BAR Bush Cloverの日常 ~ 甘さと苦さと
今回は青森県に想いを馳せて書きました。
続きも掲載しました。全部で5,401文字です。
ある日、家に帰ると、青森県に住む友人から、ひと箱の荷物が届いていた。中には、リンゴを使った特産品の数々、いちご煮や鯖の缶詰、鰊の切込など、青森の香りが立ち込めるような物と一緒に、数枚の写真が入っていた。昨年、アップルロードを通って、岩木山に行った時の写真だ。リンゴの白い花も綺麗だったが、岩木山に登った時に見た、紅紫色の花の美しさに衝撃を受けた記憶が蘇る。サクラソウの一種で、ミチノクコザクラという花だということは、後からその友人に教わった。
また、青森に行きたいな。
家に置いてあった田酒と、荷物の中に入っていたしそ巻の梅の味を楽しみながら、青森の豊かな光景を思い浮かべた。
*
「では、シードルはいかがでしょうか?」
お客様の流れが途絶え、店に静けさが戻ってきたころ、一人の女性が来店した。
彼女の名前はナツキさん。仕事が忙しいのか、決まって人の途絶えた遅い時間にやってくる。何かおすすめは、と聞かれたので、友人からもらったシードルをすすめてみた。
「シードルって、リンゴで作ったスパークリングワインでしたっけ?」
「そうです。ちょうど、青森県産のリンゴを使ったシードルが手に入りました。辛口と甘口、その中間の3種類ありますが、いかがでしょうか」
「うーん、悩むなあ……。じゃあ、辛口にしようかな」
かしこまりました、と答え、冷蔵庫からあおもりシードルの辛口を取り出す。慎重に開栓すると、シュッ、という小気味よい音とともに、リンゴの豊かな香りが、半径50センチメートルほどにふわっと広がった。
ナツキさんは、ワイングラスを見つめてから、少しグラスを回し、香りを引き出そうとした。豊かな香り、と呟くと、シードルを口に運び、味わうことに集中するかのように、しばし目を閉じていた。数秒後、輝きを湛えたまなざしを、こちらに向けた
「うん、美味しいです! すっきりしているのに、リンゴのコクも感じるますね。香りもぐいぐいきます!」
ナツキさんは、グラスを軽く回し、鼻に近づけてから、グラスを傾ける、という動作を数回繰り返した。
気に入ってもらえたようだ。
「喜んでいただけて、何よりです」
そう答えながら、私は、ナツキさんの目の前に、緑色が鮮やかなボトルを置いた。
「これは最近になって発売されたドライ、という名称のボトルです。ふじとジョナゴールドを組み合わせて、甘みと酸味のバランスを取りながら、味に深みを出しているようです。ちなみに甘口がスイート、中間がスタンダートと銘打って販売しているようですよ」
「へえ。私、このボトル、気に入りました。今度、青森に行く機会があったら、絶対買います!」
それはいいですね、と相槌を打ちつつ、こちらもどうぞ、と一つの小皿をカウンターに置いた。
「リンゴのコンポートですね。ピンク色で可愛いですね」
「紅玉を、ブランデーとシードルで風味を付けながら煮ました。この色は、リンゴの皮で着色しています」
「わあ、そんな方法があるんですね。さっそくいただきます!」
ナツキさんは、コンポートとシードルを交互に口にし、マリアージュを楽しんでいる。その様子を見ながら、あの一面のリンゴ畑を切り裂き、どこまでも続いていくようなアップルロードと、その先の岩木山の光景を、脳裏に浮かべていた。
しばらく、この組み合わせを売りにするかな、そんなことを考えていたら、ふいに、ねえマスター、とナツキさんが話しかけてきた。
目を合わせると、先ほどに比べ、幾分か遠い目をしているように感じた。
「『まだあげ初めし前髪の、リンゴのもとに見えしとき』、という文から始まる詩を、マスターは知っていますか?」
「はて。聞いたことあるような、ないような……」
少し記憶を辿ってみたが、思い出せずに唸っていたところ、ナツキさんが再び話し始めた。
「これは、島崎藤村の詩の一節です。『前にさしたる花櫛の』、と続いていきます」
「へえ、島崎藤村の名前くらいは知っていますが、詩までは思い出せませんでしたよ。ナツキさん、博識なのですね」
