「背 信」ーアロワナの化身ー

会社員です、小説を書き始め4年になります。日曜日だけ執筆しているため、作品はまだ四作です。
今日から掲載していきます。
作品は「推理」すべて長編です。お付き合いください、よろしくお願いいたします。

プロローグ&1

【プロローグ】

 若い女が赤いベビーカーを押しながらゆっくりと歩いてくる。
 東急東横線のホームは、焔が立ち上るほどの熱をはらんでいた。
 淡い色の麻の帽子の陰で、細い目が勝ち誇ったように微笑んでいる。
 紺色のノースリーブを着た若い女は、ふと立ち止り、少しかがんでハンカチをそっと子どもの額にあてた。
 ホームは線路側に少し傾斜している・・・・・・。
「ルルルー、ルルルー」突然携帯の音が鳴った。
 若い女は画面をしばらく見たあと、ニッコリと笑って返信を始めた。
 周りのことをすべて拒絶するかのように、携帯を一心不乱に操っている。
 幼げな細いからだは、子どもが一緒でなければまだ学生のように見える。
 油蝉の声がスコールのように襲いかかる。
 とにかく暑い。暑くてホームの表面が泡立っているのでは、とさえ思えてくる。
「まもなく二番線を電車が通過いたします。黄色い線の内側まで・・・・・・」
 抑揚のない暑苦しい声がホームに響き渡った。
 女の目は真っ赤に充血し爛々と輝いている。その周りに刻まれた皺からは、油のような濃い汗がしみ出していた。
 無用に大きな胸はだらしなく垂れ下り、くびれのない腰は窮屈そうに喘いでいる。
 女はベビーカーの前でぎこちなくかがみ込んだ。
 ―子どもの赤い寝床を、思いきり蹴飛ばしてやりたい―
「可愛いわねぇー。バブバブ」
 スヤスヤと気持ちよさそうに眠る子の、マシュマロのような頬に手を触れた。
 若い女はメールを打つ手を止めて、迷惑顔でその女を一瞥した。
 鬱陶しそうにベビーカーの日除けを少しだけ上げて、また携帯の画面に集中した。
 一瞬、気休めのようなぬるい風がホームを吹き抜けた。
 すると、赤いベビーカーがほんの少し動いた。若い女は気づかない。そして、ベビーカーはゆっくりと滑り始めた。
 まだ携帯から目を離そうとしない。
 むせるような湿気がじっとりとからだに纏わりつく。額には珠のような汗が無数に張りついていた。
「あッ!」携帯が蜉蝣のように蠢くコンクリートに転がり落ちた。
 若い女の顔が母親のそれに変わると、スローモーションのように頬が引きつっていく。
「あああぁー、キャアァァァァ―」
 一瞬、蝉の声がやんだ・・・・・・。
「プワァァァーン」警笛が静寂を切りさき、耳をつんざく。地鳴りのようなブレーキの音がけたたましく響き渡り、辺りに赤い戦慄を走らせた。
 戦車のような重厚さで、ゆっくりとすべてを破壊しながら電車は通り過ぎていく。
 モノクロの風景の中で、「赤い色」が砕けて、花火のように宙を舞った。

 一

「ウィィーン、キュッキュッ、ウィィーン、キュッキュッ」
 スウィッチをオンにすると、プリンターが一斉にうなりを上げて、事務室の静寂を切りさいた。
 また長い一日が始まる。時計の針は午前六時を指していた。
 山瀬智明は自販機のコーヒーをすすりながら、会議の資料を作るためにパソコンを開いた。昨夜の酒が残っているのか、何度も目をしばたいている。
 智明は、「東洋生命保険」首都圏第二統括支社のナンバー2、業務部長の職にある。学生時代、サッカー部に所属していた彼は、誰が見てもスポーツマンだと分かる堂々たる体格をしている。色浅黒く、涼しげな目が印象的だ。今年四十二になる。
 首都圏第二統括支社は、渋谷の宮益坂の中ほどに建つ十階建てのビルにある。首都圏の西部エリアにある二十の営業所を管轄していて、八百名の営業社員と二百名の内勤社員を抱えている。
 今日は、人事異動による転入者を迎え、新年度の進発会議が開かれることになっていた。

 社員通用口の鉄のドアが、ギーッと鈍い音を立てて開いた。
「おはよっすー」智明の直属の部下、坂崎が眠そうな目をして事務室に入ってきた。トイレに行っていたのか、自販機の紙コップを口にくわえたままハンカチで手を拭いている。
「部長、今日は早いっすねぇ」
「資料はまだできてないんだろう。四時からの会議に間に合うのか?」
 智明は坂崎に厳しい目を向けた。
「大丈夫ですよ、昨日は終電でしたからね。かなり進みましたよ。二時にはあがるんじゃないすか」
 坂崎は度の強い眼鏡を取って白い歯を見せた。
「そうか、昨日は頑張ってくれたんだ」
 智明は表情を崩してコーヒーをひとすすりした。
「営業所長の転入者はたしか四人でしたよね。転入の挨拶の順番はどうしますか?」
「四人の年齢と前任地の役職はどうだったっけ。それと職位は?」
 智明はカロリーメイトを口にくわえて、じっとパソコンの画面に見入っている。
 坂崎は机の上の異動通知をまじまじと見た。
「えーっと、一番若いのが藤田紘一、四十一。前任は仙台支社の事務スタッフです。所長は今回が初場所ですね。それから次に若いのが岡本武司、四十三。前任は松本支社の松本西営業所長。所長は二場所目です。二人とも職位は課長代理ですね」
「ふぅーん、二人とも課長じゃないのか。かなり昇格が遅れてるな」
 智明は渋い顔をした。
「それと、西澤修、五十二歳。前任地は愛知支社です。名古屋東営業所・・・・・・。へぇー、名門の営業所ですね。職位は副部長です」
「西澤さんか・・・・・・、懐かしいなぁ」
 智明は新入社員のころ、西澤と一緒に仕事をしたことがある。本社の営業人事部に配属されたとき、年上の彼が色々と面倒を見てくれた。お世話になった先輩だ。奥さんを亡くしたと聞いているが、元気にしているのだろうか。
 智明は込み上げるものがあるのか、わずかに顔を上げて目を閉じた。
「あとは、成実桐子。例のオバサンですよ。四十九歳、職位は部長です。出世してますねぇ。前任は愛知支社の名古屋本町営業所。西澤さんのところより大きな営業所ですよ。でも・・・・・・、この人、大変らしいですね」
 坂崎も噂で聞いているのか、コーヒーを飲み干すと苦虫を噛みつぶした。
「まぁそう言っても、実際に会ってみないと分からないからな。そうか、前任地で西澤先輩と一緒だったのか・・・・・・」
 智明はぼうーっとパソコンの画面を見続けた。
 そしてしばらくすると、智明はやっと口を開いた。
「挨拶は職位順にしよう。その方が問題ないだろう」
「そうですね、その方が無難ですよ。彼女のプライドもあるでしょうから。彼女、行く先々の支社で『女王さま』と呼ばれてたみたいですからね・・・・・・。最初は気をつけましょうよ」

「業務部長、支社長がお呼びです」
 業務係の有希ちゃんが内線で伝えてきた。
「了解、すぐ行く」智明は机の上に積まれた資料の中からレジュメを抜き出すと、慌てて隣の支社長室に向かった。
「資料はいつごろできそうだ」
 支社長の山村了司は、応接のソファーに座ってテーブルに足を投げ出している。
「はい、二時半にはでき上がるかと」
 智明は直立不動で答えた。
「各部にも急ぐように言うんだッ。三時には転入組の四人の所長が顔を出す。先に今年度の業務方針だけは伝えておきたいからな」
 智明の右頬がわずかに引きつった。
「かしこまりました。できしだいお持ちします」
「できしだいじゃないッ。二時までに持ってこいッ」
「はい、承知しました」
 智明はわずかに目を逸らして、口を真一文字に結んだ。
「それからなぁ、最近、営業所長へのあたりが弱いらしいな。だめなやつには、人格を否定するくらいに厳しくやれ、といつも言ってるじゃないか。何やってるんだッ。業績は人格だぞッ」
 智明の顔が青みを帯びた。
「し、しかし、パワハラの問題もありますし・・・・・・。告発でもされると、ややこしいことになるかと・・・・・・」
「パワハラ?そんなこと俺には関係ないッ。お前がすべて処理するんだよ。まだ会社の組織も分かってないのか?細かいことまで俺に言わせるなッ」
「・・・・・・はい」
 智明は拳を固く握ると、逃げるように支社長室を出ていった。
 山村は、昨年執行役員に昇格してこの支社に赴任してきた。態度は横柄で、誰に対しても聞く耳をもたない。しかし、ことが起こるとまったくの逃げ腰になる。絵に描いたよう
な小心者だ。
 山村の濁った目が眼鏡の奥で笑った。

