*星空文庫

Existence

県 裕樹 作

  1. 序章 機上の人
  2. 第一章 違和感
  3. 第二章 彼女
  4. 第三章 推進派
  5. 第四章 不協和音
  6. 第五章 205便
  7. 第六章 虎穴
  8. 第七章 絶望の向こうに
  9. 終章 巡る命

序章 機上の人

「もうすぐ到着か。今回の出張はちょっと長かったな」
 旅客機のビジネスクラスシートに着席し、軽く伸びをしながら、彼――朝倉智は、誰にともなく呟いた。システムエンジニアとして社用で渡米していたのだが、システムの完成が思いのほか遅くなってしまい、当初の予定より2週間ほど遅れての帰国となったのである。
「朝倉よぉ、帰ったら社の方に顔を出すか?」
「そうだなぁ……一応、行っておいた方がいいだろうな」
 と、隣に座る同僚の質問に、いかにもビジネスマンらしい返答をしてみたものの、彼の本心はそうは言っていなかった。
(かなり遅くなったからな。芽衣の奴、待ってるだろうな。社の方へはサッと顔を出すだけにして、早く帰らなきゃ)
 そう、彼は自分の帰りを待っている恋人の事が気掛かりでならなかったのだ。ホテルをチェックアウトする前に電話をしてはいたが、映し出されるホログラフィー映像からは、温もりを感じ取れない。本物の彼女に早く会いたい……それが本音だった。ペンダントの中の写真を覗き、恋人に思いを馳せる……格闘技で鍛え上げた屈強な肉体を持つ彼も、やはり普通の青年であった。
「また彼女の写真、見てるのか?」
「の、覗くなよ」
「ばーか、何を今更。これまでも散々惚気てたろうが」
「それとこれとは話が別だよ」
 智は恋人の事を思い浮かべていた事を見抜かれ、思わず照れる。そんな彼を横目で見ながら、同僚は『ヤレヤレ』といった感じの表情を浮かべ、肩を竦めていた。
『当機は間もなく、新東京国際空港への着陸アプローチに入ります。お席を離れているお客様は、お早めにお席にお戻り下さいますようお願い申し上げます』
 機内アナウンスが流れ、着陸が近い事を告げ始めた。
「国際線、かぁ。この言葉、いつまで使われるんだろうな?」
「さあな。『統合政府』……これが現実の物になったら、消滅する言葉ではあるな」
 同僚の何気ない呟きに、智はこれまた気のない感じで返答する。
「偉い政治家の方々が、百年以上議論しても決まらないんだ。そもそも全世界を統一なんて、できっこないよ」
「そうだよなぁ……まぁ尤も、その百年の間に、人類滅亡の危機という歴史が挟まってるからな。『ヒューマノイド』誕生秘話、か。これも、もう半世紀も前の話なんだよな」
「人類滅亡の危機は救えたが、全ての人類を統括する事なんか……夢物語さ。出来るわけが無い」
 21世紀の末、人類の男性を襲った未知のウィルス。これに感染すると生殖能力を完全喪失するという、恐ろしいものだった。これに対応する為、ワクチンの開発とともに、バイオロイドの研究が急ピッチで進められ、人間とバイオロイドのハイブリッド人工生命体である『ヒューマノイド』が誕生したのである。そして智自身の肉体もヒューマノイドであった。
「病気を無くすワクチンや、人工的な肉体は科学の力で作れても……人の心は統一できないからな」
「ま、日本はまだ統一国家に賛同するかどうか、その意向をまだ決めちゃ居ないし、同じスタンスを取っている国も沢山ある。まだ先の話さ」
 智は、統合政府の樹立に否定的な訳ではなかったが、実現は不可能であると思っていた。国境が消滅し、国家間の壁が無くなる事と、思想問題の統一はイコールでは無いと考えていたからである。
「っと、そんな先の事は置いといて……ホレ見ろよ、我が祖国が見えて来たぜ。ようやく到着だ」
「ん。じゃ、着陸姿勢に入る前にトイレ済ませとくか」
「おいおい、降りてからでもいいだろうに」
「サッパリした気分で、祖国の土を踏みたいのさ」
 友人の制止を軽くあしらって、智は化粧室に向かう。彼は、その判断が自分の運命を大きく変える事になるのだという事を、知る由も無かった。

第一章 違和感

『……統合政府樹立に向けて、各国首脳による閣議が続けられ……』
「このフレーズ、子供の頃からずっと変わらないなぁ……っと、そんな事より、今日は智が帰ってくる。うふふ、早く電話こないかなぁ」
 とあるアパートの一室で、彼女――三橋芽衣は、恋人の姿を思い浮かべながらウキウキしていた。無理もない。仕事で渡米し、もう3ヶ月以上も離れ離れになっていた彼氏が、やっと戻ってくるのだ。彼女の浮かれ具合は既にピークに達していた。が……
『臨時ニュースが入りました……本日午後4時40分頃、ブルースカイ・エアラインズ205便が海上でレーダーから消え、行方不明となりました。現在、自衛隊と在日米軍が共同で行方を追っておりますが……』
「……え!?」
 芽衣は自分の耳を疑った。ニュースで報じられた事故機の便名が、恋人である智から聞かされていたものと同一だったからである。
「まさか、ね……そんな事ある訳ないよね」
 と思いつつも、芽衣は電話のログを遡り、彼からのメッセージを再生していた。今の報道が聞き間違いである事を確認する為に、だ。
『……明日の5時に到着予定だ。えっと……ブルースカイの205便だな。だから、7時ぐらいには帰れると思うよ。そしたらさ……』
「……!! いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 にこやかに笑みを浮かべながら自分に語りかける智のホログラフィー映像の前で、芽衣は絶叫しながら両手で顔を覆う。
「ウソよ……ウソよウソよ!! そんなの、何かの間違いだよ……」
 先程までの明るい気分は完全に消え、彼女の胸の内はすっかり真っ暗になってしまっていた。そしてその数十分後、航空会社からの連絡で、智の名も乗客名簿に入っている事を知らされ、彼女は更に追い討ちを掛けられていた。第1世代ヒューマノイドである智に、両親は存在しない。そのため彼の緊急連絡先は、常に恋人である芽衣の電話が指定されていたからである。

**********

 航空会社からの手引きで、芽衣は犠牲者の身体が集められる一時安置所に通された。既にそこには知人や肉親の姿を確認して号泣する者も居り、まさに地獄絵図と形容してもおかしくないぐらいの様相が展開されていた。
(智はここには居ない、居る訳がない!)
 未だに芽衣は、智の生還を信じて疑わなかった。だが、彼は一向に姿が発見されず、行方不明の状態が続いていた。判別不明になるぐらいにまで消し飛んでしまったのか、あるいは自力で事故現場から脱出したのか……それは分からなかったが、とにかく彼の身体はいつまで経っても安置所には運ばれて来なかった。
「乗員・乗客合わせて455名……1人を除いて、全て身元が確認されています……全員が死亡です。でも、朝倉さんだけが、何故か……」
 そう、智の身元だけが、いつになっても確認できなかったのである。
「墜落現場にはもう、生命反応が無いそうなんです。自力で安全圏まで脱出なさったか、或いは……あ、いや……」
 最悪の事態を想像し、思わずそれを口に出しそうになったところで、芽衣の傍にいた航空会社職員が慌てて口を噤む。
「何処に行っちゃったの……智……」
 不安に押し潰されそうになり、芽衣はすっかり憔悴しきっていた。が、そんな折、安置所の代表電話に自衛隊の救護部隊から一本の緊急連絡が入った。
『精神体(コア)分離状態のヒューマノイドが一体、病院に向けて緊急搬送されていたという情報が入りました! 発見場所は墜落現場より約4キロ南東に離れた地点、行方不明になっている乗客と思われます! 確認を急ぎ、続報致します……以上!』
「……!!」
 報告を聞いた職員は、真っ青な顔で俯き続けている芽衣にその情報を伝えた。と、次の瞬間、呆けにとられたような顔を見せた芽衣だったが……その表情は驚きと期待に満ち溢れたものへと変化し、職員に喰らいつこうかというような勢いで質問を始めていた。
「ど、何処ですか!? 智は何処の病院に居るんですか!?」
「お、落ち着いて下さい……現在、その肉体の身元確認を急いでおります。どの病院に搬送されたかも、追って情報が来ると思いますので……」
「智……智!!」
 必死に芽衣を宥めようと懸命になる職員だったが、彼女はもう完全に取り乱してしまっており、彼の説明など殆ど耳に入っていなかった。そして第一報から十数分置いて、安置所に続報が届いた。
『……搬送されたのは、朝倉智さん……24歳、男性。搬送先は……』
 情報を得た芽衣は、早速タクシーを呼んで搬送先の病院へと急いだ。どうしてコアが分離された状態になっているのか、その理由も引っ掛かったが……とにかく、彼は生きていた……その事実だけで充分だった。

**********

(……ここは……何処だ?)
 白くモヤの掛かったような状態、とでも形容すれば良いだろうか……とにかく、焦点の合わない視界の中で、彼は意識を取り戻した。
(俺、どうしたんだっけ……あ……確か飛行機で帰る途中だったんだ……)
 それが何故、眠りから覚めたような感覚になってるんだろう……と、しきりに頭を捻る。だが、激しい衝撃を身体に感じた後の記憶があやふやで、どうにもハッキリしないのだった。いや、それどころか……どうして自分の手足が思うように動かないのか、それが彼には理解できなかった。
「……意識、回復しました。ダウンロード手術成功です」
(ダウンロード……? 俺の事か……? 何で?)
 聞き覚えのない男性の声が、耳に入ってくる。会話の内容は聞き取れるのだが、言っている意味が分からない。ダウンロード手術といえば、かなり大変な事である。ヒューマノイドの肉体からコアを分離し、それを再び肉体に戻す事を指すのだから。それが自分に施されているなど、そんなバカな……と思っていたのだ。
「う、う……」
 どうにか声を出せるようになって来たらしく、必死に意思表示をしようと試みる。しかし、ダウンロードされたばかりのコアが肉体に馴染むまでには、かなりの時間が掛かる。意識が戻り、周囲の声が聞こえるようになっても、自分の意思通りに肉体をコントロールする事は、すぐには無理なのだ。
「拒絶反応なし……肉体とのマッチングも、ほぼ問題無しのようですね」
(当たり前じゃないか……自分の体だぞ? 合わない訳ないだろ……)
 いったい何を訳のわからない事を……と、智はハッキリとしない意識の中で声の主の言葉に異を唱える。しかし彼は、自分の体に何が起こったのかを、未だに知らないままだった。
「では、マッチングテストを終了します。続いて定着処置の用意を……」
(……説明無しかよ……)
 再び智は、無言ではあるが、耳に入ってくるその声に対して異を唱え続ける。が、程なくして彼の意識は、再び闇の中へと誘われていった。コアと肉体の相性をテストし、問題ないと判断されたら、完全に定着させる為に肉体とコアの動きを完全に停止させ、神経系の命令伝達情報を新たなコアの物に書き換える処置を施す必要があるからだ。つまり、強制的に眠らされてしまうのである。
(しかし……どうして俺、こんな事になってるんだ……?)
 完全に混乱した意識の中で、必死に考えようとした。だが、間もなく彼は再び、深い眠りの中に落ちていくのだった。

**********

「う……む……? ここ、何処だ……?」
 見慣れない景色の中で、彼は再び目覚めた。真っ白い壁に、真っ白い天井……この殺風景極まりないカラーリングは、間違いなくどこかの病院であろう。首を回して周囲を見渡すと、室内にベッドはひとつしかない。どうやら個室のようだ。
『意識が戻ったようですね』
「……ここは、何処ですか?」
 どこかに設えられたカメラでモニターされていたのか、目覚めて間もなく天井のスピーカーから声が聞こえてきた。その声に対し、まず智が行ったのが現状把握の為の質問である。しかし、返って来たのは質問に対する返答ではなく、機械的な問い掛けだった。
『聴覚に異常は無いようですね。目は見えていますか?』
「えっ……? あ、はい、見えますけど……」
 質問してるのはこっちなのになぁ……と、智は不満を抱く。だが、スピーカーからの声はなおも続く。
『手足は問題なく動きますか?』
「……はい、動くようです」
 このような問い掛けが数分続き、それに応えながらも、何故こんな事を聞かれているんだ……と疑念を抱く。一体、自分に何が起こったのか、まずそれを知りたいのに……と、智は苛立ちを覚え始めていた。
『では、少々診察をします……そちらに行きますので、お待ち下さい』
「……ハイ」
 スピーカー越しの対話が終わり、ようやく声の主が目の前に現れる事になった。これで、此方からも質問できるだろう……と、智はふぅっと息をつく。
「それにしても……」
 何かがおかしい。まるで自分の身体じゃないみたいな……そんな違和感を覚えながら、自分の手を顔の前にかざして見る。
「やけに、腕が細くなったような……それに、動くは動くが、体の動きが妙に鈍い」
 それに何だか、声もおかしい。何がどうなっているのかサッパリ分からず、智はただ頭を捻るばかりであった。
「朝倉さん、入りますよ」
 という声がドアの外から聞こえ、医師と思しき男が顔を出した。
「主治医の川上です。よろしく」
 主治医を名乗る男と、看護師が数名、部屋に入ってきた。そして医師は、聴診器で心音を聞いたり脈を測ったりして、簡単な健康診断を実施した。その結果にウンウンと頷くと、ようやく智に質問の機会を与えてくれた。
「如何ですか? 身体の調子は」
「調子も何も……俺はどうして、こんな所に寝かされているんです? 俺は確か、飛行機に乗ってて……」
 智は、自分の記憶にある中で一番新しい情報を反芻しつつ、その後、自分がどうなったのかを聞き出そうとした。
「君は、ここに来た時には既にコアを分離された状態だったよ。つまり、そこまで逼迫した状態だった、という事だ」
「コ、コアを分離!? って事は、この違和感は、もしかして……!?」
 智の不安は見事に適中した。医師が目配せを送り、看護師に手鏡を持って来させた。そして、それを覗き込んだ彼は絶句した。然もありなん。そこには、それまで見慣れた自分の姿とは全く異なる人物が映っていたのだから。
「……これが……俺!? ……こ、この身体は?」
「コア異常で空き家となっていた、同世代の青年の物だ」
「お、俺の身体は?」
「修復を試みようとはしたが、医学レベルで修復の効く状態じゃなかったので、登録抹消の後、廃棄されたよ。君は、同世代の男性の肉体を譲り受けて回復したんだ」
「……なんてこった……」
 驚きよりも何よりも、まず先に出て来たのが、そのセリフだった。
「第1世代ヒューマノイドの君だから、出来た措置だったんだよ」
「身体からコアを外さなきゃ、命が危ないような状況だったって事ですか? 俺の身体、治らないんですか!?」
 本来の自分の肉体がどのような状態だったのかを知りたくて、智は食い下がる。だが、医師の口からは、期待する答えは返って来なかった。
「四肢は揃っており、頭部も無事だったがね。脊椎の損傷が激しく、神経系がズタズタだった。欠損が無いとは言え、その状態は酷いものだったよ。映像が残っているが、見てみるかね?」
「……結構です」
 医師の回答から、智は自分の身体はかなり酷い状態で、修復は絶望的だという事を理解した。しかし……
「参ったな」
 もはや、それしか台詞が出て来なかった。過去の記憶と人格を引き継いでいるとはいえ、もはや自分は完全な別人になってしまったのである。すぐに納得して、現状を受け入れろと言われても無理な話だ。
「とりあえず移植手術は成功、経過も順調だ。あとは、新しい身体に馴染むまでリハビリをして、それから退院……という事になるね」
 複雑な心境に陥る智に、淡々とこれからの予定を話し聞かせる医師。
「ひとつ、教えて下さい。俺のコアを新しい身体に入れて、復活させようっていう決断をしたのは誰なんです?」
「君の恋人さんだよ」
「芽衣が?」
「……とにかく、今は休んだ方がいい。少しずつ、落ち着いて現状を受け容れるんだ。いいね」
「はぁ……」
 驚きの連続で、既に言葉も出ない状態の智に一言添えて、医師は去って行った。
「……あ、ここが何処なのか、聞きそびれちゃったな」
 ま、それももうどうでも良いや……乗っていた飛行機の事や、会社の事も気になるけど、それも後回しでいい……とにかく、自分自身が今の状況を受け入れなきゃ、話にならないな……と、智は再びベッドに横たわった。が、ボンヤリと考えるうち、脳裏に恋人の姿が浮かび上がった。
「芽衣、どうしてるかな……」
 この措置を芽衣が嘆願したのなら、彼女は自分の回復を心待ちにしている筈。なら、意識が回復したこの事実を、早く知らせてやらないとな……と考え、智は傍らにあった室内電話の受話器を取り、彼女の電話にアクセスしようとした。だが何故か電話は繋がらず、ひたすら無機質な電子音を鳴らし続けるだけであった。
「壊れてるのかな?」
 業を煮やした智は、ナースコールを利用して看護師を呼び、自分の意識が回復した事を伝えたいと訴えた。だが、その訴えに看護師は答えられず、一旦退出して行った。そして暫く待たされた後、医師が入室して来て、誰に連絡したいのか? と質問して来た。何故そんな事を? と疑問に思った智であったが、どうやら質問は許されないらしく、こちらの質問に対する回答しか受け付けないとピシャリと言い切られてしまった。彼は渋々、芽衣を筆頭にして会社の上司や友人など数名をリストアップしたが、芽衣以外への連絡は認められないという回答が返って来て、益々彼を混乱させた。
「……分かりました、彼女だけでいいです……話をさせて下さい」
「ダイヤルは私がします。他へのアクセスは絶対禁止です、いいですね?」
 何故そこまで徹底するのか……病院側の態度にも疑問を覚えた智であったが、ともあれ芽衣だけには連絡が付けられると分かり、医師の監視の元、彼女の携帯電話にアクセスした。

**********

「智……だよね?」
「あぁ、俺だ。外見はともかく、中身は間違いなく……朝倉智、本人だ」
 程なくして病室を訪れた芽衣は、智の姿を見て、まず開口一番にその質問をしていた。どうやら、手術後にどのような姿になるかは、彼女にも知らされていなかったらしい。
「良かった……ホントに生きてたんだ……」
「フツーの人間や、第2世代以降だったら、こうは行かなかったみたいだけどな……」
 見た目は大きく変わったが、その物言いや態度は全く変わっていない。そんな智の台詞を聞いて、改めて彼の生存を実感し、芽衣はその身体に抱き付いてポロポロと涙を流した。
「良かった……ホントに良かった……生きててくれて……」
「見た目には拘らないのか? 随分と変わっちまったが」
「智は智だもん」
「芽衣……」
 二人は暫し、再会の喜びを分かち合った。姿形は変わっても、自分は自分……心底からそう言い切ってくれた芽衣の台詞で、彼の心の中から、肉体が替わった事に対する拘りは一切消えていた。
「ところで芽衣、この手術ってかなり値が張るはずじゃあ?」
「あ、うん……航空会社の方から損害賠償が出たの……それで……」
「なるほどな」
「でもね、その決定が出るまでに、随分掛かっちゃったの。あの事故は5月だったけど、今はもう8月だもん」
「エアコン効きまくりだから、分からなかったぜ。道理で薄着な訳だ」
 智は少しずつ情報を得て、どういう経緯で自分がこうなったのか、徐々に理解していった。そして何より、唯一の身内となる彼女――芽衣が自分を拒絶しなかったという安心感で、ショックはだいぶ和らいでいた。元々彼は、それほど物事に拘るタイプでは無いので、多少の事であれば受け流せてしまうだけの強さを持っていたのである。
「芽衣の顔を見たら、元気が出て来た。少し外の風を浴びたいな」
「歩けるの?」
「分からない。でも、怪我してる訳じゃないし、大丈夫だと思う」
 智はゆっくりとベッドの下に足を下ろし、慎重に立ち上がる。しかし、実質3ヶ月以上も立ち上がっていなかった所為か、両脚に体重を預けた瞬間、バランスを崩してよろけてしまっていた。
「……っと!」
「だ、大丈夫!?」
 芽衣にもたれ掛かる格好になり、何とか転ばずに済んだ智だったが……ここで二人同時に、ある事に気付く。
「……ん!?」
「あれっ……?」
 以前は、こんな姿勢になれば芽衣の方が押し倒されてしまうほど体格に差があったのだが、今は芽衣の力だけで智を支えきれている。
「軽い……?」
「……っていうか……小っさ!!」
 芽衣の肩を借りつつ何とか自立した智は、彼女と並んで立ってみて……自分の身体が思いのほか小さい事に気付いたのである。
「前は、見上げるぐらい身長差があったのに……」
「今はそんなに変わらないじゃないか……」
 元々、身長150センチ台と小柄な体躯を持つ芽衣よりは長身だが、それでも、ごく僅かに背が高い……その程度の差しかないのである。
「もしかして……」
 と、智はバッと上半身をはだけてみた。すると……案の定というか、以前の彼が誇ったマッシブな肉体とは掛け離れた、殆ど鍛えられていない華奢な身体が現れたのである。
「これは……相当鍛えないと、使い物にならないな」
「う、うん……前の身体が凄く逞しかった分、ギャップが凄いね」
 智がごく普通の、標準的な青年であればこれで良かったのかも知れない。しかし、格闘技の達人で、アクティブな動作を身上としていた彼としては、この身体では不足……というより、彼が思い切り動いたら、感覚について来れずに身体の方が先に参ってしまうだろう。
「しかしまぁ、見事にガリガリだなぁ。どんな奴だったんだ? 前の身体の持ち主は……」
「……智の鍛え方が凄かったんだよ。普通の男子は、そんなもんだって」
「そうかなぁ?」
 芽衣に説明されながらも、智は納得いかないと言った感じだった。
「……ま、退院してからジックリ鍛え上げる事にするわ。身長低いから、あまり筋肉つけると不恰好になりそうだけどな」
 そう言いながら智は、明るくニッと笑って芽衣をリードしようとする。だが、まだ脚のほうは上手く動いてはくれず、芽衣の肩を借りながら、ゆっくりと歩くのがやっとであった。

**********

「ふぅ……屋上に来るだけで、メチャクチャ疲れた」
「仕方ないよ、もう3ヶ月以上も歩いてないんだもん」
 屋上へと移動した二人は、テラス付近に設けられたベンチに腰掛けて一休みしていた。
「それにしても……俺、一応は航空機事故の被害者って事になるんだろ?」
「一応じゃなくて、立派に被害者だよ」
 智の呟きに、芽衣が即座にツッコミを入れる。
「だとすると普通、警察が事情聴取に来たりとか、マスコミが取材に来たりとか……そういうのがあるんじゃないのか?」
「!! ……そ、そういえば静かね……」
「……? ま、来ないに越した事は無いけどな。何か聞かれたって、なにも覚えちゃ居ないからなぁ」
 一瞬、ギクリとしたような表情を見せた芽衣を見て怪訝に思った智であったが、恐らく事故の直後に過剰なインタビュー攻めにでも遭ったのだろうと思い、その場は流す事にした。
「そういえば……どこかの山の中で、星空を見上げたっけ」
 見上げた――と言うよりは、真上しか見えなかったというのが正解なのだが――その星空が、智本来の肉眼で見た最後の景色だという事は間違いなかった。
「どうやって助けられたか、覚えてないの?」
「ぜんっぜん。気が付いたらこの身体に入れられて、ベッドの上だよ」
「そう……」
 芽衣は智の回答を聞いて、事故発生から救助まで、かなり時間が空いていたんだな……という推理に達する。だが、そんな事が分かったところで今更どうにもならないと、彼女は軽く首を振って思考を散らす。
「そういえば芽衣、他の乗客はどうなったんだ? 何か聞いてないか?」
「え、いや、あの……」
 智の質問に、芽衣は困ったような表情を見せて答えに詰まる。病院側の応対も何か引っ掛かったし、何かある……と思った智は幾分か目線をきつくして、更に彼女を問い詰めた。
「芽衣、さっきから何かおかしいぞ? 何か隠していないか?」
「う……」
 芽衣は困惑した表情を隠しきれずに、徐々に追い詰められていく。が、智の真っ直ぐな視線に耐え切れず、遂に観念したか。彼女は俯きながらゆっくりと口を開いた。ただし、その声は消え入るように弱々しかった。
「隠しきれるわけ無いよね。分かった、話す。でも、内緒だよ……驚かないで聞いてね。あの事故は生存者ゼロ、全員死亡って報道されてるの」
「え……? ちょっと待てよ、俺、こうして生きてるじゃないかよ?」
 智は同乗していた同僚の安否について訊こうと思い、彼女に質問したのだが、それに対する回答は、彼の予想の遥か上を行くものであった。
「あとね……智、私……事故の生還者が居る事を明かしちゃいけないって、口封じされてるの。本当は死者454名、生き残りは……智、貴方だけよ」
「……!!」
 それは、あの事故について、何らかの報道管制が入ったのだと言う事を示唆していた。つまりは、自分が生きている事自体が極秘事項という事になる。インタビュー攻めなんてとんでもない、彼女が先程見せた表情の裏には、こんな秘密が隠されていたのか? と、智は愕然とした。
「あ……智だけは墜落現場からかなり離れた所から救助された、だから助かったとも聞いたよ。勿論、これも内緒だけどね」
「俺だけ……?」
 自分だけ、皆と違う所に落ちたって事か……? と、智は更に頭を捻る。
「何で俺だけ、離れた所で発見されたんだろう?」
「分からない……とにかく、私が病院に駆けつけた時は、貴方はコア保存用の端末に入った状態だった。身体は、見せてもらえなかったよ」
「ふぅん……」
 そもそも、何故あの飛行機は墜落したのか……衝撃と共に聞いた、あの爆発音は何だったのか……不可解な事が多すぎて、彼の思考はパンク寸前だった。
「……考えても仕方ないか」
「そうだね」
 空を見上げ、二人は暫しの静寂に身を任せる。が、エアコンの無い屋外テラスに居る為か、段々と汗が出てきた。
「戻ろうか。汗かいちゃう」
「……だな」
 と、再び芽衣の肩を借りて、ゆっくりと歩く智。ふと彼女の顔を見ると、彼女もまた智の方に目線を配り、ニコッと笑う。
「早く良くなってね」
「頑張ってリハビリしないとなぁ」
 そんな会話を交わしながら、二人は病室へと歩を進めていった。

