BAR Bush Cloverの日常 ~ The First Anniversary
憂鬱と恵みをもたらした麦雨の季節が終わった。バーと切っても切り離すことはできない麦の実は、天の恩恵を受けてすくすくと育ち、今後は、我々にもその恵みを還元してくれることだろう。
そして、今日、最初にカウンターに座ったのも、一年の時を、二人で育んできた、雨季の麦のようなお客様だった。
*
「今までの一年、楽しい時間をありがとう。これからもよろしくね、ミユちゃん。マスター、チカさんも、いろいろとありがとうございました!」
「アキラさん、私こそありがとうございました! いい一年でした」
ブルームーンの件から、時を重ね一年。二人の顔を見ると、どうやら充実した時を過ごせていたようだ。その補翼の一部を担えていたなら、こんなに嬉しい事はない。
「さて、乾杯のお酒は、先生からの宿題への回答。お願いします」
「アキラさんからのお願いについては、チカが考えたよ。説明はチカから」
そう促すと、チカは作る手を止めずに、顔だけを上げた。
「ジョシーのアールグレイ、カシスリキュール、グレープフルーツジュース、そしてソーダ、最後にレモンピールを入れます。アキラさんの方は、ジョシーを少し減らして、代わりにコニャックを入れて、大人の風味を出すようにしました!」
「ミユちゃんは紅茶好き、ということ、また、カシスには『希望』という言葉が付いていることから、それらを使ったカクテルをお願いしていたんだ」
ちょうど作り終わった、濃いルビー色のロングカクテルを、用意していたコースターの上に置いた。
二人は手に取り、目の高さまでグラスを上げると、同時にくっと喉を潤した。
「へえー、凄く美味しい! すごくいい組み合わせですね!」
「グレープフルーツジュースくらいまでは想像していたんだけど、炭酸とレモンピールを入れたり、コニャックを入れたりするあたり、流石プロですね。あんなざっくりとしたイメージで、こんな美味しいカクテルを作ってくれて、ありがとうございます!」
「よろこんでもらえて何よりです。アキラさん、名前は何にするか、決めてありますか?」
「『レスポワール』。フランス語で『希望』という名前を付けてみたいと思います。カシスも使っているし。……、どうですか?」
「いい名前ですね! ねえ、ミユちゃん」
「本当に! 最高の贈り物です! ありがとう、アキラさん、チカさん!」
ミユちゃんは、心底満足げな笑みを浮かべたかと思うと、私の方を向いた。
「じゃあ、私からも。マスター、頼んでおいた物をお願いします!」
私は頷いて、数時間前に、ミユちゃんから受け取っていた一つの箱を、冷蔵庫から取り出し、とっておきのロイヤルコペンハーゲンの陶磁器に、倒れないようにそっと置いた。
苺の赤と、器の白のコントラストが何とも美しい。
「これは、ケーキ?」
「ミルフィーユですよ、マキシムドパリの名物、苺のミルフィーユです。マスターとチカさんもどうぞ!」
「わーい、マキシムドパリ、大好き! ミユさん、ありがとうございます!」
ちょうどレスポワールが空になっていたこともあり、ケーキに合わせる飲み物ということで、バックバーの奥からグランマルニエと、フォートナム・アンド・メイソンのリーフが入った缶を取り出した。
リーフにお湯を注ぐと、ベルガモットの清涼な香りが、安らぎも運んでくる。そこに、グランマルニエをフロートさせると、芳醇さも加わり、なんとも贅沢な風味が、部屋いっぱいに醸し出された。
その特製紅茶を皆に配ると、皆も芳香に酔いしれるように、カップを手にしながら目を瞑り、軽く口を付け、しばし琥珀色の世界に潜り込んでいた。
数刻の後、はっとしたかのように元の世界に戻ると、各々、思いのままにミルフィーユに手を付け、再び官能の世界に飛び込んでいき、さらに数刻まどろんだ後、ようやく覚醒した。
「紅茶の香りは濃厚だし、パイも香ばしくて、酸味も適度。これは美味しいね!」
「でしょ? 良かった、喜んでもらえて!」
「私までご相伴させてもらって、嬉しいです! マスターの紅茶も美味しいです!」
「ティースプーンに角砂糖とグランマルニエを乗せて、火を灯す演出も考えたんだけどね。でも、主役はミルフィーユだからね、止めておいたよ」
「主役って?」
アキラさんの問いに、ミユちゃんが口を開いた。
「これはね、私からのメッセージ」
そう切り出すと、右手のフォークを置いてから、話を続けた。
「ミルフィーユの語源は知っていますよね?」
「千枚の葉、という意味だよね」
「そうです。その千枚って、比喩ではなくて、本当に、千以上の層になっているんです。知っていましたか?」
「へえ、それは初耳」
「一枚のパイ生地を、三層に折りたたみ、重ねるんです。それを七回繰り返すと、何層になるでしょうか?」
軽い酔いを覚えているところでは考えがまとまらないのか、うーん、と唸っているアキラさんを出し抜き、チカが答えた。
「2187!三の七乗ですね!」
「正解です。ミルフィーユの生地は、大体六、七回、重ね合わせの作業をして、千層近く、もしくはそれを超える層を生み出し、あの食感を作り出しているんです」
「凄いね!」
「凄いですよね。この話を知った時、とても感銘を受けたんです。私たちも、年を重ねるに連れ、層を重ねて、味わいを深めていきたい、そう思って、ミルフィーユを用意したんですよ」
「なるほど、これがミユちゃんのメッセージか。じゃあ俺は何度重ねてもへたれない様な強い生地になるべく、精進するよ。またこれからの新しい一年、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします!」
二人は目線を交わし、笑顔で再びミルフィーユを紅茶を楽しみ始めた。次の一年、二人はどのような時を積み重ねるのだろうか。楽しみだ。そう思いながら、次の飲み物の準備に取り掛かった。
BAR Bush Cloverの日常 ~ The First Anniversary