この空の下で

昭和レトロ満載の小説です。
自分の少年時代を生まれて初めて書いてみました。

この空の下で

 ジャングルジムのてっぺんにたどり着くと、文昭は両手に力を込め体勢を整えた。錆びた鉄パイプの手触りに顔をしかめながら、曲がった背中を起し、息を潜めて手を離し、パイプにかけた両足をゆっくりと伸ばしていった。視界がどんどんと高くなっていく。冬枯れの冷たい風が体を揺らした。バランスを取りながらまっすぐに立った文昭は、工場群のほうを見つめた。
 いくつもの煙突から黒や赤の煙が、空へ雄たけびをあげるように勢いよく噴き出していた。
文昭は24時間いつでも煙を噴き出し続ける工場群のこの景色が大好きだった。元気をもらえるからだ。どんなときも工場だけは動いている。そう思うと、少しぐらいの淋しさは吹き飛んだ。友達とケンカしたり、先生に怒られたりしたときは必ずといっていいほど、文昭は高台にある公園のジャングルジムのてっぺんに立ち、空を焦がすような煙たちを眺めた。
父が蒸発したときだけは無理だった。同じように煙を見たが、怒りで足が震え、立っていられなかった。
文昭が9歳のときだから、2年前のことだ。
看板屋をしながら絵を描いていた父は文昭にとって自慢だった。家は貧しかったが、アトリエと称した仕事場には、イーゼル、パレット、油絵の具、サイフォン、ワイン、画集、レコードプレーヤーなど普段の生活より少しかっこいいものが並んでいた。
父が時折開く個展も誇らしかった。香りのいい部屋、真っ白な壁を彩る幾枚もの油絵、ゆったりとしたソファー、大理石のテーブルに置かれた洋酒やお菓子。
「今回のテーマですか。そうだなぁ、やっぱり僕は色かな。どれだけ豊かな色彩を描けるか、ですね」
 方言を消し、会場に来たお客さんの質問に答えるときだけ使う父の標準語は気恥ずかしかったが、華やかな雰囲気に満ちた画廊という空間は文昭にとって別世界だった。そこに主役としてスポットライトを浴びている父もまた別人だった。
 うちには芸術がある。よくはわからないけど、父が口にする芸術という響きには、日ごろの貧乏を忘れさせる輝きがあった。
 あれは文昭が8歳のときだ。部屋の蛍光灯が突然消えた。
「父さん、停電だ。僕、外見てくるよ」
「いいよ、見てこなくても」
 父がいった。
「いや、見てくる」
 文昭は父の言葉をさえぎり、表に飛び出し周囲を見渡した。目の前のアパートも隣の家も煌々と灯りがついていた。
「父さん、なんだかうちだけ停電みたい」
 文昭は大きな発見をした気になり、家に向かって叫んだ。
「そんなことはいいから、こっちに来なさい」
 いつのまにか玄関に出てきた父は、文昭の手にろうそくを握らせ、隣にあるアトリエへ誘った。
 揺れるろうそくの灯りのもとで父が絵筆を走らす。キャンバスに女性の裸身がほの暗く浮かび上がってくる。
「たまにはろうそくで描くのもいいな」と父が微苦笑をこぼした。
 うちには芸術がある。だから貧乏でもかっこ悪くない。
 ろうそくの灯りだけで黙々と絵筆を走らす父を見て文昭はそう思った。
父が蒸発したのはそれからすぐのことだった。女の人と一緒だったと近所の人たちから教えられた。
母からも教えられた。絵はただの道楽で今まで一枚も売れたことがないこと、看板屋の支払いが滞っていて借金を残したまま蒸発したこと、お金のために夜の仕事につくこと。お兄ちゃんとして妹二人の面倒を見てほしいこと。
うちには芸術なんてない。ただの貧乏。
父が家を出てから文昭は呪文のように、ことあるごとにこの言葉を唱えた。おかげで今では、芸術よりも煙のほうが百倍もかっこいいと思えるようになった。
高台の公園の長い階段を降り、文昭は家へ向かった。もうすぐ日が暮れようとしていた。煙にくすんだ夕焼けが空を錆色に染めた。立ち止まって一瞬空に目を向けたあと、文昭はポケットのお金を取り出し確かめた。
家路の途中にある商店街は多くの人で賑わっていた。バーゲンセールのポスターがどの店にも張ってあり、店員たちは店先に出て大声で目玉商品を連呼していた。文昭の目当てだった洋菓子屋はひときわ騒がしかった。サンタクロースの服を着た若い女性たちが、ドライアイスに包まれたアイスクリームケーキを盛んに勧めていた。
 文昭は数メートル離れたところから、そのケーキを凝視した。赤やピンク、薄いグリーンのアイスでバラをかたどったケーキは最近人気のお菓子だった。ほんの数年前までは冬にアイスクリームを食べるなんて考えられなかった。
 近くのパン屋は冬になるとアイスクリームが入っていた箱には南京錠をかけた。アイスクリームは夏だけの食べものだったのだ。
 文昭は洋菓子屋にもう少しだけ近づいて、今度はケーキについている値札を盗み見た。ポケットの中のお金では到底足りなかった。ひとつため息をついたあと、文昭は店に近づき、サンタクロースのお姉さんと目を合わせずに、奥のショーウィンドウに飾ってあるイチゴのショートケーキを三つ買った。
「おーい、ただいま」
 立て付けの悪い引き戸が発するガタガタした音に負けないように、文昭は玄関で大声を出した。
「はーい」
 下の妹、小2の由美が短い髪を揺らして走ってきた。
「あ、それ、なん?」
目ざとく文昭がぶら下げている袋を見て指差した。
「ケーキ」
「やったー。兄ちゃんほんとクリスマスしてくれるんや」
「するくさ。はよ、これ久美子に持っていき」
「うん」
