【天の都】―ウェザーユートピア―  第一章:慈雨の救世主

リザリカの描くファンタジー創作、通称リザ世界の物語の一つ【ウェザーユートピア】の第一話です。お暇潰しにでもしばしファンタジーの世界に浸っていただけたら幸い。
よろしくお願いします。

Prologue

 虹に守られし天の園。神秘より分かたれた人の庭。
 双つの世界に災禍降りて穢れし時、天は裂け、人は堕ち、全ては地に呑まれる。
 砕け堕ちた天穹に、虹の再び掛かること能わず。人の堕ち去った庭に、灯の再び輝くこと能わず。
 天と人が交わりし時、双つはひとつとなり、はじまりへと還らん。
 ————堕ちる天の伝説より



 天が堕ち、人が堕ち、地に呑まれたらどうなるのだろう。私は常々そんな想いを巡らせていた。
 本来交わるはずのない世界同士が、融け合ってひとつになるかもしれない未来。この場にいる誰もが望まざる未来。そして、これっぽちも想像の付かない未来。
 もしも、この未来が現実となって現世に押し寄せた時、私たちはどうなってしまうのだろう。

 「————また例の伝説について考察中か」
 ふと、隣から声がした。私のよく知る男が、いつの間にか隣に座ってこちらを見ていた。立った状態ではもちろん座っていても、私と彼の身長差は明らかだ。私は彼をつ、と見上げた。
「心でも読んだか?」
 片眉を上げて苦笑する。胸の内を覗かれたような発言に少々驚いたのだ。
「まさか。“読心(リード)”は禁止魔法の1つだろうが。まあ、そんなもん使わなくたって、てめえの考えてることなんざお見通しよお」
 敵わんな。そう言って溜息を吐くと、彼はにやりと笑った。
 私とは乳飲み子の頃からの付き合いである彼。普段は賑やかで楽観的、少々とぼけたところがあるそのくせ、私の思考は謎に正確に言い当ててくる。私が分かりやすいのか、はたまた長い付き合いの賜物か。いずれにせよ、呆れが一周回って尊敬すら覚える。
「そう深刻になるなって。あんな不吉な伝説なんざ、これから先はどうにでもなる。“予言の子”が、とうとう目覚めるんだからな」
 昔からこいつは変わらない。あっけらかんとしていて、常にその瞳は前を見据えている。軽率に言っているのではない。強い意志と自信の下に励まそうとしていることはすぐ分かった。
「ああ。“予言の子”の目覚めが確定した今、芳しくないこ(・)の(・)世(・)界(・)の情勢は好転するだろう。だが……心からは喜べない。お前もきっとそうだろう?」
 普段ならば、快晴の空のような笑顔につられて首肯したことだろう。だが、今回は違う。我々にとっての懸念は、それだけでは済まない。彼とてそれは分かっているのだろう。指摘した途端、目に見えて顔が曇り、黙り込んでしまった。
 他の者であったら違ったかもしれない。けれども、私と彼は……否、私(・)と(・)彼(・)だ(・)か(・)ら(・)こ(・)そ(・)、この状況を喜ぶ以上の憂いに苛まれたのだ。
 他でもない、”予言の子”という言葉が意味するところは――――。

「……そろそろ会議のお時間ですよ」
 背後から声をかけられた。振り向くと、使用人が私たち二人を遠慮がちな眼差しで見ていた。深刻な話をしていると雰囲気で察したのだろう。
「もうそんな時間か……」
「すぐに行く。わざわざすまないな」
 彼と私が答えると、使用人は軽く一礼して立ち去っていった。
 座っていた石段から二人で腰を上げ、軽くほこりを払う。そして、その石段を上り、玄関口である扉をくぐった。これから行われる会合でも、”予言の子”については触れることだろう。加えて、現在の情勢を煩雑にさせている何よりの原因と対処についても、綿密に相談しなければならない。考えることは山積みだ。
(……情けない話だ)
 廊下を歩きながら唇を噛みしめる。
 当世において「秩序の守り人」などと呼ばれる我々ですら、現在の情勢には頭を悩ませ、限界を感じ始めているというのに。
 そんなのっぴきならない現実に、”予言の子”を巻き込まざるを得ない現状。そうでもしなければ、状況は悪化の一途をたどるという現状。本来ならば何の曇りもなく輝かしい人生を歩むはずの彼らを、すぐ傍で守ってやれない現状。そんな彼らに彼も、そして私も、父(・)親(・)として何もしてやれないもどかしさ。
 その全てが、情けなくて仕方がなかった。
 (あの子たちが生まれた日から、覚悟はしていた。だが、こんなにも早熟と誰が思っただろうか)
 ————それは宿命。受け容れる他はなく、人の子の力ではどうすることもできない、神の絶対なる決定。それを前に、人の子とは何と無力なことだろう。
 変えられるのならば……少しでも”予言の子”の目覚めを遅くできるのならば、父としての私は何でもするだろう。しかし「秩序の守り人」としての私には、腹を切ろうとそうすることは許されない。
 この役目を全うするのは、あの子たちでなくてはならない。私だけでなく、この世全ての存在が、あの子たちを必要としているのだから。私は、彼らの道を示す導き手とならなければならないのだ。
 窓を振り向くと、空は分厚い雲で覆われていた。しかし、ほんの少しの切れ間から、生まれたてのように淡い空の青色が垣間見える。私は、裂け目から覗く蒼穹の先にあの子を想いながら、声無くとも祈るように語りかけた。


 
 待っているぞ、愛しい息子よ。
 世界を等しく優しい雨で包み込む“予言の子”よ。

夏の日の出会い

『――――渚』

 名前を呼ぶ声で、僕は我に返った。
 正確には聞こえたのではなく、脳内に直接響いたという方が正しい。とはいえ、声の主を探しても、辺りは手元さえ見えない暗闇。たとえ人影があったとして確認は不可能だった。
 でも、姿なんて探さなくても分かっている。
 低く、優しく、聞く人を安心させる温かさを持ったこの声を、こ(・)こ(・)で何度聞いたか分からない。それが誰の声なのか、僕はとっくに知っている。

『――――渚』
「……誰?」
 何回か呼ばれてから、ようやく答える。
 口から零れた声は頼りなく、ずっと黙っていたせいか掠れていた。声が闇へ溶けていった頃、僕はあるものを見つけた。黒い視界の一点にぽつり、小さな光。それはゆらゆら揺れながら、少しずつこちらに近づいてくる。目を凝らすと、その詳細がぼんやりと知れた。
 近づいてきたのは、背の高い人影。光の正体は、人影が伴っている古めかしいランタンの灯り。しかしその光はとても弱く、この暗闇の中ではあまり役に立っていなそうだ。
 それだけならまだ理解できたが、ランタンは人影が掲げているわけではなかった。まるで人魂のように、人影の少し上空でふわふわと浮かんでいたのだ。そのせいで照らし所も悪いのか、肝心の人影の特徴は闇に紛れて全く分からない。ただ、大きな影がゆらゆらとゆっくり近づいてきているような、そんな得体の知れない光景にすら見える。

 尤も、僕は既に知っている。この人影が男性であることも。目深にフードを被ったローブを着ていることも。それどころか、この人影の正体すら把握している。
 何故ならこれは、何度見たかも分からない夢。
 毎夜それを見る”僕自身”は、その詳細も、顛末も、全て知り尽くしている。

 とはいえ、今の僕は夢の登場人物でしかない。だから夢のたびに同じ疑問を持ち、同じ行動を取り、同じ言葉を繰り返す。今回も夢の中の僕は、やっと立ち止まった人影に尋ねる。
「……どなたですか?」
 答えは無い。代わりに、彼は手に持っていた長物(ながもの)をそっと差し出してきた。
 戸惑いながらも受け取ると、それが長い杖であると分かった。先端に宝石みたいな青い石がはめ込まれた、木製の杖。
 いきなりそんなものを渡されてもどうすればいいのやら。困ってしまい、杖と相手を交互に見やっていると、彼は僕の目の前にゆっくり跪いた。首を傾げていると、こちらへそっと手を伸ばしてくる。何をされるんだ、と驚いた拍子に反射で目を瞑った。
 男性は僕の首の後ろに手をやり、何やらごそごそとやっている。紐か何かをうなじ辺りで結んでいるような、そんな仕草。数秒後、気配が離れたのを感じて目を開ける。すぐ目の前には相手の顔。暗くて表情が分かりづらいが、口許には柔らかい笑みが浮かんでいるように見えた。
 視線を下げると、胸元に何かが光っていた。ランプの弱い光を頼りに目を凝らすと、それは雫型の青い石飾りが付いた、素朴なペンダントだった。
(杖の次はペンダント?)
 夢の中の僕は、ますます訳が分からず顔を曇らせる。そんな僕を他所に、人影は無言で立ち上がり、ふいと踵を返した。
「あっ……!ま、待って……!」
 ここで、僕はいつも彼を慌てて呼び止める。この人がいなくなってしまうことが、何故だかとても寂しくて、心細くなるからだ。
 人影は去りかけた足を止め、少し間を置いてから徐(おもむ)ろに振り返る。
 ————その時。弱かったランタンの光が急速に強まり、不確かだった人影の姿を照らし出す。それでもなお、その顔ははっきりと見えない。
 
 けれども、僕には分かる。この顔が誰なのか。
 
「――――と、う……さっ……!」
 
 呼びかけようとした途端、喉が詰まって声が出なくなる。その間にも、彼の姿を隠すように、或いはこの闇を喰らい尽くすように、ランタンはどんどん輝きを増していく。とうとう目が眩むほどに溢れかえった光の中、僕は目にする。目深に被っていたフードを脱ぎ去った彼が……僕(・)の(・)父(・)が、優しくもどこか物憂げに微笑み、青い泡のような光の球となって弾けて消えていくのを。
 そして、同時に耳にする。もうほとんど覚えていないのに、懐かしくて堪らなくなる優しい声が、僕に呼びかけるのを。

 
『————待っているぞ、渚』


◇◇◇

「――――っ!」
 目を開いた瞬間、飛び込んできた光の眩しさで反射的に目を細める。時間をかけて恐る恐る目を開くと、ベッドの脇にある窓が明るいことに気が付いた。
 (……朝か)
 ちょっぴり眩んだ目をこすりながら、枕元の目覚まし時計を手に取る。現在は七時半を少し過ぎたくらい。アラームは八時設定だったから少しだけ早起きだ。
 二度寝する気にもなれないので、時計のアラームを切る。窓を見れば、遮光カーテンがほとんど全開になっていた。どうやら寝る前にカーテンを閉め忘れていたらしい。うっかりしていたな。
 それはさておき。さっき見ていた夢を思い返して、溜息を吐(つ)く。

 ————またあの夢だ。
 ここ最近、三日に上げず見ている父の夢。ついこの前までの夢は誰でも見るようなありふれたものだったはずなのに、いつの頃からか急に父の夢ばかり見るようになったのだ。
 何故夢に父が出てくるのか。何故呼びかけても何も語ってくれないのか。そして最後の「待っている」という言葉の意味は何なのか。分からないことだらけだ。ただ、はっきりしているのは、夢から覚めた後は必ずやり場の無い寂しさが残る、ということだけ。
(……分からないことを考えるのはやめよう)
 もう一度息を吐いて、ベッドからもぞもぞと出る。気が重くなる前に、動き出してしまった方がいいだろう。今日は近所の図書館に行く予定もあるのだから。
 今日は土曜日で学校は休み、そして取り置きを予約した本が届く日でもあった。急ぎの用事ではないけれど、楽しみにしていた作品が早く読みたいがために早起きしたようなものなのだ。早速準備しよう。
 
 待ち侘びた気持ちが、夢の後遺症を頭の片隅に追いやる。僕は昨日のうちに用意していた着替えに手を付けた。天気予報では今日も朝から暑くなるので、薄手のジーンズにTシャツ、薄手の上着を羽織る。昨日の夜に準備済みの荷物入りリュックを持ち、自転車の鍵をジーンズのポケットに入れる。あとは朝の支度をするだけ。でも、まだ部屋を出るには早い。
 その理由は、ベッドの向かい側にある箪笥、その上に置かれた水を張った小さな水槽。顔を近づけると、僕の気配に気が付いたのか、一匹のイモリが水面から小さな頭を覗かせた。
「おはよう、チョロ。今日も暑いってさ」
 仲良しの友達みたいに声をかけると、イモリは大粒の瞳でじっと僕を見つめる。その仕草が、言葉を持たない彼なりの挨拶なのだと勝手に思っている。返事を確認した僕は、水槽横に置いた容器から固形イトミミズを二、三個摘(つま)み、水槽にぽとりと落とす。これがこのイモリ……チョロの朝ご飯であり、僕が部屋を出る前に必ず行うルーティーンでもある。チョロは餌に気が付くや否や、待ってましたとばかりにかぷかぷ食いつき始めた。
 相変わらず美味しそうに食べるなあ。微笑ましさに頬を緩ませ、ようやく部屋を後にした。階段を小走りに下り、荷物を一旦玄関に置くと、リビングを通って台所へ向かう。
「母さん、おはよう」
「あら、おはよう渚。早起きねえ、今日は土曜日でしょう」
 母さんはエプロン姿で朝飯の用意をしていた。いつものように、僕と似ても似つかない黒髪を後頭部ですっきり束ねている。
「まあね。これから図書館に行くんだ。予約してた本が届いてるって連絡あったから。ついでに少し勉強してくるよ」
「ああ、もうすぐ期末テストだもんね。読書も大切だけど、ちゃんと勉強もするのよ」
「わかってるよ~」
 唇を尖らせお道化た返事をすると、ちょっとウケたのかくすっと笑われた。僕も連られて小さく笑う。
「朝はハムエッグとトーストでいい?」
「うん、いいよ」
 冷蔵庫から出したジャムとマーガリンを僕に託し、母さんはフライパンを火にかけ始めた。僕はその間に食パンをトースターに入れて、テーブルクロスや食器を準備する。
 程なくして焼き上がったトーストにマーガリンとジャムを塗っていると、ハムエッグが運ばれてきた。母さんも朝食がまだだというので、一緒に食べることにした。
 トーストをもう一人分追加で焼き、それにもマーガリンとジャムを塗る。少しして、母さんも自分の分のハムエッグを持って僕の向かいの席に座った。準備が整ったところで、二人でいただきます、と声を揃える。
 食べる傍ら、母さんがテレビを点けるとちょうど朝の情報番組がやっていた。
 MCとパーソナリティーのタレントや芸人たちのやり取りが終わってしばらくすると、ニュースを伝える時間になった。
 アナウンサーの男性がニュースを読み上げるのを聞き流していると、気になるニュースがあった。

『——世界各国で異常気象多発——』

「……怖いわね」
 母さんがどこか物憂げに呟く。
「何か最近異常だよね」
 トーストをかじりながらテレビ画面を見つめる。ニュースでは先日大雨が降った都市や、竜巻が発生したところを撮影した視聴者投稿の映像が流れている。アナウンサーの言うことには、大雨による浸水や電車の遅れや交通事故などで都心部はかなり混乱したらしい。
「そうね、どうしちゃったのかしらね……」
 コーヒーをすすって母さんが答えた。同じくテレビを見つめているけれど、その瞳はどこか別の場所を見ているように思える。
(異常気象か……)
 ――――この数年、日本では異常気象や自然災害が増えている。
 夏の異常な酷暑。警報級の豪雨や落雷。突発的な竜巻。各地で頻発する地震。例を見ない発生数の台風。交通機関が麻痺する規模の大雪。そして、それに伴うありとあらゆる自然災害。
 連日のように報じられるそれらは、日本全国で枚挙に暇(いとま)が無い。しかも、それは今や日本だけでなく、海外でも大きな問題になっているという。今流れているニュースでも、加えてアメリカやヨーロッパで嵐や山火事が頻発して被害が出ている、と語られていた。僕の住む地域も、まだ六月だというのに熱中症で倒れた生徒が何人かいるし、僕自身も予報外れの激しい雷雨には何度も困らされた。思えば、強い地震や急な竜巻もこの頃多くなった気がする。
(今日も急に雨降ったりするのかな……やだなあ)
 テレビ画面を眺めながら心で呟く。今日は一応雨の予報は無かったはずだけど、自転車で出かけるしレインコートを持っていこうかな。
 
 食事を終えると八時半になろうとしていた。その後は洗顔と歯磨きをして、寝癖の付いた青髪を梳かす。生まれつきの手強い癖っ毛なので、梳かしてもあまり変わらないんだけど。
 畳んだレインコートを追加で詰めたリュックを背負い、一度振り返る。見ると母さんが見送りに玄関まで来てくれていた。
「行ってきまーす」
「ええ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
 母さんの柔らかな微笑みを受け止めて、僕はドアを開けた。



