透明な糸
1
赤谷(あかや)桃子(とうこ)の通う都立F高校は都会の真ん中にある。都市圏内で最もアクセスしやすい駅がその最寄駅であり、桃子はそれが気に入ってF高を受験したのだった。
桃子は次の春で三年生になる。特進コースに所属していたので、この秋はすでに勉強やら大学調査やらに忙しく過ごしていた。同コースの彼女の同級生たちも今までとは話すことや勉強に対する態度などが変化してきていて、桃子は依然釈然としないながらも、そうした流れに引き摺りこまれていたのだった。
桃子が進路希望届けに書いた大学名は、実際のところ彼女の身の丈には合わないものだった。もちろん確たる目標と意志を持って努力すれば成し遂げられない目標ではないのだが、桃子にはほとんど全くと言っていいほどに、目標だとか意志だとかに通じる具体的な将来像が描けていなかった。彼女はいつの時も「今」に心から満足していると神様に誓えるような、半ば悟ったような性分の持ち主であった。桃子はただ両親に勧められるままに、せいぜい大は小を兼ねるとでもいったつもりで、大学名を記入しただけだった。
窓際の席の桃子はよくぼんやりと、窓の外に林立する灰色のビル群を眺めて午後の時間を過ごしていた。ビルの表面に飾られた巨大な広告の数々が彼女の目に特別な刺激を与えることは滅多になかった。あまりにも鮮やかな、ギラギラとメタリックに光る欲望の現代アートは、生粋の街育ちの彼女にほどよい浅さの眠りをもたらしてくれるばかりだった。
秋の乾き切った風が校庭のケヤキの葉をしきりに揺さぶっていた。F高のすぐ正面を走る都心の大動脈からはいつもと変わらず、無粋なエンジン音が地面と建物のコンクリートを伝って、細かな振動と一緒にびりびりと響いてきた。
桃子は机の下に携帯端末を隠し持っていた。最近は学校の管理が厳しくなり、おおっぴらには机の上に出せなくなってしまっていたためであった。桃子は窓の外から手元に目を落とすと、友人たちから送られてきた滝のようなメッセージを手早く流しつつ、おそらく相手にも流し読まれるであろうことが確実な、凄まじく機械的なメッセージをお気に入りのキャラクターのイラストと共に返した。桃子を含めた生徒は皆、友達付き合いと授業態度における評価点との兼ね合いを保つのにこんなやり方を通していた。
そんな中に一人、チカチカとささやかな電子の明かりを絶えず机上に撒き散らしているある男子生徒がいた。彼の周囲には生徒が無心で筆を走らせる、カリカリという音だけが満ちている。彼に注意を払っている者は一人もいなかった。教師は見て見ぬふりであった。毎回一人二人程度であれば、わけても、それがある条件を満たした特定の生徒だけだとするならば、端末も無害なものだと彼らはよく知っているのだ。桃子は自らの隣の席に座っているその少年、秋野(あきの)文人(ふみと)を、直接は見ないよう巧妙に観察した。
秋野文人は今、教室のホワイトボード上に何が展開しているのか全く知らないというわけではなさそうだった。その証拠に彼のプリントの上には、えらくあっさりとした数式の列がすでにきちんと細かな字で書き込まれていた。桃子は自身の煩雑な解答とそれを見比べ間違いなく向こうが正しい解答だと判断し、ホワイトボード上の数式が完成するより先に、彼の解答をこっそり写し取ることにした。文人はそうした桃子の行動には微塵も関心がないようで、ただ黙々と液晶画面上の作業を進めていた。
桃子と文人は小学校時代からの長い付き合いであった。恋人同士ではない。それどころか、さして仲の良い友達というわけですらない関係だった。秋野文人の名前は「ふみと」と読む。桃子がそれを知ったのはつい最近で、それも本人からではなく、友人づてに偶然聞いたことだった。(授業前の点呼は大抵省略されるか、苗字だけでなされていたため、知る機会は意外にも無かったのだ)
秋野文人は、見た目はごくごく真面目そうな普通の少年だった。よく弦の細い銀色フレームの眼鏡をかけていて、痩せ気味で、鼻筋がきれいに通っていた。人当たりが柔らかく、桃子が春に彼の眼鏡の洒脱なデザインを褒めた時には、ちょっと向かい合った相手がハッとするほどチャーミングな笑顔を見せたりもした。だがその一方で、文人には誰から見ても不思議な、一風変わった性質も備わっていた。
桃子は横目でそっとの俯き加減の文人の横顔を見やって、それから再び窓の外へと目を移した。文人の午後の端末いじりはいつものことだった。桃子はそれが、自分が窓の外を見るのと同じことだと見做している。それに文人にとっては、授業態度における評価点などはちっとも気にする必要がないことなのは桃子にもわかりきっていた。
桃子は常々、どうして文人が自分と同じ学校に通っているのかと疑問に思っていた。文人は校内というくくりに限らず抜群に頭が切れた。いくら特進コースとはいえ、F高の進学実績は本格的なトップ校とは比べるべくもないものである。そのため、もしや文人は特定の科目しかできないのではと桃子も入学当初は考えたものだが、それから立て続けに記録される模試での好成績を見るにつけ、いよいよわからなくなってきたのだった。
数学の授業が終わって、ホームルームが始まっても、文人は端末から一切目を離さなかった。桃子はふと湧き上がったちょっとした興味を心の釜でくつくつと丁寧に煮立てつつ、今はまだ機会を待つ頃合いだと考えて堪えた。
ホームルームでは先月受けた模試が返却された。桃子は自身の無残な成績を見るより先に、今回もぶっちぎりの総合点を叩きだし、全国順位の上位に印刷された秋野文人の名前を見て眉を顰めた。
教室内では生徒たちが答案をひけらかしたり、ひた隠しに隠したりしながら、結果について騒ぎ立てていた。例によって文人は澄ました顔で答案を無造作に鞄の上に放り投げ、小気味よいリズムで端末の画面を叩き続けていた。時々からかいにやって来る友人らをあしらいながらも、文人はそれとなく端末に視線を戻してしまう。桃子は自分の成績がこれまで受けた模試の中でもとりわけひどかったという事実を満足行くまで(二秒ほど)確かめた後、よし、と小さく意気込んで、隣の席へと振り向いた。
桃子は文人のタップが途切れるタイミングを見計らい、その隙を突いて素早く相手に話を振った。
「秋野君、ちょっといい?」
文人は横からの不意打ちに、思わず端末から顔を上げた。彼は道で古い知り合いにばったり出くわした時と同じ顔で桃子の顔を見た。
「赤谷さん? 何?」
「秋野君って、すごく頭良いよね」
「えっ? ……そう?」
桃子のやけに真剣な顔から発された唐突な発言に戸惑い、文人は表情に微かな緊張を走らせた。桃子は相手の顔を正面から見つめ、責めると言うほどけはないが、はっきりとした口調で続けた。
「秋野君はいつもどうやって勉強してるの? どこ大志望なの? ていうか、どうしてそんなにできるのに、F高に来たの?」
「えっ、いきなり何だよ。ちょっと待ってくれよ」
「わかった。待つ」
白黒している文人を瞬き一回分観察してから、桃子は続けた。
「それで、秋野君は……」
「いや、待ってってば」
文人は諦めて手にしていた端末を机の上に置くと、困り眉のまま答えた。
「どうしたんだよ? 急に」
「突然、すごく気になっちゃって。だから、ちょっとだけ、私とコミュニケーションしよう。足りてないよ、私たち」
文人は当惑を隠しきれない様子で言った。
