薔薇の名前
【パリー1941ー】1
半日の休暇を貰った私は、友軍が駐留するパリの街を散策していた。
主要な通りに機甲師団の装甲車や戦車が停車している以外は、映画で観ていたパリの景色であった。
軍靴が響く石畳の路地を歩く。
通りの店の多くは看板を降ろして、かつての賑わいは感じられない。
そんな中、1軒の店の前で足が止まった。
甘い蜜の薫りがする小さな花屋だった。
カランカラン。
ドアを開けるとカウベルのような音が鳴った。
背を向けて花の手入れをしていた女性が振り返る。
「いらっしゃいま・・・」
私の姿を見るなり笑顔が消え、あからさまに嫌な顔をする。
「小銃の弾なら此処には無いわよ」
「いや、花屋に来たつもりなんだが」
私が答えると既に後ろを向いていた。
しばらくキョロキョロと見回すが、花の事はさっぱり分からなかった。
「花を、花を選んで貰えませんか?」
「総統閣下に差し上げるのかしら?」
再び振り向いて彼女が言う。
「いや、妹に。ミュンヘンに住む妹の誕生日に贈りたい」
「花束を!?」
驚いた表情だ。
その様子に私が困っていると、初めて優しい笑顔を見せて言った。
「軍人さん、切花では届く迄にしおれてしまうわよ。」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
2、3秒の沈黙の後、クスクスと声を出して彼女は笑った。
【パリー1941ー】2
「貴方、軍人っぽくないわね。出世しないわよ」
そう言うと花を選び始めた。
「輸送機に花を載せます。行き先は言えませんが、そこからならミュンヘン迄は枯れずに着くかと・・・」
私は彼女にそう伝えると改めて店内を見回した。
「植物も、戦時下では品不足なんですね」
これは私の失言だった。
「誰が戦時下にしたの?ラインラントへ進駐したのは誰?チェコ・スロバキアを地図から消し去ったのは!?美しいアルデンヌの森を焼き払い、パリをクロウラーで蹂躙したのは他ならぬナチでしょう!!」
私はただ黙るしかなかった。
「済まない」
そう言うのがやっとだった。
彼女も困った顔をしていた。
「貴方に言っても詮無い事なのにね」
フウと大きくひとつ、溜め息をついた。
「ねぇ、明日・・・明日貴方の基地へ届けるわ。今日はなんだか上手に選べない」
彼女はそう言うと私の名前と基地の場所を聞いた。
「クラウス・フォン・ミューゼルです」
私は名前と基地として仮使用している空港の名を告げると店を後にした。
【パリー1941ー】3
翌日、聞き覚えの無い名の来客を告げられた。
「大佐、ヴァンドルー様がお見えです」
従卒の少年は困惑していた。
「ヴァンドルー?」
「はい」
首を傾げる私を呆れたような目で見る。
「私を訪ねて来たのだね」
「はい」
私は再び首を傾げながら応接室へと向かった。
おそらくは、地元の資産家が取り入る為に賄賂を持って来たのだろう。
煩わしい話だ。
それにしても、今回軍が接収した資産家の屋敷は造りに無駄が多すぎる。
2度程部屋を間違えながらそんな事を考えていた。
3度目。
華美な装飾の施されたドアノブを回す。
「お待たせしました」
そう述べて部屋へ入ると、大きな花束を抱えた女性が居た。
きのうの花屋の店員だ。
「ヴァンドルーって・・・」
次の言葉が出ない。
「言ってなかったかしら?」
「聞いてない」
「じゃぁ改めて、シャルロット・ヴァンドルーです。」
シャルロットはそう言うと、抱えた花束を差し出した。
ここで私は従卒の少年の表情の理由にようやく気付いた。
前日の休暇。
花束を抱えた女性。
名前を知らない。
・・・やれやれ。
彼に説明するのも言い訳のようでシャクだ。
【パリー1941ー】4
「貴方、偉かったのね」
シャルロットは意外そうな表情を隠そうともせずに言った。
「階級なんて、組織の外では何の役にもたちませんよ」
「そうかもしれないわね」
「はい。その証拠に、階級章は弾避けにもなりませんから」
そう言って襟元を指さした。
シャルロットは私の指先をジッと見つめてクスクスと笑った。
「貴方と話をしていると、とてもナチスの軍人だとは思えないわ」
「戦場でなければ、私も軍人の顔をしなくて済みます」
思わず本音が出てしまった。
シャルロットは少し悲しげな顔をした。
「こんな戦争・・・早く終わればいいのに」
「人と人が殺しあう。憎しみも怒りも無く。障害物を避けるように、何の感情も感傷も無く人を殺す。異常が日常のこんな事態は早く終わらせなければいけない」
私がそう言うと、シャルロットは大きく頷いた。
そして、まるで私を試すかのように言った。
「でも、それを生業にしている貴方は?効率の良い殺戮、確実な命の奪い方を研究、訓練している貴方はそれでいいの?平時の軍隊なんて何の生産性もない社会の寄生虫よ」
その蒼い澄んだ瞳は、真っ直ぐに私を見ていた。
【パリー1941ー】5
私はシャルロットを見詰め返して言った。
「軍人なんて、【穀潰し】とか【給料泥棒】なんて呼ばれている時代がマトモなのですよ。我々の存在意義の無い時代が、我々が存在しない世界が正常なのです」
「それならば、何故軍属に?」
当然の疑問だった。
「あの花束の送り先・・・」
テーブルの上に視線を移す。
「ミュンヘンの?」
「えぇ。誕生日の後に入籍します。私の友人と」
「妹さん、幸せなのね」
シャルロットは優しい顔で微笑んだ。
