リールの回転

 マックスベットボタンを押し、レバーを叩くと、三本のリールが高速で回転を始める。スイカ・チェリー・バー・リプレイ・ベル・スイカ……昔はカラフルな縦線にしか見えなかった図柄たちも、今では一つ一つ目で追うことができる。
 液晶画面にチェリー対応の演出が出ている。チェリーには強チェリーと弱チェリーがある。左リール、中段にチェリー図柄が止まれば強チェリー、下段に止まれば弱チェリー。中と右のリールは関係ない。
(どうせ弱チェだろ……)
 諦め気味にストップボタンを押す。ほら、弱チェリーだ。
(どうせ……)
 という気持ちで打つことが習慣になっている。良い目が出るようにと祈ったり気合いを入れたりはしない。無意味だ。確率は決して変わらない。何も期待しない方が精神衛生上よろしい。
 恐らく今は高確状態だが、弱チェリーでART(当たりのこと)に当選する確率は、最高設定の「六」でもわずか九パーセント。期待できる数字ではない。そもそも高確状態であることも確定ではない。ややこしい。だからART機は嫌なのだ。嫌なら打つなと言われそうだが、嫌でも打たなければならないのである。
 この店は奇数月の十三日、三台並びで設定六を入れる。これまでの傾向からして、今日はこの台と両隣が六のはずだ。できれば左隣のノーマル機に座りたかったが、先客がいた。常連の老人。どう見てもプロではない。ただいたずらに年金を台に飲ませているだけのギャンブル依存症患者だ。いや、世間から見れば、俺も同じ穴のムジナだろう。
(……それどころか)
 彼の方が、多分立派だ。少なくとも俺よりは。若い頃は何かしら職に就いていたはず。まともに働いて年金を納めていたからこそ、今、年金を受け取っている。その金で遊ぼうが何をしようが文句を言われる筋合いはない。俺は、年金を納めていない。未来の展望はない。夢もない。老人よりスロットを理解しているからといって、誰も褒めてはくれない。
 ギャンブルなのだ。何も生産していない。女に、いや、世間に嫌われる、ギャンブル。飲む・打つ・買うの「打つ」。社会の底辺。クズだという自覚が、俺にはある。
 レバーを叩く。リールが回る。派手な効果音を伴って液晶が明滅する。ARTに入った。九パーセントをつかんだのだ。そういうこともある。そういう偶然の積み重ねで、やっと勝てるようになっている。
 やっと投資が止まってくれた……と思いきや、ARTはあっという間に終了した。まるで一夏の恋のように(そんなものはしたこともないが)。払い出しはたった七十一枚。一枚二十円だから、金額にして千四百二十円。ギャンブルをしない、まともな人間の目には大金と映るかも知れない。しかしスロットは一ゲームにコイン三枚、つまり六十円かかる。今日の俺は展開に恵まれず、既に三万円使っている。その儲けが千五百円弱――一見、狂気の沙汰だ。
 それでもこの台は設定六、つまり「勝てる台」なのだ。設定一ならARTに入る確率は三百六十分の一以下。こちらはその二倍。ARTがそれなりに継続してくれれば勝てる。理論上は勝てるはずなのだ。一日の期待収支はプラス六万円。ちなみに設定一はマイナス二万円。だらだら遊んでいるだけの素人より、俺の方が八万円分も優れているのである。
 博打で一発当てようとしているわけではない。食って寝るのに必要な最低限の金が稼げればいい。決して高望みはしない。だから、そろそろ人並み程度のツキが来てくれないだろうか……。
 左隣の老人が席を立った。用事があるわけではあるまい。単に飽きたのだろう。貴重な設定六を手放すなんて! これだから無知は恐ろしい。
 空き台を待ちながら徘徊している若者がすぐに駆けつけてくるだろう。と思ったら、通りすがりの別の老人が座った。上級者の気配は微塵も感じられない。猫に小判だ。
 さて、こちらはと言えば、先ほど得た七十一枚が飲み込まれた。四人目の諭吉をサンドボックスに突っ込む。
 投資は膨らみ続けているが、気持ちが熱くなることはない。いくら飲み込まれようと、期待値はプラスなのだから、続行が正解。買ったコインを仏の顔で投入する。今日一日の収支はマイナスでも構わない。理論上プラスの台を打ち続ければトータルで勝てる。実際この二年間、そうやってしのいできたのだ。
 左肩を叩かれた。見ると、老人が無言で自分の台を指差している。ボーナス確定のランプが点灯していた。はい、当たりです。おめでとう。
 視線を戻し、仕事に戻る。と、また肩を叩かれた。何ですか? いや、わかっている。目押しを頼まれているのだ。
 リールに描かれた図柄が三つ揃えば何らかの特典があるわけだが、通常は狙っても揃わない。内部で抽選が行われていて、当選しない限り、どれだけ精密に狙っても決して揃うことはない。だから、普段は適当に押せばいい。
 当たった時だけは狙う必要があるが、それもさほど難しい作業ではない。大抵、ボーナス図柄は他に比べてやや大きめに描かれている。少し目を凝らせば見える。しかも、機械が制御して、多少タイミングがずれていても勝手に揃えてくれるのだ。
 そういう仕様だから、素人でも一人で遊べる。基本的には。
 この老人は目押しができないのだ。確かに彼が打っている台は比較的リールが見づらい機種だが、目押しができないなら、打つ方が悪い。目押しもできないのに打とうという神経がわからない。
 目押しの達成感こそスロットの醍醐味だ。本当はただ「揃えさせてもらっている」に過ぎない。それでも、「自力で揃えてやっている」かのように錯覚させてくれる。
 目押しができない高齢者は多い。果たして彼らは何が面白くて打っているのだろう? リールが見えないならパチンコに行け、といつも思う。パチンコは目押しの必要がない。ハンドルを握っているだけでいい。
 無視することにした。だいいち、「揃えてください」と、言葉で頼まれたわけではない。肩を叩かれて、ランプを見せられただけ。頼まれていないのだから、応じなくていい。
 老人は少しの間こちらをじっと見ていたが、諦めたらしく、コインを入れてレバーを叩いた。自力で揃えるつもりらしい。それでいい。自分の尻は自分で拭け。
 横目で老人の台のリールを見る。なかなか揃わない。一ゲーム六十円がみるみる消えていく。四百八十円、五百四十円、六百円……ああ、もったいない! 完全な無駄遣いだ。ただ目押しができないために、老人は手持ちのコインを使い果たし、新たな千円札をサンドボックスに差し込んだ。
 たまりかねて、手を出した。オレンジ色の七図柄を素早く揃える。古風なファンファーレが鳴った。老人の台はシンプルさが売りのノーマル機。ボーナスが成立すれば一定数のコインを吐き出す。
 そして俺は、何事もなかったかのように、自分の台に戻った。心温まる交流など不要。ここは鉄火場、否、仕事場だ。
 老人は、何事もなかったかのように、ボーナスゲームを消化している。じゃらじゃらとコインが排出されていく。
(……一言の礼もなしか)
 呆れた。
 すぐに応じなかったからか? だが、とにかく揃えてやったのだから、せめて「どうも」の一言ぐらいはあって然るべきだ。
 俺が助けなければ、彼はさらに無駄な金を遣い続けたはずだ。それこそドブに捨てるように。店員の目押しサービスは禁止されているから、偶然揃うのを待つしかなかった。そこを救ってやったのだ。コインの一、二枚、寄越したっておかしくない。
 なのに、会釈の気配すらなかった。老人は憑かれたようにレバーを叩き続けている。
 呆れが、やがて寒気に変わった。
 心が死んでいるのだろう。楽しいとか、ありがたいとか、そういう感覚もきっと失われているのだろう。スロットを打つために、スロットを打っている。ベルトコンベアで運ばれていくように、老人はあくまで無感動に、金を、時間を、浪費していく。
 彼のような人間が、きっと日本中にいる。この国はこんな「老後」で溢れている。
 考えたくないことを、つい考えてしまう。俺はどんな風に歳を取るのだろう。将来性はない。皆無だ。今のところ何とか食えてはいるが、貯金はゼロ。体を壊せばそれで終わり。自殺という選択肢が、結構現実味を帯びている。
 辞めればいい。辞めるべきだ。スロットで培った冷静な判断力で、スロットを放棄すべきだ。今辞めれば、まだ間に合う。何に? わからないけれど、何かに。今なら、引き返せる。俺はまだ二十六だ。やり直せない年齢ではない。このままずるずると、何も生み出さない人生を続けるのか? 本当にそれで良いのか?
 撤退だ。立て。立つのが正着手。
(……でも、この台の設定は六なんだ)
 理論上、勝てる台。期待収支は十時間で六万円。今どき日当六万円のバイトなどない。捨てるには惜しい。惜しすぎる。今、席を立つことは、賢明とは言えない。
 スロットを辞めるのは、この台を打ち切ってからでも遅くはない。
 そして俺は、再びレバーを叩く。何も期待せず、ただ期待値だけを追って。