「まあ、それはいいけどさ。でも、どうしたんだよ? 理由をくれよ」
「気になるから。で、どこ大なの? なんでなの? やっぱり、天才?」
桃子に押されて、文人は答えにくそうに話した。
「一応、K大を考えている。でもまだ決めていないよ」
「K大? 秋野君にしては控えめに来たね。K大の、何学部?」
「だから、決めてないって。少しは話を聞いてくれよ」
文人は言いつつうっとうしそうに頭を掻くと、そのまま続けた。
「赤谷さんが俺に何を聞きたいのかわからないけど、別に、俺は普通にやっているだけだよ。そんなに興味を持たれるようなことはマジで何もしていない。困る」
桃子は聞くなり腕と足とをダイナミックな動作で同時に組むと、深い溜息をついた。文人はそんな桃子の干し柿じみた思案顔をしばらく見守った後、改めて尋ねた。
「赤谷さん、どうしたの?」
「…………あのね」
「ああ」
「ううん、今はいいや。今度話そう」
桃子は元の方へ向き直って、ぜんまい切れの玩具を彷彿とさせる急激な脱力で机に突っ伏した。大した意味はない。お腹が空いた彼女は大抵いつもこのように振る舞った。文人は怪訝そうにそんな桃子のことを眺めていたが、それからまたそろそろと液晶の世界へと戻って行った。
それからホームルームが終わるまで、二人はその姿勢を変えることなく、一言も会話を交わしはしなかった。お互いそうした相手に快も不快も覚えてはいなかった。彼らの間柄は極めて安定したバランスを保っていた。それは各々の性格のせいでもあり、過ごしてきた時間の積み重ねのおかげでもあった。二人の間には細くも強くも長くもない、不思議な繋がりが知らず知らずのうちに出来上がっていた。
2
秋野文人にとって不可解なのは、幼馴染の留まるところを知らない暴飲暴食と、彼女の無暗矢鱈とさえ言える、校外における交友関係の広さであった。幼馴染とは言っても彼女と文人は気心の知れた仲とは程遠い関係ではあった。だが意識せずとも目につくには、二人の距離は十分に近かった。
文人は電車の中で、散らかった部屋のエントロピーがどうとかいう流行歌の歌詞を聞きながら、赤谷桃子を初めて見た時の衝撃を思い返していた。
その日は小学校の入学式であった。赤谷桃子はパイプイスがぞろぞろと並ぶ会場の最前列で、弁当を食べていた。高校生の今の姿からは想像し難いが、桃子はその頃丸々とよく太っていて、子供同士ですら息を飲むような自然体の迫力に満ちていた。
後から判明するのだが、桃子の水筒にはオレンジジュースが入っていて、彼女は食べる合間々々にそれを水筒の蓋のコップに注いで美味そうに飲んでいた。文人は眼前で静かに繰り広げられる食卓に何と声を掛けていいかわからず、黙って相手の箸が器用に上下する様を見つめていた。ややあってから桃子は、ふいに文人の方を向いた。彼女はずいと思いきりよくコップを差し出すと、意外に利発そうな調子でこう言った。
「飲む? ええと、ふみと、君」
言うなり桃子の目が文人の名札から、文人の顔へゆっくりと戻されていった。文人は咄嗟には口がきけなかった。同い年の相手におじけづいたのは、彼にとって初めての経験であった。文人が答えかけた、丁度その時、担任の教師がやって来た。桃子は教師の言うことを素直に聞いて弁当と水筒を片付けたが、その日の奇怪な光景と、彼女の輝き溢れる眼差しは、文人の脳裏に後々まで鮮烈に残ることとなった。今日、同じ立ち位置で彼女の顔を見たせいか、文人は久方ぶりにそのことを詳らかに思い出してしまったのだった。
文人は跳ね続けるドラムの素っ頓狂な音に耐え兼ね、イヤフォンを外した。文人は気晴らしがてらに鞄から例文集を取り出すと、本の中程に挟んであった栞を胸のポケットにしまって、それを読み始めた。
車窓を次々と飛び過ぎていく都会の色彩は集中を招くための最高のBGMだった。文人は心地良い落ち着きをようやく取り戻し始めていた。文人は自分の頭が人並優れているとは少しも思っていなかったが、それでも受験勉強という作業は割と好きな部類に入った。文人は作業をコンスタントに続けるのが得意で、それがたまたま良い方向に働いているのだと今の自分の状況を見做していた。帰り際に桃子と会話した際、文人には彼女が何か根本的な勘違いしているのがわかった。おそらく彼女の発言の意図は彼女自身の成績向上だろうが、すでにあの質問をした時点で、文人にできるアドバイスは何もなかったのだ。文人の成績は、彼本人から言わせてみれば、完全に趣味嗜好の副産物だった。
文人は心の内で例文集を諳んじ、一通り済んだ頃に何気なく、奥の車両に立っている人影に目を留めた。つり革に両手を下げているその青年の横顔、もとい彼の頬にある大きな火傷の痕には確かな見覚えがあった。文人は青年の至極無愛想かつ退屈そうな顔つきを眺めながら、暗唱作業を一時中断した。
青年は猫背だが背が高く、周りから頭一つ抜き出ていた。彼は見ようによっては垢抜けて見える灰色単色のシャツを小ざっぱりと着こなし、気だるげに片足に体重を預けて立っていた。彼の名前は雪本(ゆきもと)螢次(けいじ)という。文人と桃子の、もう一人の幼馴染であった。
螢次は文人らより二つ年上で、三人は同じ小学校の、同じ登校班に所属していた。特に文人と螢次の家は同じマンションであり、数年前まではよく家の前で顔を合わせて話をしていた。この頃は生活リズムが異なるのかお互いの姿を見ることも少なくなっていたが、今でも会えば必ず挨拶ぐらいは交わしている。
螢次は昔から文人を可愛がってくれていたので、文人にとっては、彼は少し遠いとは言え、兄のような存在であった。気まぐれで自己愛が妙に強く、独特のセンスを持つ螢次は、見ていても聞いていても飽きることのない人物だった。
文人は螢次が桃子の彼氏であったことを知っていた。それは螢次本人から聞いたので間違いないことだったが、その後一か月もたずに別れたという話は、別ルートから聞こえてきた話だった。別ルート、詰まるところ、文人の母親いわく、螢次は今は大学を中退して、フリーターをしているとのことだった。F高生でも志望者の多い有名私立大学に行ったはずなのになぜ、というのは母親の言だったが、文人としてはあまり疑問の余地はなかった。螢次は昔からその名とは対照的に、興味が湧けばまっしぐらで、飽きたらば即、投げ出すという性分であった。名前から連想されるような勤勉さも決してないことはないのだが、その方向性は大概、周囲の期待とは大胆に外れた方向へと向けられていた。大学のことも(そしておそらく桃子とのことも)同様だと推測するのは容易だった。
結局、文人はまた例文集へと視線を戻した。螢次の声を久しぶりに聞きたい気もしたが、今日の彼からはどこかほの暗い、ひんやりとした孤独感が漂っていて、わざわざそれを突破してまで話し掛ける気にはなれなかった。ああいう時の螢次はすごくデリケートなのだ。文人は以前、螢次と同じピアノの発表会に出た際にそれを学んでいた。
文人は地元駅の二つ手前の駅で螢次が下車するのを見た。そこは付近の繁華街からすっぽり外れた何もない駅で、文人はこれまでの人生で一度も立ち寄ったことがない地域だった。とぼとぼとホームの端の改札へ歩いていく螢次の背中を見送りながら、文人はふと、螢次のアルバイト先がこの辺りであったことに思い至った。確か彼の遠縁の子の、家庭教師をしていると話していた。
