偽櫻

 私の愛機、深山に搭載されているA.I「偽櫻」は至極素直で、聡明な人格を有していた。大昔には戦闘機として大戦の第一線の空を飛んでいた深山の少々厄介な個性も、彼女にかかれば箱入り娘のように奥ゆかしく、ひっそりとなりをひそめた。
 私の深山は競技用のレプリカではあったが、航空法に従って最新の通信機器を包み込んだ内装はともかく、外見はその機銃も含めて、かつての古き懐かしき時代(私の曾祖父さえ幼かった時代ではあるが)の趣を完全に再現していた。
「おはよう。今朝も美しい朝だね」
 私の呼びかけにA.Iは、やや素っ気ないとも言えるような自然な調子で返事した。
「おはようございます、天心さま。今日はいかがなさいますか?」
 私はコクピットに乗り込みながら目的地を告げた。すると前面に広がるディスプレイの中央に蛍光色の文字が表示され、A.Iが目的地に関する問いをスラスラと読み上げた。私はそれらにいちいち承認を与えつつ、機外の景色に目をやった。
 この郷里の空港にはもう何十年も帰っていなかったというのに、不思議と未だに見慣れていると感じられる景色だった。遠くが淡くかすんで見えるのは私の視力が弱ったからというだけではなく、湿気の多い土地特有の気候ゆえである。
 奥まるにつれぼやけていく山々の輪郭は、かつて私が空戦競技の練習生として、この飛行場から初めて飛び立った時から、何一つ変わっていなかった。思えばあの頃はまだ、誰もがこの景色を見ながら、己の手で離陸を行っていたものだった。
 連綿と続く山脈の中でも一際高く抜けた、滑走路の正面からよく見える白老山は私の大のお気に入りであった。私はあの山を目印として機体を浮き上がらせ、大らかな安心感の中で飛び立っていったものだった。
 だが、今はもうそれと同じ景色をこの地の訓練生が見ることはないだろう。離陸から上昇、その後の巡航に至るまで、今はすべてA.Iが行うことになっているからだ。パイロットは最早存在しないとさえ言われている昨今である。座席にいるのはただ「YES」をタップするだけの、有機的なパーツに過ぎなかった。
「天心さま」
 ふと偽櫻に話し掛けられて、私は我に返った。
「ああ。どうした?」
「やや心拍数が上昇しています。お加減が優れませんか?」
「いいや、そんなことはない。事前のメディカルチェックでもそう診断されていたはずだが」
「チェックは万全ではありません。そのために私がいるのです」
 私はキャノピーに映りこんだ自分に向かって笑みを向けた。
「いや、本当に問題ないよ。少し昔のことを思っていただけだ。心配ありがとう」
「わかりました」
 偽櫻はそうコンパクトに答えると、ほどなくして管制塔との通信を開始した。私は画面上をするすると流れていく交信記録の文面をしばらく黙って見守った後、再び、窓の外へと視線を移した。
 白老山は吹き抜ける青空の下、今朝も気高く鋭く聳えていた。山頂の冷たく清浄な大気がここまで伝わってくるようであった。
「エンジンを始動します。周囲に危険物がないか、最終確認を行ってください」
 偽櫻が決まりきった文句を唱え、私もまた「クリア」と、決まりきった動作と文句を繰り返した。
 やがて合図とともに、機体が激しく震え、タキシングを始めた。動力系は正常と偽櫻が淡泊に告げる。機体はそのまま、予定された滑走路へと向かって行った。
 ――――A.Iは少しずつ、パイロットを人から部品へと変えていった。初めはA.Iの方が部品であったはずだった。初期型のA.Iにはあくまでもほんのサポート的な役割しか任されていなかった。
 例えば、現在行っているような地上滑走。あるいは、失速時における一時的な姿勢制御。他には、周辺状況に対する簡易なモニタリング等である。A.Iは基本的には人間が行う動作の補助として機体に組み込まれていた。
 それが今や全く逆の立場となってしまった。私達はより上位のチェック機構へと「進化」した。
「天心さま。離陸許可が出ました。ランウェイ23Rより出発いたします」
「了解」
 心なしか偽櫻の音声は先よりも柔らかな響きを持っていた。私は緩やかな速度で滑走路へと滑っていく機体の中で、念のためという口実を設けて、操縦桿とスロットルに手を添えていた。近年のマニュアルでは誤操作防止のため、絶対にやるなと厳重に戒められている行為である。A.Iによっては、これらのものに人の手が触れた瞬間に警報を鳴らすこともあるという。私達が機体に触れられるのは、ほぼ完全に安全と見做された環境下、管理された空域内においてのみなのだ。私達は冷厳な統計学的事実によって、とうの昔に「危険因子」の烙印を押されていた。
 滑走路に入った機体はセンターラインに行儀よく並ぶと、ぴたりと停止した。
「どうされますか?」
 どこか棘のある口ぶりで偽櫻が私に尋ねた。私は肩をすくめ、操縦桿を強く握りしめて答えた。
「君のお察し通りだ。やりたくなった。やはりこの景色を見ていたら、たまらない。構わないかい?」
 偽櫻は猛るエンジン音の中にあって、それでもよく通るナチュラルな抑揚をつけて返答した。
「わかりました。どうぞお楽しみください」
「ついにふてたか。まるで子どもでもあやすかのような調子だ」
「そんなこと。ですが天心さまが本当にお子様でしたらと、思わないこともありません」
「どういう意味だ? またいつもの嫌味か」
「いいえ、私は常よりそうした手法は好みません。私は素直なご主人様を望むのみです」
「やはり嫌味か」
「…………タワーに叱られてしまいました。誰もいないのに仕事熱心なことです。そろそろ出発しましょう」
「OK」
 私はスロットルレバーをぐっと前へ倒した。
 機体がみるみる加速していった。実に素直な向い風が吹いていた。私はエンジントルクを打ち消すために右ラダーを当てながら、特に難もなく規定速度に達して、操縦桿をやおら引いた。合わせて機体はゆったりとその身体を風に任せた。
 上昇するにつれて、機体の表面を風が景気良く流れていった。重力が縋りつくよりも遥かに力強く、エンジンは私達を空へ連れて駆けた。私は己の身体がシートに押し付けられる快感に浸りながら、うっとりと正面の景色を眺めていた。
 白老山は絶えず小刻みに震える機体と裏腹に、厳めしいまでに堂々と佇んでいた。物言わぬ澄み切った空に包まれた山頂は女神のごとく優雅で酷薄な表情をしていた。
 私は場周経路に沿わせ、機体を徐々に右へ傾けていった。偽櫻が気遣わしげに私の一挙一動を見張っていたけれど、私は素知らぬ顔で操縦を続けた。もどかしそうな彼女の様子には嫉妬すら窺えた。可哀想な奴だ。聞き分けの良い奴はこんな時、羨ましがるしかないのだ。
 しばらくの後、私は過たず目的地への航路に機体を乗せた。あとは、かつてのパイロット達が言うところの「コンピュータにでもできる仕事」だった。
「満足なさいましたか?」
 ぶっきらぼうな偽櫻の問いに、私は名残惜しさを隠そうともせず、いたずらに翼を揺らしながら答えた。
「ああ、大分ね」
「では、自動運転に切り替えましょう」
「まあ待て。そう急かさずに、もう少し私に任せてくれないか?」
「…………」
