BAR Bush Cloverの日常 第10話 My Life Is (期間限定公開)
昨日の台風一過がもたらした暖かい空気が、仙台に季節外れの陽気を運んできた。強かった風も収まり、小春日和と云うにはいささか気温が高いか、と感じる。
かつて、こんな天気の日は、大学を自主的に休講として、喜び勇んで、グラウンドに行ったものだ。
そんな昔を思い出し、少しノスタルジーに浸ってしまうのは、今日のお客様も関係しているのだろう。
カウンター端に座っているその男性は、太く、大きなため息をついた。身長は高く、大柄だが、決して太ってはいなく、筋肉質で肩幅が広い。上部に目を遣ると、きちっと整髪されたロマンスグレーが、知性を醸し出す要因となっていた。
いわゆる渋い男、なのだが、最近は横顔に翳りが見える。
どうやら悩んでいるようだ。
「なあ、マスター」
「マスターはやめて下さいよ、中尾教授」
「君こそ、教授はやめてくれよ」
男性の名は中尾さん。揶揄とか皮肉ではなく、れっきとした教授だ。専門はニューラルネットワーク。
私と教授の繋がりは、ニューロンではない。大学における部活動の、先輩後輩の間柄だ。
教授は、大学時代、全国に名を馳せた、やり投げの選手だった。肘を故障してしまったため、大学卒業と共に現役を引退したが、日本人選手が世界記録に手が届きそうだった、あの時代のトッププレーヤーというだけで、私を含む、後輩たちの崇拝の対象になるのは、必然であった。
ただ、教授の凄みは、選手時代よりも、引退後のコーチ時代にある。
ニューラルネットワークの研究を通じ、脳科学にも{造詣|ぞうけい}が深かった中尾さんは、フィジカルに加え、メンタルを鍛えるトレーニングを多く採用し、実績を残していった。
シナプスを意識し、シナプスを鍛えるんだ、が教授の口癖だ。
シナプスとは、やや乱暴な解釈をすると、筋肉と神経を結びつける回路のようなものだ。動きの意味を理解し、反復することで、その動作をさせるためのシナプスが太くなるらしい。
難しいことは門外漢のため、完全には理解できなかったが、たまにある、自分の筋肉と神経が一体化するような感覚は、何にも代え難い快感だった。
そして、教授のコーチキャリアの中での、最高傑作と云える選手がいる。その人物は、あと少ししたら、店に来ることになっている。
「ナオちゃん、凄かったですね。60メートルまであと2センチでしたか」
「ああ、全ての所作が一体化した、良い投げだった。あの様子なら、まだまだ伸びるだろう」
その人物の名は、ナオちゃん。今年から高校の教員になった、社会人一年目の女性だ。高校生時代から、将来を{嘱望|しょくぼう}された選手だったが、三年生の時に腰を痛め、なくなく強豪大学のスポーツ推薦を諦めた、という過去を持つ。そして、失意のまま進学した大学で、その年から母校に戻り、研究室を開いた教授に出会った。
教授は、ナオちゃんの再生を確信し、独自のコーチングで指導していった。始めこそ、トップクラスの競技力を持つ大学に進学できず、やや卑屈になっていたナオちゃんだが、腰の怪我も癒え、さらに教授の指導の下、心と体が一体となった感覚を習得するにつれて、徐々に成績を伸ばし、今では、テレビで特集されることもある選手へと、大きく飛躍した。
教授は、当然、自分の愛弟子の成長を喜んでいる。ただ、ナオちゃんは、教授に対して、コーチとしての敬愛以上の感情を抱いており、それを隠そうとはしていない。それが、教授にとって、しばしば悩みの種になっているようだ。