 午後三時四十五分。九階の会議室に営業所長が集まり始めた。新年度のスタートとあって、みんな緊張した面持ちだ。智明は会議のセッティングに追われていて、新任の営業所長には会えないままだった。
 営業所長が、ロの字型に配置された机の周りに順次座り始めた。徐々に会議室の空気が張りつめていく。
 しばらくすると、新任の男性の営業所長が部屋に入ってきた。昨年度から在籍する営業所長はみなチラッと一瞥して、すぐに何気ない顔で机の資料に目を戻した。
 その後少し間をおいて、支社長、続いて例の桐子が姿をあらわした。入口で立ち止まり黙礼をした。室内は口を開く者などいないのだが、妙に空気だけがざわついた。
 綺麗な人だ・・・・・・。智明はポカンと口を開けている。
 身長が百六十五センチはあるだろうか、ヒールをはいているので百七十センチ以上の長身に見える。肌は透きとおるように艶やかだ。くっきりとした黒い瞳、すっきりと整った鼻、唇の両端がわずかに捲れたチャーミングな口。誰が見ても美形といえる顔立ちだ。黒いスーツの下から覗く薄いピンクのブラウスが妖艶な雰囲気を醸し出し、五センチほど膝上のスカートが脚線美を際立たせている。
 転入組の営業所長が各々指定された席につくと、司会役の智明がおもむろに口を開いた。
「では、ただいまより平成十六年度の進発収益戦略会議を開催いたします。起立、礼」
 会場は、二十名の営業所長とその営業所のスタッフ、そして支社幹部が十三名、合わせて五十名以上の人間で埋めつくされていた。
「それではまず支社長より、十名の転入者の紹介をさせていただきます」
 全員の目が、支社長が座る中央の席に向いた。
 転入者は、号令がかかったかのように全員が居住まいを正した。
 支社長が十名の転入者を紹介したあと、営業所長を皮切りに順次自己紹介を兼ねた挨拶が始まった。
 挨拶の初っ端は桐子だった。
 ブラウスの第二ボタンを開けた桐子は、背筋を伸ばし大きな胸を強調している。もうすぐ五十とは思えない容姿だ。
 これが、あの有名な女王さまか・・・・・・。智明は改めて驚嘆の吐息を漏らした。
「はじめまして、成実桐子です」
 その声を聞いたとたん、今度は場の雰囲気がわずかに和んだ。
 可愛い声だー。アニメに出てくるお姫さまのような声だ。人前で繕ってはいるのだろうが、耳に心地よかった。目をつむっていると、中年の女性の声だとはとても思えない。桐子に目を戻すと、その年齢とのギャップに智明は軽いめまいを覚えた。
「私は、この二十名の営業所長の中で一番勤続が長いのではないかと思います。勤続年数は、たしか最年長の西澤さんと同じではないかと・・・・・・。高校を出て大阪北支社に一般職として入社したからです。十年ちょっと事務員をしたあと、三十歳の時に営業職になりました。それから営業スタッフを十年やり、四十歳の時に営業所長に昇格させていただきました」
 支社長をはじめ全員が真剣に耳を傾けている。
「営業所長を、福岡で三年、次に鹿児島で三年、それから愛知で三年、計九年やってまいりました。そしてこの度、名門の第二統括支社にお世話になることになりました」
 どこからともなく、ほうーっという声が聞こえた。
「何しろ東京は初めてなので、まだ右も左もよく分かりませんが、何卒ご指導のほどよろしくお願いいたします」
 数人を除く全員から大きな拍手が沸き起こった。その数人とは、以前桐子と職場をともにしたことがある人間だ。
 そのあと、残りの九名が挨拶をするが、ほとんどのものが真剣に聞いてはいない。みんな机の上にある「二00四年度業務方針」に目を落としたままだった。

2-4

 桐子は、吉祥寺の南町、井の頭公園のすぐそばに、2LDKのマンションを借り上げてもらった。環境は抜群だ。独身女性ということもあって優遇されたのか、集合社宅は嫌だとごねて強引に借りたのか、は分からない。しかし過去の転勤がすべてそうだったように、本社の役員にでも頼んで別格扱いにしてもらったのだろう。
 桐子以外の営業所長三人は、藤田、岡本が独身。そして西澤が単身赴任。そのため、桐子のマンションから歩いて五分ほどのところにあるワンルームの単身寮に押し込められていた。

 部屋のチャイムが鳴った。藤田紘一は休日だということもあって、ベッドに寝転んでうだうだしていた。昨日の歓迎会の酒がまだ残っている。
「誰だよ、こんなに早く」ベッドの脇に置いてある鏡を手にした。
 色白の端正な顔立ちだが、今日は少しまぶたが腫れぼったい。紘一は寝ぐせのついた髪を手櫛ですいて、急いで玄関に向かった。
「何やってんのよ。早く開けなさいッ」突然、怒鳴る声がした。
 紘一は慌ててチェーンをはずしてドアを開けた。
 桐子は、すぐさま紘一を押し退けるようにして部屋に入ってきた。当然、自分がはいていた赤のサンダルを揃えようともしない。
「桐子さん、どうしたんですか?こんな時間に。まだ朝の八時ですよ」
 桐子は無言で、表面がひび割れたグレーのソファーに腰を下ろした。
 ムームーのような黄色い花柄のワンピースをだらしなく着ている。汗で前髪の数本が額にべったりと張りついていた。朝起きてそのまま来たのだろうか。上着のカーディガンを脱ぐと、大きく開いたノースリーブの脇から、真っ赤なブラジャーが覗いた。桐子の汗ばんだすっぴんの顔は、皺が目立ち五十代半ばに見える。
 紘一は、桐子の仕事上の顔が作りものであることを重々承知していたが、久しぶりに現実に触れ、驚きを新たにした。
「あんたッ。何でここに転勤してきたのよッ。私を監視するため?それとも昔のことをバラスため?何とか言いなさいよッ」
「桐子さん、ここは社宅ですよ。もう少し小さな声で話してくださいよ」紘一はオロオロして両手を合わせた。
「そんなこと関係ないでしょッ。何で同じ支社に転勤してきたのか聞いてんのよッ」
「それは僕のせいじゃないですよぅ。会社が決めたことです。桐子さんが転勤してくるなんて僕も知りませんでしたよ」
 桐子はいらついた顔で煙草に火をつけた。
「灰皿は?」桐子のダミ声が響いた。
 紘一は慌ててベッドの下の空き缶を取り出した。
「あんた、昔のこと絶対に言うんじゃないよッ。分かってるわねッ。それとヘマをやらかして、半年でこの支社を出なさいッ」
「そんな無茶なこと言わないでくださいよ、絶対しゃべりませんから。それに遠い昔のことです。みんな事件があったことすら忘れていますよ」
「ダメよ。とにかく早いうちにこの支社を出るのよ。私の知らない遠くの支社に行きなさい。いいわねッ」
「桐子さん、それだけは勘弁してくださいよ。僕、初めての所長職なんですよ」
 紘一は目に涙を溜めて懇願した。
「あんた、よく言えたもんだわね。あれだけ私のからだを弄んだのは、どこの誰よッ」
「弄んだなんて、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。あれは、桐子さんの方から・・・・・・」
「結果は同じでしょう。つべこべ言うなッ」
 紘一はずっと下を向いていたが、とりあえずその場しのぎで口を開いた。
「分かりました。必ずそうなるように努力します。ですから今日はこのへんで・・・・・・」
「聞きわけのいい子ねぇ。最初からそう言えばいいのよぅ」
 桐子のダミ声がアニメ声に変わった。
 桐子はうつむく紘一の腕を取って、強引に自分の方に引き寄せた。そしてワンピースの右肩の紐をずり下ろすと、たるんだ大きな乳房を強引に引っ張り出した。
「こんなところで何するんですか」
「何って、昔散々やったことでしょう?」
 桐子は拒む紘一の頭を無造作につかみ、黒ずんだ乳首を無理やり紘一の口に押しつけた。
 生身の男の感触は久しぶりだった。桐子は時折ブルッとからだを震わせた。

 三

 翌日の日曜日、桐子は西澤修と飲む約束をしていた。三月まで同じ支社にいたので、二人だけで歓迎会をやる予定だ。
 昼過ぎに目覚めた桐子は修に電話を入れた。
「オサムちゃん、今日は早くから飲もうよ。あまり遅くなると月曜に差し支えるからね」
「よかよ。待ち合わせの時間は?」
「私が三時に寮まで迎えに行こうか?」
「なん言いようとか。周りの目があろうが。地理がよう分からんけん、吉祥寺駅の中央口にしようや」
「了解。じゃぁ三時ね」
 修は博多生まれで大阪の国立大学を出ている。博多弁に時折大阪弁が混じる妙な方言を使う。桐子が大阪出身ということもあり、名古屋では二人でよく飲みに出かけた。桐子の唯一親しい男だ。むろんからだは許していない。というよりも修がそういう色事にはまったく興味を示さないのだ。

 時計はもう一時を指していた。
 桐子は早速メイクに取りかかった。いつも、一時間以上はかけて化けるのだ。メイク教室など通ったこともないのだが、腕は見事なものだった。入念に化粧をすると、少し下膨れの頬がすっきりし、決して大きいとはいえない目がパッチリと輝きを帯びるのだ。そして、濡れたように光る口紅で唇をかたどる。縦皺がすーっと消えていった。
「今日のメイクは八十点だな」
 桐子は姿見に向って、胸を隠している黒髪をひと振りした。すでに張りを失った乳房が露わになった。
 そのあとは、下着との格闘が始まる。ガードルで、たるんだ腹の脂肪を無理やり包み込み、脇の下のだぶついた肉を前に寄せて、ブラジャーのカップにつめ込んだ。
「ふぅ~、段々きつくなるなぁ」
 桐子は一段落して煙草をくわえた。しかし気を許すと、いたるところの肉が飛び出してしまいそうだ。
 こんな私じゃなかったのに。からだつき、顔つきは仕方ないにしても、こころの中までこんなに荒んでしまった。三十年前、あのことさえなければ・・・・・・。
 桐子は、引越しのときから開けないでいる一個のダンボール箱を、ただじっと見つめていた。

「おう、待っとった?道に迷わんかったか」
 修はジェイプレの縦縞のボタンダウンに、カーキ色のチノパンをはいて、上からラルフローレンのカーディガンを羽織っていた。背が低くずんぐりしているが、その年代の男の中ではお洒落な方だ。彼は頑なにトラッド派を自称している。
「子どもじゃないのよ。中央口なんてすぐ分かったわ」
 修は目尻を指で軽く押さえた。
「しかし、どげな若い恰好しとうとや」
 桐子は膝上十センチほどのフリルのスカートに、大きなバラの刺繍を縫い込んだジージャンを着ている。長い髪をポニーテールにして、真っ赤なシュシュで飾っていた。
「べつに、オサムちゃんには関係ないじゃない。これくらい若くしとかないと、この美貌は保てないのよ」
「まぁよか。その代わり俺にはひっつくなよ」
「わかったよぅ」桐子はそう言うと、早速修の太い腕にしがみついてきた。
「待てよ、待たんかッ。今、ひっつくなて言うたやろ」
 桐子は駄々っ子のようにイヤイヤをして、更に強く修の腕をつかんだ。