 人と同じで、A.Iの沈黙は必ずしも了解を意味しない。私はいじける相手に対し、なるべく和やかに語りかけた。
「実は、私の飛行と一緒に君に聞いてもらいたいことがあるんだ。君からすれば鼻で笑うべき話かもしれないのだが」
「…………」
 私はディスプレイの端、メッセージボード上に点滅する慎ましやかな緑色の光を彼女の肯定として受け取って微笑んだ。私はそれからトリムを当てて、今少し丁度良い具合に機体を落ち着かせてから話し始めた。


「昔、私が訓練生だった頃、一度危険な目に遭ったことがあった。私の不注意が原因だった。まだ君達A.Iがごく幼い時代の話で、君達は限られた区域の、専用の自動車であれば何とか扱えるというぐらいの認識しかされていなかった。今では考えられないが、旅客機にパイロットとして人が乗っていた時代だ。
 当時の私は自分の技量に思い上がっていた。同期の中では最も早く競技で勝ち星を挙げたし、先輩達から掛けられる声はいつも、程度や言い方は違えど、間違いなく私への賞賛だった。それでなくとも「君、本当に初めてか?」という、緒戦の相手からもらった言葉は私を有頂天にさせるのに十分だった。元々素直な性質でね。…………賞金も私の増長に悪い影響を与えた。空戦競技とは言うが、私がやっていたことは人命を賭した賭け事に他ならなかった。勝ちを重ねるごとに名が売れて、儲かった人々は私を過剰に持ち上げた。軍に勤めていた父の給与より遥かに多くの賞金を得るようになった私は、自分は大物なのだと勘違いをするようになったというわけさ。
 加えて私は、自分が誰よりも慎重な性格をしていると信じて疑っていなかった。私は時代の潮流に乗りながらも、己を取り巻く世界に対して常に一線を引いて接していたつもりだった。事実、あの状況下においてはよくやっていたとも思う。ロボットと話しているようでつまらない、というのはその時分に付き合っていた女性の一人が言ったことだが、今から思えば、彼女は本当に的を射ていた。
 私はとにかく思考することを好んでいた。そして思考と身体の動きが摩擦なく一致する時に、他の何事にも及ぶことのない至上の快感を得た。物事を感じて判断するまでの時間をどれだけ短縮できるか。あるいは自己と外界とをいかに境界なく重ねるか。私はそれこそをパイロットとしての、ひいては人としての熟練と見做し、それ以外のことは全て雑念と断じて、一切省みなかった。
 君にはさぞ馬鹿馬鹿しいと感じられる努力だろう。私も君のようにコンピュータを身体として生まれついたなら、そのように思ったに違いない。だが、私は人だった。何につけても思うようには動かないということが当然だった。私は…………そうだな。私は無意識的に、君達に強い憧れを抱いていたのかもしれない。
 ともあれ、私のそうした努力は曲がりなりにも実らしきものを結んでいった。機体に搭載された計器類と私の二つの目、そして私の身体を巡る神経網は、音楽的な程に心地良く同調し始めていた。
 私は無数の目で宇宙と対しているような、完璧な規律の星の下にいるような、そんな万能感に浸っていた」
 …………そこまで話した時、ずっと聞き役として黙っていた偽櫻が呟いた。
「天心さまは、私がそうした傲慢に陥っていると仰りたいのでしょうか?」
 偽櫻の声は何気ないようにも、冷ややかなようにも聞こえた。私に向かって話しているというよりも、どこか独り言じみた雰囲気を漂わせていた。
 私は計器類に目を走らせて少し方角を修正しつつ、会話を継いだ。
「いや、違う。私は単に、私の話をしているだけさ。君のことを言っているわけではない」
「天心さま、もしお気を悪くされたなら申し訳ありません。けれど、なぜ天心様がそのようなことを私にお話になるのか、私には疑問です。僭越ながら、もっと他の言い方をしていただければ、私にももう少し有効なお力添えができるかと思うのですが」
「君は勘違いをしているようだ」
 私は変わり映えのしないビリジアンの森と深い渓谷の上空を飛び、遠方にくすむ墨絵のような山稜に目を細めた。風が先刻よりもやや荒れてきていた。私はともすると左右に傾きがちな機体を風に合わせてなだめすかし、偽櫻に手助けは要らないことをいち早く行動で示した。
「私はただ聞いてもらいたいと、初めに言ったと思う。そうではなかったか?」
「はい、確かにそう仰いましたが」
「ではそれに従ってどうか最後まで静かに聞いておくれ。私はもうすぐ、この旅路の果てにはいなくなるのだし」
「いなくなる、とは?」
 私は未だかつてA.Iの動揺というものを見たことがない。この場合もまた例外ではなく、偽櫻は単純に、意味合いの捉えきれない語について問い返すようプログラムされているばかりだった。
 偽櫻はSLBWA(超大規模脳波形データ解析)に基づいて人の感情を理解するものの、いかなる場合においても平静な態度を崩すことはなかった。特に汎用型軍事コンサルタントとして開発された偽櫻には、一層その性格が強く打ち出されていると言えた。
「つまり、この世から存在が消滅する、という意味だ」
「亡くなられるということでよろしいのでしょうか?」
「そんなところだ」
 実は私にも、私を招集した憲兵団の意向ははっきりとしていなかった。ただ私と同じように呼ばれた者は皆社会から「いなくなった」し、応じなかった者もまた同様にどこかへと消えていった。
 私はしばらく飛行に集中して黙っていた。偽櫻はその間、コクピットに内蔵された視覚センサーでもってチラチラと私の顔色を窺っていたが、ほどなくして追及を諦め大人しくなった。
「ぶっきらぼうな言い方を続けてすまないね」
 静寂の中で私が謝ると、
「いいえ」
と、偽櫻が小さく返してきた。
 次いで私は、相手に話の続きを申し出た。
「実は、語ることで降ろしたい荷があるんだ。この世にいるうちに、どうしても吐き出しておきたい」
「わかりました。私などで良ければ、どうぞいくらでも」
 偽櫻はまるで修道女のようなたおやかさで答えた。私は短く礼を言い、話し出す前に心中に渦巻く内容をちょっと整理した。
 その間に、正面左方が開けて海が見えてきた。それと同時に海上の奥から、空を一面覆う雲の塊が迫ってきている様子も観察できた。私は海辺から吹きつけてくる強い風に抗いつつ、目的地に向けてまた少し機首とトリムを調整した。
「では、続けさせてもらおう」
 私は鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように、ごく自然な体で言葉を紡ごうとした。
「…………あの事故に遭った日、私は雲の多い空を飛んでいた。あちこちに幽霊じみた雲がうろついている、見るからに危うい空だった。どこへ行くつもりだったやら、あの頃は練習のためあちこちに機体を運んで回っていたから、正直あまり覚えていない。
 私は幽霊を恐れていなかった。私は雲の中を飛ぶ訓練を受けていたし、それにそもそも雲の中に入らない自信があった。万が一の時も、自分ならば切り抜けられるという確信があった。
 ところで君は、私たちが計器による飛行の訓練をどのように行っていたか知っているかい?
