なまぬるい夢

 私の中の子どもは老いつつあるのかもしれない。長い耳を撫でながらそう思う。なぜなら夜の妄想が、背徳的な香りを放ち始めたからだ。だんだん私はその味を覚える。私は、私は悪い子です。たった五年前までは、木々のざわめきに微笑みを浮かべる少女であったのに。
「ちいちゃん。ご飯よ。いつまで髪をとかしているの」
「はあい」
 母が作るイナゴの佃煮は程よく甘い。私は虫の足をはみ出させて、残酷な音を鳴らしながら食べる。ばりっばりっばりっ。私は不思議だ。私たちは動物を殺して食べているのにも関わらず、どうして食卓で屈託なく笑い合うことができるのだろう。だってこのお肉には元々私と同じように、手足や三半規管がくっ付いていたのでしょう。それなのになぜ私たちは調理する度に泣かないの。このように日常は血なまぐさい事情から巧妙に切り離されている。私は一口噛む度に、ごめんなさい、ごめんなさい、と呟いて、
「ちいちゃん。いい加減にしなさい。相変わらず明るく陰気ねえ」
母に怒られる。
 私は重たいエナメル鞄を持って家を出る。足に馴染んだローファーも真っ直ぐな黒髪も、私の平和の象徴だ。私は絵に描いたような女子高生(兎そっくりの目と耳をのぞいたら)だ。友人の挨拶に手を振る笑顔も完璧だ。きっとこの均衡が崩れたらそれは不幸の始まりなのよ。そう信じて私は呪文を唱えるようにミニスカートを履く。

 私たちは青臭い万能感を持て余している。その証拠に恋人の次郎くんは自分が不老不死だと信じている。放課後になると次郎くんは、校舎裏で私の耳を噛みながらこう言う。
「いつか二十代になるなんて冗談だろう。俺たちは永遠にこのままだ。だってあれから七年も経ったのにまだ十代なんだぜ」
私たちはこのように馬鹿だ。けれど悪いことじゃない。
 体育館裏は野原の匂いがする。芝生が生い茂り、たんぽぽなんかも咲いている。私たちは毎日太陽を求める馬みたいにここに集っては、密やかな悪戯を重ねる。次郎くんは私の長い耳を噛んだり舐めたりするのが好きだ。私からすれば何が楽しいのか不思議なのだけど、そうされるのは決して不愉快ではない。次郎くんの舌は爬虫類のように息づいている。私と同じ人の体なのに別個の生き物のようだ。唾液が絡む音はそこはかとなく金属的で、顕微鏡のプレートがこすれ合う音と似ている。カチャカチャ。だから私の日課は耳を念入りに洗うことだ。複雑な窪みを追う自分の指は乾いていて、次郎くんの舌の感触からはほど遠い。そういえば私の耳はどんな舌触りがするのだろう。
「この奥に鼓膜があるんだね」
次郎くんは私の耳の穴に指をつっこむ。ぐぶっと水の中に潜る時のような音がする。
「君本当に腎臓や脳みそを持っているの? この体に?」
「やめて、やめて」
私は腹をまさぐられてきゃははと笑う。
「もちろん全部入っているよ。私を何だと思っているの」
「兎」
次郎くんはそう言ってから、ふと考え込んで眉毛をよせる。
「いや、兎には内臓が入っている感じがする。だから君は兎ではないね。もしかして俺たちが人間だから、血肉を想像したくないのかな。それって変だね。俺たち人として生きているのに」
「次郎くん、人間を無機質に感じる理由はね。私たちが人の内臓を見たことがないからだよ」
「恐ろしいことを言わないでよ」
「食品売り場の生肉を笑って眺めていられるのに何が恐ろしいの?」
「そりゃそうだけど」
「次郎くんだって手が真っ白」
私は次郎くんの手首をとって頬に当ててみる。その部位は息とは違って冷たい。
「本当に血が赤いの?」
「試してみようか」
次郎くんはにんまり笑って、私の耳を思い切り噛む。
「あ痛」
私の耳朶は薄いからすぐ裂ける。頬を生温いものが走る。指先で追って見てみると、見知らぬ誰かが染めたように唐突に赤い。見ていると鼻がすんとする。お尻の下の石段がやけにひんやりと冷たい。
「次郎くんの血の話をしていたのに」
「そうだっけ」
次郎くんはとぼけて私のこめかみをつたう血液を舐める。次郎くんの息は湿ったコンクリートの匂いと似ている。