文人はちょっと躊躇った後、電車を降りて螢次を呼びかけた。螢次がさも面倒そうな所作で振り向いたその時、文人の鞄の中で端末が震え出した。文人はいつものゲームの連絡だろうと思って、その振動を無意識に受け流した。
3
「よう。何しているんだ? こんな所で」
螢次の声が人の捌けきったホームに響いた。文人は螢次の後を追って駆け寄り、それに返して言った。
「螢ちゃん、久しぶり。電車の中で見かけたんだ」
「そうか」
螢次は、文人の聞く限りではいつもと変わらない、気さくな様子であった。よく見れば目の下に隈はあったが、それでも彼の本当にひどい時と比べれば、やつれてもいないし、表情もあるので、十分健康的と言えた。
「文人はここに何の用?」
「いや、実は、用はないんだ」
文人は多少言い淀んで続けた。
「螢ちゃんに話し掛けようと思って、タイミングを逸した、その結果」
「マジかよ。じゃあ俺に、何か用があるわけ?」
「いや」
「マジかよ」
螢次はもう一度繰り返して笑った。螢次の笑顔につられて文人も笑って言った。
「だから、挨拶できたらもういいんだ。一応元気そうで良かった。もう行くよ」
「おいおい待てよ。本当に?」
「本当に。アルバイト、頑張って。あの子のこと思い出したらちょっと不安になっただけなんだ」
螢次はそう言って踵を返そうとする文人を引き留め、声を上げた。
「文人、時間あるなら、一杯やろうぜ。俺、さっき例のその子の家から連絡来て、ちょっと時間が空いているんだ」
螢次の誘いに文人は苦笑した。
「あー、うん。じゃあちょっとだけ。未成年でよければ」
「よし。じゃあ、駅飲みしよう」
文人は「駅飲み」という単語に疑問符を浮かべたが、螢次は構わず文人を連れて、最も近くにある自販機へと向かって行った。螢次はICカードで炭酸飲料を購入すると、次いで文人に、何が欲しいかと尋ねた。文人はショーウィンドウに行儀よく並んだ清涼飲料水の中から、普段であれば絶対に選ばない、奇妙なフレーバー付きのココアをおごってもらうことにした。普通の飲料にしてはつまらないと刹那的に思った故の選択であったが、手に取ってすぐに彼は後悔し始めた。
文人と螢次はそのまま、ホームの改札とは反対の端にある喫煙スペースへと移動した。そこには菓子会社の名前が印字されたベンチと粗末な灰皿が設置されており、ほのかな煙草の匂いがツンと文人の鼻孔を刺激した。二人はベンチの上に腰をおろすなり、同時にドリンクの蓋を開けた。
「で、最近どうよ?」
螢次の問いに、文人はやけにどろりとしたココアを飲み下してから答えた。喉が焼けつくように甘く、わざとらしいトウガラシの風味がしつこく口に残って気持ち悪かった。
「まぁ、変わりないよ」
「何年だっけ、今?」
「二年」
「来年受験?」
「多分」
「多分?」
螢次はさっさと自分の分のドリンクを飲み終わると、ジーンズのポケットから煙草を取り出して、片手に持ったジッポで火を点けた。文人はその先から立ち上る煙の行方を眺めやりながら言葉を繋げた。
「少し、進学しなくてもいいかなと思っている」
「大学は行っとけよ。貧乏ってわけじゃないんだろう」
「そう言えば、螢ちゃん、J大やめたって」
「ああ、俺はいいんだよ。どうとでもなるから」
事もなげに語る螢次に、文人は感心と呆れの混じった視線を向けた。螢次は満足げに長く一息つくと、続けて話をした。
「お前、頭良いんだから、それを生かせよ。桃子にもこの間言ったんだが、チャンスを掴む第一の足掛かりなんだ、その頭は。すごいことなんだぜ」
「チャンスって、何のさ?」
「それはそいつ次第だろう。お前ってちょいちょい抜けているな」
文人は螢次の話を聞く傍ら、缶の底に溜まっていると思しき沈殿物を少しでも溶かそうと缶を揺すっていた。溶けたからといって飲みきる自信は正直全く無かったが、飲もうとする努力ぐらいはまだしても良いと考えていた。
「赤谷さんと今日、久しぶりに話したよ」
「おう」
文人の言葉に螢次が動じることはなかった。文人はあえて深くは触れまいと思い、進路の話題へと持って行った。
「赤谷さんにも進路を聞かれたよ」
「へぇ、何でまた?」
「さぁ。よくわからなかった、全体的に」
「まぁ、そうだったろうなぁ。桃子も時々、お前と似ているからな」
「俺と?」
文人はココアと苦闘しながら、二重の意味で眉を顰めた。自分が桃子と似ているなどということは考えたこともないことであったし、意味によっては多少心外でもあった。螢次は伸び伸びと煙を味わい、うん、と軽く呟いた。
「どこが?」
文人が聞くと、螢次は灰皿に煙草の先を押し付けながら答えた。
「理解より先に、満足が先に来る。さっきだって、訳の分からないうちに勝手に帰ろうとしやがってからに」
「馬鹿にしていない?」
「仕方ない。性質なんだ。気に病むことはない。ちなみに桃子の方は、どうだって言っていた?」
「どうって、進路のこと?」
「聞いたか?」
「聞いていない。聞いたって、どうせ」
文人は言葉を切ってまた一口ココアを口に含み、不機嫌を隠そうともせずにそれを飲み込んだ。さすがにもうそろそろ限界が近かった。螢次は相手の様子を横目に見て「無理するな」と気遣いつつ、二本目の煙草に火を点けた。
「電車、なかなか来ないな」
螢次のぼやきに、文人がしかめっ面のまま答えた。
「次、十五分後とかだったから」
「お前、よく見えるなあ」
螢次は遠方の電光掲示板に目を凝らして唸った。文人はココアを未だ惰性で揺すりつつ、首を振って付け足した。
「見えていないよ。さっき通りがかりに覚えただけ」
「いずれにせよ、よく見ていることだ」
螢次は背もたれに勢いよく体重を預けると、ふと思いついたという風にまた話し始めた。
「そういや、俺の、アルバイト先の子のことなんだけどさ」
螢次は煙をくゆらせ、露骨に苦い顔をして見せた。
「あの子も俺らと同じ、お前のお袋さんところのピアノ教室の生徒だったんだよな? その頃からあんな調子だったわけ?」
「あんな調子って?」
「ああ……いや、やっぱりいいや。忘れてくれ」
文人は歯切れの悪い相手の言い様を追及しなかった。なるほど、理解より先に満足していると、文人は内心で頷いた。かたや螢次は電車の接近を告げるサインが点滅したのを見て、もう行くかと文人に声をかけた。
「じゃあ、またな。勉強も程々にしろよ」
そう言って立ち上がった螢次を、文人は座ったまま見上げていた。
「俺は平気さ。それより、螢ちゃんだろう」
文人の言に螢次が肩をすくめた。
文人が言葉を続けかけたその直後、轟音を立てて電車がホームに滑り込んできた。童謡仕立てのチャイムが高々と駅構内に鳴り響き、車両からまばらに人が吐き出され始めて、文人は仕方なく立ち上がった。
「じゃあな」
螢次の最後の言葉は、発車を告げるけたたましいベルに掻き消されて聞き取れなかった。文人は電車に乗り込みながら、残ったココアをどうすべきかと溜息をつき、またしても雑音にまみれてしまった己の内的環境に、今度は抗う気も起きなかった。
4
桃子は夕食替わりのチョコカスタードクレープをぺろりとたいらげると、颯爽と鞄から端末を取り出した。桃子にはこれから会わなければならない人物が三人もいた。
桃子はアプリのリストから一人目の名前を引っ張り出すと、自分が今いる場所(繁華街の地下にこっそりと展開する、彼女行きつけの喫茶店の入口であった)を相手に知らせた。返事によると相手もすでにこの繁華街にいるとのことだったので、到着はまもなくだと彼女は予想した。