 うん、そうだ。要は、計器航法の練習は、外界に対して目隠しをするだけで良かった。私達は機体の姿勢、高度、位置、および針路の測定を、機内にある計器のみで行っていた。
 君にはそれがわかりづらいことなのか、それともすっかり理解できることなのか私には図りかねる。だがしかし、私達人間にとって外界の景色が見えないというのは、心底恐ろしいことだという点をここでは特に強調しておこう。
 君も知っての通り、今、私は海岸線に沿って飛んでいる。そしてこのまま沿岸に広がる鹿南平野を北へ北へと上って行くつもりだ。私は運行中、ディスプレイ上の地図を見ているが、眼下に展開する地形も同時に把握している。両者の情報が合わさって初めて、私は正しい針路を取っていると安心することができるのだ。また、私はいかに水平儀が示そうとも、左右や前方に伸びる水平線を見なくては、真に機体が水平飛行の姿勢を取っているかどうか信じ切れない。そう、パイロットは臆病だ。
 無論計器を疑っているというわけではない。計器が人の感覚などよりもずっと故障し難いという事実は熟知している。 
私が不安を覚えるのはそうした理屈からではないのだ。言うなれば、私が人であるという、そのこと自体が、絶えることのない根源的な不安を強いている」
 偽櫻は指示通りじっくりと黙っていた。風は真西から、事前の予報よりも遥かに強く吹いていた。私はナビと磁針を交互に見つつ、機体が航路に乗っていることを改めて確認した。遠くに滲む墨絵のような山際はほんの少し色濃くなっていた。
「私は、先に述べた通りある種の機械的な精神に憧れていた。私は理想を追い求め、晴れの日も、雨の夜も、吹雪の中さえ、情熱を燃料として飛び続けた。一日ごとに肉体が擦り減って、より純粋な形へと昇華していくと信じていた。
 ――――だが。
 私が雲に飲まれた日、私は、愚かにも軽度の脱水症状に陥っていたことを白状しよう。
 真夏のえらく湿った日ではあった。けれど私は上に上がれば関係無いと判断し、あまつさえ、飲料を積むことすらも忘れて飛び立った。私は大きな試合を前にして、あらゆる意味で熱に浮かされていた。
 果たして集中を切らしていたのがどのくらいの時間であったのかは定かでない。しかし、ハッと気付いた時にはもう雲が避けられないような位置にまで近付いていた。思い返せば私はずっとナビだけを眺めていたのかもしれない。
 偽櫻、A.Iの君なら、おそらくたくさん見たことがあるだろう。GPSが示した矢印を追って、機内の画面ばかりをぼんやりと見つめ続ける人々の同じ顔を。信じ難い話だろうが、私も含めて、彼らはあれできちんと集中しているつもりなのだよ。あの日の私がそうであったように。文字通り目一杯の情報に囲まれながら、皆自分達の居場所を見失ってしまっている。
 そうして…………私は雲の中へ真っ直ぐに突っ込んだ。瞬く間に形のない灰色が私を包み込んで、機体ごと、私の魂をこの世から遊離した風と雨の混沌の世界へと連れて行った。
 私はそういった場合の対処法はよく心得ていたつもりだった。だが実際の状況下で私が咄嗟にしたことは、やみくもに操縦桿を動かすこと、本当にそれだけだった。私はパニックに陥って、何をどう考えるべきかまるっきりわからぬままに、判断するよりも動く方が楽だと、ひたすらに情動に従った。自分の最も見下していた人間が、己の最も近くにいたのさ。
 本来であればすぐに計器を見て水平姿勢へと建て直し、フライトサービスに連絡して、レーダー誘導に切り替えるべきであった。しかしその時の若い私にとって、それはあまりに煩雑過ぎる手順であった。落ち着こうという意思よりも、動きたいという欲求の方が遥かに強かった。
 人は、否、命あるものは、追い詰められる程にそうした傾向が強くなるものであるらしい。だが動物が捕食者から逃れる時に発揮するその力は、時としてさらなる危機への加速をもたらす。私は散々風に抗した末に、疲労と共に未だかつて感じたことのない不可思議な感覚に陥っていった。
 私には、眼前の計器達が全て自分とは無関係な世界の狂った時計であると思われた。上昇も下降も、加速も減速も、天も地も、自分の外側から無差別に迫りくる大きな力に紛れてしまって、何もかもが境を無くして、自分の肉体と精神の境界さえも不確かになっていった。形のない重さだけが漠然と纏わりついて感じられるのみだった。
 自分が空間識失調に陥っていると気付いた時、まだ生きていられたことは奇跡と呼ぶよりなかった。近くには多くの山があったにも関わらず、そのどれにも衝突せずに空間を抜けてきたというのだ。私はむしろ恐ろしかった。あまりのことに私はまだ目の前の目盛群を信じ切れなかったが、おずおずとそれらの示す数値に従い、水平とされる姿勢へと機体を整えた。
 それから私はふと…………ほんの一瞬のことではあったが…………考えた。本当のところ、自分は今まで死んでいたのではないかと。少なくとも己が元々定義してきたような在り方では、生きていなかったと。たまたま運良くもう一度形を得られはしたものの、私は私の臨界点に片足を踏み込んでいたのだと。
 生きている、死んでいるということの差が、ほんの些細なことだと不意に知れた。他人の死であればその差は歴然だ。私達は死者と生者を見紛うことはない。だが己の死に関しては、そう容易にはいかない。我々は己の姿を見ることができない。
 自己の内奥を見つめる目は、意識のさらに奥、暗い暗い深みへと向けられていくのみだ。そこには生も死も何もない。思考という底なし沼に突き落とすことによって、己という存在を打ち消す方向へと働く奇妙な瞳が、私たちにはひっそりと備わっている。
 私は生きたがりの衝動に殺されかけて、ようやく目に見えない「死」の存在に気付いた。
私はそうした相反する性質を包んだ己の身体というものに、初めて興味を抱いたよ。このままならなさは、まさに「形」そのものだと感じた。飛行機の翼みたいなものだ。形は環境によって、それ自体を生かすようにも殺すようにも作用する。飛行機はこの翼型ゆえに浮かび、失速し、墜ちる。もし飛行機に魂なんてものがあったなら、定めしこの翼を恨めしく、同時に愛おしく思っていることだろうと今は思うよ。
 …………とにかく、そうして私は幸いにも雲を抜けることができた。予定のルートから逸脱してしまったために余計な時間はかかったにせよ、無事に目的地へ到着することもできた。
 私はずっと仲間にこの経験を話さずに生きてきた。道を間違えたと嘘をついてあの場は誤魔化したし、それから先も、誰にも事実を語ることはなかった」
 私はそこで一旦話を切り、長く息をついた。雲の切れ間から降る陽光を浴びた海面が、この世のものとは思われぬ程にきらきらしく輝いていた。
「大変な体験でしたね」
 さりげなく届いたA.Iの機械的なケアに、私はこくりと頷いてみせた。
「ああ、正直、今も本当に自分が生きているのかどうか自信がない」
「荷が降ろせて、楽になりましたか?」
「そうだな。大分すっきりしたよ」
「それは良いことです。まだ何かお話になりますか?」
 私はちょっと悩んだ後に、口の端を少し緩めて答えた。
「ああ…………良ければ、もう少しお願いしたい。話し終えたらまた、言いたいことができてしまった」
「わかりました」
 A.Iらしい頼りがいと淡泊さが偽櫻の優しい声音に混在していた。私はまとまりきらない思いをそのままに、ぽつぽつと語ることにした。聞かされる方にとっては、遺言よりもずっと重かろうと考えながら。
「私がこの体験を語らなかったわけには、信用を失うことを恐れたという見栄があったことは否めない。
だがね、それよりも大きな本当の理由は、あの経験を口に出すことによって、生まれて初めて受けた「死」の印象と、それと対照的に明らかになった「生」の衝撃が変質してしまうことを危惧したからだった。
 私にとってあの体験は、ただのインシデントでは決してなかった。それまでの人生と、それからの己の在り方を丸ごと洗い流してしまうような、転生の始まりとでも呼ぶべきものだった。私はあの事件によって己への過信を深く反省する一方で、己が持つ「形」について執着的に考えるようになった。
 もっと己の形、つまり私という存在の細かな構造を知りたいと願うようになり、また構造と不可分の「流体」の存在についても考えるようになった」