 二人はいくつかの店を物色したあげく、駅のそばのホルモン屋に腰を落ち着けた。
「どや、東京は。大阪出身の桐子には合わんやろう」
 修は丸腸をつつきながら、ビールを旨そうに流し込んだ。
「そんなことないわよ。何だか楽しめそうな予感。でも、大阪と比べるとすべてが地味でちょっとケバさが足りないかもね。フフッー」
 桐子は、直径五センチ以上もあるゴールドリングのピアスを触りながら片目をつむった。
「ところで、うちの支社長、渋くて結構イケルじゃない」
 今まで上司を手玉に取ってきた桐子は、首の関節をボキボキッと鳴らした。
「桐子、またまずいことやらかさんといてくれよ。お前の周りでは、よう奇妙なことが起こるっちゃけん」
 修は分厚いハラミを口に放り込んだ。
「大阪北のこと?」
「それだけやないやろ。福岡の博多に勤務しとるときも、鹿児島でも、噂はぎょうさんある。それに、つい最近の名古屋でもそうやったやないか」
「それは、ぜ~んぶ、う・わ・さ。私は何もしてないよぅ」
 桐子は濃い目のポッピーを一気に飲み干した。
「大阪北のことだって、あれは私のせいじゃないよ」

 四

 梅雨時の激しい雨が降る日だった。桐子がちょうど事務職から営業職に職種変更した年の七月に、あの事件は起こった。
 全国のどの支社にも、入社したての営業社員を集めて、一人前の生保レディーに育てる組織があるのだが、桐子は三十歳で、その「新人社員トレーニングセンター」のトレーナーをやることになった。ちょうどその年、センターにはもう一人、総合職の新入社員が配属された。山田亮司という二十二歳の男だった。四月に入社した彼は本社で二ヶ月の研修を終え、六月に大阪北支社に赴任した。

 山田の歓迎会と称して、センター長の星野、桐子、山田の三人が淀屋橋の居酒屋に集まった。山田が沖縄好きだということもあって、沖縄料理の「かりゆし」という店だった。
「山田君、よく来たね。君のような超エリートが来てくれたら、うちのセンターも百人力だよ。ねぇ成実さん」
 前頭部が見事に禿げ上がり、脂ぎった赤ら顔の星野が目を細めた。
 山田は京都の国立大学を卒業したエリートだ。二年ほど現場を経験して、その後本社の経営企画とか、人事とかに戻る官僚なのだ。
「山田君、私も営業職は今度が初めてなの。ずっと事務職だったから。一緒に頑張ろうね」
 桐子は、アニメに出てくるお姫さまの声で、可愛くしおらしい女を演じた。
「ええ、まぁ」山田は不貞腐れて答えた。
 色白で金縁の眼鏡をかけた顔は、まさに知的で冷酷そうだ。こういう顔が官僚の顔なのかもしれない。下々の私など関係ないのだろう。桐子はそう思った。
「ところで成実さん。貴女も大学は国立ですか」
 その瞬間、桐子は頭の血が沸騰したかのごとく煮えたぎり、頬が赤く染まった。自分でもまったく意識してなかったことで、桐子自身も戸惑い、目を白黒させた。
 このときから、いや、営業の世界に入ってからかもしれない。よく考えてみれば、自分でもとらえどころのない野心と妙なプライドが、徐々に芽生え始めたような気がする。
「男はいつも他人の大学の名を訊く。話題がそれしかないかのように大学の名を訊く。訊いてどうするんだ。すでに卒業した大学を訊いてどうするんだ。屁の突っ張りにでもするのか」桐子は口の奥でブツブツとつぶやいた。
 自分が大学を出ていないことで、大卒に対しては常にコンプレックスを懐いてきた。今年営業職に転じたからには、更にそれが酷くなるのは目に見えている。こころの奥に見え隠れしていたものが、あっという間に山田という男に引きずり出されてしまったのだ。上の学校に行かなかったのは、思い出したくない事情があったのだが、今となってはどうしようもないことだ。自らその話題には触れないようにしてきたし、周囲も気を遣ってくれていたのに・・・・・・。
 桐子はビールをひと口飲んで、かろうじて冷静さを取り戻した。
「わ、私、高卒なんです。高校は城東区の・・・・・・」
 山田が桐子の言葉を遮った。
「高校の名前など結構です。別に私には関係ありませんよ。ふ~ん、そうでしたか」
 山田は軽蔑するような目で桐子を一瞥した。
「そうなんですよ。成実さんは家庭の事情で、高校を出たあと一年後にうちに入社したんです。でも優秀な人でしてねぇ。我々も期待してるところですよ」
 星野は取りなすかのように、揉み手をしながら黄色い歯を見せた。
 私に何を期待してくれているのか知らないけど、先の見えたあんたに期待してもらうことなんてないわ。桐子は聞こえないように舌打ちした。
「ところで社宅はどこですか?」桐子はとっさに話題を変えた。
「京橋の繁華街の方です。でも、どうしてあんなに環境の悪いとこに独身寮があるんですか?おまけに古い。あんなところじゃ、勤労意欲もなくなってしまいますよ」
「あぁ、京橋の独身寮ですか。支社まで近いし、便利でいいとこじゃないですか」
 桐子は例のアニメの声で山田を慰めた。
「実家がある東山と比べたら、あんなとこ・・・・・・」
 山田はフンと鼻を鳴らして、不味そうにゴーヤチャンプルーを摘まんだ。

 それからひと月が過ぎた。
 桐子は大卒の新入社員には負けたくないと、仕事に精を出すのではなく、「いい子振り」に磨きをかけた。社内の人間が「成実さんは本当にいい人ね」という度に、今まで味わったことのない不思議な快感を覚えていった。自分をいい人に見せることで評判を上げて、会社での評価をよくしていこうとしたのだった。
 四月に事務職から営業職に変わったばかりの桐子は、営業の知識も経験もない。ましてや学歴もない状況では、それしか方法が浮かばなかった。少しでも社内の地位を上げて、上位の役職者と懇意になる。それが、桐子のこころの奥に湧き起ったただ一つの目標だった。
 一方、山田は学生時代とは違う生活に慣れようと必死だった。営業という仕事には戸惑うばかりだ。桐子は将来の自分のために、表面上は優しく指導をしていたのだが、こころの中では、「こんなやつが将来私の人事を決める、延いては会社を動かすのか」と強い憤りを感じていた。

 その日の昼、山田の体調が急変した。湿度が百パーセントもあるのでは、と思えるほどの蒸し暑い日だった。営業社員と同行してセンターに戻ったあと、突然彼は倒れたのだ。
 桐子はすぐに、自分の車で山田を救急病院に運んだ。検査の結果、栄養失調に熱中症を併発したということだった。
 独り暮らしを始めて三カ月、山田はろくなものを食べていなかった。加えてこの猛暑、ついにからだが悲鳴を上げてしまったのだ。
 桐子は、山田の容体よりも自分の社内での評判を気にして、演技だとは思われないように献身的なふるまいを見せた。

「いやぁ、山田さん、心配しましたよ。ちょっと頑張りすぎたかなぁ」
 星野は、病室のベッドで点滴をしている山田に声をかけた。
「もう大丈夫です。夕方には自宅に戻れるようです」
 憔悴しきっている山田に代わって、桐子が答えた。
「成実さん、ありがとう。君がいなかったら大変なことになってたよ」
「私がついてますから、センター長はセンターに戻ってください。夕方、彼を寮に送り届けます」
「そうか、すまないね。それじゃぁ、何かあったら連絡くださいよ」
 センターに戻っても仕事なんかないくせに、この役立たず。桐子はこころの中とは裏腹に、ニッコリと微笑みを返した。
 そのあと、桐子は病院で甲斐甲斐しく働いた。二、三時間の間に、嘔吐物で汚れたシャツをクリーニングに出し、代りのシャツを量販店で買い求め、更に薬局に寄ってアイスノンと栄養剤を仕入れた。そして何よりも、そのことを看護師たちに吹聴することを忘れなかった。
 何でこんなやつにこんなことまで、と思いながらも、周りの評判のために必要以上にからだと口を動かした。
 夕方になると山田の体調もだいぶ回復した。
 本当は、鬱陶しいからもう二、三日入院すればいいのに、と思ったのだが、救急病棟ではそうもいかない。やむなく、笑みを絶やさないように作り笑いを浮かべて、山田を寮まで送る準備を始めた。

