女将

 旅の途中ふと立ち寄った旅館で、夕食の時にやってきた女将が急にこんな話を始める。

 「何年も昔のこと、それはまだこの町が小さな漁村だった頃の話でございます。仕事を終えたひとりの漁師が、波打ち際に転がる大きな金色の塊を見つけました。近寄ってみると、塊の表面は熊のようなふさふさとした毛で覆われていました。近くに落ちていた枝を拾ってつついてみると、塊はむくっと動き出し、四本の足で立ち上がります。漁師は驚いて一目散に街へと駆けていきました。猟銃を携えた二人の保安官を町から連れて浜辺へ戻ってくると、港町の子供たちが夕陽の鮮やかなオレンジに照らされた浜辺のなかで、黄金の獣と戯れていたそうであります」

 そこまで話すと、女将は一枚の写真を見せてくれる。いつも旅人にこんな話を聞かせているのだろうか。着物の胸のあたりからすぐに写真を取り出すと、私に見せてくる。面倒な話をする女将だなと思った。仕方なしに女将に差し出された写真を覗いてみると、なるほどたしかに黄金の獣が写っている。大人の腰ほどの高さまである奇獣は、浜辺に顔を近づけていた。

 「その獣の生態ときたら大変珍しいことに、海水を飲むのでございます。これはこれはと驚いた漁師と町の保安官たちはそれに害がないことを確認すると、その場で話し合って殺さないことにいたしました。日がすっかり暮れた頃に、町からさらに四人の学者がやってきました。懐中電灯で照らされた奇獣の姿を見て、初めはつまらなそうな顔をしていたのに、海水をゴクリゴクリと飲む姿にはたいそう驚いた様子で、こんな獣はみたことがないと口々に喚きました。彼らは奇獣を丁寧に誘導して檻に閉じ込めると、町に連れていきました。翌朝、町は海辺に現れた黄金の奇獣の話題で持ち切りだったそうでございます。八人に増えた学者たちの観察の結果、それは新種の動物だとかで、すぐに新聞に大きな記事となって載りました」

 女将はまた、胸のあたりからしわくちゃになった一枚の新聞記事の切り抜きを取り出した。相当昔の新聞のようで、書いてある文字が難しくて読めないが、なんとなく大きなニュースであることはわかった。記事の上に載せられた写真の中で、奇獣がたくさんの人々に囲まれていた。これは面白い。女将の話の続きを聞いた。

 「獣は一躍有名になり、隣町から隣町へどんどん噂は広がっていきました。ひと月としないうちに、他の町から奇獣を一目見ようと訪れる人々でこの町は溢れていきました。いつの間にかこの奇獣は、人々からハントゥと呼ばれていました。子供たちが勝手に名前を付けたのでしょうね。ところで、この旅館が建てられたのもこの頃でございます。新しい産業が次々と発展を遂げていたその時代、この村も例外なく、いくつかの大きな工場ができていました。その工場から流れ出た廃棄物で海はいつも真っ黒に汚れていたもので、当時、漁師たちは年々と少なくなっていく魚に不安を感じていたのでございます。不漁に苛まれていた漁師たちにとって、奇獣の出現は思わぬ形で、観光業への転換期として絶好の機会となったのです。その時はもう、新種の生き物にお祭り騒ぎだったそうでございますから、海外から著名な研究者たちが訪れることも少なくはありませんでした」

 たまたま通りかかった小さな街に、そんな歴史があったことを知らなかった。思えば確かに、廊下にかかっていた高そうな額縁に入った油絵は西洋風であった。きっとその頃に、海外の絵描きなんかがここを訪れた時に置いていったのだろう。女将は話を続けた。

 「その後も学者たちによる綿密な研究の結果は、長い時間をかけて行われたにもかかわらず、解剖するわけにもいきませんでしたから、ほとんどのことはわからずじまいとなってしまいました。それでも彼らの唯一の発見は、さらに町の人々を驚かしました。先ほどもお話ししましたように、この奇獣、海水を飲むのでございますが、それが海水を飲むと水がきれいになっていくのでございます。浄化作用、というところでしょうか。ハントゥが飲むのは、海の汚れた水だけでありまして、バケツにすくって飲ませた油混じりの海水がどうでしょう、次の日の朝のぞいてみると、透明な水になっていたそうです。ますます人々はこの獣に興奮し、毎日それを海へ連れていき、たくさん海水を飲ませました。ほんの僅かずつではございましたが、ハントゥが海水を飲んだところが綺麗な水になっていくのを見て、町民たちは手を挙げて喜びました」

 女将の話にすっかりと夢中になっていた。指の間に挟んだ煙草が、ほとんど口を付けないまま灰になって指に近づいていた。灰皿の中に煙草を捨ててしまうと、新しい煙草に火をつけようとした。女将が素早くマッチを取り出して渡してきた。

