汚いシャツの女の子

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 青毛の馬に乗ったグリエンターロィ・セリードチ教官が現場に駆けつけた時、その少女はまさに同じ歳の男を殺そうとしていた。彼女は馬から飛び降りて、自慢の葡萄色のマントを翻し、一言「やめなさい」と叫んだ。
「これは、グレール先生ですか」とその少女が平板な声で言った。
 彼女はアゥサという名前だった。気だるそうに、彼女は滑らかな黒髪を顔から払いのけたが、切っ先の尖った背丈ほどもある杖の先は、男の口に突っ込んだままぴくりともさせなかった。
「ええ。そうよ。その馬鹿げた行為をやめなさい」グレール先生は、多くの先生がそうするそうに、喉を固めて説教を始めた。
 彼女たちは公舎からだいぶ離れたところまで『散歩』に出かけていた。寒いがよく晴れた日だった。丘一面を太陽が照らしている。視界の外れにある木々は葉を落とし終わっている。太陽は傾き始めた頃で、風の向きが変わるまでにはまだ時間があった。彼女の周りには同級生が数人いたが、みなが遠慮がちに目を伏せていた。
「やめなさいと言ったのが聞こえませんか。今なら、このことは私達の胸の中にしまっておきましょう。あなたがやったからには、何かしらの理由があると思いますから」ちらりとも動こうとしないアゥサに、彼女は苛立ったように声を高くした。ほとんど白に近い金髪を少し触った。
「何かしらの理由がね」
 突然、殺されかかっている青年であるトーリエが僅かに身動ぎをした。アゥサはそれを目ざとく見つけ、杖を素早く彼の口のなかで動かした。彼のくぐもった悲鳴が上がった。唇の端が切れたようで、彼は少しばかり血をにじませたが、なんとか杖の先をどけて、立ち上がった。
「気が触れてんだろ、まるで異常者だな、この雌鳥!」急いで彼はアゥサから離れると、一息に三つの暴言を吐いた。取り巻きが一瞬息を呑んだが――彼らは都合二度飲まなければならなかった。アゥサは杖を握り直すと、彼のこめかみの辺りを強く打ったからだった。
「失礼、杖を――」
「アゥサ! それ以上動かないでちょうだい! 私の言うとおりにしなさい!」グレール先生は、半ば意識的に口をすぼめてもごもごと口走った。彼女は自分のヒステリックな声が、ますます自分の神経を昂ぶらせる事を知っていたからだ。彼女はその点で――つまり、自分を御するという点で――優秀な人物だったし、それ故に周りからは尊敬すべき人物だと思われていた。少なくともアゥサも彼女を尊敬している人物のひとりだった。今回の状況は彼女にとっては考えてもみなかったことだった。
「わかりました。ここから動かないことにしましょう」
 周りの子たちは彼女を横目で見ながら、そっと自分の口に手をあてて、互いに囁き合っていた。侮蔑的な眼差しが一面に注がれた。アゥサは見たところ完全に正常のように思われた。しかし、多くの狂人がそうであるように、狂人とは罪悪を――全くの正気において――犯した後に、その罪悪に耐えられなくなって狂人となるのだ、という事をグレール先生は十分に理解していた。彼女は言葉を選んだ。
「あなた達、早く公舎に戻りなさい。次の仕事があるでしょう。根覆いは? 葺き材は? 早く行きなさい」先生は鼻の付け根を抑えて、瞳を強く閉じて言った。彼女は出来るだけ雑事を思い出そうとしたが、結局のところ二つしか出てこなかった。
 トーリエは唇を何度も確かめながら、誰よりも早く歩き去った。彼にへつらっている仲間どもが同じように引き返すと、残りの青年少女たちも、なんだか居心地の悪さを感じて、ゆっくりと踵を返した。後には先生とアゥサが残った。
