俺はなぜ大学に合格出来たのか。

――おい、おまえ。これ解けるか。
 確かにそう言っていた。大問10の上にそいつが寝そべり、その口からでる吹きだしに、力の抜けた字体でそう書かれていたんだ。
 そいつのセリフは、見たくなくても目に入ってくる。悔しいが、まったく分からん。そもそもどの知識を使えばいいか思いつかない。さすがJ大。勘弁してちょうだい。
 いったい、誰がこの棒人間を描いたのだろう。
 この赤本は進路室で要らなくなったものをもらい受けたものだ。つまり、先輩の努力が詰まった垢本だってわけだな。これを使って受験勉強をした先輩たちの誰かが、この棒人間を描いて、煽りのセリフをくっつけたに違いない。後輩への挑発だ。
 とはいえ、他人の質問には、返答するのが礼儀だろ。N高生たるもの礼儀正しくあれ、の信念ゆえに、僕は鉛筆を手に取ったんだ。
(とけません)
 ちょっと潔すぎたかな。
 ふう。
 部屋の天井を見つめた。この本を使って勉強した先輩たちには、これが解けたのだろうか。解けたんだろうなあ。だって合格してたじゃないか。
こういう整数問題は、K=3nとか置いて説くのが定石だけど、この問題では駄目だった。何か変形しなければ。
 そこで再び本を見ると、そこには式が浮かび上がっていたんだ。なに、どういうことかって。さっきまではなかった数式が、赤本に書きこまれていたんだ。見間違えではないぞ。解く前にはのんきな棒人間と頭にくる吹き出ししかなかった。でも今そこには確かに、因数分解された高次方程式があったんだもの。信じられないかもしれないけど、大丈夫だ、問題ない。そういう反応を待っていたよ。初めて僕の話を聞いた人はみんなそんな表情をする。話は続く。君が脱落しようが僕は話し続けるから安心しろ。
 で、その数式はまさに僕が求めていたものだった。いたって簡単な式変形に過ぎず、どうしてこんなものも分からなかったのか、とは思ったが、正答が一気に近づいたよ。
 僕は(とけません)を消して、(ありがとう。わかったよ)と書いた。
 するとね、ここからがすごいところだから、よく聞きなよ。その棒人間の吹きだしの文字が消えて、新しい文章が浮かび上がって来たんだ。
――解けたのか。よかったな。
 僕も見間違えたと思ったさ。それでためしに(教えてくれてありがとう)なんて書いてみたら、
――それほどのことでもない。
 なんて言って、頭を撫でてるんだ。そいつが、その棒人間が、だよ。どうだ、かわいいだろ。
 まあ夢だ。僕は疲れている。夢の中でも過去問を解いているんだ、そうに違いない。夢だと思えば、棒人間先生に数学を教えてもらうなんて状況さえも理解できる。とりあえず、僕はそうやって納得した。
 一度夢だということにしてしまえば、もう後は楽だ。せっかくだから夢を謳歌しよう。もしかしたら今は授業中かもしれない。僕は授業中には寝ないと決めているんだが、今日に限ってうっかり寝ているかもしれない。先生に起こされる前に、楽しいことを味わってしまえ。棒人間とおしゃべりタイムだ!
(君は数学が得意なの?)
――ああ、得意だ。この本に載っている問題はすべて解ける。もとより、この本はまるまる暗記しているけどな。
(こんな厚い本、全部暗記したの? もしかして、数学以外の教科も?)
――そうだ。理科も英語もすらすら解ける。はしがきも暗唱できるし、誤植の場所まで完璧だ。
(そりゃすごい。記憶力がいいんだねえ)
――んなもん、当然と言えば当然のことだ。俺はこの中に10年は住んでるからな。
(10年も。そりゃすごいね)
 パラっと表紙をめくる。なるほど。2005年。古い赤本である。
――10年も経てば、いろんなことがあったもんだ。家に持ち帰られる途中で雨に降られたときはこれで終わりかって思ったけどな。
(そりゃ大変だ)
――とっさの思いつきで、化学のページから油脂を盗んで、体の周りに膜を作って助かった。
(そういうこともできるのね。へえ、さすが大ベテランは違うねえ。生まれた時からこの本にいるのかい?)
――なに、俺はもとは実世界の人間。お前と同じN高生だったんだぞ。
(え、どういうこと)
――そうか。やっぱり彼は噂の封じ込めに成功したんだ……。うまいことやりやがってな。
(おい、もとは人間だったの? 詳しく教えてくれよ)
――お前とはこの赤本を拾い上げたっていう大事な縁もあるし、打ち明けようじゃないか。
 俺は10年前、ここN高校の3年生として、今の体じゃなく、人間の体で生きていた。要は、普通の高校生だったんだ。僕は極めて成績優秀だった。J大医学部合格は間違いなし、ともてはやされたものだ。
(なるほど、確かに暗記力はすごい)
――そして僕が一番情熱を注いだのが
(恋か? 恋でしょ。そうだ恋に違いない)
――違う! 研究だ。文脈を考えて発言してくれないか。とにかく……、そう、理系科目、とくに数学に熱中したんだ。当時N高校にいた数学のY先生の指導のもと、数学の研究を深めた。複素数平面の研究なんかは面白かったな。
(恋じゃなくてアイだったか)
――まったく…。こいつに任せられるかな…。
(ん?)
――いや、あとで話す。話を戻そう。俺とY先生がともに研究していたのは〈人体微分法〉というものだ。
(あらま、初めて聞いたね)
――そりゃ当然だ。これは俺とY先生二人だけで研究していたんだ。なあに、やることは簡単。関数の微分積分なら、数Ⅱで習っただろ。同じことを人体でやるんだ。以上。
(全然わけわかんねえよ)
――まあ、すごく簡単な話、三次元の人体を、微分によって二次元に落としこむんだ。体中のあらゆる物体や心情を事細かに数式化し、微分する、っていう感じかな。
 余計にわけがわからない。人体を微分する、とは?
(じゃあ、積分すれば、どんな二次元も三次元になったりする? 現代では、それを望んでる人々がたくさんいると思うよ。僕は違うけど)
――なかなかするどいな。上手くいくかどうかはわからない。あとで説明するが、上手くいく場合もある。二次元と言ったから語弊があったかもしれないな。心情の第二法則と幾何生命理論学を知らないと分からないかもしれないが……微分することで人体は実空間から数学的空間に追い込まれるんだ。全ての理論に忠実な、数学が全てを支配する空間に……ああ、人体微分理論のことはもうやめにしよう。頭が痛くなってくる。
