白い窓

白い窓

『白い窓』

 キャンバスさえあれば、きっと彼はどんな世界にだって思いのまま飛んでいけるのだろうと思っていた。
 実際彼の描く飛行機はそれだけの緻密さと力強さを合わせ持っていたし、その周囲を彩る景色も、少なくとも僕に見える世界と比べてならば、全く現実に見劣りしない、広く、美しいものだった。
 だけど、違っていた。
 僕は骨と皮だけに痩せ細った彼の隣りで、自転車に跨ったまま、彼の絵の具まみれの手を眺めていてふとそう気付いた。
 彼は飛んでなんかいなかった。彼はずっとその場にいて、あるはずもないと僕が嘲ってきた世界を絵筆一つで開拓し続けていたのだった。
そして彼は、僕が知る中で最も勇敢な人間だったにも関わらず、自らの描き出した溢れ出すような世界の中へはどうしても入って行こうとしなかった。
 彼は画家だった。
 彼はキャンバスの奥に他の誰よりも焦がれながら、かえってそれが故に、中へ飛び入ることを拒んでいた。
 彼の掌に刻まれた無数の色の傷痕が僕に教えてくれたのは、彼が紛れもない、一つの世界のための人柱だったってこと。
 彼は描き手としてひたすらにその身を白い窓の向こう側へ捧げていた。それこそ自分自身がどこにいるのか全くわからなくなるぐらいに。
 飛びたい。
 そういう彼の魂そのものだったからこそ、彼の描き出した世界は叫びだすほどに生きていた。
 もし彼が画家でなく、筆を取らずに、ただの夢見人として本当に窓の外へ飛び出して行ってしまっていたなら、恐らく僕は、この河原を毎朝毎晩五年間も駆け抜けていたのに、彼の存在にほんの刹那すら気付かなかったことだろう。
 例えそんな彼がいかに満足で幸福そうに見えたとしても、僕は一切ためらわずに彼の後ろを通り過ぎたと思う。所詮そんなものはただの夢に過ぎないと言って。現実の方がよっぽど大切だと見做して。
 僕は彼が画家で良かったと心から思う。
 画家の彼と僕を出会わせてくれた神様に、僕は今も深く感謝している。


 彼を初めて見たその当時、僕は学生だった。いつの出来事だったか定かではないのだけれど、思い返すにおそらく、大学の三回生だか、四回生だかの時期のことだった。
 あの頃僕は医者になりたくて、そのために日々重い本を鞄いっぱいに詰め込んで、片道六キロの道のりを自転車で勉強しに通っていた。
 あの重たい本たちが僕にもたらしてくれたたくさんの知識は今はもう僕の身体のどこを探してみても見つからない。ただ煙草の残り香みたいに、記憶の上澄みにいくつかの参考書の絵の色相が残っているばかりだ。
 素っ気ない絵だ、というのが、彼の絵を最初に見た時の僕の率直な感想だった。
 実習のための参考書の解剖図にも同じ感想を抱いたものだったから、よく覚えている。
 参考書の絵は緻密な配慮と文字なき言葉で一杯であったし、彼の絵は馬鹿丁寧で、線の一本ずつに神経でも通っているのかと思われた。
 しかし僕は、彼の絵にも勉学にも、それほど特別な関心は抱かなかった。よく出来ていると感服しながらも、本物の心はちゃっかり別のところに取り置いていた。
 ガタゴトと無粋に揺れるサドルの上で、僕の魂はずっと、浮草にもなりきれていなかった。
 長くて細くて、そして決して切れない蜘蛛の糸が、それこそ黄泉のどん底に投げ出されたって必ずあなたを引き上げてみせるよ、って絶え間なく囁きかけながら、僕をがっちり絡め取っていたから。
 へその緒の亡霊は、とっくの昔に生まれ落ちたはずの僕をなおも否応なしに育み続けていた。
 今なら、そんなものは幻想に過ぎないとはっきり言えるのだが。
 あの日の僕にはそうしたものが、憎悪することすら不可能な、唯一の命綱みたいに思えていた。
 ともあれ彼は、そんな僕の足元で小さく蹲り、日がな一日絵を描いていた。
 絵だけで生きている。
 一目でそういう人物だと知れた。
 彼の絵は初めは、スケッチブックに描かれていたものだった。
 玩具じみた複葉機と、なだらかな草原の絵だった。
 彼と僕の頭上にはすっきり晴れた空が広がっていた。
 通りかがりの僕は彼の絵よりも、輝くほどに青い、その眩しい空をより心に留めた。