 アゥサはさっきから少しも動いていなかった。冷たい風が吹いた。彼女は着ていた服の襟を乱暴にかき集めると、長い髪の毛をまとめて前に持ってきた。黒い塊が、彼女の胸元にとぐろを巻いた。グレール先生はちらりと遠くにあった、背の高い樹を眺めた。鳥が一羽、骨だけになった木々の間から飛び出していった。混乱した人間によくあることだが、先生はそれを見たとき、得体の知れない恐怖を感じた。背筋を伸ばしたが、それは身震いを隠すためだった。
「アゥサ、教えてちょうだい、何であんなことをしたのかしら」意識的に、彼女はアゥサの年齢を五歳は下に見た。そして彼女は自分の子供を叱ったときに使った言葉を選んだ(彼女は記憶に長けていた)。
「では聞きますが、先生、トーリエをとっととぶち殺したほうが良いと思いませんか?」アゥサは怪訝そうに聞き返した。彼女の目は澄んでいたし、落ち着いていた。彼女はひどくつまらなさそうにつま先で土を掘り返した。
「なぜかしら、私は、トーリエを殺す必要は無いと考えているわ。それに、私達は皆多くの――」
「ええ、多くの人のパンを食い散らかしてます。そしてトーリエは多分、自分がただでパンをもらう価値のある人間だと思ってやがるんです」アゥサは先生の足元をを見ながら話した。
「何が言いたいの?」
「私はトーリエを殺そうとしましたが、それはあいつが死んだほうがいいからです。先生、私達は一応、パンの代わりに他人の命ってやつを守ることになっていますよね」彼女は、半ばうわ言めいた口の動かし方をした。
「ええ、そうよ」
「トーリエは私の目の前で三つの命を奪ったんです。これでも駄目ですか。あいつを殺していれば、差し引きで二つ分の得です、これはもう指を折ってみれば明らかですからね」
 ほんの少しの間、沈黙が流れたが、先生はすぐさま、これは『少女特有の愛情』だと気がついた。先生は彼女を出来るだけ刺激しないように言葉を選んだ。それのうちのいくつかは、先生が昔、彼女と同じような事を思っていた時、言われた言葉でもあった。彼女は――多くの賢い人間は――自分の誤りが指摘された時、その時の事を、何の憎悪もなく、よく覚えているものである。
「じゃあ、アゥサ、あなたはこれまでに命というものを奪ったことがないのかしら。そして、もしあなたがトーリエを殺したら、他の人があなたを殺すかもしれないのよ」
「ええ、そのことくらい、私だってよく分かっていますよ、当然ですよ……それは予期されることですからね……」彼女はぼそりと呟いたが、その実、彼女は虚を突かれたように見えた。彼女は掘り返した土を草の上にまんべんなくならし始めた。
「それにはですね……それには、私が、トーリエを殺してもまだ良く守っている事を示せばいいだけですからね……」
 彼女はちらりと目線を外した。先生は少し微笑んで、またすっと表情を消した。二人の子供を育てた女性の多くは、このような包容力を持つことができる。
「アゥサ、それはとっても大変な仕事よ。考えてご覧なさい――」
 アゥサは堪え切れずに一歩足を踏み出して、はずみで、続けて少しばかり歩を進めた。それで、アゥサと先生の間にはわずか数歩分を残すだけになった。
「ええ、私は、無辜の命を奪った回数だけ、命を三つ奪ったやつを殺すつもりです。それでちょうどうまくいくでしょう? これは数学的に正しいと思いますが」彼女は苛立ってつぶやいた。
「じゃあ、もしここに野うさぎを無意味に三羽殺す人間がいたら?」先生が平板な声で尋ねた。
「殺します」少女が答えた。
「その人間がむしゃくしゃして辺りの草をめちゃめちゃに踏み荒らしていたら?」
「殺します」
 グレール先生は手袋の留具を外した。ぱちりという小気味いい音がした。
「その人間が飼っていた鳥を殺して、その肉を腐らせてしまったら?」
「――殺します!」少女は苛立ったように声を荒げた。先生を睨んだ。先生は手袋を取って、ポケットの中に入れた。質問を続けた。
「それが子供だったら?」
 今度は長い沈黙があった。
「……殺します」彼女はほとんど囁くような声で呟いたが、頬ははっきりと上気していた。