 棒人間は、真っ黒な頭をかかえた。
――それは、長い苦労の末、やっと人体微分の公式が出来た時だった。
『Y先生、いよいよ私たちの研究も大詰めですね。あとは学界に発表するだけですね。二人の名が歴史に残る日は近いです』
『残念だが、歴史に残るのは、私の名前だけだ』
『どういうことですか』
 その時にはもう遅かったのだ。Y先生は、手元にあったメモ紙に俺の人体微分の公式を書いていたのだ。たちまち俺はメモ紙に吸い込まれ、二次元空間の住人となってしまったのだ!
『お、俺を二次元にして、どうするというのですか……! まさか、裏切るのですか! 先生』
『この栄光は私だけが頂く。きみは今までよく私に協力してくれた。感謝している。だが、この先を歩むのは私だけだ』
 そういってY先生は、俺のメモ紙を手元にあったJ大学過去問に挟み込んだんだ。
 こうして俺は突然失踪したんだ。けど、学校では、あまり大きな混乱は起きなかった。ちょうど、受験シーズンで、受験本番で大失敗して落ちて引きこもっているのではないか、なんてささやかれただけだった。もっとも、そういう噂に対して、
『あいつは一応元気で頑張ってるらしいぞ』
なんてことをのんきにHRでしゃべったのもY先生だけどな。こうして、噂は完全に封じ込められた。俺が微分されたことは、なかったことにされたんだ。お前も、失踪した学生の噂なんて聞いたことなかっただろ?
(朝の八時三十五分過ぎ、長いチャイム中に遅刻寸前で登校して来る友人ならいるよ。たくさん)
――それは疾走した学生な。Y先生の方も、とっとと教職を辞めて、どこか外国へ行ってしまった。その後有名になった話は聞いていないから、どこかの特殊要員になったか、殺されたか、っていうところだろ。
 でも、ごく数人の先生たちが、この事件の真相を知っててな。わざわざ俺のいるJ大学の赤本を捨てずに取っておいてくれたんだ。他の赤本は次々買い替えられるのに、これだけは残されたんだ。ありがてえ。
 とはいえあれから10年、当時を知る先生はいなくなった。みんな異動しちまったんだ。誰にも言いのこさずにな。というわけで、この赤本は捨てられ、お前に拾われた。
(そうかそうか。おほん。感謝したまえ)
――お前が拾うだろうことはその前から数学的に予想されていた。お前の志望校、志望学科、体脂肪率を総合的に判断してな。
(かわいくないやつだ。てか体脂肪率は関係ないでしょ)
――そんなことより、お願いがある。俺を、もとの人間に戻してくれないか。
(んなこといっても、どうやってやるんだ。自分で人体微分法見つけたんだから、逆演算すればいいじゃない。さっきの、ほら、人体積分法やれば?)
――まあ、不可能ではないのだが、積分定数Cが生じてしまう。知っているだろ? つまり、現時点で人体積分しても、三次元の棒人間が生じるだけなんだ。困ったことだろ。顔も真っ黒。俺の中の「俺」の部分は、積分では現れないんだ。アイデンティティのない俺が出来るだけなんだ。
(どうにかならないの? それ)
――本人の体の一部分が残っていれば、復元できる。積分区間を1ゲノム分に設定して、人体積分すればよい。その代入計算をお前に頼みたいんだ。
(その……体の一部は残っているの)
――ある。英語の第2問の所に、俺の頭髪が挟まっているはずだ。昔、生徒として勉学にいそしんだ頃の頭髪がまだ残っているんだ。そいつを拾ってくれれば、あとはゲノムを数式化する方法なら数式で示すから安心しろ。
(何だか難しそうだね。もし、僕が計算ミスをしたら)
――俺はもう俺でなくなる。場合によっては、俺が消滅するかもしれない。
(それは大変だ。じゃあ数学科の先生に頼もうよ。多少はマシに計算してもらえるはずだからさ、ね?)
――数学科は信用ならん。変に借りを作りたくない。ヘタしたらまた人体微積分学の功績を奪われる。統計学的に判断し最も信頼できるのはお前なんだが……。そうだ。お前、俺と取引しないか。
(取引? どういうこと?)
――お前は俺を実世界に戻す。その代わり、俺はお前の学力を上げる。そして、お前を必ず合格させる。
 僕は胸躍った。僕が必ず合格する? そうか。確かに、そいつを本の中に閉じ込めておくのはもったいない気がした。僕の利益のために、十分に活用した方がいいかもしれない。
(僕が、合格るといったね?)
――そうだ。俺の頭脳をなめるなよ。過去問対策ならばっちりだ。しかも家庭教師のみならず、試験当日だって力になろう。
 その言葉に僕は口角の上昇を止められなかった。なるほど、試験当日にこいつを人体微分すれば、こいつが答えを教えてくれる。よって合格不可避。ということだろ?
(そりゃ合格るわ! 僕の代わりに解いてくれるんだね)
 僕は覚悟を決めた。急にやる気が出てきた。大学受験がこんなにあっさり解決するなんてことあろうか。
――俺は、お前に俺の人生を任せていいと思ってる。やってくれるか。
(わかった。僕、やってみる)
 その瞬間、黒い点が、そいつの顔から滴り落ちていった。質量をもった点を質点というなら、感情をもった点は感点とでもいうのだろうか。テングサからは作られず、ただただ人間の思いが数学となったものなのだろう。
 ――じゃあ、俺は数式になるぞ。
(おう)
――楽しみだな。
 そいつはたちまち、ページを埋めつくさんばかりの長く複雑な数式と変化した。あんまり美しい数式ではないあたりをみると、きっとこいつは腹黒いんだろう。途中で場合分けもなされている。なんだこれは。aが都合のよいとき、許可。aが都合の悪い時、拒否。自分勝手なやつだなあ。これがやつの正体か。まあよい。今はただ計算することだけに集中しよう。僕は鉛筆を握り、「そいつ」を計算し始めた。髪の毛のゲノムも、たぶんこれでよいのだろう。とにかく数式で示されるがままに計算してみる。膨大な量の計算だが、間違いは絶対に許されない。
(僕は、完璧な計算をするんだ! そいつの人生のために。そして、僕の人生のために)
 額から汗が噴き出す。飲まず、食わず、30分。覚悟していたよりは意外とあっさり結果が出た。
(数式が間違っていなければ、おそらく君は現れる。今ここに、現実となって!)