 文昭から受け取った袋を両手で抱え、「姉ちゃん、兄ちゃんが
ケーキ買ってきてくれたよ」と言いながら、廊下をスキップしていった。もっとも廊下といっても名ばかりで玄関から三歩も歩けば、居間と食事場所と母の寝室を兼ねた六畳の部屋に突き当たる。その
隣の四畳半が文昭たちの部屋だ。あとはトイレとお風呂、裏の長屋に続く申し訳程度の勝手口があるだけだ。 
父がいる頃は隣にアトリエがあったので、まだ居場所に余裕があったが、母と妹、女三人に囲まれてテレビなどを見ていると、酸素が足りないと思うことがよくあった。
 六畳の部屋では久美子が壁と壁の隙間にガムテープを貼っていた。
「なんか、また剥げたんか」
「そうなんよ」
 小4になった頃から切ってない長い髪を揺らして久美子が振り向いた。
「兄ちゃん、壁から外が覗ける」
 それを発見したのは由美だった。今年の夏のことだ。由美が壁にもたれてテレビを見ていたら、まっすぐな光が差し込んできた。由美の後ろには窓は無い。不思議に思った由美が光のもとを探ってみると、どうやら壁から出ていることに気づいた。恐る恐る壁に目をやると、微かに道路を歩いている人の姿が見えた。
 立て付けの悪い窓や玄関から隙間風が吹くというのは文昭も聞いたことはある。けれど壁に隙間があるというのは初耳だった。以来、寒さ対策として、壁にガムテープを貼るのが冬の日課になった。
「さあ、これからどうすると」
 テープを貼り終えた久美子が、ちゃぶ台に置いてあるショートケーキの袋を見ながらいった。
「ほんとにクリスマスなんて出来ると」
「当たり前やろ。由美と約束したんやけん。俺にまかせろ」
 ことの発端は、「兄ちゃん今日クリスマスイブやろ」という由美の一言だった。文昭は完全に忘れていた。半年前に母が自分のスナックを開店させたこともあって、兄弟だけで過ごすことも多くなり、季節の行事を思い出す余裕はなかったのだ。掃除や母が作ってくれた料理を温めるのは久美子がやってくれたが、風呂焚き、戸締り、火の用心、そして酔った母の介抱などは文昭の担当だった。
(この家に男は俺だけだ)。文昭はいつも自分に言い聞かせ、時折鏡に向かってまなじりを上げた。
「兄ちゃん、無理せんでいいよ」
 五回に一度くらいか。そんな兄を見て、久美子が声をかける
「別に無理なんかしとらん」
「ウソ」
 久美子はいたずらっぽく微笑んで、これは三回に一度ぐらいだろうか、いつもの話をし始める。
「覚えてる?兄ちゃんが小三のとき。ブランコの順番を兄ちゃんが待ってたら、上級生が割り込みしようとしたの。だから私がダメやろ、次は兄ちゃんの番なんやけ、どいて、といったの。そしたら、なんやお前女のくせにって、相手がすごんだの。そんとき、兄ちゃんなんていったと思う。まあ久美子、そんなに怒るな。僕はいいですから、どうぞ先にって上級生にいったんよ。私、この人、弱って
思ったもん。あれからあんまり兄ちゃん変わってないもんね。だから無理せんでいいんよ」
「そんな話、覚えとらん」
 この会話になるたびに文昭はそう返したが、あの日のことはしっかりと脳裏に焼きついている。心の声が、遊園地にある目の錯覚を利用して作ったびっくりハウスのように、天と地がぐるぐるとひっくり返っていった。
 ここで謝っておかないと久美子が殴られる、そしたら俺は怖くて逃げ出すかもしれない。そんな最悪の事態を避けるためにも、ここは頭を下げよう。いや、それじゃしめしがつかん。悪いのは向こうだ。久美子がいうようにがつんといってやれ。確かに俺より頭ふたつ大きいが、先手必勝。突然殴りつけて逃げ出せばいい。久美子も足が速いし、うん、そうだ、そうしよう。うん?なんだ、なんだ、
近づいてきやがった。うわ、なんやこの顔、眉間にしわ寄せて、怖っ。そっか、こいつにもうひとりでかい兄貴がいた。仕返し?このために引越し?それはいくらなんでも無理。やっぱり謝ろう。せっかくなら笑顔がいい。声も明るく。感じよく見えるように。このブランコはあなたが一番似合うという気持ちを込めて。
「‥‥僕はいいですから、どうぞお先に」
 しっかりと覚えてる。そういった後の惨めな気持ちと久美子の呆れたあの顔を、文昭は生涯忘れられないと思っている。
 忘れられないといえば同じ小三のときだ。先生から親子面談の際に、「この子はずるい」といわれた。小太りの女性教師だったが、
前置きも何もなしに、母が座ると突然、「この子はずるい」と指摘したのだ。
思い当たる節はいくらでもあった。運動会のリレーのときだった。禁止されていたグラント白線の内側から人を追い抜こうとした。
ソフトボール大会。文昭はピッチャーをやっていたのだが、球が軽いため、ほとんどのボールを外野に打たれた。しかもホームランに近い当たりも多く、外野手はうまく取れなかった。文昭はそれをチームメイトのせいにし、彼らがエラーをするたびに、グローブをグランドに叩きつけた。
紙芝居。最後にクイズがあり回答するとお菓子がもらえた。紙芝居のおじさんは各町内を順番に回る。つまり前の町でクイズを盗み見すれば答えは一発でわかる。それを知った文昭は先回りして回答を聞き、自分の町でさも初めてのような顔をしてクイズに答えた。
 ずるい、弱虫、泣き虫、卑怯、姑息。自分を卑下する言葉を三年から五年になるまでの間に文昭はいくつも覚えていった。なんとかそこから脱出したい。というのが、母から妹二人の世話を頼むといわれたとき、真っ先に文昭が思ったことだった。
