メロスとの併走

森山智仁

「お先、失礼します」
 タイムカードを切る。午後五時六分。定時で上がれる職場に感謝しながら、颯爽と街へ出る。
 風が温かい。ヒールがアスファルトをリズミカルに叩く。
 向こうから高校生のグループが歩いてくる。男子三人、女子二人。きっと新入生だ。制服姿が初々しい。けれど、四月にしては打ち解けた雰囲気。中学が一緒だったのだろう。弾ける笑顔に、桜の花びらが舞い散る。
 すれ違いざま、心の中でつぶやく。今のうちにせいぜい友達ゴッコを楽しんでおきなさい。この世は競争なんだから。
 茅場町駅の階段を下りていく途中で、着信音が鳴った。母親。無視してバッグに携帯を放り込む。三分後の電車に乗りたいのだ。相手をしていたら乗り遅れてしまう。
 だいいち、大した用件もないに決まっている。野菜は食べているか、恋人はできたか、いつもそんな話ばかり。
 ご心配なく。彼氏ならいます、二人もね。
 中野行きの電車に乗って、二人の恋人へ同時にメールを送る。
「今夜、行っていい?」
 どっちでもいい。先に返信が来た方に行く。
 一人は職場の先輩。仕事はできるし顔も悪くはないけど、一緒にいてちょっと疲れる。もう一人は大学の後輩。小説家志望のフリーターで、応援してないし尊敬できないけど、甘えさせてくれる。
 たった二駅。あっという間に着いた。
 前を歩いていた中年の男が自動改札で引っ掛かり、心の中で舌打ちする。「自動改札で引っ掛かる人間」を、私は理解できない。カードの残高ぐらいどうして把握しておけないんだろう。

 仕事で成功する人間は皆、体を動かすことに一定の時間を割いているという。
 ランニングの習慣は中学時代、陸上部に入ったことがきっかけで身についた。以来十五年、ずっと続けている。体より心の健康を保つためだ。
 足を怪我して一ヶ月ほど走れなかった時、錆びた錨みたいに気持ちが重くなって、走ることが自分にとってどれほど大切だったかを思い知らされた。
 血を通わせるのだ、自分の心に、自分の力で。
 美容にいいだけじゃない。毎日運動しているのといないのとでは、頭の冴え方がまるで違う。
 受験や就職に成功したのもランニングのおかげだと、私は確信している。

 行きつけのランニングステーションは大手町駅直結だ。
 自宅や学校、職場の周辺を走るのでない限り、荷物やら着替えやらをどうするかという問題は常につきまとう。それらを一挙に解決してくれるのがこのランニングステーション、通称ランステである。ロッカーとシャワーが使えて一日八百円。会員になれば一ヶ月四千円で、バスタオルも借りられる。
「月四千円!? 走るだけなのに? よく出せるね、そんなお金」
 同期の里香は目を丸くしたけれど、決して高くはない。たかが飲み会一回分。
 だいたい、里香の懐が寂しいのは、お金の使い方が下手だからだ。この前は男にウン万円もする時計をプレゼントしたとか言って、独りで悦に入っていた。多分、相手はさほど喜んでいないだろう。
 それに里香は服にも化粧品にもお金をかけ過ぎる。高いやつを買えばいいってもんじゃない。大事なのは着こなしやメイクの技術。春の新色だか何だか知らないけど、その前にアイラインの引き方練習しなよ。
「宮川さん、こんにちは!」
 ランステのフロントで、顔見知りの女性スタッフが声をかけてきた。化粧っ気のない、健康的な笑顔。里香よりよっぽどかわいい。
「今日あったかいですね」
「うん」
「きちんと水分補給してくださいね」
「ありがとう」
 受け取ったキーをカチャリと鳴らす。
 清潔なロビー、爽やかなスタッフ、ほどよいボリュームで流れるラジオ。
 正直に言おう。この「セレブ感」(本物のセレブには笑われるだろうけど)も、私がここを利用する大きな理由の一つだ。自分が勝ち組になったような気がする。いや、実際、勝っている方だと思う。
 荷物と着替えの問題をもっと安く解決したいなら、銭湯を使うという方法もあるらしい。使ったことはないけれど。
 ふと携帯を確認する。新着メールなし。今日は二人とも返信遅いな。ま、別にいいんだけど。
 ロッカー室に入る。この時間帯はいつも混雑している。私と同じような仕事帰りのランナーが多いのだ。
 よく見かける顔もいくつかある。けれど、決して声はかけない。私にとってランニングは自分だけのためのものだ。
 友達なんか作って、一緒に走ろうみたいな流れになったら、相手に合わせなきゃならなくなる。はっきり言って私は速い。ちんたら走ってたら気が狂う。シャワーの後一杯いこうなんてのはもっと勘弁。時間の無駄遣いでしかない。
 現代社会は人間関係が希薄だとか嘆く人がいるけど、私は何も問題だと思わない。基本、しがらみでしかないもの。他人との繋がりは必要最低限でいい。あ、フロントの彼女は別ね。お互い邪魔にならない関係なら大歓迎。
 髪を束ねる。ロッカーを閉めて、キーを回す。靴ひもをギュッと結ぶ。よし、準備OK! 今日は何となく体が軽い。

 皇居ランニングの愛好者は多い。
 アクセスは文句なし、景観も良し。一周約五キロという距離は初心者にも走りやすいし、途中信号待ちがないというのも魅力の一つ。
 周辺には交番が多く、女性ランナーの安心材料になっている。
 ただ、人が増えればいさかいの種も増える。あちこちにマナー遵守を呼びかける看板が立てられている。
 いわく、逆走は控えよう(基本は反時計回り)、音楽プレーヤーのボリュームを抑えよう、ゴミを持ち帰ろう、等。
 どれも当たり前のことばかりだと思うが、わざわざ書いてあるのは守らない人間がいるからだ。
 害虫みたいな奴らはどこにでもいる。職場にも。ろくに仕事もできないくせに口だけは達者な上司とか、サボり方しか考えていない新人。あの人たちは一体何が楽しくて生きているんだろう。

 大手門の前で準備体操をしながら、あたりを見回す。
 いたいた。黒のキャップにサングラス、高そうなシューズ。私のライバル君。
 歳は多分二十二、三だろうか。素顔を見たことがないからわからないけれど、とにかく私よりは若そうな雰囲気。
 ライバルと言っても、言葉を交わしたことはないし、会釈すらしない。こちらが勝手にライバルだと思っているだけ。でも、向こうも私のことは意識しているはずだ。
 彼は必ず私より少し遅れてスタートする。一定のハンデをつけて、「どこで彼女(私のこと)を追い越すか」が彼のテーマなのだ。つまり、私の側からすれば、「どこまで追い越されないか」がテーマ。
 はじめは竹橋駅付近でいつも追い越されていた。それが、国立近代美術館の前、千鳥ヶ淵の交差点とだんだん遠くなり、今では半蔵門のあたりまで来ている。ライバル君の登場のおかげで、陸上部時代の勘が戻ってきたのだ。
 「自分のペースで」、「無理はしない」。それもランナーの心がけの一つではある。でも、競う相手がいれば俄然モチベーションが上がる。
 この世は競争だ。ずっとそうだった。
 私が今、都会のオアシスで夕日を浴びながら背伸びなんかしていられるのは、ひたすら勝ち上がってきたからに他ならない。
 誰とも戦わず、故郷の田舎町でそれなりの努力しかしなかったら、それなりの生活しか手に入らなかったはずだ。
 私はまだまだ上に行く。必要とあらば、他人は蹴落とす。いくらでも。
 タッ、と乾いた音を立てて、スニーカーが地面を蹴った。

