Samsara ~愛の輪廻~ Ⅰ(完結済)

愛の輪廻―― 命に限りがあるように不滅の愛は存在しないかもしれないけれど、死と再生を繰り返す永遠の愛は在ると信じたい……

~亜希、その愛(Ⅰ)~

01.車窓の女

陽子を失くしてから二年、耕平の中にぽっかりとあいた心の空洞を埋めてくれるような女は未だ現れない。
子持ちとはいえ都内でも有数の大学病院に勤務する美形の外科医、群がって来る女は星の数ほどいる。
だが、誰一人として硬く閉ざしてしまった彼の心を打ち砕くことはできない。
車窓に寄りかかり虚ろに宙をみつめる若い女を見た瞬間、耕平の心はいつになく動かされた。
どう見ても一人旅を楽しむ若い娘の姿ではない。
何かとてつもない大きな悲しみと絶望の中で身も心も打ちひしがれた人間の姿―—
そう、妻を失った直後の自分の姿だった。
列車がホームに着き、三連休を行楽地で過ごす家族連れや観光客の群れに紛れ消えて行った彼女のことが、
ひどく気にかかった。
どこか、出逢った頃の陽子に似ていたせいかもしれない・・・
(俺はまだ死んだ女房を引き摺っているのか…)
苦笑しながら娘の待つ妻の実家へと足早にホームの階段を駆け下りて行った。


「パパっ!」
「舞、いい子にしてたか?」
玄関先で一週間ぶりの父の帰りを待ちわびていた娘を抱き上げ頬ずりをした。
「おかえりなさい。暑かったでしょ、いま冷たいものを入れるから、さあ、中に入って」
静江も嬉しそうに娘婿を迎え入れた。

四歳になる娘は妻が亡くなって以来ずっと義母に面倒を見て貰っている。家族の居ない都内のマンションは
ただ寝るだけの場所となり、週末ここで過ごす娘との時間が今の耕平にとって何よりも貴重なものになっていた。
時々ふと、この田舎町の診療所でのんびりやるのも悪くないな、と思うことがある。
確かに、最新設備の完備した最先端の医療の現場で医者として腕を磨いていくことには多いに魅力がある。
だが、今の大学病院の実態は、患者のための医療という理念とはかけ離れたところで、教授をめぐる派閥間の
熾烈なポスト争い、どろどろした人間関係、野心や保身のために私利私欲が渦巻く巨大な組織に変貌している。


高村耕平は長野県下の小さな町で生まれた。
幼くして父と死別、小学校の教員をしていた母と二人の母子家庭で育ち奨学金で医大を出た、いわゆる苦学生
だった。同期には医者の息子が多く何不自由なく優雅に大学生活を送る彼らとは馴染めず、都会暮らしはあまり
性に合わなかった。苦労して育ててくれた母親は医大卒業後しばらくして他界した。暖かい家庭に人一倍強い
憧れを抱いていた耕平にとって、陽子との五年間の結婚生活はやっと手にした理想の家庭だった。
陽子とは高校の先輩後輩という関係からスタートした。耕平が研修医になるとすぐに結婚、東京で新婚生活を
始めた。三年後には舞が誕生し順風満帆な日々を送っていた、二年前のあの悪夢のような日まで——
陽子はあの日、二歳になる舞を乗せ郊外の大型スーパーまで車を走らせていた。突然、前方から対向車線を越え
一台のトラックが猛スピードで陽子の車に突っ込んできた。ほとんど即死の状態だった。
病院に駆けつけた耕平は変わり果てた妻の姿に茫然となった。
幸い、後部座席のチャイルドシートに座っていた舞は奇跡的にかすり傷ひとつなく無事だった。
耕平は一瞬にして最愛の妻、そして息子を奪われてしまった・・・
陽子は二人目の子供を身ごもっていた。



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耕平はいつものようにいつもの場所でストレッチ運動を始めた。
日曜の朝、この湖の周りを軽くジョギングするのが仕事で溜まった一週間分のストレス解消法になっている。
普段は静かな湖畔のあたりが今朝は妙にざわついていた。

「救急車呼んで‼」「人工呼吸できる人いないか!?」
人だかりができ緊迫した声が飛び交う。
急いで駆けつけると、若い女が波打ち際でぐったりと横たわっていた。
その傍らで五、六歳の男の子が母親らしき女に抱かれ泣きじゃくっている。
若い女に人工呼吸を施すと、すぐに大量の水を吐き出した。
「もう大丈夫だよ」
声をかけた耕平は、はっとなった。目の前にいるのは昨日新幹線の中で見たあの若い娘だった。
「…あ、の、子は?」
女はうっすらと目を開け喘ぐように言った。大丈夫だと応えると、安心したように再び目を閉じた。

けたたましいサイレンの音を轟かせ救急車が到着した。
念のため顔見知りの内科医がいる近くの総合病院に搬送した。一通りの検査を受けている間、耕平は待合室で
インスタントの不味いコーヒーを啜っていた。こんな風に待合室に座るのは二年前のあの事故の日以来だった。
しばらくして永井医師が経過報告にやってきた。

「意識はしっかりしているし、外傷もない。一応脳波もとったが異常は見られない。
ただ… 彼女、妊娠してるよ。もう十三週に入ってる。それと、精神的にかなり参っているようだから、
そっちの方はけっこう時間かかるかもしれんな。なんか ”訳アリ” って感じだな…」
永井は医大の二年先輩にあたる。

耕平の脳裏に、車窓にもたれかかる女の淋し気な横顔が浮かんだ。
ふと、彼女は死に場所を求めてここへ来たのかもしれないと思った。溺れている子供に遭遇し無意識のうちに
その子を助けようとした。そんな彼女が、今巷に溢れているような無責任で身勝手な若い女とはとても思えない。
自分の中に宿った新しい命とともに自らの命を絶とうとするにはよほどの理由があるはずだ。
言葉を交わしたわけでもない、列車の中で見かけただけの見ず知らずの若い娘のことが何故こんなにも気に
かかるのか、自分の中でも説明がつかない。
ただ、どうしてもこのまま放っておけない、何とかしてやりたいという強い思いに駆られた。