「そんなささやかな幸せを守りたいのです。私が望むのは、そんな小さな幸福が、いくつもいくつも溢れることなのです」
「詭弁よ、それは詭弁。その為に血が流され、憎しみを呼び、哀しみに沈む人々が無数に生まれる」
シャルロットは少し声を荒げ、最後は消え入りそうに話した。
「ですから私は士官になりました。兵卒ではなく、士官を選びました。この戦争に責任を負うために」
「何故貴方が責任を負うの?」
理解出来ない様子だった。
「私はね、既に多くの命を奪いました。直接手を下した事もあまたあります」
シャルロットはハッとした表情を見せた。
「意外ですか?」
私の問掛けに微動だにしなかった。
「シャルロット、貴方の前に居る私は人殺しなのです」
私は大きく溜め息をつくと言葉を続けた。
「殺された人々も、彼等の身内も、私の未来や幸せは望まないでしょう。何年かしてこの戦争が終わった後、きっとささやかな平和な時代が来ます。その時代の礎として、責任を負う者が必要なのです」
シャルロットは無言だった。
【パリー1941ー】6
「本当に不思議な人」
シャルロットがようやく口を開いた。
「ドイツが負けると思っているみたいな口ぶりね。今やヨーロッパの大多数がドイツの占領下だというのに」
「きっと負けます」
私は短く答えた。
「どうして?」
「その肥大した体故に・・・」
「自らを支えられないの?」
「そうです。それに・・・」
私は思わず言葉を詰まらせてしまった。
シャルロットが続きを促す。
「それに、何?」
「肥大した体を支える自らの手足を潰して、どうして生きられるか」
「・・・・」
「我々は、道を失った。」
無意識で握り拳を作っていた。
強く握りすぎた掌からはうっすらと血が滲んでいた。
【パリー1941ー】7
「・・・過ちと」
シャルロットは私の手にそっと触れると、問掛けるように呟いた。
「私達は、過ちと悲しみを積み重ねなければ先へ進めないのですか?」
私はその問掛けには答えずに質問を返した。
「私達は、血と涙を流さなくては未来を語れないのでしょうか?」
永く見詰めあったような気がした。
いや、おそらくはほんの数秒。
互いの瞳の中に揺れる真実の姿を見い出すほんの僅かな時間。
魂の邂逅というものがあるのなら、それはこんな物なのかもしれない。
一瞬の永刧。
再び刻が動き出した時、ふたりの問掛けの答えは同じだった。
「違うね」
同時に口を開いた。
その事に別段驚くでもなく、むしろ当然の事のようにふたりは言った。
【パリー1941ー】8
「シャルロット、貴女に逢えて良かった」
私はそう言うと懐中から金時計を差し出した。
シャルロットは手を出さずに黙って見ていた。
「今や紙幣には価値の保証は有りません。この時計にしても足元を見られてしまえば数日のパンにしかならないかもしれません」
受け取ろうとしないシャルロットに私は再び促した。
「さぁ、私の心を受け取って下さい。戦地へ出てから初めて人として話が出来た。こんなに嬉しい事はありません」
そう言うとシャルロットの掌に金時計を握らせた。
「私は花屋です。花以外の事で代金は頂けません」
シャルロットはあくまでも固辞の姿勢を崩さなかった。
そこで私は彼女の納得出来る理由で一計を案じた。
「それでは、私に花を選んで下さい。戦争が終わったら伺います」
シャルロットは諦めた風に受け取った。
そして、一言呟いた。
「・・・必ず」
【パリー1941ー】9
シャルロットを見送った2時間後、私のドーバー海峡への転戦が決まった。
昨年から幾度と無く、間断無く行われているイギリスとの制空権争い。
その戦いの空への参加が決まった。
今日迄の撃墜数53機。
チーム撃墜数では120を超える私の部隊に白刃の矢がたてられたのだ。
現在の戦況は、我が軍に圧倒的に不利であった。
イギリス沿岸には新兵器のレーダーと無数の高射砲。
そして日々増産される最新鋭戦闘機、スピットファイアが空を駆けていた。
この小回りの効く好敵手は、その機動性で友軍達を苦しめていた。
ヨーロッパ戦線に於いて、ドイツとの講和に唯一反対するイギリスを沈黙させる事が出来たなら、この戦争は終わるのだ。
もっとも、あの饒舌なチャーチルの事だ。
ビジーフランスと共にアメリカ辺りに亡命政府を作りそこで吠え続ける事だろう。
・・・あくまでもドイツが勝利すればの話だが。
正直、私には勝てる要素を見い出せないでいた。
それは、諜報機関から手に入れた情報のひとつ。
エニグマ解読機の存在だった。
【パリー1941ー】10
ドイツが誇る暗号製造機エニグマ。
解読は不可能と言われたこの暗号を、イギリスの数学者が攻略したという情報があった。
連合国は解読の成功を極秘にしているようだが、我が国もその情報は得ていた。
だが総統閣下に於いては、些末な事として重要視はしなかったらしい。
確かに以前、ポーランドに看破された時もローターの増設で更なる複雑化を図りこれに対処した事はあった。
容易に対処出来る事も、エニグマの解読不可能と言われる所以だ。
しかし、今回は違うような気がする。
イギリス暗号局が、あらゆる数学者を集めて同じ轍を踏むとは私には到底思えなかった。
レーダーでは我が軍の位置が、解読機では情報が、それぞれに丸裸なのだ。
「素手に目隠しか・・・」
思わずそう呟いていた。
【パリー1941ー】11
年の暮れも迫っていた。
イギリスへの攻撃は制空権を奪えないまま、泥沼の様相を呈していた。
恐らくは年明けには撤退だろうか?