待つ間に桃子は単語帳を鞄から出し、開くより先にまた中に戻した。無味乾燥でありながらもなぜか抜群に野暮な単語帳の表紙は、像として瞳へ入るなり、光の速さで彼女のやる気を地面へ逃がしてしまったのだった。
桃子は手持ち無沙汰に任せて、夕星がちらつく薄紫色の空を仰いだ。そうして行き交う人々の何気ない会話に耳を澄ませていると、不思議と意識が浮き立ち、身体ごと宙を漂っているような気分になれた。
大勢の、通りすがりのカップルの会話が聞こえてくる、その度に、夏に別れた恋人のことが桃子の脳裏をかすめた。ほんの短い間の付き合いであったにもかかわらず、その記憶は妙に色濃く身に染みてきた。桃子は鞄の外ポケットから常備している激辛タブレットを取り出すと、一粒煽るようにしてそれを口に放り込んだ。舌がビリリとよく痛めば、滲む涙の意味を都合よく書き換えてくれるだろうと期待していた。
思いも空しく、ガリガリと桃子がいくつかのタブレットをまとめて噛み砕いていると、人並みを掻き分けて走り寄ってくる待ち人の姿が見えてきた。
「桃子!」
そう大声で呼びかけた少女は勢いよく両手を振り上げると、満面の笑みで桃子に飛びついてきた。桃子は身長一七四センチの彼女のタックルに押されながらも、何とかその場で相手を抱きとめた。
「久しぶり! 元気だった?」
「うん、それなりにね。千夏の方は?」
「この間、勝った」
桃子の中学時代の友人である雨宮千夏は相手に鋭いピースサインを向けると、それから怒涛の勢いで彼女がキャプテンを務めていたN高空手部の活躍を物語った。桃子はのびやかに相槌を打ったり尋ねかえしたりしながら、喫茶店の中へと千夏を導いた。少し順番を待ってから席に着き、二人がコートと鞄を下ろすと、やっと千夏のマシンガントークは一段落した。
店内は薄暗くも、優しい明度の照明によって心地良く照らされていた。ほのかに香るコーヒー豆の匂いとピアノの音が、集まった人の賑わいを自然と静めてくれている。桃子は深紅のクッションが張られたイスに腰を沈めて、少し頬を緩ませた。
「コーヒー飲むっけ?」
桃子の問いに千夏は元気よく首を振り、そのままの流れで直接ウェイターを呼び付けた。きょとんとする桃子を余所に、千夏は自分の分の紅茶と桃子の分のコーヒーを口早に注文し終えた。
「それで」
ウェイターが席を離れるや否や、千夏は身を乗り出して桃子に尋ねた。
「あのことなんだけれど、どうだった?」
桃子はレモンの香りがする水をちょっと口に含み、小さく肩をすくめて言った。
「秋野君は、K大だって。でも、まだ決めかねているって」
「マジか!」
途端に千夏の顔に笑みがわっと広がった。桃子は合わせて微笑みながら、話を続けた。
「学部も聞こうと思ったんだけど、まだ決めてないから、って言われてしまった」
「どうせ理か工でしょう! よっしゃ、俄然やる気出てきた!」
桃子はうん、うんと点頭しつつ、その実、やや遠い距離を千夏に感じていた。
秋口に千夏に文人のことが好きだと打ち明けられて以来、どうにも拭い去れない靄が桃子の意識の片隅にかかったままになっていた。千夏のことを迷惑だとか不快だとか感じるということではなかったのだが、桃子は何か引っかかるものを感じて、整理がつかないでいた。文人が好きなのかもしれない、と一時期は思ったが、それともどこか異なるような気がしてどうしてもすっきりしなかった。
「昔から思ってたんだけどさ、文人君っていつも一歩引いて生きている感じするじゃない?」
「ああ、わかる。そんな雰囲気ある」
桃子は流れるように言葉を返していた。傍から見れば彼女が上の空であることはすぐに知れるのだが、高揚した千夏がそれに気付く気配はなかった。
「あれ、どうしてなんだろうね? 文人君って顔も綺麗だし、勉強は言うまでもないし、確か結構足も速かったでしょ? ポテンシャル高いのに、何でか孤独っぽいの」
「さぁ……」
言いながら桃子はいたずらっぽく笑った。
「でも、千夏ってそういうのが好きでしょ?」
「そう、そう。私本当、生っ白いのに弱くて。桃子には理解されないけどさ」
「そうでもないよ。秋野君、笑うと可愛いと思うし」
「でも、桃子、アンタの「彼氏」と全然違うタイプじゃない?」
「あっ、その話は、禁止!」
桃子は眉根を寄せ、低い声で続けた。
「私だって、本当はもっとわかりやすい人が好きなんだよ。ただあの人は、特別で」
動揺する桃子を見ながら、千夏はコーヒーカップを片手ににやりと笑みを作った。
「どうだかな。桃子って、ダメな人にとことんハマりそうだし」
「ハマらないよ」
「いや、案外ね」
桃子は言い返す代わりに一口コーヒーを飲み、細かな花の散るカップの模様にちらと目をやった。見ていると思わず目を瞑ってしまいたくなるような、そんなグラデーションがカップの表面をしっとりと飾っている。淡いクリーム色をした陶器に、菫色に絵付けされた花弁が穏やかに調和していた。
「あっ、そう言えばここ、カップがすごく可愛いよね! さすが、桃子のおすすめなだけあるわ!」
ふと桃子が我に返った時、千夏も、持ち上げた自分のカップを観察し始めていた。わずかな時間ではあったようだが、桃子はその間はっきり放心していたようだった。桃子は「でしょう?」とさりげなく話題をそちらへ寄せていきつつ、一瞬だけ生じた自分の意識の隙を省みた。やや無関心があからさまに過ぎてしまったかもしれない、と。幸い千夏は気にしていない風であったが、こうした態度もあまり続けていれば、いつか癖になってしまうだろう。桃子は密かに自分を叱りつけた。何事につけてもふらふらしている自分ではあるが、だからこそせめて、友人に対しては誠実であるべきだと思った。
桃子には友人が多かった。けれどもそれは彼女が会話に熟達していたからではなかった。桃子自身にも自覚のあることだが、彼女はどちらかと言えば、感情がごく素直に出てしまう性質で、表現を飾ることが大の苦手だった。しかし桃子はその分、お互いが居心地良く過ごせる空間作りに強くこだわることで、その弱点を補おうと考えていた。彼女は友人ごとに適した空間を街中に見出していて、その場の力を借りることで、その人と共に過ごす術を身に付けていくことにしていたのだった。
桃子は街が好きだった。それは取りも直さず、どんな友人でも工夫一つで好きになれるということでもあった。桃子は千夏と他愛もない会話を続けながら、何となく、例えば相手が文人であったなら、どんな場所がふさわしいだろうかと考えたりもした。なんだかんだ長く一緒にいながら、実は一度も考えたことのなかったことであった。それは毛布みたいに温かな場所か、電卓みたいに無機質な場所か、それとも。
繁華街では、暮れきった空の下、店先の明かりが通りに漏れ出でて、人々の横顔を絶えず弱く照らしていた。桃子は喫茶店を出て千夏に別れを告げると、次の待ち合わせ場所へと急いだ。
5
螢次のアルバイトが終わったのは午後八時過ぎだった。本当はもっと早くに終わるはずであったが、担当している生徒が部活で遅れてきたせいで、一時間ほど予定が延びてしまっていた。螢次はアルバイト先の家から出ると、ポケットから端末を取り出し、待ち合わせに遅れる旨を相手に連絡した。