 小学生の頃から愛用の自転車にまたがって、強くペダルを漕ぎ出す。
 六月も終盤。梅雨真っ只中の空気は湿気ぽく、夏が近づいた朝の光は眩しい。けれど、朝が早いおかげか空気は比較的涼しく、風を切れば湿気もさして気にならず心地良かった。
 あまり大きくはない住宅街を抜け、道路沿いを走る。図書館は、住宅街を抜けて少し南へ行った所にある。土曜日のこの時間帯は人も車も多くないので、思い切り自転車を走らせることができた。涼しい風の気持ちよさと、早く図書館に行きたい気持ちとが合わさって、思わずふっと腰を浮かせた。目一杯ペダルを踏み込んで立ち漕ぎすると、さっきよりも強く風が頬をなぶった。このスピードなら、ちょうど開館するくらいに到着するかな、などと少しだけ胸を弾ませて住宅街を走り抜けた。
 ……のはいいのだけれど。立ち漕ぎを始めてから数分後、僕は若干息が上がっていた。理由は簡単、坂道を立ち漕ぎで登り切ったからだ。
 図書館に行くルートはいくつかあるけれど、一番の近道は僕が「裏山ルート」と呼んでいる行き方だ。かつて通っていた小学校の裏手にある小さな山。その前を通るルートなら、住宅街をそのまま抜けるより十分くらい速い。けれども、このルートを使う時に問題となるのが坂道だ。裏山の出入り口前にあるこの坂は若干傾斜が厳しい。いつもの僕ならば無難に自転車を降りて押していくのだけど、今日は調子に乗って立ち漕ぎで挑んでしまった。その結果、坂はいつもより早く登り切れた代わりに、息が切れるのもいつもより早かった。
(慣れないことはするもんじゃないな……)
 自分の貧弱さをもう少し考慮するべきだった。僕はただでさえ同年代よりも体力が無いのに。

 裏山に面した道へと出る頃には、すっかりスピードが落ちていた。
 ひとまず、裏山の入口付近にある樹の木陰に自転車を止めた。その逞しい幹にもたれかかり、息を整えながら涼む。そよ風程度の風邪でも木の葉は揺らぎ、お互いに擦れてサラサラと軽やかな音を立てる。それが涼しさを引き立てている気がして、思わず息を漏らした。
 呼吸が落ち着いた頃、何気なく山道の方に目をやる。整備されて奥まで続く道や、その左右に佇む樹々を見つめていると、段々と懐かしくなってきた。そういえば、この裏山の前で足を止めたのはいつ以来だろう。
 名前さえ付いていないこの小さな山は、標高も勾配もそれほど厳しくないので、地元の人たちには散歩がてら自然を楽しむ場所として、子供たちからは天然の公園のような場所として親しまれていた。
 それは僕も例外ではなく、小さい頃はこの裏山が友達との遊び場だった。幼稚園年中から小学二年生くらいまでは、友達とよく探検ごっこやかくれんぼをしたし、秋にはどんぐりや松ぼっくり拾いなんかもしたっけ。今でもたまに通りかかると、小さな子供たちが山に出入りして駆け回っている姿を見かける。ここは昔と変わらず地元の子供たちの遊び場、或いは秘密基地のような役目を果たしているようだ。尤も、小学三年生あたりからは徐々に足も遠のき、中学に入学してからは勉強や家の手伝いなどに時間を取られてしまい、気が付けばすっかり遊びに行かなくなっていた。
 図書館へ向かう時に、相変わらず山の前はよく通る。でも、ここで遊んだ思い出は記憶の片隅に追いやられていたせいか、目には映れど足を止めることはなかった。
 今、ここに訪れたのは全くの偶然だ。けれど、見慣れた景色が目に映った途端、ぽっと火が灯るように懐かしさが生まれた。それは内側にゆっくりと広がっていき、ふとある思いに駆られた。
 ――――久々に登ってみようかな。
 図書館には早く行きたかったけれど、時間はたっぷりあるんだ。久々に山登りして自然を味わうのも悪くない。それに、何といってもここは、子供でも登り切れるほど易しい山。体力の無い僕でも、軽い散策にはもってこいだ。
 自転車では進めないので、とりあえず木陰にそのまま駐輪しておこう。鍵をかけて、キーをポケットにしまうと、リュックを背負い直す。よし、と誰にともなく呟いて意気込み、踏み慣らされた粘土質の山道へ足を踏み入れた。

 最後にここを訪れた時から少なくとも三、四年は経っているはずだ。けれど、山の景観はあの頃とちっとも変わっていなかった。強いて言えば、伐採された跡と思われる切り株が以前より増えている気がするくらいか。
 マテバシイやクヌギの樹々が織り成す雑木林。うずくまるように茂るツツジの葉。苔むした岩。どこかから聞こえてくる鳥の声。なめらかな地面に揺れる木漏れ日。そのどれもが、僕の中に生まれた懐かしさを強めた。
 いわゆる森林浴というのだろうか、山の中には清々しい空気が満ちていた。そんな空気を乗せたそよ風が時々ふっと吹き抜けては、木の葉をサラサラ奏でてどこかへ消えていく。思わず深呼吸すると、爽やかでひんやりした空気が体を巡っていく気がした。
 そういえば森林浴って、植物の出す化学物質のおかげで癒し効果があるって何かの本で読んだな。その手のことにはあんまり詳しくないけど、森の中を歩くと気分転換になるのはそういうことなんだろうな。
 なんてことを考えながらも、引き続き景色を楽しむ。辺りを見渡せば、見覚えのあるものをいくつか発見した。
 ――――あ、あれはよくかくれんぼで使った樹のうろ。小学生くらいなら三人は入れるくらい大きいんだよね。
 ――――あれは小さい洞窟。あそこを秘密基地にしてごっこ遊びをしたっけ。
 ――――それからあの岩。僕らは「とんがり岩」と呼んでいたごつごつの大岩は、誰が一番速く登ってその上で立てるかの競争をするのにもってこいだったなあ。
 何も知らない人からすると、全て何の変哲も無い自然物。見分けすら付かないだろう。でも、この山で遊んで育った子供たちは、わずかな目印だけであらゆる自然物の見分けが付く。かく言う僕も、その一人。
 あれこれ思い返しながら、のんびり山を登っていく。やがて十五分ほど経っただろうか、ようやく山の中腹辺りの或る場所にやってきた。
 朱塗りの少し剥がれ落ちた、それでも大きく立派な鳥居。奥に見えるのは、すっかり寂れて古ぼけた拝殿。山道の目印である石畳の途中、脇には手水舎があり、石造りの水溜めと獣か何かの形を模した水道がある。今となっては、水はすっかり干上がっているけれど。
 そう、ここは言わずと知れた神社。確か名前は「大奈神社」だ。
 僕が生まれるよりずっと前から既に然るべき人々はいなかったというこの神社。本来の役目を失ったここは、今では散歩に訪れる人や山遊びで疲れた子供たちの休憩に使われたり、かくれんぼや鬼ごっこで遊ぶ時に使ったり、すっかり地元の人々の馴染みと憩いの場になっている。ここもまた、かつての僕たちにとっては遊び場だった場所の1つだ。
「久々に来たけど、全然変わってないや」
 呟いて、鳥居の外側から境内を見回す。この景色が当たり前だった頃のことが思い返されて、俄然懐かしさが込み上げてきた。
 今の時間、流石に神社に遊びに来ている子供はいないようで、しんと静まり返っていた。まるで、ここだけ別の時間が流れているかのような、不思議な雰囲気。
 そこまで思いを馳せて、ふと思い出したことがあった。



 僕がまだ小学一年生くらいだった頃だったか。友達からこんな噂を教えてもらった。

 ————大奈神社の鳥居を、目をつぶったままくぐると異世界に行ってしまう。

 それは、この神社を遊び場にする地元の子供の間で実(まこと)しやかに語り継がれてきた話だ。
 噂によると、この方法で異世界へ行ってしまった人間は、二度と元の世界に戻ってこれなくなるらしい。異世界へ入った途端に出口が閉じてしまうだとか、異世界に棲む化け物の餌食になるだとか、この世のものとは思えない綺麗な景色に心を奪われて帰る気持ちを失ってしまうだとか。詳細は話し手によって違っているものの、話の大筋は「異世界に行ったら帰ってこれない」ということで一致していた。元々オカルト話を信じやすかった上に、当時幼かった僕は当然その噂を素直に信じ、「鳥居をくぐる時はまばたきしないようにしないと」と怯えたものだ。
 もちろん、大人は誰もこの話を信じてなかった。所詮は噂、根拠も無い眉唾話。差し詰め、地元の老人が子供たちの退屈を紛らわす為に作ったお伽噺に尾ひれが付いた程度のものだろう、とこの話を一笑に付していた。



 今思えば、そんな大人たちの意見はご尤もだと思う。
 学校の七不思議とか、都市伝説とか、その手の噂はどこまでいっても信憑性に欠ける。多少分別が付くようになった今ならそう理解できる。
 でも実は、個人的にあながち全て嘘ではない、とも思っている。火の無い所に煙は立たぬとはよくいうもので、何かしら不思議な出来事があったから噂が生まれる、という考え方もある。異世界へ繋がる鳥居の噂も、もしかするとそんな経緯で生まれたのかもしれない。
 それに、もしそんな不思議なことが本当に起こったら、それはそれで素敵だとも思う。むしろ僕はその異世界が存在するなら行ってみたいとすら思う……なんて、とても他人に言えたものではないけど。
 鳥居を見上げ、しばらく見つめる。それから視線を下ろして、徐(おもむろ)に頷く。
 異世界、というワードは魅力的だけど、残念ながら結局は噂話。噂を知った当時と違い、噂は噂でしかないと分かっている今は怖くも何ともない。だからこそ、ちょっぴり試してみてもいいかもしれない。
(まあ、本当に異世界に行っちゃったらその時はその時……ってね)
 そんなお気楽なことを考えながら、僕は目を閉じ、一度ゆっくりと深呼吸をした。そして、そっと大股で歩き出し、そのまま鳥居をくぐり抜けた。

 ――――五歩ほど歩いてから、止まって目を開ける。
 時間をかけて辺りをゆっくりと見渡す。大股で歩いたので鳥居はとっくに背後にあり、石畳の真ん中くらいに立っていた。視界に入るのは目の前の拝殿、その前に佇む一対の狛犬、横に見える手水舎、絵馬堂に社務所、その他諸々……うん、見る限り何一つ変わったところは無い。僕の知っている神社のままだ。
「……あはは、そりゃそうだよね」
 思わず苦笑混じりに零した。心のどこかで「本当に異世界に行けたらいいな」なんて、冗談でも思っていた自分が何となく恥ずかしかった。誰が見ていたわけでもないけど、誤魔化すように境内を歩いてみた。廃神社となったここには見て楽しめるものなんてほとんど無いのだけど、懐かしさに後押しされて、社(やしろ)の周りをぐるりと巡ってみる。木造の柱や回廊の床は、風雨に晒され手入れされなかったせいか、所々朽ちて腐りかけていた。最近地震も多いのに壊れずにいるのが不思議なくらいだ。そう思いながらゆるゆると歩いていると、社の真後ろまでやってきた。
 本来神社は、社が本殿(御神体を祀る社)と拝殿(参拝するための社)の二つに分かれているのが一般的だという。けれどもこの大奈神社は、この小さな山そのものを御神体としているので、本殿は存在しない形式の神社なのだ、と学校の歴史の先生から聞いたことがある。だから、拝殿の後ろにあるのは本殿ではなく防風林だけだった。そこは日が当たらないせいで少々薄暗く、土はどこか湿っている。ナメクジやクモが快適に過ごしていそうな場所だ。それ以外変わったものは無いと思っていたが、目を凝らしてみると気が付くことがあった。林の少し奥の方に、何やら小道らしいものが見えたのだ。
 あれ、こんなところに道なんてあったっけ、と首をひねる。神社でよく遊んでいた頃も社の裏手に来たことはもちろんあった。もしも当時から道があったなら、その時に気が付いてもおかしくないはずだ。けれど、当時は小さかったし、遊びに夢中で気が付かなかったのかも。仮に当時から道に気が付いていたとしても、昔のことだしすっかり忘れているのかもしれない。
 とにかく、林の奥に見つけたそこに、好奇心をくすぐられてしまった。腕時計を見ると既に九時を回っている。図書館が開いてすぐくらいだ。
「……急ぎじゃないし、いっか」
 結局勝ったのは、持ち前の好奇心。言い訳をそっと呟き、僕は樹々の間をくぐり抜けた。

 枝が絡み合うようになっていて歩きにくい、と思ったのは最初だけで、しばらくすると視界が開けた。
 そこには何と、並木道がずっと伸びていたのだ。そこからの道は歩きやすく、どうやら人の手で整備されたものだと分かった。だとしたら、この先には何があるのだろう。全く想像が付かないまま、それでも心のどこかに淡い期待を抱いて歩いていくと、見えてきたものに息を呑んだ。
 1メートルほど先、目に飛び込んできたのは、このご時世には珍しいくらい古風な日本家屋だった。
 それもなかなかに大きくて、家というより軽いお屋敷に近い。それなりに裕福な人でも住んでいそうな雰囲気だ。それが防風林の奥にあっただけでも十分びっくりだけど、よく見ると家の前には人影があり、二度目を瞠(みは)った。
 背が高いその人は、若い男の人だった。見てくれは二十代後半くらいだろうか。木漏れ日に照らされた金髪はまろやかに光をはね返して煌めくようで、男性としては長めのそれは頭の後ろですっきり束ねられている。服装は一言で言うとお洒落で、ついでに言えば男の僕ですら見とれてしまうほど整った顔立ちだった。雑誌のモデルか、海外の俳優だと言っても納得してしまう。
 そんな美形の金髪お兄さんが、大きな日本家屋を前に何やら思案顔で佇んでいる。不思議と言えば不思議な光景だけど、何だかとても絵になる光景でもあった。
 気が付けば、引き寄せられるようにその人に近づいていた。すると足音に気が付いたのだろう、お兄さんもこちらを振り返った。
「こんにちは」
「あ、えっと、こ、こんにちは」
 相手から先に挨拶されたので、ついどもってしまった。知らない人と話すのはあんまり得意ではないのだ。
「もしかして神社の参拝か?残念だが、かなり前に廃神社になっているみたいだぞ」
「あ、はい、知ってます。僕、地元なので」
「おっと、そうだったか。これは失礼」
 お兄さんが軽く頭を下げた。その仕草すらどこか優雅に見える。
「それにしても、よくここが分かったな。ここまでの道、林に隠れて分かりづらかっただろうに」
「えっと、僕も今日初めて気が付いたんです。興味本位で道を辿ってきたらここに来ちゃって……あ、その、勝手に入ってきちゃってすみません」
 今度は僕が頭を下げた。彼がこの家の住人だと思ったからなのだが、当の本人はきょとんとしていた。数秒後、合点がいったように「ああ」と納得したように呟くと、くすくす笑う。
「謝ることはない。俺も君と同じで、見つけた道を辿ったらここに着いたよそ者だよ」
 気さくな口調でそう言われ、何だそうだったのかと安堵した。顔を上げ、改めてお兄さんの顔を見る。
 近づいて分かったけれど、見れば見るほど綺麗な見た目だった。髪はもちろん、睫毛まで金色で長くて、とても色気のある目だ。中性的な顔立ちというのだろうか。
 ただ一つ、驚いたのは瞳の色だった。ワインレッド、或いは蘇芳色(すおういろ)というか、黒か焦げ茶が混ざったような赤……に見える不思議な色彩なのだ。海外の方なのか、それともカラーコンタクトでも入れているのか。失礼かと思いながらも尋ねてみる。
「ああ、ちょっとこちらで仕事があってね。ここに来て日は浅いんだが、日本語もなかなか達者なものだろ?」
 ウインクして微笑むお茶目な仕草に、思わず頬が緩んで「はい、とっても」と頷いた。
 ふと、お兄さんがあっと声を上げた。今度は困ったように笑って僕を見る。
「すまない、名前も名乗らずに……俺はルキア・アビガイルという者だ。良ければ君の名前も教えてくれるかい?ここであったのも何かの縁だ」
「はい。僕は雨宮 渚といいます。近くの中学校に通ってて、中学二年生です」
「————雨宮、か」
 お兄さん改め、アビガイルさんが何故か一瞬目を丸くした。
「え、知ってるんですか?」
「いや、ここいらじゃ珍しい名前だと思ってな」
「アビガイルさんも珍しいお名前ですよね、かっこいいです!」
「ふふ、珍しいとはよく言われるが、かっこいいなんてのは初めて言われたよ。ありがとう」
 アビガイルさんは少し照れ臭そうに笑った。
 誇張ではなく本当に珍しい名前だと思う。一体どこの国の人だろう。響きのお洒落な感じが、何だか物語の登場人物みたいだ……なんて思ったのは、僕がそういった類―いわゆるファンタジージャンルや冒険譚―の小説や漫画が好きだからだろう。
 そこまで考えてようやく思い出し、今度は僕があっと声を上げる。危うく本来の目的を忘れるところだった。
「どうした?」
「すみません。僕、近くの図書館に用事があったんですけど、寄り道しすぎちゃって……そろそろ行かなきゃ」
「図書館か……調べものかい?」
「予約していた本を借りに行くんです。あと、期末試験が近いので少し勉強もします」
「おお、偉いな。頑張れよ」
「ありがとうございます」
 励ましをくれたアビガイルさんに会釈する。
「……せっかく知り合えたのにもうお別れとは名残惜しいが、また会えるといいな」
 顔を上げると、アビガイルさんは微笑んでいた。初対面の人に向けるには、どこか親し気で、優しい印象の笑み。ただでさえ端正な顔立ちの人が柔らかく微笑むものだから、思わずどきっとした。