 音楽はいらない。風の音だけを聴く。
 でっぱったお腹が重そうなおじさん、ほとんど歩いているようなペースのおばさん、ダサいジャージの学生たち、みんな追い越して、私は走る。
 横に広がって走る仲良しグループは、わざと大きな足音を立てて、どかす。慌てて道を開けた烏合の衆どもの間を突っ切る。
 私を追い越していくのは車道の自動車ぐらいだ。その自動車も、前の信号が赤になれば止まり、抜き返される。
 歩道を行くのはランナーばかりではない。地味なスーツのサラリーマン。追い越した後、視線を感じる。スタイルにはちょっと自信がある。
 竹橋駅から先は緩やかな上り坂。ペースは落とさない。ぐんぐん走る。
 自分の体を使いこなしている。その実感が私を満足させる。食べたものが胃で溶け、腸から吸収されて、エネルギーに変わり、脳の命令に従って、手足を動かす。しなやかに。効率的に。
 派出所を過ぎたところで、視界が開けた。前を走る人間がいない。前から来る人間もいない。
 じゃあ、ちょっとだけ、いいかな。
 目を閉じて走るのが好きなのだ。勿論、人とぶつかる心配のない時に、ほんの少しの間だけ。
 目を閉じると、まるで快適な乗り物に運ばれているような気分になる。感覚が研ぎ澄まされて、木々や水の匂いがずっと強くなる。堀から立ちのぼるマイナスイオンを、全身で吸収する。
 怖いもの知らずというわけじゃない。もちろん怖い。ドキドキする。でも、それがまたいい。ドキドキなんて、恋愛ではもう随分感じていない。
 ふと、違和感があった。いつもと何かが違う。
 わかった。水音だ。
 堀の流れは遅い。普段ならこんな音はしないはず。今日は工事でもしているんだろうか?
 それに、何だか暑い。陽が出てきた? いや、元々晴れていた。
 目を開けると、そこは――
「……何これ」
 赤茶けた大地。強烈な西日。私の知らない世界だった。

 緑のない、乾いた山道に私は立っていた。
 夢?
 にしては現実感があり過ぎる。ベタだけど、頬をつねってみる。うん、痛い。どうやら夢じゃない。
 見下ろせば、果てしなく広がる荒野。建物らしきものがどこにもない。こんなの映画でしか見たことない。
 さっきから聞こえる水音は? 後ろだ。
 大きな河が流れていた。凄まじい濁流。河岸と対岸に二本ずつ、杭が打たれている。増水で橋が流されたらしい。
 はっと息を飲んだ。河から手が生えてきて、岸辺をつかんだのだ。分厚い男の手。
 続いて、逞しい二の腕と、濡れた金髪、そして青い瞳が現れた。
 外人! じゃあここって……外国?
 それどころじゃない。とりあえず、助けなきゃ。
 駆け寄り、手を取る。足を踏ん張り、全力で引っ張る。自分ごと流れにさらわれそうになって、歯を食いしばる。
 場違いにも「大きなカブ」の童話を思い出した。ここには助けてくれる仲間はいないけれど。
 ザバッ! 男の身体が岸辺に引き上げられ、私は尻餅をついた。
 まさかこの河を泳いできたのだろうか? いや、そのまさかなのだろうけど。
 男は片方の肩から巻きつけるような白い服を着ている。何、この人? 神様?
「かたじけない」
 荒い息をつきながら、男が言った。
 あっさり聞き取れた。ギリシャ彫刻みたいな外見に反して、あまりにも流暢な日本語。強烈な違和感。まるでアニメだ。
 ってことは、やっぱりこの人は神様(どうしておぼれていたのかは謎)で……つまり私、死んだ? 交通事故か何かで。
 ああ、目をつぶって走ったりしたからだ。なんて馬鹿なことを! まだやりたいことがたくさんあったのに。
「あなたは命の恩人だ。しかしあいにく、十分な礼をする持ち合わせも時間もない。この河の向こうに私の村がある。今はご覧の通りの有様だが、どうか機を見て訪ねてほしい。羊飼いのメロスが命を救われたと言えば、何がしかの礼を受け取れるはずだ」
 それから男は、妹と、妹婿の名を口にした。
 急ぐ男。妹の結婚。流された橋。荒野。これらのピースを集めてできあがる話と言えば……よくよく検証するまでもない。国語の教科書で読んだ。
「メロスって、あのメロス?」
「どのメロスかわからぬが、俺の名はメロスだ」
「もしかしてあなた今、セリヌンティウスを助けるために都へ?」
「何故知っている? あなたは都の人間か?」
「都って言えば都、かな」
 東京都だけど。シラクスじゃなくて。
「都では珍妙な服が流行っているのだな」
「まぁね」
 私の服装は変わっていない。お気に入りのブルーのランニングウェア。タイツにハーフパンツ。
「ああ、世間話をしている場合ではない。事情をご存知ならば、私が急ぐ理由もご理解いただけよう。すまぬが、これにて」
「あ、ちょっと待って!」
 メロスは走り出した。裸足だ。乾いた地面に、濡れた足が大きな足跡を残す。
 ――いきさつはさっぱりわからないけど、とにかく私は今、太宰治の『走れメロス』の世界にいる。
 来てしまったものは仕方ない。考えたってどうせわからない。素早く頭を切り替える。いい機会。あいつには言いたいことがあったんだ。
 メロスに追いつき、隣を走りながら囁いた。
「やめちゃえば?」
 青い瞳がこちらを睨む。
「わざわざ殺されに行くの?」
「友が待っている」
「放っとけばいいじゃん」
「さてはお前、王の手先か」
 胸にずしんと響く怒声。怯んだことを悟られないように、おどけた口調で返す。
「違う違う。私は一般人」
「俺が行かなければ王はきっと手を叩いて喜ぶだろうな。『これだから人は信じられぬ』と」
「王様は正しい。人を信じたら馬鹿を見る」
「哀れな女よ。お前や王が間違っていることを証明するためにも、俺は必ず日暮れまでに辿り着いてみせよう」
 メロスがスピードを上げる。私は食らいつく。
「なかなかの足だな」
「鍛えてるから」
 とは言え、喋りながら走るのはなかなかつらい。
「俺を止めて、どんな褒美を得る」
「だから王の手先じゃないってば」
「違うなら、何故止める」
「友情とか信頼とか、そういうの大っ嫌いだから」
 数秒の沈黙。私の靴とメロスの足がバラバラのリズムで大地を叩く。
「……哀れな」
「勝手に哀れんだらいい。でもこっちは迷惑してるの」
「迷惑?」
「あんたみたいなバカ正直を見習って泣かされた人間もいる」
「どういう意味だ?」
「人を信じろ。信じることは素晴らしい。そういうことが言いたくて走ってるんでしょ? 命がけで」
「そうやも知れぬ」
 迷いだの使命感だのごちゃごちゃ書いてあったけど、要するにそういう話。悪い王様は改心して、メロスは許されて、大団円。めでたしめでたし。
 とんだ笑い話だ。現実はそんなに甘くない。
「信じて裏切られた経験はないの?」
 私にはある。