あまりに損失が大きかった。
ふと視点を下に移した。
白波さえも雲に見える。
高みから眺める海は、まるで空と交わるかのように見分けがつかない。
高度計が指す数値だけが、自身が空に居るとこを示していた。
空も海も、所詮は人間が区別しているだけの物だ。
地球という大局で見てしまえば随分と細かな話だ。
さらに敵や味方、国家など、なんて矮小な区分だろうか。
見渡す景色に【国境】などという下世話なラインは見当たらない。
結局は愚かな心が引いた妄想のラインが、愛国心という魔物を育て、ナショナリズムという狂気を生むのだ。
そうして人は争い、憎み、殺しあう。
虚しい思考の淵を彷徨う私を、一筋の火線が現実へと引き戻した。
レーダーで我々を捉えたイギリス空軍機の機銃掃射だった。
スピットファイアではない。
どうやら鈍重なハリケーンらしい。
愛機Fw190の前に出てくるのは無謀だった。
私は一気に機体を上昇させた。
ハリケーンの上を抑えると、そのまま落下するように高度を落として後部へつけた。
トリガーに指をかける。
右翼を撃ち抜いた。
ハリケーンは翼から煙を昇らせて、次第に高度を下げて行く。
慌てなければ基地までは飛べる筈だ。
偽善とは知りつつも撃墜まではする気にはなれなかった。
【パリー1941ー】12
物量では遥かに圧倒している筈だった。
撃墜数も尋常ではなかった。
にも関わらず、フロントラインは後退していた。
理由はレーダーの存在だった。
イギリスは索敵した場所へ、ピンポイントに航空機を送り出して来た。
こちらの進路にのみ、厚い防衛線を敷くのだ。
次から次へと現れる敵機に、いつしか友軍機も力尽き始めた。
囲われて撃墜される者。
退路を絶たれ、燃料切れで墜落する者。
士気は明らかに低下していた。
武装を撃ち尽した所を狙われる者も居た。
我々は、蟻地獄へ引き込まれる憐れな兵隊蟻だった。
1機、また1機と死神の顎へ堕ちて行った。
文字通り防壁のような敵機の群れ。
とにかく撃てば当たるのだ。
今回ばかりは初陣の新米でも戦果を獲られるだろう。
それを生きて誇れるか、墓碑に刻まれるかは神のみぞ知る所ではあるが・・・
残弾は2割、燃料は3割を切った。
帰投するには十分だ。
此処で死ぬワケにはいかなかった。
部下達へ帰投を命じると、私自身も基地へ向けて旋回した。
死の香りに満ちた世界から離脱すると、空は蒼く美しい。
戦争が終われば、この蒼は世界に広がるのだろうか。
その時ふと、シャルロットの言葉が浮かんだ。
『必ず・・・』
あれは【必ず選ぶ】と云う意味だと思っていたが、【必ず取りに来て】と云う意味だったのだろうか?
彼女は私にどんな花を選ぶのだろうか?
キャノピー越しにパリの方角を眺めた。
空と雲と海だけが瞳に映る。
それだけで十分に彼女を感じられた。
【パリー1941ー】13
ふと、視界に航跡が見えた。
海面に蛇行する白波。
船舶の回避行動の跡だ。
だが、付近には作戦中の艦船は無い筈だった。
私は違和感を覚え、航跡を追った。
高高度を保ちながら、90秒程の哨戒飛行。
その先に、目を疑う光景があった。
非武装の民間船が黒煙を上げていた。
上空には3機の戦闘機が旋回しては急降下を繰り返していた。
数発を斉射しては離脱。
・・・弄んでいた。
私は先ず、降下から上昇に転じた1機にトリガーを引いた。
尾翼を吹き飛ばされた機体は、空中でバランスを崩して海面に叩き落ちた。
大きなしぶきがあがる。
敵もさるものだった。
味方の断末の水柱をブラインドにして機銃を打ち込んできた。数発を機体に受けた。
しかし飛行に影響は無い。
私は操縦桿を手前に引くと、対峙した敵機と絡み合うかのように上昇した。
【パリー1941ー】14
速度と飛行高度ではこちらが上だ。
一気に上昇すると、敵機ハリケーンの上を押さえた。
照準機の向こうに、怯えた顔のパイロットが見えた。
ためらいは無い。
指先に僅かに力を込める。
13mm・・・
砲身から小さな死神が彼を迎えに行った。
枯れ葉のように落ちる様を一蔑すると、3機目を探した。
ミスだった。
編隊の1機を視界から完全にロストしていた。
私は急降下をして海面を飛行しはじめた。
海水面より5m上。
低空を飛び警戒する。
これにより、少なくとも下から狙われる事は無い。
更に太陽を背負う。
少しの後、影が海面に映った。
すかさず右に旋回をする。
一瞬高波に翼が触れたがなんとか3機目のハリケーンの斉射をかわした。
安心も束の間。
想定外の4機目が正面にいた。
スピットファイアだった。
刹那、機体が揺れた。
数発被弾したらしい。
飛行に支障はなかった。
しかし、少々不利な局面だ。
しばらくは回避しながら反撃を窺う必要がある。
あのスピットファイアは新型だと云う以外に、明らかに今までのとは動きが違った。
おそらくはエース級。
自然と掌に汗が浮かぶ。
ドッグファイトの開始だった。
【パリー1941ー】15
すれ違う互いの速度の合計は音速。
空気の塊が機体を揺らすような感覚があった。
撃ち込みざまの至近距離でのスライド。
間違いない。