 僕の学校は北国にあった。
 空気の冷え冷えとした、深緑色の針葉樹に幾重にも包まれた場所だった。
 沿岸から届く湿っぽい潮風に乗って、痩せたカモメがふらふらと学校近くのうらぶれた街まで飛んできていた。
 雪が降ると、その飲み屋街がしんみりと明るくなる。
 僕の下宿はそんな一角に、建物と建物の間を埋めるようにこっそりと建てられていた。
 下宿には大学の附属病院の関係者が多く住んでいたので、僕はいつもどこか落ち着かない気持ちで、神経を尖らして暮らしていた。
 どこにいても同じような人と、同じような匂いに囲まれていた。僕は学校に入ってからいつまで経っても、そうした日常に慣れなかった。
 深夜には、部屋間の壁が薄いためにしょっちゅうどこかしらから物音が聞こえてきた。病院からの緊急の呼び出しに応じて、誰かが急に慌ただしく飛び出していく物音などが多かった。
 他には、いらいらした誰かが駐車場で乱暴に車のブレーキを踏みつける音も聞こえてきた。
 それから、誰かと誰かが動物みたいに睦み合う声も。
 もちろん物音を立てる人々は全員、お互いに顔見知りだった。
 僕には絵描きの彼が心底羨ましく感じられていた。
 どんな場所でも構わないから、ああやって、自分独りだけの世界に没入できたらと考えた。僕は彼の絵ではなく、彼を取り巻く孤独という環境に対し嫉妬を覚えるまでに焦がれ始めていた。
 僕はそういう感情を、本と一緒に自転車の籠にどっさり乗せて学校に通い続けた。
 愛着の込もったその感情には色々と名札を貼ってみたが、どれもいまいち馴染みはしなかった。


 雪が積もるようになると、僕はもう自転車には乗らないで過ごしていた。
 地元出身の同級生は凍結した路面の上を器用に走り抜けていたけれど、そもそも真っ直ぐ走ることさえ難しかった僕には到底できそうにない芸当だった。
 だから僕は身を切り裂く風に肩を縮込めて、延々と学校まで歩いて行く他なかった。入学したばかりの年はあまりの道中に辟易したけれど、年を追う毎に、寒さ以外には何も感じなくなっていった。
 冬が深まるにつれ、雪は途方もなく積もっていく。
 通学路沿いにあった古い納屋は彼に出会った年、ついに雪の重みに負けて潰れてしまった。
 そして当然、彼が座っていた土手にも同じだけの雪が降り積もった。
 彼は消えた。
 最初は僕もそう思った。
 でも、絵描きは寒さに屈しなかった。
 彼は薄ぼけた青色の、スキーウェアみたいなダウンジャケットを不恰好に着こんで、河原からちょっと離れたところにある屋根のついた休憩所で絵を描き続けていた。
 彼が使っていた黄色い表紙のスケッチブックはもう二冊目に入っていた。(彼は同じような絵を何枚にも渡って描き続けていた)
 ちらちらと小刻みに視線を紙面上に滑らす彼の横顔は、寒気の中で思わず息を飲むような熱気に満ちていた。
 僕は手袋の下のかじかんだ手を無意識に握ったり開いたりしながら、ひたむきな彼の様子をじっと眺めていた。
 彼の向こうに流れる川は凍てつくことなく、白く波立ちながら、どこまでもさらさらと続いていた。


