偽千年紀

――〈帝国〉は終滅することがない。

  フィリップ・K・ディック著・大瀧啓裕訳『ヴァリス』(創元SF文庫、2010年)

◆序の一

 この歴史は、我々[#「我々」に傍点]の知る二〇世紀ではない。

◆序の二

 語るべきことは多いが、まずは今ここで起きていることから話そう[#「話そう」に傍点]。

◆老密偵と左利きの剣士

 今、ここ。つまりは一九六〇年四月一五日の帝都[#「帝都」に傍点]東京某所に存在する剣道場の中に、ふたつの人影がある。片方は白袴の剣士であり、朱塗りの防具をきっちりと見につけ、手にした袋竹刀を片手だけで正眼に構えている。正統な剣道を習ったものからすれば、彼が袋竹刀を左手一本で構えているさまは、あまりにも奇異に見えたであろう。片手軍刀術、と言うものに近いかもしれないが、それにしても左手でと言うのは奇異である。
 もう片方は、年の頃はそろそろ七〇を越えようかというほどの、老人である。老人は、面はおろか籠手も胴着もつけず、竹刀だけを手に、自分よりもはるかに若い剣士と向き合っていた。彼らの奥の壁には「曙流(あけぼのりゅう)」と墨書きされた木板がある。それが、この道場の流派の名だった。その下に並んだ釘には、まばらにではあるが名札がかかっており、師範である老人の名が本郷嘉昭であることがわかる。
 暦の上ではまだ春であるが、昼過ぎともなれば日差しはすでに初夏の彩りを見せている。周囲を木々に囲まれたこの道場も、気温はすこしばかり上がってきていた。防具の中で、白袴の剣士の肌には汗がにじむ。眼前に立つ老剣士は汗ひとつかいていないというのにである。
 ふたりが対峙して、すでに五分以上は経っているが、どちらも動こうとはしない。趨勢が大きく変わったのは、玄関口に置かれた電話のベルの音が、かすかに届いたときのことであった。
「失礼します、本郷先生――」
 電話を受けた住み込みの門下生が道場に入ってきた、その眼前に、絡め取られ、跳ね上げられた袋竹刀が落ち、鈍い音をあげた。道場の床には、胴を打たれた衝撃でくずおれた白袴の剣士の姿があり、老剣士のほうは、先刻とほぼ変わらぬ姿で、ただひとつ、竹刀の刀身を眺めるように掲げ持っていたことだけが違っていた。
「――あの、ちとせ殿に火急の用事だ、と、杉原さんという方が」
 千年が、打たれた胴を抑えたまま顔を上げ、のろのろと籠手をとり、面を取った。不動がはっと驚いた顔をしたのは、彼はつい先日道場に住み込み始めたばかりで、千年と顔を合わせたことがなかったためであろう。面の下から現れたのは、千年などといういささか雅やかにすぎる名前から日本人が想像するであろうものとは異なる、白い膚に青緑の瞳の、西洋人の顔に他ならなかった。
「せっかくの休みやと思たのに、かなわんなあ」
 その顔から発せられた言葉が、関西訛りの流ちょうな日本語であったために、門下生はさらに眼を白黒させていたが、千年はそんなことには構わず、髪を抑えていた手ぬぐいで顔の汗を簡単にふき取り、防具と袋竹刀を手早くまとめ始めた。手ぬぐいの下の髪が金色で、なおかつ肩までの長さがあったことには、門下生ももうそろそろ驚かなくなっていた。
 その間、本郷師範はなにを思ってか自身の竹刀を見つめ続けていたが、ふいに
「相手の状態を見て、手加減をするのはやめておいた方がいい。命取りになる」
そのようなことを、静かに告げた。千年は支度をする手をほんのわずかな間止めた後、にへら、と笑って見せた。
「ええ、いえ、そんな器用なこと、ようしませんよ。さっきので全力、実力不足です」
「それなら、精進することだ。こんなロートルに負けていては、実戦で使い物になどならんだろう」
 関西訛であることはわかるものの、具体的にどのあたりの訛とも判別のつかない日本語と同様、どのような感情が裏にあるのかわかりづらい笑顔が、千年の顔には浮かんでいた。その曖昧な笑みをうかべつつ、ええ、はい、そうですねえ、とこれまた曖昧な返事を口にすると、まとめた荷物を肩に掛け、道場の入り口で一礼をして、千年は道場を後にした。

◇彼は誰だ?

 金髪碧眼に剣道着姿、という珍しいいでたちの姿が見えなくなるまでその背を見送った後、不動という名の門下生は自らの師匠に問いかけた。
「先ほどの外国人の方に、手加減がどう、と仰っておられましたが、あれはいったいどのようなことだったんです」
 青銅の彫像のように精緻な皺が刻まれた老人の顔の中、眼だけがぎょろりと弟子の方へと向けられた。
「おれが防具を付けていないのを見て、得物だけを狙ってきた」
 本郷は、若者のような言葉を話す。
「こちらも、その力を利用して奴の得物を巻き上げたが――」
 説明を受けても、その場を見ていないため今一つぴんとこず、惚けた顔を浮かべる不動の不出来を責めるでもなく、本郷はゆるりと竹刀を振った。途端、束ねられた竹ひごの半ばがへしゃげ、竹刀はへの字に折れ曲がった。
「この通りだ。まア、やられたままというわけにもいかんから、ついでに柄頭で胴を叩いてやったがな」
 それが、自分が道場に入ったあの刹那に起きたことなのだ、とようやく合点のいった不動は、素っ頓狂な顔をして、背筋をしゃんとさせた。そも、不動からすればこの師範を相手に手加減をする、など考えようもないことだ。一度、防具なしの本郷と打ち合ったことはあるが、結果は、「打ち合った」などといえない有様だった。しかも、あの外国人は、左手一本でこの師匠と渡り合っていたではないか。
新陰流(しんかげりゅう)のようでしたが、外国人でそれほどの使い手になるとは、あの方はいったい……」
 千年の持っていた袋竹刀は新陰流の鍛錬に特徴的なものであるため、それだけで流派がわかるのである。が、本郷はすこしばかりおかしげに、眼を細めて見せた。
「あれを新陰流と呼んでは、奴に剣を教えたものも浮かばれないだろうな。もとは新陰流だろうが、実戦の中で自分の良いように癖をつけて、ほとんど我流だ」
「は、実戦、ですか」
 一九六〇年、つまりは昭和三五年、皇紀二六二〇年ともなって、剣に実戦などというものがあるものなのか、との疑問がわき上がっていることのよくわかる表情で、不動は素っ頓狂な声をあげた。
「それに、奴が外国人だというのも、うん、仕方はないが、当人は否定したがるだろう」
 ちっとも要領を得ない説明に弟子が眼を白黒させるのを楽しげに見やりつつ、本郷は、茶を飲むべく道場から退出していった。

◆〈昭和通商〉地下にて

 東京都中野区に、“昭和通商本社”という看板の掛かった建物がある。〈昭和通商〉というのが、日本陸軍の有する対外諜報組織の隠れ蓑である、というのはそれなりに有名な話だが、ここはまさにその「本社」なのであった。ドイツで言うところのアプヴェーア、降伏以前のイギリスで言うところのSIS、内戦分裂以前のアメリカ合衆国でいうところのCIAに相当する、と言えば、多少通りが良いかもしれない。
 この〈昭和通商〉本社ビルというのが、もとは関東大震災のあとに建てられた銀行を先の戦争のあとになって居抜きしたものであるため、なかなかモダンな外観をしている。そのため、たまにアマチュアの写真家が被写体に選んだり、売れない風景画家が画材に選んだりしてしまって、そのたびに警備員が彼らと一悶着を起こすことになる。千年が〈昭和通商〉本社ビルに入ろうとしたときにも、どうやら画学生との間に問題が持ち上がっていたようだった。気の毒に、画学生はスケッチブックを丸ごと取り上げられようとしており、今描いた絵を消すだけではだめなのか、と必死で抗議していた。
「あのー、通らせてもらいますよ、っと……」
 白の剣道着に竹刀袋と防具一式のはいった巾着袋、などといういつもならば間違いなく警備員に止められるはずの格好をしていたため、これ幸いと千年は警備員の後ろをすり抜けて、ビルの中に入ろうとした。が。
 画学生は、突然怒鳴り声が聞こえなくなり、きょとんとして警備員の顔を見上げた。警備員は、防具の入った袋で後頭部を殴られ、昏倒しかけていた。なにが起きたのかわからずに困惑している画学生の前に、スケッチブックが差し出された。スケッチブックを手にしているのは、警備員の後ろにいた千年である。
「あ、あの、ありがとうございます!」
 画学生は、スケッチブックを受け取ると、深々と頭を下げて、そのまま走り去っていった。急な出来事であったため、スケッチブックを手にしていた千年が、自分でも驚愕の表情を浮かべていたことには気づいていない様子であった。
「……貴様……」
 警備員は、片膝を付いたところで意識を取り戻したらしく、頭を押さえながら千年の方を振り返った。警備員と言うよりは、明らかに職業軍人、具体的には一兵卒からたたき上げで軍曹にまで昇進した部類の人間にしか見えない強面の顔が、怒りに赤く染まっている。
「いや、待って。確かに今あんたを殴ったんはこの手なんやけど。いや、確かにそうやねんけど、ほんま待って、ちょっと話を聞いてくれるだけでええねん、な?」
 防具袋を握った右手を罰するように、千年はもう片方の手で右手を叩いてみせるも、今まさに警備員の頭を直撃した防具袋を手にしているのだから、何の言い訳のできるはずもない。
 玄関脇の警備員の詰め所に千年が連行され、絶え間なく怒鳴り声が響きはじめておおよそ一〇分ほど経ったところで、詰め所の受付窓がノックされた。ガラスの向こうには、着流しの上から羽織を肩にかけた、場違いな服装があった。
「失礼、うちのスタッフがお邪魔しているようだね」
 千年は床の上に正座させられたまま、天の助けを見るように、窓からのぞき込む“長官”の顔を仰いだ。警備員の方は、反対にこの上なく腹立たしげな表情で受付窓の前でかがみ込んだ。
「ええ、杉原殿、本当に言葉通り、邪魔されていますとも」
 率直な嫌味を言われても、長官はどことなく狐を思わせる相貌を少しも崩すことはない。
「それは悪かった。が、少しばかり彼に入り用でね、仕事が終わってからまた来させるから、今は返してもらえないか」
「入り用と言ったってねえ、本当のところ、あなた方の用事に我々が譲歩する必要なんてのは……」
「今回の件については、君らの方からの協力要請だ。こちらこそ、わざわざ休暇中のスタッフを呼びだしてまで対応しているんだがね。何なら営業部のほうへ、スタッフが警備員に捕まっているので仕事の開始が遅れそうだと伝えようか」
 営業部の短縮は五番だったかね、などと空々しい口調で言いながら、警備室の外から長官が内線に手を伸ばそうとしたので、警備員はあわてて受話器を押さえた。
「そういうことなら、そうと言ってくれればいいのに」
 ようやく解放された千年は、ぶつくさと文句を言う警備員の後ろで中指を立てつつ警備室を出て、長官が苦笑いを浮かべているのに気づき、あわててまじめくさった表情を浮かべて見せた。
「どうもすみません、わざわざご足労をかけて」
 敬語ではあるが、やはり千年の喋る日本語には、関西訛がある。
「いいさ、たかだか階段一四段ぶんのことだ」
 千年と彼の上司は、エントランスを横切り、関係者以外立ち入り禁止と書かれた防火扉の向こうにある階段を下りていった。
 一四段の回り階段を降りた先には、随所にレトロな装飾を施された上階とは違い、打ちっ放しのコンクリートに囲まれた廊下がある。排気管のダクトが壁を這う廊下のどんつきには、かつて銀行だった頃の名残である大金庫があり、その中には、今では〈昭和通商〉の機密書類が詰まっている。もしそんなことが可能であれば、の話であるが、その書類に記載された情報をすべて現金に換えたならば、同じだけの重さの紙幣よりも遙かに膨大な金額になる。そういった種類の書類であった。
 だが、いまこの廊下を歩く二人が足を止めたのは、大金庫よりおおよそ二〇メートルほど手前、金庫を守る歩哨の吸う煙草の煙のにおいが届かないほどのところでのことである。そこには、簡素なドアがあり、ドアのガラス窓には、室内側から「千畝機関」と書かれた古びた紙が貼られている。もとは警備員の宿直室だった部屋と隣の給湯室を接収し、間の壁をぶち抜いてできたこの部屋が、外務省所轄の対外諜報機関〈千畝機関〉の本部なのであった。つまりは、この建物の上階にある〈昭和通商〉とは、同業他社の関係となる。
 戸を開くとともに、自らの名を冠した機関名を記した紙がはがれおちたため、長官はそれを貼り直してから靴を脱ぎ、元宿直室部分の畳に上がった。畳の上には、奥にある長官用の文机と、資料の収められた無数の段ボール箱と、その間を縫うように設置されたちゃぶ台に向かって仕事をするふたりの事務員の姿がある。本部常駐スタッフはそれで全員なのであるが、今日に限っては、元給湯室部分に詰みあがった段ボール箱の間で、一見商社マン風の見慣れない青年が窮屈そうに立っていた。畳の上に座っていないのは、おそらくは三つ揃えの型が崩れるのを嫌ってのことであろう。それは典型的な〈昭和通商〉営業部員のスタッフだ、と千年は見当をつけた。営業部は、一人で外国に潜入し、現地工作員(エージェント)を雇い入れたり、はたまた単身で何らかの活動を行う部類の、〈昭和通商〉で最もスパイらしいスパイ活動を行う部署である。資材課、とかつて呼ばれていた部署と多少似通った業務内容であるが、戦後の組織改変の際、より単独での任務遂行能力の高いものを集めた営業部と、情報操作や資金調達、場合によってはプロパガンダなども行う資材部、という形に再編されてできた部署であると聞く。しかし、〈昭和〉は、業務のかぶっている組織にありがちなこととして〈千畝〉を毛嫌いしているが、直接に組織の顔とも言える部署のスタッフを送りこんでくるとは、なにか方針の変更でも行われたのであろうか。――そういえば、つい先日〈昭和通商〉営業部長が定年退職を迎えて、新たな部長が着任した旨聞き及んでいたことを、千年は思い出した。
 文机を挟む形で千年が長官の前に座ると、いつの間に用意したものか、“嵐”という通称の事務員が湯飲みと茶菓子を文机の上に置いていった。
「それで、火急の用件()うのはなんです」
 長官は手元から一枚の書類を取り出し、千年に差し出した。身辺調査書だが、様式からして〈千畝〉ではなく〈昭和〉のものだ。調査の対象となっているのはジークフリート・アンドレアスという名のドイツ人で、生年は一九三二年、東洋民俗学の博士号を有しており、近々大東亜共栄圏に渡航予定――との旨が簡潔に書かれている。
大東亜共栄圏(ひがしがわ)に渡航予定。渡航目的は学術調査として……同業者ですかね?」
 先の大戦よりこちら、欧州とアジアの二大覇権国家である日独の関係は冷え込む一方であり、日本側、「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域からドイツ側、いわゆる「生存圏」に数えられる地域への渡航と同様、その逆向きの渡航も、学術関係とあとはせいぜい芸術関連の理由でもない限り、国からの許可を得るのはかなりの困難を極める。そして、渡航を許された数少ない人々が密偵を兼任している割合も、東西でおおよそは同程度なのであった。
「いや、彼は白だったそうだ」
 だった、と言う部分を長官はことさらに強調して言い、それから、脇に立つ営業部員の方をみた。そのあたりの説明は、彼が行うと言うことであろう。青年は銀縁のめがねの位置を直し、説明を引き継いだ。
「早まった現地の同業者が、北京に到着したところで氏を引っ張って、尋問にかけてしまいましてね。地域マネージャーが気づいたときには、遅かった。実に単純な人為的ミスですよ」
 つまりは、殺してしまっていた、と言うことであろう。うへえ、と千年はつぶやき、肩をすくめた。それは、無辜の学者先生へのいわれなき暴力に思いを馳せたことによるものではなく、この話の行き着く先としての千年に課せられる任務の種類に気が付いたがゆえにあふれ出たものであった。
 千年はふたたび、故・ジークフリート・アンドレアス氏の身上調査書に目を落とした。一九三二年生まれならば現在二六か二七歳、千年の正確な生年はわからないが、おおよそ同年代である。身長は一八〇cmの痩せ形――少しばかりアンドレアス氏のほうが長身だが、靴の踵の高さを調整すれば千年でも違和感なく偽装できる範囲だ。髪と目は金髪碧眼、いわゆる理想的な「アーリア人種」である――千年の金髪は実のところ染髪によるものであったが、どちらも千年の身体的特徴と大きく外れるものではない。顔ばかりは、アンドレアス博士のほうが数段、甘いマスクの整った顔であるが。千年は、居心地の悪さを感じ、座っていた足を何度も組み直した。
「ああ、わかったようだな。なら、話が早い。アンドレアス博士の経歴を盗んでくれ。〈昭和通商〉さんたっての願いとあっては、断るスジもあるまい」
 上司の口から発せられた予想に違わぬ言葉に、千年は喉の渇きを覚え、湯飲みへと手を伸ばしたが、熱いほうじ茶は喉の渇きをいやしてくれるとは言い難かった。
「……あの、こちらがお願いしている身分でこんなことを言うのは心苦しいのですが、他の候補は居ないのですか」
 と、千年の風体を眺めつつ、営業部員がそんなことを言う。概ねでは外れていないとはいえ、ものすごく似ているわけでもなく、何より千年は髪を長く伸ばしている。そこにきてこの格好で、この口調であるので、営業部員からすれば理想的な影武者(ダブル)とは思えなかったのであろう。居るよいます多分いるからそっちに、と千年が嘘をつくべく口を開く前に、
「居ないんだなあ、これが。残念だが、概ね似ているだけで我慢してくれ」
 長官に、機先を制されてしまっていた。剣道、剣術で機先を制するのはまあまあ得意であるが、単純な会話術ではこの元外交官の密偵使い(スパイマスター)には、千年はかなわない。
 しかし千年は、まだ、自身の休暇を諦めてはいなかった。生存圏構造の中ではなくアジアでの活動になりそうだ、というのも今ひとつ、千年を奮い立たせない要因であった。
「……〈昭和〉さんほどの組織が、氏を『事故死』したことにできない理由は」
 ともかく、断る口実を何かつかもうと、密偵らしく千年は情報を得ることとした。よりによって弱小組織とはいえ同業他社のライバル組織に人員の融通を頼むほどなのであるから、よほど「ジークフリート・アンドレアス氏」に今死なれるわけには行かない理由があってのことに違いない。人一人の死因を偽装することの方が、死人が生きているよう見せかけるより遙かにたやすいに決まっている。千年に碧い瞳を向けられた営業部員は、原稿を読み上げるような調子でその理由を答えた。
「アンドレアス博士は上海の富豪――ユリウス・ハオ、という名で通っている男ですが、この人物がこのたび行う遺跡の発掘に同行する予定となっていたのです。実を言うと、〈昭和〉の監視対象はこの富豪でしてね。ここでアンドレアス博士が『事故死』してしまえば、確実に対象は警戒を強め、下手をすれば逃げられてしまうかもしれません」
「ハオ、ハオねえ。……ハオ氏の監視理由は何や」
 千年の口調は先ほどからわざとらしいほどとげとげしいものになっているが、営業部員は素知らぬふりを決め込んでいる。
「ナチのスパイである可能性。――以上のことは、申し訳ありませんが機密事項につき、お教えできません」
 ナチか……と、しばし千年は考えこむ。が、やはりどうにも今もたらされる情報だけでは気が乗らず、やがて面倒くさそうに頭を掻き、営業部員を見やった。
「アホか、自分らの尻拭いのために協力を要請しておいて、情報はなんも教えません、なんて、そないなこと筋が通ると思っとるんか?」
 段ボール箱の間で、営業部員は肩をすくめて見せた。
「スジ論などという偏狭なものにとらわれるのは〈昭和〉のやり方ではありませんよ。それに、我々としては、〈千畝機関〉は、このような働き方でこそ本領を発揮できるのではないかと考えています」
「あんたらの下請け(エージェント)をしてなんぼや、ってか?喧嘩でも売りにきたんか、自分」
 千年は音を立てて湯飲みを文机の上に置き、体を営業部員の方へと向け、ひざを立てた。喧嘩を売って怒らせて、話を反故にするという作戦に打って出る腹を決めたのである。
「はじめから喧嘩腰なのはあなたでしょう」
 あからさまに激高してみせている千年に対し、営業部員の方は、表面上平静に見える。が、返答までの速度が早くなっているところからするに、内心はそうでもないと見える。――千年は内心、思い通りの展開になってきていることにほくそ笑みつつ、さらに青年を挑発するべく口を開いた。
 が、青年が続く言葉を先に発してしまったため、その口は、ぽかんと開いたままになってしまった。
「――大体、あなた方がことアジア地域での活動においては我々の下請けに向いているというのは、本当のことでしょう。金髪碧眼の外人を集めた諜報組織という時点で――」
 机を叩く音が室内に響いた。自分でもすぐに口を滑らせたと気づいたらしい営業部員は口を押さえ千年を見たが、音を立てたのは千年ではなく、千年はというと、顔をこわばらせて文机の向こうにいる長官を見上げていた。つまりは、文机を叩いて立ち上がったのは、長官の方だったのである。
「訂正してもらおう。彼らは、いや、ここにいる彼は日本人だ。そうなるほかなかったのだ」
 長官は諜報員としての経歴は持たないが、大戦中の欧州において外交官をつとめ、当時の外交官が往々にしてそうであったように、現地の協力者を操り情報収集を行っていた。長いキャリアを持つ密偵使いに気圧されたのか、営業部員は、床の面積が許す限りではあるが後退り、シンクに背をぶつけたところで我に返ったようであった。呆けていた顔をはっと引き締めると、彼は靴を脱いで畳の上に上がり、両膝を付いた。
「申し訳ありません、失言でした」
 青年はまず千年に、そのあと、長官に深々と頭を下げた。先ほどまで激高した様子を見せていた千年は、予想していなかった展開にむしろ気まずそうに頭をかいてその謝罪を受け、長官のほうが渋面を崩さずにいた。
「……しかし、情報の共有についてはまた別の話で、譲れない一線というのが存在する、それは、同業者であるあなた方にはよくおわかりいただけるかと思いますが」
 顔を上げた青年と、長官の視線とがかち合った。いつの間にか、事務員たちがペンを走らせる音や電卓を打つ音も消えていて、静寂の中、この上なく緊張した時間が流れる。が、それも数秒のことであった。
「わかるとも。そこを崩されると、そちらへの信頼がなくなるというものだ」
 長官の細い目が、柔和な弧へと変化し、声色も明らかに柔らかくなっていた。千年が深く安堵の息を吐いたのを契機に事務員たちがまたそれぞれの仕事を再開し、長官が懐手をして座り直したことで、張りつめた空気はどこかへ四散していった。
「とはいえ、“アンドレアス博士”が持っているべき知識については、教えておいてもらわねば困るな。特に、考古学については」
「ええ、それは、もちろんです」
 長官に言われ、営業部員が床においていた黒鞄の中から、大量のふせんのついた分厚い専門書を複数冊取り出し、畳の上にどさどさと置いた。日本語、ドイツ語文献のみならず、おおよそ見たことのない文字――おそらくはチベット文字であると思しきもので書かれた古文書の写しのようなものまであるのだから、千年としてはたまったものではない。
「……あの、参考までに、ハオ氏の発掘調査っちゅうのはどこで行われるんか、それは教えてもらえるんかな?」
「それは大丈夫です。発掘調査の現場はチベットです。ラサから飛行機で二時間ほどの、普楽(プーレー)という土地ですね。これは近年になってから地図に載せるため現地の伝承をもとに中国人がつけた名で、現地の人間は特に自称を持たないようですが」
 おそるおそる口に出した問いに明快な答えが返ってきて、本日最大級に顔をこわばらせている千年の肩に、いつの間にか文机を回り込んですぐとなりに来ていた長官の手が置かれた。視界の端に映る長官の顔は、これまでになく狐じみている。
「できるだろう?」
 その言葉の中には、「折角、心情的にこちらがやや優位な状況を作ったんだ。まさか、断りなどしないだろうな」との意味合いが言外に含まれているのは間違いのないところであった。
「ええ、もちろん、できますとも、当然やないですか」
 休暇中に得意分野からかけ離れた仕事を押しつけられそうになったので相手を怒らせて断ろうとしていたことなど、どうやらこの上司にははじめからお見通しだったようだ。内心では血の涙を流しつつもそう答えた千年に追い打ちをかけるように、営業部員の言葉が浴びせられた。
「それはよかった、アンドレアス博士は一八日には現地入りする予定でしたので、本日から移動しながら覚えていただく形になります」
 今日が一六日なので、実質猶予はせいぜい二日間と言うことになろう。千年は、世界史の中国史部分で軒並み赤点をとり続けた記憶を今まさに脳裏に反芻しながら、「よろしくお願いします」と営業部員が差し出した手を、何も考えることなくつかんでいた。

◇車上にて

 先の大戦のさなか、東欧の小国に派遣されたとある日本の外交官が、ナチの迫害から逃れるべく旅券を求めて押し掛けたユダヤ系難民らに、日本行きの旅券を発行した。その枚数は、おおよそ六千枚。旅券は実のところ本国から許可を受けたものではなかったが、日本に来てしまったものを送り返すわけにも行かず、六千人あまりのユダヤ系難民は、戦況が落ち着き次第日本を経由して第三国に出国することになった。
 しかし、戦争が終わってみれば、欧州は相変わらずナチスドイツとその大管区で覆われており、さらには南米やアフリカにもいわゆる生存圏構造が進出していた。生存圏に組み込まれていないにせよ、戦後世界の盟主であり、世界の三分の一の面積を支配する国との軋轢の元になる存在を受け入れる国など、あるはずもなかった。
 六〇〇〇枚の旅券を持った彼らがどうなったか。詳しい経緯は、〈昭和通商〉の調査でさえ詳らかにできないほどの機密事項として、おそらくは外務省の資料庫の奥底にしまい込まれている。ただ、はっきりとしているのは、戦後一〇年ほどが経った時点で、満州にユダヤ人を始めとする生存圏(にしがわ)からの亡命者による自治区がひっそりと作られ、それと同時期に件の外交官の名を冠し、金髪碧眼の密偵を無数に擁すると言われる、外務省所轄の対外諜報組織が生まれていたことだった。
 ――それが、〈昭和通商〉が把握する〈千畝機関〉の成り立ちだ。職種の被る二つの組織にありがちなこととして、両者の仲はすこぶる悪い――というか〈昭和通商〉側が実態も実績も分からない〈千畝機関〉を毛嫌いしており情報の共有も全く行われていない。そのため、組織規模のあまりの小ささから諜報能力はさほど高くない、とは見なされているものの、本当のところどの程度の実力を有した組織なのかも判然としないのが現状で、つまりは、
「夏、殷、周、春秋、戦国、秦、前漢、新、後漢、三国……えーと、あと、いろいろあって、清、中華民国――なあアキカズくん、これほんまに覚えへんとあかんのか?っていうか自分がこれ覚えろって言われて、中二日で覚える自信ある?」
と、中国の歴代王朝の名前を死にそうな顔で暗唱し続ける〈千畝機関〉の密偵に営業部員を密着させている今現在は、本来の任務の他にも、青い瞳の密偵たちの秘密のベールを暴く絶好の機会でもあるのだった。
 チベットへと向かう列車の個室の中、正面に座る同業者のしかめ面を否応なしに眺めつつ、〈昭和通商〉営業部員因幡明和は、何度目かわからないため息を深々とついた。この名前は、もちろん偽名だ。地下に剣道着姿で現れたときから思っていたが、この「千年」という暗号名の同業者はあまりにも密偵としての自意識に欠けているとしか因幡には思えなかった。いまの出で立ちにしても、〈昭和〉の側で用意した背広はともかく、金髪を肩より下まで伸ばしたままにした髪型などは問題外だ。どこからどう見てもドイツ人の学者になどみえはしない。散髪しろと言っても聞かないので隙を見てこっそり切ってやるつもりで居たが、その点だけはなかなか隙を見せないのが困ったところだった。
「あなたに渡したテキストでしたら全て覚えています。〈昭和通商〉の社員なら、誰でもできることですよ。あと、飛ばしたのは晋、南北朝、隋、唐、五代、宋、元、明です」
 中国の歴代王朝ぐらいなら、そこらの中学生でも覚えている……とまで言わなかったのは、優しさによるものではなく、話をややこしくしないためにすぎなかった。適当に選び取った専門書のページを開いて千年がした質問に、滞りなく因幡が答えると、千年は驚愕を露わにして見せた。
「この程度で驚かれても困りますが……そちらのスタッフは、みんなあなたと同じ程度のレベルなのですか?」
「いや、そんなことはあらへん、と思うで。俺以外全員潜伏員(スリーパー)なんで、誰がどれだけの能力を持っとるんかよおわからんのやけど」
 因幡は怪訝な顔をする。そんなはずはないだろう。スリーパー、潜伏員、眠れる密偵というのは、密命を帯びた上で現地にて一民間人、あるいは何らかの役職を持った人物としてごく普通に生活を送り、時が来れば与えられた任務のために動き出す類の密偵のことだ。〈昭和通商〉にもそのような人員は居るが、だが、そればかりで構成される諜報組織などはありえない。情報の収集も何もできないではないか。
「では、あなたが一人で、あの段ボール箱の中にある情報を集めてきたと?その刀をぶらさげて?」
 その刀、とは、千年が座る座席の左側に立てかけられたサーベル型の軍刀、三十二年式軍刀のことだ。これこそ、因幡が心底あきれた千年の持ち物の一つだった。どの国の密偵でもそうだろうが、ふつう密偵というのは、自分の祖国との関わりを少しでもにおわせないようにするものと相場が決まっている。現在の因幡にしても、「ドイツ人に雇われた中国人の荷物持ち」という役回りに徹するため苦力風の服装にしていて、身分証も中国のものを身につけているぐらいだ。それなのに、当の主役が日本陸軍制定の軍刀を携行していては、ほかの偽装が全て台無しになるではないか――との主張はすでに出発前に行ったが、そのときの答えは
「東洋通の学者先生やろ?日本の軍刀なんて面白いもん、その辺のガラクタ屋で仕入れててもおかしいことないって」
との馬鹿げたもので、聞き入れてもらえなかったのは言うまでもない。
 そして現在、やはり青い瞳の密偵は、因幡に馬鹿げた答えを返す。
「せやで。まあ、情報収集はおまけで、本業は破壊工作と暗殺やねんけどな」
 ありえないだろう、と言外に匂わせて問いかけたのにもかかわらず、千年は真面目くさってそう答えるものだから、因幡の眉間の皺も深くなるというものだった。
「馬鹿らしい。そんないびつな諜報組織がありますか。たった一人で軍刀ぶら下げて、そこら中で破壊活動と暗殺をしながら情報を持ち帰って、毎回生き残る?そんなのは、パルプフィクションの中の出来事ですよ」
 おそらくは、千年の方も〈昭和通商〉が〈千畝機関〉の情報を収集しようとしていることに気づいているのだ。だから、馬鹿げた話をして話を混ぜっ返しているに違いない。〈千畝機関〉の青い瞳の密偵は、困ったなあ、というように頭を掻いた。
「まあ、死なへんからな、俺」
 しかし、混ぜっ返すにしてもこの発言に至っては、少しばかりネジが緩みすぎていると思うほかなかった。自分一人は死なない、と思っているものは多い。その自信がなければできないような仕事も、密偵には多いと聞く。だが、自信と過信は別だ。この眼の前の密偵の場合――その得物も含め、どうにも過信の方に針が振りきれているようにしか思えなかった。
「そんなわけがないでしょう。――これで本郷嘉昭の弟子だとは……」
 因幡がつぶやいた言葉が、千年には意外だったようだ。千年は緑がかった瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「俺、本郷の爺さんの弟子とちゃうで」
「は?」
「確かに道場には顔出しとるけど。単に我流になりすぎて元の師匠から破門されたよって、他に稽古つけてくれる人がおれへんようになったからやねん。……それより何、自分、あの爺さんのことリスペクトしてるん?あの爺さんもたいがい、パルプフィクションじみとるで」
 今度は、因幡のほうが驚いた様子で目を見開いた。
「嘘でしょう。この仕事、あなたが本郷嘉昭の弟子だと聞いたから受けたのに……」
 本郷嘉昭は、第一次大戦と第二次大戦にかけて活躍した伝説的な密偵だ。現役世代の密偵にも私淑するものは多い。ただし、その活動のあり方は一般的なスパイのそれよりも、はるかに派手で英雄的なもののため、そのまま真似をするのには向いていない。
「やめといたほうがええとおもうけどなあ、あの爺さんに憧れるんは」
 千年が因幡にそう言ったのも、そのような理由によるものだと思われた。しかし、因幡は険悪な感情を抱いていることを隠しもしない表情を浮かべ、
「僕が誰を私淑していようと関係ないでしょう。それより、少しでも資料を頭に入れてください」
つっけんどんにそう返していた。千年は溜め息をつき、渋々手元の大学受験用参考書に視線を落とした。その様子はやはり、〈千畝機関〉とは採用基準等々、大幅に違いがあるはずだとはいえ、大卒もしくは陸大卒の優秀な人材から選抜され、さらに過酷な訓練を耐え抜いたものから構成される〈昭和通商〉営業部員からすれば、この程度の人員が同業者である、というのは、信じがたい気分だった。
 車輪が枕木を打つ単調な音の中、千年が時折居眠りをしかけたり、たばこを吸ってさぼろうとするのを阻止しながら、一時間ほどが経ったころだろうか。ついにあきらめた千年が黙って勉強を始めたので、因幡のほうに今度は気のゆるみが出てしまったようだった。
「――警戒されると困る、始末もできへんちゅうことやからな、おそらくはただの…………ああ、別にお前に覚えろっちゅうてる訳やない……」
 低い声なので、独り言のようだ、と思ったそのあと、お前という二人称のためそれが何者かとの会話である、と悟り、そして、そこで初めて因幡は、自分がうたた寝をしてしまっていたことに気づいて目を見開いた。眼前の密偵は、足を組み、右の頬全体を片手で耳元までも覆う形で、頬杖をついている。やや不自然な格好だ。同行者が覚醒したことに気づき、伏せていた碧い瞳をあげた同業他社の密偵の右手を、因幡はつかんだ。が、そこにはなにもない。なんもないやろ、と言いたげに片頬をあげて肩をすくめる千年の金色の髪が目に止まり、即座に彼はその髪をひっつかんだ。
「痛たたたた、あかんて引っ張ったら、俺将来百パーセント禿げるねんからな、遺伝的に確実に」
 伸びた髪に隠れていた右耳には、イヤーカフスのような形のイヤホンがはまっていた。正しくは、それはイヤホンではなく、インカム型の通信機――先の大戦の後にドイツで実用化され、普及することとなった小型無線電話というものだ。ドイツでは、廉価な国民小型無電と呼ばれる機種が一般向けに出回っているが、これはビジネス層向けに作られた、やや高価な機種だった。因幡が千年の耳からインカム型無線電話をむしり取り、千年がそれを止めようとして、しばし、つかみ合いが繰り広げられる。だが、それも、千年が手から取り落とした小型無電を、因幡が靴で踏みつけるまでのことだった。
 ぱきん、と軽い音がして、千年は目を丸くして足下を見、因幡は、靴底から伝わった感触の軽さに、いぶかしげな表情を浮かべた。
「……すり替えたな。本物はどこだ」
 何のことはない、因幡の靴裏で壊れたものは、ただの樹脂の塊、模造品だったのだ。もみ合っているうちにすり替えられたのだ、と断じた因幡は、すぐさま千年の身の回りを改め始める。
「本物なんてあらへんわ、あー、くそ、モックでも珍しい機種のんやとそこそこ値ェ張るんやからな、帰ったら領収書そっちに回したる」
「どこの世界に模造品の小型無電を身につける奴が居るんだ、大体あんた、誰かと話してたろうが」
「それは、あれや、モックの方はファッションで、話してたのは独り言や」
「バカか」
 しかし、鞄をひっくり返し、千年の上着をはぎ取り、襟の裏から裏地との間までくまなく探しても実物の小型無電は見つからなかった。念のために、と因幡は自分の衣服の間も確かめてはいたが結果は芳しくなく、あとには散らかった個室だけが残った。
「……話していた相手は〈千畝〉のものだろうな?」
 カーブにさしかかり西日の射し込みはじめた個室のなか、低く響いた問いかけに、千年は鞄の中身を詰め直す手を止めた。
「なんや、〈千畝〉はそのレベルで信用があらへんのか」
 車窓から入る赤い日射しがゆっくりと移動していき、凹凸のはっきりとした千年の顔に落ちる彩りも、刻々と変化をしていた。が、やがてカーブの先にあるトンネルへと列車が入り、車内灯の平坦な明かりの下、困ったような苦笑だけがそこには残っていた。
「まあ、別にええけどな。そっちが頼んだ仕事なんやから、頼んだ相手を信頼するかどうかもそっちの勝手や」
 吐き捨てるようにそうつぶやき、千年は散らばった荷物を元に戻す作業に戻った。樹脂の欠片のほかは以前と変わらない状態になってからは、大人しくいすに座って専門書類に目を落とし、一言も喋ることはなかった。
 暮れ始めた日が落ちるのは早く、現地時間で午後六時をすぎる頃には、窓の外に見えるものは夜空の下端を縁取るくろい地平線程度になっていた。毛布を持って回ってきた車掌の応対をしたのと、眠るときにどう足を伸ばすかを決めた他には、ふたりの密偵たちは何も喋ることなく、消灯を迎えることとなった。
 千年が寝息を立て始めてしばらくした頃だろうか。その正面で、こちらもすでに寝入っていたかのように見えた因幡が薄く目を開いた。明かりは常夜灯と月明かりだけだが、〈昭和通商〉営業部員たる彼は、これよりも暗闇に近い環境の中でも白昼と同じように動けるよう訓練を受けている。ましてや、いま彼が目的としているものは、わずかな光を反射して個室の中でもっとも目立っている、千年の明るい色の髪だった。
 夕刻、千年が〈千畝機関〉のものか、あるいはそのほかの何者かと交信を行っていたのを見咎めたあと、身辺を改めた。その際、鞄や服、靴、座席の間まで一通り調べたが、その際、一カ所だけ見落としていた場所があったことに、あとから気が付いたのだった。すなわち、千年の長く伸ばした髪の中だ。
 もとより、目立ちすぎる髪など疑ってしかるべきだったのだ、と心中でつぶやく〈昭和通商〉営業部員は、どのような技術をもってか衣ずれ一つ立てることなく、もしかすれば室内の空気の動きすら乱していないのではないかというほど静かな動作で身を起こした。ポケットのナイフを確かめたのは、ものが見つかったなら、それを口実についでに髪も切ってやるつもりだったためだ。暗闇の中、念のために軍刀を千年の手の届かない場所に移動させたあと、金色の髪にふれた。白人の髪によく見られる細く癖のある髪だが、長く伸ばしているために癖は押さえられ、ゆるいウェーブがかかった程度になっている。その毛先が肌に触れている部分には極力手をふれないよう細心の注意を払いつつ、因幡は千年の髪を少しずつ持ち上げていった。――この種の作業にありがちなことだが、彼は、意識を髪の中の異物にだけ向けようと試みていた。そして、そのような状況にありがちなこととして、逆にどうしてもほかの雑事、たとえば髪の根本の色が黒色、あるいは明るいところであればダークブラウンであるところからするに実はこの金髪は染髪によるものらしい、だとか、髪で隠れているのでそれなりの顔に見えるが実は並程度の顔立ちだな、とかいうことに注意が向くことは押さえられなかった。
 どこかで見たことがある。その思考は不意に舞い降りてきた。何を見たことがあるのか。それは、眼前にある密偵の顔に違いなかった。初対面から今までは、長い前髪で輪郭はおろか顔立ちも半分ほどは隠れていたために気づかなかったが、確かに、この顔はどこかで見たはずだ。
 〈昭和〉の密偵は、いま取っている行動の目的をその刹那だけは忘れていた。彼は、それまでと同じく慎重な動作で、しかしほんの少しだけ性急に、千年の顔にかかった前髪を左右にかきわけた。その途端、碧い目が開いた。
「髪が鬱陶しいのはわかるが、他に手だてがないのでな、このままにしておいてもらえんかね」
 〈千畝機関〉の密偵の口から出たのは、やや上部ドイツ訛があるものの、流暢なドイツ語だった。一日半ほどのあいだ、関西弁で話すところばかりを見ていたので、逆に違和感を覚えるほどだった。だが、因幡が千年の髪から手を離したのは、ただドイツ語でそのように促されたから、というわけではもちろんなかった。因幡の左脇腹に、硬い感触がある。確かめるまでもなく、小型の拳銃に違いない。
「剣はフェイクですか。初歩的な手にかかったものだ」
 千年にあわせ、因幡もドイツ語を口にする。
「いいや、そういうわけでもないぞ、ワルサーはただのまあ、お守りのようなものだ。ごく稀にこういうふうに役立つこともある」
 両手を肩の高さまで上げ、因幡は自分の席にまで後ずさり、座った。毛布の下から覗いていたワルサーPPKの銃口が引っ込むのを見届け、彼は息をついた。
「明日は早いのだろう、いらぬことで夜更かしなどせずに早く寝たまえ」
 正確な年齢はわからないにせよ、五歳以上の年の差はないはずなのに、まるで大人が子供に言うような口調だった。因幡が柄にもなく呆けたようになっているのを見ると、青い瞳の密偵は、
「では、おやすみ」
と重い発音で言い、毛布を頭まで引っ被ってしまった。
 今の性格が、「千年」本来のそれなのだろうか。しゃべっている言葉の違いがあるにせよ、日本語を話しているときとの印象の違いが強く、本当に同一人物なのかと疑いを抱くほどだった。それに、あの顔は、確かにどこかで――
 以前よりも増えてしまった疑問を少しでも解消すべく、正面で寝息にあわせて上下する毛布を見つめながら因幡は考えを巡らせ続けた。青い瞳を持ち、本来はブラウンあるいは黒の短い髪で、ワルサーPPKを携行する人物――やがて、そのどこかと、既視感の原因に気づくに至り、彼は、あ、と小さく声を上げてしまった。と、同時に、苦笑が漏れ出る。いくら何でも、そりゃあないだろう、と彼の理性が告げたのだった。それこそ、パルプフィクションだ。
 他人のそら似のために要らない時間を費やしたのみならず、本来の目的を達成できなかったことに若干のいらだちを覚えつつ、彼は座席の上で横になった。同業他社の密偵に指摘されるまでもなく、明日は早くから動くことになる。少ない睡眠時間でも動けるよう訓練は受けているが、長く寝られるならそれに越したことはない。
 夜行列車は、眠りにつくスパイたちを乗せ、大陸の奥へとひた走っていった。

◆ラサ空港へ

 戦後、日本人の大陸への多大な関心とそれに支えられた旅行熱を受けて作られた青蔵鉄道の線路は、チベットの首都、ラサについたところで途切れる。そこからさらに奥地へと進もうと思えば小型の飛行機か車を調達しておくほかないのであるが、一九六〇年のラサでは、いきなりやってきてそれらを用意しようとしてもすぐに手には入るものではない。ただし、“ジークフリート・アンドレアス博士”の場合、博士を呼び寄せた件の富豪が手配を全て行ってくれているのでその辺りの心配はなく、ラサへと着いたスパイたちは、難なく発掘現場まで赴くことができた
 ――と、言えれば良かったのだが、あらゆることがそうであるように、この仕事も順風満帆には進まないようだった。
 現地時刻にて午前一〇時過ぎ、アンドレアス博士に擬した千年と、その荷物持ちという役回りの〈昭和通商〉営業部員は、ハオ氏の手配したセスナ機の待つ郊外の空港へと向かっていた。同じ市内にあるとは言え、空港まではやや距離があるため、駅前を流していたタクシーを利用しての移動であった。タクシーと言っても、東南アジアのトゥクトゥクのような、日除けの幌が着いただけの三輪の小型自動車である。
 二人を観光客だと思っているのか、運転手はラサの名所の説明をひどく聞きづらい北京語で行っている。が、言葉よりもひどいのは、内容であった。
「ポタラ山仏教の聖地、昔日本のラマ海渡ってここにきようとしてたくさん死ぬた」
 千年でさえその間違いがわかるレベルのことを堂々としゃべっているのであるから、度胸があるというかなんというか、であった。――実を言えば、その間違いがわかったのは、昨日頭に詰め込んだ知識の片鱗がまだ残っていたおかげに他ならなかったのであるが。
 与太話を延々と話していた運転手も、空港へと続く唯一の道にさしかかると、口数は少なくなった。山を切り出して作ったであろうこの道は、左側は急峻な崖で、逆の側は山を削ったままの土壁である、と説明するよりは、山の斜面の一部を直角に切り取って道が造られている、と言った方が情景はわかりやすいであろうか。
 カーブの続く細い道は、ひどく視界が悪い。ガードレールはあるものの、重心の高い三輪自動車がハンドルの操作を誤れば、崖下へと飲み込まれる羽目になりそうだ。運転手もそこは理解しているとみえ、スピードはあまり出さず、慎重にハンドルをさばいている。
 それは、道程のおよそ半分ほどが過ぎたころ、右回りの急なカーブにさしかかったところでのことであった。カーブを曲るため、やや崖側へと膨らんだ、そのとき運転席側の幌が破れ、三輪自動車は大きく蛇行した。運転手の腕に、金属製の矢のようなものが刺さっている、と千年が認識した直後、車体が大きく傾いだ。崖下に落ちるのを避けようとした運転手が大きく山肌の方へとハンドルを切り、そのために車体がバランスを崩して横転したのである。乗客たちと荷物は路上へと投げ出される。
「何事だ!」
 投げ出される直前に座席を蹴り、跳躍に成功していた因幡が、いち早く体制を整えていた。咄嗟のことであるのにしっかりと中国語を話しているのは、さすが〈昭和通商〉営業部員というべきだろう。彼は山肌に背をつけ、頭上に襲撃者を探し始めた。
 千年はと言うと、〈昭和〉の密偵ほどの軽業は不可能だったとは言え、落ちた先が偶然草むらであったことも幸いし、まともに全身を叩きつけられることは回避していた。起きあがった千年は、車体のすぐ近くでうずくまる運転手の腕を見た。右肘辺りに、投げ出される直前に見たのと同じ矢がまっすぐに刺さっている。矢の小ささと形状からするに、弓を使ったものではなく、ボウガンを使ったものであろう。それを確認すると、今度はガードレールにぶつかり大破した三輪自動車の元へとかけより、運転席右側の幌をくまなく眺め渡す。そこに空いた小さな穴を見つけた途端、突如千年は道の先へと走り出した。途中、投げ出されていた軍刀だけは拾い上げ、右手に握ることは忘れない。
「おい、あんた、どこへ行く気だ」
 背後から千年を追う因幡は、律儀に中国語を使い続けている。
「いまのは、待ち伏せやない。罠や」
 矢は、運転手の腕に対し、垂直に刺さっていた。幌の穴の位置も、およそハンドルを握ったときの右腕の位置と同じ高さであった。どこかに隠れた狙撃手が射たものならば、その角度で刺さるはずがない。カーブで減速することを見込んで、当たりやすい場所に罠をしかけたのであろう。
「つまり我々を足止めするためのもの――目的は飛行機か!クソ、我々の動向を知っている――中国の公安部の手のものか!?」
 ついてこい、と因幡が短く言い、千年を追い越した、かと思ったとたん、その姿が消えていた。いや、消えたわけではない。わずかな凹凸に足をかけ、山肌を駈け上がっていたのだ。なるほど、垂直に近い斜面をかけ上がれるならば、大きく蛇行しているこの道を進むより、山を直接突っ切った方が早いに違いない。斜面をかけ上がれるのならば。
「……忍者か。――いや、実際向こうさん、伊賀やら甲賀やらの末裔に忍術習とったな」
 〈昭和〉の密偵たちの大半が訓練を受ける中野学校では、講師に伊賀流、甲賀流の師範を招いている。そのことは知っていたが、まさか本当に講談やら子供向けの時代劇に出てくる忍者のような挙動をされるとは思っていなかった。自分の得物のことも棚に上げて、千年は頭を掻いた。
 ついてこいと言われても、垂直に近い山肌を駆け上って山の中を突っ切って近道、などという真似のできるはずもない千年は、辺りを見回した。トゥクトゥクは、残念ながらガードレールにぶつかった衝撃で大破しており、使えそうにもない。どうしたものか、と考えていたおり、街のほうから近づいてくる影があった。どうやら、荷物を運ぶ馬車のようだ。
 荷馬車の御者は、ある程度近づいてきたところで事故の形跡に気づいたらしく、馬車をその場で止めた。チベット語を喋っているのでよくはわからないが、おそらく、大丈夫か、とかそのあたりのことを言っているのであろうと思われる御者に、千年は三輪自動車の運転手を指さした。
「彼は片腕に怪我をしている、医者に連れて行ってやってくれないか」
 ドイツ語で言おうが日本語で言おうが通じるとは思えないが、念のためドイツ語で、身振りを交えつつ伝えると、御者は運転手の元に駆け寄っていった。それを見届けた千年は、すぐさま放置された馬車、正しくはそこにつながれた馬のもとへと走った。
 千年がある程度空港の方へとむかって進んだところで、背後から、やはり千年には分からない言葉で、しかし、おおよそ何を言っているかは推測のできる叫び声が追いかけてきた。
「すまん、緊急事態や」
 そうつぶやきつつ、千年は裸馬に拍車をかけたが、その声は、おそらくは
「馬ドロボ――――――!!!!」
という意味であろうと思われる叫び声の残響にかき消されてしまった。
 荷馬とはいえ、人の足で走るよりは速い。しかし、それでも先に山中を走り出していた因幡に追いつくことができたのは、もう空港がすぐ近くなり、彼が下の道を走るようになったころのことであった。
「お前なあ、ついてこいっちゅうて、ついてきてなかったら待つもんやろ、ふつう」
 馬の速度をゆるめ、因幡と併走できるよう調整しながら千年は文句を言った。が、因幡は鼻先で笑い、
「まさか、ついてくることもできないほどの同業者が、他国ならまだしも日本にいようとは思っていなかったのでね」
と嫌味を吐き捨てた。
 千年は眉間に深々としわを寄せ、馬の腹を蹴った。
「ほな、こっちも勝手に先行かせてもらうで」
 相手が自分に嫌がらせをしてくるからと言って、同じことをやり返せば相手と同レベルにまで落ちてしまう――というのは理屈である。誰でもそんなことはわかっているが、それでは気が済まないので、同じレベルに落ちようとも殴り返すのである。千年も、〈昭和〉の密偵がしたのと同じように、相手を置いて先に行く、という行為をやり返すためだけに、馬に拍車をかけた。実に低レベルな争いであった。
 が。
 するり、と視界の端に影がうつった、と思った途端、手綱を持つ両手の間、千年の顔のすぐ前に、何かが現れた。何か、と考えるまでもない。因幡が、走っている馬に乗り移っていたのである。
「はあ、お前、えぇえ、ほんまに!?」
 ここまで曲芸じみたことをされると、怒るよりも驚く方が先に来る。その隙に手綱を因幡に奪われていたのであるが、因幡の背で千年の視界は遮られているため、その方が安全だろうと判断し、文句は言わなかった。
「なんだ、〈千畝〉の連中はこんなこともできないのか。――飛ばすぞ、振り落とされるなよ」
 〈千畝機関〉の密偵がどうこうではなく、世界の中でこの芸当ができるものを数えた方が早いはずではないか、とは思ったものの、宣言通り因幡が馬の腹を蹴りその足を早めさせたため千年が抗議の声を上げる暇もなかった。
 目的地である空港に着いた、と思った途端、また因幡の姿が消えた。馬を止める前に、馬上より飛び降りていたのである。その姿は、空港脇のフェンスをいつの間に飛び越えたものか、滑走路の中に入っていた。千年もそれにならうべく馬をフェンスの横につけようとしたところで、
「旦那、そこに馬をつないじゃあだめですよ、馬が下草を食っちまう」
警備員がそう声をかけてきた。実に間の悪いことである。馬をつないでいい場所へと案内しようとする警備員に数枚のチップと馬をほとんど押しつけるようにして、千年は逃げるように空港内へと飛び込んだ。
 五年ほど前に新築されたばかりの空港には、チベット語の他、中国語、ドイツ語、英語、日本語での案内が並んでいる。その案内に従えばスムーズに搭乗窓口まで進んでいける寸法であるが、無論、この場合、悠長に搭乗手続きなどをとっている暇はない。千年は迷うことなくコンコースを抜け、待合ロビーへと向かった。
 ロビーには、農協かどこかのツアー旅行と思しき日本人の団体が居て、喧噪とおかきのにおいに包まれていた。この空港もまた、日本人の旅行熱を受けて作られたものである。飛行機から降りてきたところに見受けられるが、飛行機の中で開けた米菓の袋をめいめい手に持っているせいで周囲にあのにおいを振りまいている。同上した客には同情するほか無い。ツアーガイドの持っている旗を見るに、宇宙ステーション観測ツアー、とあるので、ついこの間打ち上げにはじめて成功した大東亜共栄圏初の――実のところ、不可解な技術発展を遂げるドイツ生存圏から技術スパイが盗みとった技術を使ってどうにか実用にこぎつけられたものであるが――宇宙ステーション「きたい」の観測に来ていたのであろう。国内ではしばらく宇宙祭りの様相を見せていたが、周回軌道の中ではチベットがもっとも高緯度であるとはいえ、まさかチベットまで見に来る団体があろうとは、恐れ入るばかりであった。ここに来るまでの経由地ですでに土産物を買い集めたのか、大量の土産物が入った紙袋が団体の列の左右に広げられているのでそれを踏まない為に少々時間を食う羽目になったが、ごった返している状況は、千年の目的からすればまあまあ悪くはない。ツアーガイドに一体何が気に入らないのか声を裏返して文句を言うズーズー弁の老人の声を極力意識に入れないようにしつつ、団体の陰に隠れ、千年は滑走路に面した窓の前で軍刀を手にした。
 これで、窓ガラスをきれいに丸く斬る、ぐらいの技量があれば、千年もなかなかのものなのであるが、残念ながら彼の技量はそこまでのものではなかった。柄の頭で思いきり殴られた強化ガラスはひび割れに覆われて真っ白になり、次の一撃できれいに割れ落ちた。
「あれぇ、窓が、えんらいことに」
「え?窓?――うわああああ、誰、誰ですか!伊藤さん、あなたですか!変な木刀なんか買うからですよ!」
「へぇ、違うべ、おらじゃねえで、金髪の外人さんが」
「嘘言わないでください、昨日も木刀でひっかけて北京のホテルの花瓶を割ったじゃないですか!弁償代は請求させてもらいますからね――」
 窓から飛び降りたあと、なにやら非常にテンションの下がるやりとりがロビー内から聞こえた気がしたが、かまわずに千年は滑走路を走った。

◆忍びと剣士

 千年が向かった先は、滑走路に面した格納庫であった。先に跳び去っていった因幡も、そこにいるはずである。襲撃者の目的が日本の密偵たちの足止めであれば、そこに収められたハオ氏のチャーター機を壊しにかかるはずであるからだ。
 格納庫は複数あったが、どこに入ればいいかはすぐにわかった。何しろ、その中からなにやら、金属に無数の硬いものを叩きつけるような音が散発的に上がっているのであるから、間違いようもない。
「くっそ、あいつこんなとこでドンパチはじめよったんか」
 初対面時の印象と、銀縁眼鏡を掛けた理知的な外見からするに、冷静かつ静かに行動するタイプであると思っていたが、突如忍者じみた動きで崖を駆け上り、一路空港まで走ってきたところからするに、案外直情型であるらしい。考えて見れば、〈千畝機関〉本部で千年の挑発に乗った時点でその片鱗は確かに伺えた。何より、私淑する相手があの、講談かパルプフィクションから抜け出たような経歴の持ち主である本郷嘉昭なのであるから、そういう派手な活動に憧れている、と思うべきであったろう。
 しかし、因幡は一体何の武器を使っているのか。中から聞こえてくる音は、銃のそれではない。矢の方は殆ど音を立てないであろうから、この音は因幡の得物が立てているはずであるが――と思いながら数歩、個人機の並ぶ格納庫に足を踏み入れたところで、足元で何やら砂利を踏んだような感触があった。足元を見ると、思ったとおり、細かい砂利、おおよそ一センチ程度の小さな石が無数にそこには撒き散らされていた。硬いものが、金属に当たるような音はもしかして――と思った途端、
「いっでええええええええ!ちょい待ち、俺や俺!敵とちゃう!」
千年が鞘に収まった軍刀を握っている右手に、凄まじい勢いで飛んできた小石が当たった。丁度手を後ろに振る瞬間であったので力が分散され、表面の肉がえぐられる程度で済んだが、まともに当たっていれば骨まで砕かれていたであろう。小石の飛んできた方角を見ると、小型機の上に立つ因幡が片手の指を広げ、こちらに向けているのが見えた。上げられた手は素早く降ろされ、その際、袖口から何やら細かいものが手のひらに落とされるのが見えた。よく見れば、格納庫の壁面を作るトタン板には、場所によっては穴が空き、場所によっては小石がうめり込んでいる。どうやらそれが、因幡の戦闘技術によるものであるらしい。
「紛らわしい真似をするな!あと動け!止まると狙われるぞ!」
 その言葉通り、千年の頬をかすめる物があった。あの金属の矢だ。
「うわー!」
「うるさい叫ぶな、敵の動く音が聞こえん!あんた死なんとか言っていたくせに、攻撃が当たりまくってるじゃないか!」
 それは、と千年は説明しようとしたが、その前に因幡の両手から、再びあの凄まじい勢いの小石が、無数に周囲へと弾き出されていたので、慌てて伏せてそれを避ける。――そう、因幡の攻撃手段とは、おそらくその袖口に溜め込んだ無数の小石を、いかなる鍛錬を経たのであろうか、指弾によって弾き出すことに他ならなかった。その攻撃によって、飛行機の影からぐうっ、といううめき声が聞こえた。続き、どさりと重いものの、つまりきっと人体の倒れる音も響く。あの攻撃は、当たりどころが悪ければそれだけの威力となるのである。
「石合戦か、人の刀馬鹿にしよって、自分かてアナクロにもほどのあるもん使とるやないか」
 千年は文句を言いつつ、因幡と合流すべく走った。別々に行動していると、攻撃が終わったあとは因幡が敵の動きを察知する方策になっているであろう小石を踏む音を出してしまい、攻撃の邪魔となる。
「石合戦じゃない印地打ちだ、僕の場合は印地撃ち[#「撃ち」に傍点]といえるほどに昇華しているがな。……少なくとも、あんたのそれよりは、物証として身元の割れづらい密偵向きの技術だ」
 格納庫中央付近にあるユンカース機の影に立ち、千年と背中合わせになったところで、空中で、難しい方の「撃」を指で書きつつ因幡が言った。呼び名はともかく、やはりアナクロな技術ではある。
 印地、あるいは石合戦というものがある。河原や海辺、あるいは街中で石を投げ合うことをいう。起源は古く、少なくとも一一世紀にはすでに成立していたものとされる。もちろん、石を投げ合うので死人がでる。死人が出るので、幾度となく禁令が出されてきた。しかし、民衆に広まった習俗というのはなかなか廃れないもので、地方によっては完全に姿を消したのは、驚くことに二〇世紀に入ってからのことであるという。
 それだけ広まっていた習慣であるからには、遊技としてだけではなく、戦闘技術としての印地も当然に存在する。元より、印地、石合戦など存在しない地域でも、戦の中で投石はごくあたりまえに使われるものであった。西洋の攻城用投石機は有名なところであろう。日本では不思議と大型の石を射出する発想は生まれなかったらしいが、戦の中で人の行う投石の驚異は、かの宮本武蔵でさえ投石によって負傷をしていることからも伺えるであろう。
「おい剣士、ここにいると邪魔になるだけだぞ、外に出ておけ」
 因幡は大言する。が、何度か撃ち出されるその印地と、それによって次々倒される敵を見るに、その自信も仕方のないものと思われた。因幡の打つ印地は、戦闘技術としてのそれの集大成ともいうべき形のようであった。印地を戦闘技術とみる場合、最大の利点とは、最低限必要なものはどこにでも落ちている石だけだということにほかならない。その利点は、敵に自らの存在を隠す必要のあるものたちが求めた武器の要件と合致していた。それは、かつて隠密、忍びと呼ばれたものたちであり、彼らにより研鑽され続けた技術は歴史のとばりに隠されながらも受け継がれたに違いない。そして現代、日独関係の緊張をうけ、現代の忍びとも言うべき密偵(スパイ)の必要性が高まるに至り、その技法は〈昭和通商〉の教官たる伊賀甲賀の末裔たちを通じ、ふたたび実戦のなかに呼び覚まされたのであろう。
「だいたいあんた、戦う気が無いんだろうが、さっさと消えろ」
 おそらく因幡は、千年が右手に鞘に収められたままの軍刀を握っていることを指している。通常、日本の剣術、剣道は、右利きであることを前提に構築されている。日常生活の上で左利きであったとしても、左に刀を差し右で抜くことを前提に全ての作法が成り立っているため、抜いていない刀を右手に握っている、というのは、戦意のなさを示す行為にほかならない。千年はその言葉に反論しようとしたが、むぐ、と黙った。
 ――やっていることといえば、因幡の近くで、因幡が印地を撃つ邪魔をしないよう常に背中の側に回り続けるだけであるのだから、その言も黙して受け取るほかないであろう。
「いや、戦う気はあるねんけど、今のところその機会がないっちゅうか。……それにアキカズくんかて、向こうさんと本気で戦う気……殺す気ぃないやろ」
「なっ」
 千年が誰に言うともなく[#「誰に言うともなく」に傍点]呟いた言葉に、因幡は強く反応を示した。今まさに、無数に並ぶ飛行機の影に動く物があったというのに、千年の方向を振り向いてしまった。その瞬間、因幡に向けて複数の鏃が飛んだ。因幡は慌て、そちらを向いていた片手から印地を撃つ。が、敵はすぐにセスナ機の羽根の上に飛び乗り、それは当たらない。そして鏃が因幡に迫る。
 千年は、右手で握っていた鞘を払い、左で抜き打った。本郷師範の元でそうしていたことからも分かる通り、千年はサウスポーであるのだ。無論、はじめからそうであったわけではなく、ひと通りの教えを受けたあとに我流に変えてしまったため、元の柳生新陰流からは破門されるはめになってしまったのであるが。
 抜き打ちの動作の中で、背中合わせになっている因幡と千年はぐるりと立ち位置を変えた。飛来してきていた矢は、丁度正中線にそって切り捨てられ、二つに分かれ、コンクリートの床に落ちた。
 抜き放った三十二年式式軍刀を携えたまま、更に千年は、二人の密偵が隠れていたユンカース機、倉庫に並ぶ他の機種からすればずいぶんと古い、Ju52という戦前から戦争初期にかけてのナチスドイツで使われた輸送機の翼に飛び乗り、更にはコックピットの上へと駆け上った。格納庫中央付近でその高さから見回せば、格納庫内の様子が一望できた。ところどころにオレンジ色の服を着た整備士が倒れている。今でもかすかに残っているが、草を燻したような臭いが格納庫内には漂っていることから、襲撃者たちはまず、催眠効果のある薬草でも流し込んだものであろう。それよりもまばらに、黒い僧服のようなものを纏った者が倒れている、あれが、襲撃者たちか。
「それに!君たちも、俺たちを殺すつもりはないな!」
 千年が叫ぶ。訛りのない、ベルリンで話されるドイツ語である。眼下にて、因幡が不可解な、しかし驚くべきものを見る目で千年を見上げていたが、すぐに跳躍し千年と同じ高さに登った。そこから一望したほうが有利であると気づいたのであろう。
 対話を試みたというのに、襲撃者から返ってきたのは無数の鏃であった。因幡が跳躍しそれを避けようとするのを千年は制しつつ、軍刀を振るった。分かたれた細い金属の棒が、Ju52の機体へと当たり、ばらばらと落ちる。
「ちっ、向こうさん、殺す気はないのに最後までやる気でおる。一番厄介なやつやな。――ただ、これで完全に向こうさん、囲んでくれたはずや。印地撃ちくん、自分のその技の様子からするに、全方向全周囲攻撃、あるやろ」
 千年の言葉に、因幡は驚いた顔を向ける。やはり、あったとみえる。本来の印地打ちとはひとつの石を、布で作った簡易的な投石機か、自分の手そのもので投げる技術である。それをこのような形で複数打てるようにしており、なおかつ、因幡が比較的弾数を温存しているところからの予想であったのだが、当たったらしい。
「向こうさんも殺すつもりはない、今までの威力のままでええ。ギリギリまで引きつけて撃ってくれ、それまで俺が矢は防ぐよって、自分は弾切れのふりをしてほしい」
 因幡はひとつ頷き、了承したようであった。〈千畝機関〉で長官に怒られた時といい、素直な性格でもあるようだ。密偵なので、合理的に判断をしている、とも言えるかもしれないが。どうするかと見ていると、手の中に複数攻撃のものよりは大きい礫を落とし、曲げた人差し指の間に挟み込み、印地を撃つ準備をした。なるほど、複数攻撃よりも威力が大きいが同時に打ち出せる数の少ない技があるらしい。
 因幡は、矢の飛来する方向に向けて、やや狙いを外しながら片手に付き一発ずつのその礫を打っていった。その間にも飛来する矢は、宣言通りに千年が全て斬り伏せていく。矢は、襲撃者めいめいの判断で、めいめいのタイミングで打たれていたようであるが、そのうちに、千年にはわからない言葉、おそらくチベット語で、何やら短い号令が掛けられた。
「僕が跳んだら機体の下に隠れろ、連中一斉攻撃をするつもりだ」
 因幡にはそのチベット語がわかったと見える。さすが〈昭和通商〉営業部員である。
 そして、無数の砂利を踏む音と、矢が空気を撃つかすかな音と、因幡が跳躍するためJu52の機体を蹴りつける音とは、同時に鳴り響いた。千年はJu52を飛び降り、翼の下に滑り込んだ。
 辺りに石が降り注ぐ音、などというものを人生の中で聞く機会は、めったにあるものではないであろう。あられが降った時、車の中にいれば少しは似た音を聞けるかもしれない。が、あられと違い、今降り注いでいるこれに全身を打たれれば、死なないまでも、数日間は寝込む羽目になりそうであった。
「袖の中どないなっとんねん……」
 千年はひとり呟く。当たる角度次第ではトタンに穴を開ける程度のその無数の印地、いや、石の弾幕と呼ぶべきその技は、格納庫内の飛行機に当たり、その窓ガラスを割り、そして密偵たちを一度に片付けるべく一度に矢を放とうと姿を現した襲撃者たちの体を打った。因幡がJu52の上に着地し、その技を打ち終えた時には、当たりには降り積もった砂利の中に、黒い僧衣に似た服を纏った襲撃者たちが倒れ伏していた。
「いやー、すごいなアキカズくん。ほんまにいっぺんに倒してまうとは思てへんかったわ」
 Ju52の下から這い出て、千年は心の底から因幡を賞賛した。無数の小型機の並ぶ格納庫中央の通路に出ると、足の下では砕けた小石とコンクリートがこすれあい、砂利道を歩いたときのような音が鳴っている。
「しかし、その袖どないなっとんねんほんまに、N研究所の発明品なんか?」
 賞賛されたりからかわれたりしている因幡の方は、しかし、千年の言葉になど興味がない様子であたりに倒れた敵の衣服を改めている。何とも真面目なことだ、と、自分の不真面目さを棚に上げて千年が嘆息したところで、
「二人足りない」
低い声で因幡はそう言った。なんのことか、と思っていると、因幡はJu52の機体に刺さった矢を示してみせた。最後の一斉攻撃は千年が防いでいないため、襲撃者たちが放った矢は、そのまま密偵たちが立っていた場所に刺さっている。たしかに、その矢の数からすれば、そこに倒れている今の攻撃によって倒れた敵の数は、二人足りない。
「念のため、二発同時に矢を射られるような装置を持った者がいないか確かめてみたが、そんなものはなかった」
 千年が咄嗟に考えたことを先読みしたかのように、因幡が状況を説明する。
「つまり……あと二人どっかにおるわけ?」
「そういうことになる。しかし――」
 密偵たちは背中合わせに立ち上がり、格納庫内を見渡した。
「しかし、何や」
「しかし、困ったことに、さっきので石の在庫は尽きていてね。あんたに任せる」
 はあ、と語尾を上げながら千年が因幡の方へと振り向いたのと、両側から小石を踏む音が近づいてきたのは、おおよそ同時であった。二つの黒衣をまとった影が、手を密偵たちに向けながら、ゆっくりと歩いてくる。その手首には、小型のクロスボウのようなものが装着されている。それが、今まで矢をはなってきた彼らの武器であった。
「ちょうどいい、相手も姿を現してくれたじゃないか」
「いやいや、出てきてくれても向こうは飛び道具で、こっち刀やで、ぜんぜん良うないて。防げても近づかれへん」
 いぶかしげに眉をひそめ、因幡も振り返った。
「飛び道具なら、右手にあんたも持ってるだろう。相手が目視できるなら、その方が遙かに有利だ」
 その言葉で、千年は因幡の言わんとすることを理解し、驚きに目を丸くした。
「なに、アキカズくん寝てる間に俺の体一通り調べたん」
「は?なにを言ってるんだ、昨晩あんたが僕に向けたんじゃないか」
 互いの言うことがどうにもかみ合わないままに話が進んでいたが、そこにきて千年の方がようやく事態を飲み込むことができ、何とも言い難い、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「悪い、たぶん寝ぼけとったわ」
 もちろん、その説明で因幡が納得するはずもなかった。なかったが、それ以上の反論がなかったのは、両側に現れた人影が、双方ともに一〇メートルほどまでに近づき、そこで立ち止まったためである。
 千年は、小さく息を吐き、右手をのばした。袖の中に隠されたバネがワルサーPPKを押し出し、手のひらの中に、収まらなかった。千年が取り落としたのである。
 小石の散らばる床の上に落ちた小型自動拳銃は、バネに押し出された勢いを保ったまま小石を押しのけて床の上を滑った。信じられないものを見る表情で因幡が千年を見て、ワルサーPPKを見る。
「あんた、この状況でそれか、この状況でそれをやるのか、寝ぼけてるのか、まだ寝ぼけてるのかあんた」
「いや、ちゃうねん、ほんまにこれ持ってるだけやねん俺、使われへんねん」
 双方、混乱に満ちみちたことを叫びながらも拳銃の元へと走ったのは、判断力は衰えていないことを示していた、かもしれなかった。が、二人の手がワルサーPPKに伸びたところで、拳銃の上を、黒いスニーカーが踏んだ。
「あなたたちが馬鹿で助かった」
 スニーカーは、黒衣の二人の片方、小柄なほうが履いているものだった。襲撃者が話しているのは多少の訛りはあるが、ドイツ語であった。しかもそのドイツ語を紡ぎだす声が、高く澄んだ、少年か少女のようなものであることに少しばかり千年は驚く。おそらくは少女であろう、と千年は思った。一体どこの組織の手のものかは知らないが、この体格であれば一〇代前半であろう少女を襲撃者とするとは、なかなか非人道的な組織であるらしい。
 拳銃を踏んだ黒衣の少女の、クロスボウは、まっすぐに千年の額に向いている。もう一つの影は、先ほどと同じ場所でこちらを、おそらくは因幡の方をねらっている。
 千年は、怯むことなくクロスボウを向ける少女の前に立ちあがり、さらに因幡の腕をつかみ、もう一人の襲撃者の矢が届かないよう、自分の背の後ろに誘導した。
「おい、やめろよこういうのは」
 因幡が抗議の声を上げるが、千年は聞かない。まるで、けしてその矢が放たれないことを知っているかのように、千年はその少女へと距離を詰めた。その動きを見て、もう一人の襲撃者のほうが矢をはなったのであろう。しかしその矢は、狙いが悪かったのであろうか、千年に当たることはなく、逸れてコンクリートの床を穿った。その黒衣は更に次の矢を放とうとするが、
「やめてチャルパ!」
少女がそう叫んだことで、手は下げられた。少女の手はしかし、上げられたままだ。だが、撃ってみろ、というように千年が少女の手を掴み、自身の胸へと当てたところで、張りつめたものが切れるように少女は腕から力を抜き、言葉を吐き出しはじめた。
「……すまない、外の方。いくら我々の仲間を傷つけたとて、やはり殺生はしたくない。だから、いまさら、こんな真似をしたあとで申し訳ないが、学者先生、あなたに直接お願いする。どうか、我々の封じてきたものを呼び覚ますような真似はやめてもらえないか」
 少女が話す内容を聞くうちに、千年の眉間に皺が寄り、目が瞬かれ、最終的に隣にいる因幡の方へと首が向けられた。因幡の方も、動揺を隠しきれない表情で、彼の石に打たれた僧服の襲撃者たちへと視線をやっている。
 二人が明らかに動揺していることに気づいたのか、黒衣の襲撃者の頭目とおぼしき影はしゃがみ込み、千年と目を合わせてきた。黒い布に覆われた顔の中唯一見えている目は、黒目がちで長いまつげに縁取られたものだった。美しい少女である。えっちょっと待てや、この展開は、と千年の心中は、ツッコミを入れたい気分に満ち満ちてきた。
「……見たところ、あなたは悪い人のようには見えない。もし、あなたがただ、学術的な目的のためだけにここに来たというなら、どうかこのままドイツへ帰ってもらいたい。そうすればきっと、あの男も発掘をあきらめるはず――」
「待って、ちょい待ち。ストップ。……あー、ドイツ語なら通じるんだよな、きみ。あの、おじさんたち、ちょーっと話があるんだ。ちょっと待ってくれるかな。あ、ほら、刀も置いとくから」
 激しく動揺しつつも、“アンドレアス博士”として話したのは、千年も密偵の端くれであったということだろう。ひきつった笑顔で少女に笑いかけつつ、千年は言葉通り軍刀を少女の前に置き、因幡を引き起こした。因幡も、千年と同様に、顔をひきつらせている。
「なあ、根本的なことやけど、あちらさんが何者なんか、自分、知っとる?」
 因幡は首を左右に振った。
「……我々の邪魔をするものだから、てっきり中国当たりの同業者が出張ってきたものかと」
「確認はしてへんねんな。いや俺かてせえへんかったけど」
 千年は、再び少女のほうを向いた。
「あの、今更だけど、君たちが誰なのか聞いてもいいかな?」
 黒い布から覗いた目が、数度まばたきをした。あちらはあちらで千年たち――いや、おそらくは向こうの認識としては“ジークフリート・アンドレアス博士”たちは、自分たちのことを知っているものと思いこんでいたらしい。
 少女の両手が、顔を覆う布に伸びた。もう一人残っている黒衣が何事かを叫んだのは、その行為をとがめたものであったろうか。しかし、少女は手を止めることはなく、顔を覆っていた布を取り払った。おそらくは、本来はまとめていたものであろう長い黒髪が、布を取った拍子でほどけたものか、はらりと流れた。黒髪に縁取られた顔には、高地に住む東洋人にありがちな浅黒い肌によく映える、大きな黒目がちの瞳があった。
「我々は、外の人たちが普楽と呼ぶ谷の、種子の鎮守者。……どうやら、あなた方との間には多大なすれ違いがあるらしい。話をするべきだ」
 少女は自身のメトゥという名を名乗り、ワルサーPPKの上から足を避けた。もう一人、チャルパと呼ばれた方も仕方なさそうに顔の布を取る。こちらは老人であった。チャルパは用心深げに密偵たちをにらみつけていたが、千年が――というよりは、千年の扮する“アンドレアス博士”がただハオ氏に請われて来ただけであることと、もしそのハオ氏が良からぬことを考えているのならば良心に誓ってそれを止める、という旨を喋るにつれ、そのまなざしは少しばかり和らいだようだった。
「……申し訳ない。てっきり、あなたも我々の種子を悪用する為に来たものと思ってしまった」
「それはもう言っても仕方ないさ。第一、君らの方がよっぽど被害は大きいしな」
 千年の隣では、因幡が両手を床について、殺さなくて良かった、殺さなくて本当に良かった、とつぶやき続けている。その言葉通り、因幡の印地を受けた者たちは、人によってはかなりの重傷にはなっているが、死んでいる者は誰もいない。千年が指摘したとおり、やはり殺意はなかったのである。
「それこそ、仕方のないこと。我々はあなたたちに危害を加えようとした。その時点で、殺されていても文句は言えない」
 メトゥはなかなか肝の据わった、と言うよりはやや悟ったような価値観の持ち主であるらしい。種子、とやらを鎮めるとか何とかいう話と、僧服のような服装からするに、僧侶や神職に準ずる存在であるのかもしれない。
「でも、あなたが普楽にいきたいのなら、やはり馬鹿としか言いようがない」
 言葉の意味を計りかね、千年が肩をすくめてみせると、メトゥは千年のすぐ後ろを指さした。
「あなたたちが乗るはずだった飛行機はそれ。おそらく、すぐに飛び立つことはできないはず」
 そこにあったJu52、あの年代物の輸送機は、まき散らされた小石によって窓ガラスが割れ、何故かあとから付けられたらしいフロートは破裂し、機体そのものにも細かいへこみが無数に生じていた。周囲を見渡せば、ほかの飛行機も、Ju52ほどではないにせよ、似たような状態だ。その元凶である因幡は、床の上で頭を抱えていた。いや、指示をしたのは千年であるため、千年にしてもそうしたい気分でいっぱいである。
 千年もこの何とも不毛すぎる状況を嘆きたいのは山々であった。しかし、格納庫の入り口の方から、無数の靴音と人の話し声が近づくのを聞いては、現実に踏みとどまるほかない。千年は後悔の海のどん底に沈んでいるらしき因幡の服の首根っこを掴んで引っ張り上げた。
「アキカズくん、後悔するのは後や、とりあえず逃げるで」
 小声でそうささやくと、因幡は生気のない顔ではあったが頷き、立ち上がった。メトゥの方を見ると、少女は老人と一緒に、倒れた仲間のクロスボウをはずしているところだった。なるほど、あれを持っていなければ、一緒に襲撃を受けた、で通るかもしれない。
「これを持って。結構かさばるんだ」
 メトゥは集めたぶんのクロスボウを千年に渡し、最後に自分は老人のはずしたクロスボウを受け取ると、格納庫の裏に向けて駆けだした。老人はそのまま、その場に残っている。
「じいさんは?逃げなくていいのか」
 “アンドレアス博士”として、千年が尋ねた。
「チャルパには怪我をした仲間のことを頼んでいる」
 メトゥは答えた。しかし、頼んでいると言っても、この状況ではどういいわけをしても厳しく取り調べられることは避け得ないだろうが――
「大丈夫。チャルパは、法王さまの同窓生だそうだ」
 法王様、とは、この場合チベットの国家元首にしてチベット仏教の最高位に位置するダライ・ラマのことだろう。ぎょっとして千年が振り返ると、チャルパは両手をあわせて頭を下げた。その後ろからは、騒ぎを聞きつけて誰かが通報したものだろうか、警官が大挙して格納庫へとなだれ込んできているところだった。考えている暇はなさそうだ。千年は渡されたクロスボウのうち半分ほどを因幡に押しつけて、押し寄せる喧噪から逃げ出した。

◆大陸奥地へ

 ポケットラジオからは、ラサ空港においてテロ事件が発生した旨と、それに伴う空港の閉鎖、およびラサ市内に厳戒態勢が布かれた旨が繰り返し流れている。その報道通り、たしかに市内にはそこらじゅうに警官や兵士が立ち、市民はおびえた表情で屋内から外をうかがっていた。
 どうにかこうにか空港の警官隊から逃げ出した密偵たちと少女は、その時点では空港近くの山にいた。山と言っても、日本のように木々の生い茂った山ではない。チベットほどの高度になると、映えることのできる植物も限られてくるのだ。
「ここも、早めに引き払った方がいいな。お嬢ちゃん、……ええと、メトゥ、だったかな、君たちはどこに宿を取ってる?」
 千年は、メトゥが一緒に行動している関係上、“アンドレアス博士”の演技を続けている。従って、荷物持ち兼ボディーガードの“李くん”と言うことに成り行き上なってしまった因幡もその役回りを演じている、はずなのだが、空港で敵ではない人々を相手に大立ち回りをしてしまってそのせいで目的地までの足を失い、さらには首都に臨界体制をとらせるレベルの大事になってしまったことが相当堪えているらしく、少し離れたところで膝を抱えて座り込んでしまっているので、見た目にはなにも分からない。
「宿に泊まるようなお金も暇もなかった。この山の裏手の空き地に、馬をつないでいるだけだ」
 そりゃあいい、と千年は手を打った。
「ああ、いや、君がいいかどうかによるけれど――その馬、借りられないか?もちろん金は払うから」
 メトゥが目をぱちぱちとさせた。さすがに、直球で本題に入りすぎたか、と千年が懐柔の言葉を探し、口を開くその前に、
「なぜ、お金をもらう必要がある?あなたはあの妙な男が我々の種子を芽吹かせるのを止めてくれるのだろう。それなら、私が案内する。むしろ是非ついてきてほしいほどだ」
全く曇りのない表情でメトゥがそう答えていた。どうやら、さきほど空港で行った説明を、少女はすんなりと受け入れていたようであった。千年の表情がそれとは逆に曇ったのは、良心の呵責などと言うものを感じてしまったが故のことであった。
「どうした?やはり、奴を止めるのは難しいだろうか」
「そういうことじゃあなく……君の仲間は待たなくていいのか?」
「それは問題ない、我々は種子を鎮める神官として鍛練を積んできている。馬がなくとも、徒歩で帰ってこられる」
「そうか、それならいいんだ」
 千年は、密偵である。海千山千の、煮ても焼いても食えない、食えば腹を下しそうな同業者だとか外国の要人を騙したり脅したりは、いくらでもしてきた。しかしながら、全くの一般人、それもおそらく一〇歳以上は年の離れているであろう少女を騙したことは、いままで一度もなかった。同業者や政治家、軍人、その他諸々の大人たちよりも子供の方が御しやすい、というのは当然のことであり、それは千年からしてみればありがたいことであるはずなのだが、出し抜いても良心の痛まないたぐいの大人たちを相手にするのとは全く別の種類の胆力が必要である――というのは、今初めて知ったことであった。
 千年の内心で起きている葛藤はともかく、これで、どうにかハオ氏のところに“アンドレアス博士”が行き着く算段はついたわけである。こういう場合、行動は少しでも早い方がいい。千年はまだ落ち込んだままの“李くん”こと因幡を片言の中国語で呼び、出立することを告げた。
「出立……ああ、そうですね、行かなければ……」
 因幡は、そう答えて頼りなさげに立ち上がった。一応、“李くん”と“アンドレアス博士”は中国語で話すことになっていたのだが、因幡の方がそれを忘れていると見え、ドイツ語をしゃべっている。ショックはかなり大きいと見える。話す言語については、どのみち空港で堂々と日本語で会話をしてしまっているので今更中国語を使う方が妙なのであるが、この場合、因幡がかなり萎縮して、下手をすれば任務継続の意志すらなくしてしまっている、と言う方が問題に思える。今は急場であるため、千年が良心の呵責を感じてまで普楽へ行く手はずを整えたが、それは本来ならば、因幡の仕事の範疇であるのである。何だってこの、エリートであるはずの同業者はまるきり仕事を始めたばかりの新人のように落ち込んでいる?――と、そこまで考えたところで、ふと千年は一つの可能性に思い至った。
 馬をつないでいる空き地へ向かう最中、千年はやや歩みを遅くし、先導して歩いていくメトゥと距離をとった。因幡の方が千年を追い越し駆けたのでその腕をつかみ、指でこっちに来るよう指示をする。因幡は不承不承、と言った様子で、千年と歩調を合わせた。
「なあアキカズくん、君、もしかしてこの仕事、初めて?」
 小声でそう尋ねると、横顔の中、因幡の目が大きく開かれて一瞬こちらを向きかけ、すぐに顔全体が背けられた。どうやら図星と見える。考えてみれば、当たり前の話である。〈昭和通商〉は大卒もしくは陸大卒の人材をリクルートしてきて、そこから訓練を施し、一人前の密偵に仕立て上げる。したがって、二〇代中盤以降からが「新人」であり、因幡はその世代にあたる。そう思ってみれば、本郷嘉昭を私淑している、というのもうなずける話となる。本郷老人に憧れてこの職業についたばかりであったのだ。
「あ、やっぱそうか。いや、ぜんぜんそれは悪ないねんで。むしろ俺の基準で中堅やと思ってもうたんが悪かった」
 〈千畝機関〉には、長官の建設理念の関係上、密偵となるための条件がほとんど存在していない。希望者の年齢、性別、その他諸々をいっさい問わず決まった訓練を受けさせ、訓練を満了次第、その人に向いた任務に就かせるのである。そのため、成人する前から密偵の身分となっているものも多い。まあ、千年以外は全員希望国に潜入して普段は普通の暮らしをしているスリーパーであるのだが。
「……あのな。俺、かれこれ一〇年ぐらいこの仕事やってるんやけど、うまいこと成功した仕事、いくつあると思う?」
 千年の問いかけにも、因幡は反応を返さない。が、かまわずに千年は話を続ける。
「これがな、一つもないねん。そりゃあ、特定の誰かを殺すとか、どっかの施設をつぶすとか、そう言う俺個人の任務はちゃんと達成するで。でも、それを行うことで変えたかったことやとか、明らかにしようとした……あ、これは言うたらあかんやつやな……まあそういう、俺のひとつずつの仕事っちゅうのが、本当に達成したかった状況の変化に結びつくことってのが、全然存在せえへんのや」
 話しているうちに、因幡がいつの間にか顔を少しばかりこちらに向けていたことに気づき、千年は話をまとめにはいった。
「せやからほんまに、目標達成までに起きた多少のトラブルなんて、結局はもっと大きな状況のなかに吸収されてまうよって、気にせんでええって。密偵の仕事なんて、凍り付いた海のどっか一カ所に穴をあけて、魚一匹つれるかどうか、みたいなもんなんやからな。……いや、魚どころか、釣り糸同士で引っ張り合って、相手の釣り糸を切ったら上々、なんてことが日常茶飯事や」
 まとめにはいって、まとめきれず、今度は少しばかり千年が遠い目をし出した。千年の方を向いていた因幡が眉間にしわを寄せるも、千年は気づいていない。
「……俺らの仕事って何なんやろうなあ……密偵に対抗するための密偵、密偵に対抗するための密偵に対抗するための密偵……そのために何も関係のない女の子まで騙して……」
「お、おい、ちょっと待て、あんた僕を元気づけようとしてたんじゃ」
「……時々考えるんや、日本とドイツ、いや、世界中の同業者が全員同時に仕事を辞めたら世界の国々はどうなるかって、それでも何も変わらんのとちゃうかなあ……」
「待て、かなり待て、考えちゃいけないところに突入してるぞあんた、戻ってこい」
 チベットの山々よりも遠いどこかに行こうとしている意識を呼び戻すべく、因幡が千年の肩をつかんで揺り動かすも、自らの仕事の意義を問い始めた千年が現実に立ち戻るには少しばかりの時間を要した。具体的には、先を歩いていたメトゥに追いついて馬に乗り、普楽までの道を歩みだして、旅を続けることが危険になるほど辺りが暗くなるまでの時間であった。
 チベットの夜は暗い。山中や、あるいは遠海などでもそうだが、人の作った文明から隔絶した場所で夜を迎えると、街の中には存在しないほど深い闇があたりに満ちていることに驚く。そのぶん、晴れていれば星空が降るように明るくも見えるが、あいにく今日は曇り空であり、ぼんやりとした山の端がかすかに見えるかどうか、と言った具合であった。
「ヘル・ドクトル、高山病は治ったか?」
 たき火を囲んでメトゥの持っていた干し肉と、密偵たちの持参していた缶詰で簡単に食事をとったあと、メトゥは千年に問いかけた。かなり様子のおかしかった千年のことを、高山病にかかった、と因幡が説明していたのである。チベットは全土が平均で標高四五〇〇メートルを越えているため、訪れた外国人は少し運動をしただけで簡単に高山病にかかる。
「ああ、もう良くなったよ、心配をかけて悪かった」
 “アンドレアス博士”を演じる千年は、元気になったことを示すべく片手で力こぶを作るような動作をしてみせる。
「外から来た人が、いきなりあれだけ動けるのがおかしい。荷物持ちの人だって、ずいぶん疲れた様子だったものな」
 どうやらメトゥは、因幡が失意のどん底に沈んでいたのも高山病だと思っているようだ。チベットに元から住む人間としては、当然の発想であるかもしれない。
「しかし、これだけ早くここの気圧に慣れることのできる人ははじめて見た。あなたは、学者らしくないな。学者と言うからにはもっと青瓢箪みたいなやつで、タクシーをパンクさせた時点で怖がって帰るものと思っていたんだ」
 千年は声を上げて笑って見せたが、その笑いに乾いたものが混じらなかったかどうかは、自信がなかった。何しろ、学者ではないのだ。
「お嬢ちゃんだって、らしくないと言えばらしくない。あんな難しそうな武器を自在に使いこなしているし、それにまさか、チベットでそんなに上手なドイツ語をしゃべる人に会うとは思っていなかったよ」
 本心が半分、あとの半分はアンドレアス博士の身の上から話題を変えるために、千年はメトゥについての話を切り返す。特にドイツ語については、ほぼ本心である。普楽、と言うのがどのような土地なのか、何かの遺跡が発掘されていると言うことのほかには何も知らないが、日本で外国語を学ぼうとするのとは比べものにならない環境であろう。そこで育って、これだけのドイツ語を操れているというのは、賞賛に値する。
 が、自身の能力を誉められても、今一つメトゥはうれしそうではない。
「あの弓矢は、元は谷の女たちが護身用に使うものを、あの男の宮殿から物資をちょろまかして改良して作ったんだ。ドイツ語にしたって、あの男が、ドイツ語を使うからな。話している内容ややろうとしていることを知ろうとすれば、覚えるほかなかった」
 あの男、とはハオ氏のことであろう。ハオ氏がドイツ語を使う、と言うのは氏に掛かっている嫌疑からすればなかなか重要な証言に違いないが、しかしなぜドイツ語を勉強してまでハオ氏の動向を知る必要があるのかがわからず、神妙な顔で千年は頷くほかない。
 少女のほうも、すぐに千年と自分が前提を共有していないことに気づいたようであった。どこから話すべきか、と考えあぐねた様子を見せていたが、すぐに話の契機を見つけたようで、顔を上げた。
「あの男は、私の谷を自分の王国にしようとしているんだ」
「自分の王国に。それはまた、壮大な話だな」
 メトゥが話しやすいよう相づちを打ちつつ、千年はたき火の向こうの〈昭和通商〉営業部員を見やった。因幡が神妙な顔でうなずいたところを見ると、それは真実で、かつ〈昭和〉でもつかんでいることらしい。
「七、八年ほど前の話になるか。私の村に“種子(タネ)”のあることを聞いたあの男は、村で発掘を行うといってやってきて、村の住民をやといはじめた。こんなチベットの奥地ではとうてい手には入らないようないろんなものを奴はもって来るものだから、そのうちに奴は王様のような存在になってきてね、しまいには発掘の拠点にするとか言って、自分の宮殿を作り始めたんだ。「千年王国」とかいう馬鹿げた名前を付けているよ。中も馬鹿げたことになっているけれど」
 千年王国、ミレニアムとはまた、いかにもナチス好みの名称すぎる。それは、キリスト教の終末思想、楽園思想のことだ。第三帝国そのものがミレニアムそのものに擬せられることも度々ある。たき火の向こうに視線をやると、因幡はまたうなずいたので、それもやはり〈昭和〉がつかんでいる事実だったらしい。……しかし、そこまでいくともはや、疑惑というレベルを超えているとしか思えないが――おそらくはそういうことであろうとは予想していたが、それ現実味を帯びてくると、千年としては軽い倦怠感を覚えるほかない。
「種子、というと、空港でもその話をしていたが、それはいったい何なんだい?」
 メトゥはきょとんとした顔を浮かべたあと、得心したようにうなずいた。
「そうか、考えれば、そうだな。あの男が事前にそのことを漏らすはずがない。……おそらくあなたは、目撃したことを伝える公正な第三者として呼ばれたのだろう」
 種子、と言うなにかしらのものの発掘をドイツ本国に伝えるための要員として――と言うことだろうか。しかし、ハオ氏が〈昭和〉の見込みどおりドイツの密偵であったとすれば、自前の連絡手段を持っているはずである。と、なると、ドイツの密偵という線は見当はずれだったということだろうか――?次々と千年の脳裏には疑問が積みあがってきたが、ちらりと視線をやったときの因幡の表情からするに、それはあちらが独占しているはずの情報をもってしても解消できるものではないようだ。千年の頭の中で、〈昭和〉の大陸駐在員は無能なのではないかとの疑念がにわかに沸き起こる。
「種子というのは、私たちの村に古くから伝わる呪物のことだ。種子という名前だけれど、本物の植物のタネではなく、こういうものらしい――本当は私も見たことがないから、聞いた話なんだけれどな」
 こういうもの、と足を組んで座る少女の両手が合わせられ、滴型を形作る。石器時代の、黒曜石でできた槍の穂先のような物を直感的に千年はイメージした。
「その呪いのタネを、ハオ氏はどうして手に入れようとしているんだろう」
 呪いの真偽については、この際触れないことにする。千年は信じてはいないが、少女がその伝承を心から信じていることは窺い知れたからである。
「呪いの対象が、ワ、となっているから」
 ワ、という部分は、そのまま「ワ」と発音した。そのため意味がとれず、妙な顔をした千年の前で、メトゥは砂の上に小枝で文字を書き出した。千年は少女の後ろ側に回り、その文字を見る。たき火の向こう側にいた因幡も回り込んできて、同じく文字の完成を見守った。チベット文字かと思い身構えたものの、書いているのは漢字のようだ。どうやら漢字を書けるわけではなく形で覚えているらしいので、癖が強く、少し考える必要があった。が、その漢字の形が了承できた瞬間、千年は思わず声を上げかけて口を押さえ、その後、隣にいる因幡と顔を見合わせてしまった。そこにあったのは、
 倭
という一文字であった。
「日本人が対象の、呪い?何だってそんなものが、チベットの奥地に」
 聞いたのは因幡だった。中国語ではメトゥと話ができないし、どのみちすでにドイツ語ができるところは見せてしまっているので、ドイツ語を話している。
「分からない。伝えるところによれば、もとは中国に流れ着いたものを誰かが運んできたものだったというけれど、それ以上のことは何も」
「呪いの内容というのは?」
 今度は千年の質問である。
「私の先祖が読み解いたところによれば、そこまではわかっていない。ただ、強い呪いの意思があってその鎮守のために我々鎮守者は組織された、という伝承もあるから、必ず倭の国、倭の人に災いをもたらすだろう……と」
「それはまた……なんとも指向性の強い呪いだな」
 ともすれば馬鹿にしているように聞こえかねない発言であったが、そうならなかったのは、当人の自己認識が「日本人」である千年としては、いくら眉唾物の話であるにしても気味のいい話ではなく、にじみ出る感情が声色に重々しさを付け加えていたためであった。横にいる因幡にしてもあまりいい気分はしていないと見え、砂の上に書かれた「倭」の文字を眉間に皺を寄せて見つめている。
「では、ハオ氏は、その種子を使って日本国、あるいは日本人に災いをもたらしたい。そういうことかな」
 メトゥは深刻な表情でうなずいた。ばかばかしいと言えばばかばかしいことこの上ない話なのだが、チベットの山奥で、たき火だけを明かりに、どうやら神職の血を引いているらしい少女によって語られてみると、何とも言い難い臨場感と気味の悪さを感じずには居られないというものである。
 まだ聞きたいことはいくつもあったが、長く話してメトゥが疲れた様子を見せ始めていたため、少女に礼を言い、今夜はいったん眠ることになった。火を消すと、薄曇りの空のなか、月がでているらしき場所だけがぼんやりと光って見えていた。