「兄ちゃん、で、何からすると」
「えっ、ああ、そうやな。まずはご飯か。今日はなんや」
「カレー。こら由美、まだケーキ食べちゃダメ」
 袋から取り出そうとした由美を久美子が睨みつけた。
「はーい」
手についたクリームをなめながら、由美が肩をすくめる。
「カレーか。なんかクリスマスっぽくせんといかんな」
「えー、どうすればそうなると」
 由美が上ずった声で尋ねた。
「そうやなぁ、‥‥あ、唐揚げ乗せるのどうや」 
「唐揚げ」
 久美子が右に顔をそむけてつぶやいた。
「おお、ほら、クリスマスといえば鳥やろ。なんやったか、ほら」
「七面鳥」
 今度は左に顔をそむける。
「しちめんちょうってなに?」
 由美が身を乗り出す。
「それは、お前、‥‥鳥たい」
「どんな」
 久美子は黙って立ち上がり、本棚から国語辞典を取り出し朗読し始めた。
「クリスマス料理などに用いるキジ目シチンメンチョウ科の鳥。北アメリカに分布。全長約1.1メートル。羽は光沢のある青黒色」
「由美、鳥さん1メートルも食べれんよ」
「バーカ、七面鳥なんて買えるわけないやん」
 久美子が辞典を棚に戻しながらいった。
「だから、唐揚げなんよ。七面鳥はアメリカ、日本のクリスマスは唐揚げよ」
「なん、それ」
「いいから、いいから。じゃあ兄ちゃん買ってくるけん」
 そのときだ。
「すいません、中尾さん、すいません」
 勝手口から声が聞こえた。
「はーい」
 先ほどとはうって変わった愛想のいい返事をして久美子が走っていった。しばらくぼぞぼぞと話していたかと思うと勝手口のドアが閉まる音がし、久美子が帰ってきた。
「兄ちゃん、金田さんがもらい湯お願いしたいって」
「えー、今日。聞いてないぞ」
「私も知らなかったんやけど、お母さんには話してたって」
「‥‥そっか」
 金田さんというのは裏の長屋に住んでいるご家族で、母と姉妹の三人暮らしだ。家にお風呂がないため、時々文昭のところにもらい
湯に来るのだ。
 お風呂に水を貯めながら、金田さんの長女、文昭と同級生の恵子の顔を思い出し、気が重くなった。
 金田さんがもらい湯に来るようになってもうすぐ1年になる。お父さんが交通事故で亡くなり、病気がちのお母さんはあまり働くことも出来ないため、生活保護で三人は暮らしているらしい。
 同じクラスになったことはないが、恵子はそれまで明るい女の子として人気があった。勉強も運動も出来、いつもリスのように友達から友達へ飛び跳ねているような女の子だったが、お父さんが亡くなってからほとんど喋らなくなった。廊下ですれ違ってもうつむき加減で歩いているので、この頃はどんな顔だったのかさえあまり思い出せない。
 初めてもらい湯に来たときも、文昭は顔をまともに見ることが出来なかった。時々聞こえてくる湯を汲む音に耳を押さえ、目をつぶった。ほうっておくと恵子の裸の姿が頭の中に浮かんできてしまうからだ。変なことを考えるな、と何度も自分に言い聞かせ、胸の鼓動が早くなるのを文昭は深呼吸を繰り返し、必死に抑えた。
 肩をすぼめ、うつむき加減に勝手口から入ってきて、なるべく音を立てないように静かに湯を浴びる金田さんたちのことを思うと、自分の中に浮かぶ妖しい妄想が許せなかった。 
 水を貯め終わった文昭はガスのスイッチをひねり、風呂を沸かし始めた。
「俺、唐揚げ買ってくるから、お風呂沸いたら、金田さんに教えてあげて」
「うん。あ、お金あると?」
 久美子の問いかけに返事もせず、文昭は靴をつっかけたまま、外へ飛び出した。出てすぐにジャンパーを羽織ってこなかったことを後悔した。凍てつく風が文昭の体を刺した。走っている分だけ、風の冷たさは増した。けれど彼は走るのを止めなかった。頭の中に少しでも浮かんだあの映像を消すために、文昭はさらに速度を増して風の冷たさを全身で受け止めた。
 金田さんちと、うちはなんにも変わらない。風呂があるか、ないか、ただそれだけだ。うちも似たようなもんだ。そうだ、おんなじだ。
 走りながら文昭はあの日の夜のことを思い出した。
「ふみちゃん、今夜、頼母子だから付いてきてくれる?」
 母がいつもよりも明るめの服に着替えながら微笑んだ。
「いいよ。俺、くじ運いいからね」
 みんなで月々お金を出し合い、一定期間貯まるとくじ引きで当たった人から順番にお金をもらう。それぞれ全員にいきわたった時点でいったん任期が終わるという仕組みを、たのもしと呼ぶと母からずいぶん前に聞いてはいたが、頼母子という漢字を当てると知ったのは最近だった。この漢字を知ってから、文昭はくじ引きにより真剣になった。
「そうなんよ。ふみちゃんが来るとお母さん、助かるんよ」
 家を出ていったん表通りに出るのが母のいつものコースだった。
「路地を抜けたほうが近道なんだけど、なんか薄暗くて運が逃げる気がするの」
 母がいうように路地には頼りない街灯がひとつあるだけで暗かったし、雨上がりのときなどはぬかるんで歩きにくかった。確かに表通りの明るい光をいったん浴びないと力が出ないような気がした。
 古い木造アパートの前に立つと母は文昭の手を強く握り締め、鈍い音がする扉を開けた。
「お、待ってたよ」
 六畳一間のアパートには7人ほどのおじさん、おばさんが車座で座っていた。真ん中にあるちゃぶ台に二つ折りした小さな紙が転がっていた。裸電球の灯りで紙は鈍いオレンジ色に見えた。
「さあ、みんな引いて」
 おじさんの声でそれぞれ思い思いの紙に手を出す。