 スロット台には一から六までの設定がある。数値が高いほど、勝てる確率も高い。
 設定を変更するには、台の蓋を開けなければならない。従って、設定変更の作業は営業時間外に行われる。翌日訪れる客の命運は、担当店員の一手に握られている。
 スロット店は慈善事業ではない。商売である。故に、並んでいる台のほとんどの設定は一だ。設定一の台が丸一日稼働すれば、機種にもよるが、およそ二万円を客から吸い取ることができる。ギャンブルだから、設定一の台で、客が勝つこともある。それでもトータルでは必ず店が勝つ。
 とは言え、勝てない台ばかりでは客が打つ気をなくしてしまう。そこで、店は「撒き餌」として勝てる台を少しだけ忍ばせておくわけだ。
 そのありかを見抜くことに長ければ、どうにか食いつなぐぐらいは稼げる。ただ、くどいようだが、生産性はない。
 撒き餌を撒かなくても客が集まる土日は、自然と設定は厳しくなる。そこで俺は、土日だけバイトを入れている。
 どこにでもある、コンビニのバイトだ。この世界に足を踏み入れる前からずっと同じ店舗で働き続けていて、もう五年になる。
 メンバーの中では最古参だが、土日しか入らない上、もともと社交性はないので、友人は滅多にできない。特に必要ないとも思っている。それでも、このバイトが、社会と俺を繋ぐ唯一の架け橋だ。
 スロット店・パチンコ店は、どこの町にもある。すべての駅前に存在すると言っても過言ではあるまい。しかし、どれほどの都会に建ち、どれだけの客で賑わっていようとも、スロット店・パチンコ店は、社会から切り離された特殊な空間である。キャバクラで二万使えば、愛は買えないかも知れないが、少なくとも酒は体内に入る。だが、スロットでは、漫然と遊べば二万がただ泡と消え、何も残らない。
 ゲームセンターの方がよほど健全だ。ゲームは楽しむためだけに作られている。ギャンブルは、儲かるかも知れないという欲望をあおり、客の金を、ひいては魂を吸い上げる。そして、虚無を差し出す。
 日曜日の朝、俺は自転車に乗って、大手スロット店の開店を待つ行列を尻目に、バイト先のコンビニへ向かう。
 客観的にあの行列を見ると、なんて恥ずかしい人たちだろうと思う。みんな頭の回路が何本か焼き切れているのではないだろうか? 朝っぱらからスロットに並ぶなんて、どうかしている。
 いや、平日は俺もあの中にいるのだ。わかっている。俺もどうかしているのだ。もとい、俺の方がどうかしている。自覚しているうちは大丈夫だろう、多分(何が大丈夫なのかはわからない)。
 レジには、早番の西野伸一が立っていた。三ヶ月前から働いている。
 俳優を目指しているという彼のシフトは、いつも朝六時から正午まで。午後は酒屋の配達のバイトをし、夜は劇団のレッスンに行くらしい。以前、一体いつ寝ているのだと訊いたら、彼は笑って「寝てません」と答えた。
 誰とでも平等に接する爽やかな青年。俺の数少ない友人。……一応、こちらはそういうつもりでいる。
 バックルームに入り、パイプ椅子に座って、廃棄の弁当を食べる。コンビニのバイトはこれがあるのが大きい。出勤日の朝食はいつもこうしている。
 米を咀嚼しながら、ホワイトボードにマグネットで貼られた本社からのFAXを眺める。内容に興味があるわけではない。他に読むものがないのだ。ここでスロットの雑誌を広げるわけにはいかない。できれば知られたくない。同じ町のスロット店に通っているのだから、もうバレているかも知れないが……。
 空になった弁当箱を捨て、歯を磨き、エプロンを身に着ける。
 俺のシフトは朝九時から夕方五時。スロット店の開店時刻も九時。生活の歩調は極めて規則正しい。問題はどこにも向かっていないということだけである。
 タイムカードを切り、バックルームを出た。客の姿はまばらだ。朝のピークは既に過ぎている。
「お疲れ様です」
 と、西野があくびを噛み殺しながら言った。
「しんどそうだね」
「昨日稽古のあと飲み会で、結構遅くまで飲んじゃって」
「へえ」
「後藤さんって酒飲みます?」
「いや、俺は全然」
 酒も煙草もやらない。服にもこだわらない。金を遣うあてがないおかげで、こんな生活が成り立っている。
「下戸なんですか?」
「ってわけでもないんだけどね」
 酒を美味いと感じたことがない。
 学生時代、何よりも苦痛だったのが飲み会というやつだ。極力避けたが、顔を出さないわけにいかない場合もある。したい話も、飲みたい酒も、暇つぶしに吸える煙草もない。ないない尽くしで、ただ時が過ぎるのを待つばかりだった。
 嫌なことを思い出してしまった。当時、ある飲み会の席で、気の強い美女(しかも自分の気の強さを心底愛している)からこんなことを言われた。
「後藤くんってさ、何が楽しくて生きてるの?」
 何だろう、と返すのが精一杯だった。
 何かが楽しくなければ、生きていてはいけないのだろうか。当時も今も、楽しいことは特にない。稼ぐ手段として定着してから、スロットを楽しいと感じることはなくなった。どんなに勝率を高めても所詮はギャンブル。大きな負けが続くことはある。頼りにしている店が突然潰れることだってあり得る。日々、不安にさいなまれている。
 死なない理由は一応ある。親が悲しむから。ただその一点だけ。親を除けば、俺がいなくなって悲しむ人間はいない。もっとも、今死にたいと思っているわけではない。生きたいとも思っていないだけ。できるだけ早くこのろくでもない人生を消費してしまいたい。
 レジの対面に、栄養ドリンクの棚。眠気を吹き飛ばすドリンク、二日酔いを防ぐドリンク、ビタミンたっぷりのドリンク……俺には必要のないものばかりだ。
 西野が言った。
「今度公演があるんですよ」
「劇団の?」
「はい」
「セリフ喋るの?」
「そりゃ喋りますよ」
 西野はきっと、生きていて楽しいだろう。考えることがたくさんあるだろう。夢を叶えるために、体力も時間も毎日フルに使い切っている。
「良かったら観に来てくれませんか」
「俺なんかが観てわかるかな」
「大丈夫ですよ。全然難しい話じゃないですから」
 アマチュアの劇団。そういうものがあるということすら、西野と知り合ってから知った。今まで興味がなかった。今もないが。
「ロッカーにチラシぶら下げてありますから、あとで持ってってください」
 そう言い残して、西野は休憩に入った。

 金曜の夕方、俺は電車に揺られていた。電車に乗るのは久しぶりだった。普段、遠出する用事がない。せいぜい新店のグランドオープンぐらいだ。
 チラシを開いて、降りる駅を確かめた。
 公演を観てみることにしたのだ。内容に興味はないが、西野には少し興味がある。夢があって、努力家で、社交的。俺とは正反対の人間。エネルギーに満ちていながら、覇気のない俺のような奴も軽蔑しない、澄んだ心。
 彼を応援することで、自分の中の欠けた部分、いや、決定的に消滅してしまっている部分を、俺はほんの少しでも埋めようとしているのだろう。
 改札を出て、再びチラシを開く。北口から徒歩十分。
 何だか「歩く」という行為さえ、久々という感じがする。普段の移動には専ら自転車を使っている。歩くと言えばせいぜい店内(スロットでもバイトでも)をうろつく程度だ。さらに言えば「走る」なんて、最後にやったのがいつだったか思い出せない。体年齢などという言葉があるが、自分のそれは知りたくない。
 劇場は住宅街の中にあった。こんな場所で演劇の公演なんかやって、近隣迷惑にならないのだろうか? まぁ、防音が施されているのだろう。最近の防音技術は大したものだ。あれだけやかましいスロット店も、一歩外に出て自動ドアが閉まれば、中の音はほとんど聞こえなくなる。
 受付でチケット代を支払う。二千八百円。高い。いつも涼しい顔でサンドボックスに万札を投入している俺だが、金銭感覚は狂っていない。むしろシビアになっている。金を惜しみ、細かな計算をしなければ、スロットは勝てない。
 二千八百円あれば牛丼が十杯食える。まだ観てもいないのに失礼だが、普通に考えて、アマチュアの劇団の公演に二千八百円の価値はないだろう。これは対価ではなく、西野へのカンパのようなものだ。売上が西野の手に渡るのかどうかは知らないが。
 場内に入る。狭い。ひな壇にパイプ椅子がぎっしり並んでいる。一列十四席で、五列。現在開演十五分前。客席の埋まり具合は半分程度。
 最前列に座った。同じ値段なら近い方が得だ。
 緞帳はなく、舞台が丸見えになっている。テーブルと椅子がいくつか置かれているだけの簡素なセット。壁も床も真っ黒だ。
 もうじき、ここに役者たちが現れて、演技を始める。俺は演劇については何も知らないが、観察することには慣れている。じっくり観てみるとしよう。西野の「設定」は、一体いくつだろう?

 二時間後、俺は駅への道を歩いていた。
 挨拶に出てきた西野には「良かったよ」と言った。俺は普段から表情がない。真意は悟られていないはずだ。
 確かに、西野の言う通り、難しい話ではなかった。ひなびた喫茶店に集まる人々の群像劇。ラストはお涙頂戴的な展開。
 わかりやすいというより、チープだった。面白かったかと訊かれれば、面白くはなかった。俺も映画ならたまに観る。ストーリーの良し悪しぐらいは感じられる。
 とは言っても、脚本家もアマチュアなのだ。プロの映画と比べるのは酷かも知れない。問題は、西野だ。
 上手くはなかった。一生懸命にも見えなかった。暗い役どころだったというのはある。それにしたって、あまりにも「雰囲気」がなかった。
 何が悪いか、技術的なことはわからない。ただ、さきほど見た西野が、もっと大きな舞台や、映画のスクリーンで活躍している姿は、どうしても想像できない。
 うがった見方をしたつもりはない。むしろ心情的には応援していたのだ。バイトを掛け持ちし、毎日レッスンに通い、俺にないものをたくさん持っている西野を。
 彼には夢がある。プロの俳優を目指している。今の公演は未来への通過点に過ぎない。彼はまだ若い。成長し得る。これから化ける可能性はある。だが……
(素質がない)
 そう思ってしまった。
 スロットの「見せ台」はどこの店にもあるわけではない。営業方針による。置かない店は、置かない。徹底的に置かない。
 種がなければ芽も出ない。店も人間も、そういうものではないだろうか?
 西野は自分のことをどう見ているだろう? 性格として、自信家ではない。謙虚な方だ。才能に恵まれているつもりはないだろう。足りない分は、努力で補おうとしている。
 夢に向かう努力。一見美しい。何の目標もなくギャンブルに明け暮れている俺と、西野とを比べて、どちらに抱かれたいかと女に訊けば、百人中百人が西野と答えるだろう。
 何よりも、彼自身が今、人生を楽しんでいる。俺は楽しんでいない。世間からはいい歳して遊んでばかりと思われながら、その実、陰々鬱々としている。
 彼は何かを生み出そうとしているのだ。俺はただリールを回している。
 しかし、本当に彼の方が上等な人間だろうか?
 大切なのは過程ではない。結果だ。睡眠時間を削り、貧乏に耐えることではなく、眩しいスポットライトや割れんばかりの拍手を浴びることが彼の目的だ。それが達せられる確率は何パーセントだろう? 一パーセントもあるのか?
 設定一の台を一日回した時の勝率はおよそ三十三パーセント。西野の夢が叶う確率は、どう考えてもそれより低い。三人に一人もデビューしていたらこの世は俳優であふれかえってしまう。
 設定六なら勝率は八十パーセントを超える。もちろん毎日設定六をつかめるわけではないが、遊びで打たず、リスクを排除し、着実に期待値を追っていけば、結果は必ずついてくる。
 俺は生産していない。しかし、負けてもいない。
 西野の夢は立派だ。誰もが評価する。けれど、彼はきっと勝てない。
 彼よりも俺の方が優れていると思う人間は、この世界に一人もいないだろうか?
 人でなくてもいい。神か悪魔でいい。勝算のない戦いこそ空虚だと、誰かあいつに言ってやってくれないだろうか。