**********

「あれ? ドアの前に誰か居るぞ?」
 やっとの事で自分の病室に戻ってきた智は、見知らぬ人物がドアの前に居るのを見付けて、傍らに居る芽衣に耳打ちしていた。だが、芽衣の方は、智とは違った反応を示していた。
「あ……あの人……」
「え?」
 智が彼女の意外な反応に軽く驚いていると、どうやら向こうも智たちを見付けたらしく、此方を向いて声を掛けて来た。
「よぉ、あの時のお嬢ちゃんじゃないか!」
「あ、その節は、どうも」
「……?」
 男は、ドアの前にもたれ掛かったままの姿勢でヒラヒラと手を振りながら、智ではなく芽衣に話し掛けて来た。
「あの時の要救助者が息を吹き返したって聞いたんでな、挨拶に来たぜ。もしかして、そのダンナが?」
「あ、ハイ……彼です。あの時、救助して頂いた……」
「え!?」
 今、何て言った? と、智は目を丸くする。
「芽衣……この人、誰?」
「あ、うん……自衛隊の隊員さんで、その……智、貴方を助けてくれた人だよ」
「……!!」
「ふぅん、随分とちんまい身体に収まったんだな? 拾った時は、もっとこう……精悍でガッシリした印象だったのに」
 上から下まで、嘗め回すように智の事を見回して、その男がまず放った一言がそれであった。
「あ、あの……俺を助けてくれた、って……」
 やっとの事で状況を把握し、智は搾り出すように言葉を発して質問を試みる。
「まぁ、廊下でするような話じゃない。中に入れてもらって良いか?」
「あ、はぁ……どうぞ」
 未だに驚きの表情を隠せないままの智が、とりあえずと言った感じで了承する。
「よっ、と……お邪魔するぜ」
 ドアの縁に頭をぶつけないように、身を屈めながら部屋に入って来る男。身長は2メートルを軽く超えるであろうか、かなりの巨躯だ。しかも彼は、戦場からそのまま駆けつけたかのような物々しい装備を付けたままだったので、その威容はまた凄い物だった。
「とりあえず自己紹介しとこうかな。俺は北見弦斗。さっき紹介があったが、自衛隊の隊員だ」
「あ……朝倉智です。助けて頂いて、どうも……」
「アハハハ……まぁ、緊張しなさんな」
 豪快に笑い飛ばす弦斗を見て、智は内心で『緊張じゃなくて、出かたが分からないだけなんだけど……』と思っていた。
「さて、ダンナの意識も戻ったって事で……簡単に事情聴取をさせて貰おうかな。あぁ、そう硬くならないで」
 と、弦斗は胸ポケットからノートとペンを取り出し、智から事情を聞きだそうと質問を始めた。
「状況っていうか……俺は、着陸姿勢に入る前にトイレに行こうと思って、個室に入ってドア閉めて……その時に『ドン!』って音がして……」
 フムフムと頷きながら、弦斗は慣れた手つきでメモを取る。
「じゃあ、事が起こった瞬間、アンタは一人だけ機体最後尾に居た訳だな?」
「ですね。俺以外に、あのタイミングでトイレに行った奴は居ないようだったから」
 パン、とノートを閉じて、弦斗は独白するように呟き始める。
「なるほど……だからアンタだけ、あんなトコに落ちてたんだな」
「……は?」
 ちょっと待て、トイレに行ってたのと、俺だけ皆と別の場所に落ちた事に、何の関連性があるんだ? と、智は更に頭を捻る。
「いや、アンタを見付けたのは俺だ、ってのはもう説明したと思うが……アンタだけ、墜落現場からかなり離れた所で遭難してたんだよ」
「それ、さっき彼女からも聞きましたが、どういう事なんです?」
「……あの飛行機……205便の機体には、3ヵ所にプラスチック爆弾が仕掛けられていたという事が、事故調査委員会の調べで分かったんだ。両翼の付け根と、尾翼の付け根……油圧パイプの集中してる箇所だな」
 声のトーンを落とし、弦斗は事故機の状況を説明しに掛かる。
「機体の構造上、尾翼の付け根に操縦系の油圧パイプが集中する。そこを破壊されれば、航空機は一気に制御を失うからな」
「成る程……だから、そこから更に後ろの位置に居た俺は、爆薬で吹き飛ばされて、部屋ごと機体から放り出されたって訳だ」
「着陸アプローチに入ってたから、高度が下がってたのも幸いだったな。ま、救命エアバッグが上手く作動してくれた、ってのもあるが」
 と、自分の肉体が完全に破壊されなかった理屈は理解したが、当然というか……他の乗客の常態も気になる智は、思わず弦斗に質問した。
「他の人たちは、どうなったんです?」
「聞かない方がいいぞ。DNA鑑定で身元が判明したっていう人が殆どだからな」
「……!」
 弦斗の短い台詞で、智は墜落現場の惨状を想像し、戦慄した。
「とにかく、お前さんはラッキーだったんだ。だから、これからの人生を大事にしろ。折角助かったその命、粗末にするんじゃ無いぜ。いいな?」
「……ひとつ、教えて下さい。俺はコアを分離された状態でここに運ばれたと聞きましたが、コアを分離したのは、一体?」
「俺だよ。俺は救急救命隊員の資格も持ってるからな、コア分離の簡易端末も操作できるのさ」
「そこまで、切羽詰ってたって事ですね」
「あと数分、措置が遅れたらヤバかったと思うぜ」
 聞けば聞くほど、智は『あの時トイレに立った事が自分の運命を大きく左右したんだな』と実感した。だが、ふと今になって気付いた事があった。
「そういえば……機体には爆弾が仕掛けられてた、って言ってましたよね。一体誰が、何の為にそんな事を?」
「……」
 暫しの沈黙の後、弦斗が重々しく口を開く。
「落ち着いて聞けよ……あの便の墜落はな、反統合政府運動のテロ行為だったんだよ。オマエさん達は、その犠牲になったのさ」
「……!!」
 驚愕のあまり、智は一瞬言葉を失った。
「バカな……日本ではまだ、統合政府に賛同するかどうかは未定のはず……」
「事件の2週間ほど前から、統合政府樹立派から議会に圧力が掛かり始めてな。世論が賛成派に傾くよう裏工作がされてたんだ」
「……」
「なるべく表沙汰にならないよう、内々で処理してたんだが……どこからか情報がリークして、アメリカに居たテロリストの耳に入ったんだな」
 そして、今回の事件の実行犯は中東某国の武装テロリストである事や、アメリカからの帰国便を日本国内に墜落させる事で、日本政府への見せしめ的な意味合いを持たせようとしていた事実などが弦斗の口から説明された。
「テロ行為があった事は、まだ内密になってる。市民がパニックになる事を恐れて、この件の真相については厳重な情報操作がされてるんだ」
「……それで、マスコミの取材も、警察の事情聴取も来ないんですね?」
「そういう事だ。まぁ、助けたよしみでアンタには話したが……分かってるな? アンタがあの事故……いや、事件の生き残りだって事も、全ては機密事項だ。絶対に喋るなよ? あの事件は、乗員乗客共に生存者なし……そういう事になってる」
「分かってます、ここだけの話にしておきますよ。しかし、これからはテロ行為、エスカレートしていくんでしょうか」
 智は思わず胸の内に沸き起こる不安を吐露していたが、それについて弦斗は冷静に回答していた。
「あの墜落事件以来、同様の事件は起こっていないし……テロリストとしても、日本国内じゃ行動は起こしにくいだろう。多分大丈夫だ」
「ホッ……」
 その答えを聞いて、安堵の表情と共に思わず声を漏らしたのは、芽衣の方だった。
「こんな事、二度とイヤだからね」
「俺だってイヤだよ」
「ま、ダンナも無事に生き返ったし、良かったな! って事で」
「死んでませんって」
 思わずジト目になりながら、智は洒落にならないジョークに軽く抗議した。だが、弦斗はそれもガハハと豪快に笑い飛ばすと、ポンと膝を叩いて強引に話を終わりに持っていく。
「っと、これ以上ヤバイ情報をリークする訳にもいかねぇし、そろそろ任務に戻らなきゃならねぇ」
「あ、はい。どうも、お世話になりまして……えぇと……」
 と、ここで智は、弦斗の名を呼んで挨拶をしたかったのだが、その名を度忘れしてしまったため、ヒョイと彼のドッグタグを盗み見てみた。
「……あれ? お名前……妙に長いですね?」
「ん? あァ、オヤジがロシア人でな。本名はこっちだ。面倒くせぇから、日本国内じゃ母親の性を名乗ってるんだ」
「あ、じゃ、それ……ロシア語? 何て読むんです?」
「『弦斗・コブリン・コルニーロフ』だ」
「何だか、舌を噛みそうな名前ですね?」
「だから、ここじゃ日本名の方を名乗ってるんだよ。北見弦斗ってな」
 なるほど、その巨躯も銀髪碧眼も、ロシア人の父親譲りだったのか……と、智と芽衣は納得していた。
「……っと、いけねぇ。長々と邪魔する訳にもいかねぇんだよ、仕事を抜け出して来てるからな」
「仕事、って?」
「来日してるアメリカ外相と、その御一行様の警護だよ」
「……だから、その装備なんですね」
 堂々と言い切る弦斗を見て、智は呆れたような顔になる。
「そういう事だ。サボりが見付かったら、まぁた減棒だからな。サッサと戻る事にするぜ。あぁ、次は非番の時に遊びに来るからな。譲ちゃんも、またな」
 と、手をヒラヒラと振りながら病室を後にする弦斗を見送りながら、智は思わずボソッと呟いていた。
「……俺、あの人に助けられた……んだよな?」
「うん。あの人が智の身体とコアを担いでここまで駆けつけたんだって……そう言ってた」
「あの人、どうして墜落現場からかなり離れた場所に居た、俺を発見できたんだろう?」
「あ……そういえば……そうだね?」
 何故、現場から遠く離れた位置で遭難していた自分が、絶命前に発見されたのか……その理由は、今の彼には分からなかった。
「それにしても……」
「ん?」
「あの人、歳は若そうだけど……妙にオッサン臭くない? 雰囲気が」
「あ、芽衣もそう思った?」
「うん。喋り方っていうか、仕草とかが……ね」
 二人とも、弦斗の仕草が自分達と同世代とは思えない……そんな感想を持っていたのだった。彼との会話は、どちらかと言えば上司や父親世代の人と話をしているような感触なのである。
「ロシア系……だっけ?」
「そう言ってたな」
「やたら長い名前だったよね……えーと……」
「ゴブリン……?」
「そうそう、確かそんな響きだったね」
 ……微妙に間違った覚えられ方ではあったが……その名も含めて、智の命の恩人の姿は彼らの胸にしっかりと刻み込まれたのであった。

**********

「サイボーグ!?」
「あぁ。俺も元は、2世代目ヒューマノイドだったんだがよ。アンタと同じように、事故で重傷を負ってな……」
 軽く流せる雰囲気では無い話を、弦斗は豪快にガハハと笑いながら語る。ちなみに今日は非番である為、私服を着ての訪問であったが、彼の体躯に適合する市販服は滅多に無く、新調するのに苦労するとかで、かなり着込んだ感じのシャツと、ダメージジーンズなのか本当にダメージを受けたのか、ハッキリしないクラシカルなパンツを穿いていた。
「1世代目だったらアンタと同じ選択肢もあったんだが、俺は2世代目だったからな。改造手術を受けて生き長らえるしか道がなかったんだ」
 彼が言うには、1世代目ヒューマノイドの恋人と一緒に旅行をしている最中に事故に巻き込まれ、互いに重傷を負い、自分は辛うじて意識があったために自ら改造手術を受ける決断をして生き長らえたが、恋人はコアを分離された状態のままで放置せざるを得ない状況だったという。
「って、それ……いつ頃の話なんですか?」
「ん? あァ……かれこれ20年前になるかな。あの頃22歳だったから……」
「……42歳な訳ですね」
「あァ、そうだな。それがどうかしたか?」
「いや、見た目若いのに、何か仕草がオッサン……あ!」
「……バカ!」
 思わず口を滑らせた芽衣を、智が制する。が、弦斗は気に留めた様子も無く、カラカラと笑い飛ばしている。
「まぁ、サイボーグって奴は見た目上、歳を取らんからなぁ。そのうえ、生身よりは頑丈に出来てるから……今の俺にはうってつけ、って訳だ」
「身体、張ってますもんねぇ……」
 元々がかなりの巨漢だった上、改造手術で全身の60%ほどを機械化してある弦斗は、その特徴を生かして自衛隊の特殊部隊に志願。常に最前線の現場に駆り出され、危険な任務も厭わずに出動していくという。
「……あ、だからかな?」
「何が?」
「いや……例の事件で、俺だけ離れた所で遭難してたのに、良く発見されたなぁ、って。もしかして高性能なセンサーでも付いてるのかなぁと」
「はは、そんな高級装備は付いとらんよ。アレは、ちょっとした偶然なんだ」
「偶然……?」
 ベッドの傍らでリンゴの皮を剥いていた芽衣が、智に成り代わって聞き返す。
「あぁ。警察の特殊部隊と俺たち自衛隊の本隊は、まず墜落現場を特定してそこに向かうよう指示されたんだな。けど、俺達の部隊には、爆散した胴体後部の落下地点を特定せよ、という指示が下ったんだよ」
「成る程……そこに偶然、俺が居たって事ですか」
「そういう事だ。だから、胴体部分の火災に巻き込まれる事も無く、生き残ることが出来たって訳だな」
「今思うと、すっげぇ偶然ですね……あの時トイレに立ってなければ……」
「運も実力のうちだぞ。運でも何でも良い……生き延びられれば勝ちなんだ。とにかく、命は大事にする事だ」
 ニッと笑って、弦斗は意味ありげな一言を智に向ける。
「……そう言う割りに弦斗さんって、危険度の高い現場にばかり行ってません?」
「ん? あァ。難度の高い現場は、危険手当が高いんでな」
「手当……お金ですか?」
 弦斗の口から飛び出した意外なキーワードに、二人は軽く驚いた。
「なにしろ、ヒューマノイドの身体ってのは高価いからな」
「……! そっか、恋人さんが……居るんでしたね」
「ま、つまらない拘りなんだがよ。コイツを……あの時と同じ姿で、この世に甦らせてやりたいんだ」
 ペンダントのボタンを押すと、そこにホログラフィー映像が浮かび上がった。長いブロンドの髪を持った、美しい女性だった。
「アリーシャ……」
「綺麗な女性(ひと)ですね……」
「あ、あァ……ま、まぁな……」
 思わず本音で感想を述べた芽衣の一言に、弦斗は本気で照れていた。
「弦斗さん、意外とウブなんですね?」
「バッ、バカヤロ! そんなんじゃねぇやい!!」
「顔、真っ赤ですよ?」
「う、うるせぃ!」
 本当に真っ赤になりながらホログラフィーを隠してしまう弦斗を見て、智と芽衣はクスッと笑う。そして、人にはそれぞれに、それぞれの人生があるんだな……という事を、智は再認識していた。
「とにかく、今回の事件に巻き込まれたおかげで……俺、統合政府樹立運動そのものを素直に受け入れられなくなりましたよ」
「んー……そりゃ、トバッチリを食った訳だからな。無理もねぇか。でも、今回テロを起こしたのは運動反対派だぞ? そっちに付くのか?」
「いや……俺はどっちも支持しませんよ。むしろ、この運動自体が白紙になればな、と思ってます」
「……なるほどな……」
 国際的な事業として見れば、とてつもなく大掛かりな運動ではあるのだが……一市民にとって見れば、まるで雲の上を覗くような話には違いない。増して、そんな夢物語を追う者たちに殺されそうになったとあっては、運動そのものを敵視しても無理は無いな……と、弦斗は智の心情を読んでいた。しかし、未だに内紛の絶えないユーラシア大陸の中で生まれ育った彼が、この運動の成功に一縷の望みを託していたというのは……今の智には言える筈がなかった。

第二章 彼女

「え? ……事務見習い……ですか?」
「あぁ。お前が居ない間に、吉村さんが寿退社したんでな」
 智が職場復帰して間もなく、彼の職場に、寿退社した事務員の穴埋めとして中途採用の新社員を入れる事になった。なお、智と、彼と共に行動していた同僚はあの事故機ではなく別の便で帰国、その後に交通事故に遭って智だけが助かった……そのように情報操作され、会社にもそのように報告された。
 部内の1名が死亡、1名が肉体を喪失して生存……このような大事件であったため、暫く重苦しい雰囲気が漂っていたが、当の本人である智の働きかけにより、事故の事は早く忘れよう! と言う風潮が広まり、今に至るのだった。
 事故から半年あまりが経過し、その傷跡も癒えた頃になっての、女子従業員の補充という決定である。独り身の男性社員が浮き立たないわけが無かった。
「何か、若い女らしいぜ……ふふっ、久々に職場に潤いが戻ってくる……」
「……その飢えた視線を何とかしなきゃ、ダメだと思うぜ?」
「ウルセェよ! 彼女が居る奴は黙ってろ!!」
「ハイハイ……」
 同僚の必死すぎる姿に、智は苦笑いを浮かべつつ応対していた。まぁ、独り者の巣窟に若い女性が入って来るとなれば、こうなるか……と、ある意味余裕を持ったスタンスで、彼は上司に先導されて入室して来るその女性の姿を目で追っていた。
「小田原……美樹です。宜しくお願いします」
 彼女が自己紹介を終えると同時に、一部の男性社員から喝采が起こった。それもそのはず、彼女はスラリとした小柄な身体に豊かな胸を持ち、顔かたちはこれでもかというほどに整った美形。独り者の男性社員が狂喜するのも無理は無かった。
「……ん?」
 男性社員たちが妄想を膨らませるのに夢中になっている最中、智は、挨拶を終えた新入社員から視線を向けられているのに気が付いた。
(気のせい……かな? 彼女、こっちをジッと見てたような……)
 智と目が合うと、彼女はフイと視線を逸らし、何事も無かったかのように振舞った。しかし彼女は、指導役となる女子社員に先導されて退出する前に、もう一度彼の方に目線を送った。無論、智もそれに気付いていた。
(気のせいじゃ無い……な。確かにこっちを見てた)
 彼女が自分の方を見ていた、それは確かだった。が、こちらからそれを確認するのも、理由を問い質すのも、今の状態では難しい。なにしろ彼女は今、大多数の男性社員の注目の的だ。不用意に声を掛けようものなら、変な誤解を招きかねない。
(ま、慌てる事は無いか。用があるなら、向こうから声を掛けて来るだろう)
 その時を待って、理由を問い質しても遅くは無い……智はそう考えた。が、その機会は、存外に早く訪れるのであった。

**********

「……完全に、酔い潰れちゃってるな」
「こんなに酒に弱いとは、思わなかったな」
 歓迎会の席で、アルコールに負けて熟睡してしまった美樹を囲んで、男性社員たちは途方に暮れた。
「どうする? 送ろうにも、住所を知ってる課長は先に帰っちゃったし……」
「流石に、放置して帰る訳にも行かないしなぁ」
「こりゃ、誰かが代表してホテルか?」
「そりゃあマズイだろ」
 競って美樹の恋人の座を狙った男子社員たちではあるが、流石に出会った初日に、しかも泥酔状態の彼女を連れて一泊しようだなどと考える者は居なかった。確かに彼女の体を楽しむチャンスには違いない。が、それが一時的な快楽に過ぎない事を、皆知っていたからである。
「俺の彼女に頼んでみるよ。同姓の家にだったら、泊めても問題ないだろ?」
「それしかないかな。スマン朝倉、交渉してみてくれ」
 彼らが導き出した打開策がそれであった。つまり、智の恋人……芽衣の家に美樹を預かってもらおう、と考えたのである。
 交渉はスンナリ成立し、美樹は芽衣の家に泊まる事となった。無論、そんな事になっているなどとは本人は知らないままではあるが、そんな事を言っている場合では無い。第一、本人が意識を回復しないのだから仕方がない。
「しかし、ビール一杯でコレとはねぇ」
「今後の参考になったじゃないか。ま、この程度の酒量なら、最悪でも明日、二日酔いになるぐらいで済むだろ」
「うん。彼女に酒は禁物、って事だな。明日が土曜で良かったな」
 などと話している間に、電話で呼んだタクシーが到着。送り役の智が同乗し、芽衣の家へと向かった。

**********

「……う、うーん……」
「あ、起きた?」
「……!?」
 見慣れぬ部屋で目覚めた美樹は、その直後に見知らぬ女性に声を掛けられ、一瞬軽いパニック状態に陥った。
「ここは……? 一体何が……?」
「アハハ、覚えてないかー。しょうがないね、グッスリ寝てたもん」
「寝てた!?」
 美樹は必死に、意識を失う前の記憶を辿っていた。確か自分は、歓迎会の席で、主役として挨拶をして、その直後にビールで乾杯して……
「……そっか、あのビールで酔い潰れちゃったんだ」
「メチャクチャ弱いねー。コップ一杯で寝ちゃうなんてね」
 芽衣は明るく笑いながら応対し、酔い覚まし用にとスポーツドリンクを用意している。そんな様子を見ながら、美樹は考えていた。
(この身体、凄くアルコールに弱いんだ……気をつけなくちゃ)
 俯いて考え込む美樹を見た芽衣は、またも明るく笑う。
「アハハ。まぁ、智から電話が来た時は、流石にビックリしたけどね」
「智? もしかして、朝倉さんの事?」
「うん。私、智の彼女で、芽衣っていうの。よろしくね!」
 自身も少し酒を帯びているのか、芽衣はやや高めのテンションであった。だが応対は決して荒っぽくはなく、むしろ手馴れた感じで、的確に泥酔者への措置をこなしていた。恐らく、大学のコンパで鍛えられた結果であろう。
「あ……わ、私は……」
「聞いてるよ、小田原さんでしょ? 小田原美樹さん」
「……ええ。ゴメンなさい、見ず知らずなのに、いきなりこんな……」
「気にしなくて良いよ。ところで、頭痛くない? 大丈夫?」
 すっかり恐縮している美樹にスポーツドリンクを勧めながら、芽衣は明るく接した。
「……少し。でも大丈夫ですから」
 正直、まだ少々揺れる視界を気力で支えながら、美樹は必死に笑顔を作って応える。
「無理しないで、辛かったら寝ててね。あ、水分はたくさん補給した方がいいよ」
「あ、ありがとうございます」
 差し出されたスポーツドリンクを、少しずつ胃に流し込む。
「美味しい……」
「でしょ? やっぱりお酒の後はスポーツドリンクよ」
 無論、飲んだ直後に効果が現れるわけは無いのだが、不思議と気分が良くなって、スッキリしていくような感じがする。やや緊張気味だった美樹も、芽衣の飾らないが気遣いを忘れない応対と仕草に釣られて、徐々にリラックスしていった。
「あ、ところで……今、何時ですか?」
「1時過ぎだよ。もうちょっとしたら、私も寝ようと思ってたんだ」
 その台詞を聞いて、ハッと気付く。この部屋にベッドは一つしかない。それを自分が占領していたら、彼女はどこで寝るんだ……と。
「ご、ゴメンなさい……ベッド、一つしかないのに」
「え? あー、大丈夫だよ。あっちのソファーもベッドになるから」
 そう言って、芽衣は部屋の向こう側にあるソファーを指差す。もう寝る準備を整えてあったのか、既にソファーは両端を倒してフラットに変形してあり、そこに毛布と枕が用意されていた。
「わ、私がそっちに行きますから……」
「いいんだよ。具合が悪い人がちゃんとしたベッドで寝なきゃ。それに、しっかり介抱しないと、智に怒られちゃう」
「あ……」
 美樹は『そうか、この人は朝倉智の恋人なんだ』と再認識した。そして、自分がどうしてその職場に入り込んでまで、彼との接触を望んだか……その理由を考えたら、この状況はむしろチャンスではないか? と気付き、彼女は芽衣に話し掛けた。
「あの……芽衣さん?」
「え?」
 寝間着に着替えようとしていたのか、洋服のボタンに手を掛けていた芽衣が、そのままの格好で振り向く。
「朝倉さんって、前はどんな姿だったんですか?」
「!?」
 それまで、ニコニコと笑っていた芽衣の表情が一瞬で凍りつく。
「古い同僚の方なら、昔の彼を知っているんでしょうけど……私、航空機事故で肉体を取り替える事になった事情しか、知らないもので……」
「ちょ、ちょっと待って! どうしてそれを知ってるの!?」
 芽衣の回答は、美樹の質問を質問で返す形になってしまった。だが、無理も無い。それほどに、美樹の一言にはインパクトがあったのだ。彼は交通事故で肉体を破損し、代替の肉体で蘇生した……このように情報操作されていたはず。だが、彼女は今、確かに『航空機事故』と言った……
「今の彼の身体には……以前は、私が入っていたんです」
「も、もう一回言って?」
「朝倉さんの身体は、元は私の身体だった……と言ったんです」
 その言葉を聞いた直後、芽衣は完全にフリーズしてしまった。
「私の名前も、本当は『みき』ではなく『よしき』と読むんで……って、芽衣さん? 聞こえてます?」
 目の前で茫然自失となっている芽衣を見て、美樹は初めて自分の発言が相当なショックを与えると言う事に気付いた。しかし、彼女もそれほど必死だったのだ。事情を鑑みれば、それを責めるのは酷であろう。そして、芽衣が話を出来るまでになるまで、かなりの時間を要したのであった。

**********

『……はぁ!? 俺が小田原さんだって、どういう意味だよ芽衣?』
「だからぁ、智と入れ替わりで美樹さんが……」
『益々ワケわかんないって』
 美樹から事情を聞いた芽衣は、慌てて智に電話を掛けた。歯ブラシを咥えたままの智のホログラフィー映像が、更にマヌケな表情を作り出す。
「私から説明します。いいですか?」
 その様子を見かねた美樹が間に入り、すっかりパニック状態の芽衣に代わって説明を始めようとした。
『あ、あぁ、うん』
「……まず……朝倉さんが事故に遭って入院していたのと同じ時期に、私も入院してたんです」
『うん』
「その時、私も……コアを分離して治療を受けてたんです……」
『ん? って事は、君もヒューマノイド……あれ? 待って、まさか!?』
 直球を避けて少しずつ事実を明かす美樹の説明を聞き、そして智はある結論を導き出す。そして、その推測は正しかった。
「ご推察の通りです。その身体は、元は僕の身体なんです」
『……どうして、君の身体がこっちに回ってきたんだ?』
「書類上の手違いで、僕にこの身体が手配されたんです。名前が名前だから、ダウンロード担当の技師も疑わず、そのまま……」
 説明を続ける美樹の声も、段々とトーンが落ちてくる。
「本来ならば、一年待って再手術するはずだったんですけど、僕の事が判明する前に、朝倉さんのオペが実施されて……」
『君の身体に、俺が入れられた、と……こういう訳か』
 種を明かせば、極めて単純なヒューマンエラーであった。しかし、医療機関が起こしたミスとしてはあまりにも間抜けで、お粗末と言わざるを得ない事例に、被害者である二人はそれぞれに腹を立てた。
「とりあえず、今からそっちに行く。電話だと盗聴される恐れがある」
「その方が良いですね……芽衣さん、宜しいですね?」
「え? あ、うん……」
 やっとの事で状況を飲み込んだ芽衣の承諾を得て、智は再び芽衣の家に行く事になった。時刻は午前1時半を回ったところ。酒気帯び状態である為に自力で運転する訳にも行かず、彼は急いでタクシーを呼び、移動を開始した。

**********

「まず、病院の中央管理センターに問い合わせよう。これは立派な事件だよ、プライバシーと人権の侵害だ」
「ですね。この身体を捜すために、どれだけ苦労をしたか……」
 代表して智が、手術を担当した病院の管理センターに電話を掛けた。深夜ゆえに係員の数も減らされており、対応に時間が掛かり、彼らはかなり待たされた。だが、その結果、やっと返ってきた回答が『重要機密に抵触する為、対応は出来ない』というものだった。これでは話にならないと、更に食い下がる智だったが……病院側から一方的に電話を切られてしまい、そこで通話は強制的に終わりにされてしまった。
「酷い対応だな」
「入院してる時もそうだったけど……ちょっとやり過ぎな感じはするね」
「俺の名前を出すと、ダメみたいだな」
「やはり、あの事故はただの事故ではなかったんですね?」
「……!?」
 美樹の台詞を聞いて、一瞬にして凍りつく二人。特に芽衣は、先程の告白の時以上に狼狽していた。
「君は一体、何処まで知っているんだ?」
「朝倉智と言う男性が、『あの』205便に乗っていた事までは知っています」
「……!!」
 智と芽衣は絶句した。情報操作は完璧だったはず。なのに、どこかでリークしている……一般人の調査で露見してしまうような杜撰な管理で、機密保持も何もあった物ではないと、二人は先程とは違う理由で憤慨していた。
「明日にでも、弦斗さんに相談してみよう。これは、俺達だけで解決できる話じゃなさそうだ」
「そうだね」
「教えてください。どうして嘘の報道をしてまで、真実が隠されているんですか? 機密って何なんですか?」
 美樹の質問に、智たちはすぐにでも答えたい気持ちでいっぱいだった。だが、今ここで答えてはいけない、自分達が口を割る訳には行かない……と、グッと堪えた。
「済まない……それを、俺たちの口から言ってしまう訳にはいかないんだ。明日、自衛隊にいる知り合いを通して、指示を仰ぐ。それまで、答えは待って欲しい……頼む」
「……分かりました」
 残念そうな表情をしながらも、智たちの気持ちを汲み取って、美樹は素直に引き下がる。そしてふと芽衣が時計に目をやると、既に午前4時近くになっていた。
「遅くなっちゃったね。智、泊まってく?」
「そうして貰えると助かるかな。今からじゃタクシー拾うにも一苦労だし、明日は早くから行動しないとならなさそうだからな」
 そう言って、なんの躊躇いも無く抱き合いながら狭いソファーベッドに寝転がり、毛布を被る智と芽衣の二人。
(じ、自分の体でああいう事をやられちゃうと……ちょっとなぁ……)
 そんな二人を、美樹は複雑な表情で眺めるのであった。