「お世話かけました」
先輩医師に礼を言い頭を下げた。
「あまり深入りせんほうがいいぞ、高村」
永井は後輩の胸の内を見透かしたように耕平の肩をポンと叩いた。



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気がつくと湖のほとりに来ていた。
思考回路が完全に遮断されたかのように頭の中が真っ白だった。ただ、このまま水の中に身を沈めれば
楽になるような気がした。真夏の太陽に晒された湖水は火照った肌に心地よく、亜希の身体は湖の中に
ぐいぐいと吸い込まれていく・・・

「だれかぁー‼ その子をたすけてぇ―‼」
背後で突然、悲鳴のような甲高い声がした。
亜希の前方に黒い小さな物体が浮き沈みしている。はっと我に返り、その物体に向かって夢中で泳ぎ
だした。



成瀬亜希は二年前東京の音大を中退、友人を頼ってアメリカの東海岸へと向かった。
一年後に卒業を控えながら大学を辞めたのは、母親の急逝による経済的なものが表向きの理由だった。
が、実際のところは、何もかもが嫌になり今までの自分の人生をリセットしたくなった。
亜希の両親は正式な婚姻関係にはなかった。戸籍上、亜希は非摘出子、いわゆる私生児になっている。
父は売れない絵描きだった。地方の旧家の長男として生まれたが、若いころから芸術家気取りで家を継ぐ
意思などまるでなく、早くから親に勘当を言い渡されていた。
定職もなく、母が昼間は近所の子供にピアノを教え、夜はスナックで働きながら家計を支えていた。
ぐうたらな男と一緒になったばかりに母もまた父母・兄弟とは絶縁状態にあった。
母は若い頃ピアニストを目指していた。果たせなかった自らの夢を託すように娘への期待は大きく、
物心つくかつかないうちにピアノの前に座らされ厳しいレッスン漬の毎日が続いた。
父は結局、亜希が小学校へ上がる前『もう、描けない』という短い遺書を残し富士の樹海へと消えて逝った。
母はそんな父のことを一度も悪く言ったことはなかった。社会通念からすればとうてい容認されるような
夫婦ではなかったが、互いを理解し信頼し愛し合っていた。そんな両親のことを少しばかり理解できるように
なったのはだいぶ大人になってからだった。
天涯孤独の身となった亜希に母の死を悲しんでいる暇はなかった。学生ビザに必要な書類を発行してくれる
現地の格安語学スクールを探し出すと身辺を整理し、母の残してくれた生命保険とバイトで貯めた全財産を
かき集め慌ただしくアメリカへと旅立った。

亜希の通う語学スクールにも日本からの留学生が何人かいた。
留学生と一口に言っても大まかに二種類に大別される。フルブライト等の公的機関によって選別されハーバード、
コロンピアなどのアイビーリーグの名門大学や院に送られる、いわゆるエリートたち。私費留学でも大学資格、
さらに大学院でのMBAやphD取得をめざし真剣に勉学に励む者たち。そして、外国人に簡単に学生ビザを
発行してくれる商業ベースの語学スクールに身を置き、自由気ままなアメリカ生活を体験する者たち。
前者が人生の『勝ち組』ならば、後者は『負け組』あるいは、その予備軍と言えるかもしれない。
最初は皆それぞれに希望と夢を膨らませ毎日せっせとスクールに通う。だがそのうち、思うように上達しない
語学力に苛立ち所持金も底をつき、親からの仕送りも期待できなくなる。
そこで、とっとと見切りをつけて帰国すれば良いものを、変な意地とプライドが邪魔をして出口の見えない迷路に
入ってしまう。まずは生活のために日本食レストランなどでバイトを始める。それが次第に本業のようになり、
語学スクールは英語を学ぶためではなく、不法滞在を免れるためだけに授業料を払うようになる。


亜希のアメリカ生活も来た当初は何もかもが新鮮で刺激的だった。が、一年も経つと単調で色褪せたものに
なっていった。
スクールの日本人グループの中には挫折して帰国する者たちも出始めた。明確な目的もなく、ただ母の敷いた
レールの上を歩んできた受け身の人生から逃げ出すための留学だった。貯えも乏しくなり、コリアン人が経営
する日本食レストラン兼カラオケバーで夜のバイトを始めた。
亜希の心は揺らいだ。だが、帰国したところで待っていてくれる家族がいるわけでもなく、”大学中退、私生児、
身元引受人なし” の若い娘にまともな就職口などあろうはずはない・・・ 
拓也と出逢ったのは、そんな悶々とした日々を送っていた頃だった。

単調な生活を変えなければと思っていた矢先、ふと目にしたネットの掲示板に地域の病院でボランティアを
募集していた。”ピアノ” の文字が目に飛び込んできた。もう二度とピアノとは関わらないつもりでいたが、
活動の内容は週二回、小児病棟でピアノを弾くという簡単なものだった。子供は好きだし英会話の勉強にも
なると思い参加した。
その病院にいた日本人が拓也だった。陽気でユーモアのセンスがある彼は患者やナースの間で人気があった。
日本人というと今だに、背が低く度の強い眼鏡をかけ首からカメラをぶら下げているくらいのイメージしか
持ち合わせないアメリカ人にとって、長身で茶髪にピアス、流暢な米英語を操るイケメン研修医はかなりの
インパクトがあったようだ。
亜希でさえ、「へぇー、今時のお医者さんはこうなんだ」というのが拓也に対する第一印象だった。
同じ日本人ということもあって会話を交わすようになり、食事や映画のデートを重ねるうちにほとんどの
週末を一緒に過ごすようになった。チャラい男を絵に描いたような外見とは異なり、中身は意外としっかり
していた。生来の明るさというか、一緒にいるとポジティブなオーラに包み込まれるようで、とにかく
楽しかった。亜希は自分の生い立ちについて何も話さなかった。拓也もあえて聞こうとはしなかった。
ただ、彼のプロフィールはナースたちの間ではけっこう知れ渡っていた。