◆密偵たちの夜

 五月のチベットの夜は、極寒である。日本でも夜であればかなりの冷え込みになるが、高度四千メートルを超えるチベットの夜ともなれば、冬とそう変わらない。冬山用の寝袋の中にくるまっていても、手足の先から冷えが伝わってくるようで、千年は寝袋の中でさらに手足を引っ込めて、どうにか少しでも暖をとろうとつとめていた。地面の冷たさを逃れようと寝袋ごと数度寝返りを打った時、顔の先に、古い毛布にくるまり、寝そべった馬に身を寄せる形で眠る少女の姿があった。馬の体温は高いので、それなりに暖はとれることであろうが、かぶっている毛布の保温性が余りにも低すぎるためか、眠りながらふるえている。
 千年は、馬鹿げたことを考えたようであった。それは、少女を騙していることに罪悪感を覚えてしまったが故の行動なのかどうか、本人に聞いたところで分からなかったであろう。
 千年は外気の冷たさに体をふるわせながらも寝袋からでた。体がある程度寒さになれると、自分が収まっていた寝袋を手に、音を立てないように少女の元へと近づいていく。気配を消して眠っている少女のすぐ隣に膝をついた千年は、一つ息を吐くと、類を見ない素早さで少女の毛布をはぎ取り、代わりに寝袋をかぶせ、ジッパーを閉め、見事メトゥを寝袋の中に入れることに成功した。――馬鹿げたことの割に、なかなかの集中力と精密さを要する作業であった。
「馬鹿か、あんた」
 少女がかぶっていた毛布をマントのようにはおり、元寝ていた場所へ戻ろうとする千年に、そんな声がかけられた。
「それとも、また寝ぼけているのか」
 かすかな明かりの下、輪郭だけはどうにか見える因幡は、寝袋から半身を起こして千年の方を向いているようだった。その手に、小型暗号無電が握られているところを見るに、本部に向けてここまでの任務の経過報告を行っていたものと思われる。
「寝ぼけてはおれへんで。寝ぼけてる方が、どっちかというと判断はシビアやな」
「そりゃあすごい。常に寝ぼけていてもらいたいものだ」
「うーん、それはちょっと困るなあ――」
 千年は毛布にくるまり、横になったが、因幡はまだ半身を起こしたままだった。寝袋よりも遙かに防寒性に劣る毛布では眠りにつくことが困難であったこともあり、何度も寝返りを打って少しでも寝やすい体制を探している最中、千年の耳に再び声が届いた。
「なあ、一〇年前からやってるというが、一〇年前ならあんた、まだ未成年だろう。それからずっと壊し屋と殺し屋やってるのか」
 向こうも寝付けないのであろうか。雑談をするつもりらしい。こちらとしては、全く寝付けそうにないので歓迎するところであるが、今までの千年への態度からすれば一体何が起きたのか、と勘ぐりたいところである。あるいは、どうも〈昭和通商〉は〈千畝機関〉の実情を探りたいようなので、その一巻での質問であるかもしれない。
「まあ、せやな」
 なので、千年は言葉少なく答えておく。
「またどうして。……日本人になるほかなかった、と言っていたな、あんたんとこのボスは。それと関係有るのか」
「あー、長官のあれはまあ、俺を仕事に向かせるためっちゅうか……でもまあ、関係はある、かな」
 その答えに、〈昭和通商〉営業部員は、何かしら思うところがあったらしく、闇の中で彼の輪郭が動き、髪を掻き上げるのが見えた。
「この仕事をしていなければ、日本人だと認めてもらえないのか。いや、認めないのか、同胞であると、あんたの組織の人員を、我が国は」
 後半が、一言ずつ考えながら紡ぎだされたらしく、すさまじい倒置法になっていた。どうも、諜報目的の質問ではないらしい、とここに来て千年は気がついた。新人スパイは、情緒に流されやすいらしい。そのことを指摘してやるか、と思ったが、自分のことを聞いているのであるから、ここで混ぜっ返してやるのも可哀想であろう。
「……どうやろな。でも、日本人やと認めて欲しいスリーパーがおるんかどうか、俺も知らへんよってな」
「そうか、スリーパーの身分は、同僚にも知らせないものな。……じゃあ、あんたは。あんたの話によれば、あんただけはスリーパーじゃないし、日本に住んでる」
「俺は――」
 千年は、答えに窮する。
「いや、周りに認めてもらえるかどうかっちゅう話やなく、そりゃまあそう思ってもらえたほうが嬉しいけど、この仕事をやってへんと、俺が、自分のことを日本人やと思われへんっちゅうか、とりあえず、ドイツ人じゃない、って思われへん……っていう辺りまでで、その、止めといてほしい、かな?結構機密事項に関わるねんそれ」
 〈千畝機関〉は、情報管理を段ボール箱で行う程度の情報管理意識しか持たないが、それでも、機密事項というものはある。まだ因幡は聞きたいことのある様子であったが、機密事項、と言われてしまえば向こうも同業者だけに深くは尋ねられない。
 ――彼はどうも、千年に好意を抱きつつあるのではないか。
 千年はなんともむず痒そうに頭を掻いた。そうして、毛布をひっかぶることで会話を終わらせようとしたのだが、その耳に、再び小さな声が届き始めた。
「――ハオ氏、字は良好とか好きとかの『好』の字を書く。正確にはユリウス・(ハオ)と言うのがフルネームで、名前から分かるように、半分が中国人で半分がドイツ人の混血だ。奴が初めて記録にその姿を現すのは二〇年ほど前、つまりは日独の関係が悪化しはじめたころだ。そのころには、まだハオとは名乗っていなかったとされるが――すでにそのころの資料は大部分が抹消されているので、そのときの名はわからない。その時点でのハオ氏は、中国経済界の中で頭角を現し、同時に西側のスパイではないか、との嫌疑を掛けられた」
 因幡が話しているのがハオ氏についての情報だ、ということがわかり、千年は目を開いた。どれだけ闇に慣れた目でも、やはり因幡の姿は、おぼろげな輪郭しか見て取ることはできない。
「アキカズくん、どないしたんや、嬢ちゃんに触発でも――」
「黙って聞け。――その時点で嫌疑が真実だったかどうかは、定かではない。中国当局が一度引っ張って、厳しく取り調べを行ったが、証拠は不じゅうぶんで釈放された。――個人的な意見を言わせてもらえば、この時点ではシロだな。引っ張られているにもかかわらず、記録の大半が抹消されているのが良い証拠だ。おそらくは、当局側への袖の下が少なかったか、あるいは渡していたが増額を拒んだか、その辺りが理由だろう。ドイツ系の混血という出自が、目を付けられやすい要素となったのかも知れない。ともかく奴は一度は釈放された、だが、その時点で奴が築き上げていたものは、すべて無くなっていた。意味は分かるな」
 嫌疑を掛けられて逮捕された時点で、何かと理由を付けて財産を没収されたか、没収をされないまでも、信用を失ったがためにそれまでと同じようには商売ができなくなったか。あるいは、その双方か。闇の中で千年が浮かべた表情は、誰にも見られることはなかった。
「ハオ氏がハオ氏になるまでの経歴は、そこでとぎれる。次にハオ氏がその名前とともに現れたときには、奴はすでに、今と同じだけの財力を手に入れるとともに、かつての嫌疑を本物に変えてもいた。奴は反北京派への資金注入や、あるいは反北京派の細胞を使った情報収集を行う本物の密偵、本物の工作員と化していたんだ」
 反北京派、とは、北京の国民党政府――その存在に抗する勢力からは、日本の傀儡政権と目されている――の打倒と、独立政府の確立を目指す勢力のことである。中心となっているのはかつての中国共産党である、あるいはソビエトの残党の息がかかっている、という与太話もあるが、現代、一九六〇年ともなっては共産主義勢力の残党などというのは、パルプフィクションの中ぐらいにしか存在はしていない。実際は、ハオ氏のような密偵の工作により扇動された若者たちが身を投じてしまっている、というのが大半だろう。
「そこまで分かっとる、ちゅうことは、つまりハオ氏は、鵜飼いの鵜やな」
 目立つ活動をしてくれて、資金源も情報網も割り出せていて、なおかつドイツから見切られてもいない。そんなスパイが居るならば、排除して、また敵に新たな諜報網を構築されるよりも、こちらから向こうに渡る情報をコントロールしつつ、相手の動きを逐一観察した方が遙かに有意義だ――〈昭和通商〉はそう判断したに違いない。闇の中で、千年が明和の方を向いた。明和がうなずいたことは、輪郭を表すわずかな光の具合の差から見て取れた。
「ああ。一通りの仕事をしながら、奴は普楽での馬鹿げた事業もやってくれているおかげで、資金も浪費してくれているからな、他のまともな奴に交代されるよりはよほどいい。――この仕事はつまり、大がかりな現状維持、それだ」
 若い密偵は、ついにこの仕事の核心までを告白した。いや、長い独白を経て告白されるまでもなく、分かり切ってはいたのだ。わざわざ競合組織に協力を仰いで、手間暇をかけて嫌疑が掛かっていることを気づかれないようにする理由など、それぐらいしかない。あるいは、中国の公安がアンドレアス博士を尋問し、殺すに至ってしまった理由もそれで理解できる。日本が中国政府に、ハオ氏を野放しにさせるよう圧力をかけていたのだろう。国内に反政府勢力の支援をする西側(ドイツ)の密偵がいて、しかしそれを検挙できない、というのがどれほど歯がゆいことか、想像は難しくない。もちろん、中国側の治安が維持できる範囲には、察知した破壊工作の計画や反北京派の協力者については情報提供はしていたことだろう。そうだろうが――
「あの嬢ちゃんの故郷がどうなっとるのか、つかんどるか」
「簡単に言えば、小第三帝国、といった状況らしいな。詳しくは、内部に潜入したものがいないから分からないが」
 想像通りの答えが返ってきて、闇の中で千年は瞑目した。メトゥはごく簡単にしか説明しなかったが、千年王国などという名前を使ってしまうような人種が、現地住民に手厚い保護を加えるとも思いがたい。――それでも、巨大な状況の変化を呼び起こすよりは、一部の小さな不幸の積み重ねを見逃す方がましということか。
「……そうか、教えてくれてありがとうな」
 心中にわき上がる様々なものを押し込めて、快活さで上塗りしたような声で、千年は言った。
「言わなきゃあんた、あの娘のために、何かするだろう」
「あっ、なんや、それでか。てっきり、俺のこと信用してくれたもんやと思ってちょっとうれしかったのに」
「バカか、そんなわけがあるか」
 吐き捨てるような言葉とともに、因幡の輪郭が動いた。かと思うと、千年の顔に何か、柔らかいものが当たった。何かと思い手に取ると、ポリエステル系の布地の中に綿を詰めたような感触がある。どうやら、寝袋を丸めたもののようだ。
「N研の試作品だ、見た目は悪いが毛布一枚よりはましなはずだ。……明日以降、あんたが主演だからな。風邪をひかれては困る」
 N研、正しくは登戸研究所というと、〈昭和通商〉御用達の兵器、化学兵器の類からいわゆるスパイグッズまで、様々な品を開発する研究所のことだ。外務省所轄であるため資金だけは案外あるもののその種のアイテムとは縁遠い〈千畝機関〉の密偵としては、好奇心をかき立てられることこの上ない一品である。喜んで、千年は寝袋を広げ、その中に入った。
 が。
「……なんかこの寝袋、先が細なっとるんやけど」
「だから、試作品と言ったろう。ないよりましだと思って使え」
 暗闇の中でよく分からないが、感覚からして、かなり足元が細くなっている。仕方がないので、片足は引っ込めて寝ることにしたが、それでも確かに暖かいことは暖かいので、いつしかその中に入った千年は寝入っていた。
 そして翌朝。千年は、くすくすという笑い声で目を覚ました。
「あ、起きた。……この寝袋を使いたいから私に普通の方を貸してくれたんだって?ありがとう」
 目を開けると、眼前には前日の夜とは打って変わって晴れた夜明けの空を背景に、そう言って笑うメトゥの姿があった。少女の笑顔と暁の空から始まるとは、実にさわやかな朝である――と言うには、どうにもその笑いの質が、微笑みかけていると言うよりはどう見ても、笑われている、と言う方向に傾きすぎている気がして、千年は寝袋のジッパーを下ろそうとした。が、ジッパーが下りない。
「あれ、なんだ、ジッパーが噛んだかな。……悪い、噛んだのが外側っぽい、引っ張ってくれるか」
 そう頼んで見るも、メトゥは
「そのままで起きればいい。とても似合っている」
と言って、笑っている。そのままで、と言っても寝袋のまま起きるとなると、飛び跳ねて移動しろとでも言うのか。第一、この寝袋は妙な形状で、足が一本しか入らない――と思いながら引っ込めていた足を寝袋の中で下ろしたところで、千年は、寝袋の足元が細くなっているのではなく、二つに分かれているということに気づいた。ちょうど、ズボンの先が開いていないような形状だ。
「えっ、なんだこれ。……うわあ、立てる」
 手は出ない形状なので、少しばかり反動をつけてやる必要はあったが、たしかに寝袋に入ったまま、立ち上がることができてしまった。のみならず、歩くことまでできた。ポリエステルの生地の擦れ合うシャカシャカと言う音が、非常に格好悪い。
「ヘル・ドクトル、すごくいい、とても格好良いぞ」
 メトゥはそう言っているが、同時に腹を抱えて笑ってもいるので、どう考えても言葉通りの感想を抱いているとは思いがたかった。が、千年としても、直接見ることはできていないものの、寝袋の下が二つに分かれていて、その中に人が入って立っている、という状態がどのような外観になるかは想像がついてしまい、その反応にも怒ることができずにいた。
 不意に、後ろから噴き出すような声がして、千年は振り返った。想像に違わず、因幡が笑いを必死で噛み殺そうとして全く噛み殺せていない表情で、そこには立っていた。
「いや、悪い、実際に人が入ってるのは初めて見たんだが……インパクトが、その、ふふっ」
 この寝袋の提供者で、以前から見たことはあるはずの因幡もこの有様であるのだから、それはさぞかしすさまじいインパクトのある外見なのだろう。千年は、浮かべる表情を探しあぐねた結果すべての感情を消し去った表情のまま、因幡の方へと歩き始めた。
「あ、歩かないでくれ、それはやばい、あんたは見えないだろうけど本当にぶふっ」
 途中で小走りに走り始めた結果、因幡が盛大に噴き出して、その場で崩れ落ちた。背後から聞こえる笑い声からするに、メトゥも同じ状況だろう。
「なあ、だれかジッパー下ろしてくれへんかな……」
 ぬっぺっほふの亜種のような外見で途方に暮れる千年と、その周辺で笑いの坩堝に飲まれてしまった二人の上に、等しく朝日が昇りはじめていた。

◇幕間の一

 〈千畝機関〉が有する唯一の遊撃部員がチベットへ旅立ってから四日ほどが経ったその日、自身の名を関する機関の本部、つまりは〈昭和通商〉本社ビル地階の一部屋に出勤してきたところで、長官は本部の中に一つの影があることに気づき、鍵の束を持った手をその場で止めた。が、すぐに思い直し、鍵をポケットに押し込んだあと、ドアを開いた。ずんぐりとしたシルエットの、その初老の人物には、心当たりがあった。このビルの地上三階一フロアを占有する〈昭和通商〉最大の部門、営業部の長だ。今の営業部長は、ついこの間着任したばかりなので、一度地下まで挨拶をしに来たことがある。
 戸を開けてみると、思った通りの人物がそこには立っていた。その周辺の段ボール箱は、すべて動かした形跡がある。やろうと思えば生え抜きのスパイであるはずの営業部長は、痕跡一つ残さずに中身を改めることなどは造作もないはずだ。なのでこれは、中の資料を見たことを伝え、動揺させる目的があるのだろう。
「やあ、おはようございます、杉原さん」
 営業部長は帽子を取り、長官に一礼をした。
「これはどうも営業部長殿、前もって言っておいてくれれば、早めに来たのですが」
 営業部長は長官の名前と経歴、それにおそらくは住所や家族構成まですべて知っているが、長官は営業部長の名前すら知らない。前歴の差や隠す必要の有無があるにせよ、それが〈千畝〉と〈昭和〉の実力差を端的に表していた。
「いえ、こちらが勝手におじゃましただけのことです、お気になさらず」
 気にするのは、どちらかと言えば不法侵入をされた件についてだが、そのことには長官も営業部長も全く触れないままだった。
 来客のために茶を入れようと、長官は給湯室部分に向かい、やかんを火にかけた。が、二リットルのやかんいっぱいに水を入れてしまっていたためにすぐには沸かず、一端自分の席へと戻ってきた。かくして、文机を挟んで、二つの組織の密偵使いたちは向かい合う形となった。狐を彷彿とさせる容姿の長官に対し、恰幅がよく丸顔の営業部長の方は狸と言った風情で、見るからに化かし合いが始まりそうなのが可笑しい。
「それで、千年はどんな調子です」
 口火を切ったのは、〈千畝機関〉長官のほうだった。はじめから、相手組織が仕事の最中、自分の側の密偵についても情報を収集している、というのを前提にした問いかけだった。が、営業部長の方も気を悪くした様子も見せず、それに答える。
「ずいぶんとこちらのスタッフのバックアップをしてくれているようで、助かりますよ。彼は新人育成に向いているんじゃあないかな」
「ほう、それは意外だな。ツーマンセルで動かすことがないから、気づかなかった素質です」
「あの千年くんのほかはスリーパーだから、ですか?」
「ほう、なんだ、千年のやつそれを言ってしまったのか。いや、機密だと言わなかった私が悪いなこれは」
 互いに、ごくふつうの調子ではなしながらも、室内には尋常ではない緊張感が漂っている。そのことは、出勤してきた事務員の“嵐”が戸を開けたあと、驚いてもう一度戸を閉めてしまったことからもよくわかった。
「強火にしないと沸かないのでは?」
「え?」
「火ですよ。コンロの火」
「ああ、そうか。確かにそうだ」
 戸の方を振り返ったあと、首を元に戻す途中、コンロが弱火になっていることに気づいた営業部長が、長官に言った。長官は着物の裾を押さえて立ち上がり、火を大きくして戻ってきた。
「さて。そろそろ本題に入りましょうか」
 長官が座りきらないうちに、営業部長がそう仕切り直した。長官の細い目が、わずかに開く。
「お察しの通り、〈千畝機関〉に今回協力を依頼したのは、ユリウス・ハオの警戒を避けるためのみならず、あなた方の組織そのものの実態を探りたかったからです。これはまあ、私の好奇心から出たものですので、その結果をどこかに報告したりだとか、そう言うことはありません」
 文机の向こうに座った長官は、懐手をして、自分が静かに大きく深呼吸したことを気取られないようにした。が、机を挟んで対峙している本物の[#「本物の」に傍点]密偵使い《スパイマスター》に果たして心中の動揺が気取られていないのかは、分からないままだった。
「そうですか。それで、どの程度分かりましたか」
「それが、少しも。いえ、個別の細々としたことはそれはもちろん分かりましたが、やはり、知りたいことが分からない」
 その答えを聞き、長官は少しばかり息を吐いた。
「ですので、直接聞かせていただければ、と思いここに来たわけです。この〈千畝機関〉は、いったいどのような理由で生まれ、存続しているのです?もちろん、額面上の理由――対独諜報のため、あるいは我々陸軍の外交面での専横に外務省が対抗するため、というのは知っています。しかし、それだけでは弱い。何しろ、あなた方はしろうとだ。資料を見せていただきましたが、全体の数からすればまあまあ成功してはいるものの、一〇年間動いてきた組織としてはあまりにも関わった案件の数が少なすぎる。――まあ、遊撃の部員は毎回、大変な被害を敵に与えてはいるようですがね。そのくせ、未だにこの組織が残っていることが、私には不思議でならないのです。ええ、もちろん、答えられる範囲でかまいませんが――どうか、教えていただけませんか。何でしたらお礼に、こちらから教官を二、三人貸しますよ」
 長官は、余りに直接的な問いかけに苦笑しつつも、しばし考えるそぶりを見せた。
「――そうですね、では、ヒントでも。……我々は『アーサー王宮廷のヤンキー』を知らないアーサー王を擁している。それが我々の唯一絶対の価値なのです」
 営業部長は面食らった顔を浮かべた。
「何の話です。マーク・トウェインですか」
「ええ、そうです。」
 引き合いに出しているのがマーク・トウェインのSF小説『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』であることは、営業部長もすぐに理解したようだった。しかし、何の比喩なのかは分からないと見え、目を白黒させている。
「分からないな。『アーサー王宮廷のヤンキー』を擁しているのならまだしも、擁しているのはアーサー王、それも『アーサー王宮廷のヤンキー』を知らないとは。謎かけですか」
「いえ、ほとんどそのままの意味ですよ」
 『アーサー王宮殿のコネチカット・ヤンキー』のあらすじをごく簡単に説明すると、当時の現代アメリカ人である主人公がアーサー王の時代に迷い込み、現代の知識を駆使して出世を果たすとともに過去を変えるが、最後には魔術師マーリンによって一三〇〇年の眠りにつかされ、歴史の改変は時間の流れの中で無かったことになり、現代に戻ってくる、というものだ。営業部長はしばらくそこで考え込んでいたが、何をどのように当てはめればいいのかの見通しすら立たず、やがてあきらめたように顔を上げた。そのころになってようやく、コンロの上のやかんは、しゅんしゅんと音を立てて沸き立ちはじめた。
「降参ですか?」
「ええ。暗号課にでも回してみましょう」
 密偵使いたちがそのような会話を交わしたのとほぼ時を同じくして、意を決したようにドアがノックされ、開いた。外から中の様子をうかがっていた事務員たちが、意を決して突入してきたようだった。
「失礼します。タイムカード、切らせてもらいます」
 先に入ってきた金円女史が、硬い声でそう宣言し、事務員たちが段ボールの山に隠れた打刻機にタイムカードを通した。ジー、ガチャ、という非常に日常的な機械音が鳴り、張りつめていた空気がゆるむ。それとともに、やかんの口からピーという金属的な音が響きはじめ、緊張感は完全に霧散した。
「忙しい時間にどうも失礼を」
 始業時間が近いことに気づいた営業部長も、あわただしく席を立ち、自らの帽子と上着を手にした。日常の空気が流れ始め、やかんがピーと音を立て始めたところで、長官の机の上の電話が鳴り響いた。
「はい、こちら……これはどうも、お早うございます本郷さん」
 電話の相手は、本郷嘉昭だった。その名を聞き止めた営業部長が振り返り、立ち止まった。本郷嘉昭は、日本の現職密偵にとっては伝説的存在である。
「え?〈七人連(しちにんれん)〉から?それは一体――――なんですって」
 話はごく短い時間で済み、受話器はすぐに置かれた。長官は険しい顔で前を向き、そこにまだとどまっていた営業部長に向けて、こう言った。
「お礼の件ですが、教官よりも、そちらの通信網をお借り出来ないでしょうか。チベット入りした彼らに、伝えねばならないことが出来ました」
 営業部長は、鷹揚に頷いてみせた。

◇処刑の谷・地下王国へ

 〈千畝機関〉の密偵は、普楽という土地のことを何かの発掘が行われている土地としか知らない、とメトゥに言っていた。因幡の方は、この仕事に関する他のあらゆることと同じくもう少しだけ詳しく知っていたが、しかしそれはほんの少しだけの違い、たとえば象を見たことのない人間がその体表に短い毛が生えていることを知っているかどうか程度の違いだったことを今日、はじめて知ることになった。
 メトゥの案内でその土地にたどり着いたのは、現地時間で一九日の昼一二時頃のことだった。最後の行程は、山の中を切り開いて作られた洞窟を通ってのもので、洞窟は急な階段となっていた。そのため馬から下りて歩みを進めていくうちに、不意に視界が開けた。
 最後の行程である短い洞窟を抜けた先は、巨大な谷だった。今立っているところでは、彼岸と此岸の間は、おおよそ二〇メートルほどだろうか。こちら側から向かって左側、つまり下流に向かうに連れ、その幅は大きくなっていく。渓谷のこちら側は急な断崖になっていて、谷へと至る唯一の道であるこの人工の洞窟を抜けた先にある、断崖の上方を繰り抜いた狭い道と崖全体に張り巡らされた階段によって山頂へと至る事ができる。山頂には、メトゥの話によれば巨大な湖があるという。谷全体は、その湖を頂点に、細長いΩのような形をしているのだろう、と因幡は想像した。
 向かい側は、こちらに比べれば緩やかな斜面で、その斜面にぽつぽつと石造りの家屋が並んでいる、という光景は、チベットの他の地域と同様のものだった。窓の周囲を黒く塗った、チベットでよく見られるあの家だ。ただし、少しばかりその家々が斜面の上の方、尾根へと続くあたりに作られているのは、そこがかつて膨大な水をたたえる谷側であったためだろう。しかし今は、枯れているのか水が流れているような音は伺えたものの、見下ろしてみると見えるのは石ばかりで、水の流れは見えない。少なくともここならば、印地撃ちの材料には事欠かなさそうだ、と因幡は職業意識に基づいて頭に入れておいた。
「すっごいなあ。向こうがわにお嬢ちゃんの家もあるのか」
 千年が心底感動した様子で崖の侠道から身を乗り出し、向こう岸をよく見ようとした、その時、突如、谷全体に響きわたるような警報の音が鳴り響きはじめた。メトゥがはっと顔を上げ、それから襟首をメトゥがつかみ、引き戻した。ぐぇっ、という声が千年の喉から漏れる。
「な、何するんだよ」
 千年が抗議の声を上げたところで、その行動の理由が上空から降ってきた。いや、正しくは急降下してきた、と言うべきか。
 降りてきたのは巨大な猛禽だった。これは、禿鷲か。禿鷲は千年が直前までいた辺りをかすめて下降していき、獲物をとらえそこねたことを知ると、再び上空へと去っていった。空を見上げると、抜けるような青空を背景に、無数の禿鷲がそこには飛び交っていた。
「こっちに、ついてくるんだ」
 メトゥは、馬たちの尻をたたいて走らせたあと、自分は崖を削って作られた階段を駆け下りはじめた。警報音は断続的に鳴り響き、上空には禿鷲がどんどん集まってくる。何が起きているのか分からないままに、密偵たちは少女の後を追った。階段を二〇段ほど降りたところにある踊り場に着いたところで、少女は壁面に向かって跳んだ。いや。それは後を追う因幡の視点からだとそうみえただけで、正しくは、壁面をくり抜いて作られた小さなくぼみに飛び込んだのだった。前を走る千年もその後に続き、最後に因幡がくぼみに入ったところで、警報がおさまった。
「何なんだ、これは」
 何が起きているのかを探るべく顔を出そうとした因幡の襟首が今度は引っ張られる。
「顔を出してはいけない。外を見るなら、これを使って」
 少女に渡されたのは、手鏡だった。それで反射させて外を見ろ、と言うことらしい。つまり、顔を出すと先ほどのようにハゲワシが襲ってくる、と言うことか。因幡は手鏡を外に出したはいいが見る先を探しあぐねていると、横からメトゥの手が伸びてきて、一つの角度に固定された。鏡に映し出されたのは、絶壁の中に突き出た一つの岩だった。この洞穴よりは下にあるため、その岩の上の様子が鏡には映っている。岩の上には、白骨が散らばっていた。見るからに人の骨と分かる白骨だ。白骨の間には、ハゲワシの羽や鳥の糞も混じって見える。
「鳥に遺体を食べさせる葬儀か。……単語が分からないな」
 千年が言いたかったのは鳥葬のことだろう。ドイツ語でなら中国語の天葬の直訳であるHimmelsbestattungになるので、日本語を経由すると思い出せなくなる。
「遺体ならいいのだけれど……」
 なにやら不吉なことをメトゥが口にしたところで、岩の上に、白いものが落とされた。それが裸にされた人の体だ、と言うことは、岩の上の様子が念頭にあったためすぐに理解できた。――しかし、その体が岩の上でもがいて白骨を散らばらせ、起き上がり、崖の壁面に体をすり付け――どうやらその男は両手を縛られているようだった――その場所から逃れようとするのは、予想していないことだった。
 男が何事かを叫んでいる。チベット語ではなく中国語の方言のようだったが、因幡には分からない言葉だった。千年にも分からないと見え、因幡の方を窺ったが、因幡にも分からないので首を横に振るしかない。
 男の体には、いくつかの大きな切り傷がつけられていた。その意味がおおよそ理解でき、明和は息をのんだ。岩の上に影が落ちた。数秒後、上空からは無数の猛禽が岩の上へと飛来する。
 ぎゃあぎゃあというハゲワシの鳴き声には、人間の断末魔が混じっていた。メトゥはもとより鏡を見ておらず、千年も途中で目を背けていたため、明和は手鏡をそっと伏せた。
 人生の中で一度でも聞きたくはない類の声は、一〇数分ほどを掛けておさまっていった。それが、長いのか短いのかは分からなかったが、少なくとも、自分が体験するとすれば、十二分に長すぎる時間だろう。
「……もう出ても大丈夫。ありがとう、ドクトル」
 いつの間にか千年は、メトゥが耳をふさいでいることに気づき、片腕を少女の頭に回して両耳を覆ってやっていた。子供に優しい密偵というのが珍しいのかそれとも一般的であるのか、明和には判断が付かない。その部分の判断は付かないが、この千年という暗号名の弱小組織の密偵が、この上なく英雄的な性格の持ち主である、と言うことは、認めざるを得ないところだった。
「あれは、処刑か」
 自らの意志であんなところに飛び降りるはずもなく、手を縛られていたことや襲われやすいよう傷を付けられていたところから見ても、処刑のために突き落とされた、とみる方が自然だ。それに、男が話していた言葉が中国語だったところからして、現地民ではないことは明らかだった。
 メトゥは、暗い顔でうなずいた。
「おそらくは、ハオの機嫌を損ねたか、逃げようとしたか――」
 上空にはまだ猛禽が飛び交い、ぎゃあぎゃあと耳障りな声を上げている。ただし、鳥たちの興味は新鮮な血の臭いを発する死体に集中しているらしく、生きている三人には興味を示していない。
 メトゥの話によれば、ハオ氏は向こう岸に巨大な基地を作り上げており、多くの部下や召使いをその中に抱えているという。斜面の集落の住民も、多くはその中での仕事に従事するようになっており、元からある家で生活をするものはごく少数になっているのだそうだ。
「基地、と言っても、そんな巨大な建物を建てられる場所はなさそうだがな」
 因幡が抱いた疑問に対し、メトゥは向かい側の斜面を指さして見せた。
「向こう岸、すべてがハオの宮殿。――種子があちら側のどこかに埋められていることを種子の鎮守者の一人から聞き出し、その発掘もかねて、地中を掘り出したそうだ」
 二人の密偵は、ほぼ同時に向こう岸を見上げていた。この場所そのものが山全体からすれば中腹になるが、それでも頂上まではさらに数百メートルはあるだろうか。その地中すべてに、蟻の巣のような通路と部屋が張り巡らされている様子を因幡は想像した。――なんとも、息の詰まりそうな大建築ではないか。
 少女に先導され、巨大な蟻の巣に入ることのできる吊り橋の近くにまで来たところで、千年がふいに振り向いた。
「誰か、来てるな」
 因幡もその言葉を聞き、耳を澄ます。確かに、崖の道の砂利を踏む音が近づいてきていた。因幡はすでに袖の中に入れていた小石を手の中に落とし、千年は腰から下げていた軍刀の鯉口を切る。砂利を踏む音は着実に近づき、やがて、岩の影から姿が現れる――
「チャルパ!」
 老人の姿が見えたところで、少女がそう言って駆けだした。その、僧衣に似た服をまとった老人の姿には、密偵たちも見覚えがあり、二人は緊張を解いた。それはあの空港で別れた、ダライ・ラマと知り合いだか同窓生だかという話の、チャルパという老人だった。どうにかするはず、とは確かに言っていたが、今ここにいるということは、本当にどうにかしてしまったと見える。
 少女と老人は、チベット語で何かを話している。はっきりと、空港での命令のように話してくれれば因幡にも聞き取れるのだが、ごく普通の会話となると、単語を聞き取れるかどうか、という程度になってしまう。しばらく二人はそれを眺めていたが、ふと千年が因幡の脇を肘でつつき、吊り橋の向こうを指さした。因幡も言わんとするところを理解し、うなずく。そこで老人が二人の動きに気づきかけたが、こちらもジェスチャーだけで、そのままでいてくれるよう千年が伝えた。
 二人に背を向ける形となっていたメトゥに気づかれないよう、密偵たちは吊り橋を渡りだした。
 谷には、常に強い風が吹いている。一五メートル少々の長さの吊り橋は、風に吹かれてきしみをあげ続けていたが、意外にロープは丈夫で、大きく揺れるようなことはなかった。
「実際のところ、オカルトなタネについては適当なことを言っておけばいいとして――あんた、本当にハオをちゃんと騙しきるだろうな?」
 ぎしぎしときしむ吊り橋を渡りきる寸前に、ふいに因幡がそう問いかけた。前方で、吊り橋の板を踏み抜かないよう慎重な足取りで歩いている千年からは、振り返ることなく答えが返ってくる。
「そりゃ、もちろんそうするに決まっとるやろ。お仕事はお仕事やからねえ」
「……そうか、それなら安心だ」
 密偵たちの会話はそれで終わった。
 きしむ吊り橋を渡り終えると、そこには暗い洞窟が口を開けて待っていた。洞窟、とは言うが、入り口には木組みの枠がつけられており、内部にも足元が見える程度には照明がつけられていて、人の手が入っている痕跡は見て取れる。その痕跡は、洞窟の奥に進むにつれ、強まっていった。たとえば、はじめはただ土を掘り返しただけだった洞窟の壁が、途中からコンクリートで固められるようになり、やがては床にもタイルがしかれはじめ、照明も暗い裸電球から天井に据え付けられた蛍光灯に変化する、と言った具合だ。先進国の文化と遠い場所で生活をしている人々に対する演出効果をねらった内装だろう。奥に進むに連れ、何かのモーター音がしているのは、内部に空気を送り込むコンプレッサーか何かの音だろうか。あるいは、地下王国内部に電力を供給するための発電機か。
 大型商店の搬入口程度に辺りが文明化されたところで、前方に、自動ドアに隔てられた、受付のようなものが見えてきた。ガラス製の自動ドアに隔てられた向こうには、帝国ホテルだとかホテルリッツの受付カウンターのようなものが、やはりホテルのロビーのような内装の部屋の中に鎮座している。受付カウンターには、二人の女が立っている。密偵たちは立ち止まり、しばし二人はその場でそのシュールとしか言いようのない光景について思いを巡らせていた。
「おそらく、受付エントランスでしょう。行きましょう博士」
 やがて、“荷物持ちの李くん”として因幡が明るく言い、先に歩き出した。荷物持ち、と言っても、二人ともラサで襲撃を受けた際に大半を落としてきてしまい、もうほとんど荷物など持っていないのだが。
 自動ドアは間違いなく自動ドアで、人が前に立つとあの聞き慣れたモーター音を立ててガラス戸が左右に開いた。自動ドアの中からは、適度な湿度と快適な温度が保たれた室内の空気が流れ出てくる。
「いらっしゃいませ」
 ホテルのロビーのような部屋にはいると、受付カウンターの中の二人の女性が、完璧なドイツ語で密偵たちを出迎えた。なんとも、奇妙な夢のような光景だった。この部屋の中にいれば、洞窟を振り返りさえしなければ、東京の真ん中のホテルに来たと錯覚してしまいそうだ。
「やあ。俺はジークフリート・アンドレアスと言うんだが――少しばかり事故があって遅れてしまったが、ヘル・ハオに呼ばれてきた考古学者だ。聞いているだろうか」
 受付カウンターに向かい、千年が“アンドレアス博士”として名を名乗った。受付嬢は、おまちください、と言ってカウンターの下の内線をとり、どこかに連絡を取りはじめた。
 ほどなく受話器が置かれると、受付嬢はそれまでと同じく完璧な営業スマイルで、
「はい、ご確認がとれました。どうぞ奥のエレベーターで八階へおすすみください。こちら、お部屋の鍵となっております。お部屋には着替えをご用意してございますので、どうぞご自由にお使いください」
と告げ、一本の鍵を差し出した。四角いプラスチック製の棒がついた、どう見てもホテルの鍵そのもののあの鍵だった。酷い非現実感に包まれながら、千年と因幡がエレベーターホールに進もうとしたとき、
「おまちください、そちらの方のお名前をお聞かせください」
 と、もう片方の受付嬢が因幡を呼び止めた。
「李健一、アンドレアス博士に雇われた荷物持ちだ」
 偽りの身分が記された身分証とともに因幡は受付に向かったが、千年の時とは違い、やや手間取っているようだった。
「彼の言うことは本当だよ。俺が北京で雇って、そのままここまで着いてきてもらったんだ。ドイツとこちらでは何かと習慣が違うのでね、良い案内役がいるのといないのでは大違いだ」
 千年もカウンターにて助け船を出すべくそう申告したが、内線の向こうとの会話は芳しくないようだった。千年は手を変え品を変え説得を試みていたが、どうやらこれは時間を浪費するほか何の効果もないようだ、と気づいた因幡が千年に向き直り、言った。
「どうやら、一緒にはいけないようですね。ホスト役を待たせちゃいけません、博士お一人でどうぞ」
 しかし、と反論しようとした千年の前に、因幡が手のひらを突き出し、その言葉を遮った。そして、因幡はニヤリと笑って、
「そのくらい、一人で大丈夫でしょう。――信頼していますよ」
そう千年に向けてげた。千年は一瞬、呆けたような表情を浮かべたがすぐに口元を抑え、その下で起きた感情の動きを外に漏らさないようにしたようだった。ただし、その環状の動きもほんの一瞬のことで、すぐに千年は不敵な笑みを浮かべ、片手を上げてその信頼に応えることを示しつつ、エレベーターホールへと向かった。

◆ミスター・ハオ

 エントランス付近の内装について、大都市の真ん中にあるホテルと言っても通じるようなものだ、と千年は思った。しかしながら、上階に上がってみるにつけ、それはむしろベルリン、ナチの連中が使う美称でいえば帝都ゲルマニアの真ん中にある建物といったほうが実情に近く、さらに正確に言おうとすれば、“総統の建築家”アルベルト・シュペーアの設計した建築物の様式ある、と認識を改めていた。
 単独での行動は、何日ぶりになるであろうか。もともと〈千畝機関〉では一人での仕事しかしないため、これでいつもどおりの仕事環境となったわけである。が、シュペーア様式の建造物の廊下というものは、一人で歩くにはやや巨大過ぎる、と千年は思わざるをえない。これは、千年の心情描写のための誇張ではない。この廊下は一縷の疑問を挟む隙間もなく総統官邸のそれを模したものであるが、元来が多くの人の行き交うことを前提にした設計の建物であるため、そこに自分以外の人影がないというのは、まるで廃墟になったようにしか思えなかった。
 ――そういえば、などとわざわざ思い出すまでもなく、シュペーアの様式というのは将来的に文明が滅び去ったあとにでも、遺跡となった建築物を見ればその文明の主人たちが誇った栄華を偲べることを狙ったものである。それを思えば、千年が抱いた感想は設計者の思惑どおりだった、と言えるであろう。
「建築思想、なんて大層なことじゃあなく、ただの、古代遺跡好みの誇大妄想狂の頭のなかそのものだとしか思えないけれどなあ」
 千年はそう反駁する。反駁とは、誰に対する反駁か。言うまでもなく千年の周囲には誰も居ない。おそらく、廊下の随所に盗聴器は仕掛けられているだろうが、そのマイクロフォンが拾えるほどの声の大きさがでているわけでもない。誰を相手に話しているものかわからないままに、ただ、千年の右手が右耳の辺りをさまよっていた。長い間癖づけてきた行動であるので、そこにモックの小型無線電話がなくとも、無意識にそうしてしまうのであった。
 千年曰く古代遺跡好みの誇大妄想を具現化したような廊下の先に、手にした鍵に記されたものと同じ部屋番号88を見つけ、千年はそのドアノブに手をかけた。内部もやはり、廊下と同様総統官邸の内装を模してある。ただし、窓だけは存在しない。地中に作られているので当たり前のことではある。
 廊下の高さと、ここが八階であるという情報と、エレベーターを降りてから歩いた距離と方向を、こちらに渡る前に見た山の形状と合成してみるに、ここはおそらく山の峰の近くに違いない、と千年は考える。考えつつ、総統官邸のベッドルームに気味が悪いほど似せられたその部屋の中を眺め渡し、まずはクローゼットを開いた。受付嬢に、服を着替えるよう言われていたことを思い出したのである。本当は、開くことの出来る場所とそうでない場所をすべて改めて、盗聴器や監視カメラを洗いざらい探し出したかったが、“アンドレアス博士”がそんなことをすれば、怪しいことこの上ないので断念する。
 クローゼットの中に入っていたものを見て、千年は口角が引きつるのを抑えられなかった。何しろ、入っているのは様々なデザインのレーダーホーゼンにディアンドル、それから、一体どこから入手したものか黒い親衛隊の制服一式に、褐色のナチ党員の制服、という嫌がらせのようなラインナップだったのである。しばし千年は、クローゼットの前で頭を抱えていた。
 軽いショックから立ち直ると、千年は着るべきものを探し始める。女物の民族衣装であるディアンドルはまず論外として、男物の民族衣装のレーダーホーゼンも千年は真っ先に着替えの対象から除外する。レーダーホーゼンというのは、革製のズボンのことで、長ソックスにシャツと帽子を合わせることが多い。民族衣装であるので、何も変な衣装ではない――のだが、いかんせん、ズボンが膝丈の半ズボンであるので、日本育ちの千年からしてみると美意識と相容れず、着用しようとはしないのである。――案外開放感が気に入るかもしれないであろうに。
「似合わないんだよ、自分で写真見りゃわかるだろ」
 また、千年は一人そんなことを呟きつつ、残った二つの選択肢を吟味しはじめた。親衛隊の制服も党服も、一体どこから入手したのか、ばらばらの年式と妙に高い階級のもので、ただの〈ドイツ祖先遺産協会〉所属の“アンドレアス博士”が着るには適当ではない。千年が長髪であることもあって、どちらを着ても仮装じみた事になってしまうだろう。
「……せや、仮装や仮装、そない思とこ」
 千年はごく小さな声でそう呟く。迷った末に、千年は黒色の方を選んだ。褐色の方よりは、まだ自分が着ても妙なことにならない、という判断によるものであった。それでも、襟に付いている階級章が親衛隊少佐などという不相応に高いものであるのが、ひどく居心地が悪い。
 ――伍長ならばよかったか?
 千年は吐き捨てるように笑い、服の上にかかった不繊布とビニールのカバーを取り除こうとした。そこで千年は「シャワーは浴びましたか?」というメモが貼られていることに気がついた。よく見ると、他の服のカバーにも同じメモが貼られている。身だしなみを整えろ、ということらしい。が、ナチスドイツ的なるものとシャワーという文言の組み合わせにどうにも不吉なものを感じずには居られず、千年はそのまま黒服を着込んだ。その後どうすればいい、とは言われなかったが、部屋にとどまっていろとも言われなかったので、外出しても問題はないだろう。と、思ってドアノブに手をかけたが、ドアが開かない。意識しないうちに鍵を閉めてしまったか、と思ったものの、内側には鍵のツマミもついていないことにその時初めて気がついた。
 千年は、黒服のカバーに張り付いたままのメモを見た。おそらく、監視カメラは確実に室内に付いているとして、明確な指示がひとつ存在して、外側から鍵を閉めることが出来る作りの部屋から出られない、ということは、そういうことであろう。
 シャワールームは、どうやらここまでは総統官邸に備え付けているものの作りがわからなかったか、あるいは総統官邸のシャワールームが気に入らなかったかという理由で、豪華なホテルのそれのような内装だった。念のため、天井の換気口を外してそこに妙な装置や配管がついていないかを調べて、なおかつ戸は開いたままで、千年は手早くシャワーを浴びて再び制服を着込んだ。肩ほどまで伸ばした、脱色によって作られた金髪と黒い制服はやはり似合わなかったが、こればかりはどうしようもない。
 再び入り口のドアノブをひねると、今度は鍵が開いていて、難なく開くことができた。監視をしていることをいっさい隠そうともしない姿勢は、潔いとすら言える。
 ドアを開けた先には、案内役であろう、千年のものと同じ黒い制服を着込んだ男が立っていた。注文の多さから、そこに山猫でも待っているのではないか、と馬鹿げたことを千年は考えていたが、無論そんなことはなかったのである。その制服は言うまでもなく第三帝国親衛隊のそれであったが、やはり年式は古いもので、着ている者も、背は高いが間違いなく東洋人であった。
「……親衛隊曹長?」
 襟の階級章が親衛隊曹長のそれであるのを千年は見止め、その階級を口にした。
「はい《ヤー》」
 すると、発音は非常に中国語じみていたが、確かにドイツ語の返事がなされた。この“宮殿”の内装といい、目の前の男や千年が着せられたこの仮装といい、戯画的に描かれるナチス第三帝国のイメージをこれでもかと言うほど押し広げたかのようなめくるめく光景に、千年は目眩のしそうな気分になった。
指導者(フューラー)ハオのところに、ご案内します」
 やはり中国語訛りの強いドイツ語で、親衛隊曹長の仮装をした男は言った。訛りは強かったが、指導者ハオ――フューラーハオ、という言葉は、間違いなく聞き取れた。フューラー。英語でいうリーダーに相当する単語で、指導者、引率者だとかいう意味を表す。が、ナチ党政権下の第三帝国においては、普通名詞としてのそれよりも、冠詞をつけて表記されるそれがあらわす存在のほうが、遙かに印象強いはずだ。Der Fuhler。それは、アドルフ・ヒトラー総統をあらわす言葉である。
 この誇大妄想の悪夢のような地下王国の中に構築された秩序が一体どのようなものであるのか。あの人喰い鷲を使った処刑法といい、おおよその予想がついてきて、仮装男の後ろを歩きながら、千年は頭を抱えたい気分になってきた。
 男が案内する先は、千年の方向感覚が正しければ、山の頂上の方向であるようであった。件のオカルトなタネを長年かけて掘り起こしているという話からするに下の方に案内されるのかと思っていたため、やや意外であった。
「この先に、指導者はおられます。ここからは一人でどうぞ」
 行き着いた先はやはり、ほぼ山の頂上に位置していると思しき一つの部屋だった。部屋の前で親衛隊員の仮装をした男は、千年にそう告げると、音を立てて踵を合わせ、右手を掲げるあの敬礼を行った。もちろん、あの言葉も添えて。
「ハイルヒトラー」
 階級の上下がないもの同士がこれを挨拶として使う場合、どちらも同じように右手を掲げる。したがって、千年が演じている”アンドレアス博士“も、仮装男と同じように右手を掲げるのが順当なところであるのだが――
「Heil」
 千年は右手を軽く肩の辺りまであげるだけで、答礼とした。これは上位のものが行う答礼である。しかし、意外にも仮装男は、その答礼に異議を唱えることはなかった。やはり衣装を着せられているだけで、そのあたりの意味を言い含められてはいないのかもしれない。
 はじめに目に入ったのは、部屋の奥にはめ込まれた巨大な窓だった。窓といっても、その向こうに見えるのは通常の景色ではなく、水中の様子である。どうやら、山の頂上部に湖があり、その様子がこの窓から見えているらしい。部屋全体はやはり総統官邸の執務室に似せて作られているので、本来ならば絵画が飾られていた場所が湖に面した巨大な窓に置き換わっていることになる。総統官邸の執務室を模しているのに、執務机の上にアドルフ・ヒトラーの胸像と、それとどういうわけか随分昔に暗殺未遂[#「暗殺未遂」に傍点]事件により焼夷弾[#「焼夷弾」に傍点]で全身を焼かれ、以来植物状態となっていると聞くラインハルト・ハイドリヒの、在りし日の胸像が置かれているのは、ご愛敬といったところか。
 絵画のかわりの窓の前に、人影がある。湖から日が射し込んでいるらしく窓は明るく輝いているため、こちらを向いた顔には影が落ちている。
 人影は、総統執務室のそれを模した執務机を回り込んで、千年の方へと歩いてきた。室内灯の下に現れたのは、背の高い男だった。東洋人と西洋人の混血に多い、端整な顔立ちをしている。おそらくはこの人物が――
「やあ初めましてアンドレアス博士、私はユリウス・ハオです、ラサでなにやら事件があったというので心配していたのです、到着されたようで何よりです」
 ハオ氏は、東洋人的な笑みを浮かべつつ、手を差し出した。ハオ氏が身につけているのは、意外にもナチ党やその周辺組織の制服ではなく、豪華な漢服だった。
 握手をした瞬間、千年は手に帰ってきた感触に驚いて、目を見開いた。握った手が金属のように硬く、冷たかったのであった。ハオ氏の右手は、いや、左右の手は、金属製の精巧な義手だったのである。
「昔ちょっとした事故に遭いましてね、それ以来この通りです驚かせてしまってすみません」
 事故というのは、因幡から聞いた話からするに、かつて受けた尋問の――このぶんだと実際は、拷問のことであろう。しかし、ハオ氏はずいぶん早口のドイツ語を話すので、聴きとるのに少々骨が折れた。
「いえ、驚いた、というなら、むしろこの建物の方ですよ。まさかこんなところで……こんなところ、というのも失礼ですが、ドイツから遠く離れたところでベルリンの真ん中のような光景を見るとは思っていなかった。一体総工費はどのくらいになるのか、なんてことまで考えてしまいますね」
「はは、ありがとうございます、しかし本物にはほど遠い趣味の産物です、趣味ですので採算度外視で有り金をつぎ込んでいるというだけの話です」
 謙遜を口にしつつも、千年の言葉はハオ氏の望むものであったらしく、千年の着ている制服の元の持ち主である親衛隊少佐の経歴だとか、この建物の中にある制服類はすべて実際に使われていたものを様々な方法で入手したものである、とかいう話を延々と早口に話し出した。――想像していた種類の人間、小第三帝国の総統として君臨している誇大妄想狂ではないが、別の方向に振り切れた人間のようであった。
「わかりました、ええ、とてもよくわかりました、それで俺が呼ばれた理由って言うのを伺っても良いでしょうか」
 ハオ氏の話が、アドルフ・ヒトラーを写した写真の年代の特定の仕方から執務机の引き出しに入っている未使用の第三帝国公文書用紙の話にさしかかろうとしたところで、千年はようやく口を挟むことができた。ハオ氏はまだ話足りない様子だったが、机の上の時計を見て自分が話しすぎたことに気づいたようであった。
「失礼しました。どうも、趣味のことになると夢中になってしまいます。――先に話した事故のあと救ってくれたのが、我が父なる国ドイツでして、それ以来、私にとってドイツは、遙かなるあこがれの国、というわけです」
 鋼鉄の義手が、ハオ氏の顔の前で開閉された。あの種の技術は、日本には存在しない、ドイツ側の不可解な技術発展の恩恵によるものである。おそらくはあの義手をハオ氏に渡したのも、ドイツ側の勧誘員であろう。
 ハオ氏は漢服の裾を引きながら、「死の島」の代わりに存在する窓の前に歩いていった。窓の横には操作パネルが壁の中に隠されており、その中のいくつかのボタンを押すと、窓が一瞬で真っ暗になった。
「水族館用のガラスの間に透明のモニターを入れておりまして、まあ、これも趣味ですね」
 水族館用のガラスというが、そんな妙な機構をくっつけて、もし強度が下がっていたらどうする、と千年は心配せざるを得ない。この窓が割れたら、もれなくこの地下王国は湖から流れ込んだ水流に押し流されてしまうであろう。
 ハオ氏がさらにパネルを操作すると、モニターには明るい湖の光景から打って変わって、薄暗く、無数の人間がひしめく鉱山のような光景が映し出された。おそらくは、これが例の呪いのタネの発掘現場なのであろう。遠景なので分かりづらいが、働いている人々はずいぶんと粗末な服を着て、薄汚れている。
「ん、これじゃないなすみません見苦しいものをお見せしてしまって、あれ、どれだったかな、これですこれ」
 映像が次々に切り替わり、様々な角度から発掘現場の様々な箇所が映し出されたあと、最後に今まさに掘り進められているらしい穴が映し出された。作業員たちが立っている地面から穴の底までは、おおよそ三〇メートルほどだろうか。その穴の底に、古い木を組んだようなものが見えていた。長い間地中に埋まっていただろうに、立体的に、屋根のような形を保っている。日本で言うところの、合掌づくりのような形である。
「どう思われますあれについて」
 ハオ氏の質問を耳にした瞬間、千年は、自分が結局あの資料をほとんど覚えていないことを思い出した。背筋に今までにない戦慄が走る。中国の王朝すら、思いだそうとしても思い出せない。ラサに着いてからの騒ぎで、多少は覚えていたはずのものすら流れ出てしまったらしい。覚えていたところで、中国の歴代王朝など何の足しになるとも思えないが。
 背に多大な汗をかきながら、千年は必死で平静を装いつつ、言うべき言葉を探し求めた。
「……そうですね、映像では分からないことが多すぎる、というのをまずご理解いただいた上で、気づいたことでしたら――」
 焦っているとき特有の、やたらと空転する思考の中から、それでもどうにか有用そうな情報を拾い上げ、つなぎ合わせる。
「このチベットの奥地に木材があることが驚くべきことです。――ヘル・ハオ、チベットにこれだけの建造物を造られたのならばおわかりだと思いますが、この高地に生えることのできる木はごくわずかです。それなのに、どうやらあの屋根にはふんだんに木材が使われている。これは、あそこに埋まっているものが、何らかの重要な物体である可能性を示しています」
 自分でも、よくこれだけのことをひねり出した、と誉めたくなるような言葉が千年の口から紡ぎ出された。ハオ氏が感心した表情を浮かべてくれたので、内心、千年は胸をなで下ろした。
「もしよろしければ、あちらに直接向かわせてもらえませんか。木材が特定できれば、埋まっているものがどのようなものであるのか、推定できるかも知れない」
 ハオ氏の服装や、先ほどの地下の作業員たちに対する態度からするに、ハオ氏当人は絶対に地下へは行きたがらないはずだ。少しでもハオ氏と離れることで時間を稼ごうと、千年は地下へ向かうことを提案した。
 しかし、ホスト役は鷹揚な笑みを浮かべ、
「その必要はありません」
と言うと、執務机の下に隠されたボタンを押した。執務室の入り口の戸が開け放たれ、巨大な台車の上に、朽ちかけた木材の集合体が乗せられたものが運び込まれてきた。それは、今映像の中で掘り出されかけていた、あの木材と同じものに他ならなかった。
「騙すような形になり申し訳ありません、あれは録画です」
「ああ――そりゃあ、すごいや」
 万事休す、としか言いようのない状況に、一周回って冷静な声を千年は出していた。
 ともかく、実物が目の前にあるのに観察しないのでは学者らしくないであろう、と思い、千年は台車に近づいた。木材は、掘り起こされたときの形を保っている。合掌づくりのような部分を千年は屋根だと思ったが、実際はその下には建物本体は存在しておらず、それ自体が三角の小屋のような形を成していた。ただし、その小屋で構造物が完成しているわけではなく、小屋の下には小屋よりも長い木材が何本か並んでいる。木材の中には、まっすぐな形ではないものも見受けられるが、それらは組み上がった状態では発見されなかったと見え、平らに置かれている。
 チベットの気候が低温低湿であるおかげか、木材の状態はしろうとの千年がみてもわかるほどに良い。ばらばらになった長い木材についても、それらを組み上げるために使われていたと思しきほぞや継手の痕跡が見て取れるほどだ。――ほぞに継手?自分が見つけた痕跡に、千年は疑問を抱く。先ほど、千年がひねり出した言葉の中で、チベットには木材が少ないと言った。それ自体は本当のことで、木材の不足から鳥葬が伝統的な埋葬法になっていることだ――とは、列車の中で読んだ本の片隅に確か記されていたはずだ。つまりチベットでは、特にこの谷では、木材を使った加工技術は発達していない、のではないか。この木材の外観から推測されるほど古い時代、他国からの技術流入のない時代には。
 千年は深呼吸をした。どうせ、外から人を呼んでいるということは、ハオ氏にも考古学だか民俗学だかの知識はないのである。大法螺を吹いても、分かるはずがない。千年は大きく深呼吸をする。
「これは、チベットで作られたものではありませんね」
 もっともらしい口調で、千年は法螺を吹き始めた。ハオ氏の方を向かないのは、下手に反応を見てしまうとこちらが動揺するからである。
「一見する限りでも、チベットに存在する加工技術には見えません。おそらくは、外から持ち込まれたものでしょう」
 しゃべりながら、千年は台車の上に膝をつき、木材に開いた穴や突起を眺め、それらが組み合わさるように木材を動かしはじめた。素手で触って良いもののような気が全くしないが、そうでもしないと間が持たないのであった。
「時代や、材質を特定できればもっと詳しいことが分かるかも知れませんが……」
 古い時代のものなので水分が抜けているにしても、木材は結構な重さがあった。元は、かなり上質な木だろう、と、千年がもはや自分でも法螺なのか何なのか分からないことを考えていると、次に持ち上げようとしていた木材が勝手に持ち上がった。いつの間にかハオ氏が人を呼んでいたらしく、やはり親衛隊員の仮装をした男たちや、あるいは突撃隊の衣装を着せられた男たちが台車の周りに集まってきていたのである。
「……嘘だろ、これ、本当に組み上げられるぞ」
 合掌づくりの部分をいったん脇に避け、数人がかりで長い木材をパズルのように組み合わせていくうちに、驚いたことに、台車の上でそれらは一つの形を作り始めていた。長い時間の中で、欠損がほとんどないのである。組み上げたものがばらけないように針金を使って固定すると、千年はそれを見て、呆然と呟いた。
「……船、ですかね」
 それは、疑問の予知を挟むまでもなく、船であった。船と言っても、ちいさなボート程度のものだが、間違いなく船であった。チベットに海はないが、この山には湖があるようなので、もしかすればそこで使われていたものであろうか。いや、しかし、湖で使うボートを何らかの理由で作らねばならなかったにしても、その上に小屋を作る必要とはなにか。屋根が必要となるからにはある程度長期間、その上で活動をする必要があるような種類の船に違いないが、山の上の湖程度でそれが必要となるとも思いがたい。法螺から始まって、いまや真剣にその正体を考えているのが可笑しいが、法螺だからこそ真剣に考えている、とも言える。一箇所が破綻すれば法螺などというものは、簡単に瓦解するものである。
 おおよそ組み上がったボートの上に合掌づくりの小屋の部分を乗せるため、千年は仮装をした男たちとともに小屋の木材を持った。その木材に、なにか細かな傷がついていることに気づいたのは、そのときだった。はじめはただの傷かと思ったが、妙に深く、一カ所に集まっているようだ。何かで意図的に掘り刻んだもの、であるらしい。
「この傷は、最初からついていたものですか」
「発掘現場は常にカメラで中継しております、誰かが妙な真似をすればわかるはずです」
 掘り起こされてからついたものではない、ということだ。傷が付いているのは、小屋の内側に当たる部分だった。小屋をボートの上に設置したあと、その傷の様子を見るために千年は合掌づくりの内側へと入った。――外から見てもそう大きくないことは分かっていたが、ボートの形に合わせて設置すると、内部はずいぶん狭い。千年はコーカソイド人種にしてもそう体格の大きい方ではないが、あぐらをかいた状態でも頭や膝が木材についてしまうほどだ。これを使用していた何者かの体格は千年よりは小さいとして、それでも、同じようにあぐらをかいた状態でどうにか小屋に入れるかどうか、と言ったところだろう。身動きはとれる筈がない。
 仕方ないので、ボートの上に寝そべるような形になって、どうにか傷が刻まれた部位を調べることができた。木材は、発掘したものをほとんどそのまま触ることなく運んできたものであるらしく土が付いている。土の下にも傷は及んでいるらしいので、千年はポケットに入っていたハンカチを使い、慎重に土を落としはじめた。偽学者の割に、なかなか様になった様子である。
「文字かな。……文字だろうな」
 まっすぐ横に並ぶ形で規則正しく掘られているところからするに、それは文字であると思われた。が、無論千年がチベット文字など読めるはずもない。メトゥに嘘を教えるよう頼まれてもいることであるし、ここもハッタリで乗り切るか、と思い、起きあがろうと片方の肘に体重を掛けたとき、唐突に、その文字が読めた。いや、読めることに気づいた。
「ふだらくいずこなりや」
 声がかすれ、震えるのを、千年は抑えられなかった。千年が口にしたのは、そこに書かれた文字を、そのまま読み上げたものであった。その文字を、千年は横向きに読むものと思っていたが、実際には縦書きの――ひらがなに他ならなかった。そこにはひらがなで、短い二つの文が彫られていたのである。
「これいかなるみほとけのみわざなりしか」
 続き、二つめの文を千年は読み上げる。読み上げながら、自分が口にした法螺が、はからずも真実と合致してしまっていたことに、さらにはその真実が、どうやらメトゥの話とも合致してしまっていることに、千年は肌が泡立つのを押さえられなかった。それとともに、自分があの夜メトゥから聞いた話の中で一つ、思い違いをしていたことにも気づく。メトゥは“種子”の形をかたどる為に両手を合わせた。千年はその手の形が種子を表していると思ったのだが、おそらくは、あれは、あのときメトゥが取っていたポーズそのものが、種子をあらわしていたのであった。
 千年は、ラサのタクシー運転手の話を思い出していた。ポタラ山というのは仏教の神聖な山で、日本からもこの山を目指して海を渡るものがいた、とかいう話である。あれは実のところ、ダライ・ラマが観音菩薩の化身である、ということからポタラ山が仏教の教えでいうところの普陀落山、観音菩薩のおわす山に擬せられている、という話と、日本の中世において、南海上に存在するという普陀落をめざして海を渡る一種の苦行が存在したこと、それにもしかすると、明治期、日本の僧らがチベット仏教に古代仏教の教えの残り香をもとめ、大陸に渡った歴史も混同された結果生まれた与太話であった。
 が。目の前のこれは、どういうわけか、その与太話に真実が少しばかり歩み寄ってしまったような物体に他ならなかった。
「なにを言ってるんです?そこに、文章が書かれているのですか」
 ハオ氏が、千年のつぶやく言葉の意味を問いかけた。千年は現実に呼び戻され、三角の小屋の中から這い出る。
「……普陀落渡海(ふだらくとかい)です」
 千年は端的に頭の中でつなぎ合わせられたことを説明したが、ダス・イスト・フダラクトカイ、などと言っても無論、ハオ氏に分かるわけがない。
「ああ、つまり、中世に行われた苦行の一種です。この船は日本から、仏教の聖地――これは実在の場所ではなく伝説上のものですが、そこに向かうという名目で中に僧侶を乗せて出発したものなんです。実在しない場所に向かうのですから、船はどこにもたどり着きません。どこにたどり着くこともはじめから想定していないのです」
 普陀落渡海は、簡単に言えば、即身仏の海に流すバージョンである。即身仏は生きたまま小さな箱に入って地中に埋められ、読経をしながら入滅することでそのまま仏になれる、というものである。普陀落渡海も、地中ではなく海に流すという一点が違うだけで、ほぼやることは同じである。小さな小舟の上に大体は三角形の小さな箱を作り、中に僧侶が入って座禅をしたあと外から箱を閉じる。中からはもう、箱を開けることはできない。僧侶が中に入った箱船は見送るものたちによって海に流され、僧侶は声の続く限り念仏を唱え続ける――
「それが仏教の修行なのですか、まるで拷問や罰のように思われますが」
「まあ、そのような側面が無いわけではありません。というのも、この修行を行う類の僧侶は、元は俗世において罪を犯したものである場合が多かったんです。他にも、山伏なんかもやっていたそうですがね。西洋でもそうですが、日本中世においても寺院はサンクチュアリ、俗世の権力の届かない場所でした。そういった場所に、たとえば殺人などの重い罪を犯したものが逃げ込むこともありますが、俗世の裁きが届かないとは言え、仏教の上でも罪は罪です。なので、おまえの罪は通常の死を迎えたならば幾度生まれ変わろうとも消えることはない、しかしこの方法であれば仏となることができるのだ――とやるわけです。まあ、その教えを信じることができるような類の人間でなければ、それこそ馬の耳に念仏でしょうが」
 先ほどまで、思いだそうとしても中国の歴代王朝すら思い出せなかったのに、今や驚くほど千年の脳は冴え渡っている。何かに憑かれているのではないか、と自分でも思うほどであった。
「とはいえ、この船に乗せられた僧侶は、途中でみ仏の教えに疑問を抱いてしまったようですね。ここに彫られた二つの文章がそれを表しています」
「二つの文章、それはなんと書いているのですか!」
 ふだらくいずこなりや、これいかなるみほとけのみわざなりや。自分の身のほかになにもない箱の中で、木にその文章を彫り込む材料といえば、爪か歯しかあるまい。木材はずいぶんと頑丈なものであるようなので、爪ではやや堅さに欠ける。歯を使ったのが妥当なところか。叫んだところで誰にも届かない大海のなか、真っ暗な箱に閉じこめられて死を迎えるまでの絶望がいかなるものであったか――自らの手で歯を引き抜くと言うだけでもその深さが伺い知れるというものであろう。
 ハオ氏は、そこに書かれた二つの文章というものに多大な関心を抱いている模様であった。しかし、普陀落がどこにあるのか、この仕打はどういった仏の御業であるのか、と概ねの意味を伝えてやると、何故か少しばかり落胆した様子を見せた。
「……ですが、その僧侶はきっと、自分を流したものたちを深く恨んだことでしょうね、もしかすればその祖国まで含めて、呪いそのものの渇望を抱いたことでしょう」
 眼下でハオ氏がそう問いかけた。いつの間にか千年は台車に乗った船の上に立ち、その場にいる人々に弁舌を振るっていたのであった。急に恥ずかしくなってきて、千年は船の上から降りた。それとともに、この真実はもしかすると教えない方がよかったのではないか――という後悔が頭をもたげてくる。呪いだとかいう話や、メトゥとの約束だとかを抜きに、単純に、この仕事の成功条件から考えてのことである。この仕事の目的は、ハオ氏に怪しまれないまま無事やり過ごすことである。こんな講釈を垂れずに、考古学者として怪しまれない範囲で無能であると思わせればよかったのではないか。今更肝心なことに気づくが、すでに後の祭りである。――いや、しかし、だとしても、今からでも挽回は可能なはずであろう。
「かも知れない。しかしこれは、大変な発見ですよ。チベットの奥地に、日本から流れ着いた船がどう言うわけか埋まっている、これだけで一体論文が何本書けることか。年代の測定や木材の種類の同定も必要ですし、ただちにドイツ本国に送る手配をしなければいけません。あなたの名は、東洋考古学、民俗学の歴史に名を刻むでしょう」
 やや、大仰すぎるせりふであるが、髪を掻きあげ、さも興奮しきっている様子を演じることで違和感を消すことをねらう。
 ――死の瞬間に呪いそのものの渇望を抱いた遺体……それの詰まった箱[#「箱」に傍点]船。
 千年は右耳を抑えかけ、髪を掻き上げる動作でそれを隠した。なんとも、気味の悪い話である。そう思いながら気味の悪いオカルトじみた話に興味を持ったふりをするのは、なかなか骨が折れる。これで乗ってくれればさっさとこんなものから離れられるのであるが、残念ながらそううまくは行かないようであった。
「焦られるのは分かります、ただ、ここはチベットの奥地なのです、特に今はラサへの空の便が使えない、この船をこのまま輸送するのは不可能です、それにまだ新たな発見があるかも知れない、どうかしばらくこちらにご滞在ください」
 その言い分は、確かにもっともなことだった。ここでこちらの言い分を強弁しても、“アンドレアス博士”としてはおかしいことになってしまう。
「仰るとおりです。では、お言葉に甘えましょう」
 ハオ氏は新たな発見があるかも知れない、と言った。ここに持ってこられた箱船がそうであったように、おそらくは、すでにその「新たな発見」はされているはずである。情報を小出しにする理由については、“アンドレアス博士”の実力を伺っているのか、あるいはまだ信用しきっていないのか、そのあたりであろう。
 ハオ氏が指示を出し、箱船の台車が、広い執務室の脇へと親衛隊員の仮装の男たちによって運ばれていった。
「本日は博士を歓待するために晩餐をご用意しました、六時にこちらの部屋にお越しください、それまでの間は、内部の見取り図が内線の脇にございますので、ご自由に建物内をご観覧ください、部屋はオートロックの閉まる午前〇時まででしたら自由に出入りしていただいて結構です」
 最後にそう告げると、ハオ氏は執務机の横にある小さなドアから出て行った。本物の執務室なら、秘書の控え室に続くドアだが、この建物では別の場所に続いているらしい。
 部屋に軟禁されるかと思っていただけに、自由に出歩いて良い、というのは千年には朗報であった。密偵たるもの、軟禁されたとしても人目に付かぬように出歩く何らかの方策は講じるが、大手を振って建物内を歩けるならそれに越したことはない。
 先ほどはこの階までエレベーターで直接向かったため気づかなかったが、見取り図に記載された説明によるとこの地下王国、正式名称「千年王国」は場所によってモチーフとしている内装が違うようだった。八階が最上階でここはすべて総統官邸風だが、その下の階層ではブロックや施設ごとに帝都ゲルマニアの国会議事堂風であったり、はたまたオリンピアシュタディオン風であったりした。モチーフとなっている建物がすべて第三帝国の著名な建物であるのは言うまでもない。
 見取り図を片手に建物の中をうろつくうちに、見取り図には説明が記載されていない部分にも細かくモチーフが割り振られていることに千年は気づいた。エステがカリンハル風であったり、はたまた売店が「褐色の家」風であったり、と言った具合である。しかし、執務机にたどり着くまでがやたらと長く遠いことで有名なドイツ外務省の執務室風のトイレは、実用性の面では少しばかり疑問が残るところであった。
 それらの施設では、あの親衛隊曹長やほかの親衛隊員の仮装をした男と同様、様々な衣装を着たハオ氏の部下がスタッフをつとめていた。彼らとすれ違ったりするうちに気がついたのだが、どうやら、この「千年王国」のなかでは、それぞれの着ている衣装によって、階級の上下が決まっているようだった。多くが親衛隊員のそれであるので、ほとんどそのまま親衛隊の位階を写し取っているだけであるが、千年の着ている親衛隊少佐の制服が漏れなくどの服からも上位と見なされていたり、同じ階級章でも陸軍型より開襟型のほうが上位になっていたり、古参党員の褐色シャツはあまり上位ではなさそうだったり、何か独自の基準があるらしい。もしかすると、単なるハオ氏の好みの順位であるかもしれない。
 親衛隊全国指導者ヒムラー肝いりの「親衛隊の聖地」ヴェーヴェルスブルク城を模したトレーニングジムの入り口に記された「シャワー室完備」を見て変な笑い声を立て、受付に立つ親衛隊員の仮装をした男に怪訝な顔をされたりしつつ、千年が「千年王国」の公開されている部分をすべて回りきってもまだ夕飯までには時間があった。きちんと仕事をするよう因幡には言われていたのだが――
「まあ、多少はええやろ」
 公開されている部分と地形を照らし合わせると、公開されていない部分の構造もおおよそ予想はつく。主だった監視カメラの位置は内装を眺める振りをしてチェックしてあるので、あとは、その死角と、公開されていない部分に入れそうな場所の重なり合うところに行くだけである。その場所とは、基本的な場所ではあるが、トイレであった。
 だだっ広い外務省執務室風のトイレの真上は、総統執務室風のあの部屋である。面積は、双方ほぼ同じだ。
 千年はまず、換気口に面した個室に入り、便座の上に立った。そして、換気口のカバーに手をかけ、体重をかける。さほど大きな音も出さずにカバーは外れた。あとは、懸垂の要領で体を持ち上げるだけである。
 地下に作られた建物に酸素を供給するために張り巡らされた換気ダクトが、想定していたのと同じ方向に進んでいるのを確認し、千年はほくそ笑んだ。その方向とは、上階で言えばあの、ハオ氏が姿を消したドアの方向である。トイレの個室から奥の壁までと同じぐらい離れたところには、入ったところと同じようなカバーが見える。
 カバーを落とさないよう、慎重に体重をかけてはずした後、斜めにして換気口の中に引き入れる。そうして開いた出口から顔を出すと、そこは簡素な倉庫のようになっていた。SAの褐色服を着崩した男が端のほうで荷物に突っ伏して寝ているほかには、人影はない。千年は音を立てないように慎重を期しながらコンクリートの床へと飛び降り、さらに周囲を見回した。そして、そこに目的のものを確認し、小さく拳を突き上げた。
 目的のものとは、業務用のエレベーターであった。