「私、大学時代、文学部だったんです。日本文学専攻」
ナツキさんは、そのまま四連からなる、『初恋』の全文を諳んじた。それは、淡々としていながら抑揚もあり、憂いを帯びた、素晴らしい朗読だった。終わったときに、少し目が潤み、自然に拍手が出たほどだった。
「素晴らしい朗読でした。感動しました!」
「ありがとう。シードルの酔いで、いい塩梅で、感情がこもったかしら」
ナツキさんは、素面じゃできないですよ、と少し照れながら云うと、続けて、私の昔の話聞いてください、と云ってきた。もちろん、と答えると、ナツキさんは、ゆっくりと思い出話を始めた――
*
「この詩のタイトルは、『初恋』というんです。冒頭で出てきた通り、リンゴというキーワードが入っているんですよね。それで、ふと思い出しました」
「なるほど、そうだったのですね」
「私の初恋は、中学生の頃でした――」
そこから、ナツキさんは、時々目を閉じながら、その当時の話を、とても懐かしそうに語った。飛び抜けて格好が良いわけではないけど、勉強も運動もそつなく出来、短距離走が速くて、運動会の時にはヒーローだった同級生に、淡い恋心を抱いていたらしい。
屈託なく話せる仲だったこともあり、特にその関係性を崩すつもりはなかったとのことだが、その同級生が数か月後の新学期を前に、遠くへ引っ越すことになった――
「その時、迷ったんです。この想いを伝えるべきか、否か。でも、やっぱり直接は伝えられなかったんですよね。それで……」
「それで、どうしたのですか?」
「引っ越しする30日前から、毎日、ちっちゃい手紙に日付のカウントダウンと、その日の一言を書いて、彼に渡していたんです。しかも渡した瞬間が気づかれないように」
当時を思い出したのか、うふっ、と軽く笑いをこぼす。
「うちの中学校の制服はブレザーだったんですけどね、おはよう、と挨拶をしながら、彼のポケットにすっと入れたり、一時限目の教科書に挟んでみたり、色々な方法で渡しましたよ」
照れ隠しでもあったんですけどね、という顔は、なんとも茶目っ気たっぷりで、まるで中学生の頃のナツキさんと話しているのようだった。
「気づかれないように。方法が被らないように――。毎日、考えるのは面白かったなあ」
「それは、そうでしょうね。彼が羨ましいですよ」
「ふふっ。……でも」
幾分かトーンが落ちた。
「そのうち、終わりの日が来るんです。そりゃ、当然ですけどね。楽しかった日々――、というよりは現実逃避していたんだろうなあ。そんな日々はあっという間に過ぎちゃって、気付いたらもう引越しの当日。とてもじっとしてられなくて、彼の家の近くまで行ったけど、顔は出せなくて……。電信柱の陰から見つめていましたが、結局、何も伝えられず、彼は、引っ越し屋さんのトラックと一緒に、行ってしまいました」
「それからは、どうだったのですか?」
「数回、文通みたいなことをしていたんですけどね。そのうち高校受験、そして高校生になってからの新生活と、何かとお互い忙しくなって、そのまま自然に……、ですね」
「なるほど。ほろ苦い思い出ですね」
「今となっては、いい思い出でもあるんですけどね。でも、当時はちょっと切なかったなあ」
遠い目をしながら、グラスを傾ける。その顔は、寂しげでもあり、また、懐かしさからくる軽い興奮によって、幾分か上気しているようにも見えた。
しばらくの間、店内は余韻に支配されていた。そうして、そのうちに、ナツキさんのグラスは空になっていた。
私は、グラスを拭き上げながら、ナツキさんに一つの提案をした。
「ナツキさん、次の1杯は私に任せてもらえますか。確かカンパリは、お嫌いではなかったですよね?」
「ええ、カンパリは好きですよ。ショットでなければ、ね。マスターにお任せします」
「かしこまりました。少々お待ちください――」
*
スピリッツ棚からジン、リキュール棚からカンパリ、冷蔵庫からスイートベルモットを取り出す。本来は同量をステアするのだが、今日はオレンジスライスと共に、全てをシェイカーに入れた。少し強めにシェイクすると、静かだった店内に、カカカッという規則正しい、甲高い音が響き渡る。
