足跡は消える

“大人”への墜落

「おおきくなったら、警察官になるんだ。」

そう言ったときの自分自身を信じることは、間違っているのだろうか。


7才のときに警察官になりたかった理由は、公務員で安定しているからではない。
悪いことをした人に対して、「だめだ」と言う姿がかっこよかったからだ。
間違ったことをしたときに、「間違っている」と言える大人になりたかったからだ。

今、僕は、「公務員である警察官」になるよう、指導されている。


予備校が終わり、自転車に乗って家へと帰る道で、少し遠回りをしたくなった。
わざと回り道をして帰るため、河川敷の方へと向かった。
夏がもうすぐ完全に消えようとしている。顔にかかる空気が少し冷たい。


無心で自転車をこぐ。
一本道。街灯はほぼない。


この町に帰ってきたのは、6か月前。
生まれ育った町は、いつでも迎え入れてくれると思い込んでいた。
しかし、ここはもう僕が知る町ではない。

町もまた、町が知る僕じゃなくなっていることに気づいている。


僕は、大人へと墜落したのだ。

奪われた傘

朝5時。

目覚まし時計の音が鳴ってから
ちょうど5秒後にその音は止められる。

ぺたぺたと階段を裸足のまま降りる音。
台所でコップに水をくむ音。
それを一気に体内へと流し込む音。
トイレが流される音。

そのあとに聞こえる音は、
きゅっという地面とシューズがこすれる音のはずだった。


聞こえるはずの音の代わりに、鈍い音が聞こえた。


なにかにぶつかったのだろうか。
それとも、なにかを落としたのだろうか。

どちらにせよ、良い音でないことは確かだった。


連日の夜勤によって眠さの限界を
通り越していたわたしは、再び目を閉じて、
夢の中へと身体を運びこむことにした。


夢の中でわたしは、水たまりにつかっていた。
とても冷たい水だった。

小さな楕円形の水たまりの上に座り込んでいて
何かに縛られているわけでもないのに
身動きが取れなかった。

声を出すこともできずに、冷たさだけを感じて座っていた。


「……モリサクラさん。」


聞きなれない声で
聞き慣れた言葉が聞こえた。


「わかりますか?聞こえますか?」


「……はい。」


夢の中で時空を超えてしまったのだろうか。
いきなり見えてる世界が変わってしまった。
しかし、いつもの世界でもないことは明白だった。


白を基調とした無機質な部屋。
目の前には、看護士がいる。
わたしは、今、病院のベッドの上にいる。


起き上がろうとすると、全身に激しい痛みが走った。
低いうめき声がもれた。
看護士になだめられるように元の体制に戻った。


いったい、どうしてここに。
この痛みは。なにがどうなっているのか。


様々な疑問が頭を一周したところで
突然あの鈍い音が頭の中に走りこんできた。



「ようちゃん……ようちゃんは、どこですか。」

看護士の目をはじめて見た。
看護士の背後から、
学生のような幼い雰囲気の医師が現れた。

はじめて付き合った彼氏の顔に似ていた。


「倉畑陽介さんのご家族ですか。」

「……婚約しています。」


医師が、病室の入り口に立っていた看護士に
視線を向けて、合図の意味でなずいた。

「こちらへ、どうぞ。」


なんだ。ようちゃんが外にいたのか。

身体がふわっと浮くような感覚になった。
扉の向こうでゆっくりと人影が動いていた。


「さくらちゃん……」

お義母さんがわたしの名前を呼んだ。
お義父さんは、わたしから目を逸らしていた。

「ようちゃんはどこですか。」


「……死んでいるのかもしれない。」


心臓の音が、はっきりと聞こえた。

緑色の空

今日は、風が強く吹いている。
まだ少し肌寒い。


風圧で重くなっている扉を押し開けて
わたしは指定席へと向かった。

いつも通り角を曲がると、誰かがいた。


「~~~めは、いま~も、め~ぐ~り~て~」

その歌声は、あまりにも汚かった。
音痴さに気を取られていると
相手の方が先に、わたしの存在に気づいた。


「すみません……」


顔を真っ赤にして、謝っている。
上履きの先を見ると緑色だった。

同級生。
見たことがあるような、ないような顔だった。


「何組?」

「2組。」


「名前は?」

「倉畑……陽介…」


「音痴。」

「知ってるよ。だから、練習してるんだ。」

「そこ、わたしの指定席だし、別の場所で練習してくれる?」

「あ、ごめん。」


2回目の謝罪と同時に予鈴のチャイムが鳴った。
彼は小走りで駆け出した。


「……チャイム、鳴ってるよ。」

「聞こえてるから。」


振り返りはしなかったけど、
彼がどんな顔でこちらを見ているのか
少し興味はあった。


ぱたぱたと足音が聞こえる。
わたしはフェンスにがしっとつかまり、
顔全体に風を浴びた。


「ゆ~め~は、い~ま~も、め~ぐ~り~て~」


口ずさみながら、さっきの歌声がよみがえる。
二度目に聞いた歌声は、
少し誇張されていたのか
さっきの歌声よりも、おもしろかった。



翌日、わたしは三度目の歌声を聞くことになった。


「だから、そこ、わたしの指定席なんだけど。」