◇谷の散策

 結局「千年王国」には入場を許されなかった“荷物持ちの李くん”こと因幡明和は、少しばかり肩を落としつつ洞窟からでたところで、向こう岸から走ってきたらしいメトゥとぶつかった。
「あっ、荷物持ちの人。ドクトルは――」
「博士は、もう中に入ったよ。僕はドレスコードに引っかかったらしくてね、門前払いさ」
「そうか。挨拶ぐらいさせてくれてもよかったのに」
 メトゥは、目に見えて落胆した様子を見せる。
「ま、心配しなくても、あの人はうまくやるよ。それよりキミ、ここにいて、見つかるとまずいんじゃあないのかい」
 千年のことだから、メトゥがギリギリまでついてきて「千年王国」の連中に見つかるのを避けるべく、あのタイミングで橋を渡ったのに違いない。全く、どこまでもヒーロー然とした行動様式の持ち主だ。因幡は嘆息する。
 密偵に英雄(ヒーロー)はいない、なろうとしてもいけない、それが、〈昭和通商〉の訓練機関中野学校にてはじめに教えられることの一つだった。密偵とは、ただ目的のためにすべてを築き上げ、ただ目的のためにすべてを捨てられるものでなければならない。目的の途中に目に入った全ては、投げて捨てるべき路傍の石であり、なんとなれば敵を倒すための武器にするかしないかの取捨選択の対象でしかない。そして、最も重要なこととして、もし君たちが何らかの理由で窮地に陥ったとしても、素晴らしいタイミングで助けに来てくれる主人公(ヒーロー)もまた、存在しない。そう教えられてきた。因幡は元は軍人だったくちの密偵であり、その点についてはよくよく熟知していたはずだった。――英雄と呼ばれるものがいるとすれば、それは、その足元にあるものを見ずに作り上げられた虚像だ。
 しかし、あの青い瞳の密偵は、いや、金髪は染髪によるもののようだが、ともかく彼は、まるでパルプフィクションのヒーローのような行動をとった。ただの一度だが、因幡の危機を救った。そして、関わるべきではないはずの少女と関わって、なおかつその身を案じた。――考えてみれば、それだけだ。だが、わずかな行動の片鱗がそうであるのならば、今までも彼はそうしてきたのだろう。そして、きっとこれからも彼はそうする。そんな期待にも似た確信が、因幡の心中には渦巻いていた。考えれば、それは因幡のすべき、つまりは青い瞳の密偵がハオ氏を相手にすべき仕事からすれば全く相反する期待にほかならない。千年本人も、きちんと仕事をする、と宣言していた。それなのに、因幡は、どうしてもそれを期待せずにいられなくなっていた。
「どうかしたのか、荷物持ちの人」
 見つかるとまずいのではないか、と自分が言ったくせに、因幡はその場で立ち止まり、思索にふけってしまっていた。メトゥに声をかけられ、慌てて因幡は橋を渡り始めた。
「見つかるとまずいかどうか、という話だが、奴は自分のところで働いているものか、勝手に中に侵入したのでなければ、ああいった真似はしない。ここであんな真似をされるだけで大迷惑ではあるけれど」
 ああいった真似、と言うところでメトゥは崖の中腹の岩を指さした。たしかに、近づいたものをすべてさらっていく、という方針だったならば、因幡もこうして表に出てくることはできていないに違いない。
「あの地下王宮の入り口も迷惑といえば迷惑だ、元からあった吊橋を渡った先に穴を開けられたせいで、谷底に降りなければ行き来ができなくなってしまった」
 なかなか、日常的な迷惑を被ってもいるようだ。あのくらいの穴の高さならば、因幡ならば跳躍して、あるいは橋から斜面に飛び降りることでそのまま斜面に降りられる。緊急時ならば普通の人々でもそうするだろう。しかし、日常的にそれを行えるとは思い難い。
「……勝手に侵入、と言ったけど。進入する道があるということ?」
 因幡の質問に、メトゥは斜面の家々の方へと一度目をやり、しばし考えていた。しかし、すぐに因幡へと向き直った。
「勿論。ついてくると良い、案内する」
 そして、少女は再び今渡ってきたばかりの吊り橋を戻っていった。因幡でも、この古びた吊り橋を渡るには注意を払うというのに、少女は平地を走るのと同じようにかけていくのだから、驚きだ。慣れによるものなのか、それとも、種子を鎮めるものとして訓練をしていると言っていた、その訓練に由来するものなのか。おそらくは両方だろう、等々と考えながら因幡はその後を追った。
 メトゥが向かっているのは、谷底のようだった。谷底に降りるまでは、あの人喰いの猛禽を避けるために降りた階段を降りていく必要があった。階段は、一〇段ごとに設置された踊り場ごとに左右へと進む向きを変える。あのくぼみはどうやら休憩のために作られたらしく、踊り場二つ、階段二〇段ごとに設置されている。底につくまでには、くぼみを四八個、つまり踊り場なら九六個、階段九六〇段を降りる必要があった。これは、途中で休憩所が作られるのもわかるというものだ。
 その場所は、深い渓谷の底にあった。渓谷は水が枯れて久しいと見え、どこにも水に濡れたあとが見られない。
「古い時代に、頂上の湖近くで落石があって、それからずっとこの有様だという」
 それなら生活用水はどうしているのかと思ったところ、いちいち湖まで汲みに行っているらしい。
「昔は、地下水が豊富だったから各家ごとに井戸を作ってそこから組み上げていたんだが、この地下の馬鹿な建物が地下水を水源から汲み上げるものでこちらが枯れてしまった。奴のやったことで、一番の超大迷惑だ」
 冗談ではなく、本気で言っているようだった。たしかに、家の作られている斜面から山頂湖まで何度も生活用水を運んでくるのは、重労働に違いない。
「ここだ。ここが、地下王国の下層部、発掘現場につながる抜け穴になる」
 枯れた渓谷のなかの、人の腰ぐらいまでの大きさがある少し白っぽい石を少女が押すと、その石は簡単に転がった。触ってみると、軽石の表面に泥を付けてふつうの石のように偽装しているもののようだった。投げても威力はなさそうだ。
 石の下からは、大人の男がギリギリどうにか通れるほどの大きさの穴が現れた。土の穴そのままではなく、四方にベニヤ板で壁が作られている。そう行き来することはないのか、ベニヤ板にはささくれが残ったままだった。
「昔はただの穴だったのだけれど、二年ほど前に発掘がこの近くまで進んだおかげで、中と連絡が取れるようになった。ただ、中には監視カメラがついているから、決まった場所にしか行くことはできない」
 つまり、宮殿の中は厳格な監視体制が敷かれているらしい。
「中には、ハオに雇われた谷のみんながいる。中に入ってすぐ右にあるエレベーターホールの隙間から声をかければ、誰かが案内してくれる。外のことを、伝えてやって欲しい」
 そう言ってメトゥは穴を示す。少女は、中には入らないようだ。やはりハオ氏は怖いのだろう。
「……いや、せっかく案内してもらって悪いのだけれど、今はやめておこう」
 しばし考えた末、因幡はそう結論づけた。
「えっ、どうして」
 少女の顔がたちまち曇る。なかなか、感情が顔に出やすいタイプのようだ。いや、このくらいの年齢であれば誰でもこんなものか。
「侵入したものが処刑されることがある、と言うことは、今までに見つかったものもいるんだろ。今侵入して見つかると、博士が疑われるかもしれない。そうなれば、博士がやってくれた仕事も水の泡だ」
 その説明で、少女は納得したようだった。軽石を元に戻し、穴を隠す。
「それで、あなたはどうするんだ。仕事が終わったから帰る、という気はなさそうだな」
 実は、まだ仕事の途中なんだよ。――とは口が裂けても言えない。
「そうだな、博士を待つとするよ」
 すると、メトゥは渓谷の斜面に立つ家のうち、空いている家を使えばいい、と言ってくれた。
「住んでいた人がほとんど、中で働くようになってしまったからな、空き家だらけなんだ」
 斜面に作られた階段を上っていくと、確かに、そこに造られた家の大半は長い間使われていないらしく、中の調度品には土埃が積もっていた。少女の話の通り、家の中には井戸が作られていて、そこから水を直接汲むことのできる構造となっている。
「食べ物は、頂上の湖で魚を釣るか、二日に一度来る行商人とその魚を物々交換するかだな。現金を持っているなら、月に一度地下王国に物資を搬入しに来る業者がいるから、そこからものを買っても良いけれど、たぶんそのときまでは居ないだろう」
「物資を搬入……それは、飛行機で?どこに降りるんだろう」
 考えてみれば、本来は密偵たちも飛行機でここに来るはずだったのだ。飛行機の着陸できる場所があるということになる。が、見てわかるとおりにこの谷には、平地が存在していない。どこに着陸しているのか、純粋に疑問に思って因幡は訊ねた。
「山頂湖だ。どう言うのかな、飛行機の脚に浮き袋をつけたものを使って降りてくるんだ。冬の、雪が降らないうちであれば、凍った湖にそのまま降りてくることもある」
 飛行艇のことだ。だからあのJu52には無理やりフロートをつけていたのだ、と今更ながら腑に落ちる。それとともに、一人で先走って大事になってしまった記憶がよみがえり枕に顔を埋めたい気分になるが、頭から追い出すようつとめた。
 メトゥは、山の上の方にある祈祷所に行くと言って出て行った。さて、こうなればあとは〈千畝機関〉密偵の仕事の成果を待つだけ――と言っても、ただ待つことのできるような人種は、密偵などという仕事に就きはしない。因幡はごく僅かな荷物を空き家に置いて、人に見られてはいけない種類のものだけを身につけ、外に出た。行き先は、飛行艇の発着場にもなっているらしい山頂湖だ。発掘現場と直通しているあの抜け道を利用してみることも考えたが、今の時間からそこを使うと、メトゥに気づかれる可能性がある。あの同業他社の密偵が危険から遠ざけようとしたのならば、その意志を尊重しておこう、と因幡は考えていたのだった。
 偽装のために釣り竿を担いで山頂湖に向かう途中、因幡は山頂近くから歌声が響いていることに気づいた。そちらを見ると、何かを焚き上げているらしい煙もかすかに見て取れる。メトゥが行っている祈祷だろう。種子を鎮めるもの、と名乗っているだけに、神職らしいことも行うようだ。第一印象があの小型のクロスボウを使った襲撃だったので、因幡はその印象がなかなか拭えずにいる。
 山の斜面を登って行くと、因幡は、その斜面の向こうがこちらも急な崖になっている事に気がついた。こちらは向こう岸はない。この斜面で、この山は終わりであったのだ。よく、こんなところに住むものだと思わざるをえない土地だった。
 滑走路代わりにできるだけあって、湖はなかなか広いものだった。ほぼ正円の形をしていて、その直径は目測でニキロほどになるだろうか。その形状が特異なのは、すり鉢状の湖畔の縁が一度、二メートルほど盛り上がってほど盛り上がって土手になっている点だ。隕石が落ちたあとに出来たクレーター、を因幡は想起した。案外、本当にそうかも知れない。
 そうやって盛り上がった湖畔の一部が低くなった場所が、本来河口であるはずの場所のようだった。、確かに渓谷へと続いている。が、メトゥの話通り、渓谷へと続く箇所は巨大な岩によって遮られ、止まってしまっていた。一度因幡は、土手になった湖畔の外、場所によって幅一メートルから五メートルほど存在する平らな土地をぐるりと回ってみたが、谷の人々が住んでいるあの斜面の部分以外には、到底人が住むどころか、足を踏み入れられそうな場所も存在しなかった。中腹を繰り抜いて山頂へ至る道を作っている崖の側も、崖の上には平らな土地はなく急峻な坂になっているので、そこを使って移動することは普通の人間には不可能だろう。三角錐を横に倒し、その頂点を丸く繰り抜いてそこから真ん中に亀裂を入れ、片側を多少なだらかに削った形、というのが、おおよその地形の全体のようだった。
 崖側から谷の外側を見下ろすと、この谷に入るために通った洞窟の入口がかすかに見えた。ここを通れば、谷の外とあの洞窟を使わずに行き来できるようだ。おそらく自分ならば行き来できるだろう、と因幡は判断を下す。あるいは、営業部の精鋭でも。因幡は垂直な崖であっても、五センチほどの足場があれば登坂可能な身体能力の持ち主である。だが、好んでそこを使いたい、とは到底思えなかった。
 ぐるりと湖を一周して戻ってきた巨大な岩の近くには、桟橋と搬入口らしきものも見えた。緊急の場合、あそこからも内部に入ろうと思えば入れる、と頭の中にしっかりと刻み込む。と、共に、もしこの湖の底が破れたら、という想像を、どうしても因幡はせずにはいられなかった。地下王国は、あの湖の近くまで蟻の巣のように延びている。きちんと計算をして設計はしているだろうが、もしその計算が少しだけ狂っていたら。あるいは、誰かが故意に湖の底と面した部分を爆破したら。偏執的な密偵が作り上げた地下王国は、戯れに子供が水を注いだ蟻の巣と同じ運命をたどるだろう。
 しばし、因幡は湖岸に座り釣り糸を垂らしながら湖岸を観察していたが、三〇分ほどで切り上げて立ち上がった。釣れなかったのではない。釣り糸を垂らした瞬間に魚が食いついてしまうので湖岸を観察するどころではないし、これ以上捕るとどう考えても生態系を壊すと判断したのだった。
 途中からはとれた端からリリースしていたが、はじめに捕ってしまったものは仕方ないので、魚籠に五匹ほどの魚を入れて山を下りる途中、因幡はメトゥが先に山を下りていくのをみた。メトゥはあの黒い僧服ではなく、ひらひらとした巫女のような装束を着ている。
 ふと思い立ち、因幡は足を向ける先を変えた。祈祷所を見てみる気になったのだ。
 祈祷所は、石を組んで作った小さな社だった。いましがた焚き上げていたのは枯れ草であったらしく、その燃えかすが社の前でまだくすぶっている。
 枯れ草の燃えかすの向こう、社の中にはやはり石を削って作られた箱のようなものがある。その箱を取り出し、ふたを開けると、そこには古い紙があった。紙は大部分が劣化していて、新しい紙に貼り付けて補修をした結果糊によって墨がにじんでさらに可読性がうしなわれているという惨状を見せている。書かれているのは漢文のようだったが、両手の指にも満たない文字しか判別できないため、文章であるのかどうかも判断しがたい。
「普、落……我……成種子……倭、呪……こりゃ無理だな、読めない」
 文字の大きさからすると、全部で行数は四行ほどか。紙の冒頭に、やや間をあけて普と落と言う字があり、次の行に我と成種子、その次の行に倭と呪が書かれていて、後はいっさい読めない。
 最初に判別できる二文字は、おそらくこの土地の地名の由来だろう。文字は違うが、悪い意味の字を同じ読みの別の文字に変える、というのは漢字を使う文化圏ではまま起きることだ。この土地の名は中国人の探検家が地図の作成のためつけたものであるため、落を楽に変えたのだろう。……しかし、チベットには固有の文字があるのになぜ漢文で書いているのか、と言う疑問が浮かぶも、解決するあてもないのでそのまま思考の隅に追いやる。
 確かに、読める文字をそのまま拾えば、この文章の書き手が倭、日本を呪っているようにも思える文章だった。物証としては、他にも口伝のたぐいも存在するのだろうが――やはり、数年をまたいで、本業の工作員と二股をかけて大がかりな発掘をするだけの理由になりそうにもない。いや、ハオ氏の場合表向きの商売もあるので、三股になるのか。よくそれだけのバイタリティがあるものだ、と敵ながら、同業の後輩としては感心すらしたくなる。
 石の箱を元に戻し、因幡は再度山を下りはじめた。その途中、ポケットがふるえだした。そのポケットには〈昭和通商〉営業部員に支給される専用回線の小型無電が入っていることを思い出し、あわてて引っ張り出した。小型無電と言っても一般に使われるものではなく、通信衛星を経由して電波を飛ばす仕組みのものだ。技術的にはずっとドイツ生存圏(にしがわ)の後追いではあるが、あちらに引っ張りあげられる形で、大東亜共栄圏の技術も先の戦争からこちら、とてつもない大躍進を遂げている。
 小型無電から吐き出される暗号コードを因幡は見る。この暗号無電は、音声通話はできず、内部のインクリボンでロール紙に暗号コードが印刷される点からすれば、小型の衛星式ファックス、と言った方が実状に近いかもしれない。コード表は暗記しているので、母国語ではない言語を読む程度の速度で読み解くことができる。文頭は、こうだった。『センポ ニ カワリ レンラクス』。センポとは、千畝の別の読み方だ。つまり、どういう次第でそうなったのかは知らないが〈千畝機関〉が千年に連絡を取るために〈昭和通商〉の通信網を使っているらしい。『ホンゴウシ ヨリ レンラク』――ホンゴウシ、とは本郷氏の意味か。なぜその名が出るのかはわからないが、千年への連絡でその名を出すとすれば、あの本郷嘉昭のほかの誰でもないはずだ。因幡は自分の心拍数があがるのがわかった。暗号文は続く。『シチニンレン』――七人連、だろうか。因幡の知識にはない名前だ。だが、〈千畝〉から千年への連絡であるのだから、千年にはその意味が分かるのだろう。
 暗号文はそこでとぎれた。端末から千切ったロール紙をマッチで燃やして風に飛ばし、魚籠も放り出し、因幡は山の斜面を駆け下りはじめた。
 斜面を、半ば滑るようにして駆け下りて、あの地下王国への入り口近くまで来たところで、因幡は誰かとぶつかった。相手が倒れたので、そのまま転がり落ちないように腕をつかんでやったのだが、その男はなにやら悲痛な叫びをあげた。
「悪い痛かったか、だが急いでるんだすまない」
 通じるかどうか定かではないがドイツ語でそう言って再び斜面を下ろうとした因幡の腕を、逆に相手がつかんだ。怒っているのか、と思って改めて相手を見たところで、その男が黒い僧服のようなあの衣装を着ていることに初めて気づいた。
「あっ、そうかあんたあの時の」
 男は、ラサで密偵たちを襲撃したもの、種子の鎮守者の一人だった。掴んだ腕には、包帯と当て木が見える。額にも、派手な包帯が巻かれている。――かすかな記憶をたどったかぎりでは、格納庫で最後に全面攻撃、心のなかでこっそり因幡が呼んでいるところでは「石かすみ」という技によって倒されたうちの一人だ。無論、その名は口に出して言ったことはない。
「あのときもごめん、本当に悪かった、後で治療費も出してやるから、だから今はちょっと待ってくれ急いでるんだ」
 そう言って因幡は渓谷を下ろうとするが、どういうわけか男は追いすがってくる。どうやら怪我がまだ直りきっていないようで、立っているだけでもつらそうだ。何事かもしゃべっているが、早口のチベット語すぎてなにを言っているのかがわからない。いや、二つだけ聞き取れる言葉はあった。メトゥ、チャルパ、と言う二つだ。
「女の子と爺さんだな、わかるよわかる、そっちに行けばどっちかはいると思うから」
 因幡は集落の方角を指さすも、男の方もドイツ語が分からないらしく首を左右に振り、また何かわからないことを口にする。同じことを中国語でも言ってやったのだが、やはりそれも通じない。もう、振り払ってそのまま行ってやろうか、と思ったところで、因幡の視界の端に何かが現れた。そちらを見ると、あの小柄な老人、チャルパがそこに音もなく現れていたのだった。
「ああ、よかった爺さん、この人があんたとあの女の子に用事があるらしい、後は頼んだぞ」
 これを幸いと、因幡は男を無理矢理引き剥がしてチャルパに押しつけると、再び斜面を駆け下りはじめた。後ろからまだチベット語の言葉が聞こえたが、そんなことにかまっている暇はない。
 枯れた谷底にたどり着き、岩に偽装した軽石を避け、その中に頭を突っ込んだ瞬間、因幡の視界に星が飛んだ。
「痛っでえええ……」
 これを言ったのは、因幡ではない。ちょうど穴を出ようとしていて、因幡と抜け穴の中で思い切り額をぶつけた相手が漏らした言葉だった。
「だ、誰……」
 因幡の方も、誰だ、と言いきれないほどのありさまで、頭を押さえている。山の上から駆け下りてきた勢いのままに飛び込んで頭をぶつけてしまっっため、かなりの痛手となっているのだ。
 ようやく起きあがることができるようになった因幡はもう一度、今度は慎重に穴の中をのぞき込んだ。
「あ」
「う」
 そこにいたのは、長い金髪にあまりぱっとしない顔の外国人――のような外見の日本の密偵、千年だった。どう言うわけか、戦前の第三帝国親衛隊員のような制服を着ている。しかも、階級が妙に高い。
「何や、アキカズくん、何でこんな所へおるんや」
 千年は不思議そうに訊ねるが、それは因幡も聞きたいところだ。
「あんたこそ何だってこんなところにそんな格好で――いや、そんなことはどうでもいいんだ、本郷先生から連絡だ、七人連、と」
 穴の中から肩より上だけを出した状態で、千年が首をゆっくりと横に傾けた。
「……はい?」
「え?」
 しばし、何とも言い難い空気が流れる。
「ええと、だから、〈千畝機関〉から、うちの通信網を使って、あんたに連絡があったんだ。七人連が動いた、って……」
 千年は、一言ずつをしっかりと噛みしめるように何度もうなずいて見せ、真剣な表情を浮かべた。
「そうか。それは、本郷の爺さんから、って書いててんな」
「そうだ」
 因幡も自然、真剣な表情となる。
「で、七人連って何や」
 因幡は、瞼を数度開閉させた。
「知らないのか」
「知らんよ、それで何やねん、それ」
「知らないんだ」
 今度は千年が数度、碧い目を瞬かせたあと、地面の上で頭を抱えた。
「……あの爺い……」
 つまり、全く共有していない概念を、必要最小限の言葉だけ送りつけてきたらしい。千年はしばらくそのままで、「七人連」と言う言葉から想像できることを可能な限り思い起こしていたが、結局思い当たる節はなかったようだった。
「緊急事態やったらそう書くやろ。とりあえず記憶にだけ残しとくわ」
 「七人連」に関する話はそれで終わった。危急の用件だとばかり思って走ってきた割に、ぱっとしない結果だ。
「それで、そっちは何だってここに出てきたんだ」
「せや、ちょうどええ、ちょっとこれ見てくれるか。ちゅうか、持っといてくれへんか」
 千年は、いったん穴の中に引っ込んだかと思うと、古びた石の板を持ち出してきた。
「その内容が、たぶん、種子を芽吹かせる方法や。この種子ってのは実は日本の坊さんのことで、呪いっちゅうのは普陀落渡海で海に流された恨みのことや思うねんけど、今はあんまりもう時間がないよって、また、夜の〇時過ぎにここへ来て内容を教えてほしいねん。あ、白文読めるわな、自分」
 千年は千年で焦っているらしく、立て続けに用件を口にしていく。
「それじゃ、頼んだで。あんまり無茶せんようにな」
 言いたいことをすべて言い切ると、千年はさっさと穴の中に引っ込んで行ってしまった。そのため結局、どうして千年がここにいるのかはわからずじまいだった。わからないとはいえ、少なくとも“アンドレアス博士”として怪しまれないように振る舞う、と言う点からすれば、文句の五つや六つ言うべき行動なのはまちがいない。
 しかし、どう言うわけか、因幡は千年がこんなところ、おそらくは現地の人々が働かされているであろう発掘現場にいて、全く無関係な、放っておいた方がいいはずの“種子”のことについても調べている、と言うことに、奇妙な喜びを感じつつあった。
 〈昭和通商〉密偵は石版を持って立ち上がり、駆けだした。
 ――以下は、本筋とは直接に関係のない、チベットから遠く離れた大日本帝国本土、某所に存在する登戸研究所内、通信端末研究部門での話だ。
 通信端末研究部門に所属する休暇中の研究員が、血相を変えて研究室へと飛び込んできた。休暇中に、どうやら行楽からそのまま飛んで帰ってきたと見え、チェックのシャツにコットンパンツ、登山用ブーツに、背中には大型のザックを背負ったままだった。
「どうしたんだ」
 研究員の手には、〈昭和通商〉に提供している小型無電の一種、い六号が握られていた。い六号は、印字タイプの暗号通信端末の最新型機種だ。正確にはそれを一般の通信のために使えるよう印字部を平文のアルファベットに変えたものであるが、基本構造は同じものだ。
「まずい、富士山でこいつを使ってたんだが、頂上あたりの気圧だとロール紙を送り出すモーターに異常が発生する」
 研究室は騒然となり、研究員の周囲に人だかりが発生する。異常の発生した端末はたちまち分解され、ロール紙が最後まで送り出されず終盤の文章が一カ所に固まって印字されてしまっていることが露見した。気圧の問題だろうか、筐体内部の機密性が高すぎて低圧下だと圧力が高くなるからモーターの軸が外れるんだ、それなら高温下でも同様の不具合が発生しなければおかしい云々との仮説が飛び交いはじめるが、それらは一人の研究員が発した一言で、静まりかえった。
「それで、今それを使っている人で、問題が発生する可能性のある環境下にいる人はいるんでしょうか」
 研究室の室長が、丸眼鏡をかけたイタチのような顔を真っ青にして、〈昭和通商〉との直通電話が置かれた部屋へとすっ飛んでいった。
 しかし、その環境下で該当端末を使っている密偵は、現在暗号などよりも遙かに古い時代の文章が刻まれた石版を前に、無心でそこに刻まれた内容を手帳へと書き下していた。彼のポケットに入った「い六号」の内部では、ロール紙が送り出されなかったために一カ所に印字されてしまった暗号文が、黒いインクの染みを作っていた。

◆地下の探索

 地下王国の、非公開の部分にあったエレベーターの表示は、B4をしめしている。すべて地中に存在する建築物なのに地下表示があるというのも不思議な話であるが、入り口の作られている階層を基準点としているのであると考えれば一応納得はいく。
 エレベーターに乗っている最中に誰とも出会わないかどうかは一種の賭であったが、幸いにして千年はその賭に勝つことができた。元々千年は自分の運の強さを信じ切っている。
 開いたエレベーターから降りた先は、むっとするような湿気に満ちていて、それでいて気温は低かった。照明はひどく暗い。ここはすでに発掘の対象とはなっていないためか、人の姿はなかった。
 千年はエレベーターの左端から一歩踏み出したところで、立ち止まった。ここが監視カメラの死角であることは、ハオ氏が映像を切り替えてくれた中に「B4」と書かれたこのエレベーターの端が映る映像があったおかげで把握できていた。
 執務室でみた映像がすべてであるはずがないので、ここからは実際のカメラを探しながら進んでいくことになる。しかしながら、この暗さはその作業の多大な障壁になりそうであった。何しろ、視界は数メートル先が見えるかどうか、と言ったところなのである。明かりをつければたちまち見つかってしまうし、探索はあきらめるべきか、と考え出したとき、エレベーターシャフト脇の土壁あたり、千年の左足のすぐ後ろから、物音が鳴った。死角を出ない範囲で、千年はそちらへ上半身を向ける。
 エレベーターシャフトと土壁との間にできた隙間から、一人の少年が顔を出していた。少年は、目をまん丸にして千年を見上げている。千年の方が浮かべている表情も、似たようなものである。
「じ、ジーク・ハイル」
 少年が跳ねるように立ち上がり、右手を掲げる動作を行おうとしたために千年は左足を掬われて転びかける。が、エレベーターのパネル部分に掴まって、どうにか体勢を保った。
「あの、ええと、大佐どの?俺、迷ってしまって」
 体制は保ったが、少年が千年の左足があった場所に立ってしまっているので、片足で立ち続けるほかない。死角は出ていないはずだが、言うなれば一本足打法の途中でバランスを崩してしまったような、非常につらい体勢である。
「すみませんでした、すぐに戻ります……けど、何でずっとそんな格好してるんです?」
 少年は、一歩前に出て千年の顔を見ようとした。そこは、死角の外だ。千年は空いている方の手で少年の腕を掴んだ。
「坊や、悪いんだけれど、今俺が立ってる所から前に出ないでくれ、いや出ていい、むしろ一刻も早く出てほしいけれど俺に気づいてない振りをしてほしい、頼むから」
 奇抜すぎる格好をして、真剣な口調で行われた千年の切実な頼みは、しかし少年には通じなかったらしい。少年は、不思議そうに千年の顔を見上げながら、千年の認識する監視カメラの死角の外に出た。
「だ、だから、俺はいないことにしうわっ」
 焦って少年に文句を言おうとした瞬間、千年がエレベーターのパネル部を掴んでいた手が滑った。変に軸足に力を入れていたせいで、派手に転んでしまう。
「あー、うわー、どうしよう」
 顔面を泥だらけにして、地面の上で千年は頭を抱える。その横で、少年がなにやら思案げに千年の様子を眺めていたが、やがて何かに思い至ったようで、
「なあ、おっちゃんもしかして、カメラに映らないようにしたいわけ?」
と、千年の目の前にしゃがみ込んだ。顔には、自慢げな笑みが浮かんでいる。
「そうだったら、この辺は大丈夫だよ。ずっと前、作業の合間にどろんこ遊びしてるふりしてカメラのレンズを汚したから」
 この線までは大丈夫、と少年は地面を指さした。そこには、よく見れば白墨で線が引かれている。白線は、壁とエレベーターシャフトの接点を軸に、半径一メートルほどの円を描いていた。
「でもおっちゃん、見たところ外からきたお客さんだろ。別にこんなところ使わなくても外に出られるはずなのにどうして?」
 少年は、上を見上げながらそう問いかけた。千年も同じ方向を見上げる。暗いので見えづらいが、壁面の上部に穴が空いており、その穴の四方をベニヤ板で補強してあるらしい。
「あれは、抜け穴か」
「当たり。……あれ?知らないならどうしてここに来たんだよ」
「それは、ええと……」
 “種子”について、何か発見があれば先にそれを処分しておけば仕事が速く終わるであろう、ぐらいの気分で来たものだから、説明に困る。頭の中に疑問符が大量に浮かんでいることの伺える顔の少年にどう説明をするか考えあぐねているうちに、エレベーターシャフトと壁面の間から再び物音がした。かと思うと、先に出てきた少年よりも年長の少年が、チベット語でなにやら話しながら這い出てきた。そして千年の姿を見て硬直し、直後、壁の隙間から飛び出した。――だけでなく、千年にぶつかり、手にしていた小刀で切りつけようとまでしてきた。無論、千年は簡単に小刀をたたき落とし、年長の少年の動きを封じる。ここまでは簡単なのである。
 両手を後ろ手に掴みあげられた少年は、しかしおとなしくはならず、やはり千年にはわからない言葉で、しかしおそらくは千年を罵り、また年少の少年の方に何かを呼びかけている。年少の少年の方も同じ言葉で年長の少年に話しかけているが、話しかけられている方はその言葉を否定している様子だ。
「落ち着け少年、俺はハオの手のものじゃない。格好はこんなだけど、ただの民俗学者だよ。ドイツ語で話すのは申し訳ないが、君たちの言葉をうまくしゃべることができないんだ――ああ、そうだ。メトゥから、『種子』の芽吹かせ方をハオに教えないよう頼まれているんだ。ここにきたのも、そのために先手を打っておこうと思ってのことだ」
 千年に話しかけられても少しも敵意を隠そうとしなかった年長の少年は、メトゥの名が出たところで、急におとなしくなった。それでもまだ完全に信用はしていないと見えるが、少なくとも、暴れるのはやめたようであった。
「……学者ってことは、ハオに依頼されてきたんだろ。どうして、それなのにハオの邪魔をするんだ?」
 本当は学者ではなく日本の密偵だからだ、と説明できれば非常に話は早いが、そうは行かないのがつらいところである。
「依頼されたっていっても、ハオが〈ドイツ祖先遺産協会(アーネンエルベ)〉……俺の所属してる考古学とか民俗学者の協会にこれこれこういうものに詳しい学者はいませんか、って問い合わせて、それで協会側から選ばれて派遣されたのが俺だ、ってだけの話だよ。雇い主と労働者の関係にある訳じゃない。それに、上の様子を見るに、ハオが正気だとは思えないからね」
 その説明である程度少年は緊張を解いたようだった。が、まだ完全には信用しきれないらしく、
「だけどおっさん、なんでここのことを調べるのに呼ばれた学者だってのに、ここの言葉がしゃべれないんだ?おかしいだろ」
と、至極まっとうな質問を千年に浴びせかけた。――こればかりは、どう言い繕いようもないので、本当のことを告げるほかないであろう。
 千年は腹をくくった。
「それは、おじさんの、頭が悪いせいなんだよ」
 絞り出すように口にした言葉にはなかなかの重みがあったようで、少年たちが千年を見る目が変わった。それは、間違いなく哀れみの目であったが、少なくとも信用を勝ち取ることはできたようだった。ほかの何か大切なものは失った気がしたが。
 ともかく、それで一定の信用を得ることはでき、少年たちは自らの名前を名乗ってくれた。年長の方はニマ、年少の方はパサンで、二人は兄弟であるという。
 兄の方が何かを言おうとしたとき、彼らが出てきた隙間の中からなにやら声がした。どうやら、その抜け道の向こうに人が居て、こちらで何かが起きているのに気づき、兄弟に呼びかけたようだった。ニマはしばらく隙間に首を突っ込んで話をしていたが、やがて振り向き、こう言った。
「ついてきてくれ」
 ニマが再び入っていった隙間を見つめつつ、千年はしばし考えた。……入れるだろうか?千年はおそるおそる、その隙間に頭を突っ込んだ。どうにか、肩は通るようだ。と思った瞬間、肩をつかまれ、穴の中に千年は引きずり込まれていた。
「いってててて……」
 本日二度目に顔から地面にぶつかったが、それよりもどちらかと言えば腰のベルトに軍刀をぶら下げたままであったために、鍔が押しつけられた太股が非常に痛い。後ろから降りてきたパサンは上手に着地して、千年が悶絶しているのを見て笑っている。
 辺りは、小さな地下道となっているようだった。天井は屈みながらでなければ進めないほどに低く、地面は地下水がわき出ているせいでぬかるんでいる。――まるで、塹壕の中のような有様である。
 細い地下道が、発掘の為に作られたものではないのは明らかであった。複雑に入り組んだ地下道を、どのくらい進んだ頃であろうか。不意に視界が開け、強い光が目に入り、千年は顔を覆った。工事用のライトが、ドーム上に掘られた穴の中に持ち込まれているようであった。周囲には人がひしめいているようで、低いチベット語が四方に渦巻いていた。
「静かにしてくれ。それと、できるものはドイツ語を使おう。言葉がわからなければ、信頼も何もない」
 よく通る男の声がそう言うと、狭い空間に満ちあふれていたざわめきはおさまった。と、共に、その声の主と数人の他は地面に座り、千年とその男は向き合う形となった。座った人々を明かりに慣れた目で見回すと、そこには現地民とおぼしき人々が、不安げに千年と千年の正面の男を見守っている。並んだ顔の中には、落盤か何かで怪我をしたのか、汚れた手製の包帯を巻いているものも多い。
「先ほどは、息子たちがどうも失礼をしたようで申し訳ない。おれは、ドージェという。この谷の村長……だった……と言うことになるのかな」
 あの斜面の集落の長、ということであろう。ドージェは筋肉質の体を、この辺りの民族衣装だろうか、日本の着物に少し似た作りの服に包んでいる。その脇には、ニマとパサンの兄弟が立っている。
「学者先生、あなたは、我々の味方をしてくれるのだな」
 敵ではない、と言う程度の話であったのだが、なにやら話が勝手に進んでいる。が、まあ、ハオ氏の側に付く気もないので、千年はうなずいておく。
「そうか、では、これを見てほしい。これは、種子と小屋と共に見つかったものだ」
 小屋、とはあの箱船のことであろう。組み上がった状態でなければ、あれは小屋にも見える。
 ドージェ村長が示したのは、腰ほどまでの高さの、直方体の石であった。直方体の上部には、なにやら細かく文字が彫り込まれている。あの船と共に見つかったのならば、書かれているのは日本語かもしれない。
「おそらくは、種子の使い方を説明しているものだと思うのだが、どうだろう」
 日本語かもしれない、と言うのは、半分ほど当たっていて、半分ほど違っていた。そこに書かれていたのは漢字の羅列、漢文の白文だったのだ。考えれば当たり前であろう。船に乗っていた僧侶は、船の中で死ぬ。その船が中国の海岸にたどり着き、その後何かがどうにかなって中身ごとこの谷に埋められたのであるから、ここに掘られている言葉を書いたのは、日本の僧侶ではあり得ないに決まっている。チベットには固有の文字があるのになぜ漢文なのか、と言う疑問はあるが、ともかくこれは僧侶のミイラと箱船が埋められることになった当時のこの付近の住民が掘ったものであろう。
 さて。千年は無論、漢文の白文など読めない。なのでそれをごまかす必要があるが、それよりも先に、解決すべき疑問が浮かんでいた。
「どうして、あなたたちが種子の使い方を知りたがるんだ?」
 種子というのは、現地の人々の伝承によれば「倭」に災いをもたらすものである。ドイツ側の工作員であるハオ氏ならともかく、現地の人々がそれを求める理由はないはずではないか。ましてや、ハオ氏の下で働いているとはいえ、この村の人々は、その種子を芽吹かないようにしてきた側であった。
「内容はどうでもいい、それが使い方なのかどうか、それを教えてくれればいいんだ」
 少しばかり話が変わったが、やはり、種子の芽吹かせ方を村長は知りたいようだ。ほかの村人たちも、何もしゃべりはしないものの、口を挟まないと言うことは思いは同じなのだろう。
「タネを芽吹かせたくないのなら、この石の上を削ったらそれで話はすむんじゃあないか。これがタネの使い方かどうかは知らないが」
 彼らが何を思っているのか、おおよその見当はつけつつも、素知らぬふりをして千年は訊ねた。いや、それは……と村長が言いよどみ、黙っていた村人たちが、やっぱりそれが種子を芽吹かせる方法なんだな、自分の手柄にしようとしてるんじゃないか、ハオ様に連絡を、云々と千年に向けて叫び出す。千年は小さく息を吐いた。
「なあ少年、ニマだったか。さっき君は外に出ようとしていたが、あれは、何をしようとしてたんだ?」
 小さな空間の壁にもたれ掛かり、腕を組んでこれまでのやりとりを見ていた少年が、顔を上げた。村長がチベット語で何事かを少年にいったのは、喋るな、と言うことであったろうか。が、少年は壁に預けていた背を離し、千年の方を見て言った。
「メトゥなら、この文字が読めるかもしれないから呼んでくるよう言われ、出て行くところだった」
 そうか、ありがとう、と千年が言うのと、仕方がないのだ、と村長が叫ぶのとは、おおよそ同時だった。
 仕方がないのだ、ともう一度村長は言い、大きな身振りで自分の胸を手のひらで示してみせた。
「おれはこの村の長だ、ハオの事業を聞いて許可を出したのはおれだ、ハオに仕事を紹介されて、それを村人に勧めたのもおれだ、そのせいで村の人々が苦しんでいるのならば、それをどうにかしなければならないんだ」
 ――どうにかする方法、というのはつまり、種子の芽吹かせ方を取引材料に、待遇改善、あるいは解放を求めると言ったところか。
「ああ、そうだろう。――村長、あなたの考え方は正しい」
 千年は、ごく平坦な調子でそう答えていた。嫌みではなく、千年は本心からそう言っていた。責められるものと思っていたらしい村長は、階段で最後の一段があると思ったら無く、空中を踏んでしまったたときのような顔で千年を見た。
「あなたは指導者[#「指導者」に傍点]として、責任を負うべき相手に対して責任を感じて、対策を講じている。完全にあなたは正しい。倭、日本に何かが起きるかもしれないけれど、あなたはそれが起きてからもきちんとそれに対して責任を感じるのだろう。あの少女、メトゥは味方であったはずの村人たちのおこなった選択に大変な苦痛を感じるに違いないが、それに対してもあなたは責任を感じるのだろう」
 千年はじっと、碧い大きな目を村長に対して向けていた。村長は歯を食いしばり、その視線を受け続けている。だが、その間にも、村人たちの喧噪は大きくなっている。
 ――そうだとも、この村長は指導者[#「指導者」に傍点]として全く完全に正しい。生まれた地の辺境さから知っている世界は狭いであろうが、それでも、その認識の限りにおいて最大の責任を感じていることであろう。
 千年は眉根を寄せ、挑むような目つきをした。喧騒は一層、大きくなっている。まるで、もう少しで千年へとつかみかかりそうな具合である。
 ――だが、この群衆[#「群衆」に傍点]、この畜群[#「畜群」に傍点]はどうだね?彼らの指導者[#「指導者」に傍点]は、彼らにその選択を押しつけたわけではあるまい。選択権は彼らの手にあった、それなのに被害者面をして叫び続けている彼らはいったい何様だ?選んだのは彼らだ、自業自得だ!同情に値もしない!
「やかましいんじゃ、誰のために俺が動いとる思とんのや、お前[#「お前」に傍点]に何も聞いとらへんわボケ、黙っとけ!」
 千年が左手で作った拳を右手に打ち付け、叫んだ。日本語だったので意味は分からなかったはずだが、その激昂は伝わったのだろう。喧噪は、一瞬で静まりかえった。
 千年の視線を受け続けていた村長は、静寂の中、真一文字に引き結んでいた口を開いた。
「その通りだ、学者先生。おれは、おれの責任において、先祖から伝わってきた禁忌を使ってハオと取引をし、その後起こるすべてのことに対する責任を負う」
 村長の答えは場の空気の中に重く響き、熱気をしずめていった。全員が全員、今のやりとりを理解できたわけではないであろう。だが、そこで重大な何かについて言葉が交わされたことは、この場にいるすべてのものに伝わったようであった。
「よく言えました。……ただ、これはなんて言えばいいかな、いわゆる『その言葉が聞きたかった』ってやつで」
 にこにこと笑顔を浮かべつつ、千年は少しずつ少しずつ足の位置を変えていく。丁度、軍刀を抜き打ちにしたときに、石の直方体が刃に触れる位置へと。
 丁度いい位置を捜し当てたところで、千年は直方体の近くに立っている村人たちに、ジェスチャーで少し下がるよう指示をした。困惑を浮かべつつも、場の空気を支配しきっている千年の指示に村人は従う。村人たちが適度に離れたところで、千年は、軍刀を抜きはなち、鞘に戻した。その動きはその場にいる村人には見えなかったに違いない。しかし、その直後に石の直方体の上部が数センチの幅でスライスされ、そのスライスされた部分、すなわち漢文の彫られた面を千年は拾い上げた。
「あ、あんた、なにを」
「俺の思惑はまた別で、まあ、上のやつはただのマニアだけど、遠因がナチスなのは確かだから、無料奉仕だとおもってくれていいかな。それにかわいい女の子に頼み事もされてるしな。とりあえずこれは持って行かせてもらう。そっちの本体、それは捨てずに置いといてほしい」
 まるで少年向け活劇のヒーローのようなことを千年は言う。その言葉を聞いて、それを持って行かれたら、やはり手柄を独占するつもりじゃ、云々とざわめきが再び広がり始める。が、それは村長の一喝でおさまった。
「何をしたらタネの呪いが起きるのかはとりあえず知っとかないといけないから、解読はさせてもらう。でも、ハオに教える材料にする本体には、別の文章を彫る……って説明でわかるかな?」
 つまり、偽物の説明書を作る、ということである。――余りに稚拙な手だがうまく行くものであろうか。
「うっせ、黙っとけ言うたやろ。――いやごめん、こっちの話でね。それで、俺の方もその偽物を、ちゃんと本物だ、ってハオに信じ込ませることにする。別の文章については、本物ともしかぶってしまったらいけないから解読するまで、そうだな、今夜まで待ってほしいんだが……了承してもらえるか?可能な限り、君らがここを出られるよう努力させてもらおう」
 千年の言葉は、言葉がわからないものにはわかるものが教え、一座に広がっていった。また少し場はざわつくが、しかし、今までのように取り留めのないものではなく、村人同士が話し合っているが故のものであった。
「今夜まで、だな。わかった、受けよう。――おれたちもまた、少し、時間が必要だ」
 ざわめきを上回る声で、村長がそう答えた。村人たちの声は静まっていき、それが、最終的な合意となったようだった。――これではただ、従うべき指導者、従うべき意見を変えただけではないか。彼らはただの衆愚のままだ、別の誘惑が現れればそちらに流れるぞ――
 千年の左手が、自分の顔を殴った。唐突な行動に、石を挟んですぐ前にいた村長が、ぎょっとして目を見開く。
「いてて……いや、ちょっと気合いを入れただけだ、気にしないでくれ」
 気にしないでくれと言っても、気にしないわけはないが、ともかくそれで話はついた。
 再び来た時と同じ狭い通路を通り、狭い隙間に肩を押し込んでB4階層に登ろうとしたところで、今度は思い切り引き上げられた。いったい誰が引き上げてくれたのか、と思い顔を上げると、そこには村長の息子、ニマが立っていた。何かを言うのかと思っていたが特にそれ以上少年は何も言わず、千年が抜け道にあがるのを見守っていた。
「なあ、おっさん」
 抜け道に千年が上半身を入れたところで、少年の声が千年の耳に届いた。
「本当は、俺、メトゥにここを離れるよう言おうと思っていたんだ」
 千年は、抜け道の中で突っ張っていた両手を離し、ずりずりとすべりおりた。
「ん、そーか。青春だな。頑張れ若造。……嬢ちゃんは巻き込まないようにするよ、大丈夫」
 ニマは、安心したようにほほえんで、隙間に這い戻っていった。むずがゆくなる青春である。
 千年が再び抜け道に入り、穴から顔を出したところで〈昭和通商〉の密偵と正面衝突して一度半分ほどずり落ち、再び登って互いに情報を交換して戻ってきたときには、隙間から聞こえてくる声も、その向こうの気配もなくなっており、暖かい安堵と共に千年は全身の汚れを払おうとして、はたと我に返った。
「……どないして部屋へ戻ったらええんや、この格好で」
 千年が着ているハオ氏のコレクションの一つ、親衛隊大佐の制服は、通気口の中やら泥の中を文字通りに這いずり回ったせいで、泥だらけであった。

◆蒐集狂と本物

「建物内は一通りご覧いただけましたでしょうか、少しでも楽しめたなら幸いです」
 総統執務室を模した部屋に運び込まれた円卓にて、千年の正面に座ったハオ氏が、金属製の義手を使って器用に燕巣のスープを口に運びつつそう尋ねた。それが、千年の妙な動向に気付いた上でのことなのか、それともごくふつうの社交辞令であるのかが判断できず、千年は曖昧に笑った。
 結局あのあと千年は、エレベーターシャフトの中を直接登り、換気口の中をさらに這いずり回って、途中でどう言うわけか現れた謎の高熱地帯やら毒蜘蛛の襲撃やらをくぐり抜け、直接自室のバスルームに飛び降りたのであった。至る所に監視カメラのついているこの建物内でのことであるからあのだだっ広いトイレから自室にワープしたように見えてしまったにちがいない。しかし、そこまで気にしていられる風体ではなかった。汚れた衣装は、衣装ごと風呂に浸かって目立つ汚れを落とし、そのままバスルームに干しておいた。千年の髪が濡れたままで、それをごまかすために後ろで一つにくくられているのはその時点で晩餐の時間が迫っていて、乾かす暇がなかったためである。
 地下で石の直方体を切り落とした時点で、実の所千年はハオ氏に地下に赴いたことぐらいまではばれてもいいだろうと考えていた。理由については、発掘現場を自分の目で見てみたかったとかその辺りで言い逃れられる自信もあった。運の良さ同様、千年は人を説き伏せる能力にも、話がうまいわけでもないのに自信を持っている。が、こうして一切何も触れられないままであると、逆に怖くなってくるというものであった。
「そうですねえ、ヴェーヴェルスブルク城風のジムにシャワー室完備、っていうのは、洒落が効いていてよかったですね」
 千年の答えに、ハオ氏は営業用の笑みは浮かべたまま、やや不思議そうに眉をひそめた。ハオ氏は、シャワー室はおろか強制収容所のことも知らないのである、と思い至り、千年はナフキンを使うふりをして口元を押さえた。非常に基本的なこととして、この歴史において、強制収容所の存在もそこで殺された無数の人々の存在も、一切世間には知られていない。第三帝国が戦勝を迎えた世界であるのだから当然のことである。とはいえ、〈千畝機関〉はユダヤ系の亡命者と関係が深いため、スタッフの間では収容所の存在は一般常識レベルで知られていて、つい一般での知名度を忘れがちになる。
「いえ、ヴェーヴェルスブルク城ですが、中世の城を改築したものなので水回りの設備が整っていないとかいう噂で。俺も行ったことがないので話しか知らないんですが」
 もちろん嘘である。実際のヴェーヴェルスブルク城の水回りがどのような状態であるのかは、知らない。
「へえそれは知らなかったな、ありがとうございます一つ勉強になりました」
 ハオ氏は千年の嘘を喜々としてメモに取っている。それは、ドイツ第三帝国に関する並々ならぬ、しかしとてつもなく偏向した蒐集欲の琴線に触れる情報であったらしい。余りにうれしそうなので嘘を言った千年の方が悪い気がしてきて、
「噂ですよ、本当かどうかはわかりませんよ」
と付け加えるほどであった。
「いいんですよ、噂でしたら噂で、そう言う噂がある、と言うことに興奮しますから」
 いったい何が琴線に触れているのか一切わからない。噂というのも嘘なのだが、そこまで言うのなら、あると思っておいてもらった方が本人には幸せなのであろう。
「昼にも言いましたが私を救ってくれたのは、ドイツの方だったのです、ですのでそれ以来、私は父なる国ドイツを愛し父なる国へと恩を返せるよう仕事を続けてきました」
 また、ハオ氏は長く語る体勢に入ったようだった。昼に嫌と言うほどナチスドイツに存在するものの細部への愛を聞かされたものでその種の話はそれで終わりかと思っていたが、まだ続くのかと内心、千年は息の詰まりそうな気分になる。話すのは百歩譲っていいとして、ハオ氏はとにかく早口で離すので、聞き取るのも骨が折れるのである。
「しかし、私の仕事は、父なる国に対してどのような効果を上げているのか、父なる国に本当に必要であるのか、長い間わからずじまいでした」
 話の流れが少しばかり違うことに気づき、千年は円卓からハオ氏へと視線を動かした。ハオ氏は円卓の上の食べ物に手を着けることなく、どこか遠く、ここではない場所の記憶をたどるように視線を宙にさまよわせている。仕事というのは、工作員としてのそれ、密偵としてのそれのことだろう。世界中の密偵が一斉に仕事を辞めたらどうなるのか、それでも何も変わらないのではないか――。確かに千年も、そう考えたことがある。千年はハオ氏の顔を真剣な面もちで見た。今し方飲んだワインのせいか、ハオ氏の目は心なしか潤んでいるように見えた。
「その最中見つけたのがこの土地に存在する伝承だったのです、その伝承が真実であり、あれが私の考える通りのもの[#「私の考える通りのもの」に傍点]であれば、私は確実に父なる国に対して恩を返すことができる」
 種子の伝承のことであろう。真実であれば、と口にしたところを見ると、ハオ氏本人も、伝承が本当のことであるとは全面的に信じられているわけではないようだ。自信の仕事が、巨大で全貌の計り知れない国家同士の歯車の中で一体どこに位置しているのか、本当に歯車はかみ合っているのかがわからなくなり、そして、たどり着いたのがこの土地に存在した伝承であった、というわけか。ハオ氏が狂っているのかどうかそうでないのか今まで判断しがたかったが、どうやら正気のようだ――と、言い切るには、全面的に信じているわけではない呪いだののためにここまで大がかりな発掘を行い、偽第三帝国のような秩序までも作り上げているのは、やはり狂人の所行のようにしか思えないが。
「ですから博士、どうかその伝承が明らかになるまでここに留まっていてください、あの箱舟が掘り起こせたからには、必ず、近日中に種子を掘り出せるはずなのです」
 ハオ氏が潤んだ目で千年を見返した。その時千年が怪訝な顔をしたのを、ハオ氏は“アンドレアス博士”に種子のことを説明していなかったが故のことだと思ってあわてて種子の説明をかいつまんで、呪いのことには触れずに行い始めた。勿論、千年が妙な顔をしたのは、種子がまだ掘り起こされていないことに驚いたからだった。てっきり、ハオ氏はすでに呪いのタネを手に入れて居るものと思っていたが、では、新たな発見があるかもしれないと言うのは偽りではなかったわけか。言われてみれば、地下の普楽の人々も種子自体については何も言及していなかったし、あの石柱を隠すほどであるのだから、種子を掘り起こしていたならばそれはなんとしてでも隠匿したことであろう。
 少しばかり気が楽になった千年は、円卓に並んだ料理に向き合おうとして、そこに見知った材料の使われた料理が少ないことに気付いた。晩餐はドイツ風のものではなく、中国の満漢全席を簡略化したものであった。晩餐の席にくる前には、菜食主義者で酒もたしなまないヒトラーの食事を模したものであったらどうしようかと危惧していた千年は、中華風のテーブルをみたところで一端胸をなで下ろしていたのであるが、満漢全席というのが中国の珍味を集めたもので、これはこれで食欲が全くわかない。唯一まともなものとして北京ダックは存在するが、ホストであるハオ氏が切り分ける気配を見せないので手をつけていいものかどうか迷っている。
 仕方ないのでフカヒレのスープ辺りをちびちび飲みはじめたところで、乾き始めた前髪が落ちてきたので掻きあげた。そのとき、非常に強い視線を感じて千年はおそるおそる顔を上げた。予想に違わず、種子についての話を突如やめたハオ氏がにこにこと千年の顔を眺めていた。元から食べづらいが、よけいに食べづらい。
「……あの、なにか」
「ドイツ本国の方がちゃんとした制服を着ているのは初めて見るものですみません、昼に着てらっしゃったM三二勤務服も良かったですが、党政治指導者用の制服のほうがよく似合っておられますね、ああそれとあの答礼も良かったですそっけなさがまさに本物って感じで」
 親衛隊の黒服を汚してしまったため、いま千年が着ているのは残っていた褐色の方の服である。褐色の服と言っても、SAの褐色シャツではなく、一九三〇年代に使われていたタイプの、開襟型の褐色のジャケットの腰をベルトで締め、同色の乗馬ズボンと合わせる服、と説明するよりは、戦前のアドルフ・ヒトラーが着用しているあの服である、と説明した方が理解は早いであろう。あと一日ずれていれば、四月二〇日、総統誕生日にこれを着ねばならないことになっていて、その時は流石に千年も、あのレーダーホーゼンを着用するという苦渋の決断を下していたかもしれなかった。
「はは、黒服は似合う顔も体型も限られますからね……」
 すさまじく食べづらくなってきて、千年は蓮華を置いた。が、そのことにもハオ氏は気付いていない模様である。
「いえ比較問題でなく党制服のほうがよくお似合いであると」
 常に早口でまくし立てているハオ氏が、突然言葉の途中で黙った。嫌々顔を上げると、ハオ氏は予想通り、何かに気付いたような表情をしている。
「博士、どなたかに似ておられると言われたことはありませんか?」
 答える言葉を持たず、千年が黙っていると、しまいにはハオ氏は席を立って千年の椅子の周囲に立ち、千年を様々な角度で眺め始めた。もはや、食事どころではない。腹が減っているかどうかと言われればかなりの空腹には違いないが、この状況でものを食べられる人間がいたならば、それは神経が図太いのではなく神経が通っていないのに違いない、と言うほかない状況である。
 千年がようやくその状況から逃れられたのは、例によって親衛隊員の仮装をしたハオ氏の部下が何かを報告すべくやってきたおかげだった。露骨に嫌そうな顔をしながらも、ハオ氏は部下から話を聞くため千年の椅子から離れていった。その隙に、千年はすかさず北京ダックを切り分け始める。
 取り皿に北京ダックを一切れ乗せたところで、千年は顔を上げた。その時ハオ氏があわただしく非公開部分に続く戸を開けて出て行ったが、千年が顔を上げたのはそのせいではなく、その直前に部下との会話の中でハオ氏が
「七人連」
という言葉を口にしたのを聞いたためであった。
 切り分けた北京ダックをとりあえず腹に収めつつ、食事を切り上げて何が起きているか探るべきか、いやしかし今食事をとらなければ頭も体もろくに働くまい、と千年の脳と胃が葛藤を起こしているうちに、部屋の奥に作られたモニター兼用の山頂湖中に面した窓に映った水中に、大きく気泡が揺らめいた。揺れたのは水中だけではない。円卓に乗っている食器、執務机の上の無数の胸像、壁に掛かった絵、それらも小さく揺れている。こんなところで地震か、とあわてたが、そうではないことはやがて、北京ダックを数切れ食べきったところで判明した。
「――一体――――党からは――――そんなことをすればこの谷はすべて――――ついにようやく――」
「命令である――――一工作員(エージェント)風情が――――答える義務はない――――そんな与太話は――――」
 無数の靴音と緊迫した様子の言い合いが、ハオ氏が去っていった戸の向こうから近づいてきた。これは間違いなく親衛隊の編み上げ靴だ。先ほどの揺れは、彼らの乗った飛行艇が山頂湖に着陸した際のものだったのであろうか。あるいは、別のものであるのか。千年は、全身が怖気立つような感覚に襲われた。
 程なく、無数の靴音はあわただしい空気と共に総統執務室もどきの部屋の中に入ってきた。
「……何だ、この悪趣味な部屋は」
 先頭に立って入ってきた人物が、入ってくるなり言った言葉はそれだった。思ってはいたけれど、あまりにも露骨に悪趣味すぎるのであえて考えるまでもないと、具体的に思考に出そうとはしなかったのに、と千年は心中で考えていた。
 しかし、部屋の悪趣味さをののしったその男も、悪趣味さでは同程度ではないか、と一見して思われた。そこに立つやたら長身の親衛隊員は、黒服を身につけた上から白いマントを羽織り、さらには顔に鉄仮面をつけている、と言う非常に目立ちすぎる格好だったのである。
 鉄仮面の男の後に続き、漢服の裾を引きずってハオ氏が追いついてきて、その後ろから、黒服の親衛隊員たちが長靴の音を響かせながら執務室の中に入ってきた。彼らが身につけているのは仮装ではなく本物の、戦後になって親衛隊内部で服装面の綱紀引き締めのために再度制定された、改良型の黒服である。勿論、それを着ているものたちも親衛隊が求める基準を満たした外見を持つ、本物の親衛隊員であった。しかし、所属がわからない。所属を示す右側の襟には、バフォメットを思わせる、山羊を意匠化した部隊章らしきものが付いている。この部隊章を使う師団はないはずである。カフタイトルには、Heidrun――〈ヘイズルーン〉とある。北欧神話に現れる、ユグドラシルの葉を食べ、ミルクの代わりに蜜酒を出す雌山羊の名だ。やはり、存在しない師団名である。案外この男たちも仮装集団であるのか、との疑念がよぎるも、だが、彼らから漂う空気は、本物のそれである――とナチスドイツを相手に一〇年ほど破壊工作と暗殺を行ってきた千年の勘が告げている。
 鉄仮面の男の階級章を千年は見やる。銀色のオークリーフが三枚重なった隣に、星が一つ。親衛隊中将だ。現在の親衛隊中将で、今、こんなところに飛んでこられそうで、かつ訳の分からない仮面をかぶりそうな人物は誰がいたであろうか。千年は頭の中にある親衛隊組織図を思い出そうとするが、その前に鉄仮面がとっていた行動で、その思考は中断された。
 ゆっくりと室内を歩いていた鉄仮面の男は、執務机の上に二つの胸像が置かれているのを目に留めたようであった。室内インテリアとしての胸像はナチス的なるものの中でも悪趣味の権化の最たるものであるので、気に入るはずがない、と思ったその次の瞬間、鉄仮面の右腕が動いていた。轟音が室内に響く。鉄仮面の男は、執務机の上に置かれた胸像のうち片方を叩き潰していたのである。青銅製であったはずの胸像を、手で。千年は、北京ダックの皿を持ったまま硬直していた。
 鉄仮面が手をおろす際、マントの下から見えた手を見て、一応はそのような芸当ができた理由は理解できた。そこにあったのは、ハオ氏同様の金属製の義手であった。ハオ氏のものは日常生活に使える程度の調整がなされているが、あれはおそらく、軍用のものであろう。
「不愉快だ、片づけろ」
 仮面の中で奇妙にくぐもった声がそう告げると、ハオ氏は両手を袖の中に入れて片膝を床につき、深々と頭を下げた。それは、中国の文化ではかなりの敬意を込めた動作であったはずである。ハオ氏は脇にいた仮装親衛隊員を呼ぼうとし、途中でやめ、自分でその潰れた胸像を持って戸の向こうへと去っていった。仮装親衛隊員の方は、どちらかと言えば胸像を処分するためにこの部屋を立ち去りたかったようで、残ったアドルフ・ヒトラーの胸像の方を鉄仮面が同じように叩き潰さないかと期待している様子を見せていた。が、鉄仮面はそれ以上の興味はない模様で、マントを翻して執務机そのものに背を向けた。おかげで仮装親衛隊員は鉄仮面の視界から外れたので、その隙に彼はそそくさと部屋を出ていった。
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 後に残された部外者は、千年一人である。
 とりあえず、千年はヘアゴムをはずし、自分の顔が髪で隠れるようにしてみた。
「……貴様は」
 丁度、北京ダックの皿を持って円卓に座った千年の正面に立つ形となった鉄仮面の男が、くぐもった声で千年に問いかけた。
「はい。ジークフリート・アンドレアスといいます」
 ここは、下手に所属だのなんだのを言うより、名前だけを言って、うまくすれば仮装パーティーの一員だと思ってくれれば御の字である。千年の心中では、訳の分からない暗号文を送りつけてきた〈昭和通商〉やらその文章を考えた〈千畝機関〉やら本郷師やら全員への呪詛が渦巻いている。
「ジークフリートか、俗な名だ」
「そうですかね、それで、あなたは?」
 千年はせめて相手の名だけでも聞き出そうと考えたが、鉄仮面は千年の質問は無視をした。
「その名前は確か、ユリウスに呼ばれてきた〈ドイツ祖先遺産協会〉の考古学者だな」
 鉄仮面は、ハオ氏のファーストネームを呼んだ。しかし、言葉に込められた調子からするに、それは親しさを示すためのものとは到底思えなかった。ハオという中国の名を呼ぶことを嫌ったものであったかもしれない。
「ええ、そうです」
 親衛隊の下部組織〈ドイツ祖先遺産協会〉から派遣されてきたのであるから当たり前だが、その名はすでに知られているらしい。幸いにして、今も軍刀は机の下に置いた状態である。机の上に上がるのに一歩、そこから一足で少なくとも鉄仮面の首は落とせる。親衛隊員は一二人、混乱に乗じてならば、問題なく誰一人逃さず全員斬れる。千年は、十年来の殺し屋としてのキャリアに基づいて、頭のなかでその光景をしっかりとシミュレーションした。いや、しかし、ここにいる者が全員であるという保証はない。千年は、自分が死なないと確信している。しかし、多勢が相手であれば捕縛される可能性はある。いや、ちがう、彼らを斬れば、〈昭和通商〉から協力を依頼された仕事はその時点で破綻する。しかしそもそもこの鉄仮面が現れた時点で本来の目的は意味を失ったのではないか。ならば斬って構わないのか。辺境とは言え東側、大東亜共栄圏の一角をなすチベットに、ナチス第三帝国の鉤十字を身につけた者が堂々と闊歩しているというのは、日独冷戦下では異常事態にほかならない。この状況は全体の中でなんの意味をなす?何を行うのが最善であるのか?それを探って本国へと伝えるべきか?あるいはただちにこの部屋の窓ガラスを割って、彼らを全員水の中に沈めようか?だめだそれでは地下の発掘現場の村人たちが死ぬ。この「千年王国」のスタッフも、馬鹿げた格好をしてハオ氏の指示のもと鳥葬の処刑を行ってなどはいるが、しかし、殺すべき人間ではない。千年の思考はめまぐるしく回転する。
「では、ユリウスの発掘したものが『聖柩(アーク)』と関係するのかはわかったかね」
 思考回路が異常回転をする中、鉄仮面が問いかけた。しかし、思考回路の問題でなく、全く何を言っているのかがわからない。こう言うときは、
「その可能性もありますし、無い可能性もあります」
この答えがもっとも適切である。鉄仮面に空いた小さなスリットの奥で、アイスブルーの瞳がその色にふさわしいだけの冷たさを伴って千年を眺めたが、下手に評価されるよりはこちらの方がよほどいい。願望を言えば、このまま退出するよう言ってくれれば助かるのであるが。
「ひひ、アンドレアス博士は『聖柩』を知らないよねー」
 だがその願望は叶えられることなく、また新たな人物が黒服たちの間から現れてしまった。こちらは、一人だけ国防軍のフィールドグレーの制服を着て、艶のない割にふさふさとした白髪を撫で付けもせずざんばらにしているというだけでも周りから浮いている。が、それよりも、左目に眼帯のような形で黒い懐中時計を装着し、それだけでは飽き足らず勲章を着ける代わりに無数の懐中時計を、リボンバーの代わりに腕時計を佩用しているのが異様だ。マント姿の鉄仮面が異様な風体なのでそちらに目を奪われていたが、こちらもかなりインパクトがある。襟の階級章だけはきちんと元の通りのものをつけていてくれるおかげで、その人物が大佐の階級にあることだけは判別できた。
「そうなのか」
 アイスブルーの瞳が千年を再びとらえる。その時初めて気付いたが、スリットの中、かすかに見て取れる目の周りの肌や、シャツと鉄仮面との間に見え隠れする首の皮膚を見るに、どうもこの鉄仮面は、結構な高齢であるように思われた。
「はいすみませんそうです」
「紛らわしいことを言うんじゃない」
 時計男が、千年と鉄仮面の会話を聞いて、またひひひと笑った。鉄仮面とは逆に、時計男の方はかなり若い。少なくとも千年よりは年下であろう。
「総督[#「総督」に傍点]閣下、キミのその外見じゃあ、学者先生なんて萎縮してしまうに決まってるんだよー」
 外見のことを言えば時計男も大概なのであるが、助け船を出してくれた形になる上鉄仮面が総督[#「総督」に傍点]なる肩書きあるいは通称を持つことを示してくれたので、ここは感謝をしておく。鉄仮面の方は、総督と呼ばれたのが不服であったようで、
「その呼び名はやめろと言ったはずだが、ウォッチ大佐」
こちらも相手の名前を呼び、不満を申し立てた。呼ばれたくない肩書きということは、ただのあだ名か、あるいは、以前はその肩書きであったがその地位から滑り落ちたか――?その条件で、親衛隊中将という地位についていたことのある人物ならば、千年には一人心当たりがあった。先ほどの行動も、それならば一応は腑に落ちる。が、その人物がこんなところにいる理由がわからず、また、こんなところに来られるはずがない、と言う思いから断定はできずにいた。
 しかし、ウォッチ大佐とは、時計男の方はまさに見た目そのままの呼び名ではないか。ドイツ語ではなく英語なのが気になるが、確かめるために会話をしたくもないので、千年は口を閉ざしておく。
「ともかく、つまり、それではユリウスの発掘したものについて、考古学的な知見のほかには何もわかっていないのだな」
「そうですね」
 確かアンドレアス博士は民俗学者だったはずであるが、どうせ今わかっていることなど、千年の付け焼き刃の知識でわかっただけのことに過ぎない。どちらでも構うまい。
「ひひひ、その先生は民俗学者だよー」
 千年は構わないのにいちいちウォッチ大佐が横から訂正をしてしまう。千年はウォッチ大佐を睨みつけたが、大佐はうひひひひと笑うだけで何を考えているのか全くわからない。何も考えていないのかもしれない。
「そうか。貴様もいちいち馬鹿のように肯定するだけでなく、間違っていたなら間違っていると言え」
 千年はここ数日で、馬鹿と何回言われたかが不意に気になってきた。それまでの人生で馬鹿と言われた数の数倍の密度でそう言われている気がする。
「では民俗学者殿、食事中すまないがウォッチ大佐にわかっていることを説明してやってくれたまえ。ユリウスには用があるのでな」
 鉄仮面はそう千年に告げると、マントを翻してハオ氏が退散した戸の向こうへと去っていった。黒服たちは全員その後をついて行ったので、後にはウォッチ大佐と千年だけが残される。しかもいつの間にかウォッチ大佐は、千年の正面に座って手をつけられていない料理を勝手に食べ始めていた。
「掘り起こされてるものは、そこにある箱船だけです。その船は普陀落渡海に使われたもので、おそらくは中国の海岸に流れ着いたあと、どのようなルートをたどったものか、この地にて地中深くに埋められたものと思われます」
 箱船は丁度執務室の端の方に置かれたままであったため、千年はそちらを示して言った。ウォッチ大佐は開いている方の目で箱船を見やったが、すぐに視線を千年の方へと戻し、手を伸ばした。なんのことかよくわからず、握手かと思い握り返すと、手が振り払われ、千年が手にしたままの北京ダックの皿が指さされた。北京ダックが食べたかったらしい。
「〈七人連〉も落ちたものだよねー。黒い森(シュヴァルツヴァルト)にうごめく誇り高き間諜団が、今やナチどもの下働きとはねー」
 千年から皿ごと奪い取った北京ダックを抱え込み、直接手で掴んで食べながら、ウォッチ大佐は問わず語りに話し始めた。内容からするに話してはいけないことのような気がするが、この場合、アンドレアス博士が協力者であると認識されているので、構わないのであろうか。そこではじめて気づいたが、ウォッチ大佐が勲章代わりに佩用している懐中時計の中に混じって、“7”という数字を描いた徽章、あるいはバッジが見える。7、という数字と〈七人連〉という言葉が、脳の中でつながりを見せる。
「昔は、名前は言えないがさる高貴なお方をUボートを使ってお助けしたり、遠く離れたジャングルの中で破壊工作に乗り出したりもしたっていうのにねー。ひひ、それは先代の話だけどねー」
 ウォッチ大佐は胸についた無数の時計の一つを指ではじいた。それが、「先代」が使っていた時計――ということかもしれない。
「先代はいい時代に生まれたよねー。第一次大戦の頃に全盛期、第二次大戦で指揮をとれる世代、密偵が華々しく密偵をしていられた最後の時代だよねー」
 その経歴であれば、「先代」とやらは本郷嘉昭と同世代、ということになるか。確かにあの時代、大戦期の密偵ほど華々しいものはない。見つかればたちまち死を迎えるという点では同じことであるが、彼らが得た情報は即時的に戦況へと影響を与え、刻々と変化する状況の中で確かな意味を持っていた。それが今や――。千年は、自身の抱いたことのある虚しさを、また、ハオ氏の感じたであろう焦燥感を思った。
「密偵じゃないけどキミのとこのスギハラセンポさんなんかも最高だったろうねー。自分の行動が数千人の命に変わって。似たような外交官はほかにも居るよねー、うらやましいよー。ああ、もちろん本郷の爺さんも最高だよねー」
 食べられるものがなくなり、ウォッチ大佐が話すままにうなずいていた千年は、スギハラセンポ、すなわち〈千畝機関〉長官杉原千畝の読みを変えたものを聞いて表情を凍り付かせ、本郷の爺さん、と言うところで愕然として席を立ち、机の下の軍刀に手を掛けんとした。が、その前にウォッチ大佐が円卓の上に飛び乗り、そこに置かれていた箸、殺傷能力までは無いであろうが少なくとも勢いさえあれば体の一部を破壊出来るだけの硬度を持つ二本の棒を、文字通り千年の眼前、瞳の前に突きつけていた。おそらく、死にはしない。しかし目と、相手にそのつもりさえあれば脳の一部は破壊される。ウォッチ大佐が身につけている無数の大小の金銀の時計が、コチコチコチコチコチと音を立て続けている。瞬きはもちろん、呼吸をすることすらできず、千年はただ、喉をあえがせる。
「ひひひ、殺し屋やるんなら、愛用の得物、なんてのは使うもんじゃないよねー。ウォッチ大佐が敵なら、キミもう何も見れなくなってたよねー」
 目をつぶされる、と思ったが、しかし、ウォッチ大佐はすぐに箸を引っ込め、その場で北京ダックを再び食べ始めた。千年が呆けているのをみて、
「だから、つまり、今はキミの味方ってことさねー。スパイの醍醐味だよねー、場合によっては味方が敵で、敵が味方で。……連絡がうまく行かなかったって本郷の爺さんから聞いて、飛び立つ寸前の飛行船に駆け込み乗船したのー。ウォッチ大佐史上一四番目ぐらいには焦ったんだから感謝してもらいたいよねー。ホントはかわいい女の子のピンチを助けて感謝して貰いたいんだけどねー」
と、首を傾げて見せた。千年は、ようやく了承した。因幡が持ってきた電文は、完全な状態ではなかったのである。おそらくは、通信の問題か、あるいは機器の問題で。機器の問題であればおそらくはあの寝袋を作ったのと同じN研の品物であろう。そうであれば、一通りことが片づいたあと、責任者をあの寝袋に入れて銀座を歩かせよう。千年は心に誓った。
 千年は安堵の息を吐きつつ、円卓の上のウォッチ大佐を見上げた。
「それじゃあ、さっきからの行動は怪しまれるんじゃないか。ここにもおそらく監視カメラがついているはずだが」
 ウォッチ大佐は肩のこりをほぐすような動作をしつつ、室内を見回した。
「あー、付いてるねー。でも大丈夫、ウォッチ大佐、普段から変な行動ばっかしてるから、見られてもこのくらい普通と思ってもらえるって寸法なのよー。カッコつけてこんな格好してる訳じゃないのー」
 偽装工作で普段から奇行に及んでいるらしい。それは、半分ほどは真実で半分ほどは嘘だろう、と千年は思った。千年の“ジークフリート・アンドレアス博士”にしても因幡の“荷物持ちの李くん”にしても、それにおそらくはハオ氏の表向きの顔にしても、当人の性格や行動様式から大きくはずれるものではない。全く違うものに偽装すれば、いずれ破綻するからだ。ハオ氏の部下たちの仮装よりも仮装らしい改造軍服も人を食ったような言動も、間違いなく趣味から外れては居るまい。
「それで、何だって今回はこちらに味方を?」
「んー、一応は、世界平和のためだよねー。あ、北京ダック全部食べ切っちゃったけど良かったー?」
 あまり良くは無かったが、それよりも、意図的に一足か二足飛びにされた話の細部を、千年はせかす。急かしつつも、別に自分の金で買ったものでもないのに、手を付ける気のあった食べ物を食べられたのが悔しくなってきて、テーブル上の、まだ食べられそうでかつ汁気の少ないものや点心類をポケットに詰めることにした。着ているものがどうせ自分のものではないという安心感と、目の前の大佐の毒気に当てられたがゆえの行動であったかもしれなかった。
「世界大戦が起きるような危機が起きている、ということか。それは、さっきの……鉄仮面の目的と関係するのか」
 やはりぼかしたような痒いところに手が届かないようなことしか言わないウォッチ大佐の意図を推定して、千年は問い返す。問い返しつつ、机の上の食べ物は確保する。
「鉄仮面、うん、鉄仮面か、そう呼ぼう。そのとーり。鉄仮面閣下は、長年大東亜共栄圏(きみら)が放置してくれた鉄仮面謹製の工作員が作り上げちゃったこのナチのテーマパークみたいなところを、一気にレーザー基地にしちゃおうとしてるんだよねー、やだねー」
 その口調はどことなく、ハオ氏を放置したことを責めているようにも聞こえた。いや、実際に責めているのであろう。黒い森の間諜団と名乗ったところからするに少なくともドイツの諜報組織であるはずの〈七人連〉からすれば、あの鉄仮面率いる親衛隊は同業他社ということになるはずである。日本で言えば〈千畝機関〉が勝手に国際関係を脅かすような仕事を始めてしまって〈昭和通商〉がそれを止めるような構図である、と考えれば何となく理解はできるかもしれない。ろくでもない想像ではあるが。
「レーザー基地。でも、あんたらとっくの昔に、そんなもんいくつも作ってるだろ」
「うん。我らが偉大なる祖国大ドイツ帝国はねー。ひひ、でも、大日本帝国は持ってない」
 わかるかな?と言いたげに、ウォッチ大佐は首を傾げてみせる。千年が答えを出したのは、一四秒ほどあとのことだった。
「レーザー基地で、廬溝橋をやろうってのか」
「ロコーキョー……ああ、マルコポーロ・ブリュッケ。そう、大正解」
 廬溝橋は、かつてマルコ・ポーロの東方見聞録に収録されてその存在が伝わり、西洋ではマルコ・ポーロ橋と呼ばれている。そこで起きた「銃声一発」が日中戦争の引き金を引いたことは、有名な話である。この場合は、このチベットの奥地、大東亜共栄圏の隅にレーザー基地を作り、そこからナチス第三帝国の“生存圏”のどこかに「一発」を撃ち込み、開戦になだれ込む、といった筋書きであろうか。あまりのことに、ものを食べていないのも相まって、胃酸が喉からせり上がりそうであった。
 しかし、いくらなんでも、技術を盗み続けなければただの観測用衛星もろくに作れない日本にそんな嫌疑をかけさせるのは無理があるのではないか。と、思ったところで、千年はあのツアー団体を思い出す。正確には、ツアー団体の目的である宇宙ステーションである。あれが丁度チベット上空を通過する前後のタイミングで「銃声一発」をやることで、日本側が密かに軍事衛星をあげていた――とでも強弁する気であろうか。無理がある、とは思う。無理があるとは思うが、ともかく開戦さえしてしまえばあとから何がどう判明しようがどうとでもなる、と言うのはまさに盧溝橋で日本が証明したことでもあったではないか。
「ウォッチ大佐の愛にあふれるタレコミ曰く、馬鹿がレーザー基地作って馬鹿なことしようとしてるから妨害しとけ、増援はそのうち来る、はい、本郷の爺さんが伝えたかったことはこれで全部。あとはがんばってねー」
 北京ダックをすべて食べ終えると汚れた手を制服の脇で拭き、ウォッチ大佐は円卓からひょいっと飛び降りた。どうするのかと見ていると、すたすたと廊下に面するドアの方へと歩いていき、そのまま出ようとした。
「待ってくれ、それで大佐、あなたはどうするんだ。それと、鉄仮面が『聖柩』がどうのと言ってたけどそれは何だ。ハオが掘り起こそうとしているものと関係があるのか。ハオも何かを知っているようだったが……」
 ウォッチ大佐はさも意外そうに肩をすくめつつ振り返った。が、その動作の途中で何かを思いついたらしく、わざとらしくまじめ腐った表情になり、音を立てて踵を合わせ、右手を掲げ、
「はい、聖柩、あるいはシュトゥットゥガルトの箱につきましては、小官からあなた様に対してご説明申し上げる方が野暮と言うものかと思われます。Heil Hitler!」
そう宣言した。それが、今まで見せていた狂態からすれば驚くほどに折り目正しい軍人の姿であったために千年が虚を突かれているうちに、ウォッチ大佐はいつの間に入手したものか、あの館内図を片手に、
「さて仕事はこれで終わり。以前からここの話は聞いてたんだけど、来る機会がなかったもんだから、この際見収めとくのさー。うひひ、一〇〇%、破棄されるに当たって中はグチャグチャにされちゃうからねー」
などなどといいながら、いつの間に入手したのかウォッチ大佐はあの館内図を片手にうきうきと出て行った。
 なにやら、嵐のようなものが過ぎ去っていったような気分であったが、今聞いた話からすれば、むしろ嵐は今からやってくるのであるはずだ。終始ふざけきった態度ではあったが、〈七人連〉のウォッチ大佐の喋った言葉は、すべて直接的か遠回しかを問わず、千年への助言になっていた。そこまでするならば直接手助けしてくれればいいではないか、という思いもあるが、そこはいくら別個の組織でも、同国に仕えるもの同士で相打ちするわけには行かないのであろう。
 ――さて。あとは、そのヒントを元に、するべき行動をとるだけであるが。ヒントは、一人で解けるものであろうか?
「……知っとるなら、さっさと言えばええやろうが。いちいちクッソ腹の立つ」
 ――話すなと言ったのはお前のはずではないかね?
 千年は、右手を円卓にたたきつけかけ、やめた。そこには、手をたたきつけるだけの隙間もないほどに食器が散乱しきっていたのである。
 千年は執務室の時計をみた。時刻は八時過ぎ。今聞いたことを元に動くならば、何をもっとも優先すべきだ。レーザー基地をここに作ると言ったが、いくら不可解な技術の進歩を遂げている第三帝国といえど、そんなものを一朝一夕にこんな高地に作れるものなのか。ウォッチ大佐が教えなかった、『聖柩』とは何だ。
 ――死の瞬間に抱く、死の瞬間までも拭い去れない強烈な願い、渇望。それを抱いて死んだ遺体の収められた箱[#「箱」に傍点]。
 千年は、荒れた円卓の座席に再び座ろうとしたが、そこにいつの間にか料理の皿が落ちてしまっていて、座れたものではないことに気付いた。逆の側も同じだ。仕方なく、千年は総統の為に作られたものを模した執務机に備え付けられた、やはりこちらもワンオフの品を模した椅子へと座った。――座り心地はやや違う。本物は皮であるが、こちらは合皮を使っているらしい。また、木の材質も、本物よりは軽いものであった。
「確実にわかるアテのあるやつからつぶすのが鉄則、やな。――話せ、アドルフ。知っとることで、この状況に関わりそうなことは洗いざらいや。いらんことは話さんでええ」
 そして千年は、そこには何もないと言うのに、右耳の付近に手をやり、深々と瞑目した。その表情はまるで、存在しない受話器から、パリの破壊命令が実行されなかったという報告を聞くかのように、沈鬱かつ重々しい表情であった。

◇虐殺の谷

 湖面には、無数の物資が投げ落とされている。木箱に入ったそれらが落とされるたび、湖は波立ち、その水を濁らせる。投げ落とされた物資は湖畔にうごめく黒服たちが直ちに引き上げ、中から出した鉄骨やら配線やら機材を使って湖畔になにやら施設している。これは、まずいんじゃないか。〈昭和通商〉営業部の新人スパイは、その光景を桟橋近くの草むらに隠れて眺めながら、掌や首筋に汗が吹き出るのを感じた。
 物資を投げ落としているのは、頭上に鎮座した巨大な飛行船である。そう、この高高度、正確な標高は分からないにせよ三〇〇〇メートルはくだらないはずのこのチベットの高山の頂上に、その黒い船体の飛行船、全体を装甲に覆われた軍用飛行船が三機も飛んでいたのだ。ツェッペリン社のものと思しきそれはしかし、気嚢部分と船体下部が融合した形状をしており、その動きを見るに亜細亜で使われている飛行船類よりも、ずいぶんと進んだ技術を使っているようだ。船体のうち一つをよく見れば――あれは、師団章か?悪魔として描かれる山羊を意匠化したような紋章が白色で染め抜かれ、その下にはHEIDRUN、ヘイズルーンという、神話の獣から取られた師団名あるいは組織名らしきものも記されている。しかし、該当する師団章を使う親衛隊の師団も何らかの集団も、因幡の知識の中には存在しなかった。
 桟橋付近では、ハオ氏の部下だろうか、古い親衛隊やら何やらの仮装をしたものがその様子をうかがうために出てきて、またすぐに戻る、という光景が見受けられる。つまりこれは、ハオ氏の側でも把握していないことなのだ。当たり前だ。ハオ氏の動向や通信はすべて〈昭和〉が掴んでいる。ハオ氏が知っているならば、〈昭和〉も認識しているはずだ。逆に言えば、〈昭和〉がハオ氏の動向を掴んでいることをドイツが察知していれば、さらにその裏をかいて、ハオ氏に知らせないままに彼の持つ財産を利用すれば、日本に対する急襲攻撃が可能となるわけだ。ハオ氏は、眠れる密偵(スリーパー)だ。それも、本人にもスリーパーであることが知らされないままに眠らされ、あたたかな午睡の夢にまどろんでいたたぐいの――
 やられた。因幡は口の中をかんだ。ハオ氏周辺の監視は、ややルーチンワークと化していたと聞く。おそらくは、ハオ氏を監視する〈昭和〉のスタッフを敵方の密偵が発見したのだ。あるいは、〈昭和〉の何者かがヘッドハンティングを受けたか。しかしそれは、今はどうでもいい。
 本国に連絡を取らなければいけない。この状況は、因幡の裁量を越えている。自分の鼓動が速まるのを押さえようと、あえてゆっくりと呼吸をしながら、因幡は湖畔から離れようとした。
 しかしその時、搬入口から出てきた二人の人物と、彼らの間で交わされる会話が、因幡を引きつけた。
「――本当にわが父なる国の未来につながるのですか、それが」
 特に、早口のドイツ語を話す派手な漢服の男は、直接見たことはないが、間違いなく〈昭和〉本部の資料で見たユリウス・ハオその人だ。が、その隣に立つ人物が誰なのかはわからない。鉄仮面のようなものを着用しているせいで顔がわからないのだ。
「無論だ。後継者を名乗るものたちを見てみろ、奴らの一人でも、まともに総統のあとを継げると思うか?」
「それは……しかし、そのための犠牲としてはあまりにも」
「くどい!ユリウス、貴様この王国が惜しくなったか。一体誰が、両手を失い悲嘆にくれるほかなかったおまえを救ってやったと思っている。一体誰が、おまえの城を作り上げることを許してやったと思っている」
 顔はわからないが、話の内容と互いの態度で、鉄仮面の男がハオ氏の上位のものであることと、この「千年王国」を作ることまで、仮面の男の指示のもとで行われていたことはわかった。そして、最も重要なことであるが、ハオ氏に至るまでの連絡系統は、その活動の痕跡の多さの割に、判明していなかった。
 ――ああ。確かにハオ氏は鵜飼いの鵜だ。しかし、その紐を握っているのは、〈昭和通商〉ではなかった。日本国ではなかった。鮎は、我々だった。
 因幡は草むらの中で、自分の口を両手で押さえていた。急激なストレスを感じたせいで、胃がひっくり返りそうになっていたのだ。
「……申し訳ございません、わかっております、すべてはハイドリヒ閣下、あなたのおかげです」
 その名は、あまりにも無造作に耳に飛び込んできたために一度はただの音として因幡の頭の中で処理をされ、その後、もう一度改めて言葉の意味を確かめたときにも、頭の中にある知識とは容易に結びつきはしなかった。ハイドリヒ。RSHA長官、チェコ総督、“ヒムラーの頭脳”“死刑執行人”“プラハの虐殺者”“金髪の野獣”――ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ親衛隊中将。その辺りの言葉が脳裏に次々と浮かび上がり、つながりあう。山羊。そうだ、山羊といえば、ハイドリヒを蔑んだ渾名に、雌山羊、というものがあった。見た目に反し、声が甲高いところからつけられた渾名だ。では、あの紋章や部隊名はもしや、その渾名を逆手に取ったものなのだろうか?
 しかし、なぜ、こんなところにいる。いや、立って、話している。因幡の脳裏には最後に一つの疑問が残る。因幡の知識、つまり世に知られた話では、ハイドリヒは、暗殺未遂[#「暗殺未遂」に傍点]事件以降植物状態となり眠っているはずではなかったか。
 とにかく、報告を行わなければ。因幡はポケットの暗号無電に手を伸ばした。草むらの中だが、草を揺らすことも音を出すこともなく、ポケットの中の無電で緊急通信を発信することは、平常であれば可能なはずだった。
 ガサ、と音が鳴った。因幡が、自分が草に触れて音を出したのだ、と気付くには時間がかかり、その時にはすでに、ハオ氏とハイドリヒは、因幡の隠れた草むらの方を向いていた。
 ハイドリヒが近くにいた黒服へと指示を出した。親衛隊員の長靴が土を踏み、近づいてくる。拾い集めた石はもちろん、因幡の袖口の中に入っている。入っているが――
「ほうほう、こりゃあ丸いねー、たしかに丸い」
 非常に緊張感のない声が因幡の頭上から聞こえた。それ以上音を出さないために見上げることはできないが、若い男が、因幡の伏せている場所のすぐ前に立っているようだ。
「良く見つけたもんだよねー、最初からこうやって活用するつもりだったのかなー、鉄仮面頭領閣下。何年もかけて、よくやるもんだよー」
「ウォッチ大佐か。〈七人連〉は各個人の動向には関与しないはずだろう。さっさと柩だか箱だかを調べて帰れ」
「関与しないよー、ただ見てるだけ見てるだけ。しかし、こっちはゲシュタポだの帝国保安部だのよりもずっと古い組織の先輩なんだから、もうちょっと敬意を持ってくれてもいいんじゃないかなーっておもうんだよねー」
 ウォッチ大佐などというふざけた名前はさておき、〈七人連〉という言葉に、因幡は体を硬直させる。それは、あの暗号文に書かれていた言葉にほかならない。
 ――しかし、今の構図は、まるでその〈七人連〉のウォッチ大佐が自分をかばってくれているようではないか。
 ウォッチ大佐は、ハイドリヒをからかうような、あるいは馬鹿にしたような会話を続けていたが、その途中、さりげない動作で因幡の肩辺りを履いているスリッパ――たしかにそれはスリッパだった――でつついて、その後、スリッパを脱いだ足で後ろを示すという器用なことをやって見せた。後ろに下がれ、ということのようだ。因幡は息を整え、今度こそ慎重な動作で草むらを出ると、身を低くして走り出した。
 すり鉢状の湖畔から飛び出し、そのまま斜面を走り、ある程度湖から離れたのを確認すると、因幡は暗号無電を引っ張り出した。ふるえる手で緊急コードを押し発信ボタンを押す。しかし、いくら待っても、衛星に電波を送信し終えたことを示すランプは点灯しない。
「その機種、ここの気圧で長い間ポケットに入れてると不具合出まくるってさ。うひひ、実験室で複合的な特殊環境下実験やんなかったらしいねー、やだねー。でも、ここで起きてることはウォッチ大佐より愛をこめて本郷の爺さんに伝えてあげたから大丈夫よー。ショーワさんも動いてるから安心しなねー」
 と、再びあの緊張感のない声が聞こえてきて、因幡は跳びすさった。先ほどもそうだったが、この男は、足音どころかいかなる気配も発していない。
 跳びすさって〈七人連〉のウォッチ大佐の外見を初めて目にして、因幡は困惑の表情を浮かべた。一人称も口調も名前もふざけた男だ、と思っていたが、はじめて目の当たりにしたその姿、左目に黒い懐中時計を眼帯のようにして装着し、なぜかホテルで使われるような浴衣にスリッパをはいて、さらにその上から、勲章や徽章のたぐいの代わりに大量の懐中時計やら腕時計をつけたドイツ国防軍大佐のジャケットを羽織っている、といういでたちは、ふざけているどころの騒ぎではなかったのだ。仮装パーティでもそうそう見受けられないような外見だ。
「……ハイドリヒの仲間か」
 それは単純に、服装に通じるものがあったが為に思わず口から出てしまった言葉だった。しかし、それはウォッチ大佐にとっては心外な言葉であったらしく、
「えー、違うよー。全然違うよー。鉄仮面閣下は仮面キャラで、ウォッチ大佐は眼帯キャラだよー。仮に仮面だとしてもあっちは戦う男の子の邪魔をする悪い仮面で、こっちは戦う女の子のピンチを救う良い仮面だよー。ピンチに陥る萌え萌えなヒロインがいないのが問題だけどねー」
などと意味のわからないことを言っている。服装といい、多少頭がおかしいのだろうと断じて、因幡はその言葉の意味は考えないことにする。
「さっきはありがとうございます。〈七人連〉と呼ばれていましたが、〈七人連〉というのは、味方であると考えていいんですか」
「今はねー。まあ、詳しいことは中にいるあの人に教えてるからそっちから聞いて。仲良いでしょあの人と」
 あの人、とは千年のことか。暗号無電に不具合がでる、と言っていたが、では、もしかするとあの暗号文は不完全なもので、その内容をウォッチ大佐が直接伝えに来た、ということであるのか。暗号というものは、最後まで伝えきることができなくとも、最初の一文か二文だけでとるべき行動がわかるようにするのが常識だ。が、あの文章はまず周辺の情報を重ねたせいでとるべき行動が伝わらないままになっていた。一体誰が送ったものなのかは知らないが、帰ったあの暗号文を書いたものを、更迭とまではいかないが、せめてN研謹製の誰も使いたがらない歩ける寝袋に入れて〈昭和通商〉周辺を歩かせてやろう。因幡は心に誓った。
「そんじゃがんばってねー。敵さんちょっと、英国秘密情報部の送り込んだ特殊部隊とかマーダーライセンス持ちの凄腕スパイとかでないと倒せないようなのばっかだからきっついかもしれないけど。踏ん張ったら圧倒的成長だよー」
 やはり、よくわからないことを言う。いや、英国秘密情報部の送り込んだ特殊部隊、というのは、ラインハルト・ハイドリヒを襲撃したもののことだったか。が、後の方は全くわからない。わからないままに、
「がんばってみます、それに、あの人がもう動いているのなら、きっと大丈夫。そんな気がするんです」
そう言っていた。それは、本心からの言葉だった。考えてみれば、一緒にいた期間など、わずか二日程度のことであるし、これという活躍を見たのは、自分が焦って暴走してしまった空港でのわずかな時間だけだというのに、相変わらずどうしてここまで信用する気になれるのか不思議な気はした。が、あの少女、メトゥも同じようにあの青い瞳の密偵の言葉[#「言葉」に傍点]を信じるようになっていた。そう思わせるような何かを、彼は持っているのかもしれない――。そう因幡が思った、その時だった。
「あんなものを心の中に入れるな」
 ウォッチ大佐が言った。それまでのふざけた口調や表情とは打って変わって、真剣な、とげとげしい口調だった。それが、千年のことを言っているのだとは、すぐに理解できた。だが、あんなもの、とはどういうことだ。いや、もしかすれば、他人をあてにしすぎている、と思われたのかもしれない。だが、それでも、その言葉はあまりにも失礼な気がして、因幡は文句を言った。
「あんなもの、と言うことはないでしょう。アプヴェーアの大佐だかなんだか知りませんが、何を知っているって言うんです」
 表情を消したウォッチ大佐の顔は、意外にもいかにもゲルマン系らしい、ドイツの将校として見栄えのするものだった。しかし、艶のない白い髪のせいか、どこかレプリカントじみている。
「所属はアプヴェーアじゃないんだがな。まあいい、知っていることか。……知っているというなら、黒い時計の旅路の果ての景色。高い城の男が占う世界の真実。ファーザーランド、ああ、偉大なるファーザーランドの終焉――そうだ。おまえたちには信じられないような光景を見てきた。オリオンの近くで燃える戦艦。タンホイザーゲートのそばで瞬くCビーム。――そこは、降るような星(Full of Stars)を抜けた宇宙のどこかにある小部屋かもしれない。それは銀河中心部にたどり着いた先にある時空管理官の部屋と呼ばれるのかもしれない。あるいはグノーシス主義者はそここそをホロス=スタウロスと呼ぶかもしれない。あるいはそこに住まうものこそが、我らに幼年期の終わりを告げるのかもしれない。――時間と空間の果て、どこかむこうにあるここ、観念を超越したもの、平行宇宙を横断した無数の視差(パララックス)の歪み。究極の中心。――交叉時点(クロスホエン)
 ふざけるのをやめたウォッチ大佐は、しかし、やはり頭がおかしいとしか思えないことを口走り始めた。聞くべきことは聞いたし、もうこの男に関わるのはやめよう。そう思って因幡が数歩、そのまま後退りをしはじめたが、まだウォッチ大佐は話し続けている。
「そう、そこはすべてが始まった、始まりつつある、そして始まるであろうところ。交叉時点。――あれは、そこから流出した狂気に触れてしまったものだ。あれはたしかにかつてのアースヴェルスであり、新たなる約定のアダムだ。だがそれゆえに、あれはすべてを自分の物語に巻き込んで引きちぎっていく」
 因幡はさらに数歩を後ろ向きに進み、そこでようやくウォッチ大佐に背を向け、走り出した。しかし、それでも背後から追いついてきたその声は、因幡の耳に届いてしまった。
「千年、一〇〇〇の年月、ミレニアム、杉原もよく名付けたものだ。忘れるな、若者。千年というのは虚構だ。アイオーンに対するアルコーン、プロパトールに対するデミウルゴスだ。この足の下に作られた偽物の千年王国(ミレニアム)と同じように。我々が生きるこの偽物の千年紀(ミレニアム)そのもののように。無論、あらゆる歴史上の、どのような事象も、一度当事性を失ってしまえば虚構にすぎないがね。だがたとえそうであっても、いや、そうであるからこそあれを心に入れてはならない。忘れるな、若者。あれは――」
 最後の言葉、いや、名前は、風に流されかけたが、その名すらもやはり、因幡の耳には届いてしまい、因幡の足をもつれさせ、風の吹く尾根にその体をたたきつけた。
 その名は、しかし、因幡には到底信じられないようなものだった。それと比べれば、植物状態であるはずのラインハルト・ハイドリヒが実は覚醒していて、チベットの奥地でなにやらたくらんでいる、という方が、遙かにまだ理屈として理解できる。
 そうだ。ラインハルト・ハイドリヒが何かをたくらんでいるのだ。その何かは、千年が知っているはずだ。因幡は起きあがった。千年の元に向かうべきだ。〇時に落ち合う約束だったが、この際そんな約束を守っている暇はない。本来の、ハオ氏をだましきって、ついでに同国の競合組織の実力をはかるだけという牧歌的な、そう、因幡は緊張しきって気持ちが逸っていたが、今思えば余暇に釣りを楽しめるような新人密偵の肩慣らし程度の仕事は、もうこうなってしまっては成功するもしないもない。
 あの抜け道に向かうために山を下る途中、因幡は妙なものを見た。無数の、様々な年代、様々な組織のナチの制服がひしめき合う吊り橋だ。ハオ氏の部下、地下「千年王国」のスタッフたちが、蟻の巣をつついたように逃げ出しているのだ。
 本来は、逃亡者には鳥葬の運命が待っていたのだろうが、あまりにも逃亡者が多すぎるためか、それとも、スタッフの監視担当者や処刑を行うものも一緒に逃げ出すような始末であるのか、橋に殺到する仮装の行列は留まることがない。そう思っていたときだった。
 谷に、警報音が鳴り響いた。あの、人を食らう猛禽の来ることを告げ、また猛禽を呼ぶ合図でもある、あの音だ。逃げ出したものが少なかったのは、その処刑法を知らないものも多かったということだろう。橋の半ばで、悲鳴を上げて人の波をかき分けようとしたものがいたのは、彼が死刑執行人であり、その音の意味を知っていたが故のことだったのだろう。だが、前後に人のひしめき合う橋から一人だけ逃れることなどはできず、また、音の意味を知るものが動こうとした方向が、人によって此岸であったり彼岸であったりしたせいで、橋の上に生まれていた流れは逆に止まってしまうこととなった。
 そして、逃げ場のない獲物の満ちた中空の橋は、夕暮れの中を来たる翼を持つものにとっては格好の餌場に他ならなかった。
 因幡は、その音を聞いたときからすでに斜面を落ちるようにすべりおり始めていた。丁度その時洞窟を出たあたりに居た幸運なものの中には、同様の行動をとれたものも居た。が、大半はそうではなく、谷の上からは猛禽の笑うような鳴き声と、悲鳴とが降り注いでくる。いや、降ってくるのは悲鳴だけではなかった。猛禽から逃れようとしてのことか、あるいはパニックに陥ったが故のことか橋から身ひとつで離れてしまい、悲鳴とともに、因幡よりもずっと速く、谷底へとたどり着いてしまうものも居たのだ。
 幸いと言っていいものか、頭上に格好の餌場があるために、墜落した人間の死体を啄みに来る猛禽は居なかった。まだ居なかった、という方が正しいだろうか。何しろ、谷底に着いた因幡が頭上を見上げると、他の山にすむものもすべて集まっているのではないか、というほどの猛禽、いや、猛禽のみならず肉を食らうことのできる鳥が、空を覆っていたのだ。まるきり、谷は鳥によって蓋をされたようなありさまだった。
「畜生、こんなことになるなら、こんなところにこなけりゃあ良かった」
 因幡と同じような行動をとることのできた幸運な男が、しかし自身の幸運を喜ぶのではなく、不幸を嘆いていた。
「戦線に入ったままだったら、少なくとも故郷じゃ愛国の壮士様で居られたってのに――あんな洋鬼子の口車に乗せられて戦線を離れたもんだから、もうどこにも帰れねえや」
 洋鬼子、とは西洋人に対する中国語の蔑称だ。言葉の内容を鑑みるに、それは雇い主であるユリウス・ハオ氏を罵ったものか。服装は中華風のものだったが、話す言葉はドイツ語であるし、顔立ちも西洋人寄りで、地下王宮もあの有様であるから、彼らからすれば西洋人と見えるだろう。つまり、ここのスタッフというのは、ハオ氏が反北京派――それは日本側や体制側の呼称であり、当人たちの多くは戦時中からの連続した名称である『抗日戦線』を名乗る――の闘士から引き抜いてきたものである、ということのようだ。
「中で何が起きている」
 壮士崩れの一人に近づき、因幡は聞いた。
「ああ?なんだてめえ村の奴か?……本物が来たから、俺たちはお払い箱だってのさ」
 本物、とは、ハイドリヒ率いる親衛隊員のことだろう。だが、お払い箱というのはどういうことだ。
「詳しく言え」
「だからてめえはなんなんだよ。なんで言うことを聞かなきゃならねえんだ。――いや、良いぜ、教えてやる。でもその代わりに――」
 男は、中で起きたことを教える代わりに服を代えろ、といってきた。男が着ていた突撃隊(SA)将校の制服と因幡の洋服とを交換したあとに男が話したところによると、中ではまず、スタッフに集合がかけられたのだという。表向きは北京で実業家として活動するハオ氏が留守にする前に、スタッフたちに注意事項などを伝えるため集合がかかることはままあることであったため、誰も疑うことなく食堂へと集まった。が、そこで待っていたのは――
「本物のみなさんの銃口だった、ってわけよ。へへ、だから、その服を着てたら殺されちまうってわけだ。悪く思うなよ、だまされたおまえが悪いんだ」
 そう言って、壮士崩れの男は崖の階段へと向かい、あがっていった。それを見て、猛禽の嘴を逃れられた幸運なものたちは上着を脱ぎ捨て、我先にと階段を上っていく。
「おいあんたら!登らない方がいいぞ!」
 因幡は叫んだが、彼らは聞く様子も見せない。一〇〇〇段近い階段を彼らは必死に登り、初めの一人が崖の狭道へと顔を出した。そして、彼らの幸運は、そこまでだった。
 猛禽の声に混じり、谷に銃声が響いた。先頭を切って走っていった洋服の男もその銃声で倒れ、せっかく上った崖の底へと、一瞬で舞い戻る結果となった。崖の底に全身を激突させたときにはすでに彼の脳は活動を停止していたので、長い階段を登り切った労力を惜しむことはなかっただろうが。
 まだ崖に登っていなかったか、あるいは登ってはいたが銃弾の届かない場所にいたものは、その場で、空を覆う猛禽を背景に、崖の下に向けて小銃を構える、鷲と髑髏の印を身につけた黒衣の集団を呆然と見上げるほか無かった。崖を登り切った先には、親衛隊の一団がすでに待ちかまえていたのだ。因幡は、予想をほんの少しも裏切らない展開に、どっと疲れきっていた。ナチスドイツ親衛隊が、一つの集団を抹殺せんと行動するにあたり、いちいち細かなことに注意するはずがないのだ。こんな話がある。長いナイフの夜、つまりナチ党の私兵組織である突撃隊や、ナチ党に敵対する人物を片端から粛清したあの事件に際し、ルートヴィヒ・シュミットという突撃隊の幹部も抹殺の対象となった。ルートヴィヒ・シュミットはその時自宅を離れていたおかげで難を逃れたのだが、ルートヴィヒ・シュミット抹殺の命を受けて動いた親衛隊員たちは、何をしたか。ヴィルヘルム・シュミットという、同姓の音楽家を連行し、処刑したのだ。
 親衛隊員たちは、崖の下をのぞき込んでいた。しかし、わざわざ降りてくる気配はなかった。処刑のために、そこまでの労力を使う気はないようだ。階段は細い。せいぜい、二人が同時に降りられる程度だ。そこでもし戦闘になれば、相手を撃ったところで自分たちも道連れに引きずり落とされる可能性が高い。どのみちいつかは上がってくるものと高をくくっているのだろう。あるいは――崖の下であれば自ら手を下すまでもないと思っている?しかし、なぜ。
 無論、因幡は今すぐに答えのでない疑問のために、それ以上は脳を動かさない。疑問は脳の隅にとどめ、因幡は元々しようと思っていた行動へと移る。
 軽石を避け、地下へと続く抜け道へ入ろうとしたところで、中に先客が居るのを因幡は見た。
「――なんや、アキカズくんか、ビビったわー」
 それは、千年だった。少しばかり疲れたような顔をしているが、西洋人の顔と不釣り合いな関西訛の言葉をしゃべる〈千畝機関〉の密偵、千年にほかならなかった。千年は、鞘を失ったのか抜き身のままの軍刀を先に地上へと置いてから、自分も上半身を穴からひょこりと出した。
「合流できてよかった、ちょうどええ、外の様子教えてくれるか」
 ウォッチ大佐から聞いた話と、最後に告られた名が心に引っかかっていたが、こうして直接話して、表情を変える様子を見ていると、そんなものは狂人の戯言だったのだ、と思えてくる。一瞬でも、あんな話を信じかけた自分がどうにかしている、と因幡は思った。思おうとした。
「外はすっかり鏖殺の谷(バビ・ヤール)だ。上空には人喰い鳥、谷の上には親衛隊員。すっかり猛禽どもに頭を押さえられた状態だな」
 千年の軍刀に脂をぬぐったあとがあることと、少々赤黒いしみの付いた服をまとっていることに少しばかり気をとめつつ、因幡はごく簡単に説明をした。穴から全身を出した千年も、辺りを見回して納得した様子だった。
「そうか。黒服連中、下はほとんど見てへん状態やな」
 千年は親衛隊員の立つ崖の階段の上あたりを見上げながらなにやら考えていた様子だったが、やがて、何かを決めたようだった。
「アキカズくん、今ちょっとかなり立て込んでるんやけど、まずやることがある。人命救助や」
 人命救助。やはりこの人は、どこまでもヒーローのように、英雄のように振る舞うのだ。暗い疑惑に満たされた心中に一滴、明るいものが落とされる。聞くべきことと、伝えることが大量に存在しているにも関わらず、それを意図的に意識の下に押し込めて、因幡は、
「ああ、わかった」
そう返事をしていた。しかし、意図的に押し込めようとするほど、押し込めようとしたものは浮き上がってしまうものだ。
 そう答えたときに見返した千年の顔は、やはり、疲れの色を隠し切れていなかった。そのために、その顔は少しばかり老けて見え、その上、抜け穴を通ったせいで脱色した金髪は汚れにくすんでいて、色を濃く見せていた。
 因幡は、チベットへと向かう列車の中で、千年の顔が誰かに似ていると思い、そして誰に似ているかを理解したが、他人のそら似だと一笑に付したことを思い出していた。
 そして、その誰かの名こそが、あの黒い時計の眼帯をした奇妙な大佐が口にした名でもあったのだ。
 ――忘れるな、若者。あれは、アドルフ・ヒトラーだ。
 ウォッチ大佐の言葉全体は、やはり意味が分からない、狂人のそれとしか思えない。しかし今、夜へと向かう鏖殺の谷底で見た“千年”という暗号名を持つ密偵は、褐色のあの制服をまとい、確かに、アドルフ・ヒトラーを写した膨大な写真のうち、その壮年期を写したものに、あまりにも酷似していた。