 水曜の朝七時、俺はC店の入り口の前に立っていた。
 開店何分か前に入場順抽選を行い、整理券番号順に入場させる店の方が多い。並び順で入れる店は珍しい。
 大手のA店とB店は、どちらもきちんと見せ台を置いてくれるが、入場方法が抽選式で、ライバルが多い。狙いの台を取れる確率が低い。
 その点、このC店は、早く来さえすれば、一番に入れる。そして今日はノーマル機の設定四が置いてあるはずだ。期待収支は一日で二万円程度だが、座れるかわからない、そのうえ収支が荒れやすいART機の設定六より、確実に座れて、安定感のあるノーマル機の設定四を、俺は選ぶ。
 ちなみにD店は一切見せ台を置かない。一年中全台設定一なので、こういう店を俗に「ベタピン」と呼ぶ。
 他にも何店か、傾向を把握している店があり、状況に合わせてあちこちを巡っている。狩り場を飛び回るハンター……と、一年前は思っていた。馬鹿言っちゃいけない。ただのギャンブラーだ。
 開店まで二時間弱、携帯をいじったり、本を読んだりして過ごす。何かをしていないと、世間の目が気になって仕方ない。平日の朝、世の中は眩しいほどきちんとしている。ネクタイを締めて駅へ急ぐサラリーマン、店の前を丁寧に掃き清めるパン屋、バットケースを肩にかけて自転車をこぐ学生。彼らをまともに見ていたらきっと目が潰れてしまう。朝から並ぶようになって随分になるが、未だに慣れない。
 この店で俺以外に人が並び始めるのは大抵八時頃。だからせいぜい七時五十分ぐらいに来れば一番は取れるのだろうが、誰がいつ気まぐれに早く来るかわからない。油断は禁物だ。と思っていたら、まさに今日がその日であった。七時十五分、二番手が現れた。
 この界隈でよく見かける男だった。いつも紺色のキャップを目深にかぶっている。恐らくプロか、それに近い。お互いに面識はないが、向こうも俺のことは何度も見ているだろう。
 数少ない「勝てる台」を奪い合うという意味において、他の客は基本的にライバルだが、信頼できる仲間がいれば、メリットは色々とある。不運を慰め合ったり、交換率が等価でない店で出玉を共有したり。何よりも大きいのは情報交換だ。機種のデータはいくらでも雑誌に載っている。だが店の傾向は自分でつかむしかなく、しかも確証は得られない。他人と突き合わせればぐっと精度が増す。
 ……などと思っていても、結局声をかけることはない。そんな勇気があったら、きっと今頃もう少し違う人生を歩んでいる……。
 八時から少しずつ人が増え始めて、開店間際で並びは八人。この店はいつもそんな感じだ。
 九時、入場開始。焦らずに歩いて狙いの台に向かう。大手の大きなイベントの入場時は、店員がたえず「走らないでください」と声を張り上げているが、この店ではそんな必要はない。マナーのいい常連客ばかりだからだ。
 ところが、今日は違った。目的の区画まで来た時、キャップの男が小走りで俺を追い抜き、俺の狙い台のコイン皿に素早く煙草の箱を投げ入れたのである。
 一瞬の出来事だった。
(……まぁ、こういうこともあるよな)
 並び順はただ入場する順番であって、台を確保する優先順位が与えられていたわけではない。入ってしまえば早い者勝ち。それに、ぶつかられたり押しのけられたりしたわけでもない。文句を言える立場にはない……。
 と、揉め事を避けたいがための言い訳を素早く頭の中で組み立て、俺は狙い台に背を向けた。
 その直後、男の声がした。
「すいません、冗談です」
 振り返ると、男が煙草の箱を振りながら微笑していた。
「やっぱりこの台狙ってたんですね。どうぞ。そちらが先に並んでたんですから」
「いや、でも……」
「いいから座ってください。横取りなんかしませんよ」
 促されて、俺は席につき、男に言った。
「すいません。ありがとうございます」
「いやいや、ホントすいません、驚かせちゃって」
 風貌からして、俺より少し年上だろう。
 冗談と言ったが、そうではあるまい。恐らく、狙い台が同じであることを確認したかったのだ。他人とかぶれば、自分の読みが正しかったことの裏付けになる。
 それにしても、大胆な真似をする奴だ。相手の出方次第では喧嘩になってもおかしくない。
 煙草に火をつけながら、男が言った。
「隣、いいですか?」
「ええ、別に」
 どこで打とうが彼の勝手だ。
 しかし、おかしい。そちらの台は十中八九、設定一だ。この台を狙っていた男がそれを知らないわけがない。俺の台の挙動を観察するためか? 無駄金を使ってまで?
 サンドボックスに万券を差し込みながら、男が言った。
「よくこのへんで打ってますよね」
「ええ。そちらも」
「やっぱりお互い顔覚えちゃいますよね」
「そうですね」
「いつも何時から並んでるんですか?」
「大体七時ぐらいです」
「マジすか。すげー。俺起きらんねぇなー」
(あ)
 しまった。正直に答えるべきではなかった。これで彼は「何時に来れば先頭が取れるか」知ったことになる。
 いや、だが、嘘をついてそれがバレたら、何を言われるかわからない。厄介事はごめんだ。正直に答えて良かったのだ。
 どうしても彼に出し抜かれるのが嫌なら、俺は六時から並べばいい。けれど、それもやめておこう。嘘をついたことになってしまう。さわらぬ神にたたりなし。
 受け身に回っていては次々に情報を奪われかねない。こちらから訊いてみよう。
「そっちの台も狙ってたんですか?」
「見てればわかりますよ」
 ……見ていていい、ということだ。随分と気前がいい。それに、自信があるのだろう。俺の知らない設定配置パターンでもあるのか? だとしたら、何故俺にそれを教える?
 ともかく、見ていいなら見ておきたい。しかし自分の台と彼の台、両方を同時に観察するのは難しい。
 精密な設定推測をするには、子役の出現回数をきちんと数えなければならない。それには専用のカウンターを使う。もちろん俺も持っているが、見ていいと言われたとは言え、他人の台の子役をこれで数えるのは気が引ける……。
 待て。妙だ。彼はカウンターを使っていない。よほど記憶力に自信があるのか?
 その時、彼の台の台枠が激しく光った。前兆なしのARTだ。よほど強い子役を引いたのか? いや、出目はハズレだ。そうか、これは……
「天井です」
 スロットには「何百ゲームも当たらなかった時」の救済機能として「天井」というものがある。言わば残念賞。不運に対するお詫びのようなものだ。
 天井に近い台を打ち、当たったら即ヤメ、という作業を繰り返すだけでも、相当の期待値が得られる。天井のゲーム数やそれに達した時の恩恵を把握しておくことは非常に重要である。
 天井を狙う行為は俗に「ハイエナ」と呼ばれ、決して胸を張れる打ち方ではないが、マナー違反というほどでもない。天井の手前で捨ててしまう方が悪いのだ。
 それにしても……
「この店、宵越しは消すと思ってました」
「最近担当者が変わったんですよ」
 閉店後に店側が操作すれば、その日のゲーム数はクリアされ、ゼロに戻る。が、その手間を怠る店なら、前日の最終ゲーム数を覚えておくことで、翌日は朝から天井が狙える。これが「宵越し」だ。
「昨日の閉店時点で残り七十ゲームでしたからね。お宝台でした」
「なんか、ありがとうございます」
「何がですか?」
「教えてもらっちゃって」
「いやぁ、いいんですよ。別に喋ってなくても、見てたらわかったでしょ」
 いや、それはない。出目まで見ていなければ、普通に当たったのか、天井だったのか、区別できなかった。そして、見ることを事前に許されていなければ、出目は見逃したはずだ。
 彼は……俺と「友達」になろうとしているのだろうか? だとしたら、願ってもない話だ。
「俺、上原っていうんですけど」
「あ、後藤です」
 今までずっと一人で打ってきた。こんなに心強いことはない。
 そうだ、友達になるからには、酒ぐらい飲めるようになった方がいいかも知れない。元々まったく飲めないわけではないのだ……。
「後藤さん、俺らの仲間になりませんか?」
 俺……ら? 仲間?
「後藤さんぐらいわかってる人なら大歓迎ですよ」
(……そういうことか)
 プロ集団の勧誘だったのだ。
 何人かで徒党を組むプロは多い。頭数がいれば、リスクは分散でき、情報は集めやすくなる。メリットは大きい。個人で長く続けているプロの方が少ないと、雑誌の記事で読んだこともある。
 上原個人でなく、チームからのお誘いというわけだ。受諾すれば、「仲間」はできる。恩恵もあるだろう。だが……
「先に言っときますと、本名は出せないんですけどKさんっていう元締めの人がいて、指示は全部Kさんが出してます。で、まぁ当然なんですけど、儲けはKさんがちょっと多めに取ります」
 報酬の分配を巡って言い争いになり、解散になるチームも多いという。
「どうですかね? 楽ですよ。全部Kさんの言う通りにするだけですから」
 先に言っておく、と前置きした割には、曖昧な説明だった。Kという元締めは具体的に何パーセント多く取るのか? 「新入り」にはどのぐらい分け前があるのか? そもそも、全部で何人のチームなのか? 思い切って訊けばいいのかも知れないが……。
 それに、指示に従うだけ、という部分も引っかかった。要はロボットになれということだ。淡々とリールを回すだけのロボット。今だってそれに近いものはあるが、あくまでも命令は自分の脳が出している。腐りかけの脳だが、それでも。
 俺が黙っていると、上原は手を止め、こちらを見て言った。
「ぶっちゃけ、Kさんあっち系の人と繋がってるんで」
 露骨に脅しをかけてきた。
 心臓が高鳴り、嫌な汗が噴き出す。上原のシャツの袖から、ちらりと刺青が見えた。「繋がっている」どころではない。Kという人物だけでなく、どうやら上原自身もその筋の人間らしい。
 どうする? 関わり合いになりたくはないが、穏便に断る方法などあるのか? 思考が定まらない。どうしたらいい?
「ま、今すぐ決めろって言われても困りますよね」
 そうとも。困る。
「入ってくれる気になったら、今夜十一時、D店の裏のSって店に来てください。そこでみんな待ってますから」
 みんなって誰だ? 断ったらやはり報復があるのか?
 俺は結局、一言も発せられなかった。
 上原は、天井のARTを取り終えると、無言で去っていった。

