ミズナラの下で

*1* farewell

 
宏希へ。


色々考えた末、最後に私の気持ちを伝えておこうと思い、手紙を書きました。

この数カ月の間に何度も話し合ってきて、結論を出した今、
私たちのこれまでを振り返って、率直に書き留めます。
手短だけど、読んでくれたら嬉しいです。


私たちの夫婦生活が、これで終わってしまいますね。
十三年間、本当にお世話になりました。
妻として至らない点が多々あり、あなたを怒らせたり傷つけたり、
たくさん迷惑をかけてしまいました。

でも、私はこの十三年を振り返るととても幸せでした。
夫としても父としても、あなたは力を尽くしてくれたし、支えてくれました。
私一人ではとても、莉奈をここまで育ててはこられなかった。


莉奈を妊娠してあなたに不自由をかけていた時期、出産を終えた私が回復するまで、
家事一切を面倒な顔も見せずにやってくれた事、本当に嬉しかったです。
心身が不安定だった私にとって、それは何よりの励ましでした。


私が仕事を再開したいと相談した時にも、あなたは快く受け入れてくれて、
時間のない中でも莉奈のことや家のことを協力してくれました。
あなたの転職や莉奈の進学、その他、些細な出来事で言い合ったり不満をぶつけたりもしましたが、
あなたの気持ちを理解できていたのか、後になって反省することもありました。

不安で眠れなかった日々も、それだけ私たちは家族として真剣だったんだと、
そういう日々を送れたんだという事を、今は誇らしくも思っています。
共に歩いてきてくれて、本当にありがとう。


私たちは夫婦ではなくなりますが、
父としては莉奈のことを、これからもよろしくお願いします。


どうぞお体を大切にして下さい。

さようなら。


                               有里子

*2* accept

何気もなく瞼を開けて、それまで目を閉じていたことに気付いた。

おぼろげな視界に映った空間は、その焦点が定まる僅かなうちに、
私を完全に捉えた。
それは拘束や衝撃、重圧といった、いわゆる緊張感の類いではなかった。
過度な熱量でもなければ、先の尖った冷気でもない。
私を捉えたものは、云わば夕焼けに染まる遥かな海に似た緩やかさだった。
否、そこまで単純なものでもない。


空間には、例えるなら心地良い風に乗った潮の香りと太陽の名残が、
鼻先をそっと掠めていく時のような柔らかな落ち着きがあった。
その慎ましい気韻が、これまでに私が自分自身に付着させてきた様々な汚れを、
優しく洗い流してくれる気がした。
だが、それがこの空間を表す決定的な事象かと言うと、それだけではない。
それだけではない、何か。  


それはこの空間を占める全ての空気が、
何者かの意志によって一つの流れを形成しているような、
人工的な作用に依る現象などではなく、オーラと名付けるにも充分ではない、
極めて豊かな「何か」だ。

私はその「何か」を伝えるに足る、的確な言葉を知らない。
しかし少なくとも、間違いなくここは私にとって「無」ではないのだと、
私はそう思わずにはいられなかった。


やがて絹のような波線を描く夕焼けの海が輝きながら、
まるで祝福するように私を飲み込んでいった。
言いようのない慎ましさを伴う気韻と、
それを従えた豊かな意志が、私の全身を包み込んだのだ。


私は、私を飲み込んだ圧倒的な情緒の中で、
そこが非常に大切な場所であることを諭す無言の啓示を聞いた。
それは何物かによる教えではなくて、
本当はずっと昔からこの胸の奥で音もなく潜んでいて、
今初めてその殻を破り、存在を露わにしたような概念だった。
生まれたての小さな概念、それは守るべきほのかな温もりを伝えていた。
まるで幼い命のように。

 
それからの二時間余りを、私は少年時代の私自身と過ごした。
二人で会話をして彼の告白を聞き、戸外の切なくも懐かしい初秋の景色を歩き、
ある約束を交わした後で、彼は静かに帰っていった。

その一連は極めて特殊な出来事であるのに、
肩口をそっと撫でていった涼風も、赤みをつけようとしていた街路樹も、
そして気が付けば、再び私の前に姿を現した慎ましやかな空間も、
全ては正しく当然の様子でそこにあり、
私は不思議の世界にいながら、しかし悪寒や眩暈を起こすような兆候もなく、
心に寸分の乱れも覚えることなく、
そうかといって、特別に充実しているとか、力が漲っているという訳でもなかった。
私は相変わらず夕焼けの海にいて、穏やかな波を眺めている、
そんな負担も攻撃性もない具合だった。