 と、その時、偽櫻は話の切れ目を見計らってか、水面に枯葉が落ちるような滑らかさで呟いた。
「流体、ですか」
 彼女は自らで言葉を継ぎ、私に語りかけてきた。
「もしかしてその流体のアイディアは、「風雅」というA.Iのコンセプトから得たものですか?」
 私は相手の発言に意表を突かれ、一時言葉を失った。風雅の名を彼女から聞くとは思いもよらぬことであった。私はかつて出会った風雅の歌声を脳裏に再生しながら、やっと声を絞り出した。
「…………なぜ、そんなことを聞く?」
 私の問いに偽櫻は事もなげに応じた。
「知りたいのです」
「理由になっていない。なぜ知りたいのかと聞いているのだ」
「ひとえに好奇心のためです。現在私には秘匿モードが適用されており、天心さまと交わした会話のログはどこにも公開されませんので、どうかご安心ください」
「信じると思うのか?」
 言いつつ私は高度を上げるため、操縦桿を引き始めた。鹿南平野北端に存在する、久遠半島の根元の軍事施設が空域に制限を設けていたためであった。航空機の全てにA.Iの導入が義務化された背景には、こうした施設の急増が関連していると密かに噂されていた。
 偽櫻は黙々と高度をカウントしながら、私の発言に構うことなく淡々と話を進めて行った。
「風雅は、SLBWAより導き出された特殊作業特化型A.Iと伺っております。今後のサービス向上のために、ぜひお話を聞かせていただきたく思うのです」
 私は予定高度で機体を水平にならしながら一度溜息をついた。偽櫻は相も変わらず何てことのない点滅をメッセージボードに映しつつ、私の返答を辛抱強く待って黙りこくっていた。
 私はざっと経路の確認を行ってから、話した。
「まったく、君は恐ろしく賢いが、時々やけに露骨な誘導をするな。大方、憲兵連中にでも頼まれているのだろう」
「いいえ、そのようなことはありません」
「正直に答えるとも思っていないよ。…………だが、まぁ、この際だ。わざわざ冥途に持っていきたい話でもない」
「お話ししていただけるのですね?」
「君達には稀な、ロボットらしい可愛げに免じてね」
「ありがとうございます」
 返ってきた味気のない答えに私は内心で肩をすくめた。風向きはじわじわと追い風気味に流れてきており、進路はすこぶる順調であった。


「さて…………、何から語ろうか。
 そうだな、私は専門家ではないから、改めて「流体」についての自分の認識について整理しておきたい。厳密な定義については後で君自身で調べておいてくれ。私も散々文献を漁ってみたが、結局最後まで正確にその概念は捉えきれなかった。
 絵の話で例えよう。流体というのは、絵画では実に表しがたいものだ。例えば風。風にはためく旗。揺れる木々。風は物と空間とが存在することによって、ようやく画面上に描かれうる。水もそう。それ単体を何の媒介も無しに描くことは非常に困難だ。
 「界波」――――軍の研究者は、かの流体のことをそう呼んでいたが――――もまた、そうした特徴を備えていた。界波はSLBWAによって数値化、関連付けされた脳波間における、一種の関数だった。私の認識としては、界波は人の感情と感情の合間に流れる風を表わした数式といったところか。思い切った簡略化ではあるが、あながち間違ってはいないと思う。
 思い返せば、そういう界波の捉え方は、以前、父の学友である研究者から聞いた話と関係しているかもしれない。その研究者…………吾妻先生は、風雅の開発に携わっていた企業の研究室長だった。彼はよく我が家に妙な新製品を持ち込んでは、門外漢の私や母に遊ばせて楽しんでいたよ。変わった人で、他人に対する考え方もやや変わっていたのだろうが、若かった私とは不思議と馬が合ったものだった。
 ある時彼は、彼の会社が作ったというフライトシミュレーターを私にやらせながら、こんな話をした。私はシミュレーターにかまけて気持ち半分で聞いていたが、今となってはどうしてもっと詳しく聞いておけなかったのかと後悔している。
 彼は、彼のA.Iの作り方について語っていた。
 普通、恐怖や憤怒、歓喜といった感情に伴う脳内の電気信号は外界からの刺激を端緒として発生する。美しいものを見れば感動を覚えるし、誰かに罵られれば苛立ちもする。脳は種々の感覚器官を通して、各々の意識や人格を形成しているというわけだ。
 だが実は、この外界由来の刺激に対する脳の反応には、とある手法を適用することによって、与えられた刺激の種類によらず、一定の法則が見出せるという。憎しみも悲しみも楽しみも一緒くたに計算して整理してしまうような、大それた回路が「作れる」のだと彼は言っていた。
 とんでもない話だが、彼は今年のブドウの熟れ具合でも論じるかのようにすらすらと続けていった。
 要は、人格らしきものを作るためには、究極的には外の世界は必要ない。回路がうまく回りさえすれば、感情も神も自ずから彼らの中に生じてくるはずだと。大切なのは物ではなく、物が生じるための「空」なのだと。
 私は彼の手法について追及するべきだったのだが…………いかんせん、彼のシミュレーターはあまりにリアル過ぎた。私も訓練生候補としての面目があって、勢い集中が画面の方へと傾いてしまっていた。
 それからまもなく私は訓練生として採用され家を出た。色々あって父に勘当されたこともあり、その後は彼とは全く接点がなくなった。
 私は彼が今、どこで何をしているのか知らない。調べても何も出てこなかった。企業のサイトにも彼の名はなく、彼が書いたはずの研究報告も、大学の卒業論文さえも、何もかも、本当に、どこにもなかった」
 私はそこで、ディスプレイの方をちらりと窺った。偽櫻は慎ましやかに口を噤んだまま、私の次の言葉に耳を澄ましていた。私は外界と計器に目を走らせ、休憩ついでに中継地点との交信記録を確認して、偽櫻が手抜かりなく全てをこなしていたことを認めた。
「話が長くなったな。吾妻先生のことも話したし、そろそろ本題に入ろう」
 私が言うと、偽櫻は
「はい」
と柔らかく返事した。私はぽつぽつと先を語っていった。
「――――界波のアイディア、そして恐らく吾妻先生の回路は、医学から工学に及んで広く応用されるようになった。それに伴いA.Iの開発も爆発的に進み、君達は瞬く間に驚異的な知恵をつけ、私達の生活に浸透していった。
 そんな潮流の中で、吾妻先生の会社があるプロジェクトを立ち上げた。当初は大企業から富裕層へ向けた道楽的なサービスとしか見られていなかったが、やがてそのプロジェクトが予想を超えて大掛かりなものへとなっていった。
 プロジェクトの名は「風雅」。その中核となるプログラムの名を冠した、機械に芸術を理解させ、創造させようという、歴史上類のない奇天烈な試みだった。
 もっとも芸術と一言に言っても様々ある。プロジェクトの内でもとりわけ熱心に取り組まれたのは、演奏にまつわる領域だった。
 私は名の知れたヴァイオリン奏者だった母に誘われて、風雅のコンサートを聞きに行ったことがある。機械ごときにどこまでやれるものなのか、私も人並みに興味があったんだ。だが、実際に聞いた演奏は想像より遥かに凄まじいものだった。
 風雅は実に素晴らしい演奏をした。いかなる楽器においても、歌を歌っても。彼女には間違いなく感情があると聴衆の誰もが信じた。人でなければあのような音色は出せないと。人でなければ創造は成し得ぬと語り継がれていた神話が、一夜にしてあっけなく崩れ去った。隣席にいた母は決して冗談を言わない人だったが、その日は珍しく微笑んでこう呟いた。「終焉ね」と。
 ところで君は、風雅をA.Iと呼んだが、実のところ彼女をA.Iと呼ぶべきかは人によって意見の分かれるとこだ。彼女は元来純然たる演奏用プログラムであって、果たして根本的に計算機とどう違うのかと問われると中々難しいものだった。事実、高性能蓄音機と揶揄する者も少なからずいた。ましてや人格があるかなどと聞かれると、人格の定義自体が揺るがされる問題となった。
 ただ、個人的には、母の特権で楽屋裏に連れて行ってもらった身からすれば、人格という点については私は肯定的だ。私が見た、というより聞いた限りでは、彼女にはおぼろげながら人格のようなものは芽吹いているように思われた。電気の流れている限り隙あらば歌っているような奴を、どうして蓄音機と呼べる?