◆死の陰の谷

 どこにも居ない相手から長い話を聞き終わり、千年は総統の執務机を模した机からふらりと立ち上がった。執務机の上には、先の潰れた万年筆が落ちている。万年筆の先は数度執務机の上へと刺さったため、インクの溜まったくぼみが数か所にできていた。
 千年は重い足取りで執務室奥、非公開の部分へと続く戸を開けた。二階のバックヤードとそこは同様の構造になっていて、開けてすぐ、エレベーターホールがあった。総統官邸を模した三階層の公開部分にスタッフがいないことはわかっていたが、しかしバックヤードにもあの仮装が一人も見受けられないのは不思議なことであった。時計を見る。ウォッチ大佐の話を聞いてから、三〇分ほど経っているようであった。あたりは先程に比べて妙に暗くなっている。通常の電灯が消えていて、避難誘導用と思しき、非常用照明しかついていないのである。主電源が落ちているらしい。
 エレベーターは非常用の電源で動いているらしく、照明こそ暗くなっていたが、問題なく動いてくれた。階段をこの暗い中で探すのは一苦労であるから、ありがたかった。
「クソが、何でそないなこと今まで黙っとった」
 湖畔に面した搬入口のある最上階層につくまでの間に、千年は吐き捨てる。
「だんまりか。いや、これ以上お前の声なんざ聞きたないわ。何も言うな。黙ってろ」
 小さなベルの音が鳴り、エレベーターは停止した。最上階層も、やはり照明は暗く、人の姿はない。密偵という職業の本分からすればありがたいことだが、妙なものは妙だ。床にあった何かに千年は躓く。見ると、太いコードが何本も床を這っている。普段からこのような有り様ということもなかろう。つまり、あのナチスの飛行船が来てから設置されたものということである。そのコードを辿って行くと、そこには、発電室と書かれた部屋があった。非常用電源が置かれているのかと思ったが、中を覗くと、何やら複数のパイプのようなものが斜めに設置されている。コードは、パイプにそって階段状に設置された足場を這い、下方へと伸びている。下からは――水音が聞こえている。
「……水力発電か」
 この巨大な施設全ての電力をディーゼルだのガソリンだのを使った発電機だけで賄おうと思えば、燃料を運ぶだけで大変な労力である。思えば、この地下王国内部で聞こえているモーター音は、水力発電の水車が回る音であったのか。角度からして湖そのものを水源としているわけではなく、地下の水源から直接流しているのであろう。
 地下王国の電源が非常ように切り替わっていたのはつまり、レーザー兵器を作る工事のために主電源を奪われてしまったから、ということであったらしい。鉄仮面がハオ氏ニコの施設を作らせたのは、水力発電施設のためか。なんとも、気宇壮大かつ迂遠な計画ではないか。
 では、このコードを切るか、と思ったが、そんな工作だけでは、また配線は繋ぎ直され、千年が警戒対象となって終わりである。もっと、根本的な破壊が必要である、と、一〇年来の実績を持つ壊し屋は断定した。
 怪しまれないうちに発電室を離れ、千年が搬入口近くにまで歩いてきたところで、人の声が聞こえてきた。
「わかりました、では、どうぞその通りに、スタッフはすでに食堂へ集めております、私の方も鼠一匹逃さぬよう善処いたしましょう」
 それはハオ氏の声で、何とも剣呑な話をしている、などと思っていると無数の靴音が搬入口からなだれ込んできた。あわてて千年は脇に退いて、黒服の波をやり過ごした。
 黒服の波の後からは、疲れ切った足取りでハオ氏が入ってきた。湖の桟橋の上には例の鉄仮面が残って、工兵部隊がなにやら湖畔で作業するのを見守っている。ハオ氏は、千年に気づかずに、あるいは気づいているが構う暇もなく、通り過ぎていった。
 注意を払われないならば、大手を振って行動していいと言うことだ、とばかり、千年はそのまま湖畔に出た。上空には、黒い装甲飛行船が三機浮かび、物資を湖に投げ落としている。これが、水の濁りの原因であったのか。
斜面の頂上近く、ほんの僅かにある緩やかな丘陵部に目をやれば、よくそんなものを持ってきた、と言いたくなるほど大量の発電器を並べている。これは水力発電だけでは足りない電力の出力用と言うことでわかるとして、工兵隊は桟橋のすぐ隣、渓谷に続く湖の出口をふさぐ大岩とその少し下流にも何かを設置しているようだ。何をしているのか、と近づこうとしたところで、千年は輸送機から運び出されている大量の箱を見て、愕然とした。そこに書かれている文字は、TNT。爆薬である。
「――はい、指向性の強い仕掛ですので開口部も大きなものにはなりません。あとは反射パネルを設置すればじゅうぶんこちらの夜半には――」
 鉄仮面の隣で、工兵隊の責任者らしき士官がそんなことを説明している。つまり。レーザー兵器を作るにあたり、パラボラを、湖そのものに反射板を並べて代用しようというのである。
 とんでもない無茶をする。一発だけで用が済むとはいえ、正直な感想がそれであった。ハオ氏の真偽どころか本当に存在するのかもわからない呪いのタネを掘り起こす計画も無茶苦茶だが、あれは、その上に自分の趣味の王国を作ると言うのも半ば目的化していたし、同業者として心情的に理解できる部分もあった。が、こちらは何が鉄仮面をそこまで駆り立てるのか、全くわからない。
 そのほかにも、丘陵部に仮設の滑走路――これは、自分たちが帰るためのものであろう――を作っていたりしているのを千年は確認したが、それ以上の収穫は今のところ得られそうになかったため、再び湖畔の搬入口へと戻っていく途中、
「やあ博士。ウォッチ大佐の箱だか柩だかのオカルト話の真偽はいかがかね。つまりはまあユリウスのオカルト趣味でもあるわけだが」
背後からそう声をかけられた。くぐもった、ややしわがれているが甲高い声。あの鉄仮面だ。
「はい、ええ、本物の可能性がありますね。条件がわかりませんので確かめられませんが」
 鉄仮面は、表情こそわからないが、その答えが意外だったらしくそれまでまっすぐ前を向けていた顔を、千年の方向へと向けた。
「ほう、本物。……なんともな」
 しかしそれ以上には何も言わず、鉄仮面は千年を追い越してエレベーターに乗り込み、下へ降りていった。千年も下に降りると分かり切っているのに、待とうという気もみえなかった。待たれて、一緒にエレベーターの中で時間を過ごさねばならなくなっても困るのだが。
 ともかく、この谷が水没する、と言うのが当面、もっとも対処すべき情報である。あの工兵隊士官は夜明け、すなわち明日に間に合わせる、と言っていたが、つまりは少なくとも今日の間はレーザー兵器そのものについては大丈夫という事だ。構造物がわかりやすいのと、“アンドレアス博士”が今のところまだ疑われていないおかげで、あの急拵えの構造物ならば破壊する方策はいくらでもある。何となれば、鉄仮面の首をたたき落としてもいい。千年の本業は、破壊工作と暗殺である。――あの、ウォッチ大佐とか言う変な男には不覚をとられていたが。
「あいつはたぶん別格……いや、反則や。お前と同種の人間とちゃうか」
 千年は再び最上階に戻ってきたエレベーターに乗り込んで、地下のボタンを押した。大手を振って出歩ける、というのはいいものである。エレベーターの壁に背を預けて一〇数秒、小さなベルの音とともにドアはすぐに開く。最上階からB4までにしては早い。途中の階で誰かがボタンを押しただろうとドアが開くのにあわせてボタンのある側に身を寄せた、その前に、血塗れの男が駆け込んできた。SAの制服の仮装をした、ハオ氏の部下だ。何だ、と千年が思っているうちにその仮装男は千年を外へと突き飛ばし、エレベーターの閉まるボタンを何度も連打した。ドアは、あのゆっくりとした速度で閉まり始める。が。
「ひっ、うわあ」
 ドアが閉まりきる前にドアの隙間に小銃の先が差し込まれ、そのまま引き金が引かれていた。狭い金属の箱の中に、耳をつんざくような音が響く。
 一連の流れをエレベーターの外に尻餅をついて見ていた千年は、ひとまず、エレベーターに小銃を突っ込んで引き金を引いた親衛隊員を見上げつつ、軍刀を握った。
 しかし親衛隊員は、エレベーターの中を一瞥すると、即座に再び公開部の廊下へ戻っていった。千年は、というか“アンドレアス博士”は襲撃対象ではないらしい。軍刀をすぐに抜ける体勢にしながら、何が起きているのか、と千年はスタッフオンリーのドアから廊下を覗いた。
 そこは、血の海だった。ハオ氏が集めたという「本物」の制服の仮装をした部下たちが、廊下のあちこちに倒れて、衣装と内装とを汚している。正真正銘の本物に殺されたのであろう。ハオ氏がなにやら、そんなことをしては云々と話していたのは、このことだったのか。
 数人の、こちらは正真正銘現役本物の親衛隊員が、死体など構わない様子で駆けていった。黒服たちはトイレの入り口の脇に背をつけ、一人が中を確認してハンドサインを送ると、逆の側に背をつけていた男が中に手榴弾を投げ込んだ。中からは悲鳴が聞こえたが、その次に中に向けて数度射撃が行われた後には、それも聞こえなくなっていた。
 ――これは、放っておくべきだ。関わるようなことではない。そんな暇もあるまい?
「いや、そないなこと言うても、戦闘ならまだしもここまで一方的なもん放置するってのも……」
 千年がそんな馬鹿げたことを口にしているうちに、倒れていた死体の中の一つが動いた。いや、死体ではなく、死んだ振りをしていたのであろう。千年は戸を大きく開けて、生き残りに対し、中に入るよう手で示した。
 しかし、その男は、満身創痍の様子であるにも関わらず
洋鬼子(ヤングイズ)
と、西洋人への罵倒語を口にしつつ、千年に殴りかかろうとした。言うまでもなくそんなものは、千年には当たらない。逆にその手を掴んで床の上に投げ飛ばして戦意をそごうとする。だが、男は、文字通りの死にもの狂いの形相で、自分の体に刺さっていたものだろう、血まみれの銃剣を手にめちゃくちゃに切りつけてくる。意外なことであるが、剣道や剣術に通じていない人間が、ただ自分の身を守るべく恐慌状態に陥って刃物を振り回している状態というのは、剣豪と呼ばれるような腕の持ち主でもなかなか相手にしづらい。剣筋を読む、と言うことができないためである。千年もまた、この状況は苦手だ。こう言うときこそ石などを投げればいいのであるが、あいにく投げられそうなものもなく、仕方なく千年は革の鞘に収まったままの軍刀で相手の肩あたりを突き、動きが止まったところで小手をたたいて銃剣を落とさせた。
「落ち着け、敵じゃない、助け――」
 助けてやる、男の腕を今度こそ両手で押さえつつ、小声でそう伝えようとしたところで、銃声が響いた。千年の眼前で男のこめかみがはぜる。
「大丈夫ですかあ!あの変な国防軍の人が言ってた博士ですよね!あ、変って僕が言ってたの黙っててほしいんですけど、でも学者さん、結構やりますね、東洋のジュージュツとかそういうやつですか」
 廊下の向こうから戻ってきた黒服の一人が、構えていた小銃を肩にかけつつ声をかけてきた。後からさらに二人ほどが角を曲がってきて、片方が銃剣をそこに刺さったままにしていたことを千年に詫び、もう一人が装備品の手入れをしていないからだと銃剣を銃の先から落としてしまった同僚をこづいた。
「いやあ、これは柔術じゃなく剣術ですね。先にやった腕をとる奴が柔術です。しかし、大変そうですねえ」
「ええ、そうなんですよ。ここの階、ちょっとこういう感じで立て込んでるから、近づかない方がいいですよ。明日まで、調査がんばってくださいね。失礼します」
「あはは、そうですか、ありがとうございます」
 期日が明日、というのは隊員たちには知らされており、“アンドレアス博士”もそれを知っているものと思っているらしい。ふざけるように敬礼をして去っていく親衛隊兵の青年たちににこやかに返事をしつつ、千年は三十二年式軍刀の鞘を払っていた。
 ――
 ――――
「洋鬼子やない。俺は、洋鬼子やなくて――……俺は日本鬼子(リーベングイズ)や」
 二階で起きている虐殺を止めるだけの時間はないと判断した千年は、エレベーターの中で、親衛隊員の略帽の裏地を使って血を拭った軍刀を鞘に戻そうとしながら、ふとそうつぶやいた。衝動に突かれるまま、立て続けに三人の骨を叩き斬るという荒事は刀身に無理な力を加えてしまったようで、真ん中あたりがかすかにへの字に曲がっており、細身の鞘には収まらない。仕方ないので鞘はその場に捨て、あとは抜き身のままでぶら下げていくことにした。
 エレベーターのパネルに表示される階の表示がB4になり、小さなベルの音とともにドアが開く。上があの有様であれば、監視カメラなど気にする必要はあるまい。抜き身の刀をもって小さな穴を通る気もなかったため、千年はエレベーターを出てすぐの地面に曲がった軍刀を突き刺した。
 と、千年はそこに、以前と違う蒸し暑さ、熱気のようなものがあることに気がついた。照明の方は、以前も薄暗かったが今や真っ暗で、エレベーターが閉まれば何ももう見えないのではないか、と言った具合だ。
 エレベーターが閉まらないよう片手で押さえながら、千年は周囲を見渡した。暗い中、エレベーターの明かりに無数の瞳だけが反射している。
「あんた、学者先生か。すまない、早く閉めてくれ、カメラに写るとまずい」
 千年の立つ位置は明るいので、向こうからこちらを見ることはできる。その声は、村長のドージェのものであるようだった。
「大丈夫。上はそれどころじゃない。本物のナチスが来て、偽ナチス連中は仕事どころじゃなくなっているんだ」
 カメラを意識しなくていいと知り、誰かが配電盤を操作したようだ。元からあった薄暗い裸電球が点り、その後すぐ工事現場用の電灯が持ち込まれ、地下は一気に明るくなった。
 改めてその空間を見渡すと、そこには、無数の顔があった。昼に下の階層で見た顔のほかにも、小さな子供や老人もそこには並んでいた。
「ここで集まって話をしているんだな」
 全員が集まろうと思えば確かにあの隠れ穴では足りない。それにしても、こんな危ない橋を渡っていたとは驚くばかりだ。
「いや、話はもう付いていたんだ。今は、種子の鎮守者たちを呼びに行くところだった」
 答えたのは、ニマだった。
「たち、と言っても、色々あってメトゥともう一人しか今、この土地にはいないが、何の話だったんだ?」
 ニマは千年の言葉にやや驚いたようだったが、もう一人は爺さんだ、と言うと胸をなで下ろしていた。どんな極限状態でも、青春は青春であるようだ。
「向かい側の崖の階段には、休憩のためのくぼみが踊り場ごとに作られているのは知っているか」
 この谷についてすぐ、猛禽から逃げるために逃げ込んだあのくぼみのことである。千年はうなずいた。
「あのくぼみの下から一〇番目に、山の向こうに抜けるための抜け道があるんだ」
「抜け道。――それじゃああなた方は」
 そうだ、と村長がうなずいた。
「学者先生、あんたの頑張りを無にするような話になってしまってすまない。けれど、今考えつく限りの最善の策がそれだったんだ。……恥ずかしい話だが、戦ったり、抵抗をしたりはできそうになくてな。身ひとつで、一人も残さずに逃げ出す。それしか、思いつかなかった」
 実のところ、そういう話のレベルを超えた状況が展開されているのだが、村長たちはそれを知らない。――逆に言えば、それを知らずに、その決断を行ったわけであるのか。
 千年はにっこりと笑い、村長の前に歩み寄るとその手を取った。
「ああ。それは少しも恥ずかしい事じゃあない。……ここから遠い土地に、そうやって身一つで、自分たちを脅かす状況から逃げ出した人たちが集まってできた場所があるんだ。そこに住んでいる人たちは、決してかつて彼らを脅かしたものと戦ってるわけじゃない。ただそこで生きているだけでじゅうぶん、その人たちを脅かした連中への抵抗になる。そういうこともあるんだ――よく考えて、みんなをまとめてくれた」
 かなりぼかした説明を行ったもので、村長に言っていることが理解できたかどうかはわからなかったが、千年がその決断を受け入れ、祝福していることは伝わったようだった。チベットの言葉で、おそらくは謝礼の意味であろう言葉を口にして、村長は深く頭を下げていた。
「だが、本物のナチスが来ている、と言うなら、外に出るのは真夜中まで待つ方がいいだろうか。どうも、地揺れの様子からするに山頂湖の方で何か大がかりな工事か何かをしているように思うんだが」
 外の様子を見ずにそこまでわかるとはさすが、地元の住民である。しかし、今は逆に、そんな事を言っている暇はない。
「いや、可能な限り早く逃げ出すべきだ。……実を言うと、本物の連中は、偽物を絶賛処刑しているところでね。いいか、それに、今から言うことを聞いても驚かないで、冷静でいてほしいんだが――しかも連中、山頂湖の大岩を爆破して、湖の中身を全部谷に流してしまおうとしてる」
 前置きをしていたが、それでもしかし、そこに集った村人たちの間には、動揺が広がった。だが、パニックが起きはしない。――千年がその気になって話す限りは、人心はその意に沿った動きをするのである。
「その爆破がいつ行われるのかはわからない。ただ、明日までには必ず行われるという。だから、急な話で申し訳ないが、すぐに出発の準備をしてほしい」
 村長がうなずき、力強いチベットの言葉で村人たちに指示をし始めた。村人たちはすぐに動き出す。その中で、村長ドージェの息子ニマが一人、抜け穴へと向かっているのを目に留め、千年はその後を追った。
「メトゥを呼びに行くつもりか」
 図星だったらしいが、ニマは、決まりの悪そうな様子も見せず、
「そうだ。湖で何かが起きているというなら、必ずあいつはそっちにいる。迎えに行かないと」
まっすぐに千年の目を見てそう言った。
「青春だな。……でも、だめだ。ほかの人たちと一緒に抜け道を行ってくれ」
 少年は眉をしかめる。
「置いていけって言うのか」
「いや、俺が探しに行く。俺は今のところ、ナチ連中に敵とは見なされていないからな、お前が行くよりもメトゥも安全なはずだ」
 その答えに、ニマは不満げではあったが、首を縦に振った。その頭を撫でてやったあと、千年はあわただしく工具類から役立ちそうなもの、あるいは武器になりそうなものを選んでいるドージェに視線を向けた。
「村長、ドージェ。今から俺は嬢ちゃんと爺さんを迎えにいく。あなた方は、準備が出来次第すぐに出立してくれ。俺はその後に、二人を連れて後を追わせるから」
 ドージェにそう声をかけると、千年は片手に抜き身の軍刀を握り、谷底に通じる抜け穴に手をかけた。と、そのときちょうど、頭上の蓋が開いて光が射し込んだ。――いや。それとともに流れ込んだものもあった。ひどく生臭い空気、大量の血が流れたときのあの空気である。
 血の臭気に満ちた空気に千年が外へ出るのを躊躇していると、石の代わりに光を遮ったものがあった。〈昭和通商〉営業部員、因幡明和である。外で大変なことが起きているのだろう、ひどく顔色が悪く、不安に満ちた表情が浮かんでいる。
「なんや、アキカズくんか、ビビったわー」
 少しでも不安を和らげてやるべく、千年はなるべく平静を装った声を出した。抜き身の刀を先に外へ出し、後から自分も穴から上半身を出して周囲を確認すると、そこは、修羅の巷にほかならなかった。
 因幡から聞いた話によれば、外でもどうやら親衛隊員によるハオ氏の部下の虐殺は起きているようで、しかも頭上は人喰い鳥たちが覆い尽くしている、と言う状況であるようである。
 死の谷に変貌した普楽の谷底へとのぼった千年は、親衛隊員の待ちかまえているらしき谷の上を見上げた。谷に作られた階段の上の方には死体が転がっており、その途中には、上にあがることもできずに途方に暮れるハオ氏の部下の姿もある。が、親衛隊員たちは、どのみち水に浸かる谷の底に生きた人間がいようがいまいが気にも止めていないらしく、ほとんど下を見ない。これならば、村人たちの脱出は可能か。ただ、下から一〇番目のくぼみ、というのは、案外階段の中盤にある。猛禽の餌場となった吊り橋よりは下であるとはいえ餌場にたどり着けないままの人喰い鳥はどんどん谷の上に増え続けていることであるし、この分であれば、千年が途中まで護衛を行わねばなるまい。千年は、大まかな脱出計画を頭の中で組み上げる。
 千年は因幡に向き直った。伝えねばならないことは多いが、時間もない。千年は、優先順位のもっとも高いことからつぶすことにした。
「アキカズくん、今ちょっとかなり立て込んでるんやけど、まずやることがある。人命救助や」
「ああ、わかった」
 きっとこまごまとしたことを聞かれるだろうと思っていただけに、二つ返事でそう返されたのは意外なことであった。が、やはり千年の持つ情報が気になってはいるらしく、眉根をよせて目を細め、ちょうど近視のものが眼鏡なしでものを見るときのような具合に千年を見つめている。
「今、この下にここの村の人が居る。その人たちは、あのくぼみ、下から一〇番目のところやけど、あそこにある抜け道を通って山の向こうへ脱出する手はずになっとる。で、準備ができ次第すぐに村の人たちは出発することになっとるんやけど、見たところどう考えても護衛が必要やと思うから、その人らにいったんここで待っといてもらうよう伝えてほしいんや。俺は、嬢ちゃんとじいさんを迎えにいく」
 千年が今からとる行動の説明をして、ようやく因幡は我に返ったようだった。因幡は千年の言葉を反芻して、反芻した後、首を傾げた。
「わかった、いや――それだと出立が遅くなって、黒服に感づかれるかもしれないのじゃあないか。村の人たちの準備が整い次第、僕が護衛をして先に発たせるよ。あんたは、心おきなく二人を捜してくれ。あの地形、あの足場で敵がああいう状態なら、僕の技の方があんたより遙かに有利なのはわかるだろ」
 因幡に反論され、千年はああ、とどのような感情の発露とも取りがたい声を出した。
「ええと、せやな、確かに俺やと親衛隊と鳥ども両方相手にできへんわ。ほな、こうしよう。俺が戻ってくるのを待って――――いや、やっぱあかん、それはあかんねん」
 唐突に、千年の声色から作られたような明るさが消え、その声がしゃがれたような低いものになった。
「俺に、あの人たちを助けさせてくれへんか。俺はそないせんとあかんねん。俺にはその義務がある」
 それは絞り出すような懇願だった。因幡はぎょっとして千年を見た。
「それは、もしかして、違ったら申し訳ないが、敵が、アドルフ・ヒトラーが直接に作り上げたものの一部だからなのか」
 千年が、その時浮かべた表情を、外から見たならば一体どのように見えたであろうか。その評定を見たはずの因幡は、問いかけた後に、それを聞くのは得策ではなかった、と気づいたらしく口元を覆った。しかし、かえってその動作は、千年に一つの事実を感づかせてしまっていた。
「アキカズくん、誰かから、何か聞いた?」
 問い返す千年の言葉には、いかなる感情もこもっていない。
「……何も……いや。聞いた、と言うほどじゃない。頭のおかしい男に、妙なことを言われただけで。あいつ、交叉時点だとか千年紀がどうのとか妙なことばっかり言ってて、きっとあれも戯言だと思うんだ。――あんたが、アドルフ・ヒトラーだなんて」
 因幡の口調は、彼にしてはめずらしいほどにおどけた調子で、明らかにその言葉を否定してほしい事のうかがえるものだった。
 しかし、千年はその期待に添うことができなかった。
「ああ。そうか、あいつアキカズくんのとこにも行ったんやな。……なんで知ってるんやろうな」
 頭のおかしい男、とはウォッチ大佐のことであろう。考えれば当然だ。暗号文が届かなかった代わりに伝言を伝えにきたのであるから、それを読むべきだった二人には同じ事を伝えねばなるまい。
「ごめんな。それ、ほんまのことやねん。何でそうなってんのかとかは、今話す暇はないけど。でも、本当のことや」
 千年が、顔の輪郭を隠していた長い髪を手で後ろに持って行き、前髪を左目の目尻の上あたりで分けて見せた。そうすると、あの髭がなくとも、千年の見た目はほとんど三〇代前半あたりのヒトラーの外見に酷似する。今ならば、服装も同じであるので一見するだけでそれとわかるだろう。
 因幡は、不可解なものをみる目で千年を見ている。千年は、因幡と向き合ったまま、その視線から少しでも遠ざかるように数歩、よろめくように後ずさった。
「言うても、この世界の勝者であるヒトラーではなく、別の世界の、敗者であるヒトラーではあるんやけど、まあ、そういうわけやから、せやから俺は、因幡くん、きみの言うとおり、ヒトラーの作り上げたもので不幸になる人を、救う必要がある」
 〈千畝機関〉というのは、実のところそのための組織で、実のところ俺一人のことなんだ、と、続いて千年が口にした言葉は、ベルリンで話されるドイツ語、千年ではなく千年が何者かに偽装するときの言葉であった。
 追い止めるように因幡が一歩を踏み出したが、ひきつった笑顔を浮かべたまま千年はさらに数歩、後ろへと下がり、背を向けた。因幡が、どのような表情をしていたかはわからない。だが、そのとき、ただ身を横たえていた地下王国のスタッフが生き返ったように立ち上がり、
「おい、この洋鬼子さっき、逃げ道があるとか言ったぞ。俺は戦線にいた頃日本人相手にスパイをやってたから、日本語が分かるんだ。確かに逃げ道があると言った!」
そう言って千年を指さした。
「本当か、ここから逃げられるのか」
「どこだ、すぐに教えろ」
 壮士崩れの男たちが千年の元に殺到し、周囲を囲み、そうすれば救われるとでも言うように千年へと向けてこぞって手を伸ばした。千年はそれを押さえるようにあるいはそれに答えるように両手を広げ、低くしゃがれた、しかしよく通るドイツ語を口にした。
「静まってくれ」
 その言葉は、乾いた土地に落とされた雨のように群衆の中に広がり、にわかにわき上がりかけたパニックの熱気を一瞬のうちに押さえていた。――千年がそのつもりで話す限りにおいて、群衆は群衆である限りそれに従う。
 千年は、群衆を大きな岩の陰へと誘った。一カ所に人が集まっていると、上から見たときに怪しまれるかもしれない。その動きを見たほかの生存者たちも、同様に岩の陰へと集まってきた。彼らにも声が届くよう、千年は岩の上へと登り、腰をかけた。
「あなた方に言っておく。俺はあなた方もかならず救おう。だが、今は待ってほしい。後からこの谷の住民たちも脱出することになっている。それまでの間にあなた方だけで動いてしまうと、連中に気づかれるかもしれない」
 岩の陰には、ほとんど残っていないはずの水が、湖での工事の影響でにわかに湧きでたものであろうか、小さく水たまりができていた。水たまりは千年の座った岩とハオ氏の部下たちとの間に存在していたため人々はその水際につどう形となり、千年の言葉を静かに聞いていた。この死の陰の谷間において、何者であるのかもわからない相手の言葉を、である。しかも、それだけで驚くべき事であるのに、その次に起きた出来事はよりいっそう驚くべき事であった。
「畜生――こんなもの」
 一人の男が、自分が着ていた服、ハオ氏に支給されていた親衛隊の仮装を、自らの手で引き裂き始めたのだった。それを見て、ほかの男たちも同様に、自らの仮装を自らの手で引き裂き始める。
 千年はその光景を平静な表情で見ていたが、彼に従う群衆の向こうで、ただ一人感情の濁流に流されていないもの、因幡が畏るべきものをみる表情で自分を見ていることに気づき、困ったようにほほえんだ。
「今は、俺ははぐれた子を探すために行かなければいかないんだ。だから、それまでの間は彼に従っていてほしい」
 唐突に指さされた因幡は目を丸くして、僕か!?と言うように自分自身を指さした。群衆の視線が因幡に集約される。
「それじゃあ、後のことは頼んだ、なるべく早く戻る。……あ、これ、あとで食べようと思ったんだが、そんなことをしてる暇はなさそうだから食べるといい」
 千年は岩の上から飛び降りた。そうして、ウォッチ大佐に北京ダックを取られててしまったので宴席から勝手に拝借してきた珍味を、あるだけ岩の上においていく。持っていても邪魔になるだけであるし、動きまわった時に体中が珍味だらけになるのは、いくら自分の服でなくとも困る。
 男たちがそのよくわからない珍味に手を伸ばし始めたのを見ると、千年は、谷間の斜面側に作られた階段を駆け上がり始めた。
「お、おい、ちょっと待て、おかしいぞ、あんた――」
 因幡の言葉が千年の背を追ったが、しかし千年は、ふりかえることなく階段を駆け上り続けた。

◇英雄なき脱出

 千年が離れたあとも、点心やら何やらの中華料理の宴席で出されそうな食べ物を食べているうちは、ハオ氏の部下たちは静かだった。よく考えれば、敵の前とは行かずとも敵のすぐ足の下であるのに、おとなしく彼らがものを食べている光景は異様だったが、その直前、まるで聖書かなにかを再現するかのように千年が振る舞い、本当にその場にいる人々を統制してしまった光景のほうがさらに異様であった。そのため、因幡は間隔が麻痺してしまっていたのか、その光景を疑いもせず見ていた。
 が、その食べ物がなくなった辺りで、魔術に掛けられたように統制されていた感情の奔流が元に戻り始めたのだろう。ぽつぽつと疑問を口にする者が現れ、やがてそれは、濁流となって因幡へと殺到した。
「本当に助かるのか俺たちは」
「本当にあの人は戻ってくるのか」
「やはり先に出発した方がいいんじゃあないか」
 因幡に殺到した質問は、おおよそそのようなところだった。正直な話、因幡にしてもその質問はしたい。ついでに、先ほど千年にし損ねた質問――中で何が起きているのか、あのハイドリヒたちは何をしようとしているのか、等々の質問もしたい。会話の流れで、どうも千年は因幡がウォッチ大佐から千年に知らされているのと同じだけの情報を知らされていると思ったのではないか、と思われる節が大変強く、千年の本当の名を聞いたときに適切な対応をとれなかったこととくやむばかりだった。
 本当の名、と言っても、あの千年が、ナチスドイツ第三帝国興隆の祖にして、いまもなお帝都ゲルマニアに鎮座ましますアドルフ・ヒトラー総統であるはずがない。顔は同じで、それに――声や、群衆を統制するあの異様な能力についても通じるものがある、としか言いようがないが、だが、まず年齢が違う。今もなお帝都ゲルマニアにアドルフ・ヒトラーは生きて、明日には七一歳の誕生日を迎えようとしている。千年は――本人に聞いてもわかるかどうかは不明だが三〇歳前後といったところだろう。
 分からない。分からない上に、因幡を囲む群衆の立てる喧噪は、いっそう深刻になってきていた。
「なあ、いったいなんだってあの洋鬼子は俺たちを助けようってんだ、本当は生き残りを一網打尽にしようってんじゃ――」
 自分を元抗日戦線のスパイだ、とはじめに名乗った男が、そんなことを言った。因幡は、その男をまっすぐに見据え、つかつかと歩いていった。
 因幡は、千年のように言葉だけで無数の人心を掌握する事はできない。。しかし、それ以外の方法で、複数の人間を一つの方向にまとめる方法は知っていた。
 元スパイの男は、目の前に現れた因幡と対峙するように立ち上がった。実にちょうどいい。
「口答えをするとは何事であるか!歯を食いしばれッ!」
 日本語であれば、そんなところだろう。その言葉をそのまま中国語になおした言葉を腹の底から出した声で言い、因幡は握った拳を元抗日戦線のスパイの頬にたたき込んだ。日本語の方が雰囲気はより出せたはずだが、それをしてしまうと抗日戦線出身のものたちには、因幡の正体までばれる可能性が出てくる。
「良いか貴様等、貴様等はウジ虫だ。口でクソを垂れる前と後にサーとつけろ」
 これは、何か違った気もするが、まあいい。
「あの人は、偉い学者先生だ。貴様等のような壮士くずれのチンピラより遙かによくものを考えておられる。貴様等を救うために学者先生が身を張っておられるというのに貴様等のそのたるみきった態度は何であるか。背筋を正せ、全員修正してやる」
 軍人でも何でもないのにたるみきったも何もないが、もう、統制できれば何でも良かった。仮装を引き破った集団の方も、千年の場の支配の名残が残っていたのかあるいは因幡の雰囲気に飲まれたか、サーイエッサーなどと良いながら因幡の言葉通り背筋をただしたもので、因幡も後に引けなくなって全員の頬を殴る羽目になった。――因幡が密偵になる前の経歴は、陸軍士官学校出身、野戦砲[#「砲」に傍点]科勤務を経た後陸軍大学校へとすすみ優等の成績で卒業という代物だ。最終的に軍人であるのが嫌になって中野学校からの勧誘に応えたという経緯もあるのだが、なんやかやでしっかり陸軍の水の味も覚えている自分が、少しばかり悲しくもあった。
 ともかく、千年のような方向性とはやや違うが、ハオ氏の部下たちを従わせることには成功したようだった。
「……と言っても、先に出た方がいいのは確かだな。我々のことも気にかけているとなると、学者先生のほうも自分の事に専念できないだろう。谷の村人たちの準備が整い次第、出立する。わかったか」
 先ほどの千年は、他人の人心の把握は見事に行って見せたが、どうも行動の選択は、自分の心によって乱されていた、としか思えなかった。自分がアドルフ・ヒトラーに類する何か――当人は「敗者であるヒトラー」だとか言うよく分からない言葉を使っていた。そうであるからヒトラーの作ったもの、つまりは第三帝国に関わるすべてによって不幸になったものを救わねばならない云々、と言っていたか。仮に、そうだったとしよう。しかし、今目の前にあるこの危機の回避方法としてはおかしい、と〈昭和通商〉営業部員は考えざるを得なかった。もともと、ヒーロー然とした行動様式の持ち主だったが、今はそれを上回って救世主願望にとりつかれたとしか思えない有り様ではないか。ただ一人二人のために、大多数を危険にさらし続けるのは明らかに間違っている。千年一人ならともかく、因幡という協力者もいる上でのことなのだから、因幡を使えばいいのだ。それは、陸軍士官あるいは密偵としての訓練や教育の中で培われた、合理的な判断だった。千年は多少気を悪くするかもしれないが、結果的に全員を救えていれば文句もないだろう。
 因幡の問いかけにハオ氏の部下たちからはしっかりサーイエッサーという言葉が返ってきて、なにやらよく分からない集団になってきた。このテンションを、村人が出てくるまで保たなければいけないと考ればいささか頭が痛くなってきた矢先、後ろから物音が聞こえた。大柄な男が、あの抜け穴から顔を出して、周囲を見回している。出てきても大丈夫だ、と伝えると男は谷底にあがり、後のものにも合図を送った。
 谷の住民は、総勢で五〇人ほどだった。なかなかの大所帯だ。これに二〇人あまりのハオの部下たちも加わるのだから、いくら比較的抜け道が低い位置にあるとはいえ気づかれないように――というのは少しばかり無理な話だろう。
「谷の諸君。僕はアンドレアス博士の代理人だ。あなた方を抜け道まで護衛する、二列に並べ。女と子供は真ん中に挟め。武器を持っているなら、その人を後ろに。僕が先頭をいくから大部分はカバーできるはずだが、目が行き届かないかもしれない後ろを守れ、できるな」
 この場合、お願いするよりは命令の口調を使った方が人は安心して従うものだと知っていたため、因幡は命令口調を使った。呼びかけの口調を使って群衆を意のままに扱った千年が、規格外なのだ。期待した効果の通り、村人たちは因幡の言葉に従い二列に並び始めた。
「――後ろには、俺たちがつこう」
 その最中、因幡にそう声をかけたものがあった。あの、元抗日スパイの男だ。いや、その男だけではない。ほかの壮士くずれたちも、その後ろに集まっていた。因幡はもとよりそのように指示をするつもりだったが、自分から言い出してくれるとは、少しばかり彼らを見る目が変わる思いだった。谷の人々は、今朝までは彼らを迫害する側であった男たちが自分たちの味方になっていることに少なからず驚いている様子だったが、あたりに散らばる死体、あるいは今もまだ橋の上で鳥たちについばまれ落ちてくる人体にまとわりついている服と、男たちが自身の手で引き裂いた服を見て感じるものがあったのだろう。特に混乱が起きることなく、むしろ工具を使った急造の武器を壮士くずれの男たちに提供し始めるほどには協力体制が築かれている。
 かくして月が昇る頃には七〇人ほどの渓谷脱出部隊が出来上がり、因幡はその部隊を前に、軍人であった頃のような口調で話し始めた。
「諸君。目的はただ一つ、生きて脱出する。それだけである。武器を持っているものは持っていないものを守れ。以上だ、出発する」
 先頭に立って彼らを先導するべく、七〇人の脱出部隊に背を向けたところで、いささか格好を付けすぎたか、と気恥ずかしい思いが因幡の頬に赤みを差した。が、無論背筋は伸ばしたままで、自信に満ちあふれた七〇人の部隊を率いる部隊指揮官、という格好は崩さない。
 因幡のすぐ後ろには、抜け道の場所を知る村長のドージェがついている。ドージェの手には、釘打ち機を改造したハンドガンがあった。
 音を立てないよう慎重に階段を登り続け、五番目のくぼみをすぎたあたりだろうか。一行の脇を、一匹の小さな鳥が降下していった。夕暮れ時に集まった猛禽は、夜になったというのに未だに羽ばたくのをやめず、しかも吊り橋の獲物を強い鳥たちに奪われてしまったために、あぶれた鳥たちが谷の下までついに飛来し始めているのだ。
 このまま、死体のほうへだけ向かってくれていれば――そう思ったのだが、そうはうまく行かないようだった。それは、因幡が時折注意をしていた列中央部ではなく、列前方、ドージェのすぐ後ろを歩いていた老人に起きた。
「ぐ、あ」
 後ろから悲鳴が聞こえ、因幡は振り向いた。ドージェを挟んで後ろにいたテムジンという名の老人が目を押さえ、うずくまろうとするところだった。ドージェが、ハンドガンを鈍器として使い、老人のすぐ脇へ振り下ろすが、老人の瞳を啄んだ小鳥はひらりとそれをよけ、逆にドージェに襲いかかろうとしている。――異常だ。夜だというのに鳥が飛んでいるだけで異常なのに、小鳥が自ら生きた人間を襲いにくるとは。
 因幡の手から、小石が放たれた。いくら因幡といえども、夜に飛んでいる小鳥に正確にねらいを付けることはできないので、空港でやっていたのと同様、散弾の要領で小鳥の居るあたり全体に小石をばらまく形となる。誰にも教えたことはないが、これには石ざくろと言う名をつけてある。石ざくろのうち一発は、小鳥に命中したようだ。短い鳴き声をあげ、小鳥は落ちていった。
 しかし、それは単なる物事の始まりにすぎなかった。
 山頂湖では夜通し工事が行われているらしく、煌々と明かりが点っている。その明かりのおかげで、因幡ほどに夜目の利かないものでもその光景は目にすることができた。できてしまった。その光景を遠くから見れば、崖の一角に小鳥が群がっている光景と見えたろう。しかし、小さな襲撃者たちによってまさに獲物と見なされた側からは、無数の黒い翼を持つものたちが、四方、いや、上下左右、崖以外のすべての方向から自分たちを追い込んでいるかに見えた。
「走れ!」
 因幡は叫んだ。どのみち、これだけ鳥の声がうるさければ声も足音も崖の上までは通らない。脱出部隊の面々に対してもそれは同様であるが、その命令は、先頭の因幡が率先して駆けだしたことで音として聞こえずとも理解ができたようだった。壁を中心とした鳥のドームを突破すべく、一行は駆けた。
「クソ、こいつら棒きれ振り回しても怯まねえ」
 最後尾あたりで壮士くずれの男がそう叫んだ。それは事実だった。鳥たちは、狂ったように人の目を啄み、肉を啄もうと襲い来る。いや、事実、狂っているのかもしれない。因幡は謎の工事を行っている山頂湖を見やった。鳥というのは、地球の地場を感じ取る器官を持つ。そのため、送電線の近くや線路の近くでは、飛行に支障をきたす鳥も居るという。電磁波の影響を受けてしまうのだ。あそこで何が行われているかは分からないが――もし何らかの高出力の電磁波を使うのであれば、鳥たちはそれに狂わされたかもしれない。
「村長、先頭を頼む!」
 因幡はそう言って、階段を飛び降りた。着地する先は、列中盤、谷の女たち、子供たちの居るあたりだ。
「失礼、少々足場を借りるよ」
 そう言って笑いかけた相手、九〇どころか百を越えているのではないかというような老婆は、頬を赤らめて口元を押さえた。暗がりの中で体格しか見えず、少女だと誤認したのだった。
 女子供の居るところに飛び降りはしたが、ただしこの場合、彼女たちを守ると言うよりは、そこが鳥たちの群の中央に近かったためにそこへ飛び降りた、と言う方が正しい。そこで、因幡は両手にある限りの小石を落とし、連続して打ち出した。空港の格納庫で最後に行ったのと同様の、石かすみという技だ。なお、偽装に使い、敵には当てなかったほう、親指で大きめの礫を打ち出す技は、鳶礫、という名前をつけてあった。飛礫の飛を別の漢字に変えた、ちょっと捻った名前だった。意味は、わからない。無論どれもすべて、口に出したことはない。
 石の霞に打たれ、小鳥たちはおもしろいように落ちていく。――おもしろいように落ちていくが、しかし、それでも、鳥の数は減りそうにない。おそらくは未だに、鳥が集まって着続けているのだ。こうやってしのぎながら一〇番目のくぼみまで到達するのが関の山だ。
「急げ!このまま逃げ切るぞ!」
 片手だけで石かすみを行いつつ、因幡は叫ぶ。因幡の横をすり抜けて村人たちは駆け上がっていく。鳥たちは増えているが、石かすみで迎撃している限りにおいては、均衡状態を保てる。
 因幡はある程度列が進んだのを確認すると、二〇段ごとに左右に向きを変える階段の、踊り場から踊り場へと二度ほど跳躍し、体の向きを変えた。そこで片膝をつき、先ほどまでとは逆の側の手で石かすみを展開する。この崖の階段には、無数の石が落ちている。石の補給は可能だ。やや小規模な石かすみを行っているのとは逆の手で、因幡は小石を拾い集めようとした。が。
「あ、くそ、在庫が」
 打ち出している方の石も、すぐになくなってしまう。この手の、全周囲一斉攻撃技にありがちなこととして、弾切れが早いのが石かすみの難点なのだった。
 今集めただけの小石に加え、石かすみではなく鳶礫もいくらか打ち出すが、やはり散弾でなく、また重い分弾の初速も遅く、ねらいを付けても飛んでいる鳥には当たるものではない。石かすみの展開がなくなると、鳥たちはたちまち人をねらい始める。とにかく、弾を切らしてはならないと集めるのが間に合った分から打ち出しはするが、散発的なものであり、とても全体をカバーできるものではない。さっきのを早く、と上の方から急かす声が飛んでくるが、一度袖の中に入れる必要がある必要上、そう早くもできないのだった。
 と。因幡がひざをつく踊り場から次の踊り場までの谷側に、複数の足が並んだ。かと思うと、かすかに風を切る音が複数、同時に鳴る。この音には聞き覚えがある。この音は――
「早く石を補給して!こっちの矢は打ち切ったら終わりだから!」
 それは、小型のクロスボウのようなあの弓矢だった。村人たち、特に少女たちがそれを身につけており、鳥の壁に向けて放ち続けている。メトゥがつけていたのと同種のものだ。
「感謝する!打ち切ったらすぐに走れ!」
 少女たちに時間を稼いでもらっている隙に因幡は小石を可能な限り補給し、今度はポケットにも詰め込んだ。――今度から、石の補給の方法については改善するべきだ、と因幡は頭の中にしっかりと書き付けた。
「もう大丈夫だ、矢はもういい、温存してくれ!」
 少女たちが再び列に混じり、駆けだす。列全体としては、すでに最後尾の壮士くずれたちが脇をすり抜け始めていた。壮士くずれたちも、飛び道具を持たないなりに重機をばらしたものであろう鎖を振り回したり、はたまた網を投げたりしている。少なくとも、この鳥の襲撃はしのげそうだ。因幡はやや安堵しつつ、再び跳躍した。跳躍しながら、
「あるだけ食らえ――石かすみ・最大だ」
 誰にも聞こえないであろう事を良いことにそうつぶやき、宣言通り、最大級の石かすみを散布した。崖を背に、くまなく石の弾幕が張り巡らされる。
 石の弾幕に打たれた鳥たちが次々と落ちていくのを背に、因幡は先頭の位置へと着地した。ドージェも、釘打ち機のハンドガンでそれなりに善戦していたようだが、階段を縦横無尽に跳びまわり、なにやらよく分からない技を使う因幡のことをなにか、妙な生き物を見るような目で見ている。
「なあ、あんたはいったい――いや、良い。言うな。何も訊かない。言われても聞かない」
 それは、気遣いによるものと言うよりは、これ以上の面倒ごとに関わりたくないが故に出た言葉のようだった。
「それが賢明だ」
 肩をすくめつつそう答えた後、ここはどのあたりか、と問いかける。
「今、七番目のくぼみを通り過ぎたところだ。だから、後三つ――」
 そう言って頭上を見上げた村長の顔が、固まった。因幡もつられ、上を見上げる。
「やあ、おもしろい見せ物だったよ。イカれた工作員に雇われた劣等人種にしてはよく頑張った」
 そこ、つまりは踊り場を二つほど挟んだところの階段上には、無数の銃口が真下に向けられていた。銃口の向こうには、鷲と髑髏のシンボルが刺繍された制帽が無数に並んでいる。崖側に寄れ、と叫びながら、因幡は両手から石かすみを打ち出す。石の弾幕、というものを想定して編み出した技であるので、銃弾を防ぐ事はできる。しかし、この技は、あとが続かないのだ。弓を持つ少女たちは遠すぎる。しかも、クロスボウというものは、真上に撃つのには向いていない。撃っても思うとおりには命中しないだろう。あと、残っているのは鳶礫だけだ。しかし、こちらは――
 銃撃の音が響く。悲鳴が響く。因幡は跳躍しつつ、鳶礫で小銃を狙う。因幡は、この技の照準を外すことはない。空港の時のように、あえて外すのでなければ。二丁の小銃が黒服の男の手から落ちる。しかし、親衛隊員は全部で五人だ。残りの三人の銃が、因幡を狙う、のではなく、村人たちに向けられ続けている、当たり前だ跳躍している人間を狙うことは難しい、それよりも固まって動かない人間を撃ったほうがはるかに速い、動け、走れ、と因幡は叫ぶ――
「ウサギくん、キミが頑張んなきゃみんな死んじゃうパターンだからねこの展開ー。英雄症候群、救世主症候群のあの人は来ないからねー、本物じゃなくあれはただのそういう衝動だからー」
 ウォッチ大佐の声が、妙に近いところで聞こえる、いやそんなものは気にも止めていられない、いやそれはきっと深層意識には入っていた、いやそんなことははじめからわかっていたのだ――因幡は思い出す――大陸奥地、地名は覚えていない意図的に忘れたのだ、現地のつまり北京政府の力では平定のできない治安状況に対応するため同盟国である日本が派遣した治安維持部隊、そこに因幡は居た、いやあれはまだ因幡明和ではなかったがとにかく因幡と地続きの存在だ、反北京派の拠点制圧のためそこに居た、航空支援の期待できない状況であったため野戦砲科の火力が頼りだった、因幡はその照準を外すことはない、拠点は普通歩兵[#「歩兵」に傍点]科の出番も殆ど無く壊滅した、何も問題はなかった、ただそこが便衣兵をかくまった、普通の民間人も暮らす村であっただけだ、因幡は勲章をもらった、英雄だと言われた、それがヒーローなのだ、丁度舞い込んだ推薦を受け、賞賛から逃げるように陸大へと進んだ――
 村人の悲鳴が聞こえた。因幡の手から鳶礫が打ち出される。両手から二つ、さらにもうひとつ、狙ったのは、小銃を握る黒服たちの、額だった。因幡は狙いをはずさない。そして、石かすみ数発だけで人は昏倒する。鳶礫であれば。人は死ぬ。
 因幡が着地した先は、額を砕かれ、うつろな目で空を見上げ、しかしその景色をけしてもう認識することのない三つの死体と、小銃を取り落としてしまった丸腰の、黒服を着た二人の青年がいるのと同じ高さだった。
 青年たちは、驚愕の表情、恐怖の表情を浮かべている。彼らの階級は、親衛隊兵。陸大まで出た因幡よりもずっと若いはずだ。
「行きな。戦意はないんだろ。ああ、追えば同じ目に合うからな」
 ドイツ語でそう言ってやると、二人の青年は脇目もふらず、駆け上っていった。案外、訓練の行き届いていない部隊だ。――あるいは、それほどまでに因幡が怖かったか。それは、怖いだろう。何しろ、常人の想像の範疇を超えた技を使い、常人の想像の範疇を超えた身体能力を発揮するのだ。
 しばし、因幡はそこで立ち尽くしていた。が、上空で猛禽がぎゃあぎゃあと啼いたことで我に返り、下の村人たちの様子をうかがった。銃声で小鳥は逃げているため、現在鳥についての心配はない。
「大丈夫か!」
 銃撃は数度行われた。こればかりは、全員無事とはいくまい――と思っていたのだが、見たところ、落伍者のいる様子はない。拍子抜けしたような安堵感に包まれていると、
「ホントはねー、こういうことしちゃだめなんだけどねえ。でも、モブちゃんだけど戦う女の子のピンチにはやっぱり駆けつけたいっていうか」
あのふざけた声が聞こえてきた。どこに居るのか、と見ると、因幡のすぐとなりに、そそのふざけた男は立っていた。湖であった時とは違い、今度は軍服をきちんと着込んで、着ていた浴衣はと見ると、手に包のようにして持っている。なぜか、濡れても居た。無視して進もうとすると、下から
「その人が、その布を、バサーってやって助けてくれたんだ」
との村人の証言が飛んできた。振り返ると、ウォッチ大佐は濡れた浴衣を広げて、そこから落ちた無数の銃弾をこれみよがしに示してみせた。濡らした布で銃弾や砲弾を防ぐ、という話には、一応因幡も聞き覚えがある。ただし、本家本元の忍びたちが活躍した戦国の頃、火縄銃を相手にしてのことだ。現在のライフル銃を相手にそんなことが可能だというのは、この男も、常人の使えない技を使えるくちだと見える。
 どうも、と簡単に礼を言い、因幡は今度こそ村人たちに上がってくるよう言い、皇軍を続けることとした。
「ありゃー、助けたげたのに感謝の念がないね、うさちゃん。これで二回貸しなのよー。まあいいや。そっちの弓の女の子たち、君たちチョーよかったよ、ウォッチ大佐ウォッチ大佐って言うんだけど、変な小動物にステキアイテムとか渡されたら教えてねー。ピンチには現れるよー」
 一人称が自分の名前であるために、自己紹介がおかしなことになっている。絶命の窮地から救われたかと思えばあまりにも強烈な人物が登場して、谷の住民たちは困惑しきっている。特に、ドージェ村長など、見たことのない気持ち悪い虫を見たときの表情を浮かべている。
「あれは、気にしなくて良い。世界びっくり人間みたいなものだ」
 そう告げられた村長は、妙な生き物に気持ち悪い虫のことを気にするなと言われた人間の表情を浮かべていたのだが、因幡はそれに気づかなかった。
「ねーうさちゃん、わかるでしょー。あれはただのそういう願望の具現化みたいな偽物だから、あんなものを心に入れちゃダメなんだよー。心のなかに入ってるとしたらそれは、キミが勝手に心の中に作った、偽物のさらに偽物だからねー」
 村人たちが因幡に追いついてくるまでの間は消えるつもりがないと見え、ウォッチ大佐は因幡と歩調を合わせ、話しかけてくる。直接に名は出していないが、話しているのが千年のことであるのは間違いない。
「あんなのが居なくても、キミ一人で主役(ヒーロー)張れるし。さっきトラウマ克服覚醒イベントもクリアしたじゃん。そっちのがかっこいいし悩まなくていいよー。ナチ相手に忍法合戦!逆卍忍法帖とかどう、上手いこと両方引っ掛けてると思うよねー」
 やはり全体的によくわからないことを言っているが、ともかく、千年と関わるな、と言いたいらしい。中身は、たとえ本物のヒトラーでないにせよ彼がドイツ軍人である以上忠誠宣誓を行った相手であるヒトラーその人であるはずなのに、忠誠心のかけらも見受けられない。
 早く村人たちが合流してくれないものかと思って振り向くが、怪我をした老人が先頭近くに居るせいか、あるいはドージェがびっくり人間たちの会話を聞くのを嫌ってか、やや皇軍速度は落ちている。あの兵隊たちが戻ってこずとも、異変に気づいた他の親衛隊員がいつやってくるともしれず、因幡は急ぐよう伝える。
「……あの人は、英雄であろうと、救世主であろうとしているのだな。自分が、あの帝国の影に死んでいったものに対する責任を背負っていると思って」
「ん?うーん、どうだろ、ビミョーだなー。偽物のほう、オオカミくんに関してはそう言えなくもない、かなあ」
 因幡はもとより、ウォッチ大佐の答えなど期待しておらず、また、聞く気もない。彼は一人、言いたいことを言う。
「だとすれば、それはひどく、辛くて苦しいことじゃないか。軽やかに駆け抜ける英雄のようであってほしい、と願ってしまった僕が恥ずかしいほどだ。……失せろ、誰がなんと言おうと、僕はあの人を好きであることにしたんだ。大体あんた、知らないな。人っていうのは、禁止されるほど燃えるもんなんだ。特に僕はその傾向が強いたちでね」
 因幡の答えは、ウォッチ大佐の気に入るものではなかったらしい。ふうんそう、と稀に彼が口にするふざけていない声でつぶやくと、
「でもそれ、余計にキミの言うあの人は、困っちゃうと思うよー。重っ苦しい悩みまくる最強……ってほどでもないけどまあ、世界観的には強キャラなんて不人気の最たるものなのにねー、やだねー。……それにキミも。あの人の重みに引っ張られてせっかく飛び跳ねてるのに水底に落っこちちゃうよー」
すぐさままたふざけた声でよくわからないことを言って、それを最後に、どこに消えたのか、跳躍したとも見えなかったのに姿を消していた。丁度ようやく、同じ高さにまで村人たちが上がってきたので、頃合いと見たのかもしれない。
「何か、あったのか」
 因幡は、おそらく自分の表情が酷いものになっているのだろう、と村長にそう言われ、顔を数度叩いた。彼らの隊長としての顔を取り戻すためだ。
「意味のわからないことを言われまくっただけだ。さあ、今は鳥の襲撃も止んでいる、先を急ごう」
 そして、一行は階段を登っていった。

◇地底の生き仏

 一〇番目のくぼみは、一見するにほかのくぼみと同じく、崖を四角くくり抜いて、その縁を黒く塗っただけのようだった。が、村長によれば、その奥の壁が引き戸になっていて、奥へと進めるようになっているという。
「ほら、ここの突起に手をかければ。――あれ」
 村長がくぼみの中の突起に手をかけて奥の壁を引くが、びくともしない。近場にいる男も呼んできて引っ張ったが、やはり動かない。
 階段の上の列に、動揺が走る。逃げられないのか、そんな馬鹿な、確かに村伝には、云々とのざわめきが広がっていく。
 疲れ果てた人々は、階段に座り込み始めた。が、しばらくした頃、列の途中から
「違う、こっちだ!」
そんな声があがった。因幡がその声の元である踊り場、抜け道のあるはずのくぼみの二つ前のくぼみのある場所まで飛び降りると、その奥の壁が今まさに動く途中だった。
「二つ、数え間違ったかな?いや、しかし確かに数えてたんだが……」
 ドージェ村長はそんなことをつぶやいていたが、ともかくこれで、自由へ至る道は開いたわけである。ちょうどそのくぼみの前にいた人々のうち、上側の列から順番に抜け道へと誘導していき、下側の列が後から入る形にした。これで、最後尾が最後尾のままになる。
 抜け道そのものは、元から存在した鍾乳洞を加工したもののようだった。そのため、内部は石で出来た樹海のように入り組んでいる。が、過去にここを抜け道としたものが案内用の矢印を彫ってくれていたので、必要なのはその矢印を間違わないよう辿ることだけだった。道そのものも、やや全体にきつめの上り坂にはなってはいるものの、それまでの、鳥の襲撃を受けながら登る手すりのない階段よりは遙かに楽だ。
「抜け道としたのは、仏教各派の間の対立を受けてのことだと伝わっている。結局は使わなかったようだが」
 問わず語りに村長が村伝を喋っている。鳥や黒服に襲われる恐怖がないといっても、真夜中よりも暗い中を工事用のヘルメットについたランプだけで進んでいくのはなかなか根源的な恐怖につながるもので、それを少しでも和らげようとしてのことだろう。てっきり狭道に続く正規の出入口同様、崖の向こうに出るのかと思っていたが、どうもぐるりと谷の周囲を周回するような作りになっているようで、想定よりも地中を歩く時間が長いことも、不安に拍車をかけている。
「仏教各派の対立を避けて抜け道を、ってことは、あんたんとこの村、チベット仏教じゃないのか?」
 意外にも、壮士くずれがその話に乗り、疑問をぶつけている。この声は、元抗日スパイのあの男だろう。壮士くずれ、というが、壮士だった時期にも元の生活はあったはずで、案外元は歴史を学ぶ学生だったりしたのかもしれない。
「今はもう、ほぼチベットの大多数の仏教と同じだが、種子に関する祭祀などにかつての名残がある」
「あー、あの巫女さんの。確かにあんたらの文化、ちょっとほかのチベットの地域と違うな。日本風っていうか」
 日本人である因幡からするとそうは思わないのだが、中国人からするとそう見える、ということは、そうなのだろう。
「かつては――生き仏を――」
 ドージェ村長の声が聞こえづらくなったのは、村長に何かあったわけではなく、洞窟全体が揺れ、地響きがあがったのだ。頭のなかで、谷の様子と歩いた距離と方向をリンクさせて行った限りによれば、おそらく今はあの湖のやや谷寄りの地中にいるはずだ。工事の中で何かが起きたのかもしれない。震度にすれば一かそこそこだろうが、地中の閉鎖空間にいるときに地震に類するものが起きる、というのはなかなかに怖い。暗い中に無数の悲鳴が響く。
「落ち着け!この程度で崩れる洞窟ならとっくに崩れている!」
 本当にそうかどうかは知らない。こんなところでパニックを起こされてはどうしようもなくなるので、安心させるために叫んだまでだ。
 揺れはしかし、洞窟に確実な影響を与えていた。そのうち、あたりで何かが落ちる音がし始めたのは細かい鍾乳が落ち始めた音だろうか。正直、一刻でもはやくこんなところは出てしまいたい。そう思ったときだった。再び、今度は突き上げるような大きく揺れが起き、太い鍾乳が落ちるのみならず、柱のように天井と地面をつないでいる鍾乳までもが折れた。これは、まずい。東京でも人がパニックを起こすレベルの揺れだ。因幡でも、一人でここにいたならばわめき散らしていただろう。
 しかし、パニックは起きなかった。因幡が何かをしたのではない。一行の脇の壁が、揺れで崩れた時、そこから出てきたものが、揺れよりも人の心を動かしていたのだ。
「――生き仏――」
 因幡はそうつぶやいていた。そう。そこには、生き仏があった。普陀落渡海。千年から聞いた話と、渡された石版の文章とが脳裏をよぎっていた。村でかつて行われていた信仰。それは、仏教各派の対立から信仰の対象を守るべく隠したことで失われ、しかしそのおかげでこうやってここに現れたわけか。
 生き仏の隠されていた空間の奥には、更にもう一つ空間があった。どうやらそこは、今は枯れているが地中湖だったらしい。かつてこの谷に住んでいた者たちは、地中湖とこの抜け道との間に岩に偽装した壁を二枚作り、その壁に挟む形で生き仏を隠したのだろう。それが地震、あるいは山頂湖の工事の影響で崩れ、こうやって一つづきの状態に戻ったわけか。
 ラマ、ラマ、とチベット語が響きわたる。谷の住民たちが、ひざまづいて生き仏を拝んでいるのだ。いや、谷の住民たちだけではない。壮士くずれの男たちも、手を合わせ、それを拝んでいる。そうもしたくなるのはこの上なくよくわかった。タイミングが良すぎる。ともすればパニックを起こすかもしれないタイミングで壁が崩れ、失われていた村の信仰の対象が現れるなど。だが、因幡はその生き仏を拝む気にはなれなかった。迷信がどうの、というのではない。由来が普陀落渡海であることを知っている上、死ぬ前には呪いのタネなどというはた迷惑なものを作り上げてくれるほどには怨念をまき散らしていたのだから、とうてい信仰の対象などにはなるまい。
 ――しかし。即身仏ならともかく、海上で長い時間漂流することになる普陀落渡海で、こんなにも見事な生き仏ができるものだろうか。疑問には思ったが、こうしてここにあるからには、なったのだろう、と思うほかない。
「……これは、我々に生きろと言う御仏のお導きにほかなるまい。行くぞ」
 いくら待っても人々が生き仏を拝むのをやめそうにないので、因幡はそういってせかさねばならなかった。
 揺れはあの大きなもので打ち止めとなったようで、それ以降はなにも起きなかった。口数は少なくなったが、生き仏のおかげで全体に活力が生まれた気配すらあり、不本意ではあるがあの呪いのタネ作成者のミイラに感謝しなければいけないようだった。
「村伝では、生き仏様が、種子をかつて埋められたという話もあったが――あの仏様がそのような、一つの国を呪うようなものを作るはずもあるまい。おそらくは、それも誤伝だったのだろう。我々のこの七年を思えば、あまりにもむなしい話であるが――」
 ドージェがそんなことを言っているが、あの石版が読めていればそんなことも言ってはいられなかったはずだ。そんなことを思いつつ、矢印をたどって因幡は先頭を歩き続けた。その目に光が見えたのは、それから一〇分ほどが経ったときの頃だった。
「外だ!」
 誰かがそう叫ぶと、一行はその光へと走っていた。因幡も走っていた。その光がそのまま出口ではなく、のぞき窓のような穴のあいた岩を横に転がせば外にでられる、という仕組みになっていた。弾圧から逃れるための抜け穴なので、当然の偽装ではある。出口は、谷と同じ山の反対側、少し奥まったところにある祠へとつながっていた。メトゥに案内されて谷へと赴いたときのことを思い出すに、山道を行けば村までは馬で二時間、とばせば四〇分、といった地点だろうか。地震がなければ、抜け道ならば三〇分そこそこでくることができたのでずいぶん近道をした計算になる。
 谷の人々と壮士くずれたちは、安全な場所に出てくることができたことで気が抜けたのか、山道に座り込み、外の空気を味わっている。
 と、山道の、谷とは逆の方向から、無数の足跡が近づいてきた。靴ではなく、草鞋過それに類するやわらかな靴底のものだ。少なくとも、ナチではない。が、多少の警戒を伴って、そちらを見やる。歩いてきたのは、複数人のラマだった。一行はそのラマたちが通るのを待つべく脇へと避けたが、ふと、それがおかしいことに気づき因幡はラマたちの後を追った。
「お待ち下さい、御坊。中国語で失礼します、どなたか中国語はおわかりでしょうか」
 この道の先には、いま脱出してきた谷しかない。そこになぜ、ラマ僧が向かうというのか。そのおかしさに谷の住民たちも気づき始めたと見え、各々の武器を手に立ち上がり始める。ラマ僧たちは、それぞれ目深に日本の虚無僧のような笠をかぶっているが、それも考えればおかしい。チベットのラマはそんなものをかぶらないからだ。
 虚無僧たちは、因幡の顔を見て、互いに顔を見合わせてなにやら話し合っていた。どうも、因幡の服装を見てくすくすと笑ってもいるようだ。そういえば、ほかの元ハオ氏の部下が自分の仮装を引き裂いた中、因幡だけはまだSAの制服を着たままであるので、この中でもっとも妙な服装となっていることを思い出したが、今更どうしようもない。
 やがて一人の僧侶が前に進み出て、笠をあげた。
「もちろんだとも、わかるぞ。……奇遇だな、こんな所で遭うとは」
 因幡は思わず長靴のかかとをあわせて敬礼をしかけて、それをごまかすために自分の頬を殴ってそのまま転んだ。そこに居たのは、〈昭和通商〉営業部の先輩部員だった。軍人らしい言動を行わないように、というのは中野学校ではじめにたたき込まれたというのに、先ほど軍隊のまねごとをしてしまったためかどうにもあのころの習慣がよみがえってしまって困る。
「何をしてるんだ、李くん」
 営業部の先輩である備後惟和は、そう言って苦笑した。よりによって、こんな格好をしているところを見られるとは、顔を赤くするほかない。
 が、それはそれとして、こんなところで身内に出会えるとは、幸運にもほどがある。ウォッチ大佐が言っていたことの内、少なくとも〈昭和〉が動いている、というのは真実だったわけだ。――ウォッチ大佐から聞いた話の内、もっとも与太話と笑い飛ばすべきだった部分を口にしてしまい千年を傷つけたらしいことも同時に思い出し、因幡の口の中に苦いものが走った。
 普楽の人々はドイツ語を、壮士くずれはドイツ語と中国語を解するので、その〈昭和〉の面々に目配せをして、鍾乳洞の中に入った上で話を始めた。
「この人たちは、普楽の谷の住民です。今の普楽の状況はおわかりですね。脱出の手伝いをしていました。現在、普楽での状況には〈千畝機関〉の密偵が対処中です」
 少しばかり嘘が混じっているが、おそらくは千年のことであるから、ある程度は対処していることだろうとも思う。どういう方法を使ってのことかは分からないが――感情を抜きにして考えれば、相手がナチである限り、千年の正体があの言葉の通りであるならこれほど最適な密偵もいるまい。
「〈千畝機関〉の?何だってお前が残らなかったんだ、あんな――いや、まあ、いい」
 備後は、素人集団、と続けようとしたのだろうが、因幡の顔を見て、言葉を濁した。
「谷までは、この鍾乳洞を抜けると二分の一以下の時間でつくことができます」
 鍾乳洞の抜け道を教えると、ほお、とラマ僧に化けた密偵たちは感心していた。基本的に、こういうものが好きなタイプが密偵になる。
「あの……見たところ、〈昭和〉のスタッフだけのようですが、〈千畝機関〉の方からは誰も来られていないのですか」
 〈昭和〉の先輩密偵たちは、また顔を見合わせる。
「〈千畝〉からは……ありゃあ、来ないだろうなあ」
 因幡は、目を瞬かせたあと、はっとその意味に気づき、頭に血が上るのを感じた。〈千畝機関〉は本来自分一人のことだ、と千年は言っていた。しかし〈千畝機関〉には、大量の密偵が所属しているとも言う。その大半が、欧州でスリーパーとして生活しているというナチの迫害を逃れ日本に辿り着いた密偵たちが。そして、彼らが日本人になりたいのかどうかはわからない、とも。それは――
 それは、つまりは、どういうわけかアドルフ・ヒトラーその人であるという密偵、千年一人の活動によって、多くの亡命を余儀なくされた被迫害者に新たな身分と新たな名を与えて、本来の生活と近い環境で生活ができるよう欧州に帰還させている、と言うことなのではないか。あるいは、もしかすれば、満州のユダヤ人自治領そのものも、その活動の上に立脚して存在を承認されるに至ったのではないか。
「……人身御供じゃないか」
 もともと、一〇年前、つまり千年の外見からすれば確実に一〇代中盤から後半にかけての年齢のころから暗殺業と破壊活動をやらせているという話を聞いてからこちら、因幡は〈千畝機関〉に対してどうにも不信感を拭えずに居たが、その不信が今や、完全な敵意へと変わっていた。
 後のことは自分たちがやっておくからお前はラサに戻って報告を上げればいい、初めてでこれだけの案件に関われば後は大丈夫だ、云々と自分をねぎらう先輩密偵たちの言葉は、因幡の耳には入っていたが、意識の上を上滑りしていた。因幡はぼそりとつぶやくと、先輩たちに背をむけ、鍾乳洞の奥へと歩み始めた。次第にその歩みは速くなっていく。
「あれっ、おい、もう行かなくていいって。おい、因幡くん?……おーい!」
 そして、最後には鍾乳洞の中を駆け、跳躍し、元来た道を戻り始めていた。後に残された〈昭和〉の密偵たちはしばし惚けていた後、
「……お前、言い回しが悪いんだよ。伝わるように言え」
「え?……あー、そうか。でもあれは、あの話じゃ来られないだろ。来たら俺、あのN研の寝袋着て中野の駅前練り歩いてやるぞ」
「だけどあいつ、あんな直情型だったのな」
「〈千畝機関(うちのちか)〉で向こうの密偵にノセられたときには少し驚きましたが、あれが素でしたか……陸大卒はそういうものでしょうか?」
「んなことねえよ、俺も同窓だ」
等々と話し始めた。が、村人たちが様子をうかがっていることに気づくと会話は止まり、彼らも鍾乳洞の奥へと向けて駆けだした。その光景は、入り口からそっと中でのやりとりを見ていた谷の住民たちには、突如彼らの姿が消えたようにしか見えなかった。

◇幕間の二

 業務開始から一時間も立たないうちに、〈昭和通商〉営業部室は、騒然としていた。本郷嘉昭経由でドイツからもたらされたリーク内容への対応のためだ。
「すでに先遣部隊は出立した、本隊も漸次動かせ、帰り?そんなことを気にするな、とにかく到着させろ」
 そう話す営業部長の顔は、疲れ切っている。それは、チベットの奥地で起きている状況への対応に追われているがゆえのことだけではなく、つい先ほどまでコールセンターの室長、つまりは暗号無線等々の通信連絡部門の長に、勝手に暗号無線を使ったことと、その暗号の様式が全くなっていなかったことを散々叱られていたためでもあった。〈千畝機関〉長官から話を聞いたのは業務開始前だったため、コールセンターに人が居らず、その程度ならば自分でできる、とばかりに自分で暗号を打った。因幡明和の持っている暗号無電が最新機種で、双方向で送受信が可能な状態でなくとも一度こちらから送ってしまえば相手方が電波を受信できる環境になったところで全文が印字されるタイプであったため、平文のような書き方で送ったのだ。が、まさか機種に異常があったとは思いもよらない事態で、今現在因幡がきちんと情報を得ることができているのかも定かではない。全く、新人部員向けの肩慣らし程度の仕事であったものが、とんでもない事態になったものである。
 眼鏡をかけたイタチのような顔の能都研究所の研究室長が、騒然とした営業部内に設置された神棚に向かって、何やら祝詞を上げている。自分の部署のミスで、〈昭和通商〉の人員に犠牲が出ないよう祈っているようだ。案外、あの手のものの研究者といえども最後の最後には神頼みになるものらしい。
「申し訳ありませんな、杉原さん。こちらのミスが重なって、あなたのところのスタッフに大変な迷惑をかけてしまっている」
「え?ああ、いえ、彼はまあ、平気ですから……。それよりそちらのスタッフくんが、千年に巻き込まれていないかが心配です、彼は台風の目ですからね、彼一人は平気でも周りが大変なことになる」
 今打つべき手は全て打って部室内が小康状態となったところで、営業部長のデスクを挟んだところの椅子に座って両手を祈るように組んでいる〈千畝機関〉長官に、営業部長は声をかけた。あちらの設備とも呼べない設備ではおそらく緊急事態に手が回らないだろうと思いこちらに招いたのだが、慌ただしくそこら中に秘密回線で連絡をとっているのは山田なんとかという事務員だけで、経理担当者はいつもと同じく凄まじい勢いで電卓を弾いているし、長官に至っては、どうすれば良いのかわからないという体で営業部内を眺めているだけだった。
 実のところ、金髪碧眼のアーリア人的外見を持つ日本人密偵を無数に有しているという〈千畝機関〉は、営業部からすれば、現地で工作員を雇うよりよほど利用価値がある。なので、もし可能であれば、元外交官ではあるが諜報畑には疎いはずの長官に恩を売っておいて、機会を見て併呑してしまうつもりだったのだが、この様子だと、疎いというものではない。本当に、煽り抜きで、しろうとだ。営業部長は、地下で見たあの段ボール箱の中の資料、微塵も機密事項として扱おうとする気配のなかったあの無造作に置かれた機密書類の山を思い出す。あの資料に出てきた密偵の暗号名は、全て塗りつぶされていた。なので、因幡が報告としてあげてきた、暗号名「千年」一人が遊撃部員でほかは全員スリーパーだ、などという話は単に千年が因幡をからかうため口にした与太話だろうと思っていたが、全く他の遊撃部員を動かそうという気も、動かしようもなく、ただそこで困っているだけの長官の様子を見るに、本当にこの組織の遊撃部員は、現在チベットに居るあの長髪の密偵ただ一人なのではないか?営業部長は、デスクの向こうで困り果てている長官を見ながら考えていた。
「……アーサー王とは、千年くんのことですかな」
 元から表情の読みにくい顔のため、〈千畝機関〉長官がその言葉に対していかなる反応を示したのかは、よくわからなかった。が、返事がなかったところを見るに、図星だったのであろう。
「まあ、そうだとしても私には、何を言いたかったのかはわかりませんが。ただ、千年くんがあなたの組織の唯一の武器、ということは、わかります。……それと、あの資料は、我々に調べられた際、あなたの組織がちゃんと仕事をしていることを示すためのものですね」
 長官は、事務用の椅子の上で、ポーカーフェイスを崩さない。探偵小説の犯人が探偵によって犯罪を暴かれるとすればそのような反応を示すだろう、と営業部長は考えた。
「おそらく――何らかの理由であなたは、眠れる密偵(スリーパー)たちを、ただ穏やかな眠りにつかせ続けたいのですね。もしかすれば、あなたが笛を吹いて連れてきてしまったがために、あなたが彼らを救う義務があると信じて。そのためにあなたは、あなたの名を冠した機関を作った。……違いますか」
 一瞬、長官が座る椅子の横で、勝手に事務机を占領して計算を続ける経理担当の金円女史が、営業部長と長官の方を見て手を止めた。が、すぐさままた何かの予算の計算に当たり始める。
「……そういうわけでは、無いのですがね。いえ、そのような側面もたしかにあります。ただ――それは全て、副次的なものだ。連れてきたというならば、私の機関はたしかに私が連れてきたもののために作られた。しかしそれは、私の手に直接渡された一人の幼児のためにであって、他の彼ら、直接わたしが連れてきたものとその後に続いた多くのものに対しては――外務省官僚としての仕事とその成果として、満州ですでに義務は果たしましたよ」
 なかなかさらりと、明かしてはいけないようなことを長官は明かした。つまり、やはりこの元外交官は、あの満州奥地、約束の地の名を持つ土地の建設にも関わっていたのだ。――しかし、それだけのことをやり遂げる実務能力があるならば、なぜ今、この場で何もせず、困り果てている。
「しかし――それを遂行する能力があったとしても、全てを救いたいと思っていたとしても、私は本当にそれを叶えてやるべきだったのか。……私は今でも悩み続けているのです。あるいは、叱り飛ばして、そんなことまでして世界中を駆けずり回る必要はないと諭すべきだったのではないかと」
 探偵小説の犯人が、ある程度推理が進むと勝手に話を始めるように、長官は一人、話し始めた。しかし、その意味は今ひとつ、営業部長には理解できない。向こうも、営業部長が理解できないことを知って、話してもいるだろう。
「営業部長どの、あなたがわたしの組織に興味を持って、このいびつな、わたしの犯した罪のような組織の姿を調べようとしたとき、少しばかりわたしはホッとしたのです。外から見て、わたしのなしたことは、いくら彼が望んだとて一人の幼児のごっこ遊びに大人が力を貸してしまったことは正しいことであったのかどうか、それを判断して欲しかった。だから、千年を無理やり引っ張り出してあなたのところの新人教育にくっついて行かせたのですが――やはり彼は台風の目のようだ、赴いた先で全てが巻き起こってしまう」
 本当に、さてと言ってもいないのに謎解きじみてきてしまっている。だが、謎を解いてはいない営業部長は、ページを飛ばしていかにそれをやったかもなぜそれをやったのかも説明されず、犯人の心情の吐露だけを読まされている気分でそれを聞いていた。
「……いや、申し訳ないのですが、わたしはそこまでわかっていないのです。密偵という職業柄、わかったような顔でものを言えてしまうだけでして」
 長官は、あれ?と言うように顔を上げて、営業部長を見た。いやほんとなんですよすみません、と続けて言うと、長官は気恥ずかしそうにうなだれてしまった。
 と、そこに、コールセンターに向かっていたはずの山田なんとかという事務員が、息せき切って駆け込んできた。
「長官!よくわからないのですが、そこら中のいろんな地域にチベットで盧溝橋をやろうとしてる馬鹿がいるって話と、それと、例の――例のアレがあるって噂まで出回ってるみたいです!とんでもないですそこら中の主要な地下組織全部動く勢いです!」
 例のアレ、と、山田某は両手で、なにか四角いものを描いてみせた。無論、営業部長にはわからない。〈千畝機関〉に把握できていて、〈昭和通商〉営業部に把握できていないものがある、というのは、少しばかり矜持の傷つけられる気分だった。もちろん、営業部長として、その場でそれは何だと聞くような真似はできない。あとで部員に調べさせねばなるまい。
「なんだって?――いや、ちょっと待ってくれ山田くん、なぜ君が、その話を仕入れられるんだ」
「えっ、ああ、すみません、言ったら叱られるから伝えるな、ということで私のところで止めていたのですが、実は夜中にこっそり、外套(コート)短剣(ダガー)を身につけて寝室から外に出て冒険しているものが居る、といいますか、あと私は嵐ですそう呼んでください」
 感情の動きがあることは見せても、表情を動かすことの滅多にない長官が、目をまんまるに開いて、口を大きく開けた。怒鳴るのか、と思ったが、本気で魂消(たまげ)ていて、それどころではないらしい。
「そ、それじゃあ、いままでいつの間にか資料のダンボールが増えてたのはそのせいなのか山田くん、千年が勝手に動くのはよくあることとしてちゃんと報告書を作っているのは偉いと思ったが……」
「あっはいすみません、気づいてたんですね一応、それで何も言われないとは思ってませんでした、あと私は嵐ですそう呼んでください」
 〈千畝機関〉の数少ない常駐スタッフのうち二人が慌てに慌てている横で、電話が鳴った。営業部長がそれを取り、耳に当てる。
『西へ単身赴任中のスタッフから連絡です、何やら、諜報組織および諜報に類する活動を行う大小の組織に、チベットでのパーティの知らせが届いているそうで、まずいですよこれは、このままじゃ世界が燃えちまいます』
 それは、〈千畝機関〉のスリーパーたちが勝手に動いて入手したのと同様の知らせだった。――数倍差ではきかないレベルの組織規模の違いがあって、〈千畝機関〉側はめいめい勝手に動いているはずなのに同程度の情報収集力とは、一体わが組織の密偵たちは何をしているのか。一度本部に招集して活を入れねばなるまい。営業部長は心に誓った。
「パーティの知らせ……ああ、そうか、我が国は本郷氏とのよしみで知らせが早かった[#「早かった」に傍点]というだけの話か!黒い森の隠密どもめ、人を馬鹿にしてくれる。――だが心配ない、動いているのが密偵だけならばくすぶりはするが燃えはせん!慌てず、ただ、地下組織などに遅れを取るな!もし遅れを取ったら、営業部全員更迭とは言わんがあのN研の寝袋に入れて帝都を歩かせると思え!」
 そう発破をかけて営業部長が電話を置いたのと、それまでずっと電卓を叩いていた〈千畝機関〉の経理担当、金円女史がイコールのボタンをたたき、深々と息を吐くのとは、完全に同時だった。あまりにも珍しい事態に、パニックに陥っていた残る二人の〈千畝機関〉常駐スタッフは、金円女史を驚愕の表情で見た。
「……緊急の予算が捻出できました。往復の飛行機代と燃料代、この額でならあの伯爵ぐらいなら雇えるはずです」
 そして、その内容が緊急の出費を許す内容であったためか、〈千畝機関〉長官と事務員の山田某は、さらなる驚愕の表情を浮かべた。大半がスリーパーであるとすれば潤沢な資金を使えるはずの〈千畝機関〉がなぜあんな家賃月七万円のところに居るのか、いくら〈昭和通商〉を相手に仕事をしていることを示すにしても妙だとは思ったが、どうやらこの経理担当のせいだったようだ。
「ひ、飛行機代……と言っても、私が行ったってなにも」
 長官の言葉に、金円女史は小首を傾げた。
「何を言っているんです。あの人間台風さんのことは何一つ心配していません。ですが、こっそり寝室から抜け出す子供が、パーティをすると聞いて参加しないはずがないでしょう。そのついでに、馬鹿なヒーローごっこばかりする幼児を叱り飛ばせば一石二鳥です」
 長官は、めったに使わなさそうな表情筋を、再度盛大に使用した。ずっと夜中の冒険を許してきたらしい山田某も、その可能性に初めて思い至ったと見え、頭を抱えた。
「……寝かしつけてベッドに放り込めばいいとばかり思って、夜中の怖さを、外でのふるまい方を教えなかったのは、大人の責任だな」
 長官が、悔恨に満ちた声色で、そうつぶやいた。山田某もまた、頷く。
「設備を使わせて頂いてありがとうございます。またいずれ、何かの折に御恩は返させていただきます」
 そう言って頭を下げると、〈千畝機関〉長官は、自身の部下たちとともに営業部を出ていった。――慌てずとも、欧州各国からおそらくは自費で、チベットという高地まで飛ぶ手段を調達できるものなど居るとも思えないのだが、まあ、当人たちがやる気になっているのだから放っておけばいいだろう。少なくとも、少々手順は違ったが、そのおかげで恩を売ることには成功した。それに、向こうの実力もある程度、測ることができた。あとは、この営業部のことだけを、自身が馬主を務める馬が真っ先にゴールに入ってくれるどうかだけを考えればいいだけだ。営業部長は、現在の各勢力の状況をすでに出発している先遣部隊に伝えるべく、コールセンターへ直通する内線の番号を押した。N研究所の研究室長は現在五体投地をしているが、視界に入れないよう務める。
 ――しかし、あの妙な、着たまま歩けてしまう寝袋。あれを着たものは今のところ居ないが、もし着れば、ぬっぺっほふとかいう妖怪の親戚のような外見になってしまうに違いない。
 営業部長は、部下たちに発破を掛けるために発した言葉を元に、自分の部下たちがあれを着て帝都を練り歩く姿を想像し、思わず破顔した。少なくとも、自分が着たいかと言われれば絶対に御免だ。自勢力圏内でのことであり、まず遅れを取るなどはありえないが、もしそうなったとしても、最悪自分はそれをさせる側なのだ、心配はいらない。
 妙な種類の思惑も錯綜しつつ、事態は、風雲急を告げていた。