 ――――次の瞬間。信じられないことが起きた。

 ザアアッッ……アビガイルさんの背後から、激しい風が吹きつけてきた。木の葉が舞い、視界が悪くなる。
 急な突風に反射的に目を瞑(つぶ)り、顔の前で腕を交差させた。何が起きているのか理解もままならないうちに、体がふっと浮いているような、不安定な感覚に襲われる。眩暈を感じるのと同時に、彼の声が風の向こうからはっきりと聞こえた。
「――――また会おう、少年。その時まで、達者でな」



 ――――風はすぐに止み、静かになった。
 恐る恐る目を開けて、我が目を疑う。そこは、さっき日本家屋があった林の奥ではなく、大奈神社の鳥居の前だったのだ。
(あれ……?いつの間に戻ってきたんだろう?)
 さっきまで確かに、お屋敷風の家の前で金髪お兄さんことアビガイルさんと喋っていたのに。
 話に区切りがついてから一分と経たずにここにいるのも、自分で歩いてここまで戻ってきたような感覚が無いのも、何とも奇妙だ。現実感の無さに若干混乱する。
 もしかして……もしかすると、僕はあの瞬間、本当に別世界に行っていたのだろうか。あのおふざけみたいな噂の通りに。
 いやいやまさかあり得ない、と即座に考えを打ち消す。あれは単なる都市伝説や怪談程度の噂話だ。確かにさっき会ったアビガイルさんは、どこか浮世離れした雰囲気を感じるけれど、きっと気のせいだろう。ちょっとミステリアスな雰囲気を纏う美人な外国人、で十分説明できる。
(こういう、何て言うんだっけ……)
 ————白昼夢。そう、きっとそれだ。
 そうでなければ、知らないうちに異世界ではなく自分の妄想の世界に浸っていただけかも。それもそれで変な話だけど、そっちの方がいくらか現実的だ。
 どれだけ理屈をこね回しても腑に落ちないけど、これ以上考えても仕方ないと諦める。気を取り直して時計を見ると、九時ニ十分くらい。そろそろ本来の目的地に行かなきゃ。神社に背を向け、山道を下る。下りながら、遠ざかる鳥居をちらっと振り返る。
 本当に一体、あの数分間は何だったのだろう。どうせなら、あの不思議なお兄さんともうちょっとお喋りしておけば良かったかなあ……なんてね。
 理解はできなかったけれど、僕の心には例えようのないわくわくした気持ちがじんわり広がっていた。不思議の尻尾をほんの少しでも掴んでいたのかもしれない。そう考えると無性に心が弾み、頬が緩んだ。
 登った時より心なしか足早なのは、きっと下りの道だからだけではないだろう。僕は軽い足取りで、山を後にした。

夢占い

 
 少年との接触は、完全に予想外だった。
 長い交流は流石に怪しまれると踏んで、さりげなく突き返したのは正解だったかもしれない。まだ残る風の名残に金髪を靡かせながら、男は溜息を吐く。
 彼の本来の目的は、探し人を見つけることであった。彷徨うように各地を転々として、ようやくその気配の端っこを、この小さな町で掴んだ。糸より細く頼りない手がかりを手繰って辿り着いたそこは、小さな山に建ってるのが不自然なほど、この町では二つと見ない立派な古民家であった。
 尤も、そこには目当ての人物どころか、誰かのいる気配すら無かった。人は住んでいるのだろうが、何にせよ当ては外れた。
(まあ、手がかりと言っても頼りないものではあったからな)
 出来れば探し人が行動を起こす前に見つけ出したいが、大きな動きが無い以上抑えようもない。仕方ない、と男は気を取り直し、くるりと古民家に背を向けた。
 ふと、先程の少年を思い返す。
 当てが外れ、思わず肩を落としかけたところに現れた、変わった髪色の少年。彼とこ(・)の(・)町(・)で会ったのは初めてだったが、男は確かに彼を知っていた。
「まさか、ここで会うことになるとは。運命は分からないもんだな」
 ぽつり、呟かれた男の言葉は、誰に届くこともなく木洩れ日の柔い光に溶けていった。
 見上げれば、そこだけ丸く開けた頭上には快晴の青天井。その遥か彼方に何かを見るように、男は目を細める。
(……時は満ちた、か。俺が言えた立場じゃないが、随分と早熟じゃないか?そんなもんなのか、“予言の子”ってのは)
 現代日本には似つかわしくない、ダークレッドの瞳。夏の太陽の光を見つめるそれは、しかしどこか憂うように陰っていた。



◇◇◇
 登るのが楽なら、降りるのも同じこと。緩やかな下りの山道をテンポ良くとんとん歩けば、行きよりも五分ほど早く山の入り口に着いた。
 それでも僕にとって、軽めのハイキングには変わりない。久々に山登りなんてしたから、ちょっと疲れちゃった。日が高くなり始めているせいか、木陰を歩いてきたのに何となく汗ばんでいる。
 自転車を止めた木の下で少し涼んでから、ポッケにしまった鍵を取り出す。完全に寄り道になっていたけど、本来の目的は図書館だ。焦ることはないが、読みたい本が待っていると思うとやはり気持ちは早る。すぐに出発しようと、自転車の鍵を差し込んだ……までは良かったのだけど。
「……あれ、鍵が外れない」
 呟きながら鍵を捻るも、途中でつっかえてそれ以上回らない。自転車の手入れなんて満足にしてないせいで、前から鍵は回りづらかったけど、こんな時につっかえるなんて。ああもう、焦ったいな。
「ワンワン、ワン!」
「よう、渚!」
 そうして自転車相手にガチャガチャ格闘していると、後ろから犬の鳴き声と人の声が聞こえた。びっくりして振り向くと、そこにはよく知る人が立っていた。
「あ、テル!おはよ!」
「よっす、おはよ」
 手を振ると、彼もひょいと片手を上げる。
「ワウワウ!」
 そんな僕らにアピールするように、足元から再び元気な吠え声。飼い主の傍でお行儀良くおすわりしているのは、シベリアンハスキーに似た中型犬だ。
「おっ、メラもおはよう!今日も元気だね!」
 しゃがんで頭を撫でてやると、メラは気持ち良さそうに目を細めた。

 彼は日上照彦(ひがみてるひこ)……あだ名はテル。僕とは同い年、同じ中学、同じクラスの幼馴染みで、一番の親友だ。
 普段は剣道部で練習に明け暮れているはずだけど、こんな朝早くに学校の外で会うということは。

「部活、今日は休み?珍しいね」
「そ。この前ちっさいけど試合があったから、そのオフ日でさ。でも部活無いと朝から暇だし、普段は母さんにこいつの世話任せ気味だから、たまにはオレが散歩すっか〜ってな」
 手に持ったリードや犬の散歩道具をこちらに見せて、テルが困ったように笑う。練習漬けな毎日ゆえに、それが無いと手持ち無沙汰になりがちの彼らしい理由だ。
「ワウワウ!ガウッ、バウッ!」
 ふと、急にメラがテルに向かって吠えた。さっきの声より、ちょっと機嫌が悪そうだ。
「うわっ、何だよ!何で吠えんの!?」
「あはは!テルがメラのこと"こいつ"なんて呼ぶから怒ってるんじゃない?メラは女の子なんだから丁寧に呼んであげないと」
 ねー?と話しかけると、メラは「そうだそうだ」と肯定するように胸を張り、ふんっと鼻を鳴らす。
「ちぇっ……ごめんって、メラ」
 唇を尖らせつつも、メラの目を見てきちんと謝るテル。宥める代わりにほっぺを挟んで撫でると、メラは「分かればいいのよ」とでも言いたげに満足そうな顔をした。

 テルの愛犬であるメラは、見た目こそシベリアンハスキーに似ているけれど、実際は雑種らしい。証拠に、体格は柴犬くらいの大きさであり、毛の模様も独特な赤毛だった。テルとは姉弟のような雰囲気の仲の良さ、とでも言おうか。

「ところで渚、何か自転車いじくってたみたいだけど、どした?」
「ああ、えっと、何か急に鍵が外れなくなって……」
「マジ?ちょっと貸してみ」
 そう言うと、テルは僕にメラのリードを託し、自転車のロック部分に手を伸ばす。数分ほどカチャカチャ軽い音がした後、カシャン!と小気味良い音が鳴った。
「ほい、外れたぞ」
「すごーい!ありがとう!」
「へいへいどうも。多分ロックが錆びてるっぽいから、一回見てもらった方がいいぞ」
「うーん、そうしようかなあ……」
 最後に自転車を点検したのは去年の今頃だったはず。僕は休みの日によく自転車を使うし、買った店でそろそろ油を差してもらった方が良さそうだ。
「次の休みに見てもらうことにするよ」
「今日行けばいいじゃん」
「今日はこれから図書館行くからさ、流石にそっちを優先させたいかな」
「図書館……って、もしかしてテスト勉強?」
「うん。予約してた本の受け取りもあるけど」
「まだ定期テストまで二週間あるじゃん……気ぃ早くねえ?」
「もう二週間切ってるよ?そろそろ勉強始める頃じゃない?」
「いやいやいや……」
 テルが引き攣った笑顔で手をぱたぱた振る。僕の他にも、二週間前あたりから勉強する生徒は少なくない。とはいえ、元々テルは勉強があまり好きではないので、この反応も仕方ないだろう。
「うーん……でも、図書館行くってんならオレも付いてっていい?オレも用事あるからさ」
「え、そうなの?」
 表情を改めたテルからの提案に、僕は思わずきょとんとした。お世辞にも読書好きとは言えない彼が図書館に用事とは、にわかに想像がつかない。
「何だよ、悪ぃか」
「いやいや。でも珍しいなと思って。言っとくけど図書館にある漫画は、テルのいつも読んでる少年漫画みたいなやつじゃないよ?」
「知ってるっての。マジで調べたいことがあるんだって」
 軽い調子で言い返すテルの表情は、しかし心なしかいつもより真剣だった。テルの調べたいことに想像は付かなかったけれど、何か真面目な理由があるのだろう。
「いいよ、一緒に行こう」
「サンキュ。でもひとまずメラを帰さねえとだから、先行っててくれ」
「分かった。のんびり行ってるね」
 僕の返事を聞くや否や、テルはメラに短く声をかけて道を引き返していった。その背中を見送ってから、僕も自転車に跨るとゆっくり走り出した。
 裏山前の上り坂を登り終え、下りに変わった道をのろのろペースで漕いでいると、後ろでチリンチリンと自転車のベルが鳴った。テルも自分の自転車に乗って速くも追い付いてきたのだ。急いで来たのか、大きめのウェストポーチが腰ではなく前かごに放り込まれていた。
「はっやいなあ!」
「だろ?剣道部の足腰なめんな」
「いいなあ、その運動神経分けてよー」
「やーだね!100メートル走で13秒切ってから言えっての!」
「20秒切るのもやっとの貧弱にそれ言う!?鬼ーっ!」
「はっはっはー!鬼で結構ー!」
 テルは高らかに笑いながら、悠々と僕を追い越した。僕も負けじとペダルを踏み込むが、剣道部の次期エースと名高い彼の脚力には敵いっこない。それでも僕らは付かず離れずを保ちながら、狭い田舎道を前後に連なりながら軽快に走っていく。些細な冗談を投げ合って二人で笑っていると、日が高くなるほどに増していく暑さも、ペダルを漕ぐほどに滲みだす汗も全然気にならなかった。



 最終的に図書館へ着いた時には、既に九時半を過ぎていた。自宅を出てから一時間も回り道していたなんて。まあ、休みの日くらい行き当たりばったりでもいいだろう。
 狭い駐輪場には、既に大小さまざまな自転車が停まっている。僕らは空いたスペースに詰めて駐輪すると、入口の自動ドアをくぐった。
 ここは、僕の住む町で一番の蔵書数を誇る、田舎町にしては大きい図書館だ。見渡すほどに広い一階には、比較的大人向けの書籍や中高生向けの小説、調べものに役立つ専門書など様々にジャンル分けされた本が目白押し。ちなみに階段を上がった二階には、打って変わってちびっ子向けの絵本や紙芝居がたくさん置かれている。
 でも、今日の目当ては棚に収まった本ではない。僕は本棚には目もくれず、真っ直ぐ受付に向かった。そこにはカウンターを挟んで何人かの司書がおり、貸出受付をしたり返却本のチェックをしたりと忙しなくしている。その中の一人、てきぱきと返却本をまとめて本棚に戻す準備を整えていた男性に、僕は抑えた声で話しかけた。
「叡彰(えいしょう)おじさん、おはよう」
 こそこそ声でも気付いてくれたらしい。男性は僕を振り向くと、ふんわりと穏やかに微笑んだ。
「渚くん、おはようさん。おや、今日は照彦くんも一緒かい」
「はよーっす、おっちゃん久しぶり。何か忙しそうだな」
「土曜日だからねえ。朝から親子連れや学生が多くて。数日前に新しい本も入荷したから、目当てに来てる人もいるだろうね」
 そこまで話して、叡彰おじさんは合点がいったように僕を見た。
「入荷で思い出した。渚くんの目当ては取り置きの本だね」
「うん。取り寄せできましたって電話もらったから来たんだ」
「ちょっと待ってね、取ってくるから」
 叡彰おじさんは作業の手を止めると、受付の奥に引っ込んでいった。数分後、一冊の分厚い本を片手に戻ってくる。
「はい、お待ちどおさん。これであってるか、一応確認してくれるかい」
 本を受け取り、題名を確認する。表紙も、背表紙も、作者名も、一字一句間違いは無い。
「うん、このタイトルだよ。ありがとう!」
「良かった。ずっと借りたがってたもんねえ」
「なになに?またファンタジー小説か?お前も好きだなあ」
 テルが横からずいっと覗き込んで呆れ笑いを浮かべる。
「何だよう、面白いんだからね、この作家のファンタジー作品」
「具体的に言うと?」
「文章がサクサク読みやすいのに没入感があって、架空の話なのに情景がはっきり想像できる描写力があって、個性的なのに魅力的な登場人物を描くのが上手くて、それから……」
「お、おう……思ってた以上に語るじゃんお前……びっくりした」
 いけない。好きな作家や作品のことになるとつい熱く語ってしまう。苦笑いするテルに、誤魔化しの乾いた笑いで返す。
「あはは、こんなに熱烈なファンがいるとは、この作品の作者も幸せ者だねえ。さあ、物語にじっくり浸るためにも、まずは貸出手続きしちゃおうか」
 一方、叡彰おじさんはそんな僕を楽しそうに笑って見ていた。

 宇賀神 叡彰(うがじん えいしょう)さん。
 僕やテルがまだ二階の児童書フロアで絵本を読んでいた頃に知り合った、ベテラン司書のおじさんだ。少し長い黒髪をうなじで緩く束ね、短く整えた顎鬚が印象的な彼は、僕らがやってくると決まって世話を焼いてくれた。一緒に本を探してくれたり、高くて届かない場所の本を取ってくれたり、仕事の休憩時間にこっそりお菓子を持たせてくれたり。おじさんがオフの日には、絵本を読み聞かせしてもらったこともある。まるで親戚の子供みたいに可愛がってくれるので、僕やテルにとってはとても近しく親しい相手だ。
 中学生になると、テルは部活が忙しくなったこともあって足が遠のいていたが、僕は変わらずこの図書館の常連なので、おじさんとの交流も未だにそこそこ多い。本の取り寄せの手続きをしてくれたことも今回が初めてではなかったりする。