周囲は閑静な住宅街で、景観の暗さは実際の時間以上に夜を深く感じさせた。夜道には螢次の端末から出る光だけが煌々と投げかけられ、薄ぼんやりとした幽霊のような街並みが闇にひっそりと慎ましく浮かび上がっていた。
どこかで騒がしく犬が吠え立てていた。螢次は鞄の中にある教え子からの手紙について、いかに返事を書くべきかと頭を悩ませていた。前々から何となく妙な言動を取る子ではあったが、ここまで予想通りに事が運んだとなると、思いがけないでいるよりもかえって一層心身に応えた。断りの返事を書けば、長く続けてきた高時給のアルバイトももう終わりとなるだろう。かといって、さすがに金銭のために、中学生にイエスと答えるわけにもいかなかった。
螢次は駅に着くなり、丁度止まっていた電車に駆けこんだ。発車のベルと同時に彼は正面の空いていた座席に腰を下ろし、ドアの閉まる忙しない音を溜息と共に聞いた。間もなく電車がゆっくりと、都心に向かって重たそうに加速を始めた。車内には螢次の他に数名の乗客がいるだけで、皆、眠いのか寒いのか、じっと静かに肩を縮こめ耐えるようにして目を瞑っていた。
螢次は暗い窓に映る自分の姿をちらと見つめた。別に何のこともない、ただの青年の姿であった。確かに火傷の痕は荒々しく目立ってはいたが、それ以上に、身体つきや佇まいが平々凡々としていて、日常というジオラマの一パーツとしてはほぼ完璧なクオリティを維持しているように思えた。そのような己の姿から螢次はつと目を背けると、今度は停車駅を知らせる電光掲示板へと視線を移した。終点の目的駅まではあと二つ。暇つぶしをするにもやや短い、実に退屈な時間だった。
螢次はポケットから再び端末を引っ張り出すと、別段何の目的もなく液晶画面に触れた。ロック画面を流れ作業で突破して、ネットのニュース見出しにざっと目を通す。こうした一連の行動が螢次を愉快な気分にはさせたことはこれまで一度もなかったが、他にすべきことも思いつかないわけで、この不毛なループから抜け出そうとも思えずにいた。
「本でも読めば?」
かつてそう言った人間が二人ほどいた。いずれも螢次より年下の、とても勉強のできる子供たちであった。そのうちの一人はやけに記憶力に優れた少年で、螢次は彼と話す際、つい同年代と話しているような錯覚に陥ることも多かった。少年の広範かつ細部に渡る知識は、時として大人びているという段会をも通り越し、もはや老成しているという感覚すら相手に与えたものだった。螢次はこれまでに幾度となく、少年の記憶を頼りに色んなものを作ってきた。そしてもう片方には、これから会いに行く途上である。
螢次はその少女と、ついこの間まで交際していた。ただしこれは正確に言えば、螢次が彼女の「付き合う練習」の相手役をしていたということであった。相手が螢次のことを本当はどう思っていたのかはついぞ計り知れなかったが、交際は最初に取り決めた期限通りに無事何事もなく終了した。螢次には面白いのかつまらないのか判断のつけ難い時間であったが、向こうはそれでもそれなりに満足した様子ではあった。少女も少年も、話しても話しても、螢次にとってはあまりにも未知の多い野生動物であった。(それだけに、興味は尽きない面も多々あった)
そうこう考えるうちに、到着を告げるアナウンスが車内に届いた。電車を降りた螢次がホームから下りて改札を抜けると、そこにはすでに、待ち合わせ相手の桃子が立っていた。
輝かしい笑顔の少女が笑う予備校のポスターの麓で桃子は、何もせずにじっと螢次の方を見つめていた。螢次はその眼差しに一瞬どきりとさせられたが、すぐに「よう」と、何気ない日常にはうってつけの馴染みの挨拶を投げかけた。
「よう。遅かったね」
桃子が笑って返してくる。なぜか怒られるかもしれないと思っていた螢次はその表情を見て少しほっとした。
「悪いな、俺から呼んだのに」
「いいよ。家にいてもやることないし。どっか入る?」
「ああ、適当なところでいいよ」
「わかった。じゃあ駅中でいいか」
螢次は桃子について、人でごった返す駅の構内を歩いて行った。桃子は最後に会った時と変わらず、齢の割には落ち着いた風だった。私服が大人びているために、知らなければ大学生のようにも見えた。螢次は痩せぎすでない昔の桃子をよく覚えていたので、今となりを歩く彼女の様にはいつまで経っても違和感があった。
桃子が選んだ店は、ふんわりと香ばしい香りの漂う小さなパン屋だった。
「腹が減っているのか?」
「うん、いつも空いている」
「おごるから、好きなだけ食べな」
「わっ、ありがとう!」
螢次は嬉々として入店し、言われた通りにパンを次々とトングでつまんでいく桃子を眺めながら、自分はコーヒーだけを頼むことにしてレジの側に立っていた。桃子はいそいそと螢次の近くに寄ってくると、平面一杯にパンを乗せたトレイを差し出してきた。
「たくさん食べることにした。だめ?」
「構わないよ。だが、全部、ここでか?」
螢次の問い返しに、桃子は首を左右に揺らした。
「ううん、三つは持ち帰る。朝ごはんに」
「そうか」
螢次らは会計を済ませると、店に付属している喫茶店へと移動した。そこそこ混んではいたが、隅に二人掛けの席が運良く残っていたのでそこへ落ちついた。店内に入ると構内のざわめきは少し遠退いて聞こえてきた。流れるBGMはジャズのようでもあったが、それにしてはやけに明るく、歌謡曲のような雰囲気でもあった。
本日二杯目のコーヒーは、一杯目よりもだいぶ雑な味がすると桃子は思った。カップは白く単調極まりないもので、内側にはうっすらとコーヒーだか紅茶だかの茶渋がこびりついていた。目の前に座る元恋人は、なぜか黙々とコーヒーの中に砂糖とミルクを溶かし込みながら、いつまでも端末をいじっている。桃子はしばらくパンを食べて相手が話し出すのを待っていたが、埒が明かなそうなので仕方なく自分から話を切り出した。
「螢君、相談って?」
「えっ、ああ」
端末を滑らせる手を止め、螢次が顔を上げた。
「なんか、バイト先の子から手紙を貰ったって聞いたけど」
「そう、これなんだが」
螢次は言いながら端末を鞄にしまうついでに、二通の手紙を取り出した。一通目には空色の、二通目には薄桃色の便箋が、透明な封筒の中にきちんと折り畳まれて入っていた。
「断りたいんだけど、どう言う風に書いたらいいか、相談に乗って欲しい」
桃子は螢次から手紙を受け取ると、小さく首を捻った。
「私が見て良いの? 私が送り手だったら、すごく嫌だと思う。できれば簡単に内容をまとめて欲しいんだけど」
「それは俺にもわかるが、どうかざっとだけでも見てくれ。とてもまとめられる内容じゃない。なるべく傷つけずにやり過ごすには、俺の力だけでは不可能だと判断した」
「一通って言ってなかった?」
「はぐらかしていたら、今日、増えた」
桃子は螢次を少し睨んだ後、一度開けた跡のある封をそっと剥がして中を検めた。筆記に使用された紫色のカラーペンはおそらく恋愛成就のまじないの類だろう。そのラメの入った色味は鮮やかであったが、桃子の目には少し読みづらく感じられた。紙面には可愛らしいような、ませ過ぎているような、どことなく危なっかしい文言が細かな文字で、みっちりと綴られていた。桃子はそれを読み進めながら、ある種の文才をそこに見た。人のことをどうこう言える筋合いではなかったものの、桃子は手紙の書き手を、螢次から突き放すべきだと考えた。書き手の少女の自己陶酔は、これ以上放置すれば、手に負えなくなりそうな程に熟れきったものであった。