――よく間違わずに計算できたな。
 僕の目の前にいる、「僕」が口を開いた。え? 待てよ。目の前に僕がいるとは、どういうことだ? 
抑えられない混乱を感じていると、あれ、気付けばこっちの僕は、おい一体どういうことなんだ、棒人間じゃないか!
(おい、何が起きているんだ?)
――アホめ。お前が拾った頭髪は、お前自身のものだ。俺はお前の組成データを利用して、お前になった。俺は「お前」という積分定数Cを手に入れたんだ。だから、これからは、俺がお前だ。
(文脈を考えてくれ。意味が分からない。じゃあなんで僕は)
――お前が数学的次元に落ちたのは、お前自身の計算の結果だぜ? 俺は初めから、お前と入れ替わろうとしていた。そこでお前を選び、俺はお前になり、お前は俺になる、入れ替わりの計算をさせた。
(じゃあ、あの汚らしい数式は)
――汚らしいとは失礼な。前半は俺の積分、後半はお前の微分の式だ。
(あれ僕なんかい)
――2人分だから、ますますごちゃごちゃだったんだろう。まあ、なかなか混沌とした計算だったが、一つのミスもなかったのは称賛に値するだろうね。
(……。僕はもう人間にもどれないのか)
――人体の一部がなきゃ無理だね。なあに、心配するな。俺はお前だ。約束通り、大学に合格してやる。お前に俺の人生を任せたいって言ったろ。俺はお前になって、やりたいことをするんだ、って意味。
 そういって「僕」は、紙上の頭髪を吹き飛ばして、赤本を閉じた。
――お前は今までよく私に協力してくれた。感謝している。だが、この先を歩むのは俺だけだ。じゃあな。

(なにが、『この先を歩むのは俺だけだ』だ)
僕は今でも、復活のチャンスをうかがっているさ。誰か、この赤本に頭髪を落とさないかな。

俺はなぜ大学に合格出来たのか。

俺はなぜ大学に合格出来たのか。

予備校に合格体験記を書くよう指示されたのでしぶしぶ書いたのですが誰も信じてくれません。なぜでしょうか。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-11

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