「なら可哀想ね」
「何がですか!」彼女が叫ぶのと同時に、グレール先生は足を数歩進めた。まともに目の前に立つと、やはりグレール先生のほうが目線が高くにあった。
「可能性がよ」
 先生の横を通り過ぎようと、少女は猛然と足を踏み出して、相変わらずのささやき声で早口にまくし立て始めた。
「その子供は、絶対に差し引きで三つ以上の魂を奪いますよ、私にはわかります、私には――」
「アゥサ、子供について、あなたが分かることなど何一つ無いのよ。あなたはあの小さな頭がどれくらい熱いのかさえ知らないでしょう? あの熱を感じればね、そんなことは言えなくなるのよ、私が、あなたの頬を張って、『とにかくやめろ、ばか』、と言わないのもそれが理由なのよ。あんたも頭のあったかい子供だったって私は知っているのよ」少女の体を押し戻して、先生は少女の瞳をまともに覗き込みながら諭した。それから彼女の髪の毛を後ろに押しやると、手袋を取った方の手で少女の額をなでて、そこにキスをした。
「でも、それでも私は私が正しいと思いますがね!」
 彼女は乱暴に手を払いのけると、繋いであった馬の方に駆け出していった。グレール先生は手袋をはめ直すと、軽くため息を吐いた。年代わりの会がそろそろ開かれる事を思い出して、「それでアゥサとトーリエの仲が取り持たれればいいけど」と考えていた。太陽は随分傾いてしまっている。

 薄暗く、じっとりした廊下を二人の少女が歩いている。一人は赤い巻き毛をちぐはぐに切った少女で、遠くから見ると、まるで、赤いぼろぼろのつば広帽を被っているように見える。口の両端に特徴的なしわが刻まれている。これは彼女がいつも明るく笑っているから付いてしまったものだった。
 もう一人は薄い唇を強く結んでいる、長い黒髪を束ねた少女だ。すみれ色の瞳は半ば閉じられて、床を当てもなく眺めている。アゥサという少女だ。
「……アゥサさあ、ちょっと、暗くない? 暗いと思うんだけど」赤毛の少女が口を尖らせる。彼女の両手には空になったカゴが提げられている。
「ああ、蝋燭がね……」アゥサは上の空で呟いて、「確かに暗い……」と付け足した。赤毛の少女は不満足そうにため息を吐いた。そしてアゥサの目の前に回りこむ。
「そう言うんじゃなくって! 真剣に聞いているんだけど ? ちょっと最近おかしいよ、いや、おかしいって、あのトーリエ……じゃなくって、あの子が言ってた意味じゃなくってね!」
「分かってるよ、イイル、分かってんの、十分にね」彼女は歩みを続けようとして――当然の成り行きではあるが――立ちふさがっていたイイルにまともにぶつかった。二人は廊下に倒れた。暫く沈黙が流れる。アゥサは何が起きたかわからないというように体を起こす。そして、床に倒れたイイルを見つけて、困ったように眉間にぎゅっとしわを寄せた。
「あのさ、私、思うんだけど、多分アゥサ、分かってないんじゃない」頬の汚れをこすりながらイイルが注意した。
「……私もなんとなくそんな気がするの」
「どうしちゃったの? そんなレーヒーみたいな顔しちゃってさ」彼女は呆れたように両手を広げた。それからまた寒そうに両手をこすりあわせた。
「……僕のことを『暗い』ことの代わりに使わないで――」
「わっ! 出たっ! アゥサ、出たっ!」彼女はアゥサに飛びついたが、また倒れることを恐れて即座に廊下の壁にまた飛び移った。縮れた黒髪の肌が病的に白い青年が突っ立っている。アゥサは彼の瞳を覗き込んだ。彼は無視した。
「イイル、君はもう少し落ち着いたほうがいいんじゃないかな、そのままだと公舎の壁を修理するだけで一年の半分を使わなきゃいけないかもしれない」
「へっ、うるさいよ。じゃあレーヒーもあたしを驚かさないようにちょっとはお注意をお払い遊ばせてくださりなさる?」とからかうようにイイルは応える。アゥサはしつこくレーヒーの瞳を覗き込んでいた。少しばかり、そのままで時間が過ぎた。イイルは気まずそうに床板につま先を這わせた。