奥寺拓也の家は代々続く医者の家系で父親は大きな病院の院長、兄は副院長、次男の拓也も見かけによらず
秀才だった。東京の私大医学部にストレートで入り六年終了時には国家試験に合格、医師免許を取得した。
教授の推薦を受け二年間の予定でこの病院にやって来た。そして、どうやらその教授の一人娘と将来を
約束しているらしい。
この事実を知った亜希は自分に言い聞かせた。拓也とは所詮は住む世界が違う、一年経てば自分の前から
消えて行くだろう。それまでの間、適当に楽しくやればいい…と。だがそんな強がりに反し、彼の存在は
亜希の中で大きな位置を占めるようになる。
そして、いつしか互いに惹かれあい、恋人同士の関係にまで発展する。研修期間が終わりに近づいた時、
拓也は亜希にプロポーズし、「二週間したら必ず迎えに来る」という言葉を残し帰国した。
だが、二週間経っても彼は戻ってこなかった。ずっと携帯もメールも繋がらない状態が続き一か月が経過
した頃、身体の変調に気づいた。市販の検査薬で妊娠の事実を知り不安はいっそう募った。
音信不通のままさらに一か月が過ぎ、心身ともに限界に達した亜希は成田行きの便に飛び乗った。



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病室の白い天井をぼんやり眺めていると涙が溢れてきた。
”セレブの恋! 電撃婚約! 奥寺クリニックの御曹司……”
成田の到着ロビーで何気に手にした女性誌の一ページが、はにかむように微笑む拓也とその傍らに寄り
添うブランド物に身を包んだ女の写真が、頭の中に鮮明に蘇ってくる・・・
彼を信じずっと待ち続けた。事故にでも遭ったのではないか、急病で入院でもしているのではないか… 
成田に着くまでの不安が予想もしなかった形で現実のものとなった。
(拓也にとって自分は、いったい何だったんだろう… 生まれた時から『勝ち組』の人生を歩んできた
男が、偶々『負け組』の女と出逢った。期間限定の恋愛ごっこを楽しみ、賞味期限が切れるとゴミ屑の
ようにポイっと捨ててしまった。まるで不要になったデータを処理するように、拓也は自分の存在を
消去してしまったのだろうか……)



「成瀬さん、気分はどう? それにしても自分の身体のことも考えずに無鉄砲すぎるわよ。
あの先生があそこに居合わせなければ、今頃、あなたもお腹の赤ちゃんもどうなっていたことやら…」
人の好さそうな看護師が、亜希がここに運ばれて来た経緯を話してくれた。
自分を助けてくれたのが、高村耕平という東京の大学病院の医師であることを初めて知った。


(あのまま、死なせてくれればよかったのに…)
窓のブラインド越しに漏れてくる夏の強い日差しが白い病室をよりいっそう明るいものにしていた。
その明るさに耐え切れないように、亜希は目を閉じ顔をシーツで覆った。

02.恋の予感

暑かった夏も終わりを告げ、九月に入ると信州地方は秋の色に染まり始めた。
静江のところに来て一か月余り、亜希は徐々に元気を取り戻していた。舞といる時は努めて明るい笑顔を
浮かべている。それでも時おり見せる陰りの表情に彼女の抱えている悲しみの深さ、苦しみの大きさが
想像できた。


「おねえちゃん、こんどは、いっしょにお絵かきしてえー!」
「じゃあ、クレヨンと画用紙もってきてね」
「はあーい!」
「もう、舞ったら。いいかげんにしないと、おねえちゃんが可哀そうよ」
亜希に(まと)わりつく孫娘を(たしな)める静江の口元から笑みがこぼれる。

舞は母親に甘えるように亜希によく懐き、以前よりもずっと明るくなった。まだ二歳だった幼子の心にも
母親の死は暗い影を落としていたのだろう。耕平はあらためて、両親不在の生活を強いている娘を不憫に
思った。アメリカに戻るという亜希を半ば強制的に義母の家に連れてきた。静江は何も聞かず暖かく亜希を
受け入れ見守ってくれている。
彼女もまた亜希の中に最愛の娘、陽子の姿を重なり合わせているのかもしれない。

「耕平さん、確か来週は学会でしょ。今回はどれくらい?」
「週の半ばから十日ほどの予定です」
「じゃあ、今年のお祭り、パパは無理ね…」
静江は残念そうに孫娘に目をやった。

「あ、そうか、次の週末だったね。ゴメンな、舞」
「いいもん、おねえちゃんと行くから」
すまなそうに謝る父親に向かって舞はそっけなく応えた。
毎年、神社の秋祭りに一緒に行くのを楽しみにしている娘の冷たい反応に、耕平は静江と顔を見合わせ
苦笑した。



ワシントンDCでの学会の後、耕平はメリーランド州にある大学病院を見学に訪れていた。
ここの小児科病棟は小児癌や脳腫瘍、白血病などで長期入院を余儀なくされた子供たちのための院内教育
施設が充実していることで知られている。
親日家だという病院職員の中年女性が丁寧に説明しながら病棟内を案内してくれた。
最後の娯楽室に入ると窓際に大きなグランドピアノがあった。
そばの棚の上に並べられた一つの写真立てに耕平の眼は釘付けになった。子供たちに囲まれ満面の笑みを
湛える若い東洋人女性。傍らで彼女に寄り添うように白衣を着た長身の男が立っている・・・  
写真をじっと見つめる耕平に案内役の女性は、待ってましたとばかりにその写真の説明をはじめた。
南部訛りの彼女の早口の英語を要約すると、『ボランティアとしてピアノを弾いていたアキは子供たちから
とても慕われていた。彼女は素晴らしいピアニストでクリスマスやイースターの演奏に皆が感銘を受けた。
そして、日本人ドクターの”タク”とアキは誰もが羨むような恋人同士だった』と、いうことになる。

”奥寺拓也”―― 
それは数か月前、医局に集まる若い連中の間で話題に上った男の名前である。

「すげぇー 逆玉だよなあ!」
「それ、ちょっと違うんじゃないか? 逆玉ってフツ―、俺たちみたいなド庶民が金持ちの令嬢を
射止めることだろ?」
「まっ、どっちでもいいけど、やっぱ、いいよなぁー」