 受付でおじさんに貸出証明の専用カードを確認してもらい、正式に本を借りることができた。これで今日の目的の七割は達成だ。
「なあ、おっちゃん。ちょっと聞いていい?」
 リュックに本をしまっている隣で、テルが叡彰おじさんに話しかけているのが聞こえた。
「うん?どうかしたかい」
「ここってさ、夢占いとか夢分析とか、そんな感じの本って置いてたりしねえ?」
(……ん?テル、今夢占いって言った?)
 テルの口から出た意外すぎる単語。思わず会話の聞こえる方を見ると、叡彰おじさんもきょとんとした様子で目をしばたたかせていた。きっと僕と同じことを思ってるのだろう。
「どうだったかなあ……あるとは思うけど」
「大体どこら辺?」
「哲学や心理学のコーナーにあると思うよ。奥まった場所だし、良ければ一緒に探しに行こうか?」
「いやいいよ、おっちゃん忙しそうだし、一人で探してみっから」
「若い子がおじさんに気なんて遣うもんじゃないぞ。それに、ここはとにかく広いからね、目当ての本を一人で探し当てるのは大変だよ」
 叡彰おじさんの言う通り、この図書館、特に一階は蔵書数ゆえか見た目以上に広大だ。奥行きが広いのはもちろんのこと、受付から見える範囲だけでなく左右に奥まったところにも本棚が並んでいるので、初めて利用する人や久々に本を借りに来た人は決まって司書や検索端末のお世話になる。今でこそ慣れて一通りの本は探せる僕でも、一階を使い始めた当初は毎回叡彰おじさんに頼っていたくらいだ。
 おじさんが忙しいなら僕が付いていこうか、とも思ったけど、当のおじさんは案内する気みたいだし、ここはプロに任せておこう。
「マジかよ……じゃあ案内頼むわ」
「よしきた、任せといて」
「すまん渚、ちょっと別行動な」
「気にしないで。いってらっしゃーい」
 受付から出てきた叡彰おじさんにテルが付いていったのを見送ると、僕は閲覧席に向かった。パーティションで区切られた長机のそこは、普段は大学生や高校生で埋まっている。今日も勉強道具やパソコンを広げる年上の学生たちがこぞって机を埋めていたけれど、幸いなことに壁際の席が一つだけ空いていた。僕はいそいそと席に腰かけ、リュックから教科書やらノートやら筆記用具やらを取り出した。今回取り組むのは、僕が最も苦手な数学だ。
 テスト範囲になっているページを開き、練習問題を見ながら必死に公式を思い出す。あれがああなって、これがこうなるから、答えはこうで……って、あれ、そんな感じだったっけ。ああもう、昨日やったばっかりなのに、一問目からもう忘れちゃった。数学担当の先生は「公式さえ覚えれば点が取れるんだから、これほど親切な科目無いだろ」って得意げに言うけど、その公式がどうしてそうなるのか理屈が分からないからこっちは困ってるというのに。
(物語の登場人物の心情を考える方がずっと楽しいのにな……)
 見えないものの奥深くに思いを馳せるのは得意だ。けれど数学はその「想像力」がまるで役に立たない。だからこそ最も苦手意識が強い科目だった。ちなみに同じような理由で化学や物理も苦手だ。
 正直、高い点数を狙っているわけでもないのだけど、それでも完全に捨てるわけにはいかない。進みの遅いシャーペンを何とか動かして、やっと1ページ分の演習を終える頃には、僕のモチベーションはすっかり萎えていた。
 その後、苦手を潰すより得意を伸ばした方がいいよねと結論付けた僕が、数学の教科書を早々にしまって現代文の勉強に切り替えたのは言うまでもない。



 一方、照彦は叡彰についていき、一階奥の心理学コーナーに到着した。読む人が少ない専門分野のためか、該当の棚は隅の方にひっそりと設けられていた。
(どこもかしこも本でいっぱい……何か頭痛くなってくるなあ)
 読書といえばもっぱら漫画が中心の照彦に、本の敷き詰められた棚は情報量が多すぎる。ここに至るまでの時間は大したことないはずなのに、既に若干の疲労を感じていた。
「さて、テルくんのお目当ては夢占いや夢分析の本だったね。つかぬことを聞くけど、どういう風の吹き回しだい?」
 叡彰が改めて不思議そうな面持ちで尋ねる。夢占いにしろ夢分析にしろ、この手の話題が好きそうな渚ならまだしも、夢の内容などあまり気にしなそうな照彦が興味を示している事実がどうにも結びつかないのだ。
「いや……実はさ、最近すっげえ変な夢ばっかり見るから不気味でさ」
 曰く、照彦はある時期を境に、同じ内容の奇妙な夢を繰り返し見るようになったのだという。
 照彦とて空を飛ぶ夢や何かに追われる夢など、よくある類の夢なら気にも留めなかった。それでも、明らかに由来が不明の夢を幾度となく見てしまえば、さすがに何かあるのかと気になってしまうもの。しかし、照彦の家にはパソコンなどインターネット環境は無いし、学校のパソコンは教師の許可が不可欠。そこで最後の砦として頼ったのが本だった、というわけだそうな。
「成程ね。ちなみに、テルくんが見たっていうのはどんな夢?」
「あー……マジで意味わからん夢なんだけどさ、笑うなよ?」
 あっけらかんとした照彦が引っ掛かる内容の夢とは如何なるものか。単純な好奇心で尋ねたつもりだった。しかし、続けて語られた詳細に、叡彰はみるみる目の色を変えた。
「……テルくん、質問ばかりでごめんよ。その夢は、いつ頃から見始めたんだ?」
 動揺が声や顔に出ないように努めて普段通りの調子で訊く。
「うーん、いつからだっけな……よく覚えてねえけど、少なくともここ一、二週間はほぼ毎日だよ」
「……そう、か」
 顎に手を添えて思考を巡らせる。これは単なる偶然か。いや、それにしては夢として現れる周期が頻繁すぎる。しかし、だとしたらあまりにも早すぎるのではないか……?
「え、何だよおっちゃん。もしかしてすっげえ不吉な夢だったりすんの?」
 さっきまで穏やかな雰囲気だった叡彰が急に難しい顔で黙ってしまい、一抹の不安がよぎる。照彦の声にも焦りと不安が滲んだ。それに気づいた叡彰はハッとして、すぐに頬を緩める。
「ああ、いや、どうだろうね。私も夢占いには詳しくないもんで……それでもだいぶ気になる内容だ。ヒントになりそうな本が無いか、ちょっと探してみようか」
 そう言うと、近くにあった脚立を持ってきて数段登る。照彦はそんな叡彰の様子をやや見上げながら見守った。
 整然と並んだ背表紙を指でなぞるようにして、本を探すような素振りを見せる。しかし実際には、それは全部「探しているフリ」だった。
 
 叡彰には分かっていたのだ。
 照彦の見た夢の内容は、この図書館の如何なる本でも解明できないことを。
 そして、その答えを持っているのは、現(・)時(・)点(・)で(・)は(・)自(・)分(・)だ(・)け(・)で(・)あ(・)る(・)ことを。

 しかし、今はそれを悟られてはいけない。だから、数分ほど背表紙を確認するような振る舞いをした後、脚立を降りて困り顔で笑う。
「ごめんよ、役立ちそうな本はどれも貸し出し中みたいだ」
「えーっ、マジでか」
 まさか隠し事をされているなどとは露知らず。叡彰の報告を受け、照彦は残念そうに肩を落とした。いかにも読み手の少なそうなジャンルだというのに、そんなことがあるのだろうか。
「まあ、借りられてんならしゃあなしだな。ありがとな、おっちゃん」
 しかし、本を読む人の都合や貸し出し頻度の相場など分かるわけもないので、現実は現実として受け入れるしかなかった。照彦はお礼代わりに軽く会釈をした。ラフな喋りに反して剣道部らしく礼儀正しい振る舞いに、叡彰は「気にしないで」と曖昧に笑って返すしかなかった。



 三十分もしないうちにテルと叡彰おじさんが戻ってきた。ちょうど漢字練習がひと段落してペンを置いたところだった。
 「おかえり……って、あれ?何も持ってないね、目当ての本無かったの?」
 「ああ、貸し出し中だってさ。ざーんねん」
 空の両手を広げて見せたテルは、やれやれと残念そうに笑う。その隣では、叡彰おじさんが困ったような微笑みでテルを見ている。期待に沿えなかったのを申し訳なく思っているのだろう。
 何はともあれ、これにてテルはここに用が無くなったし、そのまま帰ってしまうものだと思っていたのだけど。
「渚の勉強終わるまで待ってるよ」
「僕、お昼くらいまで勉強続けるからまだ時間かかるよ?」
「いいよ。適当に漫画とかラノベとか探して読んで時間潰してっから。最近土日に会うこと無かったし、たまにはいいじゃん」
 にやりと笑ったテルにつられて僕も頬が緩む。学校では毎日顔を合わせているけど、小さい頃のように休日に一緒の時間を過ごすのはずいぶん久々だ。テルがいいなら、もちろん僕にも異論なんて無い。
「そうだね。そしたらお昼ごろまた落ち合おう」
「あいよ、勉強頑張れー」
「相変わらず仲良しだねえ。それじゃあ私も仕事に戻るよ。二人ともごゆっくり」
「うん、ありがとうおじさん」
「忙しいとこ、あんがとなー」
 小さく手を振った叡彰おじさんに、僕たちは銘々にお礼を言った。彼が受付奥に引き返していったのを見送ってから、テルは「んじゃ」と短く一言、ライトノベルやコミック作品の置かれた棚を探しに行った。読者数が多いジャンルゆえに目立つポップが飾られているおかげで、テルもすぐ見つけられたようだ。すぐにその姿は棚の隙間に消えていった。
 残された僕は、凝り始めた首を軽く回す。さあ、もうひと頑張りだ。今度は歴史の教科書を開き、人名や出来事や年号の暗記に取り掛かった。

 ————目標にしていた教科を一通りおさらいし終えた頃には、受付の壁掛け時計は十二時半を指していた。
 ふう、と溜め息を吐いて、ぐんと大きく伸びをする。ここまでほとんど休憩無しで集中していたので、すっかり目と手が疲れてしまった。そういえば水分もろくに取ってなかったな。自覚すると、途端に喉の渇きがはっきりしてきて、慌ててリュックからペットボトルの水を引きずり出し、こくこくと一気に飲む。何かに集中するとすぐ休憩や水分補給を忘れてしまうのは、昔からの悪い癖だ。
「よっ、お疲れさん」
 一頻り喉を潤してからキャップを念入りに締めていると、テルがひょいと手を上げて戻ってきた。僕も「うん、ありがとー」と手を振り返す。
「ずいぶん頑張ってたな」
「えへへ、一つやると色々気になっちゃって」
「よくそれだけ集中が続くよなあ、尊敬するわ」
「テルだって集中力すごいじゃん」
「オレのは剣道限定な?勉強になった途端駄目だから」
 テルはこう言っているけど、実は普段の授業は結構真面目に集中して聞いていたりする。小さい頃から剣道の道場に通って、中学でも剣道部で鍛えて培ったその集中力は、何も試合の時だけではないのだ。
 ……尤も、ちゃんと授業を聞いていても理解できているかは別問題。授業後、僕に「あれってどういう意味?」みたいに聞いてくることも少なくないけれど。
 そんな雑談もそこそこに、僕らは帰り支度を整えた。受付を見ると、叡彰おじさんがデスクで何か作業をしていたので、帰り際二人で「ばいばい」と挨拶を投げる。叡彰おじさんは作業を一瞬止めると気さくな笑顔で「またおいで」と返事してくれた。

「なあ渚、久々にどっか食いに行かねえ?」
 自転車を押して駐輪場を出る最中、テルが不意に提案してきた。リュックにはもちろん財布は入っている。今月はあまりお小遣いを使わなかったので、確かお札が一枚は残っていたはずだ。
「いいね、行こう行こう!」
「よっしゃ、そしたらいつものところでいいか?」
「オッケー!」
 道路に出ると早速自転車を走らせた。
 いつものところ、というのは、僕らの近所のファストフード店のことだ。値段がお手頃なのにたっぷり食べられるので、僕らみたいな未成年にはありがたい場所だ。昔は休日に二人で何度も通ったものだが、最近はテルと休みの都合が合わなくなっていたので、自然と僕も足が遠のいていた。
 図書館から自転車で行くと五分もかからず着いた。土曜日のお昼時のそこは、かなりの混雑具合だった。店内で過ごす親子連れや地元の子供グループ、テイクアウト待ちの人たち、中には僕らくらいの違う学校の生徒や高校生のグループもいる。
「うっわ、久々に休みの日に来たけど、混み方えぐいな……」
「混んでるかなとは思ったけど、なかなかだね……」
 予想こそしていたけど、正直ここまで混んでいるとは思わなかった。けれど、店を他に移そうとも、この時間帯はきっとどこも変わらないだろう。何とか席は無いかと探していると、幸いにもテイクアウトを待っていた客が帰ったおかげで、壁際の二人席が空いた。これ幸いと二人で席を確保し、荷物を置くとやっと人心地付いた。
 混雑しているからということで、テルが二人分の注文をしに行ってくれた。程なくして、僕の元には海老カツバーガーのセット、テルの元にはダブルチーズバーガーのセットが運ばれてきた。いただきます、と二人で軽く唱えて各々好きなものから手を付ける。
「んーっ美味しい!」
「久々に食うとマジ美味えよな」
 空腹だったこともあり、塩気のきいたポテトも海老カツバーガーもとびきり美味しく感じる。僕もテルもしばらく食べるのに集中してしまった。
「そういえばテル」
「ん?」
「夢占いの本なんて何に使うつもりだったの?」
 バーガーを半分ほど食べてから、し損なっていた質問を投げかけた。図書館では叡彰おじさんがすぐにテルを案内しに行ったことや試験勉強が気がかりだったこともあって、あまり気に留めていなかったけれど、よく考えると何だか引っ掛かる。テルは僕と違って、占いの類への興味が薄いし、あまり信用もしていない。その上、夢なんて起きた拍子にけろっと忘れる、とは本人の談だ。そんな彼が急に夢占いの本を探しているなんて言いだしたのだ。違和感の一つも芽生えてしまう。
「ああ、それな。いや、最近すげえ変な夢ばっか見るから、何か意味あんのかなって調べたかっただけなんだ」
 テルはドリンクを一口啜ると話し始めた。何でも、ここ最近同じような内容の夢を頻繁に見るようになったのだという。
 暗闇に立つ自分。顔をフードで隠した背の高い男性。彼から渡される、赤い宝石の付いた杖と炎の形のペンダント。立ち去ろうとする男性を呼び止めると、振り返ったその顔が判明するより前に陽炎のように揺らめいて消えていく。そして、消えゆく直前に彼から発せられる一言……「待っているぞ」。
 ここまで聞いて、僕はごくりと唾を飲んだ。細かい違いはあれど既視感を覚える流れだ。
「……その夢に出てくる男の人、ひょっとして……テルのお父さん、だったりする?」
「え、何で知ってんだ?そうだよ、顔は最後まで分かんねえけど、あの声は間違いなく親父だ」
 ————やっぱり。奇妙なほど多い類似点に、どこか薄ら寒い不気味さを覚えた。
「つうか渚、さっきの話で親父の名前一回も出してないのに何で分かったんだ?まさかあれか、テレパシー的なやつ?」
「そんなわけないじゃん。僕も……テルと一緒だからさ」
「ってことは、お前も親父さんの夢、しょっちゅう見てるのか?マジで?」
 目を丸くしてテルは身を乗り出すように尋ねてくる。
「うん……二年生になってしばらく経ってから急にね。ほぼ毎日見るようになったのはここ一週間くらいだけど」
「オレはここ一、二週間くらいからだから、渚よりはもうちょい前からだな。でも夢の内容どころか見始めた時期も近いとか……オレらって昔から色んなもんがかぶってっけど、ここまでくるとさすがに怖えわ」
「ほんとだね……何なんだろうね、僕らのこの一致の多さ」
 ぶるりと身震いして肩をさすった親友につられるように、僕も自分の肩を抱いた。

 僕とテルの間には、昔から奇妙な縁(えにし)がいくつも存在する。
 クラスは同じだったり離れたりしつつも、通っていた幼稚園や小学校はずっと一緒。現在通っている中学校も、今のところ二年連続で同じクラス。昔から変わらず住んでいるお互いの家も、歩いて一分もしないほどの近所。そこまでなら、偶然の重なり合いでまだ説明できる。
 しかしそれだけではなく、何と僕らは生まれた病院も同じ、生まれた日付や時刻も同じというのだから驚きだ。まるで双子の兄弟のような一致点の多さだ。加えてそもそもの話、雨宮家と日上家は父同士が昔からの親友同士だそうで、その縁で母同士もとても仲がいい。僕ら二家族は文字通り家族ぐるみの付き合いなのだ。