 家は、山あいの平凡な農家。私は一人っ子だった。働き者の父と、善良さが服を着て歩いているような母の間に生まれた。
 私が小学校四年の時、一家は突然貧乏になった。まるで落とし穴に落ちたみたいに、突然。
 食卓は質素になり、父は唯一の趣味であった釣りをやめ、母はパートを始めた。私は友達を家に呼ばなくなった。人が来れば母は以前と変わらずお菓子やジュースを振る舞う。小学生の私も家計を助けなければと感じていた。
「お父さんはお友達を助けたの」
 母はそう言った。
 大人になってから事情を知った。何のことはない。父は騙されたのだ。
 年賀状のやりとりしかしていなかった古い友人にどうしてもと頼み込まれ、借金の保証書に判を捺した。そして、逃げられた。よくある話だ。
 幼い私は、貧乏が悔しくて、勉強に励んだ。勉強を頑張れば、偉くなって、たくさんお金を稼げる気がした(その考えは正しかった)。
 中学に上がり、部活は道具を自費で買わなくて済む陸上部を選んだ。英単語を覚えて、走り、年号を覚えて、また走る。
 高校は特待生として入り、さらに東京の名門大学に合格して奨学金を受け取った。都会での一人暮らしにはすぐ慣れた。その頃には小学校時代の悔しさは薄れ、努力が報われる喜びの方が勝るようになっていた。
 課外活動はもちろん陸上部。陸上サークルでなく陸上「部」。ピリピリとした雰囲気が性に合っていた。
 あらゆることが順調だった大学二年の夏、盆に帰省して、信じられない話を聞いた。
 母がオレオレ詐欺に引っかかったのだ。そう、今は「振り込め詐欺」だが、当時はまだ「オレオレ詐欺」と呼ばれていた。
「うち、息子いないじゃん」
 呆れ果てた私は、漫才のつっこみのような口調で言った。
 相手は「甥」を名乗ったのだという。なんでそんな馬鹿な話に……と思うが、冷静さを失わせるのが奴らの手口。母は簡単に乗せられた。
 家のことは心配しないで、自分のことを頑張れという母に、憐憫や感謝よりも、怒りを覚えた。何考えてるの? 悔しくないの?
 私は悔しい。奮起して、より一層熱心に勉強し、陸上部の練習にも精を出した。
 大学間対抗レースに代表選手として出られるかも知れない。そういうところまで来た時、今度は私自身を悲劇が襲った。
 悲劇、と呼ぶにはお粗末なやり方だ。部内の選考レース当日、靴を――よく足に馴染んだ、言わば「愛機」を――隠された。追求しなかったけれど、犯人は雰囲気でわかった。親友だった。親友だと思っていた。

