家路

 こうして一人家路につくと、いつもどこからともなく彼女が現れる。



 寒い夜だ。この街の夜というのはやはりどこか静まり返っていて、どんなに耳を澄ませたところで何も聞こえない。見上げれば頭上を覆うあの黒い大きなカンバスをぽつりぽつりと冬の大三角が支配している。他の星たちは遠くの街明かりに呑まれてどこにもみあたらない。昨日と全く姿形の変わらないこの道は、きっと明日になったとしてもどうせ全く同じ姿でここにあるのだろう。僕はただぼんやりと歩いていた。右手にはさっき駅前の花屋で買った花束がある。黄色や桃色の小さな花々の中に彼女が大好きな真っ赤な薔薇の花を四本入れてもらった。

 一つ向こうの電灯が蛾を咬んでがちがちと音を立てて消えた。辺りが闇に落ちる。塗りつぶしたような黒の中では、目を開けているのか閉じているのかさえもわからない。僕の肩より少し下の辺りで彼女が小さく声を漏らす。
「蛾が死んだね」
 彼女はそうだねと応える。暗闇を怖がっている様子はない。景色がゆっくりと輪郭を取り戻す。薔薇の花弁がひとひら落ちた。

 彼女と付き合い始めて、今日で丸四年となる。中学二年生の文化祭で彼女に告白され、それをきっかけに交際が始まった。彼女の家が僕の家の少し向こうにあるということもあって、それからというもの僕たちはこうして毎日の帰宅路を共にしている。
 生まれつきの性格上、常に気を張らざるを得ない僕にとって、どうでもいいようなくだらない話をだらだらと続けられるこの時間は貴重な気休めとなっていた。
「最近さ、部活が辛いんだ」
 彼女がこちらを向く。
「中島とダブルスで出るんだよ、試合。なのに、なかなか息が合わなくてさ」
 彼女がそっかと呟いてうつむいた。肩に流れ落ちた彼女の髪の美しさにひかれ思わず手を伸ばしたが、どこかいたたまれない気分になってそのままその手で頭を掻いた。

 家路はなおも続く。僕の好きな歌が彼女の声で再生される。僕は隣に彼女の気配を感じながら、ただ道の先を見つめて歩く。
 彼女が十字路の角のところで足を止めた。連れて僕も止まる。そして花束をその場にそっと置いた。

 この四年間、彼女とは一度たりとも手をつないだことはない。加えて抱擁だのキスだの、そうした類のものも一切していない。喧嘩もそうない。ただ一度だけ、二年前に僕が交際記念日を忘れたことに彼女が激昂したことがある。「本当に私のこと好きなの。わからないよ」と言って、あの綺麗な大きな瞳から涙を流していたことだけは記憶している。その日は彼女が僕を置いて先に帰ってしまったので、僕はたった一人でこの道を辿ることとなった。

「僕をのこして」
 彼女がこちらを見る。
「あの日、君は何故いってしまったの?」



 僕の家が近づいてくる。彼女ともお別れしなくてはならない。でも今日はあの日とは違う。今日が僕らの四周年記念日であることを、僕は覚えている。
 まだ言いたいことも言えていないこともたくさんある。それでも家路の終わりはすぐそこまで来ている。
 僕は勇気を振り絞って声を出した。
「ああ、あのさ」
 掠れた。
「今日で四周年だね。今までこうして、ずっと隣にいてくれてありがとう」
 彼女が照れくさそうに笑う。
「あの日から二年、それでも僕は今でもまだ君のことが好きだよ」
 家の柵を開けて玄関に手を掛ける。
「僕は大丈夫だから」
 背後を優しくぬけた風が、彼女のセーラーを揺らすような気がした。
「だからもう、おやすみなさい」
 そう言うと彼女は消えていくようにどこかへといってしまった。こんな時、あの子ならきっと笑って僕のことを赦してくれるはずだ。見上げれば空には無かったはずの北極星がきらきらと輝いている。


 以降、彼女が僕の前に現れることはなかった。

家路

家路

こうして一人家路につくと、いつもどこからともなく彼女が現れる。

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更新日
登録日
2016-02-01

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