 しんしんと雪が降り続く夜。
 僕の下宿の部屋は本当に寒くなった。
 吐く息の白さが唯一命の燃えている証だと身に染みた。
 いくら毛布を重ねても、全く心許なかった。
 ヒーターは一晩中、一生懸命赤く燃えていたのに。
 薄暗い闇の中で静かに身を横たえていると、潰れたそばがらの枕が無言で僕に何かを訴えかけてくるように感じられた。
 僕にはそのメッセージがほとんど理解できなかったが、そういう晩は無性に自分が幼い子供であるみたいに感じられて、どうしようもなく、もう根っからしようもなく、涙が溢れてきた。
 何が悔しいのか?
 何が苦しいのか?
 そう問い質してみても、胸中に残るのはいたずらな引っ掻き傷だけだった。


 春になればようやく雪が解け始める。
 街の雪解けは実に汚らしいものだった。
 あんなに清らかだった雪は、この時節にはどこも泥だの埃だので黒ずんでしまっていた。
 道路はもれなく水浸しになったし、除雪された雪が集められていた道端はずぶずぶにぬかるんで、とても歩ける状態ではなくなった。
 始末の悪いことに、夜になると溶けた雪がまた凍りつく。僕は夜中に買い物へ出る度、何度転倒したかわからない。その度ずぶ濡れになる靴下は湿った部屋の中で、どれだけ待っても乾かなかった。
 春先は進級試験の季節でもあった。
 僕はよくヒーターの前に座り込んで試験勉強をしていた。
 試験はいつもさほど難しくなかったが、そのためにかえって身が砂になって崩れ落ちて行くような空虚さがあった。
 淡々と本を繰り続ける時間は、知識を幾重にも塗り重ねていく代わりに、確実に僕を摩耗させていった。
 ようやく実技試験で落第した時には(それは奇しくも、彼を見つけた年度の終わりだった)僕はむしろ安堵した。
 そうして僕は留年した。
 僕はだれかれ構わずに正直で幼稚な態度をさらけ出しながら、開き直って生きていこうとした。
 居心地は以前にも増してどんどん悪くなっていった。
 雪もほとんど跡形なく溶けたある日、僕は初めて絵描きの顔を正面から見た。
 朝早い実習の日、彼は僕の向かいからイーゼルを担いで歩いて来た。
 その顔は案外年を取っているようにも、若いようにも見受けられた。ただ目だけがぽつねんと、夜空のシリウスのように輝いていた。
 急ぐ僕は猛烈な勢いで、彼の横を通り過ぎて行った。


 桜が散り、本格的な病院実習が始まる段になって、気が付けば下宿に残っている学生は僕だけになっていた。皆、病院の近くに新しくできた別の下宿へ、いつの間にやら引っ越していったのだった。
 同時期より僕は露骨に学校をさぼるようになっていった。
 学校に行かない間、僕は自転車であてどなく街中を彷徨っていた。最初は頻繁に震えていた携帯電話もいつしかぱたりと止んだまま静かに死んだ。
 季節は初夏になりかけていた。
 冬から春にかけて空を覆い尽くしていた灰色の雲はどこかに消え、後には薄い儚い色の青空がしんみり広がるだけになった。
 昼間であれば、田舎といえども知り合いには滅多に見つからない。
 国道を走る車は毎日同じように幾何学的に走って過ぎた。
 僕がぶらついていた駅前は閑散として建物の影ばかりが溜まっていた。
 老人がベンチに座ったまま写真のように動かなくなっている姿をあちこちで見かけた。
 僕は、夢の中のような景色に包まれていた。
 僕はここで満足できるはずだった。
 この場所で、人の期待に両手いっぱいで答えて、誰かにためらわず手を差し伸べられるぐらい強くなって、皆と仲良く手を繋いで笑い合えるようになりたかった。
 そうすれば一人前の大人として、当たり前みたいに僕も自由に生きていけるのだと信じていた。
 でもそれは全部、ちっぽけな自分の、ひとりよがりの妄想だって気付いてしまった。