もちろん夢を見ていたのではない。私は、その空間から好意的に包み込まれ、
乳児の素肌のような温もりに魅了されながらも、
正直を言えば仕事のことが何処か気にはなっていたし、
莉奈に会う方法、つまり現代に帰る方法を知りたかった。
その他にも理解すべき事柄は多いにあるのだが、
それでもなお、この状況を受け入れるにあたっては、
他の何れもが何の抵抗ともなり得なかった。

疑う、という意識すらなく、ただ、受け入れる。
それが唯一であり正当な自然的行為であると、体の芯から認めていたのだ。
それ以外のあらゆる選択肢が、もはや選択肢として並べられることさえなかった。

*3* fear

階下から母親の声がけたたましく響いた。
まだ寝ているのか、朝食を食べないのか、学校に行かないのか、
なぜ返事をしないのか、と捲し立てる。

ヒロキはその叫び声を聞く二時間前に起床した。
起床するまでの間にも何度か目を覚ました。
前の晩は時計が一時を示していたのを覚えている。
ここ数日は毎回同じような夜を過ごした。

起床してもヒロキは自室を出ることなく、
ベッドの縁に腰掛けたまま、二つの恐怖と向き合っていた。
一つは、学校に行けば必ずや繰り返されるであろう、
自分に向けられた肉体的、精神的な攻撃。
もう一つは、学校に行くことを止めれば必ずや襲ってくるであろう、
暗く深い闇のようなもの。
そのどちらも、彼にとって非情なほどに苦しい試練だった。
非情なほどに高い壁だった。
どちらかを選ばなければならないが、どちらも乗り越えられる気がしなかった。
壁には向こう側に進むためのドアも梯子も付いていない。


ヒロキが学校で受ける不義理は、既に暴力を超え、性的な恥辱に発展していた。
暴力は傷やアザが残った場合、それが証拠となって教師に洩る可能性がある。
性的な危害は詳細な説明を本人が躊躇うため、親や教師に訴えることができない。
それがヒロキを攻撃する者たちの言い分だった。

だがヒロキは、性的な危害を受けていることを親に話した。
教室で四人がかりで後ろ手に縛られ、両足も膝と足首のところで縛られ、
ズボンのボタンとファスナーを外され、下着を下げられ、
我が子の性器が掃除用のモップや箒や黒板消しで弄ばれる様を、
母親はうんざりした表情で聞いた。
攻撃者たちと仲の良い女子グループが、軍手を履いてヒロキの性器に触れた。
笑い声が起こった。見るとクラス中が笑っていた。

ヒロキへの虐めを教師に告発する生徒は一人としていなかった。
ばらせば次は自分の番だ、誰もがそう思っていた。

この事は、お母さんとヒロキの二人だけの秘密にしよう、
母親は無表情でそう言った。
もし先生にこの事を話せば、先生から父兄に伝わって、
あなたはこれから一生、変な悪戯をされた人間、という十字架を
背負って生きていかなければならないから。


いじめが理由で学校を休む。
それは自分自身が無垢ではなくなる事を悟る、決定的な日だ。
ヒロキは居間へ降りていき、両親に学校を休んでもいいか聞いた。
秋の陽気が部屋の家具を照らして、薄い影を作っていた。

母親は朝食の後片付けをしていた。
学校に行ってもいろいろ意地悪されるだけだもんね、仕方ないね、
お母さんが学校に電話しておくから、と洗い終わった皿をトレイに載せながら呟き、
何もヒロキに問いかけることはなかった。
父親は一瞬だけヒロキを見て、すぐに視線を新聞へ戻した。
それから会社に出掛けるまでの間、一言も口を利かなかった。


ヒロキは母親が学校に電話しているのを遠目で見ていた。
三分ほどの通話中、何を話したのかを聞く気にはなれなかった。
母親は多忙なのだ。朝食の支度と後片付けに父親の出勤準備、
そして掃除を終わらせると、すぐにパートへ出掛けなければならない。