◆偽千年王国の最後

「あー、畜生、あの大佐、言わんでもええやろになあ」
 山の斜面を登りながら、千年はそうつぶやいていた。
「面倒なことしよって。畜生。次どない説明したらええねん」
 ――次に会う機会がある、と思っているのかね。
「……あるやろ。待っててくれるよう言うといたし」
 ――彼は本物の密偵だ。お前のような、ナチス退治のボランティアついでに密偵をしているような半端ものとは違う。合理的な判断に基づいて、お前の判断など無視するさ。
 千年は抜き身の軍刀を自分の右手に当てた。
「黙れ」
 ――右手を切り落としたところでどうにもなるまい。何しろお前は私だ。右手が私の自由になって、左手がお前の利き手だというのも、お前の作った幻想の条件設定にすぎない。
 ――どうしてもやるならばむしろ、右手のワルサーPPKをこめかみに当てるべきだな。わかっているだろう、それ以外でお前は死なないぞ。お前は私の因果を引き継いでいるのだからな。
「黙れ言うとるんや、ほんまに拳銃自殺したろか!」
 反射的に、千年は軍刀を放り出し、右手を伸ばしてシャツの下に隠されたワルサーPPKを手の中に射出させた。が、やはりうまくつかむことができず取り落としてしまう。
 ――やってみろ!だが、わかるか、そうすればもうお前はあの少女も、谷底の人々も、誰一人救えない!
 拾い上げたワルサーPPKの銃口を、千年は自らの口に突っ込んだ。上下の歯と拳銃の金属がふれあい、がちがちと音を立てる。
<img src="img/銃と剣.jpg">
 しばし千年はそのままの状態で全身をふるわせていた。だが、結局はそのまま、小型自動拳銃を無造作に党制服のポケットへと放り込み、地面に投げ出していた軍刀を再び拾い上げ、とぼとぼと歩き始めた。
 メトゥと、チャルパを探さなければならない。それから、谷底の人々を逃がして、その後、あの馬鹿げたパラボラをつぶして、鉄仮面とハオを斬る。
 ――何とも大変なことだ。そうやって、這いずり回って世界中のすべてでも救うつもりか。
「すべて、やない。お前の作ったもんで不幸になった人を……」
 ――この、わが大ドイツ帝国が世界の半分を支配して、技術力では千年、お前が祖国だと信じたがっているあの極東の島国に大きく差を付けた、このいびつな世界でか!いったいどれだけのものがどこまで関係しているのかなどお前にはわかるまい!たとえば、あのユリウス・ハオなどどうするつもりだ。あれは確かにドイツ国の手駒でありドイツ国のために多くのものを不幸にしてきた、だが、同時にドイツ国によって自身の運命をも狂わされたと言えよう。あれをお前は斬るのか。あれもまた、犠牲者ではないのかね!
 千年が再び右手に当てた軍刀の歯が、袖を切り裂き、シャツも切り裂き、その下の皮膚に傷を付けた。そこには、同種の傷がいくつも重なり合って付いている。
 結局、その行動も途中で中止された。そんなことをしている暇があったら、少女と老人を捜すべきだ、とすぐに思い至ったのである。
 千年は、暗くなってきているというのに工事を止める様子もない湖の周辺を探したが、そこにはメトゥの姿はなかった。次に、斜面の家を探すも、やはりそこにもメトゥは見あたらない。メトゥとチャルパ、両方が同時にいないと言うのは二人とも一緒にいる可能性が高いと言うことなので、その点については安心であるが、しかしここまで探して居なければ、あとは地下王国の中ぐらいしか探すところはなくなるが――
 そう思いつつ斜面の家のうち、最後に残った粗末な一軒をのぞいたとき、その中に見覚えのあるものが見え、千年はその戸をひらいた。それは、机の上に乗った、あの石版である。
 では、この家に因幡は宿泊していたのであろう。――因幡に関することをあまり考えたくない気分であったが、その石版の内容は一応知っておきたいため、千年は周囲を見回した。内容を書き下したものがないかと思ったのだ。しかし、因幡は密偵らしく、自分の持ち物はすべてしっかり持ち去っているようであった。石版だけ残しているのも妙だが、重かったと考えればまあ、理解できる。
 しかし、こんなところに石版を放置していたのでは、メトゥに見られてしまうかもしれない。そう思ったところで、千年はその可能性に気が付いた。
 メトゥは、この内容がわかったのではないか?
 確か、谷の村長は、メトゥならこの内容がわかるかもしれない、と言っていた。これをメトゥが見て、種子を芽吹かせないよう、何らかの対策をとろうとした――?いや、しかし、それであれば必ず、あの谷底の抜け穴から出入りをするはずで、村人とはち合わせないはずがない。では、いったいどこに、と思ったとき、
「チャルパ?」
という声が聞こえ、千年は振り返った。
「あれ、ヘル・ドクトル。どうしてチャルパの家にいるんだ」
 そこには、黒い僧服ではなくどことなく日本の巫女のような衣装をまとった少女、メトゥが立っていた。今まで高速で回転させていた脳が、回転速度をゆるめていく。それでも、さりげない動きで机の上の石版を隠すのは忘れなかった。
「……え、ここはチャルパさんの家?」
「そうだ。なにか、あたりが大変なことになっているからチャルパを呼ぼうと思って」
 どうやら、石版を読んではいなかったらしい。千年はほっと胸をなで下ろす。
「そうだ、そのことで来たんだ。そのこと、っていうのは、ここで起きていることなんだけれど――」
 千年は、ハオ氏の地下王国に本物のナチスが来たこと、本物によって偽物たちが殺されていること、ハオ氏はどうやら種子をあきらめたらしいこと、明日までにあの大岩が爆破され、この谷間と地下王国はおそらく水没させられるであろうこと、谷の住民たちは崖のくぼみのなかにある抜け道から山の向こうへと脱出するつもりであるらしいことなどをかいつまんではなした。かいつまんではなしても、ずいぶん物事が錯綜しているので長い話になったが、メトゥはがんばって付いてきていた。
「――ずいぶんと、今日一日ですごいことになってしまったな。……でも、村のみんなが、脱出するのか」
 怒濤のような話を聞き、しかし不思議とメトゥは何かが吹っ切れたような表情をしていた。
「そうして、谷は水に浸かる。――それじゃあ、種子ももう、掘り出される心配も芽吹かせられる心配もなくなるな」
 この少女は、ずっと種子のことを心配し、その呪いとやらが真実であるように振る舞っていたが、しかし、実際はもしかするとそれは、自分に職責を感じさせて、村を離れないための口実であったのかもしれない。千年は不意に思った。少女は、種子を芽吹かせてはいけないとは言っていたが、その割に種子そのものや芽吹かせ方には、これというほどの興味がない様子でもあった。
「……どうしてだろう。故郷がなくなるっていうのに、少しも寂しくはない。元から、そんなものはとっくになくなっていたからか」
 なにより、メトゥは、種子を芽吹かせないためにアンドレアス博士を襲撃し、アンドレアス博士に種子を芽吹かせないよう頼みはしたが、一度も地下の村人たちを救うようには頼まなかった。自分の村の状況を話したときにも、みんなハオの元で働くようになってしまった、としか話していなかった。メトゥは、村人たちの状況を、救われねばならない状況だ、とは思っていなかったのであろう。――何しろ、選んだのは村人たち自身なのである。それでも嫌うべきではない、見捨てるべきではないと、そう思って、種子の呪いを鎮めるという職責で自らをこの土地にしばりつけていたのか――
「……もっと早くに、そうしてほしかった」
 そうつぶやくと、メトゥはしゃがみ込み、静かに肩を震わせて泣き始めた。千年はその隙に石版を寝台の下に押し込み、それから少女が泣きやむまで、その背をさすり続けていた。
 やがて、メトゥは袖口で目元を拭い、立ち上がった。それから、少し待って、と言って家の外に走っていき、少し上の方にある古い家――おそらくはメトゥの家だろう――に入り、しばらくすると、再び出てきた。着ているのは、巫女の服装でも黒い僧衣のような服装でもない、着古したTシャツとジーンズ、といういでたちであった。髪は、後ろで一つにくくっている。
「前に、地下王国に出入りの業者から買ってたんだ。ここのどの服よりも動きやすくて良い。それで、チャルパは?もう下に降りてる?」
 服装と共に少しばかり口調も変化しているようだった。あれも、巫女の役回りのためのものだったのかもしれない。
「いや、チャルパさんはまだ見あたらないんだ。俺が探す、君は先に降りているといい。……ちょっとかなり、死体がいっぱいあるけれど、あの抜け穴のあたりに行けばみんな居るから」
「それなら、私も探す。……チャルパ、よく姿を消して、どこに行ってるかわからなくなるんだ。いつも家に帰ってるはずなんだけど」
 家、とは先ほどの粗末な小屋のことか。止める暇もなくメトゥはチャルパの家に入り、あたりを探し始めた。どうやら先ほども、目的は家捜しだったようだ。石版を無造作に隠したばかりなので千年はあわてて追いかけたが、
「あれ、何だろうこれ」
すでにみつけたあとであった。
「あー、メトゥ、お嬢ちゃん、それは……」
「……伝承の原盤?どうしてチャルパが持ってるんだろう、見つけたのかな」
 メトゥは不思議そうにそれを見ていたが、やがて、興味もなさそうに寝台の上へと置いてしまった。
「あれ、読まないのか」
 メトゥはいたずらっぽく笑った。少女はすでに呪いのタネについての興味を一切失っているようだ。
「読めない。祠に残っている伝承の文は、口伝と一緒に伝わってるからわかるけど、それもこの文字はこういう意味、ってぐらいだもの。先祖に、少しだけ漢字の意味がわかる人がいたらしくて」
 では、もしあのとき村長たちがメトゥを呼んでくることが出来ていても、結局は同じだったわけだ。
「本当は、種子なんてどうでもよかったんだ。あなたたちを襲ったのは――あなたたちには悪いけれど、チャルパが、一緒に戦ったらハオを止められるかも、と言ってくれたのがうれしかったから。鎮守者はみんな、いつ村をでよう、種子なんてなければ、そんな話しかしなかったから」
 つまりは、種子のためというのでなく、戦って状況を変えられるかもしれない、ということに希望を見いだし、はるばるこの村からラサまで赴いて、千年たちを襲撃するだけの活力が生まれたわけであったようだ。
「だから、チャルパだけは――」
 そう言いながらも床の上を何かを探すように見回していたメトゥは、毛皮のラグの下で、何かを見つけたようだった。ラグをはぎ取り、床の石材をはがそうとする。早く村人たちと合流してほしいのは山々であるが、この分だと村人との折り合いもあまり上手くは行きそうにないし、気がすむまでチャルパを一緒に探してやった方が無難であるかもしれない。もちろん、可能な限り早めに引き上げるのは前提として、であるが。
「ここ、なんだか空気が漏れているみたい。あけられないかな」
 千年は石材の間に軍刀の刃を差し込み、こじ開けた。何度もその石材は動かされているらしく、簡単に持ち上がった。
「……抜け穴、こんなところにも」
 そこには、メトゥの言うとおり、抜け穴があった。ただしこの抜け穴は、昼に千年が這いずり回ったのと同じ、換気ダクトへと続いていた。
「地下王国に、どうして入る必要があったんだろう。……それも、チャルパの姿が見えないときにずっと入っていたのなら、ずいぶん長い時間潜入していたことになる」
「中の様子を探りたかった……というところかな。どう言った理由でかはわからないが」
 もしかすると、あの高熱地帯や毒蜘蛛は、以前からの侵入者への対策で設置されていたのだろうか。千年は、発掘現場から自室に戻る際の悪戦苦闘を思い出していた。
「それじゃあ、チャルパは今も、何かの目的のために中にいるのかな」
 メトゥは、不安定な表情を浮かべて、その穴の中を見ていた。しかし、やがて顔を背けるようにしながらその穴にふたをして、ラグで覆った。あの敵地に少女を連れて入るのは勘弁してもらいたかったので、千年は安心した。
「ドクトル、チャルパのことを探してくれるんだよね。――それじゃあ、私、先に行くから」
 ああ、任せてくれ、千年はそう言い切り、メトゥの背を見送った。小屋の戸が閉まったところで、再び千年は換気口への抜け穴をあけてみる。
 この位置から入れる換気口は、最上階、三階の換気口である。チャルパが襲撃を提案した、と言っていたが、たしかにあの襲撃のタイミングを地下王国に入れない村人たちがあそこまで正確に計ることが出来ていたのは、考えれば妙であった。チャルパがそれを探っていたのであろう――と、思ったが、何か引っかかるものがあった。
 メトゥは、鎮守者はみんな村をでる時期を計ったり種子があることを嘆くしかしなかった、と言った。では、チャルパは鎮守者ではないのか。あの黒い僧服を着てはいたが――だが、あれは単純に、襲撃のための衣装であるとも思われる。
 何か妙だ。チャルパが内部を探る?しかし、メトゥと共にこの谷へ向かう途中、あの少女は確か、ハオの動向を探るためにドイツ語を覚えた、と言っていた。なかなか気合いが入っていると思ったもので、記憶に残っている。それにメトゥは、ためらいなく床の上を探して空気の漏れている場所を捜し当て、床板をはずし、下に金属のダクトが見えているだけの場所を見て、宮殿に入る抜け道だと当てた。谷底の抜け穴とは全く違うものなのにだ。そして、あの着古したTシャツとジーンズ。動くのにちょうど良い、と言ったが、あの空港での戦闘程度までならば、メトゥは黒い僧衣ににたあの服でこなす。それなのにあのTシャツとジーンズは、ずいぶんと使い込まれていた。あれは、自分の自宅に作った同様の抜け穴から、狭いダクトに入るための服装ではあるまいか。
 ハオの動向を長い時間をかけ探っていたのは、メトゥだ。チャルパはそうやって得られた情報を聞いた上で、襲撃を指示した人物にすぎない。千年はもう一つ、重要なことを思い出していた。あの少女は、初対面で、つい先ほどまで交戦していた相手である千年に対して、まるで旧知の仲のように親しげに話して見せたが、村人にはさほど愛着を感じた様子は見せなかった。チャルパは、外から来た人間なのではないか。それもごく最近になって。
 外の人間だとしても、勿論、千年はこの状況下から救うべき対象だと考える。しかし、最近になってここにやってきて、ハオについての情報を少女から得て、アンドレアス博士の襲撃を提案する人物というのが、どうにも千年には善良なる意図を持った人物とは思えなかった。それに、この石版、本来は因幡が放置しておいたであろうものを何故か持ってきている、というのも気にかかる。何か、手がかりになるものはないか。そう思って千年は抜け穴に頭をつっこみ、マグライトで中を照らし出そうとしたが、そこにかすかな――しかしどうしようもなく不快なあの臭い、人の死臭と言うものを感じ取り、肌を泡立てた。両手を伸ばし、千年はダクトの中を探る。もしゃもしゃとした感触が手に当たる。握って、引っ張り出す。
 それは、人の死体だった。鎮守者の一人であろう。黒い僧衣のような服を身につけている。死因は、明らかに他殺、それも首筋に細い針を突き立てて殺すという、見るからに手練れの技を使っている。どうして殺したのかはわからないが、因幡の石に打たれて出来た傷、それもやや治癒の形跡のあるものも見受けられるところを見ると、千年たちが谷にやってきたその後に戻ってきて、チャルパを弾劾しようとして殺されたのか。間違いない。チャルパは同業者だ。それも、職種まで千年と被っていると見える。いったいどこの組織のものであるのか。ほかのタイミングでならともかく、この数日の間にこの場所に潜入し、そしてアンドレアス博士、あるいは日本の密偵を襲撃させる必要のある組織とは。中国の公安は真っ先に思い浮かんだが、ハオの宮殿を探る必要はともかく、日本の密偵を襲撃させるというのは、長年仕事を阻害されてきた恨みという感情の面ではあり得るが、仕事の最中に数日間現場を離れてわざわざ同盟国の密偵を襲撃しにくるほど暇では、さすがにないだろう。あとは。後はどの組織がある。この際、アンドレアス博士を襲撃しようとした、とは思えない。アンドレアス博士を襲撃するメリットがあの時点であったのは、唆された鎮守者だけだ。
 これだけではわかりそうにもなく、千年はいったん思考を打ち切った。しかし、これは今の状況下においては、一つだけ幸運を呼び込みもしている。チャルパを探す必要がなくなったため、すぐにでも脱出に移ることが出来る。メトゥは反発するであろうが、説得する自身はあった。何となれば、この死体を見せても良い。
 そう思い千年は斜面を下り始めたが、いくらいけどもメトゥの姿が見えないことに首を傾げた。先に行くから。そう言ってでたはずだ。だが、谷底を見ても、Tシャツにジーンズというこの谷の住民の中では目立つはずの姿は見えず、ハオ氏の部下を相手になにやら軍隊のようなことをしている因幡の姿が見えるだけである――
 一秒後、千年は叫んだ。
「ああああああああ!探すのに!先にでたんか!」
 直前にふたを閉めたのを見て、探す意志がないと判断してしまったが、一言も先に谷へと降りるとは言っていない。千年は斜面を駆け上がり、メトゥの家の戸を開け、床を見る。探すまでもなく空気の吹き出る穴があった。換気ダクトの中をマグライトで照らす。ダクトの壁面のほかには、何も見えはしない。
 換気ダクトの中での移動は、時間がかかる。左右どちらに行ったのかわからない状態で闇雲に換気ダクトを進んでも、到底探せるとは思えない。だからといって、呼びかけることも出来ない。声が聞こえてしまえば、親衛隊員たちが換気ダクトの中を探ることは必至である。
 千年は斜面側から地下王国への入り口へと走り、吊橋の上へと飛び降りる。あたりは暗くなるところであるというのに、猛禽はまだ死肉を食らっている。千年にも数匹の猛禽が襲いかかったが、難なく斬り捨てる。
 地下「千年王国」へと続く洞窟の中は、死屍累々のありさまであった。人喰い鳥の襲撃を逃れて殺到したものたちを、親衛隊員たちが鴨撃ちにしたと見える。受付のカウンターには、白い二つの物体が引っかかっている。受付嬢たちの死体だ。喉が掻き切られているためそこから血が流れ出して肌の血の気が失せ、衣服が取り払われ丸裸にされているため血の気の失せた肌が見えているのである。
 カウンターの横で、黒服が二人煙草を吸っている。彼らは千年に気づき、千年が手に持っている三十二年式軍刀を目にすると、小銃を構え近寄ってきた。
「アンドレアス博士ですよね?すみませんが来ていただけますか。上の階で親衛隊員が不審死を遂げぼっ」
 刀を持つ手を無造作に、話している方の親衛隊員の口へと突き入れ、もう片方の手は残る親衛隊員の小銃の先を掴み、銃口を真上へと向ける。小銃の引き金が引かれて銃声が響くが、天井へと当たるだけである。
 左側の親衛隊員の喉奥から後頭部までを貫いた軍刀を、そのまま平突きからの薙ぎの要領で、必死で千年と力比べをし続けている黒服の首へと走らせる。小銃から手を離せば避けられることに彼は最後まで気づかなかった。そして、首が飛んだというのに、まだその両手は小銃を握ったままであった。
 エレベーターの中で、千年はメトゥの行方を考える。メトゥは何度も、気づかれないように地下王宮の中を行き来している。では、内部の構造は千年以上によく知っているはずである。緊急事態で人の目が行き届いておらず、どの設備も使える状態である、とする。その状態で、内部に潜入したほかの誰かを捜すならば、どうするか。
 千年は八階にてエレベーターを降り、廊下の隅に設置された監視カメラを見上げた。メトゥが人を探すのに使うとすれば、これであろう。行くから待ってろ。千年は微笑み、カメラに向けてそう告げた。ハオ氏のあの監視体制であれば、案外音も拾ってくれるかもしれない。
 八階は、もとからスタッフがいないおかげで、下の階のような地獄絵図とはなっていなかった。従って、親衛隊員も少ない――のであればよかったのだが、残念ながら、千年が数歩も歩かないうちに、廊下の向こうからわらわらと親衛隊員が現れ、銃口が千年に向けて並んだ。つまりは、監視カメラは現在、親衛隊員たちがチェックしているようだ。では、今の映像は、入り口で二人の仲間を惨殺し、抜き身の血刀をぶら下げた侵入者が、今からおまえたちのところへ行くから待っていろ、とカメラに向けて言い放った映像になるわけか。それはひどく、待ちかまえる側からしてみれば恐怖の対象にもほどがある映像となるだろう。想像した図がひどくおもしろいものに思え、千年は、ふふ、はははは、と笑い出していた。
「諸君!俺は、敗者であるアドルフ・ヒトラーの因果をそのまま受け継いでいる!」
 千年は、疲れによってしわがれた、しかしよく通る声で、彼らに向けて話しかけた。だが、頭のおかしい侵入者の言うことなど誰も聞くはずがなく、フォイアー、と命令が下される。
 その光景を見ても、千年は動じることなく平然と、総統官邸のそれを模した廊下の真ん中を、まるでこの建物の主人が帰還したかのように、堂々と歩き続けた。
 それは、全くの偶然である。いくつもの銃弾が中空へと打ち出されたそのときまさに、ちょうど千年が歩いていた少し前には、偶然にも金属製の巨大な鷲の彫像があった。偶然にもその鷲の彫像は少しばかりバランスの悪い作りになっており、偶然にもどこにでもある針金によって壁へと固定されていた。そして、偶然にも、その針金は長い間彫像の加重を受けた状態で放置され続け、偶然にも、その瞬間に、破断した。
 鳴り響いた銃声を上回る轟音を立てて、千年の前に鷲の彫像が倒れた。大理石を模したコンクリート性の床のタイルが割れ、飛び散り、銃を構えていた隊員たちの肌にも破片によって傷がついた。
 放たれた銃弾はすべて、倒れた彫像に当たり、千年には傷一つ付いていなかった。行く手をふさぐ形となった鷲の彫像の上に、千年は悠々と、片手を乗馬ズボンのポケットに突っ込みさえして、登っていく。ひい、と隊員の一人が叫んだ。それは、怖いだろう。まるで自分は死なないとでも言うような顔で歩いてきた狂人を、誰も彼も区別はしないはずの銃弾で出迎えたというのに、その銃弾はその狂人に、かすりさえしなかったのである。
 叫んだ隊員は、小銃の引き金を引いていた。それもまた、偶然である。偶然、その小銃の中には、いま彫像が倒れたときに飛び散ったコンクリート片が詰まっていた。そして、偶然、そのコンクリート片は、小銃を暴発させた。ほかの隊員たちも同様に引き金を引くが、全員一様に、何らかの理由によって小銃からは銃弾が放たれることはなくなっていた。
「敗者であるアドルフ・ヒトラーは、一九四五年四月三〇日、自らの持つワルサーPPKで自らの脳天を打ち抜くまで、他人の放ったいかなる銃弾によっても、殺されることはなかった。故に俺は、諸君の銃弾に殺されることは絶対にあり得ない。つまり俺は、諸君に死をもたらすものである」
 言っている意味は、理解できなかったであろう。――彼らが忠誠を誓った勝者であるアドルフ・ヒトラーは、未だベルリンに健在であり、明日、あるいはいまの時刻がわからないのでもしかすると今日、七一歳の誕生日を迎える。
「まあ、俺個人は誕生日は違うのかな、レーベンスボルンの連中、そこまであわせるほどロマンチックなセンスの持ち主じゃあなさそうだしな」
 そして黒服たちは、目の前を歩いてくる男を、神か、あるいは悪魔に出会ってしまった人間の表情で出迎える。しかし、千年が最も近くにいた青年の腹を薙ぎ、更に自分たちへとその翠の瞳を向けるに至っては、相手が神であろうが悪魔であろうが立ち向かうほかないことを決意せねばならなかった。親衛隊の黒服をまとった兵士たちは、銃剣を小銃に着剣する。銃撃が効かないのならば、それは当然の選択である。統制は取れていない。恐慌のままに、一人の黒服が叫びながら突撃した。悪魔に逢った、と思ったくちであろう。千年は、振り向きざまに軍刀の先を伸ばした。銃剣を着けた小銃と、片手剣である三十二年式軍刀であれば、銃剣のほうが間合いは上である。ただ、千年が左手を伸ばしていたのに対し、銃剣で突撃をした隊員は小銃を抱え込むようにしていた。そして、彼はまっすぐに伸ばされた軍刀を見て、その切っ先を避けようと、身を低くした。そのせいで、自分の持っていた銃剣の先が下がり、床に引っかかる。
「あ」
 彼は、転んだだけだった。そして、千年もただ、軍刀を掲げていただけだった。それだけで、ただ偶然、彼は自らが駆けていた勢いのまま、軍刀の先に左目を突き刺し、刃によって脳を損壊させた。布袋が倒れるような音を立てて、黒服の青年は倒れた。刃の血を軽く振って払い、千年は再び次の獲物へとかかる。
「ああああああああ、畜生、なんだ、なんだよお前は!」
 千年が切れ味の鈍った軍刀で彼らの頭蓋骨を叩き切り、心臓を貫き、銃剣を向ける手を切り落としても、彼らの銃剣は千年には届かない。なぜなら、敗者たるアドルフ・ヒトラーは、銃剣で死んだこともないからである。
「君たちのボスの名前は」
 一〇分もかからずにあらかたの殺戮を終えた千年は、階級章からして隊長格と思しき親衛隊少尉のもとに向かった。
「誰が……貴様になど……」
 まあ、当然の返答である。自分を一方的に殺したものに何を尋ねられても、答えたいはずがない。
「じゃあ、聞き方を変えよう。あれは、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒか」
 悲鳴を上げでもするように、親衛隊少尉の口が開いた。ただし、そこから漏れたのは、肺に空けられた穴から逆流した血反吐でしかなかったが。その驚愕の表情を見るに、自分の考えを読まれたか、あるいは千里眼の持ち主であるとでも思ったかもしれない。これについては、単にその可能性が高い、と思っていただけのことである。
「その反応でじゅうぶんだ。ありがとう」
 自身が切り捨てたものの死を看取ること無く、今度こそ、千年は廊下の奥へと進んでいった。
「……いや、ジークフリートが俗な名前なら、トリスタンも俗な名前やろ、どない考えても」
 その最中、確定した敵のその名について、千年はずっと思っていたことをぼそりとつぶやいた。ジークフリートは神話の英雄、トリスタンは中世の伝説の騎士で、どちらもワーグナーのオペラの主人公として採用されている。――確かにジークフリートを俗な名前というならば、トリスタンも俗な名前と言うほかない。
 しかし、何がどうなって、ラインハルト・ハイドリヒがこんなところで日本との戦端を開く「銃声一発」をぶちかますことになるのか。それによって彼は、ドイツ国は何を得る?千年の持つハイドリヒに関する知識の限りにおいて、ハイドリヒは、一九四四年の暗殺未遂[#「暗殺未遂」に傍点]事件以来、植物状態でいまだ昏睡しているはずである。敗者であるヒトラーの世界においては?千年は考える。
 ――私の知る限りにおいて、一九四四年の暗殺[#「暗殺」に傍点]によって彼は死んだ。そこまでの経歴は、私の歴史の彼は副総督[#「副総督」に傍点]として着任したというほかは、こちらの世界とほとんど同じであったはずだ。
「要は、未知の事象っちゅうわけか」
 だが、ひとまず今は、彼らをどうにかする前にメトゥを探すのが先決だ。千年は、総統執務室もどきの扉を押し開けた。中は、ウォッチ大佐と会話をしたあのときのままになっている。奥の壁には巨大な絵画代わりに山頂湖中に面した窓があり、その窓は今はスクリーンとして使われている。違うのは、いつぞやとは違い、監視カメラの映像が映し出されているという点である。が、ここにはメトゥはいない。では、やはりバックヤードのどこかにきちんとした監視室があるわけか。新たに探すのは骨が折れる、と思いながら奥へと続く戸を開こうとしたところで、
「やはりあなたは総統となにか関係があるのですか」
早口のドイツ語が千年の耳に届いた。振り向いた先には、漢服を着た長身の工作員にして、自身も眠らされていることを知らされていなかった眠れる密偵(スリーパー)、ユリウス・ハオ氏が立っていた。
「アンドレアス博士の写真付きの資料を照会させてもらいましたがあなたとは別人ですね、ハイドリヒ閣下に叱られてしまいました、あなたの顔はどう考えても第一次大戦後からミュンヘン一揆あたりまでの総統閣下の顔によく似ておられます、廊下でも何やらそのようなことをおっしゃっておられましたが」
 蒐集狂(マニア)であるハオ氏は、やはり、千年の顔がアドルフ・ヒトラーの若い頃そのものであることに気づいていたらしい。
「きっとただ単なる隠し子ではないですよね、複製人間とかいうあれですか、総統閣下ご本人は今でもゲルマニアにおられて本日七一歳の誕生日を迎えられるはずですから、それとも転生というやつでしょうか、ほかには、ええと、何かあったかなあ、二重人格も定番ですよねえ、あ、一番重要なことですが総統閣下の記憶は持っていらっしゃるんですか」
 一応、立場上敵対関係であるはずなのであるが、興味の対象と見なされているらしく次々パルプフィクションのようなどうでもいい質問が飛んできて、調子が狂う。顔だけを見てここまでいきなり発想を飛躍させてくるものも珍しい。この分だと、害はないだろう――そう思い、千年はそのままバックヤードへと進もうとした。
「あのすみませんよくある話なんですが、答えていただけなければこの女の子を殺します、本当はこういうのは親衛隊の方にやっていただきたかったんですが皆さん廊下でのあなたの姿を見て逃げてしまいまして、ハイドリヒ閣下、人望ないですからねえ」
 千年は振り返った。ハオ氏の腕の中に、昏睡したメトゥが居る。メトゥの首には、ハオ氏の機械の義手が食い込んでいる。
 機械の義手で千年に殴りかかってこられても、何らかの事象によって必ず千年は生き残る。敗者であるアドルフ・ヒトラーは、撲殺されたことはないためである。しかし、他人を盾に取られるというのは、非常に困る。千年の性格と彼の根幹をなす衝動の関係上、言われればワルサーPPKで自分の頭を打ち抜きかねない。
「……あんたの言ったこと、全部乗せだよ」
「ええ!本当ですかそれはすごいな欲張りですね、それじゃあ昨年の米独友好式典で米国大統領に何らかのことを直訴した親衛隊員がいたというのは本当なんですか、あと髪が長いのが変なので切ってもらえませんか」
 こんなところで時間を食いたくないが、千年が髪を切るために軍刀を掲げる振りをして斬りかかろうとした瞬間、ハオ氏の義手がメトゥの首筋により深く食い込んだ。千年はハオ氏の言うとおり、肩より下まで伸ばしていた髪を生え際あたりで切った。ハオ氏は、執務机の中の整髪料を使い、髪を後ろに流すよう指示をする。一九二〇年代前半以前のヒトラーの写真には、前髪をおろしておらず後ろへと撫でつけているものが散見される。――似合って、なおかつ印象強い髪型を見つけられなていなかった時期なのであるから仕方がないであろう。
「……去年の件については、悪いが俺の……俺の、と言うか俺の頭の中にいるアドルフの記憶はこの世界のものじゃないんだ。俺の頭の中のあいつは、一九四五年四月三〇日に、連合国包囲下のベルリンで死んだ、敗者であるヒトラーだ。だから、正確に答えてほしいなら、戦前までのことにした方がいい」
 言葉だけではイメージがわきづらいようで、ハオ氏は眉根を寄せてその言葉を聞いていた。
「珍しいなそういうのは、それはあれですか、たとえば『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』で主人公によって変えられた歴史が続いたとして、その世界のアーサー王がこの世界にいるようなものですか、平行宇宙のようなものを思い浮かべればいいのかな」
「そこの仕組みはよく知らないな。だが――俺は、この歴史こそ偽物だと思うよ」
 ハオ氏が、この話を信じているのかどうか。その表情は東洋的な笑みに隠されて、判別できない。
「それは相対的なものではありませんか、あなたはそちらをご存じだからこちらを偽物と思うだけで、ああ、ですが戦争勃発後の記憶が別物でも生活や趣味趣向は同じなのですよね、総統に女性経験がないと言うのは本当ですか、若い頃住んでいたウィーンで男色家からホテルのメモを渡されたというのは、エルンスト・レームとは実際のところ何かあったんですか、睾丸が片方だけという噂についてはどう思われます、チャップリンの独裁者の感想を聞かせて下さい、あと何を聞こうかなあ」
 いきなり、下世話すぎる質問が大量に飛び出した。
 ――答えたくない斬れ。その女の子は気の毒だが必要な犠牲だ。
「答えたくない斬れ、その女の子は気の毒だが必要な犠牲だ、とさ」
 ――そのまま答えてどうするんだ馬鹿が!
「そのまま答えてどうするんだ馬鹿が、と怒られた」
 そのせいで、頭の中の声と千年との問答は、やや喜劇じみてきた。ハオ氏はしかし、その答えがいたく気に入ったようで笑みを深くした。
「はは、最高ですねそれは、実にそれらしい、あなたが整形手術でその顔になった私以上にイカれたスパイだとしても単なる他人のそら似で私の話に乗ってくれただけでもその答えで満足です、自分が総統閣下だと思いこんだ誇大妄想の人間というのは過去に何人か見てきましたがあなたが一番おもしろかったですよ」
 その言葉を聞くぶんに、千年の言うことを信じているわけではなかったらしい。種子の件といい、オカルトじみたものに半ば本気半ば冗談で取りかかる趣味があると見える。はじめの質問からして、千年の顔がヒトラーに似ていたのでからかったものであったようだ。足止めついでの暇つぶしであった、と言うところか。
「あなたの名前と所属は」
「この程度の状況で答える密偵が居たら、そいつはもぐりだよ」
 まあ、そうでしょうね、とハオ氏は笑った。妙に悠長な会話をしている。これは、時間稼ぎなのであろうか?さっさと自分を殺そうとしてくれれば、それで状況は確実に変わるのであるが、おそらくハオ氏は先ほどの様子を監視カメラで見ているので、直接手を下すようなまねはしないであろう。
「俺はどうなってもかまわないからその子を離してほしい、と言ったところでだめだろうな」
「まあだめですね、先ほどの廊下での様子を見るに妙な技を使うようなので」
 技ではなく、どちらかと言えば異能、正しく言えば力場[#「力場」に傍点]の影響であるのだが、まあ、それを説明する義理もない。
「ハイドリヒ閣下が悲願を成就なさるまで、狂ったスパイ同士、お話でもしていましょう。そちらに座ったらどうです、あなたなら似合います」
 そちらに、と示されたのは、想像通り執務机だった。やはり、ハイドリヒのために時間を伸ばそうとしているようである。〈ヘイズルーン〉兵士も居たことであるし、千年の正体はばれていないまでも、ハイドリヒの計画を潰そうとする存在、程度には認識されたのであろう。
 千年は背後を振り返った。そこにある湖に面した窓には、現在、監視カメラの映像が交互に切り替わり、映っている。
「そのハイドリヒ閣下どのだが――こんなまねをしている奴に、まだ従うのか」
 こんなまね、と千年は背後で八分割された画面の中の、二階の様子を指さした。そこには、ハオの部下たちの死体が累々と積み重なっている。
「あれは……非常に惜しいことをしましたが、しかし、必要な犠牲です、どのみち中身は単なるチンピラくずれなのですしね」
 惜しいことをした、は彼らの衣装に付いての感想であるようだ。
「あんた、だが、ことが終わったあと消されるぞ、間違いなく。ナチのアーリア人種様がたから見りゃあ、あんたはただの使い捨ての劣等人種だ」
 ハイドリヒの目的は、レーザーによる「銃声一発」、すなわち日独開戦であるという。それであれば、この設備、この土地に住んでいた者は、何があろうとこの世に存在してはなるまい。
「ええ、そうでしょう、しかしどのみち私はドイツ第三帝国に救われた身です、どのみちこの全身全霊を捧げた建物ももう仕舞いです、それがドイツ国の未来につながるのであれば喜んで身を捧げましょう、あのタネ、あるいは聖柩よりはよほど現実的な話です」
 なかなか、外地で雇われた密偵の割に、筋金入りのナチであるらしい。いや、多少は、当人も知らぬ間にスリーパーにされていて、趣味の事業だと思っていたことが偽装工作として使われており、そのすべてを敬愛するドイツ国の手で破壊され、やけになっている部分もあるかもしれない。
 千年は、ふと思いついたことがあり、視線を落とした。一対一での話し合いではやや精度は落ちるが、千年の言葉は人の心を動かす。
「なあ、あんた、そうやってナチに救われたから、こんな悪しゅ……ナチのテーマパークみたいな建物を造るほどナチの事物を蒐集して回ってたみたいだが、たぶんあんたの知らないことがあるぜ」
 挑むように千年は大きな碧い瞳でハオ氏を見た。ほう?とでも言うような具合に、ハオ氏は片方の眉を上げてみせる。“知らないだろう”。マニアには、この言葉は最大の煽り文句になる。
「奴らは、強制収容所で、ユダヤ人やロマ、同性愛者、その他諸々自分たちの世界観に都合の悪い人間一切合切を虐殺した、という噂話に聞き覚えはないか。世間じゃあ陰謀論だの歴史修正主義だのの根も葉もない与太話、ってことになっているが、あれは、本当だ」
 ハオ氏は両目を大きく開き、瞬かせた。
「あんた、SSの聖地もどきのスポーツジムを作ってたろ、そこにシャワー室がどうのと書いてたもんだから妙な笑いがでたよ。黒服ども、ああ、収容所の運営は親衛隊が行っていたんだが、収容所の中で収容者を殺すのに使っていたガス室の通称、っていうのが……おい?聞いてるのか?」
 一度目を見開いたあと、ハオ氏の目は逆に細められ、眉間にはしわが寄り、しまいには顔全体を下に向け、肩を震わせ始めた。メトゥを抱きかかえたままであるので、少女を食らっているような光景にも見えるが、なにやら、多大な感情の動きがあったらしい。少しばかり効果が早いが、今の話で動揺を与えることに成功したのだろうか。そう思った矢先のことであった。
 顔を上げたハオ氏は、顔を真っ赤にして、すさまじい形相を浮かべていた。憤怒の表情である。狂信的なナチには、世間的に与太話とされているこの話は逆効果だったか。千年が焦って立ち上がったところで、ハオ氏は片方の義手でまっすぐに千年を指さし、口を開いた。
「貴様私を馬鹿にしているのかそんなことを私が知らないとでも思ったのか、知っているぞそんなことは無論言うまでもなく勿論基本中の基本としてもう何年も前にとっくの昔に当たり前に知っているその程度の知識でごく初歩の初歩のちょっと気合いを入れたら簡単に手に入る程度のにわかじこみのにわかにもほどがありすぎる知識で貴様私に知らないだろうと私にご高説を垂れようともしかしたら説教でもしようと思ったのか馬鹿にしているんだなそうなんだなその程度のことは知っている主要な労働収容所と絶滅収容所だけで設立が古い順にダッハウザクセンハウゼンブーヘンヴァルトノイエンガンメフロッセンビュルクマウトハウゼンラーフェンスブリュックシュトゥットホフアウシュビッツビルケナウグロースローゼンテレジエンシュタットヘウムノソビボルマイネダクワルシャワベウジェツトレブリンカベルゲンベルゼンランツベルク一時収容所も含めるともっとある国内国外全部ひっくるめて処理した収容者数総五八〇万人超記録されていないぶんも含めれば六〇〇万人を下るまい全部の収容所の歴代の所長まで全部言えるぞ女性収容所解体直前に最後の所長をやったグレーゼは写真写りによるがうまく写ってると美人で好きだなどうだ知ってるだろうおい貴様聞いてるのか」
 どうやらなにか、よくわからないが地雷を踏み抜いたようであった。今までで最も早口で、最も息継ぎがなかった。わかった、わかりましたすみません、と思わず千年が謝るほどだった。
「いや、ええと、待て、それを知ってるなら、それを知ってるのに、どうしてあんたはナチをここまで――」
「それを知ってるのにじゃあない!それを知ってもなお!だ!それでもなお[#「それでもなお」に傍点]!私を救ったのは!ドイツ第三帝国だからだ!貴様はここの総工費がいくらかと言ったな!総工費がいくら、などという金額ではかれると思うんじゃあない!比喩ではなく、この地下王国、千年王国は私のすべてだ!すべてだった!私のドイツ第三帝国への愛のすべてがここに詰まっていた!本国の皆さまにはただの電力源としかみなされていないが!それでもお役に立てるならば本望だ!それに比べれば収容所についての知識など!いくら知っていようといかなる感情も動かされないただの文字の羅列だ!むしろ刺激的なアクセントですらある!ユダヤ人を救った外交官だとか言うろくでもない美談なんかよりよほど良い!」
 あとずっと言おう言おう思っていいそびれてたんだがその顔でナチだのナチスだのと言うな正式名称は国家社会主義ドイツ労働者党通称はだいたいNSだエンエス総統閣下が言うならせめてパルタイにしてくれ見た目が似てるだけに違和感がすさまじくて見ていられないだいたい敗北した総統だなんて不吉なことを言うなそんな話嘘でも知りたくない、との言葉もその後に続いたが、ともかく、ナチによって救われた、というのがハオ氏の存在の根幹であるようだった。
「私はドイツ人のメソジスト系宣教師と中国人の富豪の娘との子で父は生まれる頃には中国を去っていて母の実家で育てられたが厄介者といやもうこれはどうでもいいどうせそのくらいもう知ってるだろ知らなければ調べろこの話も長いんだ、ともかく、私が両腕を失って途方に暮れているときに私を拾ってくれ、私にこの両腕を与えてくれたのが、ハイドリヒ閣下だったのだ、組織で教えられたドイツの文化と教養が私を救った、それがなければ――」
 だんだん息が続かなくなってきたのかやや喋る速度は遅くなり、そこに至ってようやくハオ氏はいったん喋るのを止めた。さすがに、息が切れたらしい。マラソンのあとのような様子で、全身で息をしている。
「――失礼、それがなければ、私は人生に、この世界のすべてにノオと言っていただろう、しかし幸運にも私はこの世界であのすばらしい国あのすばらしい文化と出会うことが出来た、故に私はハオ、(ハオ)と名乗ることにしたのだ」
 それが、話の帰結であったらしい。なにやら力業でこじつけたような感があったが、当人にとってもそうであったようで、やり遂げた顔で、片手を肩口でぐっと握っている。
 片手を。ぐっと。
 つまり、ハオ氏の片手は、メトゥの首から離れている。いやとっくの昔に千年を指さすために離れていたのであるが、勢いに飲まれて気づいていなかった。千年は執務机に飛び乗り、次の一歩で踏み込む。同時に、ハオ氏が再度メトゥの首をつかもうとする。どちらが早いか――
 どちらよりも早かったのは、いずこからか飛来した一本の矢であった。矢が、ハオ氏の頬をかすめ、無論千年に当たるはずもなく、執務机の後ろにあったスクリーン兼湖に面した窓へと、命中する。
「あ」
 ハオ氏の方が、立ち位置の関係上、その光景を先に見た。スクリーンの表示が消えて一瞬真っ暗になり、その後透過されて背後の風景が見える用になる。ただし、今は夜であるため、背景の湖中も、ほぼ同じ黒である。
「えっ、うわあ」
 千年も振り向き、その光景を見ていた。一本の矢が、スクリーンの中央にあたり、そこから四方八方へとひびが走っていく。
 もし、この窓の設計者の計算が少しでも間違っていたら。千年はこの窓をはじめに見たときそう思った。しかし、それよりももっとわかりやすい例が、目の前では展開されていた。
 ひび割れが広がりながら、同時に、ひび割れから水が少しずつ吹き出ていたのは一瞬のことで、次の瞬間には、軽い衝撃とともにそれは窓の分厚いガラス全体を吹き飛ばし、四角い穴から室内へと濁流を流し込んでくる。
 敗者であるアドルフ・ヒトラーは溺死しなかった。おそらく、これでも死にはしまい。
 しかし、それ以外の人間は、死ぬ。
 千年は、目の前のハオを突き飛ばし、その腕の中に居たメトゥを引き寄せていた。メトゥは、水の冷たさで目を覚まし、きょろきょろと辺りを見回して、
「チャルパ!?」
と叫んだ。
「嬢ちゃん落ち着け、あの爺さん、とんだ食わせ物だ!詳しいことはあとで説明する、今は上へ」
「違う!あそこにチャルパが」
 足下の濁流はたちまちのうちに膝ほどまでになり、重い執務机が、流れ込む水の勢いで押し寄せる。その上に飛び乗り、水圧で開いたバックヤードへのドアの方向へと進むべくあがきながら、千年は少女が腕を伸ばした方向を見た。それは、内開きであるおかげで少しだけ濁流を部屋の中にとどめている扉の前だ。そこには、あの黒い僧服ではなく、小型の酸素ボンベの付いた潜水スーツを着た老人が、にやりと笑って立っていた。腕には、メトゥたちが使っていたあの小型のクロスボウが装着されている。
「日本の密偵さんよう。密偵ってのは、何も言わずに潜んで、目的を果たすもんだぜ」
 いったいどこの密偵で何が目的なのかは分からないが、ともかく、やはり同業者であったようだ。老人の服装だとか、彼が放った言葉に困惑を隠す様子もなく、メトゥは二人を見比べている。
「日本の密偵――〈昭和通商〉か!はは、奴ら亡命者を雇い入れたのか!」
 叫んだのは、濁流の中で水を吸った漢服に手足を取られ、立ち上がることも出来なくなっているハオ氏だった。しっかりと、千年の所属を勘違いしてくれている。所属組織を知られていないというのは密偵としてはありがたいことであるが、幾分、複雑な気分でもあった。正直に言って、〈千畝機関〉の知名度はものすごく低い。知名度の低い諜報組織にも二種類がある。一つは、とてつもなく機密性が高く、その存在すら公には認められていないため、全く知られていない場合。もう一つは、ほとんど実績がなく、どの組織からも敵と見なされないがために知名度がない場合。残念ながら言うまでもなく、〈千畝機関〉は、後者である。一応やることはやっているのだが、いかんせん大半のスリーパーは眠ったままであり、実働するのは千年一人であるため、世界中の諜報組織全体の仕事からすれば微々たる量でしかないのであった。
「日本に雇われた青い瞳の密偵よ、知っているかね!日本鬼子(リーベングイズ)、と我が母なる国では日本人をののしる!鬼子とは幽鬼のことだが、同じ文字を使って貴様等の国では、おにご、と読んで、両親に似ない子を指すそうだな!」
 バックヤードに出たところで、エレベーターが仕えるはずもないので階段の場所を探す千年の手をメトゥが引いた。何度もこの建物の中へ潜入しているメトゥの方が、内部の構造には詳しい。
 千年は非常階段の場所を確認したあとメトゥには先に上がってどこかに隠れているよう言って、自分はその場で、床に這い、階段伝いに湖畔へと至る電源のコードを軍刀で叩き斬り始めた。地味ながら、壊し屋としての本領発揮、といったところであろうか。水に触れた高圧電流の流れるコードは、バチバチと火花を上げ、宙に舞う。因果に守られている千年が同じ水中にいる限り、少なくともこの電流が水に触れることはないであろう。
 特急の破壊活動の間に、あの執務室からは遠くはなれているというのに、ハオ氏の声はなお、千年に追いすがってきている。
「お前はまさに日本の鬼子だ!お前にも分かっているだろう!日本は、日本人は一度もお前を愛さなかったのではないか!お前を日本人だと思ってくれるものは誰か一人でも居たか!それでもお前が日本の密偵であろうとしているのならば、それは、私と同じことだ!」
 ハオ氏の声は、濁流の中、いつまでも残響している。しかしそんな声は聞こえないふりをして、水が階下と向けて階段を滝のように流れ、足を取られそうになるまで、千年はコードを切断する作業に没頭した。階下に流されても、何らかの事象が起きて死にはしないが、今はメトゥを待たせているのである。給料はもらえるほどに破壊活動に勤しんだことを確認すると、千年は階段を登り始めた。

◇余談の一・ある一次的世界の話

 これは、余談だ。こことは異なる真なる世界、あるいは偽物ではない彼の話だ。
 本物である彼はその世界では、世界のあらゆる権威にノオと言っていた。そして、南洋の島に自分の王国を築き上げ、そして、一人のあまりにも有名なスパイに敗れ、死んでいった。
 あるいは、その彼の因果をまた偽物である彼も引き継いだと言うことであるのだろうか。勝敗の逆転したこの偽物の世界において、本物の彼と似た最後を迎えつつ、逆に人生に(ハオ)と言って死んでいく偽物の彼の死体は、しばらく後になり、ある段階を経て緩やかな渓流となった水の流れの中に浮かんでいた。その死体は、平常に戻ったあとの猛禽たちに啄まれ、やがて、鳥の糞となった。
 これは余談だ。本物の彼、すなわち、最も始めに生み出された、オリジナルである彼の死因は、彼が自らの収入源としていた鳥の糞に押しつぶされた、あるいはその中で窒息したことだった。

◆彼の衝動

 湖畔では、地下「千年王国」からの電力供給が途絶えたと叫ぶ声や、はたまた地下王国内にまだ多く残っている殲滅部隊の待避を無線に向かってがなり立てる声が飛び交っている。
「上へは出られない、正面の入り口へ向かえ、この構造物は巨大だ、水が充満するまでにはまだ時間がある、パニックを起こすんじゃない」
 機銃を持って山を下る一団が居るのは、上空に集まって人を食らおうと待ちかまえている人喰鳥を撃ち落として、正面玄関から待避する殲滅部隊を援護するためであるらしい。
 そのような状況であったため、階段の途中で待っていたメトゥをつれて湖畔を離れ、そのまま谷底へと向かうことは、案外容易にできた。が――
「あれ、いない」
 そこには、すでに因幡たちの姿はなかった。上方を見るが、そこにも動いている日との姿はない。
 ――おいて行かれたようだな。だから言ったのだ。
「遅くなったしなあ、彼なら、双方の安全にとってそれが一番いい、と判断したんだろう。……俺には、その判断が出来ないから、助かるよ」
 正面入り口の方で機銃による鳥退治が始まったおかげか、集まっていた鳥はようやくその数を減らしつつあり、人の目をねらう小鳥などは音に驚いて飛び去っていた。おかげで、時折数匹ずつ襲い来る中型の猛禽を刀で追い払うだけで、楽に階段を上っていくことが出来た。
 下から一〇番目のくぼみ、ということで数えながら上がっていったが、どこかで数え間違ったのか、奥の壁があいているくぼみは下から八番目で発見された。途中、親衛隊員の死体が階段に放置されていたのは、因幡の仕事であろうか。空港では、人を殺すことにためらいを覚えていたようであるが、村人たちを守るとなって何かが吹っ切れたのかもしれなかった。
「へえ、鍾乳洞になってるんだな。道順は、そこらじゅうに矢印が掘られてる。親切仕様じゃないか」
 千年がそんなことを言いつつメトゥとともに行こうとしたところで、決然とした表情でメトゥが千年の方をみた。
「助けてもらってありがとう、でも、ここまでで大丈夫」
 いや 、しかし、と言いつのろうとしたが、メトゥが次に口にした言葉で、千年はなにも言えなくなってしまった。
「……あなたも、チャルパも、スパイだったんでしょう。ハオと同じで。仕事しなきゃいけないんじゃないの」
 ハオはドイツのスパイで、俺は日本のスパイで、チャルパはよく分からなくて、というぐらいの説明は思いついたが、だが、そう言ったところで、この谷に他国の思惑を背負ったきな臭い男がやってきて、住民たちを、この少女を騙して、ひっかき回している、という点には代わりがなく、結局千年は
「ああ、そうだな。……すまなかった」
そう言うほかなかった。
「この洞窟についての話は知っているから、迷いはしない。だから、心配しないで、ヘル・ドクト――」
 その呼び名が正しいものではないと気づき、少女は困ったように肩をすくめた。千年は、自分の暗号名を教えたい、という思いに駆られ、口を開こうとした。
<img src="img/Heroine.jpg">
「いいよ、言ったら困るでしょう。私も聞かない。……騙してたことにはちょっと腹が立つけど、でも、助けに来てくれたし、いい人みたいだから困らせたくない」
 しかしその言葉は事前にふさがれていた。ありがとう、それじゃあ、と言って一人で歩いていく少女の背が見えなくなるまで見送ったあと、千年は短くなってしまった毛を、再度後ろへとかきあげ、谷の上を見た。
 谷の上からは、損壊した死体が時折降ってくる。これは、猛禽が食い荒らしているためではない。水没せんとする「千年王国」を脱出した親衛隊員たちが、吊り橋を渡って来ているのだ。
 するべきことのうち、人助けは終わった。あとは、千年の本領を発揮できる仕事だけである。
 千年は、崖をくりぬいた道へとやや性急に階段を登っていった。この道は、階段と同じくせいぜい二人が同時に通れるかどうか、と行った細さになっている。死なないとはいえ拘束されればそれ以上はどうにもならず、拳銃を使うことのできない千年としては、理想的な環境であった。
 ――結局お前は、またそれなのか。彼らだって人の子だぞ。偶然ドイツに生まれ、偶然ハイドリヒの部下であっただけのな。
 彼に話しかける、彼にしか聞こえない声を千年は無視しつづける。そして、崖の道へと上がったところで、この親衛隊員はどうやら歩哨にあたっていたものらしく地下王国の中に居なかったこと安堵し、同僚と命拾いできたことを喜び合っていた親衛隊の兵士を無造作に背後から切り捨てた。背後から袈裟がけに斬ると、よほど切れ味のいい状態の刀でない限り、大きな傷はできるが肋骨に阻まれ、心臓や臓腑まで至ることはできない。つまり千年に斬り捨てられた不幸な兵士は、不幸中の幸いというべきか、その傷によっては死ななかった。ただし、倒れたところを千年によって崖の下へと蹴り落とされたので、せいぜいその生涯の最後に一〇数秒が付け加えられた程度の幸運に過ぎなかったが。
 同僚がいきなり、すでに血潮を浴びて全身を真っ赤にした剣鬼によって斬られ、崖の下に転落させられたのを見て、雑談の相手は目をまんまるに開いて、口を開けるほかなかった。先ほど千年に転落死させられた青年もそうであったが、どういうわけか彼は小銃を持っていなかった。なので本当に、ただ驚きの表情を上げ、両手を上にあげて抵抗の意志を持たないことを示しながらその首を半ばまで断ち切られるほかなかった。
「畜、生……助かったと、思ったのに……」
 それが青年の、断末魔であった。
 そこから吊橋に至るまでと、また吊橋から山頂湖に至るまでの工程については、詳細に説明するだけマンネリズムをすすめる効果しかもたらさないので、簡潔におおよその死因だけを統計的にお伝えすると、斬殺が五三人でこれがやはり最多、斬られた後、あるいは逃げる際に足を滑らせたことによる転落死が次いで二一人、あとは同僚の誤射による死者数名、ただしこちらはその後千年に斬られてもいるので斬殺に加えてもいいかもしれない。これだけを見ればやはり斬殺が最も多い、ということになるのであるが、狭道を通って山頂湖に到達するまでに千年は吊橋のところで足を止め、その橋を崖につなぎ止める縄を断ち切っていたため、少々大勢は異なってくる。
「おい、誰かあいつを撃て!」
 千年が吊橋の縄を脂のまいた刀で斬り始めたとき、誰かがそう叫んだ。当然の反応である。吊橋の上で、綱が切れるかもしれない、という程の恐怖はない。
「撃ってるよ!撃ってるがあたらないんだ!」
「なら、銃剣を――」
 彼らの、生き残るための殺意がこもった銃撃も銃剣突撃も、あるいはまず手すりを失った吊橋が揺れたために照準が合わず、あるいは千年に向かうはずだった銃剣の先が揺れのためにずれ、千年が斬ろうとしていたもう片方の手すりを誤って半ばまで切断してしまう結果となり、千年に当たることはなかった。
「なんだ、あれは、悪魔なのか」
「まさか、ここの工作員に雇われていた考古学者のはずだ」
「いいから早く渡れ!」
「渡れるか、近づいたら斬られる!」
「おい、後ろからどんどん出てきてるんだ、戻ろうとするな落ちる、いや、将棋倒しに」
 橋の上は、つい数時間前、彼らに虐殺された地下王国のスタッフたちが繰り広げたものとほぼ同様の混乱に満ちていた。いや、兵士たちの場合、両側の手すりが片方で断ち切られた状態であったので、より深刻さは増していた。しかし、その混乱も長くは続かなかった。
 谷に悲鳴と罵声が響き渡る。吊橋の足場を繋ぐ縄の片方が、切り落とされたのである。吊橋の上に居たものののうち、半数以上がここで転落した。その数については――残念ながら数え切れそうにない。
 ――これじゃあ、お前が虐殺者ではないか。いつものことだがね。ああ、気の毒に、前途ある若者たちが……
 頭の中の声には耳を傾けず、千年は綱の最後の一本へと、頭上に掲げた軍刀を振り下ろした。それで、吊橋の上に居た〈ヘイズルーン〉の兵士たちは一人残らず、彼らが作り上げた死の谷の底へと飲み込まれていった。
 対岸では、吊橋が落とされたことに気づいた黒服たちが、入り口の脇の斜面へと取り付いて、這い上がっている。が、入り口を作るにあたって斜面をある程度垂直に削っているため、簡単には上がることができず、洞窟内では渋滞ができている。水が、という叫びも聞こえることからするに、すでに近くまで水が来ているのであろう。千年はそれでもどうにか逃げ延びることのできている一定数の黒服たちを名残惜しそうに見やっていたが、どのみちすでに谷底にはある程度の水が溜まっており、谷に降りて渡るよりも山頂湖へ回ったほうが早い。千年はそして、山頂湖までの間に残っていたハイドリヒの兵士たちを切り伏せながら、山頂湖へと向かった。
 山頂湖ではちょうど、大岩の周囲に人が集まってなにやら喧々囂々の言い争いをしている途中であった。話を盗み聞きする限りでは、どうやらそれは、地下王国に流入する水の量を分散させるためすぐに発破を行うべきだ、という主張と、それでは火薬の量が足りず岩が完全に砕かれないので水流がせき止められて湖の水の排出が遅れてしまう、という意見がそれぞれ対立しているらしい。そこに、誰でもいいから地下王国の水力発電所に言って配線を繋ぎ直してこい、という無茶な命令も加わった結果が、この言い争いのようであった。水力発電のタービンなど、周囲が全て水に浸かってしまえば回らなくなるはずであるが、その間に蓄電器でもつかって少しでも電力を吸い上げるつもりであろうか。
 千年は湖上を見る。湖上には、飛行船団のなかで一つだけ、山羊のような紋章の描かれた機体がある。あれが旗艦であるなら、ハイドリヒは、あの中にいるはずだ。
 爆弾。爆弾か。千年は、良いことを思いついた表情で、すたすたとその爆薬をつなぐ仕掛の元へと歩み寄っていった。どのみち、すでにレーザー兵器の電力供給は足りなくなっているのであるから、工事そのものの進み具合は放っておけばいい。壊し屋としての仕事は、ひとまずは小康状態である。そして、ここからはもうひとつの仕事の出番に他ならなかった。
「なあ、これって、このボタンを押すと爆発するわけ?」
 唐突に声をかけられ、工事現場の人々は困惑した表情で千年を見た。突然血塗れの古い党制服を着て、血塗れの刀を手にした人間に声をかけられれば、誰でもそう反応するに決まっている。
 千年が指さしたのは、黒と黄色の縞に覆われてプラスチックのカバーがついた、身るからに危険です、と言わんばかりの代物だった。
 ――おい、爆弾は、死なないとは言え数日昏睡するぞ。
「でも、ラインハルト・ハイドリヒはそれで死ぬ、もしくはひどい怪我を負うんやろ。半減と四倍ダメージやったら、半減の方が有利に決まっとる」
 一人、日本語でなにごとかをしゃべる血塗れの男を取り押さえようと、周囲に銃剣を持った親衛隊員たちが集まってくる。
「貴様、そのボタンから離れぶふっ」
 千年の肩に手をかけた親衛隊員の顔に向け、振り向くことなく軍刀を横薙ぎに叩きつける。気をつけてはいたが、大量殺戮を経てそろそろ切れ味はほとんどなくなってきていて、叩ききる、と言う動作しかできなくなってきている。しかし、千年は、そこにアドルフ・ヒトラーが作ったなにがしかが存在する限りは、けして行動をやめはしない。
 当然の流れとして、千年に向けて無数の銃弾が発射されるが、もちろんそれらは、そのとき偶然工事中の足場が落下したことによって防がれ、千年に当たることはない。
「あっ馬鹿、ここでそんなもんを使ったら――」
 誰かがそんな言葉を叫んだ。そんなもの、とは手榴弾で、使ったら、爆薬が誘爆する、と言いたかったらしい。しかし、手榴弾は千年に向けて投げられ、しかし狙いが大きく外れて脇にそれ、まだ設置されきっていない爆薬の残るコンテナへと入った。それが予期された時点ですでに〈ヘイズルーン〉の兵士たちの中には山頂湖の縁の外へと飛び出しはじめ、千年を邪魔するものは一気に減った。手榴弾がコンテナの中で爆発し、続きコンテナそのものも吹き飛ぶ。いかんせん、金属製のコンテナの中に数個の爆薬の束が残っているだけであったので、これはそこまで大きな爆発とはならない。人が減ったのはやや残念であったが、今のうちに、と千年は爆薬へと続くボタンを、全く無造作に押した。
 ――私は確かに爆薬で死ぬことはなかった。ただし、眼帯のシュタウフェンベルク大佐による暗殺未遂事件により、数日間昏睡し続けるだけのダメージを負いはしている。
 発破の点火ボタンを押してから爆発までにはやや時間がある。その隙に、飛行船団の旗艦は繋留の綱を切り上昇を始めていたが、そこまで上空へと上がらないうちに、轟音が谷に響く。それとともに、千年は吹き飛ばされ、砕かれた岩の破片が飛び散り、千年にも当たった。その最中にさらに幾度か爆発があったのは、まだ待避させていなかった飛行船の気球部分や、設置する前の爆薬も誘爆したものだろう。
「あー、さすがに無傷は無理か。あっはは、痛いなあ」
 ごうごうと言う音は、水が流れる音だろう。しばらく後に、千年の全身は水に落ちていた。――が、すぐに引き上げられる。目を開くと、そこには、無数の黒服とともに、白いマントをまとった鉄仮面の男、〈ヘイズルーン〉の長であろうが居た。あれ、死なんかったんか、そう思ったが、さすがに全身が痛くて動けなかった。口を開くと、げほげほと血の味がする。
「――――」
 何かを言っているようだが、聞こえない。鼓膜が轟音により麻痺をしているのだ。
 ハイドリヒはしかし、静かに怒っているようだった。鉄仮面のスリットの奥のアイスブルーの瞳が、暗く燃えている。怒鳴っているようだがやはり聞こえない。――しかし、このスリットの奥から見える皮膚は、現在五〇歳そこそこであるはずのハイドリヒのものとしてはいささか老けすぎては居まいか。見たところ七〇かそこらの老人のそれに見える――
「――おい、聞こえるようになったか、答えろ貴様はどこの手のものだ、くそ、航空機から墜落だなど空軍のまねごとをして以来だぞ、名を名乗れ貴様アンドレアス博士ではあるまい」
 どうやら、怒ったときにハオ氏がより早口になるのと答えるはずもないのに所属を問いかけるのは、このハイドリヒ譲りのようだ、とようやく聴力が回復し始めた瞬間に聞こえた声を聞いて、千年は考えていた。
「……俺か。俺は、アドルフ・ヒトラーだ……って言ったら、怒るよなあ」
 怒るよりも、むしろ単純に、頭の方を心配したらしい。千年の胸ぐらを掴んだ手を片方離し、ハイドリヒは横にいた軍医に、頭を指さしてその指をくるくると巻いて見せた。
 ――ラインハルト・ハイドリヒは一度、空軍のパイロットとして東部戦線にて出撃、その際撃墜されたが無傷で生還を果たしている。そちらの因果に、収斂されたかもしれんな。
「あー、そっちか。もうちょっと考えて行動するべきだったなあ」
 ――当たり前だ馬鹿者、ハオに感化されたのか、自棄になりやがって、確実にこれは骨が折れているぞ、痛くてかなわない。だいたい、レーザーを作らせないのなら、周辺の機械を壊せ機械を。ハイドリヒをねらってどうする。
「死ななかっただけましだろ、最初から分かってたけどさ。あー、痛い……」
 さらに千年が一人で話をし始めたので、本格的に頭がおかしいと見なされ始めたらしい。骨が折れた上から拘束服を着せられ、激痛の中、待避が完了していた別の船へと運ばれていった。

◇すれ違う因果

 再び普楽への道を走りはじめてすぐ、因幡は向こうから来る人影に気づき、足を止めた。見ると、あの少女、メトゥだ。服装がTシャツにジーンズというものなのでずいぶんと雰囲気が違う。
「メトゥ!あの人は、アンドレアス博士は?」
 メトゥから見れば、ほとんど突然因幡がそこに現れたように見えたようだった。驚いて辺りを見回しつつ、答えた。
「アンドレアス博士、じゃないんでしょう。たぶんあなたも荷物持ちの人じゃない。名前は知らないけど。仕事をしに行ったよ、金髪の人なら」
 口調もやや変わっていて、あの奇妙なほどの人なつっこさは消えている。おそらくはこちらが素の性格なのだろう。
「仕事……ああ。そうか」
 なにがどうなったのかは分からないが、千年がそれをいうような状況ならば、それなりの状況だったのだろう、と因幡は断じる。少女にこのまままっすぐ行けばもう出口であることを伝え、再び因幡は走り出した。
 走る途中、チャルパという老人ともすれ違ったが、チャルパはあの生き仏を熱心に見ているようだったので、因幡は声をかけるのはやめておいた。老人であればこの抜け穴のこともよく知っていることだろうし、生き仏も拝みたいだろう。呪いのタネ作成者でありこの村の惨状の原因であるとも知らずによくやるものだ、と因幡はため息をつく。
 水音が聞こえることに気づき、因幡は眉をひそめる。先ほど鍾乳洞が崩れるほどの揺れがあったが、あれはもしや、大岩を砕くための発破によるものだったのか。しかし、一体なぜ水を流す必要があるのか。――因幡はまだ、ハイドリヒたちの目的を知らないままだ。
 鍾乳洞を抜けた谷は、様変わりしていた。あのくぼみの数で言えば、下から三番目ほどまでが水に浸かっている。上流を見上げると、ダムが決壊したかのような勢いで、大岩があった部分から水が流れ出ている。その水が溢れ出る辺りに何やら〈ヘイズルーン〉の兵士たちが大きな機械をずぶ濡れになりながらも設置しようとしているのは、一体なんだろうか。
「……なにが起きているんだ、一体」
 分からないままに、因幡は崖の上には登らず側面の凹凸を足場に跳躍して、山頂湖へと向かった。

◆黒い森の隠密

 軍医が、千年の口の中の皮膚を採取した。普段ならどうということはないのであるが、先ほどの爆発で吹き飛ばされたせいで口の中もべろべろに切れているので、非常に痛かった。
「これは、ううん、やはり親衛隊の遺伝子データベースにはありませんねえ。ユダヤ人である可能性〇・二五パーセント、混血の可能性あり……密偵の可能性もありますねえ」
 そこは、千年によって破壊された飛行船から旗艦機能を移された軍用飛行船の中だった。どうやら千年のDNAを採取して、コンピュータのデータベースと照会したらしい。ユダヤ人の可能性が入っている、と言うのがおかしくて千年は笑ったが、それもやはり口の中に痛みが走った。
 ラインハルト・ハイドリヒは千年をじっと見つめている。服は現在、病院の検査服のようなものに着替えさせられているとはいえ、髪を短く切っているので、面識のある人物であればにていることには気づくかもしれない。
「……自傷癖持ちの密偵(スパイ)、というのもあまり聞かないがな。神経に達している傷もあるだろう。少なくとも私ならば雇わない」
 千年の、無数の切り傷がついた右手がひねりあげられた。ハイドリヒは元々秘密警察、帝国国家保安部(RSHA)の長官であったが、ハオ氏の話によれば、何らかのスパイ組織の長を勤めている風な話でもあった。この言葉を聞くかぎり、現在進行形で諜報組織の長を務めている……ということであろうか。現在のRSHA長官は言うまでもなく別人であり、その下のどの部門にもハイドリヒの名があるはずもないので、やはりこの〈ヘイズルーン〉は、親衛隊組織から引き抜いた人員を使った独立組織である、と考えたほうがいいかもしれない。
「全く。〈七人連〉も落ちたものだ。ウォッチ大佐は何をしている?直接話をしておきながら相手が別人だと気づかないとは。かつての皇家の影ともあろうものが――」
 どうやら、ハイドリヒでもあの妙な大佐は制御できないものと見え、行方を掴みきれていないらしい。ここで、ハイドリヒがウォッチ大佐と全く同じ言い回しを使った、ということを教えたらなかなかおもしろい反応が得られそうであったが、そこまでの気力がわかず、千年は黙って鉄仮面を眺めていた。しかし、〈七人連〉についてなにやら、この男は重要なことを言わなかったか?
 千年はハイドリヒがさらに何かの情報を落としてくれないものかと期待し、注意を向ける。そして、その時初めて、ハイドリヒの胸元に、ウォッチ大佐と同じ形のバッジの、番号だけが違うものが存在しているのを発見した。普段はマントで隠れている部分なので、見えなかったのだ。あちらは“7”で、こちらは“1”となっている。まさか、と思った瞬間、ハイドリヒはそのバッジをマントで隠してしまった。
「……あんたも、〈七人連〉なのか」
 言われてみればどちらも、訳の分からない仮装を身につけているという点では通じるものがある。それが規則である、とも思えないが。
 ハイドリヒはぎろりと千年をにらみつけ、何かを言おうとしたが、それと同時に医務室のドアがノックされ、結局何もいわれないままに終わった。
「失礼いたします。谷に複数の、おそらくは特殊潜入員とおぼしき侵入者が。服装からするに日本の手のものかと」
「殺せ。殺した後、設備内に放り込んで首謀者に仕立てる」
 日本の工作員。因幡のことか。いや、複数というなら、ウォッチ大佐のリークを受けて即応した営業部員か。〈昭和〉の組織は分厚い。大陸に元からいたものだけで、先遣隊は作れるはずだ。因幡の任務はハオ氏を騙しきると言うだけのことであり、状況が変わった時点ですでに仕事は終わっている。先遣隊が来たならば、ここにとどまる必要はない。脱出後、そのまま安全なところに退避してくれていれば一安心だ――
 ――そう思っている割に、心中はずいぶん乱れているようだが?
 千年は右腕を叩きつけたい衝動に駆られたが、しかし、その腕はすでに再び拘束されていたため、かなわなかった。
 新たな状況に対応するためか、ハイドリヒは彼に報告をあげた部下とともに医務室を後にした。その際、最後に軍医へと向け
「念のため、ほかのデータベースも調べておけ」
そう告げて、去っていった。
 〈七人連〉。ウォッチ大佐によれば黒い森(シュヴァルツヴァルト)出身の間諜団だと言うことであった。かつてはやんごとなきお方を救ったこともある、との証言が真実ならば、帝政時代からの伝統を持つ組織だということである。そして、先ほどのハイドリヒが口にした、王家の影、という言葉。ウォッチ大佐が密偵(スパイ)などという現代的な言葉を使ったために惑わされたが、これは、想像すべきものが現代の諜報組織ではないかもしれない。そして、それとともに――歴史の長さの割に名前が知られていなというのは、〈千畝機関〉とは真逆の、すさまじく機密性の高い諜報組織なのではなかろうか、と千年は仮説を立てた。そしてハイドリヒは、その一員である可能性が高い、となれば、一体どのような構図が思い浮かぶか。
 おおよそ千年の頭の中で、ハイドリヒと〈七人連〉の関係が想像できてきた。それとともにあの時計の大佐への怒りが、ふつふつと千年の心中に湧き上がってきた。
 ハイドリヒが去って、再び両手は拘束されてしまったが、寝台に固定されているのは足だけである。軍医は、非常に面倒そうに、複数ある遺伝子データベースを照会し始めた。はじめはまず、犯罪者データベースである。そうか、犯罪者に見えるか、と少しばかり落ち込みつつも、軍医のポケットにボールペンがあるのを、千年は目ざとく見つけた。
 千年は、いましがた腹を立てた相手である〈七人連〉のウォッチ大佐が、愛用の得物などを作るな、と言っていたのを思い出していた。千年の場合、銃が壊滅的に撃てないのと、敗者であるヒトラーの因果を受け継いでいるおかげでまず死なないのをいいことに軍刀を使っているわけであるが、たしかにそれだけではどうにもならない場面もある。しゃくに障るが、武器についての助言を受け入れるほかないであろう。それと、攻撃する部位も奴にヒントをもらった、ということになるか。心底しゃくに障るが、言うこととやることだけは役立っているのは、千年も認めざるを得なかった。
「なあ、そんなとこ探しても俺の名前はないよ。探すなら、党高官にしなよ」
 千年は軍医に話しかけた。軍医は、千年が自分の名をアドルフ・ヒトラーと名乗った、と言うことを聞いているため、戯言だと思い、相手にしない。
「犯罪者データベースより、あっちの方がよっぽど短いんだし、もし載っていなくても時間のロスは少ないだろ。そいつに載ってなかったら一体どれだけ時間がかかると思う?」
 千年の言葉と、ブラウン管に映るデータベース照会の推定残り時間を見て、軍医はその提案を受け入れてもいい、と思ったようであった。軍医は検索を中断して犯罪者のデータディスクを取り出し、代わりに党高官のデータディスクを挿入する。
 ポオン、という、照会結果が出たことを知らせる音が鳴ったのは、ジジ、ジ、とデータディスクが回り始めてすぐのことであった。なので、シュテルマーを読もうとしたところであった軍医は驚いて画面を見る。そして、そこに表示された結果が信じられず再度ディスクを読み込みなおし、同じ作業を繰り返す。が、やはりすぐに結果は出て、その名前と肩書きが画面上でハイライトされる。結果は無論――アドルフ・ヒトラー総統である。
「だから言ったであろう、ドクトル。分かったならば外してくれたまえ」
 と、言っても、外してくれるとは思っていない。ただ、驚いた軍医が千年の元へと歩み寄り、よく顔を見ようと腰を屈めるのを待ち――
「うっ、ぐ」
 千年は上半身を起こして白衣のポケットのボールペンを引き抜き、そのまま軍医の目に付き入れた。一度ではいけない。二度、三度と、上下の歯にぐちぐちという気色の悪い感触が伝わる。そのうちに、軍医は静かになった。
 息を整えると、千年は後ろ手に拘束された腕の肩をはずし、手を前へと持ってくる。肩が鈍痛をあげている。死なないだけで、痛いものは痛い。酸素をもとめて口を開けたくなるが、ボールペンを落とさないようその衝動をこらえる。ある程度息が整ったところで、千年はそのボールペンの先で、手錠の鎖の輪のひとつを突き始めた。口の中が乾き、顎が痛くなる。途中でナースなり負傷者なりが入ってきたら、という恐怖が、ペン先をぶれさせる。平静を保とうと努めながら何度めかに手錠を突いた時、ようやくその輪がはずれた。自由に動かせるようになった腕をぐるりと回して間接をはめ直したあと、次には足の拘束を解き始める。焦っているためか、なかなか拘束は解けず、人を追い立てる時計鰐のようにチクタクチクタクと時計の音が耳に付く。
『おー、教えたこと守ってるねえ、えらいえらい』
 その最中、あのふざけた声が聞こえてきた。マイクを通したような、茫洋とした声であった。この場には居らず、船内のスピーカーなり伝声管なりを通して話しかけているのであろう。話しかけるからには、向こうにもこちらの声は聞こえるはずである。千年は作業の手を止めることなく、気にかかっていたことを確かめるべく問いかけた。
「ハイドリヒは襲撃によって植物状態になった、と発表し、お前たちの組織に加わったんだな」
『まーまーおおむね、そんな感じかなあ。加わった、っていうかねえ、あいつが頭領になっちゃったんだよねえ。元はウォッチ大佐が一なのねー。ま、スパイ的に七号ってチョーゼツサイコーナンバーだから交換したげたんだけどねー』
 やはりよくわからないことをいう。が、ハイドリヒが〈七人連〉の一員であることは、確定した。そうなれば、〈ヘイズルーン〉というのは〈七人連〉内部の組織……ということになるのか。
「なら、この一件、お前等の仲間割れに東側が巻き込まれているだけじゃないか。皇帝家の影、つまりはホーエンツォレルン家、プロイセン王室の御庭番だろう、お前の〈七人連〉というのは。それが、ハイドリヒによってナチ体勢に組み込まれた。だから、ハイドリヒを排除するためにこの件をリークした。ちがうか」
 ホーエンツォレルン家とは、ドイツ革命の時までドイツに訓練していたドイツ皇帝の一族にほかならない。ウォッチ大佐の話の端々から伺える歴史の古さを鑑みるに、日本で言う忍び、その中でも皇家に仕えるものであれば、御庭番に対応する存在であると考えれば腑に落ちる。
 プロイセンの御庭番、という表現がおかしかったのか、うひひひひひ、と、ウォッチ大佐の笑い声が時計の音にまじった。
『ひひひ、御庭番、そっか、そうなるねー。そっちと違ってドイツには専用の概念がないから、ただ影、としか言わないけどねー。まあそんなとこだよねー。でも、仲間割れ、ってのもおかしいかなー。〈七人連〉って、あくまで黒い森に潜むかつての皇家の影たちの中で、マイスター級の七人のことだからねー。それぞれ、ウォッチ大佐みたいな神様級密偵(スパイ)か、自分一人で独自の諜報機構を持って運営できるレベルの密偵使い(スパイマスター)なのー。だから、頭領がおおまかに座を取りまとめる役回りって以外、ほんとは相互干渉もナシなんだよー』
 つまり、〈七人連〉はそれぞれが一つの諜報組織レベルの密偵、ウォッチ大佐曰くの影が集まった組織で、メンバー同士は基本的には対等、ということか。それで、大佐と中将がどちらも対等に話していたのであろう。何とも、雲の上の話を聞く気分であった。では、〈ヘイズルーン〉は、ナチスドイツの組織であり、ハイドリヒの私兵でもある――といったあたりの立ち位置であろうか。少なくともやはり、本物ではあったらしい。
『でもまあ、ウォッチ大佐の動機については、おおかたキミの言うとおりだよねー。ヴィリーちゃん逃げちゃったから、革命からこっちただの黒い森の影になってたのに、あいつが無理やり入ってくるからさー。ひひひ、〈七人連〉だけならいいけど、鉄仮面くん、あいつただの影ちゃんたちのことも変な動きしないか監視して、勝手に動かすんだよねー、やだねー。そのくせ、悲願が成就できるからって、ウチの情報漏らしちゃうしねー』
 やはり千年の予想は大筋で当たっていた。プロイセン王家の御庭番が、ヴィリー、ヴィルヘルム二世の退位を受けてその役割を失いながら、例えば日本の伊賀衆が明治維新後も残ったように存続していたところ、ハイドリヒに目をつけられてナチの下働きにされてしまった……という次第のようである。明治政府からの流れをくむ日本政府のもと、伊賀流の師範たちが中野学校で教官を務めているのと似た構図かもしれない。〈七人連〉の場合は、間にワイマールを挟んではいるが、タイムスケールがより小さいぶん、当事者同士の感情にはよりわだかまるものが存在するであろう。ドイツ革命からは、数えること今年で四五年目。日本でいえば、江戸城明け渡しから四五年後ならば大正二年、まだ軍や政府では長州閥だの何だのでもめていた頃である。やはり、こちらが利用されているという形にほかならないではないか。それも、動かねばならない状況であるのがたちが悪い。情報を教えてくれたことに、感謝の念はいるまい。もともと、ハイドリヒが勝手に漏らした情報から、大方は予想できていたのである。
『あっ、ちなみにねー、あなた[#「あなた」に傍点]はねー、ひひひ、スパイ的にはうじ虫級通り越して門前払いレベルー。昔、ドイツ陸軍情報部にいたころ密偵に入った先の政党でガチンコの活動始めて軍からも長いこと給料もらってたっしょ、あれマジ最悪だからねー』
 千年のことではない。アドルフ・ヒトラーの話である。なぜ千年の正体を知っているのか、など、マイスター級ワンマンインテリジェントサービスゲルマン忍者に聞くだけ無駄な話であろう。そもそも〈千畝機関〉の機密保持機能など無に等しい。以前、長官が鍵を忘れた時に〈昭和〉に頼んでピッキングをしてもらっていたほどである。
 ようやく千年の足の拘束がとれた。千年は立ち上がり、部屋の脇にゴミとして放置されていた党制服、すっかり血にまみれているそれへと再度袖を通した。軍医の衣服を剥ぎ取ろうと思っていたものの、軍医は千年よりもかなり小柄で、服が入りそうになかったのである。
『でも安心しなねー、頭領閣下様もこれで破門級になっちゃったからねー』
 これで、とは、この谷で行われているばかげた企てのことであろう。千年は医務室の中のシンクで顔を洗い、軍医の私物のヘアワックスを使って髪を後ろに流して鏡を見る。
 ――やはりこの服、この髪型が似合うな。お前は嫌うであろうが。
「いや、間違いないさ、そりゃあ仕方ない、顔の問題だ」
 軽口をたたきながら、千年は医務室をでた。その前に、すでに刃こぼれがいくつもできて、何カ所かで曲がっていて到底修復のできそうにない、三十二年式軍刀が置かれていた。
『それ持ってないとらしくないもんねー、オオカミくん。ま、実際、こっちの思惑に乗ってもらっちゃってるし、サービスサービス、ってわけねー』
 そのぼろぼろの軍刀を手に持って、千年は歩き出した。時計の音は、聞こえなくなっていた。
 歩き出して、廊下を数歩進んだその瞬間、千年はなにやら妙な感覚におそわれた。もしや、と外を確認しようとするが、この廊下は、外に面していない。次の角まで走り、窓のある廊下にまででたところで、千年はあっ、と声を上げた。
 飛行船は宙に浮き、完成したパラボラを見下ろしていた。パラボラにはすでに無数のプラズマが走り、発射が可能になる時刻の近いことを伺わせる。
 山頂湖全体がすでにパネルに覆われている。大岩のあった場所の上にもきれいにパネルが並んでいて、真ん中にはレーザーの射出方向を決める鉄塔が聳え立っている。山頂湖の周辺には、大量の発電器が並んでいて、そこからでた無数の太い送電線が、パラボラの底へとつながれている。
 水さえ抜ければ後はパネルをおくだけと言っていただけのことはある。そして、発電量も、こ多少時間はかかるかもしれないが、自前で持ち込んだ発電機によって賄う気であるらしい。では、水に浸かりながら必死で発電室のコードを切ったのは、ただの徒労であったわけか。あるいは本当に、タービンが回る間に少しでも電力を吸い上げるべく、高圧電線をつなぐために数人を犠牲にしたか。壊し屋の仕事が存続していたことに、千年は頭を抱える。が、そうしていてもどうにかなるわけでもない。千年はすぐに思考を切り替える。あれを壊す方法と言えば、何があるか。
 ――お前だけならば、わかりやすい答えがあると思うがね。
 言われずとも、千年も分かり切っていた。だが、この場合それは、中にいると少しばかりやりづらい。それに、この飛行船はやや見覚えのない、おそらくはドイツ側の新型機であり、気嚢がどのような構造になっているのかがわからないのが困ったところである。が、ともかく頑張るしかない、と思ったとき、左右から迷彩服の男たちが走り出てきた。気づかれたか。千年は抜き身の軍刀を握る。
 が、男たちは千年などいないかのように脇をすり抜けると、窓を開き、船体の骨格に設置されていたワイヤーロープを中へと延ばした。そして、切れのいい号令とともに、ロープを伝って降下していった。谷への侵入者への対策だったようだ。ではこれで安心――かと思いきや、ロープを回収するためか切り離すためか、更に足音が続いたので逆の側へと千年は一旦身を隠す。
 開け放たれた窓からは、夜明け前の冷たい風が船内へと吹き込んできた。

