目
夜も更けてきたころ。
いつものように終業時刻を大きく遅れて職場を出た彼は、最寄りの駅までの道を行きながら、ふぅ、と大きなため息を一つ。
その目には生気は無く、夜の街を照らす人工の明かりが反射されるのみです。
終電に乗り、彼は何気のないしぐさで携帯を取り出すと、メッセージが一つ。
新着メール一件：3年9組同窓会のお知らせ
彼はそれを確認して、また大きなため息を一つすると、冷めたコーヒーの缶をあおるのでした。
夢は、あったのでしょう。
けど、それは知らない間に見えなくなっていたのです。
物語のようにひたむきで、人に愛され、人を愛し、何気のない幸福の中に日々を過ごす。
そんな生活を夢見たまま、多くの時が過ぎました。
そこに夢見た日々はなく、あるのはただ、終電の窓から見える夜の街の光だけです。
彼のいつもどおりの一日も、モノクロな景色のままに過ぎ去ろうとしていましたが、どうやら今日は違うようです。
いつもは誰も乗ることのない電車に、今日は珍しいお客が一人。
年は10代のなかばでしょうか、彼の時間には似つかわしくない少女が一人、彼の座る正面にちょこん、と腰を下ろしました。
家出だろうか、と彼は思いましたが、自分には関係のないことだ、と彼は無視を決め込むことにしました。
しかし、その子はどうも自分の顔を、それも目を見てきているように思われました。
試しにすっ、と目線を彼女になげると、ぴたっと目線が合います。
すっ、ぴたっ。
他に人のない深夜の電車のことです、彼は少し不気味になって、少女に何か用かと尋ねました。
すると少女はやっぱり彼の目を見ながら、あなたは目が見えないの、と不思議そうに尋ね返してきます。
なんと失礼な。別段目に不自由したこともない彼は少女に怒りをあらわにします。
少女はふっ、と鼻で笑って、
うそよ、だってあなたの目は暗いもの。
騒ぎ立てるヤカンにふんわりミトン、チョコレートアイスにアップルパイ、紅茶に入れる角砂糖やかわいいてんとうむし。
あなたの目には見えないの？
少女はそう言い残し、気づくともうそこにはいなくなっていました。
彼はまくしたてる少女に少しの間ぽかん、としてから、ふっ、と頬を緩めました。
なるほど、幸せというものは案外、部屋の隅に積まれたMDとか、空を覆うぐちゃぐちゃの電線とか、中身のない丸い金魚鉢とかにあるのかもしれない。
彼はそう思って、飲み干した缶をくずかごに投げ入れると、また家への道を歩き出しました。
目
あなたの目も、ほんの少しだけ、よく見えるようになりますように。
