乙女の秘密
俺こと中原巡がまだ小学5年生だった頃、母親が知らない男を連れてきた。
小学3年のときに父親を交通事故で亡くした俺にとって、新しい父親とか言われても理解できるはずがなかった。だが、当時の俺は新しい父親のことなどすぐにどうでもよくなった。関心が別のところへ変わってしまったのだ。それは新しい父親が連れてきた娘のことだった。
その娘の名前は星野灯。初めて聞いた時はフルネームで呼ぶと響きがとても良いなと思った。ところがそんな明るい名前とは裏腹に、彼女の表情は暗く、いつも青白い顔をしていた。歳は俺よりも二つ上だったことから、この子が俺の義理の姉となり、俺はこの子の義理の弟になることは揺るぎない事実だった。
俺が灯と出会った時はまだ幼かったこともあって、義理の姉というものをよくわかっていなかった。ただ女の子の友達と一緒に暮らす事になったくらいにしか考えてなかったと思う。ところが中学二年の頃、俺は初めて灯を女性として意識してしまった。着替えをしているところを目撃してしまったのだ。それはよくある話で、極めて単純な出来事ではあったが、あの静脈までも透けて見えてしまうかのような白い肌が、俺の脳裏に焼き付いてしまった。血の繋がりが無いという意味では、行ってしまえば他人の女性であるわけだから、自分の感情が邪なものではなく、自然なことなのではないか思った。とはいえ、灯は一緒に暮らしている家族であり、義理とはいえ姉であることを考えると、この思いを抱くことは背徳な行為であるということもわかっていた。
そして、自分の裸を義理の弟に見られても何の反応もしない灯は、そのとき驚くべき発言をしたのだ。
「……私のこと、もっと見せてあげようか?」
俺は思わず絶句した。
生唾を飲み込むことさえできなかった。
灯は俺のことを馬鹿にしているような素振りも無く、試しているような雰囲気もない。
おそらく本気で言ったのだろう。だからこそ、俺はそれを冗談に受け取るだけの余裕もなく、無言でその場から離れた。
俺は灯に対するよくわからない感情を隠したまま中学を卒業した。周りの友達は彼女がいる奴も何人かいたが、俺は同級生の女子にはまったく興味が湧かなかった。毎日、家で灯の姿を見ていれば誰もがそうなると思う。ミステリアスで、魅力的で、どこか危うい雰囲気を出している年上の女性が近くにいれば、年頃の男子なら気にならない者などいないだろう。
そんなある日、灯が急に体調を崩し入院する事になった。その話を母親から聞かされたとき、俺は真っ先に病院へと向かった。灯が入院しているという病院は、俺たちが暮らしている街から少し離れた場所にあった。なぜわざわざそんな離れた病院へ行く必要があったのか、ということを考える余裕は、今の俺にはなかった。
病院に辿り着いた矢先、俺は違和感を覚えた。
その病院の外壁は真っ白に統一されており、奇妙なことに壁に窓がない。円柱のような構造をしているようだ。中に入ると、天井から溢れんばかりの太陽の光が差し込まれていた。
俺は受付で灯がいる病棟について聞いた後、エレベーターに駆け込んだ。何がここまで自分を突き動かすのか。自分の姉なのだから当然だろうと、俺は自分自身に言い聞かせる。
灯が入院している病室に入ると、女性医師とすれ違った。腰のあたりまである長い髪を後ろで一つにまとめているのが特徴的だった。
「君は……灯さんの弟君か? とりあえず今は安定しているから、少しだけなら面会しても大丈夫だ」
女性医師はそれだけ言い残すと、病室から出て行った。初対面の人に対しても堂々と語るその喋り方は、少しキツい印象を受けるが、同時に信頼における医師としての雰囲気を出していた。
俺はすぐに灯のもとへ駆け寄る。灯はいつも以上に青白い顔をしていた。もう血さえ通っていないのではないかと思わせるほどだ。
「……大丈夫なのか?」
「……心配はいらないわ。いつものことだもの。昔から身体は強くなかったし。それに」
「それに?」
「巡がこうしてお見舞いに来てくれたから、今とても元気になった」