 母のうなずく顔を合図に、文昭も一枚の紙を取った。先に紙を開いた人たちのため息や舌打ちが聞こえ始める。そしてそれは瞬く間に部屋の空気を重たくしていく。
 文昭は心の中で、頼むと声をあげ母にくじを手渡した。
 母が息を潜めてくじを開ける。文昭の拳に力が入る。
「当たった」
 喉の奥から聞こえてくるような震える声で母がいった。静かに息を吐き、肩先がゆっくりと下がっていく母を見て、文昭もほっとした。
「ふみちゃん、ありがと」
 満面の笑みだった。文昭が返事代わりに母の手を握ろうとすると、
「奥さん、申し訳ないけど、それうちにも少し回してもらえんかな」
 真向かいに座っていたおばさんが、かすれた声で話しかけてきた。母の笑顔が一瞬で曇った。
「ごめんなさいね。今月はうちも大変で。回す余裕がないのよ」と
母が頭を下げた。
「いや、謝らなきゃいけんのはこっちのほうやけ、頭上げて。ただ、
先日不幸ごとがあってね、それで故郷に帰らなきゃいけなくなったもんで、それでお金が」とおばさんが今度は頭を下げた。
 金田のおばさんだった。
「ほんとごめんなさいね。今回はうちもぎりぎりなの。ごめんなさい」と二人は何度も交互に頭を下げた。
 なんにも変わらない、うちも金田さんちも。風呂があるか、ないか、ただそれだけだ。
 畳にこすりつけるように謝る二人の姿を思い出しながら、文昭は息が切れるのも構わず走り続けた。
「兄ちゃん、遅い」
 唐揚げを受け取った久美子が口をとがらせた。
「すまん、力いっぱい走ってたら、店通り越してた」
「あはは、バカじゃないの。もうカレー火にかけたけん、唐揚げ入れるよ」
「由美も入れるとこ見る」
 台所に向かう二人の後姿を見ながら、文昭はこれからの計画を練った。壁の時計は午後7時を指していた。母親が帰ってくるまで、残り推定5時間。10時に妹たちを寝かすとしても、ゆうに3時間はある。それまでをどうやって埋めればいいのか。クリスマスイブにふさわしい催し物を何か考えないと。テレビに頼らず自分の力で
妹たちを喜ばせたい。もし今夜をうまく切り抜けられたら、今までずるいといわれ続けた自分からも脱出できるような気がした。
「さあ、できたよ。兄ちゃん、とって」
「おう」
 皿を受け取ると、鼻いっぱいにカレーの匂いが飛び込んできた。
お腹が急に減ってくるのを感じた。三皿のカレーとスプーンがちゃぶ台に並んだ。文昭が、「さあ、食べようか」と言いかけるのを久美子が手で制し、隣の部屋から画用紙を持ってきた。
「ちょっと皿どかして」
 そういうと、ちゃぶ台に紙を敷き始めた。
「なんや、それ」
「テーブルクロスの代わり。こうするとクリスマスっぽいかなって」
 画用紙の上に皿を置いてみると、確かにいつもの食卓とは雰囲気が違った。デパートのレストランとまではいかないまでも、皿の隣に置かれたスプーンがいつもよりも少し輝いてみえた。
「じゃあ、いただきまーす」
 久美子が両手をあわせていった。そのとき、文昭の頭にひらめきが走った。
「ちょっと待って」
 食べようとした二人を止めると、文昭は台所へ向かった。
「もう、なんするん」
「早く食べたーい」
 妹たちの声を背中に受けながら、食器棚から目的のものを取り出すとちゃぶ台にそれらを置いた。
「フォークとナイフ?なんで」
 首をかしげる久美子に、「いいけん、スプーンの反対に二つ並べろ」と返し、由美の皿の横には文昭がフォークとナイフを揃えた。
「昔、本で見たっちゃ。一流レストランはご飯の横にこんなのがいっぱい並んどる。なんか、クリスマスっぽいやろ」
「そやけど、カレーに合う?」
「合わせるったい」
「もういいけん、早く食べよ」
 由美はそういった後で、ひとり言のようにいただきますとつぶやいて、カレーを食べ始めた。
「いただきます」
 二人も由美に続いた。
「‥‥カレーに唐揚げ、合うね」
 二口ほど食べた後、久美子が照れたように笑った。
「だろ。でもなんがおかしいとや」
「いや、うちのカレーひき肉やん、だから唐揚げも合うんだろうなって。これが角切りやったら、どっちも固まりって感じで喉つかえるやん。こういうの、なんていうんだっけ。ぎりぎりセーフみたいなこと」
「えーと、あ、そうそう、不幸中の幸いだろ」
「えー、違うよ。それにやっぱりそれも違うと思う」
 久美子は今にも笑い出しそうな声で、フォークとナイフを使って唐揚げを切ろうとしている文昭を指差した。 
「兄ちゃん、わたし、プラッシー飲みたい」
 カレーを食べる手を止めて由美がいった。
「ご飯食べるときにジュース飲んだらダメってお母さんにいわれてるやろ。ほら、水飲み」
 コップを差し出す久美子に由美は首を振った。
「だって今日クリスマスやろ。だけん、プラッシー飲んでいいやろ」
「おう、いいくさ」
 意識して低い声を出しながら、文昭は立ち上がった。
「もう、兄ちゃん」
「いいから、いいから。お前も飲め」
 久美子にそう言い残して、彼は台所へ向かい冷蔵庫の扉を開けた。
目当てのプラッシーは1本もなかった。慌てて隅に置いてあるジュースケースを覗いてみたが、空き瓶だけしかなかった。
 プラッシーは、米屋さんが毎月決まった日に1ダース、24本を持ってきてくれる果汁入りのジュースのことだ。文昭の家では父親が家を出てから、12本に減ったが、ツケがきくこともあって、今でもおやつ代わりに毎月3本から4本は飲んでいた。その代わりに
