世界なんだよ。ここにあるものは。絵空事より縁のないことなんだよ」
「そうだと思う。たとえ秋野くんの死の真相を知っても、そんなものは、実際くだらない人間模様の中での出来事だと思う」
「もう、言い訳さえまともにしてくれないのよね」
千絵がまくし立てることもいちいちもっとも、ぼくには、その千絵が進む正しい道筋に戻れる感謝がある。
 耐えきれなくなりそうな心が、すべて投げつけて壊してしまいたくなる。風鷺にもさっさとこの町を捨てさせる。秋野幸平が地元で築いてきた人生なんかぜんぶくだらないと決めつける。いつか白木優子とは劇的な再会でもすると、気楽に別れる。ぜんぶそれで片付く。それ以上にたいした用事なんか、この町にありはしない。
 しかし、ぼくの叩きつけたいような想いは、どこでもきれいに砕けて霧散してはくれない。
「千絵」
「なによ」
「ぼくは必ず帰る。その時、閉め出さないでくれよ」
「そんなの、ものすごい勢いで迎え入れるんだから」
「やっぱり、申し訳ない」
「いいわよ、もう。結局、正解はだれにもわかりゃしないのよね」
「だからこそ、方向性を変えちゃいけないんだよな」
 千絵は肩に置かれたぼくの手を払いのけて、表情をだいぶ和らげる。「いいわよ、もう」そこに千絵の苦しみも切なさもぜんぶ詰まっていて、ぼくの罪の意識は、これ以上自分だけのものじゃない。
 本当は、風鷺も白木優子もほかの誰もいない世界で生きていくことが、ぼくはとても怖かった。ずっと三人組でいたのは前へ進むことだったが、同時に知らない世界で人の波に紛れていってしまわないようギリギリのことだった。
「ねえ」
「なにさ」
「ちゃんと、そこにあるリアルなんだよ? 切太の探しているものは。ただそこにあるリアルなんて、嫌気がさすようなことばっかりだって、あたしたちはもう、何度もしつこく押しつけられて来たんだよ?」
 秋野幸平がなぜ殺されたのか、それも嫌気が差す事情だってことくらい、心の確かさでちゃんとわかっている。
 ぼくは、千絵の肩に伸ばした腕を置いた。いったん千絵はびくっとして、しかし、傲然と肩を怒らせた。ぼくたちには、なんとなくリアルなんて言葉が、似合わない。そんなことは千絵もよくわかっている。
「千絵」
「なに?」
「ぼくたちに青春があったなら、仇は絶対、いるよな」
「そういうことよ」
「それなら、仇討ちをしなきゃいけないよな」
「いや、それはちょっと・・・」
「冗談をしてるわけでもないけど、仇討ちなんかしたって意味ないさ。相手がどうなろうと、自分がいやな想いをすれば、それまでだ。復讐するほどの敵がいたわけでもない」
「そう、だれかが悪いんじゃない。だれかひとりがあたしたちを脅かしたことなんかは一度もないわよ」
「今回もやっぱり、そうだろうな」
「もう、知らないわ」
 再び千絵がぼくの腕を払いのけ、ぼくは立ち退いた千絵を追わなかった。千絵はもといた位置でテーブルにどっかり片肘をつき、さもふてくされた顔でコップ酒をあおりだす。 ぼくは真吾の方に視線を移し、猫背の真吾はふっと身体を起こした。ちらっと千絵の方に目をやり、コップ酒を傾ける。
「どこかで正解はないといったが、どうなんだかな」
「自分にとってもいやな結果が残るとわかってる。だけど、ぼくは気づいたんだ」
「なにをだ」
「だれもが迷子だってさ。天使もそうだ。秋野くんもそうだったんだろう。こんなに正解の出てこない問いじゃ、だれも人生なんか成功しやしない」
「結局、この地に残ろうが、都会に出ようが、同じということか」
「正解は、ここで帰るべきさ」
「そうと知りながら、この地に残るのか」
「しいていえば、方向性なんだ。千絵の言葉通り、方向性を貫かなくちゃならない。真吾、ぼくたちはこの町を出て都会に出ることを方向性にしたよな。だけれど、そんなものは出足の出足なんだ。ぼくたちは、これから試行錯誤して、本当の方向性を決めなきゃならないんだ」
 真吾はじろっとぼくの顔をにらみ回し、首を動かさずにしばらくむっつりと目を閉じた。
「なるほどな。おれたちの足取りはますますもどかしく、進んでいかないわけか。大人の意見としても子供の意見としても、最悪だな」
「大人になってしまうのは早いんだ。なかなか大人になれないなら、それはいいことじゃないか」
 珍しく真吾がおかしそうに笑い、コップをぶらぶらさせて遠く天井の隅に目をやる。
「どのみち、世間的には子供じみていろってことに聞こえるが?」
「いま、二十歳なら子供じみている方がさ、自分の都合で生きているように見せやすくてな」
「まあ、どのみち、世間を生きていく器用さってのは、さっさと老いたくはないわな」
「そして、年寄りにはやっぱり冷や水さ」
「大人だけの人間みたいなのを、恨みのようにいうんだな」
「古狸なんていうのは、頭のいいものじゃない。こざかしいだけの生き物だ」
「やっぱり、恨みだろ」
「それなら、それでいいさ」
 ぼくは一つこっくんとうなずいて、その場を立つ。はっと千絵が首を振り向けてぼくを見上げたが、ぼくは千絵の方を見ない。真吾にだけうなずいてみせて、真吾はぼくに抑えるよう手振りを送ってくる。
「もう行け」
「うん、そうだな」
 真吾はぼくを払いのけるように手を振った。ぼくは、ゆっくりと立ち上がった。
「おれたちはこの町で生きてきた。だが、おれたち以上にこの町の土地勘を持っている奴なんていうのは、いくらでもいる。それはおれも痛感したことだ。そして、そんなのは世界のどこへ行っても、同じ理屈だ。おれたちはたった三年しか暮らしていない神保町でも、土地勘のない新参者だ。この三人は、全世界の深い事情をなにも知らないってことだ」
 ぼくは深くうなずいて、座敷をあとにした。



 バスを降りたぼくは、迷わず金居大学の構内に入っていった。システム化された広大なキャンパスを、指定された南側の校舎群に向かう。西側事務館をエレベータで三階に上がって、第三会議室のドアをノックする。すぐにドアは開かれて、すっきりと頭を下げた女性がぼくを中に招じ入れた。
 中はこの間訪れた山波教授の部屋と同じ広さのようだったが、真ん中に応接セットがあるだけで、いたってがらんとしていた。女性の手招きで黒革のソファに座り、女性はとにかくにこにこ笑いながら、ぼくの向かいに腰掛ける。部屋はともかく、館内全体に人気はなかった。
 女性は紺色のソフトスーツを着た背高な人で、スレンダーな立ち居姿に鋭いロングボブが似合っている。あんまり身支度に手間を掛けない感じの中性的な雰囲気に、出てきたのもすっきりと落としたブラックコーヒーだった。
「このたびは、お呼び立てしてお世話掛けます」
「いえ、よろしくお願いいたします」
 ぼくたちは座ったまま礼を交わしたが、相手もわざわざ立つ気がなかったのは間違いなかった。ぼくのほうが何者だか相手には告げてあるが、相手は自分の詳しい立場を説明する気もなさそうだった。
 要は、相手は名門光怜大学の大学院から出向してきている郷土歴史学の研究生だった。北原修子という二十七歳で、院生から研究室を転戦して五年以上の間、西東京地区について研究してきたことになる。北原修子の場合は鞠姫伝説などではなく、専攻は近代日本だった。
「ぼくも意地になると強引な性格なんです」
「はあ?」
「問題は、先に申し上げたとおり、秋野幸平の死です」
「まあね。でも、わたし自身の存じ上げているところじゃありませんからね」
「あなたなら口ききしてくれると、そう踏んでいるわけです」
「それは、まあ、ほかより多少の融通は」
「いえ、だいぶん、違うはずです」
「困ったひとねえ」
「ここでの話はいちおう密談になりますけど、北原さんに足はつきますか?」
「そういういわれ方は、非常に参るけど」
 さほど参った様子もなく、むしろ北原修子は楽しそうに足を組み替えて、中空に鼻歌を口ずさんだ。なにかを思い浮かべているようだったが、事態がどうなるか、サラサラと中空に思い描く感じだった。
「いまの時点で、ぼくにどれだけ力をお貸しいただけますか?」
「信頼できる筋からのアクセスであることは承知しています」
「では、こちらから開け広げます」
「そうたやすく、がっかりするような事情もないでしょう」
 北原修子がぼくのほうを見つめ返さないのは、やはり中空にビジョンを描いているからだ。セリフもどこかで浮いているような言葉で、ぼくももっともらしい事務的な対応をしているわけじゃない。相手は二十七歳にして研究生で、社会生活感も、思った以上に持っていない人間なのだ。
「秋野幸平は、郷土の歴史研究をしていた。彼はこの町の有力な土着民と期待されていた。けれど、どこかで彼が市政の代継ぎをするための歯車が食い違った」
「そうですか」
「ええ?」
 ひらっと北原修子は胸の前で手のひらを表に返した。
「いえ、続きをどうぞ」
「ともかく、秋野幸平のやっていた研究は、なにかの形でこの町の歴史によくないものだった。だから、古井戸の研究を始めてから、秋野幸平の存在は市政のどこかでやっかいになった。秋野幸平は命を奪われたし、それは口封じにも通じる。その根深さに、この町の上っ面でいくら動いても、秋野幸平が殺されたプロセスはいっこうにつかめなかった」
 北原修子は姿勢良く身をかがめ、コーヒーをスプーンでくるくるとかき混ぜた。けれど、結局コーヒーに口はつけず、なにやらカップに目を落としたまま、ニコニコとしている。
「あなたは確かに事情をキャッチできてはいないようねえ」
「ぼくの見立ては、ずいぶん見当違いですか」
「いいえ、だいたいは、合っています」
「ぼくの中ではいまだに具体的な風景は浮かんできていません」
 北原修子はあっちへやればこっちと視線の行き先を変えながら、ぺろりと上唇の端を舌でなめた。ぼくは北原修子の瞳の前で、手のひらをさっさっと上下に振ってみたい気分だった。
 スーツはもぴたりとスレンダーな身体に合っていて、なんのおもしろみもない。そもそも、本人にまったく興味やこだわりがない感じだった。対照的に、表情や仕草はくるくると回転するように変わる。北原修子は不意を突いたようにぼくと視線を合わせてきて、いたずらっぽく笑った。
「えーと、では、あなたは、この件を暴いたとして、どうしたいというんです?」
「そのこたえは至極あいまいになります。なにか、漂う闇をはらうようなもの。秋野幸平が殺された事情は、ぼくの視界をふさぐもの。視界が開けなければ、人生を前に進めない。そんな自分勝手な事情です」
「そのために、多くの人が犠牲になるとしても? 自分ひとりのためには?」
「その質問はおかしい。現に、道は違ってもぼくは秋野幸平の才覚を痛いほど感じていた。その秋野幸平が無下に殺された。それから、一本杉の下に立つ女子高生です。彼女はなにかの事情を背負っている。でも、報われないから、ずっとあの場所にたたずむしかない。そして、彼女の意志もタダ者じゃないんだ。そういう強烈な人たちが人生を失っていくのに、多くの人の犠牲とはなんですか。多くの、だれですか」
 さも気持ちよさそうに北原修子が噴き出し、ぼくは自分が思ったより大真面目だったことに気づく。たぶん、ずっと北原修子の瞳を見続けても、本気でなにを考えているか、ぼくには悟れない。ただ、ぼくもからかわれているばかりじゃないし、北原修子には一本通った誠意のある感じがする。ぼくは、いま立っている自分の居場所を間違っていない。
「意外と、すがすがしいんですね。信じてくれて光栄ですけれど、一本杉の女子高生に関しては、わたしは存じません。ただ、あなたのおっしゃることは大当たりです。わたしのいう犠牲になる人とは、この町の古い人たちです。旧世代の負の遺産です」
 はた、とぼくの意識は止まり、どうしても北原修子のつぶらな瞳に吸い込まれてしまう。古い人とは、たとえば秋野幸平も白木優子も地元の家柄で特別マイナスの印象はない。しかし、この町が急速にベッドタウン化したのは、もちろん団地に入ってきた住民のせいじゃなく、「入れた人間」なのだ。
 そして、この町の市議会にはこの町の市議会のカラーがあった。本当なら、ぼくが簡単に市政なんて言葉を使うべきでもない。政治というものはひとりの議員でどうこうなるものでもない。
「秋野幸平もまた、そういう古い人間を一掃しようとした。彼の研究は「たまたま」町のマイナスになることではなかった。秋野幸平は確信犯だった」
「そうね。わたしの立場としても、彼の叡知を見くびってほしくはないわね」
「でも、確信犯的な行動をして、その挙げ句に殺されてしまっては、こっちも誉めきれない」
 ふっと柔らかい唇で北原修子が笑う。
「最初から、彼が命を懸けていたとしたら?」
「それじゃ、相手がどんな悪だか知らないけれど、秋野くんが正義のヒーロー過ぎる」
「彼も、それほど正義の味方じゃないわね。ただ、彼は事を闇に葬れないところまで行き着いてしまったのよ」
 秋野幸平がヒーローだということには、絶対変わりがない気がする。
「彼の行き着いた場所を、詳しく教えていただきたいです」
 ぺったりと黒いシールを貼り付けたような北原修子の瞳が、ぶれることなくぼくに向く。
「時代が、動いている」
「はい?」
「一本杉の女子高生も、実はそうでしょう。秋野幸平も、あなたも、きっと歴史の子なのよ。未来はそうそう暗くはないわ」
 どうも北原修子というのは、あっけらかんと夢のようなことをいい過ぎる。しかし実際は、夢以上の現実を聞かされているのだ。
「別にてらいがあるわけでもないけど、北原さんもお若いのに」
「そうね。あなたたちのおねえさん役くらいは回してもらえるかしらね」
「秋野幸平も、ぼくと同じように闇を嫌った。それも、人のつくる、これ見よがしな闇というやつだ。そいつは、イヤミだ」
「わたしはそこまではっきりと、もの申せないわ。でも、あなたの世代に力を貸したい」
「そんなに歳も変わらないのに、世代を分けられちゃ、困ります」
「わたしが社会的にこの立場にいないと、あなたも正解へはたどり着けないのよ」
「なんなら、秋野幸平のように死ぬ覚悟をしていた方が、楽ですか」
「いいえ、ただの臆病よ」
「せいぜい言葉半分ですね」
 すっと北原修子が立ち上がり、ぼくにおしりを向けて窓際に歩く。北原修子はカーテンを払って外の景色に顔を向ける。一枚窓に寄り掛かった肢体は見事なプロポーションをしていて、澄ました見掛けはとてもとぼけたことなんかいいそうにない格好良さだった。
 外は真っ暗で、ぼくの位置からはなにも見えない。北原修子はこの町全体を、開けた視界から冷めた雰囲気で眺めている。
「わたしは、この町を専門にはしてない」
「はあ」
「人物を紹介します」
「どなたでしょう」
「元の肩書きは、金居大学文学部世界史学科教授、高坂良二。そのころから、わたしの直属の学師になります」
「そんな人を紹介なさって、北原さんのお立場は大丈夫ですか」
「ダメかも知れない。でも、秋野くんがもう止まれないところへ行ってしまったように、わたしにもまた、自分が平穏な立場でいようとしていられない雰囲気があります」
 文学部はいいとして、世界史学科の教授とはどういうことか。この町のなにを知っているのか。なにかを知ってしまっているから、いまはこの大学を追われて、ここにいないということなんだろう。
 ぼくには顔の見えない角度で、北原修子はずっと外を見ていた。ぼくは、ゆっくり立ち上がった。
「どれほど実感できるのかわかりませんけど、時代なんかが動いていますかね」
「おおげさでもないでしょう。ここいら辺で時代が動く理由もあるのよ」
「それは、なんですか」
「すべてのこたえは、たぶんひとつです」
「この人に会えと」
 北原修子の真っ黒な瞳は、簡単なことではキラキラ輝かないということだ。
「逆に、わたしに教えてください」
「わかりました。それだけのものを、きっと必ずです」
 ぼくは一礼して、静かに部屋を後にした。名残惜しいような気もしたが、たぶん、いまは知識を持っている人のだれと別れることも惜しい。そのことを、北原修子は二七年の人生でぼくよりずっと知っている。