オールドファッションドグラスに、シェイクしたカクテルを注ぎ、シェイカーの中から氷とオレンジスライスを取り出して、それらもグラスの中に入れた。
「お待たせいたしました。ネグローニ、です」
「ネグローニ……、聞いたことはありますが、飲むのは初めてです」
氷を数回、カラン、と音を立たせる。続いて香りを確認してから、いただきますと、グラスを目の高さまで上げたあと、カンパリ由来の赤褐色をしたカクテルを、コクリと飲んだ。
「爽やか……。ほろ苦いけど、軽いオレンジの香りが鮮烈ですね。そして、結構複雑な味わい……。子のカクテル、カンパリの他は何が入っているんですか?」
「カンパリとスイートベルモット、ドライジン、それとオレンジスライスです。カンパリとスイートベルモットが、甘さと複雑な味わいを作り出し、それをジンがしっかり支えて、最後にオレンジが爽やかさを演出する。良くできたカクテルです」
頷きながら、とても美味しいですと云ったナツキさんは、数回カクテルを口に付けてから、グラスをいったん置いた。
「マスター、2つ質問があります」
「なんでしょうか?」
「まず一つ目。ネグローニって聞きなれない言葉ですけど、名前の由来を教えてください」
「カクテルの名前って由来がはっきりしている物としていない物があるのですが、このカクテルははっきりしている物に入ります。このカクテルは、イタリアのフィレンツェのバールで誕生しました」
「カンパリもイタリアでしたよね」
「その通りです」
ちなみにスイートベルモットもイタリア生まれのお酒ですね、と付け加えてから、話を続けた。
「そして、その頃、カンパリとスイートベルモットを合わせたものをソーダで割る、アメリカーノ、というカクテルが人気でした。そんな中、ある一人の男性がアメリカーノに少し飽きて、ソーダをジンに替えてくれ、と云ってオーダしたのがこのカクテルの始まりです。その男性の名は、ネグローニ伯爵と云います」
「ネグローニって、人の名前だったんですね」
「そうなのです。そうして出来上がったこのカクテルは、今や、イタリアを飛び越え、全世界で愛されるようになっています」
ナツキさんは、大きく頷き、ネグローニをまた口に運んだ。
「では2つ目、何故このカクテルを選んだんでしょうか?」
「それはですね、ネグローニの味と、先ほどまでのナツキさんの思い出話と合わせて考えてみてください」
「さっきの話とネグローニ……、ああ、なるほど、ネグローニのほろ苦さと、私の初恋話を掛けたんですか?」
少し、にやりと笑みを返す。
「その通りです。さらに付け加えると、ネグローニのカクテル言葉も『初恋』です。カクテルの由来自体にはその要素はないですから、やはり味わいからの連想なのでしょうね」
「甘さと苦さ、そして複雑な風味、大人になってから反芻することで知る、まさに初恋の味ですね……」
「そうだと思います。そして――」
一息ついてから、努めて落ち着いたトーンで、続けた。
「貴重な、とても貴重な、大人ならではの愉しみですね」
ナツキさんは、無言のまま、ネグローニを飲み、そして、思い耽けるようにグラスを見つめた。
「愉しみ……、そうですね、愉しみですね。とびっきり贅沢な」
「ええ、贅沢ですね。ナツキさんのその贅沢な話を聞くことができて、今夜はとてもいい夜ですよ」
軽く笑みを浮かべながら云うと、ナツキさんも微笑を返してきた。かと思うと、にやっと、小悪魔のような笑みに変わっていった。
「さあ、次は私も贅沢な話が聞きたいなあー。マスターの番ね!」
「ええ? ナツキさんみたいな、綺麗な話はないですから無理ですよ」
「だめです! マスター、ジャックターをマスターに。当然、バーボンベースのサザンカンフォートと、ロンリコ151で作ってね!」
「まだ営業中なので、勘弁してください……」
「どうせ、もう誰も来ないわよ。お願いね!」
やれやれ、と思いながら、ふと窓の外を見ると、零れそうな星空が目に入ってきた。貴重で贅沢な時間、今も何処かで語られているんだろうな、と考えていると、ひとすじの流れ星が、ビルとビルの間を駆けていった――
BAR Bush Cloverの日常 ~ 甘さと苦さと