**********

 翌日、土曜の昼過ぎ、智たち3人は陸上自衛隊の駐屯地の中にある、会議室に通されていた。室内には航空会社の幹部役員、事故調査委員会の係員、そして直接救助に当たった自衛隊の面々、それに幕僚たちが顔を連ねていた。
「小田原美樹さん……あなたは何処で、朝倉智さんが航空機事故により負傷した事を知ったのですか?」
「ネットで、彼の名をキーにして検索した結果、当該便の乗客名簿がヒットしたのです」
 事故調査委員会からの質問に、美樹が答えた。その回答を聞いて、質疑者側にどよめきが起こった。
「何故、ネットで検索しようと考えたのですか? 病院に事情を説明すれば、朝倉さんとのコンタクトは可能だった筈では?」
「いや、それは無理です。本件は重要機密ゆえ、病院は勿論、各機関にも厳重な緘口令を敷いてありますので」
 美樹が回答する前に、自衛隊の幕僚長付き高級士官・伊藤聖司一等陸佐が答えていた。機密というキーワードを出されては、事故調側も深く追求は出来ない。
「そう、病院で聞いても、何故か自分の身体を誰に提供したかすら、教えてはもらえませんでした。ですが偶然、病室のドアの隙間から、自分の顔を見つけたのです。つまり、ベッドの上で談笑する朝倉さんを……」
「成る程……それで、彼の名前を知るに至った訳ですね?」
「はい。ですが、その時に出て来た自衛官の方に咎められ、訪室は認めてもらえませんでした。その後も、何故か彼の病室には入る事が出来ず、手をこまねいているうちに、朝倉さんは退院してしまいました」
 そう回答をしながら、美樹はチラリと弦斗の方を見る。その視線を受けて、弦斗はポリポリと鼻の頭を掻く。そう、その時の自衛隊員とは、紛れもなく弦斗の事だったのだ。
「ネット検索に頼った理由は、本名で個人ブログを開いている方も居るので、そういった手掛かりだけでも無いかと思ったからです。事情を説明すれば身体を返して貰えるかも知れないと思い、執拗に追跡したのです。その後の経過は、先程お話した通りです。名簿は、ブラウザで閲覧可能な画像ファイルで公開されていました」
「相手の名前が分かっていたのなら、興信所などを利用する事も出来たのでは?」
「探偵を雇うお金などはとても……入院代だけで精一杯でしたから」
 美樹の報告は以上だった。が、事故調、航空会社の各面々と自衛隊幹部は、深刻な面持ちで唸るばかりであった。
「本件がテロ行為であると判明した時点で、一切の情報は機密扱いとなり、持ち出しは厳重に取締りの対象となった筈」
「左様。同時に情報操作を行い、生存者の存在は秘匿された」
 自衛隊幹部の発言に呼応し、事故調が情報操作を行った事を強調する。その発言に、芽衣はウンウンと頷く。なにしろ、彼女もその緘口令を受けた中の一人なのだから。
「テロ……!?」
 事故調の係員の発言に、美樹が反応する。一同は『しまった』という顔になるが、やがて弦斗が挙手し、意見具申した。
「彼女……もとい、彼……小田原美樹さんは、病院側のミスによって違う肉体にコアをダウンロードされ、その間に本来の肉体を本件の生存者である朝倉智さんに横取りされる形になった、いわば間接的な被害者です。この件の関係者であることを証明出来ない限り、彼は本来の肉体を取り戻す事が出来ません。よって、彼も事の真相を知る権利を充分に持ち得ると思われます」
 シン……とする幹部連。だが、事故調の係員が呟くように漏らした一言を皮切りに、場の空気が動き出した。
「小田原氏は、既に205便についての報道が虚偽の物である事を暴いている……」
「ふむ……事情が事情だけに、問題が解決するまでは個人的な追及を繰り返すでしょう。その行程でデマが拡散するよりは、我々の口から真相を伝え、その上で緘口令を敷いた方が良いかと……如何でしょう?」
 航空会社の役員がそれに呼応し、自衛隊の幕僚に目配せを送る。それを受けた幕僚は、暫し目を伏せて考え込んで居たが……やがて静かに口を開き、美樹への真相の公開を許可した。そして、事故調側から改めて、美樹に対して事の詳細が説明された。その真相を知った美樹は、驚きのあまり暫し放心していた。
「単なる事故じゃなく、そんな大規模な事件だったなんて……」
「俺もビックリだったよ。でも、これが真相なんだ」
 真っ青になる美樹に、現実を直視しろ……という意味を込めて、智が言葉を添える。
「……宜しいですかな? では、会議を再開します。機密保持について、航空会社側ではどのような措置を取っていましたか?」
「当該便の乗客名簿は、ネット上の電子複製版は勿論、原本も廃棄済みです。漏洩など、ありえる筈が無い」
「ですが、現実にこうしてリークしているではないですか!?」
 航空会社側の発言に、事故調の代表が声を荒げる。が、それを意にも介さず、弦斗が美樹に直接問い掛けていた。
「なぁ、アンタ。さっき、この旦那の名前で名簿がヒットした、って言ってたな?」
「え? えぇ……それが?」
「おかしいじゃねぇか? 画像ファイルに、どうやって検索キーワードを埋め込むんだよ」
「あ……!」
 自衛隊、事故調、航空会社の面々が、一斉に緊張し、そして口を閉ざす。
「……朝倉氏の名前を知る者でなければ、この情報で検索に引っ掛かるキーワードは作れない……」
「そして、同時に朝倉氏の生存を知る者でなければ、この発想は得られない……」
 テロリストによるハッキングか、それとも調査関係者からのリークか、それは分からなかった。だが実際に、情報は漏洩している。しかも、一般人の手による検索に引っ掛かるレベルで、である。無論、それは智の名前を知る者でなければ、そこに至る事の無い情報であり、ヒット率は低い。だが、これは紛れも無く機密の漏洩に他ならず、極めて深刻な事態であった。
「その時に行き当たったファイルの名前を、思い出せますか?」
「いえ、内容の方が重要だったので……」
「何というキーワードで検索しましたか?」
「『朝倉 智』のみです」
 そのキーワードを傍らの端末に入力し、ひたすら検索を繰り返す係員。だが一向に当該ファイルには行き当たらない。何しろ、そのワードを含む単語など、星の数ほどあるのだ。
「そのファイルに行き着くまでに、どのぐらい掛かりましたか?」
「2時間……ちょっとですかね?」
 その回答を聞いて、一堂は唖然とした。かなり深く検索しないと、そのファイルには行き当たらないという事になるからだ。
「……頑張れ」
「はい……」
 上司が貧乏くじを引いた係員の肩をポンと叩き、会議は一時休憩となった。その係員を除いては……である。そして数時間後、漸く美樹が見付けたというファイルに到達し、その証言が事実である事が証明された。何と、そのファイル名は彼の名を分割し、まるで関連の無い語句の中に埋め込んだ、暗号のように訳の分からない漢字の羅列となっており、その末尾にページ番号が振られていた。なかなか見付からないのも当然である。しかし……
「鮮明な画質だ……しかも、ページの欠損が全く無い」
「完璧なコピーですね。これは、実際に名簿を手にした事のある人物にしか出来ない芸当ですよ」
 一同は固唾を呑んで画面に見入っていた。だが、ボヤボヤしている場合ではない。早速警察に通報、プロバイダに対して当該ファイルの削除を命じるよう依頼した。
「とりあえず、彼女が見付けたファイルは削除できたが……」
「ええ、一度ネットに漏洩した情報は回収不可能とまで言われてますからね」
 事故調内にインターネット捜査担当班が組織され、懸命なる捜査が開始されたが……彼らは皆、真っ青な顔をしていた。何しろ相手は画像ファイル。名前を変えられてしまえば、無限大の確率で拡散される可能性を秘めている。太平洋の真ん中でメダカを探すようなものだ。むしろ、美樹によって当該ファイルが発見された事の方が奇跡に近かったのである。
「しかし、あのファイルに行き当たったのも凄いが……どうやって勤務先まで調べたんだ?」
「うん、あの名簿には、名前と住所、それに座席番号しか載ってないのに」
「え? 住所が分かれば後は簡単じゃないですか。後をつけ……ムグッ!」
 サラッと危ない事を言いそうになった美樹の口を、弦斗が慌てて塞いでいた。
「お前さんが執念深いのは良く分かった。だが、その先は言っちゃならねぇ」
「うん。ストーキングされてたのは水に流すから、もうやらないで……な?」
「こ、こういう場合じゃなきゃやりませんよ、こんな事……」
 美樹の場合、智の住所までは探り当てたのだが、如何にして接触するかで悩んだのだった。何しろ、ヒットしたのは『あの』205便の乗客名簿だったのだ。同姓同名の別人かも知れない。しかし、もしかして……という可能性に賭け、その住所に赴き、住人の顔を見たら……案の定、元の自分の身体がそこにあった。早速コンタクトを取り、事情を説明して……と思ったが、ちょっと待て? いきなりこんな話をしても門前払いになるに決まっているし、しつこく押しかけて警察沙汰にでもされたらたまらない。ならば、まずは仲間になるところから始めればいい……と、こういう結論に至り、結果としてそれは成功だったのである。
「でも、弦斗さん。随分と大事になっちゃいましたね?」
「あぁ、面倒な事になった。まさか、あんなもんがリークしちまうとはなぁ」
「そのお陰で僕は、こうして元の身体を見付ける事が出来た訳ですが……でも、一体誰が、何の目的で?」
 その美樹の疑問は尤もだった。その情報を見て得をする者など居そうに無いし、特定の人物に対する嫌がらせとも思えない。そして、最大の疑問は漏洩箇所だ。何処から漏れたのか? それによって目的の規模も質もガラリと変わる。だが、航空会社から漏れたとは考えにくい。それは即ち、自社の信頼を貶める事に直結するからだ。かと言って、事故調や自衛隊内部からの漏洩も考えにくい。しかし、この3者のどこかに犯人が居る可能性は否定できないのだ。
「外からのハッキングだろう、多分」
「それが一番濃厚ですね。内部から漏らしたとしても、誰にもメリットありませんし」
「僕もそう思います」
「……」
「……な、何です!?」
 美樹の発言の後、彼女……いや、彼を除く3名が一斉に同じ事を指摘した。
「なぁ……」
「頼むから、その姿で……」
「『僕』はやめて……メチャクチャ似合わないから!」
「なっ! 何を言い出すかと思ったら……シリアスぶち壊しじゃ無いですかっ、もう!」
 真っ赤になって膨れる美樹を見て、3人ともゲラゲラと笑った。それぞれに、ずっと言いたいのを我慢していたのだろう。
「アハハ、悪い悪い。でも、外じゃ女で通してもらわなきゃ困るんだ。一人称には気をつけてくれよな」
「大丈夫ですよ、僕……いや、私にだって、この容姿に男の一人称が似合わない事ぐらいは分かりますから」
 膨れたまま、美樹はプイと横を向いてしまう。そんな彼に、弦斗が更に追い討ちを掛けて遊ぶ。
「そう怒るなよ、ミキちゃん」
「ヨシキですっ!」
 そう言いながら、美樹が恨めしそうに智の顔を凝視する。
「そ、そんな顔で睨まれても困るよ。俺だって、望んでこの身体に入ったんじゃないんだから」
「う~……早く半年経たないかなぁ……」
「ま、参ったな……弦斗さん、あんまりからかわないで下さいよ」
 怒る美樹と、困る智を交互に見ながら、ガハハと笑う弦斗。が、お笑いはそこまでだった。彼はひとしきり笑ったかと思うと、キリッと顔を引き締めた。
「今日はお疲れさん。ショックな出来事が続いたとは思うが、気を落とさないで頑張ってくれ」
「大丈夫ですよ。私たちの問題は、半年後には解決するんだし」
「そうそう。それに大変なのは寧ろ、あの方々でしょ?」
 重い足取りで帰路に就こうとする事故調の面々を目線で追いながら、智がさも気の毒そうに言い放つ。
「え? 類似画像検索ソフトもあるし、そんなに大変じゃないんじゃない?」
 芽衣が頭に疑問符を浮かべながらボソッと呟き、美樹もそれに対して頷いている。が、即座に智からツッコミが入る。
「あのソフトは、元の画像があってこそ役に立つんだ。さっきの彼、ヒットした画像をダウンロードしてたか?」
「……あ」
「まぁ、連中も相当泡食ってた、って事さ」
 弦斗が苦笑いを浮かべながら呟いたその時、横に居た美樹が突然、事故調の係員の元に走っていった。
「あ、あのっ、私がダウンロードしたファイルが残っていますが、役立つでしょうか?」
「ほっ、本当ですか!?」
 その様子を見ていた智たちは、成る程、最初にアレを見つけたのは奴だったな……と、一斉に頷く。しかし、問題はファイル自体の拡散よりも、何処の誰が、何の目的で公開したのかという事の方が重要なのだと、そこに居た全員が理解していた。
 なお、美樹も既に事件の真相に行き着いてしまった為、病院側の責任に於いて、朝倉智には新たな肉体を探し、小田原美樹は元の肉体に戻すという処置が、自衛隊側からの指示で実行される事になった。
「……半年で済んで良かったね」
「ええ。あまり年月が経ってしまうと処理も面倒になるでしょうし、各々がそちらの肉体の方に馴染み過ぎてしまいますから」
「それに、智にその身体を預けっぱなしにしといたら、マッチョメンにされてたよ?」
「え!?」
 芽衣の何気ない一言に、美樹は青ざめる。
「さっきの質問の答え……ほら、これが昔の智だよ」
 芽衣は未だロケットのホログラフィーに入ったままになっていた、以前の智の姿を映し出した。それを美樹は何ともいえない表情で見詰めている。
「安心して。事情が分かった以上、この身体を必要以上に鍛えたりはしないし、乱暴に扱って傷つけたりはしないから」
「……そうして貰えると助かります……」
 どうやら美樹は、筋肉質な肉体はあまり好きではないようだ。ともあれ、彼らに改めて措置が為されるのは少なくとも半年後、つまりコアを肉体に入れてから1年が経過した後でなくてはならない為、それまでは現状のままで過ごす事になったのである。
「北見二尉! 必要以上に民間人と接触する事は禁じた筈だぞ」
「も、申し訳ありません、一佐殿! ……すまんな。立場的にヤバいんだよ、俺がアンタらと私的に話すのは。また今度、次は上役の目の届かない所でな」
 伊藤一佐から叱りを受けて、弦斗はそそくさと退場して行った。その姿を見て、三人は『嫌な事件に巻き込まれたものだ』と顔を見合わせて溜息をついていた。

**********

「ふぅ……」
「お疲れ様、コーヒーでも如何?」
「有難う」
 言葉少なく、智は美樹が手にしているトレイからコーヒーカップを受け取り、一口その香りを楽しんだ後、カップを机の上に置いて、目頭を強く押さえた。
「あまり根を詰めると、身体に毒だよ?」
「分かってるさ……けど、コイツを早く仕上げちゃわないと、チーム全体に迷惑が掛かるからね」
 彼の目の前には、複数の画面が宙に浮いて表示されていた。その何れもが、プログラムのソースリストと、その実行画面と思しき物を表示しており、現在の彼の忙しさを物語っていた。だが、一つだけ何やら違う作業の経過を映し出す画面があり、美樹はそれに注目した。
「やはり、同じキーワードでは見付からない?」
「あぁ。他にも便名、航空会社の名前なんかも試したけど、どれもアウト。本職の方々もまだ獲物を見付けていないようだし、関連情報は出回って無いと考えた方が良いんじゃないかな?」
 智は、名簿が出回っているのなら、他にも流出している情報があるのではないか? と考え、検索ロボットプログラムを自作し、考えられる全てのキーワードを入力してネット上を洗っていた。だが、有効な結果は得られないままだった。また、彼が『本職』と称した事故調に於いても、事件に携わった者全員に対する厳しい聞き込み、及び墜落現場に残留する証拠物件の調査を強化し、多方面から『獲物』を探していた。しかし機密事項ゆえに極秘裏に動かねばならず、捜査は困難を極めた。
「あの名簿流出は、ただの悪戯だったんじゃない?」
「悪戯にしちゃ、やり過ぎだろう。それに、やった奴は確実に、俺が生きていると知ってるんだぜ?」
 その一言を聞いて、美樹は神妙な面持ちになる。智の名前と205便の因果関係を知らなければ、あの手口は思い付かない。それに、その関連性を知っていたとしても、情報そのものが無ければあんな事は出来ない。つまり、智の救助から蘇生に至るまでのプロセスを詳細に知っている者に、犯人は限定される……という事になるからだ。
「名簿も、アレ以外は出て来なかったんだよね?」
「ああ。俺も同じ画像で検索してみたが、戦果ゼロだった……あーあ、わっかんねぇなぁ……」
 大きく伸びをする格好で、智は天井を見上げる。
 あの墜落がただの事故であれば、それほど気にするような事態ではない。名簿が流出した件についても、単に『杜撰な管理』と叩かれるだけで終わる。だが、あの事件はテロの一端である。その関連情報の拡散に、自分の名前が使われていた……智としては、これを放置は出来なかったのだ。
「気持ちは分かるけど……程々にね?」
「そうだな。こっちばっかりに気を取られて、本業がお留守になってちゃ、話にならないし……な!」
 パン! と両頬を軽く叩き、デスクトップ上の画面との格闘を再開する智。だが、相変わらず検索ロボットは動いたままだ。
(余程、気にしてるんだな)
 自分の行動が無ければ、情報流出の事実も明るみには出なかった。が、それが問題の早期発見に繋がったのは、単なる偶然に過ぎない。美樹は、結果的に自分の所為で智を苦しめる事になったのだと、それを気にしていた。
(せめて、彼の気を紛らすぐらいの事は、してあげないとな……)
 しかし、美樹のその気遣いは、社内に於いて不穏な空気を作る元凶となっていたのだった。

**********

 会社に泊まりこむこと3日目。智たちソフトウェア開発チームの面々は、疲労のピークを迎えていた。ある者は栄養ドリンクの空き瓶に埋まり、またある者はプログラムがテストに回っている僅かな時間を利用して少しでも仮眠を取ろうと、アイマスクと耳栓を装備して体力の温存に努めていた。智も例外ではなく、徐々に虚ろになっていく意識を何とか気力で支えつつ、必死にキーボードに喰らいついていた。が、睡眠不足から頭痛を誘発し、我慢が出来なくなった彼は、携帯していた頭痛薬を服用する為に、自販機にミネラルウォーターを買いに行こうとして席を立った。
「工程に無理がありすぎなんだよ、納期に対して工数が足りなさ過ぎるんだ……これだから現場を知らない設計者は……」
 ブツブツと文句を言いながら、智がベンチに腰掛け、せめて眩暈が治まるまで休ませて貰おうと目を閉じた、その時。鈍い音を立てて、彼の側頭部に硬い物がぶつかった。しかも、丸みを帯びた物ではない。何か、箱のような物の角だ。
「つつつ……な、何だぁ!?」
「おぅ、わりぃな朝倉。こっちもフラフラでよ。つい、よろけちまった」
 プラスチック製のケースを両手に抱え、いかにも重そうにそれを持ち歩く同僚がそこにいた。
「平田か……気をつけてくれよ、誰かが怪我でもしたら、お前らだって困る事になるんだぞ?」
「あーあー、すまねぇな」
 一応詫びの言葉は貰えたが、何やら気持ちが篭っていない。本気で詫びる気があるのか? と智は腹を立てたが、今はそんな事に体力を裂いている余裕は無い。とにかく頭痛薬が速く効くことを祈りつつ、彼は自分の部署へと戻っていった。
「3時か……あと2時間もすれば夜明けだな」
 そんな事を呟きながら、空き瓶やゴミがあちこちに転がる通路を潜り抜け、自分のデスクに向かおうとする。が……
「うおっ!」
「あぁ、ワリ。引っ掛かった?」
 ダラリと通路に放り出された同僚の足に躓き、智は危うく転倒しそうになる。彼は思わず、その同僚に文句を言う。
「中村ぁ、何てだらしない格好だ。せめて通路は確保しろよな」
「悪いねぇ」
 先程といい今といい、何となくだが悪意を感じる謝られ方だった。またもカチンと来た智だったが、こんな処で体力を費やす訳にはいかない。苛立つ気持ちを抑えて、デスクに戻った。そして仕事を再開しようと、キーボードに向き直ったその瞬間……彼の端末はいきなりその動きを止め、全てのモニターが真っ暗になった。
「なっ……!?」
「あれぇ? これじゃなかったかぁ? わりぃわりぃ、誰の端末だ?」
「お、岡部ぇ! お前これ、洒落になんねぇぞ!?」
「あぁ何だ、朝倉のかぁ。お前ならすぐリカバー出来るだろ? 大丈夫、大丈夫!」
 コンセントの誤抜をした事に対して詫びも入れず、あっけらかんと笑い飛ばす、少々小太りの同僚。これは流石に受け流す訳にはいかず、智はその男の胸倉を掴んで睨み付けた。
「バックアップは取ってあるがな……作業の遅れを取り戻すのにどれだけ掛かるか、知らない訳じゃないだろ!?」
「謝ったじゃーん、怒んなよぉ」
「いつ謝った!! 俺にはそうは聞こえなかったぞ!?」
「えー? 岡部ちゃん『わりぃわりぃ』って言ってたじゃん? 耳悪いんじゃないの?」
 先程、足を引っ掛けた男が、岡部という男を擁護する発言を智に浴びせ掛ける。
「ま、彼女いるくせに、女子社員に贔屓されてる甘ちゃんには、いい薬だろうよ!」
 ロビーで智に箱をぶつけた男が後に続き、その後は我も我もと言った感じで、智を罵倒する笑い声が響き渡る。
「そうか……さっきから何かおかしいと思ったら、テメェら……わざとだったのか!?」
「おいおい、人聞きの悪い事を言うなよ。偶然だろ、ぐ・う・ぜ・ん!」
 その岡部の発言が智の逆鱗に触れ、彼はついにその顔面に拳を入れてしまった。鍛えていない華奢な肉体ゆえパワーは無いが、的確に相手の急所を打ち抜く技量は衰えてはいない。僅かな力でも、相手に強いダメージを与える事は充分に可能なのだ。
「岡部っ!」
「畜生、やりやがったな!? この野郎!」
「うるせぇ! みみっちい真似しやがって、モテねぇのはテメェら自身の所為だろうが!!」
 ただでさえ苛立ちもピークに来ていた面々が、理性を失って争いを始めたのだから堪らない。しかも、最初からターゲットは智一人、他の全員が結託しての嫌がらせだったのだから、勝敗は目に見えている。不意打ちを喰らった岡部という男を除いて、連合軍は無傷、智だけがボコボコにされるという結果に終わった。そして智へのささやかな報復を終えて溜飲を下げた彼らは、やれやれといった感じでサーバーに残ったログを遡り、最終バックアップの入ったフォルダを探し始める。
「バックアップは最終時の2時間前……2時間丸々遅れる訳だな」
「手分けして掛かれ、そうすりゃ労力は6分の1だ!」
 ひとしきり暴れた後、遅れた作業の穴埋めの為に超人並みの力を発揮するチーム一同。いがみ合っていても、流石は社会人。責任という言葉だけは忘れてはいないようだ。が、わだかまりが解けた訳ではない。
 午前8時過ぎ、部内の清掃が日課になっていた美樹が出社してきた。が、彼女は部内の惨憺たる有様を見て絶句した。
「なっ、何ですか、これ!?」
「おー、小田原さん。おはよう」
「なぁに、ちょっと部屋の中で嵐が起こっただけさ。大したこと無いよ」
 各々に軽口を叩いて、部員達は皆で何事も無かったとアピールする。だが、怪訝に思った美樹は、一際散らかり方の酷い智のデスク付近に近寄り、そっとパーティーションの中を覗き……その中で端末に向かっている彼の姿を見て、思わず大声を上げた。
「あっ、朝倉さん! どうしたんですか、それ!!」
 智は、目の周りに青タンを付けられ、頬は腫れ上がり、口元には血を拭った跡が付いている。鼻にはティッシュが詰めてあり、それも赤く染まっている。おまけに、ワイシャツにも血痕が点々と付いており、明らかに暴行を受けましたというのが見え見えの様相を醸し出していた。
「……連中も言ってたろ? 嵐がな……来たんだよ。そんだけだ、気にしないで」
 そう言いながら、彼は付箋にサラサラと簡単なメモを書いて美樹に手渡し、まず手を顔の前にかざして詫びのポーズをした後、これ以上騒がないようにと、口元に人差し指を立てるジェスチャーをしていた。
『身体を傷つけてスマン、後で謝る』
 メモにはそう書かれていた。智の他には誰も傷ついている者は居らず、彼だけが集中攻撃を受けたことは明白だった。が、彼は『騒ぐな』と言っている。
(……一体、何があったの?)
 小声でそう言いながら、美樹は救急箱を用意し、智のダメージ箇所を手当てし始めた。
(ったく……みっともねぇったらありゃしねぇ)
(……?)
 何か言いたそうな美樹を、智が目線で制する。そして、この続きは後で……と短く伝え、互いに頷いて会話は終わった。
「いててて! そ、そこ、もうちょい優しく頼むよ!」
「動かないで! 消毒できないでしょ、もう!」
 パーティーションの内側に向かって座り、智と顔を突き合わせて手当てをする美樹の背中を見ながら、他の5人は自ら彼らを近づける要因を作ってしまった……と、地団駄を踏むのであった。

**********

「はあぁ!? ヤキモチぃ!?」
「あぁ。言うなれば、男の嫉妬……目も当てられないよ、みっともなさ過ぎてさ」
 要は、美樹が自分の肉体を監視する為に、暇さえあれば智の方を見ている事が、美樹による智への好意の表れであると勘違いした男性社員の癇に障った……と、こういう訳である。
「ついでに言えば、良く俺に差し入れを持って来たりしてくれるだろ? アレも、連中は気に入らんらしいぜ?」
「あ、アレは! 例の件で神経を遣ってる君に、少しでも元気になって貰おうとしてるだけで!」
「分かってる、ありがたいと思ってるよ。でも、真相を知らない連中に、そんな裏事情は分からない。傍から見れば、贔屓しているようにしか見えないのさ」
「そんな……」
 ガッカリと肩を落とす美樹に、智は『お前の気持ちは、痛いほど分かるんだけどねぇ』と、同情の視線を向ける。そして彼は、天井を仰いで一呼吸すると、ゆっくりと口を開き、提案した。
「要するに、あの事件との関連性だけを黙ってれいば問題は無い訳だろ? 俺は自動車事故で身体を失くした事になってるんだからさ」
「あ……そうか!! その身体が本当は僕の身体だって事自体は、ばらしても問題は無いんだ!!」
「まぁ、中身が男だって分かったら、連中はガッカリするだろうけどな」
「男に求愛されたって困るし、丁度いいよ」
 そりゃそうだ! と、智はケタケタ笑う。睡眠不足でナチュラルハイになっていた彼は必要以上に陽気だった。そして昼休み、深夜に騒動を起こした5名をミーティング室に集めて、美樹が自ら事情を説明した。
「あのぉ、プライバシーに関する事なので、あまり大声では言いたくないのですけど……実は……」
 何だ、交際宣言でもする気か? と、呼ばれた男子社員たちは不機嫌そうな顔をしている。が、美樹の説明が進むに連れ、彼らの顔色は徐々に青くなっていった。
「朝倉さんの事を見ていたり、彼を気遣うような素振りを見せたのは、自分の身体を乱暴に扱われたくないからで……決して、彼に好意があった訳ではありませんから、誤解なさらないで下さい。繰り返しますが、僕は男です」
「分かったか? これが真相だ。いいな? 分かってると思うが、必要以上にこの事を言い広めたりするなよ?」
 その説明も、聞こえているのか、いないのか……茫然自失となった5人は真っ青な顔をして俯いたままだった。が、そのうちに気を取り直した一人が、顔を背けたままで呟くように言い放った。
「分かったよ……って言うか、真相が知れたら、恥をかくのは俺達の方だからな。言いたくても言えないよ」
 その男の発言を発端に、屍となっていた他の連中も徐々に正気を取り戻し、諦めの表情を浮かべるようになった。
「それにしても……半年経ったら、小田原さんは居なくなっちゃうのか。俺、割と本気だったんだけど」
 そう発言したのは、智の端末のコンセントを抜いて大打撃を与えた岡部という男であった。美樹は彼の発言を聞いて、全身に鳥肌を立て、思わず身震いしていた。
「交際を申し込まれる前で、良かったな?」
「申し込まれても、丁重にお断り……あっ、僕が男だからですよ? 決して岡部さんがキモイとか、そういう訳じゃ……」
「……それ、ちっともフォローになってない。むしろ塩すり込んでるぞ」
 智が目を覆いながら美樹を窘めたが、時既に遅し。目の前にはガックリと肩を落として嘆く岡部と、それを取り囲んで大爆笑する男子社員の姿があった。ともあれ、この日を境に、美樹を目当てに近付いてくる男性は激減したという。だが、社外に於いてはその限りではなく、彼もまた智とは違う意味で神経をすり減らしていたのだった。

第三章 推進派

『……統合運動推進派のデモが所轄警察署の許可無く強行され、一部幹線道路では大規模な渋滞が……』
「その情報、もうチョイ早く欲しかったねぇ」
 車載テレビから聞こえてくるニュースに、もう遅いよ……といった感じの表情で、智が悪態を付く。
「どうする智?」
「どうするも何も……かれこれ30分も同じ景色を見てるんだぜ? どうにもならんよ」
 彼はすっかり諦めモードに入り、既に足をハンドルの上に投げ出してシートに寝転んでいる。その日、彼らは土日を利用して温泉旅行に向かう途中であったのだが、予定外のデモ行進が行われた為に幹線道路を塞がれ、すっかり身動きが取れない状態になっていたのだった。
「ねぇ智、ぜんっぜん動かない?」
「見ての通りだよ」
「ホントに動かない?」
「だから、空でも飛ばない限り……芽衣?」
 見ると、芽衣は脚の間に手を挟み込み、顔を真っ赤に染め、何やらモジモジしている。その様子を見て、彼女が危機に瀕している事を察知すると、智はスッと斜め前方を指差し、短く告げた。
「そこのコンビニで借りて来い……あぁ、ついでに缶コーヒー頼むわ。無糖の奴な」
「分かった!」
 車外に出て、出来るだけ腹部に刺激を与えないようにと歩幅を小さくしてチョコチョコと歩く芽衣の後姿は、いま彼女が何を欲しているかが一目で分かる程だった。かなり我慢していたのだろう。
「予定じゃそろそろ高速に乗って、サービスエリアにでも寄ってる頃だもんな……連中め、気分をぶち壊しにしやがって」
 相変わらず画面に映し出されているデモ行進の模様を忌々しそうに眺めながら、智は呟く。何でこんな日にこんな事を……と。ふと窓の外に目をやると、隣の車の中で不機嫌そうにハンドルを叩きながら、何やら怒鳴っている男性の姿が見えた。互いに窓を閉めている為に声までは聞こえなかったが、男性は相当怒っているようで、数分おきに時計と前の車のテールランプを交互に見ては、また怒鳴り始める。
「アイツの前じゃなくて良かったよ……あの車の奴、気の毒になぁ。バックミラー越しにアイツと睨めっこだぜ」
 智は目線だけをそちらに向け、隣でヒステリーを起こしている男性の車の前に居るドライバーに同情した。何に向けて怒りをぶつけているのかは分からないが、あんな顔を向けられたのでは気が気では無いだろうという事が分かるからである。
「ただいま! ホント、全く動いてないねー」
「だから、空でも飛ばなきゃここからは動けねーよ。遥か前に、コレが鎮座してんだぜ?」
 と、智が足の指で画面を指差す。そこには、牛歩の如くノロノロと、幹線道路を大勢で横断する大行列が映し出されていた。
「今日中に着けるかなぁ?」
「さぁな。宿のキャンセル料、覚悟しなきゃならんかも知れんぞ?」
 二人とも、もはや諦めたような表情になり、先程芽衣が買ってきた缶コーヒーに揃って口を付ける。隣では、相変わらず先程の男性が、ハンドルに怒りをぶつけている。そして、それだけでは発散しきれなくなったのか、ジリジリと前車との間隔を詰め、煽り始めた。堪らずに前の車もギリギリいっぱいまで更に前の車まで接近し、接触を回避する。それでも前進した距離は僅かなもので、状況の打破にはなりえない。
「バカだねぇ」
「全く。あんな事をしたって、何の解決にも……」
 芽衣の呆れ声に呼応するかのように続いた智の呟きが終わらぬうちに、ガシャン!! と鈍い音を立て、真横の車が前方の車に追突した。前方の車も更に前車との間隔がギリギリまで詰まっていた為、追突された勢いで押し出され、結果として多重衝突を引き起こしてしまっていた。
「あーあ、やっちまいやんの」
「前の人、お気の毒に……」
 多重衝突の先頭となったのは大型のトラックだった為にダメージはほぼ皆無だったが、気の毒なのは間に挟まれた車だった。比較的小型の車だった為にボディも頑強ではなく、前後から押し潰されて変形しており、灯火類は全て破壊されていた。
「バカ野郎! なんで避けねぇんだ!」
「無茶を言うな、こんな状態で何処へ避けろって言うんだ! 大体それが、ぶつけてきた奴の台詞かよ!」
 最後尾の車のドライバーは相当頭に来ているらしく、既に理性を失いかけていた。あろう事か、ぶつけた相手に対して怒声を発し、衝突したのはそちらが避けなかった所為だと言い張っていた。
「……アホだ……アホの極致だ」
「人間、我を忘れると醜いものだねー。私も気をつけなくちゃ」
 その様子をウィンドウ越しに見ながら、智と芽衣は思わず情けない気分になる。もはや、折角の休日も台無し寸前である。
「ま、全部こいつらが悪いのさ……人の迷惑も顧みずに派手な自己主張ばかりを繰り返す連中が、人類から壁を取り払おうだと? 笑わせてくれるよ」
「ホント……最近はどんどん、アピールが過激になって来てるもんね。怖くて街を歩けないよ」
 智が画面を見ながら珍しく毒舌を吐き、芽衣はそれに同調しながら身の危険に慄いている。そして隣を見ると、先程の二人がまだ喧嘩を続けていたが……やがて先頭のトラックの運転手と思しき大柄な男が二人の間に割って入り、暫く双方の言い分を聞いていた。そして最後尾のドライバーを思い切り怒鳴りつけ、完全に萎縮させて喧嘩を収めた。
「あとは、警察のお仕事か」
 智の言葉通り、渋滞の中をスクーターですり抜けながらやって来た警官数名が事情聴取に当たり、事故の当事者を連れ去った。そして暫く後、車両空輸用のヘリがやって来て、事故車を回収していった。
「俺たちも、あれに乗っけてくれないかなぁ」
「ホントだよねー」
 叶うはずの無い願いを、二人は互いに口走りながら笑う。しかし目の前の喧嘩は収まったが、この長い渋滞の中、同じような騒ぎが起こっていないとは限らない。統合政府推進派のデモ運動が、互いのエゴをぶつけ合う原因を作っているのだから、笑うに笑えない。智はそれを考え、益々情けない気分になっていった。
「……ん?」
 ふと智が画面に目をやると、デモ行進の列に大きな変化が見られた。ついに機動隊が介入し、路面を塞いでいた人垣を強制的に排除しに掛かったのだ。排除された者は口々に『卑怯者』だの『権力の犬』だのと、好き勝手に喚いている。
「これ、多分……デモやってたのが運動反対派でも、結果は一緒だよな?」
「だと思うよ……自分たちの思想をアピールするのは良いけど、ここまで関係ない人を巻き込んで騒ぎを起こしたら、主張を聞き入れてもらう前に反感買っちゃうよ。賛成も反対も無い、ただの馬鹿だよ」
「俺が巻き込まれた事件は反対派のテロだったが、もはやどちらにも正義は無いな。やはり、俺はどちらも支持しない……いや、支持出来ない」
 画面の中で機動隊とぶつかり合う運動賛成派の人の顔は、これ以上無いぐらいに醜く歪んでいた。彼らは、何処に正義を見ているのかと疑いたくなる程に……
「終わったな。あと数十分もすれば、流れるぞ」
「やっぱりこうなったかぁ……後でここ、通るんだよね?」
「残念ながらね」
 芽衣が、見たくない物を見るように画面を指差す。然もありなん。そこには有刺鉄線と裸電線を絡めて作られたバリケードが数十メートルにわたって設置され、車道をしっかりとガードしており……その向こうで警官隊と未だに衝突を続ける賛成派の面々が映し出されていたのだから。
「人類の、統一政権?」
「ありえないね……今のままじゃ」
 すっかり暗澹たる気分にさせられた二人が呟き合っていると、視界に入る範囲の車のストップランプが消え始め、車列が流れ出した事を伝えていた。時刻は午前11時を少し過ぎた所。かなり遅れたが、どうやら宿はキャンセルせずに済みそうだった。
「芽衣、ナビの設定を観光重視から最短距離にセットし直してくれ」
「OK……あー、それでも1時間ぐらい到着遅れるね」
 渋滞で時間をロスした分、道中で予定していた観光をスッパリ諦めて一直線に目的地に向かうようナビゲーションをセットし直すと、智は停止させていた水素エンジンを始動させ、漸く動き始めた前車に続いてゆっくりと車を前進させた。やがて渋滞を作り出していたデモの現場に差し掛かると、二人は窓の外に目をやり、このようなアピールがこれから益々激化するのかな……と短くやり取りをした。賛成派でこのレベルなら、反対派はどんな過激なアピールに訴えるのだろう……と。