常に思っていたが、千絵の制止を振り切ってこの町で動き続ければ、ぼくはいやな想いにまみれることになる。いま、ぼくは本当に、ふとすると身も心も崩されてしまいそうだった。
 人は、どこでも、そこでなにかしようと一生懸命生きて、ほとんどは妥当なところで死んでいく。見栄を張って輝いて死んでいくこともあるだろう。けれども、なかなか望んで無駄死にすることはできない。無駄死にだけはするなと願う相手も、ふつうはいない。
 一本杉は泰然と立っている。里子もその下で、泰然と立っている。しかし、里子は一本杉ほど確かに立ち続けることはできない。
「やあ」
「本当にいつも来てくれるんだね」
「いや、それも、もう終わる」
「どうして?」
「きみもぼくも、もっと本気になりたいからさ」
 里子がどこか遠くに向かってふっと笑う。
「わたしが切太くんをずっと待っているとき、いつもちゃんと話すこともあったからね」
「逆もそうだし、こんなに贅沢な釣り合いが取れなくてもよかったのにな」
「そうだけど、もっとお互いが力になれるほうもあるしね」
 今回、ぼくも三人組の誓いを破って強引だったし、里子はもともと決然とこの場所を動かない。ここのところ毎夜里子を訪ねたのは、ぼくひとりでこの世を走れる最高のステップだった。なによりも里子に信頼されたかったし、ぼくのほうから里子を疑ったことは、欠片もなかったはずだ。
 ぼくは激しく照れながら、心の中で遠慮なく喜んだ。
「ぼくは、きみを助けたいさ」
「お互いが必要なのに」
「それはちょっと、まっすぐすぎる」
「本気にさせてはもらえないかな」
「きみの真実を無理矢理掘り起こそうとする気には、どうしてもなれなくてさ」
「真実は、知れば知るほど、くだらなくなることばかりだったりするしね」
 ふと、里子はその場にすーっと腰を降ろして、膝を抱える形で座り込んだ。きゅっと自分の膝小僧を目の当たりに見つめる。里子の手から、鞄が芝生にすとんと落ちた。
 里子は、少なくともぼくが会ってから初めて、不動の立ち居姿を崩した。あっけなく座り込んだ里子からは、急に強烈な人間味が漂った。
「わたしは、待ち続けるだけ」
「そこまで頑なに、待つだけなのか?」
「わたしの中には、家族が生きている。わたしが護っていても、家族は駆けていてくれる」
 おおきく胸に空気を吸って、里子は息を吐き出した。セリフがかった言葉に聞こえるが、一本杉の下に立ち続けてきた里子の相手は最初からぼくじゃない。もちろん、簡単に自分がヒーローになれるわけでもないことは、充分わかっている。それにしても、ぼくの感じたさみしさは、だいぶん強かった。
「この町は好きか?」
「好きになれるのなら、好きになりたい」
「ぼくが高校までここで生きてきたとき、そういう余裕はなかった」
「それをのんきで平和な暮らしというのは、わたしにとって厳しいことかな」
 ぼくは、もうわかりきっている風景を、自然と見渡してしまった。里子の強烈な言葉に、悪怯れることのない鼻ため息が出る。
「平和を形にすると、町はこういう風景になるのか」
「ただうなずくだけでもいいかな」
「ぼくも皮肉をいいたいわけじゃないしさ」
「いまも結局、切太くんに見える風景が町を出る前と変わらないから」
 なんだか思わず困ってしまって、ぼくはもう一度周囲におおきく首を回す。
「この町は、あらためて見事なベッドタウンなんだ」
「だから、皮肉をいいたいわけじゃないんだよね」
「たぶん、もう口にしない言い草だろうと思ってさ」
「切太くんもわたしも、ここで自分の運命を捨てる必要はないよ」
「うん。逆にぼくたちは、いまも時間に恵まれているかも知れない」
「そうだね。わたしにも、これほど自分の想いを通している場所があるんだし」
 里子が家族に対してものすごい執着を見せるのは、とうてい狭い世界で終わる愛の問題なんかじゃなかった。里子には、本気で世界を愛する気合いがある。結局、里子はなにを愛して、どこまでも堂々と自分の人生を歩き続けるのか。
「人の社会をつくることは、哀しいな」
「人は、どこかで分別をつけたいものなんだよ」
「最初はそんな分別くさいこと、ぜんぜんどうでもよかったはずなのに」
「人々の欲望は、自分を護るところから始まるよ。自分を必死に護れば、自分自身が走れなくなっていくだけなのに」
「そういうことの方が、切なそうに聞こえるんだな」
「しょんぼりしてみせられるかわいげもないくせにね」
 里子とぼくは不意に顔を向けあい、打ち合わせていたように笑顔でうなずき合う。苦笑いも照れ笑いも混ざって、呆れてみせるほど自分が偉くもないし、失礼に謙虚さを忘れられるわけでもない。
 里子は三年間、決めたルールのままにここで立ち続けた。そういう意味では確かに希望が失われることはなかった。ベッドタウン化が進んでいくこの町で、まだあきらめる必要はないと、里子は宣言し続けた。それはもちろん、容易なことじゃなかった。
「きみは、どこの人間だ?」
「本家は神田、泉橋」
「へええ、直参旗本か?」
「七百五十石」
「ぼくからすれば、あこがれの土地で、あこがれの血筋だけどな」
「そう思ってもらっていいよ。うちもまた、それぞれの時代に翻弄されたけど」
「そうか、新政府の下では、お家はどうなったんだ」
「どうにもならないよ。もし、明治維新で武家のうちがどうなったかっていえば、ちゃんとお国に優遇してもらえたらしいよ」
「なるほど」
 ぼくも文学部での専攻で明治維新は学ぶが、里子にある風格が武家娘の潔さだとするなら、ぼくの勉学もそれほど間違った感覚を養ってはこなかった。
「人は、急には変われないんだよ。武家も四民平等っていったって、無茶なことをさせられたわけじゃないんだ。お江戸の武家に公方様の世が終わっちゃったあとで、なんの悪あがきができたというの。無礼を冒した例なんて、さほどにないんだよ」
 神田の旗本七百五十石といったら幕臣でも相当なもので、明治に入っても屋敷を構えていたはず。その家柄が時代の中でどう生きてきたのか、ぼくに想像できるはずもない。けれど、里子には簡単にこたえの見えることだった。ぼくは、ただこっくりと納得した。
「きみ・・・」
「なに?」
「じゃあ、いまのきみは、公方様の世の終わった時代に文句を抜かしているようなものなのか?」
 あはは、と空に放つように里子が笑い、ぼくはその声の先に目を馳せる。夜気は、なんでも通すほど、透き通っていた。
「そうだね。特に力押しもできずに、時代にたてついてるね」
「そのことをずっと人に話さないから、きみは三年もの間ここに立ち続けていたんだろう?」
「みんなが、気づかなかっただけだよ。わたしの頭がおかしいって片付ける人は、いっぱいいるんだしね」
 ぼくは尻に弾みをつけるだけで、よっと立ち上がった。ぼくがしたためたわけじゃないが、筋書き通りにいっている。素性の知れなかった里子の本籍は、神田泉橋。さすがに白木優子も洗えない場所というところか。風鷺も割り出せなかったし、里子のお家なら、里子の素性を隠し通すことができた。
 元直参旗本七百五十国の名家がなにを考えているのかなんて、ぼくにわかるわけがない。けれども里子を見ていれば、いまもお家に強いサムライの威信があることを確信させてくれる。
「きみ、やっぱりおばけじゃないんだよな」
「わたしは、ちゃんと実在してなきゃ困るよ」
「わかった。ぼくも、きみが生身の人間として、生きていってほしい。でも、生臭く生きてほしくない」
「そんな心配は、いらないよ」
「ここにずっと、りんと立っていた女性だもんな」
「それももう、終わらせてくれるんでしょ?」
「終わらせなくてはならないんだろう?」
「わたしは、前を歩きたい」
 ぼくはなんとも深くうなずいてしまって、歩き出した。さすが武家娘というべきか、最初から感じていた迫力が、いまはだいぶすさまじかった。