 その日の夜十一時、俺は自室の布団の中で震えていた。
 十五分前にはSという店の前にいた。店の前までは行ったのだ。しかし、それ以上足が進まなかった。
 この先もスロットでしのいでいきたいなら、受けるべきだったのかも知れない。多少の上前をはねられようと、集団に属していた方が収入は安定する。
 それに、上原たちはその筋の連中なのだ。逆らったらどんな目に遭うかわからない。
 狭い町だ。今後、また上原と出くわすこともあるだろう。もしその時何か言ってきたら……逃げよう。引っ越してしまえばいいのだ。この町に未練などない。せっかくつかんだ店ごとの情報がパーになるのは惜しいが、命には代えられない。
 怖かった。連中が怖いというのもあるが、それよりも、芯までスロットに染まってしまうことが怖かった。
 今は俺一人だ。いつでも辞められる。しかし集団に、ましてや暴力団関係のチームに入ってしまったら、簡単には抜けられないだろう。
 引っ越してもスロットで稼ごうと考えているくせに、スロットに染まることは怖れている。矛盾していようとも、本心だから仕方がない。
 その夜は恐怖で一睡もできなかった……などということはなかった。精神がすり減っていたのだろう。いつの間にか眠りに落ちていた。

「この前、ヤクザにからまれてさ」
 次のバイトの日、俺は西野に作り話をした。
 牛丼屋を出たところで突然声をかけられ、人気のない駐車場につれていかれて、高額のアダルトビデオを買わされそうになった。という設定にした。ネットで拾った話だった。
「災難でしたね」
「殺されるかと思ったよ」
 話してしまうと、かなり気が楽になり、何だか本当にそういうことだったような錯覚に陥った。
 その錯覚は、退勤時刻間際、いきなり解けた。紺色のキャップ。上原がコンビニに客としてやって来たのである。
(嘘だろ?)
 目が合い、俺は悲鳴を上げそうになった。殺される! 逃げなければ!
 ところが、上原は何も言わなかった。その表情は、確かに俺を俺と認識したようだが、ただ煙草を買い、去っていった。
 全身から一気に力が抜けた。どうやら奴は俺に用があって来たわけではなかったらしい。
 考えてみれば、当たり前だ。俺は約束を破ったのではなく、勧誘を断ったに過ぎない。因縁をつけられるようなことではないのだ。何をおびえていたのだろう。
 危険は過ぎ去った。しかし、今後何があるかわからない。
 俺は、上原と出会ったC店を、テリトリーから外した。穴場だったが、やむを得ない。この生活を続けるためだ。いつでも辞められる、この生活を。

「お待たせ致しました。牛丼並盛と生卵でございます」
 来た。至福の時。
 まず全体を四分の一・四分の一・二分の一の三エリアに分け、順にAエリア・Bエリア・Cエリアとする。この時、たまねぎが偏らないよう注意しなければならない。何故なら、たまねぎの甘味こそが「牛丼」だからである。
 エリアを分けたのは、風味の変化を楽しむ為だ。Aエリアには紅ショウガを乗せて、Bエリアには七味をふり、食す。そして、残ったCエリアを卵でしめる。卵は溶かずに落とし、曖昧に混ぜる。混ぜ過ぎるととろみが死んでしまう。
 牛丼並盛二百八十円、卵五十円。こんなに安くて美味い食べ物が他にあるだろうか。飽きない。今後も飽きない為に、週一回だけと決めている。
 今朝は狙い台が取れなかった。取れなければ撤退。それが鉄則だ。
 この界隈の打ち手はレベルが高い。朝一、勝てる台はすぐに埋まる。空き台の中にも高設定があるかも……と淡い期待を抱くから、素人は負けるのだ。諦めが肝心。
 雑誌を読めば誰でも設定推測の方法を知ることはできる。二時間ほど打ってみて、ボーナス確率や子役の出現率などのデータを取れば、低設定の台を見切ることはできる。だが、それでは遅い。打った時点で負けなのだ。相当強い根拠があって、その台が高設定だと最初から信じられる時以外、決して手を出してはいけない。
 午前中は図書館で時間をつぶし、今こうして牛丼を食べ終わった。
 満ち足りた俺は、再びスロット店に行き、天井近くで捨てられている台を探す。「ハイエナ」である。だが、収穫なし。なくて当然。狙い台が取れなかった時から延々ハイエナをしているプロもいるのだ。そこまでする根性は俺にはない。
 夕方になればノーマル機の高設定台が空く可能性がある。それまで、帰って寝るとしよう。退廃的とそしられようと、これも戦略だ。外にいると金を使ってしまう。
 自転車を止め、ポストを開ける。入っているのはスロット店からのダイレクトメールばかりだ。うんざりする。たまに貴重な情報が得られることもあるが、ほとんどは紙クズだ。こんな宣伝にかける金があるなら、設定を上げて客に還元してもらいたい。
 ダイレクトメールの束をゴミ箱に突っ込み、カビくさい布団をひっかぶる。ポケットの携帯が震えた。メール。開いても無意味だが、開く。
「本日もご来店誠にありがとうございます!
スロット専門店ロックンロール、担当の柏崎でございます。
○新台二日目! 『ハナハナパルサーⅡ』全三十二台、絶好調稼働中!
○メール会員様限定情報! 台番末尾二・八はチャンス!? 五なら激熱!? 空き台を見逃すな!!」
(……昔はよく踊らされたな、こういうのに)
 枕元に携帯を放り、俺は目を閉じた。

 スロットとの出会いは三年前、バイト先の先輩に誘われてのことだった。
 灰田さんは三十五歳にして苦学生という変わり者だった。三十路を迎えてから天文学に目覚め、勤めていた会社を辞めて、大学の夜間部に入ったのだという。
 彼は勝ちにこだわるタイプではなかった。設定などまるで気にせず、勝てば笑い、負けても笑っていた。今思えば、あれがスロット本来の姿だった気がする。
 俺は、あまりにも典型的で恥ずかしいが、ビギナーズラックに気を良くして興味を持ち、雑誌などを買い始め、一人でも打ちに行くようになった。何度か痛い目を見た後、とにもかくにも慎重にならなければならないということを学んだ。
「ほどほどにしとけよ」
 天文台への就職が決まり、コンビニを去っていく灰田さんの忠告を、俺は無視してしまったことになる。