◇引き寄せられる因果

 山頂湖であった場所には銀色のパネルが並べられ、巨大なパラボラが誕生していた。その周辺では、山肌に沿って大量に並べられた発電器が、低いモーター音をあげて作動している。すでに一定の電力が発射のために蓄積されているらしく、パラボラ内部ではばちばちとプラズマが散っていた。
 この設備は、レーザー兵器のそれだ。日本では、せいぜいユダヤ自治領から買い取った熱核兵器が関の山だが、第三帝国側では軍事衛星を使用したレーザー兵器がすでに実用レベルになっており、各地に配備されている。
 鳥が狂っていたのは、このためだったのか。因幡は脳裏に押しやっていた疑問を一つ解消した。
 だが、こんなところに一夜漬けでレーザー兵器を作り上げる意味は一体。そう考えているうちに、因幡の隠れる元湖畔、今はレーザー兵器のパラボラをつくるパネルと地面との隙間となった場所に、すべりおりるような音が無数に聞こえてきた。少し顔を出すか、と思ったその目の前に、軍靴が落ちてきた。いや、軍靴だけではない。その上には、迷彩の野戦服を着た人間の体もついていた。因幡の目の前を、無数の長靴が走り抜けていく。どうやら〈ヘイズルーン〉の隊員が、飛行船から空挺降下をやったようだ。
 因幡は上空を伺った。飛行船のうち一つは斜面の頂上付近へと繋留されているが、一機だけ、上空に残っているものがある。元はもうひとつ、〈ヘイズルーン〉の文字と紋章を描いた飛行船もあったはずだが、あれがないのは千年が何かをやったせいかもしれない。尾根に繋留された飛行船からもよく見れば野戦服姿の隊員たちが、崖側と斜面側、双方へと展開していっている。迎え撃つものは、というと、因幡の後を追ったはずの〈昭和通商〉営業部員しかいない。因幡は抜け道から登らずにそのまま崖の石を足場にここまできたので気づかれなかったが、先輩方はおそらく登ってしまったのだろう。
「あ、上に親衛隊員いるって言うの忘れたんだ」
 忘れたというか、話の途中で走ってきてしまったので言う暇がなかったと言うべきか。
「……まあ、どうにかするだろうあの人たちなら」
 やや苦いものを感じつつも、因幡はそう結論づけた。
 さて、自分はと言うと。
 おそらくこちらに来れば千年がいるものと思って来たのだが、一通り探ってみた限り設備周辺にはいないらしい。と、なれば、飛行船の中なのだろうが。
 因幡はするすると引き上げられていき、頭上、やや高い位置にぶら下がっている空挺降下用のワイヤーを見た。たぶん、いけるか。
 ひょい、っと跳ぶ。跳躍力は、営業部の密偵の中でも一番高い自信がある。左手で、掴んだ。
 ワイヤーに過重がかかったことに驚いてのことだろう。飛行船の明るい窓を背に、頭が見えた。自由な右手を上に伸ばす。
「鳶礫・(とがり)
 単に、今さっき拾った、大石を爆破したときにできたらしい尖った欠片で印地を打っただけのことだ。が、飛来した尖った石を眉間に受け、男はそのままこちらに、つまり飛行船の外に落ちてきた。落ちるだけならよかった。のだが、その落ちた先が悪かった。
 アルミのパネルの上に落ちた男の死体は、プラズマに弾かればちばちと盛大な音響をならした。ああまずいこれは気づかれた。
 因幡はそのままするすると登っていく。上空の窓からは、身を乗り出した人影がこちらに向けて拳銃を撃ってくる。どちらも風に揺れている状況でのことで、拳銃の弾そのものも風に流れるので当たらない、今は当たらないが、上がれば上がるほどに当たる確率は増えていく。
 仕方ない。因幡はいったん片手をはなし、また礫を持てるだけ手に落とす。――上向きにのみ放つ際の補給方法も、研究課題になりそうだ。
「鳶礫・(つらね)
 言うまでもなく、複数発の鳶礫を連続して打っているだけだ。が、撃ち返されることを想定していない飛行船上の敵には、結構当たる。三人ほどを連続して倒したところで、ひょい、と顔を出したものがあった。ほぼ、後は窓に手をかけるだけ、と言う位置でのことである。
「鳶礫・尖、これで最」
「どうも、〈昭和〉の人で……えっ、なんで」
 最後、と言おうとした言葉が止まった。それは、いつの間にかなぜか髪が短くなっていて後ろにヘアクリームで撫でつけていて服も褐色の服が返り血に染まりすっかり赤くなってしまっているが、あの〈千畝機関〉密偵、千年にほかならなかった。こんなところで出会えるなんてとかあのときはすまないとか、それよりも先に立つ感情があった。
「アキカズくん、とびつぶて、ってなに?」
 千年が、苦笑いと愛想笑いの中間のような表情をたたえて、尋ねた。聞かれた。すさまじい恥ずかしさだ。落ちそうだった。と言うか、落ちていた。恥ずかしすぎて手を離したらしかった。
「うわああああああ落ちる落ちる」
 千年があわてて身を乗り出して、手を掴んで引き上げてくれたおかげで助かった。しかし、恥ずかしさはどうにもならなかった。

◆衝動・その限界

「とびつぶてというのは飛礫の文字を変えて鳶に変えて読みを文字そのままに変えたものでとがりというのは単に爆砕された岩の欠片で、だからなんて言うかこれは忘れろお願いだ忘れてくれ自動的にこの記憶は消去されてくれ」
 人間、焦ると早口になるものらしい。自作の技に自作の名前を付けてそれを口にしているところを見られた〈昭和通商〉密偵因幡明和は、顔を真っ赤にして目を見開いてどちらかと言えば半笑いで泣きそうになりながら床の上を見る、という色々と入り交じったらしい表情で、その記憶が千年の脳から消えることを懇願していた。
「あっうん忘れた、完全にもう何も思い出されへんわ、なんか聞いたっけな」
 分かっている、と言うことを伝えるべく最大級の笑顔でそう伝えたのだが、逆に傷口を開いてしまったらしく、因幡はその場で丸まってごろごろと転がり始めた。横に、因幡の印地に撃たれた男たちの死体が転がっているものだから、少しばかり猟奇じみた光景であった。
「……よし落ち着いた、僕も何も思い出せない、思い出せあああああああ」
 とても深い心の傷を負わせてしまったようで、千年はただその横でおろおろとしているほかなかった。
「今度こそ、落ち着いたぞーよし落ち着いた。ああ、そうだ、悪いな、伝言も残さず先に出立して。だが、あの方がよかったはずだ。その後水も流れてきたしな。あのときのあんたは、何というか、動揺しすぎていたから冷静な判断ができなかったのだろう」
 因幡が言うのが、自分の正体、あるいは本名を指摘された直後のことであると了承し、千年は困ったようにほほえむ。
「いや……言うたとおり、俺は、ナチスドイツに関することで、人の命に関わる決断である限り、絶対に、全体のために少数を見捨てることができへんねん」
「……それはもしかして、〈千畝機関〉で、そうするように教育されているのか」
 因幡はここにはいない誰かに対する敵意を露わにした。
「〈昭和〉がどうのと言っていたから、うちの部員が谷に来ていることは知っているな。だが、〈千畝〉は動いていない。来ない、と言っていた。あんたは、自分の正体がアドルフ・ヒトラーだと言った。そして、自分以外の〈千畝〉の密偵がほとんどスリーパーだと言った。あんた、あの組織で、多くの人のために一人、犠牲にさせられてるんじゃないのか」
 千年は話を聞いていたが、途中で目の前の青年が、どうやら自分の所属する組織にあらぬ疑いをかけているらしいことに気づき、あわてて胸の前で手のひらを左右に振った。
「ちゃうねん、そういうことはないねん。結果的にそうなってる部分はあるけど……でもそれは俺がお願いしてることで、俺は、そう言う人格やねん」
「そう言う人格、って、なんだ、あんたにそうじゃない人格があるようなことを」
「うん。俺は主人格じゃなく、あくまで、敗者であるヒトラーの陰の人格やからなあ、実を言うと、こっちが偽物やねん」
 ――ほう。言うのかね、それを。
 因幡がまるで、父親だと思って手をつないだ相手が別人であったことに気づいた子供のような顔をしたのを見て、千年は決まり悪そうに頭をかいた。
 空挺部隊が降りていった窓からは、風が吹き込み続けている。それは、窓の骨組みに当たり、ごうごうという音を立て続けていた。
「ああ。言わんとあかんやろ。……って、こうやって一人で話してる、この相手がここにおるアドルフ、敗者たるヒトラーや。これは話したわな。こっちが俺のなかの本物の人格。一人で話してたらヘンやから小型無電のモック使(つこ)とってんけどな。壊されてもうたよって一人でこうやって喋る人になったわけ」
 自分の頭を指さして、千年は語る。しかしその声は、風に流れて力強さは消えている。因幡は、信じがたい、と言う表情を浮かべていたが、今までに聞いた話、見てきたことのうち、思い当たる節があったようで表情を引き締める。
「……陰の人格、とか、本物の人格とか偽物の人格、ってのは、それはただの相対的なものじゃないのか。成り立つ時期が早いか遅いか、と言う問題で」
 別の話ではあったが、相対的なものではないのか、と同じような言葉をハオに言われたのを思い出し、千年は少しおかしげに笑った。
「いや。俺の場合、せやな、心の器、頭の中の記憶の器があったとして、そこにぽんっと敗者であるヒトラーがそのまんまはいってる、って言うのを思い浮かべてほしい」
 千年はあまりよく動かない右手を器のような形に曲げ、その上に左手で鍵十字を書いて見せた。
「これが最初にあって、俺は、そのあいてる部分の形に合わせてできた、抜き型みたいなもん……って言うてわかるかな」
 因幡は首を左右に振った。
 ――それは、その説明では分かるまい。実例を挙げたまえ、そう言うときは。
「ああ、実例。そうやな、たとえば、この、俺が話す関西弁。これは、アドルフ・ヒトラーの話すドイツ語と最も遠い、と俺が思った言葉やから[#「俺が思った言葉やから」に傍点]、話しとる」
 ――そのせいで、どこの訛なのかもよくわからんエセ関西弁になっているようだがな。
「たとえば。俺のこの髪、今は短くなっとるけれど、脱色した金色の長髪にしてる[#「してる」に傍点]るのは、本物が短めの黒髪やからやねん。……日本人の黒髪と比べたら茶色いけどな、地毛も」
 ――私と同じ遺伝子なら間違いなくはげるというのに何度も脱色するから、すでにボリュームが落ちているのが困ったところだ。
 因幡が、話を聞いているうちに、困惑をかくしきれない表情になってきた。しかし、その疑問を口にするよりも前に、軍靴の音が近づいてきた。再び空挺部隊か、と思われたが、今度はフィールドグレーの野戦服で、千年と因幡を見て、居たぞ、と声を上げた。因幡が立ち上がるが、千年それを制し、後ろに下がるよう指示をする。
「俺の近くやと逆に危なくなるから、遠くにおってな。それから……たとえば、俺の利き腕。ヒトラーの利き腕は、あるいはナチ式の敬礼で掲げるのは右手やから、その逆として、俺は左手を利き手にした[#「した」に傍点]。そんで、あいつはワルサーPPK、拳銃を使うから、俺は拳銃が使えなくて、刀が使えるようにした[#「した」に傍点]」
 千年は左手の三十二年式軍刀、千年は剣道に通じているというのにサーベル型の片手剣である軍刀をゆらりと持ち上げた。因幡から見て、千年を挟んだ向こうにはサブマシンガンを携行した親衛隊員の姿が見えたであろう。何を突っ立ってるんだ馬鹿野郎、と叫んで前にでようとする明和に、くるな馬鹿野郎、と千年は叫びかえし、右手を後ろに向けて制する。右手の袖は千年が自身で切り裂いたため、その隙間から肌に無数の自傷のあとが存在するのが見えたはずである。
 ――右手をどうしても使いたくなるからと、使える右手をだめにしてまでな。はは、まあ、よくやったと思うよ。おかげでごくまれに表に出る私には大迷惑だがね。
 放たれた機銃の掃射は、しかし勿論、言うまでもなく千年には当たらない。それは偶然である。偶然、空を飛んでいた大鷲が開いた窓から飛び込み、機銃手の目の前に躍り出て、驚いた機銃手は銃口をあげる。その次の瞬間には、彼は生きては居なかった。二度の踏み込みで、大鷲ごと機銃手の首筋は貫かれていた。
「あんた、右手の拳銃を取り落とすのは……いや、まて、それじゃあその拳銃を持ち歩いている理由というのは、――」
 千年が振り返り、肩をすくめてみせる。その間にも、廊下の向こうからは新たな敵が現れている。
「たとえば、そして、前述の通り――俺はナチスドイツに関わる案件で、人命の関わる状況である限り、絶対に、全体のために少数を見捨てる合理的な判断ができへん。それはナチスドイツをナチスドイツたらしめている最大の要因やと俺が思っているから」
 千年はしかし話し続ける。そして冷静な判断によるものではなく恐慌を来したが故の銃剣の突撃が起きる。
 ――もはや、それは人格の問題ではない。単なる価値観の問題だ。それはおまえの[#「おまえの」に傍点]、強迫観念だ。
 千年は跳ぶ。因幡ほどではないが、千年の身体能力も、ずいぶんと高い。数本の銃剣は千年の体に刺さるはずであった場所を空振り、床の絨毯をはがす。その背後に着地していた千年は、数度、軍刀を敵の脳天へ振り下ろす。返す銃剣で千年の相手をしようとしたものは例外なく、きちんと着剣していたはずの銃剣が床に突き刺さっているのをみた。それが彼らの最後の意識となる。
「そうだ!これはただの強迫観念だ!俺は一つの時代の強迫観念だ!本当の世界、そこにとごった価値観の拭いきることのできぬ残滓だ!褐色の人喰鰐どもの頭を踏みながらどこまでも跳躍させようとした白兎に、やはりどうしてもつけてしまった重石だ!――そして、それゆえにたとえば、俺は、ナチスドイツによって不幸になった人間をすべて救わねばならないと思っている」
 次の角で出会った敵は、もはや戦意を失っていた。いかなる攻撃も当たらない、そのくせ個人としてまずまず身体能力が高く、敵を殺すことに躊躇いのないもの、などとは戦いたくもないだろう。ましてや、
「白状しよう、強迫観念である衝動である俺は、このありきたりな古くさい拭いきれなかった価値観に従って、本物の、あの醜悪で退屈なナチスドイツ的なるものをすべて壊しつくし、殺し尽くさねばならないと言う衝動に駆られ続けている!」
わざわざそんな言葉をドイツ語でしゃべりながら走るものだから、それは間違いなく、恐ろしい敵に違いない。向かってくるものはもはやいない。逃げるものならば、いた。
「……それらすべてを達成するための機関、それが〈千畝機関〉やねん。だからほんまは〈千畝機関〉は長官と俺一人、後のすべては長官が好意やとか善意で、場合によっては俺のバックアップのために持ってきてくれたもんや。あの人も、たいがい自己犠牲的な人やからなあ。で、そのついでに、俺がこの強迫観念に従って、けして起きない眠れる密偵(スリーパー)って形でナチスドイツのせいで故郷に帰れない人々を、可能な限り希望に近い場所へ帰らせたらどうや、って提案して、今の〈千畝機関〉になった――最重要機密事項やねんで、これ。せやからアキカズくん、心配してくれてありがとう、でもその心配は筋ちがいなんや」
 千年をねらった銃弾はすべて何らかの事象によってはずれ、落ちる。故に彼らは、はじめから撃たなかった。しかし、死は彼らの背に追いすがる。斬れない刀で首を半ばまで打たれ、あるいは腹を鈍く割かれて腸をはみ出させ、あるいは肋骨の間に刃を突き刺され、彼らは死んでいった。
「おい、あんた、それはやりすぎだ、戦意のないやつは放っておけ!得物を見ろ!もう刀が持たないぞ!」
 後ろから置いすがってきた因幡は、千年に追いつこうとして、あわてて跳びすさった。千年に当たらなかった銃弾が跳ね、あたりかけたのだ。
「近づいたら危ないで。俺は、敗者であるヒトラーが死によって確定させた因果、自分の手に握ったワルサーPPKの銃弾以外によって死ぬことがない、っちゅう因果を受けついどるせいで死なへんけど、周りにめっちゃ被害が行ってまうよって」
 それは、確かに以前にも、もっと簡潔な言葉で同じことを言ったはずだった。だがそれは、冗談であると、きっと因幡は思っていたはずだ。誰もが思う、自分への過信であろうと。それが嘘ではないと知った人間が一体、どのような反応を示し、どんなものを見る目で自分を見ているのか――
「そう言うわけで、俺、この飛行船落とすよって。俺は死なへんから大丈夫やけど、アキカズくんはあぶないから、先に脱出しといて」
 千年は、振り返らず言った。そして少しでも因幡から距離をとるべく、走り、斬った。
 ――千年。あれは、お前のことを好いていてくれていると思うがな。
「ああ。わかるよ。でも俺は偽物やから」
 ――偽物が好かれてはならないか?この私、このアドルフ・ヒトラーを愛好するよりは、よほどましではないか。
「そっちの方がましや。お前を媒介に俺を好きでいるならまだええ。でも、あいつは最初に俺を知ったから。俺から始まったら、最後には、あの偽物の千年王国のなかで、知識を文字の羅列にしか思わず、本物のために全部を捧げて、でも本物になれるはずもなく、その王国から出ずにその人生に好いと言って死んでいったあいつになってまう。いつまでも、褐色の鰐の上を跳ね続ける白兎は居らん、兎はいつか足を踏み外して、鰐に食われるもんと相場がきまっとるんやから――」
 ――ふむ。ミスター・ハオはあれでなかなか希有だが……だがそれでもお前を愛するものはどうする。お前というものが存在してしまっている以上、それは必ず現れる。……言っちゃ何だが、お前は魅力的であるぞ。たぶん。何せ私と同じ遺伝子だ。
 千年は立ち止まった。そこは船尾、気球部分へと続く階段の前であった。千年が握った軍刀の、赤く染まった刀身は、もはや、おおむね刃のような形をしているただの鉄くずになっている。
「それはまあ、製造者責任ってことで」
 特に深く考えずそう答えて、千年は階段へと続く戸を開けた。
 外には、風が吹いていた。チベットの山上、未だ夜明けの来ない四月の風は冷たい。冷えた手すりに捕まり、黒い船体の外を登っていく。
 飛行船と言えば爆発炎上するイメージが強いが、それは古い時代の飛行船、水素を使っていた時代のもののイメージである。実のところ、かの有名なヒンデンブルク号ですら、内部の水素ガスの爆発ではなく、偶然に気嚢を作る素材が化学反応を起こした結果、かの有名な爆発炎上事件と相成ったのである、と、ツェッペリン社は結論づけている。ましてやこの世界における一九六〇年現在、こと気嚢に金属装甲をつけた軍用飛行船において、ライター一個、マッチ一本で簡単に落とすことのできるものなどは、存在しない。したがって、一人の人間がこれを落とそうとすれば、直接気嚢を破り、穴を開けて、ガスを逃がすほかないわけである。
 船体の上からは、エネルギーを充填している最中のレーザー兵器が、四月二一日の朝の来ようとしている東の空を背景に、プラズマを発している。
 そしてその男、“死刑執行人”“プラハの虐殺者”“金髪の野獣”そしてこの世界においては“〈七人連〉頭領”にして〈ヘイズルーン〉長官ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒは、彼の凱旋すべき今日を背に悠々と振り返った。強い風に白いマントがたなびき、マントの下でその鉄の腕に美しいサーベルが握られていたことが判明する。
「一応言っておこうか、忠誠宣誓は行っているのでね。Heil Hitler。……貴様の体を構成する血肉に」
 ハイドリヒは、その例の言葉を声には出したが、敬礼そのものは軽い答礼のまねごとをするにとどめていた。それは、千年の正体を知った、と言うことだろう。どの程度のレベルまでなのかは分からない。単純に、軍医を騙すために使った照会の結果を見たというだけかもしれないし、あるいはそれを元に、かつてこの世界の第三帝国において行われた一つの実験と千年の存在を結びつけたのかもしれなかった。
「先に言っておく。私はユリウスとは違いあの聖柩、シュトゥットゥガルトの箱などというオカルトは信じていない。従って、貴様の頭の中に存在していたらしいもう一つの歴史、そこにおける敗者としてのヒトラーだなどという戯れ言は、〈レーベンスボルン〉の陰気な科学者どもの実験の中でいたいけな赤子の脳に植え付けられた妄想であると思っている」
 後者であったらしい。さすが〈七人連〉と言うべきか。――千年はついさっき知ったばかりの知識を、さも昔から知っているかのように使う。
「後学のために聞いておこう、なぜ貴様が日本の密偵とともに動いているのか。つまりは、何故“総統の仔”たるお前が計画のさなか忽然と姿を消したのか、ということだがね」
 総統の仔計画。この歴史においても未だ、おそらくは一生涯独身を貫きその血を引く子供を作らないであろうアドルフ・ヒトラーの後継者として、不可解なほど発達したドイツの生命医学を使い、アドルフ・ヒトラーそのものの写身を作ろうという計画である。敗者たるヒトラーの記憶は、〈レーベンスボルン〉で行われたその計画の中で生み出された一人の赤ん坊、勝者たるヒトラーの遺伝子をもとに作られたクローン体の脳髄へと宿ったのである。
 ――教える義理はないぞ。
 千年は、風に流された髪をかきあげ、撫で付けた。教える義理はない。それを言ってしまえば、そもそも会話をする必要もない。すぐさま左手の軍刀を装甲の間に突き刺し、気嚢を破ればいい――のであるが、それをしようとすると、ハイドリヒが一瞬で間合いに飛び込んでくることが想像できるので、実のところ千年は動けずに居るのである。千年は死にはしない、が、発破の中心地にいたあと、死なないまでも行動不能になったことからもわかるように、死なない程度に無力化されることはある。
「……母体であった女性が、幼稚園児ぐらいの俺を抱いて、とある外交官の元へと走った、という説明でわかるかな?」
 なんとか隙をつくろうと、千年は話に乗った振りをして、最低限の説明だけを行う。
「はは、なるほどな、いかにもありがちな話だ。女らしく感情的な行動だな」
 ハイドリヒは、今は仮面に隠れていて見えないが、金髪に明るい青い瞳、整った顔立ちに長身という女性に受ける外見の持ち主であり、漁色家でもあるのにもかかわらず女嫌い、という、一つ人物像の典型である。千年は、吐き捨てるように笑った。
「――しかし私は巡り巡ってお前というその血、その遺伝子を持つ肉袋が、今日という日にここに来てくれたことは天運だと、私の天運であると信ずる」
 ――ああ、ラインハルト、ライニ、ライナ、かつての忠実なる悲劇の騎士(トリスタン)よ。それは残念ながら貴公の天運ではない。この私、あの世界の中心より流れ出た力場を受けたこの私、この体を持つ千年によって因果がゆがめられ、引き寄せられた結果なのだ。
「えーっと……俺の頭の中のアドルフ曰く、それは俺の運だ、とさ」
 ――そのままちゃんと伝えろ。せっかく格好良く言ったというのに。
「いやそれは無理やろ、お前それ素面で口に出せるかよ」
 敵を斬り殺しているときにはなかなか千年も格好いい言い回しを多用していたが、それは素面ではなかった、ということであろうか。千年が一人で会話をしている様子を見て、ハイドリヒは鉄仮面の中でさげすむように笑った。
「ふふ、なるほど、器はいいが、精神が壊れてしまっている。……安心しろ、どのみち頭など白痴に近ければ近いほどありがたい。その血、その肉だけでも私がきちんと活用してやろう、帝国の玉座に座る生き人形として」
 ここ数日千年は馬鹿扱いを受け続けていたが、ハオ氏からは誇大妄想狂と言われ、ここにきて精神が壊れているだのと言われ、だんだんと評価のグレードがあがってきている気がする。しかもどうも、言われていることがなにやら、とてつもなくまずいことのような気がする。
 眼下では、地球を半周させた裏側まで瞬時に一つの都市を壊滅させるに足るエネルギーを放つことのできる兵器が、着々と発射に向けて準備を進めている。大東亜共栄圏(ひがしがわ)から、ドイツ生存圏(にしがわ)への「銃声一発」として。その一発の標的はどこでもいいはずだが、なにやらハイドリヒは、今日という日にこだわっている。今日はまだ、日本の宇宙ステーションがこの上空近くを通過するタイミングではないはずであるが――
 そう考えたところで、千年はごく簡単な日付の意味に思い至る。あまりにも基本的かつ、相手があくまでドイツのために動く人間であるという前提で考えていたため、それを考慮にいれるのを忘れていた。だが、この男は、自身の野心に基づいて動いている。
 今日。チベットにおいては一九六〇年四月二〇日、黎明近く。ドイツにおいては一九六〇年四月二〇日、アドルフ・ヒトラー七一歳の誕生日の、未明。――朝早くから各種のイベントが行われる帝都ゲルマニアには、帝国各地から、総統の誕生日を祝うため指導者、高官が集う。
 つまり。ラインハルト・ハイドリヒは。帝国の有力者が帝都ゲルマニアへと集まったそのときをねらって、東側の仕業に見せかけて、あの壮麗な都市を、あの夢にまで見た都市を、あの歴史ではついぞ見ることのかなわなかった壮大な都市を灰燼に帰し、帝国をその一手に握ろうとしているのである!
 ――ああああああああああああ!斬れ!千年、その男を斬れ!奴は元の歴史の因果を引き継いでいるわけではない、ただ同一人物であるために爆発で死にやすいと言うだけだ、斬れる!いや、まず飛行船を落とせ!装甲の間に刀を刺して走れ!
 千年は言われたとおり、ぶら下げていた血刀を、足下の装甲の間へと刺そうとした。――だがそれは、奇妙に力のない動作だった。そうであったため、間合いの外にいたはずのハイドリヒを懐へと飛び込ませ、さらには千年が突き立てようとした軍刀をサーベルで巻き上げ、飛行船の装甲の端へ飛ばすことまでも許してしまっていた。
 ――何をしてる畜生め、だが遠くには落ちていない、ハイドリヒはオリンピック級選手だがお前は実戦レベルの人斬りだ、負ける要素がない、早く走って取りにいけ!
 しかし、千年はその場から動かなかった。それどころかその場に膝をつき、前に突っ伏してしまった。
 それはハイドリヒにとっても意外なことであったらしく、はじめは何かの罠かと遠巻きに見ていたが、やがて近づいてきて足で体を転がし、何も妙なものを身につけていないことを確認すると、染髪による金色の髪を無造作に掴んで千年の体を引き起こした。体は、まるで糸が切れたように脱力してしまっている。その顔からは、すっかり気力が失われていた。
「……気力だけで動いていたものが、その気力もつきたか。あの規模の爆発の中心にいて、その後あれだけ動けたのがおかしいのだ」
 ――おい、どうした、まだ動けるだろう、確かに体は痛いがもっとひどい状態だったことなんていくらでもあるではないか、なぜ動かん、千年、帝都ゲルマニアには何人が住んでいると思っている――
 千年の口が、かすかに動いた。
「ごめん、全然動かれへんねん、動かなあかんと思てんねんけど……俺、てっきり、ウクライナやら東欧やらのナチからみてどうでもええ地域を撃つもんやと思っとって……」
 ああ。
 ――ああ!
 畜生め、そう言うことか!千年は、敗者たるアドルフ・ヒトラーの影、一体いつ生まれたのか、気づけばナチスドイツを絶対悪と見なす強迫観念によって作られていた人格である。故に――
 ――故に、ドイツ第三帝国の首都ゲルマニアへの攻撃を止めるべき悪と、帝都ゲルマニアの住民を、救うべき相手と見なせないというのか!
 ――千年、考えろ、頭を働かせるのだ、ゲルマニア、ベルリンを撃たせてみたまえ、そうすればハイドリヒが総統になる、いやこの男はお前を総統の遺伝子を正当に受け継ぐ後継者だの何だのと言って脳味噌に電極でもつけて傀儡にするつもりだ、そうすればお前の名、いや、血肉のもとに我が第三帝国の暗部たるすべてが動くことになるのだぞ、それをお前は許せるのか、動け、頼むから動いてくれ千年、あそこにはもしかすれば私の――
 しかし千年は動かない。千年の視界には、千年の髪を掴んでまるで虫か何かを観察するような目を向ける、ハイドリヒのアイスブルーの瞳がある。視界を確保するためのスリットの中に見える彼の皮膚は、やはり、彼の年齢からすればあまりにも老けすぎたものに見える。だがそんなことは今はどうでもいい。
 ――代われ、それじゃあ千年、お前がやる気がないのなら代わってくれ!私がやる、お前のせいで右手がひどく使いづらいが自動拳銃の一、二発ならどうにかなる!だから代われ、くそ、右手が――
「……あかん、お前はこんな状況に対応できへん……耐えられへんやろ……」
 ごく小声であったため、鉄仮面を被ったハイドリヒには、千年のその声は届かなかったらしく、なんの反応も示さなかった。
 千年はまだ私と代わろうと、意識を失おうとしない。ごく反射的な、たとえばすでに右手に握った状態の鞄で人を殴るとか、そのくらいのことまでならば、表にでている意識が千年のものでもどうにか頭のなかのもう一人が動かすことはできるが、しかし、今の体制は、ハイドリヒに体を転がされたせいで、右腕を体の下に強いている状態になっている。千年の意志がなければ、動かすことができない。せめて、何らかの事象が起きて、一度意識を失えればいいのであるが、そううまいことは起きないようで、
「……本当に抵抗の意志もなくしたようだな。では、宣言通りに傀儡とさせてもらおうか」
起きた。ハイドリヒが、千年の体を運ぶべく肩に担ぎ、その際に、機械の腕の肩の部分が千年の鳩尾にクリーンヒットしたのだ。千年の意識が暗転する。つまり。
 ――つまり。
 ハイドリヒは、肩に担いでいたものが急に暴れ出したために、静かにさせるべくいったん放り出した。赤く染まった党政治指導者の制服をまとった体は、背中から飛行船の装甲の上に落とされる。
「っ――おー、痛いな畜生め、千年のやつ、死なないのをいいことにむちゃくちゃしおる。だが動ける。ははは、いい気分だ」
 そして彼は、彼というのはハイドリヒだが、ハイドリヒは、私[#「私」に傍点]を見た。
 ああ、そうだ。
 この私[#「私」に傍点]を。長く千年の話を語り続けた私[#「私」に傍点]、偽物たる千年に対する本物たる私[#「私」に傍点]、すなわちアドルフ・ヒトラーを。

◆正史→聖柩→偽史

 諸君。
 ああ、諸君。
 ようやく私は私として私の話をできることを、心から喜んでいる。語りの中に少しばかり奇妙なところがあったとすればわびよう。千年が表に出て明確に意識を保っている最中、私は私としての明確な意識を抱けず、せいぜいが千年の頭の中で暇を飽かせて、当事者であるが当事者になれぬ傍観者として、一人称のない、修辞を尽くした語りを紡ぎ出すか、千年がそれを許す気分であるときに千年へと話しかけるほかないのである。しかしそれでも、いつぞや忠実なるヘスに獄中にて語り続けたあの本よりは、いくらか読みやすくなっていたのではなかろうか?
 さて、いつしか発生していた私の影たる人格千年と、いかなる理由によってかこの歴史に入り込んでしまった私についての謎はほぼ解けた。あとは、トリスタンの名を持つ彼が信じていない、あの話が残っているばかり。
 故に、少しばかり、連綿として千年のいる「今、ここ」の話をし続けた流れを断ち切って、かつての、ここではない場所での話をしよう。
 それは、昔の話である。この歴史ではない、我々の生きた歴史の一九四四年、シュトゥットゥガルトの一角、シャツ縫製工場であった焼けビルの残骸の中において奇妙な力場を発する箱が発見された。その箱は実のところ、女子工員が空襲にて逃げ遅れ、炎を逃れるために中に逃げ込んでそのまま蒸し焼きにされたものであった。
 その力場は、世界の中心から放たれるとされるもの、交叉時点から放たれるとされるものである。その力場は通常、人を貫き、その人を中心とした力場を作り出す。それに貫かれたもののうちもっとも確実なものとしては、名を云うをはばかるもの、“神の鞭”、フン族の王アッティラ。可能性としてはほかにも、アレクサンドロス。ナポレオン。ティムール。リチャード獅子心王。チンギス=ハン。フランシスコ・ピサロ。……――あるいはナザレのイエス。
 そう言ったものたちはみな、その力場に貫かれていたと推定される。もしかすれば、突如銃を持ち出して手当たり次第に人を殺すものたちは、皆それにほんの一瞬貫かれた結果であるのかもしれない、とも言われる。
 わかるだろうか。
 その力場に貫かれたものは、大いなる狂気とともに、多大なる行動力と運を得る。そして、たいていの場合、歴史上の特異点となる。彼らは、その力場を自らの周囲に振りまく。力場を持つ人物の周囲には、もっとも適切な形で人が現れる。あるいはもっとも適切な時期に、起きるべきことが起きる。そして、多くの場合、彼らは劇的な人生の末に、劇的な最後を迎える。
 わかるだろう。
 私、アドルフ・ヒトラーもまた、それに貫かれたものの一人である。そして私の時代、私の国では、過去の彼らと違い、その力場を解析するだけの技術があった。そして、さらに幸運なことに、その箱、シュトゥットゥガルトの箱を私は手に入れることができた。
 偶然だと思うか。あまりにもできすぎた偶然だと。そうだ。それこそが、力場だ。常人には思いも寄らない狂気にもにた、狂気そのものの行動力を与えるとともに、できすぎた偶然を一人の人間の周囲に寄せ集める力、一人の人を中心とした因果の重力場、それがその、世界の中心より放たれる力場だ。
 さあ。それが力場の説明だ。それが千年の、あるいは私の持つ因果の支配の説明だ。
 さて。その力場はふつう、人をつらぬき、人の周囲に展開される。だが、それがどういうわけか一つのもの[#「もの」に傍点]に宿ることがある。それこそが、私が「聖柩(アーク)」という暗号名(コード)をつけたシュトゥットゥガルトの箱であった。正しくは、その中で蒸し焼きにされた死体、それそのものであった。――故に、正しくあれを呼び習わすなら、聖遺骸、とでも言うべきだったかもしれない。だが、箱そのものに触れることをおそれてずいぶん長く箱のままで研究を続けられたがために、箱と呼ばれ、聖柩と名付けられたのである。
 それが判明したのは、ある日フリードリヒ・ドルーカーという男が厳重に保管されたそれを金目のものと思い研究所へ進入し、こじ開けたことによるものであった。あの箱においては、それが発動の鍵だった。ロッカーの中で蒸し焼きになりながら、女工は、それを望んだ。外に出たい。――外に出たら何をするか。生きて、水を浴びるように飲む。そしてその瞬間に力場に打たれた。だが、彼女の因果はそこで終わった。ゆえに、行動者のない、最後の意志と願望だけが残った力場が存在することとなった。そして、その意志がかなえられた瞬間、その力場は願望を満たすために全力で因果を変えた。発見した研究員は、異常な光景だった、と言っていた。上向きにおいた焦げたロッカーの中に水がたまっていた。ドルーカーは、体の水分をすべて奪われて死んでいた。そして、女子工員が、呆然とそこに立っていた。全身を水に濡らして。力場そのものが、ごくまれなものだ。その中で、死の瞬間に力場に貫かれ、死の瞬間になお何らかの具体的な渇望を行うこと。その渇望は条件つきであれば、なおよい。それで、聖柩はできる。
 この一例でどうしてこれだけのことがわかったか?追試験をせずになぜそんなことが言い切れるのか?この私、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーに、そんなことを聞くまでもないであろう。わかるだろう。
 我が第三帝国には、復活を遂げた女工の証言を元に、いくらでも追試験を行う材料があった。アウシュビッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、ベウゼツ、ソビボル、ヘウムノ、マイネダク――幾百万の死そのものが追試験として活用できた。そのうち、弱いものであれば力場は人工的に作れるようになった。もとより、私の持つ力場を元に研究は進めていた。当然である。そしてそのうち、脳に電極をさして意識の操作をすることで、死の瞬間に意識に浮かべる内容の指定すら行えるようになった。つまりは人工の聖柩を作れるようになったのである。
 そう。そろそろこの思い出話も帰結に近づいてきた。そうしてできた人工の聖柩である。我が第三帝国としては、軍事利用をしたいのは山々であった。しかし、人工のものは天然に劣るのは常であり、一つだけでは、シュトゥットゥガルトの箱のように人を生き返らせたりする力はなかった。せいぜいが、「聖柩の外箱に人が触れたら火傷をする」程度の因果の操作に終わっていた。しかし。そこで終わるような我が国の研究機関ではない。人工の聖柩ではわずかな因果しか操作をできない、その解決策が、わかるだろうか。
 答えは、実に明快であった。電池が弱ければ、直列につなぐのと同じ考え方である。「同じ条件と願いを持つ聖柩を大量に作り、一度に条件を満たす」。それが、解決方法にほかならなかった。
 とはいえ。研究の始まりは一九四四年。私、敗者たるヒトラーの死は一九四五年。もはや、聖柩を作ったとて、刻一刻と変化する状況の中ではたちまち願いの内容が使い物にならなくなっていく。なんと言っても、聖柩の制作には時間がかかる。電極をつないで力場を発生させながら相手を絶命させなければならないので、シャワー室で一気に処理するという風には行かないわけだ。
 それでも。しかし、研究者たちは、その状況の中で、一つの巨大な聖柩の回路を、私の、そう、ほかでもない私一人のために作り上げてくれていたのである。
 それに使った柩が一体いくつ、死者が一体何人必要であったか、私は知らない。ただ、それは、質量として見ただけでも、膨大であった。。聖柩の本体は死体であるとはいえ、死体をそのまま並べるわけには行かないので、柩を並べることになる。その柩を、一体いくつ並べ、いくつ重ねたものか――その〈最終的状況下対応聖柩〉は、三階立てのビルほどの質量となっていた。それらすべてが、私のための、一つの願いを重ねたものであった。もはや敗北を避けえぬことが誰しも薄々わかっていた私のための、一つの願いを脳にたたき込みながら虐殺された、膨大な死体だった。
 その願いが何であるか。わかるだろうか。
 わかるだろう。
 わかったな。
 「総統閣下が路半ばに倒れられるときには、かならず来るべき千年紀の存在する世界に生まれ変わられますように」。
 そして、ワルサーPPKから放たれる一発の銃弾が私の脳髄を破壊し、私が世界帝国、新たな千年王国、来るべき千年紀の王になる路の途中に死んだその次の瞬間、私は一人の赤子になっていた。彼ら、忠実な研究者の願いには確かに、一八八九年四月二〇日に生まれるアドルフ・ヒトラーとして生まれ変わる、とは記されていなかったが故に、この世界の一つのプロジェクトの中で生み出された、同じ遺伝子を持つその赤子の脳髄へと記憶が引き継がれたのであろう。
 そうだ。そうなのだ。
 私のための願いによって生み出されたのが、このいびつな世界である。それが不可解なモザイク画のようなこの歴史である。その膨大な死体の上に成り立った歴史こそが、この偽千年紀なのである!
 ――話はそれるが。ハオ氏の偽千年王国でこの話をしたときには、千年が自分の腕を万年筆で刺そうとするものだから右手を避けるのに苦労をした。その後も急に情緒が不安定になるし、そうなるのがわかっていたからこそ長い間黙っていたというのに、あの時計の大佐も意地の悪いことをする。そういえば人のことをうじ虫呼ばわりもしてくれていた。いくらかつての皇帝の影といえど、現在軍籍にあるからにはこの世界の私に対する忠誠宣誓はしているだろうに、まったく最近の軍人はたるんでいて困る。
 さあ。これが、今、ここに至るまでの、かつて、ここではない場所の話である。わかっただろうか。わかっただろう。わかったな。
 そして話は今、ここ、私アドルフ・ヒトラーの力場へと舞い戻る。

◆因果の集約

「やあ、ラインハルト。なかなか洒落た祝砲を計画してくれるではないか。誕生日の祝いに招待されなかった一三番目の魔女のようなまねをしてくれる」
 夜明けの近づく東の空を背景に浮かぶ漆黒の飛行船の上で、私の様子が変わったことに気づいたのであろう。ハイドリヒは警戒を強め、その場から動こうとはしなかった。私と千年では、話すドイツ語の訛りが違うので、切り替わるとわかりやすい。
「だが、その仮面はどうした。私の知る貴公は、美しく、精悍な騎士であった。なぜそんな馬鹿げた仮装をしているのだね。それが〈七人連〉の規則なのかね?」
 鉄仮面の奥の目が、一瞬、醜くゆがんだ。怒りがその瞳を暗くしている。
「――そうか。先ほどの……〈千畝機関〉とやらの密偵の人格が気力を失ったので、貴様の頭の中のヒトラーとやらに交代したか」
 〈千畝機関〉のことまで知っているとは、さすがは〈七人連〉だ……と、私はつい先ほど知ったばかりの知識をさも昔から知っているかのように使う。が、よく考えれば、千年があの医務室にいた際にはまだ何者かはばれていなかった。これは、飛行船の中で、千年が因幡に向けてべらべらと身の上を喋ったせいであろう。密偵のくせに奴は機密保持意識が薄い。〈千畝機関〉そのものがそうである、と言えばそうなのであるが。
 私は右袖の中の拳銃を手の中に出そうとする。が、出ない。当たり前だ。服は前のままと言っても、袖の拳銃射出装置はあの場にはなかった。千年の軍刀はあの時計の眼帯をつけた大佐がどこかから持ってきてくれたが、私のワルサーPPKは没収されたままである。どうもあの大佐は、私を嫌っているきらいがある。眼帯の大佐という時点で鞄に爆弾を詰めて持ってきそうなので、極力関わらないのが吉であろう。
「すまぬがラインハルト、その腰のマウザーを貸してはもらえんかね」
 ハイドリヒの腰ベルトには、マウザー、それもC96という年代物の拳銃が収まったホルスターがある。その中でもあれは後期型であろう。あれを貸してもらえれば話は早い。
「はっは!“総統閣下”だから、私に命令するというわけか!なるほどおもしろい、つくづく壊れ果てている」
 命令ではなくお願いだったのであるが、まあ、聞いてもらえるはずもない。と、なれば、千年の軍刀で頑張るほかないが――
 軍刀の方を見て、走ろうとした私の前にハイドリヒが立ちふさがる。まあ、勿論そうするであろう。ハイドリヒは私に向けてサーベルを振るう。私個人は全く運動が好きではないが、体は破壊工作員兼暗殺者である千年と同じものなので、いわゆる体が勝手に動いてくれるという奴と因果の重力場のおかげでサーベルが私に致命傷を与えることはない。すでに汚れてぼろぼろになっているが、私の着慣れた褐色の制服である、と言うのも体を動きやすくさせている。が、死なないと言うだけなので、軍刀に近づくこともできない。
「“総統閣下”どの、貴様は私を美しいと言ったな。そうだろう。私は美しかった。皆が私を美しいと言った。私自身、私の美しさを愛していた」
 サーベルで私を突き刺そうとしながら、ハイドリヒは語る。攻撃はしてくるが、私のこの、この世界の勝者たるアドルフ・ヒトラーの細胞から生み出されたらしいクローン体そのものには用があるらしく、致命傷をねらっては来ない。それは、通常であれば相手にとっては有利であるはずなのだが、こと私、かつての人生から引きずってきた因果の重力場によって私を殺そうとする意志をねじ曲げるこの私にとっては、必殺の意志のない攻撃、死なない範囲の攻撃は当たってしまうことになるので、非常に困る。死なない範囲で無力化されるのが、私にとっては最大の懸念事項なのである。
「だが、私の栄達はその美しさとは関係がないと、私個人の力量によるものであると、そう自負もしていた」
 私は繰り出されるサーベルを避けつつ、軍刀へと駆けようとするが、それはマントによって遮られ、ハイドリヒの体が前に躍り出る。死なないが、死なないだけで捕まる時は捕まるので、肉弾戦に持ち込むのは得策ではない。なにしろ、相手は手足を機械の義肢に代えている。あれを相手に殴り合いは、死なないとはいえ勘弁してもらいたい。致命傷をねらわない打撃はやはり、入るのだ。
「ふむ、それは真実ではないかね。きみは有能だ。ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる、とはヘルマンの言葉であったか。今は影働きをしているようだが、そうでなければそれこそ、次の総統、帝国の後継者争いにも名乗りを上げられるであろう」
 帝国幹部たちの懐柔、もしくは信賞のための総統後継者指名だとか副総統への任命だとかに加え、その場限りで相手を喜ばせるためのものであればそれこそいくらでも「君こそ私のあとを継ぐにふさわしい」「君は私の側近中の側近だ」「未来の帝国は君の元で繁栄するであろう」などなどと言う言葉を量産していたのであまり重みはないが、能力面だけで言えば間違いなくハイドリヒは帝国の指導者の中でトップクラスである。私の歴史では暗殺という形で、あるいはこちらでは暗殺未遂もしくは暗殺未遂の偽装という形ですぐにその地位を退きはしたようであるが、チェコ総督[#「総督」に傍点]、あるいは副総督[#「副総督」に傍点]としての辣腕は、どんな批判者であろうと、その効果についてだけは認めざるを得ない。
 だが、せっかく誉めてやったのに、その言葉はハイドリヒの神経を逆撫でしたようであった。
「影働き!そうだ!〈七人連〉の一、首魁といえど、私の仕事は影働きだ!折角、長い影働きから栄達を果たし、光の中へ出ていった矢先だったというのにだ!なぜそうなったかわかるか!これを見ろ!襲撃者によって焼かれ、ねじくれたこの顔を!」
 ウォッチ大佐が自分の組織を自慢するものだから、てっきり光栄な仕事であると思っていたが、ハイドリヒにとってはそうではないらしい。私の手足をねらって、私の手足を切り落とそうとしてくる。そう、これが一番困るのである。私は逃げ回ることを余儀なくされる。話は信じていないにせよ、私が〈レーベンスボルン〉で生み出された赤子であり、計画の最中反対者によって加えられようとしたどのような殺害の意図も退けた、といったあたりの話はワンマンインテリジェントサービスの一人としては当然に知っているであろうし、飛行船内での部下と千年の戦闘にもならなかった戦闘も見ているはずであるから、その点は目の前にある現実にしっかり対応していると見える。当然のことながら、敵に回すとやっかいな男である。
 これを見ろ、とハイドリヒは叫んだ。そして、片手剣を使っていない側の手で、彼は自身の顔を覆っていた鉄仮面を外した。
 そこにあったのは、皮膚がねじくれ、そのねじくれた皮膚を何度も手術や薬剤でどうにかしようとした結果であろうか、皮膚そのものが角質のように劣化して老人のそれににた様相になり、さらにはどうやら顎の骨や鼻の骨も何らかの――おそらくは、英国秘密情報部の送り込んだチェコ人特殊部隊の投げつけた焼夷弾[#「焼夷弾」に傍点]によって焼かれ、変形しきった顔であった。インプラントを挿入していないのは、皮膚がひきつっているために挿入する余地がなかったのであろうか。私は、かつての美しいその顔を知っているために思わず目をそらした。その瞬間、私の太股をサーベルの刃が貫いていた。
「目をそらしたな!やはり“総統閣下”どの、“敗者であるアドルフ・ヒトラー”、レーベンスボルンから逃げ出した壊れたモルモット、貴様も目をそらしたな!我が総統も目をそらした!そして私に静養しろと、私の仕事はきちんと後任のものが引き継ぐと言った!ゲシュタポ、“最終的解決”、数百万人の抹殺、そんな気の滅入る帝国の暗部からようやく光の中へ足を踏み出したというのに、その光はほんのわずか、ほんの一瞬で瞬き、費えていった!」
 静養しろ、仕事は引き継がれる、それは、お前はもういらない、という意味である。私、つまり敗者であるヒトラーは、私の歴史のラインハルト・ハイドリヒの死を大変嘆き悲しみ、その損失を惜しんだが、同時に彼が、自分の運命あるいは統治下の人々を過信し、プラハの街をあろうことに護衛もつけずオープンカーで移動していた、という軽率さに怒りもした。こちらの世界の勝者であるヒトラーも、きっとその軽率さに怒り、彼がなまじ生きていただけに怒りを本人へと向け、解任したのであろう。
 サーベルに貫かれた足では、ハイドリヒの斬撃を避けきれない。私は仕方ないので距離をとることにする。が、ハイドリヒは追いかけてくる。
「しかも、しかもだ!せめてもと思い元の仕事に復帰しようとし、親衛隊本部へ赴いた私を見たあの眼鏡!私を片腕と頼んだはずのあの男も私から目をそらした!そして、私を執務室にも入れず、私を実権のない名誉職に就け恩給を与えてくださる旨を記した書面を秘書に持って来させた!」
 あの眼鏡、とは、親衛隊全国指導者のことであろう。そう呼んでいたらしい。呼び名はともかく、ヒムラーのその行動は、おそらく部下であるとともに競争者でもあったハイドリヒが自分を飛び越えて躍進していった矢先の失態をこれ幸いと、そのまま飼い殺しにするつもりであったに違いない。どこの国でもそうかもしれないが、我が帝国の上層部では、ミス一つで容易に足を掬われる。
「――だが、政治的に追いやられることは耐えられた!私の能力であれば、いくらでも挽回はきく、そう思っていた!だが、だが、それまでに培ったはずの人脈ども、私を恐れ、しかし何かのおこぼれに預かろうと顔色をうかがっていた連中、奴らはみな一様に私へと哀れみと侮蔑のない混じったあの瞳を向けるだけで、私と会話をすることすらも厭わしいとばかり、私を遠ざけた!友人であったはずのものたちですらも、私を見舞いにすら来なかった!」
 見舞いに、来て欲しかったらしい。プラハ総督[#「総督」に傍点]の地位を失っていなかった時点では誰彼と無く彼の病室を訪れたはずであるから、その後の、リハビリ段階でのことであろう。一言、誰かに来てほしいと伝えればよかったのに。まあ、そうできない性格であるのは知っている。
 そんなことを思わず考えつつも、飛行船上から降りて体勢を立て直そうと階段へと向かった私の頭上を、ハイドリヒが飛び越えて目の前へと着地した。足も機械義肢であるとは思っていたが、ここまでの芸当を、あの二メートル近い長身で可能にするものであったとは。何があっても、肉弾戦には持ち込むまい。
「故に、私は以前よりRSHA長官として存在だけは察知していたプロイセン皇家の影〈七人連〉の元の七番を殺すことでその一員となり、頭領となり、その存在を第三帝国官僚機構へと組み込むことで、どうにか公人としての生をとりとめることとした。そして、私を外見だけで判断し、見目の麗しさを失った途端に見捨てたものたちへの復讐の準備を練り始めたのだ――どうした、もう終わりかね」
 〈七人連〉への入党方法は、なかなか過激なものであったらしい。それで入党する方もする方として、受け入れる方も受け入れる方である。その時点での頭領は、本人の弁によればあの時計の大佐であるから、案外面白がってそれを許したのではないか。というか、〈七人連〉にハイドリヒの加入を許してさらに第三帝国官僚機構へと組み込ませることまでも許したならば、この状況、ハイドリヒが影働きをしながら着々とかつての恨みを晴らすべく我が第三帝国帝都ゲルマニアへの一撃を企て続け、今日のこの日を迎えることになったのは、完全にあの大佐が原因ではないか。自分が原因を作って他人に尻拭いをさせるとは、一体どんな了見であろうか。私のウォッチ大佐への評価は下がる一方である。
 ハイドリヒは、私にもう終わりかと聞いた。実際のところ、次の手が思いつかないのは確かであった。
「……愛の妙薬ではなく、復讐の毒杯に狂ったかね、我が忠実であった悲劇の騎士(トリスタン)よ」
 そんなことを言ってみるが、ただ答えに窮したことを隠すためのものでしかない。ハイドリヒは肩をすくめると、登りくる朝日を背にしながら、あの大パラボラの方を見、そして両手を広げた。パラボラの中央に立つ鉄塔と半球の間には、先ほど見たときよりもプラズマの走る頻度が高くなっている。
「打つ手がないのであれば、頭のおかしいスパイくん。そこで見ていたまえ、もうじきにこの地より、総統閣下七一歳の誕生日を祝う最大の祝砲、そして我が王道の始まりにふさわしい供物としてあの美しい首都を捧げるための一条の雷が撃ち出される。――見よ、私を侮ったものたちよ、驚け、そして滅び去れ!」
 まるでそこが芝居の舞台であるかのような調子で、朗々とハイドリヒは復讐の前口上を述べきった。千年は私の言語センスを恥ずかしがっていたが、このように、堂々と言ってしまえば何の違和感もない。この点は、千年も見習うべきであろう。いや、やはりハイドリヒも少しは恥ずかしかったと見え、言い切ったあと横を向き、頬に手を当てた。千年の妨害活動のせいで電力の充填量が足りず、発射まではまだ時間があったのが悪かったのであろうか。なぜだ。格好良かったのに。
 ハイドリヒは、部下を呼ぶためであろう。親衛隊装備品の小型無電を耳に当て、短い会話、いや、一方的な指示をした。それとほぼ時を同じくして、船体外階段をあがってくる音がした。ずいぶんと早い。ハイドリヒは一人ここで待っていたが、もし危なくなればすぐに人を呼べるようにしていたのに違いない。上がってくる足音を振り向くこともなく、ハイドリヒは悠然たる様子で、自らの悲願を成就させるレーザー兵器を見やっていた。
 なので、彼は、次に起きる事を予期することができなかった。
 別個の歴史上に存在し、別個の人生を送る同一人物の因果が、相互にどの程度関係するのか、直接にアドルフ・ヒトラーから連綿と続く記憶と確定した因果を受け継いだ私に関する事の他には、私にもはかりかねる。少なくとも、この歴史においては英国占領時にもロンドンを動くことなく戦後行われた裁判で絞首刑となったウィンストン・スペンサー=チャーチル、モスクワ占領時にはすでに赤の宮殿内の自室にて拳銃自殺を遂げていたヨシフ・スターリンなど、確実に私の知る歴史とは異なる因果の収束を見せていると思われる。残念ながら私は一九四五年四月三〇日までの歴史しか知らないので、断言はできないが。
 だが、目の前の男、悲劇の騎士の名を持つ男、我が帝都ゲルマニアへの壊滅的な一撃をもって自らを再び日の当たるところへ押しださんとするラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒについては、長い脇道へと逸れた後、ここにおいて因果は私の歴史と同じように、待ち人の来ぬ舞台のごとく不条理にすぎる結末をたどろうとしていた。
 その前に、私は一つの嘘を詫びねばなるまい。いや、しかし、それは意図した嘘ではなく、たとえば火にかけた湯が沸いていると言うとき、正しく言えば火によって熱された鍋に触れ結果湯が沸いているのであるように、言うまでもない課程を省略した結果の、意図せぬ嘘であった。
 私は、ハイドリヒの死因を爆弾であると言った。だが、正しくは、爆弾によって飛び散った破片[#「爆弾によって飛び散った破片」に傍点]を受けたことで、その傷が元となり死に至ったのである。
 わかっただろうか。わかっただろう。
 ハイドリヒは、自らの衣服を貫いて自分の腹部に刺さった、爆砕された大岩の破片[#「爆砕された大岩の破片」に傍点]を呆然と見ていた。彼は腰のマウザーを引き抜いて、待ち人の代わりに現れた襲撃者へと反撃しようとした。しかし、その銃弾は、私の歴史の彼が襲撃者へ反撃すべく放った銃弾と同じく、階段を駆け上ってきた〈昭和通商〉営業部員、因幡明和にはかすることもなかった。
「……鳶礫・尖」
 それは、先ほど因幡明和がこの飛行船へと登るまでの途中、敵を倒すために使っていた破片の、最後の一つであった。その破片を衣服の他に何も守るもののない腹部へと受け、ハイドリヒは装甲の上に膝をつき、マウザーを取り落とす。私はそのマウザーへと飛びつき、奪い取ってハイドリヒの胴体へと打ち込む。これで、ハイドリヒはもう動けないはずである。あとは、この船体を落とすだけ――なのであったが、数歩進んだところで私は膝をつく。太股の傷の痛みが激しい。偶然にも、血を吸って縮んだ服がよじれ、からみついているおかげで失血死は防がれているが、案外深い傷だったらしい。
「大丈夫か、ちとせさん[#「ちとせさん」に傍点]!」
 因幡が私に駆け寄る。彼は、私が私であることを知らない。彼は、千年を助けるためにここに来たのである。
「私は死なない。だが、なぜここに……飛行船を落とす、と千年が言ったろう、残っていては死ぬかもしれんのだぞ。……ああ、列車の夜以来だな」
 私の使うバイエルン訛りのドイツ語を聞き、千年という名前を出したことを聞き、因幡は驚いて私の顔を見て、列車の夜という言葉を聞くにいたりなぜか自分の額を自分の手刀でたたいてのけぞった。おそらく、思わず敬礼でもしかけて、それをごまかすためによくわからないことになったと見える。
「ああ、すみません、変なことを。なぜって、僕はさっきの廊下でも、いつかの空港でもちとせさんに助けられたというのに僕がちとせさんを放って逃げていったら、それは…………スジが、通らない」
 最後の言葉は、少し決まりが悪そうに発せられた。どうやら、いつぞや……考えてみればほんの数日前なのにもう数ヶ月も前のことに感じる、千年との初対面の際、自分が否定した考え方でもってここに来てしまったことに気づいたらしい。
 因幡は、自分の着ているSAの制服の、よりによってどういうわけか突撃隊幕僚長の制服のタイを使い、私の傷の上を縛った。そんなことをしなくても、勝手に死ななくなると言うのに。
「それを聞けば千年も喜ぶだろう、伝えておくよ。……ああ、私が表にでているときには千年の意識はないのだ。千年が聞いていると思って言っていたならすまない、きちんと伝えておく」
 簡単なその手当を受けながら私が口にした言葉に、因幡青年は少しばかり驚いた表情を浮かべた。私が主人格で千年が副人格、と言うのはそういうことだ。私は千年の動向を知ることができ、千年の意識にも多少は干渉できるが、千年はそれができない。
「そうか。やはり、あの人はあなたから派生した存在なのか……しかし、どうして……」
 この数日間、一緒に行動をして、あるいは連携をしてきてそれなりに気心の知れたと思った存在が、私アドルフ・ヒトラーの二次的な存在であった、と言うことは、青年を思索に耽らせてしまったようだった。なにやら悪い気がしたので、私は
「何故千年が生まれたのかは、私にもよくわからんのだ。気づいたらそうなっていてな。いや、しかし、本当に助かった。トビツブテ、トガリだったか。あれはいいなあ、格好いい、よく覚えておこう」
そう言って元気づけようとしたのだが、それを聞くと因幡は、頭を抱えて装甲の上をごろごろと転がった。そういえば、千年にその技の名を聞かれたときも彼は恥ずかしがっていて、忘れてほしいと言っていた。心から格好いいと思うのに、わからないものである。
「さて、ともかく、我が帝都への攻撃を防ぐために私はこの飛行船を落とす。君は今度こそ、先に……」
 因幡青年は、私の言葉を途中で遮り、船体の脇を示した。見ると、そこにはどこから調達したか、小型のグライダーがあった。脱出用のものだろう。
「あなた方がここでハイドリヒとやり合ってる間に調達しました。ちとせさんを怖がって、生き残っていたハイドリヒの部下も全員逃げていましたから簡単でしたよ」
 私と千年で、あなた方、と言う計算らしい。
「ああ、そうだろうな。しかし、なぜ死なない私と千年のためにそこまでしてくれるんだね。貸しはせいぜい一つ二つだろうに」
 グライダーの羽を展開させながら、因幡は一+一の答えを間違った生徒を見る教師のような顔で振り返った。
「だって、死ななくても痛いでしょう。さっきも、傷を縛られてるとき、痛そうでしたし。痛いことはよくありません」
 ごく単純なことを説明すると、青年はグライダーを飛べる状態にし、千年の軍刀を拾って、装甲の間に突き刺し、走った。
 驚いたことに、この飛行戦艦の気嚢は、一つであった。ツェッペリン社の品で、外皮を装甲で覆っているので内部に無数の小気嚢が詰まった硬式飛行船であろうと思っていたのであるが、どうも硬式と軟式を半々にしたような作りで、軟式の気嚢の外側に装甲を並べた構造であったらしい。軍用のように仕立てているが、元来〈ヘイズルーン〉は〈七人連〉の頭領としてのハイドリヒの率いる組織であることを鑑みるに、諜報組織の側面のほうが強いはずで、実戦は想定していなかったのかもしれない。
 とはいえ、気嚢が一つであろうとこれだけ巨大な飛行戦艦であれば、数メートルの亀裂を作ったところですぐには落ちることがない。緩やかに内部に充填させたガスをもらしながら、気嚢の形は崩れ、漏れたガスによって一つの方向へと、すなわちパラボラの上部へと移動していく。
「部下が……逃げただと?私を見捨てて……また、私は見捨てられるのか……」
 腹部の傷から血を流しすぎて動けないハイドリヒが、震える声で自らの身に降り掛かった不条理を嘆いているのが聞こえた。私は因幡に助けを受けてグライダーに乗り込みながら、死にゆくかつての忠実なる騎士へと声をかけてやった。
「なあ、ラインハルト。どうやら貴公は襲撃後人脈を失ったことについて、一つ重大なことを見落としているようだな。いや、無論、相手の外見で態度を変えることはよくないが。先ほどは、私も悪いことをした、謝ろう。その上で、だ。その上で、この際だから教えておく。貴公はとてつもなく性格が悪いぞ。そのせいで元からかなり嫌われていたのだが、気づいていなかったのだな」
 マニュアルを読んでグライダーの操縦系統を確認している因幡が噴き出した。
「たとえばだな、ここにいた貴公の部下、ハオと言ったか、彼が置いていた貴公の胸像を貴公は見るなり叩き潰したが、ふつう、気に入らなかったとしてもああ言うことはしない。趣味はまあ、最悪だが、気に入って置いていたのだろうしな」
 ハイドリヒは、自分の顔をマントで覆っていて、少しも動こうとはしない。時折腹の傷をもう片方の手で押さえるあたりからして、まだ生きていて、聞こえているだろうと判断して私は話を続ける。
「それから、これはこちらの世界でも行われたかは知らないが、貴公が出席していた総統官邸での夜会、その席で、貴公はどこぞかの会社の社長に現代のジークフリートのように美しいとほめたたえられたあと、その社長に、あなたはまるきりオークかゴブリンだな、と答えたんだ。周りの空気が凍り付いたから、そのやりとりだけは覚えているぞ」
 顔を覆っていたマントが取り除かれた。どうやら、話に興味を持ったらしい。皮膚がひきつれ、瞼も変形してしまっているのでわかりづらいが、どうやら驚愕しているようだ。こちらの彼も、同じ体験をしたことがあったのであろう。
「ちょうどその時私は貴公の奥方、リナ殿と歓談していたところで、リナ殿が恥ずかしそうにしていたものだから『おそらくラインハルトは友人を持つべきではないと思っているのだろう』と言っておいたのだが……いや、まさか、素で言っていたとは思わなかったのでな。てっきり帝国保安部長官という職務との兼ね合いでそのような言動をしているものとばかり。気づいていなかったなら、指摘してやればよかったな。向こうの貴公に言ったとて、こちらの貴公には関係のないことであったろうが」
 ラインハルトの顔の中、口がぽかんと開いた。その言葉について、奥方から聞き及んだこともあったようである。実を言うと、おそらく彼が友人だと思っていた人々も、向こうにしてみれば友人だなどとは思っていなかったのではないか……とも思っていたが、それを今更伝えてもかわいそうなので、やめておいた。なまじ顔が良かったせいで、性格の悪さを誰からも指摘されないままになってしまうという、非常によくある現象が起きてしまっていたに違いない。
「それでは、もし生まれ変わることでもあれば、次は少しは言動に気をつけたまえ。さらばだ、わが忠実であった悲劇の騎士(トリスタン)よ」
 話が終わったので前を向き、操縦席の突撃隊幕僚長の制服の肩をつついた。笑いをこらえていたらしい因幡は、頭を振ってその笑いの衝動を吹き飛ばすと、
「では、離脱します」
そう宣言して、落ち行く飛行戦艦の上からグライダーを飛び立たせた。
 グライダーは高山の風を簡単につかみ、山の端より来たる大陸の黎明の空を旋回しながら降下していく。眼下にて、ある程度のガスが抜けたところで飛行戦艦はその重みが浮力を大きく上回り、パラボラの上へと船体を傾けていった。現代の飛行船のガスは、簡単に爆発はしない。だが、エネルギー充填中のレーザー兵器のパラボラ上、レーザーの方向を定めるための鉄塔と半球との間に走る数千度のプラズマに触れた船体そのものは、炎上する。炎上した船体は、その質量を保ったままパラボラの上へと落ち、鉄塔を破壊し、並べられたパネルを崩していった。これで、ラインハルト・ハイドリヒの企てた長きにわたる復讐の計画は、終わりを告げたわけである。
「その服は、かつてわが友が着ていたものだ」
 降下するグライダーを操縦する因幡に、私は言った。因幡は、操縦桿から片手を離し、自身の着ている服の襟章を確認した。あの服は私の命を受けテオドール・アイケが放った銃弾で穴が開き、そのままそれを纏った肉体とともに消却されたし、そもそもあれを着ていたものはビール腹の太り肉であったので、作りだけをまねたレプリカであろうが。
「彼が、私を真実、心の底から友と呼んだ最後の人間だった。その友情の結末は、知っての通りだがね」
 その服を着ていたものの名は、エルンスト・レーム。突撃隊幕僚長にして、闘争期のわが党を支えた闘士であり、私と「お(Du)」と呼びあえる数少ない、友人であった。そして、彼は政権獲得後「長いナイフの夜」事件において、私の命令の元、抹殺された。
「私が死なないのは、私が生きた歴史における私の因果、私の運命を引き継いでいるからだ。そして、今日、この時において君がその服を着ていることも、その因果の故に起きたことではないかと思う。……言っていることがわかるだろうか。つまり、私と、あるいは私の二次的な存在である千年とともに居れば、いつか君もあのエルンスト・レームの運命を辿る日が来るかもしれないということだ」
 グライダーが降下していく。地面が近くなるとあたりの景色はめまぐるしく変わり、因幡は操縦に集中しているのだろう、後ろを振り向くことはない。
「それでも――」
 そこで私は一度話をやめた。グライダーが緩やかな斜面に降り立ち、機体に衝撃が走ったためだ。凸凹の土の上をグライダーが滑るうちは、舌を噛みそうであるのでしばし黙る。
 やがて、グライダーは慣性を止めた。操縦席に座る因幡は、降りる準備を始めた。私も共に降りるべく、簡易なシートベルトをはずし始める。
「それでも、君がもし、千年に何らかの興味、いや、好意を持ち続けてくれるのであれば、どうかそのことに、彼はこの私、アドルフ・ヒトラーの人生と運命を引き継いだ存在であるという事を忘れず――」
 因幡は身のこなしも軽く、グライダーから先に跳び降りた。片足の怪我が響いている私は、のろのろとしか動けない。
 と。先に降りた因幡が、その場で自分が着ていた服の上着を脱ぎ、山頂湖であった場所にて炎上を続ける飛行戦艦の残骸に向けて、その上着を投げ入れた。続いて褐色のシャツも焼き捨てる。
 そして、上半身に身につけていたものをすべて焼いてしまった因幡は、しかし四月一九日、夜明けのチベットに吹きすさぶ風は肌にしみたようで、両腕を体に巻き付けながらもグライダーの私の元へ駆け戻ってきた。
「だったら脱いだらいいんでしょう。もとからあんな兵隊ごっこの集団の制服なんて御免です。僕は、昔は軍隊にあこがれていて陸大まで出ましたが、本物はきっついんですよあれ。修正とか鉄拳制裁とか、ああいうノリもだめで」
 そうして、彼は私の方へと手を差しだし、私がグライダーの狭い席から降りるのを手伝おうとした。いや、そういうことでは、と言おうとするのを飲み込んで、私はその手を取った。この青年はおそらく、言いたいことはわかっているのであろう。わかった上で、このような行動を取ってくれているのである。
「そうか。なら、どうか、千年の友でいてやってくれ。あんな性格だが、私の影であることを意識して、自ら友人を作ろうとしないのでな、君のような存在は希有だ」
 私をグライダーの中から引き起こして、私の手を握った状態で、因幡は
「勿論ですよ」
と、笑って見せた。
「……それに。あなたも、友人に数えていいですか?」
 笑顔のまま、因幡は私をまっすぐに見て、言った。私の目を、千年の時の目ならばともかく私の目を直接に見るものは少ない。私は意識したことがないが、どうも目力と言うのがすごいらしく、すぐに目をそらされてしまうのである。私は思わず
「ほへ?」
などという素っ頓狂にもほどがある言葉を発していた。
「私を?私をか?いや、悪いとは言わんが、滅多に表に出してもらえないし、話も合わんぞ」
「いいんですよ。だってちとせさん、あのぶんだと自分一人だけに対する好意は嫌いそうですからね。あなたとも友誼を結んだ、と言えば納得するでしょう」
 千年は確かに、この私、アドルフ・ヒトラーを経由した好意の方が自分を媒介にした好意よりまだましだ、と言っていた。そのときにはもうこの青年を振りきっていたとばかり思っていたが、あそこまではついてきていたのか。考えてみれば、千年よりもこの青年の方が遙かに足は速い。
「そういうことならば、かまわんぞ。よろしく頼む」
 すでに手は握った状態だったので、強く握り返すことで親愛の意を伝えたが、相手はもっとわかりやすく、西洋人のようにハグをする事で親愛を表現した。私は、身体的接触がかなり嫌いな方なのであるが、この場合は仕方がないだろうと、軽く相手の肩をたたくだけでそれに答えることとした。のであるが、彼が中々離れないため、思い切り後頭部を叩いてやろうとしたところで、ひょい、と彼は脇へと体を離した。つまり。
「えっ、あっすみません、うわあ大丈夫ですか」
 私は思い切り自分の顔を叩くはめになってしまっていた。そんなわけもないのに、千年が変われという意志を伝えるためにしたことではないかと思うほど、痛かった。一瞬意識が飛びかけたほどである。久々に、夜ではない時間に交代することができたのである。ここで交代する手はないと思い、私は何があっても意識を失うまいとその場に踏みとどまった。鼻血を出しながら。

◇幕間の三

 〈千畝機関〉は元々常駐スタッフが少ないので、三人のうち二人が出て行ったところでそう大きな変化があるわけではない。しかし、上階〈昭和通商〉三階を専有する営業部がいっぺんにがらんどうになっているのは、中々珍しい光景だった。どうやら、各部署総出でチベットへ渡るための方策から、チベットで起きていることに対処するための裏工作、その後の処理などなどのため、各方面へと奔走しているらしい。しかし、営業部長までいなくなっているのは、単にトイレであるかもしれない。いつもならば三階に入ろうと思えば何やら書類を書いたりしなければならないため、先ほど営業部に忘れてきてしまった帳簿を取りに来た金円女史としては、その状態は願ったり叶ったりの状態に他ならなかった。
 逆ならばおそらくは何度も行われているだろうが、〈千畝機関〉が〈昭和通商〉に不法侵入する、というちょっとした下克上じみた状況に、表情には表さないまでも、すこしばかりの爽快感を感じつつ、金円女史は忘れた帳簿を回収した。営業部内は、性格には完全なもぬけの殻ではなく、スーフィー教の祈祷を行い目を回しているN研究所の所長も居たのだが、あれは気にする必要はなさそうだ。しかし、おそらくはどこかに監視カメラがあるだろうから、侵入したことはバレてしまうに違いない。なので、帳簿を回収させてもらいました、というメモをその場に残しておく。女怪盗になった気分がしていなかった、とは、けして断言することはできなかった。スパイが本業ではないにしても、曲がりなりにも諜報機関で働こうとするものが、その種の冒険精神を嫌うはずがなかったのだ。
 とはいえ、営業部長の机の上に置かれた小型無電が鳴り響き、そこから通信文が吐き出されてくるに至っては、それを見てしまうと自分が危ない、という危機意識が勝り、慌てて金円女史はその場から逃げ出した。
 なので、そこから吐き出された文章が一通だけではなく、無数に存在して机の上に丸まっていたことに気づいたものは誰もおらず、その文章が、
『復路燃料費足リズ』
『復路航空費捻出セヨ 再度申請ス』
『往路乗機変更求ム』
という、ぎりぎりまで復路の航空便を調達しようと足掻く〈昭和通商〉営業部本隊からの涙ぐましい通信であったことは、誰にも知られることはなかった。