5 ぼくたちの生きる場所(完結)(7月29日UP)

 神保町にいる時は必ず午前七時前に起きていたのに、もう、かなりまちまちに目を醒ましている。周りの事情を考えてそうなったが、やはり神保町での生活習慣がいまのぼくには合っている。どんなときにも古本屋を回るクセがついているぼくにとって、いつでも午前九時には家を出られるようにしていたい。
 古本屋でいくらでも時間調整できるぼくは、いつどこへでも行ける準備が整っている。
 今日も父親は午前九時の出勤だったろうが、結局今回の里帰りで合計五分顔を合わせただけだった。向こうがそれでいいのなら、ぜんぶそれでいい。
 もう、父親とぼくは仲が悪ければ悪いほど、単純にそれでいいのかも知れない。変に中途半端などうでもよさも、別に救いになってくれるわけじゃない。
 ぼくは手早く出掛ける用意を済ませると、階下に降りる。
「おはよう」
「あら、ええ、うん、ええ」
 リビングに入っていくと、母親はアイロンがけをしながらびくっとして、あさっての方に返事をした。
「風鷺は、やっぱりぼくが引き取ろうか」
 母親は慌ててぼくのほうに振り向いたが、ぼくの目は決して見なかった。
「あら、その、ええ、あの、それがいちばん、風鷺のためになると思うのよね」
「そうかい。娘のためを思うなら、じゃあ、そうした方がいいよな」
「ええ、ええ、とうさんにしっかり報告しておくわ。手順はどうすればいいの?」
「手順の第一は、とうさんには黙っていることさ」
 今度は母親がもっとびくっとしなければならないのを、ぼくもしかたのない気持ちで眺めていた。
「そういうわけにはいかないでしょう」
「そういうわけにはいかないさ。でも、そうするしかないのも、あの人のせいじゃないか」
「だって・・・」
 結局、父親のできないことを母親がフォローできれば、それはそれで問題ないのだが、母親はそういう器用な人じゃない。それにしても、父親に話が通ればなにがどっちへいってもこじれるのだと、どうしてこうもわからないものなのか。
「月に三十万円あれば、風鷺はひとり暮らしして生活できる。ぼくと近くに住むから、緊急の時の心配は一切いらない。それだけだよ」
「三十万円はちょっと」
「それならぼくが大学をやめる。ぼくの学費はいらなくなる。ぼくも、大学をやめれば自分の生活費を倍は稼げる。風鷺には精神障害年金を受けさせて、足りない分はぼくが支援する。親の仕送りはゼロでいい。三十万円かゼロか、選択肢は二つしかないよ、間はないよ、かあさん」
「とうさんに・・・」
「親としての責務に、時には命の欠片くらいは懸けてもらうよ」
「ちょっと、お願いだから待ってちょうだい」
 確かに素敵な家だと、ぼくはソファに軽く座り込んだ。
 ぼくは、両親が損をしているのかどうか、よくわからない。子供の未来に出資するなんて考えは、風鷺に裏切られ、両親はもう完全に放り出している。そんな風鷺の独立なんかあてにしてはいないし、面倒事を抱えたくない二人の気持ちはよくわかる。それに、勝手な生活をしているぼくだって、あてになるわけがない。
「あのさ」
「なによ」
「いろいろあるだろう、人生って」
「だから、なによ」
 母親は怖い顔をしていたが、やっぱりぼくの顔を見ようとはしていなかった。
「人生っていろいろあってさ、いいときもダメなときもあって、その間ずっと、両親だけで子育てなんてしていけるかな。あの人だって職場でそんなに器用に立ち回れないし、かあさんだって見掛けほど人生を謳歌しているわけじゃない。ふたりでがんばろうとして、無理しすぎたんじゃないのかな」
「そんなことは、どこもやっていることでしょう」
「どこもやっていることだからこそ、むざむざみんなと同じ失敗をすることはないと思うのさ」
 母親の感情が急速に乱れていっているのはわかるが、どれほど乱れていても、ぼくには関係ない。ただ、母親には、どうせ最終的に風鷺の処理をぼくに任せたいという事情がある。
「自分はなにもしないで、人が一生懸命子育てしていることを失敗だのなんだというものじゃないわ」
「なにもしないさ。ぼくは、そっちのふたりでどうにかしようとしたって、どうにもならないのがわかるもの」
「自分で子供を育ててみてから、そういうことをいいなさい」
「ぼくは、ふたりで無理したのに報われないで、残念だったねって悲しんでるのさ。結局、風鷺がどうなろうと、ぼくは最期には見捨てるだけなんだしね」
「自分はそうやって、いつでも逃げられる場所にいるんじゃないの」
「そのとおりさ。それなら、そっちはなぜ風鷺をがんじがらめにして、逃げられなくしたのさ。風鷺を育てるのに、両親ふたりじゃどうにもならなかったのに、まったく困ったもんだよな」
ぼくとしても、自分のいい分が母親に正しく伝わっているとは思っていなかった。母親も、積極的にぼくのセリフを理解しようと乗り出したりはしない。
「でも、それならわたしは、時代にだまされたの?」
「まだ終わっていないんだよ。風鷺には、未来がある」
「そうよね。なんとかその未来が開けるようにしなくちゃいけないわよね」
 母親も、だいたいわかっていないようなことしか口にしないが、両親とも中途半端に幸せな育ちだということか。それでも母親にはまだ救いがある。人のいい母親はひたすら風鷺の未来を棄てていながら、ぼくの元でなら光るかも知れないと、とりあえず思い直せるのだ。
 やっぱり、父親は母親のようにはいかない。
「風鷺がいなければ、今回の里帰りでも、ぼくは親と一言も口を利いてなんかいないよ」
「もう、いいわ。やめてちょうだい」
「そうやってまた、風鷺を部屋の箱にしまい込む」
「やめてっていってるの」
「やめるさ。ぼくはもう、風鷺のことを見捨てることも、憶えるからさ」
 ぼくはできるだけすぐにその場を後にしようと、勢いよく立ち上がって歩き出す。かあさんの息切れしたような嘆息が背後から聞こえる。
「ちょっと待ちなさいよ」
「なに?」
 ぼくはちゃんと立ち止まったが、首だけで振り向いた。
「月三十万でなんとかなるのね?」
「バカじゃないのか、かあさん」
「そう言ったじゃないの」
 ほかの事情がなかったら、ぼくはいま、もっとちゃんと怒っている。
「風鷺が運動会でどんな活躍をしたのか、憶えてないのかい? 風鷺が弁論大会で書いた文章をいつ読み返した? ましてや、風鷺が一橋大学の入試試験に見事合格したのはたった二年前の話だ」ぼくはあらためて、こじゃれた風景を見渡す。「風鷺はなんとかなるんじゃない。風鷺は、おおきな翼を持った人間だ。ぼくに仕事があるのなら、風鷺の足に引っ掛かったひもをほどくことだけだ。そうすれば、風鷺の翼はいやでも空を飛んでいく」
 一度うっと絶句した母親も、どれくらい内心に響くものがあるのだろう。少しでも響けば、それでいいか。風鷺の可能性は、ぼくにちゃんと見えていればいい。
「そうよね、そうだわよね。ええ、風鷺は飛び立てる娘よね」
「家の中でのいさかいや、風鷺自体のアンバランスさにばかり気を取られて、自分の娘の本来の姿が見えなくなったのはだれか。人間はだれもなかなか大人じゃいられないもんさ。だから、かあさんも風鷺の母親であり続ける必要なんかなかったってことだし、そんなことは無理だったってことじゃないかな」
 ここまで言っておけば、あとは母親が父親から風鷺の生活費を出させるだろう。もちろん月に三十万円もいるはずがない。結局は、両親とも風鷺の負担を祓いたいのだ。ぼくがいくらなにを言っても、変わることのない心情だ。
 なんと言うか、ぼくもどうしようもない人生をどれくらい生きてきたものか、それにしても父親とこんな関係になりたかったわけはない。けれど、もはやこの町を出るきっかけになった原因の、些細なひとつでしかない。