店でジュースを買うのは禁止だった。「うちは無駄なお金は使えないの」というのが母親の口癖だった。
「どしたん、兄ちゃん」
 久美子が心配して台所に入ってきた。
「プラッシー、切れとった」
「そっか、じゃあ仕方ないね。由美には諦めさせよ」
 出て行こうとする久美子の肩をつかんで文昭はいった。
「いや、米屋さんに持ってきてもらおう」
「えー、勝手に頼んだらお母さんに怒られるよ」
「クリスマスやけん、それくらいいいっちゃ」
 自分に言い聞かせるように語尾を強めながら、文昭は台所を出て
部屋の隅にある電話に向かった。柱にくくりつけてある電話ノートから米屋の文字を探し、ダイヤルを回した。自分で注文をするのは始めてだった。発信音が鳴り始めると、受話器を握った手に汗が滲んだ。
「‥‥、あ、もしもし、お米屋さんですか。ぼく、中尾のとこの息子の、ええ、そうです、公園の近くの中尾です。あの今からで済みません、プラッシー持ってきてくれませんか。出来れば3本だけ冷えたのが欲しいんですけど」
 一気にそこまで喋ると文昭は受話器を口から外し、息を静かに吐いた。障害物をひとつ飛び越えたような気になった。すると思ってもみなかった言葉が文昭の耳に飛び込んできた。
「え?‥‥いや、それはお母さんに聞かないと。ああ、そうですか、‥‥わかりました。どうも、すみませんでした」
 文昭は頭を何度か下げた後で、受話器を置いた。
「どうしたん」
 いつの間にか隣に来ていた久美子が小声でいった。
「支払いが、二ヶ月遅れとうけん、プラッシーは持ってこれんって」
 文昭もささやくように答えた。
「わかった」
 さきほどよりも小さな声でそういったあと、膝をひとつ手で叩き、久美子は文昭に背を向けた。
「由美ちゃん、プラッシー売り切れなんだって」
 妹に話しかけた久美子の声は、どこか母に似ていてた。
「えー」
「だから今日はさ、粉ジュースにしよう。姉ちゃんおいしく作ってあげるから」
「私、粉イヤ。プラッシーがいい」
「売り切れなんだから仕方ないでしょ。だからわがままいわないの」
「ヤダ。だってクリスマスでしょ。粉なんてイヤだ、ヤダ、ヤダ」
 皿にスプーンをぶつけながら、由美が駄々をこね始めた。耳障りなカンカンという高い音が部屋に響いた。
「いい加減にしなさい。お姉ちゃん、ほんと怒るわよ」
 久美子は由美の手首を強く握り締めた。由美の手からスプーンがこぼれ落ちた。由美の顔が歪んだ。
「あ、音楽かけよう」
 学芸会の劇に出たときのように大げさな抑揚をつけて文昭がいった。狙い通り、由美の口がほころんだ。急いで押入れから小さなレコードプレーヤーと用意していたジングルベルの入ったレコードを
取り出した。
「さあ、由美、イントロクイズだ、この曲なんだかわかるか」
 スイッチを入れ、レコードをそっと置き、音が鳴り始めてすぐに針を上げた。
「えー、わかんない」
「わかったら、兄ちゃんのケーキもあげるぞ」
「ほんと、ねぇ、じゃあもう一回聞かせて」
 文昭は先ほどよりも長くレコードを回した。
「はーい、私、わかった」
 由美を横目で見ながら、久美子はわざと大きく手を挙げた。
「あ、姉ちゃんは答えちゃダメ。ねぇ、兄ちゃん」
「おお、このクイズは小三までしか参加できませーん」
「やったー」
「じゃあ、いくぞ」
 今度は最後まで曲を聞かせた。
「わかったか。ヒントは、なんとかベルだ」
 由美は腕組みをしてしばらく考えていたが、突然立ち上がり、甲高い声で答えた。
「わかった!ジングルベル」
「ピンポーン」
 飛び跳ねて喜ぶ由美の姿にほっとした文昭は、久美子に目で合図をしたあとでトイレに向かった。粉ジュースの準備をしようと久美子が台所に立つのを目の端で捉えた。
 おしっこが終わっても文昭はトイレから出なかった。先ほど米屋さんにいった、どうもすみませんでした、という言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。
(お父さんが家を出てからなぜか僕は謝ってばかりいる)。先日もそうだった。学校の帰り、文昭は車とぶつかった。駐車場からバックで出ようとした車にはねられ、道路に転がった。
「大丈夫?」運転席から降りてきた初老の男が駆け寄ってきた。文昭は彼を見るとすぐに立ち上がり、ズボンの汚れを落としながら答えた。
「大丈夫です。どうもすみませんでした」 
 男は手を振りながら、「いやいや、謝らなきゃいけないのはこっちだよ。駐車場だと思って気を抜いてた。どこか痛いとこ、ないかい」
 そういうと、男は文昭と同じ目線になるよう、しゃがみこんだ。文昭は目をそらし、「ないです。ただ、お母さんには連絡しないでください。お願いします。僕は大丈夫なので。どうもすみませんでした」と頭を下げたあと、男から逃げ出した。
「おーい、坊や」という声が聞こえなくなるまで、文昭は全速で走った。
(僕はどうしてあのときも謝ったんだろう。そして逃げたんだろう)
 自分でもよくわからなかった。が、ひとつだけはっきりしていることがある。それは謝っているとき、文昭の頭に必ず浮かぶのは、母親の悲しい顔だということだ。父親が家を出たときと同じあの顔。眉が下がり、目の奥の光が弱くなる。文昭は二度と母にそんな顔をさせたくなかった。見たくなかった。謝ってさえいれば、それ以上の哀しみは押し寄せて来ないような気がした。けれど、それはひたひたと文昭を濡らしていった。湿った感情を跳ね飛ばすには謝ってばかりではダメなのかもしれない。文昭はぐっと奥歯を噛みしめた。