 細かな価値観や辿った道筋の違いこそあれど、生まれた日から今日まで僕の隣にはほぼ必ずテルがいたし、テルの隣にはほぼ必ず僕がいた。それが僕ら二人の当たり前だった。昔から、この奇妙すぎる共通点は僕らだけの共有物であり、不思議で大事なものだ。それは今でも変わらない。
 けれど、互いに影響し合いようがないはずの夢まで似通っているとなると、さすがに怖さの方が勝ってしまう。
(何かの前触れだったりして……なんて、そんなわけないか。でも、何だか気味が悪いなあ)
 双方ともが父から贈り物をされ、最後には「待っているぞ」と告げられる夢。片方が見ただけなら変な夢だと笑い飛ばせただろうけど、二人揃って見ているというから何とも奇妙だ。特に何か危害を加えられたわけでも、不幸なことが起きたわけでもないけれど、目の前にある事実を並べてみると、縁起でもないことを考えてしまいそうになった。
「はあ、やめやめ!考えてもぜーんぜん意味わかんねえし、この話はやーめ!」
 思考の端っこが不安の沼に浸かりかけた時、それを力任せに引き上げたのはテルの吹っ切れたような声だった。我に返って振り向くと、テルはドリンクを一気に飲み干して続けた。
「せっかく久々に二人で会ってるってのに、湿っぽいのは無しにしようぜ。きっとオレも渚もここ最近疲れてるだけだって」
「疲れ、かあ……そうかも」
 その理屈は分からないでもない。テルは六月に入ってから一層部活のスケジュールが過密になったし、僕も二週間前に突入するや否や始めた試験勉強で夜更しが続いているのは事実だ。それに、今月は毎日ずっと気温も湿度も高く、暑い屋外と涼しい屋内を行ったり来たりする機会も多い。六月末の今、疲れが出始めても不自然ではないだろう。
「だろ?オレも渚も毎日色々頑張ってんだし、疲れて変な夢見ちまっただけだよ。きっとそんな大した夢じゃねえよ」
 僕にとってもテルにとっても、父という存在は決して大したことないなんて言えないのだが。今だけはテルの発言に賛成したかった。

 その後はお互い残りの食事を続けながら、先程の気まずい空気を振り払うように雑談に興じた。
 さっき図書館でテルが読んだというライトノベルの話、僕が最近ハマっているゲームの話、この前テルが出た剣道の試合の話、僕が最近読んだ本の感想、などなど。取り留めのない話をしているうちに、さっきまで胸の底を這い回っていた不気味な感覚は段々と小さくなっていった。
 やがて、食事を終えると僕らは長居することなく店を後にした。僕は僕でまだ試験勉強を続けたかったし、テルは明日の部活動のために自宅で準備がしたいのだという。
「んじゃ、また月曜な」
「うん、またね、テル。部活頑張ってね」
「おう。渚も勉強ファイトな。後々頼らせてもらうから」
「こらこら、自分で勉強しなよ」
「自分だけじゃすぐ詰むから言ってんじゃんか!頼むよ雨宮せんせー!」
「他力本願じゃ点数取れないぞー!分かんないとこ以外は自力で頑張んなさい!」
「わはは、分かんないとこは教えてくれんのな、やっさし」
 二人でけらけら笑い合う。やっぱりテルと話している時が一番楽しいや。
 今度こそ二人で「じゃあね」と手を振り合うと、テルは自宅方面へ、僕は再び勉強するため図書館へ向かって自転車を漕ぎ出した。

頭痛

 ————まずい、遅刻だ。
 ハッと目を覚まし、目覚まし時計を見た瞬間血の気が引いた。七時五十分、いつもよりニ十分も寝過ごした。すぐに準備を整えて飛び出しても、僕の鈍足では八時半のホームルームにぎりぎり間に合うかどうかだ。母さんはいつもこの時間には仕事に行ってしまっているので目覚ましは欠かせないのだけど、昨夜に限って目覚ましをかけ忘れていたようだ。
 その反面、幸いにも授業と制服の用意は昨夜のうちに済んでいたので、出せる限りのスピードで準備を整える。
「チョロごめん!今日は一個で勘弁して!帰ってきたら多めにあげるから!」
 急いでいても、生き物を飼っている以上世話はサボれない。僕は慌ただしく固形餌を一粒水槽に放り込むと、チョロの反応を確認もせずドタバタと階段を駆け下りる。申し訳程度の朝の支度の後、食卓をちらっと見ると、母さんがいつも作って置いていってくれる朝食があった。数秒迷ったが、何も食べないのも落ち着かないので、焼いたウインナー一本とバターロール半分を齧って水で流し込む。
 わたわたと靴を履いて家を飛び出し、走り出し……かけて引き返す。留守になるのだから鍵をかけておかなきゃ。学校指定の鞄から家鍵を引っ張り出すも、慌てているせいでなかなか鍵が差し込めない。数回外した末、勢い任せに鍵を閉めてようやく通学路を走り出した。
 そうして何だかんだもたついたこと、生来の足の遅さやスタミナの無さが重なった結果、教室に入った時には既にホームルームは終わっていた。
「おはよ。生きてっか?」
 自分の席に着くや否や机に突っ伏していると、テルが近寄ってきたのが声で分かった。苦笑いしつつも、下敷きか何かで扇いで労ってくれているようだ。
「ぁ……ありがと……すっごい涼しー……」
「朝からお疲れさん。先生には体調不良で遅れるみたいですって言っといたから多分怪しまれてねえよ」
「ほんと……?重ねてありがとぉ……」
「はいよ。つうか遅刻なんて珍しいじゃん、どした?」
「アラーム……かけ忘れちゃった……」
「おめえ……馬鹿がよお、自業自得かい」
「仰る通りですぅ……」
 思えば昨夜、寝る前に図書館で借りた本をベッドで読んでいるうちに寝落ちしたんだった。完全に僕の落ち度だ。
「あらあら、渚ったらお顔が真っ赤ですわ。大丈夫?」
 鈴を転がしたような柔らかい声。顔を上げて振り向くと、テルの隣に女子生徒がいた。くすくすと控えめに笑いながらも、手元では扇子をぱたぱたさせて、テルと同じく風を送ってくれていた。
「あ、綾女もありがと……生き返る……」
「聞いたか綾女、こいつ昨夜アラームかけ忘れたんだと」
「まあ、それは大変。試験勉強で寝落ちでもしました?」
「いや……本読んでて寝落ちしました……」
「自業自得パート2かよ」
「うふふ、渚らしいですけど、次は気を付けなくてはね」
「はあい……」
 友人二人から銘々に言われてしまい、僕は情けない声で返事をするしかなかった。

 彼女は虹元 綾女(こうもと あやめ)。
 僕やテルとは小学生の頃に知り合った、もう一人の幼馴染みだ。遠くから引っ越してきた転校生だったのだけど、礼儀正しく穏やかな振る舞いと天真爛漫な性格のおかげか、僕たちともすぐに仲良しになって今に至る。小さい頃からお嬢様みたいな話し方が印象的な彼女は、リーダーシップ抜群、しっかり者で頭もいいおかげか、現在は生徒会で精力的に活動をしている。

「そうだ、ホームルームを逃した渚にもお伝えしなければですね。今日は五時間目に進路関係のお話があるそうですよ」
 僕の息と汗がようやく落ち着いてきた頃、綾女が思い出したように教えてくれた。
「あれ、それ今日だっけ、忘れてた」
 僕らも中学二年生だし、そろそろ進路の話が出てくるのも不思議ではない。けれど今は進路より、期末試験の方が気になって仕方ない。先日の土曜日から数日経って、もう既に試験まで一週間しか無いのだ。時間の許す限りはテスト範囲のおさらいがしたい。
「んなもん、夏休み明けでもいいのにな。かったりい」
 テルが後頭部で手を組んで溜め息を吐く。きっと、僕を含めてクラスの半分は同じことを考えているだろう。
 そんなことを駄弁っていると、教室のドアが開いて一時間目担当の先生が入ってきた。テルと綾女は「それじゃ」と短く挨拶すると、それぞれの席に戻っていった。僕も鞄を机に乗せると、一時間目の準備に取り掛かった。

 授業後の休み時間。僕はテルと、比較的仲のいいクラスメイトの男子(ちなみに片方はテルと同じ剣道部、片方は漫画研究部)二人と集まって、今日の五時間目について話していた。
「つーかさ、中二で進路の話とか早くね?」
「早くはないっしょ。まあ、試験勉強期間にやることじゃないとは思うけど」
「それなー」
 クラスメイト二人もうんざりそうに顔を曇らせている。僕ら二人もうんうんと頷きながら賛同していた。
「日上は進路決まってんの?」
 剣道部男子がテルを見た。テルはしばらくうーんと考え込んだ後、腕組みしながら答えた。
「とりあえず、高校は剣道の強豪校に行きたいとは思ってるけど、そんくらいかな」
「マジかよ!日上、鬼強いもんなー!将来は剣道師範とかなれんじゃね?」
「日上くんの強さなら、剣道でオリンピック選手もありえそうだな」
「いや、そこまでは分かんねえよ」
 男子たちからきらきらした目で見られ、テルは困ったように笑う。テルは小さい頃から剣道の道場にも通っているし、部活でも二年生にして大将を任されているくらいだ。今の三年生が引退したら次の主将はテルだろう、というのはここにいる剣道部男子の談だ。剣道師範もオリンピック選手もあながち夢物語でもないと、僕も勝手に思っている。
「雨宮くんは?行く高校とか将来とか決めてる?」
 今度は漫画研究部男子が僕に尋ねた。僕も同じくうーんと唸り、顎に手を添えて思考を巡らせる。
「あはは、実はまだ何も決まってなくて……」
 テルとは違い、僕ははっきりと答えられなかった。僕は現在帰宅部で、特にやりたいことも、テルのように打ち込める特技も無い。変わらず読書やゲームがしたいな、とは思うけど、それでは将来には何も繋がらない。精々決まっているとしたら、高校生になったら一刻も早くアルバイトをしたい、ということくらいだ。
「まあ、今の時期大半の人がそうだよね。良かった、ぼくも全然決まってないから仲間がいてほっとした」
 尋ねた本人は安堵したように笑った。
「お前は漫画家になるんじゃないのかよ」
「高校生で漫画家デビューは茨道どころか針山地獄だぞ。無理無理、現実見なきゃ」
「若えのが今から無理っつってどうすんだよ!」
「うるっさ。お前、誰目線なんだよ」
「将来有望な剣道コーチ候補生の目線ですが何か!?」
「日上くん、こいつ部活の時にしばいといて。暑苦しい」
「ひっどい!日上、マジでしばいたりすんなよ!?お前の一本、毎回痛えんだかんな!」
 クラスメイトたちの愉快なやり取りに僕もテルもくすくす笑う。
「あ、進路といえば話変わんだけどさ」
 さっきまで騒いでいた剣道部男子が、ふと落ち着きを取り戻して話を続ける。
「隣のクラスの奴から聞いたんだけど、夏休みには宿題で進路関係の課題も出るんだってさ。さっきの時間、隣のクラスはその説明受けたんだと」
「え、何だよそれ」
 テルが目を丸くして聞き返す。
「えーと確か……自分とこの父親に仕事のことについて取材して、レポート書くらしい」
 それを聞いた瞬間だった。テルの表情にさっと陰りが差したのを、僕は見逃さなかった。
「父親の仕事って……ぼくんとこ、普通のサラリーマンなんだけど。レポート書けるほど目立ったことしてないぞ」
「おれんとこも同じだし、書くことねえよー」
「かったるい課題増やすなよなほんと……雨宮くんや日上くんのお父さんはどう?何か書けそう?」
「そういや二人の父ちゃんって何の仕事してんの?あんまり二人からそういう話聞いたことないけど」
 背筋が一瞬で冷える。まずい、僕はまだしもテルにお父さんの話は地雷だ。
「あ、あの、えっと、そ、それはね……」
 上手い説明が思いつかず、不審なくらいしどろもどろになっていた時だった。テルが急にすっと席を立つ。
「わり、ちょっとトイレ」
 明らかにワントーン低くなった声でそれだけ告げると、そそくさと教室から出ていってしまった。一瞬垣間見た顔は、何となくむすっとしていたように見える。
「……急にどうしたんだ、あいつ」
「何か変なこと聞いちゃったかな……?」
 案の定、男子二人は怪訝そうな不安そうな顔をしている。気のいい性格の二人だから、今のでテルへの心象を悪くすることはないと思うけど、一応軽く釘は刺しておこう。
「ご、ごめんね。実はテル、お父さんの話があんまり好きじゃなくて……そっとしといてあげて」
 手を合わせて頼み込むように伝えると、二人ともよく分からないと言いたげながらも「分かった、こっちこそごめん」と頷いてくれた。二人が素直な性格の人たちで本当に良かった。
 テルの様子が何となく心配だった僕は、二人に断りを一言入れると、教室を出てその姿を探した。
 休み時間とあって、廊下にも生徒がちらほら出ている。お喋りに華を咲かせる人たちとすれ違いながら、幼馴染みの姿を探していると……いた。僕らのクラスから少し離れたところ、開け放たれた窓からぼうっと空を眺めている。その横顔からは尖った色は消えていたものの、代わりに少し寂しそうな沈んだ色が滲んでいる気がする。
「テル、大丈夫?」
「おう、平気平気。一瞬もやっとしただけだよ」
 声をかけると、テルはこちらを振り向いて頬を緩めた。強がって誤魔化しているわけでもなさそうだ。ひとまずほっと胸を撫で下ろす。
 テルにはお父さんの話題に触れてほしくない事情がある。いつもは温厚なテルだけど、この話だけはどうしても苛立ってしまうみたいで、過去にそのせいで他人とトラブルになりかけたのだ。それを知っているから、テルが人前で逆上するような人じゃないと分かっていても、心配が拭えなかった。
「あいつらにも謝んなきゃな。さっきの態度、流石に良くなかったし」
「二人とも気にしてないと思うよ」
「でも筋は通しときたいからさ。それはそうとさっきの話、参ったな」
「レポート課題の話だよね……どうしよう」
「オレも渚も書けねえもんは書けねえし、先生に一言言って母さんの仕事についてのレポートで許してもらうか」
「それがいいね。五時間目終わったら先生に相談しよ」
 まさか僕たちだけ課題を免除してもらうわけにもいかない。話がまとまったので、とりあえず教室に戻ろうとした時だった。
「————なあ、君たち」
 ふと、背後から声をかけられた。大人の男性のようだが、校内では聞き覚えの無い声に驚いて振り向く。声の主が視界に入った途端、僕は我が目を疑った。
 海外俳優顔負けの端正な目鼻立ち、つやつやの綺麗な金髪、ミステリアスなダークレッドの瞳。数日前に会った時よりフォーマルな格好こそしているけれど、印象的なその出で立ちは間違えようがなかった。
「……もしかして、アビガイルさん、ですか?」
 恐る恐る答えてみると、彼はどこか嬉しそうに頬を緩めた。
「やっぱり、あの時の君か。雨宮……だったよな?また会ったな」
「えっと、あの、はい、お久しぶりです……!」
「久しぶりって、つい数日前会ったばかりだろう?面白いことを言うなあ」
 防風林の奥、日本家屋の前で会った時のようにフランクな調子で話しかけられる。僕はというと、思わぬ再会への驚きと喜び、そしてどうしてアビガイルさんが僕の学校にいるのかという疑問で、さっきからどぎまぎしてしまっている。
「見て見て、アビガイル先(・)生(・)だ」
「アビー先(・)生(・)今日も美人すぎてやばくない?」
「分かるー!高身長イケメンの外人教師とか完璧すぎるよね」
「オレさっき先生の授業受けたけど、めちゃくちゃ分かりやすかったわ」
「授業教えんのも上手いとかどんだけだよ半端ねえなアビ先」
「ちょっとー!アビガイル先生に変なあだ名つけないでよ!」
(アビガイル“先生”……?)
 耳を澄ませると周囲の生徒(半分以上が恐らく女子)の話し声が聞こえてくる。周りでひそひそと話されて落ち着かないけど、それより気になったのは何度も聞こえてくる「先生」というワードだ。
「……知り合い?」
 テルが僕とアビガイルさんを交互に見やって不思議そうに尋ねる。知り合い、と呼ぶには会った回数も時間も足りないと思うけど、会った時の経緯を話すのもちょっとややこしい。とりあえずこの場は「うん、ちょっとね」と曖昧に答えておいた。
「雨宮、そちらの彼は……君の友人か?」
 今度はアビガイルさんに質問される。
「はい、僕の親友のテル……日上 照彦です」
「どもっす」
「————日上……そうか、俺はルキア・アビガイルという者だ。よろしく」
 一瞬アビガイルさんは何故か目を丸くしたが、すぐに人懐こそうに微笑んだ。気のせいだろうか、テルの名前を聞いた瞬間見せた彼の顔は、僕の名前を聞いた時と同じような驚きを秘めているように見えた。
「それにしても驚いたよ。雨宮が俺(・)の(・)仕(・)事(・)先(・)に、生徒としていたなんてさ」
「仕事先……?あの、アビガイルさん、もしかして前に言ってた“こっちで仕事がある”って……」
「おっと、その説明はすぐ後でさせてくれ。もうすぐ二時間目が始まってしまうからな。君たちもそろそろ教室に戻れよ」
 僕の言葉を遮ると、アビガイルさんはひらりと手を振って……何故か僕とテルのクラスの教室に入っていった。全く訳が分からないまま、僕はテルと怪訝な顔を見合わせつつも、言われたとおりに教室へ戻った。