 代官山の街並みに溶け込んだ光怜大学のキャンパスには、厳格だが、しゃれた旧館が建ち並ぶ。後期休みのいまもこの大学は人の出入りが盛んで、国立大学に最も定義の近い私立大学のひとつだった。総合的な偏差値は涼成大学よりやや高めだが、いちおうこの二校はライバル関係にある老舗の明治三年創立だった。
 新築の文学部本館新館に入り、エレベータで十二階に上がる。エレベータを出てすぐの中央廊下を進んで、三○三号室に入る。三○三号室は二十畳くらいの広さに理系の実験室のような設備が整っていた。その部屋の奥に三○三号室準備室のドアがあり、指示通りこっちをノックした。
 ここまで館内に人気はなく、電灯もごく最低限しか照っていなかった。
「どうぞー」という放り投げるような声に、ぼくは準備室に入っていった。中にはちゃんと明かりが灯っていて、いろんな金具の置かれた縦長八畳くらいの部屋に、無精ひげをボリボリとかきながらパソコンに向かう男がいた。
 ひげを落とせばすっきりした中性的な顔立ちだろう。北原修子が紹介してくれた高坂良二教授は、実年齢が四十代半ばのはずだったが、見掛けは十歳ほど若く見えた。
 ざっと見渡せば、部屋の中はなにしろ昔の金物屋か用品店という感じだった。ぼくはいくつもの鍋が積まれている横で、促されるままパイプいすに腰掛けた。高坂教授はくるっとぼくのほうに回転いすで向き直り、気楽そうに「やあ」と手を上げた。ぼくは、あっけらかんとした笑顔に戸惑わないよう礼をする。聡明な北原修子を直属の学徒にしているくらいだし、どうせ油断ならない人物に決まっている。
「よくここへやってきたね」
「いま考えてみれば、それほど苦労はしませんでした」
「うん、本来はそうなんだろうな」
「ただ、みんな、結局は秋野くんの死に無関心だっただけで」
「まあな。所詮人ごとっていうのは、そんなもんだ」
「ぼくは、自分にとって大事なことだったから」
「クジとしては当たりじゃないかな」
 この準備室には窓もなく、ひたすらパソコンの機動音や空調のうなりだけが聞こえる。高坂良二は、だれよりも居残りで研究に入れ込んでいる感じだった。あの華やかな代官山の街からちゃんと歩いてきたか、ぼくは若干自信をなくしかけた。
 この代官山も、涼成大学のある渋谷も、神保町も、本来古い町だ。時代と共に変わっていくものの中で、光怜大学の新校舎も老舗の歴史を語るものになる。光怜大学は新校舎にも旧校舎にも、街の時代をよく知っている安心感がある。
 高坂良二には金居大学も光怜大学も似合う、こだわりのない雰囲気があった。どこでも研究に没頭できる集中力が、高坂教授にはみなぎっている。
「先生は、真相を知ったから金居大学を追われたんですよね」
「まあ、そうだが、きみもいきなりだな」
「いきなりの方がいいかと、判断しました」
「それなら、それが正解だ」
「先生と同じ真相を究明しようとして、秋野くんは殺された」
「ふむ」
「それは、ごくごく身近な事情だったんじゃないですか?」
「まあ、そうだがね」
「日本が負けた、太平洋戦争という」
 おどけた顔で高坂教授が床に積まれた鍋に目を落とし、ぼくも同じように鍋を見る。戦時中に使われていたうすっぺらい金鍋の量販品で、兵器生産のために本気で国民から徴用されたものだという。ほかにも様々な金物があるが、逆に言えば、当時の日本国民は、生活の中であまり金属に縁がなかったことを思い知らされる。
「太平洋戦争がどうしたと、秋野くんだけでなく、きみもまったく、よくわかったなあ。なにかの縁があったのかね」
「縁がないではありませんが、いまのところはぼくの目星とも言えます。だから真相を聞きたいんです」
「目星と言えば、カンみたいなものかねえ。しかし、それならわたしの方はどこから話せという?」
 高坂教授は床のやかんを拾い上げて、そこから湯飲みに麦茶をついでくれた。やかんもまた、戦時標準品らしかった。ぼくはなんとなく飲む気も起きなかったが、もちろん湯飲みは一礼して受け取っておいた。
 三○三教室は様々な火器を使用できる実験室としてつくられ、戦時中連合国が使用した焼夷弾についても威力研究がなされていた。世界史学科の教授として、高坂教授が専門分野を極める意欲的な研究だった。
「金居第一高校の裏庭にある古井戸から新東団地の一本杉の下までは、一五〇〇年代に抜け道の地下トンネルが掘られた。鞠姫伝説なるものは大概作り話で、この抜け道がつくられた由来ははっきりしていない。けれども、戦国時代という乱世になにかしらの事情があったとは容易に察しがつきます」
「うん。それが、まあ、昔の逸話のようになっていて、知る人ぞ知るところなんだな」
「そうです。この抜け道のことは、知っている人は知っていた。それは太平洋戦争中もそうです。あの一本杉の下には、いにしえの抜け道を利用した、大規模な防空壕がつくられた。違いますか」
「違わないね」
「そして、戦争中、金居第一高校の古井戸は防火栓だった。違いますか」
「違わないね」
「それなら、秋野くんは、太平洋戦争で空襲を受けていた頃のあの町を調べていた。あの町には大規模な飛行機工場があって、たくさんの兵器工場も散らばっていた。そして、市内でも爆撃での民間死者は、大戦中千人を越えたそうですね。本当は、整地された新東団地からも、工事中何発も不発弾が出てきていた」
「うん。よく調べたもんだ」
 高坂教授としてもこの件で金居大学を追われたのに、あっさりとぼくにうなずいてくれる。もっとも、ここは容易に冒すことのできない光怜大学の研究棟。治外法権に近いものがあって、いまの高坂教授をとがめるものはなにもない。
 それに、高坂良二は職を解かれただけで、秋野幸平と同じように殺されるのを恐れたわけではないし、北原修子という子飼いの人間を金居大学に入り込ませている。高坂教授はなんとなく、調べたいものは調べる、という一般的な学者肌の強い匂いも持っていた。
「極端に言うと、ぼくはなにも調べていません。ぜんぶ、カンです」
「始まりは秋野くんと同じということかな?」
 それでは秋野幸平に悪いと、ぼくは心の中で礼儀を払っておいた。
「この市内の爆撃記録は調べられても、古井戸のことや一本杉のことは、どの記録にも一切見られない。でも、先生はぼくの予想にうなずいてくれたじゃないですか。なぜ、これほど記録が残っていないのか」
 意を得たというよりに、高坂教授は笑顔でうなずいた。
「それはきみ、記録が伏せられているからじゃないか」
「だからこそ、秋野くんは調べていた。隠蔽されていることを暴こうとしていた」
「太平洋戦争の傷跡は、根深いものだよ」
「もっと実感できることだと思えます」
 ふむ、と高坂教授はおどけて身をすくめ、ぼくを眺めるように見る。
「言う意味はわかると思うが、きみも、深入りはしない方がいいんじゃないのかな?」
「もう充分、深入りしてしまいました」
「どうかな?」
「戻ることはできません」
「いや、いやいや、申し訳ない。試したわけでもないんだ」
 高坂教授はなんだか懐かしそうに部屋の天井を見上げ、柔らかく笑った。ぼくが同じ方に目をやってみると、教授の見ていたのは天井の白さではなく、釣り糸でぶら下がったプロペラの戦闘機の模型だった。その大型の胴体は、軽戦闘機のゼロ戦ではなかった。確か雷電というやつで、B-29の本土爆撃に防空戦をした機体をモデリングしたものだった。
 高坂教授はうなずきながら顔を戻して、ぼくも返事をするようにあごを引いた。
「一本杉の下に掘られた防空壕な、あそこは昭和二十年の七月に爆撃で埋まった。死者は二〇〇人近くいる。この市内で死んだ千人の実に五分の一だ。ところが、この二〇〇人は、カウントされていない。つまり、正確にはあの市内で約一二〇〇人が爆撃で殺されているわけだ」
 知識を持っている人というのは、これだけの事実を知っているものなのだ。
「なぜです? 当時のお役所やなんかとしても、そんな間違いは許されないはずだし、二〇〇人も収容できる防空壕がつぶされたのなら、大騒ぎになるはず」
「戦争も末期の当時のことだ。事情というやつもいろいろあるだろう」
「その事情を、秋野くんは調べていたんですか」
「きみは、引き継いで調べるかね」
「いえ」
「そうか。まあ、秋野くんの死を超えてこの問題を追うべきか、わたしには判断がつかないが、彼のまとめた調査書の写しをきみに進呈しよう。後は好きにやりたまえ」
「調査書ですか。しかも、それが完成していながら秋野くんは」
「問題は、あの町をどうするかによる。これは現在から未来への問題だ。秋野くんもそう考えていた。過去の記録を正確に書き移すだけでは、問題が指摘されるばかりでいいことはない。彼自身も真相を究明するだけじゃ、ヒーローにはなれなかったのだよ」
「秋野くんはヒロイズムを持っている奴でしたけど、あこがれたいとは思いません」
「まあ、そうだね。悪にもなれんし、単純さがむつかしい男だったかもな」
 教授は中空に秋野幸平の姿を思い浮かべるように、あどけない顔を浮つかせた。なんとなく、この教授はきつい想いをたくさんしてきているんだろうなと、ぼくは勝手に思った。
「もう、だれが悪役なのかだいたいわかってきてますけど、あの古井戸は一度防火栓になったものを、戦後、武家時代風にリメイクしてますね?」
「まあ、芸が細かいよね」
「町には何気なく鞠姫伝説なんて昔話が流れてます」
「うん、だから、正直セコいんだけどな」
「やっぱり、もうだれが悪いのか、わかった気分です」
「まあ、それはそれ、ほいほいっと秋野くんの調査書を拝読してみたまえよ」
「はい、どうも、ありがとうございました」
 ぼくはハヤる気持ちで秋野幸平の調査書を抱え込み、うなずく教授に礼をしながら立ち上がった。立ち上がってみて、あらためて焦った気持ちになるが、それは呆然としたものに近かった。秋野幸平の代わりに自分がヒーローになれるという自信でもあればよかったんだろう。
 やはり高坂教授がうなずいて、ぼくは今度はちゃんと深く礼をして、湯飲みの茶を一気に飲み干した。高坂教授は軽い手つきで湯飲みを受け取り、ぼくはぷふーと吐く息を聞きながら、きびすを返して部屋を退出した。



 光怜大学を出たぼくは、JR線にアクセスして涼成大学に入った。なじみの個人閲覧室にこもって、秋野幸平の調査書にコネクトする。かなり限定的なシフト・モーションをしないと内容に触れられないよう、データにはフェイクが掛かっていた。
 ぼくはまず最初にその調査データを流し読みし、すぐ風鷺にネット上の内容を送る。本当は外部への送信許可が下りるデータではなかったが、風鷺の方が受信者としてプロテクトを外した。そこら辺のことになると、ぼくの技量では無理だ。
 風鷺の了解だけ受け取ると、あとはぼく自身、その場で調査データを読みふけった。兄妹ふたりが、違う場所で同じデータに目を通すことになる。