 京橋の独身寮は、雨に濡れてひっそりとしていた。
 まだ夕方の六時、建物に面した駐車場には車は一台もなかった。当然だが、帰宅している社員は一人もいないのだろう。古い木造の寮は二階建て、全部で八部屋ある。古くなったアパートを建て直すつもりで会社が購入したのだが、この不況下で取り壊しの目処さえ立たず、とりあえず独身寮として使用していた。穴が開いた雨樋からは雨水が漏れて、錆びた鉄の階段を流れ落ちている。
 車を降りた桐子は傘を広げながら山田に尋ねた。
「山田君、部屋はどこなの?」
「二階の一番手前です。すみません」
 桐子の手厚い看護に、少しは申しわけないと思っているのか、さすがの山田も今日はしおらしい。
「鍵はどこ?」桐子は雨音に負けないように大きな声で訊いた。
「これです」山田はずぶ濡れになった背広のポケットから鍵を取り出した。手には魚の形をした大きなキーホルダーが握られていた。
 鍵を受け取ると、雨と風に打たれて歪む桐子の顔が、更に険しさを増した。そして唇は死人のように色を失っていた。
「あっ・・・・・・、気をつけて。ゆ、ゆっくりよ。荷物はあとで降ろすから」
 桐子の声は老婆のように掠れて、かすかに震えた。しかし、その声は激しい雨音にかき消されてしまった。雨脚が強さを増していく。ザァァーッという雨の音以外には何も聞こえない。
 桐子は階段の下まで来ると、山田の手を取った。
 階段は雨で滑りやすくなっている。桐子は慎重に一段ずつ上っていった。山田は桐子に手を引かれ、気だるそうについていく。
 階段の上まで来ると、桐子は軽く息を吐いて立ち止まった。雨に濡れて額にべったりと張りついた前髪を、何度もかき上げている。
 するとうしろから、一段下にいる山田の手が桐子の右肩をつかんだ。
 あッ!と思った瞬間、山田の腕が肩を滑り、その手が左の乳房に触れた。そして桐子に覆いかぶさるように、上背のある山田の体重が背中にのしかかった。
「あうぅー」真っ赤な傘が宙を舞った。
 桐子は雨を切りさくように、うしろに立つ山田を思い切り蹴り上げた。どこを蹴ったのかは分からなかった。山田はもんどり打って転がり落ちた。
 ゴン、ゴン、ゴン、と鉄に頭を打ちつける音がした、と思ったら、最後には駐車場のコンクリートの上で、グシャッという断末魔のような鈍い音を響かせた。
 桐子は二階の踊り場で、山田に背を向けたまま、息を殺して立ちすくんでいた。ふと足元を見ると、右の靴がなかった。
ゆっくり振り返ると、駐車場に山田は転がっていた。アスファルトの上に瞬く間に血が広がっていく。雨で流されまいと、おびただしい量の血が辺りを占領した。
 桐子は目を凝らして赤い靴を探した。すると血溜まりの中に何かが見えた。靴は血の色に同化して石榴色に染まっていた。

 ほんの少し間があったのだろうか、今となってはよく憶えていない。いや、思い出せない。
 車のエンジン音が大きくなってきた。すると一台の車が桐子の車のうしろをふさいだ。
 中から出てきたのは、今年大阪北支社に転勤してきた、山田の同期「藤田紘一」だった。
 藤田は無言で、石榴のように割れた山田の頭をじっと見た。そして、駐車場から二階の桐子を見上げて言った。
「どうしてここに、・・・・・・成実さんの靴があるんですか?」

 山田が何をしようとしたのか、偶然そうなったのかは、まったく分からない。自分に殺意があったのか、なかったのか、も・・・・・・。
 ただ、「人は簡単に死ぬ。そして、簡単に殺せる」桐子はそのことだけをこころに刻み込んだ。
 結局、山田の死は事故として処理された。
 そして翌年、成実桐子はセンター長に昇格した。

「桐子、なんぼ~っとしとうとか。もちっと飲まにゃぁ」
 修はジュージューと焼けるテッチャンを摘まんだ。
「ごめん、ごめん。やっぱ疲れが溜まってんのよ」
 桐子も焼けたアカセンを頬張った。
「うっま~い。オサムちゃんこれ美味しいよ。食べて、食べて」
「おう、どれどれ。ホンマやなぁ」
「でしょう。この店結構いけてるね。大阪に負けないかもよ」
 桐子はわずかに捲れた唇を軽く拭って、焼酎のサイダー割を二つ注文した。
「ところで桐子、昨日の会議でお前がしゃべった内容、憶えとうか?」
 修がかしこまって訊いた。
「ぜ~んぜん」桐子は素っ気ない態度で、センマイの味噌和えを口に放り込んだ。
「お前なぁ、昨日の挨拶で、俺と勤続が一緒やて言うたやろ?よう考えてみい。俺より桐子の方が一年長いはずや。俺が五十二、桐子が四十九、桐子が高校出て入社したんなら、そういう計算になるやろ」
「オサムちゃん、何細かいことにこだわってるの?」
「別にこだわっとうわけやないけど、俺が一番ジジイみたいで嫌や。どういうことや?」
 桐子は頬が桜色に染まっている。化粧が少し剥げてきたのか、目元の小皺がリアルに見え始めた。
「あのさぁ、私、高校卒業したあと・・・・・・、事情があって一年遊んでたの。言っとくけど悪い遊びじゃないわよ」
 桐子は硬い笑いを浮かべた。
「そうか?停学にでもなって、卒業でけんかったんとちゃうか?」
 修は半分になったサイダー割を飲み干した。
「違う、違う。私こう見えても結構まじめだったのよ。色々あったんだから」
「ほな、やっぱ俺の勤続年数と同じちゅうことか」
 修は目を細めてわずかに首をひねった。
 桐子はそれ以上、話にはのってこなかった。そして嫌な過去を忘れるためなのか、かなりの量の酒を飲んでいた。
 何か奥歯にものが挟まったような言い方が妙に気になったが、修は嫌な顔もせずに桐子の愚痴にとことん付き合った。

 好きな酒がやけに重くなり始めて、修はふと我に返った。店に来てから何時間経ったのだろうか。壁の時計を見ると針は九時を指していた。
「おう、もうこんな時間や」
 修はふらふらしながら席を立った。
「桐子ぅ、もう・・・・・・、もうそろそろ帰ろうや」
 修は呂律が回っていない。
「まだまだよ、柔なこと言わないでよぅ」
「桐子ぅ。もうこれ以上はダメばい」
「ふんッ、弱い男は嫌いよッ」
 繰り返し注意する修を無視して、桐子は少し先にある「ハモニカ横丁」に消えていった。

 午前零時。遠くでうなるような風の音が聞こえる。
 薄灯りの下、桐子は地味な柄の座布団に正座した。
 ゆっくりと黒い涙がこぼれ落ちた。マスカラで汚れた目は深く窪んだように見える。
 桐子はおもむろに、ただ一つ開けずにおいたダンボール箱の蓋を開けた。そして丸めた新聞紙を探ると、黒い箱のようなものを丁寧に取り出した。
 縦横三十センチ、深さ二十センチほどの木箱だ。漆をぬったかのように艶やかな光沢を帯びている。
 桐子は簡素なテーブルを北側の壁に据え、その上に空洞を手前にして木箱をのせた。
「暗かったでしょう。ごめんなさいね」
 今度はダンボール箱から、白いハンカチで包まれた板のようなものを丁寧に取り出した。
 蒲鉾板の形をした黒いものは・・・・・・、位牌だった。
「まゆちゃん、寂しかったわねぇ」
 桐子は位牌を顔に近づけて、何度も何度も頬ずりした。
 すると今度は、仏壇に見立てているのか、黒い木箱にゆっくりと位牌を納めた。
 湿ったマッチを擦る音が、気味悪く「ジュバッ」と何度も響いた。
 青白い炎が桐子の影を揺らす。
「まゆちゃん、きっと見つけてあげるからね。もう少しの辛抱よ」
 桐子の目にもう涙はなかった。ただ、窪んだ目の下には、ピエロの舞台化粧のような黒い涙の痕が、ろうそくの淡い灯りに照らし出されていた。

5-7


「どうだ?彼女の仕事ぶりは」
 人事課長の篠田正樹は智明の顔を覗いた。
「うん。少し強引なところもあるようだけど、それ以外は特に」
「そうか、まだ大丈夫か・・・・・・」
 正樹は智明の同期で、現在人事課長をしている。
 智明とは見た目は正反対。色白で、度の強い眼鏡が似合うインテリ顔をしている。冷ややかな薄い唇が印象的だ。
 五月の連休明けに、二人は本社最上階の喫茶室で久しぶりに会っていた。
「色々な噂があったとは聞いてるけど、今のところは何もないよ」
「うん。それならいい」正樹は右頬だけでニヤリと笑った。
「奥歯にものの挟まったような言い方をされると、何か気になるなぁ」
「別に、今問題がなければそれでいいんだ」
「それが気になるんだよ」
 智明は、今度の人事に妙な違和感を覚えていた。
「噂の内容は知っているのか?」
 正樹は煙草に火をつけて深く吸い込んだ。
「少しは聞いてるけど・・・・・・、噂だからなぁ」
「どのへんまで知っているんだ?」
「彼女の周りで色々な事件、いや、事故かな。そんなことがあったってことは聞いてるよ」
 智明は少し顔を歪めて腕を組んだ。
「彼女が異動する度に、転勤先で事故が起こっているんだ。でも刑事事件でも何でもないからなぁ、噂の域を出ないんだよ」
「どんなことが起こったんだ?」
「うん。でもこれを言うと・・・・・・、まさに誹謗中傷だ」
 正樹は眼鏡を取って、軽く眉間を押さえた。
「正樹、じゃぁ何でうちの支社によこしたんだ、成実を。俺がいるからよこしたのか?俺に任せればいいと思ったのか?」
「いや、たまたまだ」
「本音は違うだろう。同期の俺がいたら、ことが起こったときに対応がし易いからだろう。図星じゃないか?」
 正樹はいくぶん頬を紅潮させたあと、わずかに目をふせた。
「まぁ、そういう意図がなかった、と言えば嘘になるけどな」
「それなら、当該支社の業務部長に中身を教えろよッ。何か起こったときに、俺が知らなかったんじゃ話にならないだろう。そうじゃないかッ」
「分かったよ。そんなに大きな声を出すな。ここじゃまずいから、今夜また会おう」
「じゃぁ、久しぶりに自由が丘に行こう。内緒話するのにいい店があるんだ」
 智明はやっと白い歯を見せて笑った。