「兄ちゃん、ジュース出来たよ」
 久美子の声に、文昭はゆっくりと息を吐いたあとで、今夜一番の大声を出した。
「おう、今いく!」
 ちゃぶ台にはイチゴのショートケーキ三個とオレンジ、メロン、いちごの粉ジュースが並んでいた。いつもよりも色が鮮やかで、炭酸の泡も強く弾けているように見えた。
「粉多く入れたけん、今日のは濃くておいしいよ」
 生徒を諭すおだやかな先生のように、久美子は語尾に含み笑いを滲ませ、静かにうなずいた。
女は時々五歳くらい平気で飛び越える。妹を見ていて、そう思うことがある。大人になるスイッチでも持っているかのように、急に年上のような仕種や喋り方になるのだ。万華鏡みたいに筒の動かし方ひとつでいろんな色合いに変わっていく。
「男子ってほんとバカねぇ」
クラスの女の子にいわれるたびに、文昭はどう振舞えばいいのかわからなくなってくる。女が三人もいる家の中で、どんな風に過ごせば自分の役割がまっとう出来るのか、何をすればみんなが喜ぶのか、してはいけないことは何か、考えれば考えるほど頭の中の紐は複雑に絡まりあい解けなくなってしまう。挙句の果てに、一番手っ取り早い方法として相手を笑わせるために道化て、結局また「バカね」といわれる始末だ。けれど父親が蒸発してひとつだけ文昭には気をつけていることがある。それは気配を読むことだ。目を凝らして周りを伺い、耳をすましいろんな音を拾う。そしてその場に合った言葉や態度を選び取り、みんながイヤな気持ちにならないよう頑張るのだ。いや、頑張るなどといってはならない。むしろ頑張っていないように見えないとダメだ。でももうひとつ、もう一歩突き抜ければ、もっと違う男子になれるとも思う。
妹の成長ぶりを目の当たりにするたびに、文昭はいつまでたっても答えの出ない自分が情けなく、腹や太ももを殴りつけたことも数知れない。そんなとき決まって頭に浮かぶのは、蒸発した父親の顔だった。
「兄ちゃん、乾杯して」
 目の前に差し出されたコップに気づいて、文昭は慌てて受け取った。弾ける炭酸の飛沫を顔に感じながら、メロンジュースの香りを彼は胸いっぱいに吸い込んだ。
「じゃあ、いくぞ、乾杯!メリークリスマス」
「メリークリスマス」
 午後8時2分。妹たちとコップを合わせながら、文昭は壁の時計を確認した。母が帰るまで推定残り4時間。10時にうまく寝てくれたとしても、まだ2時間もある。このままケーキを食べてしまったら間が持たない。なにか考えろ。文昭は膝を指で叩きながら目をつむった。ケーキを包んだ銀紙を剥がす音が聞こえた。あせりを覚えて、彼は目を開けた。
「おいしそう」
 由美がケーキに顔を近づけたときだった。文昭の指が止まった。
「待て。食べるの待て」
「えっ、何」
 銀紙を手に持ったまま、久美子が顔を曇らせた。
「いいから、待ってろ」
 文昭は台所へ急いだ。食器棚の一番下の引き出しを探り、欲しかったものを手にするとまた慌てて部屋に戻り、ちゃぶ台の上に置いた。
「なんこれ?」
 笑いをこらえながら久美子がいった。
「ろうそくたい」
「それはわかっとうけど、これでなんするん?」
「なんするん?」
 姉の真似をして由美がふざける。
 文昭は黙ったまま、一緒に持ってきたマッチでろうそくに火をつけ、それぞれのケーキに立てた、灯された三つの小さな炎がちゃぶ台で揺れた。文昭は立ち上がり電気を消した。生活の匂いが消え、炎が深い陰影を作りだし、部屋はいつもと違う空間に切り替わった。 
沈黙が流れた。静かに炎を見つめている妹たちを眺めながら、文昭は自分の思い付きが当たったことに喜びを感じた。
「兄ちゃん」
 久美子が赤く上気した顔でいった。
「‥‥停電のときみたいやね」
 喜びは一瞬のうちに砕け散った。
「キャンドルと思え。ここを教会と思え。オルガンが流れ、ずらりと並んだ聖歌隊がきよしこの夜を歌ってると思え」
 生徒を諭す先生。先ほどの久美子の口調を真似て、文昭が静かに
そういうと、「思えん」。久美子が間髪を入れず返した。「思えん」。
由美も続く。
「あのなぁ」
 ここは兄として言い聞かせようと声に力を入れたときだった。
「中尾さん、中尾さん」
 尖った声とともに、引き戸を叩く音が玄関のほうから聞こえてきた。
「中尾さん、中野さん」
 声がだんだんと大きくなっていく。
「‥‥兄ちゃん」
 眉が下がり、今にも泣き出しそうになっている久美子が、由美を抱き寄せながらつぶやいた。
「大丈夫、大丈夫」
 妹と自分にそう言い聞かせながら、文昭は拳を強く握り締め、玄関へ向かった。 
 「中尾さん、中尾さん」
 目の前で聞く声は野太く怖かった。曇りガラスに映るシルエットにも怯えながら、文昭は締めていたネジを緩めていった。ガタガタとした音を立て引き戸が開かれた。
「お父さん、いる?」
 黒いスーツ姿の男は先ほどとはうって変わった、柔らかな声でいった。
「いません」
「だろうな」
 男は軽く微笑み、玄関に足を踏み入れた。艶光りする尖った革靴が獰猛な小動物のように文明には見えた。
「暗いな」
 眉間に皺を寄せながら男は背を伸ばして、廊下の先に目をやった。
「‥‥電気が」
「え?」
 細い唇を歪めて男が耳を寄せた。
「電気が止まってるんです」
 咄嗟に出た嘘だった。なぜそんな嘘をついたのか、文昭自身にもわからなかった。
「そうか」
 一瞬男は口ごもった。