読み終わると桃子は静かに便箋を元に戻した。
「大体どんな子なのかはわかった。とても可愛がられているんだね、この子」
桃子の言葉に、螢次は嘆息して言った。
「そりゃあもう。窒息するぐらい、砂糖漬けだよ」
「可哀想だね」
「そう。だから、困っている」
「それで、螢君はどういう風に返したいの? まだバイトを続けたいって言うなら、絶望的な気がする」
「それはもう諦めているんだ。だからせめて無難に、傷つけないように返したい」
桃子は腕を組み、眉間を険しくして項を垂れた。正直に言えば、断る時点ですでに相手を深く傷つけることは確実だった。対象はすでにかなり切羽詰まっているだろう。問題はその傷痕をどれだけ残さないかということなのだが、手紙の入れ込んだ文面からして、かなりはっきりとした手法を取らなければ、余計に事態がこじれるのは間違いなかった。
「手紙の他に連絡手段はないの? ちょっと可哀想だけど、メールであっさり返して、逃げ切るとか」
桃子の質問に、螢次は椅子の背に体重を乗せて答えた。
「ない。アドレスの交換とか、許されてないんだ。うちの塾」
「不便じゃないの?」
「問題があったんだよ。かつて、すでに」
桃子はコーヒーを飲みつつ、螢次のどこかやさぐれた雰囲気を気にかけた。桃子はまじまじと螢次を見、彼から何か少しでも見て取れるものはないかと注意した。しかし見る限りでは相手には何一つ変わるところはなく、付き合いをやめて以来、プライベートのことは何も聞かなかったせいもあって、彼の微妙な変化のわけを窺い知ることは出来そうになかった。
桃子は皿の上の最後のパンを食べ終わると、備え付けのナプキンで口元を拭って言った。
「ごちそうさま。ありがとう」
「おう」
「手紙は、会った時に直接はっきり理由と一緒に言うのが良いよ。この際嘘でもいいから、必ず、向かい合って話さなくちゃ。螢君が」
桃子はそこでふいに語気を強めた。
「自分をどう思っているのかわからない。いや、本当は螢君に限らず、誰に対してもなんだと思うんだけど……とにかく、相手の子はそれが一番不安で、それが主軸になって、行動を決めていくんだと思う。だから、文面や口先での言葉にはちっとも意味がないの。つられちゃダメ。螢君は」
まだ続くのか、という相手の文句を指先で制しつつ、桃子は続けた。
「自分では気づいてないのかもしれないけれど、何だか今日は、というか、手紙のことといい、私に対してと言い、どうも調子が悪いみたいに見受けられるよ。やけに行動が自分勝手だし。ね、螢君」
桃子は言い継ぐ間に、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「人と話してるときに、携帯をいじっちゃ嫌」
カップを置いた桃子の突然の声音の変化に、螢次は端末を取りかけた手をぴたりと止めた。
「行儀悪いよ」
桃子はそれだけ元の調子に戻って呟くと、言葉を切った。螢次は束の間目を見張っていたが、ややしてから「悪かった」と、こぼした。
「私はいいよ。それより他のことに、集中」
「…………」
言われた螢次はそれから、きまり悪そうに頭を掻き、ぽつりと言葉を重ねた。
「……すまん、何か」
「何か?」
螢次は目線を相手から逸らし、沈黙した。彼の前にはミルクと砂糖を溶かしたきりのコーヒーが深々と、波ひとつ立てずに溜まっていた。
「すまん。何か最近、色々と」
「色々と?」
「色々と、こんがらがっている」
螢次を見つめていた桃子はふと、それまで相手がいじろうとしていた端末に目を落とした。それは随分と古い型の端末で、盛大にひびの入った液晶画面の奥には、透明感のある、静謐な暗闇が広がっていた。螢次にとってこのちっぽけな機械が何を意味するのか、桃子はよく知らない。ただそこにあるものが、彼女の良く知っている、彼女が憧れてやまないものの土壌であることはしかと感じ取れた。放置された、というよりも、放って置くしかない混沌が、その内に眠っているのである。まだ思考に浮かぶより前の、感覚と意識の中間のような空間がそこにたゆたっている。
桃子はそこまで考えて、唐突に、螢次の目にもう自分が映っていないことを悟った。螢次は自分の外の誰かを見ながらも、同時にいつも、別のどこかに気を取られていて、それでいてその場所がどこか己でもわかっていないのだと、彼女は思うようになった。桃子には螢次が一気に遠退いたように感じられた。すでに出航した船を見送っている、そんな気分が彼女を押し包んでいた。桃子は海に向かってか、船に向かってか、半分は届かないことを承知で言った。
「そっか。……しょうがないね」
螢次は唇を開きかけ、それから少し遅れて、尋ねた。
「手紙のことか?」
「ううん、違う。嵐の前的な」
「全然わからないな。どういう意味だ?」
桃子は螢次を見つつ、静かに首を振った。
「雰囲気の話なの。気にしないで。……手紙のことは、ちゃんと話した方が良いと思う」
「それは、わかったが。一体何のことなんだ? お前まで、わけのわからないことを言って」
「お前まで?」
「いや、何でもない。遮ってすまん」
「螢君。それはきっとまだ、誰にもわからないんだよ」
螢次は真面目くさった桃子の顔にたじろいだ。同時に、どこからともなく広がって来た波紋によって、心のどこかにある琴線が震えた気がした。しかしその振動はあと少しというところまできてまともな音にはならず、たちまち虚空へと立ち消えてしまった。後に残ったのは澄まし顔の桃子と、彼女の前の、清々しいほど空っぽの皿と、とっぷり溜まった、薄茶色のコーヒーだけだった。
螢次は桃子に促されて手紙をしまうと、それから一気に眼前の甘ったるいコーヒーを飲み切った。一体いつの間にこんなに不味いコーヒーを作ったのか自身でも不明であったが、それでも思い切って飲み込むと、少し頭がはっきりとした。
「……すまん、もう行く。ありがとうな」
「何のお礼?」
そう言って目を細める桃子に、螢次は何も答えなかった。彼は華奢なイスから慌ただしげに立ち上がると、まるで見えない何かにせっつかれるようにして、駅の改札へと飛んでいった。桃子はしばし唖然と螢次の後ろ姿を見つめていたが、一度大きく溜息をつくと、喪失感と満足感の入り混じった感傷と共に、別のホームへとゆっくり向かって行った。
桃子と離れた帰り道、螢次は深く考えに耽っていた。手紙のことも、桃子や文人の発言も、もはや完全に意識の外にあった。思考だけがひとり、身体を突き抜けて走り続けているような感覚であった。螢次は浮かぶ音を追い駆けて、捕まえることだけに集中しきっていた。それは遠い消失点上に過去と未来を結び合わせるような、願望とも夢ともつかないものを形にする危うい作業であったが、一歩一歩、確かな充足を彼に与えた。何かが生まれそうな予感が、自販機で買ったばかりのペットボトルの表面を伝って、ぽたりと地面に落ちていった。今晩は水以外に何も受けつけられそうになかった。何か少しでも混じれば、すぐにでも濁ってしまうと彼は信じていた。
6
予備校だらけの通りを抜け、灰色だらけのオフィス群をすり抜け、なおも歩き続けて、桃子は今初めて、相手がどんな場所に生きているのかを知っていると身に感じていた。