◆ひみつのパーティ

 これでいささか間抜けではあるが大陸の黎明とともに訪れる感動的なフィナーレ、となだれ込めれば良かったのであるが、残念ながらボスを倒したのですぐに拠点へと場面が転換される、という、昨今日本(ヤーパン)にて流行りのファンタジーを題材にしたコンピューターゲームのようには行かないようであった。
 斜面側から近づく無数の靴音を聞いて、因幡はぱっと飛び退り、姿勢を低くした。私もまたそちらを向き、ハイドリヒから奪ったマウザーを両手で握る。千年が馬鹿げた、本当に馬鹿げた真似をしてくれたせいで、ろくに拳銃一つ使えないのが悲しいところである。
 そこでは、〈昭和通商〉の先遣部隊と交戦していた迷彩の部隊が、こちらへと転進してくるところだった。三つあったうちの飛行船の二機目までもが落とされたのを見て、あわてて戻ってきたと見える。よく見れば、崖側でもどうやら先遣部隊が突破されたと見え、兵士たちが駆けて来ている。このまま無視してくれればいいのだが、二人の密偵の姿を見て隊長格の男がその場で部隊へとなにやら指示しているのだからそうは行かないようである。ハイドリヒへの忠誠がどうのと言うよりは、この地より離れるにあたり、目撃者をすべて消しておきたいのであろう。
「私は死なんから適当に時間を稼ぐ、君は、君ならばあの崖の面を走れるだろう、行きたまえ」
 私は足を怪我しているが、因幡一人であれば、あの脚力ならば崖の突起を伝って簡単に逃げ切れる。マウザーを握ったまま、斜面側から走り来る迷彩の〈ヘイズルーン〉隊員たちと因幡との間に立ちふさがろうとする私の肩に、因幡が手をおいた。
「そうは行かないでしょう。いくら死ななくても、その傷を見るに無力化はされるのではありませんか」
 弱点であるためなるべく隠したいところを、因幡は見抜いていたようだ。反論できるはずもなく、私は押し黙る。
「だが、彼ら、こんなところでそのまま世界大戦でもはじめられそうな風体だ。君一人では無理だぞ」
 「千年王国」内でハオ氏の部下を殲滅して回っていた部隊とは異なりこちらはプロテクターからフリッツヘルメット、後からさらに山頂湖へと殺到してくる部隊によってはなぜかガスマスク着用という重装備である。因幡の印地撃ちでは、狙える箇所が少なすぎる。もっとも、私が手にしたマウザーでもその条件は似たようなものであるのだが。
「それでもやるしかないでしょう、大丈夫、僕の技は引き金を引くより速いし機銃より攻撃範囲が広い……あっすみません無理だ、上着を全部脱いでしまったから連続して印地を撃てない、これは死ぬ、これは逃げましょう」
 因幡はいつもの動作で袖口から小石を落とそうとして、小石の弾倉である衣服を先ほど脱ぎ捨てて燃やしてまった事に気づいたようであった。後先を考えずに行動するとこうなる。
 逃げる場所は、しかし、崖側部隊がすでに炎上中の湖の外に存在する僅かな幅の土地に突入しており、斜面側もじきに到達するであろうところを見るに、ほぼ存在していないのと同じだ。大ボスを倒して敵の野望を潰したと思った矢先にこれであるのだから、家に帰るまでが遠足だとはよく言ったものである。……などと思いつつ私がマウザーを構えた時、先頭を走っていた迷彩の一団が、その場で宙に躍り、倒れ伏した。機銃の音は確かに聞こえていた。しかし、どこから撃ったのか――と思ったとき、密偵たちの上に影が落ちた。上を見上げる。
「……ユニオンジャック!?」
 それは、確かにユニオンジャックを染め抜いたパラシュートだった。それよりさらに上空には、ランカスターが飛んでいる。畜生、あれは、私の歴史で私の国を焼いた機体だ。しかしランカスターから落とされたのは、この場合、爆弾ではなくユニオンジャックのパラシュートを先頭に、整然と空挺降下が行われ続けていた。先頭以外は、普通のパラシュートである。――ユニオンジャックは英国の国旗であるが、かつての英国が大管区アイルランドと大管区ブリテンへと分割された今現在、それは第三帝国の生存権構造への反逆を意味する旗でもある。
 斜面側先頭の部隊を手にした機銃で掃射したのは、ユニオンジャックを背負って降下してきた男であった。ユニオンジャックを背負った男は戦地に突入するというのに、ダークスーツを着込んでいる。続く部隊はきちんとかつての英国陸軍の制服を着ているのであるが。
「――こちら占領下英国・秘匿英王国政府内秘密情報部(SIS)〈情報清掃屋〉、(モオム)聞こえるか、ただいまパーティー会場に到着!これより謎の武装勢力[#「謎の武装勢力」に傍点]と交戦に入る!」
 ユニオンジャックの男は着地するなり左手につけた腕時計に向けて、そう叫んだ。使っているのは理想的なキングスイングリッシュだ。よく見れば、腕時計からは細いアンテナがでている。非常にわかりやすい、スパイ御用達の秘密道具であるようだ。
 ユニオンジャックを先頭にした空挺部隊は、山頂湖周辺のあの僅かな土地に着地をすると、密偵たちの両脇を走り抜けて即座に迷彩の親衛隊と交戦に入った。指揮を執っているのは、あのスーツの男である。崖側からの部隊もすぐに全滅させられ、部隊は斜面側、最後に残った飛行船から飛び出してくる〈ヘイズルーン〉の部隊と交戦に入った。
 一通りの指示を〈情報清掃屋〉隊員たちに与え終えると、男は着地の際についた土埃をスーツから払い落とし、密偵たちの元へ歩いてきた。黒髪、あるいは光によってはダークブラウンの髪に青い大きな瞳と言うところまでは本来の私の外見と同じだが、彼は細身のスーツがよく似合う、渋みのある外見をしている。
「やあ、僕は〈情報清掃屋〉の、あー……アイ・エフ、IF《イフ》中佐だ」
 ウォッチ大佐以来、私も因幡も場違いな格好で奇妙な名前を名乗る軍人というものに警戒心を持っている。が、この男の場合、服装はさておき、言いよどんだところからするに単純な偽名、それもただ単に自身のイニシャルを名乗って捩っただけと見える。
「まさか既にレーザー兵器を潰していたとは思わなかったから、パイロットには悪いことをしたよ、ロンドンからぶっ続けで最高速度で飛ばしてきたんだ。やったのは君たち……そっちは日本人だな、〈昭和〉か。金髪の君の所属がわからんな。〈昭和〉の外部協力者(エージェント)か?」
 因幡が私のわき腹を突っついた。言うな、と言うことだ。言うまでもなく私は喋らない。知られていないのにわざわざ名乗るスパイはいない。いれば、馬鹿である。
 私が名乗らずに居るままに、また上空に一機の飛行機が飛来した。今度は、やたらと巨大で鈍重な航空機――おそらくはソヴィエト時代のものであろう。機体には、赤い旗に黄色い鎌と鎚を染め抜いたものがたなびいている。言うまでもなく、こちらも今は存在しない国あるいは思想を象徴する、禁じられた旗である。
「ほう、カリーニン(スェーミ)。また、とてつもない骨董品を引っ張り出したものだな」
 IF中佐が、感慨深げにそれを眺めている。直接に私は知らないが、カリーニンという名称は確か、ソヴィエトの工廠がある地名であったと覚えている。やはりこれも、大戦期のものであろう。
 カリーニン7は、山の斜面に強行着陸を果たした。あれでは飛び立てない気がするが、帰りはどうするつもりであろうか。
 太った烏のような機体からは、夜明けでまだ曙光は弱いというのにサングラスをかけ、コートを着込んだ、スパイの典型例のような集団が現れた。乗れるだけ乗ってきたらしく、とにかく多い。彼らは尾根の上に並び立つと、一斉に着込んでいた服を脱いだ。下からは、あの崩壊するベルリンへとなだれ込んだあの忌々しい、くそ、忌々しいというのに今は頼もしいと言うほかない、あの懐かしい労農赤軍の兵士が現れる。赤軍兵士たちは、銃を構えると、
「では、同士諸君。地下会議(ソヴィエト)とチェーカーに万歳(ウラー)!」
と叫んで斜面を一斉に下る。無論突撃する先は現代的な装備の、IF中佐曰くの「謎の武装勢力」なのでばたばた倒れる。ばたばた倒れるが、指揮官らしき男は、一人に一挺あるだけここは天国だと思え同志諸君、と何かよくわからないことを叫んでいる。わからないといえばそもそも、おそらく大管区モスクワにて活動をしているのであろう、地下ソヴィエトの秘密警察(チェーカー)とはいったい何をしているのかすらわからない。さらに言えば、〈情報清掃屋〉と言う部隊だけはどうにかおぼろげに活動実態が想像ができるが、秘匿英王国政府のSISも大概わからない。が、ここにいるのだからきっと何かをしてはいるのだろう。あるいは、名前だけが残っていて、実態としては地下抵抗活動組織であるのかもしれない。
「はは、すごいな、お祭り騒ぎだけにどこもかしこもめかし込んでくるぞ。しかしロシアのあれはあまりにもハッタリがすぎるな、最高だ」
 なにが起きているか日本の密偵たちにはよくわかっていないのだが、IF中佐はわかっているらしい。よくわからないでいるうちに、突如背後から
「あれは、老人たちの懐古趣味だよ。ボクらはさっさと谷にガスをまいたというのにわざわざあんなまねをしてるのさ。ま、この風の強い谷じゃすぐに流されて効かなかったけどね」
そんな、子供の声が聞こえてきた。口調はしっかりしているが、舌が足りていない。つまり、防毒面をつけていた〈ヘイズルーン〉兵は、そうやって撒かれたガスに対応をしたものであるらしい。振り向くと、そこには声のとおりに少年が立っていた。外見だけを見るに非常に幼く、一〇歳にも満たないように思われる。その口振りからするに、この少年も何らかの諜報組織の一員、と言うことであろうか。多少、全体的に色調がロシアの空模様のようにくすんではいるが金色の髪に青い瞳で、少女とも見える顔立ちをしているというのに。――ただし、その顔に浮かぶ表情は、驚くほどに冷たい。
「それじゃ、懐古趣味の方が役立ってるというわけだ。君は――ええと、〈スペクター〉かな、それとも〈スメルシュ〉?」
 IF中佐が、思い出すように言う。〈スペクター〉あるいは〈スメルシュ〉と言うのがこの少年の所属する組織の名前であるらしい。前者は知らないが、後者は、かつてのスターリン直属防諜部隊の名にほかならない。〈スメルシュ〉とは「スパイに死を」を意味するロシア語の頭文字を拾って、ラテン文字に転写し、英語読みしたものである。これも今は存在しない組織のはずであるが、地下組織として何らかの活動を続けているものであろう。
「〈スペクター〉は、あなたかあなたの協力者が勝手につけたパルプフィクション的な名前だね、サー。英国さんは文学的に過ぎる。〈スメルシュ〉もチェーカー同様とっくの昔に壊滅してる。今となっちゃボクらはただのロシアの殺し屋だよ」
 と思ったら、違ったようだ。単なるロシアの殺し屋であるらしい少年は、最後に冷たい視線を英国スパイに向けると、自分はすたすたと現在絶賛英独が交戦中の崖へと歩いていった。危ないぞ、と声をかけようとしたその瞬間、少年の姿は消えていた。
「なにが起きてるんだ、これは」
 因幡の問いに、IF中佐は意外そうに振り向いた。
「〈昭和〉には話が付いていたはずだが、聞いていないかね」
 私は因幡をみる。因幡は、あっ、と言うような顔をした。
「先遣部隊から、なにも話を聞かないうちに走ってきたんだ。……実を言うと、このレーザー基地で何をする気だったのかも知らないままだ」
 どうも、度々外見に反した性格の持ち主であると思ってきていたが、本当に外見に見合わず直情型の猪突猛進型であったらしい。いや、よく考えればはじめに千年が怒らせようと煽り立てた際に、まんまと載ってくれた時点で、その性格の片鱗は見えていたかもしれない。が、ともかくそんなことを言っているうちにも、さらにこの馬鹿騒ぎの参加者は増えつつあるようだった。頭上には、何機もの航空機がどんどん集まってきて、それぞれのエージェントを下ろしていく。
「おお、あれは〈大作戦部隊(グレートミッションフォース)〉か。CIAの指令を受けたのかな、絶賛第二次南北戦争中だって言うのに私設組織がよく来たもんだ、何やってるんだあれは、ああ、地下王国に何か取りに行きたいのかな。おお、あっちは自由フランスの徽章……ってことはド・ゴールの〈情報行動中央局(BCRA)〉か。英国占領からこっち、奴ら、どこに居るのかわからなくなったものだからてっきり壊滅したとばかり思っていたが生きていたか。あっちは……あの紋章は〈瑠璃はこべ〉?まさかオリジナルそのままの連中じゃないだろうが、すごいな、アナクロなものがいるな。おー、すごい、あれは中国の公安か、どっから来たんだ奴ら」
 〈大作戦部隊〉らしき男は、ダイバースーツ兼用であるらしい潜入用スーツを着て、スカイダイビングの要領で航空機から跳び降りた、かとおもえば比較的下流にて両岸へと手首の射出装置からフック付きのワイヤーロープを射出させ、それらの長さを調整することで減速し、そのままするすると水中へと没していった。〈瑠璃はこべ〉も同様に、こちらは単に崖側からロープを下ろしてであるが、水中に入ろうとしている。いったいどういうルートでここにきたのか、斜面の向こう、切り立った崖から銅鑼の音でも鳴り響きそうな具合に大見得を切って現れた中国の公安もそうしたいようであったが、間で謎の武装勢力が英ソと二正面で交戦しているために近づけず、仕方なく自分たちも参戦した。もはや、何が起きているのかわからない。が――どうも、誰も彼も実のところ、水中に用事があると見える。現状、水中にあると思われる物体、と言えば――
『サー・イアン、崖です!止めてください、我々が挟撃される!』
 喧噪の中、事態についていけずに呆然とする密偵たちの耳をそんな英語が打った。IF中佐の腕時計型小型無電……というより、これはただの無線で、そこから交戦中の彼の隊員たちの通信が聞こえてきたようだ。斜面側最上流で戦っているのは彼ら〈情報清掃屋〉なので、山頂湖側に回り込まれると彼らがはじめに挟撃される形となるのである。どうやら下流にて、崖側へと迂回することに成功した一団があったらしい。〈昭和通商〉先遣部隊と交戦していた連中はすでに〈情報清掃屋〉が初めに片付けてくれていたため注視されていなかったが、今見てみれば一個小隊分ほどの人数が、それぞれ距離を取って低い姿勢で駆けてきている。どうやって渡ったのか、と見れば、先ほど〈大作戦部隊〉が水中に降りる際張り渡したワイヤーをそのまま放置していったため、そこを伝って渡ったものであった。更に続こうとする部隊があったものの、中国部隊から数名が敵中を突破してワイヤーを切り落とすことに成功し、両岸は再び寸断された。
「下流はどこの組織が守ってるんだ!一九四〇年のカエル喰いどもより悪いぞ!」
「〈昭和〉だ〈昭和〉、あいつらラマ僧の恰好して来て火器持ってねえんだ、それよりどさくさに紛れて人の国を馬鹿にすんじゃねえぞライミー!」
「めんどくさがってハオ見逃し続けたのも奴らアル!この状況全部あいつらのせいネ!宗主国辞めろー!」
「両岸にワイヤー渡して残してったのはどこの馬鹿だよ!あいつらんとこだけ戦闘に参加してねえし!いいか、うちが最初に取るものも取らずに現地入りしたんだぞ、それもこの山に入ってからは徒歩だぞ徒歩!」
「貴様等の勢力圏内なのに貴様等がなぜ一番気合いの入った偽装工作をしている!シベリアに来い鍛え直してやる!」
「おめーらみたいに地下組織やら亡命政府やらで細々やってるよりも超大国やってる方が気ぃ使うんだようちの国に超強い偉大な宗主国できると思ってんのか馬鹿野郎大陸奥地なんて絶賛火の海だぞ火薬庫じゃないぞもう爆発炎上日常茶飯事だぞ大陸の入り口でどうにか燃えてない火薬庫レベルだそんなとこでドイツの諜報網をいちいち追い続けられるか馬鹿野郎」
「開き直る暇があるなら手を動かせ!この状況はほぼ完全に日本の責任だ!」
 乱戦を防ごうと、斜面側最上流に陣取っている英国以外の各国のスパイたちは自然、斜面の上方へと集まる形となり、各国混成部隊の様相を呈してきたものの、急造かつ本来は実戦部隊ではないものばかりであるため、連携はあまりとれていない。ただし、最後の言葉だけは〈昭和〉以外のすべての勢力から同時に発せられた。その後も各国の言葉でそれぞれの主張が飛び交うが、突破されているものは仕方がないので、対岸から戦闘の合間に射撃が行われる。しかし、上流でも一〇メートルそこそこは対岸までの距離がある上、相手が散会しているのでなかなか数を減らせない。しかも斜面側では、なにやら一部でどさくさに紛れて謎の武装勢力討伐にやってきたはずの勢力同士が交戦に入っている様子も見受けられるが、おそらくは、乱戦故の事故であろう……と思うことにする。
「ふむ、では少し仕事をしようか」
 と、それまでパイプをふかしてそれぞれの勢力を見ていた――どうも、各国諜報機関の様子をしっかりと観察しようとしていたらしいIF中佐が、ばさりと上着を翻し、両足を開き、まだ飛行船の残骸が燃えくすぶっているパラボラの中を突っ切って駆けてくる兵士へと右手を伸ばした。おそらくは、通常私の右手に仕込んでいるのと同種の機構がそこには仕込まれているのであろう。拳銃がIF中佐の右手へと射出され、走りくる兵士は倒れる――という展開を山頂湖にいたスパイたちは想定していたのであるが、残念ながら次に鳴り響いたのは敵兵士側の小銃の銃声であり、IF中佐と残る二人は湖畔で身を伏せた。伏せつつ、手元にあった石を因幡が投げるも、ヘルメットに当たりはじかれるだけだ。
「あれえどうしたのかなあベレッタちゃーん、ほらいい子だから出ておいでよ、ずっと苦楽を共にした仲だろう?……クソ、引っかかって出てきやしない」
 どうやら、袖の射出機構が引っかかって、しかも下手に凝った機構であるので直接取り出すこともできなくなってしまったようだ。私も、同胞ドイツ人を相手にするのは気が進まないが、モーゼルを控えめに撃つ。しかし、利き手が上手く動かない状態であるため、せいぜいが撃っている間敵を足止めできる、程度のことにしかならない。
「まずいなこりゃ……グリーン、おいグリーン、聞こえるか!ちょっと防げそうにない、人をよこせ!」
『出来りゃあ止めろなんて言ってませんや!――おいコーンウェル、弾もってこい!ホイートリー、下がれ出過ぎだ!』
 中佐の無線から帰ってきた返事は、素っ気ないものであった。こうなれば、こちらが戦闘中の部隊に合流するほかない。パラボラの中を突っ切ればこちらが的になってしまうため、土手に身を隠す形で山頂湖周辺の狭い土地を走りだす。銃を持っているのは私だけであるので、私が最後尾となり時折銃撃を行いつつ、英国地下組織部隊に合流を図る。――よく考えれば、私は少なくとも死なないので、一緒に移動することなくこの場に残って打ち続ければいいのである。そう思い、パラボラにされてしまった湖の、谷から見て再上流を一二時とした場合、一〇時ぐらいの位置まで来たところでこっそりその場に残ろうとしたのであるが、
「何ちとせさんみたいな事やってんです、ついてきてください!」
「えっ、いや、私が残って弾寄せの的になったほうが君たちが逃げやすかろうと……」
「そういう自己犠牲はやめたまえ、人は死ぬ!だが、今日は死なん!明日も絶対に死なん!スパイならばそんな気でいろ!来い!」
そう言うわけで、因幡とIF中佐に無理矢理連れて行かれてしまった。因幡はともかく、IF中佐も案外、任務中にも関わらず人のことを気にしてくれるタイプのようであった。外見からして、美女と酒にしか興味のなさそうなくちかとおもっていただけに、意外である。
 IF中佐は身を低くして走りつつ、斜面の様子を見て無線の向こうに指示をしている。頭上には弾が飛び交っているが、少しも恐れている様子はない。あちらは、私と違って死ぬ人間であるというのにである。
「向こうさんがあの重装備なら確実に高地有利だ、風も後ろから吹いてるしな、高地を保ったまま遮蔽物に隠れてじりじり削れ。――じきにデウス・エクス・マキナだ」
 無線連絡を終えたIF中佐は、ちっとも敵に弾丸を当てられない私からモーゼルを強引に受け取り、先頭を切って走っている兵士を撃ち倒すと自分が最後尾になり、残る二人を先に行かせようとする。
「すまない、私が残ったほうがいいんだ、信じられないかもしれんが、死なないんだ私は」
 私は再び中佐にそう具申する。横で、因幡が疑問に満ち満ちた顔を浮かべている。――そうだ、たしかにおかしい、久々に長時間千年に変わり私が表に出られているから浮かれているのであろうか?何故私は、千年のように、英雄症候群に憑かれたように、ナチ[#「ナチ」に傍点]の人員から人を守ろうとしている?いつも、千年が後から文句をいうものだから、私が表に出てもすぐに引っ込んでいたので忘れていたが、私はこのような人間であったろうか?
「またそれか。もしそれが仮にその通りであっても駄目だ。……我々は、パーティに参加するためにわざわざひどい状況の本国をこっそり抜け出してここに来たんだぜ?きみにそれを阻害する権利は――」
 と、そこでIF中佐が言葉を止めたのは、妙に追撃の遅い敵の様子を確認するべくパラボラの方向をうかがっためである。私と因幡もつられ、そちらを見る。そこには、一見何の異変もないようだった。が、何か、先ほどに比べ足りないものがある。そうだ、先ほどまでくすぶって煙をあげていたはずのパラボラの中の飛行戦艦の残骸が、すっかり鎮火している。そもそも、燃料だのなんだのを満載していたことを思えば炎の勢いが止まるのも早すぎたのであるが、今見れば鎮火しているのみならず――
「パラボラの様子が何か妙だな」
 パラボラ内を突っ切っての追撃が完全に止んでいることに気づき、スパイたちが立ち止まったとき、燃え残った飛行船の風船が、浮き上がってきた。ガスが残っていたのか?そんなわけはない。因幡が思い切って、湖畔の縁から顔を出した。
「――水だ!でもどうして!?」
 因幡がその場に立ち上がったため安全なのであろうと判断し、後の二人もその光景を見た。一度は地下「先年王国」にその水を流し込み、さらには大岩を爆砕することで干上がらせてレーザー兵器としていたはずの湖の水が、再び急激な勢いで戻ってきていたのである。追撃の足がゆるまっていたのは、パラボラで有ればそのまま突破できたはずの部隊が、大きく湖畔を迂回する必要が出てきた事によるものであるようだ。
「……この谷は本来水に満ちているはずだった」
 どこからか、そんな声が聞こえてきた。聞き覚えのある声である。しかし、それまでとは違い、そのドイツ語はゆっくりと発音され、人にものを伝えようと言う意志が感じられる。
「それが大岩によって流れが止まった後、水位の上がった湖の底が重みによって壊れ、地下へと流れ出し、さらには地下水となり、地底湖までもを形づくった」
 ああ、それで……と因幡がつぶやいた。思い当たる節があったと見える。
「そうして流れ出る水との釣り合いがとれ、この湖はあふれることのないままになっていた。私はその豊富な水を使い地下王国の発電を賄うべく、地底湖へ至る穴を塞ぎ水力発電施設に誘導した。――が、その施設が水没し、どうやら水の重みに耐えかね内部で崩落が起きたらしく今、地下水は流れを止めている」
 水没した地下王国、あるいは発電施設の一部が崩落したことで水の流れを塞いでしまい、しかし地底湖への流れも塞がれているために、溢れる先のなくなった水流が一度は空に鳴ったはずの湖に溢れ出した、ということであるらしい。
「本来は、水があふれるまでの間にハイドリヒの野望は達成され、そして最後には水が私の王国もこの谷も全てを押し流し、証拠を消すはずだったが……見たところ、あの雌山羊の野望も終わったようだな。つまり私の人生は結局何も生み得なかったということだ」
 湖畔に一人の人影があった。濡れた服を重そうに引きずりながら、彼は湖畔の縁へと立った。――それは、あの時水に飲まれたかと思っていたユリウス・ハオ氏にほかならなかった。
「ああ、どこぞかの青い瞳の密偵くん。驚いたかね、考えてもみたまえ、あそこは私の王国だぞ。どこをどう抜ければ外にでられるかなど熟知している……っておい聞けよこっち見ろよ折角がんばって人に伝えようとしてるんだぞめっちゃいまがんばってるんだぞ」
 やはり、ハオ氏は気合いを入れてしゃべり方を変えていたようであった。が、それよりも密偵たちとしては、湖を回ってくる敵部隊の方が当面の問題であるので、再登場したかと思えばよくわからない演説を始めた中ボスは、今のところ無害であろうと判断され、放っておかれている。しかも、その上にだ。
「だーっから!どこにありますのよそのミイラは!ナチだのナチの仮装だの死体だらけの水の中、どれだけ探してもありませんわよ!」
 前方、河口付近から、水中で何かを探していたらしい〈瑠璃はこべ〉の女性が姿を現した。無線の向こうの同僚に文句を言っているが、向こうも交戦中であるためろくに返答をもらえないらしい。
「〈瑠璃はこべ〉さんもだめだったか、最下層も駄目だった、ということは掘り起こされていないのかもしれないな。そうだ、先にハオのところに潜入していた密偵が居たな、君か、ミイラはどこだ」
 続き現れたのは、〈大作戦部隊〉のワイヤーアクションを繰り広げていた彼である。水中で、協力体勢が築かれていたらしい。無論、ハオ氏は無視されている。
「ミイラ?聖柩かもしれない生き仏のことか、あれはまだ掘り起こされてないのだ。だろう、ミスター・ハオ」
 どうやら、彼らは聖柩である可能性のある、この地に伝わる“種子”こと普陀落渡海の僧侶の生き仏を探しているようであった。〈大作戦部隊〉の男に問いかけられた私は、話をちょうどそこにいるハオに振った。
「えっそうだ、残念だが掘り起こせていない、なんだお前たちもああいうオカルトが好きなのか、いいよなあれはロマンがある、総統閣下が色々調べさせるのもわかるというものだ」
 話を振られたハオ氏は、律儀に答えている。それまで無視されていたところに、自分の興味のある話を出されたので、少しうれしいらしい。だが、聖柩という名をつけた私の言語センスはさておき、オカルトが好きなのは私ではなくあの眼鏡ことだ。聞く話によれば、まだ力場に打たれた人間の死体の通称としての聖柩(アーク)の存在が明らかになる前、戦争すら始まっていない頃、南米の何処かで同名の、つまりそれこそ根拠のよくわからないオカルト物件である失われた聖櫃(アーク)だかなんだかを探すため、エジプトに部隊を派遣していたらしい。しかも一人のアメリカ人に壊滅させられたとも聞く。よくやるものである。
「まさか、それじゃあナチの死体水に入っただけ損でしたの?」
「そもそも、なんだってリーダーはあんなオカルトの与太物件を探せと言うのか、理解に苦しむよ。指令を受けた事実も自動的に消滅してくれればいいのに」
「オカルト馬鹿にするなよロマンがあるだけでいいじゃないか生きる希望だぞ」
 どうやらやはり、水中探索をしている面々も指令を受けて探しているだけで聖柩の件は信じていないようである。同じく信じていなかったはずのハオ氏が、何故か怒っているのは、自分でばかにするのはいいが人に馬鹿にされるのは腹が立つ、というマニア特有のそういう心境によるものであろう。
 中佐が水中探索組に声をかけた。
「すまないんだが、小型の拳銃を持っていないか。今、ちょっとナチの部隊……じゃない、謎の武装勢力が一隊こっちに向かってきているところでね」
 〈大作戦部隊〉の青年は両手を広げて、無駄のないぴっちりとしたダイバースーツに余分なものがいっさいついていないことを示した。〈瑠璃はこべ〉の女性も、同様である。
「あなたアホみたいな登場……失礼、ユニオンジャック背負って飛んできた人ですわね、最初に持ってたハンドマシンガンはいかがなさって?」
「部下に渡した。重いからな。私の武器はスマートな小型拳銃でなければなるまい」
「馬鹿じゃありませんの!?」
 なにやら、混迷が広がっている。混迷が広がっている中、因幡が私の肩をたたいた。私は実のところ、やはりどうにも彼らを守らねばならない気がしてしまい、一人で挟撃部隊を迎え撃つ、あるいはせめて弾寄せになるべくそっとその場を離れようとしているところであった。
「何度もすまないな、だが、止めないでくれ」
「そりゃ止めますが、その前に聞きたいことがあるんです、種子というのは、坊さんのミイラのことなんですか」
 そういえば、千年はその話すらもしていなかった。何しろ、ここについてから怒涛の展開であり、千年が何度か因幡と顔を合わせることができたのが奇跡のようなものであったのだ。いや、私と千年が有する力場とは元来、そのような奇跡を可能にするものではあるが、何しろ私のそれは死なないことに特化している確定した力場であるので、新たな因果を引き寄せてくれるとは思ってもみなかった。
「かいつまんで話すと、ミスター・ハオの探す種子とは、普陀落渡海で死んだ坊主のミイラで、それはナチスドイツでいうところの聖柩というものであるかもしれず、ミスター・ハオはそれを知って発掘を行っていて、ウォッチ大佐も一応それを口実にここへと来ていたようだな」
 聖柩の説明は、ここでしていられるような長さでもないので割愛した。それを聞いて、因幡はうそ寒そうに両腕を体に巻き付けた。いや、実際寒いだろう。何しろ彼一人だけ、半裸である。
「それじゃあ、例の呪いが本当ならもう少しで発動してしまうところだったのですね。まったく、与太話でも気のいいものじゃないな」
 えっ、と、その場にいたものの中で、聖柩について真実であると思っているにせよ思っていないにせよ聞き及んだことの有るものが、一斉に因幡を見た。IF中佐も聖柩の話は聞いていたのだろう、因幡を見やっている。場の注目を集めた半裸の青年は、気恥ずかしそうに頭をかいた。そんなことをしている場合ではない。
「ああそうか、あの板を読むよう千年が頼んでいたな、あれは何と書いていた」
 聖柩の成り立ち方からすれば、死の瞬間の願いを書き残せるとも思えないが、しかし、それに類似することをもしかすればミイラの坊主は服にでも書き付けていて、それを見た当時の中国人なり誰かなりが、それを石碑に彫りつけてくれた、という可能性もある。ともかく、使用条件に似たものが残されていたならば、それがあの坊主のミイラの最後の呪いを発動させる条件なのであろう。
「あれですか、読みづらかったですよ、おそらく漢籍に通じていないものが雰囲気で書いたんだ、日本人が適当に僕超愛君とか書いて僕は超君を愛してる、みたいに読ませるような書き方でして……」
「ごたくはいい、早く言いたまえ!あれは本物かもしれんのだ!」
 私はそう叫び、因幡の両肩をつかむ。それを聞いたほかのスパイたちも、工作員の仕事そのものがスリーパーとしての偽装であったハオ氏でさえも、その周囲に集まってきた。
「えっ、ちょっと待て、なんだよ本物って……あの板には、たぶんだがこう書いていたんです。『普陀落何処にも有らず、我此処に死し種子と成らん、我が(やまと)を呪う心も此処に埋めん、水来たりしとき芽吹き出すべし』……って」
「水に浸かったら発動、ってことか?シュトゥットゥトゥなんたらの箱の話が本当なら。だが、既に発掘現場は水の底だぞ。今頃日本に大惨事が起きてるのか?それならリーダーから何かしら自動的に消滅する連絡がきそうなものだが」
 〈大作戦部隊〉が言った。どうやら、まだ崩落していなかった地下の発掘現場までダイビングで潜ってきたらしい。よくやるものである。
「でしたら、本物ではなかったんですのね、なーんだよかった、はい解散……とは行きませんけれどね」
 〈瑠璃はこべ〉がつまらなさそうに背を向ける。が、しかし。
「いや、だから、まだそれが本当なら、芽吹いてはいないだろう。だって、坊さんのミイラならあの抜け道を抜けた先だ」
 因幡が、崖の中腹にあるくぼみの先の抜け道を指さした。スパイたちは、河口付近にまで駆け寄り、指さされた先を見る。川の水位は上がっており、抜け道の近くにまで来ている。もしもう少しでも上がってしまったら、そこは水没していたであろう。
「は?……抜け道?その中に、種子が……ミイラが?待て、あの村人ども、そんなことを知っていて私に黙って……」
 七年ほどかけて種子こと聖柩の発掘に携わってしまっていたハオ氏はひどくショックを受けている。それに対し因幡が、村の人によれば生き仏は大昔の宗教弾圧の時代に地底湖の脇に隠されて、それ以来村でも所在は忘れられてたらしいから、と慰めてやっている。が、地底湖の存在までは把握していたハオ氏のショックはさらに大きくなってしまったらしい。混迷は広がりすぎている。
「あの道は通って来ましたが、そんなものは見当たりませんでしたけれど……」
 〈瑠璃はこべ〉が不思議そうに首を傾げた。どうやらここは、航空機で来ることのできない程度の組織であると見える。話す言葉からするにIF中佐同様英国人であるようなので、こちらは政府系地下組織ですらない、ただの私設諜報組織であるかもしれない。
「は?そんなはずがあるか。村人も全員見ている。すごいタイミングだったぞ、丁度我々が通りかかったその目の前で、上野耕路の影響で壁が崩れたんだ。最後にはあの爺さんがやたら熱心に拝んでもいたし、集団幻覚ではなかったはずだ」
 あの爺さん、との言葉に、私はぽっかりと口を開く。因幡の言う爺さんとは、チャルパのことであろう。――そういえば、チャルパはあのとき、ダイビングスーツを着て、地下王国の湖に面したガラスを割った。あれは、もしかすれば人が居なくなり水中に没した発掘現場を捜索するためのものであったのではないか。米国と英国の密偵がそうしたように。
「あいつは――」
 私は眉間に皺を寄せ、緊迫した声を出す。しかしそれよりも遙かに大きな声で、
「あー!あいつは、スパイだ!」
そんな言葉が谷じゅうに響いていた。誰が叫んだのか。叫んだ男は、抜け道の出入り口である踊場に立っている。スパイたちは顔を見合わせたあと、その男へと視線を戻す。しばし、あらゆる音が止まった。戦闘中だった各組織のスパイたちに加え、今は戦闘員となっているがハイドリヒの諜報組織の一員であるからにはそれぞれスパイでもあるはずの、〈ヘイズルーン〉の兵士たちすらもその男を見た。
「訛からするに中華同胞のようだが、我々は関知されていないアル、どっかのクソ宗主国が活動を制限してくれたおかげネ」
「誰だあれは、同志、中国方面は誰が……地下ソビエトではそんなところまで人を送る金を持っておらんな」
「我が〈ヘイズルーン〉において、エージェントであることを知られるような無能は直ちに粛清される……我々ではない」
「レジスタンスは欧州の諸都市で地下水道の中を走り回るばかりだ。知られるはずもない」
「うちもスパイはスパイでもことが終わったあとの掃除屋だ、現地住民と顔を合わせることは基本的にはない。どうせ〈昭和〉が勝手に顔バレしたんだろ、東洋でのことだ」
「あれは……いや、見覚えはあるがしかし、バレては居ないはずだが……おい、お前ー!どのスパイだー!はっきり言え、ここにいるのは全員スパイだー!」
 その男、ハオ氏の部下であり、元は反北京派、抗日戦線のスパイであったというあの男は、谷じゅうの視線を集めてどぎまぎしながら、まっすぐに川の上流を指さした。彼もまた、半裸であった。
 川の上流。千年たちが居る場所である。ハオ氏のことか、と思うが、よく見れば指先の方向はずれている。その方向、ちょうど千年たちが居るのとは逆側の湖畔の縁に、その男、チャルパは立っていた。巨大な、風呂敷に包まれた荷物を背負って。
「その爺だ!抗日戦線で俺の教育担当だった!基本的に戦線を離脱した脱走者の暗殺が業務だったはずだが――」
 なんだぜんぜん関係ないじゃないか、よかったよかった、バレるはずないよなあ、悪いな〈昭和〉さん、なんでもかんでも疑って……と安堵の声が谷に広がるが、聖柩を知っているものからしてみれば、安堵するどころではない。
「いっひひ、いやあ、壮観じゃな、こんなところで仕事ができるなどスパイ冥利に尽きる。本当のところ、戦線から人員を引き抜いて妙なことをしとる洋鬼子の動向を探り、結果次第で暗殺して帰るつもりじゃったが――日本の密偵が途中でやってきたりドイツ人がきたかと思えば、地下組織とはいえ世界の同業者が一堂に会するとは、大事になったものよ」
 抗日戦線からやってきた老スパイは、そんなことを話しながら背負っていた荷物をといた。そこには、予想に違わず座禅を組み両手を合わせた姿のミイラ、生き仏があった。
「ご老人!それの呪いは本物だ、いやちがう、本物ではないから水につけてもどうともなることはない、こちらに渡したまえ!そんな物水につけたら仏罰に遭うぞ!」
 もう、自分でも何を根拠に話しているのかよくわからない。日本に災いをふりかける聖柩を発動させないため、私は叫んだ。
「宗教は、麻薬である!」
 しかし、かっ、と目を見開いて、老人は叫び返した。抗日戦線。それは、中国共産党の流れを受け継ぐ集団であると言われている。共産主義の残党がいるなど、パルプフィクションの中の話とばかり思っていたが、地下ソヴィエトやらもいるのだ、中国共産党も生き延びていて不思議ではない。再び戦闘の開始されていた尾根の方角から、よく言った同志!と言うロシア語が飛んできて、横からそんなこと言ってる場合か馬鹿野郎、という日本語も飛ぶ。
「ならばそんなオカルト話も信じるんじゃあない畜生め!」
「スパイは合理的、現実的に判断を下す!――これほど多くの同業者がこれをねらっているならば、どのような原理かは知らんが本物なんじゃろう」
 彼もまた、有能なスパイであるらしい。無能であれば良かったのであるが。
 湖の半径は、一キロほどである。湖畔を回ろうと思えば、まだ崖側から走ってきた〈ヘイズルーン〉の部隊がこちらまで到達していないことからもわかるとおり、かなり遠い。
「それじゃあ、種子の発芽を見せてもらおうか――」
 そう言って、チャルパと名乗っていた老スパイは、生き仏を湖に投げ込もうとした。光景としてはかなりシュールであるのに、緊迫した状況であるのが悲しい。
 しかし、その行動は最後まで達成されることはなかった。彼の背後から飛来した金属の矢によって老人の片腕が貫かれ、掲げ持った生き仏を取り落としたためである。一体何が起きたのか。私は対岸に目を凝らす。
「――お嬢さん(フロイライン)!」
 ハオの執務室で彼女のことを必要な犠牲だと言ったことを、私は恥じねばなるまい。そこに立っていたのは、Tシャツにジーンズを着た少女、種子の鎮守者であるメトゥであった。取り落とした生き仏は、彼女の両脇から走り出た谷の少女たちが受け止める。
「……どいつもこいつもスパイばっかで、種子なんだか仏様なんだかもわかんないし、ほんっと意味わかんない」
 さらにその後ろからは、村長をはじめとする村の人々が、生き仏を御輿のようにして崖の道を担いでいく。彼らは、因幡によって逃がされたはずであったのにどうしてここにいるのであろう。私は因幡の方を見返したが、因幡も困惑して肩をすくめるだけである。しかし、因幡の困惑の中には、一種の喜びも含まれているように見受けられた。
「でもね、とりあえず、村の人たちがご神体だか仏だかミイラだか種子だかを見て、それを守んなきゃいけないって言って、動こうとした。それなら、私は“種子の鎮守者”だから、それを助けなきゃいけないって。そう思ったわけ」
 いったい少女は誰に話しているのか。対岸にもどうにか聞こえる程度の声で話しているところを見るに、おそらくは誰にでも向けて話していて、誰に対しても話していないのであろう。
「よくやってくれた!だが、ここは危ない、すぐに戻りたまえ!」
 私はメトゥに向けて叫ぶ。だが、少女は対岸のへりに立ち、腕を組んで両足を肩幅に広げて立ち、叫び返した。
「何言ってんの、私はようっやく、帰ってきたの!」
 それに続き、生き仏を運ぶ途中の村長も、同じく叫んだ。
「そうだ、本当に、あなたには何度も申し訳ない!しかし――守られるだけではなく、我々も戦わねば、やはり、居心地が悪いというものでな、本当に遅すぎた決断だが――」
 それに対しメトゥが、ほんっとうにその通りだわ、と振り向かず叫び、村長はばつが悪そうに顔を伏せた。メトゥは、武器を持った村人や壮士崩れの男たち、少女たちとともに、そのままこちらへと、土手の上を走ってこようとする。その間には、自分たちの目撃者をすべて消さんとするナチの部隊が居るというのに。
 私は、立ち上がり、駆け出し、銃を抜こうとする。しかし、銃はIF中佐の手にわたっているし、私はそもそも足を怪我していて、出血こそ止まっているが、駆けることなどできない。
「さっきからどうしたんです、ヘル……あー、アドルフさん、ちとせさんの話によればあなたはちとせさんと真逆の存在であるはずだが、今のあなたは、まるでちとせさんじゃないか」
 私が駆け戻らないよう腕を掴みながら因幡が問う。そうだ、このような状況は、千年の強迫観念が恐慌を来たす格好の状況だ。千年にとって谷の住民は、最も優先して守らねばならない対象で、そして、ここは無数のナチが居る、危険な空間であるからだ。千年であれば、その状況を解消するべく動こうとする。そして私はそれを馬鹿にして、からかって、やめろというのである。――考えてみれば、私は私のままでこのような状況に立ち会ったのは、初めてではないか。仕事中は、いつでも千年が表に出た状態で有り続けていた。そうであるから、私は、見知った千年の行動と同じように振る舞おうとしているのか?
 疑問が心に浮かんだ、その瞬間、とてつもない眠気が私を襲った。眠気。それは、千年が私と代わろうとしている証左である。私と千年は、意識を失うごとに交代する。そのため、連続して次の日の朝も千年であろうとすれば、途中で一度私が起きる必要があるわけであるが――
 私は、右手で自分の頬を打つ。因幡が驚いて私を見ていたが、彼が次の疑問を口にすることはなかった。湖周をやっと回ってきた崖側の〈ヘイズルーン〉兵士たちが、追いついてきたのだ。このまま背を向けて斜面へ走るわけにも行かない。私は土手の内側、水の溢れつつある湖の中へと入った。元は湖畔であったはずの場所も現在水に浸かりつつあり、アルミかそれに類似した軽い金属であったらしいパネルは、水に流され、周辺を残しほとんどが谷へと流しだされていた。桟橋などはもう見えなくなっている。
 背後で銃撃の音と、それにまじり数発のマウザーの音も鳴る。それで銃撃がやんだのは、マウザーでIF中佐が敵を仕留めたということのようだ。あの妙な形状の古い銃でよくやる、と、思っていたら、まずいまずい、と言いながらIF中佐と、それとともに〈大作戦部隊〉、〈瑠璃はこべ〉の二人も土手を乗り越えてくる。斜面の混成部隊に合流したかと思っていたが、まだできずに居たようだ。
「マウザーが弾切れだ、でかぶつのくせにざまあない、……くそ、まだなのか」
 そんなことをいいつつIF中佐ははなにやら空を見上げていたが、そこにはもう猛禽も鉄の鳥もいない。そんなことをしているうちに後続の〈ヘイズルーン〉兵は土手から上がってきて、スパイたちは水中に逃げられるものは水中に逃げ、逃げられないものは、どの程度の強度があるのかはわからないが、流されたパネルを盾代わりにしてどんどん水が溢れくる中を走る。足場の悪さは、プロテクターやら何やらで自重の重くなっている〈ヘイズルーン〉兵士の足を止める効果があったようで、案外逃げられる。が、斜面側の部隊と合流しようと思えば、斜面の部隊が下流に向けてドイツ人たちを追い詰めているために、遮蔽物のない百メートルそこそこの距離を走らねばならない形となる。どうやら、米英のスパイたちがあちらに逃げられなかったのも、それを嫌ったがゆえのことであったらしい。
 そんな状況の中、ふいに、はは、はははは、という音程の狂ったような声が聞こえてきた。今後に及んでさらに混乱に拍車をかけようという新手の何者かであるのか。私は声の方向を見る。――いや、違った。
「――ははは、はははは!すばらしい、これほどまでに有能なスパイが集まり!なおかつ、あの暇つぶしの半信半疑のオカルトが本物だったとは!しかも都合良く、村の連中までもが来てくれている!これでこそ、私はこの人生に(ハオ)と言える。だからここに集まった諸君――おそらくは世界でも有数に有能な大物スパイ諸君――無能な小物にすぎない工作員であった私の人生の最後、この湖畔に捧げる薔薇の花となり、そして私の大望の礎となるがいい!」
 いろいろ同時に起きすぎて、その中では最も無害な方であったため忘れていたが、ハオ氏だった。彼は、河口付近の土手の上に立ち、谷を一望する形で叫んでいた。完全にこの言語センスは、ハイドリヒ譲りであろう。しかも彼は恥ずかしがっていない。彼の密偵としての主(スパイマスター)を彼は超えたといえよう。しかし、彼はいったい何を言っているのか。――その答えは、彼の右手にあった。湖畔の縁に立ったハオ氏の右手には、あのときやけになった千年が押したのと同じボタン、大岩の発破装置があった。大岩は既に砕かれたはずであったが。……いや、違う。確かに砕かれたが、まだ河口には、いくつかの大きめの破片が残り、水の流れを抑制している。それで、今の水位なのである。
 ハイドリヒの本来の計画では、あの大岩を木っ端みじんに破壊することで湖を空にするはずであった。が、岩は千年が途中で砕いてしまったせいで、いくつかの大きな破片となって残っている。それでも、地下王国側へ水が流入したおかげで湖をいったんは空にすることができていたようだが、地下王国に流れ込んだ水は今はもう満杯になり、地下水系については前述のとおりで、出口が全くない状態である。では、今あの湖を短時間で満杯にするほどの勢いで注がれている水は、大岩の欠片が砕かれればどうなるか――
 一発の銃声が響いた。マウザーのものではなく、ワルサーPPKであった。撃ったのはしかし、私ではない。私の銃は、ハイドリヒの飛行船で没収されたままである。銃を撃ったのは、と見る。水のまだ来ていない場所に立っていたその人物は、IF中佐に他ならなかった。その手にあるのは、やはり、私が無くしたワルサーPPKに他ならなかった。おそらくは飛行船が爆発した際に落ち、そこに現れたのであろう。スーツのジャケットを翻して振り向きざまにその拳銃を撃つIF中佐は、たしかに本人の言のとおり、格好良かった。ワルサーPPKは確かに、IF中佐が愛用しているらしいベレッタよりは大きいとはいえ、小型の部類にはいる。
 ユリウス・ハオは、英国情報部のスパイによってワルサーPPKから発射されたその一発によって、胸に赤い薔薇を咲かせ、湖へと自らの身を捧げることとなった。だが、溢れる水に飲み込まれる寸前、彼の口からは、呪いのような言葉が紡ぎ出されていた。
「私は、先に押したぞ。だからハイドリヒのように、途中で止められる事もない――」
 そしてその体は押し流され、谷へと消えていった。
 ハオ氏の言葉の意味は何であったか。考えるよりも、それが起きる方が早かった。まず感じたのは、轟音と飛び散る水しぶき。一瞬遅れて、地響き。そして降り注ぐ水滴と、無数の石のかけら――
 先に押した。ハオ氏はそう言った。発破の起爆装置は、押してすぐに起動するわけではない。
「そうか、笑い出したところで既に押していたか。やられたな、私の頭から流出したものを数段落としたようなばかげた悪役だと思って油断をした」
 IF中佐の言葉どおりであった。岩がなくなり、湖畔の縁まで達しようと言う勢いで水位を上げていた湖の水は、一気に、谷へと流れ出した。足下の水が退く。それはすなわち、ハオ氏の言うとおり、谷のすべてを飲み込む奔流の誕生だった。
「水がくるぞ!!逃げろ!駆け上がれ!」
 ドイツ語の叫びが谷に満ちる。ドイツ人たちが最も低い位置にいるので、最も死にものぐるいで逃げてくる。しかし、最下流の斜面下側に居た者達は、すでに濁流に飲まれてしまっている。中には最後に残った飛行船に乗り込もうとしたものも居たが、その前に飛行船の船体中に水が入り込み、重みで飛べ立てなくなり、そのまま流されていく。それほどまでに、増水の速度が早いのである。
「どうしたんだこれは、水が多すぎる。全部が谷に流れ込んでも、昔はこんな高さには来なかったはずだ!」
 生き仏を運んで崖の洞窟へ向かおうとしていた村長が、崖の上の道で進む方向を変え、山頂湖へ向けて走りながら疑問を口にしている。確かに、本来は最高水位より上に作られていたはずの家にもいまや水が達し、同様の条件であったはずの崖の道にも波が押し寄せている。その位置より下にいた〈ヘイズルーン〉の兵士たちは、水に足を取られ、押し流されていく。斜面の上方にいた各国のスパイたちも、はじめは大丈夫とたかをくくっていたものの、下流の方で斜面からも水が溢れるにいたり、背後の崖下へ押し出されるのを防ぐため、山頂湖へと避難を始めた。どうも、吹き飛ばしたのは石だけではなく、水源そのものにも直に穴をあけたのではないか。死ぬ前に、面倒なことをしてくれたものである。
「……くぼみ二つ分、谷底が埋まったんだ」
 因幡が、脈絡なく物語を終わらせる機械仕掛けの神のごとき光景を見て、惚けたような、得心したような声を絞り出していた。村伝では下から一〇番目であったはずが、下から八番目になっていたあの抜け穴の位置の狂い。それは、かつて大岩が崩落したときに、共に落ちた土砂で谷底が埋まったが故のものであったのか。
 銃声が響いた。仲間たちが流されているというのに、いや、そんな状況下であるから逆に本来の目的に固執する事となったのか、山頂湖を迂回してきた部隊が、再度攻撃を開始したのであった。ただし、今回は、こちらにしかるべき武器が存在した。
 IF中佐は、湖畔の縁へと躍り出たかと思うと、続けざまにワルサーPPKの引き金を引いた。足場の悪さに歩みを遅くしていた兵隊たちが、銃声と共に倒れていく。――彼の隊員は、彼に、敵がくるから気をつけろ、ではなく、どうにかしろ、といった。どうにかできる力量が有り、それを周知されていた、ということであろう。たちまちのうちに小型自動拳銃一丁で当面の敵をすべて倒してしまったIF中佐は、その手に握ったグリップの感触を確かめていた。どうも、案外気に入ったようである。私のものであるのだが。
「サー!よかった無事でしたか、だから隊員一人二人は付けとけっていうんです!」
 それでも、かなりの心配はされていたらしく、最上流に陣取っていただけに真っ先に逃げて来られた彼の隊員に、格好良く決めたところだったというのにIF中佐は叱られている。その横で逃げてきた謎の武装勢力と隊員が小競り合いをしているのに、なんとものんきなものである。
「ミイラは!村人はどこネ!」
 こちらも比較的上流で戦っていた中華民国国家公安部が、湖畔の縁に立ってあたりを見渡す。やはり彼らも聖柩を心配していると見える。どうやら、ここに集まったスパイたちは聖柩狙い、あるいはその情報を狙って集まったものと見える。
「谷の人民が持っている、だが彼ら、逃げきれんぞ」
 いつの間にかまたコートにサングラススタイルに戻っているチェーカー部隊が答えた。それぞれ、自国の言葉で話しているのに会話が通じているのが、この混乱に拍車をかけすぎている。
 谷の人々は確かに、はじめ生き仏を安全なところに置こうと崖側の道を戻ろうとしてしまったため、逃げ切れていない。水中に避難していたはずの〈大作戦部隊〉が、手首からワイヤーロープをのばして近場の岸へと取り付き、そこから向こう岸へとわたろうとしているが、間に合いそうには見えない。
「クソ、足場が崩れる――メトゥ、長い間すまなかった、君の言葉を一度も聞いてこなかったことを心からわびる、どうか、この生き仏様……あるいはもしかすれば君をこの地に縛ってきたものだけでも、君の手で――」
 一人二人が縦に並んで歩くのが精一杯の崖の道に立った村人たちの、腰あたりまで水位は上がってきている。その高さになれば、大人でも歩くことはできず、村人たちが一人、二人と脱落していく。その中でも、生き仏だけは流されないよう、村人たちの頭上をリレーして上流側へ、つまり、最も高い場所である湖畔に立った状態であったメトゥの手に渡そうとしているようだ。メトゥはと言うと、先ほどと同じく腕を組み、両足を開いて堂々と立った状態でその様子を見守っているが、しかし足は震え、真一文字に引き絞った口の中では歯の根が有っていないのであろう、顎もがちがちと震えている。その両側では、メトゥと共にいた少女たちが、家族が流されるかもしれない光景を泣き叫びながら見ている。
「クソ、間に合わん!」
 〈大作戦部隊〉が湖畔を駆けながら叫んだ、そのとき。村人たちの頭上、崖の道のさらにその上、つまりは急峻な絶壁の上から、複数の黒い縄が下りた。
「……何かしらあれ、ワイヤーじゃありませんわね」
 緊急事態に際し、少しも状況に関係のない細部が気にとまることがある。いつしか英国情報部員と同じ場所に上陸していた〈瑠璃はこべ〉もそうであったのだろう。彼女の言葉どおり、それはワイヤーではなかった。
「……女の髪をより合わせ、油を吸わせ、一本の綱にする。すると、水に濡れても切れることのない、強い綱ができる――」
 感情の動きをこの一日で使い果たしてしまったような声で答えたのは、因幡だった。気持ち悪いですわね、と言う感想が帰ってきたが、それはさておきつまり、そう、それは――
「遅れてすまぬ!〈昭和通商〉営業部本隊ただいま推参、状況がよく分からぬが現地住民の救助に当たる!」
 絶壁の上に無数の影が立ち、一斉に綱を伝って跳び降りた。それは、〈昭和通商〉がこの地に派遣した営業部員の、本隊であった。たしかに、先に入った人々は、先遣部隊と言っていた。プロテクターや防弾皮膜を駆使し、かつなるべくスマートなシルエットを追求した結果、現代版の忍装束のようになった特殊作戦用スーツを纏った営業部員たちは、流されつつあった村人や、流された村人も救出していく。
「遅いよ!何やってたんだお前等、だから何でてめえの勢力圏で一番鈍重な動きしてんだ!こっちは下水道から這い上がってここまで来たんだぞ!」
「もうほとんど終わっている!シベリアに来い!この帰り我々と共に来い!数える木すら最近はないぞ!」
「宗主国やめろー!」
 様々な野次が避難済みの各国地下秘密組織から飛ぶが、まあ、これは、仕方のないところであろう。確かに遅い。飛行機がちょっと、と営業部員たちが口を濁すあたり、どうも飛行機の調達段階であまり堂々とは言えない何かしらの事象が起きたらしい。
 様々な批判を一身に受けつつも、〈昭和通商〉営業部本隊は、村人の救出には成功し、断崖の上に村人たちの姿が並んだ。急峻な地形ではあるが、動かずそこでじっとしているぶんにはどうにかなるようである。湖畔で、少女たちがわずかに残った地面の上に座り込み、手を取って喜び合っている。メトゥも、脱力したように両足を投げ出し、土手の上に座り込んでいた。現在この谷に残った地面は、あの断崖の上をのぞけば、山頂湖の湖畔の縁とその外側の僅かな土地だけである。やはり、地下水として流れていた分もすべて、発破により地表へと流し出してしまったものと見える。水に浸かっていない円形の部分の上に、生き残ることのできたドイツ人たちも放心してひしめき合っているが、ここまでくればもはや小競り合いも文字通り、起きる余地がない。私の眠気は収まっている。救われるべき人間が救われたので、千年の衝動が収まったのであろうか。
「……あれ?」
 こちらも安堵した様子で土手の上に座り込んでいた米スパイが、小型双眼鏡で崖の上を見ながら首を傾げた。
「おーい!〈昭和通商〉!ミイラはどうした!」
 そう言われて、聖柩を知る密偵たちは、崖の上に目を凝らす。確かにそこにはあの生き仏はない。そして、一部で村人がなにやら営業部員に詰め寄っている。非常に、嫌な予感がする展開である。
「はい、自然災害時の緊急避難においては、人命が第一!避難を阻害するほどの荷物は持たないことが鉄則で有りますので、あちらは貴重なものでしょうが、残念ですが下に」
 元は軍人であったたぐいの営業部員であろう、一人が断崖の端に立ち、敬礼をしながら言った。もはや、野次も飛ばなかった。下、とはどこか。山頂湖の縁からスパイたちが目を凝らす。
「あー!あそこ!引っかかってるわよ!」
 おそらく、断崖を上る途中で捨てたのであろう。それは、どう言った具合か、断崖から突き出た岩に引っかかり、水面近くで逆さになっていた。ものが生き仏だけに、やはり緊迫しているのにも関わらず、ひどくシュールな光景となる。
「そのミイラは、謎の武装勢力じゃあないやナチの言うところの聖柩だ!もしくはシュトゥットゥガルトの箱、合衆国では単に力場発生体と言ってる奴だ!どうも、各国の様子を見るにオカルトではなく本物らしい!」
 米国ではそのような名称で知られているらしい。彼ららしい、直裁的な名前である。しかし、それを聞いた〈昭和通商〉営業部員たちは顔を見合わせ、何の話か分からない、と言った表情を浮かべるだけである。――聖柩の発見は、この歴史でもあちらの歴史でも、ドイツ第三帝国の研究室である。それは、この歴史においては大東亜共栄圏にわたらないよう、厳重な機密として扱われている。ここにいるよく分からない勢力のスパイたちがおぼろげにとはいえ知っていてそのためにこんなところに集まっていることの方が、驚愕すべきことなのである。
「とにかく!それは君らの国の進退に関わるすさまじく重要なものだ、回収しろ!」
 分からないままに、営業部員が数名、黒縄を下っていった。スパイは、よくわからなくても一応現実的に判断を下す。しかし。
「あーっ!落ちた!」
 その最中、風が吹き、落ちた。日本、かつては我が祖国を破った偉大な国であった、未来の東亜は中華の元で繁栄するので心配無用ネ、云々の声が飛び交う。今のは、ロシア人と中国人だ。彼らの祖国は、日本の大東亜共栄圏に全面的あるいは一部だけでも組み込まれているので、日本に対して非常にシビアである。
 だが、生き仏はすぐに水に落ちたわけではなかった。偶然にも[#「偶然にも」に傍点]、そこに流れてきていた飛行船の残骸の上に乗り、水に浸かることなく流れていったのである。そうだ、偶然にも。
「……おい、千年。良かったじゃあないか、あの坊さん、お前のことを日本人だと言ってくれているぞ」
 今そんなことを私がつぶやいても、千年には届くはずがない。千年はあくまで私の影、私が表に出ている際はなんの意識もいだきえないのであるから。――いや、先程から少しばかり私に眠気という形で干渉してはいたが。
 偶然にも生き仏が沈まなかった理由。しかしそれは、私のうちにある千年が、自身を日本人である、日本人であろう、と思い続けたことによる成果であろうと私は感じていた。千年の死は、因果の重力場により防がれる。それは、千年が日本人であると自認していて、きっとおそらくは、あの生き仏、あの聖柩のもたらす日本と日本人に対する災いが命に関わることであったが故に、因果が偶然を働かせたのであろう。
 しかし、飛行船の残骸は不安定で、今にも水に浸かりそうでもある。〈大作戦部隊〉が、崖を見つめている。ワイヤーロープを崖に射出して取りにいけるかどうかを考えているのであろう。〈瑠璃はこべ〉も、谷に流れ込む濁流に潜れるかどうかを考えている模様である。IF中佐も河口へ飛び込めるかどうかを測ろうとして、隊員たちに阻止されている。彼ら、ドイツ第三帝国への抵抗を行っている国やあるいは地下組織からすれば、日本は頼りないとはいえ、物資や資金の流入源である。彼らにとっては眉唾物としか思えないはずのオカルト話と自身の危険を天秤に掛ける程度の労力は使ってくれるようだ。が、最終的には自身を危険にはさらすまい。
 あの生き仏が聖柩であるのは確実だ、と私はすでに確信していた。完璧なタイミングで村人の前に現れた、と言うあたりに、死体に残った力場の影響が伺われる。――そして、その力場は今、私の、つまり、私の中で自身を日本人であると思おうとする千年の力場と戦っている。その結果が、あの不安定さであろう。
 今は、千年の眠気は起きていない。今交代されてはかなわないので私は安堵する。千年は私の記憶を共有できない。今交代すれば、説明に不要な時間を取られる。力場は今戦っている。そして、力場は私を中心に働いており、力場は私から遠ざかるほどに弱くなる。このまま流されれば、いずれあの生き仏の因果が私のそれに打ち勝ってしまうであろう。
 実を言うと、千年が自身を日本人であると思おうとしているのは、私がオーストリア生まれのドイツ国籍取得者であるため、そこから遠ざかろうとする衝動によるものにほかならない。その上、日本は今でこそ対立しているといえども、最もナチスドイツの虐殺が盛んであった頃、ドイツと同盟を結んでいた。千年は個々の日本人は好きであっても、日本国そのものをさほど愛しては居ないのである。――となれば、ハイドリヒの時同様、私がやるほかない。
 私は、脇に立つ因幡をちらと見やると河口へと歩いていき、ずいぶんぼろぼろになってしまった党の制服を脱ぎ始めた。流れ行く生き仏を見送っていた密偵たちが、それを見てあっと驚いた顔をした。
「あなた、どこの組織だか知りませんけれど、オカルト話に命なんて張るものじゃありませんわよ、間違った情報がリークされることなんていくらでもあるんですから。私のところは少し事情が違いますが、普通の組織でしたら最悪、見届けさえすれば――」
 そんなことを言って止めようとしてくれるあたり、スパイの割に善人も居るらしい。IF大佐といい、ここに集まったスパイたちは、善人だらけだ。
「ありがとう、だが、あれは、本物なのだ。数さえ集まればひとつの世界を生み出せるほどの」
 ブーツも脱ぎ捨て、乗馬ズボンも脱ごうとしたところで、ハイドリヒの空中戦艦の中で下着を取られていたことを思い出し、ズボンはそのままにする。ここで全裸になるのは、絵的に厳しい。
「私は、日本にそこまでの愛着は感じていないのだがね。……ただ、日本人の友達ができたものでな」
 と、最後に私は因幡に視線をやった。因幡は、今まさに叫び出す寸前であったが、その次の瞬間、私は濁流の流れ出す河口に向かって飛び込んでいたので、彼が何を叫んだのかは分からずじまいだった。

◇白兎は鰐を恐れる

「嘘でしょ、彼飛び込みましたわ、日本の組織の協力者?何考えてますの!?」
 英国の私設密偵団の女性が叫んでいる。
周辺人(マージナルマン)は、より一層本物らしくあろうとするとは言うが……」
 そう評しているのは米国の、こちらもやはり私設諜報組織のエージェントだ。しかし、それらの声は因幡には聞こえていない。なんだあれは。なぜ、敗者たるアドルフ・ヒトラーが、日本のために動く。いや、日本のために、とは言っていなかった。日本の友人、つまり、僕のためにだ。因幡は、呆然と河口を見下ろしていた。
「おい、君も飛び込むつもりじゃないだろうな、日本人が自殺好きというのはサムライの時代の話じゃないのか」
 英国人の中佐が、英国らしい冗談を口にする。当たり前だ、現代二〇世紀においてハラキリ精神で全体に尽くすような発想をするものが居るとすれば、それはよほどの変わり者に決まっている。敗者たるアドルフ・ヒトラーもまた、死なないがゆえに飛び込むことができたのだ。片手を上げ、因幡は飛び込む気のないことをIF中佐に伝えた。
 確かに、彼は、死なない。死なないが、それをするのが彼であるというのはおかしい。因幡のスパイとしての合理性が、千年の本体であるというアドルフ・ヒトラーの行動の矛盾に、警鐘のような違和を覚えさせる。
「……本体と、その一部、という関係で、その一部であるときには本体もその動向を確認でき、干渉できる。しかし、本体の意識へ戻った際には、一部の側の意識は本体の頭の中にはない」
 それが、千年と敗者たるアドルフ・ヒトラーの断片的な説明から因幡が認識した、千年という暗号名を持つ密偵の頭の中の構造だ。――つまり、敗者たるヒトラーの意識は常にある、ということだ。
「それは……抜き型ではない。それどころか、多重人格ですらないじゃないか」
 千年の、あるいは敗者たるアドルフ・ヒトラーが言うように、まったく勝手に発生してしまったヒトラーでない部分が千年であるとしたら、ヒトラー的なる部分とは全く干渉しあわない関係でなければなるまい。しかし千年はヒトラーから干渉を受け続けている。そして、ヒトラー的なるものを避けんとする衝動に駆られ続けている。それは。
「それが可能だとすれば、一部分の抱く衝動、強迫観念とは、一部分のそれじゃあない。本体が持つ英雄願望と救世主願望と自己と自己の生み出したものへの破壊衝動が、ただ隔離されただけのものじゃあないか」
 因幡を囲む密偵たちは、怪訝な顔で因幡を見ている。彼らはおそらく日本語がわかるはずなので、言っている言葉は通じている。しかし、その意味がわからないのだろう。わかるはずもない。
「あれは……真実、アドルフ・ヒトラーなのか」
 その言葉は、ごくごく低く、口の中でだけつぶやかれるにとどまっていた。
 そして、そのことに気づいた瞬間、因幡の背筋に戦慄が走った。その事実は、ウォッチ大佐に知らされてからこちら、千年にも、千年と入れ替わった“敗者たるアドルフ・ヒトラー”にも何度も言われて来たことだ。しかし、これまでは、千年という間の抜けたヒーローのような人格の印象と、飛行船上からあとは、自身の手でハイドリヒを倒した、という興奮に覆われて、しっかりと認識できていなかった。しかも、どうやら彼ら、いや、彼本人が言うよりも完全に、間違いなく、アドルフ・ヒトラーがその本体である、と来ている。そして、それを認識した瞬間、因幡は、この世界のヒトラーが作り上げた帝国の暗部で行われたあの虐殺に思い至った。親衛隊組織の中で秘匿され、隠滅された挙句、ドイツ第三帝国が世界の半分以上をその勢力下に収めているがために表沙汰になっていない、あの話に聞いただけでは信じがたい犯罪行為にだ。聞く話によれば、ちょうど一年前にはベルリンを訪れた分裂アメリカの東側、アメリカ連合国大統領の手にその証拠となる資料を渡そうとする動きがあったとも言うが――結局明らかにされていないということは、成功しなかったか、政治的な理由により影にとどめ置かれたということだろう。アメリカ連合国大統領はそもそも、ドイツより内戦の支援を受けるためにドイツとの友好条約を受け入れたのだ。その土台骨を壊すような真似をするはずもない。
 因幡も、今回の案件が、亡命ユダヤ人に関わりを持つ〈千畝機関〉の実体を探る側面も持っていたため、事前にあの話、ナチで言うところの「ユダヤ人問題の最終的解決」がほぼ間違いなく真実であり、しかし資料という資料が無く、明らかにできずにいる――という話を部長から聞いていなければ、世間の多くの人々と同じく、それは歴史修正主義者の法螺話に違いないと思っていたはずだ。事実、軍人であった頃の因幡は、日本軍が大陸で行ったのと同程度の、あるいは因幡の部隊が便衣兵の潜む村をまるごと壊滅させたのと同種の虐殺は行われたろうが、それは組織的な抹殺、官僚機構全てを上げた民族浄化などではなかっただろう、と思っていた。
 あの千年の主人格、敗者たるヒトラーの世界でもまた、同様の恐るべき行為が行われたはずだ。それでなければ千年が、敗者たるヒトラーの記憶を持たずナチス的なるものを忌み嫌う一部分、などというものが生まれるはずもない。敗者たるヒトラーの世界では、ナチスドイツは敗れたという。ならば、指導者原理により彼の帝国の全ての責任を負う彼は、間違いなく後世、彼はドイツの、いや、世界の恥部のごとくに忌み嫌われることとなるだろう。この世界でも、もしもあの虐殺が明らかになれば、同様の扱いがなされるに違いない。
 自分はそれを、友と呼び、名を親しげに呼んだのか。因幡の背に走った戦慄は、彼の体を寒さとは関係なく震わせていた。そして様々な思索が交錯する。因幡自身もまた無抵抗な女子供の虐殺者だ、という自覚を以前より抱き続けている。その自分が他人の、それも一国の指導者の判断をどうこうと言えたものであるのか。いや自分のそれは彼のそれよりはずっとマシだ、しかし虐殺などというものは、対象となった数の大小でその罪の軽重が変わるものでもあるまい。いっそのこと虐殺者たる自分と大虐殺者たる彼では友誼を結ぶのに似合いなのではないか、いや、だいたいなぜ自分は彼をこうも信頼しきっている、友であろうと思っている、考えてみればおかしい、あの列車の中ではまだ彼を疑っていた、それからただ一度救われ、少女への態度を見ただけでその疑いは消え去っていた、そしてこの谷での行動を見て、より一層信頼は強くなり、彼の正体を聞かされ、当人に話を聞いたことで、彼を信じたい、彼とともに居たいという気持ちは揺るぎないものになっていた――。もしかすると、自分の心中に存在する彼への好意は、彼の持つ力場だかというものに引き寄せられたがゆえのものではないのか。因幡ははじめてそのことに気づき、愕然とした。あるいは、世に言うヒトラーの声の魔力、だとかいうもののせいなのでは。あるいは、この好意は、彼が人を惹きつける魔力を持つなどという伝説性を高めるだけなのでは――
 それらの思索は、一つの声で中断された。
「あなたのお友達、すごいですわね、ほんとにあのミイラを引っ張り上げようとしてますわよ」
 英国私設組織〈瑠璃はこべ〉の女性が言うとおり、千年、あるいは“敗者たるアドルフ・ヒトラー”は、濁流の中、沈むこと無くあの生き仏に追いつき、崖の営業部員と協力してそれを引き上げようとしていた。死なないとはいえ、あれだけの怪我をしたうえで泳ぐのはさぞかし大変だろうに、だ。
「……友達に、見えましたか」
 因幡にこの上なく重々しい声で問いかけられた英国人女性は、藪をつついて蛇を出した時のように顔をこわばらせた。
「あっ、ええと、そうじゃなかったならごめんなさい、でも彼、あなたのこと友達って言ってたから……」
 そうだ。そういえば、彼は自分のことをそう呼んだ。そして、彼があそこでああやっているのは、間違いなく自分のためであるのだ。
「……いえ。たぶん、友達だと向こうは思ってくれてます」
「あら、そうですわよねえ、そう言ってたものねえ。ええと……それじゃ、あなたの方は?」
 藪をつついて出てきた蛇にそのまま足元をうろつかれてしまっているような声色ではあったが、表面上は丁寧に、〈瑠璃はこべ〉の女性は因幡に問い返した。ここに居る因幡のために濁流の中奮闘しているしている男が居て、それなのに因幡のほうが相手を友人だと思っていないというのは、なかなか気の毒すぎる構図になるので、蛇に噛まれる恐れがあろうとも聞いてみたいというものであろう。
「……わからないんだ。とても混乱していて……はじめは、少しも信頼していなかった。だが、信頼したいと一度は思えて、でもその信頼は何か妙な力で抱いたものかもしれなくて――」
 藪からつつき出した蛇が、バネの形になってぴょんぴょん跳び始めたのを目撃したかのような顔で、英国女性は隣に居る同国秘匿政府の気障なスパイを見やった。IF中佐もしかし、この妙な空気には介入したくなかったとみえ、素知らぬ振りで水の上の青い瞳の密偵を見やっている。困ったな、というように女性は濡れて乾きつつあるブルネットの髪を掻き上げた。
「それは、あれですわよ、あなたが友人でありたいと思うんだったら友人で、そうじゃなかったらあんたなんか友達とも思ってない、って尻を蹴っ飛ばしてやりゃいいんですののよ。それだけですわ、それだけ」
 さっさと話を切り上げるために早口でそれだけのことを言い切ると、そそくさと女性は斜面側のまだ水に浸かっていない場所へと退散していった。しかし、その言葉は、混乱に満ちていた因幡の心中に、一筋の光を差し込ませていた。
「……そうだ。僕は、それでもなお[#「それでもなお」に傍点]彼の友人でいたいと思っているんだ」
 ほう、と言う風に一度IF中佐が因幡を見やったが、因幡の妙なテンションに巻き込まれるのが嫌なのは変わらないらしく、気づかれないうちにそっと前へと向き直った。
 なぜ自身があれだけの葛藤をしたのか、因幡はようやくわかっていた。彼は大虐殺者で、その所業が明らかになれば間違いなくアッティラ大王の如くにその名を忌まれ、世界の恥部のその最奥の如くに目を背けられる存在となる。そして彼の帝国のかつての同盟国に生きる人間であり、また自身も虐殺者である因幡が彼に抱く友誼などは、到底目の当てられた代物ではない。そして、この好意の原因は、彼の魔力によるものであるかもしれず、あるいはそう思って彼と接することは、彼の伝説性を不当に高めることになるものであるかもしれない。そしてきっと大悪人としての彼と彼の帝国に対する恐怖の根源となっている、自分のこの知識ですら、当の被虐殺者からすればてんで話になるようなものではない。――だが、僕は、それでもなお[#「それでもなお」に傍点]千年への友誼を、それでもなお[#「それでもなお」に傍点]千年を内包するアドルフ・ヒトラーへの好意を捨てられない!それ故に自分はこれほどまでに葛藤することとなったのだ。間違いなくこの身を裂くような葛藤は、ふと気づいた時に襲い来る、因幡の白兎のような立つ瀬の危うさへの恐怖は、彼へのこの好意を捨てない限り続くこととなる。その確信はあった。だが、こればかりは、抱いてしまった好意ばかりはどうしようもないではないか。
 ああっ、とドイツ人を含む山頂湖周辺に集まった密偵(スパイ)たちの間から、悲鳴が漏れた。もはや、ただの観客(ギャラリー)と化している。見ると、あの生き仏が沈んだらしい。が、水を吸いきっていないせいか、本物だという話だったが、因幡にも崖の営業部員たちにも、なんの異変も起きていない。そして――因幡は見た、生き仏を追って、彼が水中に沈むのを。
 濁流は、今もなお流れ続けている。その濁流の中に、カッカッカッカッとあざ笑うような、あるいは処刑ののために迫りくる銃殺隊の靴音のような時計の音が聞こえた気がして、因幡はそれに反発するかのように、いや、実際に反発をするために、水の溢れつつある斜面へ駆けだした。

◆水中混迷

 水中は、ひどく冷たく、暗い。湖から流れ出た濁流に揉まれているうちは上下の感覚が分からなかったが、一度谷底に背を打ったところで谷底を蹴り、水面を目指す。頭が水面から出た。予想以上に流されている。水面を見渡すが、あの生き仏の乗った残骸は見あたらない。平泳ぎでさらに下流へと進む。飛行船の残骸の上に浮かぶもしかして既に通り過ぎてしまったか。
 その予想は当たっていた。水中で振り向くと、水面にて、飛行船の残骸の上にちょうど座禅を組む形で生き仏が流れている。やはり、どうしたところでシュールさは免れ得ない光景である。
「よし、掴んだ!」
 飛行船の残骸が流れ着くまで濁流に逆らって泳ぎ続け、私はその残骸を掴んだ。しかし、ここからどうするのか。私は頭上を見上げた。〈昭和通商〉営業部員たちが垂らした黒縄がそこにはあったはずである。確かにあった。しかし、その縄は、水面に顔を出しているだけの私の手には届かない。
「――お主!いずこの組織のものか分からぬが恩に着る!よくわからぬがそれをこちらに渡せ!」
 頭上から声が降る。営業部員たちが、生き仏を受け取るべく待機してくれていたのだ。いくら各国混成状態になっているとはいえ、自分たちの地下にいる組織のスタッフがどこの組織のものか分からない、というのはひどいが、協力してくれるに越したことはない。しかし、水面に浮かんだ状態で生き仏を持ち上げることが困難で、私は営業部員たちの居る場所からすぐに流されてしまう。が、営業部員の方もさすがに、情報には泣けるほどに疎いがここに派遣されてくるだけのことはある。壁面の黒縄から黒縄へ飛び移り、あるいは黒縄を握って壁面を走り、追いついてくる。縄を下ろした場所がとぎれるのではないか、と思ったが、どうやら断崖の上に残ったスタッフがその都度縄を下ろしているようで、その点は心配がないようである。
「お主の後ろに岩がある!それに背をつけて止まるがよい!」
 営業部主力部隊長であるらしき営業部員が言ったとおり、私が流されている場所から五メートルほどの下流に、岩が飛び出ている。脇へ流されないよう気をつけながら、私はその岩に背をつけた。向かいくる激流が、私の動きを阻害する。しかし、背をつけた岩に両足をつけ、やや上へとずり上がるようにすれば、水中で泳いでいる状態よりはるかに生き仏を持ち上げやすかった。主力部隊長が岩の上に下りてきて、私の肩越しに生き仏をしっかりと手に取る。それをさらに、黒縄から逆さに吊り下がったほかの営業部員の手へと渡す。
「よし、よくやってくれた、後はお主が上がれば――」
 主力部隊長がそう言ったときだった。
「うわあっ!」
 生き仏を受け取った営業部員が、そんな声を上げて落下した。激流の音でほとんど聞こえなかったが、プシュ、という、サイレンサーのついた拳銃の発射音が確かに鳴り響いた。
「何奴!」
 主力部隊長が振り向きざま、飛苦無を投げた。しかしその飛苦内も、拳銃で撃ち落とされる。千年は、さらに下流にて、断崖の上から下ろされたワイヤーロープを掴む一人の少年を見た。灰色にくすんだ金髪とくすんだ青い瞳を持つ、シベリアの冬のように冷徹な顔の少年、当人曰くロシアの殺し屋、IF中佐曰くの〈スメルシュ〉の少年である。
「君らの国は、ボクの祖国を半分に裂いた。さよならヤポンスキ、その坊さんの呪いが本物なら。本物じゃなかったらまたいずれ会おう」
 かつてソビエトと呼ばれた地域は、いまや大半が大管区モスクワとなり、残る東の海岸線沿いの一部、かつての戦争で日本が到達できた地点までを日本が領有している。それはごく一部の面積であるが、ロシアの人間からすれば、それでも占領され、分割されていることに代わりはあるまい。少年はそして、ワイヤーロープの持ち手のボタンを押すと、一瞬のうちに断崖の上へ消えていった。
 少年を追おうとする営業部員を、主力部隊長は止めた。所属国家は分かっているならば、今追う必要はない。それよりも、落ちた生き仏だ。本物であるはずなのに、水に落ちてもまだ営業部員たちが健在であるところを見ると、まだ私の因果の重力場は生き仏のそれに勝っているようだ。私は岩の影から出て、再び流れに乗る。
「もういい、もうかまわぬ!我が大日本帝国にとって重要な品であろうと、失うのは拙者の責任だ!どこの国の方かは知らぬがお主がそこまでする必要はない!」
 激流に混じり、主力部隊長の声が私の背を追う。こんなタイミングで主力部隊長の衝撃的な一人称が判明してしまったが、そんなことはどうでもいい。
「あれが!水に浸かると!日本人が!私の友人が死ぬのだ!」
 その言葉を、営業部員たちは理解できなかったであろう。私でさえ、因果の重力場による異能とかつての世界の記憶がなければ信じなかったところである。しかし私は、この谷に今集まったもの、あるいはこの世界のなかで私だけは確かに、それが本物であることを知っていた。人工的なそれでさえ、膨大な数を集めれば一人の人間を転生させ、あるいはこの世界そのものすら作り出してしまう力を持つのである。では、天然のものであれば。一つで、一つの国の人間を本当に死滅させることぐらい、簡単にできるに違いない。
 生き仏は、水の上にそのままの形で浮かんではいたが、確かに沈んではいなかった。考えれば、ミイラというものは乾燥している。表面の具合によってうまい具合に水がしみこまなければ浮いてくれるらしい。
 左足が痛い。痛いというなら、顔も痛い。肋骨も痛い。この世界が、比喩的あるいは観念的な意味でなく無数の死体の上になり立つことを知って、やけになって爆弾を至近距離で爆発させ、ラインハルト・ハイドリヒに斬られ――いや、怪我の大半は千年が自分で爆発させた爆弾のせいであるが、とにかく体がぼろぼろであることには変わりない。しかし、水を掻く手は止まらない。まるで、千年の[#「千年の」に傍点]あの強迫観念に憑かれたかのように。
 私の手が、浮かぶ生き仏に追いついた。相変わらず、光景のシュールさだけは拭えない。営業部員たちは、と断崖を見る。まだ追いついてこれていない。流れが速すぎて、黒縄を下ろすのが間に合わない様子であった。
 ともかく、あまり水に触れさせるべきではないだろう。そう思い、私は再度生き仏を持ち上げるべく、生き仏に手を触れようとした。その矢先である。
 再びサイレンサーの音。狙われたのは私ではない。生き仏だ。何度も言うが、シュールすぎる。しかし、緊迫している。
「表面が水をはじいて沈まないなら、穴をあければいいよね。今度こそバイバイ」
 もはや私は、少年の声の方向を見ることすらしなかった。その後もサイレンサーの音だの飛苦無を投げる音だのが鳴っていたところを見ると、私に向けても銃を撃っていたのかもしれないが、それは勝手に防がれるので問題ではない。私は生き仏に手を伸ばす。しかしそれは、ついに空けられた穴から水を吸い、ぶくぶくと沈み始めた。私はそれを持ち上げようとするも、乾燥していればいざ知らず、水を吸えば元は人間一人分の質量である。水中で、おぼれた人間を助けることがどれほど困難かを思えば、それを引き上げることの困難さは想像に難くないであろう。
 営業部員たちが何かを叫んでいる。きっと、もういい、と言っている。しかし私はそれを聞かない。
 ――そういえば、千年も人の話は聞かなかった、千年が危ないことをしようとするたび、何度もわかっただろうなわかっただろうわかったかと言い過ぎてその種の言葉が口癖になってしまったほどだ。
 私は、それを見ていた。水中に没した生き仏、数百年以上前にどこかの海の上で故国を呪いながら死んだであろうふだらくとかいの僧侶の遺体、それが水中で、奇妙なほどに優しくほほえむのを。私は水中へと迷うことなく潜り、沈みゆく僧侶を追う。
 ――まあ、私も言うまでもなく、人の話を聞かないくちだが。小さい頃は、神話の英雄のように[#「神話の英雄のように」に傍点]、あるいは救世主のように[#「救世主のように」に傍点]なりたくて、危ない遊びをしては、こんなことをしちゃだめよわかったわねわかったでしょうねと母に叱られたものだ。
 そんなことを思い出した途端、なぜこんなことをしているのか。不意にその疑問が沸き起こった。友人のためだ。私を友人と言ってくれた彼のためだ。それはわかっている。だが、なぜそんなものに私が囚われる?私は、アドルフ・ヒトラーだ。私を友と呼んだものは居た、しかし彼らですら最後には裏切ると私は知ってもいる。疑念が心の中に広がりながらも、しかし私を突き動かすこの衝動のようなものは、私を水底へと駆り立てるのである。
 私が水底へと進む速度より遙かに早く、僧侶は沈んでいく。必死に水を掻く私を見守るように悟りきったような表情を浮かべて。浮力がある分、私はなかなか底へと進めない。肺の中の空気を私は吐ききった。どのみち、死なないのだ――
 ――いや。私はその可能性に気づいていた。本当は気づいていたが、気づかないふりをしていたのである。私の因果は、自分の手に握ったワルサーPPKの銃弾の他では死なないと言うことに特化し、確定しきっている。しかし、真っ向から効果が相反する願いを叶えんと因果を引き寄せる力場によって、私の因果が動いてしまったらどうなるか。わかるだろうか。
 谷の深さはどのくらいであったろうか。水圧がひどい。肺に水が入ったようだ。しかし僧侶には届かない。
 ――わかるだろう。死ぬのではないか、と思うのである。全く予想のしない、未知の原因によって。
 死ぬ。そうだきっと死ぬ。こんなに苦しいのは初めてである。それでもなぜ私はこんなことをしているのであろうか。知っている。それは、谷の上のあの友人、私のことを友人と呼んでくれた彼のためである。しかし――元から私は、友を殺すような種類の人間であった。そしてその後、平然と、友でもあり部下でもある、私の意のとおりになる都合の良い「友人」を作る男でもあった。それなのに、再び友を失うのは嫌だ、という強い思い、それが私を駆り立てている。まるで、強迫観念のように。
 遠くなっていた僧侶の姿が、一瞬、近くなった。おそらく、水底について一瞬、跳ね返ったのである。僧侶は、目の覚めるような赤色の、高位のラマ僧のような袈裟を身につけ、水底で座禅を組んでいる。ずいぶんと老齢の僧侶だ。老僧は、それが故国を呪う人間のする表情なのかと思うほどに穏やかな表情でほほえみながら、口を開いた。いや、その穏やかさは、もはや人を超越しきった、虚無にも似た恐ろしさをたたえていたかもしれなかった。
 ――そして私は見た。念仏でも唱えるように口を開いた僧侶の口から、種子が芽吹く[#「種子が芽吹く」に傍点]ように、片側に葉の生えた一本の蔦が延び来るのを。
 やめろ、やめろ、殺さないでくれ、私はやはり彼を救わねばならない、そうだやはり救わねばならないのだ、友人を殺してはならない、あの日の身が裂かれるような思いを繰り返すのは嫌だ、あの日とはいつだ、忘れもしない一九三四年の七月二日のことだ、そうだ、私がアドルフ・ヒトラーが友人を殺したのであるから私は友人を救わねばならない、なんだこれはまるで本当に千年の強迫観念ではないか、なぜ私はこうまでして死ぬ思いまでして私のかつての行為に相反することをしようとする、水底だというのに眠気が急激に襲う、ここで交代されれば元も子もないやめろ眠るんじゃない、私はやはり彼を救わねばならない、なぜなら、
 ――
 なぜならアドルフ・ヒトラーとは世紀の大虐殺者であり大犯罪人であり彼から遠ざかることこそが彼の行為のどこまでも逆を行うことこそが英雄的な行為であり救世的な行為であるからだ!
 ――――
 叫べるはずもないのに千年(わたし)は叫ぼうとした。(かれ)の肺の中に、水がいっぱいになる。これは本当に(おれ)は死ぬに違いない。浮き上がれそうにもない。だが、私は強迫観念、そもそもそれはいったい誰の強迫観念か、ともかくこの体に満ちた強迫観念に憑かれたように、僧侶から芽吹いてしまった蔦を引きちぎろうとした。その蔦はほのかに光を発している、やめろ光るんじゃあない友人は助けねばならない、そうすることが英雄的で救世的な行為であるから、そうだ、私はつまり私の世界の私の記憶を持って生まれてしまったレーベンスボルンで生み出された一人の赤子はそれが私であるからして英雄のように救世主のようになりたかった、しかし私は私の記憶を持っていてしまったがゆえに私を忌み嫌った、私は私が英雄ではなく私が救世主ではなく私が大犯罪者であり大虐殺者であることをいずれ必ず世界の恥部として扱われるであろうことを知っていたわかったわかってしまったがゆえに私の記憶を持ちつつ赤子の脳赤子の情緒であったがゆえに私から遠ざかろうと私の抜き型のように振る舞おうとして私の記憶を忘れようとして私の記憶を持たない偽物の人格を生み出したそれが千年だ私の[#「私の」に傍点]強迫観念だ!
 ――ようやっとわかったんか、このアホが。せっかく人が気ぃ付かんように代われ代われ言うとんのに。
 頭の中で声が聞こえる。千年が私に話しかけている。それは不可能であるはずなのに。いや、これは私が隔離していた私の衝動が、ついに私との境目を超えてきたがゆえの、幻聴か。
 ――それで、どないする。もう聖柩は発動した。お前も俺も、止められるもんやない。
 蔦はちぎれない。そもそも、私があるいは俺はあるいは千年はもはや、せいぜいそれこそ赤子が大人の指を握るほどの力しか出せていない。私は死ぬ。俺は死ぬ。千年は死ぬ。敗者たる一次的存在たるアドルフ・ヒトラーは死ぬ。
 ――そうや。お前のお前に対する破壊衝動、お前の持つお前が生み出したものを壊さなあかんっちゅう強迫観念、それが俺やからな。境目がなくなったら、そうなるほかないわな。しんどいまねをよく、一〇年もさせてくれたな。一人でネロ指令実行させよって。
 ネロ指令。私、一九四五年四月三〇日に死んだ私が、私が作り上げた帝国の終焉に際し、帝国にあるすべてを焼き尽くすよう壊し尽くすよう出した命令である。千年は、簡単にしか知らないはずなのであるが。いや、境目がなくなったのだから、千年もまた私の記憶を持っているのか。それは――それはとても、申し訳のないことをし続けたものである。このいびつな世界を一〇年も這いずり回らせてしまった。そういえば千年ははじめから、私のために動いているかのようなことを時折口走っていた。それは、明確に気づかないまでも、私のせいであのような強迫観念に駆られていることに無意識のうちで気づいていたがゆえの言葉であったのか。
 私の体が水底へと沈む。もはや友を救うという希望、いや、ただの私が私から遠ざかるための強迫観念も叶う見込みはない。あたりは、きっと聖柩の発動に伴うものであろう、水草のようなものに覆われてしまっている。私は、このまま死ぬ。また、あの時と同じく何事もなせなかった哀れな男として。死ぬ――いや、本当にそんな必要があるのか、と、私の中の、最後まであがきたいという醜い性根がささやく。死ぬ必要など無いではないか、落ち延びて、どこかに逃げればいい、何となれば南米にでも。
 ――そうだ、敗者たるヒトラーですらつまり俺つまり私つまり千年と呼ばれるこの体の中に入っているアドルフ・ヒトラーですらきっと一次的存在ではない本物の影写しの偽物ではないか。なぜならば私は単なる別個の体に写し取られた記憶であり真実ユダヤ人を虐殺し自国民を虐殺し最後に自分の国すらも焼き滅ぼそうとしたあの本物ではない。本物は聖柩などによって偽物のしかしとてつもなく楽しい世界で冒険活劇を繰り広げずただ惨めにあの焼け落ちるベルリンで死んだただ一人の当事性の欠片も残っていないアドルフ・ヒトラーだ。私は俺はつまりここで今まさに語っているアドルフ・ヒトラーですらも二次的なただの偽物だ、ならば私のこの衝動はこの一つの時代の強迫観念は単なる杞憂に過ぎないのだ、そうだそれならばもう何もしなくていいもう何も悩まなくていいどこまでも何も振り向かず褐色の鰐の上で鰐が水底にて何を食い殺したかなど気にもとめず白兎とともに水面に踊ればいい!
 私は水面に浮き上がろうとする、しかし私は浮き上がらない。
『――当たり前だよねー、最後に取ってつけたようにアドルフ・ヒトラーが死ぬんじゃなきゃ、水底も見ずに褐色の鰐の上で踊り狂うトンデモ系のナチスものなんて辻褄合わせらん無いもんねー』
 なにやら、本格的な幻聴まで聞こえてしまったが、ともかく私の体は水底に横たわったままだ。その視界に、ああ、どう言うわけであろうか、鰐が、褐色の鰐が見える。そうか私は何も気にする必要がないと思ったとたん、足を踏み外し鰐に食われようとしているのか。いや無論こんなところに鰐の居るはずがない。いつしか水底は一面、水草であろうかあるいは葦のたぐいであろうか、何かが芽吹き、一面、それに覆い尽くされていた。鰐は、葦の中を這いずりよってくる。その鰐からかすかにチクタクチクタクと時計の音が聞こえる、そうだ鰐は時計を飲んでいるものと相場が決まっている、そんなわけがないそれは私が知っている童話の話だ、つまりこれは私の幻覚だ。そして幻覚の褐色の時計鰐の口が私の喉元へと食いつこうとする――
 その瞬間、私は、何かの重力場に引かれるように、水底の更に下へと落ちていた。すでに暗かった視界が、更に暗くなる。ああ、千年に変わるときの感覚だ。いや、違う。千年は私の衝動だ、そしてその衝動はただの杞憂だと私は信じた、ゆえにただこれは、意識を失っているだけだ。そしてその視界はすぐに明るくなる――