相当の手練れだ。
・・・15秒後。
次の交戦はその頃だろう。
そう。
それは邪魔なハリケーンの排除に許された時間でもあった。
私は斜め後方の上空から狙うハリケーンの正面に上昇した。
敵にとっては願っても無い状況だ。
当然ながら20mmの火線が襲いかかる。
私は冷静に見極めると次に急降下を仕掛けた。
案の定、追尾してきた。
おそらくは彼には私のテールしか見えていないだろう。
私を撃ち墜とす事しか考えていないのだろうから。
時間にして数秒。
海面が見えた。
私は一気に桿を引いた。
愛機は方向を変え、海面を撫でるように飛行した。
後方では大きなしぶきと爆音が上がっていた。
ハリケーンはその向きをかえる事が叶わずに海面に激突した。私は、だだのひとつも弾丸を撃たずにこれを退けることに成功した。
残弾は温存する必要があった。全ては優秀なる敵のパイロットの為に。
【パリー1941ー】16
低空を飛ぶ私の上を火線が走った。
頭上を描く4本のライン。
スピットファイアの両翼から、20mmの4門が斉射されたのだ。
「その程度か。」
私はそう呟くと、高度も進路も変えずに敵機の前を悠然と飛び続けた。
低空を飛ぶのは勇気がいるものだ。
ましてや海面なら尚更である。
だが、相手より低く飛ぶ事が出来なくては戦果は得られないのも事実。
今の状況は相手にとっては屈辱以外の何物でもない筈だろう。
攻撃に対して回避も、反撃もせずに飛行しているのだから。
私は相手が焦れるのを待った。
不意に敵機が機首を下げた。
どうやら私の高度へ降りる様子だ。
500kmを超える速度で、僅か2m程度を下げるのだ。
やはり敵もなかなかなもの。
海面までは6m程しかない。
高度が並んだ瞬間、再度機銃が咆口をあげる。
一瞬の差。
私は更に高度を下げた。
超低空飛行。
既に海面までの距離は4mを切っていた。
同盟国、日本人のパイロットに教わった技術だ。
彼等はこの技術で真珠湾を朱色に染めたのだ。
零戦とパイロットの関係は刀と侍に似ているとあの時に思ったものだ。
それは今も変わっていない。
ならばさしずめ私達は騎士と馬の関係であろうか。
人馬一体。
この超低空飛行を続けるには、まさにその必要がある。
プロペラの巻き上げるしぶきが視界を遮り、猛烈な風圧が波のうねりを呼ぶのだ。
ほんの僅かに海面に触れたならば、機体は木屑となる。
更に波の気まぐれも死を身近にしてしまう。
それでもこの方法は、残弾の少ない私に最良の選択だった。
いや、選択の余地は無かった。
私の巻き上げるしぶきは後方のスピットファイアに襲いかかるのだ。
機体が作りあげる乱気流と、敵機の速度により、激しいスコールのような水の弾丸が注ぐ。
並のパイロットならば既に墜ちていてもおかしくはなかった。
追尾し続ける彼の腕は間違い
相手にとって、不足は無い。
自然と笑みがこぼれた。
【パリー1941ー】17
次に仕掛けたのは私だった。
【後の先】だけでは彼とは戦えないと感じたからだ。
私は両方のフラップを操作すると一気に減速した。
減速と云うよりもはや失速に近い。
200km超の減速。
頭上2mをスピットファイアが通過した。
主翼裏に書かれた小さな文字が読めた。
識別番号の下に小さく囁くような書き込みが。
【マリア、君の空を・ジョージ、君の未来を護るよ】
海を越えても、地平線の彼方の国でも人の想いは同じだ。
護るべき愛する者の為に、見知らぬ者の命を奪う。
良き父であり、良き夫であり、良き息子である者が手を汚して生き延び、あるいは死んで逝くのだ。
見知らぬ同士は想いを共にする同志。
国が違うというだけで・・・
「殺しあうのか」
躊躇した。
照準に捕捉はしていた。
ほんの一瞬の遅れ。
私の放った火線は虚しく宙を裂いた。
スピットファイアはその優秀な旋回性能で瞬時に反転すると、太陽の光の中に向かって上昇した。
教科書通り。
正攻法だ。
これで私は彼を視認することは困難となった。
今頃あの光の中からこちらを狙っているだろう。
レンジは200m。
迂濶に彼の射程に入れば次は無いだろう。
最高速ならばこちらに80km程の分がある。
私は上空に浮かぶ雲を目指して上昇を試みた。
【パリー1941ー】18
急激な上昇。
重力に抗う者に対し、容赦の無い圧力がかかる。
シートに体を押さえつけられたかのように身動きがとれない。
操縦棹を力の限りに握りしめていなければ、この両腕さえも弾かれそうだ。
機体もそろそろ悲鳴を上げ始める頃だ。
上昇能力と最高速度の限界は既に超えている。
私が気を失うか、空中分解をするか・・・
速度を緩めてしまえば撃墜される状況、選択の余地は無い。
あの雲まで辿り着けなければ全ては終わりなのだ。
私は暴れる機体と襲いかかる重力の中、上昇を続けた。
不意にキャノピーに水滴が着いた。
雲の外周に入った。
薄雲を纏い機首を雲へ向けた。
徐々に減速をしながら私は待った。
雲の中に逃げ込むように見せなくてはならなかった。
雲の中は雷と乱気流の巣。
この機体の損傷では引き裂かれるのがオチだろう。
チャンスは1度。
