信じているから
県 裕樹
親しい仲の二人でも、所詮は赤の他人。だけど……
「……ついに、帰って来なかったか……」
時計の針が朝の7時を指す。いつもであれば、そろそろ出掛けなければならない時刻である。が、男はソファーに座したまま、カーテンを開け放して朝日が覗く窓の外を見詰め、一人呟いていた。
「どちらが悪い……? いや、そういうレベルの問題じゃない。俺たちは、もう終わりなんだ……そう言いたいのか? お前は……」
外を見詰める男の瞳は虚ろだった。もしかしたら、目線は外を向いているが、その瞳には何も映っていないのかも知れない。ほんの些細な言い争いから互いの価値観にまで話が発展し、ついに頂点に達した怒りを爆発させた彼女が、彼の頬を叩いて背を向けたのが、昨夜の事。彼はそのまま自宅であるマンションへと帰ったが、彼女はついに戻らなかった。
「そりゃあ、ずっと一緒に暮らしていたって、所詮は違う人格を持った一個人同士だ。噛み合わない部分の一つや二つ、あって当然だろうに……」
たった一度の言い争いだけで、全てを見切ったような物言いをする……お前はそんな女だったのか? と……昨夜はついに使われなかったベッドの主に向かって嘆きの声を上げる男。
後悔? そんなものは、しても仕方が無い。あるのは目の前に突きつけられた現実だけ。それが全てなのだ。しかし……
「理解は出来ても、納得できない事がある……俺だって人間なんだ、自分を否定されれば傷付く事だってあるんだ!」
幾ら叫ぼうが、喚こうが……その事実は覆らない、それは分かっている。しかし、人の心というものはそんなに単純には出来ていない。
窓の下に目を向ける。そこには、通勤・通学のために歩く者、道路を走る車、駅で発車を待つ電車……さまざまな物が目に入る。彼が幾ら傷付き、その気持ちを翳らせて居ようが……世の中は変わらず動いているのだ。
「……行かなきゃ……な……」
重苦しい気分を引き摺ったまま、彼はスーツに袖を通し、『日常』という名の舞台に上る大勢の一人を演じる為に出掛けて行く。その舞台から落ちる事は、即ち人生の終わりを意味する。落とされる訳には行かない……例え、どれだけ傷付いていようとも。
(……今夜の夕食は、久しぶりに俺が作る事になるかな……アイツの好きなホワイトシチューを、タップリと……な)
心の中で呟きながら、彼はいつもと同じように駅に向かう。その夕食は、必ず二人で食べるのだと信じながら……
<了>
信じているから