 そもそもこの町へは、これもまったく典型的だが、家業を嫌って来たのだった。
 父は漁師である。これまた型通りの漁師というべきか、金遣いの荒い人だ。大漁旗を揚げて帰ってきても、その儲けはあっという間に使い果たしてしまう。使い道は、酒、家具、そしてパチンコだった。
 地元にパチンコ店は一店だけ。パチンコが打ちたければ皆その店に行くしかない。競争相手がいない、つまり、客におもねる必要がないのだから、釘はいつもギュウギュウに締めてあっただろう。
 パチンコに「設定」はない。その代わり、店は釘の開け締めによって調整する。釘が締まれば、その分抽選を受けられる機会が減り、客は余分な金を遣わされることになる。
 当時はまるで興味がなく、というより毛嫌いしていて、実際にこの目で見たわけではないが、今ならあの店の状態が容易に想像できる。
 どんなに釘が締まっていようと、ギャンブルはギャンブルだから、父が勝つこともあっただろう。だが、トータルではボロ負けだったはずだ。スロットには「一」より下の設定はないが、パチンコは釘を締めさえすれば、いくらでも残酷な台を作ることができる。
 ギャンブルにのめりこむ父が嫌いだったのか、それとも敷かれたレールの上を行くのが嫌だったのか――多分その両方なのだろう。俺は高校卒業と共に故郷を離れた。
 とにかく実家を出たかっただけで、明確な目的はなかった。漠然と大学に通い、漠然とバイトをし、気づいたら、あれほど怨嗟していたギャンブルの世界に片足を突っ込んでいた。
(遊びでは打たない。稼ぐために打つ。パチンコとスロット、分野こそ違うけれど、とにかく俺が勝ち続ければ、親父のカタキ討ちにもなる)
 そんな風に思おうとしていた時期もあったが、今はもう真実を受け入れている。
 血は争えない。それだけのこと。俺にはクズの血が脈々と流れているのだ。
 豪放磊落な父とは対照的に、母は静かな人だ。いつも穏やかで、他人の話にきちんと耳を傾ける。ちょっとした出来事に喜びを見出す。母はギャンブルなどしない。正しい生活者である。
 父はともかく、母だけは傷つけたくない。あの人を傷つける権利は誰にもない。
 母を喜ばせたいなら、家業は継がないまでも、故郷に帰って仕事を見つけるのが一番いい。帰らずとも、きちんと就職をして、元気でやっているよと、電話なり手紙なりで知らせてあげるべきだ。そうすべきなのだ。本当なら、今すぐにでも。
 もう随分長い間、実家とは連絡を取っていない。俺が今どんな生活をしているか、話したくない。言えない。新しい自分に生まれ変わらなければ、母には会えない。
 わかっている。今、まさにこの瞬間に動き出さなければ、何も変えられない。都合よく生まれ変わるタイミングなど永遠にやって来ない。
(だから、ただ待ってるわけじゃないんだ)
 スロプロは期待値を追う。期待値がプラスになるよう根気よく打っていれば、一日単位では買ったり負けたりでも、月間収支がマイナスになることはまずない。俺は月十五万円を期待値の目安にしている。
 けれど、期待値は期待値だ。運が良ければ三十万近く稼げることもあるし、悪ければ五万程度で終わることもある。そして俺の運は、どちらかと言えば、悪い。
 この二年間の平均月間収支はプラス九万。普通の運勢なら十五万のはずのところ、その六十パーセントほどしか稼げていないことになる。台の見極めが甘いことがあったとしても、期待値十二万はあるはずだ。俺は常人より明らかに運が悪いのである。
 俺はオカルトの類を一切信じない。日頃の行いが悪いから運が下がるとか、パワーストーンで運気が呼び込めるとか、そういった話は全部まやかしだ。風水も名前の画数も生まれた日も関係ない。俺の運が悪いのは、たまたま悪い現象が集中して起こっているに過ぎない。何の理由もなく、現象は偏る。
 サイコロの目が出る確率は、一から六まで等しく六分の一。だが、一ばかり立て続けに出てしまうこともある。実際にある。
 そして、何の理由もなく、良い現象が集中して起こることだってあるのだ。
 期待値は最低でも十二万。なのに、今までの平均は九万。そろそろ運命の針が上側に振れてくれてもいいはずだ。三ヶ月連続で二十万を超えるとか、そういうことが起こっても何ら不思議はない。
 現象は偏る。しかし、いつか必ず収束に向かう。
 一生運の悪い人間などいない。皆平等だ。平等でなければ困る。俺には、今までが不運だった分、幸運を受け取る権利がある。
 幸運の波が来るのを俺は待っている。それさえ来てくれれば、貯金が作れるのだ。バイトの収入もある。スロットの収入は九万でもやってこられた。余剰が出れば、貯めておける。
 金さえ貯まれば、行動を起こせるはずだ。灰田さんのように何か勉強を始めることもできる。どこか旅行にでも行って、今後のことをじっくり考えるのもいい。
(――なんてな)
 馬鹿馬鹿しい。自分自身に嘘をついてどうする。
 金ができたら考える? そんなわけあるか。金ができても、俺は新しいことなど何も考えない。断言できる。
 考える奴は、そもそも何のために金を貯めるかを考えている。俺にはやりたいことが何もない。考えて見つかるようなものじゃない。今ないなら、この先もないのだ。
 きっと俺は、金が増えても、軍資金に余裕ができたというぐらいにしか思わないだろう。必ずそうなる。自分のことは自分が一番よくわかっている。
 母を悲しませたくはない。けれど、仕方ない。「仕方」が「ない」のだ。
 俺には何もない。楽な方に流れてしまう。スロットでしのげるうちは、しのいでしまう。空っぽの暗闇に、俺は甘んじる。
 昔から無気力だった。絶望的に。みんなが何か「する」のを、俺はただじっと眺めていた。何か「したい」と、まったく思わない。思い方がわからない。
 灰田さんに誘われたことは、運命の分かれ道でも何でもない。はじめから転げ落ちていた。這い上がる気はない。
 俺はこれでいい。これが俺なのだ。無駄な抵抗はしない。ありのままで生きていく。
 いいだろう、別に。誰の役にも立っていないけれど、迷惑もかけていないのだから。

 この台のボーナス確率は、設定五・六共に約百三十分の一。五と六の差は子役の出現率のみ。俺はいつものように朝から地道にベルを数えている。今のところ数値はどちらに近いとも言えない。
 五か六であることはほぼ間違いない。それに、五でも六でも期待値はプラスだ。捨てる理由はない。夜十時四十五分の閉店まで打ち切る。ベルを数えるのは念のためだ。万が一低設定なら、ベルでわかる。
 それにしても、幸運の波は未だに来ない。最後のボーナスから既に四百ゲームが経過した。百三十分の一の確率で当たるはずの台で、四百ゲーム。当たらないゲームが長く続くことを「ハマる」という。この台は今「確率の三倍ハマり」だ。
 とは言え、三倍や四倍程度のハマりは全然珍しいことではない。理論上、三倍ハマりは五パーセント、つまり二十回に一回の確率で訪れる。一日中打っていれば複数回起こる現象だ。決して驚くようなことではない。
(いいんだけど、そろそろ起きてくれないかな。もう昼の二時だぜ、妖精さん)
 無論、台の中に妖精などいない。何か考えていないと眠くなってしまうのだ。眠いのにスロットを打つなんて、まともに生きている人間には到底理解できないだろう。
「んもう!」
 と、隣の女性客が台を叩いた。派手な服装の、年配のご婦人であった。
 台叩きはマナー違反だが、さほど強くもなかったから、店員が飛んでくることはなかった。それにしても、「んもう!」なんてセリフ、声に出す人間が実在するとは思わなかった。
 彼女の台のデータ表示機を見ると、前回のボーナスから五百ゲーム。設定六とするなら四倍近くハマっている。だが、四倍ハマりでも二パーセント。あり得ない数字ではない。そもそもボーナスに当選する確率が一パーセント未満なのだ。二パーセントの現象を否定していたらスロットなど打てない。
「ヒライさん、ヒライさん!」
 と、通路から中年女性の声がした。
「あらやだ、ミナガワさんじゃないの!」
 四倍ハマり中のヒライさんは、ミナガワさんと世間話を始めた。ヒライさんの孫は今年小学校に入学するらしい。ミナガワさんのご近所のキグチさんは、息子の嫁と折り合いが悪いらしい。
 かつてはパチンコにご執心だった高齢者や主婦たちが、近頃はスロットにも流れてきている。特に俺やヒライさんが今打っている機種は「当たったら光る」という単純明快さで人気を博している。
 どこの店にも必ずと言っていいほど、車内放置をやめるよう呼びかけるポスターが貼られている。駐車場に放置されて子供が死ぬ事件はあとを絶たない。パチンコやスロットで我が子を亡くした人は、その後の人生をどんな気持ちで過ごすのだろう。俺なんかに心配されたくはないだろうが……。
 ミナガワさんが言った。
「ヒライさん、その台、だめよ」
「やっぱりそう思う?」
「そうよ。だってもう五百回も当たってないんでしょう?」
「そうよねえ」
 その考え方は正しくない。
 ヒライさんの台は現在までの二千ゲームで、ボーナスに十六回当選している。確率百二十五分の一。設定五・六より良い数値だ。肝心のベル出現率がわからないし、二千ゲーム程度では十分な試行回数とは言えないが、ともかくヒライさんの台は「良い台」の見込みがある。
「ふつう二百回に一回ぐらいは当たるじゃない。五百回も当たらないなんて絶対おかしいわよ」
「そうねえ」
 設定一のボーナス確率は約百九十分の一。確かに二百回に一回ぐらいは当たる確率だ。しかし、百九十分の一という確率は、百九十回以内に当たるという意味ではない。平均で百九十回に一度当たるという意味だ。
 ヒライさんは手持ちのコインをかき回しながら言った。
「さっきまでは調子よかったんだけど」
「流れが悪くなったのよ」
 流れもクソもない。状況を支配しているのは確率だけだ。
 開店から閉店まで、スロット台の設定は変わらない。もし店側が特殊な機械を仕込んで営業中に設定を操作し、それが明るみに出たら、一発で営業停止である。
 ヒライさんもミナガワさんも何もわかっていない。データを見ろ。ほら、二千ゲームで十六回も当たっているじゃないか。ビッグとレギュラーの比率もいい。何が「流れ」だ。目の前の出来事に惑わされるな。真実を見ろ。確率論を理解しろ。頭を使わないから金を失うんだぞ。
(いやいや……違うだろ、俺)
 憤慨することはない。むしろ感謝すべきだ。こういう人たちのおかげで店が潤い、俺たちの「取り分」が生まれるのだ。もし全てのプレイヤーが仕組みを完全に理解してしまったら、スロプロという人種は絶滅する。
 ミナガワさんの真剣な声。
「移動した方がいいわよ」
「そうね。そうするわ」
 どうぞ存分に見当違いの試行錯誤をしてください。今後ともその調子でお願いします。
「ねぇ、ちょっと、お兄さん」
 と、ミナガワさんに肩を叩かれた。
(え?)
「お兄さんも移動した方がいいんじゃない?」
(……えーっと)
 こんなお節介は初めてだ。
「だってほら、こんなにハマってるじゃない。意地にならない方がいいわよ」
「いや……その」
(黙れ素人)
 なんて、言えるわけがない
「あの、合算で百五十分の一以上ありますし……。子役も結構いいんで……」
 と、格の違いをさりげなくアピールするも、
「いい台がこんなにハマるわけないでしょ?」
(駄目だ。通じてない)
 さらに、ここでヒライさんの援護射撃である。
「ねぇお兄さん、言う通りにした方がいいわよ。ミナガワさんはすごいんだから」
「やだ、やめてよヒライさん」
「ミナガワさんはこの台のことは何でも知ってるの。この前なんて、上手にあちこち移動して三万円も勝ったのよ」
 この手の人たちの「勝った」ほど信用ならないものはない。いくら投資したかきちんと覚えていないから、まとまった金を受け取るとそれだけで勝ったような気になってしまうのだ。
「ほら、立って立って! こういうのは思い切りが大事なの」
 と、ミナガワさんが急かす。
(まいったな……)
 さて、どう切り抜ける? ある意味、この前のヤクザより厄介だ。
 そう言えばあいつ、名前なんて言ったっけ。上島? 上坂? ……しばらく見ないうちに忘れてしまった。どうも他人の名前を覚えるのは苦手だ。根本的に他人に興味がないから仕方ない。
「どうしたのよ。どうせ遊びだって言っても、勝った方がいいに決まってるでしょ?」
 こちとら遊びじゃないし、勝つためにあんたらの忠告を聞きたくないんだが……。
 しかし、見方を変えれば、彼女たちの方が人として正しいと言えるかも知れない。理論が間違っているとは言え、困っている他人を救おうとしているのだ。相手が助かっても、彼女たちは何の得もしない。慈愛に満ちた行いだ。それに比べれば、俺が今まで当たり前にしてきた行為は、冷酷極まりない。漫然と打てばどれだけ負けるか、勝つにはどうすべきか、正しい答えを知りながら、誰にもそれを教えなかった。数多の他人を見殺しにすることで生き長らえている。そう考えていくと、スロプロとは非生産的のみならず、実に無慈悲な稼業だ。
 直接奪ってはいない。けれど、間接的に奪っている。隣人の敗北に支えられた生活。
 何だかコンビニのバイトが随分尊いものに思えてきた。立派な小売業なのだ。人の役に立つことで、賃金を受け取っている。弁当が一つ売れれば、客は飯にありつくことができ、俺は儲かる。誰も傷つかない。
(いいですか? スロットには一から六の設定というものがあって、一を打ち続ける限り、トータルでは絶対に勝てません。そして店に置いてあるほとんどの台は一です。あなたたちが勝ったとおっしゃるのはただの偶然です。月間でいくら負けているか、正確に把握していますか? さて、この機種の設定を見抜くには……と、その前に、波だとか流れだとか、そういう概念は今のうちにきれいさっぱり捨ててくださいね。相手は機械なんです。こっちも機械みたいな考え方をするのが一番いいんですよ)
 等々、正しい情報を親切丁寧にレクチャーしてあげれば、彼女たちは喜んで聞き入れるだろうか?
 いや、それはない。絶対にない。歳を重ねて、新しいことを学ぶ余白のある人間なら、こんな場所にいるわけがない。ここにいるのは、ギャンブルに魅入られた狂信者たちだ。そして俺は、お布施をかすめとるけちな泥棒だ。
 ――泥棒でいい。他の生き方は知らない。
「どこに移動すればいいんですか?」
 俺が訊くと、ミナガワさんは嬉しそうに辺りを見回し始めた。
「そうねぇ……」
 ヒライさんは期待に満ちた眼差しでミナガワさんを見つめている。やがて、ミナガワさんは、一つの台を指差し、確信に満ちた声で言った。
「これね」
 前回ボーナスから九百ゲーム。途方もない数字だ。どうせ設定一だろうが、ここまでハマる確率は一パーセント以下。流石にこれは珍しい。
 だが、ちょっと待て。今の台がハマったから動こうというのに、それ以上のハマり台に目をつけるというのはどういうことなんだ。
「千ゲームもハマる台なんて見たことがないもの。だからあと百ゲーム以内に必ず当たるわ」 
 必ず当たるわけがない。千ハマることもある。実際俺は過去に二回見たことがある。
「それに、あんな長いことハマったんだから、かなり当たりを溜め込んでるはずよ。きっとその次も二、三回はすぐに当たると思う」
 ミナガワさんは完全に勘違いをしている。どんなにハズレが続こうと、当たりの確率が濃縮されていくわけではない。
「ハマり台を狙うのも有効な手よ。ちなみにこれを『ハイエナ』っていうの」
「さすがミナガワさん、色々よく知ってるわねえ」
 と、ヒライさんがため息をつく。
 違う。それハイエナじゃない。この機種に天井は搭載されていない。
「お兄さん、あの台はお兄さんに譲るわ。遠慮なく打って」
「……せっかくですけど、いいです」
「え?」
 信じられない、という目で老婆たちは俺を見る。
「もうちょっとここで粘ってみます」
「……そう。じゃあ、ヒライさんどうぞ」
「いいの?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 そして、二人は去っていった。
 それから一分もしないうちに、カン高い告知音と、ヒライさんの声がした。
「わっ、ホントに当たった!」
 きっと今ごろ勝ち誇ったような二つの視線が、こちらを見ていることだろう。だが俺は自分の台から目を離さなかった。
 構うことはない。本当の勝者は俺……いや、それも違う。俺もあんたらも負け組だ。この世界に、勝者などいない。