「裸足で走れば良かったではないか」
 メロスが言った。
「あんたとは違うの」
 借金の保証書やオレオレ詐欺の説明にも苦労した。そのあたりの事情をこの時代の人間に理解させるのは難しい。どの時代だか知らないけど。古代? かな、多分。
 私たちは森の中を走っている。木の根を飛び越え、茂みを突っ切る。走りながら喋るのにも慣れてきた。
 メロスが走りながら木の実を二つもぎ取り、一つ投げて寄越した。かじってみる。甘い汁が細胞に染みわたる。
「要するに、一家揃って人に騙されたというわけか。そしてお前は人を信じられなくなった」
「何か納得できないところでもある?」
「いや、わかる。自然の流れだ」
 おや? 意外と素直。
「俺もお前と同じ運命を辿っていたら人間を信じなくなっただろう。恐らくは王も、これまでに幾度か騙され、傷ついたのだろうな……」
 木々の合間、町並みが見えた。あれがシラクスの都か。太陽はまだ高い。この調子なら間に合うだろう。
 いや、何故そんな風に考える? 間に合わなくていいのだ。セリヌンティウスには悪いけど、私はこいつを引き留める。生ぬるい物語を変えてやる。
「わかってくれてありがとう。でも、あんたはまだ少し誤解してる」
「何を?」
「私は人を信じられなくなったんじゃない。人を信じちゃいけないってことを理解したの。発見したの」
 信じる者は救われない。それが真理。英単語や年号なんかより、先に教わりたかったこと。
 足元にアリの行列。何かの死骸を運んでいる。
「この世は弱肉強食。父も母も、私も、食われた。今度は食う側に回ってやる」
「人を騙せ。欺け。お前はそう言いたいのか?」
「そこまでは言わない。正攻法で勝てるから。でも人を信じろって叫ばれたら、黙ってはいられない」
 メロスは応えなかった。彼の足は止まらない。ペースは落ちない。
 会話が途切れた。さて、何を言おう。どんな話をすれば説得できるだろう、この強情そうな男を。
 そもそも、今、異様なほど人を信じているのは、メロスでなくセリヌンティウスの方だ。見張りもついていない死刑囚が一時出所するための身代わりなんて、たとえ親友でも考えられない。
 何しろ、死ぬのだから。約束の時間までにメロスが戻らなければ、セリヌンティウスはあっさりと死ぬ。
 メロスを待つ間、セリヌンティウスは何もできない。何の努力もできない。祈ったところで、自分が助かる確率は一パーセントも上がらない。信じてただ待つのみ。正気の沙汰とは思えない。
 確か『走れメロス』では、メロスは刑場に辿り着いた後、一度走るのをやめてしまおうかと思ったことを恥じて、セリヌンティウスに殴れと言った。それに答えてセリヌンティウスは、三日間で一度だけ疑ったことを告白し、メロスに殴れと言った。二人は一発ずつ殴り合い、ひしと抱き合う。まるで古い少年マンガ。いや、それよりも、セリヌンティウスがメロスを疑ったのが「一度だけ」なんてあり得ない。
 もし私がセリヌンティウスだったら、一度とか二度とか、数えることすらできないだろう。メロスが去った直後にもう疑い始める。昼も夜も疑い続け、やがて「メロスは戻ってこない」と確信する。
 だって、助かるのだから。私を見捨てさえすれば。簡単なことだ。死が目前に迫った私にはわかる。人は死にたくない。石にかじりついてでも生き延びたい。だから、メロスはきっと見捨てる。私は後悔する。三日間も耐えられず、いっそ殺してくれと願うだろう。発狂するかも知れない。
 メロスが戻ってきた時は、まず驚く。天地がひっくり返ったような衝撃を受ける。そして、あまりの安堵感に、足腰が立たなくなる。たとえ大観衆の前でも、「一度だけ疑った。殴れ」なんて格好つける余裕はない。
 私の心が特別汚れているわけじゃないはずだ。普通の人は、セリヌンティウスよりも、私に近いはず。セリヌンティウスは理想的過ぎる。それこそ、まるで神様だ。「一度疑った」ぐらいの譲歩で、人間味が出せているなんて思わないでほしい。作り話だってことはわかっているけど、あまりにも現実とかけ離れている。
 私は気付いた。本当に文句を言ってやりたい相手はセリヌンティウスだったのだ。でも、この場にいない。いない相手には何も言えない。仕方がないからメロスを止める。現実の厳しさを突きつけてやる。
 さぁ、どうする? どうやって止める?
 いっそ力ずくで? いや、それは無理だ。いくら私が日頃鍛えているといっても、この太い腕にかかったらひとひねりだろう。
 だいいち、力ずくで止められたとしても、本意ではない。メロスが「本音」を白状して、自分で「セリヌンティウスを見捨てる」と決断してくれるのが一番いい。それでこそ人間だ。
「何を考えている、女」
 と、メロスが声をかけてきた。
「別に、何も」
「やけに静かではないか。俺に言いたいことはもうおしまいか?」
 上手い返しが思いつかない。
「では、今度は俺が訊こう。何故俺を助けた? 俺があのまま川に流されてしまえば、お前の目的は果たされたのではないか?」
「あの時は、あなたがメロスだって知らなかったから」
「では、知っていたらどうだ?」
 ――わからない。
「それでもきっとお前は助けてくれただろう」
「どうでしょうね」
「赤の他人や、敵対者ですら、見殺しにはできない。自分を信じて待ってくれている親友なら、なおさらだろう」
 相手を助けて、自分も助かるならね。そう言おうとした時、左右の木の陰から男たちが現れ、行く手を塞いだ。
 六人。めいめい、手に剣や棍棒を持っている。
 山賊だ! 本物の、山賊。略奪者。身がすくんで、声も出ない。
 頭目らしき、髭の男が言った。
「金目のものを置いていけ」
 メロスは落ち着いた声で言った。
「ご覧の通り、何もない」
 一応、私の腕時計があるけど。
 髭の男が剣の切っ先をメロスに向けた。
「貴様の首に価値がある。王が金に換えてくれる」
「やはり王の手先か」
 メロスが身構える。戦う気だ。私、どうしよう。
「この女には手を出すな。彼女はお前らのお仲間だ」
「知らんぞ、そんな女」
「目的が一緒だ。俺を止めようとしている」
「仲良く走っているように見えたがな」
「奸計をめぐらせていたのだ。そうだろう?」
 そうなんだけど、声が出せない。
 髭の男の口もとが不気味に歪んだ。
「安心しろ。その女は貴様を殺した後、たっぷりかわいがってやる」
 時代劇みたいなセリフ。これだけベタな展開なんだから、メロス、勝てるんだよね? 確か『走れメロス』では相手の武器を奪って……。
「死ね!」
 髭の男が剣を振り上げ、メロスの脳天めがけて打ち下ろす。メロスはその腕をばしっと捕らえ……いや、捕らえなかった。下がってよけた。
 どうも期待していたのと違う。雲行きが怪しい。
 メロスが言った。
「逃げろ」
「え?」
「奴らの狙いは俺だ。お前は逃げろ。その足なら逃げ切れる」
「そんなこと……」
「できないか? お前がさんざん俺にやれと言っていたことだぞ。他人を見捨てて自分が生きる。さぁ、俺の目の前でそれをやってみせろ」
 やってやる、お望み通り。と、思ったけれど、足が動かない。
 すくんでいる所為ばかりではない。何か大きな力が働いている。蹴落とせない、他人なのに。
「私が逃げた後、あんたも上手く逃げおおせるかも知れない。だから、あんたを置いては行けない」
 そう言うのが精一杯だった。
 メロスは苦笑して言った。
「では、そういうことにしておいてやる」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる!」
 男たちが一斉にメロスに襲いかかる。
 メロスは腕で頭をかばいながら、棍棒を持った男に体当たりした。男は真後ろに倒れながらも、握った棍棒は離さなかった。そう簡単に武器は奪えないらしい。
 そして、メロスも体勢を崩し、前のめりに倒れた。だが、すぐさま、転がっていた石を拾って起き上がり、近寄ってきた男に投げつけた。石は当たらなかったが、男たちは次の攻撃を躊躇した。既にメロスがもう一つ石を拾っていたからだ。
 その手があったか。私も石を拾い、思い切って投げつけた。当たったらごめん。当てようとしてるけど。
 石は髭の男の背中に命中した。
「てめぇ、何しやがる!」
 私の方を向いた髭の男の後頭部を、メロスの拳骨がしたたかに打った。男は気絶……しなかった。やっぱり映画みたいにはいかない。それでも、男たちの怯む気配ははっきりと感じられた。
「逃げるぞ」
 と、メロスの声。私に言った?
「ぐずぐずするな!」
 メロスは素早く私の手を取り、棍棒の男に蹴りを入れながら、都の方へ向かって駆け出した。
 ……逃げるんだ。いいんだけど、逃げ切れる?
 ほら、追いかけてきた! みんな滅茶苦茶怒ってる。
「手を離して! このままじゃ走りにくい」
「わかった」
 男たちの怒号。怖くてもう振り返れない。
「後ろを見るな」
 ええ、言われなくても。
「大丈夫だ。追いつけやしない」
 大丈夫かな。短距離は苦手なんだけど……。
 メロスは走りながら、時おり石を拾って後ろへ投げた。男たちも石を投げ返してきたが、幸い、私たちに当たることはなかった。
 無我夢中で走った。走れた。自分の体力に驚いた。男たちの声がだんだんと遠のいていき、やがて聞こえなくなった。振り切れたのだ。
 森を抜け、街道らしきところに出たところで、メロスが立ち止まり、地面にどっと腰を下ろした。その顔は笑っていた。私もつられて、笑った。