あのパイロットを相手に2度目は無いだろう。
私は次第に雲へ近付いてゆきながら、その一瞬を待った。
『奴は必ず、あの光の中から狙っている』
背後にそう感じながら。
【パリー1941ー】19
呼吸が浅い。
自分でも分かる。
チャンスは1度。
私はその瞬間を待っていた。
表情を変えない雲の僅かな変化がその一瞬だ。
・・・そして、その時が来た。小さな点。
雲に機影が落ちた。
その小さな点は数秒の後にゴルフボール大になる。
それは私が敵の射程に捉えられた事を示していた。
同時に私の射程である事も。
操縦棹を手前に引く。
機体は瞬時に上を向き虚空に円の軌道を描いた。
いわゆる宙返りだ。
真下を向いた時に、小さな漁村が見えた。
既に遭遇点から15kmほど南下していた。
此処からならば基地は近い。
燃料はもちそうだ。
あとは弾薬が問題だった。
スピットファイアのテールが目の前にある。
形勢は逆転。
私は指先に力を込めた。
短い連続した破裂音が両翼から発せられた。
鋼鉄のスコールが襲いかかる。
垂直尾翼の一部を吹き飛ばし、主翼を撃ち抜いた。
やがて銃身からの音が金属を打ち付ける音に変わった。
全ての弾薬が尽きた。
そして今、敵機は目の前を悠然と飛行していた。
『万事休す』
不思議と焦りはなかった。
むしろ高揚感のような、諦めとは違う感情があった。
私は思わず無線のチャンネルを開いていた。
この好敵手の名を、私を墜とす男の名を知っておきたかった。
『郷の勇戦に敬意を・・・』
言いかけた刹那、敵機の軌道が変わった。
・・・名も聞けずに逝くか。
それも仕方がない。
私は敵機の反撃を覚悟した。
が、反転すると思った機体は白煙を上げて高度を下げて行く。
スピットファイアはゆっくりと沈むように墜ちて行った。
【パリー1941ー】20
徐々に下がる高度。
戦いの舞台から降りる様子を眺めながら違和感を覚えた。
パイロットが脱出をしない。
コクピットには被弾していない筈だ。
私は再び回線を開き、敵機へ呼び掛けた。
「私はドイツ空軍クラウス・フォン・ミューゼル大佐です。機体を棄て、脱出なさい。郷の身柄の安全は私が約束します」
キャリアから、ノイズ混じりに応答が聞こえた。
『ショーン・ダグラスだ。機体の制御がきかない。このまま放棄すれば村に墜ちる。海上を目指す』
無理もなかった。
尾翼は中破し、ラダーにも無数の弾痕があった。
「郷の勇気に感謝する」
私は彼の横へ機体を寄せ敬礼をした。
ショーンもこちらに向かい返礼をした。
その表情は清しい笑顔だった。
「息子さんがいるのですか?」
私の不意の問掛けに彼は少し驚いた様子だった。
『先月産まれたんだ。来週の休暇に初めて会う筈だった。終戦までおあずけだな』
そして、寂しそうに笑った。
乾いた笑いがキャリアから流れた。
その直後のことだった。
爆発音と共に、スピットファイアが火を噴いた。
何かが燃料に引火したようだ。
ショーンはそれでも海へ向けて操縦棹を握る。
「危険だ、脱出を!」
ショーンは首を振った。
「私が安全な場所まで追尾して撃墜します。郷が搭乗していては撃てません」
そう言うとショーンは再び敬礼をした。
パラシュートの降下を確認すると私は覚悟を決めた。
もちろん撃墜する弾薬は無い。
海はもう見えている。
出来る事はひとつだった。
私はスピットファイアの後方下へ機体をつけると機体を潜りこませた。
直線で数秒飛べばいい。
そのまま持ち上げる様に接触させた。
十数秒後、真下に海が見えた。
刹那、轟音を伴った爆炎が視界を覆った。
【ドーバーー1941ー】1
未確認機の情報に駆け付けたショーンは目を疑った。
同胞の機体、ハリケーンが3機で、民間船を襲っていた。
停止を呼び掛けても応答は無かった。
ショーンは識別番号確認すると本国に照会した。
回答までの数分間、事態の動向を窺っていると、1機のドイツ軍機が飛込んできた。
Fw-190、フォッケ・ウルフだ。
「厄介だな」
ショーンは思わず呟いていた。
フォッケ・ウルフは13mmを斉射すると上昇しかけたハリケーンの尾翼を吹き飛ばした。
数mのしぶきを上げて海面に叩き落ちるハリケーン。
そこへ、しぶきをブラインドに2機目が襲いかかる。
フォッケ・ウルフは被弾したものの俊敏な回避で致命傷は避けていた。
ショーンは敵機のあまりの強さに、ますます厄介だなと考えていた。
そこへ更に厄介な情報が来た。
照会した機体は3ヶ月前にロストした機だった。
当然ながら当該空域に作戦中の部隊も存在しなかった。
何処かの国に滷獲(ろかく)されたのだろうか。
おそらくは枢軸国だろう。
あの船を瀕死の状況で逃がして英国機に襲われたと証言させるのだろう。
3機がかりで撃沈しないのが何よりの証拠だ。
状況を分析するショーンに、本国から指令が送られた。
それは当該空域の制圧だった。
【ドーバーー1941ー】2
『冗談じゃない』
正直そう思った。
正体不明機はともかく、あのドイツ軍機は化け物だ。
メルダース、ガーランド、リヒトホーフェン・・・
ドイツにはいったい何人のエースパイロットが居るのだろう?
考えると寒くなる。
気が付けば、2機目が墜ちていた。
最早驚く気にもなれなかった。
「さて・・・」
ショーンは懐から写真を1枚取り出した。
子供を抱いた女性が微笑んでいた。
妻と、先月産まれた息子だ。
写真にくちづけをして懐に戻した。
「マトモにやってたら勝てやしないさ。騙されてやるよ、正体不明機!」
ショーンはフォッケ・ウルフへ向かい急降下をした。
妙案があった。
不本意ではあるが、イギリスの名を語るハリケーンと共同でフォッケ・ウルフを討つのだ。
あたかも僚機の救援に来たかのように。
【ドーバーー1941ー】3
ハリケーンが上空から襲いかかった。
おそらくは気付かれている。
当たらないだろう。
(だが、私の存在は気付かれてはいない)
ショーンはそう確信していた。そして、フォッケ・ウルフが必ず回避をすることも。
もちろん回避せずに撃墜されるならばそれで構わなかった。
問題は回避の方向だ。
場所を正確に読み、撃ち込む必要があった。
右か・・・
左か・・・
ショーンは瞬間に神経を研ぎ澄ませた。
左!!
天恵のように閃いた。
左、すなわち敵機の右側へ周り込んだ。
勘ではない。
フォッケ・ウルフの左前方に僅かに高い波があったのだ。
あのパイロットの技量ならば背面の射線、周囲の状況は把握出来ている筈。
波は避けると読んだ。
【ドーバーー1941ー】4
フォッケ・ウルフの予想される進路へトリガーを引いた。
虚空に20mmが放たれる。
機体のブレが大きい。
本来7.7mmの機銃を換装したのだから無理もなかった。
ショーンは宙に描かれた火線を目で追うこともなくスロットルを開けた。
次の瞬間、フォッケ・ウルフが右へ、すなわちショーンから見て左に進路を変えた。
予想は的中した。
これでコクピットから胴体へ直撃だ。
勝利を確信した。
確信した筈だった。
それだけに、刹那に展開した光景は信じられなかった。
航空機がドリフトをしたのだ。
ヨーロッパ戦線において、スピットファイアの旋回能力を上回る戦闘機は存在しない。
それが目の前で覆された。
まるで戦車の超信地旋回のようだった。
もちろん180゚の旋回ではない。
それでも直角に曲がったかのように見える旋回だった。
フォッケ・ウルフはハリケーンの火線をかわす際に高波をかすめていた。
ラダーだけでは高波の直撃を受けると判断した瞬間に引き込み脚を解放した。
つまり、着陸用の車輪を出したのだ。
空気抵抗を大きく受けた機体は急な減速と共に不安定な挙動をとった。
その体勢のままラダーがいっぱいに曲げられる。
先端のプロペラを軸にするように後方が滑る・・・ように見えた。
そこへ高波のしぶきの一部が車輪に当たった。
機体はその僅かな衝撃で更に旋回する。
最終的には70゚程だろうか。
その神の御手の奇跡は、フォッケ・ウルフを20mmの旋風から守った。
横腹に受ける筈の火線を、ほぼ正面から受けたのだ。
圧倒的に小さな面積の被弾。
ショーンはそのままの速度で敵機の至近をすり抜けた。
「化け物か」
渇いた喉から、絞り出すように言った。
【ドーバーー1941ー】5
機体を反転させる。
(持ち堪えろよ、ハリケーン)
ショーンがそう願ったのも束の間。
大きな水柱が上がった。
「やれやれ、一騎討ちかよ」
正直、落胆した。
海面には僅かにオイルが滲んでいた。
ハリケーンを呑み込んだ名残りがそこにはあった。
前方斜め下には悠然とフォッケ・ウルフがいた。
(さて、仕合いの再開といきますか)
ショーンは再開と合図と挑発の意味を込めて機銃の斉射を試みた。
・・・反応が無い。
当たらない事を知っているのである。
低空を遊覧するかのように、波のうねりをかわしながら飛んでいる。
ショーンは気乗りのしないまま高度を下げた。
相手の作戦に乗るのは不本意ではあるが、挑発に乗らない以上はこちらが土俵に降りるしかなかった。
照準機に捉えた。
同時にトリガーを引いた。
【ドーバーー1941ー】6
捉えた筈だった銃弾が彼方への直線を描いた。
「なっ!?」
驚きに身を乗り出せば更に下。
超低空を飛ぶフォッケ・ウルフがいた。
波のチューブを翼がくぐる。
飛ぶと云うよりも、海面を滑るような光景だった。
ショーンもそれに追随した。
同じ高度で、前方に敵機。
間違い無く撃墜の好条件だ。
だが、そうもいかない現実。
フォッケ・ウルフが巻き上げるしぶきと乱気流がスピットファイアを襲った。
まるで嵐の中を飛行するような状況。
しかもほんの僅か下は海面。
機体を制御するだけで精一杯だった。
おそらくハリケーンのパイロットならば既に海の藻屑だろう。この状況で追随するショーンの技量も卓越していた。
【ドーバーー1941ー】7
ショーンは激しく揺さぶられる機体をなだめながらふと沸き上がる疑問に気持ちを奪われていた。
(何故このパイロットはこんな戦いをするのだろうか?)と。
彼の技量ならば普通に戦えば良い筈だった。
先ほどのハリケーンもそう。
不可思議と云うよりも不自然だった。
「弾切れ?もしやジャム(弾詰まり)ったか・・・」
呟いた刹那、フォッケ・ウルフが仕掛けてきた。
両翼のフラップが動いた。
(マズイ!)
ショーンは高度を上げた。
急減速したフォッケ・ウルフの上をかすめるように通過した。
辛うじて衝突は避けたが、迂濶にも後ろを取られた。
(ここまでか)
無駄と思いつつも旋回と上昇の回避行動をとる。
一瞬の間があった。
時間にして1秒以下の間が。
フォッケ・ウルフから放たれた銃弾は機体の下を駆け抜けた。
スピットファイアは加速度を増して太陽の光の中へ消えた。
遠ざかる敵機を眼下に見ながらの独り言。
「何故躊躇したのだろうか?」
ショーンにその訳を知る由はなかった。
【ドーバーー1941ー】8
ショーンは機体を反転させると光の中に身を潜めた。
前方斜め下には急上昇をする敵機の背中が見えた。
射程には遠い位置だ。
ショーンは光を纏い追尾する。
(進路は雲か・・・)
フォッケ・ウルフの向かう方角には厚い雲の塊があった。
(撒くつもりだろうか?)
慎重に状況を見る。
今回の遭遇戦。
2度の被弾。
不可解な戦い方。
決断をした。
追撃だ。
残弾は無いと賭けた。
フルスロットルのスピットファイアが大空を駆けた。
何としても射程に捉える。
雲の中へ消えてしまう前に。
【ドーバーー1941ー】9
鋼鉄の猛禽が獲物を追う。
その照準は既に定めてある。
あとは射程に捉えるだけ。
唸るエンジン音は獣の咆吼。
疾風を超える速度は光をも切り裂く。
(あと100・・・80・・・60・・・)
トリガーへかかる指に緊張が走る。
(20・・・10・・・5・・・0!!)
訃を乗せて放たれる火線。
しかしそれは届く事なく彼方へと消えた。
トリガーを引いた瞬間と敵機の回避が同時だった。
フォッケ・ウルフは美しい弧を描き宙返りをして、スピットファイアのテールを捉えていた。直後、激しい衝撃がショーンの機体を襲った。
直撃だった。
操縦棹が重たい。
どうやらコントロール系が被弾したようだ。
機体を見回せば全ての翼はその機能を果たせそうになかった。
垂直尾翼は中破し、主翼も尾翼も細かな亀裂を確認出来た。
「こんな所で・・・」
次に来るであろう最後の一撃を前にして、もう一度写真を取り出して眺めた。
「ジョージ、パパは君を抱く事が出来ないようだ。マリア、愛している。君のお陰で幸せな人生だった」
ショーンは写真を抱き締めると『ありがとう』と『済まない』の言葉を交互に言った。
その時、無線機から声が聞こえてきた。
『郷の勇戦に敬意を・・・』
柔らかな声だった。
これがあの鬼神のような強さを誇示したパイロットの声だとはにわかには信じられなかった。これ以上の戦闘を望んではいないようだった。
彼の言葉の続きを聞きたかったが、機体の損傷が激し過ぎた。
スピットファイアは力尽きたかのように大きく傾くと、ゆっくりと高度を下げていった。
枯れ葉のようにゆらゆらと。
【ドーバーー1941ー】10
脱出を考えたショーンを思い止まらせたのは、眼下の景色だった。
そこに広がっていたのは小さな漁村。
海と森に囲まれた戦争とは無縁のような村。
機体を放棄すれば墜ちる事は間違いなかった。
自らが助かる為に無関係の人を巻き込むのは彼の正義が許さなかった。
少しでも機体を海へと運ぶ。
既にエンジンからは黒い煙が立ち上っていた。
クラウスと名乗るドイツ将校からは待避勧告が出されていた。
ショーンは状況を告げて脱出を拒んむと操縦を続けた。。
と、不意にクラウスはショーンに質問をした。
『息子さんがいるのですか?』意外な問掛けに驚くと同時に、あの不自然な間の理由が分かった。
ショーンが低空で後ろを取られたあの時、クラウスは主翼裏の書き込みを読んでいたのだ。
ショーンは産まれたばかりの息子の話をした。
「先月産まれたんだ。来週の休暇に初めて会う筈だった。終戦までおあずけだな」
そう言って寂し気に笑った。
直後、機体が黒煙をあげて火を噴いた。
僅かに漏れていた燃料にショートした火花が引火したようだ。
大きな爆発音も聞こえた。
『危険だ、脱出を!』
クラウスの叫び声がした。
海まではまだ、少し距離があった。
此処でこの機体を墜とす訳にはいかなかった。
【ドーバーー1941ー】11
後に彼は述壊する。
――嘘にすがった――と。
自嘲めいた彼の言葉は、背負ってしまった生かされた者の罪の意識だろう。
自らを責める事でしか生きる意味を正当化出来ない。
彼は今日の日を生涯忘れない。この戦争が歴史の1ページとして、時の彼方の記憶となろうとも・・・
(なんとか海上まで)
必死に体勢を立て直すショーンにクラウスが呼び掛けた。
『私が安全な場所まで追尾して撃墜します。郷が搭乗していては撃てません』
この言葉にショーンは脱出を決めた。
感謝と尊敬の意を込めた敬礼をする。
チャーチルにさえしたことの無い心からの敬礼だった。
降下するパラシュートからスピットファイアが見える。
炎が機体を包みこんでいた。
火球となり空を迷走する。
やがて加速度を増して村へと落下を始めた。
(村が!)
ショーンがそう思うのと同時にクラウスのフォッケ・ウルフがスピットファイアの腹下に潜りこんだ。
風に煽られた炎は上に行く。
火の手の無い唯一の接触のポイントだった。
「どうして・・・?」
ショーンは理解出来ない状況に混乱していた。
クラウスは【撃墜する】と言っていたのだ。
冷静に考えたならばショーンの能力ならば分かった筈だった。
戦い方からは残弾の無い事を。
戦闘機の機銃では粉砕出来るほどの撃墜は不可能な事を。
これからショーンが目にする光景は、彼にとってあまりに酷な惨状だった。
【ドーバーー1941ー】12
クラウスは機体を押し上げるようにして海へと向かった。
フォッケ・ウルフの長い鼻先が幸いしてプロペラがスピットファイアに干渉しなかった。
しかしその状態で飛べる訳も無く、2機は次第に高度を落として行った。
結局は運ぶと言うよりも、ベクトルを変えると言う表現が適しているだろう。
村側X軸へ向かう機体に対して海側Y軸の45度方向へ物理的な力を加える。
移動の距離は延びるが、力のロスの少ない角度だ。
海上へ辿り着いた。
フォッケ・ウルフが機首を上げて離脱を試みていた。
スピットファイアが金属の擦れあう音をたてながらゆっくりと滑って行く。
クラウスは機会を待った。
(あと少し)
キャノピーを塞ぐスピットファイアの主翼が90cmほど動けば脱出が可能だ。
軋みながら開けてゆく視界。
翼の間から空が覗いた。
その眩しさに目を細めた。
スピットファイアからより大きな黒煙が昇った。
次の瞬間には爆煙が2機を包んだ。
ショーンは為す術無く、それを見詰めていた。
【エトルター1946ー】1
エトルタは小さな漁村。
白亜の断崖からは英仏海峡を一望する静かな村。
観光客の多くはこの場所からの眺めに溜め息をつく。
美しい世界。
ほんの5年前の出来事を知らない旅人達は、この当たり前の平和を当たり前と思うだろう。
いや、それでいい。
それが当たり前の世の中が正しいのだ。
今日も此処には嬌声が響いていた。
そんな中、喧騒を外れた女性がひとり。
地元の人しか訪れないような閑静な場所だ。
木漏れ日の射し込む並樹の道を進む。
女性が足を止めた。
「約束したままちっとも取りに来ないのですもの」
シャルロットだった。
彼女は大きな花束を抱えて立っていた。
「貴方にお似合いの花を見つけたのよ」
差し出した花は大輪の薔薇。
シャルロットはしゃがみ込むと石碑の前にそっと置いた。
その石碑にはかつての大戦で村を護った英雄の名が、その階級と沢山の謝辞と賛辞と共に刻まれていた。
フランスでナチスの将校を讃えた石碑だけにこんな人気の無い場所に建てられたのだろう。
それでも建立した事に村人の感謝の気持ちが感じられた。
クラウス・フォン・ミューゼル少将
私達はその勇気に感謝します。
私達はその正義の心に感謝します。
私達は貴方の築いた未来に恒久の平和を守ります。
忘れない貴方の事を・・・
「ー愛しい人ー貴方にはこの言葉だけで十分よね」
シャルロットは石碑の文字を指で辿りながらそう呟いた。
頬を熱い雫が流れた。
想いが、その全てが溢れるかのように止まらなかった。
たった2日。
いや、ほんの数時間。
手を握りあった事すらない。
互いの気持ちすら告げる間もなかった。
愛するという気持ちに、費やした時間などは意味を成さない。
その想いの深さのみが愛を司るのだろう。
シャルロットはこの涙を止める術を知らなかった。
【エトルター1946ー】2
立ち上がる事が出来ないシャルロットの背後から声が掛けられた。
「気分でも悪いのですか?」
「大丈夫です」
振り返るとバケツを持った男性が立っていた。
その隣には男の子が居た。
手には摘んだばかりの花が握られている。
「この村の方ですか?」
シャルロットの問掛けに男性は頷き答えた。
「昨年、イギリスから移住しました」
「移住ですか。ご苦労したでしょう」
「数字の数え方位ですかね、苦労した、いえ、苦労しているのは」
男性は苦笑した。
「ただ、恩人の眠る場所ですから」
そう言うと男の子の頭を優しく撫でながら石碑を見た。
「この子には何度も聞かせた話しですがね・・・」
男性はクラウスとの空での出来事を語った。
「ありがとう」
クラウスの最期を聞いたシャルロットはそう言うと優しく微笑んだ。
涙は止まる事なく流れ続けていたが、それは哀しみだけではない。
男の子が花を差し出した。
「今日はキレイな薔薇があるから、これお姉さんにあげる。あの薔薇の名前は何て言うの?」
シャルロットはもう一度微笑むと薔薇の名を告げた。
「ピース。あの人の望む世界の名前よ」
柔らかな風に薔薇の薫りがそっと辺りを包んでいた。
Fin
薔薇の名前