**********

「ふぅ……絶景かな、絶景かな!」
 岩で出来た浴槽にゆったりと浸かりながら、智は眼下に見える渓谷の風景を愛でて大きく伸びをする。自然豊かな飛騨の山奥を旅行先に選んだのは、彼の提案によるものであった。この近辺は真冬には訪れる事が出来なくなる。深い積雪によって走行が困難になるのだが、無理に通行を試みて事故を起こす車両が後を絶たない為、道路自体が閉鎖されて立ち入り禁止になるのだ。だから閉鎖される直前に行っておこうと、かねてから狙っていた秘湯の温泉宿を、やっとの事で押さえたのだった。
「お湯加減、どう?」
「あぁ、いい感じだよ。早く来いよ、今なら夕焼けが綺麗だぞ」
 智がこの宿を一押ししたのは、料理が絶品で景色も最高という理由もあったが、実は時間割で貸切となるこの露天風呂が狙いだったのだ。普通の大浴場も風情があって悪くないと思っている彼ではあるが、やはり風呂は人目を気にせずにゆっくりと入りたいものだ。
 ふと洗い場の方に目をやると、そこには掛け湯をしつつ湯加減を確かめる芽衣の姿があった。それは、ひなびた宿の佇まいに溶け込んで、何ともいえない風流を醸し出していた。
「和のテイストだね。貸し切り風呂をチョイスして良かった」
「もぉ……ジッと見ないでよ、恥ずかしいなぁ」
 智の目線に気付いた理恵が、頬を染めながら抗議する。だが彼女はすぐに笑顔になり、ゆっくりと彼の隣へ寄って来る。
「こういう自然の中の風景とか、好きだよね」
「ああ。普段、あんな電波な場所に缶詰だろ? だからだろうな。身体が大自然を求めるのさ」
 そう言って、智は山間に姿を消そうとしている夕焼けをジッと眺める。そして、芽衣はそんな彼を愛しげに見詰めた。事実、彼の趣味は渓流釣りにハイキング、そして温泉巡りと、自然と戯れる機会の多いものが殆どだった。
「綺麗だね」
「うん。どんなに文明が進歩しても、俺たちはこの美しい自然を忘れちゃいけない。その中で育まれた、大事な命なんだからね」
 智の言葉には、妙な重みがあった。本人は『バイオロイドの研究の成果として生まれた自分達が、自然を愛するなんて滑稽だけどね』と笑って居たのだが、自然に生まれた身体で無い分、余計に自然というものに対する憧れが強いのだろう。ギュッと握り締めた拳をパッと開き、ジッと掌を見る。その肉体も、人工的な措置で宛がわれた他人の物なのだ。そんな彼の気持ちが伝わったのか、芽衣はその手を取り、そっと話し掛けた。
「この身体も、だいぶ見慣れてきたけど……」
「うん、あと5ヶ月で奴に返さなきゃならないんだ。傷つけたりしないよう、大事に扱わなくちゃ」
「でもさ、最初に見た時よりガッシリした感じになってない?」
「分かる? やっぱ俺が中に入ってるだけで、外見も変わっちまうんだよな」
 美樹からの懇願により、この体を以前の肉体のようにマッシブな印象にしてしまう訳には行かなかったので、智は出来るだけ筋力を使わないように注意していた。だが、美樹と智では基本的な運動量に差がある。普通に過ごしているだけでも、ある程度は自然に鍛えられてしまうのだ。
 それに、SEという仕事は案外と肉体を酷使する。無論、工事現場で作業をする人やスポーツ選手のように身体を張って仕事をする訳ではないが、繁忙期の連続徹夜や不規則になりがちな生活サイクルなどは、傍で見るよりも激しく体力を消耗するので、何も対策をしないと身体を壊したり、病弱になったりする。そうならない為に、ジムなどで身体を鍛えているデスクワーカーは意外と多いのである。
「じゃ、同じ年頃の美樹ちゃんが、あんなにガリガリだったのは……」
「たぶん、朝飯は抜きで昼はサンドイッチかなんかで済ませて、夜はカップ麺……なんて生活をしてたんだろ? それで運動が苦手とあっては、あんな体になるのも当たり前さ」
 智の指摘は図星を衝いており、美樹の不摂生を見事に言い当てていた。半年ほど彼がその身体を使って普通に生活しただけで素人の芽衣が見ても分かるほどの変化を見せたのも、当然と言えば当然である。
「とにかく、あまり鍛えないってのが約束だからな。俺としては、ちょっと理解しがたいけどな」
「ムキムキな身体が好きじゃないだけなんじゃない? その顔には似合いそうに無いし」
「それもそうか……けど、アバラ剥き出しのガリガリ君も、ちょっと考えモンだぜ?」
「それはもう解決してるじゃない。ほら、バランスのいい身体になってるよ。美樹ちゃんも喜ぶんじゃない?」
「返した途端に、元に戻りそうだけどな」
 雄大な景色の中で開放的に裸身を晒す二人が笑い声を上げた頃、空は既に薄紫色に変わり、宵の明星が輝いていた。
「いけね……あと20分で、次の人と交代しなきゃ」
「大変、急いで身体洗わないと」
「手伝おうか?」
「……バカ」
 智の冗談に、芽衣が呆れ顔になる。男って奴は幾つになっても……とでも言いたげな目線を彼に向けた後、クルリと背を向けて手早く身体を洗い始めた。そして智は、もう一度自分の掌をジッと見詰め、何か考え込んでいた。
(不思議なもんだよな……半年前までは別な身体で、今のこの身体も半年後には別人に引き渡して、俺はまた違う姿になる)
 それは半年前の大事故で身体を失ってから、ずっと考えていた事だった。それ以前までは全く意識しなかった事だが、自分は人工的に造られた身体を持つ、不自然な存在なのだ……と、彼は自分自身の存在に疑問を持ち始めていたのだった。
(俺や他の第一世代ヒューマノイドは、元々は人類の存続の為に急遽開発された、いわば中繋ぎの為の代替品のような存在だ。けど、こうして生きている……命があるんだ。でも、本当に『命』と言えるのかな……俺の……いや、俺たちの存在は……)
 自然に誕生した人間や、芽衣たち二世代目以降のヒューマノイドと違い、自分たちは肉体を交換したり、精神体だけを保存して、遠い未来に復活するという芸当すら可能な、自然の摂理に反した存在なのだ……と、彼は考えるようになってしまったのだ。
「……智? どうしちゃったの?」
「え? あ、あぁ……洗い終わったのか? ふむ……うん、石鹸の良い香りだ。美しい自然に美しい彼女、もう最高だね!」
 思い耽っている所にいきなり声を掛けられ、一瞬狼狽する智だったが、彼はすぐに表情を繕い、そして芽衣の胸元にクンクンと鼻を寄せ、その香りを愛でながら、わざとらしく明るく振舞ってみせた。
「な、ちょ……ホントにどうしちゃったの? ほ、欲しくなっちゃったなら……も、もうちょっと我慢してよ、ここじゃ……」
「バカ、そんなんじゃねぇよ。大自然の中に溶け込むお前を見て、本当に美しいと思ったのさ」
「よ、よしてよ……口説き文句にしたって恥ずかしすぎるよ、それ」
 智の台詞は冗談めいて聞こえたが、まさに今の彼の本音そのものだった。彼女も両親は自分と同じ一世代目ヒューマノイドだが、彼女自身は両親の間に生まれた、純粋な命を持っている。そんな彼女を、彼は本当に美しいと思ったのだ。
「……ふむ、我ながら、少々詩的になり過ぎたかな……柄じゃなかったな」
「ビックリさせないでよ、もう……誰か別な人が中に入ってるのかと思ったじゃないの」
 芽衣の短い一言が、智の胸に突き刺さる。『別な人が入る』……それを俺たちは出来るんだ、と。しかし、ここでネガティブに浸ってはいけない、これは俺個人の悩みなんだと、頭をもたげ始めたマイナス思考を無理矢理に引っ込めて、彼は笑顔を作った。
「さて、もう一度だけ浸かって、上がろうぜ」
「そうだね」
 そして二人肩を並べて浴槽に浸かり、その景観を目に焼き付け、充分に満足して、彼らは自然の湯を後にした。

**********

「はい、運転お疲れ様!」
「サンキュ……おっとっと」
 湯上りの火照った身体に浴衣を纏った智のコップに、同じく浴衣姿の芽衣がビールを注ぐ。その後に智が芽衣に返杯し、二人はコップを合わせ、恋人同士のささやかな酒宴が始まった。
「プハァ……旨い!!」
「喉も渇いてたんでしょ、車の中で缶コーヒー飲んでからずっと、水分摂ってなかったじゃない」
「へへ! 全てはこの、最初の一杯のため!」
「それ、あんまり身体に良くないんだよ?」
 苦言を呈しつつも、満足げにビールを飲み干す智の笑顔を見て、芽衣は釣られて笑顔になり、二杯目をコップに注ぐ。
「ありがと……さ、料理に取り掛かろうぜ。美味そうだぞ!」
「うん。流石は智の見立てだね、ホントに美味しそう!」
 そう言うと、芽衣は箸をつける前にその模様を残しておくんだと、携帯電話のカメラでお膳の全景を写真に撮っていた。
「お約束な奴だな」
「いいの! ゼミの友達に見せびらかしてやるんだ。シングル多いからねー」
「友達なくすぞ」
 今度は智が芽衣に苦言を呈していた。だが、この程度なら良いか……と判断した智は、それ以上の言葉を重ねる事無く、自分の料理に箸をつけていた。山間部の温泉宿らしく山菜と川魚を用いた料理が主となり、特に智はヤマメの塩焼きに感心していた。
「仲居さん、このヤマメは天然物でしょ?」
「分かりますか? この地方でも漁協の管理が厳しいのですが、特に許可を得て、数量限定で獲らせて頂いております。それに、冬季は禁漁になってしまいますので」
「道理で……いや、これが要予約になってた訳が分かりましたよ。養殖だったら、時期は関係ないですからね」
「わざわざ別に注文したんだ。流石は渓流の鬼だね」
 養殖と天然、どう違うの? といった感じで不思議そうな表情になっている芽衣に、口元の形状から天然である事を見抜いたカルトな知識を智が披露していた。無論、素人目には養殖も天然も味の違いなどは分からないが、そこは趣味に『渓流釣り』を挙げる彼ならではの拘りだろう。
「いや、このご注文は競争率が高くて……私どもも、お断りしなければならない時には心が痛むのです」
「仕方ないですよ、むしろ養殖を天然と偽って受注しない点を高く評価します」
「畏れ入ります」
 嘘偽りの無い素材選びに感心した智はすっかり上機嫌になり、その高評価を受けた仲居は少々照れ気味であった。実際、この時代にあって、天然の素材に拘る料理の姿勢は賞賛に値し、宿主の心構えが見て取れる、真に誠実なものであった。
『……推進派のデモは、午前11時頃に鎮圧されましたが、今後も同様の事例がある可能性を示唆し、当局では……』
 隣の部屋でテレビのニュースを見ているのだろう、往路で渋滞の原因を作っていたデモ行進鎮圧の模様を伝えるアナウンスが、智たちの部屋にも届いてきた。
「アハハ……アレは参ったねー」
「うん、ガッチリ嵌っちゃったもんねぇ」
 そのニュースを聞いて、智と芽衣は苦笑いを浮かべる。だが、その反応を見た仲居の表情が、一瞬ではあるが強張った。
「お客様、このデモ行進をご存知で?」
「ご存知も何も、これに巻き込まれたおかげで、予定より到着が遅れたんですよ」
「……そうですか……」
 明らかに、仲居の様子はおかしかった。ニュースを聞いて愕然としたという感じで、あからさまに落胆している。それを智は見抜いていたが、敢えて言及しなかった。
「本当に実現するんですかね、統合政府」
「どうですかね……でも、もし実現したら、人種や宗教の差を越えた、新しい世界が開けるのでしょうね」
 芽衣の何気ない台詞に対してそれだけを答えると、仲居は空いたビール瓶を下げつつ、退室していった。
「あの仲居さん、推進派なんだな」
「そうみたい……失敗しちゃったなぁ、あの台詞はまずかったかも」
「いや、ギリギリセーフだろ。取りようによっては、賛成派が状況を心配しているように聞こえるからな」
「だと良いけど……」
 しかし、次の料理を運んできたのは別の仲居であり、先程の仲居は二度と智たちの部屋に姿を見せる事はなかった。恐らく、智たちがデモ行進に批判的であり、推進運動自体にも感心していない事を敏感に察知したのだろう。
「……私の所為かな?」
「芽衣が気に病む事は無いよ」
 焦る芽衣を、智がフォローする。しかし彼らはこの一件を経て、これから益々エスカレートするであろう統合政府樹立を巡る運動の先行きを考え、迂闊な事は口に出せないな……と悟るのだった。

**********

「おーす。キッチリ2日、休ませてくれてサンキューな」
「なぁに、お互い様さ。休める時に休んどかねぇと、身体も心も悲鳴上げちまうからな」
 月曜日。一泊旅行の余韻に浸る間もなく早々に出社した智は開口一番、チームメイト達に礼を言っていた。何しろ、彼一人を2日間フリーにする為に他のメンバーが必死で頑張って、納期に大幅な余裕を持たせて大型の案件を終わらせてくれたのだ。
「何だかんだで、仲いいんだよなぁ」
「そ。でもな朝倉、傷心の俺達が彼女持ちのオマエに肩入れしてやったその理由、分かってんだろな?」
「わ、分かってるって……忘れちゃいねぇよ。ほれ、現役女子大生と合コンの約束、取り付けてきてやったから」
 手渡されたメモを見て、狂喜する中村という男。彼はチームのサブチーフ格であり、智の不在中は彼が場を取り仕切る、智に次ぐナンバー2の実力を持った男である。が、嫉妬深さと陰湿な性格のお陰で女性にモテず、こうして誰かが口添えをしてやらなければデートも出来ない、ある意味で可哀相な男だった。見てくれは決して悪く無いだけに、余計に残念度が高かった。
「言っとくが、芽衣の友達なんだからな? 振られたらサクッと諦めてくれよ? いつかみたいに、家まで追い掛けて通報……」
「だあぁぁぁっ! そういう黒歴史を穿り出すんじゃねぇよ、オメェは!」
 そう怒鳴りながらも、彼はメモを大事そうに胸ポケットに収め、他の4人にメールを出していた。無論、参加の可否を確認する為であるが、日程に無理さえ無ければ全員が参加するに決まっていた。
「いいの? 芽衣ちゃんに迷惑が掛かったりしない?」
「大丈夫だろ、だって芽衣の友達だぞ? アイツと対等に渡り合えるようじゃなきゃ、友達やってねぇから。むしろ、事が済んだ後も奴らが使い物になるかどうかを祈っててくれ」
「あー……そだね。そっちの方が心配だね」
「さーて、橋渡しは済んだ。あとはバイト料として、情報科の課題を5人前こさえてやらんと……あー忙しい」
 つまり、彼らに付き合う女子大生達はエキストラ扱いか……と、舞台裏の全てを把握した美樹は苦笑いを浮かべた。智の腕前であれば、学生の課題レベルのプログラムならば5人分とは言え軽くこなせてしまうだろう。現に彼は、モニターを5個一編に表示させて、同一の結果をはじき出す異なるアルゴリズムのプログラムを、平行作業でサクサクと組んでいるのだ。
「そうだ美樹ちゃん。これ、俺と芽衣から。土産だよ」
「え? 僕……いや、私にも?」
「当たり前でしょ、君を忘れるほど不義理じゃないよ」
「あ……有難う」
 有給を使って派手に遊んで来た帰りならともかく、普通に土日を使って、しかも彼女とプライベートな小旅行を楽しんで来ただけなのに、なんて義理堅い……と思いつつ、美樹はその包みをその場で開封してみた。すると……
「……お守り?」
「ああ。君も大概、運が悪いようだからね。ま、気は心、ってトコかな」
 真っ赤な人型をした特徴的な形状を持つ、飛騨の定番的なお守り。厄災を打ち払うという言い伝えのあるそれを見て、これが必要なのは、僕じゃなくて君の方でしょ……と言い掛けた美樹だったが、彼はその言葉をグッと呑み込んで、ああ、だから彼は憎めないのだな……と、暖かな視線を智に向けた。実際、先程彼から施しを受けた同僚も、つい先日は自分を巡ってのトラブルで大喧嘩を繰り広げた中の一人であるが、今ではそんな事は気にもしていないのか、ごく普通に接している。そんな度量の広さ、懐の深さにみんな惚れ込んでいるんだな……と思えたから。
「……何?」
「え? 何って、何?」
「いや、視線が気になるんだけど……もしかして惚れた?」
「うん、ある意味ね」
「俺、ノーマルだし彼女いるから無理」
 そのシレっとした応対に、バカ……と表面だけの憎まれ口を智に向けると、美樹はクスッと笑いながら自分のデスクに戻って行った。

**********

 数日後、妙に浮かれた顔で、彼――中村は智に礼を言いに来た。聞く所によると、どうやら例の合コンで彼だけがカップル成立したらしく、沈んでいる他のメンバーとは対照的な雰囲気を纏っていた。
「良かったな中村、でも連中の気持ちも考えてやれ。あまりはしゃぐな」
「分かってるって。でも、敗者に情けを掛けるのは逆に追い打ちになるんだぜ?」
「その話題に触れないようにすればいいのさ。で? 成功の鍵は何だったんだ?」
「それがな、玲奈ちゃん……ああ、彼女の名前なんだけどさ、彼女って例の統合政府運動の推進派らしくてな。そこを糸口に話を進めたら、見事にヒットしちゃってさ。それにさ、言っちゃアレだけど俺らって高給取りじゃん? モテない筈が……あれ? どうしたんだよ朝倉? 急に黙り込んで」
 統合政府の推進派、というキーワードがチクリと智の胸を刺し、芽衣の身内にもこの運動に積極的に参加している者が居るのか……と、彼は些か不安になっていたのだ。そして、その彼女に同調したという事は、目の前に居るこの男もいずれ推進派に属するという事になる。どちらにも味方できない理由を持つ智としては、複雑な心境だった。が、折角幸せを掴み掛けている同僚を前にして、無粋な真似は出来ない。
「……いや、ちょっとな……っていうか、お前って統合推進派だったっけ?」
「いんや? 俺ぁどっち付かずさ。要は『選挙に行かない有権者』のスタンスなんだけどな。折角のチャンスじゃん? これは合わせるしかないでしょ!」
 その回答を聞いて、智は心の中で舌打ちをしていた。この本音は絶対に相手には聞かせられないな……と。
「ま、ともあれ……おめでとう。頑張れよ中村」
「サンキュ! これで彼女居ない歴イコール年齢の人生とはオサラバだ! 短い春で終わらないよう、頑張るぜ!」
「その調子で、仕事も早く片付けようぜ。残業や休出が続いて、デートも出来ない状況が続くとヤバいぞ?」
「そりゃー、お前……持ちつ持たれつ、だろ?」
「ちぇっ、調子いいんでやんの」
 軽く文句を突きつける智だったが、今の中村には効果が無かった。その浮かれ具合が、仕事に影響しなければいいが……と、一抹の不安を覚えながら、智は美樹と協力して、残念な結果に終わった岡部たちのフォローに奔走した。ハッキリ言って、今の中村は使い物にならない。残った彼ら3人を何とか奮起させないと、冗談抜きでプロジェクト進行に影響が出るのである。
(それにしても、よりによって統合政府運動の話題でカップル成立かよ。俺としちゃあ笑えないな、悪いけど)
 無論、それを当事者に向けて言うほど彼は無神経では無かったが、素直に祝えないのは事実だった。そして何より、彼女欲しさに無理矢理口を合わせて推進派に迎合する中村の行く末を、智は心配していた。何しろこの問題は、軽はずみに正否を覆せば大変な事になる……それが分かっていたから。

**********

『ぇえー!? じゃあ何、玲奈をゲットしたいが為に話を合わせただけで、ホントは無関心って事!?』
「ま、そういう事になるんだけどな……正直、胃が痛いよ。いつかメッキが剝がれて捨てられて、そのショックで暫くは置き物同然になるのが分かってるからな」
 その日の夜、珍しく早く……と言っても午後10時過ぎにではあるが……家に帰れた智は、事の顛末を芽衣に報告するために彼女の家に電話していた。ホログラフィーが作り出す立体映像は、裸身にバスタオルを巻いただけの姿で缶ビールを煽る芽衣の姿をそのまま映し出していた。
『うーん……ちょっとキナ臭い雰囲気だね。彼女、熱心にこの運動に参加してるからさ、本音がバレたら怒られるだけじゃ済まないかもよ?』
「そこさ。ハリボテの信仰心なんか、熱心な活動家に掛かれば、すぐに中身が見えちまうからな」
『……私は黙ってるよ、っていうか聞かなかった事にする。敢えて真相をバラすような真似は出来ないから』
「そうだな……互いにここは自重って事で。しかし……なぁ、他の子はどうだったんだ?」
『え? いや、カップル成立は玲奈達だけだった、としか聞いてないよ……だって、単に飲み会のノリで出かけて行ったらしいからね、みんな。いい男が居たら儲け! 程度の認識だったようだから、不成立だった子もシレッとしてるよ』
 そうか……と、智は双方の温度差を認識して深い溜息を付いた。そして、此方が死屍累々の状態だと伝えると、芽衣は何とも言えない、複雑そうな表情になっていた。
「まだ、結婚とか焦る年齢じゃないつもりなんだが……やっぱ、居ないと焦るものなのかな?」
『人によるよォ。私達は早いうちからこの関係になってたから、麻痺してるかもだけどさ。自分に自信を持てない、スペックの低い人は焦るんじゃない?』
「例え、自分の信念を曲げてでも……か?」
『んー、何とも言えないよ。ただ、その……中村さん? 無理のし過ぎで、人格変わっちゃわなきゃ良いけど』
「奴は貴重な戦力なんだ、ここでリタイアされる訳にはいかないよ。それに、半ば騙されている形になっている玲奈ちゃんの為にも、この関係を長続きさせる訳には行かないと思うんだ」
 その回答に芽衣は暫し沈黙していたが、やがて静かに口を開き、智に同意を示した。が、問題はどうやって2人を別れさせるか、である。なるべく傷つけず、そして怨恨を残さずに別れさせるのは、至難の業なのだ。
「もう暫く、様子を見よう。今は2人とも夢見心地の筈だ。何を言っても大して効果は無いだろう」
『だね。ほとぼりが冷めて、互いに冷静になった頃合いを見計らって、ダブルデートを仕組んで、統合運動と無関係なところでボロを出して貰うよう、仕組むしかないと思う』
「同感だ。兎に角、統合運動の話題はタブー、これを守ろうな」
 そのやり取りの後、裸同然の芽衣がブルッと震えだしたのを見て、早く着替えろよと促し、通話を終了させるに至った。同僚の春をこの手で終わらせるのは心が痛むが……とは思ったが、偽りの付き合いは長く続けば続くほど泥沼化するものだ。かと言って、無理に化かし合いを続けさせるほど不毛な事は無い。こんな付き合いは早々に断ち切ってしまうのが互いの為、と彼は心を鬼にして、敢えて2人の中を裂く決心を固めていた。ところが半月後、中村は見事に洗脳されて、完全な統合推進派になっていたのであった。その事実に、智と芽衣は思わず慄いていた。運動家の力、畏るべし……と。

第四章 不協和音

 統合政府樹立運動の具体的な活動が賛成・反対を問わず日本国内でも激化し始めて数か月。それまで、殆ど問題視されていなかった本件が何故急激に活性化したのか、その理由については未だに解明されていない。ただ一つ言えるのは、市民の大多数はそれが実現された後の世界は現状で抱えている貿易問題、宗教の壁、人種差別などが全てクリアされたユートピアであると誤解しているという事であった。しかし、現実はさほど甘くはない。高々6人のプロジェクトチーム内ですら、異なる意見の対立で不穏な空気が流れる事が頻繁にあるのだ。これが人類全体と云う規模に拡大された場合、衝突の頻度は計り知れない物となる。各国の首脳陣はそれを理解しているからこそ、本件について百年以上にも及ぶ大論争を繰り広げて来たのである。
「やっぱ、全世界を一纏めにするのには無理があんだよ。仮に地球上から国境と云う壁を取り払った世界が実現したとしても、人の思考そのものまで統一できるモンじゃない。絶対に派閥争いが起こって、結局は元と同じ世界に逆戻りすると俺は思うね」
「いーや! だからこそ高いカリスマ性を持った首脳陣をトップに据えて、人類を導く原動力とするという案が存在するんだ。絶対的な指導者の元に総べられた民は、絶対に争いなど起こさない!」
「それって独裁って言わないか? 有史上、それをやろうとして成功した奴は居ないんだぞ? ナポレオン然り、ヒトラー然り。古代に遡れば、アレキサンダー大王だって世界征服には失敗してるんだぜ?」
 喧々諤々、様々な発言が飛び交う。時は昼休み、社員食堂で昼食を摂る智たちのチームが占めるテーブルでの事である。
 反対論を繰り広げているのは平田であった。彼は徹底した個人・少数精鋭主義で、有象無象が数を成したところで大した意味は無い、逆に『船頭多くして船山に上る』を主張して譲らない。
 対する賛成派の筆頭は中村である。彼はつい最近できた彼女によってすっかり『教育』され、統一政治の素晴らしさを骨の髄まで叩き込まれたばかりである為にボキャブラリーは少ないが、新しい世界を垣間見たばかりで勢いが付いていた事に加え、彼女の手前もあって必死さが違っていた。結果として両者の争いは互角、双方力量伯仲で結局水入りとなった。
「まぁアレだ。賛成派と反対派に分かれて意見を戦わせている時点で、まず全世界の統一なんてありえないと言えるんじゃないかな。今の口論こそ、まさに国際会議の縮図じゃないか」
「何だよ朝倉、お前も反対派か?」
「いや、俺はどちらも支持しない。少し前のお前と同じだよ、中村。成立したら、それはそれとして受け容れる。けど、不成立に決まったら現状と同じ、何も変わらない世界だ。どっちにしろ、俺は俺。国境が在ろうが無かろうが、生き方を変えるつもりは毛頭ない、ってトコだな。しかしまぁ、こうして意見を放棄している時点で、広義には反対派に属すると見えるのかな?」
 ヒラヒラと手を振りながら、智が涼しい顔で自前の主張を述べる。が、彼がこうして韜晦するのには理由がある。そう、あのテロに巻き込まれたおかげで生死の境を彷徨うという憂き目に立たされたのだから、当然それを行った反対派は支持できない。と言って、反対派の行動を過激なものにした推進派に加担する事も出来ない。無論その真相を口外する訳にはいかないが、どちらに属しても得は無い、自分の票が世界の行く末を左右するなんて大層な責任を負うのは御免だという理由を付けて、彼は巧みに逃げ回っていたのだ。
「ま、とにかくだ。賛成であれ反対であれ、迂闊にデカい声で主張を口外するのは止めた方が良い。何処で誰が聞いているかも分からないんだからな。ある日突然、夜道で後ろから……なんて事になったら嫌だろう?」
「う、ま、まぁ……そうだな。相反する主張の奴の恨みを買って、襲われでもしたら洒落にならねぇな」
「まぁ、仲間内でならその心配も無いけどな。メンバーが欠けたら、自分たちの首を絞める事になると分かってるからな」
 そうそう……と頷く智に宥められ、落ち着かせられた後、彼らは漸く冷めかかったカレーにスプーンを付けた。