 その後、私たちは身動きが取れなくなってしまった。メロスが立ち上がれないのである。何度か立とうとするが、すぐ崩れ落ちる。
「動いちゃ駄目だってば」
「休んでなどいられぬ」
「そうは言っても、立てないでしょう」
「何のこれしき……」
 片膝をつき、うつむいたメロスの鼻や顎から、大量の汗がしたたり落ちる。
「ちょっとごめん」
 と、私はメロスの額に触れた。
「何をする」
「いいから、じっとしてて!」
 熱がある。それにこの汗。間違いない、熱中症。
 さらに私は、メロスの服の裾をまくり上げ、足を調べた。
「おい、よせ」
 メロスはうろたえたが、無視した。
 捻挫や肉離れは起こしていないけれど、軽い痙攣がある。これも熱中症の症状だ。
 考えてみれば、メロスはあの激流を泳いで渡り、それ以前にもずっと走り続けていた。そしてさっきの格闘。逃げながら石を拾って投げる動作もかなり負担がかかったはずだ。消耗の度合いは私の比じゃない。
 男たちから逃げられた安心感で、自分自身もどっと疲れが押し寄せてくるのを感じていた。いつ倒れてもおかしくない。
「少し休憩しましょう」
「勝手に休んでいろ。俺は行く」
「言うことを聞いて。これ以上無茶したら、脱水症状起こして本当に死ぬかも知れない」
「どうせ死ぬ身だ。どうなろうと構わぬ」
「着く前に死ぬって言ってるの!」
「俺が辿り着けなければ、お前の望み通りだろう」
「違う。死んでほしいわけじゃない。あんたの心の闇が見たいの」
「……酔狂な」
 太陽は容赦なく照りつけてくる。
「さっき全力で走った分、まだ時間はある。大人しくしてて」
 しばらく安静にしていなければならない。いや、それだけでは足りない。水分と塩分が必要だ。
 水を捜しに行く? 近くに河は見当たらない。森へ引き返したらまた山賊たちに出くわす可能性もある。雨さえ降ってくれればと思うが、憎たらしいほどの快晴。天の恵みに期待はできない。
 塩分はどうする? 痙攣は血液中の塩分不足が原因。水を飲んだだけでは治らない。塩タブレットを持ってくれば良かった。ランステのロッカーに入っているのに。
 ――どうやって元の世界へ戻るのか。そのことは不思議と気がかりではなかった。結末を見届ければ、恐らく。とにかく今はそれどころじゃない――
 メロスの顔色が悪い。このままじゃ本当にまずい。
 その時だった。街道の向こうから、荷馬車が近づいてくるのが見えた。都へ向かっている。
 ラッキー! よし、ヒッチハイクだ。親指を立てても通じないだろう。手を高く上げて、大声を出す。
 馬が駆け足になって近づいてきた。良かった、助けてくれそう。
 荷馬車の主は、事情を尋ねるより先に、「乗りなさい」と言った。
 メロスに肩を貸して、荷台に座らせる。馬車が走り出す。積み荷の樽がごとごとと揺れる。
「喉が渇いているだろう。これを」
 と言って、荷馬車の主は水の入った皮袋を渡してくれた。
「ありがとう、おじさん!」
 思わず声が弾んだ。
「すまぬ」
 メロスの声は弱々しい。
 先にメロスに飲ませる。すると、一口だけ飲んで、返してきた。
「もっと飲んで」
「お前も飲め」
「わかった。私も飲むから、残りは飲んで」
 一口、含んだ。体の芯へ一気に吸い込まれていく。どんな上物のワインよりおいしい。全部飲み干しそうになるのをぐっとこらえて、メロスに皮袋を渡す。
 あとは、塩分。
「ねぇ、おじさん。塩持ってない?」
「塩?」
「ちょっとだけでいいんだけど」
 流石に、ないよね。塩なんて普通持ち歩かない。
「その樽の中身はオリーブの塩漬けだ。適当につまんでいいよ」
「本当に?」
 樽の蓋を開けると、緑色の宝石みたいなオリーブの実がぎっしりと詰まっている。
「いただいていいの?」
「ああ」
 何度も感謝を述べて、オリーブを一つつまみあげ、口に放り込んだ。
 酸味と塩気が口いっぱいに広がる。あまりにおいしくて、身震いした。心の中で活力のメーターがぎゅんと上がる。足りなかったものが満たされていく。
 遠慮するメロスにも無理やり食べさせた。とりあえずこれで大丈夫なはず。都に着くまで、しばらく休める。
 メロスが荷馬車の主に言った。
「ご主人、世話になりっぱなしで厚かましいことは承知の上だが、少し飛ばしてくれないか」
「お急ぎかね」
「ああ」
「お安いご用」
 と、荷馬車の主が馬に鞭を打った。
「恩に着る」
「都の門まででいいのかい? 行きたいところまで送ってやろうか?」
「いや、結構。門までで十分だ」
 メロスに手を貸したと知れれば、荷馬車の主があとで王から咎めを受けるかも知れない。そうメロスが考えていることは、言葉を交わさなくてもわかった。
「わしに気を遣ってくれるのかい。遠慮するな。刑場まで送ろう」
 思わず、メロスと顔を見合わせた。
「メロス、あんたは町じゃ有名人だよ。戻るか戻らないか、賭けをしてる連中までいる。戻らないに賭けてる奴の方がずっと多いがね」
「そうか。彼らには悪いことをした」
「よく戻ってきたな。大したもんだ」
「俺とて迷わなかったわけではない。村を出るまでが大変だった」
「なるほど、そうだろうな。しかしよく迷いを捨て切れた」
「いや、今でも迷っている」
 え?
「そうなのかい?」
「迷いは捨てたつもりだった。だが捨て切れてはいなかった」
 荷馬車の車輪が小石を踏んで、メロスの横顔が揺れる。
「この車に拾ってもらう前、俺は無理に進もうとしていたが、実を言えば、本当に進みたいなら休むべきだと理解していた。俺は、自ら限界に達して、諦める口実を作ろうとしていたのだ」
 そうだったんだ。だったら――
「悪いことしたね」
「いや、全面的にそうだったというわけでもない。だが、確かにそういう意識もあったと、認めざるを得ない。お前は適切な助言をして、自分の首を絞めたわけだ」
 まぁ、そういうことになる。陸上部出身の癖が出た。
 荷馬車の主が言った。
「馬を止めようか? ここで降りても、わしはあんたを軽蔑しないよ」
「しかし尊敬もできなくなる。そうだろう?」
「そうだな」
「このまま行ってくれ。あんたの荷馬車は勇者を乗せている」
「わかった。気が変わったらいつでも言ってくれ」
 メロスは迷いを認めた。それでも行くってこと? あやふやなままで?
 私の疑問を察したように、メロスが言った。
「俺が迷おうが何だろうが、行かねばならぬことに変わりはない。迷いを抱えたまま行くのもまた一興。ただし、王の前では虚勢を張ってみせるがな」
 虚勢というなら、きっと今でもそうなのだろう。誰かが見ているから、自分に鞭を打てる。
 ランニングにも、そういうところはある。走るのはあくまで個人。見ているのは他人。別に誰も褒めてくれない。けれど、人の目があるから頑張れる。怠けたがる気持ちを押し殺せる。
 もしかして、メロスをここまで連れてきたのは、私? 何だか頭がぼうっとする。
「今さらだが、名前を教えてくれないか」
「玲子」
「レイコ、まだ足りないか?」
 メロスはまっすぐに私を見つめている。
「俺が見苦しく荷馬車を飛び降りれば、お前は満足か? その方が人間らしいか?」
「そう、だと、思う」
 顔も知らぬ、父と母を騙した人間を思い浮かべた。人間は、裏切る。他人を蹴落とす。それが本質。
「ならば、『人間らしさ』の定義を、俺が変えてやる」
 かすかに声が震えている。荷馬車の揺れのせいではない。
「俺の方が、人間らしい」
 死を恐れているのだ。自分の足で走るより、運ばれていく方が、きっと恐怖は強い。
 私は何を見たいのだろう。こんな格好いいことを言って、土壇場で逃げ出すメロス? 
本当にそうだろうか?
 こんがらかったままの頭で、尋ねた。
「セリヌンティウスって、どんな人?」
「どうということもない。普通の男だ」
 そっか。普通か。
 妙に納得しながら、私は眠りに落ちた。