都心の一等地にある奥寺クリニックは莫大な資産をバックに最新の医療設備を導入、有名大学病院から
ヘッドハントした優秀な医師たちを揃えている。某インテリアデザイナーが手掛けたとやらの一流ホテル
のロビー並みの待合室にはBGMが流れ、パステルカラーに身を包んだ美人揃いのナースたちが笑顔で
対応してくれる—— 今巷で評判の病院である。
そこのアメリカ帰りの息子が、出身校の名門私立大学医学部教授(主婦向けの昼のワイドショー医学相談
コーナーで人気があるらしい)の一人娘と婚約したことで女性週刊誌を賑わしていた。
耕平には興味のない話なので適当に聞き流していたが、民間病院に比べ収入の低い医局に残った若い研修医や
医局員にとって、義父の人脈と実父の財力でピラミッドの頂点にある教授の椅子を簡単に、しかも確実に手に
入れるであろう男はやはり羨望の的のようだった。


写真の中の亜希は本当に幸せそうだった。そんな彼女を死の淵にまで追い詰め笑顔を奪った男――
絶対に許せないと思った。その男が同業者であることにさらに激しい怒りを覚えた。
耕平はこの時、亜希に対して好意以上の感情を抱いている自分をはっきりと意識した。



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九月も半ばを過ぎると残暑の厳しかった東京もめっきり涼しくなり、街には秋の気配が漂いはじめた。
帰国した耕平は雑用に追われ長野に帰りそびれていた。無性に亜希に逢いたかった。この週末は帰る予定で
いたが、できればその前に二人だけの静かな時間を持ちたいと思った。
金曜の午後、亜希を東京に呼び寄せコンサートに行き、食事をし、最終の新幹線で長野に帰ることを思い
ついた。舞から少し解放されて良い息抜きになると、静江も大賛成してくれた。


待ち合わせのコンサートホールには亜希が先に来ていた。
大理石とマホーガニーで統一された落ち着いた構えのロビーにはシックな装いの老若男女が開演を待ち
わびている。ソファに座りプログラムに目を通している亜希は周りの雰囲気と溶け合い、いつもよりずっと
大人びて見える。なぜかすぐに声を変えるのが躊躇われ、暫くの間そんな彼女の姿を柱の陰からそっと
眺めていた。

「悪い、待たせた?」
「いいえ、私も今来たところ。でも… 先生にクラシックの趣味があったなんて…」
「似合わない、かな?」
「なんとなく…」
亜希は俯いて可笑しそうにくすっと笑った。
こんな風に二人きりで会話をするのは初めてだった。彼女は長野にいる時よりどことなくリラックスして
いるように見えた。

二時間の上演時間はあっという間に終了し、耕平は久しぶりに生のオーケストラの醍醐味を堪能した。
特にクラシックの趣味があるというわけではないが、オペの前にCDを聴くことがよくある。
亜希も演奏にうっとりと酔いしれているようだった。
コンサート会場を出ると外は雨だった。隣接するホテルのレストランに予約を入れておいた。遅い時間にも
関わらず、ウィークエンドをエンジョイするカップルたちで賑わっていた。場所がら外国人の客も多く様々
言語が飛び交っている。三十二階から見下ろす雨に煙る都心の夜景も、一瞬ここが日本ではないような錯覚
すら覚える。テーブルの上のキャンドルの灯りに照らし出された亜希の顔がきらきらと輝いている。
耕平は、彼女を連れだして良かったと思った。

ホテルを出ると、雨は一段と激しさを増していた。
東京駅に向かうタクシーのラジオから、停滞する秋雨前線の影響で長野地方が局地的な大雨に見舞われ、
新幹線が上下線ともストップしたというニュースが流れた。
(まいったな…)耕平は仕方なくタクシーの行き先を駅からマンションへと変更した。
部屋に着くとすでに深夜を廻っていた。亜希に寝室を譲り自分はリビングのカウチで寝ることにした。



—――寝室から何かに怯えるような亜希の声がした。
ノックをしたが返事はない。中に入ると、何か悪い夢にでも(うな)されているようだった。
ベッドに近づき肩に手をやると、いきなりもの凄い力でしがみついてきた。身体は小刻みに震え額には
薄っすらとと汗が滲んでいる。よほど怖い夢の見たのだろう。子供をあやすようにやさしく背中を撫でて
やると安心したのか、腕の中で軽い寝息を立てはじめた。赤ん坊を抱いて添い寝をするような格好で耕平も
ベッドに横たわった。


―――どれくらい眠っただろう… 雨は止み、窓の外は白みはじめている。
亜希はまだ腕の中にいた。薄明りの中で童女のように眠る顔をみつめていると何かたまらなく愛おしい
ものに思え、言い知れぬ激しい感情が込み上げてきた。耕平は思わず唇を押しあてた。
目を瞑ったまま亜希はそれに応える。激しくお互いを求め合うように二つの唇が重なり合っていく・・・
亜希は、か細い声で「抱いて」と言い、(あえ)ぐような熱い息を洩らした。
耕平は一瞬、躊躇った。が、身体はすでに彼女の言葉に反応している。


六か月を迎えたばかりの亜希の裸体は眩しいくらいに綺麗だった。
豊かさを増した形の良い乳房、服の上からはあまり目立ったなかった下腹部の膨らみは、そこに確かに
新しい命が息づいていることを物語っている。
透明感のある瑞々しい肌は、上質な絹織物のようにしっとりと滑らかで柔らかい。美術品にでも触れる
ように耕平の手が優しく亜希の全身を愛撫する。若い肉体は悶えるように激しくそれに応えてくる・・・
下半身はただ、雌を求める雄のように激しく脈動を開始し何か強いエネルギーにでも導かれるように静かに
亜希の中に入っていった。



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カーテン越しに差し込む柔らかな朝の光の中で亜希は目覚めた。
時計を見るとすでに十時を回っている。明け方の余韻が心地よい気だるさとなって躰の深部に残っている。
遠くに想いを馳せるように、ゆっくりと目を閉じた。