「なあ、坊や。お父さんの居場所、知らないか。おじさん、お父さんにいっぱい金貸してるんよ」
「知りません」
 頭の隅に父から来た一枚きりの葉書きが浮かんだ。山口県の消印だった。
「兄ちゃん」
 久美子が駆け寄ってきた。
「こんばんは」
男に軽く頭を下げたあと、「どしたん、電気もつけんで」と玄関の蛍光灯の紐を引いた。男の顔が白くなり、革靴が鈍く光った。
「あれ、電気点くやん。おい、お前なんでしょうもない嘘ついたんや。同情するとでも思ったんか」
 男は一重の目を細め、文昭を睨みつけた。
返す言葉がなかった。
「頭きた。上がらしてもらうぞ」
 放り出すように靴を脱いで男が文昭の横を通り抜けた。慌てて久美子と一緒に後を追った。
「なんや、ここも暗いの。坊主、はよ電気点けんか」
 文昭は急いで紐を引っ張った。強く握りすぎて蛍光灯が音を立てて傾いだ。
「このひと、誰」
 男を見上げた由美が声を震わせて部屋の隅ににじり寄った。
「ショートケーキにろうそくか。しけたクリスマスやの」
 男は腰を下ろすと、ろうそくの炎を一息で消した。
「おい、坊主。親父から葉書の一枚ぐらい来たやろ。それよこせ」
「来てません」
 男が急に立ち上がった。文昭の背中に震えが走った。腕を組み、両足に力を入れた。
「そうか。だったら自分で探すわ」
 男は部屋の中を物色し始めた。タンスの引き出し、押入れ、ビニールの衣装ケース。探すごとに壜の栓抜き、半分だけの菜箸、欠けた印鑑、綿がこぼれた枕、毛羽立ったセーターなどが畳の上に散らばっていった。男が舌打ちをするたびに、文昭は顔を引きつらせた。
「お、通帳あるやないか」
 男は裏声にも似た甲高い声で叫んだ。満面の笑みだった。けれどそれはすぐに消え、眉間に深いしわが寄った。
「残高58円ってなんや」
 男は畳に通帳を叩きつけた。
 今泣いたカラスがもう笑う。
 ころころと変わる男の表情を見ながら、文昭はおもわず吹き出した。
「なんがおかしいんか、坊主」
 胸倉をつかまれた。
「すみません」
 文昭は唇を噛み、笑いを押し殺した。
「お前、俺をなめんとんか。葉書が見つからんやったら、お母さんが大変なことになるぞ」
 文昭の背中に冷水が走った。久美子が目を見開いた。
「まぁ、とにかく座れ」
 文昭はへたり込むようにして畳に体を沈めた。久美子と由美が傍に来た。
「お父さんが見つからないなら、お母さんに返してもらうしかないやろ」
「お金、お母さん持ってません」
「持ってません」
「お嬢さんたち、漫才のコンビみたいやな」
 久美子と由美に笑顔を返したあとで、男は文昭の目をじっと見据えていった。もう笑顔はなかった。
「俺もほんとはこんなことしたくないんよ。大学も出たし、ちゃんとしたところに就職したかったけど、ダメだった。おじさんな、在日朝鮮人なんよ。だから日本の会社はどこも採ってくれん。だけん、こんな仕事しよるんよ」
 男は目を伏せ、手のひらを2、3回閉じたり開いたりしたあとで
顔を上げた。
「俺もつらいんよ。お母さんが昼夜働くことになったら、お前もつらいやろ。なぁ、お父さんの葉書、あるやろ。それくれたら、もうここには二度と来んから」
 文昭の耳に、あの音が蘇ってきた。怪鳥の鳴き声のような破裂音はいつもトイレから聞こえてきた。母が、飲んだ酒を吐くときの音だった。
「ボトル、はよ空けさせんといかんけんね」
 寝床から抜け出しコップの水を差し出す文昭に母は微笑んだ。彫刻刀で指を切ったときよりも鋭い痛みが、彼の胸を襲った。
「坊主、どうした」
 目を覗き込む男に「いえ」と小さくつぶやいたあと、文昭は立ちあがった。男の視線を背中に感じながら、自分の机に向かい、国語の教科書の中に挟んであった父の葉書を取り出し戻った。
「これ、どうぞ。その代わり」
「わかった、わかった」
 文昭の言葉を途中でさえぎり、男は葉書を奪い取った。
「そうか、山口県か」
 住所を確認したあとで、男がいった。
「坊主、俺が朝鮮人に見えるか」
 男は片頬を上げた。唇がいびつに曲がった。
「どうせ嘘つくなら、こんな風にやれ。いいか、貧乏がイヤなら這い上がれ。人なんて信じるな」
 文昭の胸の中に一滴の黒いインクが落とされた。
 男は葉書で彼の頭を軽く叩きながら、
「親父みたいになるなよ」といって立ち上がった。
 黒いインクは瞬く間に血管中を駆け巡り体中を埋め尽くした。
 怒りで体が震えた。文昭は地鳴りのような叫びをあげながら、
男の腰にしがみついた。
「おぅ、元気いいの」
 笑いながら男は文昭のベルトをつかみ二、三度振り回してから、軽やかに放り投げた。宙を舞った文昭はちゃぶ台に背中から落ちた。
激しい音ともにケーキとジュースが飛び散った。コップの割れる音と久美子と由美の悲鳴が響いた。涙が出そうになるのを堪えて、文昭は途切れ途切れの息を吐きながら、もう一度立ち向かっていった。男の体を捉える前に今度は頬を激しくぶたれ倒れた。切れた唇と鼻の奥から血がしたたり落ちた。
「痛てぇ」
 突然男がわめいた。見上げると、由美と久美子が男の指に噛み付いていた。男は手を振り何度も離そうとしたが、二人は全体重をかけ、必死に噛んでいた。手に持っていた葉書が畳に舞い落ちた。文昭は横になったまま体を転がし葉書を追い、掴み取った。妹たちを突き飛ばし、男が自分に向かってくるのが見えた。文昭はとっさに、葉書を破り口の中に入れた。噛むたびに紙が刺さり、苦みと痛みと気持ち悪さが口内に広がった。喉奥から突き上げてくる吐き気を我慢しながら、文昭はすべてを飲み込んだ。吐き気がまたこみ上げてきて嗚咽を繰り返した。