ヒロキは自分が学校で虐めに遭っていることを、母親に申し訳なく思った。
やはり学校に行くべきだったかもしれない。

性的な危害は詳細な説明を本人が躊躇うため、親や教師に訴えることができない。
あいつらの言う通りにするべきだったかもしれない。


忙しなく家事を済ませた母親が、逃げるようにパートへと出かけて、
家の中はヒロキだけになった。
ヒロキは居間の壁に掛かった時計を見ていた。

三十分が途方もなく長い時間に感じた。
ヒロキはそれを、食卓の椅子に座ってじっと眺めていた。
そして学校の授業が始まる時間になり、
ヒロキは自分の中で、何か形を持った確かなものが
体から離れていってしまうのを実感した。

大切な何かが体から離れていってしまい、
その場所を埋める代わりのものがなかった。

自分はいじめに屈した。
それを認めた朝が、窓に注ぐ光の匂いを残して過ぎ去ろうとしていた。

*4* Hideout

「ダメだよ、アイツはオレたちの敵だと思わないと」

そう言いながら植村は軽く西川を睨み、それから視線を部屋の隅に移した。
合皮で覆われた黒いソファーは破損が目立ち、
露出したウレタンスポンジが埃を被って煤けている。
その上には流行りの過ぎたゲームのカードやUFOキャッチャーのぬいぐるみ、
サインペン、折れ曲がった成人向け雑誌、
誰の物かわからないNBAチームの帽子などが散らばっていた。
そのどれもが土埃で汚れている。

「うん。っていうか敵だから」
そう付け足した阿部が、薄笑いを浮かべた顔を西川に向けた。
それに同調するように、西川も薄い笑顔を作った。

綿谷と山本は、昨晩テレビで見た総合格闘技の話題で盛り上がっている。
それぞれ、憧れている選手が勝利した試合について、熱心に解説していた。
今関と神田と古川はまだ来ていない。
今日は少年野球チームの練習日なので、アジトに来るのは六時を過ぎるだろう。


アジトを見つけたのは綿谷だ。
「うちの近くに誰も住んでいないアパートが取り壊されずに残っているから、
オレたちだけの集合場所にしよう」
そう提案して、阿部と山本の賛同を得た。
阿部と山本の賛同は、即ち全員の賛同を意味する。

アパートは、恐らく築四十年は経過しているであろう古い二階建てで、
各階が二棟ずつに分かれていた。
人が滅多に通らない裏道にあり、周囲は更地という立地条件も
少年たちの関心を引き付ける要因となった。

アジトを一階にするか、それとも二階にするかで意見が対立した。
山本は、いざという時に一階の方が逃げやすいし、
一〇二号室が一番きれいに片付いている、と主張したが阿部は反対した。
二階の方が逃げるための時間を稼げるし、鉄製の階段は誰か来れば音でわかる。
ベランダ下の草むらなら、気を付ければ怪我なく飛び降りれるし、
何しろ上階の方がアジトっぽい。

結局、アジトは二階のきれいな方、二〇一号室に決まった。
今関が、他の部屋に誰も寄り付かないようにと、
二〇二号室に転がっていた消火器をアジト以外の三部屋で噴射した。
白い粉末が猛烈な勢いで噴射され、辺りをただならぬ酸味が覆い尽した。


「よし、見つけた」
植村が、ソファーの横に積み重なった廃材の影から、
使い捨てのインスタントカメラを拾い上げた。
カメラは埃を被ってはいたものの、比較的新しい物だった。
植村が埃を払ってそれを阿部に見せる。
「おお、見つけたの?」と阿部が声を上げ、西川がそこに近づく。
今関と山本も会話を中断して、阿部ら三人の方を見ていた。

アジトの征服を果たした時に、全員で記念撮影を行った。
その時に使ったインスタントカメラを、その後どこかに紛失してしまっていたのだ。
フィルムはまだ半分程度が残っていた。

「こんな所にあったのか。随分探したんだけど」
罰の悪そうな西川が、阿部から手渡されたインスタントカメラをトレーナーの袖で拭った。
カメラは西川が購入したので、所有及び管理も西川の担当になっていたのだ。