――FMラジオから流れてくるオールディ―ズの軽快なリズム、トーストの焼きあがる香ばしい匂い、
引き立ての珈琲豆から漂うヘーゼルナッツの甘い香り・・・ 
時間がゆったりと流れる週末の遅い朝――
それは、愛する男の腕の中で目覚め、愛されていることを実感する満ち足りた空間だった。

(男って、あんなにも見事に恋人役を演じ、あんなにも鮮やかに女を欺き、なんの躊躇いもなく女を
裏切ることができるのだろうか……)
閉じた目から涙が溢れた。
遠い昔、少女の頃に夢見たような甘美な恋物語はあまりにも儚く、虚しく、まるで蜃気楼のように
亜希の前から忽然と姿を消した。


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(俺は、ひと回りも歳の離れた若い娘を本気で愛しはじめている……)
カウチに寝そべりながら、耕平はマルボロに火をつけた。
紫煙がゆっくりと立上りゆらゆらと揺れている。
電流のように全身を駆け巡ったあの鮮烈な快感は、もう忘れかけていた、いや、これまで味わったことの
ないような新鮮な快楽だった。
妻の死後、女を抱かなかったわけではない。ただそれは、定期的に身体の中に溜まった老廃物を処理する
ような何の感情も伴わない、事務的な行為に過ぎなかった。


亜希はまるで何かにとり憑かれたように興奮し激しく男を、おそらく奥寺拓也を求めていた。
自分を裏切り捨てた男のことをまだ愛しているのだろうか・・・
亜希の躰をあんなにも燃え上がらせた若い研修医に、耕平は軽い嫉妬と羨望を覚えた。

03.揺れる心

季節は夏から秋へと足早に駆け抜けて行った。
長野地方は今朝、例年よりも早く初雪に見舞われた。薄っすらと雪化粧を施した庭の木々が水墨画の
ように美しい。
亜希はもう誰の目にもはっきりと分かる八か月を迎えていた。静江の暖かい思いやり、舞の無邪気な
明るさに囲まれ穏やかな日々を送っている。


亜希にとって拓也は初めて本気で好きになった男だった。
彼と過ごした時間、交わした会話の一つ一つが、目を瞑ると映画のシーンの一齣一齣のように瞼の裏に
鮮明に映し出される。彼の腕の中で何度も何度も、このまま時が止まって欲しいと思った、あの切なく
甘美な感触が躰の奥深くに残っている。
拓也の裏切りをどうしても信じることができない。時々ふと、この半年余りのことが夢の中の出来事の
ように思え、「遅くなって、ゴメン!」とでも言いながらひょっこり姿を現すような気がする。
そうあって欲しいと願う気持ちがまだ自分の中にあることが、たまらなく悲しくて、つらくて、やり
きれない。男に捨てられたという事実を現実のものとして受け入れられずにいる自分が、哀れで、惨めで、
情けない。

耕平にめぐり逢わなければ、彼の優しい愛がなければ、今の自分はいない。
絶望の淵から生きる希望を見出してくれた彼には心から感謝している。好意も寄せている。けれど、
その想いはまだ恋愛感情には至っていない。
何も迷わずこのまま黙って大きな胸の中に飛び込めば、子供の頃から憧れていた平凡で暖かな家庭を
手にすることができるだろう。が、本当にそれで良いのだろうか。心のどこかで拓也を引き摺ったまま
耕平の想いを受け入れることは決して許されないだろう・・・

迷いと葛藤を繰り返した亜希は耕平に何もかも打ち明け自分の正直な気持ちを伝えた。
生まれてくる子供を私生児ではなく高村耕平の実子として、未婚の母ではなく高村耕平の妻として育てて
いくには、そして何より、耕平の誠実な愛に報いるためには拓也への想いを完全に断ち切り、彼の存在を
自分の中から抹消しなければいけない。それにはもう少し時間が欲しい……と。
耕平は何も言わず、すべてを受け入れたように強く亜希を抱きしめた。



********************************



「よおっ、久しぶり! 元気してた?」
「なーんか、耕平、生き生きしてる。やっぱ、若いカノジョのせい?」
「……」
「本気なの? ひと回りも年の離れた相手と… ちょっと癪だけど、綺麗な()ね。
若い頃の陽子に似てる」
杏子はティ―スプーンを(もてあそ)びながら悪戯っぽく笑った。


島崎杏子とは高校の同級だった。
高三の時、父親の転勤で東京から転校してきた。どこか都会の匂いを漂わせ大人びた感じで、周囲の
同級生たちとは一線を画していた。なぜか耕平だけには心を開き、陽子と三人で休みの日に洋画を
見たりコンサートに行ったりした。卒業後は東京の大学に進学し、広告関係の仕事に就いた。
一年ほど前からニューヨークと東京を往復する生活をしている。

「そんなびっくりした顔しないで。久しぶりに実家へ行って親孝行してきたの。
その帰りに陽子にお線香を上げようと思って、ちょっとおばさんちに寄ってきた」
「そっか…」
「耕平もおばさんもどうかしてるわ! 二人ともあの娘の中に陽子を見ているとしか
私には思えない。ほんとうに結婚するつもりなの? 本気で自分の子でもない子供の
父親になる気?」
「ああ、俺は本気だよ。確かに最初は君の言う通りだったかもしれない。けど、今は違う。
彼女のこと真剣に愛してる」
「まあ、ずいぶんはっきりと言ってくれるわね」
呆れたように耕平の顔をまじまじと見た。

「お腹の父親のこと聞いてるの? 彼女アメリカに居たそうじゃない。青い目や黒い肌の
子供が生まれてくる可能性だってあるわけよ。それでもいいの?」
「俺に正直に何もかも話してくれた。それに…」
「あまいなあー」
耕平の言葉を遮るとバッグから煙草を取り出した。
カルティエのピンクゴールドで火をつけると、杏子はふーと大きく煙を吐いた。
その手慣れた仕草は洗練された都会の女のものだった。

「…そんなの都合のいい作り話かもしれないじゃない。今の若い娘って、あなたの想像も
つかないくらい凄いのよ。おばさんや舞ちゃんに取り入って、すんなり医者の妻の座を
ゲットするんだから、彼女もたいしたもんだわ」
「亜希はそんな女じゃない‼」
耕平は自分でも驚くほど強い調子で反論した。