「……アゥサ、君がトーリエとの――」レーヒーが耐え切れなくなって喋り始めた。
「あのさあ」とアゥサが口を挟んだ。彼女は無意識のうちに手を組んで、ぎゅっと強く握りこんだ。すみれ色の瞳は、ひどい風邪に罹った時のようにぎらついていた。
「あんたがもし知ってりゃ教えて欲しいんだけど、あんたって子供って好き……ああ、こうじゃねえよなあ……」彼女は言葉をぷっつりと切って、壁に寄りかかると、額に手をあてて、汚れを落とすように何度もしつこくこすった。それから、服の袖に洗濯石鹸のかすを見つけて、そこを爪でひっかき始めた。レーヒーは疑うような目をイイルに注いだ。
「いや、最近、ずっとね」イイルは弁解めいた、皮肉っぽい笑みを口の片端に浮かべる。
「イイル、最近ってのはあのトーリエってくそやろうを殺しそこねた時からよ、正確にね……物事は正確にね……うん……」アゥサはぼんやりと呟いたが、また自分の言ったことがまるで分かっていなかったような視線を二人に注いだ。彼女が深い物思いに沈んでいた事は確かだった。
 突然、アゥサはレーヒーの事を驚いたような顔で見つめた。そして「あんたに聞きたいことがあってね」と呟いて、それからそのぎらついた瞳で、彼のつま先からつむじまでをじっくりと眺め回した。
「アゥサ、はっきり言うぞ、君は大丈夫じゃない。君はおそらく完全に病んでいる。休んだほうが良い、僕が、グレール――」
「その名前を言うんじゃあ無くってよ! ああ、それよね、そこかあ! レーヒー、あんたに聞きたいことってのはやっぱりそこなのよねえ、あんたもさあ、子供が本気で好きかって聞きたいのよ、あんたもやっぱり、私達が子供を好きでいなきゃいけないかってことでさ、そして、私達は死ぬまでそこら辺の赤子なのかって話でさ……ええっ、答えろって言ってるじゃない!」アゥサは苛立ったように口走ると、レーヒーにつかつかと歩み寄ると、彼の顎の下に人差し指を突きつけた。
「アゥサ、君は」
「答えろって言ってんのよ、くずやろう」
「思うよ。だから僕は君をぶっ叩いてベッドに縛り付けようとは思わないし、君が自分の状態をちゃんと認識できると思う」レーヒーは低く呟いた。
 アゥサは横を向いて、大きく舌打ちをすると、くるりと向きを変えて歩き出した。イイルが追う。レーヒーが何事か吐き捨てたが、彼女には届かなかった。正確には、彼女は『レーヒーが何か侮蔑的な言葉を吐いた』とだけ思った。
「アゥサ、ちょっと、あんなのって無いよ、ホントに」
 暫く彼女は黙ってどこにも注意を払わずに歩き続けていた。しかし、階段を登り、棟を変え、自分の部屋の前に来た途端、突然素早くドアを開けるとベッドに倒れこむと、枕に顔をうずめて「まるきり子供よね!」と一つ大きな声で叫んだ。イイルは水差しからコップに水を注ぐと、ベッドの横に椅子をひいて座った。
「アゥサ……」彼女は、葬式に参列する道化のように、頬の筋肉を時折ぴくぴくと痙攣させた。
 アゥサはゆっくりとベッドから体を起こすと、「ありがとう」と床に向かって呟いて、コップを奪って、少しだけ水を飲んだ。そしてイイルの瞳を臆病そうに眺めた。
「いい、イイル、私はね、私のことも、あんたのことも子どもとは思っちゃいないのよ、いや、違うわよ、私はね、とっととやるべきことが決まって欲しいのよ。皆にね。皆にやるべきことが決まって、皆がきちんと行いを正されて、皆がきちんと罰せられて、ベッドから抜け出て、兎をぶち殺す事が『子供だ』って理由だけで許される事が無いようにしたいのよ……分かってるわよ、結局は程度っていいたいんでしょ、犬を木に縛り付けるのはいいけど、お友達の口ん中に杖をぶっ込んで殺すのは駄目ってことでしょ、んなこた分かってるわよ、でもそうじゃないのよ。分かるかしら、イイル、私はね、そういう程度を皆が知ってて、でもそういうのじゃ上手くいかない時ってのを知ってんのよ……分かるかしら、私達が子供だって理由で、他のもっと無口な子供のパンが無くなるのよ、その子に向かって『堂々たる道徳心の持ち主ですな』なんつってもその子のお腹はずっとくうくうなくのよ、分かるよね、イイル、私はそういうのに嫌気が差すのよ、私がどんなに頑張って子供じゃないって言おうとしても、私が必死で無口な子供の方に向かっても、あんた達は私を引き止めるし、その子は私に『さよなら』と言うのよ……」