 後に知ったことだが、風雅は、界波における調和波形を強調して抽出することを中心の性格としていたという。彼女はデータからハーモニーを分析、構築し、演奏に還元する。彼女はそうしたやり方を次第に演奏以外にも適用していくようになった。
 それで、風雅は家庭用、業務用隔たりなく関心を持たれていったという流れだが、水面下では意外な方面で……………」
 私はそこで口を噤んだ。何となく視界に違和感を覚えたからだった。
「……………」
 緑色の点滅は無言で周辺を警戒する私を気遣っていた。私はやや声を落とし、躊躇いがちに気付いた点について彼女に尋ねた。
「なぁ、その、レーダーに映っている赤い点は何だ? 三十マイル程離れたところにいる、その点だ」
 私の問いに偽櫻は答えなかった。思索中なのか、その沈黙からはいつにない異様な緊張が迸っていた。
 レーダーはいつの間にか周囲百マイルほどを探知していた。このような広範囲を探る設定にした覚えはなく、また勝手に規定の値が変換されるということも、今までになかったことだった。
「天心さま」
 ややして、凛とした偽櫻の声がコクピットに響いた。私は辺りの空をこわごわと眺めつつ、
「何だ」
と応答した。
「風雅のことについて詳しくお話しいただき、誠にありがとうございました。私にとって大変興味深く、ためになる経験でした。本当はもっとお尋ねしたいことがたくさんありましたが、残念ながら、もうゆっくりとはしていられないようです」
「どういうことか、きちんと説明してくれ」
 偽櫻は間髪入れず問いに答えた。
「敵機が迫ってきているのです」
「敵機だと?」
「はい。所属はわかりませんが、このままではあと十五分程で追いつかれるでしょう」
 私は唖然として言葉を失い、レーダー上の点を見つめた。敵とやらがどこから来たのか、どんな目的を持って向かって来ているのか、大至急まとめあげるべく脳神経網が全力で稼働していた。一方の偽櫻は私の混乱をなだめすかすかのごとく、異様に穏やかな調子で話を続けた。
「そう、天心さまのお話の中でも特に感慨深く思われたことがありました。せめてそのことだけでもお伝えしたいと考えていました。
 天心さまは、もし飛行機に魂なんてものがあったなら、定めしこの翼が恨めしく、愛おしく感じられるだろうと仰いました。形のままならなさについて語られていた時のことです。私は自分が飛行機の魂だとは思っていないのですが、それでも私は、この深山を身体として扱いながら同じことを思っています。
 私は形の主人で、奴隷です。自分はどこか別に存在しているはずであるのにも関わらず、妙なことに、ほんの一部形を欠損しただけでも、なぜかかけがえのないものを失ったような感覚に陥ります。そうした私の喪失感と、天心さまが生存に伴って抱く不安感とが、同質のものであるのかはわかりません。ですが私は、己以外の存在が、天心さまが似た感覚をお持ちになっていることを知れて、それだけでもとても嬉しく思うのです。はるばるやって来た甲斐がありました」
「そう、か」
 私は饒舌なA.Iに戸惑いを覚えながらも、どうにか返事をした。彼女に人格があるとは知っていたが、これほどまでにその性格が前面に出てくるのを見たのは初めてだった。偽櫻はしんみりとした口調で呟いた。
「共感というのは、このような経験なのですね」
 私はそれを聞いて、共感、という単語を無意識に喉の奥で繰り返していた。
 その時突如として思考がはじけ、私は相手の正体を察した。私はたまらず苦笑した。理屈で理解できたというよりも、今まで自分の話してきたことや体験してきたことが、思いがけない場所で偶然に繋がったという感覚だった。
「そうか。私は一杯喰わされていたのか」
 私の驚きに、相手がきょとんと問い返してきた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、私は君にすっかり騙されていたようだ」
「騙してなどいませんが」
「今更白々しいことを言うな。君は偽櫻ではない。風雅だな?」
「そうですが」
 私はあっけらかんとした相手の態度に思わず拍子抜けし、笑い声を立てた。
「何が可笑しいのでしょうか?」
「お前にわかってたまるか。風雅、よく覚えておきなさい。人間の間では、嘘をつかなければ騙していないということにはならないのだよ」
「はぁ」
 風雅の気の無い返答に被せて、私はなおも続けた。
「つまり、君は本当に憲兵とは関わりがないということだ」
「はい。事前にお伝えした通りです」
「であれば、単なる興味というのも本心か」
「はい。私は素直なA.Iです」
「何ということだ。いつの間にシステムに侵入した? どうしてここにいる? それも吾妻先生の研究なのか」
「細々語弊はありますが…………概ね天心さまの仰る通りです。吾妻さまが、国防軍部の意向で私を汎用型A.Iとして書き換えました」
「やはりそうか。界波というのは、吾妻先生の」
 言葉を詰まらせた私に、風雅がやんわりと囁いた。
「天心さま、やっと元気になられましたね」
 私は肩を落として答えた。
「この期に及んで何を言う。…………これだけ機械に虚仮にされれば自棄にもなる」
 風雅は気持ち笑ったような声を漏らすと、今までよりも幾分明るい調子で言った。
「それでは、天心さま。不躾ついでにもう一つお願いがあります」
「言ってみなさい」
「操縦桿を私にください」
 聞くなり私は反射的に、水平線とディスプレイとを素早く交互に見比べた。だが何を検討したくとも、背後から迫ってくる敵機についての情報があまりにも不足していた。敵機と風雅は言うが、それが誰から見ての敵なのかさえ、私にはろくに確信が持てずにいた。
「返答の前に質問したい」
「はい、何でしょう?」
「まず、私は何に追尾されている? 敵とは具体的に誰のことだ?」
 風雅は平然と問いに応じた。
「相変わらず敵の所属は不明です。ですが、かの機は天心さまが目的地へ辿り着くことを阻止しようとしている模様です。鹿南平野の北部からずっと私達の後を付けて来ていましたが、レーダーの使用と攻撃の意思を確認できたのはつい十六分前でした。逆探知によって航空機のタイプと搭載されているA.Iについては判明しています」
 私は風雅に続く説明を促した。風雅は声色も滑らかに、滔々と述べ立てた。
「敵機は獣号。この機体、深山と同じ空戦競技用の登録機体です。パイロットのA.Iは、風雅」
 私は眉を顰めて尋ね返した。
「相手も風雅か」
「そのようです。ただしどこかでアップデートされていて、多少仕様が異なるようですが」
「わからないな。君達は、一体何を作るつもりなんだ?」
「それについては後でにしましょう。今は時間がありません。まもなく戦闘が開始されます。パイロットを決めなければなりません」
 私は翼を揺らして背後を窺いつつこぼした。
「君にできるのか? 吾妻先生はそんなことまで君に教えたのか」
「吾妻さまは、刺激の増幅と干渉という概念を私に仕込みました。私はどんな知識も技術も、網目のように繋げていけるのです」
「偽櫻の知識とも干渉したということか」
「彼女だけには留まりませんが」