「後藤さんって、パチンコやるんですか?」
 ある土曜日、西野に言われた。
(……遂にこの日が来たか)
 幸い、俺と西野の他に人はいない。
「どこで見た?」
「昨日、駅前のAって店から出てくるとこ見てました」
「そっか。見られちゃったか」
 俺は笑顔を作りながらも、胸の奥は生まれたての小鹿のように震えていた。
 これで西野から軽蔑されたらどうしよう。この前、西野の演技を悪く言った報いだろうか。悪く言ったのは心の中でだが……。
「俺はスロット専門なんだけどね、パチンコは全然」
「そうなんですか」
「スロット」の方が「パチンコ」より若干大人っぽい響きだと思うのは俺だけだろうか。「スロット」ならラスベガスにもある。一方、「パチンコ」はいかにも退廃的だ。
 そんなわけで俺は「パチスロ」という言い方を決してせず、「スロット」と言い張る。パチンコよりはまだましだと、西野は思ってくれるだろうか。
「スロットって面白いですか?」
「まぁ、面白いよ」
 少なくとも昔は、面白いと思った。だからのめり込んだのだ。
「今度連れてってくださいよ」
(え?)
 それは……駄目だ! こっち側に来ちゃいけない。
 西野、お前には夢があるだろう。俳優になるんだろう。勝算を度外視して戦うんじゃなかったのか? お前みたいな奴が踏み込んでいい世界じゃない。
「やめといた方がいいと思うけど」
「金、吹っ飛びます?」
「吹っ飛ぶね。二、三万は軽く」
「うひゃー」
「設定一の台を十時間打ったら期待収支は約マイナス二万円だから」
「詳しいですね」
 しまった、つい専門用語が。
「負けるの嫌だからさ」
「もしかして後藤さんってプロなんですか?」
「いやいや、それほどのもんじゃないけど」
 そうなんだけど。
「後藤さんに教えてもらえば、そんなひどい負け方はしないで済みますよね」
「それは、そうかも知れないけど」
「じゃあ一丁、お願いします」
「でも、保証はできないよ。所詮ギャンブルだから、勝つはずの台で滅茶苦茶負けることもあるし」
「負けても文句なんか言いませんよ。それに、そんなにつぎ込むつもりないですし」
 もし期待収支がプラスの台ならいくらでもつぎ込むのが正解なんだ、なんて言ったら、いよいよ軽蔑されてしまうだろう。
「いつならいいですか?」
「本気で行くの?」
「駄目なんですか?」
「絶対やめろとは言わないけど、西野がスロットに興味あるなんて思わなかったな」
「後藤さんがやってるなら、どんなもんかなと」
 この人たらしめ。どうして舞台でその魅力を発揮できないんだ。演出家が悪いんじゃないのか?
「けど、劇団があるんじゃないの?」
「ああ、次の公演の稽古が始まるまで、しばらく休みなんです」
「そうなんだ」
「俺は早速今日でもいいですけど」
「いや、土日はやめよう」
「というのは?」
「土日は放っといても人が集まるから、設定状況が厳しくなる」
「なるほど」
 俺は脳をフル回転させた。この男に無残な負け方をさせるわけにはいかない。
 西野は平日、いつも夕方までバイトだから、一緒に打てるのはそれ以降になる。ならば、それまでに俺が高設定の台をつかんでおいて、譲ってやればいい。その時隣が空いていたら俺はそこで適当に打とう。こんな時ぐらい、負ける台で遊んでもいい。 
 問題は、どこの店にするか。
 C店なら無難だ。イベント日ではなくてもノーマル機の四は置いてある。が、C店にはやはり近づかない方がいい。避けられるリスクは避けるのがプロのやり方だ。
 明後日ならA店が大きなイベントを開く。見せ台も複数入るはずだが、ライバルが多い。抽選に漏れたらそこで終わり。
 となると、B店の木曜のイベントか。明日からの稼働状況を観察すれば見せ台の位置は読める。ライバルもA店ほどは多くない。
「めっちゃ考えてますね」
「えっと、木曜はどう?」
「いいですよ。じゃあ、夕方五時半に、ここ待ち合わせでいいですかね」
「了解」
 よし、決戦は木曜日。できる限りのサポートはする。
 だが、勝ち負けと、西野が楽しめるかどうかは別問題だ。ノーマル機ならばともかく、ART機の仕組みは難しい。
「予習する気ある?」
「予習?」
「どうせならちゃんとわかって打った方が面白いと思うよ」
「確かに。じゃあ、雑誌とか買えばいいですかね」
「いや、ほとんどの雑誌は中級者向けだからね」
「へぇ」
「あとでメールするよ。ちょっと長文になるかも知れないけど」
「マジすか! ありがとうございます。じゃあ、お願いします」
 その日、俺はほとんどの時間を、テキスト作りに費やした。レジ打ちや品出しをしながらも考えた。
 いっぺんに書いたら内容が膨大になり過ぎる。木曜までは今日を含め、四日間。四回に分けるとしよう。どんな順番で、何を説明するか。
 ある一機種について解説するなら簡単だが、B店の見せ台は何になるかわからない。機種ごとの特徴は除外しよう。当日座った台について俺が直接説明すればいい。
 あくまでも入門書だ。簡潔に、わかりやすく。マニアックになってはいけない。
 考えに考えた末、「設定」・「目押し」・「ノーマル機とART機の違い」・「一般的なART機の仕様」の四章に分けることにした。
 そして、書いた。心を込めた。学生時代でさえ、こんなに懸命に文章を書いたことはなかったと思う。長文のメールを打つこともほとんど初めてだったが、この四日間で文字を打つ速度が随分上がった。
 送信する時間にも気を遣った。西野が配達のバイトを終える頃に送る。ただ、終わってすぐではまるで待ち構えていたようだから、多少時間をずらす。
 西野は律儀にも毎日、お礼と質問を書いて返信してくれた。俺は狂喜し、一層心を込めて質問に答えた。
 水曜の夜は、いつもより念入りに下見をした。狙い台が取れなかった時や読みが外れた時、ハイエナに切り替えるため、天井が搭載されているあらゆる台の最終ゲーム数をメモした。
 そして、夜が明けた。