以前、それとなく教授に、実際のところ、その好意をどのように受け止めているのか、と聞いたことがある。年齢差が引っかかっているのは第一にあるが、どうやら羨望と嫉妬の感情を{払拭|ふっしょく}できていないらしい。自身が到達しえなった高みに、手が届きかけているナオちゃんに対し、コーチとしては至高の喜びを感じているが、一選手として{対峙|たいじ}すると、自分自身の無力さに心が襲われてしまう。今のコーチと教え子の関係から、対等な関係になることにより、その感情が露呈するのが恐ろしい、と語っていた。
あいつの将来を考えても、俺は一指導者であるべきなんだ、それが、この話題を打ち切るときの、お決まりの言葉だった――
*
「こんにちは! 遅くなりました」
入り口にぶら下がっていた、一つの大きな巾着袋が大きく揺れ、続いて、ナオちゃんが元気に入ってきた。
「やあ。久しぶり。忙しそうだね」
「もう学校のイベントも一段落したし、シーズンもオフに入るし、そんなことないですよ」
ナオちゃんは、挨拶もそこそこに教授の隣に座ると、その目の前に有ったグラスを指して、同じものください、と注文した。
いつもそうなのだ。始めは、教授と同じものを注文する。
競技者、もしくは教諭としてのナオちゃんしか知らない人は、全く想像もつかない姿だろう。ここでは、いつもの殻を脱ぎ捨て、本来の甘えん坊な性格を、大いに出していた。張り詰めた心を休める、止まり木のような場所として、この店を大いに活用してくれている。
「そうくると思ったよ。はい、ジャックダニエルのロック」
「ありがとう、マスター! コーチと同じものを飲むのが、私のとっての究極のリラックス法なんだ!」
そう云うと、カラン、と氷を鳴らし、慣れた感じで口に持っていった。教授も、同じタイミングでロックグラスを傾けている。
素敵だ。
このまま、店の宣材に使いたい。それくらい絵になっている。
先ほどまで、ため息がちに陰りを見せていた教授も、もう、すっかりリラックスしていた。今の心に素直になればいいのに、と思うが、人間の心は、ニューロンの専門家でも解決できないことだらけだ。だからこそ素晴らしいし、だからこそもどかしい。
ジャックダニエルを飲んで、少し目が潤み、頬が赤く染まってきたナオちゃんは、私の方を向いた。
「マスター、どう思います? いつも私がアプローチしても、すぐ話をそらすんですよ」
教授は、またその話か、と苦笑いしている。年齢差三十だぞ、と冗談めかして返しているが、それだけが本心ではないことは知っている。さらに云うと、その先の感情も推察できている。
背中を押してあげたい、と、私のお節介な気質が、顔を出してきてしまった。
少し仕掛けてみるか。
「お二人とも、次の一杯は任せてもらえますか」
教授は少し{怪訝|けげん}そうな顔をしたものの、最終的には二人の了承をもらい、以前から考えていた、ある一つのカクテルの制作に取り掛かった。
*
「はい、中尾さんとナオちゃんのためのカクテル、チャーリーチャップリンです」
二つのオールドファッショングラスを、教授とナオちゃんの前に静かに置いた。
「チャーリーチャップリンって、あの喜劇俳優にちなんだカクテルかな? どういう由来なんだい?」
「せっかちですね。まあ、まずは一口、どうぞ」
教授とナオちゃんは軽くグラスを交わし、口に運んだ。
「美味しい! 甘酸っぱくって梅酒のような風味。これはどういうカクテルなんですか?」
「スロージンという、プラムの一種を漬け込んだリキュールと、アプリコットブランデー、そしてレモンジュースを同量合わせて、シェイクしたカクテルだよ。材料を聞くだけでも甘酸っぱいだろ」
「そうですね。いくらでも飲めちゃいそうです」
それから、しばらくの間、二人はチャーリーチャップリンの味を愉しみ、店はクラッシュドアイスのぶつかる音だけが、慎ましく響く空間となった。
さて、と教授。
「任せてほしい、ということは何か考えがあるのだろう。まさか、青春の甘酸っぱさを味わってください、という訳でもないよな? このカクテルを出した意図を教えてもらえないか」