 僕はどこへ行っても、必ずあの川沿いの土手を通って下宿へと戻って来た。
 僕は彼の絵がひどく気に入るようになってきていた。
 僕は彼の側を通る度に、ようやくキャンバスに下描きされ始めた絵をつまびらかにチェックした。
 最初は見てもちっとも頭に入って来なかった。後でわかることなのだが、あの時の僕は少し病気だったらしい。網膜に映る全てがまるで散漫に、まとまりなく感じられるという症状を伴った病気。
 僕はそれでも(そのせいで、だろうか)堂々と彼の後ろから彼の絵を見ていた。
 彼はちっとも僕の存在になど気付かずに、真っ白なキャンバスの上に、丹念にちびた鉛筆を走らせていた。
 乱雑な十字が徐々に、ゆるやかな曲線に縁取られた機体の形を得ていった。


 真夏。
 青々とした空の下、繁茂した草の香が土の匂いと共にむらむらと立ち上っていた。
 僕は冬の間彼が陣取っていた河原沿いの休憩所に腰を下ろしていた。作り付けの木製の椅子がひんやりとして気持ち良かった。
 屋根の下は暗く涼しく、それでも柱の間から日が豊かに差し込んでくる、この世のものとは考えられないぐらい居心地の良い空間だった。
 彼の絵の下書きは、その前段階であった膨大な量のスケッチを思えば、比較的早々に完成した。
 僕は肩透かしを食らったような気で、描き上がったと思しき絵にちょいちょいと筆を加える彼の背を見つめていた。
 あんなに長い間、あんなに熱心にスケッチを描いたにもかかわらず、出来上がった絵は何だかすっきりと整い過ぎて、物足りないように感じられた。  まるでデパートに飾られた玩具のジオラマの一画を見ているかのようだった。
 これで色を塗って終わりだと言うのなら、何とあっけない。
 幼子に愛され作られたちゃちなプラモデルの方が遥かに遠くまで飛べそうだった。
 僕は彼に失望した。
 本当に自分勝手だとは思う。でもそれが、偽らざる僕の心からの声だった。
 正午を過ぎ、鋭い日差しが僕の自転車をギラギラと熱していた。銀色の車軸が強烈に光を反射している様子は神々しい。
 川が宝石のように輝いていた。
 蝉の声が遠い森から森へと響き渡って、互いに反響していた。
 僕はキャンバスの前で首を捻っている彼に、忍び寄るような足取りで近付いていった。
 僕は彼の肩を叩いた。
 おもむろに振り返った彼は、そのこじんまりとした丸い瞳を精一杯に見開いて僕を見た。


 彼は僕の目を見て、一瞬で何かを悟ったようだった。
 彼は大きな声で――――静寂に満たされた河原では、そのように聞こえたということだが――――叫んだ。
 僕は背筋がぞっとした。
 見れば彼も幽鬼のごとく青ざめていた。
 それから彼は身体ごと向き直り、何事かを一気に捲し立ててきた。
 普通に考えれば、僕に対して喋っているはずだったろう。だがその時の彼は、明らかに僕ではない誰かに向かって言葉を投げかけていた。
 まるでそばがらの枕みたいに。
 僕は誰よりも近くで彼の声を聞いていた。河原には僕しかいなかった。
 鼓膜がびりびりと激しく震えていた。
 僕は彼からきっと目を逸らさずに、真っ向から対峙していた。
 覗きこむ彼の目には空が映っていた。
 妙な話だ。
 雲一つない青い空と、その遥か高い果てを行く翼を持った何かが、彼の瞳の中に宿っていたのだ。
 同時に鳴き声とも唸り声ともつかない、強い振動が僕に伝わってきた。振動は僕の胸中の巨大な空白に、やまびこのように吸い込まれて消えていったが、妖精の羽ばたきみたいな風を後に残した。
 僕はその名残に誘われて川面から放たれる無数の光の粒に目をやった。だがその粒子たちはその次の瞬間、大きくふくよかな生き物じみた風に吹かれて、瞬く間に散り散りになってしまった。
 その後をカモメが一羽、吹き飛ばされるように滑っていった。
 それからふと我に返ってみると、いつもと変わらないしょぼくれた街の景色が僕らの周りに広がっていた。
湧き上がる蝉の声と、断続的な車の走行音と、しみ入りそうに柔らかな水音だけが、僕の耳を賑わしていた。
 彼は諦めてか、それとも疲れてか、叫び止めてすっかり静まり返っていた。
 僕はそっと彼の側から立ち去った。
 休憩所の横で自転車の鍵を外しながら、僕はちらと彼の姿を見た。
 彼は物言わぬキャンバスの前で、じっと何かに耐えるようにして蹲っていた。