**********

 明くる日の朝、仮眠室から眠そうな目を擦りながら出て来た智に、出勤して来たばかりの美樹が声を掛けた。
「おはよう、朝倉クン」
「ふあぁ……あぁ、おはよ」
「また帰らなかったの? 芽衣ちゃんが心配するよ?」
「大丈夫だよ、ちゃんと連絡は取ってるから」
 そういう意味じゃあ無いんだけどなぁ……と、美樹は思わず苦笑いを作る。芽衣が危惧するのは連絡の有無ではなく、連日の徹夜作業で削られる体力と、その消耗から来る健康状態の悪化であると考えたからだ。事実、ここ数週間で帰宅できたのは僅か3回。睡眠は勿論の事、インスタント食品や外食ばかりに頼る食事で偏る栄養バランスが心配の種だった。普段から健康に気を遣い、身体を大事にしてきた智にしてみれば在り得ない生活サイクルである。
「あと3か月なんだから、大事に扱ってよね」
「すまん。でも、身体張らないと続かない稼業なんでね」
 智は謝りつつも、事情が許さないと弁明する。しかし、身体を貸している立場の美樹にしてみれば、日に日に悪くなる顔色を見れば『壊さずに返してね』と言いたくもなるだろう。
「そんなに忙しいの?」
「エースが一人、欠けたままだからね。やっぱナベ……あぁ、渡辺って云うんだけどさ。あの事件で死んだ同僚の抜けた穴は、デカかったって事なんだよ」
 ふっ、と寂しそうな眼差しで天井を仰いだ智は、直ぐにパッと明るい顔に戻って『こういう時こそ、チームワークで乗り切らないとね』と笑って見せた。彼もこれで、可能な限りこの身体を苛めないように、丁寧に扱おうと必死だったのだ。
 そんな二人が肩を並べてオフィスの扉を開くと、そこはまさに修羅場であった。と言っても、納期の迫った繁忙期の意味ではない。険悪な空気が漂う、何とも居心地の悪い雰囲気に包まれていたのだ。一体、何があったんだ? と智が全員の席を覗き込むように見回すと、何故か平田が右腕を三角巾で吊っており、頭部は包帯で覆われているではないか。
「なっ……おい平田! 何があったんだ!? 事故か?」
「……そこの色ボケ野郎が、知ってるんじゃねぇか?」
「だから! 俺は何も知らないって言ってるだろうが!」
 ギロリと修羅の如き怒りの視線を向ける平田に対し、中村が吠えるという訳のわからない状況になっており、残った岡部たち3人が『何とかしてくれよ』という感じで、救いを求めるような顔で登場したばかりの二人にジェスチャーを送っていた。
「ま、まぁ、落ち着けよ二人とも。って言うか平田、その怪我は一体どうしたんだ?」
「昨日の帰り道、駅に向かう途中で後ろから固い物で殴られたんだ。その後、前のめりに倒れた俺を殴る蹴る……一人じゃねぇ、5~6人は居たぜ」
「って、お前、誰かの恨みを買うような真似したのか?」
「心当たりは無ぇよ。強いて言えば、昨日の昼の論争ぐらいさ」
 そこまで口に出した後、平田は再び中村の顔を睨んで、更に続けた。
「野郎は熱心な統合政府樹立推進派だ。反対論を述べた俺を面白くなく思っても、不思議じゃねぇ」
「誤解だって言ってるだろ!? 確かに、昨日帰れたのは俺とお前だけだったがよ! 俺だってバテバテだったんだ、真っ直ぐ家に帰って飯食って、風呂入ってグーグー寝てたさ!」
「どうだかな。例え本人が手を下さなくても、有志に声を掛ければ頭数は直ぐに揃うんじゃねぇのか?」
「運動を始めて一か月チョイの俺に、そんな仲間が居るもんか! 第一、仕事に支障が出ると分かってて、敢えてリスクを背負うような馬鹿な真似をするかよ!」
「口じゃ何とでも言えるさ」
 どうやら平田は、昨日の昼の論争をネタにした中村が推進派の仲間を焚き付けて、反対派の自分を闇討ちしたと決めて掛かっているようだ。しかし、対する中村は頑なに容疑を否定している。
「落ち着け平田! ……中村、お前ホントに夕べは帰って寝てただけか?」
「ああ。俺だって2週間ぶりの帰宅だったんだ、速攻で帰って腹にメシかっ込んで風呂で垢を流して、そのままバタンさ。で、朝来てみたら既にこいつがボロボロな姿で席に座ってたから、さっきのお前みたいに理由を尋ねたのさ。そしたらいきなり怒鳴られて……」
 中村の言葉には淀みが無く、スラスラと状況を解説していた。そこに欺瞞があるのなら、ここまでスルスルと台詞は出て来ない。それに、二人とも嘘を吐き通せるほど器用な性格では無い。智はそんな両者の言い分を一通り聞いて、二人とも嘘は言っていないなと判断していた。ふと隣を見ると、美樹も同意見だったようで、智の目を見てウンウンと頷いている。
「ここまでの話は、さっきから俺たち徹夜組も聞いてたんだよ。けど、どっちも譲らなくて……」
 堪りかねた岡部がここまでの経緯が二人の言う通りである事を証言した。どうやら、両者の確執はかなり深刻なレベルにまで発展しているらしい。
(やれやれ……昨日の今日でもうコレだ。お偉方が百年も話し合って、結論が出ないのも道理だぜ)
 こめかみを押さえながら、智が首を振る。平田は完全に中村を誤解しているし、中村は平田に対する失望を隠せずに本音駄々漏れの表情を浮かべている。しかし、始業時刻も迫っている今、私情をぶつけていがみ合っている場合ではない。
「互いに言いたい事はあるんだろうが、もうすぐオフィシャルタイムだ。切り替えていこう。この喧嘩、一時俺が預かる。二人とも、いいな?」
「良いも何も……話し合いの余地なんか無ぇよ、昨日の論争以外に火種は無ぇんだ」
「こっちもお前に対する弁明なんか無いね! 信じたくなきゃ信じないで結構!」
 ダメだこりゃ……と、智と美樹は互いに顔を見合わせて肩を竦める。しかし、仕事に私情を持ち込んで影響を出す訳にはいかない。社会人としての責務を果たさなければ、対価を貰う資格が無くなるのだ。
「お前らが喧嘩するのは勝手だがな、仕事に影響出したら只じゃおかねぇぞ。その時はチーフ権限でペナルティ課すから、そのつもりで居ろよな!」
 辛い役回りである。喧嘩を収める事よりも、業績を優先しなければならないのだ。しかし喧嘩中の二人にもそれは分かっていたようで、この事で智が逆恨みされる事は無かった。だが、その日は丸一日、重苦しい空気の中で仕事をする羽目になり、結局能率は上がらず、普段の6割程度の出来にしかならなかったのだった。

**********

「なあ朝倉、何とかならんもんかなぁ?」
「あ? あぁ……難しいよなぁ。事は互いの思想論にまで及んでいるし、あそこまでこじれると、中々なぁ……」
 チーム全員が一度に帰宅すると納期に間に合わなくなる為、2名ずつ交代で帰宅して少しでも休息を摂ろうという事で編み出された苦肉の策、それがこの輪番帰宅と云う体制だった。このような勤務体制は労働基準法からすればかなりナンセンスであると言える物だったが、幾ら泣こうが喚こうが納期は待ってくれない。信頼を築き上げるには相当な実績と時間が必要になるが、崩れる時は一瞬である。一度でも納期を逸すれば、次は無いのだ。その結果、過酷な労働条件になったとしても、仕事を干されればメシが食えない。とにかく『やるしかない』のだ。そして、その夜は智と岡部が帰宅する順番だった。
「ただでさえ過酷な条件の下で働いてんのに、仲間内の雰囲気がああ悪くちゃなぁ。今日だって睨み合いが目に付いただけで6回、おまけに二人の連携はガタガタだ。これじゃあこのペースでも間に合わなくなるぜ、このプロジェクト」
「問題は、平田を襲った真犯人が誰かって事だよ。俺の見た感じ、中村は嘘を言ってない。奴だって、仲間内との確執が自分の首を絞める事になるのは、充分に分かってる筈だ」
「同感だな。それに、もし奴が家に着いてから彼女に連絡して、奴の知らぬ間に彼女の扇動で賛成派が動いたとしても、その頃には平田だって家に着いているだろうからな。その線は無いよ」
「だな。それに、自分がどっちに付いているかを大声で喋りながら歩くバカは居ない。これだけ双方の動きが活発になってる今、そんな事をすれば何処で襲われたって不思議じゃないからな」
 真相を巡って可能性を立て並べる二人だったが、どの発言も核心を捉える事は出来なかった。ただ一つ、中村は白だという事を認識し合うだけしか出来なかったのである。
「ところで岡部、お前はどっちなんだ?」
「俺か? 俺もお前と同じ、無支持派だよ。どっちかを支持したら逆の奴らにどんな目に遭わされるか、分かったもんじゃないからな」
「……そうか」
 岡部の回答を聞いて、智は空を仰ぐ。そもそも風土や思想の違いは、人類が文明を築き始めた頃からその土地に定着したもので、安易に突き崩せるものではない。それを統合したとして、その体制が長続きするとはとても思えない。再び異なる思想同士が衝突し合い、分裂して、元の世界に戻るに決まっているのだ。少なくとも、智はそう考えていた。
「やるだけ無駄、なんだよなぁ」
「おいおい朝倉、それじゃあ反対派と同じだぞ?」
「違うよ。俺は統合運動自体に疑問を持ってるんだ。賛成も反対も無い、言うなれば運動の存在自体に意義は無いと……」
 と、そこまで言ったところで、智は背後に殺気を感じて咄嗟に口を噤み、サッと身を翻して真横に飛んだ。すると、一瞬前まで自分の身体があったその場所に、金属バットが振り下ろされていたのだ。
「何をする!」
「今の貴様の発言は、統合思想に反するものと判断した。よって駆逐する!」
「クッ……!」
 覆面をした数名の男に囲まれ、智は一瞬で危機に陥った。見ると、岡部は既にそのうちの一人に拘束され、身動きが取れなくなっている。
「貴様らだな? 昨夜、俺達の仲間を襲ったのは!」
「彼は白昼堂々、我々の思想を侮辱する発言を連発した。よって処罰した! そして貴様も同罪だ、あの発言は反抗と見做す!」
「白昼堂々? 俺の発言……!? という事は貴様ら、うちの会社の社員か!?」
 そう、あの会話を聞いていたという事は、あの時社員食堂に居たと云う事になる。そうでなければ、あの会話の内容が漏洩する筈がないからだ。が、彼らはそれを否定した。
「我々は、貴様らの会社とは無関係だ。ただし、監視の目は何処にあるか分からない……そういう事だ!」
「なにぃ!? という事は、社内に居る賛成派の誰かが、情報を流したという事か!」
「それに応える義務は無い!」
 凶器による攻撃はなおも続く。が、智はその身軽さを武器に、巧みにその攻撃をかわし続けていた。しかし多勢に無勢、いつまでも回避し続けられる筈はない。増して、連日の過酷な業務で体力はギリギリまで削がれていたのだ。むしろ、ここまで防戦を続けられた事自体が奇跡と言えた。
「くっそ……流石は捻くれた思想の塊、ねちっこいぜ!」
「ほざけ! 我々の崇高なる思想を解さぬ者以外は、全てゴミだ! ゴミはゴミらしく朽ちるが良い!」
 相手のバットが高々と正面頭上に掲げられ、それが自分の身体を直撃する事は容易に想像できた。が、最早それを回避するだけの体力は残されていない。絶体絶命……と思われた、その時。
「こらぁっ、喧嘩はいかんぞ、喧嘩はぁ! 何だ、こんな物を振り回して! モロ当たりしたら命に拘るぞ、この馬鹿どもが!」
 突然現れた男が覆面男のバットを掴み、そのまま毟り取った。覆面男は狼狽し、即座にその場を飛び退いて防護姿勢を取る。バットを取り上げた男はかなりの巨漢で、しかも相当な力の持ち主だ。
「くらえ!」
「……ふん」
 木刀で殴りつけられたその男はそれでも身動き一つせず、逆に木刀の方が真っ二つに折れていた。どのような鍛え方をしたらあんな芸当が出来るんだ? と、漸く体制を立て直した智がその男に注目すると、何と彼は智に向かってニッと笑みを浮かべ、大声で挨拶してきた。
「よぉ、暫くだなぁ旦那!」
「げ、弦斗さん!?」
 智は驚きのあまり、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。然もありなん、何故に彼が此処に居るんだ? という事が不思議でならなかったからである。が、その疑問は即座に、弦斗自身の口から出た言葉で解明された。
「ランニング中に、突然喧嘩腰のやり取りが聞こえたんでな。すっ飛んで来たって訳よ」
「く、訓練中だった訳ですか?」
「自主トレよ、自主トレ! 駐屯地から20キロほど走って、また戻る。このぐらいの芸当は朝飯前さ」
 軽く言ってのけるが、往復40キロの距離はフルマラソンのそれに匹敵する長さ。しかも、現在位置は駐屯地から軽く15キロは離れている。そんな距離を走ってきた後で、息一つ乱れていない。彼は化け物か? と、味方ながらにその実力の高さに唖然として、智は次々と料理されていく暴漢たちの姿を眺めていた。
「さぁて、粗方済んだかな?」
「……結構なお点前で」
「一般人を幾ら倒したところで、株が上がる訳じゃないさ……さて、お上に引き渡す前に、その面ぁ拝ませて貰おうか」
 そう言って、最初に智と揉めていた男の覆面を剥ぎ取ると、そこから出て来たのは……やはりと言うか、同じ会社に勤務する、営業課の社員だった。その他の共犯者たちも同様であり、つまるところ会社内で意気投合した有志の集まりだった訳である。
「やっぱりな。昼休みに展開した問答を聞いて、その日の夜に発言者を襲えるのは、その場で会話を聞いていた奴だけだ。そうじゃなければ、相手の顔だって分からないし、尾行だって不可能だからな」
「何だ、旦那の同僚かぁ?」
「部署は違いますけどね。ただ、これが明るみに出ると、ちょっとマズい事になるなぁ」
 それはそうだ。思想問題から暴力行為に及んだ人間が居るなどと知れたら、会社全体の信用問題に拘る。それは何とかして避けたいところだ。
「おいお前ら、済んじまった事は仕方がないとして、だ。何故こんな卑怯な手口で俺達を襲った?」
「さっきも言っただろう、俺達の崇高な思想を理解できない者はゴミ同様だとな」
 これは、一筋縄では行かないな……と、その回答を聞いた智は困惑の表情を浮かべた。傍らの岡部も同様で、何と声を掛けて良いか分からない、といった雰囲気であった。
「極力表沙汰にはしたくないが、同じ会社の中にこんな過激派が居るとなると、安心して仕事に集中できない。悪いがそれなりの罰は受けて貰うから、そのつもりでいてくれ」
「ふん! 何を信じ、何を正しいと思うかは個人の自由だ。我々は、その数多の思想の坩堝の中で志を同じくすると理解し合えた仲間だ。どのような裁きが待っていようと、恐れるものではない!」
「そう、考え方は人それぞれ、個人の自由だ。が、それは統合思想に反する考え方じゃないのかな?」
「……!!」
 ほんの一瞬、たった一言で論破され、ガクッと膝を折る主犯格の男。まさか自分の言葉を流用した返答で、自分の思想を否定されるとは思っていなかったのだろう。男はそれを境に固く口を閉ざし、項垂れるだけだった。
「脆いものだな」
「まぁ、たった一言で論破されちまったんだ。ショックは隠せないだろうよ」
「それは良いんだけどさ、こいつらどうする? 仮にも同僚だし、警察沙汰にするのは忍びない気がするんだが」
 そう発言したのは岡部だった。確かに彼の言う通り、同僚を警察に突き出すのは気が引ける。拘束された暴漢たちを取り囲み、暫し3人の男たちは思考の闇に落ちた。が、その静寂を弦斗の太い声が破った。
「あい分かった! この喧嘩、この北見弦斗が預かる。双方とも、異論は無いな?」
「お、俺達はいいけど……」
「……異論は無い。ただ、その御仁が何者なのか、それを確かめておきたい」
「おお、これは失礼。俺は陸上自衛隊・東部方面隊第一師団所属、北見弦斗二等陸尉だ」
「じ、自衛官……!! 道理で頑丈な訳だ」
 幾ら自衛官でも生身の肉体を木刀で殴られてケロリとして居られるほど、頑強に鍛えられる訳はない。が、彼らは弦斗が服の下に特殊装甲を纏っているとでも勘違いしたのだろう。しかし、弦斗が他の隊員よりも頑強なのには理由がある。無論、それをペラペラと口外する訳には行かなかったが……
「さ、一緒に来てもらおうか。悪いが今夜は家に帰してやる訳にはいかない。動機や被害の有無に拘らず、事件を起こした事には違いないからな。今夜一晩様子を見させて貰って、その結果如何では警察に引き渡す」
「ちょ、弦斗さん! 警察はまずいっスよ、表沙汰にしたくないから貴方に彼らの処分を任せたんじゃないですか」
 狼狽した智が思わず弦斗を制止するが、彼はガハハと笑い、智の頭をポンと叩きながらこう言った。
「だから、俺が間に入ろうってんだ。奴らがどうにもならない思想犯なら止むを得ないが、そうでないのなら軽い説教だけで済ませてやる。ま、悪いようにはしないから、任せておけ」
「し、信じますよ? くれぐれも、警察は最後の手段にして下さいね?」
「分かってるって! さ、キリキリ歩けい! 駐屯地まで15キロはあるんだ、モタモタ歩いてたら夜が明けちまうぞ!」
 目立たぬよう、磁力式の拘束具を用いて加害者たちの自由を一部奪い、それを率いて徒歩で去っていく弦斗を見て、相変わらず豪胆な人だ……と、智は苦笑いを浮かべた。
「あ、朝倉ぁ、何であんな凄い人と知り合いなんだ?」
「え? あぁ、俺が例の事故で大怪我した時の第一発見者が彼だったんだ。既に息を引き取っていたナベは仕方が無かったが、俺は辛うじて生きていたから、あの人がその場でコアを分離して一命を取り留めたんだ。要するに、俺の命の恩人って訳さ」
「……お前、偉い悪運の強さだな」
「自分でもそう思うよ。さ、随分時間喰っちまった。電車があるうちに帰ろうぜ」
 そうだった、と慌てて時計を見る岡部。彼の自宅は智の家より遠く、途中駅で乗り換えを必要とする為、余計に時間を気にする必要があったのだ。
 こうして、謎の襲撃事件は幕を下ろした……が、まだ問題は残されていた。真犯人が分かったところで、平田と中村の確執が解消するとは言い切れなかったからである。真相を伝えれば、平田は納得して中村を赦免するだろう。だが、今度はその平田に容赦なく糾弾された中村が反攻に転じるだろう。こうなれば事態は解決どころか、更に複雑な問題に変化する可能性が大である。オマケに、真犯人が同じ社内の人間だと知れれば、他部署の人間をも巻き込んだ大問題に発展してしまう。
「仕方ない。芽衣にもう一度、一肌脱いで貰うか」
「中村を裏から抑えるのか。しかし、上手く行くかな?」
「結果は神のみぞ知る! とにかく急ごうぜ。終電行っちまうぞ」
 そうだった! と、二人は駅に向かって走り出した。一抹の不安を残したままではあったが、ここで気を揉んでも何も解決しない。兎に角、打てる手はすべて打とうと、智は考えていた。

**********

『分かった、玲奈にはこの事を伝えておくよ。任せておいて』
 芽衣に事の次第を伝えた智は、この返答を貰ってホッと胸を撫で下ろした。だが、中村の彼女に事情が伝わったからと言って、彼自身が平田を許せるという保証は無い。また、今回の事例を伝えた結果、玲奈にも憎悪の炎が飛び火して、却ってややこしい事態になる可能性も孕んでいる。
「芽衣の信頼を裏切ってまで、彼氏の調教を重視する訳は無いと思うが……」
 一度は安堵した智であったが、よくよく考えればこの報告はリスクの方が大きい。何しろ相手は、短期間で統合運動について殆ど関心を持っていなかった相手を完璧な賛成派に変貌させてしまった実力の持ち主。侮る事は出来ない。こうなると、折角の帰宅日ではあるが、安心して休息など摂れたものではない。そう思った彼は、再び芽衣のアドレスをコールした。
『あ、智! いま電話しようとしてた所なの。大変! さっきの事を伝えたら、玲奈、もの凄い勢いで怒り出しちゃって!』
「チッ、悪い予感が当たっちまったか。裏目に出たな。芽衣、お前自身は大丈夫そうか?」
『うん、玲奈の怒りの矛先は弦斗さんと、中村さんの同僚の……えーと、ナントカさんに向いてるから』
 最悪のシナリオだな……と、智は眉を顰める。今、平田と中村は同じオフィスで深夜勤務中。そこにもし、玲奈からの連絡が届いたとしたら、オフィスは再び修羅場と化すだろう。
「分かった、芽衣はこれ以上この件については何も言うな。最悪、玲奈ちゃんとの関係にはヒビが入るかも知れないが……」
『仕方ないよ、思想問題って言葉だけで何とかなるような、甘い物じゃないもんね』
「すまん。じゃ、一旦切るぞ。俺は社に連絡して、中村の奴に釘を刺さなきゃならん」
『うん、頑張って!』
 徐々に破局の音が聞こえて来るような気がして、焦りの色が徐々に表情に現われ始めた智だったが、こうなった以上は座して様子を伺っている訳にはいかない。既に中村が連絡を受けてしまった可能性は濃厚だったが、仮にそうだとしても、平田との悶着はプライベートとして割り切れと命じておく必要があるのだ。彼は急ぎ、オフィス内の中村のデスクへ直通電話を掛けた。
「もしもし? 朝倉だけど」
『あー、何だお前か。どうした? 折角の帰宅日なんだから、ゆっくりしてろよ』
 声は確かに中村のものだ。そして彼は取り乱したり、怒りを露わにしてはいない。まだ連絡は受けていないのだろう……そう思って、智は玲奈というファクターを敢えて避け、自分が帰宅途中に襲われた事実からアプローチを開始した。
「いや、ちょっと耳に入れておきたい事があってな。実はさっき、俺と岡部も金属バットを振り回した奴らに襲われ掛けたんだ」
『あー、聞いたよ。大変だったな』
 既に情報は行き届いている……? 一体誰が? と、智は思考を巡らせた。考えられるパターンは二通り。岡部が連絡したか、或いは玲奈が芽衣との通話の後すぐに連絡したか……その如何によって、それ以降の話し方を変えなくてはならない。智は最悪のパターンを避けるように言葉を選びながら話を運んだ。
「岡部から聞いたのか?」
『いんや? 玲奈から連絡があったんだよ。もの凄く怒ってたけど、何とか宥めたよ』
 何だと!? と、智は驚嘆の表情になる。今朝は平田とのやり取りでさえ流せずに喧嘩沙汰になっていた彼が、どうして……という事が不思議でならなかったのだ。が、中村は淡々と話を続けた。
『真剣に統合化の事を考えるのは分かる。しかし本当にそれを望むなら競合する相手を駆逐する事を考えたらダメだ、相手の考え方を跳ね除けるのではなく、受け容れた上で説き伏せるようじゃないといけない……こう話したら怒りが収まったみたいでね。お前の彼女にも謝るって言ってたぞ』
 何と、中村は既に、統合思想の勝利の鍵を握る答えを理解していたのだ。そしてそれは今朝、平田と言い争いを展開していた人物の言葉とは思えないほど、実に穏やかな話口調だった。
「そ、そうだよな……じゃあ、平田とは?」
『あぁ、仲直りしたよ。って言うか、お前らが帰った後、休憩室で奴と鉢合わせしてな。その時にやり合ったんだけど、その時に平田が俺の文句を今の台詞で返したのさ。そこに俺は感動してな』
「平田が!? あいつ、反対派じゃなかったか?」
『そうだよ。根っからの反対派だ。けど、奴は俺よりずっと前から運動に参加しているベテランだ。だから反対派の弱点や、賛成派の美点もしっかり理解してたんだな。だから、あの台詞が言えたんだと思う。お前は真の賛成派ではない! と一括された時は、頭をガーンと殴られたようにショックだったけどね』
 成る程、そう考えれば納得がいくな……と智は感心した。そして同時に平田は今朝の段階では闇討ちされた悔しさで頭が一杯で、広範囲に視野を広げる余裕を失っていただけなんだなと云う事も同時に理解した。
『で、その直後に玲奈から電話があって、真犯人が社内の人間だって事もすっかり教えて貰った。その事情を平田に話したら、疑って悪かったと頭下げられてさ。まぁ、気まずいのなんの!』
 笑いながら話す中村だったが、さっきまでいがみ合っていた相手と即座に和解できる柔軟な思考は、一朝一夕に培われるものでは無いだろう。だとすると、二人とも支持する考え方は違えど、性根は似ているのかも知れないな……と、智は思っていた。
「分かった……いや、芽衣から連絡を貰った時は肝を冷やしたが、蓋を開けてみれば平和的に解決していた、か」
『雨降って何とやら、さ。まぁ、お蔭で俺も反対派の奴らがどういう思想を持ってるか分かった気がするし、競合相手の意見を跳ね除ける事だけが自分たちの主張を貫く事にはならないって事も理解できたからな』
「じゃあ、喧嘩の元を作った真犯人はどうする?」
『それは俺が直接被害に遭った訳じゃないから分からんが、奴は絶対にそんな事を根に持って報復したりはしないと思うぜ』
 その回答を聞いて、この分なら奴らの事は大丈夫だなと安心した智は、忙しい時に悪かったと一言詫びた後、受話器を置いた。残る懸念は、いま弦斗に絞られているであろう6人の暴漢たちである。主犯格の他、2名が見覚えのある顔だった。残る3名が社内の人間か、そうでないかはまだ分からなかったが、少なくとも同僚3名とはこれからも顔を合わせる事になるのだ。
「これからは、冗談抜きで迂闊な事は口走れないな」
 それは、心底からの呟きだった。主犯の男が言っていた通り、何処に監視の目が光っているか分からないのだ。そして、今回のような過激派も何処に潜んでいるか分からない。これから益々激化するであろう統合運動の是非を巡る争いを前に、智は不安を隠せなかった。
 そして後日、営業課から3名の社員が免職になったという急報が入った。弦斗の懸命な説得も無駄に終わり、結局彼らは警察送りとなって、その直後に懲戒処分となったのだ。
「あの時、お前に論破されたのが余程悔しかったんじゃないか?」
「かも知れん……でも、だとしたら彼らの統合運動への参加は意味を成さない。それが賛成であれ反対であれ、過激派を増やし、運動そのものに対する不信感を煽るだけさ」
 智が静かに呟くと、彼を取り囲む5人は一斉に頷いた。そして彼らは『真の統合政府とはどのような物なのか』という事を、真剣に考える切っ掛けを得るのだった。