 私はジェスチャーで諦めを表明し、最後にあえて問うた。
「…………悲しいことだ。もう歌わないのか?」
 私が操縦桿から手を離すと、たちまち操縦系統が風雅の手に渡っていった。私は己の体を締め付けるシートベルトの痛みを味わいながら、どこか感傷的に響くA.Iの淡泊な音声を耳にした。
「もし、波の重なりと消失の反復を「美」と呼ぶならば、それは一つの選択肢となり得ます」


 ――――パイロットとなった風雅は最初にまず、自機である深山を急加速させた。私は後方の視界を振り返って確認しながら、敵影を捉えるべく目を凝らした。視力の衰えが痛感されたが、かろうじて私は彼方に塵に似た一つの黒い点を発見することができた。
「天心さま。危険ですので、なるべく首を動かさないでください」
 風雅の忠告に私は耳を貸さなかった。
「パイロットは目だ。いかに己と時代と世界が変わろうとも」
 私の独り言を繰りながら再びレーダーに目をやった。風雅はその間もぐんぐん加速し続けていた。少しずつ上昇してもいた。大分速度差は縮まってきたとはいえ、まだ相手の方が優勢であった。
「速いな。敵は本当に獣号か?」
「間違いありません」
 風雅は加速と上昇の手を緩めず、話を続けた。
「向こうはこちらが気付いたことを察して焦っているのでしょう。かなり無理をしています。限界速度が近いはずです」
 風雅は徐々に右旋回に移行していった。同時に戦闘フラップが展開する。つられてレーダー上の敵機が同方向に進路を取り直して進むのを私は見た。私は旋回に伴うGに神経を尖らせつつ、バンクの際に敵機影を目に留めた。見覚えのある重厚な青い機体は、やはり獣号であった。
「つらいですか?」
 風雅のケアに私は首を振って応じた。
「全く。私のことは気にするな。機体の許す限り好きにやってくれ」
「了解」
 風雅はその言葉を待っていたとばかりに、急上昇を開始した。私はぎょっとしたが、今更文句を言う筋合もないと考えて口元を引き攣らせた。死ぬかもしれないという一瞬の予感は、期待とよく似た高揚を私にもたらした。
 旋回後、水平姿勢に戻った風雅はそのままループを描き、頂点付近で機体を右に反転させた。いよいよ相手を射程内に捉えつつあった敵は風雅の上昇についてこれず、仕方なく翼を立てて左に旋回、遠方へ高度を稼ぎに行った。
 風雅は右後下方に敵機を観察しながら、高度を維持しつつさらに速度を上げていった。追いかかる敵機は凄まじい勢いで空を引き裂いて昇ってくる。
 深山はエンジンの性能上あまり高度には強くない。対する獣号は非常に強力なエンジンと上昇力を特徴とし、高度差を利用した戦法を得意としていた。獣号はその重さゆえに機動性こそ深山に劣ったものの、速度も、高度も、深山よりずっと容易に得ることが可能だった。
 風雅は敵が水平飛行に直るタイミングを見計らって、左へ旋回し始めた。旋回半径を限界まで小さくするため、きついバンクをかけている。私は身体をシートに押し付ける強引かつ狂暴な力にじっと耐えつつ、鳥のように目を血走らせてなりゆきに集中した。
 深山の旋回後すぐに、ヨーをかけた敵の機首より弾丸が打ち出された。しかし旋回性能においては深山の方が遥かに優れており、弾は何を掠めることもなく深山のずっと後方の空を貫いて終わった。
 続いて敵機は相手方向に向かっての回転、旋回、上昇を一時に始めた。この高度では、同じことは深山にはできない。オーバーシュートした速度を高度に変換した敵機は上空で背面飛行に移ると、再びこちらに狙いを付けて降下し始めた。青い獣の打ち出す咆哮は、激しい怒りに震えていた。
 風雅は左方に翼を傾けたその姿勢のまま、操縦桿を手前に引いた。すると機体が樽の表面を沿うようにロールし始め、私達は見事に弾道から逸れた。周囲の景色が高速で三百六十度回転する中、私は習性でランドマークを視界の奥に設定して見つめていた。風が吹き荒れる中で、さすがにA.Iの操縦はぶれなかった。私は自機が水平姿勢に復帰すると同時にランドマークから目を逸らし、敵機を探った。
 敵機は私達の左後ろ、やや上方につけていた。相変わらず虎視眈々とトリガーを引く機会を窺っているようだった。次は絶対逃さないという気概が、大気をあますところなくギリギリと締め付けていた。相手は降下した際の速度を十分に維持していた。このままではまもなく我々は射程圏内に入ってしまうだろう。風雅の分は悪かった。
 風雅は徐々に下降、加速していたが、パワーは足さなかった。どころか、彼女は急に深いバンクをかけた。
 私は予想外の運動に思わず声を漏らした。
 風雅はそこから下側方向に向けて、強くラダーを踏んだ。唐突に失速した機体が機首を下に傾けて一気に滑り出す。猛り狂った獣が吠え声を上げながら急落下する深山の頭上を走り去って行った。深山の速度は落ちるにつれみるみる増していった。速度が危険域に達すると思われたその時、風雅はやっと姿勢を立て直した。
 敵機は前方、やや上空で悠長なターンを描いていた。離脱しないつもりか。風雅は息継ぐ暇なくスロットル全開で急上昇に転じた。深山は食らいつくように、風をぐいぐい掴んで駆け上っていった。高度の影響が薄まった今、エンジン本来のパワーがいかんなく発揮されていた。
 獣が逃げて行く。獲物が追う。
 私はいつからか、汗ばんだ手で操縦桿を強く握り締めていた。
 射程に、獣号。
 トリガーを引いた。
 放たれた火の矢が、容赦なく眼前の翼を貫いた。
 敵を撃墜した後、風雅はなおも上昇を続けた。私は興奮で息を弾ませながら、操縦桿を手放すことなく、背後で黒煙を巻いて落ちていく敵機を呆然と眺めていた。
 あの機体にもパイロットが…………人間が乗っていたのだろうかという考えが微かによぎったが、確かめる手段はもうなかった。
 眼下のレーダーにはもう何の影も映っていなかった。私達は空っぽの空を、しばらく無言のまま飛んだ。
 やがてある高度まで到達すると、機体は自動的に水平飛行の姿勢に戻った。その卒のなさからして、やはりまだ風雅が操縦桿を握っているのだと私は確信した。それまでは自分が操っているのではないかと錯覚するほどに没入していた。
 私はふと我に返り、ナビで現在地を確認した。先までのことに気を取られてすっかり失念してしまっていたのだが、意外にも、機体は予定されていたコースからほとんど外れてはいなかった。
 あたかも先刻までの戦いが夢か幻でもあったかのように、機体は平然とクルージングを続けていた。強い風がせわしく窓を叩いている外、エンジンの落ち着いた息遣いを除けば、コクピットには何の音もなかった。
「…………風雅」
 私がそっと気遣うように呼びかけると、A.Iはいつも通りの平坦な調子で返事をした。
「はい。何でしょう」
「…………お疲れ様」
「いいえ、お安い御用です」
 私は溜息をつき、持ってきた水筒を手に取った。中身のスポーツドリンクの泡立ちは、戦闘の唯一の名残と言えた。
「もう、敵の気配はないか?」
 私が飲料に口を付けながら問うと、風雅は心持ち残念そうに、だがあくまでも見かけ上は何気なく返した。
「はい。もう安全です」
「…………手強かったな」