 帰ってからの僕は、眠られぬ夜を幾晩も過ごした。
 疲れ果ててやっと意識がなくなったかと思うと、必ずどこかから悲鳴のようなものが聞こえてきて、また目を覚ました。
 黒い人影が枕元で一晩中囁いていることもあった。僕は恐怖に慄きながら、彼が消えてくれるまでいつまでも毛布の中で縮こまっていた。
 起きることのできない朝もあった。いくら起きても、時計は夜明け前の三時半を指したままで、僕は無人の部屋の中で、下宿の廊下から感じる気配に怯えて、息を押し殺し歯を鳴らしていた。
 誰かがいきなり部屋に入って来た時は、もうダメだと思いながら、力の限り叫び続けていた。
 そうこうするうちに、うず高く積まれた服と本たちが窓から差す日を遮り、夏にも拘らず僕の部屋はじっとりと暗く、どんどん塞いでいった。
 部屋のあちこちに細い長い髪の毛がたくさん散らばっていた。
 ホットカーペットの中を大量のダニと蛆虫が這いまわっているという夢を見てから、僕は食事すらできなくなった。
 腹の減らない日が続いた。
 時折けたたましく電話が鳴っていたが、少したりとも寝床から動けなかった。
 別に生きていたい理由もなかったけれど、かと言って、積極的に死に向かう気力も起きなかった。
 僕は有機物として、ただただ存在していた。
 細々と。
 霧がかった頭の中で。
 遠い。
 随分と昔の夢を見ながら。


 ――――お医者さんになりたいの?
 遠くから、くぐもった声が聞こえていた。
 ――――素敵な夢ね。頑張って。
 僕は和音のように重なっていく声に耳を傾けながら、柔らかい繭の中で小さくうずくまっていた。
 ――――頑張って、あと少し。
 繭の中には、僕の他にもう一匹蛹がいた。窮屈で不快な感触はしばらくすると、二つの体温が溶けて交じり合ってわからなくなった。
 ――――もうすぐ自由になれるのよ。
 蛹の片方はえらく静かな奴だった。
 呼吸の他には身動きは一切しなかった。時々瞬きするのでもなければ、実はこいつは僕の器官に過ぎなくて、本当は大して生きてなんかいないのだとすら思われた。
 僕らは同じ繭の内にいるには少し、大き過ぎた。
 ――――羨ましいわ…………。
 声の終わりがちょっと沈んでいた。まとまっていた旋律が徐々に、綻びつつあった。
 ――――どうしたの。あと、もう少しよ。
 ――――頑張れ。
 ――――私はいつもあなたを信じている。
 ――――何のために、今まで頑張ってきたというの?
 …………何のために。
 僕は聞こえた音を機械的に反芻した。
 僕は、と、僕が呟く。
 僕は、と、片割れが遠慮がちにこぼす。
 その先の言葉がふと浮かんだ時には、声はもう僕らの彼方だった。