「でも、アゥサ――」
「でもじゃないの、イイル、ねえ、私は答えてほしいのよ、私の言ってることが分かる? あんたは分かるの? ねえ、気になんのよ……私が子供だからかもねえ!」と言って、彼女は発作的に笑い出したが、また何か深刻な事を思い出したような顔して、ベッドに体を横たえた。
「イイル、そこに座っていてちょうだい。そして私が部屋から出てっても動かないでちょうだい。ここにあるものは全部持ってっていいわ。ベッドの下に私が子供の頃に書いた詩が数本入ってるけど、読まずに捨ててちょうだい、こんくらいは分かるでしょ」
 イイルは何も言えずにずっと座っていた。アゥサは暫く時間が経ってから「ほんとに、放っておいてちょうだい」とだけ言うと、部屋から出て行った。年代わりの祝祭の前日の夜だった。

 次の日の夜まで、アゥサは男の子の宿舎まで行って、誰も使っていない空き部屋に一人でこもっていた。その部屋は去年までレーヒーが使っていたが、今ではほとんど生活の跡は残っていなかった。がらんどうの暖炉には、ちっぽけな炭が一欠片、小さく盛られた灰の中に残っていた。アゥサはそれを拾い上げると、大切そうに握り締めて、前歯で炭をかじった。
 祝祭が始まる合図がなされた。彼女の頭上から歓声が聞こえ始めた。彼女は頭を上げて、どこかはるか遠くの方を眺めると、炭をポケットに入れて、部屋を出た。
 廊下は底冷えがした。汗っぽい臭いと、木の継ぎ目に溜まったカビの臭いがぼんやりと漂っている。アゥサは髪をまとめ直すと、ゆっくりと歩き始めた。彼女の足取りは早くも遅くもならなかった。彼女の口が少しずつ動き始めた。それは名状しがたい音のつながりだった。彼女の額には汗が浮かんでいる。耳は何かに強く挟まれたかのように真っ赤に充血していたが、そばかすの浮いた頬は屍蝋のように血の気を失っている。
 彼女はあるドアの前に立ち止まった。彼女はドアに貼り付けられた表札をなぞった。『グリエンターロィ・セリードチ』。
 彼女は偏執狂にも似た笑顔を見せて、コートの内ポケットからナイフを取り出した。そして、それをゆっくりと目の前まで持って行くと、その札とドアの間にナイフを差し込んで、一息に破壊した。あまりにも素早く行われたので、音は大きかったが一瞬だった。
「誰かしら?」内側から声が掛かった。
「私ですよ」外側から声が答えた。
 そして許可が出る前に、彼女はドアを開けると、グレール先生の部屋に入った。そのまま彼女は先生の前の椅子に腰掛ける。机においてあった空のコップを一つ持ち上げると、ポットからお茶を注いで、一息で飲み干した。それから興奮して口も利けないとでも言うような笑みを見せると、また一瞬でひどくつまらなさそうな顔をして、両手で顔を覆った。
「アゥサ、一体どうしたの。何が嫌なのかしら。次の年まで変な気持ちを引きずるよりも、ここで話してしまったほうがいいわ」
「先生」とアゥサが両手の隙間から声を出した。
「何かしら」
「先生」
「聞いているわよ」
「後、何回『先生』ってしつこく聞いたら怒りますかね。それも私を殴って窓の外からぶん投げて餓死させるくらい」と彼女は手の向こうから尋ねた。
 先生は、小さな重しを机から拾い上げると、それを手のひらのなかで転がした。それからゆっくりと、優しく、「いつまでも尋ねていいわ」と答えた。