 アビガイルさんの言葉の意味は、二時間目が始まるとすぐに判明した。
 黒板に綺麗な筆記体で自分の名前を書くと、教卓越しにアビガイルさん、もといアビガイル先生が口を開く。
「このクラスでは初めましてだな。俺はルキア・アビガイル。療養中の先生に代わり、緊急かつ臨時だが君たち二年生の英語の授業を担当することになった。至らない部分も多々あるとは思うが、付いてきてくれると嬉しい。短い間だがよろしくな」
 聴き心地のいい低音声に綺麗な出で立ち、そして何より爽やかで甘い笑顔。この一瞬で、アビガイル先生はこのクラスの、特に多くの女子生徒の心を掴んだに違いない。見れば女子生徒のほとんどが、アビガイル先生をうっとりした眼差しで眺めている。初めて会った時も男の僕ですら見とれそうと感じた端正さなので、女子生徒たちの反応はさもありなん、というかなんというか。ちなみに男子生徒は、どちらかというとアビガイル先生の高い身長や金髪、目の色が物珍しいようで、違うベクトルで先生を食い入るように見つめているようだ。
 アビガイル先生が話した通り、二年生を担当している英語の先生は、二週間ほど前から病気か何かで長いお休みに入っていた。その穴は、今まで別の学年の英語担当の先生が何とかしてくれていたのだけど、このたび臨時で赴任してきたのが彼のようだ。
 どこか浮ついた空気の中、二時間目の授業が始まった。といっても試験日一週間前の授業だ、何か新しい単元をやるわけではなく、元の英語担当の先生が教えた範囲のポイント解説がメインとなり、後半は丸々試験勉強の時間になった。時々生徒がアビガイル先生に試験範囲の質問をして答えてもらう以外、大きな動きも無く二時間目はあっさりと終わった。

 授業の後、好奇心旺盛に質問を浴びせてこようとした生徒たちをのらりくらりと躱し、アビガイル先生はさっさと教室から退散してしまった。僕もこの思わぬ再会については色々聞いてみたかったのだけど、他の生徒がアビガイル先生に話しかけようと集まっていたので、何となく近寄りにくくなっているうちにタイミングを逃してしまった。
「何か不思議な雰囲気の先生だったな。お前、いつあんなイケメンとお近付きになってたんだよ」
 さっきはお茶を濁したけれど、やはり詳しいところが気になるのだろう。テルがからかうように小突いてきた。
「実はこの前の土曜日にね。裏山に神社あったの覚えてる?」
「ああ、大奈神社な」
「久々に裏山に登って神社を散歩してたんだ。そしたら裏手の防風林の奥に道があってさ、歩いてったら大きい日本家屋のお屋敷があって、そこにアビガイルさんが一人でいたところに出くわしたんだ」
「へえ、何か出会い方までちょっと不思議な感じだな……つうか神社の裏手の奥に家があったのも初耳で驚きなんだけどさ、アビガイル先生はそんなところで何してたんだ?」
「えっと……あれ?確かに何してたんだろう、あの人」
 問いかけられて初めて疑問が降って湧いた。
 そういえば、彼がどうしてお屋敷の前に佇んでいたのかまでは当初も聞けていなかった。あの時は初対面の人に対する緊張と、アビガイルさん自身の不思議な雰囲気に気を取られて気にしてなかったけど、言われてみれば確かに引っ掛かる。僕が見たあの状況だけでは、彼の意図はまるで予想が付かなかった。
(あの日の別れ際の様子といい、やっぱり不思議な人だなあ)
 今度話す機会があったら、気になることを一通り聞いてみたい。まあ、生徒たちが新顔の彼に向ける好奇心の熱(ほとぼり)が覚めるまでは、近付くことすら難しそうだけど。
 雑談もそこそこに、三時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。

 三時間目は国語、のはずなのだが。チャイムが鳴り終わっても、先生が入ってくる気配が無い。国語担当であり僕らのクラスの担任の先生は、おっとり屋でのほほんとしてはいるけれど授業に遅れたことは一度も無かったはずだ。
 珍しいこともあるんだなあ、と思っていると、ようやく教室のドアが慌ただしく開けられて先生が入ってきた。しかし、それは国語の先生ではなく教育指導の先生だった。けれどいつもより目付きが険しいというか、全体的にどこかぴりぴりした空気を纏っている気がする。それを感じ取ったのか、休み時間のお喋りを何となく引きずっていたクラスメイトたちは一瞬で静まり返った。
「皆、急で申し訳ないが今日の国語の授業は自習になった。担当の先生が今朝、体を壊してお休みになったそうだ」
 先生の発言に教室がどよめく。もちろん、授業が無くなったことへの喜びから来ているものだ。
「はいはい、静かに。えー、それでだな、この時間は自習及び期末試験の勉強に使うように。教科は何でもいいぞ。それと、隣のクラスは通常通り授業中だからな、間違っても騒がないように」
 いいな?と先生が問えば教室中から「はーい」と返事があった。それを確認するが早いか、教育指導の先生はまた慌ただしく教室を出ていった。
 その後、生徒たちは大人しく各々の道具を広げて勉強を始めた。普段なら我慢できずに喋り出す人が出たり、こっそり趣味の作業に興じる人が出始めたりするものだが、流石に試験一週間前ではその余裕も無いのだろう。中にはやっぱり面倒なのか、机に突っ伏して居眠りし始める生徒もちらほらいたけど。かく言う僕も、思わぬ自習時間に内心ラッキーだと呟いた。担任の先生には悪いけれど、ありがたくこの50分を有意義に使わせてもらおう。
 苦手科目を少しでも潰すために、数学の教科書を開く。やり残していた演習問題を、ノートに書き写しながら地道に解いていく。得意な国語や歴史はまだしも、苦手を自負する科目で高い点数を狙っているわけではない。ただ、頑張らなかった結果普段通りの低い点数になるより、頑張った上で前の試験より一点でも多く稼げる方が気分がいいだろう、と思うがゆえだ。

 ————演習問題を一通り解き終え、丸つけまで終わった。時計を見上げると、始業時間からおよそ30分くらいが経っている。予想より早めに解けてしまった。正答率もこの前の土曜日より上がっているし、頑張ってみるものだな。これならテスト本番もいける気がしてきた。
 一人でこっそりほくほくしながら数学の教科書を閉じた。余った時間は、まだ少し不安の残る化学にでも手をつけようかな。
 切り替えるために、目立たないように一度伸びをして肩周りをほぐす。ずっと手元に視線を落としていたので目も疲れてしまった。遠くを見てちょっとでも目を休めようと、何気なく窓の方を見る。
 その時、明らかに不自然なものが視界に映った。
 僕の席は窓際の前の方なので、窓から外を見ると校庭の様子がしっかり見える。今はどのクラスも体育の授業をやっていないようで、本来なら誰もいないはずのそこに、ゆらりと立つ人影……のようなもの。姿の詳細は分からなかったけど、暗い色のフード付きコートを着込み、顔も体もすっかり隠している背の高い人のように見えた。
 最初は用務員のおじさんかと思ったけど、それにしては服装が変だ。外は曇っているものの、レインコートを着るような天気ではない。それだけでなく、その人は校庭の真ん中で何をするでもなく突っ立っているだけ。視線もどこを向いているのか、ここからではよく分からない。
 何もかもが全く嚙み合わないそれはただただ不気味で、反射的に顔が引きつるのが分かった。
 (……僕、霊感なんて無いはず……なんだけどな……)
 さっきまで程よく感じていた教室の温度が一気に2、3度下がったような感覚に陥る。もしあれが僕にしか見えていないとしたら、白昼堂々とんでもない心霊現象を目の当たりにしたことになる。いや、幽霊ではなく不審者の類だったとしても、それはそれでそこにいる意味が分からなくて怖い。どうしよう、心霊系にしろ人怖にしろホラーは大の苦手だ。
 見なかったことにして目を逸らしかけた瞬間。人影の頭がぬらりと持ち上がってこちらを向いたのが見え、びびって思わず固まってしまった。背けかけた顔の動きがそこで止まり、僕の視線は人影に釘付けになる。
 頭をもたげてなお顔はよく見えない。フードで出来た暗がりが思いの外深く、口元くらいしか分からないのだ。それでも、不幸なことに、相手の視線が間違いなく僕とかち合ったのが感覚で分かった。
 (ま、まずい、かも)
 早く、目を逸らさなきゃ。
 蛇に睨まれた蛙にでもなったようだ。寒気で体が震え、心臓が鷲掴みされたようにぎゅっと縮こまる。それなのに、まるでがんじがらめにされたかのように、視線は相手と絡んだまま解けない。瞬きも出来ずに焦っていると、相手の目がフードの奥でぎらりと光った……気がした。
 ————見つけたぞ。
 顔の様子なんてよく見えないはずなのに、そう言っているように見えた。人影は口元ににやりと不気味な笑みを浮かべ、僕を逃すまいとするかのように視線を向けている。ぞわぞわと嫌な寒気が這い上がり、頭に鋭い痛みが走る。喉までせり上がりそうな声を無理矢理呑み込んで、悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えた。
 歩いて近づいてくるのかと思いきや、何と人影は一瞬のうちにふっと姿を消した。誇張や比喩ではなく、文字通り煙のようにいなくなってしまったのだ。それと同時に、今まで釘付けになっていた視線をやっと窓の外から離すことができた。硬直していたのと同時に息も数秒止まっていたらしく、振り切るように自分の机へ顔を下向けたのと同時に、少しだけ呼吸が乱れた。
 静かな教室では音が響く。変な呼吸音が目立ってしまったかと思い、目だけで辺りを見回した。幸いにもこちらに向いている視線は無さそうだと分かり、安堵の溜め息と共に机に突っ伏した。
(……何だったんだ、今の)
 時間にして、およそ1分程度の出来事だった。
 見間違い、というにはあまりに異質。けれど、だからといって他に納得できるような結論も出せそうにない場違いな存在。厄介なことに、恐らくあれを見たのはこのクラスで僕だけだろう。事実確認できる誰かが一人でもいたら、この気味悪さや恐怖を共有して気を紛れさせたり、あれは心霊現象ではなく現実のことだと証明が出来たのに。
 さっきよりも呼吸は落ち着いたが、困ったことにまだ心臓がドキドキしているし、嫌な汗もじんわりと滲み続けている。あの影と目が合って感じた頭痛も、何故かずっと居座ってキリキリと僕の頭を苛んでいる。頭を動かすだけでも呻きそうになるほど痛い。これでは勉強どころか、体を起こすことすらままならない。
 どうすることも出来ないまま時間は空しく過ぎていき、やがて終業を告げるチャイムが鳴り響いた。

 張り詰めていた教室の空気がふっと緩み、たちまち賑やかになった。あちこちでクラスメイトの話し声や物音が聞こえ始め、容赦なく僕の頭にガンガンと響いた。天気が崩れて気圧が下がると時々頭が痛むことはあったけど、それでもここまでひどい痛みは経験したことがない。音も光も全てが鬱陶しくて不快にすら感じる。
「おーい、渚ー?」
 僕の様子に気が付いたのか、話しかけてくるテルの声は普段より抑えられていた。のろのろ視線を上げると、テルは僕の机の前にしゃがんで目線を合わせており、訝し気に尋ねてきた。
「大丈夫か?さっき何かあった?」
 ああ、そういえばテルは僕より後ろの席にいたっけ。となると、僕が窓の方を凝視してたことや、急にぐったりし始めたことも全部見ていたのだろう。
「な、なんにも無い、よ……あと、あんまり……だいじょばない、かも……」
 さっき見た変な人影のことを話したかったけれど、頭が痛くてそれどころではない。喋るのも正直言うとしんどい。
「だろうな……今にも死にそうな顔してるし」
「寝不足が祟ったのかな……」
「その割には二時間目あたりまでは普通だったじゃん。まあでもお前、体力無いくせに夜更しが続いてるからな……反動が一気に来た可能性はありそう」
 元々少し夜型の傾向はあったけど、ここ最近は確かにいつも以上の夜更しが続いていた。それはもちろん試験勉強も理由の一つだが、気分転換のつもりで読み始めた本に没頭して時間を忘れた、という原因も大いにある。どちらにせよ、睡眠不足の結果がこの有様なら、自分の時間管理が甘いことは認めざるを得ない。反面、今までもこのくらいの夜更しは散々しているし、だからといってここまでひどく体調を崩した覚えは無いのが引っ掛かるところだった。
(さっきのアレと目が合ったから……なわけ、ないよね……?)
 それではまるで、いわゆる「邪視」みたいな怪異にでも睨まれたみたいじゃないか。けれどあれはあくまで都市伝説や民間伝承。信憑性は微妙だ。かといって、それ以外にこの体調不良の理由付けとしてしっくりくるものも思いつかない。僕が好きなのは魔法とか幻獣とかそういう類のファンタジージャンルであって、ホラー寄りのオカルトや都市伝説は苦手なのに……その手の恐い目に遭った結果がこれなのかと思うと、また全身に寒気が走る。
「なあ、流石に保健室行ってこいよ。洒落になんないくらい顔色真っ青だぞ」
 テルの声はいつになく心配そうだ。今の僕はそんなにひどい顔をしているのだろうか。そうでなくても、この頭痛を抱えながらでは次の授業を受けられる気がしない。
「うん……そうする……」
 痛む頭を庇いながらゆっくりと立ち上がる。よろめきそうになりながら、のろのろと教室を出ようとすると、後ろからテルが追いかけてきた。
「何か危なっかしいから送るわ」
 苦笑いでもなく、呆れ顔でもなく、テルの表情は真面目そのものかつ不安げだった。僕の足取りが相当危うく見えたらしい。ひどいとはいえただの頭痛だし、そこまで気を遣わなくていいのに……とやんわり断ったものの送っていくと言い張るので、ここはお言葉に甘えて付いてきてもらうことにした。

 保健室は一階の廊下の隅っこ、僕たちの教室とちょうど反対方向にある。
 “開室中”の掛け札の下がった白い扉をノックし、失礼しますと控えめな一声と共に入室した。
「はいはーい……あら雨宮君、久々だね。今日はどうしたの?」
 四十代というには肌艶の綺麗な女性の先生が、驚いたように笑った。
「ち、ちょっと……頭、痛くて……」
「あらま、大丈夫……そうじゃないね。そこ座ろっか」
 促されるまま、先生のデスク近くの丸椅子にのろのろと腰かける。傍ではテルが黙りながらも心配そうな眼差しを向けているのが分かる。
「いつから痛いの?」
「三時間目の途中くらいから、です……」
「ついさっきくらいか……一回、熱計ってみようかね」
 そう言われて手渡された体温計を脇に挟む。その間も、万力で左右から締められるような痛みは続いている。今はまだ休み時間、部屋の外では大声で笑いながら騒いでいる生徒の声が遠く聞こえるが、それすらも何となく鬱陶しい。確か一階は、三年生の先輩の教室があるはず。願わくば、今は三年生がここに誰も来ませんようにとこっそり祈る。
「日上君は付き添いで来たの?」
「はい。渚、かなりふらついてて、一人だと何となく危なっかしそうだったので」
「さすが日上君、面倒見いいねえ」
「そりゃまあ、目の前で真っ青な顔されたらほっとけないんで」
 テルは困ったように笑って先生に返事する。こういうことをさらりと言えてしまうテルの人柄の良さを、改めて噛み締める。彼の兄貴肌的な優しさに、昔から何度助けられたことか。
 そんなことを考えているうちに、ピピピ……と体温計の微かな音が聞こえた。確認すると、36.5度……至って平熱だ。
「熱は無し、か。とりあえず少し寝るかい?それで様子見て、あんまりしんどいなら早退しなさい」
「はい……ありがとうございます」
 幸い、二つあるベッドはどちらも空いている。僕は扉から遠い側のベッドにのそのそと上がると、そっと布団に潜り込む。
「良かったな。そんじゃ、ゆっくり休めよ。四時間目の先生には事情言っとくから」
「ありがと……」
 ようやく安心したように笑ったテルに、最低限ながらもお礼を言う。テルは頷いて返事をすると、ひらりと手を振ってカーテンをそっと閉めていった。
「じゃあ、失礼します」
「はいはい、付き添いありがとね、日上君」
 短いやり取りの後、扉が控えめに開け閉めされる音がカーテン越しに小さく聞こえた。その後は先生も自分の仕事に戻ったのか、デスクの椅子が軋む音や筆記音のような音が微かにするのみとなり、保健室は静かになった。
 とはいえ、痛む頭ではなかなかすぐには眠れない。掛け布団を頭からかぶって視界を真っ暗にしてみると、ほんの少し痛みの響き方が穏やかになった気がする。保健室の外から聞こえる無遠慮な騒ぎ声も、布団越しだとさらに遠くなった気がして無性にほっとした。ここは誰にも侵されない場所、僕を刺激から遠ざけてくれる安全地帯だ。
(……去年はよくここで寝かせてもらったっけ)
 苦痛が若干でも和らいで思考に隙間ができたらしい。僕は一年生の頃のことをぼんやりと思い返していた。