「飲みやがった。お前はバカか」
 文昭の口をこじ開けて男がいった。
「あはははは」
 突然けたたましい笑い声が響いた。見ると久美子がおなかを二つ折りにして笑っている。目を転じるとそこには、前歯を二つ無くした由美が口を開けて立っていた。
「兄ちゃん、歯、取れた」
 由美は見せ付けるように口をさらに大きく広げた。
「お前たちは、バカか。もういい」
 笑いを堪えた声でそうつぶやくと、男は背中を向けた。
 玄関の引き戸が閉まる音を聞いて、文昭は妹たちに叫んだ。
「ケーキ、まだ食べれるぞ。拾え」
 転がった皿やこぼれたジュースを片付け、出来損ないの粘土細工のようなケーキを食べ終わっても、文昭の興奮は収まらなかった。
壁の時計を見ると、午後9時15分だった。
「そろそろ寝るか」
 文昭はちゃぶ台を押入れにしまった。
「いや」
「寝ない」
 久美子と由美が顔を合わせうなずく。
「よーし、わかった」
 文昭は片付けたばかりのちゃぶ台を出しなおすと、部屋の隅に置いていた卓上のレコードプレーヤーを置き、ドーナツ版を裏返し、
針を載せた。曲名は「サンタが街にやってくる」だった。
 少年少女合唱団の華やかな歌声が部屋に流れた。文昭の胸が高鳴った。
「みんな、踊れ」
 ちゃぶ台の周りを文昭は手足を好き勝手に動かしながら、踊り始めた。おー、と声をあげながら、妹たちも後に続いた。歌声に合わせて手をあげ、足を突き出し、台を何度も回った。口をいっぱいに広げ由美が抜けた前歯を見せ付ける。久美子は盆踊りのように頭の上で手をひねりながら、しとやかな振りをしている。
 男を追い出したお祭り。文昭は妹たちが同じ思いでいるのを感じた。踊りはどんどん激しさを増し、時折振動で針が飛び、歌が変になる。あな、あなたから、メリースマス。わ、わたから、スマス。
「わたからスマス」
 妹たちは大笑いしながら歌を真似て声をあげる。学級文庫。口を引っ張ったまま文昭が喋る。「なにそれ、バカみたい」、久美子が彼を指差す。「なんか、似とろう」。学級文庫。文昭が繰り返す。「全然似とらん」、「似とらーん」。姉の真似をする由美を見て、文昭は忘れ物をしていることに気づいた。慌ててレコードの針を上げた。
「どしたん」
 電池の切れたおもちゃみたいに、久美子は踊りの手をがくんと下ろした。
「歯。由美の歯、探そう」
「‥‥そっか。そやね」
 言い終わらないうちに久美子は部屋の中を歩き始めた。文昭はその場に寝転び、ゆっくりと転回しながら畳のへりを目で追った。
「亀さんみたい」
 同じように寝転び、由美も畳に目を下ろした。
「兄ちゃん、この家、埃多いね」
 隣で由美がつぶやく。うなずきながら、文昭は目の前の埃を息で追いやる。由美も口を尖らして息を吹く。転がった埃の先に目をやると、白いかけらが光って見えた。立ち上がり拾い上げると、文昭の掌の中で2本の乳歯がおはじきみたいな音を立てた。 
「上の歯だから地面に投げるのよ」
 久美子が窓を開け、導くように外に手を向けた。
「そんなこと、わかっとる」
 冷たい風に身震いをしながら文昭は窓に近づいた。
「私にやらして」
 文昭の手から歯を奪い取ると、由美は小走りに窓辺へと向かい、
一本目の歯を放り投げた。
「鬼は、外」
 川の向こう岸に誰かいるかのように、口に手を添えて由美が大声を出した。
「それ違う」
 久美子が笑いながら、由美の肩を小さく叩いた。鬼は外。暗闇に白い放物線を描きながら消えていった歯の行方を思いながら、文昭は由美が叫んだ言葉を何度も呟いた。
「いや、由美、それでいい」
「えっ、でも」
 久美子を目で制し、文昭は由美の髪を撫でた。
「いいから、もっと大きな声出して、投げろ」
 文昭を見上げ深くうなずいた後、由美は先ほどよりも大きく手を振り上げ、二本目の歯を放り投げた。
「鬼は、外」
 由美と一緒に文昭も叫んだ。力の限り声をあげた。
「鬼は、外」
 久美子も口を開いた。
「鬼は、外」
 やがて三人の声はひとつに重なり、夜の街にこだました。
「よし」
 文昭は窓を閉め、レコードをA面に戻すと針を下ろした。鈴の音が部屋中に響いた。音楽にあわせて文昭はまた踊りだした。妹たちもすぐに手足を動かし始めた。曲が進むにつれ、冷たくなった体もだんだんと温かくなっていった。
 壁の時計は午後10時2分を指していた。母が帰ってくるまで残り推定2時間。今夜はこのまま踊り続けよう。大丈夫、俺たちは大丈夫。一日中何があっても止むことのない工場群の煙が、文昭の背中を強く押した。
 
 

この空の下で

いまどき、なんだか古臭い話かもしれませんが
読んだあと、少しでも笑ってもらえたり共感して
もらえたら嬉しいですす。

この空の下で

時は昭和43年。北九州市八幡東区に住む小学六年生の中尾文昭には二人の妹がいる。ある日、「今日クリスマスイブだね」という妹の言葉に文昭は唇を噛む。 彼は妹のためにパーティーを企画するが、同級生からの恐喝、借金取りの出現などいつくもの困難が文昭を襲う……。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-16

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