植村がカメラを西川の手から奪い、話し始めた。
「これを明日学校に持って行って、アイツを撮ってやろうぜ」

え?どういうこと?一瞬の沈黙の後で山本が聞いた。
「アイツがパンツ下ろされてるところを撮るってことでしょ?」
阿部が西川に向けたのと同じ薄笑いで答えた。

更に一瞬の間があって、それはいいね、面白い、とアジトの中が笑いで包まれた。

*5* Lodge

辺り一帯を神秘が覆っていた。柔らかな空気は程良い温度と湿度を伴い、
いつまででもここに留まることを許容しているようだった。
だが覆っているのはそれとは別の、
豊かで力強く、凛とした意志とも呼べるものだ。
 
最初に目に映ったのは、しっとりとした光沢を持つ琥珀色だった。
その色彩は、目の前の様相が現実のものだと解った瞬間、
私の中で持ち上がりかけた不安感をあっさりと鎮めた。
まるで網膜がそれを望むかのように、空間が視界と綿密に打ち解け合い、
感情が揺らごうとするのを、微笑むように制した。
そっと肌に浸透してくるような優しい濃度が床の色によるものだと、
私は数秒かかって理解したが、もはや少しも悪い気分にはならなかった。

目の前には艶のある上質な木製テーブルと、その上にコーヒーが一つ置かれてあった。
私はテーブルに両肘をついて座っていて、
手のひらで頬骨を押さえるような恰好をしていた。
思わず頬から手を離し、磁器製の無地のカップを見つめた。
純白と濃褐色のコントラストからは湯気が立ちのぼっておらず、
焙煎の香りが鼻先をくすぐることもなかった。

午前中の仕事がキャンセルになったため、知らず知らずに気持ちが緩んだか、
そして辺りが静かなせいもあるのだろうと、
うたた寝の理由を自分に言い訳しながら、私は見慣れない室内を眺めた。
距離を隔てて配置されたテーブルと椅子、その所々に人が座っているのが見えた。

とても広い空間だった。
床だけでなく、壁にも落ち着いた琥珀色の建材が使われている。
壁に絵画やポスターの類いは見えない。花や置物もない。
つまり彩りが何も添えられていないのだが、
空間は統一された琥珀色によって、独特の品格を放っていた。
それはある種の、高貴な慎ましさだった。
さながら、一切の贅と決別した者だけが備える潔さを見るようだった。

空間に漂う情緒の極みによって、暫し現実感を喪失させられていた私は、
しかし意図してここへやって来たのではない事をようやく思い出し、
ホテルを出てからの顛末を振り返りにかかった。
だが、あの頭痛の後の記憶が戻らず、回想は何度か繰り返されることになった。


遅い朝食を摂るために、私は商店街の中程にあるカフェへ向かっていた。
出張の度に訪れる店で、場所はよく覚えていた。
ホテルから歩いても五分少々の距離だ。

フロントに鍵を預け、軽い散歩の気分で店に向かったが、
橋の上で突如頭痛に襲われ立ち止まった。
近くに人の気配がないことを確かめてから、私はしゃがみ込み、
欄干にもたれながら痛みをやり過ごそうとして、目を瞑った。

その後の事が、どうしても思い出せない。
まあ既に頭痛は止んでいるのだし恐らく、と私は推断するに至った。
記憶は途切れているが、朝食をやっている店を見つけてそこへ入ったか、
それとも頭痛で朦朧としながら歩いて、偶然この店に辿り着いたのかも知れない。
出張の度に訪れていたカフェは、白塗りの漆喰とタイルが貼られた壁、
そして大きな黒板に書かれたメニューが印象的な、欧風の内装だった。
今私がいる店の内装は、欧風にも和風にも、或いは中華風にも当て嵌まらない。


まばらに着席する人々は、離れていることもあり顔がよく認識できない。
しかし知っている人がいるような感じもしなかった。
取引先の関係者がどうやらいないことは、
情けなくも午前中からうたた寝をしていた私を、多少なり安心させた。

吹き抜けになった天井には、幾つかの太い梁が存在を主張するように横たわっていた。
淹れ立てのコーヒーを注文し直そうかと、私はふと思い付いたが、
周囲に店員らしき姿が見えないことで、その要求を保留することにした。

*6* scar

妻の念願を叶えるべく、新婚旅行はパリに行った。

ツアーには参加せず、二人だけの旅程を色々と計画したが、
その行動は多数のツアー客と概ね変わらなかった。
それはつまり、ルーブル、オルセー、オランジュリーといった美術館を見て回り、
オペラ座へ観劇に出掛け、凱旋門で記念撮影をし、
シャンゼリゼ通りを買い物がてら気ままに歩く、といったものだ。
私は芸術に対する素養も心得もないし、女性のファッションにも詳しくない。