◆交叉時点にて

「……アホなことしよって、その上結論がそれか」
 そして、聞き覚えのある、あまりにも聞き覚えの有りすぎる声が私の耳を打つ。と、思った途端、私の頬に衝撃が走った。殴られたのである。
「なんやようわからんが、ようやっとお前のことを、自分経由でなく殴れるよってな、嬉しすぎるからもう二、三発行かせてもらうで」
 宣言通り、私は更に数発、私の上に馬乗りになった男によって殴られ続けた。私の上に馬乗りになった男は――脱色による金色の髪を長く伸ばしてその顔を隠した、西洋人の外見でありつつ似非関西弁を使う奇妙な密偵、千年という暗号名(コードネーム)で呼ばれる彼は、私を殴ることができた喜びに満面の笑みを浮かべ、私を見下ろしていた。
「……なんだ、これは」
「俺に聞くな、わかるはずないやろが」
 私の目の前には、私と同一人物であるはずの千年が立っていた。今回の仕事の最中に髪を切ったはずなのに、以前通りに長い髪で。では私は、と自身の髪を触る。短い。それも、千年が適当に切ったままではなく、本当の歴史、我々の歴史においてアドルフ・ヒトラーがしていたのと同じあの髪型である。
「お前の髪、黒なっとるわ。……まあ、わけのわからん空間っちゅうことやろうな」
 そう言って、千年はあたりを見回した。そこは、帝国ホテルの一室のような、やや大時代的な内装の、普通の部屋であった。ただ一点を覗いては。
「……うわ、時計とかめっちゃ嫌な予感しかせえへんやん」
 そう、この部屋の四方の壁には、鳩時計にからくり時計、デジタル時計、はたまたどうやって時刻を見るのかもわからないようなものまで、大量の時計がかかっていたのである。時計、というごく普通の一般名詞に、千年も私も、現在は嫌な予感しか感じなくなっている。
「えっあれっなんでキミ、ウォッチ大佐のウォッチルームにいるのー、今すごい焦ったよウォッチ大佐史上二番目ぐらいに焦ったよー。見張りを見張りに来たのー?」
 予想に違わない声が聞こえてきて、千年の顔が盛大に歪んだ。私の顔も、同じ表情を浮かべていたことであろう。
「えーと、このパターンはあれだよねー、とりあえずプリン出さなきゃいけないんだよねー」
 ちょうど私と千年から見れば、ベッドを挟んだ向こうの床に座って、板状のモニターに映る、どういうわけかあの谷底の映像を眺めていたらしいウォッチ大佐は、服装を、特にズボンを正しながら立ち上がった。プリンを出してくれるつもりであるようだ。
「いらへんわそんなもん」
「いらん、食いたくない」
 往々にして意見が一致しないことばかりの私と千年の意見が、珍しく合った。その男、ウォッチ大佐は黒い時計で隠されていない方の目を悲しそうに歪ませて見せたが、すでに奴に対する一抹の同情心も、私の心にも千年の心にも残っては居ない。
 案の定ウォッチ大佐はすぐにいつものふざけたような表情に立ち戻ったかと思うと、自分の左目を隠す黒い懐中時計を巻き、何やら遠くを見るような目をした。
「えーと、あー、ウォッチ大佐の監視(ウォッチ)用ワニワニデバイスがぶつかったからこっちに飛ばされちゃったんだねー、ごめんねー」
 何やらそれで、何かがわかったらしい。が、わからないので千年と顔を見合わせて首を傾げあっていると、
「つまり、そっちのうじ虫以下のあなたが、一九四五年に死んだヒトラー閣下様でー、こっちのオオカミくんが、レーベンスボルンで生み出された赤ちゃんってことだよねー」
ものすごく当たり前のことを言われて、首を傾げる角度がさらに大きくなった。
「あっそうかそれじゃわかんないよねー、つまり、ここ、交叉時点の隅っこにこっそり作ったウォッチ大佐の超絶ステキ世界監視用秘密基地ことウォッチルームには、人間がもつ因果律が自我を核にして飛んでくるんだよー。ウォッチ大佐もウォッチ大佐本体はあの谷の安全なとこに居るのねー」
 以前千年がウォッチ大佐の名が英語であることを不思議がっていたが、どうも、見るという意味のウォッチと時計という意味のウォッチを引っ掛けただけの、非常に簡単なダジャレであったらしい。心底、人を食ったような言動しかしない男である。
「因果律……私の力場が引き寄せるものだな」
「そーそー、それって、基本的に人間個々人に割り振られててねー、大雑把に言っちゃうとそれが絡み合って歴史ができるんだよねー。ほんとは物とか粒子にも複雑に因果が絡み合ってるんだけど、それはまあ、この場合無視していいかなー」
 良くはわからないが、とにかく意識だけがここに来た、というようなものであると私は解釈した。が、隣で千年は首をひねっている。
「せやけど、そうやとしたらなんで俺が、こいつと別個でここにおるねん。俺、こいつの一部分やで」
 確かにそのとおりである。千年は私である、とつい先ほど水底で思い出したばかりではないか。
「うん、そうなんだけどねー、因果律がここに来るときに核となる因果律の持ち主の自我が、あなたには存在したけど、キミとあなたの体の場合存在しなかったからー、その代用でまだ別個の状態だったキミが核になったんだねー、すごいねー」
 よくわからない。千年もわからない模様で、眉の間に深々と皺が刻まれている。ウォッチ大佐は、しばし考えていたが、やがて背後を振り向き、モニターに向けてリモコンを操作した。すると、そこには、白い内装の研究所の中、金髪の女性に抱かれる赤ん坊が映し出された。その研究所には、見覚えがある。その女性にも、見覚えがあった。つまり、それはレーベンスボルンで生み出された勝者たるアドルフ・ヒトラーのクローン体、私であり千年である赤ん坊が母体である女性に抱かれている光景に他ならなかった。
「これが、君たちの体だよねー。ほんとはこの赤ん坊には、年齢相応の記憶が蓄積されて年齢相応の自我が発達するはずだったんだけど、あなたの記憶が入っちゃったから、あなたはそっちのキミをあなたの中に生み出しつつあなたの記憶に基づいた自我を形成した。ここまでOK?」
 私と千年は同時に頷く。……体を共有しているせいか、どうも反応の仕方やそのタイミングがあってしまうようである。顔も一緒だし、あまり横にいて気持ちのいいものではない。向こうもそう思っていることであろうが。
「そんじゃ、この赤ん坊の因果律についても、自我と同様、本来のものが存在したはずだよねー。でも、やっぱりあなたが中に入っちゃったから、前の世界から引きずってきた自分の確定しきった因果律を引き連れた力場が周囲に形成されて、死なないチートになった。でも、完全に発生を阻まれちゃった自我とは違って、この赤ん坊の本来の因果律は、あなたの確定した因果律に押しやられて、あなたの力場に歪まされて見えなくなってるだけで、存在してはいるわけだよねー」
 それでようやく、はじめにウォッチ大佐が言いたかったことが理解できた。つまり、千年はレーベンスボルンで生み出されたこの世界のヒトラーのクローン体それ自体の因果律として、この場に居るわけである。
「わかったみたいだねー。それじゃあ、帰してあげるねー」
 ウォッチ大佐は伝えたかったことが伝わったことに満足した模様で、さらにリモコンを操作した。が、何やらうまく行かないようで、画面にあの谷の水辺の様子が映っているだけである。――そこに私は、彼の姿を見た。黒髪を丁寧に撫で付けて、メガネをかけた青年、いや、いまは黒髪は濡れて頬に張り付いていて、メガネもどこかに流されてしまったらしく、かけていない。因幡は何をしているのであろうか。
「……お前を探しとるみたいやな」
「そのようだ。つまり、お前もだ」
 ウォッチ大佐はリモコンの電池を変えているので、その映像は流れたままになっている。奇妙なことに、時折画面にノイズが走るたびに、映像はもうひとつの映像と切り替わる。もう一つの映像とは、同じ谷で、山頂湖の周辺のスパイたちが、おそらくは本国との連絡をとっているのであろう、とてつもなく緊迫した表情を浮かべている映像である。そして彼らは、それぞれのもつ通信機器から聞こえる声を聞きこちらの状況を伝え、そして時折、胸を掻きむしり凄まじい形相を浮かべたまま事切れた、彼らと同じ場所に居た日本人たちの死体へと目をやっている。
「あー、これ、そういうことか、キミの力場が今頑張ってるんだねー」
 ウォッチ大佐の説明で、私はすぐにその意味を了承する。
「……これは、いずれかが来るべき未来である、ということかね」
 それは、谷の上で今後起きる可能性のある、二つの未来を示しているものであると思われた。つまり、聖柩となった坊主が最後に願った、水に浸かった時には自身を呪いの種子として芽吹かせ、祖国へ災いをもたらす、という呪いが発動した未来と、そうでないままに終わることのできる未来とである。それは、私の体があの坊主のミイラの近くに沈んだままであることから、未だどちらの状況にも確定していないのであろう。
「ん、そゆことねー。……でもあなた、もういいんでしょー。友達を助けようとするのはほんとのヒトラーであるのがやだから抱いた強迫観念の産物で、自分はでも、ほんとのヒトラーじゃないからそんなものに駆られなくてもいいってさー」
 やはりこの大佐は、どうも、人が口に出しても居ないことを勝手に読み取る能力があるらしい。いや、こんなところ、本人の言が正しければあの力場の流れ出る元であるはずの交叉時点の片隅で、因果律がどうのこうのという話をできるゲルマン忍者を相手に、その程度のことで驚くのもおかしな話であるが。
 しかし、たしかにそうであった。私は、隔離していた千年という私の衝動、私の強迫観念から逃れたいがために、私がアドルフ・ヒトラーであることを否定した。それは、私を友と読んでくれた彼を見捨てるということでもある。
 私が、次第に切り替わる速度を増していく画面を見ながら立ち尽くしていると、隣で咳払いの音がした。千年である。――今思うことではないかもしれないが、やはり、私の顔には長髪も、金髪も似合いはしない。
「なんやお前、水ん中でも色々考えとったみたいやけどなあ。お前、水へ飛び込むとき、俺が何も邪魔せんかったの、覚えてへんのか」
 ――水へ飛び込むとき。確かに、私の中で湧き上がる眠気、私の中で隔離していた千年という衝動は、私を苛みはしなかった。つまり、あれは、アドルフ・ヒトラー的なるものから離れたいという私の強迫観念による行動では、なかったのである。
「つまりやな、お前、単にアキカズくんを助けやなアカン、思て飛び込んだねんで。その後で俺がお前の一部やっちゅうことに気づいてぐちゃぐちゃになったみたいやけど。それにやな」
 千年は、大きく息を吸い込んだ。ウォッチ大佐いわく、現在は実体のない自我のみの存在であるというのに、息を吸う必要があるのかどうかはわからない。言葉をしゃべる前には息を吸うもの、という強い先入観があるのでそうなるのかもしれない。
「アホかお前、なんで友達助けるんにそんなアホみたいな理屈考えるねん、お前、何年かぶりに友達できて嬉しかったんやろがアホ、それやったらさっさとどうにかしてあの坊主の呪い止めてこいやアホお前アホやな!」
 ここ数日、他人から数年分の馬鹿という言葉を浴びせられ続けた腹いせのように、いや実際腹いせであったろうが、挿入できる場所全てにアホという言葉を挿入して、千年は一気にまくし立てた。そして、私の背を叩く。――これも、私の衝動に駆られた、ということになるのであろうか?しかし、全く辛さのない衝動である。そうだ、認めたのならば何も辛いことはないのである。私は、それを認めたくなくて蓋をし、隔離したがために、より衝動は、強迫観念は私を守るために純化し、特化してしまった。私は、アドルフ・ヒトラーである。たとえ影写しの存在であっても、その名で呼ばれ、その記憶を元に再構成された存在である以上、どれだけ偽物であろうと、私はアドルフ・ヒトラーなのである。それは、それだけはけして否定することができないのである。そして、私がこの世界に生きるアドルフ・ヒトラー、偽千年紀のアドルフ・ヒトラーである限り、私が私によって生み出されたものを消し去りたいという衝動、私が私によって不幸になったものを救わねばならないという強迫観念は、けして私から離れることはない。それならば、私はそれを知り、その手綱を握ればいいだけなのだ!
 しかし、止めろと言われても、この場でどうすればいいのか。数歩、ベッドを回り込み画面の方に踏み出したところで、私はその薄い板のような画面から一つの時計、それは地球儀を模したものであったが、その地球儀型の時計へと何やら配線がつながっていることに気がついた。それをよく見ようとしたところで、
「それが世界の選択か――敗者たるアドルフ・ヒトラー、いや、今は我が総統と呼ぼう。ならば、取るべき方法は一つ、たった一つの冴えたやり方、冷たい方程式の解を使うほかあるまい……って言ってもぶっちゃけどうすりゃいいかわかんないんだよね、ここほんとにただ見るだけルームだから、いや、やろうとおもったら多分交叉時点へ潜入して狂気排出用の磔刑台へ一瞬別のものを乗っけりゃ良いんだけどあそこ超警備が厳重だからってあっちょっとそれは磔刑台と一緒の素材だから触ったら世界がまずいっていうかうわーこのタイミングでコケるの!?」
ウォッチ大佐があのふざけた言葉遣いをやめ、何やら格好いいことを言い出したので思わず私はそちらを向いて、しかし途中でその言葉遣いをやめてしまったものだから、その拍子に、私はベッドの下に押し込まれていた雑誌に躓いていた。何やら、綺麗な絵の描かれた表紙だったので、思わずそちらに注意をやってしまったのが悪かったらしい。こみっくろってなに?と千年が問う声が聞こえたが、それよりも私は、私が躓いて転んだその先に、まさにその地球儀型の時計があり、見たところガラス製にしか見えないそれをいかに壊さず倒れるか、ということに全神経を集中させていた。その結果、私はその地球儀型の時計を、一体どういう反射神経の賜物であったか、空中に放り投げていた。
「わーだめこれはだめだ世界終わる絶対世界終わる申し訳ありませんプロイセン家のみなみな様ならびに歴代皇帝陛下がたヴィルヘルム二世陛下様除く皇帝陛下がた」
 人をつらぬき歴史を動かす力場を発生させる場、世界の中心、交叉時点(クロスホエン)の片隅に勝手に自分の部屋を作れるレベルの能力の持ち主であるくせに、根は全くぶれることなくプロイセンの御庭番であるらしいウォッチ大佐は地面に伏して、一名を除いた彼の仕える一族に許しを求めている。そんな暇があれば、時計が落ちないよう少しでも努力をしてもらいたいところである。
「ちょ、なんで投げるねんアホ、チャップリンかよアホ、割れるやないかアホ」
 その地球儀型の時計がどういう意味を持つものであるのかはわからないが、ともかく落としてはまずいらしい、と判断した千年が地球儀を拾うべくスライディングする。手で受けたかったのだろうが、予想より自分が滑りすぎて、背中と尻の間あたりに落ちてきたそれを、千年は尻で跳ね上げた。
「跳ね上げてもまずいだろうがアンポンタン!そっちこそチャップリンの真似してどうする!」
 しかし、案外時計は丈夫で、そのまま再び放物線を描く。その放物線の先は――見るからに硬そうな木で作られた、机の上である。私はその無駄に豪華な机の上に飛び乗り、やんわりとそれを受けようとする。――その際、完全にチャップリンの映画じみたポーズをとっていて、映画同様、地球儀は粉々に割れるのではないか、という危惧が生じたが、しかし、鳴ったのは、
『カチン』
という、何かがはまり込むような音だけだった。そして、私の両手の中で地球儀型の時計は、割れることなくコチコチコチコチコチと音を立てていた。一瞬その中に、箱舟と出会う大きな商船の姿を見たのは、私の幻覚であったのだろうか。床の上で祈りを捧げるように両手をすり合わせていたウォッチ大佐が、フリードリヒ大帝に感謝を捧げている。そこは私に感謝するところであろう。千年は、安堵からかスライディングをしたのと同じ場所で仰向けに寝転がっている。
 そういえば、とあの映画の中で私をからかいきった喜劇王と似た体制のまま、私は思い起こす。私は、あの映画を二度鑑賞した。そして――これが、果たして本当にあの世界の私がそう思ったことの記憶であるのか、それともこの世界のこの私が、赤ん坊の情緒となり千年を隔離するまでの間に映画の記憶を元に思ったことであるのかは分からないが――劇中、大独裁者そっくりのユダヤ人の床屋が大独裁者と入れ替わり、最後に演説を行うことで戦争を止め、世界に平和をもたらし、大独裁者の国が行う迫害をも辞めさせたあの映画のように、私の国の行う全てを止め、ただ恋人と手を取り合えればどれだけ素晴らしいことであろう、と思った。あるいは、それを行ってくれる私と同じ顔、私と同じ声を持つ誰かがいればいい、そう思った。それを、思い出していた。
「千年。……お前はもしかしたら、私にとっての床屋のチャーリーであったかもしれない」
 私の記憶を共有するに至った千年は、私の言わんとすることを理解したようであったが、床の上でにやりと笑ってみせるだけで、いかなる感想も口にしなかった。そういえば、衝動として隔離されていた千年は私の持つ要素を身の回りから可能な限り排除していたが、顔と声についてだけは、そこに宿るかすかな能力も含め、排除することなく使用していた。――案外、あちらの世界から連綿として続いているはずのこの記憶にも残らないほどものの分別の付かない、本当に小さな赤ん坊であったころの私は、本当にそう思って、後に千年と呼ばれるこの愛すべき衝動、手を取り合うべき強迫観念の種となる存在を頭の中に生み出したのかもしれない。
 ウォッチ大佐はというと、不可解だと言わんばかりの表情を浮かべながら私のもとに歩いてきて、まるで細菌兵器でも触るかのような手袋をはめて地球儀を奪い取った。大佐はガラス製の地球儀型時計の中に見える無数の歯車を色々な角度から眺めていたが、やがて、何かがわかったらしい。
「あっ。――そういうことなんだねー。あの坊さん、とっくの昔に当事性のかけらも残ってなければ自我も霧散しきってて、記録もあの不明確な文章だけだからねー。どっちつかずだっただけなんだねー。人の居ない森のなかで落ちた葉が表向いてるか裏向いてるか、みたいなもんだったんだねー。そこに来てみんなが呪いだ呪いだって言うから因果のほうが変に影響受けたんだねー。ジーンダイバーかよー。で、あなたの因果は確定してるからこの地球儀を触っても一瞬なら排出されなくて、むしろ力場で坊さん本来の因果を再認識させて確定……遠い過去のことまで確認だけったっていじれる力場なんてでも……ああそうか、ここは世界の中心、全てがはじまりつつある場所だったんだよねー。これだから幸運系チートはやだよねーかっこつけて恥ずかしいよねー恥ずかしいからさっさと帰ってねーウォッチ大佐今監視(ウォッチ)しつつ超くつろぎモード入ってたんだからねー」
 最後あたりは、吐き捨てつつまくしたてつつ叫ぶ、といったような口調であった。どうも、邪魔されたくない時に邪魔をしてしまっていたらしい。ウォッチ大佐は私から受け取った地球儀型の時計を再び薄いモニターにケーブルでつなぐと、リモコンのスイッチを押した。その瞬間、再び周囲は暗転し私は、千年は浮き上がる――

◆発端の光景

 これは、斥力に押されるような、水面に浮き上がるような感覚の中で見た幻覚、あるいは夢である。ゆえに、これはただ、ここまでに得た情報を勝手に脳が処理した結果の、想像に過ぎないであろうと思う。
 ――これは想像である。想像の中で、海の上を漂流する一つの普陀落渡海の船は波に揺られ、今にも沈みそうになっている。その中では一人の僧侶が、自分をこんなところに押し込め、死へと向かう旅路に押し出したものたちを、そして自身の故国を呪い、その呪いを文として彫りつける。彼は死ぬはずであった。しかし、死へと向かうはずの旅路の中で、彼を一つの力場が貫いた。そう、そうでなければおかしいではないか。あの文章は、たしかに僧侶本人を主語としていた。僧侶は、生きて、あの文を彫らなければならないのである。
 力場に貫かれたものは、恐るべき強運を自らの周囲に引き寄せる。今にも沈みそうだった船は、沈まなかった。死ぬはずだった僧侶、彼は、何らかの理由により、もしかすれば中国の貿易船が通りかかり拾い上げられたことで、死を免れた。彼はきっと祖国を呪っていたであろう。なので、日本へ戻ることはなく、大陸へと渡った。
 大陸へと渡る際、どう言うわけか彼は自身の乗っていた船を運んでもらっていた。力場に貫かれたものは、狂気ににた、狂気そのものの行動力を得る。その狂気は彼を、彼に死をもたらすはずであり、また呪詛の象徴でもある船とともに、彼の死出の道の名目上の目的地であったふだらくへと駆り立てた。力場に貫かれたものは、もしその行動力を覇道へと向ければ世界の何分の一かを支配するに至り、自身の考えを人に広めようとすれば、後の数千年間欧州史を動かし続ける世界宗教の始祖になりうる。たかが小舟一つを運びながらどこかにあるやもしれぬ聖地を探し続けることなど、それに比べれば遙かに簡単なことだ。
 これは想像である。そうやって存在しない聖地を探し求めた僧侶は、やがて、大陸の奥の奥に存在する、普陀落と同じ名を持つ山、ポタラ山へと至った。しかしそこは無論、本物の普陀落ではなく、仏教に言う浄土の景色、山もなく谷もない穏やかな場所とも異なる、草木すらほとんど生えることのない、急峻な自然に囲まれた土地であった。ポタラ山からも彼は足を遠ざけ、さらに大陸の奥、さらなる未踏の地へと向かう――。
 これは想像である。力場に貫かれたものは確かに狂気に似た行動力を得る。しかし、どれほどの行動力、どれほどの強運を得ようと、普陀落渡海の時代、現代でさえも到達するのに数日を要するチベットの奥地へ、それもまっすぐに向かったのではなくおそらくは各地をさまよい歩き続け、その果てにそこへとたどり着いたときには、僧侶はもうかなりの老齢であったろう。彼が最後にたどり着いた地は、頂上の湖から膨大な水の流れ出続ける、この谷であった。その時代はまだ普楽と呼ばれていなかったこの土地で、彼は死を迎える。力場に貫かれたものは、劇的な死を迎えることが多い。あるいはそれは、人によっては物質的なものではなく、精神的な劇的さであったかもしれない。死を迎えるこの土地で、かつての普陀落渡海の僧侶、この土地のものからすれば外からやってきて奇妙な船を引きずってきた、自分たちの知らないことを多く知った老ラマ僧は、今まで受けたことのない歓待、今まで受けたことのない尊敬を受けたのではないか。ともかく、この地にて彼は死を迎えた。死を迎える前、彼の狂奔の原因、彼の狂奔の元凶であり、そして彼の呪詛の象徴であった船を、彼は地中深くに埋めた。もしかすると、土地の者にその呪詛をどうか鎮め続けてやってほしい、と伝えて。
 これは想像である。そして彼はこの地で、彼が本来迎えるものとよく似た入滅の仕方をもって、死を迎えた。それは、小さな箱の中に入り地中へと埋められ、死のそのときまで経を上げ続け生き仏となる方法であった。そこで彼は、あるいは再びあの力場に打たれた。力場とは、そのような偶然を可能にする因果の重力場にほかならない。あるいは――力場を浴びるとともに死を迎え、死を迎える瞬間に願いを具体的に強く思えば聖柩となる、というのは、あくまでも、シュトゥットゥガルトの一件での女工の証言と、その追試験で再現された状況がそうであったために、それが絶対の条件であると思われていただけである。あるいは、一度力場に打たれた人間が死を迎えるにあたり何らかの、条件までが明確な願いを思い描き続けていれば、それはすべて、聖柩になるのであったのかもしれない。考えてみれば、キリストの遺体に聖なる力が宿る、というのは有名すぎる話ではなかったか。
 ともかくそうやって聖柩になりうる状態で、聖柩になりうる願いを、老僧は願ったのであろう。それがなぜ、自らを種子としこの谷を緑で埋め尽くすことであったのか――それは、想像に余る。だが、あるいは、そこまであえて想像の翼を広げれば――次のようなやりとりでもあったのやもしれない。
 僧侶はこの土地に着き、この地で行われる鳥葬を見る。それは、いかに各地の習俗を見てきたとは言え、日本に生まれた僧侶からすれば余りに残酷な風習である。彼は言う。
「おまえたちの、あの葬儀の方法は変えることができぬのか。せめて水に流す方法もあろう」
 鳥葬は、草木の少ないチベットで、貴重な木材を使わぬ方法として採用された埋葬の方法である。水も、ここでは良くても下流の水が汚れることとなる。村人は首を振り、そのことを伝えたろう。そしてこう言ったかもしれない。
「ラマ、あなたの国では人を荼毘に付すために燃やせるほど草木が生い茂っていたのですね、まるで浄土、本物のポタラのようだ」
 ――これは想像である。想像に過ぎない。ただ、確かなのは、彼が死に際してこの谷を緑で覆い尽くし樹木を生やすことを願い、また、それを記した石碑に、同時に普陀落が何処にもない、と書き記したことだけである。普陀落が何処にもないとの言葉はしかし、彼の狂奔の原因からすれば、まさにそれこそが入滅に際し、安寧をもたらした悟りであった、のかもしれない。

◆大団円・そして俺の名は

 ――そして、咳込むと言うよりは、吐き出すような咳が肺から喉へとせり上がり、それが収まるのにはしばしの時間がかかった。水が肺に入りすぎているのである。しかし咳込めている。空気が吸えていた。
 てっきりあの小部屋に落ちる、あるいは吸い込まれる直前と同じ状態に戻るものとばかり思っていた。一体なぜ空気が吸えるのか。辺りを見回すと、あたりには、植物が生えていた。チベットには、草木はほとんど生えない。ではここは一体どこか。
「あっ、勝手に息吹き返しましたわよ彼!なに、本当に彼死なないんですの?」
 口調は乱暴であるが、言葉遣いそのものは貴族のそれのように丁寧な〈瑠璃はこべ〉の英国女性がそんなことを言いながら駆け寄ってきた。では、ここはやはりあの谷であるのか。――確かに、よく見れば地形そのものはあの谷であり、今居るここは、斜面側であるようだ。向かい側の崖にも、岩の隙間に生えられるだけの草が生えているので印象が変わりすぎ、見た限りでは気づかなかった。
「ねえ、これすっごいですわよねえ、あの坊さんのミイラが水に浸かってしばらくしたら変な蔦が出てきて、それが光ったと思ったらぶわーって。草が水吸ったからかしら、一気に水も減って、最後にあれがずどーんと生えて、それでもうおしまい。ありえないですわよね、それが聖柩の力ってことみたいですけれど」
 立ち上がると、おおよその谷の景色が一望できた。そこは、〈瑠璃はこべ〉の女性の言うとおり、緑に満ち溢れていた。今居る谷の斜面側と崖側は前述のとおりであるし、明らかに水量の減った谷川からも各種水草や葦のたぐいが吹き出しており、山頂湖の周辺には茂みが並び、のみならず山頂湖そのものに至ってはど真ん中からまっすぐに一本の木が立っているのである。おそらくは、あの木が湖の底をぶち抜いて根を張ったことによって水の逃げ場ができ、水の奔流が止まった――ということであろう。
 聖柩によって草が芽吹いた谷では、濁流で下流の方へと流されていたハイドリヒの飛行船やロシア人たちが乗ってきたカリーニン7にまで草が生い茂っている。その乗員にはご愁傷様と言うほか無いであろう。カリーニン7に至っては、草むすと妙に風情があって、とても似合っているのがおかしい。
「あ、そうそう、あれ、あなたあれに乗って浮いてたんですのよ。すごい偶然ですわよねえ。横の友達と一緒に」
 あれ、と英国女性が指差したのは、草に覆われた水面、そこに浮いた一隻の船であった。船は木造で、それに使われている木材は随分と古い。だがそれよりも、横の、と言われた先に横たわっていた彼を見て、交叉時点で見たあの映像を思い出す。そして彼、因幡が意識を失っているものの、生きていることに心からの安堵を覚えた。聖柩に宿っていたのは、日本への呪いではなかったのである。
 英国女性によると、因幡は水が引かないうちに水へと入り、そのまま姿を消した、かと思えばあの古ぼけた船ですぐに浮かび上がってきたそうであった。
 その船は、斜面に打ち込んだ飛苦無に結びつけた黒縄によって繋留されていた。どうやら、引き上げるにあたっては〈昭和〉の営業部本隊も協力してくれていたらしい。
「おお、旦那、もう息吹き返したんすか、すげえなあ、さすが本職のスパイさんはタフっすねえ。旦那がた、ハオんとこで組み上げたこれに乗ってたんすよ、物凄い偶然ですよねえ、奇跡ですよもうこれは」
 おそらくは疲れきっているであろう因幡を起こさないよう静かな足取りで船の繋がれた場所に降りていくと、その船、普陀落渡海の船の小屋部分の中から、そんなことを言いながら壮士くずれの男が顔を出した。あの、チャルパがスパイであると叫んだ、元抗日戦線スパイの男である。元スパイ、元ハオ氏の部下であるその男は、どうやらあの時ハオ氏に呼ばれて普陀落渡海の船を組み上げる手伝いをしたうちの一人でもあったらしく、自分が組み上げた船を眺めては、奇跡ですよね奇跡、もう俺仏門に入るしか無いですよね、と何やら人生の転機に差し掛かっているようであった。
 この、普陀落渡海の船に乗って浮いていた。つまり、あの浮き上がるような感覚は、まさに浮き上がる感覚に他ならなかったのである。偶然にもこの船がハオ氏の地下王国から水によって流され、谷に押し出され、更には偶然にも谷底の岩か何かに引っかかっていて、偶然にも、水草が芽吹くにあたり草によって押し上げられ、偶然にもその上に沈んでいた二人の体を乗せ、浮き上がった――と言ったところであろうか。確かに、あの力場のことを知らなければ、御仏のもたらした奇跡、とでも思うかもしれない。
「あっそうだ旦那、もうひとつこいつに文章が書かれてたんすよ。……『此の船こそ我が倭を呪う心なり、此処に埋めん』……かな?たぶん意図を汲んだら。文法がおかしいな、いくら古い時代でも中国人が書いたもんじゃなさそうですが、なんすかねこれ。あ、学者先生じゃないんだから聞いたってしかたないっすよね」
 普陀落渡海の船は、水流にさらされ、船体についた泥が完全に洗い流されていた。なので、あの二つの文、「ふだらくいずこなりや」「これいかなるみほとけのみわざなりや」という文章の隣にもう一つ存在した文章が、見て取れるようになっていたのである。こちらは掘られた時期や使った工具が違うのか、より細く深い線であり、また、使われているのがすべて漢字、すなわち漢文――中国人であるこの壮士くずれ曰く文法がおかしい、と言うのであるからおそらくは、因幡が読み解いたあの石版と同じく日本人が雰囲気で書いたものだったのであろう。
 水に浮き上がるさなか、あるいはあの世界の中心に存在する小部屋から戻ってくる最中に見た幻覚、あるいは脳が作り出した想像は、概ねあたっていたようであった。つまり、あの石版に書かれていて、どうやらメトゥたちの村にもその完全ではない写しが残っていた文章の「倭を呪う心」とは単に船のことであり、聖柩の条件とは関係が無かったのである。つまり。条件は「水が来る」、願いの内容は「私が種子となり芽吹く」であったのだ。言われてみれば、どうとでもとれる文章である。やたらとあのミイラが沈みづらかったのは、力場同士が戦っていたことによるものではなく、ミイラの坊主が死んだ時点であの坊主の生前の因果、普陀落渡海にて水中に没しなかったという因果が確定し、「水には沈まない」という性質を持つ事になったせいであったのかもしれない。元スパイの男は感心しきっているが、いくら最後に大団円の元となったとしても、遺言はきちんと残せ、としか言いようがない。そのせいで数百年の後、こんな大変なことになったのである。
 水際から斜面を登っていく途中に気づいたが、どうも、水に入る前よりもあたりには、スパイたちの数が増えているようであった。聞こえてくる言語の数が、明らかに増えている。そのため、彼らが集まっている山頂湖には、各国各勢力のスパイたちが集まってなかなかの壮観を見せていた。どうも、先にパーティに参加していた面々から話を聞き出そうとするものばかりであるところからすると、ことが落ち着くのを待って、あとから情報収集に当たり始めた勢力がはるかに多かったと見える。が、先に居た面々も、何が起きたかなど教えてやる義理もなく、めいめいの判断に従ってその辺りの草木を採集したり、その場で本部に連絡を取るという形で後発組を無視している。
「種子が芽吹くって……本当に、文字通りだったわけ……誰よ呪いとか言い出した奴、いや私の先祖のはずなんだけど……無駄に文字の意味だけ読めるもんだから……」
 山頂湖のほとりに突っ伏してそうつぶやいているのは“種子の鎮守者”メトゥである。確かに、それが発端となって、いや実のところはおそらくハイドリヒのそれとない誘導もあったろうが、ハオ氏がこの谷にやってきて訳の分からない事業を初めてしまい、七年を費やしたあげく湖がレーザー兵器に改造されたかと思えば飛行船が墜ち、世界中のスパイがやってきて小規模な世界大戦を繰り広げた結果がこれであるというのは、メトゥでなく昨日からここにいるだけでも、倒れ伏したくなる。
「いやあ壮観ではないかね」
「はははそうだなあこれはもはや奇跡だ」
 ロシア人とドイツ人が、なぜかどこから持ってきたものか、やけくそのように酒を酌み交わしている。航空機が駄目になって帰れなくなった物同士で、休戦に至ったのだろう。かと思えば、なにやら営業部員たちが騒がしいと思ったら、
「こんなことを可能にする物体があるという話は聞いていないぞ、そんな力が向こうにあるのであればどれだけこちらが追いつこうとしても技術が追いつかぬはずだ、西側への諜報網はどうなっていた!これは伊賀衆の怠慢だ!責任者の更迭を求める!」
「なにを言うか!怠慢と言うならば大陸での情報収集は甲賀者が独占しておったろう、この状況を招いたのは甲賀の怠慢である!きっちり報告書にこのことは記載させてもらうぞ!」
何か、よく分からない派閥争いを繰り広げている。派閥争いを越えてなにやら忍法合戦でも始まりそうな雰囲気であった。訓練機関である中野での指導教官の影響であるのかもしれない。が、その争いは、断崖のてっぺんに乗せられた村人と、くっついてきていた壮士くずれの男たちのうち、黒縄を伝って降りることができない大半の者たちからの救助を求める声で、いったんは収まったようであった。
 と、影が落ちた。プロペラが風を切る音も聞こえてくる。今更にどこかの諜報機関が来てしまったのだろうか、と見上げた先に、鉄十字がペイントされた小型の飛行船が見えた。撤収の準備をしていた〈瑠璃はこべ〉、〈大作戦部隊〉が体を堅くしている。今更、ハイドリヒの部隊に増援などが来られても困る。今まで酒を酌み交わしていた相手であるロシア人たちなどは、貴様ら謀ったな、とグラスを叩き割っている。
 しかし、ドイツ人たちの反応は芳しくない、どころか崖の道へと走り、逃げだそうとする者までいる。その反応でおおよその事態が理解でき、スパイたちは緊張を解く。
「さあ、ようやっとデウス・エクス・マキナだ、もう少し早く来てほしかったものだがね」
 IF中佐が、そんなことを言いつつ上空を見上げている。はじめからこの事態を知っていたと見える。そうであれば、元から言っておいてほしかった。
 その飛行船は、おそらくは湖におりたかったのであろう。しかし、そのど真ん中に大きな木が一本生えてしまっているので、船体は尾根へと降下してきた。そのハッチが開き、数人のドイツ人将校が草地におり立つ。聖柩が存在するかもしれないと聞き及んでいたためか、彼らはチベットではありえない景色にもさほどの戸惑いは見せず、ハイドリヒの私兵たちを見るとまっすぐにそちらへと歩いていった。
「ハイドリヒは……この分であれば、死んだのであろうな。直ちに武装を解除し恭順せよ、これは総統直々の命である」
 先頭に立っていた老軍人がそう声をかけると、逃げようとしていたドイツ人たちもその意志を失ったようであった。その老軍人の顔には、もちろん見覚えがあった。この世界では、あちらでの経緯と違いシュタウフェンベルク大佐らの総統暗殺未遂事件が無かったため、嫌疑を掛けられることもなかった、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将である。その二つ名は“密偵使い(スパイマスター)”。複数人の密偵を使役するものの呼び名そのものが彼個人を意味するのである。少なくともドイツの諜報関係者の中では雲上人のような存在であり、総統命令を持ってこなくともハイドリヒの私兵たちは彼に従ったことであろう。なるほどこれは、無理矢理に一つの芝居へと幕を降ろす“機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)”と言うほか無い。
「うわあ、すごい、本物だ、生きてるんだなあ」
 他国の密偵たちもそう言って、カナリスの命令に従い武装解除をし、飛行船から下りてきた兵士たちに拘束されていくハイドリヒの私兵たちを眺めている。
「やあ、こんにちは……おはよう?ずっと空を飛んできたからここの時刻が分からないんだが、とにかく各国のみなさん、うちの国の金髪山羊野郎がご迷惑をおかけしました。あ、これお詫びの品です」
 カナリス提督についてきていた小柄な男が、そう言って各国混成密偵部隊の立つ山頂湖へと駆けてきた。妙にテンションが高く、楽しそうである。こちらの顔は知らない。ここにいる以上諜報関係者で、見たところ世代的にはハイドリヒの部下出身あたりかと思われるが、着ている服もただのスーツであるため所属や階級も測ることができない。男の手には紙袋がある。横から覗き込んでみたぶんに、そこに詰め込まれているのはどう見ても日本の温泉饅頭であった。後ろからも、同じ物を大量に抱えた親衛隊員について来させているところを見るに、一組織に一つではなく各組織の全スタッフに行き渡らせるつもりと見える。が、密偵たち、特に〈ヘイズルーン〉と交戦したものたちは脱兎のごとくに走り出すか、服装がそれを許す者はただちに上着を頭からかぶり、不可能な者は顔をその男から背けて隠している。当たり前だ、基本的にパーティに参加した組織は、ドイツへの抵抗組織あるいは敵対国家の組織である。饅頭にも何か仕込まれていそうで、自由にとって行ってくださいと言われても誰も手を着けようとしない。
「いやあ、この場では敵味方はナシですよ、これは本当に気持ち程度のものですから」
「……ドイツでは気持ちを表すのに発信器と盗聴器を箱に仕込むのか?」
 ダイバースーツを上にずらして顔を隠しているために非常に珍妙な格好になっているアメリカの密偵が、率先して饅頭の箱をその場で開け、そこに仕込まれているものをしめしつつ言った。
「あれえおかしいなあ、あはは、きっと製造工程で混入したのでしょうね」
 言うまでもないが、パッケージは商品として売られて居るものと比べても何一つ異変が見受けられない。この分であれば、饅頭そのものにもなにが仕込まれているか分かったものではない、と思っていたら、米国の密偵が開けて放置した饅頭を、横からとって食べた者がいた。ロシア、当人たち曰くのチェーカー部隊の一人である。酒を酌み交わしていたのでアテでもほしくなったのであろうか。彼らは元からサングラスと帽子で顔を隠しているので、そのままの姿である。
 しばし、周囲は饅頭を口にしたロシア人を観察していた。彼はもぐもぐと饅頭をかみ砕き、そしてそこで
「うっ」
と喉を押さえた。やはり何か仕込んだな、毒か、すぐに吐き出させるんだ、とあたりは騒然とする。が。
「……おいしい……甘い物なんて何ヶ月、いや、何年ぶりか……」
 あまりにも定番過ぎる展開であるが、おいしかったらしい。見たところ、ただの草津温泉の土産物にしか見えないのであるが、そう言えば地下ソヴィエトの面々はシベリアに帰るとかなんとか言っていた。きっと、食糧事情がひどく悪いのであろう。
 ほかの組織がもらおうとしないためにロシア組が温泉饅頭の中身だけはすべて貰っていった。きっちりその場ですべて中身を半分に割って調べるあたり、一応職業意識はきっちりしているらしい。チェーカー出身であれば当然か。自分たちもさんざん同種のことはやってきているであろう。
「全部持ってくなら義理で、一つぐらいは発信器持って行きませんか?あとからおまけで拠点への空爆がくっつきますよ」
 饅頭を持ってきた男は、もう意図を少しも隠そうとせずにそんなことを言っているが、誰がいるか、とすげなく返されている。当たり前である。
 そんなことをしているうちになにやら山頂湖へと崖側から足音が近づいてきたかと思えば、〈昭和通商〉営業部によってやっと崖の上から降ろされた村人たちであった。よく見れば、一緒に壮士くずれの男たちもいる。元の景色をよく知っているだけに、彼らはいきなり緑化されてしまった故郷、あるいは長年の職場周辺の様子を気味悪そうに眺めていた。中でも、村長のドージェに至っては、久々に帰ってきた故郷が一面寄生虫博物館にされていたような顔を浮かべていた。そもそも彼の決断によってナチのテーマパーク化していた谷であるのだから、密偵と草だらけになっている程度でそんな反応をされても困る。
「メトゥ!――」
 惚けた様相の村人たちの中から、ただ一人、感慨のあまり口に出すべき言葉を探しあぐねながら、少年が走り出てきた。ドージェの息子、ニマである。彼は、湖畔の縁にしかめっ面を浮かべて座っているメトゥへと駆け寄っていく。むずがゆくなる青春であった。
「――結婚しよう!」
 言葉を探しあぐねた結果ニマが口にしたのは、そんな言葉であった。何故かドイツ語であったのは、彼の年齢であればその言葉を使わされていた時期が長いせいか、あるいは、ドイツ語の響きに格好良さを感じたせいであるかもしれない。そのため密偵たちにもその言葉の意味は伝わり、口笛を吹く音や、やるねえ少年、とか、青春だなおれは死ぬ、とか、うわああああああああ、とか、ぐあああああああああああ、とか、誰か殺してくれえええええ、とかいう声が次々あがる。どちらかと言えばダメージを受けている者が過半数の様相であった。密偵は、あまりいい人生を送れていない者が多い。
 しかし。少年が少女の前で両手を広げたところで、
「ぶふっ」
少年、ニマはそんな声を上げた。メトゥが、少年の顔面に見事なストレートパンチを入れたのであった。当人は、おそらく、メトゥを抱き上げてくるくると回る、と言うのをやりたかったのであろう。頭の中ではそうしている様子で両手を上に掲げ、一人でくるくると回っている。よくやったよくやってくれた、そういうことを簡単に言う奴は軽いから将来絶対浮気するぞ、どのみちその年でそんなこと言ってても五年後には別れてる嘆くな少年、等々というあまりにも大人げない歓声が挙がってくるあたり、密偵という職業が人の心をどれだけゆがませるものか伺えると言うものであろう。ちなみに、両手を拘束されて一本のひもにつながれている途中のドイツ人たちからもそんな声が挙がってきていた。そういう者の存在は、万国共通であったようだ。
 目を回したニマは地面に倒れ伏し、そこで自分が描いていたビジョンが達成されていなかったことに気づいたらしく、理解できないと言う顔でメトゥを見上げている。
「馬~っ鹿じゃないの!?ニマ、あんた、私と何かあった!?」
 ニマがドイツ語をつかったせいか、こちらもドイツ語で返答がなされた。
「えっあのっ、昨日の夕方ぐらいに、この村を出るように言おうとしました!」
 少年の返答は、なぜか敬語である。しかも、昨日のあれ以前にも何らかの積み重ねがあるのかと思っていたら、無かったらしい。衝撃の事実であった。
 メトゥは体の方向を変え、ニマと村人全員に向き合う形で、息を吸った。
「言おうとした、だけで、言ってないよね!?私のとこに来てないよね!?それは!何も!ないの!っていうかねえ、私この村出るから!」
「えっえっ、でもようやく帰ってきたってさっき」
「帰ってきても!出て行くことはあるでしょうが!それともニマあんた帰ってきたら二度と家から出ないわけ!こんな村!先祖は馬鹿だし!ミイラの坊さんがタネとか絶対おかしいし!なんで緑化してんのこんなとこが!絶対すぐ枯れるし!七年あんたら何やってたの!何もないところ掘って!たまに下から中に入ったときにいちいち発掘作業がすっごい大変だどうか種子のことを教えてもらえないか、みたいなこと言うからちょっと心配してたけど!今見たら、怪我してる人はいるけど誰も減ってないじゃん!外から中へ入ろうとして死んだ鎮守者もいたのに!馬っ鹿じゃないの!鎮守者もだいたい全員馬鹿だけど!何でだれもちゃんとした言い伝え知らないの!ちゃんとした言い伝えもないのにタネ掘り起こしにきたハオも馬鹿だったし!雇われる方も馬鹿だし!村伝に生き仏のことがあるのにタネの形と結びつけられなかった私も馬鹿だし!あのポーズしかタネの形について残してないのも馬鹿だし!もーやだ!絶対今日中に出る!家水没してるし!草生えてるし!」
 どうやら、かなり、溜め込むものがあったようである。つくづく、あのミイラの坊主は正しく遺言を残すべきであった、としか言いようがない。そこまでを一気に叫び終えると、メトゥは各国密偵たちのところに歩いてきた。
「さっきの聞いてたらわかると思うけど、私、ドイツ語できるから、どっかで雇ってくれない?ドイツ語とチベット語の組み合わせ、レアだと思うんだけど」
 ここで、諜報組織を相手に就職活動を展開するつもりであるらしい。メトゥがドイツ語を喋ったのは、そのためでもあったのである。捕まえられた〈ヘイズルーン〉の兵士たちが、ドイツ語とチベット語なら〈ドイツ祖先遺産協会(アーネンエルベ)〉あたりが重宝するんじゃないかな、等と言い始めて、あわててドイツへの抵抗組織が大半であるパーティ参加組織の者たちが顔を隠しながら止めにかかる。止めるために自組織へ勧誘するので、引く手あまたの状態である。それぞれの組織の年俸や昇給体制を聞いているあたり、ナチ側へ渡らなければ大丈夫であろう。村人たちの間には、かなりいかんともしがたい空気が漂っているが、これはばかりはまあ、仕方有るまい。自業自得は自業自得である。――そう考えると少しばかり心にささくれ立つものがあったが、それでも、人の心ばかりは仕方ないであろう。
 そのとき不意に、無数のエンジン音と、空を裂く音が聞こえてきた。頭上に無数の、空を覆い尽くすような大量の航空機がやってきていたのである。こればかりはIF中佐もなんの勢力かわからないらしく、その有象無象の航空機を見て首をひねっている。
 集まってきた航空機は、大半が民間の小型機であり、どれもこれもこんな高度に飛んでこられたのが不思議なものばかりであった。いや、中には一機だけ、比較的大型のものがある。これもやはり、この高度に飛んでこられているのが不思議な旧型輸送機、DC-2という古い米国の機体である。
 上空に飛来した飛行機のうち何機かは、尾根への強行着陸を計ろうとした。しかし、DC-2が低空を飛んでそれを阻止する。下は斜面であり、しかもそこには後発で到着した組織のものであろう、いくつかの草が生えていない航空機がすでに無理やり着陸しているので、その間をあの輸送機ですり抜けるとは、パイロットはかなりの技量の持ち主に違いない。
『聞こえるか、上空の機体!下に、ドイツの諜報員がいる!繰り返す、ドイツの諜報員がいる!降りるな!降りるなら顔を隠せ!できれば体格も隠せ!もう状況はすべて終わっているから降りる意味はない!』
 そんな声が聞こえてきたのは、IF中佐の腕の腕時計型無線と、その部隊員の無線からであった。チャンネルが同じであったらしい。その声には聞き覚えがあった。まさか。そう思っているうちに、DC-2は湖の、そう、直径が二キロほど有るその湖の真ん中には巨大な木が生えているというのに、その木の周辺を周回させるような動きで、湖の上に着水を敢行した。近くで見ると、その機体には薔薇の花をあしらった紋章が描かれている。なんとも洒落ものが乗っている……と考えるには少しばかり老朽化とつぎはぎが目立ちすぎる機体であるので、単純に、パイロット本人を示すものであるのかもしれない。
 濁流で桟橋は流れてしまったので、岸辺近くまで進んだところで薔薇の紋章のDC-2のハッチが開いて、数人の人影が降りてくる。――どうやら、超絶技巧のパイロットであっただけに操縦そのものは曲芸飛行レベルであったと見え、そこから現れた人物は、真っ青な顔をして、ふらついていた。そう、上空の機体の乗員に顔を隠せと言った割に、その人物、〈千畝機関〉長官杉原千畝は、自分の顔を隠すのを忘れていたのである。そのため、ドイツの飛行船から降りた面々からは、ほうあれはリトアニアの、などと言われてしまい、後から追って出てきた“嵐”にあわてて顔に布を巻き付けられていた。“嵐”のほうは、きっちりと忍者のような衣装を着て顔を隠している。
 長官は、無数の密偵たちの中に見知った顔を認めると、口を開いた。
「ありがとう山田君……ああ、またいつも通りぼろぼろじゃないか、右手の傷も増やして、駄目だといったじゃないかちとせ」
 長官のその言葉と、
「アドルフさん、良かった、もう上がってたんですね、死んではいないと思いましたがとんでもないところに流されたんじゃないかと思って谷の端までマラソンしてしまいましたよ」
意識を取り戻して走ってきた因幡のこの言葉は、ほぼ同時に発せられていた。二人の日本人はその場で顔を見合わせ、長官の方は驚愕に目を見開くし、因幡は長官と――私、あるいは、千年を交互に見比べている。
 ――困ったな。先に呼ばれた方に確定させる気でいたのだが。
 私は心中で、心の中でまだ私に吸収されずに残っている千年に相談を持ちかけた。私に吸収されるものと思っていたのであるが、あのウォッチ大佐の小部屋に観測用の時計鰐を通じて因果だけが引きずり出されたとき、この体本来の因果の核として千年の部分が使われてしまったためであろうか、千年は今も、私の中に残っていたのである。
 ――せやなあ、話しはじめは長官のほうが先やってんけど、名前呼ぶんはアキカズくんのが先やったしなあ。
 それでも、やはり私の一部分であるからには、私がそうしようと思えば千年という部分、千年という衝動は私の中にまじり混むはずであり、あるいは本来のこの体に発生するはずであった自我として千年の性格と価値観を表面に出し、私は二度と喋らず、一人称を使って思考することもできないただの視点と記憶の供給元になることも可能であった。が、どちらにするかを決めかね、誰かによって名前を呼ばれるのを待っていたのである。
 ――あるいはもしかすると、私は私の衝動と共存しようと思った、それゆえ、お前が残っているのかもしれんな。
「……そうかもな。それやったらしゃーない、現状維持で行こうやないか」
 そして千年が喋った。長官は、千年の肩を掴み、喋ったのか喋ったんだなお前は昔からいつもそうだ人が苦労して築き上げたものを私はお前が壊した盆栽の件は一生言い続けるからなそうだ今日はお前を叱ろうと思って来たんだ云々と詰め寄ってくる。盆栽の件。昔、千年が小学生ぐらいの頃、そこではするなと言われていたのに長官の家の庭で剣道の素振りをして、長官が育てていた盆栽を粉々にした件である。今でも、月に一度は必ず言われる。
 ――そうだな、今のところは。お前には苦労をかけることになるが。
 因幡が長官の腕を掴んで、違うんですバラしたのは変なドイツの大佐であれは多分ほっといても良くてあとは僕が聞き出したようなもので、と弁明してくれている。良い友人を持ったものである。
「いやあ?どうやろな、制御したい、そう思った時にはもう制御は出来とるもんかもしれへんで」
 因幡の話を聞いて長官の手が離れたところで、千年はそんなことを口にして、ひょい、と何かを拾い上げると、山頂湖から斜面の方へと歩いていった。拾い上げたものは、いつの間にかそこに、おそらくはこれもワルサーPPKと同様飛行船上から落ち、偶然ここに現れた、もうほとんど鉄くずでしか無い軍刀であった。そして、向かう先は捕縛されたドイツ人たちの列である。
「あー!そうか、ちとせさんってことはそうなるのか!それはまずいそれはだめだ!」
「やめろちとせ、この場でそれはまずい!こっそり船体に時限爆弾を仕掛けるぐらいにしろ!」
 衝動である千年、強迫観念である千年を知る二人が、慌てて千年の後を追いかける。長官の方はやや、過激なことを言っているが。しかし、千年の心中にはあの、どうしようもない黒い衝動、暗い強迫観念は少しも湧き上がってきていない。
 千年は、飛行船に連行されつつあるドイツ人たちの横に立ち、地面に軍刀を差すと、彼らに声をかけた。
「よう、お疲れさん。……お前らのボス、あいつ、部下が来てくれへんかったっちゅうてショック受けとったで」
 日本語は、現在世界を二分する超大国の片方の言語であるということで、少なくともスパイならば多かれ少なかれ、理解できる。
「あっは、そりゃあ良い気味だ、あいつ、そんなことでショックを受ける神経の持ち主だったのか。――どうせ死ぬなら七、八発殴っときたかったな」
 案の定、声をかけられた〈ヘイズルーン〉の親衛隊大尉は、千年の言葉をそのまま理解し、そう答えた。人望がないとは思っていたが、そこまで人望がなかったとは驚きである。その横で、饅頭を配っていた男も非常に楽しそうに笑っていたところを見るに、彼もどうやらハイドリヒと直接顔を合わせる部署に居たことがあるらしい。あの妙なテンションは、嫌いな人間が死んだとき特有のそれであったのか。人望がなさすぎて、今更同情心が沸き起こってくるほどであった。
 それで会話は終わり、〈ヘイズルーン〉の兵士たちは飛行船へと収容され、千年は後を追ってきた二人を振り返った。長官は拍子抜けしたような顔で、因幡の方は怪訝な顔で、千年を見ている。
 ――そういえば、私は、彼らとて人の子だ、とお前に文句を言ったな。……中和された、ということか。
 千年は、にっこりと笑って親指をぐっと立ててみせた。
 〈ヘイズルーン〉の兵士が収容されて、飛行船は飛び立つ準備を始めたが、しかし操縦士たちが時折外に出ては上空を困ったように眺めている。他の航空機で来た組織の面々も、撤収の準備を始めては居るが帰れずに居る。なぜか――と考えるまでもない。上空に、あの無数の飛行機がまだ旋回を続けているのである。
「やあ、どうもお疲れさん、本当に生きてるとはな。生きてるついでだ、彼ら、どうにかしてもらえないか」
 渋みのある声が聞こえ、千年は顔を上げた。見ると、IF中佐である。上空の飛行機を追い払おうとして腕時計型無線に向けて話していたが埒が明かず、千年のところに来たらしい。上空の飛行機は――長官がはじめに無線で叫んでいたところからするに、〈千畝機関〉の人員、つまりは欧州にて眠りについているはずのスリーパーたちであるのか。彼らは、さすがにドイツの諜報組織の一員に顔を見られるのはごめんであると見え、上空を旋回して下の様子を見ているだけ、と思われたのだが、IF中佐の腕時計型無線から聞こえる通信の内容からするに、どうもそれだけではないようだ。
『せっかく来たのにもう終わってるとはな、ついでだ、うちのエース、その千年ってやつは見られないのか』
『長官もひどいな、千年っての一人だけにナチ退治をさせて、俺たちだってナチ狩りはしたいって言うんだ』
『千年、だっけか?ここにいるんだろ。そのベルリンを撃つ計画をつぶしたのもそいつだって?』
『私は長官に、ナチハンターへ配置換えを具申しに来たんだ、頭の中に見たこと聞いたことすべて記録してもある、降りられないのかこれは』
『あたしもそうよ、遊撃部員希望なのになんだってスリーパーなんかにさせられたんだか。千年だけなんでしょ、今の遊撃部員、絶対数足りてないはずよ』
<img src="img/千年ラスト.jpg">
 IF中佐は、〈千畝機関〉の二人にその通信を聞かせたあと、どうだね?と言うように肩をすくめて見せた。長官は、そのやりとりに思うところがあったのか、額に手を当て、うなだれている。が、やがて、
「……ちとせ。君のその衝動がもし許すなら、だが……少しばかり、組織改革をしたいのだ。いや、しようと思う。する、と断言したい」
そう言って、千年を、特に右手の動向を見た。長官の方が上役であるのに相手の都合を伺っている光景が奇妙に見えたのか、IF中佐は不思議そうにそれを眺めている。
「変わった組織だな、全員がスリーパー?君以外?それも君の衝動だかなんだかのため?組織のことはよくわからんがしかし、衝動については理解するよ。いや本当さ、わかるとも、僕にも衝動はある、常にべっぴんな美女を抱いてシェイクしたマティーニに酔いたい衝動に駆られている」
 冗談なのかどうなのか、IF中佐の表情からは伺いしれない。
「だが、まあ、なんだ、救われる方も人間なんだ、あの村人も、君にあこがれているらしい他のスリーパーも、救われるべき局面が終わればそうじゃあなくなることもあるさ、その辺の融通を利かせないと、逆に連中、こうやって危険な場所に来ちまうし、場合によっちゃ君が連中の足を引っ張ることになる。衝動をコントロールするんだ、格好良く。僕なんかはそうだな、一つの仕事で女の子は一人、ベッドシーンは一度、マティーニはさりげなく最高に格好いいタイミングで飲むのさ。格好よく決めたまえ、スパイなら。……過ぎた英雄願望、救世主症候群なんて、行き着く先はアドルフ・ヒトラーだぜ」
 中佐の衝動についてはさておき、最後の一言は英国人的な諧謔であったと見える。その言葉に、長官があわてて千年の右手を掴んだ。その種の言葉、顔ではなく行動様式や価値観がヒトラーに似ているという評価は、千年の強迫観念ととてつもなく折り合いが悪く、過去にはそれだけで右手を切り落とそうとしたことがあるためであった。
 しかし千年は、大丈夫だ、と言うように長官の手に、自分の左手をおいた。そして、穏やかな声で言った。
「組織改革ですけど、ええと思いますよ。俺一人やと手の回らんことも多いし、ああ、でも俺のやり方は他にまねのできるもんと違いますから、ちゃんとした訓練はさせてくださいね」
 長官は心底驚いた様子で千年の顔を見た。が、ともかく許可を出して、上空の飛行機を追い払わなければこの場から誰も帰ることができないことに気づいたらしく、無線から上空へと呼びかけるDC-2へと戻っていった。
「さて、彼らの言ってる千年、というのが君のコードネームか、〈昭和通商〉とは別個の組織だったのだな。何という組織なんだ」
 どうもはじめから、他組織の情報も収集に当たりたかった様子のIF中佐は、ここに来て、未知の組織の情報が判明するかもしれないと見て、また千年の所属を尋ねた。言うな、と言うように、因幡が千年のわき腹をつつく。知られてもいない自組織の情報をわざわざばらす密偵はいない。居たとしたら、馬鹿である。
 そして、千年は馬鹿であった。
「〈千畝機関〉です。俺は〈千畝機関〉の千年です」
 ――そして、偽千年紀のアドルフ・ヒトラー。
 千年は少し目を伏せ、うなずいた。
 未知の組織の情報を知りたかったのはIF中佐、英国だけではなかったと見え、各国地下組織、私設諜報機関、あとから現れて漁夫の利にありつこうとした有象無象の密偵たち、それにドイツ人たちまでもがいつしかそのやりとりを見守っていたため、〈千畝機関〉、〈千畝機関〉か、密偵使い(スパイマスター)の名前そのままじゃないか、ヤポンスキはそういう名付けかたをするイニシャルでないのは珍しいが、パーティに間に合わせてきたなら結構な実力のある組織か、聞いたこともないしな、云々という声が広がっていく。少しだけ、誤解されてもいる。
 IF中佐はその答えを早速本部に送りたいようで、暗号通信無電を上着の内ポケットから出した。そのとき気づいたが、中佐はいつの間にかあのワルサーPPKを自分のベルトに挟み込んでいた。ワルサーはドイツの銃であるので、ハイドリヒの私兵が落としたものと思ったのであろう。が、千年の視線に気づいて、
「これは君のか。すまない敵のものかと思った、返そう」
と、ベルトから抜き取ろうとしたが、千年はそれを手で制した。
「ええんですよ、俺、実はそれ、持ってるだけで全然当てられないんです。重いだけですし、あなたのほうがよっぽど似合っとる。持って行ってください」
「そうか?なら、貰っておこう。ベレッタより大きいが気に入った、僕に似合う」
 そう言って、IF中佐は彼の部隊とともに、斜面の方角へ歩いていった。おそらくそこで、迎えの航空機を待つつもりなのであろう。
 と、横の方でなにやらにわかに騒ぎが起きはじめた。どうやら、村人を降ろし終えたので〈昭和通商〉の営業部員たちが忍法合戦を始めたようであった。なぜか、先程まで上空の飛行機に向けて降りるなというハンドサインを送っていたはずの“嵐”がそれを観戦して、人別帖を作ってからにしろー、と声援なのか野次なのかよくわからないものを飛ばしている。さらに、営業部員たちの派手な忍法合戦の横では、先遣部隊の一人、ずっと他の組織からの苦情を受け付けていたあの男が、
「来たよー!何で来ちゃったんだよー!欧州中からだぞ来れるわけないだろうがよー!しかも本部の連中飛行機で往復してるのかよー!外務省そんなに金持ってんのか金くれよ金ー!」
よくわからない嘆きを発しており、他の先遣部隊の面々はなぜかにやにやとした笑いを浮かべている。営業部にも、いろいろとあるようであった。
 長官がスリーパーたちになにがしかの話をしたらしく、上空の飛行機はいつしか散開していた。よその国の村で派閥争いの忍法合戦をやっている〈昭和通商〉営業部本隊をのぞき、今度こそ各組織は撤収を始めている。〈瑠璃はこべ〉は、徒歩で来たと言っていたが、帰りはフランス勢に同情させてもらえることになったようである。元から何やら、フランスに対し恩を売れるような活動を行っていたと見える。ロシア人たちも他の組織に同乗させてもらいたいようであるが、いかんせん人数が多すぎ、どこからも断られている。あの少年は、姿を消していてどこに言ったものか行方がしれない。
 営業部の所属である因幡は、〈千畝機関〉の二人の横で派閥争いを遠巻きに見ていた。が、先遣部隊の長であるらしい、因幡と同様ごくふつうのビジネスマン風の営業部員に呼ばれ、少し離れたところへ連れて行かれてしまった。考えれば、別組織の人間なのだから、当然である。おそらく因幡も営業部とともに撤収をするはずであるから、あとは、千年が長官の乗ってきたDC-2に乗り込めばすぐに帰ることができる。準備と言っても、機長が帰りの燃料を補給するだけで、自分についてはただ飛行機へ乗り込めばいいだけである。しかし、千年は因幡が先輩営業部員との話が終わるのを待っていた。長官もそれを、特にとがめることもない。
 因幡と営業部の先輩はなにやら話していたが、その話はさほど長いものではなかった。最後に営業部の先輩が左右に首を振り、因幡に背を向けると、すぐに因幡のほうでも千年のところに駆け戻ってきて、少しばかり千年を驚かせた。
「どないしたんや?」
「ん?いや、どうも、営業部の期待に添えなかったみたいでね、失望されたらしい。どうもあっちは長くなりそうだし、そっちと一緒に撤収させてもらえないか。それに営業部、帰りが徒歩なんだ」
 なるほど、それは確かに同乗したいであろう。しかし、期待に添えなかった、というのは――
「もしかして、俺の正体とか〈千畝機関〉の秘密とか聞かれて、答えへんかったん?」
 千年の問いに、因幡は、密偵らしく感情の読めない笑みを浮かべ、答えに変えた。
 急遽乗員が一人増えたが、戦中には爆撃機に改造して使っていたというDC-2は、三人の乗客が四人に増えたところで問題なく飛び立てるらしい。とはいえ、戦中に使われていた機体で、本来は輸送機であるものを一度爆撃機に改造し、さらに旅客仕様に変更しているため、内部はなにやらつぎはぎだらけであの超絶技巧の操縦に耐え得るのかどうか、少しばかり疑問が残るところであった。
 機長の、通称を“伯爵”というらしい北欧人が離陸のために準備をしている最中、扉をたたく者がいた。その前に、ロシア組がシベリアまで乗せてくれないかと頼みにきていたのでまたかとおもったが、窓から見えている背広があの饅頭を配っていた男のものだったので、乗客たちはあわてて顔を隠してから扉を開けた。そういえば、饅頭男はあのあと、集まっていたスパイたちを相手にファイルを抱えて走り回っていた。何か、伝えることがあったのであろう。
「どうも。なんだ、顔隠さなくたっていいのになあ、信用がないなあ。そっちの密偵使い(スパイマスター)さんのことならもう知ってますし。リトアニアで格好いいことしてましたよね。あはは、怖い顔しないでくださいよ。ああ、用件ですね」
 乗客たちの冷たい視線を受けつつも、饅頭の男は小脇に挟んだファイルから出した書類を読み上げるように、そのことを伝えた。
「この谷、プーレーにて起きた事件は、現地に拠点を作っていたカルト系宗教組織による集団自殺であり、村民より通報を受け現地に向かった特殊部隊がただちに残る首謀者を拘束した。村民に怪我はなく、カルトの教義由来の事件であるため類似事件発生の危惧もなく追跡調査の必要も無し。……そういうことで、よろしくお願いいたします。一応、トップ同士の話はついてますけどね、現地にいた人にも伝えとかなきゃですから」
 長官は、諜報組織の長としては経験不足であるとは言え、領事を務める程度の外交官ではあった。ドイツの諜報員、年齢からすれば密偵使いレベルではあるはずの男から言われたことに動じることもなく、わかった伝えておこう、と一言返答をした。
「いやあ、でもあなたんとこの彼面白いな、最初からここにいて、一部始終を見て、それで生き残ってるんですって?いいなあ、理想じゃないか」
 饅頭男はすぐには帰らず、機体内部を見回して、最後に千年の方を見た。千年は、男から顔を背けている。
「あとから来たそこら中の密偵どもだって、ほんとは最初から見てたかったに違いないけれど、奴ら死にたくないから、安全になるのを待って情報収集しに来たのさ。まったく、情報流通が遅れたらどこから冷戦構造が破綻するともしれないのに職業意識がなってないよね」
 それじゃ、と言って、男は去っていった。妙な男である。男が去っていったあと、よく見ればいつの間にか、ロシア人に渡さなかった分があったのか饅頭の箱が一つ機内に放置されていたので、中身だけ抜いて盗聴器と発信器つきの箱は捨てておいた。
「なんの話ですかね?」
 千年は長官に問いかけた。情報流通が遅れたら冷戦構造がどうの、という話のことだ。長官は、饅頭とともに置かれていたドイツ側による合意内容を眺めていたが、まだ空いたままのハッチから、撤収にかかっている各国、世界中のスパイたちを見やった。
「君たち密偵が駆けずり回って情報を最初に持ち帰っているから、砲火をともわなぬ戦争、情報戦の範疇に収まっている……ということだろう。それより早くどこかの実戦部隊が、いや、今ならそれこそミサイルの一発、レーザーの一発で良いのか、ともかくスパイ以外の誰かが動いたとすれば、それはたちまち氷を溶かす火炎になって、あとは木の棒と石で戦う時代にまっしぐらだからな。今回だって、密偵(スパイ)組織がまっさきに動いたのでなければ完全に大爆発案件だ」
 通路を挟んだ隣に座る因幡も、長いキャリアを持つ元外交官の話を神妙な面持ちで聞いている。――つまり。世界中のスパイが動いて、情報を流通させて、ようやく世界は冷たい平和、これを平和と呼んでいいならば平和が保たれている、という話である。
 千年は、座席の背に体を預けた。実のところ、今回も何やかやで結局その場にいただけである、ということに気づき、なんとも言い難い虚無感に襲われつつあったところなのであった。こっそりベッドを抜け出してきた眠れる密偵(スリーパー)たちは千年が全てをやったと思っていたらしいが、〈ヘイズルーン〉の一般兵士たちを三桁ほど殺した以外のことを思い出してみれば、ハオ氏にメトゥを人質に取られた時に状況を一変させたのは抗日戦線の老スパイ、ハイドリヒを倒したのは横に居る因幡、再登場したハオ氏を射殺したのは英国のIF中佐、種子と呼ばれた坊主のミイラの呪いについては、途中、ウォッチ大佐の小部屋で何かをしたようではあるが結局のところ元から呪いではなかった、というオチで、本当にただ、千年はそこにいただけなのである。おそらく、その状況がもたらされたのは千年の持つ力場のおかげであったはずだが、それでも、徒労を感じないはずはない。――が、そうして生き延びて、それを見届けていることが、それが最大の存在価値であるとすれば。それは、随分と救われた気になれるというものであった。
 やがて、出発の準備が整った。ハッチが閉められて、機長が出発を告げ、少しばかり乱暴な動作で、機体は宙に浮かんだ。眼下には、緑に覆われた谷が見える。ハオ氏の地下王国にも草が生えているようで、入り口であった場所からは樹木が生えている。メトゥはすぐに枯れるだろう、と言っていたが、聖柩の効果で生えたものが今後どうなるのか、予想はつかなかった。ロシア人たちはまだ、徒歩でラサまで向かうことを回避しようとして残る組織に交渉をしているようであったが、あの饅頭男が近づくに至り、きっと同乗しないかと提案されたのであろう、ついに崖のほうへと逃げ出していた。営業部の忍法合戦はまだ終わりそうにない。
「なあ、アドルフに聞いたけど」
「ちとせさん、一つ、思うことがあるんだが」
 ある程度機体が崖から離れたところで、千年と因幡が同時に話し出した。しばし、話の優先権の譲り合いが繰り広げられる。
「……それじゃあ、僕から訊くが。あんたは、ちとせさんだが、しかし……ちとせさんは、やはり、ヒトラーなのではないか?」
 隔離された衝動であった頃の千年ならば恐慌を起こすその言葉に、長官が千年の様子を見るべく振り向くが、千年が落ち着いた表情であったので、また前を向いた。
「うん、そうや。……頭ええな、気ぃついたんやな。俺の頭んなかのアドルフなんて、それに気づくんに、俺が生まれてからやから二七、八年?そのくらいは掛かったで」
 肯定されるとは思っていなかったのであろう、因幡はやや驚いて千年の顔を見た。そして、どうにも居心地の悪そうな面持ちを浮かべる。彼は、アドルフ・ヒトラーと千年を友人だといった。しかし、その時点ではまだ千年の印象が強く、はっきりとは認識できていなかったに違いない。しかし、ことが落ち着いた今、いや、あるいはそれ以前に、どこかの段階でそれに気づき――きっと、ぞくりと背筋に寒気が走ったに違いない。
 ――それでいい。それで初めて、白兎は自分がどこを跳ねているかに気づき、水底に落ちずにすむのだ。
「それじゃあ、今のあんた、いや、あなたは――」
「いや、統合はされてへんねん。けど、前よりずっと、同質化はしとる。そのおかげで――アドルフが衝動を認識したおかげで、ずっとコントロールは効くようになったけどな」
 これで、やはり友誼はなかったことになるかもしれない、と千年は思う。が、それならばそれでいい、と思っている。
「怖なった?」
 千年の問いに、因幡は曖昧な表情をする。
「一瞬は。いや、多分、その感覚は、はっと足元の人食い鰐に気づくような感覚は、今も残っている。それに、色々と考えることも……だが、勘違いするなよ、それでもなお[#「それでもなお」に傍点]あんたの、あるいはあなたの友でありたいという気持ちに変わりはない。何しろ、あなたは僕を救おうと、ミイラを追いかけてくれたわけだしな。――もう僕は、それでもなお[#「それでもなお」に傍点]あなたがたを好きでいることに決めてしまったんだ」
 はじめは曖昧な表情であったが、言葉を続けるうちに、因幡の表情は力強いものへと変わっていった。――好き、の種類がやや気になるが、それを確認するのはまた後ほどのこととしたい。
 千年は泣きそうな笑顔を浮かべ、ありがとう、と頭を下げ、両手で因幡の手を取った。出立前に〈千畝機関〉本部で適当に行ったのとは違う、親愛の情を示すための行為であった。
「それやったら、一つお願いがある。……ほんまは一応うちの組織の機密事項なんやけど、もうほとんど知られてるし。ええですよね、長官」
 千年の前に座る長官の首が、縦に振られた。千年は泣きそうになっているが、長官に至ってはどうやらすでに泣いているらしい。狐じみた外見で、飄々とした食えない性格の持ち主かと思いきや、かつて行き先を失ったユダヤ人のために六〇〇〇枚のビザを発行し続けたという経歴からも伺えるとおり、かなり情熱、熱血型の人間なのである。千年は話を続ける。
「俺は、いや、アドルフはもう一つの世界の、本当の世界の歴史を知ってる。それから、おそらくその先に訪れる本当の未来の予想……それは、日本のことも含むけれど、それを、教えたいねん。たぶん、面白い話やない。たぶん、本当の世界の歴史、本当の未来なんて知りたくないと言うかもしれへん。あっちはこのモザイク画みたいないいとこどりの世界からしたら、空っぽのようなもんや」
 製造者責任、と千年は飛行船の中で言った。いわば今は、因幡の好意に対して、その製造者責任を果たしているわけであろうか。
「でもな、俺はそこの記憶から生まれた存在で、それが俺の根元やねん。せやから……どうか、それを知ってくれへんか」
 千年は因幡のほうをみた。因幡は、先ほど同様頼もしげな笑みを浮かべ、千年のほうを見ていた。
「OKに決まってるだろう、僕は密偵だ、知らないことを知る?大歓迎に決まってる。それを、それこそを僕はあんたの、あるいはあなたの口から知りたいと思っていたんだ。どうもその因果とか言う話を聞くにこの仕事にも有利そうな情報のようだしな」
 どうか、話してくれ。因幡の口からその言葉がでて、千年は深くうなずいた、そのときである。機体が大きく揺れた。
「ん、こりゃあ乱気流だな、すまないがちょっと揺れるぞ!なるべく揺れないようにはする!」
 機長である“伯爵”がそんなことを言った。その言葉どおり確かに、飛行機は揺れ始めたが、どのような技術を使っているものかすぐに最小限にとどめられるようになった。そして、再度因幡が千年のほうを向いたとき、千年は、
「……あっやばい、これあかんやつや」
そんなことを言って、前の席のエチケット袋をまさに口へと当てたところであった。長官も“嵐”も因幡も大丈夫であるのに、なぜか千年だけ、早々に酔ってしまっている。
「おい、何でこの程度の揺れでこのタイミングで酔うんだ、三半規管鍛えろ三半規管」
 因幡はそんなことを言ったが、それは一つの因果である。――いや、単に、体質の問題であるかもしれない。
 一つの因果。それは、アドルフ・ヒトラーは飛行機に酔いやすい、というものであった。

◇埋伏する言霊

 ――
 ――――
 DC-2を東の空に見送り、ほかの密偵たちも消えていき、ようやく数年越しの平穏が戻ろうとしている谷の、崖から突き出た岩の上。岩の上にも苔という形で植物は生えていたが、その、さらに上だ。そこに、一つの死体がある。いや、まだそれは死体とはなっていない。爆砕された岩の破片を受け、数発の銃撃を受け、上空から飛行船とともに落ち、水に流されてもなお、その男、ラインハルト・ハイドリヒはまだ、息をしていた。息をしていたが、しかし、彼の命の火がつきるのが間近ということは、見るからに明らかだった。何しろ――
「ふうん。さすがというかなんというかだねー。本物も襲撃から三日は生きてたものねー仔山羊ちゃん。苦痛を長引かせちゃう因果なのかな、やだねー。ま、キミに言ったって知らないだろけど」
 上空から飛来した鳥葬の猛禽、それも生きた人間を食べるよう、彼の部下ハオによって慣れさせられた処刑のための鳥が、処刑のための岩に引っかかっていたハイドリヒを今まさに処刑すべく、その傷口から、腸をついばみ、引き出した。苦痛に、ハイドリヒの唇からは声にならない悲鳴と、血の混じった泡が吐き出される。
「ウォッチ大佐ねー、そのバッジやっぱ返してほしいの。うん、でも、全体的には感謝するよー。キミのおかげで〈七人連〉がちゃんとお国のために働いたっていうアリバイは作れたし、ナチとのつながりもこうやってキミが馬鹿げた計画の果てに死ぬおかげで、祖国の危機を救ったっていう恩まで売ったうえで取っ払われて、晴れて〈七人連〉はまた、ただの黒い森の影へと戻れるってわけー。超絶地味な工作でめんどくさかったけどねー。うひひ、信じられないようなものとか見ちゃっても、世の中のすべてが雨の中の涙のように消えていくわけじゃないからねー。世界が偽物だ、って筮竹が告げても、この世界に生きてるんだからこの世界で生きてかなきゃいけない、ってアベンゼン先生も言ってるしねー。現実には現実的に地味ーに地味ーに対処しなきゃだよねー」
 ハイドリヒは、崖の上に腰掛けて頬杖をつき、自身を見下す白い髪の男、何年間かは同じく〈七人連〉に名を連ねていた同輩であったはずのウォッチ大佐を見上げ、にらみつけた。
「貴、様、はじめから――」
「そだね、キミの計画、はじめから知ってて入れたげたのー。ウォッチ大佐超絶有能敏腕スパイだからねー、すごいねー。……感謝しろよ、そうでもなければお前程度の、聖柩をオカルトだと思って信じもしなかった無能が、〈七人連〉の頭領になんて一時的にでもなれやしないんだ」
 ぎゃあぎゃあとわめく猛禽たちの翼の合間から見えていたウォッチ大佐の姿が一瞬消えた。が、次の瞬間にはハイドリヒの顔のすぐ横に軍靴、あの性格のくせをして、常に手入れが行き届いたぴかぴかの軍靴が見えていた。
 皮手袋に覆われた手が、ハイドリヒの襟元に延び、そこにあった〈七人連〉の頭領を示す“1”が描かれたバッジをむしり取った。そして、
「それじゃね、早く死ねたらいいねー。死刑執行人もまた死すだねー」
 ウォッチ大佐の靴は、いつしかハイドリヒの視界から消えていた。どこに行ったのか。ハイドリヒは猛禽の間から目を凝らそうとした。崖には、どういうわけか草が生えている。これが、種子とか言ったか、ハオが探していた聖柩である可能性のあった物体の効果であるのか。
「聖、柩――一つの願いを、渇望を叶える――」
 ハイドリヒは、信じてこそ居なかったが、聖柩そのものの知識は知っている。
「――死の瞬間に、その、力場に打たれたならば――」
 いままさに死につつある男は、そこにその力場を発生させるものが存在するかのように、猛禽の間から見える抜けるような青空を凝視した。しかし、その目、空と同じ青色を有した、かつてはアドルフ・ヒトラーにすらその美しさをたたえられた瞳は、猛禽にとっては食すべき餌の一つにすぎなかった。両目は啄まれ、その機能を失う。はあああああ、という、悲鳴と呼気の中間のような音がハイドリヒの喉から漏れ、目が、――、と自身の失った器官の名を繰り返し呼ばう声がそれに続く。
 ぎゃあぎゃあという猛禽の声が谷には響いていた。その声をおそれ、処刑のことを知る村人たちが崖には近づかなかったため、猛禽の声の中に、その言葉が混じっていたことに気づくものは、誰一人居なかった。
「――叶え、……ろ、もし――この体が、食い尽くされるなら、ば――」
 そのあとの言葉は、当人ですらも、声に出せたかどうかは定かではなかった。
 あとには、鳥たちの声が響くばかりだった。

◇〈千畝機関〉にて

 〈昭和通商〉地下、〈千畝機関〉本部のドアを開けたところで、因幡明和は、その場の人口密度の多さに眉をしかめた。とりあえず奥へと進みたいので、そこにひしめき合った人の間をすり抜けて行くと、座るところがなかったのだろう、ちゃぶ台の上に座り、ファイルに挟んだ書類を必死の形相で仕上げていく千年がいた。
「何やってんだあんた」
「見たら分かるやろ、報告書や報告書」
「報告書って、チベットの件のか?あれから一ヶ月経ってるんだぞ、何で今更」
「今まで書いてなかったからに決まっとるやろボケ!話しかけるな記憶が消える」
 一ヶ月間報告書を上げずにいたせいで、細部が思い出せなくなってきているらしい。完全に、自業自得と自縄自縛の両方を同時に達成している。因幡はあきれて、千年のことはほうってそのまま人をかき分け、奥へと進む。奥と言ってもそこから一歩の距離なのだが、人が多すぎてその距離を進むのにも労力が必要だった。
「あー、せやアキカズくん!代わりに書いてくれへんか、俺より記憶力ええやろ!」
「無視してくれ、甘やかすと何処までも楽をしようとする」
 長官は、人垣の向こうからの声を無視するよう因幡に言った。言われなくとも無視する気だったので、はい、と因幡は間髪入れずに返事をする。
「ここのところに判子を押してもらえば、これで手続きは完了だ」
 文机の上に出された書類に、因幡は持ってきていた印鑑をついた。それから周囲を見回し、
「それで、これはどうしたんです」
と、尋ねた。これとは無論、人口密度がとてつもないことになっているこの空間のことだ。二人の事務員など、流し台に板をおいてその上で仕事をしているほどだった。
 長官は、懐手をしたまま肩をすくめる、という器用なまねをした。
「あの時、谷で飛行機を追い払うため、漸次遊撃部の人員を増やしていくので待ってくれ、と伝えたら、その足で遊撃部への配属希望者が続々日本に帰国してきてな」
 人の間をすり抜けるために身を低くしてきたので気づかなかったが、改めて後ろを振り向き、そこにいる面々を見ると、確かにコーカソイド人種、ナチのいうところの「アーリア人種」的な外見の持ち主ばかりだ。千年も――まあ、また伸ばしつつある髪を金色に染めているので、その範疇にはいるだろうか。
「で、彼らの訓練を、きちんとした体制が整うまではとりあえず千年に頼もうとしたんだが、まず報告書から逃げ回るもので、物理的に追い込もうとしたのがこの状況だ」
 つまり、千年を逃がさないための包囲網であるらしい。逆に言えば、ここまでしないと逃げられるのか。一〇年そこそこの実績を持つ、破壊工作と暗殺の専門密偵ならば、そうなってしまうかもしれない。
 と、長官が文机越しに身を乗り出し、因幡にも顔を近づけるよう指示をした。
「ちとせのことについては、まだ誰にも知らせていない。最高機密と言うことで頼むよ」
 因幡はうなずいた。全員が全員ではないはずとは言え、大半がユダヤ系亡命者であり、そうでなくとも何らかの形でナチから逃れる必要のあったものが、〈千畝機関〉の密偵だ。千年の正体が、肉体的にはアドルフ・ヒトラーのクローン、精神的にはここではない世界のヒトラーの記憶を受け継ぐ存在である、というのは、あまりにもセンシティブにすぎる情報に違いない。
 書類の控えを長官から受け取り、再び千年包囲網を抜けて戻る途中の因幡を、ちょっと待って、と千年の声が追ってきた。
「何だ」
「いや、自分、何しに来たん」
 因幡は目を瞬かせた。そういえば、言っていなかったか。
「〈千畝機関〉に途中入社だ。いや、あんたの件だけが理由じゃないぞ。どうも〈昭和通商〉ってのが、変な派閥争いだのなんだので面倒でな。あと、帰ってきた時のテンションで部長にちょっと、こう……な?それに、なんといっても、こっちのほうが給料高いんだ。さすが外務省所轄だな」
 ついでに言えば、身分が〈昭和通商〉の場合、軍属ではなく民間企業所属と言うことになるが、〈千畝機関〉の場合、外務省嘱託の職員、という形になり、陸大まででたのにただの商社で働いている、という家族からの謗りも多少、和らいでいる。案外、単純に就職先として〈千畝機関〉は悪くなかったのである。
 千年は驚いた様子を見せなかったので、そういうものとすぐに了承したのかと思ったが、因幡が人垣を抜けようとしたところで後ろから
「ええええええええええうっそやん!ええの?うっそお!」
という驚きの声が聞こえてきたところを見るに、しばらく飲み込めていなかっただけのようだった。
「ちょっと待って、せやったら俺よりアキカズ君のほうが訓練するんに向いてるやん、俺たぶん剣道以外の戦闘技術並以下やで、ほらおまえらあっちのほう追いかけえや、俺よりあっちのほうが優秀やで」
「気にするな!出勤は明日からだから、それまでしっかり体を休めてくれ!」
 千年の言葉にかぶせるように、長官の声が追いかけてくる。そして、遊撃部員希望者たちの、早く仕事をしてください千年さん早く終わらせてください千年さん早く手を動かしてください千年さんとの声が、口々に発せられる。あれはあれで、逆に仕事がしづらい気がするが、まあ、それでどうにかなるからやっているのだろう。
 人垣を抜け、因幡が元宿直室のドアノブに手をかけたとき、はらりと一枚の紙が落ちた。この機関の名称を書いた、古びた一枚の紙だ。もう一度それを張り直そうかと思ったが、黄ばんだテープは粘着力が低く、ついでに紙のほうも、ずいぶん変色が進み機関名を判別しがたくなっている。なので、因幡はその場で自身の鞄からレポート用紙とマジックを出し、機関名を大書きすると、それを携帯用のセロテープでドアに張った。密偵は何でも用意がいい……と言うよりは、単に因幡が、文房具類が好きなのでいろいろと持っているだけだった。
 因幡はドアを閉めた。中から聞こえてくる悲鳴には耳を貸さず、彼は明日から自分の職場となる機関の名前を見て、そして足取りも軽く帰って行った。
 その扉には、〈千畝機関〉と書かれた新しい紙が張られ、しっかりと張り付いていた。

◇余談の二

 なお、これは余談だが、密偵たちがチベットから帰ってきてからしばらくの間、中野の周辺を中心とした帝都全域では、新種のぬっぺっほふが各所で見られ、都市伝説と化したらしい。

〈おしまい〉

◆永久に見果てぬ夏の夜の夢


 ――
 ――――
 かくして、私と千年、私と私の強迫観念とは共存にいたり、ゆるやかな融合を果たした。これでおそらく、私ははじめて私のために世界を駆け回れる。世界の中で君[#「君」に傍点]を探し回れるのだ。
 ああ、しかし――もしも、あの力場に打たれたものであれば誰でも、死の瞬間に強く一つの条件と、一つの願いを思えば聖柩となりうるならば。
 だとすれば我々[#「我々」に傍点]の知るあの歴史からはやはり、君[#「君」に傍点]も来ているのに違いない。
 私をこの世界へと生まれ変わらせ、ともすればこの世界、この歴史そのものを偽造したかもしれない膨大な数の聖柩、その願いは、私を、私一人を新たなる世界へ導くものであった。
 しかし、死の瞬間、私は一人ではなかった。
 わかるだろうか。わかるだろう。
 私が自分の脳天を右手に握ったワルサーPPKで打ち抜くそのとき、私の隣には、一人の女性がいた。私は脳髄が破壊される直前、その女性が、私と共に死を選んでくれたその女性が、私が死したあとも共にあることを、強く願った。
 ――私がもしも生まれ変われるならば。必ず、君も共にあるように。
 そう、願ったのだ。
 条件は満たされた。だのになぜ、私は君と共にここにいないのだろう。
 君よ。
 いつの日も、月に顔を浮かべ、思い出す君よ。
 新世界に一人生まれ落ちてしまった、新たなる約定のアダムの伴侶たる君よ。
 私のイブ。
 ――エヴァ。君はいったい何処にいるのだ?


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偽千年紀

 『高い城の男』を始めに読んだ時、高い城の男というのはアドルフ・ヒトラーのことであると誤読して読み進めました。その種の誤読を私はよくやります。『銀河英雄伝説』では、ヤン・ウェンリーは独裁者になって、ユリアン・ミンツはヤンを裏切るものだと思って読み進めました。
 その種の誤読、もしくは読みながら期待する展開が、私の二次創作の源泉になっているようです。この話は、高い城の男であるアドルフ・ヒトラー、という私の脳裏に生まれた誤読の産物をタネに、書いている時に頭のなかで結びついたものを全部のせた結果の産物にほかなりません。『HELLSING』からは、「吸血鬼の真祖たるアーカードがヘルシング機関唯一の兵器となって吸血鬼を狩る」→「ナチスドイツの始祖たるヒトラーが〈千畝機関〉唯一の遊撃部員となってナチを殺す」、という基本の設定を、『世界の中心で愛を叫んだけもの』からは、作中にてアッティラが力場を受けた、という描写とシュトゥットゥガルトの縫製工場の焼け跡にて箱が見つかった、という描写から、「交叉時点」と「力場」と「箱」という世界観の設定を借用させて頂いております。また、「力場」を受けたヒトラーというのは、『やる夫がフューラーになるようです』のあの格好いいアオリ文句「アッティラ大王の如く名を云うを憚る者となった「やる夫」の前半生にスポットを当てる物語」というものを経由した結果の着想にほかなりません。『やるフュラ』からは、ほかにも名前を呼ばない演出だとか、聖書からの引用文句、「やる夫」の脳内会議などなどの演出も拝借させて頂いております。大陸の奥地にて眠りについている「種子」というものは、『大陸の黎明』歌詞中に出てくる種子をすこしばかりひねったものであり、同時に『マンピーのG★スポット』の歌詞中の種子にも引っ掛けたものです。『マンピーのG★スポット』は、「たぶん本当の未来なんて知りたくないとアナタは言う」という一文から、果てはヒトラー=世界の恥部、というところに至るまで、作中全体をまとめる一種のテーマのような役回りを果たしてくれました。関西弁を使うヒトラーというのは『なにわの総統一代記』の主人公のオマージュです。多少、『トライガン』のウルフウッドのイメージも入っているかもしれません。作中では人間台風と呼ばせましたが。あとは、アンドレアスの名前は連作AA『気触れと潰れ』内、『アンドリュー』から、ウサギのイメージも一応はここに由来しています。ジークフリートを俗な名前だと言うラインハルト、というものについては、言うまでもないかと思います。
 また、本郷嘉昭と〈七人連〉は、山中峯太郎の本郷義昭シリーズの主人公とドイツの軍事間諜団七人党の捩りです。プロイセン家の御庭番、というのは、『日東の剣侠児』中で七人党がドイツ皇太子を救出する役回りだったところから付与したオリジナルの設定です。ウォッチ大佐も同様に、本郷義昭シリーズに登場する七人党のクロック大佐という人物がモデルですが、こちらは同一人物ではなく代替わりをしている、という想定で、さらに、「時計」という名前から『黒い時計の旅』が連想され、それならばということでメタ視点を持っている設定を付与し、さらに勢いで外見をブレードランナーの時のルトガー・ハウアーにして、ついでに作中の粗を回収させる役回りも割り振ったためにオリジナル成分なのか何なのかも分からないすさまじいブラックボックスになってしまいました。余談ですが、『ファーザーランド』の映画版ではルトガー・ハウアーが親衛隊の制服を着ていてとてつもなく格好いいです。IF中佐は、実際に英国秘密情報部に所属していたイアン・フレミングその人であり、彼の生み出した世界で最も高名なスパイ、007のパロディでもあります。「ミスター・ハオ」については、作中でも言及したとおりです。IF中佐の率いる〈情報清掃屋〉とは、『スパイだったスパイ小説家たち』によれば、大戦中イアン・フレミングが構想した、特殊作戦の後始末を行う部隊の名であるそうです。IF中佐の上司と部下も、同書にて取り上げられた元スパイの英国スパイ小説家で固めています。その他、パーティに間に合った非実在系スパイ組織については、〈大作戦部隊《グレートミッションフォース》〉は『スパイ大作戦』の「不可能作戦部隊《インポッシブルミッションフォース》」、〈瑠璃はこべ〉は『紅はこべ』の同名間諜団がモデルとなっています。
 明確な二次創作は、今覚えている限りでは以上となりますが、ほかにも宮﨑駿の諸作品のパロディや、バトル漫画の文法、特に友情に関するあたりのパロディも行った、つもりです。「密偵」と書いてスパイと、「密偵使い」と書いてスパイマスターと読ませているのは、山田風太郎の『警視庁草子』や峰隆一郎の『明治○○伝』シリーズにて、警視庁の密偵(巡査)藤田五郎と、密偵[#「密偵」に傍点]を使う[#「使う」に傍点]大警視川路利良が格好良かったからです。山田風太郎の影響は『警視庁草子』だけではなく、スパイたちによるバトル物、というのは、忍法帖シリーズの、忍者同士のバトル物、というところから得た着想にほかなりません。ヒトラーのクローンである主人公、という設定は、叶精作の『ヒットラーの息子』と小林泰三の『人造救世主』にて既に出ているアイデアであり、主人公でなければ『ブラジルから来た少年』、『スプリガン』の一エピソード、『孔雀王』、『放課後のカリスマ』などがあります。さらに、『スプリガン』では、二重人格設定も描かれており、つまり、偽千年紀のアドルフ・ヒトラーの設定は、何番煎じかもわからないようなものだということです。その他、細々としたハッタリには、キリスト教関係、グノーシス主義辺りなどのエッセンスを使いました。
 この物語そのものではありませんが、枢軸国が勝利をおさめた世界を舞台にした歴史改変小説を書こうとしはじめたのは、中学三年生ごろのことでした。紆余曲折の末、明確にアドルフ・ヒトラーのクローンであり正史のヒトラーの記憶を持つ主人公が活躍するものを書こうとし始めたのは一八歳のころであり、現在私は二五歳ですので、何度も設定の改変や冒頭文だけを書いて、あるいは途中まで書いてやめることを繰り返して、かれこれ七年が経ってしまったことになります。こうして完成したものを前にしてみると、七年間私は何をやってきたんだ、と言いたくなる気持ちが三分の一ほど、しかしこれは私が今までに書いたものの中で最高傑作である、という気持ちが三分の二ほどを占めています。
 常に私の頭のなかにごちゃごちゃになって詰まって精神の支柱になったり外壁になったり内壁になったりしてくれている大好きな作品たちから、好きなところをつまみ食いして一つの形にしていく作業は、とてつもなく楽しい作業でした。「幕間の一」までを二ヶ月ほど、そのあとを半月ほどで仕上げましたが、最後の半月間、私は確実にこの楽しくて仕方のない世界の中で、因幡明和であり、ハイドリヒであり、杉原千畝であり、ユリウス・ハオであり、ウォッチ大佐であり、アドルフ・ヒトラーでありました。作中に中盤以降突如現れてしまう、嫌になるような説教臭さは、この楽しい世界から私が帰ってきて物語を終わらせるための、あるいは私が足を滑らせて水中に落ち込まないための命綱にほかなりません。おそらく、この本を手に取られる方ならば、こんなに周到なやり方で周知されずともわかっておられるはずのことであり、結論の見えすいた説教臭さに鼻白んでしまわれたことかと思います。娯楽性が損なわれたのは、あるいはこの楽しさが読んでくださった方へと伝わらなかったとすれば、それは私の力量不足によるものです。ご容赦ください。
 しかも、そうやって七年の偏執の上に命綱を周到に張り巡らせたにも関わらず、どうもまだ、私はこの世界にて遊びたいようです。頭のなかにあらかじめ存在したにもかかわらず、この話の中に詰め込みきれなかった要素もまだ残っています。次がいつになるかはわかりませんが、この偽千年紀はまだ、続くことになるかと思います。

2015.07.31 No.37304

 追記
 あとがきを書き終わったあと、ディックの『ヴァリス』を読みはじめました。『ヴァリス』を読んだことのある方ならお分かりでしょうが、表面的なものではあるものの、ネタがかぶっていました。信じがたいでしょうが、どうやら、グノーシスにかぶれた状態でメタ的な物語を書こうとした結果、想像力が収斂を起こしたようです。先に読んでいればもっと明確にオマージュらしく書けたのですが、今更手を加えてもおかしくなると思われますので、トラクタテ、あるいは秘密経典書の一節をエピグラフにする程度に留めたいと思います。なお、先に読んだものはKindle版の山形浩生訳によるものでしたが、訳文の格好良さから、エピグラフには創元SF文庫版の大瀧啓裕訳のものを使わせて頂いております。

2015.08.08 No.37304

偽千年紀

【完結済】 枢軸が勝利した歴史改変世界にて、日独冷戦下のスパイが冒険活劇を繰り広げる話です。

  • 小説
  • 長編
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-20

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. ◆序の一
  2. ◆序の二
  3. ◆老密偵と左利きの剣士
  4. ◇彼は誰だ?
  5. ◆〈昭和通商〉地下にて
  6. ◇車上にて
  7. ◆ラサ空港へ
  8. ◆忍びと剣士
  9. ◆大陸奥地へ
  10. ◆密偵たちの夜
  11. ◇幕間の一
  12. ◇処刑の谷・地下王国へ
  13. ◆ミスター・ハオ
  14. ◇谷の散策
  15. ◆地下の探索
  16. ◆蒐集狂と本物
  17. ◇虐殺の谷
  18. ◆死の陰の谷
  19. ◇英雄なき脱出
  20. ◇地底の生き仏
  21. ◇幕間の二
  22. ◆偽千年王国の最後
  23. ◇余談の一・ある一次的世界の話
  24. ◆彼の衝動
  25. ◇すれ違う因果
  26. ◆黒い森の隠密
  27. ◇引き寄せられる因果
  28. ◆衝動・その限界
  29. ◆正史→聖柩→偽史
  30. ◆因果の集約
  31. ◇幕間の三
  32. ◆ひみつのパーティ
  33. ◇白兎は鰐を恐れる
  34. ◆水中混迷
  35. ◆交叉時点にて
  36. ◆発端の光景
  37. ◆大団円・そして俺の名は
  38. ◇埋伏する言霊
  39. ◇〈千畝機関〉にて
  40. ◇余談の二
  41. ◆永久に見果てぬ夏の夜の夢