「でも、それで一生が終わったらどうするんですかね、それじゃ私はいつまでも先生の隣に居座って、一生『先生』って言い続けますよ。そうしたら絶対あんたは――すいません――先生は、いつか私を……」
「いいのよ。私は」
 アゥサは手のひらをどけた。しかし顔は自分の膝にそそがれていた。彼女は両手をそっと膝の上に置くと、きつく握りこんだ。
「子供だからですか」彼女は尋ねた。
「ええ。私も子供だし、あなたも子供だからよ。そして私があなたのために一生、それこそ一生を使いきっても、あなたにはそれからの生活があるじゃない。私はそれでいいのよ」グレール先生は暖炉からお湯を持ってきて、自分のコップとアゥサのコップに注いだ。二人共、手を付けなかった。
 アゥサは病気でうるんだような瞳で辺りのものを見渡すと、いきなりポケットに手を突っ込むと、一欠片の炭を取り出した。そして、それを臆病そうな子供のような目つきで、グレール先生の方に差し出した。先生は興味深げに眺めた。
「これ、何か分かりますか……」アゥサはおずおずと切り出して、机の上にそっと置いた。「炭ね。小さいけど」とグレール先生は呟いた。沈黙が降りた。上の階で誰かが倒れこんで、どすんという音がした。アゥサはくすくすと笑い始めて、それから耐え切れないように笑い出したが、すぐにヒステリックに何かをつぶやき始めた。それは一種病的な雰囲気を持っていた。
 彼女は腰に手をやってナイフを取り出すと机の上に投げ出した。乾いた音を立ててナイフが転がった。「やるよ!」と彼女は大声で叫んだ。「あんたは許してくれるんだもんな!」彼女がこんな粗暴な言葉遣いをしたのは――特に、グレール先生の前でしたのは――初めての事だった。
 彼女は切り出した。
「ねえ、グレール先生、一つ聞いていいですか、私はひとつだけ聞きたいんです。いや、私は先生から色んなことを教えていただきましたから。例えば謝ることですね。さっきはすいませんでした。乱暴な言葉を使ってしまって。それに勝手にお茶を飲んでしまって。申し訳ないです。ごめんなさい。すいません。こんなふうにね。でも、ひとつだけわからないことがあるんですよ。でも、グレール先生には多分分かると思うんです。だから嫌なんですねどね。でもいいますよ。私はずっとその問題を考えているんですよ。ずっとです。トーリエが面白半分で兎を殺して、内臓をイタチの穴にぶち込んでから? 違います。私がこの問題を考え始めたのは、去年のこの日からなんですよ。その日のことを覚えてますかね?」
「ええ。よく覚えているわ」とグレール先生は呟いた。アゥサはテーブルから身を乗り出した。そして、じゃあ、と囁いた。
「あの男の子事を覚えてますよね。あの子です。あの子、あの日を境にどこかに消えてしまった男の子。レーヒーと同じ部屋だった。あの子です。ちょっと陰気で……」彼女は言葉をぷっつりと切った。
「ええ」
「質問の前に、ひとつだけ……やっぱり質問ですね! ねえ、先生、あの子はどこに行ったんですか、私達から離れて、あの子はどこに行ったんですか?」
 野犬の鳴き声が遠くからした。人の声に釣られて遠吠えをしているのだった。それに気がついた何人かの男が、上の階で遠吠えの真似をした。
「あの子は……妹の後を継いだわ」とグレール先生はいたましそうに切り出した。アゥサはテーブルを眺めていたが、へえ、とだけ呟くと、また喋り始めた。
「じゃあ、最初に聞きたかった質問をしますよ。先生、私がわかんないのは、『汚いシャツの女の子に会った時、どうしてやればいいんだろう』ってことなんですよ。先生はどう思いますかね。
 こういうのを想像してみてくださいよ。一人で道を歩いている。旅をしているんですね。ちょっと森がちの地形で、そばには小さな川が流れている。水も十分。少し前にいい獲物が手に入って食料の心配もない。いわゆる上手くいっている旅ってやつですね。小鳥なんかが木々の間を行き来している。遠くでコーンと音がする。カケスがうっかりくるみでも落としちゃったんでしょう。そんな場所です。