寧ろ、旅のハイライトはサンジェルマン・デ・プレにある一軒で、
それをきっかけに、以降私たちは旅行を計画しては、
事前に調べてまで様々なカフェを訪ねるようになった。
私はオリジナルのブレンドかエスプレッソ、
妻はカフェ・オ・レやカプチーノを好んでオーダーした。

莉奈が生まれてからも我が家のカフェ巡りは続き、
そのせいで娘は小学五年にして、生意気なハワイコナ愛好家に育った。


私たちは普通の幸せな家族であったが、妻とは一昨年、突然のように終わった。
突然のように、私が終わらせた。
それ以外の方法はもう見出せないと、
夫婦という人生を選択した者が無言の中に内包する禁を破り、
周囲の反対でさえ押し切った私が選んだのは、罪と共に生きるという道だった。

人生でこれ以上は犯せないであろう愚かな大罪は、
当然ながら妻と莉奈に大きな傷跡を残した。
ふたりだけでなく、妻の親族をも深く傷付けた。
その事実と向き合って、残りの人生を過ごす。それ以上は望むべくもない。

私はふたりの元から離れた後も、中年男一人だけのカフェ巡りを継続している。
ふたりの面影を辿る様に一人、カップに注がれたコーヒーへと想いを馳せる。
犯した罪が際立ち、私の周りを覆う。その外にある世界と私とを隔離する。
そのための時間を過ごしている。


広すぎるほどのフロアにあって、私は片隅に配置された窓際の席に座っていた。
アーチ状の小さなピクチャー窓はその数も少なく、琥珀色の扉で閉じられていて、
外を眺めることへの興味を失わせていた。

*7* pupil

ヒロキは、食卓の椅子から立ち上がることができないでいた。
座面に両足を乗せ、膝を抱く姿勢のまま、自分が何者に変わってしまったのか、
何をすべき存在となったのかを考えていた。
或いは、何をせずにいるべき存在となったのかを。

壁に掛かった木目の時計が十時五分前を指している。
学校では二時間目が始まっている頃だ。今日の二時間目は何の授業だっただろう。
社会科だったか、音楽だったか。音楽ならリコーダーが必要なはずだ。
それとも学校の授業など、もう自分とは何の関係もなくなったのだろうか。
学校と自分とは、今日で切り離されてしまったのだろうか。

だとすれば、自分はこれから毎日、何をして過ごせば良いのだろう。
湧き上がる自問に、ヒロキは何ひとつ答えを告げることができなかった。
自分が学校とはもう無関係なら、これからは働きに出るべきなのだろうか。
でも義務教育を修了していないと、会社で働かせてはくれないはずだ。
それでは、自分はまたあの学校へ戻るのだろうか。
いつか会社で働くために、またあいつらの仕打ちを受けに学校へ戻るのだろうか。

ヒロキはふと、今この瞬間、世界は止まってしまったのではないかと考えた。
だから自分の周りは、こんなにも静かなのではないか、と。
時計の針は動いていても、もしかしたら外にいる人間は皆、人形のように無言で固まっていて、
自分だけがその横をすり抜けて行けるのではないか。
そうなれば、学校にも行かず、働きにも出なくても、その事を誰にも知られずに済むのに、と考えた。
いや、まさかそんなはずはない、と思い直しながらも、
もしも道を行く人々が、その姿勢のままで立ち尽くしているなら、
その様子を見てみたい、という願望が、ヒロキの中に自然な形で膨らんでいった。


小学校とは反対側の、玉ねぎ畑の広がる地域へ向かうことにヒロキは決めた。
緩い傾斜になった自宅前の通りには、人の姿が見えなかった。
車庫の隅に止めてある自転車は、ヒロキの身長に対して少し小さくなってきている。

学校のある平日、というだけで、
中道があまりにも静まり返っている事を、ヒロキは初めて知った。
夏休みには、蝉の鳴く音に混じって必ず聞こえてきた、様々な種類の声があった。
用件を伝える声、行き先を告げる声、誰かを呼ぶ声。
それらが、跡形もなく消えてしまっていた。
通り全体の色が薄まってしまって、古い写真みたいだとヒロキは思った。
九月も下旬に差し掛かろうとしているが、日差しにはまだ夏の面影が残っている。
ヒロキはシャツの袖をまくって、田園に続く角に向かい、自転車を漕ぎ始めた。