 六

 自由が丘駅前の脇道を二十メートルほど入ったところに店はある。角を曲がると「うな坂」と書かれた提灯が見えた。すでに辺りには鰻を焼く香ばしい匂いが立ち込めていた。
「聞かれたくない話をするときは、かえってこんな店がいいんだよ」
 二人は、二十人も座ればいっぱいになるコの字型のカウンターに座った。
 テーブルは一卓もなく、メニューも驚くほど少ない。酒は、瓶ビール、日本酒、焼酎のみ、それも銘柄は一つ。食べ物も鰻の串焼きが数種類だけだ。
「おやじさん、ビールと、『白焼き』『きも』『かしら』二本ずつね」
 正樹は目を丸くしている。
「自由が丘にも、こんな懐かしい雰囲気の店があるんだな」
「いい店だろう、飾りがなくて。学生時代から通ってるんだ」
 智明は二つのグラスにビールを注いだ。
「ところで、お前も人事畑が長くなったなぁ」
「一度だけ現場に出たことがあるけど、通算するともう十五年になるかなぁ」
 正樹は白焼きに山葵をたっぷりとぬって口に運んだ。
「旨いなぁ、これ」
「そうだろう。店は古くてちょっとだけど、味と値段は折り紙つきだよ」
 智明も山椒を振りかけて、かしらを口いっぱいに頬張った。
「ところでさっきの件だけど、もう少し詳しく教えてくれよ」
 正樹は口元をわずかに引きつらせた。
「あぁ。でも、ここだけの話にしてくれよ」
「当然だよ」智明は首を大きく縦に振った。
「彼女の周りで起こった不可解なことは、俺が知っている限りでは四件ある」
 正樹は声を抑えて話し始めた。
 たぶんその四件がすべてだろう。正樹には申しわけないが、社員の悪事ばかりを探すのが人事だ。その人事が言うのなら間違いない。智明はそう思った。
「まず、大阪北で起こった事件だろう?」
「そうだ。あれは、俺も入社した翌年で地方にいたから、人事の先輩から聞いた話なんだけど、警察はかなりしつこかったらしいな。有名な話だからお前も知っているだろう。死んだのは『山田亮司』という新入社員だ」
「寮の階段から誤って落ちた、と聞いてるよ」
 正樹は静かに眼鏡をはずした。
「うん。一般的にはそう言われているけど・・・・・・。当時山田は、睡眠も食事もろくに取れずに栄養失調になっていたんだ。これは医者の診断書で明らかだ。その原因が成実桐子にあった、ということが同僚の間では真しやかに囁かれている。二十年近く経った今でもだ。『山田と肉体関係を持った上で、自分の仕事のほとんどを押しつけ、大阪での慣れない暮しに助言もしない。更には、新入社員にとって過酷なクレームまでも担当させる。そうすることで、山田は仕事に嫌気がさして会社を辞める。結果的に、センターの優秀なスタッフが一人減り、残された自分がクローズアップされる。だから出世のためにそう仕向けた』これが彼女に対する風評だ。山田は会社を辞める前に死亡退職したけどね。風評は当たらずとも遠からず、ってところかな。彼女が山田を寮まで送ったとき、そこで何があったかは知らないけど、寮の階段で彼は足を滑らせた。そして階段から落下したあげく、頭を強く打って死んだ。ただ検死の結果、なぜか膝にも骨が陥没するほどの酷い打撲痕が残っていたんだ。落下しただけではできない傷だったらしいよ。だから、それが人為的なものだ、と彼女は疑われた。周囲の人間は、彼女が山田を蹴落としたときのヒールの跡だ。そう言っているんだけどね。結局、警察は証拠がないことを理由に事故として処理したんだ。以上が大阪北の事故のあらましだ」
 正樹はビールが空になったことに気づいて、今度は冷酒を注文した。
 おやじさんは、グラスの下の受け皿から溢れるほどに、酒を気前よく注いでくれた。
「そうなのか、事件は闇に葬られたんだ・・・・・・」
「そういうことだ。でも証拠がない。証拠がない以上彼女は白だ」
「でも、それから彼女は、とんとん拍子に出世していったんだろう?」
 智明は正樹の顔を覗き込んだ。
「う~ん。それは偶然かもしれないよ」
 正樹が嘘を吐いたときの癖だ、鼻の頭を何度も人差し指で掻いた。
「ただ彼女は十九歳から事務員をやっていたんだけど、二十代の後半から、大阪北に出張してくる役員とか、部長クラスの人間と親密にしていたらしいよ。自分は事務員で転勤がないから、飛び込んでくる役職者を捕まえては親交を重ねていた。ときには、彼らに会うために休みを取って上京した。だから、コネで出世の道も開けた、と言われているんだ。実際に見たわけじゃないから、真偽についてはよく分からない。でも、成実のことを知っている人間は、今でも彼女のことを、『ウツボカズラ』と呼んでいるんだよ」
「ふんッ」正樹はうんざりしたように、鼻を鳴らした。
「その『ウツボカズラ』って?」
 智明は聞き慣れない植物名に首をかしげた。
「壺のような補虫器を持っている『食虫植物』だよ」
「あぁ、教科書で見たことがある。でも、例えが陰湿だな」
 智明は一瞬顔をしかめた。
「智明、ところで灰皿はどこにあるんだ」
 正樹は遠慮がちに小声で尋ねた。
 とっさにおやじさんが口を出してきた。
「うちは、酒と鰻以外にはよけいなものを置いてないんですよ。灰皿は床を使ってください。ゴミも捨ててもらって結構ですよ。どっちみち、店を閉めたら一斉に水を流して床の掃除をしますから」
 おやじさんは額から汗を垂らしながら、酒焼けした真っ赤な顔を綻ばせた。
「鷹揚に構えているなぁ、この店は」
 正樹は冷酒を一気に飲み干して、口元を緩めた。
 二人は何を回想しているのか、しばらくの間黙って酒を飲み続けた。

「次の博多の件はどうなんだ?」
 思い出したように、突然智明が口を開いた。
「博多の件かー。これもやっかいだったよ。博多は彼女が営業所長として赴任した初めての場所だ。赴任先は西博多営業所というところだった。営業所の規模はかなりのもので、内勤のスタッフを一人抱えていた。初陣で大きな営業所の所長になることはまずないんだけど、大阪北の支社長、これがまた強引でなぁ。人事に口を挿んできて大変だった。結局、とんでもない、という俺たち部下の意見は無視され、当時人事課長だった小西がその無謀な人事を呑みやがった。そのあとだ、成実が大阪北の支社長とできている、という話が伝わってきたのは・・・・・・。更にちょうどそのころ、小西がたまたま大阪北支社に出張したんだけど、小西とも関係がある、っていう噂も広がったよ。彼女はすでに出世のためには手段を選ばなくなっていたんだろうなぁ」
 正樹はおしんこを摘まみながら淡々と話した。
「それが女王さまたる所以だな」
 智明は、また苦々しい表情を浮かべて冷酒を飲み干した。
「でも・・・・・・、それが事件のすべてじゃないだろう?」
「智明、お前話の結末まで知っているのか?」
「だって、そんな話・・・・・・。男と女の話なんて山ほどあるからなぁ、うちの会社には」
「うっ・・・・・・」人事課長の正樹としては、答えようがなかった。
「当然その続きがあるよ。当時、西博多営業所には彼女より四つ年上の男性スッタフがいたんだけど、その彼が一年後に自殺したんだ。遺書はなかった。彼は沖縄出身でさぁ、高校を出たあと、事務職として大阪本社に入社したんだよ。五年間大阪北にいて、彼女の入社とは入れ替わりで福岡支社に転勤したんだ。そのあとは福岡支社で、結構長かったよなぁ、彼女が赴任してくる直前まで事務職をしていた。なのにその年、営業職に変わったんだ。男が事務職を続けていても先が見えている、と悟ったんだと思うよ。彼の異動は支社内異動で、何と、彼女が赴任する西博多営業所だったんだ」
 正樹は少し疲れたのか、じっと目を閉じて煙草を深く吸い込んだ。
「その営業所で何が起こったんだ?」
 智明は額の汗を拭きながら焦って訊いた。
「そうだよな、問題はそのあとだ」
「焦らさずに話せよ。お前はすべて知ってんだろう?」
「うん。でもよくある話だよ」
 正樹はもったいぶって、ゆっくりと冷酒のグラスを口に運んだ。
「この店の酒、旨いよなぁ」
 智明は赤い目で正樹を睨んだ。
「決めたなら早く話せよッ。一人で余裕もってどうすんだッ」
「そういう言い方するなよ。俺だって人事の人間だ。無理して話しているんだぞッ」
「分かってるよ」智明は軽く目を逸らした。
 このまま正樹を怒らせては情報が途絶えてしまう。智明はすぐに正樹に詫びた。
「すまん。人事課長というお前の立場をわきまえてなかったな」
「分かってくれればいいよ」
 正樹は声のトーンを極端に落とした。
「二人は同じ営業所で仕事をすることになったんだけど、彼女は昇格して慢心があったのかもしれない。加えて自分が偉くなったと勘違いしていたんだろうな。そのスタッフを土日も休ませずに働かせたようなんだ。自分はしっかりと休みを取っても、彼には許さなかった。年下といえども彼女は上司だ、彼も命令に従わざるを得なかったんだろうな。お前も当然分かっていると思うけど、今の時代の保険営業なんて、土日に営業しないとお客には会えないよな。でも、管理者は土日出勤の代休を必ず与えなければならない。それなのに、彼女は代休も与えずに、まだのんびりとした時代の田舎で、毎週土日出勤をさせていたんだ。考えたら鬼の上司だよ。その上コンプライアンスなんか完全に無視。そのスタッフに単独で保険の募集をさせて、営業社員が自ら募集したように操作していたんだよ。要するに付績していたんだな。当然、自己募集の契約を他人の成績にすることは、金融庁への届け出事故で、本人には重い懲戒処分が科せられる」
 そこまで話すと、正樹は煙草に火をつけてゆっくりとふかした。そして冷酒で喉を潤おすと、今度は更に小さな声で話し始めた。
「そのあと、その悪事は告発により発覚したんだ。彼女は、一切関知していない、と言い張って、処分内容は監督不行届きによるただの人事部長注意だった。でも・・・・・・、彼は減給、降格。酷い処分だった。そうなると、社内じゃ十年間は日の目を見ないよ。更に追い討ちをかけるように、支社内異動で対馬に飛ばされたんだ。それから間もなくして、彼はマンションの屋上から飛び降りて死んだよ・・・・・・。部下を踏み台にするとはまさにこのことだ」
 正樹は口元を歪めて大きく息を吐いた。
「そうだったのか・・・・・・。でも、彼女にはスタッフを異動させる権限なんてないよな」
 智明は冷酒をひと口飲んで首をひねった。
「当然さ。そのときも、福岡の支社長と太いパイプを作っていたんだよ。抜かりないやつだよ、成実っていう女は」
「で、そのあとのスタッフは?」
「後任はそれこそ優秀なやつだった。女好きの小西がまた絡んでいたんだよ。俺たち人事部員は虚仮にされたというわけさ」
 正樹は、今度はグラスいっぱいの冷酒を一気に飲み干し、ふう~っと腹の底から息を吐き出した。
「それで、また業績をグングン伸ばしたんだ」
 智明はカウンターに上半身をかぶせて、横に座る正樹を覗きこんだ。
「そのとおりだ。そこから彼女の躍進が始まった、と言われているよ。社内では有名な話だ」
「そうか・・・・・・、彼女が指示したという証拠は見つからなかったのか。というより自認しなかったんだ。酷い女だな」
 すると、正樹は半身に構えて智明の方にからだを向けた。
「智明、よく聞けよ。その密告者は誰だと思う?」
「う~ん・・・・・・。同じ営業所の営業社員か、事務員だろう?」
「はずれだー。それが・・・・・・、彼女自身だったようなんだ。夜の八時ころ、事務員が忘れ物を取りに営業所に戻ると、隣の部屋から彼女の声が聞こえたらしいよ。夜の十二時まで受け付けをしているお客様相談室に電話をしている彼女の声がね・・・・・・。その夜、彼女は接待で出かけることになっていたようだけど、事務員は予定が変わったんだろうと思い、じっと聞き耳を立てていたらしい。お客様相談室のオペレーターは、可愛らしいアニメ声を、西博多営業所長の声だと特定できるわけがない。『スタッフの仲里良治が不正を働いているんです。自分で保険を募集して、それを勝手に営業社員の成績に回しているようです。調査してください』そう言って告発していたようなんだ。その事務員も彼女のことを人事に報告したらしいけど・・・・・・。そのとき、直接成実の顔を見たわけじゃないからな。証拠がなかった。でも、もしかしたら接待で不在の成実に代って誰かが・・・・・・、身代わりで電話をしたのかもな。結局、仲里は不正を認めたけど、彼女は頑として認めなかった。大した女だよ。翌月、その事務員は交通事故で重傷を負って入院したんだ。そのあげくに、辞めたのか辞めさせられたのかははっきりしないけど、休職のまま半年後に退職したよ」
 正樹は天井に向けて大きなため息を吐いた。
「それが、昔の人事記録に残っているんだ」
「そうだったのか・・・・・・、そこまでやる女だったんだ。とんでもないやつだ。でも、そんなふうには見えないけどな」
 智明は信じられないのか、信じたくないのか、渋い顔で冷酒を呷った。
「どうだ、智明。もうこんなところでいいだろう?」
 正樹は煙草を深く吸い込むと、首を前に落として強く煙を吐き出した。
 智明は赤い目で正樹をじっと見つめた。
「悪いけど・・・・・・、もうひとつだけ教えてくれ、頼むッ。鹿児島の事件の真相は?」
「もういいだろう、今度にしようよ」
「それはないだろう。ここまで話してくれたんだから、最後にそれだけ頼むよ」
智明は何かに憑かれたかのように、次の事件の真相に思いを馳せた。
なぜなら、今しがた聞いた二つの事件の内容に、妙な共通点を発見したからだ。