 そして、私はある女の子に会うんですね。その女の子はひどく痩せている。怪我はしていないが、いつも飢えと危険で精神が参っちゃってる。そういう子っているらしいですよね。別の先生が言っていましたよ。狂人になる寸前だって。私はそういう子に会うんです。そして、その女の子のシャツはびっくりするくらい汚いんですよ。汚いシャツの女の子です。彼女はちょっとだけ残った正気を必死でかき集めて、私のところに歩いてくる。私は警戒する。ご飯は食べさせてあげましょう。でも、それからどうしますかね? さよならですかね? 汚いシャツはどうすりゃあ良かったんでしょう? 洗ってやればいいですかね。でも考えてみてくださいよ。よく、しっかり考えてみてくださいよ。
 もし私が汚いシャツの女の子に会った時、そして、そこに代わりの服がなかった時、私はその娘の服を脱がせてやるべきでしょうか? それが気になるんです。わかりますよね。私もその子も変えのシャツなんて持ってない。でもその子のシャツはおっそろしく汚い。仰天しますよ。きのこでも生えてるんですからね。分かりますよね。私はその子を裸にひん剥いちまえばいいんですかね? 汚い服じゃ可哀想だ――でも――でも、ですよ――私がその娘の服を綺麗に洗濯している間、その娘の服のボタンを磨いている間、繕っている間、その娘は何を着ていれば良いんでしょう? その娘を裸のまま置いておけば良いんでしょうか? まるで身ぐるみを剥がすみたいに? そうして、その子に残された最後のちょっとした正気が、「私は見ず知らずのやつに裸にされているんだ」って思った途端に消し飛んじまうってこともありえませんかね? ねえ、先生、気になるんです、教えて下さい。私は、汚いシャツの女の子の服を奪わなきゃいけないんでしょうか? 私は……ねえ、先生、分かりますよね、先生、ねえ、私の目を見てくれませんか!」彼女はここまでをほとんど間をおかずに言い切ると、テーブルの上に置いてあった炭のかけらを乱暴に取り上げると、ポケットに入れた。
 間。グレール先生はゆっくりと彼女の瞳を覗き込んだ。そして「わからないわ」と呟いた。「あなたがすることをすればいいのよ」と囁いた。アゥサは鼻でふふっと笑ったが、それに触発されて、不意に激しく泣き始めた。彼女は椅子の上に膝を抱き込むように座って、長い時間泣いた。その間グレール先生は何も言わず、ただ彼女を眺めていた。彼女は泣き止んだ。そして黙りこんで、それから立ち上がると、ドアの方に歩いて行った。足取りはおぼつかなかった。彼女がドアの取っ手を掴んだ時、先生が話しかけた。
「最後に、良いかしら」
「止めるつもりですか?」アゥサはそう言ったが、自分でも何を始めるのか分かっていなかった。
「汚いシャツの女の子に、私は自分の服をあげるわ」
 彼女は少しだけ肩をすくめると、部屋から出た。そして、床をじっと眺めた。その後で自分が来た道を見なおして、外に続いている道を眺めた。彼女の頭上からざわめきが降り注いでいた。彼女はひとつだけ首を横に振った。そして、外に続いている廊下を歩き始めた。彼女はポケットに入れた木炭のかけらを触った。

汚いシャツの女の子

汚いシャツの女の子

ちょっと変な女の子が先生に反抗する系のファンタジー。三人称+比喩を削った文体にむけて。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-30

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著作権法内での利用のみを許可します。

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