 …………ふと、何かが明るく、ぽつりと灯った。
 どこに?
 それはあの時にしか感じられなかったから、今はもう説明できない。
 ただその灯がじんわりと次第に膨らんで、温かく息をし始めたことは鮮烈に覚えている。その熱は身体が生来持つ熱に紛れてしまって、やがて区別できなくなった。
 とにかく僕は、そのおかげでやっと体を起こして、レトルトカレーを温めることができるようになった。奇跡だったのだろう。その証拠に、奇跡的にご飯もレンジで温めるだけのものが残っていた。
 ああ、死ぬほど美味い食事だったとも。
 一口咀嚼するごとに、身体が脈打ちながらしきりに頷いていた。
 泣いていたと思う。
 自分の身体の内で、誰かが一生懸命に話し掛けてくれていた。うまい、うまいと、僕は喉の奥から溢れてくるその声に合わせて、何度も繰り返した。
 ぐちゃぐちゃの部屋が急に慕わしく感じられた。相変わらずひどく汚かったけれど、もう底知れない恐ろしさは微塵も感じなかった。
 本の背表紙に書かれた文字はどれもまだあまりうまく飲み込めなかった。けれど、あれらが早急に片付けられねばならない物だということが、この時初めてはっきりと理解できた。
 僕は食事を終えると、見えない場所に乱暴に追いやられて、一人寂しく湿気にまみれていたキャンバスとようやく向き合った。
 黄色い表紙のスケッチブックは置かれた時の姿勢のまま、健気にキャンバスの傍らで控えていた。
 僕は側にいる彼に謝った。
 彼は僕の隣りで、例のごとく、何も言わずに強い瞳で立っていた。


 久しぶりに外に出てみると、驚くほど空気が冷たくて澄んでいた。
 僕の一番好きな季節、秋だった。
 タイヤに一杯の空気を入れた自転車を漕いで、いつもの河原に出掛けてみると、そこにはすでに夢中かえって絵に張り付いている彼がいた。
 僕は彼の隣りに自転車を止めて、改めて描かれ始めた絵を眺めた。
 散々悩んだ末に、下書きは大体以前と同じものとなったようだった。
 少しだけ違っていたのは、風の描写であった。
 それと、それとなく映り込む人影だ。
 まだ色もついていないのに、ガソリンと土の匂いが漂ってきた。模型みたいだった飛行機が、人の手によって、飛ぶための機械に生まれ変わっていた。命の息吹が世界の中心で力強く唸り出したのだ。
 ものとしては少しの差だったが、劇的な変化と言っていい。
 僕は彼の集中を乱さぬよう、そっと相手の表情を見やった。
 だがそんな配慮は全く余計なお世話だった。彼は僕などには一切目もくれず、ダイヤモンドだって貫きかねない眼差しでひたすらに描き続けていた。
キャンバスさえあれば、きっと彼はどんな世界にだって思いのまま飛んでいけるのだろうと僕は思った。
 やがて違うとわかるのだけれど。
 その時の僕はそう勘違いして、熱っぽく彼を見守っていた。
 ややしてから僕は、今やすっかり目に馴染んだ街並みへと目を移した。それほど高くない空をカモメが数羽、ふらふらと風に流されていくのが見えた。
 僕は素直に憧れた。
 もっと高いところへ。
 どこまでも、飛んでいきたい。


 何年かして、僕は自分の生まれ故郷に帰って来た。
 地元の友人らは皆、すっかり大人になっていた。
 黒い格好良い服に身を包んで、背筋を伸ばして、まだどこかあどけない様子を残しながらも、それでも僕から見れば誰もが見紛うことなき立派な大人だった。
 僕は片腕に描きかけのキャンバスを抱えて、山も川も森も星もない、カラスがギャアギャアうるさい懐かしい街で暮らす彼らに手を振った。
 向かい風が僕の翼を浮かび上がらせる、少し前の出来事。

白い窓

白い窓

真っ白なキャンバスに立ち向かう「彼」と、それを見守る貧しい学生の「僕」。 彼らは風と雪の舞う街で、出会うべくして出会った。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-04

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