 現在八時二十分。開店待ちはざっと六十人。普段より多いが、大半は素人だ。他のプロより早い番号を引ければ、狙い台は取れる。
 八時三十分、入場順抽選。店員の持ったクジの箱に手を突っ込む。今日は気合いを入れた。願わくば、一桁。
 八番。
(よし!)
 たまには念じてみるものだ。
 九時、開店。第一候補は他のプロに取られたが、第二候補を確保。ここまでは上出来だ。あとは、設定を見抜く。
 どんな台で打ったところで、勝つかも知れないし、負けるかも知れない。長期に渡るならいざ知らず、今日一日、しかも夕方から数時間打つだけなら、全てが運次第だと言っていい。
 努力して勝ち取ったアドバンテージが、不運によって露と消える。反対に、何の苦労もなく、幸運によってチャンスをつかみ取る。そんな例はいくらでもある。
 俺なんかに言う権利はないかも知れないが、敢えて言おう。この世は運否天賦だ。生まれた時代、国、家、与えられた教育、出会った人間――自分ではどうにもならないことが、あまりにも多い。九割方、運に支配されている。
 だからこそ、人はわずかでも勝率を高めようとする。幸運の女神に媚を売る。一見愚かだが、必死になれる。ましてやそれが他人のためとなれば尚更だ。
 夕方五時十五分、この台が設定四以上であることを確信した俺は、店員を呼び、休憩札を貰った。この店では一日一回、三十分間だけ、食事休憩が認められている。昼飯を抜いて得た権利だ。無論、夕飯を食いに行くのではない。西野を迎えに行くのである。

 西野は――プラス二千円という、無難な結果に終わった。開始早々に出現率六万分の一以下の希少役を奇跡的に引き当てるも、後半はじりじりとコインを削られる展開となった。
 ある意味で理想的だったと言える。真面目な西野がギャンブルに溺れることはないだろうが、浮かれてしまうような勝ちでもなく、負けもしなかった。
「このTUCって何の店かと思ってたんですけど、スロットの景品交換所だったんですね」
「人に教わらなきゃわかんないよね」
 事実、スロットは現金を賭け、現金を獲得できる。ただ、公然とではない。店内では「景品」と呼ばれるチップに交換し、その景品を店外の「TUC」なる窓口で現金に交換する。
 グレーゾーンのギャンブルだ。警察からは黙認されているに過ぎない。よって、スロット店は景品交換の仕組みを客に説明することができない。黙って「景品」を差し出すのみ。それをどうするかは客の自由というわけである。
 俺の成績はプラス八千円。夕方まで高設定の台を打ち、夕方からは低設定の台を打ったから、ほぼ期待収支通りだ。
「二人で一万円の勝ちですね」
「うん」
 小さな勝ちだが、西野の顔はうっすら上気している。
「後藤さん、このあと平気ですか?」
「何もないけど、なんで?」
「一杯いきません? 飲めなくはないんですよね?」
 その言葉を俺は密かに期待していた。

「いらっしゃいませー!」
 威勢のいい声がこだまする。チェーンの安居酒屋はサラリーマンたちで賑わっている。
「じゃ、おつかれさまでした!」
 と、西野がジョッキを掲げる。
「ああ、おつかれ」
 と、俺も恐る恐るジョッキを差し出す。力加減がわからない。
 ジョッキが触れ合う。重い手ごたえ。次の瞬間、もう西野は喉を鳴らしている。店員が突き出しの枝豆をテーブルに置き、慌ただしく去っていく。
 どうだ。俺は今、友達と居酒屋でビールを飲んでいるぞ。俺にだってそういうことはあるんだ。
「今日はありがとうございました」
「いや、大したことはしてないよ」
「儲かっちゃいました」
「本当はもうちょっと勝てるはずだったけどね」
「いやいや、十分ですよ。後藤さんがちゃんと説明してくれてたおかげで面白かったですし」
「そう? なら、良かった」
「っていうか、説明なしじゃ多分わけわかんなかったです」
「だろうね。結構複雑だもんね」
「仕組みが複雑って敷居高いですよね。なのに、あれだけたくさんの人が夢中になってるって、すごいですね」
「確かに」
 全員が全てを理解しているはずはない。が、勝ち方はともかく、遊び方はほとんどの客が理解している。ギャンブルのために、学んだのだ。あれだけの人数が。
 料理をいくつか注文し、西野が言った。
「いきなりですけど、この前の舞台、どうでした?」
「本当にいきなりだね」
「すいません」
「えっと、良かったと思うけど」
「正直、微妙じゃありませんでした?」
(それは……)
 あの時、顔には出していないつもりだったが、にじみ出てしまっていたのだろうか。
 西野は真剣な顔でじっとこちらを見ている。……本音を言った方がいいのだろう。
「素人の感想だから聞き流してくれて構わないんだけど、まぁ、脚本は好みじゃなかったな」
 西野は表情を変えず、言葉を選ぶようにして、言った。
「後藤さんはお金出してチケット買ってくれたわけですから、本当はこんなこと言っちゃ失礼なんですけど、実は俺も脚本はあんまり良くなかったと思ってます」
「そうだったんだ」
「でも、問題は俺の演技です。後藤さん、俺個人はどうでした?」
 思わず目をそらし、枝豆をつまんだ。
 どうやら俺は、少し誤解していたらしい。西野はただ突き進んでいるわけではなかった。悩みを抱えていた。
「どうって言われても、俺素人だから、そのへんこそよくわかんないよ」
「俺が将来、大きな舞台とか、有名な映画に出て活躍してるとこって、想像できます?」
 と、西野は核心を突いてくる。
「努力次第じゃないかな」
 と、俺はお茶を濁す。
「自分の演技、ビデオで撮って観たりするんですよ。それで、何となく思うんです。才能ないなって」
「でもさ、良い脚本じゃないと、良い演技もできないんじゃないの?」
「そういう面もありますけど、やっぱりうまい人は何やらせてもうまいんですよ」
 と、西野は淋しそうに笑う。
「何でもそうだと思いますけど、演劇も相当、運の世界です。脚本とか、共演者とか、プロデューサーとか、自分じゃ選べないことばっかりです。でも俺、演劇が好きなんで、人のせいにはしたくないんです」
 俺は、かける言葉が見つからなかった。
 感心すると同時に、どんなに立派な決意があろうと、実力の足しになるわけではない、とも考えていた。
 夢を持ち、輝いて見えた西野が、才能には恵まれていなかった。自分より下にすら見えた。年相応に、後輩だった。そのことを俺は内心喜んでいたのだ。
 弱みを知って、親しみが増した。頼られることが嬉しかった。
 そして俺は今、現状維持を望んでいる。彼の夢が叶うことを願ってはいない。
(こんなの、友達とは言えないんだろうな)
 西野は残っていたビールを一気に飲み干し、ジョッキをテーブルに置いた。
「俺、いっそスロット台になりたいですよ」
「どういう意味?」
「あんな風に、たくさんの人を夢中にさせてみたいです」
 チケット代二千八百円。コインにすれば百四十枚。数分で消える枚数だ。大勢の人が、西野の演技を見るためより、ギャンブルのために、金を使っている。
「失礼しまーす」
 店員が料理を運んできた。
 西野が焼き鳥の盛り合わせを串から外しながら言った。
「すいません、つまんないこと言って」
「いや、大丈夫だよ」
「俺もう一杯生頼みますけど、後藤さんは?」
「じゃあ、俺も貰おうかな」
 体は「もう飲むな」と言っている。けれど、今夜は飲んでやろう、という気分だった。