 一通り秋野幸平の調査データを吸収したぼくは、急いで涼成大学を出、地元に戻った。風鷺は、駅横のふたつ目の通りで待っているとメールを寄越した。ぼくは慌てて時間を確認する。地元に着く頃は午後七時を回ったあたりで、夜のとばりは落ちている。
 ぼくの知る限り、風鷺がちゃんと外出したのは二年前の一橋大学受験時が最期、その後は、少なくとも五分の外出だって何日もの準備を必要とした。今日みたいにひょいっと出てくるようなこととなると、もうぼくの記憶にはない。
 ぼくは地元駅で列車を降りると、ともかく走った。風鷺は指定した通りの曲がってちょっといったあたりで、ガードレールにちょんと腰掛けていた。だぶっとダッフルコートを着ているだけで、素足がコートの裾から覗いている。部屋着をそのままにすっぽりコートで覆っているだけなんだろうが、いまの風鷺がとびきりかわいく見えなくてどうする。
 ちょっと生意気な仕草で両手をポケットに突っ込んでいた風鷺は、暗みの中でも花咲くように笑った。ぼくはしっかり息を切らしていて、よっと風鷺の隣でガードレールに腰掛けた。
「やあ、ついおまえが穴蔵の底から出ちゃうほど急な用で済まなかったな」
「いままでのすべてが、引きこもったままで済ませられたっていうのにね」
「そうか。それで、それなりの感じはどうだった?」
 風鷺はさもわざとらしくおどけて、横からぼくをのぞき込んだ。
「なにが聞きたいの?」
「なんともなしに、明察かな」
 ぼくはいったん夜空を仰いで、まとまらないことを自覚する。風鷺はしゅっと鼻をすすり、かすかな風の音と同じ小ささで、消え入ることも恐れぬように笑った。
「すべての煙を消すことは、出来ないんだよ」
「どういうことだ」
「だから、おにいちゃんは秋野くんの調査内容を、いま把握したし、そしてわたしも知った。そうして結局、人から人に伝わってゆく中で、人々の中から真実を隠し通すことは出来ないってこと」
「そうか。そうだな」
 秋野幸平の調査書を手に入れることができたんだから、ぼくが動き回ったのも無駄じゃなかった。いまは結構感慨深い気分もある。すべては、秋野幸平が真実を追い始めて始まった。いままで真実を知っていた人たちが、長い間、口を閉ざしていたことだ。
 すうっと夜気に溶け込むかのように、風鷺は柔らかな笑顔であごを上向けた。
「だからね、それなら、おにいちゃんがやりなよ」
「・・・・・」
「秋野くんの初七日はまだだし、タイミングとしても、いまが売り時の話題だと思うよ」
「おまえがそう言うなら、そうしたいけどな」
「わたしのことは、なしだよ」
「そうも思っているんだけど、おまえ自身が思っているより、おまえはなにかに絶対欠かせない」
 風鷺が気持ちよさそうに夜風を受けて、ぼくはどきっとする。慌てて横顔を見ると、小癪な妹は首をそっぽに向けておかしそうに笑った。純情でもあって、そして、よっぽどひねた笑い方でもあった。
「この世界は、変わっていかなくちゃいけない。変わらないなら、きっとわたしは、ひきこもりのままだよ」
「秋野くん殺しの犯人がこの町で生きていけなくなっても、ぼくたちの両親は元気に生きてくと思うぞ」
「あたしは、薙ぎ払うように一掃しなきゃならないものだけを相手にしたいな」
「おまえが本気になっちゃったら、すべてを塗り替えることも出来るのかもな」
「元ひきこもりが、どこまでいい役をかっさらえるかな」
 やっぱり、風鷺にはヒロイン役がよく似合う。ずっと我慢してきたぶん、はち切れた役でいい。
「母親と話がついてる。風鷺を都心に引っ張っていくってな」
「へーええ。ますますお世話掛けっぱなしでダメだな、わたし」
「そうじゃなく、この町で実家に残されたら、すべての真実が明かされた時におまえはどうするつもりだったんだ?」
「そりゃ、戦うつもりだったよ」
「ふーん。なんともな」
 すとんとステップを踏んで、風鷺がガードレールからアスファルトに降り立つと、見事なターンでぼくのほうに振り返った。
「ここで戦わなければ、わたしは引きこもったまま老いる。それでもこの世に自分が残せるものはあると思ってるし、自分にもっと可能性があることを信じたい。それなら、今回のことで真実とか正義を名義に戦ってみせて、いまは素直なきっかけを見ようと思った」
 それもおもしろいとうなずくには、まだだいぶ、風鷺の社会性にリハビリも足りない。けれど、まったく悪くない。第一、うちの両親は真実と正義を名義にして戦う人生より、必ずいまのつつがない暮らしを選ぶ。この先両親にとって、風鷺がどんなに煙たくなるかわかりはしないし、それはもはや、ぼくも同じことだ。
「とりあえず、やっぱり風鷺の身柄は都心でぼくのそばに移すよ」
「それよりもいまは、やることがあるでしょ」
「だからさっさとおまえも出向いてきてくれたんだものな」
「真実とか正義の名義のためにね」
「そういう信義がおまえを苦労させても、ぼくは止め役じゃない」
 あはっと風鷺は笑って身を翻した。
「ダメなものはダメ。わたしもダメだったら、そのときはもうダメ。それでも結局、悪いことはできないタチだからさ」
 にっと笑って、風鷺はぽーんと幅跳びをするようにガードレールから降り立った。なんというか、完全にぼくを呆然とさせて、風鷺はひらっと手を振る。あとは勢いのままに、いかにも軽く走って行ってしまった。風鷺の姿が闇夜に消えてしまわないうちに、ぼくのほうも反対方向に勢いよく歩き出す。いま、呆けているひまは、絶対ぼくにはない。



 時間はきっかり午後十時。別に決めていたわけでもないが、この十時という時間がいままで毎日確実だった。ぼくが新東団地の公園広場で丘の上まで昇っていくことは、だんだん愛すべき日課になっていった。それでもその反面、ずっとつきまとう不安と怖れと、そして確実な戦慄があった。
 この世に深いおぞましさがあるから、少しでも愛があれば、ずいぶん得な気分でこの人生を生きていけることも理解した。自分が特別いいことをしなくても、他人もたいていいいことはしていない。結局、いいことも悪いことも、人間のやることは同じ結果になる。同じ結果になるなら、いいことをしている者同士で同じ匂いを感じた方が、未来の可能性があるに決まっている。
 天才がただ天才的な結果を出すところより、だれかの中で時折狙い澄ましたように天才性が弾けるのを見たかったし、自分自身もそういう生き方を見せたかった。それが結局、本来大差のない人間ということだと思える。
 里子は、黒いハーフコートを着ていた。近づいてみると、コートの前は開いていて、中は黒いワンピース姿だった。年頃からしてもルックスからしても、似合うとは言えない大人びた雰囲気だった。
「やあ」
「来たねえ」
「最期の話を聞かせてくれないか」
「そうなるんだよねえ」
 里子はやっぱり遠く馳せた目をしていて、ぼくはその視線の真ん前から少し横にずれた位置に立つ。ぼくが顔を揚げると、里子の口元がきゅっと引き締まって、その気合いが本当にただ者じゃないことをよくよく教えてくれる。いままで三年間ずっとここに立ち続けた信念が、これから歩き出す狙いを定めて逃さない。
「おとうさんおかあさんは、結局、この一本杉の下にたどり着くことなく、死んだのか?」
「うん」
「爆弾で?」
「うん」
「記録では、当夜の爆撃は飛行機工場の攻撃目的で、焼夷弾攻撃ではなかったらしいな」
 結局はこの町が爆撃された記録も、当たり前だが詳細に残されているのだ。ただ、この町は他の町よりさらに、記録を厳重に伏せているだけだった。
「日本の木造家屋を燃やすために新開発された当時の焼夷弾なら、一日の死者がたった千人で済むことはなかったろうね。十万人が亡くなったっていわれてる三月十日の大空襲だとかとは爆撃の目的自体が違ったし、終戦の一ヶ月前だから、アメリカ軍も市民殺傷を明らかに控え始めてた。当夜は純粋にこの町の軍需施設を集中爆撃していて、目標投下率も六割は超えていたらしいから、ある意味では正当な戦闘行為だよね」
 正当な戦闘行為というのもなんだが、当時は国際法で都市爆撃も容認されていたのは確かだ。その中で、ギリギリのルールがあったのだ。
「よく知っているもんだ」
「いちおう、武家の娘だから。海を渡って夷敵が来たら、もちろん、武家が護るんだよ」
「そうか。攘夷か。直参旗本七百五十石の名門だものな」
「神風だって、もともとは源氏の時代、元寇の折りに吹いたものだよ」
「戦闘機パイロットは、大空のサムライか」
「当夜の爆撃自体、この町にあった飛行機工場が攻撃目標だったんだしね」
 里子は、とにかくここに立ち続けた。それに比べれば、ぼくのほうがずっと鈍くさかった。
「里子和子とは、きみのおおおじいさんの弟夫婦の娘姉妹だった。要するに、この地に分家した栗田家の娘さんだな。そして、その里子がきみのおばあさんに当たる。 間違いないかな」
「うん」
「きみの行動は、すべて里子おばあさんの実体験を忠実に再現したものだった。昭和二十年七月、この町で遊んでいた里子さんは焼け出され、妹和子さんとともにこの一本杉の下まで逃げて、両親を待った。けれど、町内会消化班に出ていた両親は活動中に焼け死んでしまった。混乱していた当時、里子さんにその情報は入らなかった。家は燃えてしまったし、姉妹はこの場所で二週間夜明かしして両親を待ち続けた。けれど、今度はこの場所で空襲を受けた。その時、和子さんは死んだ」
 里子はこだわりもなく、こっくんとうなずいた。
「相当なものだと思うけど、当時はよくあった話だろうしね」
「きみが最初連れていた雇い人の女子中学生は、ただ見せつければいい役だった。わかる人にわかるように、わかりたくない人にもよくわかるようにな」
「切太くんのことが試したくなって、和子は電車に乗れないなんて言ってみたりね」
「いつか、試されたことはちゃんと悔しくなる」
「お互いの一生懸命さは、間違いなく魅かれ合っていたんだよ」
 続きを促せばいいというように、里子は涼しげに向かい風を受けた。ほかの女子から聞いたら激しく照れくさい里子のセリフも、どこかしっかり淡々としている。ぼくはもう一度かみしめるように事実を受け止める。
 実際には里子とは祖母の名前だったわけで、いままで里子と呼んでいた目の前の女子高生は神田泉橋、栗田家本家の希織(きお)(きお)という人間だった。「織」という字を書いて「お」と読むのが本家の女子に名付ける名前のルールだから、この地の分家で「里子」という名前だった祖母とだいぶ要領が違うことになる。しかし、それは封建社会のルールであって、差別ではない。希織の家は盆や正月だけでなく、事あるごとに一族の集まる仲のよさだったという。
 もう、本来本家のあった甲斐に戻ることのないうちとは、家族、そして一族の絆というものの意味合い自体がまったく違う。
「この一本杉の下の防空壕は、指定避難場所のようなところだった。二〇〇人収容の大規模な防空壕だった。里子さんと和子さんは、防空壕の中で空襲に遭い、防空壕が直撃を受けたときに脱出できたのは、里子さんのほうだけだった」
「やっぱり、ありがちな逸話でしょう」
 ぼくの視界の隅で希織が笑う。切なさで、ぼくはなんとなく少し笑顔から目をそらした。
「でも、この話には特別だったところがある。きみはこの話のすべてをおおおばあさんから聞かされた。きみの行動は戦災時の行動だと、現代でもわかる人にはちゃんとわかる。そのことに気づきたくない人も、気づく。きみは、おおおばあさんの意志を継いで、ここに立ち続けることで当時の事情を訴え続けた」
「だいたい、そんなところかな。でも、わたしは、当時のおおおばあちゃんの悔しさとか無念のようなものを代弁していたわけじゃないよ。昔のことは昔のこと、わたしに文句があるのは、いまのことだよ」
「当時、里子さんは家族を失って本家に移り、それから学業を終えて、青春時代を終えて、お家の事情で婿取りをした。だから里子さんもきみも、元々の神田泉橋の旗本直参、栗田家本家で生活してきた。じゃあ、この地に分家していた頃のなんの用事があるというんだ?」
 やっぱりぼくは恥知らずだなと、どうしようもない気分を感じる。希織のたおやかに笑う顔と引き締まった口とが、ぼくの中でこんがらがって交差する。
「この町がどうだったとか、どうでもいいんじゃないかな」
「え? そんなこたえか」
 希織は鼻で笑いそうで、やっぱりずっと澄ましていた。
「秋野幸平さんは、わたしの用事を知っていたのかな」
「なんだって?」
「おかしい?」
「いや・・・」
 それじゃまるで、秋野幸平も悪人はそんなにいるものじゃないといっているみたいじゃないか。秋野幸平は悪を裁くヒーローではなかったのか。
「あの人が生きていれば、いずれはすぐわかることだったはずだよ」
「でも、彼の書いた調査書にはきみのお家に関する記述はなかったように思う」
「いらなかったんだよ、きっと」
「そうなのか?」
「そんなものがなくても、充分指摘できることがあったんだと思うな」
「確かに、それは、その通りだろうけど」
 ぼくは、また呆然としてしまった。鍛錬を怠らないから品格も身につくし、丘の上の寒さにもたじろぐことなく立ち続けた。それにしても、希織に感じる深さはなんなのだろう。武家の名家の生まれだからとか、それだけでは済まないものも、必ずある。
「切太くんが告発したいことはもう、充分にあるんでしょう?」
「まあな」
「それなら、いまはそれ以上の事情はいいんじゃないかな」
 ずっと自信満々だったのに、ぼくはなんだか勢いよくうなずけなくなってしまった。
「それにしても、ここで彼の調査書を公表していいのか、確認したい」
「なにがいいのか悪いのか、わからないよ。けれど、秋野さんに準ずることは、ひとつの確かな足取りだと思うよ」
 この町には、戦前戦中に様々な軍需工場があったから、B-29の爆撃目標にされた。このデータについて、公式記録は二重に存在した。
 現在新東団地の建っている一本杉の丘に掘られた大型防空壕が、五〇〇キロ陸用爆弾の直撃を受けて約二〇〇人の死者が出した。その二〇〇人の被害者については、隠蔽された。実際には、一二〇〇人以上の被害者が出たというのが、裏に通っている見解だった。
 ぼくの中にあるのは、哀しさだった。ぼくは、なにを調べているのだろう。よく、哀しみを乗り越えてというが、これがその乗り越えるべき哀しみなのか。それともただ単に千絵に首根っこ引っ張ってもらって帰らなかったぼくの罪が、苦しみを生むのか。
「きみの抱えている事情のほうが、秋野くんの宿命より重いとはな」
「わたしは三年間この町を見てきた。それまでは、おばあちゃんの話に聞くだけの場所だった。三年間この町を見て、ここにはなにもなくて、狭さも痛感できない」
 ぼくは、舌打ちもできない。顔を背けたくなるが、ますます強い希織の瞳をよく見ておこう。
「ありがとう。ぼくは、世界の広さを痛感できない」
「わたしが教えてあげられることは、あるはずだよ」
「また会えるよな」
「ちゃんと切太くんがご縁をつくったんだしね」
「すぐに・・・」
「この町ではないどこかでね」
 希織だって、まったく膝を折ることなく三年立ち続けたのだ。そうして今夜、希織が全身黒の喪服を着てここへ来たのは、ぼくが女子高生杉女の存在から謎を払ったからだ。いまになってぼく自身をあきらめることはない。つらいこともない。もし、つらさがあるなら、ここで進むことをやめて、そのことを振り返った時に感じる想いだろう。
 ぼくには、どんなおおきな目的のためにも、希織のように三年間立ち続ける方法は選べない。ぼくの方がどうしても安っぽくなるのかなと、歩き始める。振り返って希織に手を振る。やっぱり不似合いだが、希織の着ている服は喪服を意味するもの以外のなんでもなかった。
 とりあえず、希織との出逢いはぼくのボロ負けだった。結局、生まれ自体の門閥の違いは確かにあった。けれど、ぼく自体が力不足なことは、結局変わらない。今夜の喪服を脱ぎ捨てて、明日の希織はもう一本杉の下には立たない。いま、希織が残した縁の意味を、ぼくは必ずちゃんと知ろう。希織がますます先へ進む世界で、ぼくがもたもたすることはできない。そうして人は人を知るはずだ。



 隣町の駅前はいつも変わらず中途半端に賑わっている。不思議なのは、ぼくにとって平日も日曜も祭日も、この町の変化に気づかないことだった。結局、ぼくは隣町のことも、自分の生まれ育ってきた町のことも、なにも知らずに生きてきて、そしてただそのまま、この町の住民じゃなくなった。
 なにかと、さみしい哀しさがそこかしこにある。それは、自分は最初からこの町なんかで暮らしてはいなかったんじゃないかという感じだった。自分の中学生とか高校生とか、青春時代みたいなものは、もうまったく見えなかった。
 でも、結局どっちにしたって人間ひとり、たいして変わらないのだろう。特に過去におおきな希望があったような人生は、いまも生きていない。それでもやっぱり、未来の可能性があるから、この先を生きていける。そういう人間の人生は、結局ずっと変わっていくことがない。



 ひっかけ屋ののれんをくぐったぼくは、そのままさっさと奥座敷に入っていった。テーブルの向こうには、もうしっかり白木優子が澄まして座っていた。白いワンピースはごくごくタイトにシンプルで、結局この三回、淡い色が似合う白木優子は白色しか着てこなかったことになる。
 ぼくはいろいろ互いに思惑が交差するのを感じながら、すぐにテーブルの手前で白木優子に向かって座り込んだ。テーブルの上にはウーロン茶が入った二リットルの大型デカンタが置かれていて、白木優子は氷も入れずにウーロン茶を飲んでいた。テーブルにはいい焼酎のセットもあったが、ともかくウーロンハイではなく、ウーロン茶だということがぼくにはわかる。
「やあ」
「ええ」
 逆にウーロンハイだったなら、ぼくと会うことのなかった三年間で白木優子も変わったということだ。どのみち酒は強いんだから、その方がよかったかも知れない。
「ぼくもなかなか気の利いた挨拶が出来ないな」
「うふふ。きっと、いつまでたっても出来ないわよ」
「それが割り切りかな」
「素直さを隠せない切太くんの感じが好きだわ」
飲むかどうか聞くように、白優子が焼酎の瓶を両手で掲げてみせる。もちろん白優子も、いま、ぼくがアルコールを入れないのをわかっている。白優子はぼくのとぼけた首の振り方をおかしそうに笑って、瓶を置き直した。照れられるのならどこまでも照れてやりたかったが、もう素直さだけでは自分の感情を片付けられない。
 どうせ隣の座敷ではどこかのだれかが宴会騒ぎをしているはずだが、白優子の空気感は雑音を完璧に弾いていた。室温は、白優子がかなり低めに設定している。
「きみがぼくを好きだというのはともかくさ、ぼくたちがわりに気が合っていたのは、昔から本当のことなんだよな」
「いきなりなあに? 好きよ。愛とか恋とか、そんなむつかしいことを考えなければ」
「そのくらいの重さがちょうどよかった」
「惜しいところまで来てるのに、あと一押ししてはくれないのね」
 白優子の言葉を思わせぶりというには、ふたりの間で時間は間延びしすぎていた。この二人に交流が続いたのは、やはり割り切りというあきらめがあったからだろう。
「秋野くんとは、どうだった?」
「秋野くんのことは好きだったわ。でも、秋野くんの場合は、はっきりと友達。それ以外の形はなかったでしょう」
「見せかけでは、つきあえたかな」
「確信犯的には、つきあえたでしょうね」
ぼくの調子はたぶん、最高によかった。けれど、どうせあとになれば、いったんひどい風邪を引いておきたいような気になる。ぼくはひとつゆっくりと、ウーロン茶を飲み込んだ。
「でも、秋野くんはきみのことを愛していた」
「そうね。そのことは、言いづらかったわ」
「実はぼくのほうも切り出しづらかった」
「秋野くんの純粋さに、わたしが汚れたなにかを口にしたくはなかった」
「口にするだけなら、きみはだれよりも汚いことをいえる天使だよな」
「だからわたしは、秋野くんには弱かったわ。自分の醜さを見せつけられている鏡みたいで」
「きみは、秋野くんよりも純粋だ。そして、とても純粋な理由で、秋野くんを殺した」
「なあに?」
ぜんぜん疑問をぶつけていない真っ正直な顔で、白優子はぼくを正面から見つめていた。白優子は少し小首をかしげて、少し楽しそうでもあるし、少し哀しそうでもあるし、でも、ちゃんと唇はほほえんでいた。
 ぼくは絶対、秋野幸平のように白優子を愛せなかった。それがいま、切なくわかる。ぼくはえいっとなにかを殴りつけるように、一度強く奥歯を噛んだ。
「昭和二十年七月某日、あの一本杉の下にあった防空壕は、B-29爆撃機による一定の集中爆撃を受けた。防空壕は五〇〇キロ陸用爆弾の直撃弾を受けて埋もれた。避難していた百八十七人のうち、助かったのは五人だった」
「そんな歴史があったなんて、知らなかったわ」
「いまのところ、死んだ秋野くんより正確なことは、だれも知らないさ。秋野くんも、その事実を公表しないまま死んだしさ。そして、当時のことをもっと現実的に知っている人間は、全員黙っている。いま、その真実が堤防を崩れて流れ出そうとしているところだけどな」
「世間にそういった事実が公表されるとき、秋野くんは輝いたでしょうに」
 白優子ならそうこたえるだろうが、輝くヒロイン役なら、白優子に回ってきてもふさわしかったのだ。
「だから、秋野くんは口封じをされたのさ」
「なぜ? どう結びつくというの?」
 ぼくは白優子の声を遠く聞いた。空虚な想いがこみ上げそうになるのを、ぼくはだいぶこらえている。
「杉の木の下の防空壕は、地表から灯火されることによってその場所を教えられたからさ。でなければ、高度三千メートルのB-29から標的はわからない。B-29の編隊は、その日、爆撃行に第一目標、飛行機工場、第二目標、防空壕とした」
 ぼくがあらためて見つめ返しても、白優子はまっすぐな瞳のままだった。
「ちょっと待って、第二目標が防空壕って、防空壕を目標に爆弾を落としたってこと?」
「結論を言えば、そっちの方が第一目標だったんじゃないのかな」
「そんな恐ろしいことがあるわけないわ」
「いいや、あながちさ。たとえば、東京大空襲では十万人が死んだとされているんだ。きみのほうがよっぽど知っているだろう。第二次世界大戦の都市爆撃の本質は、戦勝国が水で薄めているだけのことさ。家屋であろうと、防空壕であろうと、当時は市民の上にボロボロ爆弾を落としたんだ。そして、現実的な戦略として、民間人殺傷目的の空爆作戦っていうのが世界中で展開していたんだ」
「だけれど、それはたとえば病院船を襲うようなものじゃない」
「病院船ではないけど、幼子を最優先して乗せた避難船対馬丸がいとも簡単に撃沈された例もある」
「だから・・・」
「だから、なんでもありだったわけさ。戦場に隠すのは、死体だけじゃないってことだよな」
 ぼくはなにも質問していないが、こっくりと白優子はうなずいた。それはいま、皮肉に、かわいく見えた。
「ひとつひとつ、質問に答えて」
「うん」
「昭和二十年七月の空襲は、約一ヶ月後に終戦を控えてた。爆撃は間違いなく焼夷弾攻撃ではなくて、飛行場も破壊できる陸用爆弾が使用されたの」
「それは、違う人に聞いた方がいいんじゃないのか。もともと滑走路があった場所にいまもどんな爆撃跡があるか、きみの立場なら地つきの企業から聞き出せる」
「B-29は高度三千メートルから爆撃をしたの」
「いわゆる低高度爆撃だな。当日、秩父から出撃した日本陸軍の防空戦隊は高度一万メートルで敵機を確認できず、燃料切れで帰還した。この日は市内の高射砲も撃たれた気配がなかったそうだ」
「つまり、高度一万メートルからの高高度爆撃じゃ、B-29は防空壕を狙えなかったから?」
「むろんさ。低い位置から爆撃した方が、命中率は上がる。そもそも、終戦間際のこの時期、帝都の防空戦隊は稼働戦力もカツカツだった。高度三千メートルからの低高度爆撃は、もはや珍しいことじゃなかった。この町の主要な人間は、みんなそのことを知っていた」
「じゃあ、防空壕爆撃も実験的なことだというの?」
「爆撃っていうのは、最終段階に入ると、戦闘機による機銃掃射をするものだ。つまり、市民殺傷が目的だな。それに、釈迦に説法だろうけど、爆撃機っていうのは戦闘機に援護してもらうもの。この日の記録では戦爆連合二百八十二機のアメリカ軍機が飛来したそうだ。ところが、この日、実際敵戦闘機を確認した人間はいない。それに、この地域で市民殺しの機銃掃射が行われた事例も、当時は皆無になっている」
「市民殺傷を目的としていないのに、防空壕爆撃をしたということ?」
「そうさ。連合軍としても、ソ連参戦が絡んで終戦を急いではいた。けれども、日本人を殺せば殺した分だけ、早く戦争が終わるわけじゃない。この日の爆撃には、それなりに理由があった」
「まさか」
「心当たりがあるなら、それが当たりだ。きみは賢すぎて、周りは、きみほど賢くない」
 初めて白優子がぼくから瞳をそらし、軽く両腕を胸の前で組むと、静かな鼻ため息を吐いた。思い出したようにどこからか人々の嬌声が聞こえてきて、そしてリフレインしていった。ぼくは天井を見上げて、張り板のはがれ具合を見る。相変わらず、隣の部屋からは景気のいい騒ぎが響いてくる。
「やっぱり、信じるにはむつかしい話だわ。わたしだって、よっぽどこの町をどうしたものかと思ってる。けれど、話にはレベルがあって、限度があるわ」
「防空壕なんて、狙って爆撃できるわけがないんだ。地表からその防空壕の場所を灯火で知らせた日本人がいるっていうの、おもしろくはないか」
 白木優子は再びぼくをまっすぐ見つめて、少しも揺れなかった。
「それこそ、冗談ではないわ」
「冗談じゃないさ。だから、当時のことを告発しようとした秋野くんは殺されたんだしな」
「だれに・・・わたしにといったわね」
「灯火行為をしたのは当時のこの町の名士、有識者だ。これ以上の戦争に反対して、そして戦争終結目的の名目の元にな」
「防空壕の場所を教えて、なにが戦争反対なの」
「名目はバンザイ降参をするということさ」
「なんて言えばいいのか」
 なんて言えばいいのかは知らないが、白優子が言葉を失ってはならない。ぼくは自分がやらなくてはならないこと以外のすべてにバンザイして降参ができるし、それは白優子のほうが徹底していることではないか。
「あの防空壕には、この町の東部町内玄武団も避難していた。町内で本土決戦を唱えていた者たちだな。連合国がどうしても避けたかったもののひとつに、占領後のゲリラの問題がある。平和が来るには、終戦すればいいわけじゃない。占領地を沈静化する必要がある。もはや連合軍には占領後政策が重要で、日本国土の民意も計算する必要があったんだ」
「すべて、データは出そろっているわけなのね」
「連合国は、もともと日本の天皇制を読み切れていなかった。天皇陛下が終戦宣言しても、ゲリラが抵抗を続けることを恐れていたんだな。当時の日本人からすれば、とんでもない話なんだろうけど」
「そこまでの話、もう、やめられないわよね」
 ぼくは地の底から這い上がってくるような白優子の言葉に、ふと口元を引き締める。いま、ぼくはどんな顔をしているだろう。やめられるなら、やめた方がいいかもしれない。最期までたどり着くなんて、それほどこだわってどうなるのか。
 ウソで塗り固めるという言葉があるなら、真実で塗り固める必要は、あるのか。
「要するに防空壕爆撃は、この市を支えてきた名士や有識者たちが、究極の状態の中で採った方法だったんだよな。ぼくはそれを理解できるし、身近な人に犠牲者が出たわけじゃない。けれど、当時の市政を克明に究明した秋野くんの調査書を表に出せば、名士や有識者や、彼らの周りにいる人間はどうなる? その中の一人であるきみはどうなる? という話だ」
 ぼくはうまく笑おうとして、笑えなかった。もうそれでいいと、ぼくはやけくそにうなずいていた。
「どれだけのだれかさんが失墜するかしらね」
「だれとかじゃない。この町の古い体制が、失墜するのさ」
「切太くんは、もうこの町には縁がないのじゃないの?」
「気づいたんだ」
「なにを・・・」
「どこにいても、古い地球人がいてはダメだってこと」
 むしろものすごく安心したように笑った白優子が、すっとウーロン茶を口に含んだ。ことりと音がして、白優子はコップをテーブルに置くと、テーブルの傷に目を落としてまた笑った。
「わたしが殺したという証拠は?」
「そんなことが聞きたいか?」
「ぜひとも」
 ぼくは力が入らない首で、かすかにうなずいた。
「秋野くんを相当に酔わせられるのも、「オレは飛び込む」と書かかせられるのも、きみじゃなきゃできないことだからさ。そして、秋野くんが井戸に突き落とされるほど背後に気を許したのも、きみが相手だったからだ」
 気もないように白優子が笑う。
「いわゆる状況証拠ね」
「そりゃ、秋野くんの見栄が問題だもんな。でなきゃ、あの秋野くんが酔っ払って井戸に転落するなんて軽率な真似をするわけがない。ましてや、「オレは飛び込む」なんて、酒をあおった勢いで書いたものだろう。彼はどこまでも、愚直なまでにきみに認めてもらいたかった」
「そこまで言うのなら、状況証拠ではなくしてよ」
 ぼくはだんだん、苦しく吸い寄せられるように白優子の瞳を見つめていた。
「きみは、この町を出て、広い世界で活躍したかった」
「そうね」
「けれど、結局きみの経済面や政的な地盤はこの町にある。きみにはこの町で優位に立っておく必要があった。そうして初めて、きみはこの町の外で尽くせる力を持てることに、ある日気づいてしまったんだ」
「切太くんのようにこの町を捨てて出て行くことは、わたしにはできなかったというわけね」
 どちらかというと同意を求めるような白優子の涼しい笑みに、ぼくは苦しみを強めながらゆっくりうなずいた。
「きみの動きは、市議会議員たちと名士連のやりとりを追っていれば、ひとつひとつ上げるまでもなくキャッチできる。けれど、問題は、実行犯じゃない。あくまで、この町の体制や体質だ。これじゃ、防空壕の上に爆弾を落とさせたことを公表できず、なあなあにもできず、ただただ無下に隠しきれなかったままになる。この町はそうやってすべて後回しにして、結局あとで慌てている。この町は、昭和三十二年の都市計画では、ぜんぜんベッドタウン化する予定じゃなかった町だったはずだ」
「そうね」 本当は金居第一高校の女性教師に古井戸の見張り番をさせていたのも、白優子だと調べはついていた。白優子は金居学園の理事を使って、絶対に真相が外部に漏れないようにしていた。名士の白木家にはそんなこともできたが、足が着けば逆効果になる。
 結局、北原修子が金居大学に出向して調べを付けていた。高坂教授の知りたいこともぼくの知りたいことも、おおまかにまかなわれていたのだ。北原修子には老舗大学十二校で結束した都心大学会の後押しが付いていた。だから市政も名士も手出しはできなかった。高坂側がそこまでバックボーンを手配してくるとは、優子としても予想だにしなかったのだ。
 けれど、あくまで北原修子が調べたのは高坂教授の研究していたことで、この町にあった事実の全体像だった。だから、実行犯がだれなのか、北原修子はつかんでいなかった。その点、白優子のいう状況証拠というのは、ウソではなかった。
「思えば、鞠姫伝説に振り回された」
「半分の事実だものね」
「あの伝説は、わざと曖昧に世間に流したな」
「さあ」
「まるで奥底では鞠姫伝説が関係しているかのように、細工したろう」
「わたしが?」
「防空壕爆撃を隠したいだれかだろうけど、やっぱり、巧妙な細工はきみの仕業だろうな」
「それも、状況証拠ではなくて?」
「いや、これは状況証拠でいいんだ。防空壕爆撃を暴けただけで、、こっちの勝ちだ」
「そうね。それが正しいものの見方ね」
「これで圧砕がっさいは白日の下にさらされてくれるさ」
 白優子はなんの意味か、少しうつむいてゆっくり首を左右に振った。
「わたしよりあなたのほうが無事じゃ済まないわよ。あなたのかわいい妹さんも」
「ぼくもそれを心配した。けれど、ぼくよりすごいことをこの世に訴えようとしている奴がいる。だからぼくも、物怖じするのをやめた」
「なんのこと」
 もし、これからもずっと、悪巧みをするように白優子と組んでなにかができるのなら、武家娘希織の話もしよう。でも、絶対に白優子が希織を超えないなら、話してもしかたのないことだ。秋野幸平を殺した白優子がどう生きるのかは、ぼくがいたずらに考えるべきことじゃない。
「秋野くんは、まさか殺されるとは思わなかった。でも、ぼくは秋野くんがあっさり殺されたのを知っている。秋野くんよりは、自分の身の周りを固めてくるぞ」
「そんな脅迫するような言い方しないで」
「男を殺すのは、きみの仕事だろう」
 笑みを残したまま、白優子の目尻の切なさは顔全体に広がっていた。結局、切なさは内にしまい込むと思っていたが、消えていかないものなら、無理にしまわなければならない。
 哀しさはもっと痛く、消えることはないだろう。
「わたしはわたしなりに、悩んだのよ。だから、秋野くんにも止まってほしかったのに」
「実行犯は関係ないっていうの、あれは、ウソさ」
「え?」
「しかたがないんだ。きみが実際にやったことなんだから。でも、本当は罪を押しつけたい市議会議員の四人や五人はいるのさ。そして、きみにはやり直しが利くと思う。だから、ぼくはきみを告発はしない」
「そんなの、だって」
「おもしろいよな。戦時中の軍閥政治では民政の代議士なんて権力がなかったのに、戦争を知らないぼくたちは、民主圏の代議士をえらい先生だと恐れてる」ぼくはものすごく意識して、ゆっくりと立ち上がった。「もしぼくにとって人生の敵がいるなら、それはちっぽけな土地の、市議会の議員じゃないさ」
 もう白優子の顔を見るのは最期だと、ぼくの目線が切れる。そのまま、前を向く。光を狙い澄ます視線が強くぼくの目から伸びるのを感じる。そうなるともう、背後の白木優子に振り向くことは、ぼくの人生で一度たりともあり得ない。
 ぼくは最期の二人のデートを終えて、いまは風景がどんなににじんでもいいと思っていた。
「もういいわ」
「え?」
「ごまかさないで」
「なにを・・・」
「ちゃんとさよならをするのでしょう?」
「ちゃんとさよならを・・・」
 ぼくはふすまに手を掛けたまま、背後の白優子に肩をそびやかした。
「町のえらいさんは、なんだってできるさ。その悪あがきに対抗するつもりはない」
「わたしの悪あがきにも、対抗する気はないのね」
「ない。冗談じゃない」
「わたしを犯人だという責任を取って」
「自分で告発しても犯人になれないんじゃないか?」
「だから・・・」
「ぼくは、さよならしなきゃいけなかっただけだ」
 勢いよくふすまを開けて、ぼくはえいっと内廊下に飛び出した。そのまま、振り返らずに歩いていく。