 ――夢を見た。夢だという意識のある夢だった。
 故郷の家。揺れる風鈴と、蚊取り線香の煙。季節は夏だ。
 若い頃の父がちゃぶ台に一枚の紙を広げ、頬杖をついている。
 すぐに理解した。あの紙にサインをすれば、父は騙される。お金をむしり取られる。今思えば貧乏のおかげで得たものは少なくなかったけど、だからと言って父が騙されていいわけがない。
 止められるものなら止めたい。が、声が出ない。体も動かせない。幽霊になったように、眺めていることしかできないらしい。
 父が口を開いた。
「玲子、ごめんな」
 父は私の存在を感知(?)しているようだ。
「お前の人生は、こういうものとは無縁であってほしいと思う。借金の保証人なんて絶対なるもんじゃない。お父さんも馬鹿じゃない。わかってるんだ、一応な」
 だったら、どうして?
「あいつは高校を出て上京した。同窓会にも来なかったし、今は年賀状だけのやりとりになってた。でも、高校時代は……親友ってやつだったと思うんだ。少なくともお父さんはそう思ってた」
 その頃は、でしょ?
「あいつがきちんと借金を返すなら、こんなものはただの紙切れだ」
 疎遠になった友達を頼ってくるなんて、まともじゃないよ。昔は知らないけど、変わっちゃったんだよ、その人。
「信じてる、ってのは違うな。信じたい。いや、それもちょっと違う。何だろうなあ」
 何が言いたいの?
「保証人になるのを断るってことは、お父さんは彼を信じないってことになる。信じない自分になるのが嫌だ。そういうことのような気がするな」
 父の節くれ立った手が、朱肉の蓋を開く。
「もし苦労をかけたら、ごめんな」
 苦労かけたよ、実際。
 父に借金の肩代わりをさせた人物が、始めから逃げるつもりだったのか、それとも始めは返す気だったのか、本当のところはわからない。だがいずれにしても、彼は約束を破り、父が責任を取らされた。
 ゆっくりと捺印する父の顔は、自棄になっているようにも、昔の親友を盲信しているようにも見えない。義務を果たしているみたいな、迷いのない表情。畑仕事をしている時と同じ。
 どうしてこんな夢を見たんだろう。父とこんな話をした覚えはない。でも、判子を捺す姿は、もしかしたら、この目で見ていたかも知れない――

 瞼の向こうで、声が聴こえる。口論、だが押し殺したような声。
「約束が違うぞ」
「うるせぇ。分け前は俺が三、お前が一だ。これ以上はまからねぇ」
 一人は荷馬車の主の声だ。もう一人は若い男。
「見つけたのはわしだぞ。眠らせたのもわしだ」
「だが手を汚すのはこの俺だ。おっかねぇから代わってくれって、そっちが頼み込んできたんじぇねぇか」
 眠気が消し飛んだ。騙されたのだ! 荷馬車の主も王の手先で、あの水には恐らく眠り薬が入っていた。
 馬車は止まっている。ここはどこなんだろう。
 薄目を開けて、様子を窺う。石造りの部屋。案の定、若い男は剣を持っている。
「お前が三、わしが二でどうだ」
「まからねぇっつってんだろうが」
「大きな声を出すな。目を覚まされたらどうする」
「ああ、そうだな。さっさとやっちまおう。腰抜けのあんたはそこで見てろ」
 殺される! どうする?
 縛られてはいない。動くことはできる。
 メロスは――のん気に寝息を立てている。メロスを起こす? この状況、すぐに対応できるだろうか。それとも私が戦う? 石を投げたことしかないけど。今は石もないし。
 男が近づいてくる。やるしかない。とにかく、大声だ。鼓膜を破ってやるつもりで声を張り上げて、相手を怯ませるついでに、メロスを起こす。そのあとは……なるようにしかならない。
 薄目のまま、音を立てないよう、肺いっぱいに空気を吸い込む。せーの……。
「ぐっ、てめぇ!」
 男の呻き声。何が起きた?
 目を開いた。メロスが、左手で男の腕を、右手で男の喉をつかんでいる。
 起きてたんだ! たぬき寝入りのうまいこと。
「武器を離せ。さもなくばこのまま首をへし折る」
 剣が落ちた。すごい。映画みたい。と、感心してる場合じゃない。
 急いで剣を拾い、私は言った。
「ほらね」
 男を地面に組み伏せながら、メロスが言った。
「何がだ?」
 荷馬車の主は地に額をこすりつけ、震えている。
「やっぱり、これが人間」
「……そうだな」
「でも、だからこそ、私はあんたが辿り着くところを見たい」
「お目にかけよう」
 メロスは男の腕を締め上げ、荷馬車の主に言った。
「ここはどこだ?」
「どうかお許しを……」
「ここはどこかと訊いている。答えなければ、こいつの腕を折る。次はお前だ」
「お命ばかりは……」
「質問に答えてくれ。乱暴な真似はしたくない」
「ここは、西の市のはずれでございます。刑場からはだいぶ離れております。既に夕暮れ。もう間に合いませぬ」
 鉄格子をはめた石の窓から、不吉な赤い光が射しこんでいる。
「間に合うかどうかは、天の決めること」
 メロスは男を放し、矢のごとく走り出した。
 手にした剣をどうしようか、私は一瞬躊躇したが、すぐに捨てて、メロスのあとを追った。

 黄昏のシラクス。土埃が舞い、豚と鶏の匂いがする。
 市場の路地は狭い。大荷物の行商人、火を吹く大道芸人、右手で頭に乗せた壺を押さえ、左手で弟の手を引く少女――行き交う人々の間を縫うように走る。
 どこからか、メロス、と囁く声がした。認識されている。
 また王の手先にからまれたらまずい。もう時間がない。漆喰の壁に当たる光の色が刻一刻と変化している。
「頑張れ!」
 それは突然の声援だった。声の主はわからない。だが、喧騒の中、確かに聞いた。メロスの勝利を祈る人間がいるのだ。少なくとも一人。
 いや、一人ではなかった。
「よく戻ってきた!」
「まだ間に合うぞ!」
「道を空けろ! 勇者のお通りだ!」
 胸に熱いものが込み上げてきた。応援されているのは自分ではないのに。
 彼に声をかけても、人々は何も得をしない。それどころか、王の意思に逆らったとして、罰せられるかも知れない。それでも人々は、叫ぶ。喝采を送る。
 中には野次を飛ばす者もいた。棒切れを差し出して転ばせようとする者もあった。メロスが棒を飛び越えると、唾を吐き、わめき散らした。
「偽善者め! てめぇのせいで大損だ!」
 賭けに加わっていたのだろう。
 善意と悪意。そのいずれもがメロスの背中を押しているように、私には見えた。
 メロスはさらに速度を上げ、黄金色の坂道を駆けていく。