桃子はぐるぐると掻き乱れる頭の中の渦に、自らの意思で完全に飲み込まれていった。彼女の身体はこの時極めてオートマティックで、あるはずの意思も、感じるはずの知覚も、全て冷酷なまでにシャットオフされて、黙々と動き続けるのだった。螢次の集中とは異なる、どちらかと言えば、中心のない、放心状態に近かった。進路のことも。友達のことも。好きな人のことも。何もかもが桃子の身体の内でない交ぜになって、畝って波になり、真っ白に砕けたりしていた。
桃子はビルのガラスに映った己を見て、澄ました顔と格好を改めて意識し直した。大人が近い場所では自然と、背筋を垂直に伸ばす力が働いてしまうのだ。馬鹿馬鹿しくなってやっと肩の力が抜けたのは、それから三歩後のことだった。
桃子は右足と左足の機械的な動作をただただ見守り、そしてついに、約束の建物が視野にかちりとぴったり収まるのを見た。
そこでは自分と同年代の少年少女がたくさん集まって笑い合っていた。桃子は己よりも遥かに賢そうなその子供らを見て若干気後れしたが、建物の片隅に立つ一人の少年の見慣れた姿を目に留めて息をついた。学ラン姿の文人は桃子を認めると、小さく片手を上げて合図した。
道路沿いに立つ街灯のオレンジ色が、浮ついていた桃子の意識を身体の中にすとんと落とした。身体に温度が戻って来るにつれ、桃子には歩いていく時間が妙にもどかしく、じれったく思われた。文人は一歩ずつ悠長に歩んで桃子の方へと寄ってきていた。周囲からちらちらと投げられる細い視線をちぎりつつ、二人は一歩半ぐらいの距離を開けて向かい合った。
「お疲れ」
「お疲れ」
「遅くにごめん」
「行こうか」
文人の言葉に桃子はちょっとはにかんだように頷いた。揃って歩き出す足並みは自然と駅の方へと向かって行った。
「予備校、随分遅くまでやっているんだね」
「授業自体はもう少し前に終わっている。自習していた」
「自習?!」
「授業のプリントとか、学校のとか。できるだけその日中にと。そんなにおかしい?」
桃子は開けた口をそのままに、飄然とした文人の顔をまじまじと覗きこんだ。文人はシンプルな眼鏡の奥で一度だけ瞬きをし、何のてらいもなく彼女を見返していた。
「いや……おかしくはない。けど、すごいなぁ」
桃子は言いながら、自分を納得させるために何度か、正面に向かって点頭した。
文人は徐々に賑わってくる通りの雰囲気を感じ取りつつ、このような奇妙な状況に至るまでの経緯について考えていた。夕方、端末を通して桃子から予定を尋ねられた時、文人はすでに予備校の講義室の中にいた。普段はあまり使わないアプリを使ってのメッセージであったため、メッセージに気付くまでに大分時間がかかってしまっていた。文人は遅れながらも一応、予備校が終わってからなら時間が取れると返信した。今から思えばその時に、多少手間でもちゃんと何の用か聞いておけば、この場の微妙な空気は解消されていたはずだったろう。
「あのさ」
意図しない同時の発言に、思わず両者が口を噤んだ。
「……先、いいよ」
沈黙を破って文人が勧めると、桃子はふっと相好を崩して話し始めた。
「ありがとう。今日は急にごめんね。実はちょっと、秋野君に聞きたいことがあって」
「もしかして、今朝言いかけていたこと?」
「そう」
「何?」
淡々とした調子の文人に、桃子はやや声のトーンを落とした。
「教室で話すにはデリケートなことだったの。それで呼び出しちゃってね。勢いがついた時に話さなくちゃと思って。秋野君はさ」
「うん」
桃子は行き違う車のライトが文人の顔を照らして過ぎるだけの時間を空けて、再び言葉を紡いだ。
「全部、覚えているよね? いつの、どんなことでも」
文人は一台、幅の大きな外車が勢いよく通りを抜けて行くのを見送った。元からの仕様なのか改造なのかは定かでなかったが、その車の仰々しいデコレーションは庶民的な街に奇妙に馴染んでいておかしかった。
「それが何か?」
駅周辺に広がる風俗街がもうすぐそこにあるせいか、文人の声を包む人のざわめきはさっきまでよりもずっと色濃く、量感豊かだった。桃子は街並みと同じく淡々とした、夜風に紛れるような口ぶりで続けた。
「だから、それで、教えて欲しいことがあるの」
「いつのこと?」
「小学校の、入学式の日なんだけど」
文人の眼差しが柔く桃子へと刺さった。桃子は魅入るようにその瞳を覗きこみ、言った。
「あの日さ」
「うん」
「聞きにくいんだけどさ」
「うん」
「私、何食べていたかな?」
桃子の言葉に被さって、けたたましいサイレンの音が通りに鳴り響いた。スピーカーから発される割れた怒声と共に、激しく回る赤いランプが、文人と桃子と往来の人の頬を照らして、あっという間に過ぎ去って行った。低く伸びていく音の波の後にはまた元通りのこなれたざわめきが通りに満ちていった。
文人は、まさかそんなくだらないことのために自分が呼び出されたという事実に、まだ対処できずにいた。ようやく事態を受止めた時には、彼は己が何か期待していたことに初めて気付き、その考えを忘却の彼方へやろうとして、その不可能性に打ちひしがれた。桃子はそんな相手の様子には露とも思いが及ばないようで、続けて、慌てた調子で捲し立てた。
「カレーではないよね? いくらお母さんでも、そこまでは攻めなかったはず」
文人は彼女のつぶらな上目使いを冷ややかな顔で受け止めつつ、小さな溜息をついた。
「……餃子だよ」
「え? 聞こえなかった。もう一度、お願い」
「餃子、食べていた。あとオレンジジュース」
「ああ、やっぱりだ!」
桃子は両手を叩き、満足げに首を上下に振った。文人は無表情で相手が喜ぶ様を眺めていた。
「すっきりしたあ。昨日、お母さんとそのことで喧嘩になっちゃってさ……。気を悪くしてない? アーカイブ扱いしちゃって」
桃子の問いに、文人は
「別に」
と抑揚なく答えた。それから彼は、口の端に微かな笑みを湛えて言った。
「どうして、そんな言いあいになったわけ?」
「いや、もののはずみで、あの時は恥ずかしかったなあ、って話になってね。それだけなんだけど」
「そう」
文人は肩にかけていた鞄を逆側にかけなおすと、頭一つ分背の違う桃子を見下ろしながらまた尋ねた。
「それだけ?」
「ううん、まだあるの」
文人は何も言わずに桃子を見た。桃子は足の長い文人に合わせてせかせかと駅への大通りを歩きながら、少なくとも表面上は、何のためらいもなく言い切った。
「昔、私、秋野君に告白したよね?」
風に煽られて、通りの飲食店からしょっぱい、しみるような香りが漂ってきた。真新しいカラオケ店の看板が思い出したように派手な点滅を始める。文人は腕を組み、桃子の問いに淡泊に答えた。
「どうしてそんなことを、今更聞くの?」
桃子は目を細め、通りの明かりで逆光になった文人の顔を見上げた。そこには相変わらずどんな表情も浮かんではおらず、当てが外れた桃子は、あくまで自然な風を装った調子で続けざるを得なかった。
「覚えてないんだよね、あの日の返事。ほら、九つか、十か。そんな小っちゃい頃だったでしょ? おぼろげにしか覚えてなくて。まぁ……今となっては、って、気もするんだけど、気にはなってて」
文人は風俗店街を飾る時期尚早な赤緑のイルミネーションに照らされつつ、どこをということもなく、周囲を漠然と見渡していた。彼はその最後に桃子を見やると、少し明るい、投げやるような口調で言った。
「教えない。俺にも忘れる権利がある」