第五章 205便

「やー、すまん! 結局、説得し切れんでな。お上に引き渡すしか無かったんだ」
「そんな、弦斗さんの所為じゃないですよ。連中は元々危険思想を持った過激派だったんですから。それに、表向きは任意退職って事になってますから、会社的にも損害はありませんし」
 先日の捕り物騒ぎで解雇された3名の社員を説得できなかった件で、弦斗が智に詫びを入れに来ていた。場所は智の勤務する会社の小会議室。呼び出して貰えれば外で会う事も出来たのだが、そこはお堅い職に就く弦斗らしく、キチンと受付で訪問先と用件をキッチリ吐露してしまったので、来客扱いとなり、こうして社内のオフィシャルルームに通されて話をする事になったのだった。
「ところで弦斗さん、つかぬ事をお伺いしますが……貴方がサイボーグである事は以前聞いているので知ってますが、どの程度改造されているんです?」
「んー? 脊髄と消化器系、呼吸器系、循環器系の内臓全て。それに、胴体の骨格と筋肉を人工の物に替えてある。つまり、頭と手足以外は全て作り物さ……それがどうした?」
「あ、いや、ランニングで鍛えるぐらいだから、心臓とか肺なんかは生身なのかと思って」
「あー、アレかぁ。アレはな、心肺機能の強化じゃなく、生身のままの四肢を鍛える為にやってるんだ。ランニング40キロ、腕立て伏せ、腹筋、スクワットを千回ずつ。これを毎日朝晩欠かさずやって、漸くこの身体を維持できてるんだ」
 サラリと言ってのける弦斗だったが、常人がこなせる範囲のトレーニングではない。それに、生身のままの腕や脚はともかく、何故に人工筋肉で組成されている胴体まで鍛えるのか、そこが疑問に思えた智は、ほぼ無意識にそれを問い質していた。
「何故って、人造の物とはいえ生体細胞を培養して組成された筋肉なんだぞ。生身の筋肉と同じで、鍛えなきゃしぼんじまうんだよ」
「はー、成る程……でも筋肉はともかく、骨格はどうなってるんです? 普通、そんな無茶な鍛え方をしたら疲労骨折しちゃうでしょ?」
「そこなんだ。だから少々金は掛かるが、四肢の骨格も人造の物に替えようかと思ってる。このままではいずれ、筋肉の強度を支えきれなくなるからな」
「大変なんですね……」
 普段から常に最前線で身体を張っている弦斗。彼は未だに恋人・アリーシャの復活に拘り、危険手当の高い任務に進んで志願している。だからこそ、強靭な肉体の維持は必要不可欠なのだった。と、話が脇に逸れてしまったので慌てて締めに掛かろうと智が思考を切り替えたその時、彼の携帯電話が着信を告げるアラームを鳴らし始めた。しかし彼はそれに応対しようとはせず、無視を決め込んでいた。
「おい旦那、鳴ってるぞ?」
「いいんです。このメロディの時は、必ずイタ電ですから」
「イタ電? おいおい、変なアンケートなんかに答えたんじゃなかろうな?」
「違いますよ。出ても無言で、暫く放置してると向こうから切っちゃうんです。だから出るだけ無駄なんです」
 だったら、着信拒否すれば良いんじゃないか? と、弦斗が尤もな意見を口にする。しかし、それをやってしまうと、今度はオフィスの電話から呼び出されて、結果は同じになるのだという。独自の追跡プログラムを用いて逆探を仕掛けた事もあったが、どうやら相手は携帯電話から番号非通知で発信しているらしく、基地局のアンテナまでしか追跡できない。アクセスポイントも日によってバラバラで、発信位置の推定すら出来ない状態なのだった。つまり彼は、オフィスに掛けられて皆が迷惑するくらいなら、自分で受けて我慢しようという結論に達した……と、こういう訳であった。
「ふぅん? 何だか妙な話だな。その電話、旦那をピンポイントで狙って来るのか?」
「ええ。丁度、事故調査委員会の方々にお目通りした頃から、毎日4~5回は掛かって来てますよ」
「何だと? あれから3か月は経ってるぞ、その間毎日か?」
 はい、と答えた智の顔には、もうウンザリなんですけどね……という感情が滲み出ていた。然もありなん。昼夜を問わず、毎日毎日掛かって来るのだ。しかし、電話番号を変える事も、電話機自体を新しい物に替える事も出来ない。それをやってしまうと、オフィス全体に迷惑が掛かる事が分かっているからである。
「お上に相談……」
「しましたよ。でも、ネット上にもこうした粘着は腐るほど居るし、イタ電ぐらいで警察は動けないと一刀両断にされました」
「なんとまぁ……」
 流石の弦斗も、この事実には驚いたようだ。自分が同じ境遇になったら、苛立ちに耐え切れず電話機を破壊してしまうだろうと、智に向けて同情顔を向けた。
「ま、少々根の暗いファンが居るとでも思えばいいんですよ。こんな事にいちいち構ってられません」
「しかし、アラーム音が鳴るだけでも迷惑にならんか?」
「嫌いなんですよ、バイブにしとくの」
 ムスッとしたような顔で、智が答える。曰く、バイブ状態だと電話を身体から離した場合に着信に気付きにくいし、あの振動はくすぐったくて敵わないから、と云うのが主な理由らしい。だから着信音量を極力絞って、出来るだけ周囲に聞こえないようにと、彼なりに気を遣っているのだった。
「さ、こんなイタ電の事は忘れて下さい。これは俺の個人的な事情ですから」
 そう言って、智は笑顔を作って気丈に振る舞った。しかし、実際はかなりのストレスになっているのだろう。彼の顔には明らかに疲労の色が見え隠れしており、着信があった瞬間などは一瞬ではあるが、酷く表情を歪めていたのだから。
「無理しねぇで、限界来たら相談しろよ?」
「お気遣い、ありがとうございます。ま、無言電話ごときに振り回される俺じゃないですけどね」
 痩せ我慢しやがって……という台詞をやっとの事で呑み込んだ弦斗は、勤務中に邪魔をしたなと言って去って行った。因みに彼も勤務中だったのか、相変わらず自衛隊の制服を着用していた。流石に装備品は付けていなかったようだが。

**********

 RRRRRRRRR・RRRRRRRRR……

 智は、またか……という表情になり、胸ポケットから携帯電話を取り出す。そのディスプレイには、相変わらず『非通知』としか表示されていない。が、その時の彼は何か直感的に引っ掛かる物を感じたのか、はたまた単なる気紛れか。普段なら無視を決め込むその着信を敢えて受け、悪戯で返してやろうと思い付いたのだった。
「コノデンワバンゴウハ、ゲンザイツカワレテオリマセン。バンゴウヲオタシカメノウエ、モウイチドカケナオシテ……」
 お約束の悪戯である。彼はかねてから用意していた合成音声のメッセージを受話器に流し、相手の出方を伺った。すると意外にも、いつもは無言で終わるその相手から、初めて発声が届いたのだった。しかしその音声もまた合成音声であり、しかも智にとってはこれ以上ないぐらいに効果のある内容だった。
『……ブルースカイ・205……ブルースカイ・205……』
「……!!」
 智は思わず息を呑んだ。その文句は連続で15回繰り返され、最後に『アサクラサトシ、オマエニハキエテモラウ』と結んでブツッと切れたのだ。
(……合成音声だな。あれは肉声じゃない。これはれっきとした脅迫電話だ……しかも、恐らくは此方から何か語り掛けても、何も答えずに同じメッセージを繰り返すだけだろう……ちょっとしたサスペンスだね)
 ちょっとした、どころの話ではない。本格的なサスペンスである。何しろ相手は名指しで自分に対して殺害予告を突き付けて来たのだから。
「朝倉クン、どうしたの? お約束な悪戯……朝倉クン!?」
 先刻の悪戯が耳に届いたのだろう、お茶を配っていた美樹が智に声を掛けた。が、その顔を見て美樹は思わず慄いた。何しろ、智の顔は真っ青に染まり、額から脂汗を流しながらガチガチと歯を鳴らして震えていたのだから。
(どうしたの!?)
(美樹ちゃんか……ここじゃダメだ、会議室をキープしてくれ。急いで!)
(い、いいけど、一体何があったの?)
(後で話す!)
 声は出さず、互いに読唇術を用いて密談を成立させ、二人は何事も無かったかのように振る舞う。先日のような忙しさは無く、比較的落ち着いた状況だったので、少々席を外しても問題は無い。ともかく急いで関係者を集めて、この事を知らせなくては! と、智はギュッと唇を噛んでいた。

**********

「な……」
「何だ、これは!?」
 美樹が押さえた小会議室の中に、人影は3つ。智、美樹、そして駐屯地に戻る途中を呼び出されてとんぼ返りして来た弦斗の3名だ。智は先程の通話を途中から録音し、それを外部スピーカーから流して二人に聞かせていたのだった。
「以上、お終いです。さて、これをどう捉えるか、ご意見を賜りたいと思います」
「ご、ご意見も何も……これって立派に犯行声明じゃないですか!」
「そうだぜ、しかも名指しで! ……おい旦那! こりゃあ、かなりヤバい事になってるんじゃねぇか?」
「やっぱ、そう思います?」
 涼しそうな表情を作る智だったが、声が震えている。かなり重いプレッシャーと戦っているのが、外から見ても良く分かる程だった。
「以前ネットに流出した205便の乗客名簿に付けられたファイル名、そして今回のこのメッセージ……これはどう考えても、同一人物の手によるものに違いないですね」
「組織的な犯行と捉える事も出来るな。ま、どっちにしても、あの事件の真相を知らなければ出来ない芸当だが」
 美樹の分析を、弦斗が更に深く読んで補足する。しかし、どちらの言も共通するのは、これはあの乗客名簿を流出させた犯人と、濃密な関係を匂わせると云う事だった。
「着信時刻がしっかりと記録されているから、これを手掛かりに電話局のログを追跡する事は出来る。だけど、それを実行するには、正式な令状が必要になるな」
「しかし、その権限を持つのは警察だけだ。だがご存じの通り、この件についてはウチの上層部から、厳しい緘口令が敷かれている。これを解かない限り、警察に通報する事は出来ないぞ」
 弦斗が渋い顔で、最も頼りになる機関への通報が出来ない事を悔やんだ。だが、事は急を要すると判断し、幕僚たちに事情を説明しようとした。しかし、そのクラスに直接話が通る訳は無く、連絡は事務局止まりとなった。その間、智と美樹はネットに関連情報が拡散していないか、それを調査する事にした。すると、驚くべき検索結果が山のようにヒットしたのである。
「こ、これ……」
「昔の俺だ……俺の、以前の顔写真だ……」
 何と、事故以前の智の顔写真とプロフィールが、微妙に名前を変えたファイルでゴロゴロと出て来たのだった。『Wanted!』の文字付きで。無論、これは智のフルネームと『205』というキーワードを知らなければヒットしない、以前の乗客名簿流出の際とほぼ同一の手口によるものだったので、一般に拡散する可能性はほぼ無いと言えた。しかし、こうしてネット上に拡散された情報を、誰かが拾っているのは確かなのだ。これは座視できる問題ではない。
「賞金首、か……つまりは『この顔を見付けたら殺せ』って事だよね、これ」
「対象は統合運動反対派のテロリストで間違いなかろう。つまり、唯一の生存者である旦那を消す事で、例のテロ事件を完全に隠蔽しようという企みだぜ。当局が民間人のパニックを恐れて真相を公表できないのを逆手に取った、巧みな手口だ」
「という事は……前にあの画像を流布したのも、テロリストって事!?」
 弦斗は『そうだろうな』と言って首を縦に振り、智の質問を肯定した。その表情からは普段の飄々とした雰囲気は消え失せており、触れれば切れる剃刀のような鋭さを見せていた。
「しかも、旦那が生きている事をテロリスト達は知っている。その情報が何処から漏れたのか、それは調べてみないと分からんが……」
「兎に角、早急に事故調と航空会社に連絡しましょう!」
「賛成だな。この情報を一番欲しているのは、他ならぬ彼らだ」
「警察は?」
「幕僚長が緘口令を解けば、自然にそっちにも通報される。俺たちの出る幕じゃない」
 それもそうか……と、智と美樹が頷き合う。ふと時計を見ると、時刻は午後3時半。退社時刻にはまだ早いが、自分たちの命が掛かった大事件が水面下で展開されているのだ。四の五の言っては居られない。智と美樹は弦斗の作成した偽の呼び出し状を上司に見せて早退させて貰い、外で待機していた弦斗と合流して彼の手配した自衛隊の公用車で駐屯地へと向かった。

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 以前、通された事のある陸上自衛隊駐屯地内の会議室。そこに、数か月前に集まった面々が再び顔を並べていた。しかし、その雰囲気は前回とはまるで違う、かなり緊迫したものだった。
「このメッセージは、君の狂言ではないのかね?」
「このような悪質な悪戯を、自ら行って私に何の得があるのですか?」
 先程と同じように、智は録音されたメッセージをスピーカー越しに再生し、事故調査委員会、航空会社幹部、陸上自衛隊幕僚クラスの高級士官といったお偉方に脅迫されている事実を突き付ける。その行為に対する最初の返答が先の一言だった。
「これは立派な脅迫電話です。私・朝倉智は確実に命を狙われております。しかも、犯人は既に此方の個人情報を犯し、こうしてメッセージを送信して来ているのです。勤務先も割れていますし、実力行使に出られるのも時間の問題です!」
「ふん……その音声記録が本当にテロリストからのメッセージであると、誰が証明できるのかね? そんな合成音声なぞ、素人にだって作れる。それを他の電話から流せば良いだけの事だ、証拠にはならんよ」
 応えたのは参謀長の伊藤一佐であった。彼は智の証言を狂言と決め付けて掛かっている風であり、真剣に聞くどころか、嘲るように鼻で笑いながら吐いて捨てた。因みに、先の第一声の主も彼であった。
「左様。発信者が誰なのかがハッキリ証明できない限り、当局が動く訳にはいかない」
 事故調査委員会も、智の証言を退けるスタンスだった。証拠としてはインパクトに欠ける、と云うのがその理由である。
「こんな真似をして得をする人間が、爆破テロの犯人グループ以外に居るものですか! 第一、このような文句は私が205便の搭乗者だった事を知らなくては出来ない事でしょう? それとも、この中にお心当たりのある方が居るとでも?」
「まぁまぁ、アツくなるな旦那……彼の言は虚偽の物ではありません。実際に同一犯と思われる発信者からの着信があった瞬間に、私も立ち会っています。その際に伺った話では、彼は一日に数回、昼夜を問わずに掛かって来る無言電話に悩まされていたそうです。発信者から具体的なメッセージが届いたのは今回が初という事ですが、それも事実であると断言できます」
 その発言に続き、弦斗は智が既に逆探知の要請に踏み切った事や、警察に通報して発信者の特定を依頼した事があるという証言も添えて、着席した。その後、暫く一同はザワザワと意見交換を続けていたが、結論は『発信者が此処に居る人間以外であると証明されない限りは、そのメッセージが犯行声明であると断定する事は出来ない』という物だった。

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「話にならんな」
「飛び付いて来ると思ってたんですけどね。考えていた以上に頭が固いですね、上の人たちは」
 眉を顰めながら不満を露わにする弦斗に対し、智も『あのリアクションは意外だ』と云った感じの回答を返す。場所は会議室から離れた休憩室。彼らはそこで小休止を摂り、めいめいに好みの飲み物で喉を潤していた。
「この音声データだけじゃ、証拠になりませんかね?」
「難しいだろうな。なんせ発信源も曖昧、声はサンプリング。ま、少なくともこの3人が送り主じゃない事だけは確かだが、そうなると逆に問題は泥沼化するんだ」
「だな。何せ『ブルースカイ205』と『アサクラサトシ』の因果関係を知っている者でなければ、この犯行には及べない。しかし、そうなると航空会社か俺達、自衛隊のどちらかに内通者……統合反対派のスパイが居るという事になる」
「そっか……どちらも、痛くも無い腹を探られるのは嫌だろうから、調査はどうしても後ろ向きになるよね。増して、どちらかからスパイ疑惑が発覚したら、メンツ丸つぶれだし」
 そういう事! と言って、弦斗は美樹の頭をポンと撫でた。なお、事故調にも同じ容疑が掛かって然るべきであるが、前述の両者に比べればその確率は極めて低い。何故なら、彼らは文字通り事故の詳細を調査する為、事故の後で組織された国土交通省に勤務する役人の集団。彼らのように要職に就く者が、証拠隠滅のために唯一人の人間を付け狙うとは考えにくいからである。
「無駄足だったかな?」
「まぁでも、新たな火種を仕掛ける事は出来たんだ。流石に少しは捜査の幅も……」
 弦斗がそこまで言い掛けた時、休憩室の片隅で点けっぱなしになっていたテレビから耳を疑うようなニュースが報じられた。内容は単なる殺人事件だが、被害者の名が『アサクラサトシ』なのである。しかも、現場は智の会社のごく近所であった。
「なッ……!?」
「これは偶然か? それとも、俺を狙った殺し屋が同姓同名の人物を殺害したのか……?」
 無論、智たちは急ぎ会議を再開させて、先の報道を報告したが、それでも上層部のお偉方は動こうとはしない。まだ断定は出来ないという、保守的な姿勢をキープしているのだ。
(嫌な予感がする……犯人は俺の個人情報や、勤め先まで知っているんだ。今回は偶然にも同姓同名の人が身代わりになったが、いつこの俺に的を絞って来るか分からない。急いで手を打たないと、大変な事になるぞ?)
 その、智の予感は的中した。その日を境に、『アサクラサトシ』と言う名の男性が悉く犠牲になり、その数は既に5名を超えていた。幸い、肉体を替えた後の智の情報は流出していないので、彼自身はまだ被害には遭っていない。しかし、発見されるのも時間の問題であろう。彼は万一の事態に備え、『三浦義和』と云う偽名を使って自らの正体を隠蔽した。
(早く手を打たないと、犠牲者が増えるばかりだ。急いでテロリストの尻尾を掴まなくては……)
 智は焦った。自分の所為で、無関係な一般人が次々と犠牲になるその様を、黙って見ては居られないのである。勿論、事故前とは容姿もガラリと変わり、偽名まで用いている彼がそう簡単に見つかる筈は無いのだが、そういうレベルの問題ではない。関係の無い一般人がトバッチリを受けているとなれば、黙って見ては居られない。
(自衛隊も航空会社も、何をやっているんだ! 早く警察当局に情報を開示して、真相を探るべき段階に来ているだろうに!)
 ここまで被害規模が拡大しているにも関わらず、相変わらず真相については黙秘を続ける両者に、智はいよいよ以て苛立ちを覚え始めた。そして彼は予測していた。事故調は論外で、自衛隊か航空会社のどちらかか、或いは両方にスパイが居る、と
(しかし、腑に落ちない……電話番号や勤務先まで把握している連中が、何故、過去の俺の顔写真を流布したんだ? 今の姿を流布する事も、奴らの情報収集力を以てすれば簡単な筈……ん? 待てよ!?)
 智は此処で、犯行組織も一枚岩では無いのではないかと云う推論に達した。もし単独犯の行動で、しかも自分の姿を見知った者があの情報を流布したのであれば、情報は最新のもの……つまり、今の顔写真が公開されている筈だからである。

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(!! ……また来た!)
 謎の無言電話が脅迫電話に変わったあの日から、智は携帯電話を2台持ちにして対応していた。元の電話は脅迫電話対応用、新しい電話を通常の用途にと使い分ける事にしたのである。それは大正解で、毎日のように掛かってくる脅迫電話をこうして傍受しながら、音声を消しつつバイブもオフにしておけば不在着信のログだけが溜まり、通常の通話には影響しないからだ。
 何故、解約や番号変更に踏み切らないのかは先に述べた通りだが、彼は今、あの日……事故機の座席を確保する際に記入する情報として、携帯電話の番号を選んだのは失敗だったと後悔していた。しかしあの時点では、最も後腐れの無い選択肢であったと思っていたのだ。何しろ自宅の電話番号などで登録していたら、そこから住所まで割れてしまう。逆に携帯電話の番号から所有者の氏名が割り出せたとしても、そこから先の情報は引き出せない。電話会社にも守秘義務があり、固定電話の番号を電話帳に掲載するのにも許可が必要なご時世なのだ。簡単に顧客の個人情報を割るような事はあり得ない。だからこそ、情報がリークしても手放してしまえば安全な携帯電話を選んだ訳だが、まさか、それが仇になるとは思っても居なかったのだ。
 無論、このような事態になるとも思わなかった訳であるが……

 PiPiPiPi! PiPiPiPi……

 今度は普段用の新しい携帯電話への着信である。なお余談であるが、彼らの持つ携帯電話は固定電話と同じで、通話相手の姿や周囲の風景をホログラフィーによる立体映像で表示する事が任意に行える機能を備えている。無論、掛ける側の意思で表示を許可するかどうかが選択でき、受ける側のシチュエーションによって画像を表示するか否かを選べる仕組みになっている。
 さて、その電話の相手は芽衣であった。しかし時は午後4時を回ったところ、まだ勤務中である事は分かっている筈である。
(変だな、俺の勤務中に私用電話を掛けて来るような奴じゃないのに……)
 些かの疑問を抱きながら、彼は通話スイッチを押した。無論、勤務中なので画像はオフに設定してある。
「もしもし? どうした芽衣」
『智!? いま、アパートに帰ったら……部屋がメチャメチャになってたの!!』
「何だと!?」
 受話器から聞こえてきたその声に、智は思わずオフィス全体に響き渡る程の大声で返答してしまった。幸い課長は会議で不在、中に居たのは同僚たちだけだったので咎めは受けなかったが、代わりに何だ何だと皆が寄って来てしまった。そうなっては最早隠し立ては無理となる。何故なら『アサクラサトシ』連続殺害事件のお蔭で彼を取り巻く事情は社内に知れ渡ってしまい、彼に謎の怪電話が掛かって来る事を知らない者は居ないぐらいになってしまっていたからである。知れていないのは根底に当たる部分、つまり件の航空機事故の事ぐらいであった。
「芽衣、会話オープンにするから、出来たら今どういう状況か、見せてくれないか?」
『……うん、そのつもりで電話したの。美樹ちゃんも居るよね?』
「居るよ。ついでにチームの皆もだけど……な」
 少々気まずそうに、智は周りを見渡しながら返答する。そして芽衣の了解を取った後、彼はホログラフィー機能をオンにした。そこに映し出された映像は……まさに驚嘆に値する物だった。
「酷ぇ……」
「何で、こんな事に?」
 皆が口々に驚きの声を上げ、中村などは彼女の親友を恋人に持つ為に、怒りに打ち震えていた。
『わかんない……取り敢えず上の人が騒ぎに気付いて降りて来たらしいんだけど、その時には既に部屋はこの状態で、ワゴン車が急発進して行くのだけが見えた、って……』
「通報はしたのか?」
『いま言った上の人がやってくれたみたい。もう直ぐお巡りさんが来るって言ってた』
「今日は定時で帰る、警察の事情聴取が終わったらお前は俺の家に行ってな。その有様じゃ寝る事も出来んだろ」
『ありがと……何か分かったら、帰ってから話すね』
 そこまで話して、通話は終わった。この時点で、何故芽衣が被害に遭ったのか、ピンと来たのは本人を含めて2名だけ。他の同僚たちの推理は『アサクラサトシ』の身内だってバレたからじゃないか? と云う憶測までで止まっていた。まぁ間違いでは無いのだが、その理由を明かす訳にはいかなかった。理由を知れば、その時点でその人もターゲットになるからである。
「皆、すまん……」
「気にすんな! 定時と言わず、今すぐ行ってやれよ! 彼女、相当ショック受けてるぜ?」
「そうだ朝倉、フォローは皆でするから! タイムカードは定時で押しといてやるよ、どうせ課長は夜まで戻らねぇからな」
「……すまん!」
 項垂れて、深々とお辞儀をする事しか出来ない智を見て、同僚たちは『チーフ不在でも、何とかなるってトコを見せてやれ!』と声を張り上げ、気合いタップリに各々のデスクへと戻って行った。そして美樹は……
(ついに芽衣ちゃんまで……)
(いや、こうなる事は薄々分かってたんだ。電話番号から俺の素性が割れた時点からな)
(え?)
(俺の戸籍、今のアイツの家で登録してあるんだ。元々あそこは俺の家だったんでな。だからパスポートも……)
 その返答に、美樹は黙り込んでしまった。返す言葉に困っていたのだろう。
 航空券を買うだけならば氏名と電話番号の入力だけで済むのだが、パスポート申請はそう簡単には行かない。戸籍謄本を提出して身分証明をする必要があるからだ。そしてそれを申請した当時、彼は現在芽衣の部屋となっているアパートに住んでおり、大学に入る為に上京してきた彼女を招き入れて同居していたのだ。
 彼らが知り合ったのは大学時代の事。智が4回生の時に芽衣が入学して来て同じサークルに入ったのが切っ掛けで仲良くなり、そのまま恋仲になったのだった。後に智が就職して現在のアパートからでは通勤に不便となる為、部屋を彼女に明け渡して自分が新しいアパートを借りたので、実は芽衣の部屋は未だ智の名義になっているのである。
(不幸な偶然が重なったんだね)
(アイツが卒業したら広いアパートに引っ越してまた同居するつもりだったから、それまでは……と思ってたんだよ。でも、間に合わなかった)
 悔しそうに唇を噛む智を見て、美樹はその肩をポンと叩くと『済んでしまった事を悔やんでも仕方が無い、今は被害が拡大しないよう努力する時だよ』と言って彼を送り出した。そう、今の彼に必要なのは悔やむ事ではなく、これから更にエスカレートするであろう、彼と彼の周辺への危害に対抗する手立てを考える事である。
(待ってろよ、芽衣! 今すぐ行くからな!)
 智は会社の前でタクシーを拾い、芽衣のアパートへと急いだ。日暮れまでに到着する事が出来れば、人目があるので同一犯による追撃は回避できるだろう。それに運が良ければ、自分の口から警官に事情を説明する事も出来るかも知れない。もはや事故調の決定を待って居られる状態ではない。こうして実害が出てしまっているのだ。
(弦斗さんには悪いが、ジジィどもの保身に付き合ってる暇は無くなった。俺は一人ででもテロリストと戦う!)
 その決意は本物だった。彼は敢えて緘口令に背き、警察を味方に付けて戦う決心をしていた。場合によっては弦斗という強い味方を失う事にもなりかねない危険な賭けだったが、自分の恋人にまで被害が及んだのではモタモタしては居られない。それに今こうしている間にも、同姓同名の『アサクラサトシ』が次々と狙われているのだ。冗談ではなく、一刻を争う事態になっているのである。しかし……
(あのジジィども、実害が出ているのを目の当たりにしながら、どうして防御に出ようとしないんだ?)
 事故後の手際の良さ、その後間髪入れずに現れた『身体の持ち主』、そして的確にピンポイントを狙った犯行声明……何もかもタイミングが良すぎた。ここまで来ると、コンピュータウィルスの駆除ソフトを開発している会社が実はウィルスの発生源、というブラックジョークに通じるものがある。実に笑えない、性質の悪い冗談だ。
(……テロリストのハッキングを受けた事を隠蔽? いや、それはどちらにも可能性があって、片方が事を秘匿しているなら、もう片方はそれを暴こうと必死になる筈。だが、そんな様子は無い。むしろ、此方が情報を公開するに連れて被害範囲が拡大している。となると、やはり……?)
 考えたくはない事だったが、考えざるを得ない。智はこうして、どんどん疑心暗鬼になっていくのだった。

**********

「芽衣!!」
「あ、おかえり。早かったんだね?」
 智が芽衣のアパートに到着した時、彼女は警察の事情聴取を終えて荒らされた部屋の後片付けに取り掛かっていた。ショックと疲労のせいだろうか、些か顔色が優れないように見える。
「すまねぇ、俺がパスポートの書き換えをマメにやっていれば、お前に迷惑かける事も無かったのに」
「何で謝るの? 私が押し掛け女房やった挙句に智を部屋から追い出したんだから、智は悪くないよ」
 気丈な態度で笑顔を作るが、やはりショックは隠せないようである。その証拠に動きはぎこちなく、声にも張りが無い。相当無理をしている……一目でそれが分かる程に。
「兎に角、この部屋はもうダメだ。テロリストに嗅ぎつけられた以上、住み続けるのは危険だよ。俺の部屋に来い、ちょっと狭いかも知れんが……」
「……思い出、いっぱいの……部屋なんだけど……な……」
「そんなの、また作ればいいじゃないか。部屋はメチャメチャにされたが、留守だったからお前は無事だった。むしろラッキーだったのさ」
「うっ、うっ……ゴメンね、ゴメンね智……」
「日が暮れる、貴重品だけ持って此処を出よう。まだ奴らが見張っているかも……っと、待てよ?」
 声をしゃくり上げる芽衣を優しく抱き寄せながら、智は彼女に対し精いっぱいのフォローをする。そして彼が退室を勧めた時、ふと脳裏を過った嫌な予感。彼は自分の心が、最大限の警鐘を鳴らしているのに気付いていた。
「予定変更だ、芽衣。今夜はホテルに泊まろう。今、家に帰るのは危険すぎる」
「!! まだ近くに?」
「そんな気がするだけだ……けど、用心に越した事はない。しかし明日、ホテルから出る時に隙があったら……仕方ない、最強のボディーガードを呼ぶか」
「それって、もしかして……」
 当たり! と、智はニッコリ笑って彼女の考えが正解である事を示す。そう、最強のボディーガードとは、彼の友人の中でも最高に強靭な残念ゴリマッチョの肉体を持つサイボーグ戦士、ロシア産和製ゴブリン・北見弦斗二等陸尉……その人であった。
(もし俺の予感が正しい場合、何処に逃げても相手は追って来る。だが、その懐に飛び込んでしまえば……)
 自分の仮説を聞いて貰う為にも、彼に会う事は必要だった。それに、危険な過激派に追われている今、身を守る最高の場所は相手の懐の中。つまり、自衛隊の駐屯地に暫く匿ってもらう事を、智は考えていたのだった。テロリストも、まさか自分自身に向けて銃口を向けるような愚は出来まい、と。