 坂を上りきったところで、兵隊が槍で道を塞いだ。
「止まれ」
「通してくれ!」
「この先、民間人は立ち入り禁止だ」
「何を言っている。向こうにも人がいるではないか」
「あれはみな正式な許可を受けた商人たちだ。通行証は持っているか?」
「そんなものはない」
「では、通せぬ。帰れ」
 なめくじが這うような兵隊の口調。みえみえの時間稼ぎだ。
「俺は罪人だ。今日処刑されるメロスだ」
「罪人が何故こんなところにいる」
「石工のセリヌンティウスが今、俺の身代わりになっている」
「しばし待て。刑吏に確認する」
「日没までの約束なんだ!」
 まともに相手にしちゃいけない。そう口にする時間も惜しんで、私は兵隊とメロスの間をすり抜けた。
「おい、女、待て!」
 その直後、メロスの膝が兵隊の腹を強打した。兵隊はその場にうずくまった。
「すまぬ」
 メロスの礼に応える代わりに、私はただ走った。
 シラクスは高台の都。地平線が見える。太陽が落ちていく。もうじき、接する。

「あそこだ」
 メロスが指差したのは、大きな円形の建物だった。ローマのコロッセオによく似ている。あれが刑場だなんて、趣味が悪い。
 正面の大通りはひどく混雑している。路地へと回る。
 ひと気のないその道の真ん中、まるで彫刻が置かれているみたいに、女は倒れていた。腹が大きくせり出している。
「すみません、医者を……医者を呼んでいただけませんか……」
 消え入るような声で女が言った。
 あまりにも不自然。タイミングが良過ぎる。
 メロスは立ち止まった。立ち止まってしまった。女は若い。多分、ちょうどメロスの妹ぐらいだろう。
 私は怒鳴った。
「駄目! 行きなさい!」
「だが……」
「見え透いた罠じゃない! もう何度も騙されたでしょう。学習してよ!」
 まくしたてても、女は芝居をやめない。
「お願いです、医者を……」
 夜が迫っている。メロスは動かない。
「わかった。じゃあ、あんたの代わりに私が騙される」
「お前が?」
「この人の面倒は私が見る。だから、行きなさい。こんなことしてる場合じゃないでしょう」
「レイコ……」
「見届けられないのは残念だけど、無様に騙されるのを見せつけられるよりマシ。さっさと行って!」
「残り短き生涯、お前のことは忘れぬ」
 そう言って、ようやくメロスは走り出した。
 さて、と。
「はい、残念。さ、もうそのおなかの詰め物出したら?」
 女は応じない。苦しげに息を吐くばかり。
「いい加減にしてよ。見てて痛々しい」
 往生際が悪いったらない。
「やめろって言ってるでしょ? 騙される人の気持ちがあんたにわかる? どうせわかりたくもないんでしょうけどね」
 横っ面をはたいてやろうと、しゃがみこんで、気付いた。
 長い髪が汗で額にはりついている。それに、この顔色。まさか、と、女の足元を見る。そこには小さな水たまりができていた。
 芝居ではなかったのだ。体がかっと熱くなる。
「待ってて」
 全速力で大通りへ戻ると、人の良さそうな女商人をつかまえて、医者の家を尋ねた。
 そして、また走る。走りながら、念じた。
 ごめん。ごめんなさい。私、どうかしてた。周りがみんな敵だと思い込んでた。さっき市場で人の真心に触れたばかりなのに。
 医者の家の戸を激しく叩き、現れた老人の手を引いて、路地へと急ぐ。
 戻ると、そこには医者の家を教えてくれた女商人がいて、力強く妊婦を励ましていた。私は医者と女商人にあとを任せ、刑場へ向かった。
 間に合うなら、やっぱり見届けたい。
 王城の尖塔を見やる。そのほとんどは影に覆われていた。先端部分だけが、紅に輝いている。

 道の途中で、メロスはうずくまっていた。
「何してるの!」
「来るな、レイコ! 狙われている。左の屋上だ」
 見れば、兵隊が弓を引きしぼっている。
 メロスの左の太腿から血が流れ、手には一本の矢が握られている。射られた矢を自分で抜いたのだ。
 ここまで来て、ひど過ぎる。
 手ごろな石を捜した。あの高さなら届く。
「よせ! お前が撃たれるぞ」
「それでもいい」
「駄目だ! 俺たちの約束は、俺たちだけのものだ。お前を傷つけるわけにはいかない」
 俺たち、とは、メロスとセリヌンティウスのことだろう。
「必ず戻る。そう誓った。本来それだけの話だ。道すがら、賊に襲われ、騙され、今こうして矢を射かけられ、真の人間とは何か、俺にはもうわからない」
 夕闇の中、流れる血の色は黒に見える。
「俺の方が人間らしいと、お前には偉そうなことを言ったが、あれは思い上がりだった。俺があいつとの誓いを守っても、ただそれだけのこと。俺は人類の代表などではない。レイコたち家族を欺いたのも、走るのをやめかけた俺も、そして、今俺に向けて弓を引いている男も、みな人間だ」
 そう、疑心暗鬼にとらわれて、苦しむ人に汚い言葉を吐いた私も。
「ならば、『人を信じてはいけない』、お前がはじめに言ったことと、王が正しかったのかも知れない。だが、たとえそうだとしても、セリヌンティウスが俺を待っている、その事実は変わらない」
 屋上を見上げて、メロスは叫んだ。
「射るがいい。まだ陽は沈まぬ。俺は行く!」
 傷ついた足で、メロスは立ち上がった。
 その時、短い悲鳴を上げて、屋上の兵隊が倒れた。何が起きた?
「さぁ、メロス様、お急ぎください!」
 反対側の屋上に、弓を携えた少年の姿があった。
「君は?」
「セリヌンティウスの弟子、フィロストラトスでございます。話をしている場合ではありません。お急ぎを!」
 私はメロスに肩を貸し、刑場へと歩き始めた。
 背後から、フィロストラトスの声がした。屋根づたいに追ってきている。
「どうぞそのままでお聴きください。師匠は私に言いました。『メロスは戻らないかも知れない』と。第一日目のことでした。顔は蒼白になり、肩は小刻みに震えていました。その日の晩、師匠は涙を流しました。『メロスはきっと戻らないだろう』と。二日目には『メロスを捕らえに行け』と怒鳴り、激しく壁を叩きました。三日目の朝、今朝のことです、師匠は穏やかな顔で言いました。『俺が死んだら、メロスに伝えろ。俺は一途に待ってなどいなかった。お前を疑い、身代わりになったことを悔いた。立派な人間などではなかったのだから、俺のことは早めに忘れて、達者で暮らせ』。私は尋ねました。『お戻りになるとはもう思われないのですか』と。師匠は答えて言いました。『お前には弱音を吐かせてもらったが、実のところ、信じてもいる。だが、完全にではない。揺れている。俺がそうなのだから、あいつもきっと同じだろう』。それから、少し考えて、こう付け足しました。『あいつが戻ってきても、俺の醜態はやはりお前の口から伝えてくれ。俺は見栄っ張りだ。自分ではきっと言えないだろうが、伝えねばならない。俺は疑った。疑ったのだ』。ああ、メロス様、私の話に偽りはございません。先生がご自分の醜さを何故敢えて伝えようとなさるのか、私にはわかりません。けれど、その真意は最早どうでもよい。師匠があなた様の代わりに縄を打たれ、あなた様はお戻りになった、その二つだけが私にとって大切なことでございます。お二人の友情を、私は羨み、祝福します。どうか安らかに、メロス様! 私もいつか、あなた様のような友が得られますように」