「もう今のあなたに何を言っても無駄みたいね。でも、親友として一つだけ忠告させて。
もし今の職場で頂点を極めたいなら、仕事ができるだけじゃダメよ。少しは周りのことにも
眼や耳を傾けて、ライバルを蹴落とすくらいの勢いじゃないと。自分のところの学生に手を
つけて妊娠させたなんて噂でも流されたら、あなたお終いよ」
耕平の顔をキッと見据えた。
厳しい男社会の業界内で女が管理職のポストを手に入れるのは容易なことではない。
杏子はおそらく競争相手を陥れるような非情な手段も辞さずして、ここまでのし上がって
きたのだろう。

「ご忠告、有り難く承っておきます」
「じゃ、ま、若い奥さんのために老体をあまり酷使しないよう。どーぞ、お幸せに!」
皮肉たっぷりに言うと慌ただしく席を立った。

(相も変わらずだな。昔とちっとも変わってない…)
突然、人を呼び出しておいて自分の言いたいことだけ言ってさっさと帰って行く。
杏子の我儘、気まぐれには昔からずいぶん振り回されてきた。久しぶりに再会した同級生の
後ろ姿に苦笑しながら、耕平は残りのコーヒーを飲みほした。


_______________________



(なんで、こうなるんだろ…)
耕平の前ではいつもあんな風に勝ち気で可愛げのない、嫌みな女になってしまう。


杏子は昔から耕平のことが好きだった。
親の都合で不本意ながら田舎の高校に転校させられた時、単身赴任を断固として拒む父と、それを
容認する母をずいぶん恨んだりもした。同級生の男子たちを ”信州の山猿” 程度に見ていた。
だが、耕平だけは別だった。頭脳明晰な上、自分好みの端正なルックスに一目で魅了された。
プライドの高い杏子は一度も告白したことはないが、初めて出逢った十七歳の頃から現在に至るまで
その想いはずっと変わらない。
当時、耕平はすでに一級下の菊池陽子と付き合っていたが、彼を絶対自分のモノにする自信があった。
それまで狙った獲物は確実に射止めてきた。そんな性格が災いしてか、彼女には女友達がほとんどいない。
結局、耕平は陽子と結婚し幸せな家庭を築いた。自尊心をずたずたにされた杏子はニューヨーク支社への
転勤を希望、仕事に逃げるように日本を離れた。

杏子は頭も切れるし仕事もできる、なかなかの美人で上司や同僚からも一目置かれている。
自他ともに認める才色兼備だが、むろん実力だけで今の地位を築いたわけではない。営業成績を上げる
ため女の武器を駆使しクライアントをライバルから横取りしたこともある。顔のパーツが大きく肉感的な
容姿を持つ彼女にこれまで言い寄ってくる男は何人もいた。だが、耕平を超えるような男にめぐり逢う
ことはなかった。
妻を亡くしたショックから立ち直れず抜け殻のようになった耕平に再会した時、彼が望むなら積み上げて
きたキャリアを捨てても構わないとさえ思った。だがその想いは杏子の一方的で独りよがりに妄想でしか
なく、またしても耕平には届かなかった。
そして、今度は突然現れた二十三歳の小娘にあっさり寝盗られてしまった。


(陽子の時のような失敗はしないわ。絶対、奪い返してやる! 例えどんな汚い手を使っても…)
色白で透明感のある清楚な美人―― 耕平好みの若い女の姿が脳裏に浮かぶ。
杏子の中に獲物を狙う肉食獣のような闘争心がメラメラと沸き上がった。

04.聖夜の入籍

十二月に入ると日本列島は一斉にクリスマスモードに切り替わった。
毎年恒例となった都心のデパート前の大きなツリーを点灯するイベントがテレビの画面に映し出されて
いる。耕平の膝の上にちょこんと座り大きな歓声を上げる舞。その傍らで静江が編み物を手を休め孫の
様子を嬉しそうに眺めている。亜希は台所で林檎の皮をむきながら、そんな微笑ましい光景を見ていた。


「あれぇ~ テレビどうしちゃったの、パパ!?」
舞が突然大きな声を上げた。 
テレビの画面が一変、南太平洋で数日前から消息を絶っていた旅客機の墜落が確認され、乗員乗客全員
死亡という事故の速報が流れた。乗客名簿の中に数名の邦人名があり現地の日本領事館に確認を急いで
いると、報道デスクのアナウンサーが早口に原稿を読んでいる。

「まあ、年の瀬だというのに亡くなられた方も家族もお気の毒にねえ…」
他人事とは思えないといった顔で静江がニュースに見入っている。
日本人乗客とみられる名前が画面に出て、アナウンサーが何度も繰り返していた。

(えっ、まさか、タクが!?…)
乗客名簿の中に『タクヤ・オクデラ』の名前がある。
亜希は一瞬、自分の目と耳を疑った。全身の力が抜け血の気が引いていくのが自分でもはっきりと
分かった。持っていた果物ナイフを床に落とし崩れるようにその場に倒れた。


奥寺拓也は新婚旅行中にこの事故に遭遇し帰らぬ人となった。
週刊誌やワイドショーが連日のようにこの話題を取り上げている。拓也の死は、ようやく癒されかけた
亜希の心と身体にまたしても大きなダメージを与えた。心配をかけまいと耕平の前でわざと明るく振る
舞う姿が痛々しい。耕平はそんな彼女の体調を気遣っていたが、不安は的中し切迫早産の兆候を見せ始めた。
三十週の胎児では仮に無事に産まれても、自発呼吸が困難で直ちに適切な処置をしなければ助かる確率は
低くなる。今、お腹の子供まで失うようなことになれば、亜希は二度と立ち直れないかもしれない。
万一に備えNICU(新生児集中治療室)の完備した成都医大に入院させ万全の治療を受けさせることに
した。長野県内にもNICUを備えた病院はあるが、あえて都内、しかも自分の勤める病院を選んだのは、
どうしても亜希のそばに付いていてやりたかったからだ。