途中、庭で布団を干している人の姿を見かけた。
遠目でよくわからなかったが、中年女性のようだった。
その女性が、物干しに掛かった布団の前で、
両手を上に挙げたまま、止まっているように見えた。
右手には布団たたきが握られているようで、実際に布団を叩く音が聞こえてきたが、
その女性が叩いているようには見えなかった。
音は別の、スピーカーのような物から聞こえていて、
実は女性は止まってしまっていて、それは自分のせいなのではないかと、
ヒロキは鼓動を早めながら思った。


しかし、その想像は杞憂に終わった。
傾斜を右に曲がる角を折れ、その少し先で、ヒロキは立ち尽くす男性を見つけた。
現在は使われていない、農作物用の倉庫の前だ。
男性は微動だにせず、鉄の錆び始めた扉の脇に立ち尽くしていた。
塗装された赤が色褪せて、所々剥がれている扉と、不思議に調和が取れていた。

男性は外国人だった。年配に見えるが腰は曲がっておらず、体格が立派だ。
鼻が高く大きく、広い額には何本もの横皺が刻まれていた。
白と、別の光る色が混じってクリーム色のようになった長い髭が、
頬と口元と顎を覆っていた。

ヒロキはその外国人を注意深く見つめていた。心臓が高鳴る。
ペダルを漕ぐ足が、自然に止まった。
自転車の惰性を使って、ゆっくりと前に進んだ。止まっている――。

しかし、倉庫の前を通り過ぎる僅かに手前で、急に外国人が此方を向いた。
ヒロキは声を上げそうになった。背筋がピンと張り詰めた。
目が合った。大きくて深い目だった。
不意に、その瞳の淡い茶色に、ヒロキは何故か懐かしさのようなものを覚えた。
何処かで出会ったことのある親しみが、目の色となって描かれていた。
それが何だったかは思い出せない。
自転車は止まり、ヒロキの右足は土を被ったアスファルトを踏みしめていた。

外国人は瞳の親しみを湛えたまま、髭だらけの顔でヒロキに微笑みかけた。
懐かしい瞳と、懐かしい微笑みだった。

*8* Encounter

薄い磁器で作られたやや平型のカップには、手付かずのコーヒーが残っていた。
それを少しだけ口に含み、セットになったソーサーへと戻した。
冷めてしまったコーヒーは、味がよくわからなかった。

店内には楽器の演奏は勿論、BGMでさえ流れておらず、
時折、人の話し声が細切れになって聞こえていた。
会話の内容まではわからない。
他に物音がしないので、離れた席で交わされる声の断片が、漂うように届いてくるだけだ。

私は店内の客を何気に観察した。
茶色の髪を束ねた女性や、グレーのスーツを纏った老紳士などがいたが、人数は多くない。
ここから見える限り七~八人といったところだ。
店員らしき姿は見えない。立ち上がっている人もいない。
テーブル間にはかなりの余裕があるため、
私から最も近い右側にいる若いカップルも、そこが隣の席だと俄かには言い難い。


私は、この店の居心地の良さが何に依るものなのか、充分な認識を持ちかねていた。
全体に広がる琥珀色は、眩しさを感じることもなく、
心が満たされるというか、平穏な柔らかい気持ちにさせられるものだったが、
それだけが理由とも思えなかった。
店内は、ちょっとしたホールを思わせる程に広く、その割には座席の数が少なく、
人の数は更に少ない。
これといった装飾もなく、音楽も流れていない。
確かに、私のような人間には打って付けの場所かもしれないが、
その私に至っても、この町には物思いに耽るためではなく、仕事で来ているのだ。


豊原町は人口九千人ほどの、山間に位置する小さな町だ。
半導体や精密機械を製造するメーカーが数件並んだ工業団地と、
特産であるメロンを栽培する農家、
そのメロンを主材料にした、名菓の製造工場が主要産業となっている。
今回の出張では、半導体メーカーのM&A案件に際し、
買い手となる大手電子機器メーカーが出した評価の詳細な報告と、
それを基に、M&A手法を事業譲渡とするか合併とするか、
何れかの希望について確認する目的があった。
私は一昨年に独立し、M&Aを含む企業の経営コンサルティングを興した。
妻は私の独立に、最後まで反対していた。