 入学したての一年生の頃。僕はしょっちゅう体調を崩していた。原因は、当時二年生だった現在の先輩や、もう卒業した当時三年生だった上級生だ。
 中学生というのは、小学生の時よりも殊更周囲を意識するようになる。それはつまり、自分より目立っている人に対して、良くも悪くも強い関心を向けるということ。僕はその内の「悪い好奇心」に晒された側だった。好奇心旺盛な人たちの関心を悪い意味で搔き立てたのは、ひとえに僕(・)の(・)外(・)見(・)が(・)目(・)立(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)こ(・)と(・)だ。入学してすぐ、僕は上級生たちに目を付けられ、嫌がらせや悪質なからかいに近い接触をされてかなり参っていた。そのせいで毎日のように腹痛や眩暈など体調不良に悩まされ、事あるごとに保健室(ここ)へ駈け込んでは休ませてもらっていた。
 半ば避難所のような使い方をしていたにも関わらず、ここの先生は事情を深く聞かないまま僕を毎回休ませてくれた。辛い時はここに来れば一旦心を落ち着けられる……一年生でのしんどい思いをしてなお、不登校になることなく過ごせている理由の一つが、この保健室の存在だった。
 ちなみに。あんまり僕が保健室に来る回数や早退する回数が多かったので、保健室の先生が見兼ねて他の先生に情報を共有したそうで。この話は当時の僕の担任だけでなく、上級生担当の先生の耳にも入ったらしい。結果、先生たちが厳しく目を光らせるようになったおかげか、完全に無くなりはしなかったものの嫌がらせやからかいの言葉は減り、あったとしても勢いは確実に萎えていった。
 現在の三年生……当時僕をからかってきた二年生たちの中には、今でも僕を見かけると密かにくすくす笑ったり、変なものを見るような目で見てきたりする人はいる。中には、未だに明らかな悪意交じりのからかいの言葉を投げてくる人もいる。それでも、今は僕自身もそういった軽率さに対して「懲りない人だな」「何が面白いんだろう」といった具合に流せるようになった。
 二年生になった今の僕が穏やかでいられているのは、僕の異変に気が付いてくれた保健室の先生が声を上げてくれたこと、変わらず僕の味方でいてくれたテルを筆頭とした同学年の友人がいてくれたことに他ならない。

 去年の今頃も、ちょうどこうして保健室のベッドで休んでいたっけ。そう思うと、平和な毎日になったものだ。
 ここに来る回数が減ったことが何よりの証拠。何せ今年に入ってからは、今日まで保健室に行く用事が無かったのだから。去年の僕に「今は辛くても、必ず抜け出せるからね」と今からでも教えてあげたいくらいだ。毎日のように泣いていた僕は、一体どんな顔をするだろうか。
 気が付くと、そんなふわふわした妄想ができるくらいには頭痛が落ち着き始めていた。横になって休めていることと、視覚と聴覚を休ませたことが良かったみたいだ。苦痛から来る緊張が緩んだおかげか、ふと大きめの欠伸が漏れた。そういえばかなり睡眠負債が溜まっている。今眠れば、午後の授業はすっきりした頭で受けられるだろう。
 重くなるに任せて瞼を閉じれば、僕の意識はたちまちすうっと吸い込まれるように途切れていった。



 カーテン越しに微かな寝息が聞こえ始めてから五分後。保健室に内線の電話が鳴った。モニターには職員室の番号が表示されている。寝ている渚を起こすまいと、養護教諭は素早く受話器を取り上げた。時刻を見れば、今は四時間目の授業中だというのに何事だろう。
 相手は教育指導の男性教諭。受話器越しに聞く彼の声は何やら焦った様子だ。普段は分かりやすく話す彼が珍しく捲し立てているので要領を得ないが、どうやら今日の朝に突然欠勤した国語教諭——渚や照彦のクラスの担任——について何か共有したい話があるらしい。休んでいる生徒を残して保健室を空けるのは忍びない、と伝えるも「緊急だから来てほしい。手短に終わるから」と念押しされてしまったので、仕方なく了承して電話を切った。
 せめて渚が自分の不在中に目覚めて不安がらないようにと、養護教諭は「職員室に行っています。すぐ戻ります」と書き置きしたメモをデスクに残す。そして、足早に保健室を出るとしっかり施錠し、掛け札を裏返して「留守中」と表示を変えた上で職員室へと急いだ。
 渚はこの時、養護教諭の立てる物音には一切気が付くことなく熟睡していた。電話の音どころか、ドアの施錠音や開閉音すら認識しなかった。
 ————だからこそ、気が付けなかった。
 施錠されたはずの鍵がゆっくりと外され、ドアが開かれた音も。フード付きコートに身を包む人影が、ぬらりと侵入してきた足音も。そのフードの暗がりから覗く赤い瞳が、渚を捉えて不気味に光っていたことも。

悪夢


 ————毎晩夢を見ているうちに、明晰夢を見る癖でも付いてしまったんだろうか。
 気が付くと、僕は手元も見えない暗闇の中にぽつんといた。その状況で、また夢を見ているのだと眠っていながらも察する。父さんの夢は今朝も見たのに学校でも見てしまうなんて。タイミングに関係なく、眠ると毎回見るようになっちゃったのかな。寝覚めのいい夢とは言えないし、ちょっぴり困る。
 そう思っていると、いつもと何かが違うのに気が付く。普段ならすぐに父さんの声がするはずなのに、今回はいくら待っても聞こえてこない。代わりにカツン、カツンと闇に反響する靴音が普段よりずっと早く聞こえ始めた。しかも、よく聞くと普段の夢で父さんが立てる靴音とも違う。ブーツの足音よりももっと硬い印象で、例えるなら女性の履くヒールの高い靴が立てる音のように思える。
 どういうことだろう、と若干困惑しつつも、夢の中の僕は靴音の発生源を探す。しばらくきょろきょろしていると、暗がりの中、僕の遠く背後にぼんやりと明かりが灯っているのが見つかった。靴音もどうやら後ろから聞こえているようだ。照明も無いまま暗闇を歩くのは本来なら無茶でしかないけど、夢の中はある意味何でもありだ。夢の僕は闇に目が慣れているかのように、迷いなく明かりの方へ歩き出す。
 段々と明かりが近づくに連れて、そこに人影があったことも分かった。靴音の元はこの人からだろう。もう少し近付こうとして、出来なくなってしまった。あと10メートルほどで人影に近づけるというところで体が何かにぶつかってしまい、先に進めなくなってしまったのだ。まるでRPGゲームの侵入出来ないエリアにある透明な壁だ。手を前に出すと、ガラスのように硬くひんやりした感触が伝わる。仕方なくその場から人影を眺めることにした。
 
 人影は自分の身長ほどもある大きな杖を片手に携え、その先端の透明な宝石を光らせて明かりを得ているようだった。目深にかぶったフードと長いローブのせいで、顔や服装の詳細はよく分からない。夢で見る父さんと共通点のある服装だけど、父さんと大きく違うのは身長がやや小柄で華奢に見えることと、フードから亜麻色の長い髪が覗いて見えること……たぶん女の人だ。彼女は僕から見て向かって左方向に歩いて進んでいた。彷徨っているわけではなく、はっきりとどこかを目指しているような迷いの無い足取りに見える。
 やがて、ある地点でその歩みが止まった。けれども、女性の視線の先には何かがあるようには見えない。首を傾げていると、女性は手元の杖を目の前の虚空に掲げた。すると、杖の宝石の輝きが強まり、風が起こったのか女性の服や髪が微かに揺れる。同時に、宝石の先端から波紋のようなうねりが生まれ、その中心から光が溢れ返った。
 女性の斜め上の虚空から溢れた光はカーテンのように広がっていくと、ぼんやりと扉のようなシルエットを出現させた。真っ暗闇の中で見る光に満ちた大扉は、地獄に突如現れた天国の扉のような場違い感と、相反する神秘的な雰囲気に満ち満ちていた。
(……何か、魔法使いみたいだ)
 昔やったファンタジー系のRPGゲームでも、魔法の杖から放たれた魔法が暗闇を一瞬で照らしたり、ワープのための魔法陣を呼び出したり、なんて常識外れなことをやってのけていたけれど。夢とはいえ、今見ている光景はそんな現実離れした驚きと興味深さを感じさせた。
 扉が現れたのを確認したのか、女性は杖を降ろした。そして、迷うことなく扉に手を伸ばし、閉じられたそれを開けようとした……その時だった。女性の手が触れる前に扉が音も無く動き、流れるようにすうっと両開きで開いた。
 
 次の瞬間。女性が息を呑み、後ずさった。それとほぼ同時に、光に満ちていた扉の輝きが一瞬のうちに消えていき、一転して不気味な灰色の光を纏う扉へと早変わりした。
 開け放たれた扉の先はここからではよく見えない。けれど、その奥から何か細長い腕のようなものが何本も伸び、気味の悪い動きで女性に向かっているのが分かった。
「————逃げてください!」
 僕は咄嗟に叫んでいた。何が起きているか分からないのに、ここからあの人に聞こえる保証も無いのに、何故かそうしなきゃという焦燥感に突き動かされたのだ。
 女性が僕の声に気が付いたかは分からない。けれど、彼女は反応するかのように後退し、反対側へと走り出した。腕は女性に追い縋るようにどこまでも際限無く伸びていき、指先を何度もその服に掠らせる。
(お願い、逃げ切って……あれに捕まったら駄目だ……貴女が消えたら■も消えてしまう……!)
 ————横入りするかのように湧いた覚えのない思考に、自分でぎょっとした。
 僕は一体何を考えてるんだ?あの人が消えたら、一体何(・)が(・)消(・)え(・)る(・)って思ったんだ?
 戸惑いで一瞬視線が逸れた隙に、事態が動いた。それも、恐らく望ましくない方向に。
 見ると、伸びた腕の内の数本が女性の腕や足に纏わりつき、その動きを封じていた。逃げようともがく女性に構うこともなく、腕のようなものはぐるぐると女性に巻き付き、がっちりと拘束してしまった。そして、身動きの取れなくなった彼女を無彩色の扉の方へ引き寄せ、暴れるその身を何の躊躇いも無く扉の奥へ引きずり込んでしまった。何本も伸びていた腕の最後の一本が引っ込むと、やがて灰色の扉は音も無く閉じ、まるで幻のように掻き消えてしまった。

 (……なん、だったんだ、今の)
 そう思った瞬間。ぐらり、世界が大きく揺らいだ。地震かと思って身構えていると、目の前に信じがたいものが映った。
 ピキピキ、パキパキ、まるで氷かガラスが軋むような硬い音と共に、真っ暗闇の空間がひび割れて崩れ出した。比喩でも何でもなく、何もないはずの空間にはっきりと白い亀裂が走っているのだ。
 ひびから零れ落ちて降り注ぐ闇色の破片を腕で防ぎながら、困惑に支配された思考を巡らせる。
 先程から見ている光景の意味がまるで噛み砕けない。夢はいつだって意味の分からないものだけど、今見ているこれは父さんの夢よりもずっとずっと意味が分からなくて、何より薄ら寒く不吉で不気味だ。意味があるのだとして、一体僕に何を読み取らせようとしているんだろう。
 まるで、世界が終わるのを見える形で見せつけられているかのような。そんな喪失感と絶望感を覚える。
 こんなに夢見の心地が悪い夢も久々だ。それこそストレスフルだった一年生の頃以来かもしれない。ああ、早く覚めてくれないかな。今すぐこの空間から抜け出したい。
「————まだ夢だと思っているのか?」
 不意に背後から聞こえた、覚えの無いはずの声。冷たく暗い響きのそれに、ぞくりと寒気が走った。恐る恐る振り向くと、そこにはさっき校庭で見かけたあの人が立っていた。ゆらりと立つその姿は霧や霞のように掴み所が無いと思わせるのに、こちらを射すくめるような眼差しはやけにはっきりとした輝きを湛えている。これも夢の出来事だろうか。でも、それにしては何かが違う。声の響きも、存在感も、まるで僕のすぐ傍にいるかのような……
「これは、お前がいずれ目の当たりにする結末……お前がどう足掻こうとも覆らない未来だ」
 人影が一歩、また一歩、僕との距離をゆっくりと詰める。
「天が堕ち、人が堕ち、全てが地の底へ飲み込まれる未来を、お前は救うことなどできやしない」
 近付かれるごとに、一歩、また一歩、僕は後ずさっていく。しかしすぐに背中に冷たく硬い壁の感触が伝わる。
「お前がいくら人を導き、天に希望を満たそうと無駄なこと。我らがいる限り、天(そら)に■は架からない」
 さっきから何について話されているのか分からない。一字一句身の覚えのない脅し文句だ。理解の及ばないことへの恐怖と、追い詰められる切迫感で指先からすうっと体が冷えていく。これと目が合った時に覚えた、心臓を掴まれているような苦しさと寒気で震えが止まらない。
 目と鼻の先まで近づいた人影が、こちらへゆらりと腕を伸ばす。何をされるか分からなくても、嫌な予感が全身を駆け巡った。それなのに、体はそこから一歩も動けない。そのままその手が僕の首を勢いよく掴む。気管を狭められる感覚でひゅっと息が漏れる。
「何故なら、我らは“禍(わざわ)い”そのもの……お前たちが希望と謳うものを厭い、禍いと成し、崩壊を進める使者であるがゆえに……」
 ぎりり、食い込む勢いで指が首を絞めつける。息が、出来ない。目の、前が、霞んで、いく。
「未だ目覚めぬ希望に、禍いに抗う力など皆無。露の如く、落ち零れて消えるがいい」
 
 夢だ。これは夢だ。これは夢だ。夢のはずだ。夢で、あってくれ。お願い、はやく、はやくはやく、はやく覚めて……!
 