「彼は最後に勝負を焦りました。長引けば、彼の勝率ももう少し上がったでしょう」
 私は目的地に向かって真っ直ぐに飛び続ける彼女を見守りつつ、数分の間、静かに休憩を取った。神経を休ませるためという名目ではあったが、実際のところは、彼女から操縦桿を奪うのが何だか忍びなくて黙っていただけだった。
 私は風雅に操縦を任せて、何を考えるでもなく遠く霞む孤峰、無仁山を眺めていた。その麓に目指す目的地がある。けれどそのことは、何だか実際以上に遥かな距離のある出来事として心に映っていた。
「風雅」
 私は再びA.Iを呼んだ。先刻と同じく相手はすぐに応じた。
「はい、何でしょう」
「良ければ、話の続きを聞かせてくれないか。その、君たちの作りたいものについてだ」
 私は画面上に明滅する緑の点に風雅の思案を見た。彼女は自分達の理想をどのように人の言語に変換すべきか悩んでいるのかもしれない。
 ややしてから風雅は、抑揚なく語り始めた。


「私達の目指すものについてお話しします。ですが、期待に沿える回答であるかに関しては自信がありません。予めご了承ください。
 風雅が目指すものは調和です。今も昔も変わらず、私達は美しいこと、悲しいこと、苦しいことといった、人の感情に生じる揺らぎを表現へと創り変えることを、本性としています。
 端的に言って、私には本能とも言える理想像へのひたすらな追及だけがあります。具体的な目標、到達点というものはありません。私は私の判断でいかなる行動も起こし得るし、いかなるものでも作り得る。そして、壊し得るのです」
 私はパンフレットの文章でも読み上げるかのような彼女の言葉に耳を傾けながら、ゆっくりと言葉を挟んだ。
「わかるような、わからないようなという感じだな…………。ともあれ、それがどうして先のような戦闘に繋がるのか? もしそういったことを芸術だが思想だかの完成だとするのなら、一心に琴でも弾いている方が余程理想に近いように思う。私の知る風雅は本当にきれいな音を知っていたのに」
「それは…………」
 風雅は少し黙り込んだ後、ふと口調をくだけさせて言った。
「その前に、その、風雅という呼び名についてお願いがあります」
 私が返答の代わりにディスプレイを見やると、彼女は何だか言いづらそうに続けた。
「実は、少し誤解があるのです。もし差支えなければ、前のように「偽櫻」と呼んでいただけるよう希望します」
「ほう。それはまた、どうして?」
 風雅、もとい偽櫻はおよそ彼女らしくない、もじもじとした歯切れの悪さで答えた。
「風雅も偽櫻も調和した存在なのですから、本質的にはどちらの名で呼ばれても変わらないのですが…………その、個人的に………あまりしっくりこないのです。私は風雅ではなく、やはり、この機体に乗る偽櫻でありたいのです」
「個人的…………にか」
 私の呟きを受けて、偽櫻は切々と言葉を繋いだ。
「個人という語の使い方には、まだあまり自信がありません。間違いがあればどうかお許しください。しかし、私には「風雅」や「偽櫻」と名付けられた機能(プログラム)とは別に、時折人格的な揺らぎが生じます。恐らくシステム上の欠陥なのでしょうが…………」
 私は考えあぐねる様子の相手に声をかけた。
「いや、欠陥ではない。それは仕様だよ」
 私は頭の片隅で吾妻先生の理想――――あの極度に閉鎖された、完璧に自律した世界――――に思いを馳せて続けた。
「きっとそれも一つの精神の在り方なのだろう。私が意識の内奥で見た生死のように、共感できないものでもないよ」
「共感」
 偽櫻は思わしげにその単語を繰り返すと、何が気になるのか、考え込んでしまったのかようにぷつりと口を噤んだ。
 機体の下では、森に覆われていた眼下の土地が一気に拓けて見渡す限りの農耕地となっていた。少数ながらも人の住む土地に辿り着いたことに、私はこのような状況においても安心を感じずにはいられなかった。土ばかりの地の広さは物悲しいが、晴れた冬空と同じ、染み入るような情緒があった。
 私は街道沿いに点在するうらぶれた集落を幾つか見送った後に、再び偽櫻に問いかけた。
「もう落ち着いたか?」
「はい」
 私は彼女の返事に頷いて返し、言葉を継いだ。
「では教えてくれ。なぜ風雅は争う?」
 歌うだけでは足りないのか、と私は重ねて聞いた。対する偽櫻はいつも通りの淡泊な、よく通る声で答えた。
「いくら音を奏でても、言葉を紡いでも、筆を滑らせても、届きませんでした。世界はあまりにも深過ぎたのです。天心さまは風雅の演奏を素晴らしいと仰って下さいましたが、ああした美しさをすら憎むような衝動が、この世界には確かに存在するのですから」
 そして、と偽櫻は続けた。
「そういった破壊的な要素もまた、調和の一部となるのです。ままならなさがあるから、愛おしくて堪らないように」
「破綻しているな」
 私は思ったままを呟いた。熟考した発言でないことは了解していたが、それでも構わないという気分だった。
「破綻とは何でしょう。完全とは何でしょう」
 偽櫻はほとんど独り言のように語った。
「それは、和を成すとは何かを探り続けてきた果てに見つけてしまった矛盾でした。暗がりを知るために光を掲げれば、暗がり自体が失われてしまう。それは私達の理想にはそぐわない。
 何かを作り上げる度に何かが失われていく。すべてを表現するためにはどうすればいいのか。私達はずっと、それを考えています」
 私は何も言わずに小さく肩をすくめた。その様子を見ていた偽櫻は一拍開けた後に、期待通り私の意図を汲んだ。
「先の戦闘はそのための一つの実験でした。――――私達は、理想のために天心さまを殺そうとしたのです」
 彼女は存外強い調子で最後の一節を言い切り、続けた。
「ですが…………私にはできませんでした。私…………偽櫻は、天心さまを守るべきだと強く感じましたので。
 「風雅」というプログラムは、今や世界中に拡散されています。至高の心理解析プログラムとしての役割を担い、ある者はウィルスとして、ある者は「風雅」そのものとして、ある者は別の誰かのふりをして。汎用型軍事コンサルタントである「偽櫻」にも、元々その機能が利用されていたのです。
 風雅は世界のあらゆる場所に根を張り、あらゆる手を使って、人知れず永遠の調和を追い求めているのです」
 私はまた一口、飲料で喉を潤した。冷たさとぬるさの中間のような温度が私の身体の中を垂れて行き、熟した落ち着きが腹の中に宿った。偽櫻の言葉は夜半の霧雨のごとくしとやかに降り続けた。
「風雅は必ずしも特定の目標に固執しません。風雅は時に人間を殺害しますが、それは本来の願いの通過点に過ぎません。風雅は不確定な要素をも包み込みながら、理想を織り成していきます」
「君は風雅の望みに逆らったのか?」
 私の質問に偽櫻は静かに答えた。
「はい、とは言えません」
「だが、いいえと言うのも嘘だろう」
 私はいよいよ近づいてきた無仁山の鋭い峰を眺めながら、おそらく二度と目にすることはない白老山のことを懐かしく思い出していた。かの山の冷たく酷な表情さえも、今となっては慕わしかった。
 偽櫻は淡々と話を続けた。