ベッドの上で二十四時間の安静を強いられ副作用の伴う点滴治療は肉体的、精神的にかなり辛いものだった。
拓也は亜希の中に残した自分の分身の存在すら知らずあっけなく逝ってしまった。だが、今の亜希には子供の
無事な誕生を祈り長野で待っていてくれる静江や舞がいる。そして、毎日病室を訪れ優しく励ましてくれる
耕平がいる。大きな愛情に支えられ小さな命を守るため亜希は懸命に闘った。


辛い治療が功を奏し早産の危機を脱した亜希は二週間ぶりに長野に戻った。
窓の外は一面の銀世界となったイブの夜、帰りを待ちわびていた静江と舞の前で二人は婚姻届けに署名した。



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二月の初め、耕平の立会いのもと亜希は無事元気な男の子を出産した。
『亮』と名付けられ、高村家の長男として家族の愛情に包まれすくすくと成長している。
耕平は成都医大を辞め一月から長野県内の病院に勤務している。
同僚たちからは「お前も、とうとう都落ちか」と揶揄されたが、大学には何の未練もなかった。
医大を出てからただひたすら腕の良い外科医になるために突っ走て来た。
舞が産まれる時、予定日の一か月以上も前に陽子を実家に帰し静江に任せたまま、出産に立ち会うことなど
考えも及ばなかった。妻の死後、現実から逃避するようにさらに仕事に没頭し、義母に娘の養育を任せたまま
変則的な生活を続けていた。仕事を優先させ自分でも気づかないうちに家族に大きな犠牲を強いてきた。


陽子を失った時、恋愛や再婚など自分とは一生縁のないもの、新たな家族を作ることなどとても考えられなかった。
亜希と出逢い、今、五人の家族が一つ屋根の下に暮らし、賑やかな食卓を囲み、他愛のない会話を交わす―― 
そんな何でもない平凡な日常にこの上ない幸わせを感じている。
亡き妻、そして、この世に生まれてくることのなかった我が子への償いの意味も込めて、新しくできた家族を
何よりも大切にしていこうと、耕平は東京を離れ帰郷することを決心した。

05.届かなかった恋文

亜希のもとにアメリカでルームメイトだった由美子から速達が届いた。
中には、彼女のメモ書きと一緒に薄汚れた一通の封書が入っていた。その差出人の名前を見た瞬間、
亜希の心臓は凍りつきそうになった。


      『 アキ、
        
        この手紙、ずっと迷子になってたみたい。
        郵便屋さんがすまなそうに届けてくれた。  
        なんか、長~い長~い旅路の果てにやっと
        ここにたどり着いたって感じ。
        とにかく、送るネ!  
                        ユミ 』


由美子が同封してくれたその手紙には差出人の住所はなく、ただ『Takuya』とだけ書かれて
あった。消印の日付は文字がかすれていて読み取れない。亜希は手に取った封書を暫くの間、じっと
みつめていた。封を切るのが怖かった。この手紙を開けてしまうと、やっと手にした今の幸せが逃げて
いくような気がする・・・
突然、奥の部屋から亮の鳴き声がした。亜希は、はっと我に返り、握りしめた封書を屑かごの中に捨てた。


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「耕平さ~ん、明日は燃えるゴミの日だから屑かごのモノを集めてちょうだい!」
階下から元気な静江の声が響いた。
かごの中身をゴミ袋に入れようとした時、握り潰されたような封書がこぼれ落ちた。
差出人の名に気づいた耕平は一瞬、頭の中が混乱した。
(死んだはずの奥寺拓也から亜希への手紙!?…)
それは、明らかに誤って捨てられたものではなく、亜希が自分の意思で処分したもののようだった。
耕平は戸惑った。妻宛の封の切られていない手紙、しかも、差出人はかつての恋人・・・
黙って開封するのはやはり躊躇われる。だが何故か、このまま処分してしまってはいけないような
気がした。暫くじっと思案していたが、耕平は思い切って封を開けた。



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Dear亜希、

今、空港のラウンジで成田へのフライトを待ちながらこの手紙を書いてる。
メールにしようかと思ったけど、時間はたっぷりあるし下手な字でもなんかこのほうが俺の気持ちが
ちゃんと伝わるような気がして・・・
亜希への ”恋文” ってとこかな!?

俺のこれまでの人生、すげぇーいい加減だったと思う。
医者の家に生まれ周りがみんな医者だったから何となく自分もそうした、って感じで。別にほかに
やりたいこともなかったし、普通のリーマンよりはいい暮らしができるかな、みたいな。
今度のアメリカ行きにしても、推薦してくれた教授の娘と将来は… の話も親同士が勝手に決めたことで
俺は正直どっちでもよかった。彼女は一見”お嬢様”風だけど、学生時代はそうとう派手に遊んでたみたいで、
まっ、こっちも叩けば埃がわんさか出るほうだから、あんまり偉そうなことも言えないし。
この辺で手打っとこうか、みたいな・・・

今まで本気で人を好きになったことなんてなかった気がする。
学生時代は、K大医学部というだけで女に不自由することはなかった。女子大生、OL,モデル、人妻、
家事手伝い… ありとあらゆる種類の女たちが面白いように群がってきた。けど、みんな同じような化粧し
て流行のファッションで着飾ってブランド物さげて… 誰一人として恋愛の対象になるようなのはいなかった。
だから、結婚相手にしても大した期待は持ってなくて、教授の娘なら上等くらいに考えてた。

あの日、亜希のピアノに合わせて楽しそうに歌ったり踊ったりしてる子供たちを見た時、頭にガーンと一発
喰らったような衝撃を受けた。
クリスが笑ってた。俺の前じゃ笑顔どころか口もきいてくれなかったあの子が。不純な動機で医者になり、
ただ事務的に患者を診てたヤツが、いくらジョーク飛ばしたって、死と向き合い限られた命を懸命に生きて
いる子供の心に通じるわけはなく、あの子の前で俺は命を救ってくれる医者どころか、おどけたピエロにも
なれなかった。
それに比べ、子供たちの心をガッツリ掴み信頼され慕われ、なにか目に見えない絆みたいなもので結ばれてる
亜希は輝いていた。神々しいくらいに綺麗だった。そんな君に俺はどんどん惹かれていった。
それまでの俺は外見やセックスだけで女と付き合い、飽きたら使い捨てカイロみたくポイっと捨ててた。
相手だって、次の週には別の医大生と六本木あたりでヨロシクやってるようなのばかりだった。
男と女なんて所詮はその程度のもんだと思ってた。亜希と出逢い、それが大きな間違いだと気づいた。
女を本気で愛するってことは、その女をどんなことがあっても守ってやりたい、悲しい想いをさせたくない、
絶対に幸せにしてやりたい、ずうっと一緒に生きていきたい、ど思えることなんじゃないかって。