俺は灯の言葉を聞いて、自分の心が揺れたのを感じていた。
そして、病室の空気が瞬時にして変化した。
窓から流れてくる風さえも止まってしまったかのような。
先ほどまでいた場所とはまったく別の場所へと移動してしまったのではないか、とさえ思わせるような状況。
端から見れば何一つ変わってなどいないこの病室の中で、
確かな心象的歪みが生じていた。
灯が先ほどからずっと俺の目を見ている。
まるで俺が何か言わなければずっとこのまま見つめ続けているとでも言わんばかりだ。
白い肌。
やせ細った身体には鎖骨が浮かんで見えている。
病院から支給されたと思われる服までも白いせいで、
灯の存在そのものが白い物体に見えそうだ。
そして——どちらかが合図を出すでもなく、俺は灯と唇を重ねた。
静かに触れ合うだけのそれは、とても健全で、正常な行為のように思えた。
姉と弟という関係さえ、なんの問題も無いとさえ思った。
これまで背徳の感情によって押さえつけられていたものが、一気に崩壊しそうになった。
灯の身体をベッドに押し付けて、
自分の好きなようにしてしまいたかった。
真っ白で何の傷一つないその身体に、俺が触れた証を刻み付けたかった。
ところが、灯の唇から離れたその時に聞かされた言葉が、一気に俺を冷静にさせた。
「二人だけの秘密……だね」
灯が言った秘密という言葉が、俺の中でやけに歪なものとして受け止められた。
俺は一体なにを考えていたのだろう。ここは病室で、灯は病人なのだ。自分の衝動に任せて灯を犯すようなことをしたなら、俺は自分自身のことを一生恨んだに違いない。
しばらくなんの会話も無いまま突っ立っていると、先ほど病室を出て行った女性医師がやってきた。
「灯さんの弟君……だったかな。すまないが少し時間いいか?」
「はい。大丈夫です」
「よかった。君に話しておきたい事がある」
そう言って、俺は灯のことを見ることなく病室を後にした。
連れて行かれたのは病院の地下室だった。薄暗い通路の先にあった部屋の中へ案内される。そして部屋の中には、自分よりも身長が小さく、まるで少年のような人物が白衣を着て椅子に座っていた。
「やぁ、君が灯さんの弟かな。初めまして。ここの病院の院長を務めているクロサワナギだ。そして、君をここまで案内してくれたのが、ちょっとキツい喋り方をする綾城琴音医師だ」
「ちょ、なんだそのキツい喋り方って。私はいつもこんな喋り方だろう? 今更なにを」
突然言い合いを始めた二人対して、俺は戸惑いを隠せずにいた。とりあえず自己紹介ぐらいはしたほうがいいのだろう。
「……中原巡といいます。それで、お話というのは?」
「ああ、そうそう。実は灯さんのことで君に話しておきたいことがあってね」
クロサワと名乗った医師が、突然思い詰めた雰囲気で語りだした。前髪によって目のあたりが完全に隠れてしまっていることもあって、その表情は読み取れない。
「結論から言うと、灯さんは普通の病気ではないんだ。そもそも、この病院に連れてこられた時点で、現代医学で治せる病気ではないということを理解してほしい」
俺はこの医師の発言で一つの疑問が解けた。灯は確かに家の近くの病院に向かったのだ。だが、そこでは治療は不可能であると判断され、ここに連れてこられたのだろう。
「……それで、ここの病院なら……先生なら灯を治すことができるんですよね?」
俺の発言に対して、医師の口元の端が少しつり上がった。
「ここに来る前の病院では、灯さんは集中治療室に入れられたらしいね。それでも治せないと判断された。でも、僕の手に掛かればおそらく彼女の病気……というか症状は治すことができるだろう。そこで君に約束してほしいのは、今から僕が君に対して説明する内容を、決して疑わないこと、そして他人に公言しないことだ。わかるかな?」
「ええ、疑わず、誰にも話さない。つまり秘密にしておいてくれってことですよね」
「うむ。いい表現だ。それでまったく問題ない。少し長い話になるけど、眠らずに聞いていてくれよ」
そう言って、医師は語りだした。