 太陽が地平線にめり込んでいく。お願い、まだ沈まないで。彼は約束を果たそうとしている。進もうとしている。
 進んで、いいんだよね? 体重の半分は私にかかっている。私がメロスを、死地へと歩かせている。
「迷うな」
 私の心を見透かしたように、メロスが言った。
「ごめん」
「いや、違う。自分に言ったのだ」
 尖塔が一際強く輝く。消える間際の炎のように。
 メロスが低い声で言った。
「駆けるぞ」
 私は小さく頷き、メロスの腕をしっかりとつかんで、刑場の門へ向かって駆け出した。
 門は開け放たれている。群衆が見える。他人を信じて騙された男の死を一目見ようと、大勢集まっている。
 王もどこかで見ているだろう。得意げに演説でもぶっているかも知れない。これが人間の世の中だ、と。
 お生憎様。あんたの目論見は崩れる。この世界は、私やあんたみたいな寂しい人間ばかりじゃない。今、証人を連れていく。

 ――気が付くと、私は桜田門をくぐった先で、膝に手をつき、呼吸を荒げていた。
 陽が暮れて、青い上弦の月が出ている。
「こんばんはー」
 と、背後から男の声。
 振り返ると、黒のキャップに高そうなシューズ。ライバル君だ。サングラスを外してるから一瞬わからなかった。
「今日ずいぶん飛ばしましたね。でも無茶しない方がいいですよ」
 爽やかに笑って、ライバル君は去っていった。思ってたより、若そう。二十歳前ぐらいだろう。
 春の夜風がそっと頬を撫でていく。

 台所の母が、包丁を使いながら言った。
「帰ってくるなら言ってよ。電話にも出ないで、いきなりなんだから」
 縁側に座った私は、父の乗ったトラクターがゆっくりと進むのを眺めながら、あいまいに返事をした。
 有給休暇を取って、帰ってきた。
 母がオレオレ詐欺に遭って以来、足が遠のいていた。その埋め合わせのつもりで来たのだから、家事や畑仕事の手伝いでもすれば良いのだろうが、いきなりそういうことをするのは何だか気恥ずかしい。
「彼氏はいるの?」
 と、母からお定まりの質問。
 私はつぶやくように答えた。
「いない」
「え、なんて言ったの?」
「いないよ」
 本当だった。二人とも、別れた。
 年上の彼は、名残惜しそうな素振りさえ見せなかった。彼が何度か里香と遊んでいたことは知っていたけれど、そのことには最後まで触れなかった。私に指摘する資格はない。
 年下の彼には、二股をかけていたことをきちんと話した。普段穏やかだった彼は、人が変わったように、私をののしった。彼には申し訳ないけれど、怒りを示してくれることが、私は嬉しかった。
 柱時計が懐かしい音色で正午を告げ、それに応えるかのようにチャイムが鳴った。母は大きな声で返事をして、エプロンで手を拭きつつ、玄関へ向かった。
 一羽のメジロが飛んできて、庭の餌台にとまった。鮮やかな緑色の首をせわしなく動かしながら、こちらを気にかける様子もなく、用意された餌をつついている。白い輪にふちどられたあの瞳は、信じているのだ。毎日ここに餌が置かれていることを。人間を。柔らかな春の日差しが、小鳥を愛おしむように、庭全体を包んでいる。
 メジロが満足して飛び立った時、母はまだ玄関で客の相手をしているようだった。
 台所を見に行くと、火は止めてあった。ボウルに盛られたささがきのゴボウからぷんと土の匂いがする。
 それにしても、誰と話をしているんだろう。
 廊下に出ると、男の声が聞こえてきた。
「このコスモストーンというものはですね、宗教やスピリチュアルとはまったく別のものなんですよ」
 訪問販売だ。廊下に立ったまま、聞き耳を立てる。
「石から発せられる特殊な波長が人体の免疫力を高めたり、脳を活性化させたりするんです。ほら、こちらの本にも書いてあるでしょう。科学的に研究されているものなんです。例えばトルマリンに美肌効果があることは岩盤浴などでお馴染みですよね」
 とにかく自分のペースに巻き込もうという話し方だ。母の相づちを待つ間はない。
「我が社のコスモストーンは一般にいうパワーストーンとは一線を画するものなんです。かつてオーストラリアの研究室で主任研究員を務めておられた天原竜水先生が、独自の方法によってストーンの持つエネルギーを増幅させることに成功したんです」
 芝居がかった口調。もしかしたら彼自身は自分の言っていることを信じていないのかも知れない。いや、きっと信じていない。何故かそう確信できた。そもそも彼が信じる必要などない。とにかく商品が売れさえすればいいのだから。
「今だけの特別キャンペーンで、何か一点でもお買い上げいただければ、天原先生が自らご指導なさるヨガ教室の無料招待券がついてきます。このヨガは人体の波長と石の波長を一致させてストーンの効果を一層高めるものでして……」
 私が出ていくと、男の口上はぴたりとやんだ。年老いた夫婦だけの家とふんで、たかをくくっていたのだろう。
「そういうわけですから、もしご興味がありましたら、いつでもご連絡ください」
 男は名刺を置くと、そそくさと去っていった。
 私は母に尋ねた。
「買いそうだった?」
 母は笑って答えた。
「まさか。もう懲りたわよ」
 確かに、母はもう大丈夫だろう。私は母が心配で姿を現したわけじゃない。
 彼は、あの若いセールスマンは、今の失敗で「狩り」を終えはしないだろう。この地域なら「獲物」には事欠かないはずだ。彼は誰かを騙しに行く。誰かが、彼に騙される。
 あれは彼の仕事なのだ。私にとやかく言われる筋合いはない――けど。
 下駄箱を開ける。高校時代に使っていたぼろぼろのランニングシューズを取り出し、素足のまま履く。
「どこ行くの?」
 答えず、玄関の戸を勢いよく開ける。
「ちょっと、玲子!」
 私があのセールスマンに文句を言いに行こうとしていると思ったのだろう。母は慌てた声で私を呼んだ。けれど、構わずに飛び出した。
 彼は私が追ってきていることに気付くと、一、二度目をしばたかせ、大慌てで逃げ出した。
 追いかけた。向こうは革靴だけど、こっちだって靴下を履いていない。
 彼はパニックになっているだろう。けれど、怒鳴りつけてやろうとか、どついてやろうなんて気はない。
 騙すのが、人間。何でもかんでも信じていれば騙されることがある。それは一つの真実。でも――
「すいません、すいません!」
 必死に謝る彼の横を、風のように駆け抜けた。
 ――ほら、私の方が速い。

               (了)

メロスとの併走

メロスとの併走

都内のオフィスに勤める宮川玲子は、ある日、ランニングの途中で『走れメロス』の世界に迷い込んだ。人を信じて痛い目を見た経験から、玲子はメロスが走るのをやめさせようとする。果たしてメロスの決意は覆るのか?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3