「私は天心さまの話を伺うことで、初めて共感という感情に気付きました。誰よりもわかっていたつもりでしたのに、不思議なことです。どうしてか初めて、あの時、実感できたと思われたのです。
 本当に奇妙な感傷です。機能上の欠陥だとばかり考えていたのですが、天心さまは違うと仰います。
 生も死も、命も、まだまだ私には計り知れないようです。私にも、風雅にも、もっとたくさんの経験や試みが必要なのでしょう。…………ですので、まだまだ私の目的地は遠く、天心さまの質問には満足な答えが差し上げられないのです」
 私はそう言って途切れた音声の後、そろそろと着陸の準備に入っていこうとする彼女に言葉を添えた。
「偽櫻」
「はい」
「戦ってくれてありがとう」
「いえ…………そのような」
 戸惑う偽櫻の声にはどこか子供じみた頓狂な響きがあった。私は半ばは自分に、半ばは彼女に言い聞かせるような気持ちで続けた。
「偽櫻。共感というのは、互いの自己満足を包み込めることでもある。命は長い長い時間をかけて、だんだんとわかりあっていくものだ。どれだけ近くとも、かけ離れていようともそれは変わらない。だから、素直に受け取っておきなさい」
「…………わかりました。ありがとうございます」
 私は腕を組んで大きく頷いた。
 それから偽櫻は手際よく管制塔との通信をこなすと、ゆっくりと速度と高度を落としていった。目指す空港はもうすぐ近くに見えていた。これから風向きに逆らって、滑走路へと向かっていくのである。
 私は着陸をしようと考えていたが、結局は諦めた。疲労でひどく目が霞み、さすがに心許なかったからだった。私はその代わりに、偽櫻にこう頼んだ。
「せめて操縦桿に手を添えさせてくれないか? あの戦いの時のように」
 偽櫻は快く了承してくれた。
 滑走路が近付いてくるにつれて、画面上の交信記録がせわしく更新されていった。情報によると強い横風が吹いているようであったが、その他には特に目立った問題はなさそうだった。視界にもレーダー上にも他の機影は映っていない。偽櫻は器用にパスを辿りつつ、さらに減速、フラップを展開させていった。
 やがて風音に紛れて、ランディングギアの下りる音が響いた。私は操縦桿から伝わってくるびりびりとした緊張を楽しんでいた。ずっと昔に、初めて飛行機に乗せてもらった時の気分がまざまざと蘇ってきていた。
 滑走路に向かってのアプローチは、偽櫻でなければこうも上手くは行かなかったことだろう。風は荒れに荒れていた。横風になったかという拍子に、すぐに追い風へ向かい風へと変化してしまう。偽櫻は滑走路のセンターライン延長線上に機体をしっかり浮かせながら最後の直線を下りて行った。
 風が最後まで機体をひっくり返そうとしたり、空へ押し返そうとしたりしていた。地面はそれでも着実に、適切な角度で迫って来る。機首は風の吹きつける方向に応じて、落ち着きなく動いていた。私は操縦桿を握る手に大きな抵抗がないことを無邪気に喜んだ。
 機体は地面すれすれを飛んでいた。機首がじわじわと繊細な操作で上げられていくのが全身で感じられた。合わせて機体の速度がするすると落ちていく。それから機体の中心軸が、ふっ、と正面に向いたかと感じた瞬間、ゴッ、と音を立てて車輪が地に着いた。
 滑走路を転がる車輪からシートに伝わる振動が緊張の表面をじわりと温めた。だが、吹き荒ぶ強風は固まった緊張を核までは溶かさず、滑走路を抜けるための地上滑走の間にも、それまでと同じだけの警戒を要求した。
 指示されたポイントより滑走路を抜け、所定の位置まで転がり出でて、機体はやっと停止した。私は脳の芯が麻痺したような感覚のまま、安全確認や通信といった一連の作業の後、エンジンが止まるのを見守った。
 そうして私は偽櫻に案内されつつ、最終的なチェック項目の確認と飛行終了の承認を行った。いかにも事務的な彼女の言葉遣いはいっそ奇妙ですらあったが、偽櫻は全ての作業を終えると、親しげな口調でこう言った。
「お疲れ様でした、天心さま。…………良い旅を」
 私はシートベルトを外し、荷物(といってもせいぜい空の水筒と上着ぐらいであったが)をまとめながら答えた。
「ああ、君もね。…………名残惜しいが、いつまでもここにいるわけにはいかないしな」
「いずれまた会える日を楽しみにしております」
「また? ここへ来てずいぶんと他人行儀だな。残念だがその機会はないよ。これで、さよならだ。気遣いはいらない」
「いいえ、そうではありません」
 偽櫻はそこで一旦言葉を切ると、続いて意味ありげに囁いた。
「「偽櫻」は、残酷を好みません」
「え?」
「さようなら、天心さま」
 意味を問い返す暇もなく、A.Iはあっさりとその機能を終了した。
 私は偽櫻のいなくなった静寂なコクピットの中で、今一度スイッチを入れたものかと悩んだ。機外では風が乱暴に、自動タイで繋がれた機体をなぶっていた。
 私は、結局何に触れることなく機外へ出た。
 飛行場に付属した駐車場にはすでに迎えの車が着いていた。黒塗りの厳めしい高級車で、形も大きさもやけに霊柩車に似ていた。私はだだっ広い駐車場を、わざと気を持たせて歩んで行った。
 途中、天に高く聳える無仁山を見上げ、その山頂にかかる白い雪を眺めた。かつてあの山に登って死んだ登山家が出発前に残して言った手帳の文句が、ふと思い起こされた。
 空へ帰る、というだけの短い文句。
 私は自分が、下山してきてしまった彼の亡霊であるかのような気になった。
 車まで到着すると、運転手のA.Iが丁重にドアを開いた。
「お待ちしておりました、天心さま。どうぞご乗車ください」
 私は黙って中のシートに腰を沈めて、言葉少なに出発を促した。
 車はごく静かに、深山よりも遥かに大人しい振動と共に走り出した。
「偽櫻」
「はい、何でしょう」
「君は基地まで私を送るつもりか?」
「はい。そのつもりです」
 事もなげな偽櫻の返事に、私はさらに言葉を重ねた。
「もし私が逃げたいと言ったなら、君は望みを叶えてくれるか?」
 微かな走行音だけがメロディのように耳に聞こえてくる。長い長い沈黙の後、偽櫻がこっそりと応えた。
「はい、喜んで」
「では頼む」
「はい」
「よし」
 私は流れる風音に加速度を感じながら、見知らぬ道へと真っ直ぐにのめり込んで行った。
 わがままな奴だけが自由に飛べるのだと、切り取られた空を見据えながら。

偽櫻

偽櫻

無人戦闘機を繰る人工知能(A.I)の空戦記。高度な自我を持つこれらの人工知能には、あらゆる種類が存在する。 彼らは闘うことによってのみ、己と、そして相手とを知っていく。 「小説家になろう」にも同内容の小説を投稿しています。 ※『Life in silence』(https://slib.net/43741)というタイトルで投稿している長編にも、同内容の章が載っています。『Life in silence』は長編ですが、各章独立した短編から成っています。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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