「————っ!ちっ……運の良い奴め」
 気を失いかけた寸前。人影は何かに気が付いたように息を飲んだ。すぐに苛立ったように舌打ちを一つ、そのまま呆気なく僕の首を解放する。反射的に息を大きく吸うと、酸欠だった肺や頭が急速に酸素で満たされた。
「命拾いしたな。次はこうはいかない」
 息を吸い込んだ拍子にひどく噎せ、涙で視界が滲んだ先。さも憎らしそうに吐き捨てた人影が、暗闇に溶けゆくように姿を眩ませた。その瞬間、テレビの電源が切れるように、僕の意識もぷつりと途切れた。


 ハッと息を飲んで跳ね起きる。
 辺りには暗闇も、崩れ出した世界も、僕を襲った人影も、何も無い。あるのは、カーテンで囲まれた簡素なベッドだけ。
(————ゆ、夢か……)
 走った後のように浅くなった呼吸を時間をかけて落ち着けると、溜め息と共に再びベッドに沈む。
 夢で良かった。少しずつ落ち着きを取り戻し始めた頭が、最初に思い浮かべた言葉だった。
 殺されかける夢そのものは悪いものじゃない、なんて夢占いを調べた時に見かけた記憶があるけど、実際に見た方は後味が悪いことこの上ない。夢だったはずなのに、まだ首元が締め付けられている気がしてしまう。こんなにひどい夢、何なら生まれて初めてかもしれない。
 ふと、違和感のある額を拭うと、汗で手の甲がぬらぬら光っていた。意識してみると、全身も何だかじとじとしている気がして気分が良くない。休むためにここに来たはずなのに、余計疲れた気がする。
(汗、すごいな……)
 保健室は適度にクーラーが効いていて涼しいはずなのに。先生にタオルでも借りようと思い起き上がると、上履きを履いてベッドから降りた。見ると、仕切りのカーテンが何故か中途半端に開いている。先生が覗き込んで閉め忘れたのかな、なんて考えながらカーテンを開けた。
「————びっくりした。何だ、君か」
 聞こえてきた声にきょとんとする。振り向くと、見覚えのある金髪男性が目を丸くしてこちらを見ていた。
「あ、アビガイルさん、じゃなくて、アビガイル先生……?」
 普段なら保健室の先生がいるはずのデスクの傍に立つ、背の高いその人。アビガイル先生は「よう」と気楽な調子でひらりと手を振った。
「あれ、あの、何で……?保健室の先生は……?」
「ああ、職員室で見かけたな。教育指導の先生と何やら話し込んでいたが。それにほら、これ見てみな」
 そう言うと、アビガイルさんはデスクに置かれていた紙切れを僕に見せた。そこには確かに知っている筆跡で「職員室に行っています。すぐ戻ります」と書いてあった。留守中に僕が目覚めても心配しないように残しておいてくれたのだろう。でも、休んでいる生徒がいるのに保健室を空にしなきゃいけない用事って、一体何だろう。分からないけど、いずれにせよタオルは借りられそうにないな。
「それはそうと、大丈夫か雨宮?随分汗をかいているようだが」
 メモを元あった場所に置き、アビガイル先生が尋ねる。それはそうだ、こんなに涼しい部屋でびっしょりと汗をかいているなんて不自然に見えるだろう。
「あ、ええと、ち、ちょっと嫌な夢見ちゃってたみたいで……」
 何と説明すべきかも分からなかったので、苦笑い交じりに正直に話す。夢が原因で汗だくになるという理由もピンと来てもらえるか怪しいけど、事実は事実だしそうとしか説明できない。
「そうだったのか……体調が悪くてここに来たんだろうに、災難だったな」
 けれど、アビガイル先生はすんなり納得してくれたらしい。労わるような口調で返事してくれた。
「あの、先生はどうしてここに?」
 今度は僕から尋ねてみる。そういえば、英語の臨時教師である彼がここにいる理由は何だろう。保健室の先生に用事があるなら、職員室で見かけたと言っていたし、その時に済ませるだろうに。
「あ、ああ、ちょっと人を探していてな」
 大した質問をしたつもりはなかったけど、何故かアビガイル先生は一瞬困ったように顔を曇らせた。すぐに普通の表所に戻ったものの、ふとした表情の変化に若干の違和感を覚える。
「人、ですか?」
「この部屋に入っていくのを見かけた気がしたんだが……休んでいる時に誰か出入りしたような覚えはないかい?」
「う、ううん、どうだったかなあ……」
 記憶をさかのぼってみるけれど、途中で物音が聞こえて起きた覚えも無いし、誰かが入ってきた気配も記憶に無い。飛び起きたあの瞬間までは、本当にぐっすり眠っていたのだと思う。
 その旨を伝えると、アビガイル先生はそうか、と一言難しい顔つきになって顎に手を添えた。何か考え込んでいるようだけど、何となく悪いことをした気がして「お力になれなくてすみません」と頭を下げる。
「いや、気にしないでくれ。俺の方こそおかしなことを訊いてすまないな」
 僕の様子にアビガイ先生は表情を緩めた。
「雨宮、ここにいたってことは具合が悪かったんだろう?今は調子どうだ?」
 尋ねられて、改めて自分の状態に意識を向ける。起き抜けはあまり気分が良くなかったけれど、アビガイル先生と喋っているうちに少しマシになった気がする。気付けば頭痛もだいぶ軽くなっているし、これなら戻れそうだ。
「はい、だいぶ良くなりました」
「それは良かった。でもあまり無理をしないようにな。試験も近いんだろ?」
「はい、あと一週間で本番で……」
「それなら尚更だな。体調管理でこけたら頑張りも水の泡だぞ」
「肝に銘じます……」
 今回の頭痛の直接的な原因かどうかは分からないけど、確かに最近無茶な夜更しが続いていたのは事実だ。さすがに今日は早めに寝よう。
「さて、探し人もいないみたいだし、俺は失礼するよ。俺がここに来たことは内緒にしておいてくれ」
 そう言ってアビガイル先生が踵を返す。確かに無関係の先生(しかも非常勤講師)が保健室にいたなんて、事情を説明するのが面倒になるだけだ。とはいえ、やましいことをしていたわけでもないだろうし、僕は「分かりました」と頷く。
「じゃあな、雨宮。また次の授業でもよろしく」
「あ、はい、こちらこそ!」
 退室間際にひらひら手を振られたので、ぺこりと会釈を返してその背中を見送った。
 扉が静かに閉まった後、時計を確認してみる。時刻は四時間目の授業が終わる10分前。教室に戻るにしても中途半端な時間だし、退室するにしても、先生に一声かけていかないと。僕は元いたベッドにそっと腰かけ、先生が帰ってくるのを待った。



「奴め、どこに消えたんだ……」
 保健室を後にした男が独りごちて廊下を歩く。
 辺りを見回してみれど、どこにも目当ての気配は無い。ようやく糸口を見つけたと思ったが、寸でのところで掴み損ねてしまったらしい。
 以前は裏山神社の奥で空振りを経験した男だったが、対象の潜伏先がこの学校近辺であると数日前にやっと突き止めた。そこで、こ(・)の(・)世(・)界(・)で(・)行(・)う(・)に(・)は(・)少々強引な手段で学校に臨時教師として潜り込んでいたのだ。数ヶ月、或いは数年単位の長丁場も覚悟していたものの、気配の大元は想定よりすんなりと姿を見せた。
 推測になるが、学校近辺に潜伏し始めたのも、張り込んですぐ姿を見せたのも、恐らく理由は単純だ。
 対象が、雨宮 渚を発見したからだろう。
 奴は雨宮を何かしらの方法で保健室まで誘導した後に部屋へ侵入、眠った隙を突いたと思われる。対象の気配に気付いた男が保健室に飛び込んだ時には既に遅く。先に向こうが男の接近に気が付いたらしく、保健室はもぬけの殻だった。
 臍(ほぞ)を噛みつつも対象の痕跡を探ると、対象は雨宮に向けて“幻視(ハルシネーション)”の魔法をかけていた形跡があった。一方こちらは推測だが、逃走手段としては“転移(テレポート)”の魔法を使い、こちらとすれ違うことなく離脱したのだと思われる。
 逃げた手段はさておき、奴は一体雨宮にどんな幻をけしかけたのか。定かではないが、青白い顔に汗だくで起きてきたのを見るに、碌でもないものを見せられたのだろう。
(これ以上こ(・)の(・)世(・)界(・)で手を汚される前に、一刻も早く取り押さえなくては)
 それこそ、男がここにいる理由。本来の姿を偽ってまでこ(・)の(・)世(・)界(・)に留まっている理由だった。
 とはいえ、ひとまず対象は学校から離れたようで、今は気配も感じ取れない。仕方なく、男は職員室に戻ることにした。担当学年もクラスも持たない非常勤講師が、校内を必要以上にうろつくと目立ってしまう。保健室に駆けつけたのも、職員室から急いで飛び出してのことだったのだ。多少怪しまれたことだろうし、それらしい弁明を考えておかなければ。
「やりづれえな、人間ってのは」
 やれやれと頭を掻いて、男は廊下をすたすたと歩いていった。


 
 保健室の先生が戻ってきたのは、アビガイル先生が立ち去ってから5分ほど後のこと。
「あっ、雨宮君起きてたんだ。ごめんね、保健室空けちゃって」
「いえ、大丈夫です」
 両手を合わせて謝る先生に笑って返事をする。話によると、教育指導の先生に緊急の用事があるからと呼び出されたのだという。
「手短に済ませるって言われたから行ったんだけど、結局長々とかかっちゃってねえ。ちょっと込み入った話題だったから仕方ないけど……」
 怒るに怒れない、といった様子で先生は物憂げに溜め息を吐いた。よく分からないけど、きっとよほど急ぎの内容だったんだろう。
「あ、そういえば雨宮君、私がいない間に誰か来た?」
「え、えっと、寝てたんで分からないですけど、たぶん誰も来てないです」
 約束通りアビガイル先生がいたことは伏せて話す。すると先生は「おかしいなあ」と訝し気に呟いた。
「鍵を掛けていったはずなのに、戻ってきた時には鍵が開いてたから……てっきり誰か先生でも来たのかと思ったんだけど」
(……鍵を、掛けていった?)
 それ自体は自然なことだ。疑問なのは、鍵が閉まっていたのにどうやってアビガイル先生は保健室に入ったかだ。非常勤の先生でもマスターキーを渡されるのだとしたら分からなくもないけど……いや、それ以前にアビガイル先生はこう言っていた。
 
 ————人を探していてな。この部屋に入っていくのを見かけた気がしたんだが……————
 
 つまり、アビガイル先生が人探し目的で入室するよりも前に、理由も手段も分からないけど保健室の鍵を開けて入ってきた誰かがいる、ということにならないだろうか。
 でも、アビガイルさんはむしろ僕に誰か来なかったかと質問してきたくらいだ。つまり、彼はこの部屋では誰も見てないし、仮に誰かいたとしてその人が出ていった時にすれ違っていないということ。でも、もしアビガイル先生と鉢合わせる前に退室したとしたら、それこそこ(・)こ(・)か(・)ら(・)直(・)接(・)ワ(・)ー(・)プ(・)でもして立ち去らないと説明が付きそうもない……
(うう~~意味が分かんない!)
 状況の不可解さで不安が膨れ上がり、また嫌な汗が滲みそうになる。今日はどうしてこんなにも背筋が寒くなるような出来事が続くんだろう。一体僕が何をしたっていうんだ……!
「ま、まあでも急いでたし、たぶん私が鍵かけ忘れただけだと思う!だから雨宮君もあんまり気にしないで!」
「は、はい!そうしますっ!」
 不安がよほど顔に出ていたのだろう。僕の顔を見た先生は慌てたように付け足し、繕うように笑った。僕も喉から出かかっていた不安を何とか飲み込み、やや食い気味に頷いて答える。今ばかりは、先生の見え見えの誤魔化しに乗っからせてもらうことにしよう。
 その時、緊張しかけた空気をかき混ぜるかのようにチャイムが鳴った。
「お、四時間目終わったね。雨宮君、戻れそう?」
「はい、大分楽になったんで」
「そか、良かった良かった。じゃ、午後も無理せず頑張っといで」
「ありがとうございます。失礼します」
 会釈を一つ、僕は手を振る先生に見送られながら保健室を後にする。このまま立ち止まっていると余計なことを考えそうだったのと、単純にお昼時で空腹を感じ始めていたので、足早に階段を上がっていった。


 
 四時間目が終わり、渚のクラスも給食の準備が始まっていた。当番の生徒は給食着を着用し、それ以外の生徒は机を動かして四人班を作り始める。
 綾女も今週の給食当番だったため、給食着を着て
鍋や食器類、番重などを取りに行く準備をしていた。給食着を用意しながら何気なく教卓に目をやると、分厚い本が一冊ぽつんと置き去られていた。手に取ってみると、ずっしり重たいそれは先程の授業関係の教員用参考書だった。
(先生の忘れ物かしら)
 四時間目の生物の授業で、先生が同じような本を持っていた覚えがある。そういえば先生は授業が終わってすぐに教室を出ていったので、うっかり置き忘れてそのままなのだろう。
「あーや、どしたの?」
 ふと、同じ給食当番の女子生徒が不思議そうに声をかけてきた。
「あれ、それさっきの先生が持ってたやつだね。忘れ物かな」
「そうみたい。わたし、ちょっと抜けてもいいですか?届けてきます」
「あーや超優しい〜!いいよ、当番の方は男子と一緒にやっとくから行ってきなよ」
「ありがとうございます、助かりますわ」
 快く了承してくれた女子生徒にぺこりと頭を下げ、綾女は本を抱えて教室を後にした。


 
 結論から言うと、男が職員室を飛び出したことを怪しんだ者はいないようだった。加えて、男が職員室に戻ったことすら誰も気がついていないらしい。朝から漂うぴりぴりとした緊張感を引きずるあまり、皆それどころではないのだろう。
 空気がひりついた発端は、今朝突然入った学校への電話。その相手は何と病院の看護師だった。何でも、この学校の国語教師——話によると雨宮や日上の担任教師らしい——が、出勤途中に通り魔に遭ったらしく、怪我をして病院に搬送されたそうな。幸い命に別状はないものの、腕を切り付けられて全治二週間とのこと。教師を傷つけた犯人は逃走し、未だ捕まっていないそうだ。
 不審者が幼い子供である生徒を真っ先に狙うのはよくある話だが、それより先に大人である教師が襲われるのは異質だ。通り魔的犯行である以上、ターゲットにこだわりは無いのだろうが、だからこそ生徒だけでなく教師もターゲットの範疇である可能性があり、恐ろしくてたまらない……
 聞こえてきた会話を纏めると、おおよそこんな感じだった。
 教員たちは努めて冷静であろうとしていたが、その実誰もが動揺しているのは空気で分かった。そういえば保健室に向かう前に職員室で見かけた養護教諭も、教育指導の教員からこの話題について共有され、ひどく困惑している様子だった。自分の職場内から通り魔による怪我人が出たのだ、そのどれもが当然の反応だろう。
(奴の狙いは雨宮のはずだが……何故雨宮より前に担任を襲ったんだ?)
 いや、むしろ逆か、と男は思い直す。偶然にしろ狙ったにしろ担任教師と接触したからこそ、奴は雨宮に辿り着き、雨宮の気配を覚えてしまった。次は余計な道など辿らず、真っ直ぐに彼を狙い撃ちしてくるに違いない。
 ————コンコン、軽いノック音が聞こえたことで思考が途切れた。振り向くと、静かに扉を開けて一人の女子生徒が職員室に入ってきた。
「失礼します。羽生先生はいらっしゃいますか」
 落ち着いた響きの声。肩の辺りで二つに結った亜麻色の髪。彼女は二時間目に授業をしたクラスの生徒、確か名前は虹元といったか。何故かその胸には教師用のテキストが重そうに抱えられている。
「はぁい。どうかしました?」
 女性教師の一人が気が付き、虹元へと近づく。彼女が虹元の探していた教師のはずだ。
「先生、お忘れ物ですよ」
「あら、ありがとう虹元さん。わざわざ届けてくれたの?」
「先生のお手元に無いと困る物だと思いましたので。お気になさらず、です」
「親切にありがとうね、助かったわ」
「良かったです。それでは、失礼します」
 確かに親切な子だなと思いながら、男は丁寧にお辞儀する虹元を遠巻きに眺める。
 ————その時、男はハッとした。虹元が教師に会釈をした瞬間、彼女から覚えのある匂いがした。否、正確には匂いではなく直感で受け取った気配のようなものだが。まるでふと花が香るように匂い立ったそれは、男が確かに知っている感覚だった。
(嘘だろ?何故彼女からあの気配が……!?)
 こ(・)の(・)世(・)界(・)ではあまりに目立つそれに、男は虹元を凝視した。記憶が正しければ、現時点でこの気配の発生源は先程捕らえ損ねたあいつしか有り得ないはずだ。
 しかし、先程まではっきりと感じ取れていた気配が、次の瞬間にはぱっと消え失せた。最初から気配など存在しなかったかのように、残滓を追うことすら出来なくなったのだ。
 向けられる視線に気が付いたのか、虹元は去り際に男の方を振り返った。目が合ってしまい、男は内心慌てながらも冷静を装って小さく会釈をする。すると、虹元もにこりと微笑んで会釈を返し、何事もなく職員室の扉を閉めていった。
(どういうことだ……この世界に来ているのは、奴や俺だけではなかったのか?)
 思考がこんがらがる。もし彼女が自分と同類であるなら、どうやって、何の目的でやってきたのか、まるで見当がつかない。現時点で、こ(・)の(・)世(・)界(・)と(・)男(・)の(・)故(・)郷(・)を(・)行(・)き(・)来(・)す(・)る(・)方(・)法(・)な(・)ど(・)無(・)い(・)はずなのに。
「……アビスリア先生?どうしました?」
 ふと、先程虹元と話していた教師に声をかけられる。扉の方を凝視していたので、怪訝に思われたらしい。
「ああ、いえ。さっきの生徒、気の利く子だなあと思いまして」
 適当に誤魔化すと、教師は「なるほど」と笑った。
「虹元さん、年齢の割にとても大人びててしっかり者だって教師の間でも有名なんですよ」
(年齢の割に大人びてる、か……)
 あながち、教師たちの見る目も間違ってはいないな。男は複雑な気持ちで、曖昧に笑う他なかった。

 同じ頃。綾女は階段の踊り場で立ち止まり、自身の胸に手を当てた。その顔は、困惑と失意で血の気が引いていた。
「どうして……?わたしの“擬態(ミミック)”が見破られかけるなんて……」

【天の都】―ウェザーユートピア―  第一章:慈雨の救世主

【天の都】―ウェザーユートピア―  第一章:慈雨の救世主

「天の都」…それは「天気」の魔法が秩序を守る不思議な世界。己が救世主であることを知った少年は、仲間と共に「天の都」へ旅に出る。天が堕ちる前に。人が堕ち去る前に。地が全てを飲み込む前に。救世(くぜ)のたびに、虹の祝福があらんことを。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-01-26

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  1. Prologue
  2. 夏の日の出会い
  3. 夢占い
  4. 頭痛
  5. 悪夢