威勢の良い飲み屋の客引きが二人越しに、道行くサラリーマンの集団に声を掛けた。桃子は初めて見る相手の態度に目を丸くしていた。じっと緊張した面持ちで肩を縮める桃子に、やがて文人は笑顔を見せた。
「ということ。さ、帰ろう」
文人は言うなり桃子の先をさっさと歩いて行った。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
追い縋る桃子に、文人は黙って手を振った。
「え? だめなの? お願い。このパンあげるから!」
「いらないって」
呟きつつ、出会った当初からまるで彼女は変わらないなと、文人は思っていた。見た目はさすがに変わったが、根本の部分は、彼女はあの入学式の日と全く同じであるように感じられた。時々同年代の人間がやけに幼く見えることはあったとしても、今日ほどそれを痛感したことはなかった。
文人は桃子とよく同じクラスになった。苗字が近いことから、学年の初めには大概席が隣になった。なつっこい桃子は文人によく話し掛けてきた。その都度文人は生真面目に答えて、そして数知れない程、忘れられてきた。もっともそれは桃子に限った話ではなかったが、文人には桃子が一番、そのサイクルを繰り返しているように感じられていた。うんざりする。気が緩む。期待する。うんざりする。何度も。
文人は桃子と駅まで行って、同じホームから同じ電車に乗って、同じ駅で降りた。その間も、やがて長くないうちに時の泡と消え去るであろう会話をつらつらと連ねた。それでも文人は、いつもの帰り道に感じる眠気を、その間は覚えなかった。桃子はほぼ一方的に喋っていた。これまでの人生で交わした言葉の総和分ぐらいは話したと桃子は豪語していたが、文人には納得しかねた。
別れ際の、おやすみ、という彼女の一言は、なぜか文人の耳によく残った。桃子が今は駅の反対側に住んでいるということを彼はその時に知った。桃子がお詫びと称して無理矢理に文人の鞄に押し込んでいったパンは、甘そうなバターの香りがした。文人はどっと疲れを感じながらも、なぜか半ば安堵したような気持ちで、静まり返った家路を辿った。
7
鮮やかな赤いマフラーをした桃子は、地元駅の近所にある公園で千夏を待っていた。中学時代はよく二人でぶらついていた公園だったとはいえ、久しぶりなので多少の不安は残っていた。桃子は目印となるベンチに座って確認のメッセージを送る傍ら、鞄に潜ませた激辛タブレットが今日は余計なウェイトであったことを思っていた。一時期は乱用していたものだが、今はもう痛い思いをしてまで紛らわせたい気持ちはどこにも、誰にも抱いていなかった。
桃子は作業を終えると、端末をコートのポケットに手を入れ、透き通るような真冬の青空に顔を向けた。鳥の一団がV字になって飛んでいくのが見えて、それからあとは、恐ろしいほど澄んで、塵一つ見えなくなった。青く広い空間にも実は強い風が吹き荒れているのだと、パイロットを目指している知り合いから聞いた覚えがあったが、こういう寒々とした空の日にはよくその話が思い起こされた。
桃子はポケットの中の小銭を手で数えて、千夏が来るのを気長に待った。全部で百七十六円。日曜だが部活があると聞いていたので、千夏が遅れてくることは予想の範疇だった。どうしてまだ彼女が引退しないのかと言えば、十中八九、好きだから、という答えが返ってくるだろう。桃子は体型維持のためのゆるい運動専門であってその熱狂には共感しきれなかったものの、千夏の競技に対する真剣さには純粋に憧れ、尊敬もしていた。
千夏は約束の時刻から十分後に現れた。豪快なファーのついた白色のコートに黒いロングブーツという相手の出で立ちに桃子は一瞬度胆を抜かれた。だがしかし、キャラクターを抜きにして見れば案外彼女に似合ってもいたのですぐに見慣れてしまった。
「外で遊ぶとか、桃子にしては珍しいじゃん。何を企んでいるの?」
園内の池を囲う遊歩道の上で千夏は桃子にそう尋ねた。桃子はポケットに両手をつっこんだまま正面を遠く見やり、やんわりと答えた。
「知り合いに、サクラを頼まれまして」
「サクラ?」
「ギター弾くんだって」
桃子の目線の奥には広場があり、その少し手前には、自作のアクセサリーやイラストを売るささやかなフリーマーケットが広がっていた。千夏は池を無音で滑って行くボートを横目に見送りながらさらに尋ねた。
「誰が弾くの?」
「知り合い」
「アンタの「知り合い」は広過ぎてよくわからないよ。もっと狭めて教えてってば」
「難しい注文するなぁ」
桃子は道の脇に展開された色とりどりの露天を物色しながら、答えた。
「私の、幼馴染みたいな人。近所に住んでいたの」
「へぇ。男? 女?」
「男」
「ああ、もしかして、「元彼」?」
「当たり」
「へぇ」
千夏はひやかして笑うと、唐突に桃子の頭を荒っぽく撫で回した。
「元気出せよ!」
千夏の言葉に桃子は乱れた髪を直しつつ口を尖らせた。
「もう平気だってば!」
「どうだかなあ」
桃子が顔を顰めると、千夏はさらに可笑しそうに笑った。
池の表面を風がそっと過ぎ、波紋が人知れずふわり音もなく広がって失せた。木々を抜ける風は身を切るように冷たかったが、微かな陽光を浴びて景色は不思議と明るく、和やかだった。
桃子と千夏が広場に着くと、そこにはすでにちょっとした人だかりができていた。人垣の合間から覗くシルエットは螢次のもので、彼はギターをいじりながら、歌を担当する女性と和やかな雰囲気で会話を交わしていた。
「……元気出せよ」
抑えたトーンで千夏がもう一度桃子に囁いた。桃子はきっと歯を見せて千夏を威嚇し、こぼれてくる旋律に集中して気持ちを寄せていった。
繋がりそうで、繋がりきらないメロディの破片たちは、彼女の耳に一音ずつ優しく染みていった。螢次の音楽は一枚の絵みたいだ、と桃子は思っていた。本や映画みたいに次々と事柄が展開していくのではなく、ひとつながりの長い絵巻がどこまでも続いて伸びていく、そんな印象を抱かせてくれる。初めて聞いた時も、今も、桃子は螢次の持つ、千夏とはまた色合いの違った情熱に惹かれずにはいられなかった。
螢次の傍らに立つ女性は桃子の知らない大人っぽい女性だった。螢次の彼女にはこれまで何人もあったことがあったが、彼女の眼差しはその誰よりも鋭く、強かであった。彼女の唇は今にも震えて、歌が溢れそうで、桃子は何となく、彼女が螢次と同じ混沌を抱えている人間なのだとわかった。
遥か上空から吹き降ろす風は、地上の枯葉をくるくると舞い上がらせては、ゆらりゆらりと時間をかけてまた優雅に地へと落とした。曲が始まると螢次らを包む人だかりはさらに大きく、賑やかになっていった。桃子はサクラの必要性を疑う反面、螢次の音の広がりに心底嬉しさを覚えていた。歌声と音色は風に乗って林を抜け、揺れる水面を伝って、長く丁寧に街を響き渡っていった。
桃子は音を楽しみつつ、人垣の中に親しい立ち姿を見つけ出した。時々かち合う視線からすると、どうやら向こうも桃子に気が付いているらしいと知れた。きっと彼も螢次に誘われたのだろう。千夏に言おうかな、と考えて、結局桃子は止した。こういった透明な繋がりこそ、この場にはふさわしいと考えたのだった。
歌声によって紡がれる詞がひたひたと森を浸していく。細く透き通った糸はいずれさらに透けて、拙くなっていくことだろう。桃子は目を瞑って、やがて巡り行く季節に思いを馳せた。
<終>
透明な糸