かなわないな、という顔を向け、答えた。
「チャーリーチャップリンのカクテル言葉は、『信じる恋』なんです。」
「『信じる恋』……。何か由来はあるのかね?」
由来ははっきりとはしていないこと、そして、これから話すことは、あくまで私見であることを伝え、話し始める。
「こんな言葉があります。『人生を恐れてはいけない。人生に必要な物は、勇気と、想像力と、少々のお金だ』」
「ほう、ライムライトか」
「そうです。カルヴェロがテリーを励ます、あのシーンです」
ライムライト。喜劇王チャールズ・チャップリンの、ハリウッドにおける最後の映画。チャップリン演じる、落ちぶれた往年の喜劇スター、カルヴェロと、精神的な要因で歩けなくなってしまったバレーダンサー、テリーとの、悲恋とも希望とも捉えることができる物語だ。
「カルヴェロは、テリーが再び自らの力で歩き、バレーダンサーとして大成することを願った。テリーは、カルヴェロが再び賞賛されるべき舞台に立つことを信じた。二人はお互いの未来を信じ、共に進もうとしました」
「だが、年齢が……、ということだね」
さすがですね、と答え、少しばかり口を閉じた。
再び氷の音だけになってしまったのは、一分間ほどだろうか。最初に、沈黙に耐えられなくなったのは、ナオちゃんだった。
「それで、結局どうなるんですか?」
「テリーはスターになり、カルヴェロも再び舞台に立ち、大きな賞賛を受けたよ」
「じゃあ、ハッピーエンドですね!」
「ところがね、アンコールを受けたカルヴェロは、久々の賞賛ということもあり、張り切りすぎてしまう。結果、舞台から落ちて太鼓に突っ込み、大怪我を負ってしまうんだ。アンコールが終了し、スタッフに抱えられ舞台脇に戻ったカルヴェロは、テリーの踊りを見ながら、息を引き取ってしまい、そのままエンディングロールが流れる――」
「……、悲しいですね」
頷きつつ、ただね、と続けた。
「テリーを見ながら、最期の時を迎えるカルヴェロの顔は、満足げにも見えるんだ。再び取り戻した自信と、テリーが大きく羽ばたいた姿を見て、自分のやるべきことはすべてやった、という心境になったと読み取ったよ」
「なるほど……」
「二人は、相手のことは信じながらも、ずっと自分のことは信じられなかった。ただ、最終的には、自分を信じることもできたんだ。そこから、チャーリーチャップリンには、『信じる恋』という言葉が付いたのではないかな」
腑に落ちた顔をしている二人を見廻してから、中尾さんに話しかけた。
「大先輩に{僭越|せんえつ}ですが……。中尾さんも自分を信じるべきです」
中尾さんははっとし、顔を上げた。
「なるほど。だからチャーリーチャップリンか。これ、即興で考えたのかな?」
以前からタイミングを計っていたんですよ、と答えると、気を遣わせたな、と云い、教授は大きく息を吸い込んだ。
「『微笑んで、そしてたぶん明日には、君のために輝いてくれる太陽を見るだろう』」
「なんですか、それ?」
「これも、チャップリンの映画の中に出てくる言葉だよ」
教授はそう答え、ナオちゃんの方を向いた。
「私たちは、お互いの太陽になるべきなのかもな。今からでもなれるかどうか、自分自身に問いかけてみることにするよ」
その一言に、ナオちゃんの顔が、太陽に照らされたかのように輝く。でも私が羽ばたいた後も、コーチは生き続けてね、という一言を添えて。
「自分の人生とは何か。何がなし得るのか。もう少し考える時間は欲しいが、確かに背中は押してもらった」
教授の、ありがとう、の一言に、私は軽い会釈で応えた――
BAR Bush Cloverの日常 第10話 My Life Is (期間限定公開)