「大抵の人は二十才を過ぎたら、夢を見なくなるものよ」
母はまだ幼い私にそう言い聞かせた。当時の私はその言葉が理解できなくて、こう聞き返した。
「どうして? 私は毎晩花や蝶の夢を見るの。けれどそれはとっても大事なものだから、手放そうなんて思わないよ」
「そうでしょう。でもね、そういうものなのよ」
「じゃあ大人は夜に何を見るの?」
すると母の唇は柔らかな曲線を描いた。罪深い微笑みだった。母は私の問いに答えなかった。
 今になり私は母の言葉を分かりかけている。夜毎粘液のもたつきや肉の弾力の不思議な魅力を、顕微鏡で観察するようになってからは。
 布団に潜り込み全身の力を抜くと、体がそのまま溶けていくような気がする。肉体は数多の血肉でできているはずなのに、存在感まで自由自在だ。だから時々私は自分で自分の存在が疑わしくなる。瞼を開ける。薄い筋肉が引き攣れ睫毛が震える。この僅かな生理現象で、今ここにいることを実感する。私は大人になってもこの確認作業を続けているかしら。一瞬そんな考えが頭をよぎったが、大人になってからの生活なんて想像もつかなくて、止めにした。
 目を閉じ記憶の顕微鏡の焦点をしぼる。次郎くんの唾液で濡れた歯、お馴染みの舌の凹凸、唇のひびわれから滲んだ血はきちんと赤かった。口内は剥き出しの内臓だ。今朝食べたお肉の赤が点滅する。試しに口に指を入れてみる。それは私の意志とは別に脈をうち波打っている。噛んでみる。ごりっと芯のある歯ごたえがする。今噛んでいるのは私の骨だ。炙ればきっとフライドチキン。
 夢の国で私と次郎くんは裸で向かい合っている。私たちは正座をして生真面目な顔でお互いの体を眺め回す。着ている皮膚になされたみじめな装飾。産毛。ほくろ。お臍。性器。それらは、自分たちの内側には何も嫌らしいものなんてありません、という顔で澄ましている。だから私たちは大きなフォークを贈り合い、食事を開始する。まずは腹にフォークの歯を突き刺し、あらん限りの力で下にひっぱる。そうしたら次郎くんの皮はきれいにめくれる。皮の裏側はぐったりと湿り生々しい臭いを発している。私の目の前には都会の地図のように入り組んだ毛細血管、黄ばんだ脂肪、ぬらぬらと光る内臓どもが現れる。きちんと整列した臓器はいつか教科書で見た曼荼羅図に似ている。さらに働き者の内臓に刃物を貫通させすくいあげる。柄に絡みついた血管が繊細な音を立てて千切れる。私はとろんととろける内臓の粘液を舌で舐め取り、唇をつけて厳かに啜る。皮膜は抵抗もなく口内に滑り込んでくる。次郎くんは静かに目を閉じている。次郎くんは私にも同じことをする。私たちはにやにやしながら、お互いの中身を引きずり出し、眺め回し、啜り合う。私たちの周りには食い散らかされた破片が散乱する。今や私たちはスーパーに並べられているお肉と同じ姿だ。
 私は軽くなった体で言う。
「ね、同じだったでしょ」
次郎くんは答える。
「うん」
私はそのような妄想に耽りながら、なめらかに、深い眠りにつく。

なまぬるい夢

なまぬるい夢

カニバリズムみたいな表現があります

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2016-04-02

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain