衝動

※植物の知識はありません

豆苗

女性の心は折れた。彼女には、頑張ったことに対する相応の対価を見出すことができなかった。
それでもどうしても、心は癒やしを求めた。心地よい居場所が無くさまよい続け、鬱になった彼女がこう思うほどに。
「居場所なんてどこにもなくていいから、どこかに逃げる場所がほしい」
彼女の心は折れていた。

人に期待することはやめることにしのだ。仕事を自分に押し付け仮病を使い、化粧室へ行き、携帯電話で遊び続ける同い年の同僚。彼女が別の仕事に追われていても、助けることなくどこかへ消え去ってしまう年下の同僚。
トラブルはすべて部下のせい。あいつらのせいで俺の評価も下がり、仕事が増える。最悪だ。そして一人、「都合が良さそうな」新人の彼女を呼び出し文句を言うのだ。どうして私に。私一人に。悪いことはすべて私のせいなのですか。
しかし彼女はあとから知る。自分の愛してやまないバンドのライブに参加するために、有給を使い店長会議や業種会議に参加せず、参加することすら副店長に知らせずにボイコットしたことを。そんな人間に、なぜ真面目に、今できることを一生懸命やり続けている私が叱られなくてはいけないの。どうして。
家に帰る。玄関を開けて「ただいま」といっても返事が帰ってきた試しはない。虚しい気持ちが広がる。いっそ、誰もいなければ家に帰ってきた瞬間からこんな暗く悲しい気持ちにならなくていいのに。日々の積み重ねはとっても小さな一言を、彼女を崖から冷たい海に突き落とすことができるほど大きなものになっていた。玄関に電気はついていない。歓迎されていいない、かえってくるな、そんな被害妄想が頭をよぎる。ドアを開けると温かい暖房の中で彼氏がゲームをしていた。時間は夜10時半。晩ごはんは、ない。

きっかけは母とスーパーで買い物をしたときだった。「あ、豆苗も安いよ。これはね。根の少し上を残して切って、水につけておくとまた生えてきて2回目が食べられるんだよ」その時彼女はへえ、面白そうだし経済的にも助かるな、としか思っていなかった。1回目の豆苗は、ナムルにされ、彼女に食べられた。意気揚々と水につけた。次の日の朝、早速1本の蔦がするすると上に登っているではないか。彼女は感動を覚えた。早く、もっと大きくならないかな。その気持には明日の料理や財布事情に苦慮し、疲弊した心にはなかった、ただただ純粋な成長を楽しみにする好奇心だけがあった。

彼女は朝、早く起きる。彼の弁当を作るためだ。彼は絶対に自分で弁当を用意しようとはしない。男のプライドを妙なところでいきり立たせている彼は、彼女の理解できないところでその妙なプライドを発揮する。弁当作りは、彼女をさらに追い詰める要因となった。彼は「早く起きられていいじゃん。新しい趣味ができるし。」と平然といってのけた。本人は時間ギリギリまで寝て過ごし、残飯は決して口にしない「グルメ」であるのに。作れば作るほど、その「ぐるめ」に対する黒い感情は溜まっていった。黒い感情は彼女に愛情を少しずつ冷やし、別の何か黒い凝固したものに変えていった。
深夜、晩ごはん後の片付けを一人ですべて終わらせ、食べたいだけ食い散らかしベッドで気持ちよさそうに寝息を立てている彼を見て、彼女の心は限界を迎えた。涙がひたすらこぼれ落ちた。鼻が出、涎が垂れ、タオルですべてを覆い、ギリギリとタオルを噛み締めながら声を凝らして泣いた。悔しかった。新しい趣味になるでしょ、と軽く捉えられている自分に。3年付き合い、辛い時は支えあってきた、大切な人生のパートナーだと彼女が思っていた存在に、軽く扱われている、という事実を彼の一言が明日に語っていた。いつも、いつも自分のやりたいことしかやらない。一つのことも最後までやりきろうとしない。途中で「ここまで」と勝手に自分で決めたラインまでしかやらないのだ。その勝手に決められたラインを押し付けられたこちらの身はどうなるのか。職場で仕事を押し付けられ、追い詰められ、家ですらリラックスする空間はなく、追いつめられ続ける。居場所だと思っていた彼の隣は、もはや彼女にとって、居心地の良い暖かな居場所ではなくなっていた。

かねてより、生まれた家族に居場所のなかった彼女には、もはや安住の地などなく。逃げ場を求めた先が、元気に成長を続ける豆苗だった。その姿はただただ美しかった。水に浸かる白い根。複雑に入り組みあいながらもしっかりと豆苗の体を支える足場となっている姿はまるで水中都市のように神秘的で、魅力的だった。彼女が切り落とした切り口は、数日前からふさがり、選定された菊のように、切り口の横から新しく芽を出し上へ、と伸びている。たくましい生き様だ。切られてしまっても、また次へと続くその力強い姿に彼女は深く感銘を受けた。ここは、太陽光の当たりにくい部屋だ。だからこそ、豆苗自身の成長はあまり芳しくない。彼女の欲は深かった。空いた傷口はこの程度では埋まらなかった。もっと、大きなものに、深い自然に抱かれ癒やされたかった。彼女の脳裏には、自分の死体を包み込む植物の姿があった。

衝動

衝動

人と触れ合うことが一番好きだったのに、もう人なんていらない、というところまで追い詰められた人が、植物に目をつけた話

  • 小説
  • 掌編
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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-31

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