蜥蜴の時制

蜥蜴の時制

 諦念に覆われていた。街は傾いていた。G氏は言った。世界は灰色の諧調だ。
 果てしなく濃密な灰色を吸い込んだ。一人称を失って立っていた。表皮を殺ぎ落とされた蜥蜴が笑った。
 写真家は足を引きずっていた。写真機はもう手にしていなかった。影を写すことに飽きていた。G氏は言った。世界は灰色の階調だ。
 饐えた臭気が写真家を襲った。傾いた街に新しい死体が据えられた。死体の表皮を油が蹂躙していた。
 死は写真家を捉えなかった。見棄てられた写真機だけが死体を見つめていた。
 蜥蜴はたしかに笑っていた。
 時制は不様に混乱していた。街はまたひとつ死体を調達した。
 誰もが知っていた。あれは名前を持ちすぎた女だった。生まれたときには二つの名前を持っていた。名前は幾何級数的に増殖した。
 鴉だけが全ての名前を記憶していた。
 朽ちかけた工場が蒸気を吹き上げた。淀んだ空気が生を補給した。
 写真家は無数の写真機を使い分けた。
 AはPLAUBEL makina 67
 BはNikon FM2
 CはLeica M6
 日が傾いて街が歪んだ。蜥蜴は叢を這っていた。乾いた草の切先が表皮に無数の傷をつけた。粘りつく油が浮きだしていた。
 容疑者なし。
 被害者無数。または特定不能。
 打ち棄てられた保線小屋でG氏は画布に向かっていた。死んだ女の首の陰影に執拗に筆を入れていた。

蜥蜴の時制

蜥蜴の時制

出口のないハードボイルド

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-28

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