「間に合ってくれてよかった」
「こっちのセリフさ」
「一緒に帰りたかった」
「一緒に帰っているじゃないか」
「だって、わからなかったじゃないの。先にとぼとぼ帰らなきゃならないんだって思ってたわよ」
「ちゃんといい縁があるのさ」
「そうよね? 本当に、そうよねえ?」
「うん」
 最初にぼくたち三人組が生まれ育った土地に団地ができたのは、GHQ政策によるものだった。もともと、日本の家というのは旗本直参の末裔希織や白木優子、秋野幸平の家のように大家族的なものが主流だった。ぼくの家系も甲斐の本家はそんな感じだった記憶がある。
 大学で勉強してからお互いにわかったのだが、千絵も真吾も複雑な事情の中で生まれている。けれども、ぼくは在郷本家の長男として生まれていた。少なくともぼくがいちばんわかりやすい出生をしたことは確かだ。
 それなのに、父親が勝手に本家を東京に移してぼくの血縁を複雑にしたのだが、現行の法律では別にそれがどうだということもないし、お家騒動というほどの珍しい例でもない。けれど、ぼくはまだしも、風鷺はおおいにワリを食った。
 この町での風鷺の生活には、出口がなかった。しかし、風鷺には、この町での暮らししかなかった。それは、昔の千絵に似ている。いまにして思えば、ぼくは今回、一緒に神保町へ帰ろうという千絵の必死さを優先できなかった。完全に家庭環境の崩壊していた千絵にとって、この町を幾度でも捨て去って神保町へりりしく帰って行くことは、なにより当たり前の分別なのだ。
 なにしろ、ぼくは千絵や真吾と共に、必ず神保町に帰るのだ。
「ねえ」
「なんだよ」
「これで、よかったのかな」
「さあな。天使には、これしかなかったんじゃないのかな」
「あたしはよけいなことをしたわけじゃない。でも、きれいな心を汚してしまったように思えて」
「秋野くんを殺した天使が、きれいな心か」
「あの人は、みんなを思っていた。でも、どっちにも救いの道がなかった」
「そうかな」
「だって、だいたい事の発端はあの人が生まれるずっと前の戦時中のことじゃない」
「天使は、先祖想いでもあったわけだ」
「そうでしょうに。だから、あたしはともかくよけいで」
「いいや、ここではっきりさせておいてよかったのさ。天使は、ずっと逃げおおせることを好まない」
「そうかな」
 GHQは、日本の恐ろしい統率力の原因が堅く結ばれた家族制度にあると分析して、進駐してからこの家族制度を徹底的に解体した。実はそれが占領政策の必須要綱のひとつだった。その解体するための「道具」が、団地だった。日本家族の主流は戦後、主に三~五人でユニット編成されるようになった。
 ぼくたちの生まれ育った町は、市政が連合軍と取り引きしたことで、いち早く団地群建設のポイントになった。昭和二十年七月の空襲の段階で市議、役場、名士、有識者の意見はほぼGHQ政策に完全協力することで最終合意していたから、占領政策のやりやすかった町ということになる。
 問題化したのは、GHQ政策も終わり、日本が高度経済成長を始めた昭和三十年代に入ってからだった。それまで市内に団地をつくりすぎてしまったことに気づいた市政は、急速に昭和三十二年の都市化計画を打ち出す。しかし、防空壕爆撃問題が浮上して都市化計画は抹消される。GHQの圧力があったときには口出しできなかった市民たちが、強力に蜂起したのだ。裏に防空壕爆撃時の事情を恨んでいる有力者の煽動があることは明らかだったが、その抵抗の規模を考えると、都市化計画の強行はあり得なかったのだ。
 結局、市政はそれ以来、特別なことはなにもしなかった。そのうちに昭和後期のベビーブームが到来すると、再び団地を造り始めた。そしていま、少子化が進んでいるのに、なお、団地の建設計画が進んでいる。金居大学の総合化を中心に発展しているのは町でも南側奥、中央線にアクセスできる場所だけで、少なくとも隣町の話。ぼくたち三人の生きてきた町は、やっぱりずっと、ベッドタウンだった。
 そこに登場したのが、祖母里子の一家を防空壕爆撃で失った希織だった。希織は、三年間ずっと一本杉の下でにらみを利かせた気合いで、都市爆撃を含む戦争全体の告発をしようとしている。伏線は、この三年でしっかり張ったわけだ。
 そういう不敵な武家娘の生き方を見せつけられて、ぼくもこの町の古い人間を追い落とす気になった。希織に比べれば、まだまだぼくのやっていることなんて小さすぎることもわかっている。だから、ぼくは未来の可能性を考えていい。
「あの町は新しく生まれ変わるんだ」
「うん」
「天使は、その可能性を精一杯示さなければならなかったんだ」
「・・・・・」
「千絵は真吾とますます接近していかなきゃならないし」
「ええ? なんでそうなるの」
「ぼくは、一本杉の子、希織とデートしなきゃいけないしな」
「あれま。なんてこと」
「もし、天使が無罪だったら、本当になにも変わらないだろうな」
「うん・・・」
「天使が自分の手を汚すとき、人は変わらなくてはならないよ」
「うん・・・」
「あいつは、そんな奴だった」
「哀しいんだけど」
「ぼくたちは人のみにくさをこん棒で殴りつけることが出来る。でも、人の哀しさは殴れない。それでいいんじゃないかな」
 希織もぼくも、戦争という狂気の中で防空壕爆撃があったことを、平和な状態で無責任にどうこうは思えない。しかし、戦後、あとがいけなかったことは、よくわかっている。それはもちろん防空壕爆撃だけでなく、希織がどこまで遠く広く狙いを馳せているかは、計り知れない。
 ぼくの未来は、どこまでいけるものか。名士や有識者と言ったって、白木優子も自分の限界を痛感した。ぼくはこの町で、どうにも哀しい苦渋を感じることになった。悔しさとか切なさとか、人生も大変なもんだと茶化すには、想いが交差しすぎる。
「まあ、結局だれが払っても同じになるんだが、おれのおごりでなにかうまいものでも食っていくか」
「帰って酒盛りじゃないのか」
「うまいものも食って、帰って酒盛りもすればいいじゃないか」
「そりゃ、そうだ」
「こうやって間に合うんなら、地元でどんな難題を背負ったっていいんだぜ? なあ? 千絵」
「ううん、地元で難題なんか背負うことはないわよ。どんな軽いものだって、背負うことはないわよ」
 こういうものかなと思う。盛んに横からこづいてくる千絵の愛嬌がありがたい。でも、泣きそうな千絵の顔が思い出されて、時を想う。いちばんよくわかっている千絵の喜怒哀楽がなにより正直で、まぶしすぎる。苦しくても、いまの千絵はなんて正解なんだろう。
 三人でやらなくちゃならないことは、これからたくさんある。それがたった二三日別々になることで大騒ぎになるのは、時に悪いことにもなるが、いまはとてもいいことだ。
「だれを知るかは、自分で決めることだろうけど」
「ええ?」
「自分はなんにもしない場所に、期待しちゃいけないよな」
「だからなによ」
「いいや、少し休んだら、きっと三人で先のことを考えたらいいよな」
「まあ、そうだけど」
「なんだよ」
「なーんか損した気分だわ」
「おまえはいつも損した気分じゃないか」
「人をずいぶん欲張りにいうのね」
「人はほしいものを、手に入れたいと思うんだ」
「なーんか、悟っちゃったみたいで、参っちゃうわ」
「そうじゃない」
「ええ?」
「手に入れたいものを探している人たちはあの町にもいっぱいいる。ぼくたちはそれを、神保町に帰って探す。それだけの違いさ」
 一瞬だけ真顔になった千絵が、ぎゃははというように腹を抱えて大笑いし始めた。
「切太は天使と恋愛をしなかった。でも、この世でいちばん天使の心を奪い去ったのは、他のだれでもない切太だった。それが、あたしの知ってる秋野くんの死因だね」
「それなら、それはただ、それだけのことだしな」
「切太は、ふたを開けてみれば、ちゃんと天使のハートを手に入れてた。ほしいものはお金じゃないし地位じゃないし、恋愛とも言い切れない。そんなツラい駆け引きを、お互いにしんどい想いをしながら続けていくというの」
「そうだよ。おまえが親兄弟相手に怨恨で駆け引きしているのを見れば、ぼくはツラくてもしんどくても、自分がほしいものは本気で手に入れにいくんだよな」
 びしっと一発、千絵の激しい肘打ちがぼくの脇腹に刺さってきた。
「結局、帳簿をつければ割り振りとんとんになるんだけど、今日はあたしのおごりで地獄の底に落ちるまで呑んじゃいなよ、バカ」
「結局、割り振りとんとんなんじゃないか」
「貸しをつくるなんて、おこがましいもんね」
「うん。きっといろいろ、だいぶお互い様だよな」
 軽いエンジン音を振り回して、真吾は夜の街道に車を疾駆させていった。真吾としても、いまさら呆れるような会話でもなかったろう。いまは三人とも、ちゃんと浮かれていればいい。
                        
                                                                                            終わり     

あとがき

どうもこんにちわ
楠 椎 です
紛らわしい名前ですが男子です
この名前にはちょっと想い入れがありまして

「きみのいた町」に触れて下すって誠にありがとうございます
長編はなかなか読んでもらえないと考えていましたが
果報なアクセス数をいただいて
恐悦至極に存じます

さて、のちのち短編掌編もあげていこうと思ったりしておりますが
twitterではすでにいくつかのアカウントで詩のようなものも流しています
このアカウントにtwitter連携も考えるところですが
ひとまずご意見ご感想はtwitterアカウント@utakoto_koikotoまで
もしご縁があるならば
どんなことでもいいのでお言葉いただきたく
そのうちDMのやりとりなど出来たら至上の幸いです

少々、気ぜわしいtwitterのTIMELINEに疲れてます
いまは少し、ゆっくり文章を読み書きしたいです
どうぞなにか一言でも、気軽によろしくお願いいたします

では、いずれの折りに

きみのいた町(7月29日完結)

全5章立てです
随時更新していきたいと思います
五月中に最終5章をUPして完成します
初めて星空さんに投稿させていただくので、いたらないところも多々あると思いますが
なにとぞよろしくお願いいたします

きみのいた町(7月29日完結)

都心の大学に通う切太(きりた)は、元同級生が自殺したと聞いて仲間たちと故郷へ帰る。故郷の退屈な町には当分帰る予定もなかったが、その同級生は薄情な主人公でもよく憶えている自信家の秀才で、自殺をするような人間ではなかった。どうしても引っ掛かる切太はどうでもいいはずだった故郷の町を調べ始める。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 気のない里帰り
  2. 2 この町で生きていくこと
  3. 3 それぞれの想い
  4. 4 哀しみも吹くけど
  5. 5 ぼくたちの生きる場所(完結)(7月29日UP)
  6. あとがき