「金色の毛並みが徐徐にくすんできていることに気付いたのは、漁村の子供たちが初めでした。汚れた海水を奇獣に飲ませるにつれて、獣の美しい毛並みは少しずつ灰色に濁っていきました。大人たちは町の発展にせわしく動き回っていた時期でしたから、子供たちに言われるまで獣の身体を覆う毛の色の変化に全く気付かなかったのです。それに、金色の毛並みが灰色になったところで、奇獣は相変わらず海水を飲み続けていましたから、大人たちにとっては毛の色などどうでも良かったのかもしれません。学者たちですか。彼らは新種の発見によって、その頃には既に大きな財を手に入れていましたから、それ以上は捗らなかった研究に早いうちに見切りをつけ、どこか遠い町に越していきました。とにかく、それまで貧しかった漁村に、奇獣によって一気に金がめぐり回ってきていた時でしたから、それの出現から5年経った頃には、町の人々にとってハントゥはただのきっかけに過ぎず、大きな変化の一部に過ぎないものになっていました。汚水を飲み続ける獣は、そうして日に日に灰色になっていったそうでございます」

 もう一度、初めに女将が見せてくれた奇獣の写真に目を落とす。一見、水牛のようであるが、耳が大きくて長いところ以外は羊のようにも見える。長い毛で覆われた体の前面に、小さなガラス玉のような可愛らしい瞳がついている。写真を見る限りでは、鼻や口の位置などは全く分からない。果たしてこんな動物が本当にいたのだろうか。不意に女将の話を疑ってみたくなった。そもそもなぜこんな話を客の私にするのだろう。女将は、胸のあたりからまた何かを取り出しかけたが、私と一瞬目が合うと、それをしまい込んで話を続けた。

 「すっかりと灰色になった獣は、それから間もなく死んでしまいました。浜辺に現れた時から既に10年も経っていましたから、世間の関心もすっかり薄れていたのです。その頃には観光客たちも、もはや放し飼い同然にされた海辺に佇む小さな灰色の塊を遠くから写真に収めるだけで満足し、旅館に戻って食べる海鮮料理や地酒の方がどちらかというと有名になっていました。
 ところで、奇獣は死ぬ時、初めて大きな声で鳴いたそうでございます。それまで町の誰一人として、それの鳴き声を聞いたものはいませんでしたが、その日もいつものように海水を飲んでいましたところ、角笛を鳴らしたような音で、二つか三つ、空気を大きく震わせるような叫びを上げると、そのまま浜辺に丸くなったきり、動かなくなりました。浜辺で遊んでいた小さな子供たちが、それを聞いたそうです。彼らのうちの数人が大人を呼びに行っている間に、残りの子供たちに見守られながら奇獣の亡骸は沖へ流されてしまいました。

 奇獣の死は、翌朝の朝刊の片隅に記事となりました。ちょうどその日は、大きな飛行機事故があった日です。夕刊は、飛行機事故が大きく取り上げられ、一日のうちに奇獣の死は過去のものになりました。この町からハントゥの姿が消えてしまったことは、人々を少なからず悲しませましたが、町の経済はすっかりと勢いづいたものになっていましたから、年末の繁忙期に向けて人々は、それどころではなくなっていました。奇獣はそれから二度と現れることはありませんでしたが、この町はそれからも次から次へと新しい観光産業が発展しました。年々観光客の数は増え続け、いまに至るまでこの町は有数の観光地として、多くの人に愛されております。ところで、お客さんが今お食べになっているその和菓子ですが、一昨年に作られたものでございまして、昨年ヨーロッパで有名なパティシエがお越しになった時に…」

 その後の話はあまり覚えていない。ただ、女将が部屋を出ていったあとも、頭の中には一匹の惨めな灰色の獣がぽつりと水辺に佇んでいる姿が消えなかった。女将がどうしてそんな話をしたのかも、全くわからなかった。
風呂を上がって酒を飲んでいると、外から笛のような音が聞こえた。近くで鳴っているようだった。妙な話をされて、少し気晴らしがしたかった。旅館の浴衣の上からコートを羽織って外に出ると、昼間に到着したときと町の雰囲気が違っているように感じた。波の音に交じって、また近くから笛の音が聞こえる。三キロほど離れた工場からは灰色の煙が気味悪く立ち上がっている。煙は巨大な生き物となって暗闇の中を彷徨っている。浜辺に立ってそれを眺めていると、奇獣の気配を感じざるを得なかった。コートの下で、じっとりと嫌な汗が下着に滲んでいくのがわかる。誰か連れてくるんだったな、この町は薄気味悪い。そう思って、踵を返そうとした瞬間、体が重く言うとおりに動かないことがわかった。誰かがどこかから、背中をじっと睨んでいる。心臓の鼓動は早くなり、足が震えている。急に激しく喉が渇いてきた。考える間もなく、ばたばたと波際に駆け寄って海水に直接口をつける。気が狂いそうなほどの辛さが喉に突き刺さる。それでも喉の渇きは収まらない。もはや上も下もわからない状態で、身体ごと海の中に倒れこんでいた。じゃりじゃりとした砂や小石が、海水と一緒に口の中に入り込む。鼻の奥まで海水が流れ込み、頭部に絞めつけられるような痛みを感じた。身体は水を欲し、喉は焼けるように痛み、そしてどうしようもないほど悲しく、辛く、泣きたかった。
必死に手足を動かせば動かすほど、体は海の方へと沈んでいく。もうだめだと諦めかけた刹那、浜辺の方に人影を見つけた。最後の力を振り絞って水面から首をなんとか伸ばし、誰かに向かって助けを求めて叫んだ。ところが、喉から出てきたのは角笛を鳴らしたような、寂しい音だけだった。

女将

女将

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-21

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