第六章 虎穴

 破られた窓ガラス、だらしなく垂れ下がった壁紙、破壊し尽くされた家具一式……呼び出されて直ぐにこれらを目の当たりにした弦斗は、その片付けに奔走している智と芽衣に、何と声を掛けて良いか分からずに立ち尽くしていた。
「済みませんね、もうちょっと片付けたら出られますから」
「あ、あぁ、お構いなく……ゆっくりやってくれ」
 想像以上にエスカレートしている犯人の行動に、弦斗は寒気すら感じていた。事の徹底ぶりも凄まじいが、何より被害の拡散スピードに驚いていた。智に宛てられた脅迫電話を議題にして会議を開いたのが一週間前、その時彼女は列席していなかった。なのに、現在こうして凄惨な被害を被り、泣くに泣けない状況に陥っている。ただ『朝倉智の身内』というだけの理由で、だ。
「通帳や判子は?」
「無事だよ。物盗りの仕業じゃないみたいだね」
 貴重品の入っていたクローゼットも見事に破壊されていたが、中身に手を付けられた形跡は無いという。目撃者証言によれば人気を察知した犯人は即座に逃げ去ったという事らしいので、金品に手を付ける前に逃げざるを得ない状況に陥ったという可能性も捨て切れない。だが、物盗りであればここまで激しく破壊行為を行う事は無い。第一、物音を立てれば金品を物色する前に発見されてしまう。これは明らかに、智を精神的に追い詰める為の策略であろう。しかし、芽衣が住んでいる部屋が元々は智の部屋であり、名義も彼の物である事を知らない弦斗は、何故このタイミングで芽衣の部屋が襲撃されたのか、その理由が分からずに頭を捻っていた。
「なぁ旦那、事件の事は喋っちゃいないだろうな?」
「そんな真似、する訳がないでしょう。わざわざ自分の寿命を縮めるような事を自分でやる馬鹿が居ますか?」
「うむ……しかし納得が行かん。旦那自身や、その自宅が襲撃されるなら話は分かるが、何故嬢ちゃんの部屋が襲われたのか、そこが腑に落ちん。彼女が旦那の身内だという事は、プライベート以外ではウチの上司と航空会社、それに事故調の一部の人間しか把握して無い筈だぜ。なのにどうして、その素性や住所までリークしてるんだ?」
 その疑問は尤もであった。いや、弦斗だけではなく会社の同僚たちも同じ思いだったに違いない。第一報が入った時、まず皆はそこに違和感を覚えた筈だ。無作為に襲撃された中の一件にしては狙いがピンポイント過ぎるし、テロ行為ならば建物全体を破壊する筈だ。彼女の部屋だけをメチャクチャに荒らす行為そのものが不自然極まりない事だったのだ。
「弦斗さん、逆なんですよ。彼女が俺の恋人だから襲われたんじゃなくて、この部屋の店子が俺だからこうなったんです」
「はぁ?」
 頭に疑問符を浮かべながらその場に固まる弦斗に、やれやれと言った感じで智が簡潔に事情を説明した。その説明を聞いて、弦斗は『なんてこった』とこめかみを押さえて頭を振った。
「つまり、パスポートの申請時、俺はここに住んでいたんです。そして住人だけが入れ替わり、名義はそのままだった。それが今回の事件の真相なんですよ」
「そりゃー、今の説明で分かるよ。俺がアタマ抱えてんのは、その情報がどうしてテロ犯に漏れたのか、って事さ」
「それはまぁ、俺も不思議に思いましたけどね。けど、今更驚くような事でもないでしょう。相手は既に俺の名前と電話番号、勤務先まで把握してるんですからね。俺本人が襲われないのは、この姿のお蔭ですよ。そうでなきゃ、とっくに闇討ちに遭ってお陀仏です」
 淡々と、智は落ち着いた口調で話す。しかし、その胸の内は燃える炎のように熱かった。怒りに打ち震え、肩を震わせながらも彼は感情を露わにせず、黙々と片付けに専念していた。そして彼は、弦斗に対して嘘をついていた。犯人は当の昔に、自分の事に気付いている……だが消すに消せない事情があるのだという事を伏せていたのだ。もし、この事情が明るみに出れば、自分だけでなく弦斗も命を狙われる。それが分かっていたから。
「しかしよぉ、住処まで攻めて来るようになったんじゃ、次は職場も危ないんじゃないか?」
「それなんですよ。俺の為に数百人の人間を危険に晒す訳にはいかない。と言って仕事に穴をあける事も出来ない。だから……」
「だから?」
 ソファーの残骸に腰を下ろしながら、智は胸中にあったプランを打ち明けた。その突飛な発想に弦斗は驚いたが、それ以外に手は無いだろうと頷いていた。
「さて、だいたい片付いたかな」
「うん、大事な物は全て回収したし、あとは専門の業者さんにお願いした方が良いと思う」
「下手に物に手を触れて、指紋なんか残したらそこから追跡されるからな」
 智もそうだが、芽衣もその表情は蝋人形のように固く、感情の籠らない声で最低限の会話が為された。心理的なショックを、強引に押し留めようと足掻いた結果がそれだったのだ。痛々しい、等という言葉だけでは表し切れない、とてつもない悲しみが二人を包んでいるようだった。
 やがて大家がやって来た。彼は破壊状況に暫し息を呑んでいたが、ともあれ人的被害が皆無であった事がせめてもの救いだと言って、芽衣を元気付けていた。だが、智には分かっていた。賊は『たまたま』留守だったこの部屋を襲ったのではなく、留守になるのを待って破壊活動を行ったのだという事を。そして彼は言わなかった。自分が既に犯人の目星を付けている事を……

**********

 翌朝、新聞の片隅に小さな記事が掲載された。それは『朝倉智が事故死した』という内容だった。何者かに自宅を破壊され、徒歩で仮宿に向かう途中、信号無視の乗用車に轢かれてそのまま絶命した……という、あからさまな偽装を公共の紙面に掲載して、彼はその恋人と共に姿を消してしまったのだ。
「派手だねー!」
「でも、薄気味悪いな。彼女の家が襲われたカラクリは分かったけど、どうして奴は狙われてるんだ?」
「こないだ懲戒食らった奴が、復讐してるんじゃないか?」
「いや、それは無いよ。社員名簿に記載されてる住所は襲撃されたアパートじゃない。社員が情報を盗んだならあんな間違いは犯さない筈だ。多分、同姓同名の『アサクラサトシ』って男が何者かに狙われていて、奴はそのトバッチリを受けているんだ」
 様々な憶測が飛び交う。中には事実とは真逆の発想に至る者も出る始末だったが、真相を明かす訳にはいかない……傍で話を聞いていた美樹は、そう考えて唇を噛んだ。
「とにかく、奴は死んだんだ……そういう事にするんだ。じゃなきゃマジで殺されちまうぞ、朝倉の奴」
 この報道が虚偽の物である事は、最初は芽衣の携帯電話から中村の恋人である玲奈に送られ、彼女から中村に伝えられ、そして翌朝一番で全社員に宛てた社内メールによって拡散された。同時に、同項目がトップ扱いの社外秘情報である事も併せて、である。なお、本文は智本人が入力し、証拠として彼の拇印が画像としてスキャンされ、添付されていた。
「そうだよな、奴は死ねないんだよな。小田原さんに身体を返すまでは」
「……」
 発言したのは岡部だった。それを受けて美樹は俯き、神妙な表情になる。そう、それも理由の一つには間違いない。しかし、智は全社員と、何人いるか分からない『アサクラサトシ』の命を守る為にこのような狂言を打っているのだという事を、今はまだ言う訳に行かない……そう聞かされていたから。だが、それもまた智による狂言である事を、美樹はまだ知らなかった。

**********

「北見二等陸尉、参りました!」
「ご苦労……何故呼び出されたか、理由は分かるね?」
「朝倉智と三橋芽衣の両名を、駐屯地内に確保した件でありますか?」
「その通りだ。いち士官に過ぎぬ君の権限で、実行できる行為でない事は分かっているだろう?」
 伊藤の問いに、弦斗は沈黙を以て応えた。その言は正しい、しかし要請を拒否できる状況ではなかった事を充分理解してはいた……だが、それを素直に言葉にしてしまえば、懲罰の対象となる事が分かっていたからだ。
「答えられないのかね?」
「……彼らは、確実に命を狙われています。自宅に帰れば、また追跡を受けて……今度こそ消されてしまうでしょう。ならば、真実を知り、且つ彼らを守る義務のある我々が保護する必要がある、そう考えたからであります」
「何故、そう考えるのかね? 朝倉氏は今、過去とは全く異なる容姿を有しており、偽名を用いて正体を隠している。住所を知る者も居ないのだ。匿う必要が何処にある」
 その問いに、弦斗は言葉を詰まらせた。その容姿のお蔭で、自分はまだ狙われずに済んでいる……これは智自身が発言した事だ。なのに彼は帰宅を拒否し、駐屯地への間借りを要請した。確かに理解し難い行為ではある。
「時間をください。ここに身を隠す本当の理由を、自分なりの手段で問い質します」
「よかろう。但し一両日以内に退去させられない場合は、私が直接審判を下す……異論は無いな?」
「……はい」
 弦斗は、そのように回答するしか無かった。智自身から理由は聞いていた、しかしそれが上層部には通用していない……となると、このまま彼らを確保し続ければ、自分の立場が危うくなる。それを回避する為には、事情を説明して理解して貰う以外に手は無い。弦斗はまさに断腸の思いで、智の説得にあたる事を強いられたのであった。
「済まないな。だが彼らのような特例を認めては、似たような理由で駐屯地への入居を求める市民で溢れ返ってしまうからな。辛いだろうが、上手く説得してくれたまえ」
「いえ……確かに彼だけを特別扱いする事は、公的な権限の私的運用に直結します。何とか説得してみます」
 辛い……の一言で片付けられる問題では無かった。何しろ彼は、無残に破壊された芽衣の部屋を目の当たりにし、彼らが如何に危険な状態に晒されているかを熟知していたからである。が、公私のケジメはキチンと付けなければならない。彼は心を鬼にする思いで、智の元へと赴いた。

**********

「旦那、ちょっといいか?」
「あ、ちょっと待てください。キリの良いトコまで片付けちゃいますから」
 弦斗が智の仮住まい……駐屯地内の小会議室の一つを訪室した時、彼は業務の最中であった。そう、会社のサーバーと自分のモバイル端末を通信回線経由で連結させて、オフィスとほぼ変わらない環境をそこに展開していたのである。モバイルとは言え強力な処理能力を備えた高性能機である為、多少のタイムラグに目を瞑れば充分実用に耐える仕事環境を、その端末は彼に与えてくれていた。
「すげぇな……ウィンドウが4つ、いや5つ? これ一遍に見てるのか?」
「えぇ、勿論全部が一遍に視界に入る訳じゃありませんけどね。ほぼ同時進行で作業を進めてますよ」
 アッサリと言ってのける智であるが、その眼はめまぐるしくその注目点を変え、忙しく動き回っている。ウィンドウが複数同時表示されるのは複数の端末を同時に起動させているからではなく、一つの端末で複数の作業ウィンドウを起動させている為だ。だからウィンドウ切り替えキーによりアクティブとなるウィンドウを切り替える事が可能で、キーボードは一つで済むのである。
 因みに、芽衣はこの時間帯、駐屯地から直接大学に通っていた。無論、一般の交通機関を使わせるような愚はしない。キチンと自衛隊の公用車での送迎を依頼し、安全を確保しての通学を行っていた。それ故に下校時の寄り道などは出来ないが、それもやむを得ない事であった。
「ふぅ……すみません、お待たせしました」
「あぁ、いや、いいんだ。仕事の邪魔をして済まないな」
「何言ってるんです、ムリ言ってこんな無茶をさせて貰ってるのはこっちですよ」
 無茶ぶりは承知の上なのか、と弦斗は頭を掻きながら苦笑いを作る。そして本題に入ろうとするのだが、なかなか最初の一言が切り出せない。然もありなん、彼らの事情を良く理解したうえで『出て行ってくれ』と言わざるを得ないのだ。それをサッと切り出せるほど、彼とて無神経ではない。
「……退去勧告、ですか?」
「!! ……何故それを?」
「分からない方が可笑しいですよ。普通ならこんな無茶、通らないですからね。それを強引に許可して貰っているんですから」
「……分かっているなら話は早い、申し訳ないんだが……」
 そこまで言い掛けた弦斗の口を、智の台詞が遮った。簡単にそれを承諾できるぐらいなら、最初からこんな無茶は言わないよ、と。
「弦斗さん、俺がこの提案をしたのは、単に身柄の安全を確保する為だけじゃないんです」
「何?」
「俺の杞憂で終われば良いんですけどね? どうも、俺たちの行動が何処からか洩れて、筒抜けになってるような気がして……それを深く考えた結果、ある仮説に行き付いたからなんですよ」
 それを聞いた弦斗は、それと『駐屯地内に身を隠す事』とが、どうして結びつくのだろう……と益々訳が分からなくなった。だが、此処で詳細を問い質そうとしても、智は口を閉ざすばかりで何も語らない。いや、語れない理由があるのだろう。そして、それは『もしや、彼は自分達をも疑っているのではないか?』という事を、彼の態度から読み取った。
「……何で、そう思ったんだ?」
「理由は幾つかありますが、最も大きなものは……おっと、この部屋、監視されてたりしませんよね?」
「一応その筈だが……気になるなら場所を変えるか?」
「その方が良いです。なるべく目立たない車を一台、用意してくれませんか? 徒歩でも構わないんですが、何処で見張られているか分からないので」
 その要求に素早く対応した弦斗は、公用車の中でも目立ちにくい、普通の乗用車を一台手配させた。それを智が運転して移動しながら話をしよう、という算段である。
「あぁ、後……襟の裏のソレ、外してくださいね。密談になりませんから」
「!! ……いつの間に!」
 弦斗自身も気付いていなかったようだが、制服の襟にしっかりと盗聴マイクが仕掛けられていたのだ。自分にまでこのような小細工が為されるとなると、これはもしかして……と、彼も神妙な面持ちになる。
 そして、車の吟味も弦斗が自分で行う事にした。人任せで用意させた車なら、何処かに細工がされている可能性が大いにあるからである。その結果、彼が選んだのはセダンタイプの大型乗用車。小型の方が目立たないのだが、車体が小さいと弦斗が乗車できないからだった。
「うん……大丈夫、この車は安全です」
 智は電波探知装置を用いて車内を検査し、反応が無い事を確認してから自らハンドルを握った。尚、先刻弦斗に仕掛けられた盗聴マイクを発見したのもこの装置である。本来ならこれは電波・電磁波の強度を探知して通信機器や電子機器同士の干渉を避ける為に用いる物だが、転じてこういう使い方も出来るという訳である。因みに、周波数帯を調整すれば携帯電話や無線機などにも反応するが、先刻は盗聴マイクに用いられる周波数帯に合わせて探知し、今は双方の携帯電話の電源を切った状態で全ての周波数帯で検査した為、完全に抜かりなく安全を確認できたという訳だ。
「じゃ、その辺を適当に流しながら、話をしましょう」
「あ、あぁ」
 なお、智が運転を担当する事にしたのは、話の内容に驚いて運転操作をしくじられては大変だ、と考えた為である。弦斗も、それを覚悟していたが為に、素直にハンドルを譲る気になったのだ。つまり、かなり大変な話であろう事はこの時点で覚悟していたのであった。

**********

「あの墜落現場で、事故機の残骸の中から俺を見付けてくれたのは弦斗さん、貴方ですよね」
「何だよ急に、今更だな」
「確かに今更です。でも、考えてみてください。偽装発表の中では『行方不明』で片付けられ、会社には『別便で帰国し、空港から陸路を使って移動している最中に事故に遭った』と嘘を吐くほど厳しい箝口令が敷かれた案件のド真ん中に、貴方は立っているんですよ。なのに措置は『口止め』だけに留まり、異動もさせられていない。おかしいと思いませんか?」
 確かに、そう言われてみれば……と、弦斗は改めて自らの境遇を不思議に思った。当時、同じ部隊に居た部下たちは、全員が司令部直属の内勤に回され、専用の官舎に転居させられている。つまり、勤務地に軟禁させられているのと同じ状態で情報漏洩を阻止されているのだ。が、彼だけは違う。単に緘口令を敷かれただけで、他には何の措置も施されていないのだ。
「旦那には、その理由が分かるのか?」
「推測の域を出ない事なので、何ともですが。弦斗さんまでを異動させたりしたら、逆に周囲が怪しむ事になるからだと思うんです」
「確かに……だが納得いかねぇ。それだけの理由で、何で俺だけが『口止め』だけで済んでるんだ?」
「弦斗さんは『真相を知り過ぎている』からだと思うんです。絶対に守らなければならない秘密を握っている者を、どのように扱うか……大体想像つきますよね?」
 その回答に、弦斗は更に混乱した。凡その場合、軟禁などで自由を奪い監視するか、最悪の場合はその存在を消されるか……何れにせよ、本人にとっては有難くない措置が施される筈だ。なのに、彼にはそのどちらも適用されていない。この事実が何を意味するのかが理解できず、弦斗はひたすら首を捻るばかりであった。
「うむ、俺は口外無用の情報を握っている……だから『口止め』されている、それは分かる。けど、どうしてこの程度で済んでいるのかまでは分からんな」
「でしょうね……でも、俺も弦斗さんもテロリストから見れば立場は同じ、という意味が加わったら……どうです?」
「!?」
 弦斗の顔色が急に真っ青に変わる。確かに情報の漏洩そのものを嫌うなら、生存者もそれを救助した者も、等しく邪魔になる。だがそれは、テロリストとしての行動理念としてはおかしい。
 そもそもテロとは、自らの行為を以て社会全体に制裁的意味合いのダメージを与える為に行われるもので、生存者が居ようが居まいが、事故の真相がテロ行為であると知れようが、関係ない筈である。だが今回の場合、あの事故がテロ行為だという事を隠蔽する為に報道管制が敷かれ、唯一の生存者である智の存在も隠されて来たのだ。なのに、隣でハンドルを握る彼は、真顔で『自分も貴方も立場は同じ』と発言した。その真意を探ると……ある一つの結論が導かれる。
「待てよオイ……つまりアレか? あの件がテロ行為である事をバラしちゃマズい、ってのは本当で……それを何が何でも守ろうとする、その存在の最右翼が……俺をも狙ってると、こう言いたい訳か?」
「その通りです。彼らにとっては、情報を知り得る者すべてが邪魔者。依って、俺はその存在そのものを抹消されるべく命を狙われ、部下の皆さんは機密漏洩を防ぐ為に軟禁され……そして弦斗さん、貴方はそれらの措置がオーバーに見えないよう、カムフラージュするために口止めだけに済まされ、放置されている……と、これが俺の導き出した答えです」
「俺達の親玉が……幕僚たちが、今回の黒幕だ……と? で、事と次第によっちゃあ俺も消される……と!?」
「まだ断定はしませんが、俺はそう睨んでます。あの中に居ると思うんですよ……頭の黒い鼠がね」
 そこまで話して、二人は暫し沈黙した。智は言いたい事は全て言ったので弦斗のリアクション待ちとなり、弦斗は意外過ぎる話の展開に付いて行けず、リアクションに困って言葉を失っていたのだ。
「じゃあ……旦那と同じ名の『アサクラサトシ』が悉く狙われた件については、どう説明する?」
「今の仮説が正しいなら、犯人は俺の今の姿もしっかり把握している筈。なのに手を出して来ない……それはつまり、自分達が俺の正体を掴んでいないと思い込ませる為の演技。お芝居ですよ」
「し、しかし……」
「だって、一遍に数百人の命を奪っても平然としていられる奴らですよ? 今更、十人や二十人殺したところで、屁でもないでしょう」
「なんて……こった……」
 無論、ここで語られた事は智の想像の範疇を出ない事ではある。が、説得力があり過ぎるのだ。そしてこの仮説が正しい場合、いずれは自分も手に掛けられる事になるだろう……弦斗はその真意を確かめるべく、考え方をシフトさせていた。
「ところで弦斗さん、そちらからもお話が……って言うか、さっきチラッと聞きましたよね」
「あ、あぁ……多分、察しの通りだと思うぜ。伊藤一佐が、旦那たちを保護している件について物言いを付けたのさ。一両日中に退去しない場合は、強制退去させる方向に持って行くらしい」
「やっぱりな……あのオッサン、過去の報告会でも、真っ先に物言いを付けて来てましたしね」
 そう来たか……と云う感じで、智は渋い顔になる。それを見て、弦斗も申し訳なさそうな顔になる。が、智は敢えてこの要求を突っ撥ね、居座り続けると弦斗に対して宣言していた。
「心配しないでください、弦斗さんに迷惑は掛けませんよ。出て行けと言うなら安全な住居を紹介してくれと主張しますから。それが出来ないなら、俺のアパートをしっかりガードしてくれと条件を付けます。じゃないと、出て行く事が出来ませんからね」
 智はニヤッと笑ってそう言い放つ。それを聞いた弦斗は『流石トップエンジニア、裏の裏まで計算してセリフ吐いてるぜ』と背筋に冷たいものを感じたという。そして、更に続く台詞に、弦斗は唖然とした。
「それに、さっきも言ったでしょう? 俺は身の安全を護る為だけに、保護を依頼したんじゃあ無いって。仮に、さっきの話が正解だったとした場合、その懐に居れば無暗に手は出せないでしょう? 自衛隊がシロだと確信できるまで、俺は粘りますよ」
 ……この旦那、テコでも動かねぇつもりだな……と思った弦斗は、その時点で上官への説得に回る事を決めたという。

**********

「説得に失敗した……と?」
「申し訳ありません! しかし、安全の保証なしには元の住居に戻ろうにも戻れないと……」
「むぅ……」
 弦斗からの報告を受けた伊藤は、顔の前に手を組んで、唸り声を上げた。成る程、相手の言い分は尤もだ。何の手も打たずに追い出しては、次に襲撃された際『自衛隊に護衛を頼んだが、護ってくれなかった』等と言い広められる可能性がある。それは流石にまずい。だが、このまま施設内に一般人を置いておくと云うのも無理な事。伊藤は暫し思考の闇に落ちた。が……
「参謀長、彼はいま偽名を用い、容姿も以前とはすっかり変え、全くの別人と言って良いほど『変身』しております。が、その影響で、同姓同名の人物が次々と殺害されて行く現状を非常に嘆いております。ここは早急に、当局への情報開示を行い……」
「貴官は、我が自衛隊の恥部を晒せと言うのか!?」
「いっ、いえ、決してそのような……ただ、現状に於いて二次災害の犠牲者が続出しているのも、また事実であります。これを抑止できなければ……」
「彼の自宅周辺に、隠しカメラを設置したまえ」
「移動中の方が、狙われやすいのでは?」
 伊藤が折衷案を出すも、弦斗は更に食い下がる。ここで智の狙いを阻害されて、もし彼の予想が的中した場合、自分は自分の所属する『自衛隊』という巨大な組織を敵に回す事になる。それだけは避けねばならぬと、彼も必死だったのだ。
「北見二尉、貴官が先刻言ったように、朝倉氏はもはや『全くの別人』。これを誰が、どうやって狙うというのかね?」
「先日のアパート襲撃事件にて、彼の恋人がその容姿と氏名を暴かれております。賊はそこを足掛かりに、いずれ彼の素性を突き止めるでしょう。いや、それ以前に、彼を取り巻く周辺の人間を手に掛けて、彼を炙り出す策に出るかも知れません」
「それは、彼がこの施設内に居座っていても同じ事だぞ」
「うっ……」
 失言であった。確かに智自身はこの施設内に居れば安全かも知れない、しかし彼の同僚や芽衣はどうなる? と云う事だ。既に賊は智の職場まで突き止めている、それは智自身が証言した内容からも分かる。つまり賊はいつでも彼の周りの人間を消せる、という事になる。それを、弦斗は自ら口に出してしまったのだ。
「貴官の口から言い難いのであれば、私が直接伝えよう。そうすれば角が立つ事もあるまい」
「……分かりました」
 前哨戦は、僅差で伊藤の勝利に終わった。と云うより、弦斗の語彙と説得力が伊藤より下回っていたのだ。それに、相手は曲がりなりにも上官、彼より遥かに高い立場に居る人間。元より勝ち目など無かったのである。
(ハァ……負けちまった。旦那に何と云って詫びたら良いんだろう、俺は……)
 弦斗は、智に『必ず上を説得するから』と確約した訳では無い。しかし、責任感の強い彼はそれを気に病んで、肩を落としながら智たちの仮宿となっている小会議室へと足を運んだ。
「旦那、居るか?」
「あぁ、弦斗さん。どうしたんです、こんな時刻に」
「すまん、上を説得し切れなかった。今夜は大丈夫として、明日には退去勧告が出されるだろう。それも伊藤一佐から、直々にな」
 眉を下げ、本当に申し訳なさそうに語る弦斗に、智は『何だ、そんな事ですか』と返した。その軽い返事に、弦斗は『えっ?』と云う感じの表情を向ける。然もありなん、彼も当然落胆するだろうと、弦斗は覚悟して事の次第を明かしたのだから。
「さっき言ったじゃないですか、俺は自分の力で粘ってみせると。弦斗さんが頑張ってくれたのは有難いですが、自分の立場を危うくしてまで上司に盾突く事は無いですよ。大丈夫、我に策あり!」
 自信たっぷりに返す智に、弦斗は更に唖然とした顔を見せる。そして、その隣に居た芽衣の方へ目線を向けると、彼女もまた同じように余裕の表情を見せているではないか。
「旦那、なに考えてる?」
「それはまだ言えません、と云うか、知ってしまったら弦斗さん、貴方は除隊しなくてはならなくなりますよ」
「荒事は勘弁してくれ? 一応ここは、国家予算で賄われている施設の中なんだからな」
「鉄砲もってる相手に、素手で喧嘩は売りませんって。まぁ見ていてください、あのオッサンが地団駄踏む姿を拝めますから」
 その回答に、弦斗は益々不安を覚えた。そして彼は思った、触らぬ神に祟り無し……と。

**********

 盗聴器に気付いた点から、伊藤は智が自分を疑っているのでは? と勘ぐり始める。
 そして彼の元を訪問し、直接退去を求めて説得に出向くが、智はその前に一計を講じていた。何と彼は自分の部屋をも解約して自ら『帰る場所』を無くしていたのだ。これは『自分もいつ襲われるか分からない、近隣の住民に迷惑を掛ける訳にはいかない』と云う理由に基づくもので、仕方なく伊藤は『次の物件が見付かるまで』という条件を付けて引き下がった。それが一時凌ぎにしかならない事は分かっていたが、智は『3日あれば充分』と自信たっぷり。彼は既に『自衛隊がクロ』だと確信していたのである。あとは、どうやって犯人を炙り出すか、それが残された課題となっていた。
「智、ちゃんと休んでる? 顔色よくないよ?」
「心配するな、エンジニアは隙を見て密度濃く休息を取る術を身に付けているから」
 と、智は笑顔を作って芽衣に返答する。だが、目は落ち窪み、顔色も血色を失って真っ白に近い。これで安心しろと云う方が無理である。
「スーパーの出来合いでゴメンだけど……せめて栄養付けてね」
「おっ、ニラレバにニンニクの味噌漬け、飯は麦ごはん。青菜のお浸しも付いてるじゃないか」
 芽衣は、自炊が不可能な自衛隊の施設内でも彼が体を壊す事の無いよう、懸命にサポートをしていたのだ。食事の吟味も彼女のお役目、と云うかこのぐらいの事はやらないと申し訳ないと思い始めていたのである。
「聞いたよ、出て行けって迫られてるんだってね」
「ん? ああ。でも出て行こうにも当てがないんだ。新しい住居を見付けるまでは居て良いって、偉い人に許可貰ったよ」
 ポットのお湯で即席味噌汁を作りながら、智は先程、伊藤との話し合いで得た結果を解いて聞かせていた。それを聞いた芽衣は『それって、裏返せばアパートを見付けたら即出て行け』と言ってるのと同じだよね、と憂鬱そうな顔になる。しかし、智は尚も笑顔を絶やさずに居た。
「ほら、食って元気つけようぜ。腹が減っては何とやら、いい策も練れないぞ」
「今度は、また一緒の部屋が良い……もう、離れたくないよ……」
「済まないな芽衣。あの事件以来、嫌な思いばかりさせて。だけどもう一頑張り、大掃除を済ませないとまた同じ事の繰り返しになるんだ」
 大掃除? と、芽衣は怪訝な表情を見せる。それはつまり、二度と襲撃される事の無い、安心できる環境を模索する事なのか? と智に問いながら。
「今の状態で外に出されたら、また賊に嗅ぎつけられる。枕を高くして眠るには、後顧の憂いを絶たなくてはならないからな」
 食事をしながら、端末を操作して不動産情報を流し見する傍ら、智は別ウィンドウであるプログラムを走らせていた。
「そっちの、小さいウィンドウは何?」
「これか? これはな……」
 また盗聴されては敵わないとばかりに、智は芽衣を自分の直ぐ傍まで呼び寄せ、耳打ちをするように小声でそのプログラムが何であるかを伝えた。それを聞いた芽衣は驚嘆の表情を浮かべたが、それで智の真意と、この状況下でも焦らずに過ごせている理由を同時に知る事が出来たのである。
「もし、その仮説が正しければ……」
「そう、俺が敢えて此処を根城にしている理由にも察しが付くだろ?」
 そして、その『コッソリ動かしている』プログラムが『ある情報』を探し当てたのは、その数時間後の事だった。