「そもそもここの病院にある機材はこの場所からはるか東方にある失われた技術を管理していたある機関が——」
………
……
…
「という具合なんだ。わかったかな?」
……あまりにも長い話だったので、もう一度俺の中で整理してみることした。
この世界には、存在し得ない技術というものがあるらしく、それは東方と呼ばれる技術者集団が管理していると言う。そして、この病院にはその技術を用いて作られた機材がたくさんあり、それらを使う事で灯の症状を治すことができるとのことらしい。
そして、灯の症状に関する話で、一つだけ引っかかることがあった。
「秘密……ですか?」
「そう。灯さんは何か人に言えない秘密を隠している。それをずっと自分の中で押さえ込んできたようだけど、どうも身体のほうは耐えきれないようだね。精神の異常が身体になんらかの影響を及ぼすことはよくある話だけど、これを治療するとなるとなかなか難しい。もっとも簡単な治療方法は、その秘密を誰かに明かしてしまうこと、なんだろうけどね。まぁそんな簡単に秘密を打ち明けられたら、今まで苦しい思いをすることなんてなかっただろうから、言えるはずはないと思うんだけど」
灯がずっと隠している秘密とはなんだろうか。俺にはまったく検討もつかない。
ただ、何かがひっかかる。それが何なのかはわからないのだが。
「秘密……秘密か」
「まぁ安心してくれていいよ。僕に任せてくれば問題ないから」
医師のその言葉を信じて、俺は部屋を出て病院の受付まで移動した。
一緒に連れ添ってくれた綾城医師が、別れ際にこんなことを言った。
「……乙女の秘密っていうのは、それだけで魔力を持つものだよ。それを君が理解してあげられれば、何の問題もないかな」
そう言って、綾城医師は立ち去って行った。
まったくもって、その言葉の意味はよく分からなかった。
それから3日後、灯はみるみるうちに回復していった。
俺はクロサワ医師の施しが見事に成功したものだと確信していた。灯の顔色は、前のような青白いものではなく、今まで見た事の無い、活力に満ちた表情をしていたのだ。
「巡、ありがとう。貴方のお陰だわ」
「俺は何もしてないよ。この病院の先生のお陰だろ?」
灯は俺の言葉を聞いて、首を傾げていた。何を疑問に思う事があるのか、俺には全くわからなかった。
「あ、そうだ。巡」
「なんだよ」
灯はそういって、俺の耳元に唇をよせる。
「……病室でのこと、ずっと内緒だからね」
その言葉は俺の身体に少しばかりの痛みを感じさせた。
「琴音。しばらく中原巡君を監視しておいてくれないか」
「へ? 姉の灯じゃなくて、弟のほうなのか?」
「ああ。彼は必ずここにもう一度くることになるはずだから」
「……また何か企んでいるのか。そういえばナギはあの灯って子に何もしてなかったよな? 僕にしか治せないとか言っていたから、てっきり何か特別なことをすると思っていたけど」
「実はそんなことをする必要はなかったんだ。それに、前に巡君がここにきたときには、もう既に灯さんの症状は回復傾向にあったからね」
「どういうことだ?」
「灯さんの身体を蝕んでいたモノは、いまや巡君のほうに移ってしまったんだ。まぁ、当分はなんともないだろうけど、あの二人は一緒に暮らしているから、徐々に影響が出始めるだろうね。二人しか知らない、他の誰にも言えない。そんなものがずっと続いていくのだとすれば、それだけで重荷になるってものだけど、さて、どうなるかな」
「どうなるかなって、いっそあの二人を隔離してしまったほうがよいのではないか?」
「それはそれで、いろいろと面倒なことになるんだよね……ほんと、乙女の秘密というものは、それだけで魔力をもつ……だっけ?。たしか彼にそう言ったのは君だったろう?」
その言葉を聞いた琴音は、何かに気付いたように顔を真っ赤にして、手元にあった紙コップをナギに投げつけたあと、その場から逃げ出すように部屋を飛び出て行った。
乙女の秘密. 了
乙女の秘密
この作品は、「義理の弟」 「集中治療室」 「機関」という三つのお題に基づいて書かれたオリジナル小説です。