「……名前と、組は?」

「邪魔。違うとこで歌ってくれる?」


「名前と組。昨日、俺に聞いただろ。」


「6組の森かえで。早くどっか行ってよ。」



敵意を丸出しにして、目を合わせたはずなのに
彼は、安心したような顔をしていた。



「森かえでさん。授業はちゃんと出たほうがいいよ。」

「うるさい。あんたには関係ない。」


「あと、タバコ。辞めたほうがいいよ。」



そう言って、彼は目線を逸らさずに
わたしに近づき、50センチほどの距離で
ぴたっと立ち止まった。

「……ちょっとだけど、臭うよ。」


そう言ったときの目には、
読むことができない感情が見えた。



こんなにも近寄ってこられたこと、
タバコがばれたこと、
読むことができない感情、
突如うまれた彼との関係性、
わたしは思考が追い付かなくなり無言のまま
ただただ地面に足の裏をつけていた。


「また、明日。森かえでさん。」


少しだけ口角をあげて、彼は立ち去った。

「二度と、ここに来ないで。」


わたしはできるかぎり大きな声で
彼にそう告げた。

それでも、倉畑陽介は、
毎日わたしの指定席を奪った。

毎日毎日歌っていても
彼の音痴は少しもマシにならなかった。

本当はこっちの音程なのかもしれない、と思うようになった。
それは、聞き慣れたせいではなくて
彼の声がとても心地よいものだったからだと思う。



「間に合わなかったね。」

「なにが?」

「歌。明日が本番なのに。」

「それは、明日の本番にならないと分からないよ。」


今日も風は強く吹いている。
わたしの右側にかきわけた前髪が風に吹かれて
視界を遮りながら左へとうつっていく。


「明日、ちゃんと聞いてよ。練習の成果。」



そう言ったときの彼の表情は、見えなかった。

リボンとボタン

寒いというよりも、冷たい。


でも、ポケットの中だけは、温かい。



空を見上げたいわけでもないのに
屋上に寝転がっていた。

目を閉じて、
イヤホンをつけて好きなバンドの曲を
小さな音で流していた。

かすかに風の音が聞こえる。


上履きを脱ぐ。
足先でひょいと持ち上げて、
なるべく遠くへ飛ばす。


このまま、風に削られていって
どんどんどこか遠くへと散り散りに飛ばされて
消えてしまえればいいのに。

誰も気づかないうちに。


そんな歌詞が
半透明な歌声によって、流れている。



ふいに歌声が切れた。
両耳からイヤホンを外されたのだ。


「森かえで。」


目を開くと、倉畑陽介がそこにいた。


「ちょっと。なんなの、変態。」


身体を起こして、スカートを整える。
上履きは思っていたよりも遠くに転がっていた。


「卒業式、なんで出なかったんだよ。」

「関係ない。」

「めちゃくちゃ恥かいたんだけど。」


「音痴なおってなかったもんね。」

「違う。」

「認めなよ、音痴。」


「……歌ってないんだよ。」


風の音にかき消されてしまいそうな小さな声は
わたしに背中を向けて歩き出した。

わたしが飛ばした上履きを拾って、屋上から投げ飛ばした。



「ちょっと、それ、わたしの靴なんだけど。」

「好きなんだ。」


フェンスをつかんで、下を覗くと、
誰もいないグランドの真ん中より少し左寄りに
わたしの右足が落ちていた。

振り返ると、彼は、
あのときと同じ真っ赤な顔で
あのときと同じ読めない感情の目で
わたしの奥を見ていた。



「協力してほしいんでしょ。」

「……はい。」


「さくらとの関係は?」



彼は時々うつむきながら、
いつもよりも低い声で話し始めた。

彼が、森さくらと出会ったきっかけ、
好きになった理由、
そして、森さくらとどうなりたいのかを。


長ったらしいその話の中身は
矛盾や、理屈では説明できない不確かなものばかりだった。

確かなことといえば、
森さくらと“近づく”ためだけに
わたしに近づいたということだけだった。


すべて話終えた彼の表情は、
いままで見た中でいちばん柔らかかった。


「……ひとつだけ条件がある。」


わたしはゆっくりと彼に近寄った。
そして、ゆっくりと制服のリボンを外し、
彼の掌に押し付けた。



「わたしのリボンと、あんたのボタンを交換して。」



彼のブレザーについているいちばん上のボタンを
人差し指で指差した。


「いいけど。」



不思議そうにうなずく彼に
胸ポケットに入れているカッターナイフを手渡した。



「なんで、カッターなんか。」

「いいから、早く。」



言われるがまま、渡されるがまま
彼はカッターでボタンの糸を切り、ボタンを取り外した。

カッターとボタンを両方受け取り、はじめて、彼に笑顔を見せた。

足跡は消える

足跡は消える

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-08

Copyrighted
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Copyrighted
  1. “大人”への墜落
  2. 奪われた傘
  3. 緑色の空
  4. リボンとボタン