 正樹は思い出すことに疲れてしまったのだろう、指で眉間を何度も押さえている。
「鹿児島支社のことか・・・・・・」
 正樹は大きなため息を吐いて、冷酒のお代りを注文した。
「鹿児島のことはお前も知っているんだろう?」
「少しはね。新聞に出てたからな。彼女の友人が旅行先で死んだんだよな」
「そうだよ。警察沙汰になったから、社内の人間なら大まかなことは知っているさ」
「でも詳しいことは・・・・・・。だから教えてくれよ」
「言っとくけど、俺が実際に見たわけじゃないからな」
「分かってるよ。お前が知ってる範囲でいいよ」
「智明、お前本当にしつこいよな」
 智明はその言葉を無視して、口を真一文字に結んだ。
「鹿児島の被害者、いや事故に遭遇した社員は、支社で法人部長をしていた『飯田遼二』という男だ。鹿児島の霧島営業所というところに転勤した彼女は、ちょうど四十四歳。五歳年上の飯田と半年ほど付き合ったあと、結婚を考えたらしいよ。飯田も大阪で勤務したことがあって、彼女と急速に親しくなったようだ。言っとくけど、当時の噂によるとだよ」
「そんなこと、言われなくても分かってるよッ」
 智明は気持ちがはやるのか、カタカタと貧乏ゆすりを始めた。
「赴任二年目の夏季休暇に、二人で奄美大島にいったときに、その事件は起こったんだよ」
 正樹は面倒臭いのか、口調が少しつっけんどんになってきた。いや、人事の人間として、自ら担当した忌まわしい事件を思い出したくないのかもしれない。
「飯田は昔から島が好きで、特に南の島によく旅行していたようなんだ」
「やっぱりな・・・・・・」智明は大きくうなずいた。
「何がやっぱりだッ」正樹は口を尖らせた。
「いや、何でもない。続きを頼む」
 智明は顔の前で両手を合わせた。
「それで海が好きな彼女と気が合って、二人でスクーバダイビングのライセンスを取ろう、ということになったらしい。ライセンスを取るために、わざわざ奄美大島まで行ったんだよ。三日間で取得したあと、滞在最後の四日目だった。飯田は、大島からフェリーで二十分ほどのところにある加計呂麻島の海に浮いていたんだ」
「ということは、死んでたんだー」智明は膝を両手で押さえて、貧乏ゆすりをやめた。
「そうだよ。俺が飯田の母親を連れて現地まで行ったから、詳細まで憶えているよ。悲惨な事件だったよな、あれは・・・・・・」
 正樹は煙草を深く吸うと、上を向いて一点を見つめた。
「・・・・・・警察から聞いたことを話してあげるよ」
 正樹は視線を元に戻して、吸いかけの煙草を床に捨てた。
「二人は、ライセンスを取ったばかりの四日目に、二人だけでダイビングをしよう、と大島からすぐの加計呂麻島に渡ったんだ。彼女によると、飯田が無理に誘ったようだけど、本当はどうだか。どちらにしても、ライセンスを取ったばかりでまだ素人同然だよ。二人だけで潜るのは無茶な話だ」
 正樹はグラスに三分の一ほど残った冷酒を飲み干した。
「彼女は事情聴取で、警察にこう言ったらしい」
『お昼過ぎに、安脚場西というダイビングスポットに潜った。十五分くらい経ったところで、五メートルほど先を泳いでいた彼は、レギュレーターの調子が悪くなったのか、BCジャケットをはずして何やらタンクを触り始めた。しばらくすると、何もなかったかのようにまたタンクを背負って更に深く潜っていった。その日は透視度が悪く、私は彼を見失ってしまった。そのあと急に怖くなって、すぐに浮上してボートに戻った。でも飯田は浮上してこなかった』
「そう言ったんだってよ。それしか憶えていないってね」
「じゃぁ、やっぱり事故だったんだ」
 智明は正樹のグラスを指差して、おやじさんに酒を注文した。
「でも、警察はそうは見ていなかった。残圧計を確認すると、飯田のタンクは四分の一ほどのエアが使われただけだった。二人のタンクには、通常なら一時間くらい潜水できるエアがつめてあったそうだ。彼女、成実のエアも四分の一しか減っていなかった。それに、飯田が引き上げられたとき、彼のタンクのバルブは閉まっていたそうだ」
「と、いうことは・・・・・・」
 智明は目を閉じてじっと考えてみた。
「考えることないさ。飯田が更に深く潜っていったなんてことは真っ赤な嘘だ。もしそうだとしたら、タンクのエアはもう少し減っていたはずだ。それに男性の方が女性よりエアの消費が早い。成実の言うことが真実なら、飯田のエアは三分の一以上減少しているはずだよ。要するに、潜って十五分ほど経ったところで、誰かが飯田のタンクのバルブを閉めたんだ。水中で背後から忍び寄ってバルブを閉めたんだよ。バルブは人為的な力じゃないと開け閉めできないんだ。・・・・・・あいつはとんでもないバディーだよ」
 智明は納得顔をしながらも、十分に理解できていない様子だ。
「ちょっと待てよ。上級者のお前と違って、俺はダイビングのことはよく知らないんだ」
 智明はわずかに口を尖らせた。
「ごめん、そうだったよな。少し説明するよ。エアタンクの上部には、エアを出すためのバルブがついているんだ。潜る前に、閉まっているバルブをいったん全開にしてまた少し戻す。こうしてエアが出る状態にセッティングするんだ。開け切ったままバルブを止めていると、次にバルブに触れたときに、開いているのか閉まっているのか分からなくなるからなんだ。そのタンクを背負って水中に潜るんだよ。だからエアを出すためのバルブは命綱と言ってもいい。それで潜る前後には、必ずバルブを確認することになっているんだ。そしてタンクのエアは、エアチューブを通じて口にくわえたレギュレーターに流れる。だから水の中でも空気が吸えるというわけさ。もし水中で、うしろから誰かがタンクのバルブを閉めたとしたら、エアの供給が止まってしまう。つまり空気が吸えなくなる。でも水中で自然にバルブが閉まるなんてことはまずあり得ない。万一何らかの手が加えられ、バルブが閉まって突然エアの供給が止まったとしたら・・・・・・、上級ライセンスを持っている俺だって、パニックになって窒息死してしまうよ。それくらいダイビングは危険と隣り合わせなんだ」
「へぇー、そうなのか」
 智明は目を丸くして何度もうなずいた。
「それに、ダイビングをするときは、普通はペアで潜るんだ。お互いをバディーと呼んでいる。そのバディーっていうのは、水中でお互いの安全を確認しながら助け合う義務を負っているんだ。そのためにレギュレーターは背中から二本伸びている。一本は自分のために。もう一本は『オクトパス』と呼ばれていて、予備のレギュレーターだ。バディーのエアが切れたり、何らかのアクシデントでエアが吸えなくなったときに、自分のエアをバディーに吸わせるために使うんだ。もし飯田の器具にトラブルが起こったら、彼女は自分の『オクトパス』で、彼にエアを吸わせる義務があるんだよ。それなのに・・・・・・」
 スクーバダイビングというスポーツを完全に冒涜された、と正樹は今でも思っている。悔しそうな顔をして、吸い口に歯型のついた煙草を床に叩きつけた。
「要するに、彼女はバディーとして飯田を助ける行動も起こさなかったし、ひょっとしたら、タンクのバルブを閉めた可能性もあるんだ。そういうことだろう?正樹」
「そのとおりだ」
 智明は納得顔で口を真一文字に結んだ。
「それを警察も疑ったんだ。でも・・・・・・、エアの減り具合は、水中での運動の度合や、体調、水温などによっても異なる。一概に、飯田が十五分後にエアを吸えなくなって死んだとは言えない。死亡推定時刻も一時間ほどの幅があるから、潜り始めて十五分後だとはとても推定できなかった。その上バルブには指紋など残っているはずもない。結局、状況証拠もあやふや、ましてや物的証拠など何も残っていなかった」
「じゃぁ、バルブを閉めたのは誰だ」
 智明は、一瞬右頬をピクつかせた。
「俺が訊きたいよ。彼女は、飯田がマリッジブルーになっていて、タンクのバルブを自ら閉めて、深く潜水していったんじゃないか、って言っていたそうだ。飯田は島が好きだから、死に場所をエメラルドブルーの海にしたかったんじゃないか、ってね」
 正樹は、人を小馬鹿にするような目をして笑った。
「自殺ということか?」
「結果的には、警察の見解はそういうことだ。手帳の走り書きが遺書だと認定されたんだよ。飯田の手帳には結婚に対する不安が綴られていたよ。俺もそれを見た。でも・・・・・・、五十になった男が、初めて結婚する恥じらい。言い換えれば、結婚への戸惑いをメモ書きしたようなものだった。あの歳で、美人で肉感的な女と結婚するんだからな。幸せの絶頂の中、今までもてたことのない男が成実に対して疑心暗鬼になるのは当然のことだ。飯田に自殺する理由なんてないよ。結婚が決まろうとしていたんだぞ。それも、婚前旅行で行った綺麗な海で死ぬやつなんているか?あの走り書きは遺書なんかじゃないッ」
 正樹は落とした声のトーンを急に上げた。
「そうだとしたら犯行の動機は何だ」
「それが分からないから事件にならなかったんだよ。飯田の死亡保険金の受取人は母親のままだったし、飯田にはほかに付き合っている女もいなかった。当然借金もない。ましてや、大阪に二人のマンションまで買おうとしていたんだぞ。殺される理由もないし、自殺する理由もないッ」
 智明はゆっくりと顔を上げた。
「でも、状況から考えるとやっぱり自殺だろう」
「いや違う。俺は現場に行ったんだけど、世界的にも有名な本当に綺麗な海だ。あれほど透明度の高い海は見たことがない。色鮮やかな熱帯魚が、波打ち際で跳ねるように泳いでいるんだ。人はあんなに綺麗な海で自殺なんてしない。絶対に自死など選ばない。だから彼女が殺したとしか思えないんだよ・・・・・・」
 正樹はきっぱりと言い切った。
「その根拠は?」
「何もない。でも・・・・・・、水中で飯田のタンクのバルブを閉めることができたのは、彼のそばにいた人間だけだ」
 正樹は煙草を深く吸って、肩で大きな息を吐いた。