時間が気になり、腕時計に目を移した。
まだ離婚する前、妻が誕生日にプレゼントしてくれた、シルバーのアナログだ。
黒い文字盤の「12」の位置に「CK」と模られたクリスタルが刻印されていて、
その下にブランド名が白で表記されている。
友人らは時計を変えるよう、私に忠告したが、
ベルトを代えたばかりだからと弁解して、未だに使い続けている。

針は十時十三分を示していた。
ホテルを出発してから一時間以上が経過したことになる。
午後の約束に備えて、念のため再度資料に目を通しておきたい。

店を出ることにした。
テーブルのコーヒーの横に、真鍮でできたレタースタンドが置いてあり、
白い封筒が挟まっていた。会計の伝票だろう。
厚手でさらさらした紙の封筒を手に取った。
封はされておらず、中を覗くと一枚の小さな便箋が入っていて、
そこにはコーヒーの値段ではなく、短い文章がメモ書きされていた。
「来訪者とは、自由にお過ごしください」

立ち上がりかけていた私は、周囲を気にする素振りをしながら反射的に座り直した。
他の客は私の動作に気付いていないようだった。
軽く咳払いをして、改めてメモを読み返す。

「来訪者とは、自由にお過ごしください」
これは一体どういう意味だ?ここに、誰かが私を訪ねて来るというのか?
それとも、客全体に向けて、誰かが訪ねて来た場合の事を記しているのか。
そうだとしても、来訪者との過ごし方を記載する店など聞いたことがない。
もう一度店内を見回して、従業員を探したが見つからない。


その時に、私は解った。
この店に広がる、例えようのない居心地の良さが何に依るものかを。
それは匂いだった。だが、決して色濃い匂いではない。
空間に紛れていた、ほんの微かな香気が、
しかし私が察知したことをきっかけに、その正体をゆっくりと現していった。
そんな感じだ。

意識しなければ無臭で片付けられる程の僅かな匂いは、
不思議なことに、私に郷愁を駆り立てた。
それは、私が生まれ育った場所に存在していた匂いだった。
幼き日々の象徴と言える、大きな海と草原、そしてミズナラの匂いだった。

この店を流れる空気に、なぜその匂いが含まれているのか。
初めのうち、私にはわからなかった。
琥珀色の壁や床は、木材のようには見えなかった。それらが発しているのではない。
もしそうであれば、その匂いはもっとはっきりしたものとなっているだろう。
私は気が付いて、天井の梁を見上げた。
いや、正確には見上げようとした。
私は上を向こうとする寸前に、故郷を象徴する匂いの、それ以上のものを目にした。
或いは、切ないほどの郷愁は、全てそこから漂っているのかも知れなかった。

ヒロキは本当に突然に、私の前に現れた。

*9* sunflower


Dear お父さん

手紙の左側に書いた歌詞は、莉奈が大好きな「ひまわり」っていう歌です。
莉奈はこの歌を、つらい時や悲しくなった時に、いつも聞いているの。
元気になれるから。
お父さんにも、一度聞いてもらいたいなって思ったから、歌詞を書いてみました。
今度、機会があったらぜひ聞いてみて!


お父さんが家からいなくなって、相変わらず莉奈は寂しいよ。
ご飯を食べるテーブルも、広くなってしまいました。
でも、こないだお母さんと二人で約束したんだ。
もうお父さんのことで泣かないって。
莉奈は強くなるからね!

お父さんは、これからもずっと、莉奈の自慢のお父さんです。
だから莉奈とお母さんのこと、忘れないでください。
お父さんのこと、いつでも応援してるから!
お仕事がんばって下さい。

From 莉奈

ミズナラの下で

ミズナラの下で

幼き自分自身と出逢った時、私たちは何を伝えられるのだろう。 出張先の小さな町に滞在していた藤村は、あるきっかけで未知の空間に迷い込む。 意志とは無関係にその空間の住人となった藤村を訪れたのは、小学五年生の藤村本人だった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. *1* farewell
  2. *2* accept
  3. *3* fear
  4. *4* Hideout
  5. *5* Lodge
  6. *6* scar
  7. *7* pupil
  8. *8* Encounter
  9. *9* sunflower