 それから二週間、何事もなく過ぎた。何事もなさ過ぎて、つい気が緩んだ。あのC店に行ってしまったのである。
 普通に朝、設定四狙いで行っていたなら、まだ良かったのかも知れない。宵越しを消さないという情報がチラついて、欲が出た。夜、各台の最終ゲーム数をメモしている時のことだった。
「後藤さん」
 背後から声がした。聞き覚えがあり、しかも、怒気を含む声。
「うちに入んねぇのに、うちのネタで稼ごうってのは調子良すぎじゃないですか?」
 上原だ。そういう名前だった。思い出した。
「ねぇ後藤さん、どう思います?」
「すいませんでした」
 そう言って、俺は逃げ出した。
 甘かった。もう俺のことなんて覚えていないだろうと、たかをくくっていた。
 しっかり覚えられていた。そして、見られていた。
 これを機に、奴らは本格的に俺を締め出しにかかるかも知れない。稼げる台の数は限られているのだ。チームに与しない人間なら、いない方がいい。
 俺は本気で引っ越しを考えた。
 しかし、喉元過ぎれば何とやらで、恐怖は徐々に薄れていった。というより、引っ越しにかかるであろう費用や手間が、恐怖心を薄めた。あのあと一度でも脅されたらいよいよ引っ越しを選んだはずだが、どうやらC店に近づかない限りは大丈夫らしい。
 ただ、C店を失ったダメージは小さくない。使える店が減ることはそのまま減収を意味する。
 俺は行動範囲を広げることにした。狙い台が取れなかった日は、今まで行ったことのない店に行って、情報を集めた。二駅か三駅分なら、交通費の節約と運動不足の解消とを兼ねて、自転車を使った。
 父から電話があったのは、そんな矢先のことだった。

 故郷の駅は、三年前と何も変わっていなかった。ホームに並ぶ看板も同じ。三年前どころか、ずっと昔から変わっていない気がする。きっとあのうちのいくつかの店は、既に閉店しているだろう。
 駅前のロータリーで病院の送迎バスを待っていると、懐かしい声がした。
「後藤! 後藤だよな?」
「灰田さん!」
「何だよ、久しぶりだな」
「灰田さんもお元気そうで」
「そう言えばお前地元こっちって言ってたっけ。どっかで聞いたことある地名だとは思ったんだよな」
「お仕事ですか」
「ああ」
 灰田さんはちらりと停留所の表示板に目をやった。
「……お前、どっか悪いのか」
「いえ、俺じゃなくて、母がちょっと」
「そうか。まぁ、息子がこの歳になりゃ、色々あるよな」
 その時、バスがロータリーに入ってきた。
「お前まだアレやってんの?」
「……はい。たまに」
 全然「たまに」ではないが。
「俺、しばらくこっちにいるんだ。おふくろさん良くなったら、久しぶりに遊びに行こうぜ」
「……はい」
 じゃあな、と言って灰田さんは去り、バスの乗車口が開いた。
 海沿いの国道を運ばれていく間、俺は呆けたように鈍色の空を眺めていた。

 母は、乳癌の二期であった。
 俺が到着した時、手術はちょうど終わったところだった。医者は俺と父に、摘出した病巣を見せ、無事成功したので安心するようにと言った。
 廊下を歩きながら、父が言った。
「痩せたな」
 俺は、そっちこそと思いながら、
「そうかな」
 と言った。
 父の髪には大分白いものが混じっている。皺も増え、高校の時に亡くなった祖父と瓜二つの顔になっていた。
「飯はちゃんと食ってるのか」
「うん。まぁ、普通に」
 会話はそれだけだった。あとはただ歩いた。
 廊下でも、入り口が開け放たれた病室でも、目にする患者はほとんど高齢者だ。彼らは今、生きている。それぞれの病を抱えて、生きるために、呼吸をしている。
 この中の幾人かは、ここへ来る前の数ヶ月間か、あるいは数年、パチンコ通いをしていたかも知れない。
 パチンコやスロットの中毒症らしき高齢者を見るたびに、絶対にああはなりたくないと、いつも思っていた。十分すぎるほどの予備軍、いや、ほぼ同類であるにも関わらず。
 この中に何人かは、きっといる。ギャンブルに魅了された哀れな老人が。
 だが、いるとしたら、何だ? その魂は他より濁っているのか?
 他人にそんな採点をする権利はない。
 自分が決めるのだ。もしその老人が、最後の数年間は無為に過ごしてしまったと自分で思うなら、それを否定する権利は、家族にもない。
 残念なことに、俺はもう覚悟ができてしまっている。
「何も生み出せない」
 そのフレーズを、何度頭の中で繰り返しただろう。慣れた匂いはやがて鼻が知覚しなくなるように、嘆きもまた、心の一角に棲みついてしまえば、どうとも感じなくなる。
 俺の人生は、既に虚無で満たされている。最後の数年どころではない。これからずっとだ。
 多くの尊い命が大地を走る車輪だとすれば、俺の命はまさにスロットのリールだ。同じところでひたすらぐるぐると回り続ける。どこへも行けない。どこかへ行くという機能をはじめから備えていない。
 隣を歩く、かつて大嫌いだった父は、立派な漁師だ。船の操舵も、網の手入れも、魚のさばき方も、海のことなら何でも知っている。少しパチンコに熱中したからと言って、漁師としての人生が否定されてしまうわけではない。
 潮風と日光を浴び続け、節くれ立った父の手の甲と、自分の青白いそれとを見比べ、俺は唇を固く結んだ。

 母の病室は、六階の個室だった。窓の外に海が見える。誰かの船が漁をしている。
 眠っている母は、随分小さく見えた。
 母が麻酔から目覚めるまでの間、父はひっきりなしに煙草を吸いに行ったり、トイレに立ったりしていた。俺は、携帯で「乳癌」を検索した。
 それによると、二期の患者の五年後の生存率は、九十一パーセント。
 高い。楽観できる確率。普通の人ならそう思うだろう。けれど、俺には恐ろしい数字に見えた。
 九パーセントの確率で、母は五年以内に死ぬ。
 ――次ゲーム、スイカを引く確率は〇・八パーセント、特殊リプレイが〇・四パーセント、単独ボーナスが〇・〇二五パーセント。紙のように薄い確率だが、スイカも特殊リプレイも単独ボーナスも、引くことは、ある。
 九パーセントという確率の「高さ」を、俺は知りすぎるほど知ってしまっている。
 そうだ。あの日――隣の老人に目押しを頼まれた日、確か弱チェリーからARTに入った。あれも九パーセントだった。至極あっさりと、その現象は起こる。
 あの母が、無敵だった母が、今はこんなに小さくなってベッドに横たわっている。何故この人が苦しまなければならないんだろう? 何の役にも立たない、欠陥品の俺が、のうのうと生きているというのに。
 長いような短いような時間が過ぎて、母が目を覚ました。目が覚めても、しばらくの間意識ははっきりしないだろうと、医者から言われていた。
「痩せたね」
 と、弱々しく口を動かして、母が言った。
「ちゃんとごはん食べてるかい」
「……それ、親父にも言われた」
 え? という目を母がした。聞こえなかったようだ。
 俺は少し大きな声で言い直した。
「親父にも言われた」
「……そう。お父さんは?」
「煙草吸いに行ってる」
 白い掛け布団が、母の呼吸と共に、大きく、ゆっくりと上下している。
「苦しいでしょ。寝てなよ」
「うん……」
 母は一度瞼を閉じかけたが、再び開いて、俺を見て、言った。
「……今どうしてるの?」
「コンビニでバイトしてる」
 本当のことは、それだけだった。あとの言葉は、口をついて出た。
「俺、俳優になりたいんだ」
 その時、父が戻ってきた。俺は構わずに続けた。
「コンビニは早朝で、昼間は配達のバイトして、夜は劇団のレッスンに通ってる。劇団っていっても大したところじゃなくて、アマチュアなんだけど、上手い先輩がいて、色々教えてもらってる。レッスンのあとにみんなで飲みに行くこともよくあるし、とにかく充実してるよ、毎日」
 母はじっと俺の話を聞いている。
「公演は年に三回ぐらい。百人も入らないような小さい劇場でやるんだけど、やっぱり本番は楽しいよ。お客さんの前でやるのが一番勉強になる。厳しい感想言われることもあるけど、ありがたいなって思ってるし」
 母の表情は変わらない。嘘と悟られているのだろうか。
 父が言った。
「それで、食っていけるのか」
「食えてないからバイトしてるんだけどね、今んとこ」
「だから、将来プロになって、その稼ぎで食っていきたいんだろう。そうなれる見込みはあるのか」
「わからない」
「正直、どのぐらいだ。プロになれる確率は」
「……本当に正直なことを言えば、一パーセントもないと思う」
 病室の中はひどく静かだ。窓の向こうで、漁船が海原をゆっくりと進んでいく。
「でも、勝算のある戦いしかしないなんて、つまんないから」
「……まるでギャンブルだな」
「ギャンブルではないよ」
「何が違うんだ」
「何かを生み出してる」
 本当の俺は、違う。一週間のうち五日間をスロットに費やしている。勝算だけにすがりついて、細々と生きている。
 理論上は勝てる。トータルでは勝てる。そう自分に言い聞かせ、現にその通りになっていた。けれど、もっと高い視点から見れば、完全に敗北している。そして、そんな自分を受け入れてしまっている。
 ごめん、嘘だ。実は俺、何もしてない。
 そう俺が言いかけた時、
「がんばりなさい」
 と言って、母は目を閉じた。
 膝の上で、拳を握りしめた。この先、俺は何ができるだろう。何かを生み出せるだろうか。そうなる確率は? ……期待できない。九パーセントより、一パーセントより低い。そうとしか思えない。
 父の後を継いで漁師に? 立派な選択かも知れない。だが、今さら? さっき父の手の甲を立派だと思ったけれど、憧れたのとは違う。この期に及んで、俺は俺の正直さを捨てられないし、捨てるべきとも感じない。
 しかし、自分を騙したくない以上に、もう二度と、母にこんな嘘はつきたくない。いつか、胸を張って、笑顔で話したい。未来の話を。与えられた命の使い方を。
 沈黙の中、母の寝息が規則正しく時間の経過を告げている。父は黙って窓の外を眺めている。
 宙で虚しく空回りするリールを、地面に下ろそう。目的地はない。けれど、動き出さなければ、始まらない。

                                     (了)

リールの回転

リールの回転

スロプロ(パチスロで生計を立てている人)の退廃的な生活を描いた作品です。割とマニアックです。時代は2010年頃(5号機の登場から5年目・初代エウレカあたり)を想定しています。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-04-01

Copyrighted
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