 七

 幕の内弁当にお茶、列車の旅の定番だ。智明は下りの「のぞみ」に乗ると、すぐに弁当を開いて黙々と箸を動かした。
 今日は「全国業務部長会議」の日だ。六月は大阪本社、十二月は東京本社。年に二回、西と東の本社で全社会議が開かれる。
 智明は会議に出席することにはあまり気が進まなかったが、翌日、昔桐子と一緒に仕事をしていた大阪北支社の池川和子と会うことになっている。
 会議はその日の午後から始まり、翌日の午前中で終了した。
 中味のない会議に、全国から二百人もの人間を集めるのは如何なものか、といつも疑問を持つのだが、今回大阪に来た目的は和子に会うことだ。旅費が浮くわけだから、今度の出張に限っては文句など言うつもりはなかった。
 智明は、淀屋橋の大阪本社を出ると、御堂筋線で難波まで行き、ぶらぶらとミナミで時間をつぶした。和子とは五時半に心斎橋の串揚げ屋で会う約束をしている。

「お久しぶりー」店の奥から大きく手を振るのが見えた。
 和子は桐子と同じ歳だ。大阪の大学を中退してアメリカに行ったまま、二年もの間帰ってこなかった。封建的な母親は身勝手な和子に激怒して、帰国しても家には入れなかった。そのまま母子の関係は修復せず、和子はやむなく大阪の祖母の家に居候をして、うちの会社に事務員として入社した。和子から直接聞いたことはないが、周りからそういう話を聞いている。智明は和子と一緒に仕事をしたことはなかったが、組合の活動を通じて以前から懇意にしていた。
「久しぶりだね」和子と会うのは五年ぶりだ。
 和子はまったく変わっていなかった。背が高く女性としては理想的なスタイルを維持している。懐かしい香水の匂いがした。
 透きとおるような肌に切れ長の目、チョコンとのった鼻とキュートな唇。長い黒髪が似合う日本的な美人だ。まだ四十そこそこに見える。
「今日はトモちゃんに会えると思うと嬉しくて、五時ピタで上がってきたのよ」
「無理させたな。俺だって楽しみにしてたよ」
「明日は土曜日だから、今日はゆっくりできるんでしょう?」
「うん。明日は京都にでも一泊して、日曜日に東京に帰ろうと思ってる」
「じゃぁゆっくり飲みましょう」
 和子は右の頬に小さなえくぼを作った。
「ところで、お祖母さんの節子さんは元気にしてるの?」
「それが・・・・・・、昨年亡くなったの。九十四だったわ」
 和子は眉尻を下げて煙草に火をつけた。細いフィルターが可愛い口元によく似合う。
「えー?五年前に家に寄せてもらったときは、あんなに元気だったのに・・・・・・」
「肺炎だったのよ。もう歳だったから仕方がないわ」
 和子は唇を丸めて細い煙を吐き出した。
「じゃぁ、和子はあんなに大きな家に一人で住んでるのか?」
 和子の家は天満橋にある旧家で、昔は大きな薬問屋を営んでいた。大阪城のすぐそばにある。
「そうよ、一人でいると結構怖いのよ。誰かに部屋でも貸そうかしら」
「そうか、じゃぁ大阪に骨を埋めるつもりだな、和子は」
「そういうことになるのかなぁ・・・・・・」
 和子はわずかに捲れた上唇をペロリと舐めた。
 そうこうしているうちに、ビールと串揚げが運ばれてきた。
「じゃぁ、お疲れさーん」二人はジョッキを軽く持ちあげた。
 和子はこころから嬉しそうな顔をして、瞬く間にジョッキを半分ほど空けた。
「これだよなー。この紅ショウガの串揚げが、また酒に合うんだよー」
 智明も負けじとビールを一気に流し込んだ。
「ところで、今年桐子が、そっちに転勤したんだって?」
 智明がさっきから期待していた問いかけだった。
「そうなんだ。首都圏は特に他社との競争が熾烈で、女性の営業所長にとっては厳しい環境なんだけど、意外に頑張ってるよ」
「トラブルは起こしてないの?」
「うん、今のところはね」
 和子はゆっくりと顎を引いた。
「でも・・・・・・、きっと何か起こるわよ」
 和子は一点を見つめたまま、アスパラの串揚げをソースに浸して半分ほど齧った。
「縁起の悪いこと言わないでくれよ」
 智明は和子の目をじっと見つめた。
「そんなに見つめないでよッ。緊張しちゃうわ」
 和子は白い歯を見せて笑った。
「ごめん、ごめん。でも成実さんにそんな素振りはないよ」
「今のところはそうかもしれないけど・・・・・・。トモちゃんは桐子の本性を知らないのよ」
 和子は、昔同僚だった桐子のことをよく知っているはずだ。智明は妙にこころがざわついて、しきりに目をしばたかせた。
「聞いてるでしょう?名古屋でのこと」
「いや、よくは知らないよ」智明は、桐子の友人が死んだということしか知らなかった。
「本当に知らないの?有名な話よ」
 和子は不思議そうな目をして、智明の顔を舐めるように見た。
「よかったら教えてくれよ」
 智明は、やっと話が本題に入った、とこころの中でほくそ笑んだ。
「うーん。・・・・・・よけいな話かもね」
 和子は目を逸らして、海老の串揚げを頬張った。
「意地悪するなよ。今俺は彼女の上司なんだ。何があったのか知っておきたいよ」
 和子はニヤリと笑って泡盛を注文した。
「じゃぁ、泡盛付き合ってよ」
「お安いことだよ」智明は腹を決めた。今日はとことん和子に付き合おう。
 和子は煙草に火をつけて、細い煙を天井に向けて吹き上げた。
「事件があったのは二年前の夏よ。『賀茂涼二』という和子の同僚が死んだのよ。賀茂さんは大阪の出身だから、私、彼のことよく知ってるの」
 まただ。こんな共通点なんて本当にあるのか。もうこれは偶然ではない。智明はこころの中で自分に言い切った。
「どんな事件なんだ」
「賀茂さんはねぇ、桐子と同じ営業所長をしていたの。彼は桐子のことが好きだったみたいね。仕事が終わると、毎晩桐子にメールを入れてたみたいよ。桐子はずっと無視してたんだけど、いいかげん可哀相になって、ある日、デートを承諾したの。彼女、私にそうメールしてきたわ」
「ふ~ん。よくある話だね」
「うん、そこまではね」和子は気だるそうな目を智明に向けた。もう酔ってきたのだろうか、少し潤んでいる。
「賀茂さんはねぇ、とても海が好きだったの。知多の海岸に行っては、よく釣りをしてたみたい。ときには、船ですぐの日間賀島に渡って、海に潜ったりもしてたらしいわ」
「ごめん、ちょっと待って。彼は沖縄のような南の島も好きだったのかな?」
「よく知ってるわね、そうよ。彼は一人で、沖縄本島や、慶良間諸島、石垣島、西表島、与那国島・・・・・・、数えたら切がないくらい南の島に行ってたみたいよ」
 そうだ。まさにそうだ。すべての男に共通点がある。これは絶対に偶然じゃない。智明は口の中でブツブツとつぶやいた。
「何言ってんの?」和子は訝しげに智明を見た。
「悪いな。よけいなこと思い出しちゃってさぁ。続きを頼む」
「ちゃんと聞いてよ、まったくぅ」
 智明は口元を引き締めて、和子の顔をじっと見た。
「最初のうち賀茂さんは、桐子の気を引くために何度も離島に潜りに行こう、って誘ってたようなんだけど、桐子は海が嫌いだったから、まったく興味を示さなかったらしいわ。賀茂さん、桐子のことまるっきり分かってなかったのよね。彼、優しくて誠実な人なんだけど、見た目がそんなにいいわけでもないし、内気な性格で少し女々しいところがあるの。気の強い桐子とはまず合わないタイプよ。だから賀茂さんは彼女にふられっぱなしだったのよ」
 桐子は海が嫌い?そんなことはないはずだ。好きだから奄美大島まで行ったんだろう。智明は怪訝そうな顔をして泡盛の水割りをグビリと流し込んだ。
「成実さんは海が嫌いなの?」
「そうよ。私が入社したころ彼女から聞いたわ。彼女、入社前にあることがあって、海が嫌いになったらしいの」