**********

「おう旦那、何の用だ?」
「報告する事は二つ。まず、新しい物件の目星がついた事。此処なら会社からも芽衣の大学からもそれ程離れていないし、二人で住んでも狭くは無い。いずれは同居するのが前提だったから、丁度いいと思うんです」
 ふぅん……と、表示されている間取りと築年数や家賃などの情報をザッと見て、いい部屋じゃないかと弦斗は表情を緩める。だが、いま転居するのは危険ではないか? と云う心配を同時に吐露していた。そこで二つ目の話題である。
「この物件は手付金を払って確保してあるから、直ぐに引っ越さなくても大丈夫なんです。で、二つ目の報告なんですけど……」
「……これ、旦那と同じ名前の……もしかして犠牲者の素性か?」
「正解。ですが、これはある調査の副産物に過ぎないんです。俺が調べていたのは……」
「!! ……間違いないのか?」
 残念ながらね……と云った風な表情を見せながら、智は寂しそうに画面を見詰めた。だが、その結果は彼の予測通りであった。つまり、彼は最初から、そこに表示されている人物が全てのシーンで暗躍する『黒幕』であると睨んでいたのである。
「俺が救助されてから、今こうして身を隠すに至るまで、全てのシーンにこの人は立ち会っているんです。勿論、民間レベルで調査できる範囲には限度がありますから、此処から先は推論交じりになりますが……」
 彼はまず、消去法で自分を襲った犯人と、芽衣の部屋を滅茶苦茶にした人物の特定を急いでいた。智が作動させていた小さなウィンドウの中身は、例の墜落事故から『アサクラサトシ』連続殺人の情報までを全てインプットしたうえで、ネット上に残るあらゆる情報をつぶさに発見してはその関連項目を洗い出す、情報の自動追跡ロボットだったのだ。
 最初に名前が挙がったのが、航空会社の幹部であった。が、彼らは豊富な情報を持ってはいるが、テロの為に自社の飛行機を墜落させるような真似はしないであろうし、『アサクラサトシ』に恨みがあるとも思えない。依ってリストから除外された。
 次に、事故調査委員会の面々が名を連ねたが、これは論外であった。墜落事件の情報からヒットした物と思われるが、彼らは事件の情報を『後から』知る事になった、いわば受動態の集団である。そんな彼らがテロ行為を起こすとは思えない。
 最後にヒットした大きな組織は、自衛隊と在日米軍であった。然もありなん、救難活動にいち早く着手したのは彼らであったし、墜落現場の特定と生存者……つまり智本人の身柄確保を最初に行ったのが、他ならぬ自衛隊だったからである。
 しかし、双方を並行して調査していくうちに、在日米軍の中に不穏分子が居る可能性は極めて低いというデータが算出された。確かにテロの実行犯はアメリカ国籍を持つ外国人の集団ではあるが、共通点は其処だけであり、その後の証拠隠滅には一切関与していないのである。仮に不穏分子が存在したとしても、テロを起こす理由が彼らには無い。それはそうだ、権力を握りたいのであれば、彼らが起こすべき行動はテロでは無く、強大な武力をそのまま行使したクーデターになる筈だからである。
 そうして、最後に残ったのが自衛隊の……ある人物だったのだ。
「俺の事件、そして俺と同じ名前の男性が次々と襲われた一連の事件。これらのデータをあらゆる角度から検証した結果、必ず名前が挙がるんですよ……彼だけがね」
「なんて……こった……」
 その画面を凝視しながら、弦斗はその場に崩れ落ちた。しかし、それも当然であろう。ディスプレイに表示されているその名は、彼が良く知る人物であり、直属の上官でもある……伊藤聖司一等陸佐、その人だったからである。

第七章 絶望の向こうに

「流石にメインバンクの防壁は固い、か。なかなか厳しい……っと、捕まえた!」
「赤裸々だな。送り主は、紛れもなく伊藤一佐……宛先はアメリカか?」
 智は端末を操作し、駐屯地内のメインバンクをハッキングして、その奥底に隠蔽されていた通信ログを発見していた。これを世間に公表すれば、流石の伊藤も悪事を隠蔽は出来まい。
「でもよ、何でこんなヤバい情報が抹消されずに残ってんだ?」
「表向きの通信ログは一週間もすれば一掃されますけどね、バックアップ用のファイルには不可視属性が掛かって、しかも圧縮されるから、コレが残っている事自体を知らない連中が意外に多いんですよ」
 そう、一日あたりだけでも数テラバイトに達するその情報量を保存しておく事は難しい。どのような器にも許容量が存在し、入りきらなくなれば当然古い順に削除されていく。しかし通常稼働中の記憶装置からオーバーフローしても、交信記録等の重要なデータは外部記憶装置等に保管され、後に参照される事も珍しくは無いのだ。
「無論、無尽蔵にって訳にはいかないですからね。サーバー容量が限界を迎えれば、このログもマイクロチップに移されて書庫行きです。ま、それまでには1年ぐらい掛かる計算ですけどね、このサーバーの性能であれば」
「しかも、表向きにはもう既に消えているから、電算室の連中ぐらいにしか分からねぇって訳か」
 弦斗が、漸くそのカラクリを理解してポンと手を叩く。その傍らで、芽衣は電気ポットの湯を使ってコーヒーを淹れていた。緻密な情報戦が行われているとは思えない、実に長閑な絵面である。
「やったね智! ガッチリ尻尾を掴んだじゃない」
「あぁ、後はこれを然るべき……やべ、見付かった!」
 流石に相手も情報の専門家、先刻からアクセスして来ている謎のアカウントの正体を探りに掛かったようだ。智は幾重も疑似エントリーを展開し、端末の位置を知られぬよう逃げ回る。が、敵も然る者。いとも簡単に防壁を突破して来る。
「まずい、獲物より狩人の方が多いってか! いずれ通信経路からこの位置が特定されます、逃げましょう!」
 智は手早くモバイル端末をスリープ状態にし、オンラインから物理的に切断して脱出を図る。が、相手は智がそれまで接続していた経路を素早く割り出し、追跡して来る。この部屋からアクセスしていた事が知れるのも時間の問題であろう。となれば、敵の只中に身を置く事は危険この上ない愚行と言える。逃げるが勝ちと云う奴だ。
「この、やかましいサイレンと目障りな非常灯は!?」
「館内で交戦状態になった事を知らせる合図だ。せっかちな野郎が非常ボタンを押したんだろう、これで他の駐屯地にも通報が行くぜ。早く外に逃げないと、ヤバい!」
「悪事を暴いたのに、どうして逃げなきゃならないの!?」
「外から来るのは味方でも、中は敵だけなんだよ! 急げ、出口を塞がれたら終わりだ!」
 彼らが根城にしていた小会議室から屋外に出るには、厄介な障害が幾つかあった。まず、部屋自体が最上階である4階に位置している事。そして、2か所ある屋内階段は恐らく不法侵入者の脱出を阻むために閉鎖されると思われる為、そこからの脱出は出来ないと考えるのが妥当だ。無論、エレベーターを使用する事はタブー。電源を切られたらその時点で袋の鼠となるからだ。となれば、残る脱出経路は一つだけ。廊下の突き当りにあるドアを潜り、屋外の非常階段まで走る以外に手は無い。
「弦斗さん、貴方に逮捕されたって事にすればいいのでは?」
「駄目だろうな。元々俺も、旦那と同じスタンスで放し飼いにされていた獅子身中の虫。伊藤は躊躇なく消しに掛かるだろうよ」
 その回答に、智は『やっぱりね』と苦笑いを作る。となれば、やはり館内から脱出する以外に手立ては無い。
「走るぞ!」
 弦斗の号令で、3人は一気に出口目指して全力疾走する。が……
「!!」
「既に手が回っていた、か」
 眼前に2名、フル装備の自衛官が立ち塞がった。肩から小銃を提げ、智たちに銃口を向けている。が、その2人は、弦斗たちがハッキングの犯人である事を未だ知らないようだった。直ぐに銃を取り下げ、逆に問い掛けて来た。
「隊長、何事です? この騒ぎは一体何でありますか?」
 此処で弦斗は彼らに対して芝居を打ち、非常口まで辿り着く事を考えた。
「俺にも良く分からんが、警報が鳴っている。民間人を巻き込んではまずいので、避難経路に誘導している最中だ」
「ならば此方へ! 屋内階段は既に閉鎖済みです」
「だろうな! 何処でドンパチやってるんだか知らんが、迷惑な話だ! こんな展開は自衛隊発足以来だろうぜ」
「誤報である事を祈りたいですね! さ、早く!」
 済まんな、と軽く手を振ると、弦斗は再び走り出し、非常用ハッチへと急いだ。しかし、どう先回りをしたのか。無人である筈の曲がり角の向こうから、銃弾が飛んで来たではないか!
「危ねぇ!」
 訓練の賜物だろう。銃声が聞こえたのと同時に、弦斗が智たちを守る格好で盾となり、被害を最小限に留めていた。
「弦斗さん!」
「大丈夫、コイツは訓練用のペイント弾だ。ま、当たればそれなりに痛ぇんだけどな」
 額から脂汗を流しながら、弦斗は無理矢理に笑顔を作る。しかしその間に、背後からも追手が迫る。まさに絶体絶命のピンチと云う奴だ。
「前門の狼、後門の虎ってか!」
「あの角の向こうまで行ければ、非常ドアはすぐそこなんだが」
「それってつまり、非常階段を登って来た人が攻撃したって事じゃない!?」
 そう。つまり、彼らは非常口に辿り着けても、逃げる事は出来ないという事になる。しかし彼らは、生きる事を諦めなかった。

**********

「……息はあるな?」
「大丈夫みたいですね。多分、1~2カ月は動けないでしょうけど」
 ぐったりと、だらしなく手足を伸ばして気絶するその隊員を廊下に横たえると、その男に『すまん』と短く詫びて、智たちは外階段を降り始めていた。その隊員は弦斗に手傷を負わせはしたが、致命弾にならなかった為に反撃を許し、渾身のタックルを胸部に受けてしまったのだった。流石の弦斗も左肩にダメージを受け、手加減の出来る状況では無かったらしい。恐らく肋骨は数本、確実に砕けているだろう。
「おっと!」
 2階まで降りて来た時、突然眼前の鉄扉が開いた。驚いた智は反射的にドアを蹴り飛ばし、その向こうに居た隊員を結果的にノックアウトさせる事に成功していた。
「ドアが外開きなのは、理に適ってるようで結構危ないッスね」
「そんな、悠長な事を言ってる場合じゃ無いよ!」
 凡そ場違いとも言えた智の発言に、芽衣が尤もなツッコミを入れる。然もありなん、開き方が逆だったらドアに道を塞がれて背後から迫る追手に捕まっていた所だったのだから。
「取り敢えず、地面には着いたな! このまま外まで突っ切るぞ、基地の外なら銃も撃てまい!」
「はい!」
 外階段を下り切った彼らは、真っ直ぐに正面のゲートへと向かった。しかし、既に通報が行き届いた基地内部からの脱出は、極めて困難であった。当然ゲートは閉鎖され、数名の隊員が銃を構えている。
 外壁上部には有刺鉄線が張り巡らされ、これを乗り越えての脱出も厳しい。ヘリポートには当然ヘリコプターがあるが、操縦出来る者が居なければ意味がない。
 逃げ惑う彼らを取り囲む武装集団の数も次第に増え始め、次第に逃げ場は無くなっていく。
「くそ、却って身を隠す場所が無ぇか!」
「動きを止めたら、その時点で包囲されますしね!」
 智は時折、何故俺達は実包装備の兵隊に追われているんだ? と自問自答する。必死になればなるほど、伊藤は自分の犯行を認めるようなものなのに、と。しかし、隣で同じように逃げ回っている弦斗を見ると、ふと思い出すのだ。あの時彼は、きっと『生存者を確保』するのではなく『生存者が居ない事を確認』する為に、尾翼の落下推定位置に派遣されたのだという事を。
「動くな! 動けば発砲するぞ!」
「バカかい! それが出来ねぇから、こうして追っかけっこをしてるんだろうがよ!」
 その返答に、クッと臍を噛む隊員たち。そう、彼らは銃砲を装備してはいるが、基本的に発砲する事は許されていないのだ。それが許可されるのは、無人標的を狙う場合と、ペイント弾を用いての演習を行う場合だけである筈であった。が、しかし……
「!!」
 弦斗の足許に弾痕が刻まれ、地面から煙が立ち上る。硝煙の匂いがツンと鼻をつく。
「馬鹿な……実弾だと!?」
 3人が慌てて足を止めて振り返ると、そこには通常の隊員が着用する迷彩柄の装備ではなく、濃緑の制服に身を包み、腕章を付けた隊員が自分達に向けて銃を構えている姿が見えた。その隣には、伊藤が立っている。
「近衛隊か!?」
「近衛隊!?」
「伊藤直属の、番犬みたいな連中だ。この駐屯地内では特別な権限を持っている、取り締まり専門の隊員だよ」
「そいつらなら、実包撃っても良いんですか!?」
 そんな筈は無い! と、弦斗は叫ぶ。だが、実際に自分たちは実弾で銃撃を受けた。しかも、たった今。
「!! ……一佐殿、ですかい?」
 弦斗が装備している、トランシーバーに着信があった。彼は苦々しい表情でそれに応答する。
「本当にそれだけですか? どうにも、そんな雰囲気には見えないんですがねぇ」
「な、何と言ってるんです?」
「……旦那がさっき吸い上げたデータと端末一式を取り上げて、連れて来いとよ。で、旦那は逮捕するとホザいてやがる」
 やはり伊藤はこの情報の流出を恐れて口封じをするつもりだ、と智は気が付いた。無論、それは弦斗にも分かっていたようだ。でなければ、これ程に緊迫した雰囲気にはならない。身柄を拘束した後に、全員が消される事は明白だったからである。
「断る、と言えば?」
 そう返答した直後、回答の代わりに銃弾が飛んできた。勿論、足元を狙っての威嚇ではあるが。
「警察官でも、令状なしに発砲すれば有罪だぜ……イカレてやがる」
「これだけ派手に証拠を残せば、言い逃れも出来ないだろうに……」
 言いながら、智と弦斗は自分たちに銃を向ける隊員と、伊藤本人を睨み付ける。が、芽衣だけは異なる方向に注目し、視線の向こうに見え隠れする人影を見付けていた。そして……
「!! 智、後ろ!!」
「な……!!」
 刹那、智は胸から出血しながら前のめりに倒れた。芽衣の叫びを聞いて振り返った所を、背後から接近してきていた別の隊員の放った狼狽え弾に捕らえられたのだ。
「チっ、小娘! 貴様が叫ばなければ、発砲せずとも済んだものを!」
「言ってる場合か!! おい、旦那! しっかりしろ!!」
「あ、あ……こ、この体、は……大事、な……」
「喋るな! 出血が酷くなる! ……衛生班!! 救急救命装置を持って、早く此処へ!!」
 智を撃った隊員も、本意では無かったらしい。伊藤の命令で仕方なく智に接近し、実弾装備の銃をチラつかせて脅しを掛け、端末を奪取して身柄を拘束するだけのつもりだったようだ。
「駄目だ、弦斗さん……俺のコアを、抜いたら……この体は……」
「お前が死ぬぞ!!」
「この体、は……俺の、じゃ……な、い……」
 コア移植を頑なに拒む智と、人命優先を叫ぶ弦斗のせめぎ合いが続いた。そして救命用具を運んできた衛生士が到着すると、弦斗は強引に措置を開始しようとした。しかし……
「!! な、何をしやがんでぃ……痛ぇじゃねぇか!!」
 その背後を、伊藤自らが発射した拳銃の銃弾が貫いていた。一発、二発……それらは確実に、弦斗の背中を捕え、ダメージを与え続けた。
「くっそ……せめて措置が終わるまで、待てってんだよ!!」
 智の頭部にあるコネクタにケーブルが差し込まれていく。が、それを行う弦斗の背中を、容赦なく弾丸が襲う!
「やめてえぇぇぇ!!」
 芽衣の、悲痛な叫びが木霊する。そして最後のケーブルが挿入される寸前で、弦斗は遂に意識を失った。
 伊藤が、幕僚長直属のMPに銃口を突きつけられ、全隊員に攻撃中止を命令したのはその直後の事だった。

**********

(……? 此処は、どこだ?)
 彼は微睡の中から這い出ると、ミルクをぶちまけたような真っ白な視界の中へと突き落とされた。
(見えない……何も見えない。地面はどっちだ? 俺は……浮いているのか?)
 フワフワと、頼りない感覚。寝惚けているのかと思い、自らの頬を叩いてみるが、感覚が無い。
『……シ……トシ……』
(声? 一体どこから……? と云うか、誰を呼んでいるんだ?)
『……トシ……サトシ!!』
(サトシ……? どこかで聞いた事が……ん? この感覚、覚えておるような……気がする?)
『サトシ! 目を開けて、智!!』
(俺の、事か? サトシ……俺は、サトシなのか?)

**********

 どれぐらい、時間が経ったのだろうか。
 どうも、周りが騒がしい。だが、何が起きているのかは分からない。
 喧噪、どよめき、嗚咽……色々な声が混じり合い、落ち着かない感じだ。
 丁度、祭りの只中に居るような感じだ。しかし、楽しさは感じない。
 ただ一つだけ、妙に近くから叫んでいる声があるのは確かだった。
 サトシ、サトシ……その声は、そう叫んでいる。
 ……待てよ? 俺は確か、大事な約束をしていたような気がする。
 一体、何を誓ったんだっけ……?

「……芽衣?」
「智!! ……おかえりなさい、智……」
「おかえり、って……俺、何処かに出掛けて、帰らなかったのか?」
「そう、だね。かなり遠い所に行って……もう、帰って来ないのかと思ったよ」
 智が目を覚ますと、その横には憔悴しきった感じの芽衣が居た。かなり泣いたのだろう。彼女の目は赤く腫れあがり、その周りは落ち窪んでいた。
 他には誰も居なかった。先程まで、あれだけ耳を衝いていた喧噪は何処にも無く。
 ただ、泣き笑いの表情を浮かべる芽衣が居るだけだった。
「訊いて良い?」
「……何?」
「何で、俺は寝かされてるんだ?」
「まだ、聞かない方が良いと思う……」
 どういう意味だ? 何か辛い事でもあったのか? 俺にも話せないような、ショックな出来事があったのか……!?
 智は軽いパニック状態に陥るが、目の前で目を伏せる芽衣を見ていると、不思議と冷静になれた。
「じゃあ、質問を変える。此処は何処だ?」
「病院」
「家じゃないんだな?」
「違うよ」
 淡々と答える。機械的だ。いつもの芽衣じゃないみたいだ。
 酷く喉が渇く。暫く、何も飲んでいなかったのだろうか。
「水、飲みたいんだけど」
「大丈夫かな……ちょっと待ってて。訊いてみるから」
 その回答に、智は『えっ?』という違和感を覚える。
 水を飲みたいだけなのに、何で誰かに問い質さなければならないのか。それが分からなかったのだ。
「ちょっとずつ、ゆっくりなら良いって。がぶがぶ飲んだら駄目だって」
「なぁ、さっきから、何かおかしくないか?」
「……智、貴方は大怪我をしたの。体のあちこちに、まだ穴が開いているの……」
 何!? と、智は目を見張る。
 しかし、それなら納得がいく。何となく息苦しさを感じるのも、手足が全く動かない事も。
「事故にでも、遭ったのか?」
「お願い! ……もう、何も訊かないで……」
 え……? 何で泣く? そんなに悲しい事なのか?
 吸い飲みを支える手が、小刻みに震える。嗚咽を必死に抑えているらしい。
 零れ落ちる涙が、俺の頬で弾ける。
 ……誰なんだ、芽衣をこんなに悲しませたのは……

**********

 その日から数日が経過し、智は徐々に意識障害から回復しつつあった。そんな時だった、彼女が目の前に現れたのは。
「朝倉クン、意識戻ったんだって?」
「あー、美樹ちゃんか。久しぶりだなぁ、元気だった?」
「……私の事より、自分の事を心配したらどう? 芽衣ちゃん、かなり悲しんでたよ」
「うん、メチャクチャ泣かれた。あんなに泣いたの、初めて見た」
 そりゃあ泣くよ、と美樹は苦笑いを浮かべる。と、丁度そこへ、見舞いの切り花を花瓶に生け終わった芽衣が戻って来た。
「そうだ、君にも悪い事をしたな。かなり酷く体を傷付けてしまったようだよ」
「!! ……ううん、もう気にしないで」
「って言うか、気にしても仕様が無いから……」
 と、気まずそうに目を合わせる二人を見て、智はまた『え?』と声を上げる。
「怒らないのか? かなり酷い怪我をしたって聞いてるぜ、ボロボロなんだろう? この体」
「うん……怒って済むなら、とっくに怒ってる。でも……ねぇ芽衣ちゃん、もう良いんじゃない?」
「……だね。そろそろ知っておいた方が良いかも知れない。っと、その前に智。自分がどんな顔だったか覚えてる?」
「は? 覚えてるに決まってるじゃないか、自分の顔だぜ?」
 そう言って笑う智に、やはり気後れするような態度を見せながら、芽衣がゆっくりと手鏡を握らせた。すると……
「何だ、何処も変わってないじゃないか。すっかり元通り……あれ?」
 一瞬の安堵、そして襲い来る大きな焦り。俺は何かを忘れている、とても大変な事を……と。
 彼が、その焦りの正体に気付いたのは、手鏡を渡されてから3分程度が経過してからの事だった。
「俺!? も、元通りの俺!? ちょ、元通り過ぎるだろ!! 美樹ちゃん、君から預かっていた体はどうしたんだ!?」
「機関銃で穴だらけにされちゃったからねぇ……アレを返されても困るよ。それに、1年待たずにコアを抜いちゃったでしょ? だからコネクタがダメになってて、もう使えなくなっちゃったんだよ。あの体は」
「そんなバカな……じゃあ、俺は取り返しのつかない事を……!?」
 智はその一言に青ざめ、涙目になる。だが、一瞬だけ憂いのある表情を見せた後、美樹は語り出した。
「言ったでしょ? 怒って済むのならとっくに怒ってるって。でも、アレは朝倉クンの所為じゃない。伊藤っていう、自衛隊の偉い人がいけないんだよ。君を……ううん、私を穴だらけにしたのは、あの人だもん。それに、元の体は無くなっちゃったけど、また新しい体を探せば、男には戻れるから」
 サラリと言ってのける美樹だったが、智は悲しみに打ちひしがれた。俺があの体に入っていた所為で君は本来の姿を失ったのだ、と。だが、美樹はそれもスパッと斬り捨てて、智に笑顔を向けた。
「いいんだってば。それに、あの時コアを抜いていなかったら、体を失うどころか、死んでたんだよ? 君は。それに比べたら、大した事ないって。生きている、これ以上に素晴らしい事があると思う?」
 あの日、初めて会った時の君は、俺の目をジッと見据えて、必死さすら滲ませていたのに……と、智は呆けに取られた。
「強くなったんだね」
「鍛えられたからね、君たちに」
 その笑顔は、彼女が今までに見せた、どの笑顔よりも眩しかった。
 しかし、と智は首を捻る。
「この体、確か損傷が酷くて廃棄された筈じゃなかったか?」
「生きている細胞が多かったから、培養液にずーっと浸しておいたんだって。そうしたら、切れてた神経節も元通りになったんだって。本当は、美樹ちゃんと一緒に元通りの体になって、握手させたかったって……研究所の人が言ってたよ」
 それを聞いて、智は『何と皮肉な』と思ったそうだ。然もありなん、二度死にかけた自分が元の姿になって、火傷だけで済んでいた筈の美樹が本来の身体を失ったのだから。

**********

 更に数日が経過し、智は悲しい報せを聞く事になった。いや、その日はそこに居た全員が等しく悲しみに暮れた。
「呼吸器系、循環器系に深刻なダメージを受けていて……搬入された時、既に絶望的だった。助けてやりたかったのだが……」
「誰よりも頑丈な身体を持っていたのに……一番先に逝ってしまうなんて!!」
 智は、医師から手渡された彼の遺品――銀色のドッグタグを握り締め、大粒の涙を流した。
「彼を殺した、あの男はどうなったんです?」
「国内で2桁、件のテロも入れれば3桁を超える程の人間を殺めた狂人だ。執行猶予無しの即時極刑も検討されたが、それでは罰を与える事にはならぬという結論になってな。結局は重労働付きの終身刑と云う形に納まったようだ」
「……この手で引き裂いてやりたいけど、それでは此方も同じレベルに堕ちてしまいますからね」
 説明する医師も、結果を聞く智たちも、皆がその判決に納得していない様子であった。何しろ人間を虫けらのように殺めても眉一つ動かさぬ冷酷な心の持ち主だ。幾年罰を与えたところで、反省なぞする訳がない。ならばせめて、二度と娑婆に出られぬようにしておく外に無いだろう……それが、全員共通の見解であった。
 その後、彼が統合政府の樹立を熱心に望んでいた一人であった事も知らされた。これは意外だったようだ。
 弦斗の生まれ故郷は、ユーラシア大陸の中心部に近い地域。宗教上の問題もあり、内戦の絶えない小さな独立国家であった。そんな環境で生まれ育った彼が、祖国の平和を願って統合政府の樹立を望んだとしても不思議な事では無い。しかし、智たちの知る彼は、そんな雰囲気なぞ微塵も見せない豪胆な人物であった為、統合化に賛成していたとは夢にも思わなかったのだ。
「最後の言葉は、『アリーシャに会わせてくれ』だったよ」
 その言葉を聞いて、彼らはまた項垂れた。それを叶えるには、彼がその復活を望んで止まなかった彼女のコアを、停止させなければならないと気付いたからだ。
 過ぎた時も、喪われた命も、等しく元には戻らない。ただ、その人が望むままにするのが、最高の見送り方だろう……彼らはそう考えた。

終章 巡る命

 あれから、3年の月日が過ぎ去った。
 智と芽衣は神の御前で将来を誓い合い、新しい道を歩み始めていた。
 そんな彼らが、黒で統一された衣服に身を包み、手には花束を持って、ある場所へと向かっている。
「あの二人、仲良くやってるかな?」
「夫婦喧嘩しても、旦那が負けるね絶対。だって、ベタ惚れだったもんな。あのオッサン」
 二人にオッサン呼ばわりをされているのは、他ならぬ弦斗の事である。故国の土に葬る事も検討されたが、彼自身が母方の姓を名乗っていた事に準じて、葬儀はキリスト教で行われ、日本の外人墓地に葬られる事となったようだ。
「俺達の常識だと、墓前では故人を偲ぶものだけどなぁ」
「此処では神様にお願いするんだよ。彼を宜しく、ってね」
 しかし、そうした儀式も既に形骸化しており、思想は自由という事で、手の合わせ方も祈り方も、各々にバラバラであった。が、それを咎める者などあろう筈も無かった。何しろ仏教信仰の強い国内にある外人墓地、訪れる者も日本人が殆どだ。中には数珠を持って合掌する者すら居る始末、兎に角『祈りが届けばそれで良い』と云う風合いが強くなっているのだ。
 墓前に到着した彼らは、そこである人物と待ち合わせをする事になっていた。顔見知りが全員揃ったところで、弦斗に挨拶をしようと云う段取りである。しかし……
「どんな姿になってるかな?」
「分かんないなぁ、連絡も久方ぶりで、しかもメールだったしね」
 そう、彼らは美樹を待っているのだ。が、彼女……いや、彼は男性に戻ると宣言して転居した為、それ以来どのような容姿になったかが全く分からないままなのだ。
「向こうから名乗ってくれると、助かるんだがなぁ」
「だよねー、全くの別人になってる筈だから」
 ……そうして、待つ事十数分。彼らの方へと歩いて来る人物があった。が、女性である。
「ハズレだな」
「うん……でも、あれ? 手を振ってるよ?」
「え?」
 芽衣がその様子を確認すると、智は意外そうな声を上げた。しかし、彼女の言う通り、その女性は彼らに向かって手を振っているのだ。そして、顔の分かる距離まで接近すると……二人は仰天してしまった。
「お久しぶり……って、何でビックリしてるの?」
「何で、って……男に戻るって言ってなかった? 何でそのままなの?」
「って言うか、そのお腹! もしかして!?」
 えへへ、と照れ笑いを浮かべるその女性は、まさしくあの頃のままの美樹だった。しかも、その胎内には子を宿している様子であった。これに驚くなと云う方が無理である。
「け、結婚したのか!?」
「あら、いけない?」
「いけなくはないけど……でも、美樹ちゃんって元は男でしょ!? 抵抗なかったの!?」
「んー、それには訳があってね……」
 勿体付けるように、ゆっくりと語り出した美樹の弁に依れば、何と相手も同じ経緯で性別を変えられてしまった元女性であり、その数奇な境遇に惹かれ合って心を通わせるようになったのだと云う事だった。
「何とも……類は友を呼ぶと云うか……」
「凄いよね、互いに中身は異性同士だから、感覚的には同性愛者と同じ事をやってる訳で……美樹ちゃんってノーマルだよね?」
「この姿になって、4年になるからね。男だった頃の感覚は段々と薄れて来てるんだよ」
 そんな、単純なものかな……と顔を見合わせる二人に、美樹はキッパリと言い放った。
「人生って、一本の道に似てると思うんだ。その道は、子供の頃は前を歩く親が作ってくれるけど、大人になったら自分自身の手で切り拓いていかなきゃならないんだよ。そこに在る状況を受け容れ、利用するのが逆に幸運を呼ぶ事だって、あるんだよ」
 その一言に、智は何かを思い出したのか。天から自分たちを見下ろしているであろう男の顔を思い浮かべ、呟いた。
「あの人もきっと、同じ事を言っただろうな」
「……そうだね」
 芽衣も、同じ意見のようだった。

**********

 その後、時代は移り変わって行くが、統合政府が樹立したと云う歴史の流れを見た物は誰も居ない。
「結局、そんなのは無理な話なんだよ。皆それぞれに、考え方は違うんだから」
「って、今ここでその話題を持ち出して、誤魔化す気?」
「そうだよ! いきなり全部にレモン汁掛けちゃうのは反則でしょ!」
 焼尽落としのつもりで立ち寄った小料理屋で、到着した唐揚げに無言でレモン汁を絞った智が、芽衣と美樹に責められていた。が、それが統合政府樹立を妨げる理屈の縮図である事は、間違いなかった。
「な? 唐揚げの味つけ一つとってもこれだ。全世界を一つに纏めようなんてのは……」
「だから、それとこれとは話が違うの!」
 ギャアギャアと怒号が飛び交う座敷に、注目が集まる。そして意見が飛び火し、周囲でも同じ話題で議論が始まる。
 その様を見て、智は苦笑いを浮かべながら『スンマセン、唐揚げもう一皿』と注文し直していた。

 個人には、それぞれに違う持ち味・役割がある。だからこそ全ての者に存在意義があるのだ。
 無論、その考えとてエゴの一つに過ぎないかも知れない。しかし、間違いでは無い筈だ。
 思想・理念・主張。どれを取っても、コレが正解と云う断定は不可能であり、誰にもそれを言い切る権利は無い。
 それを主張しようとすれば、果てしなく争いは続く。だから……

「『俺はこう思うよ』……それでいいじゃない」

 智は誰にともなく、そう呟いていた。

<了>

『Existence』

『Existence』 県 裕樹 作

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-01-23
Copyrighted

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