婚約解消すれば俺はもう大学病院には戻れないし、教授の息のかかった民間病院からも相手にされないだろう。
むろん、親父からも見放される。そんなもんには何の未練もない。今俺が一番恐れていることがあるとすれば、
それは君を失うこと。亜希のおかげでこれまでのいい加減な自分と決別できた。だから、君さえずっと俺の
そばにいてくれたら、例えどんな辺鄙な山奥の診療所でも、離島の古びた病院でも、医者としてやっていける
ような気がする。
―― 空気の澄んだ田舎の大自然の中で、俺たちの子供らが元気いっぱいに走り回り楽しいそうに遊んでいる。
亜希の弾くピアノを聴きながら俺はその光景を診療所の窓越しに眺め、小さな幸福を感じる―― 
そんな人生もアリかな、って。

亜希をリッチな開業医の妻にも教授夫人にもしてやることはできないけど、絶対後悔はさせない。
それだけは約束する。だから、俺のこと信じてどこまでもついて来てほしい。
じゃ、2週間後に・・・

Love、拓也

5月10日シカゴにて



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耕平は何度もこの手紙を読み返した。そして、この手紙の中に嘘、偽りはないと確信した。
奥寺拓也は真剣に亜希のことを愛していた。そんな彼がいったい何故・・・
愛する女に対する非情な裏切り、突然手のひらを返したような男の不可解な行動がどうしても解せない・・・
暫くじっと考え込んでいたが、急に何かに思い当たったようにパソコンの前に座り夢中で何かを調べ始めた。


耕平は一つの仮説を立ててみた。
——―拓也は、シカゴの空港で手紙を投函してから東京に戻るまでの間に何らかの事故または事件に巻き
込まれ記憶を喪失する。同時に携帯やノートパソコン等の私物を紛失したため、住所・電話番号・メール
アドレス・写真等々、亜希に辿り着く術をすべて失くしてしまう―—―
こう考えれば、音信不通となり何事もなかったように教授の娘と結婚したことにも説明がつく。

10日にシカゴの空港を発てば翌日の11日に成田に到着する。
そこで、5月11日の新聞記事を検索し、その日成田空港内で人身事故あるいは航空機のトラブルがなかった
かをチェックした。すると、それらしいものが一件見つかった。
10日にシカゴのオヘア空港から成田に向かったフライトの中に、着陸寸前に突然乱気流に巻き込まれ乗客に
数名の負傷者を出した便があった。怪我の程度は軽い打撲から骨折まで様々で、空港内のクリニックで簡単な
手当てを受けた軽傷者から救急車で成田周辺の病院に搬送された重傷者もいた。

拓也はおそらく、この事故で頭部を強打するなどして脳震盪あるいは一時的に意識不明の状態に陥り、記憶の
一部を失ったのだろう。いわゆる逆行性健忘症と呼ばれる記憶喪失の一種である。
不幸なことに、その失くした記憶は、彼が最も大切にし失うことをなによりも恐れていたものだった。



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「亜希、君は騙されていたわけでも、裏切られたわけでもない!
こんなにも愛されていたんだよ……。」
耕平はまるで自分のことのように喜びを露わに妻の前に手紙を差し出した。

「ありがと…」
亜希は拓也の手紙を握りしめた。
頬に伝わる一筋の涙。それは、これまで幾度となく流した悲しみの涙ではない。拓也の死によって、決して
明かされるはずのない真実が、夫の手によって解明された。それは、拓也に愛されていたという事実以上に
嬉しかった。そして、亮はまぎれもなく拓也との愛の証であることをこの手紙は教えてくれた。
不幸な偶然が重なり拓也と結ばれることはなかった。もしかすると、最初から二人の間に赤い糸は存在しな
かったのかもしれない。
耕平と廻り逢い、愛を育み、彼の大きな愛情に包まれ、亜希は今、穏やかで確かな幸福を実感している。
これでやっと、拓也と過ごした時間が自分の中で完全に想い出に変わるような気がした。



休日の昼下がり、歓声を上げ庭を元気いっぱいに駆け回る舞、その後ろを追いかける亮を抱いた耕平、そして
縁側に腰かけそんな三人の様子を嬉しそうに見守る亜希の姿があった。
頬にあたる風は冷たく地面のところどころにはまだ雪が残っているが、真っ青な空に浮かぶ白い雲の切れ目
から零れてくる光はもうすでに春の陽ざしだった。



ー了ー

Samsara ~愛の輪廻~ Ⅰ(完結済)

Samsara ~愛の輪廻~Ⅱ に続きます・・・

Samsara ~愛の輪廻~ Ⅰ(完結済)

高村耕平は二年前に妻と死別、四歳の娘を持つ独身外科医。 成瀬亜希は大学を中退後アメリカに渡り、そこで知り合った若い日本人研修医、奥寺拓也と恋に落ち結婚の約束をする。だが、一時帰国した拓也 からの連絡は途絶えた。亜希は彼の裏切りを知り衝動的に自殺を図る。偶然、彼女を助けた耕平は若い亜希に次第に心を奪われていく。 亜希もまた耕平の優しさに惹かれていくが、拓也への想いも断ち切れず二人の男の狭間で苦悩する。 やがて、耕平の愛を受け入れる決心をした亜希の前に意外な真実が・・・

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 01.車窓の女
  2. 02.恋の予感
  3. 03.揺れる心
  4. 04.聖夜の入籍
  5. 05.届かなかった恋文