「何があったんだろう」
「詳しいことは知らないけど・・・・・・、昔の男が海を好きだった、いや海に関係があったのかもね。その男に恨みを持ったままだから、海が嫌いなんじゃないの?今考えるとそんな気がするわ。でも・・・・・・、これ、ただの勘だからね」
 和子はわずかに白い歯を見せた。
 海に関係がある男・・・・・・。智明は頭が混乱して急に黙り込んだ。
「何考えてるの?トモちゃん」
「成実さんは、本当に海が嫌いだったの?」またしつこく問いかけた。
「もーう、間違いないわよ。彼女が直に私に言ったんだから。要するに私とは正反対なのよ」和子は頬を膨らませた。
「そうかー。不思議だ」智明は小さな声でつぶやいた。
「何か気になることでもあるの?」
「いや何でもない。ごめん」
 しかし、智明はしつこく首をひねった。
「今日のトモちゃん、何だか変よ」
「本当にごめん。ちょっと疲れてるのかな」
「なら、いいけど。少し飲んだら」
 和子はすぐに二人分の泡盛を注文した。
「どこまで話したんだっけ。あぁ、そうそう。・・・・・・でも八月になって、桐子はある条件を出したの。そして、その条件を賀茂さんが呑んだから、デートっていうのかな、旅行っていうのかな。それを承諾したの。そして旅先で事件は起きたのよ」
「条件?」智明は首をかしげた。
「まぁ、条件というよりも希望だね。『ダイヤモンド富士が見たい・・・・・・。それを叶えてくれるなら一緒に旅行に行くわ』ってね。それで二人して行ったんだって、富士山が見えるところにね」
「しかし、和子も一緒に行ったみたいに詳しいな」
「違うのよぅ。組合にいた幸ちゃん夫婦が桐子たちに同行したのよ。でも、嫌々ながらね。二人だけで行ったりすると足がつく、って思ったんじゃないの?周りの目をすごく気にする子だから、当然よね」
「じゃぁ、幸ちゃんから事件の一部始終を聞いたのかい?」
「そうよ。今は、もう退職して大阪の実家に住んでるけどね」
「一緒に行った幸ちゃんから聞いたのなら、話の内容に信憑性があるな」
「でしょう?」和子は鼻を上に向けてニヤリとした。
「それで、どんな事件だったの?」
「たしか、八月十九日って言ってたかなぁ。四人は富士六湖の六番目の湖『田貫湖』に出かけたの」
「えっー?富士六湖なんてあるの?」
「うん。六番目の湖は、普段は枯渇している『赤池』だとか、人造湖の『田貫湖』だとか言われてるけど、『ダイヤモンド富士』で有名なのは『田貫湖』よ。まぁ、ここでは富士六湖がどちらなのかは関係ないじゃない。とにかくそこに行ったのよ」
 和子は運ばれてきたホタテの串揚げを、ふぅふぅ言いながら頬張った。
「昼過ぎに田貫湖に着いた四人は、テントを張ったり、バーベキューの準備をしたり、それはもう楽しそうにはしゃいでたらしいわ。桐子は昔からアウトドア好きだから、先頭に立って働いてたみたいよ」
「キャンプかぁ、何だか楽しそうだな。俺も行ってみたいよな」
 智明は子どものように相好を崩した。
「桐子の昔の彼がアウトドア派でさぁ、桐子もかなり鍛えられたらしいわ。だからキャンプの設営には詳しいのよ。キャンプ用品の使い方なんかもよく知ってるわ、彼女」
「ふ~ん、そんなふうには見えないけどなぁ」
「今はもうやってないんだろうけどね。子どももいないのに、わざわざ虫に悩まされるキャンプなんて、もう行かないわよぅ」
「女の人ってそうなんだ」智明はストレートをひと口飲んで、口元を曲げた。
「でもね。不思議なことに、賀茂さんと桐子はキャンプの前からもうできてたみたいなの」
「何でそんなことが分かるの?」
「だって・・・・・・、幸ちゃんが言ってたわよ。二人用のテントを張るとき、桐子が幸ちゃんにこう言ったらしいの。『幸ちゃんたちのテントは、私たちのテントから離れたところに張ってね。だって、夜中にあの声が聞こえたら恥ずかしいじゃない』だってさぁ。あの歳でね。嫌になっちゃうわー」
 和子は自分の言ったことに、少し顔を赤らめた。
「本当にそんなこと言ったのか?」
「だって、幸ちゃんがそう言ってたもん。間違いないわよ」
 テントを自分たちから離れたところに設営させるなんて、きっと別の目的があるはずだ。智明は怪訝そうな顔を和子に向けた。
「まぁ、女っていくつになってもそんなものよ」
「それから?」智明は少し酔いの回った和子を急かせた。
「それから、バーベキューをして飲んで食べて、楽しい宴会だったらしいわ」
「そんなことはどうでもいいよ。事故はいつ起きたんだ。どんな事故だったんだ。俺は賀茂さんが死んだことしか知らないんだよ」
「ちょっと待ってよ。本当に賀茂さんがどんな事故で死んだのか知らないの?」
「そうだよ。たぶん、会社が事実をオープンにしなかったんだろう。情報は俺のところまでは流れてこなかったよ」
 智明は顔をしかめて、チェイサーで泡盛を流し込んだ。和子は平気な顔でロックをグイッと空けた。
「その夜は、ビールのほかに焼酎を二本も空けたんだってさ。かなりの量よね。そして夜中の二時ころに、桐子たちのテントが燃えたのよ。周りの人たちは、早朝のダイヤモンド富士を見るために早く寝てたから、火の勢いが強くなるまで誰も気づかなかったみたい。それに、桐子たちのテントはトイレの近くに張られてて、そばには一張のテントもなかったみたいなの。死んだのは、テントで寝てた賀茂さんだけよ」
「トイレの近く?普通、女性じゃなくてもそんなところ避けるだろう。いくら綺麗なトイレでもそれは変だよ」
「十メートルくらい離れてたらしいけど、そこを選んだのは桐子らしいわ。周りにテントを張る人なんかいないから、その静かな環境がよかったんじゃないの?」
 智明は口を尖らせると、わざとらしく鼻を摘まんだ。
「信じられないな」
「でも・・・・・・、でも事実だからね」
 和子の目がわずかに泳いだ。
「いくら何でもそんな場所にテントを張るなんて、俺は、他意があったとしか思えない。トイレを何かのための目印にしたとか、ね」
「そうかなぁ」聞きとれないほどの小さな声だった。
「それで、成実さんはテントが燃えてるとき何をしてたんだ」
「幸ちゃんたちが寝たあとも、桐子たちは湖岸に張ったタープテントの下でお酒を飲んでたようなの。かなり酔った賀茂さんは、ふらつきながらテントに戻ったみたいだけど、桐子は気分が悪くなって、そのままタープテントの下で寝入ったんだって。テントまでは百メートルほどあって、全焼するまで気がつかなかった、ってさ。まぁ気がついたとしても、テントなんてあっという間に焼け落ちちゃうから・・・・・・。要するに火ダルマになった賀茂さんにまったく気がつかなかったのよ」
「誰も気づかなかったのか?」
「そうよ」和子はいかにも見ていたかのように断定した。
 智明は、和子も田貫湖に行ったような、奇妙な感覚に襲われた。
「テントの中に敷くマットにねぇ、ランタンとかバーナーに使うホワイトガソリンがしみ込んでいたんだって。だからほんの一瞬で燃え上がったのよ」
「何でそんなものが」
 智明は大きく首をかしげた。
「その後、警察の事情聴取があったようなんだけど、桐子は警察に詫びたらしいわ」
「それじゃぁ、本当は成実さんが・・・・・・」
「違うわよ。慌てないで」
 和子はシガレットケースから煙草を取り出して、ゆっくりと火をつけた。
「今日は桐子のことばかりね。久しぶりに会ったのに・・・・・・」
 智明は少し顔をふせて詫びてみせた。
「ごめん。聞き出したら止まらなくなっちゃってさぁ」
 智明は、桐子に対する執拗なまでの好奇心に、自分でも驚きを隠せなかった。
「いいわ。時間はたっぷりあるんだから・・・・・・、じっくり話してあげる」
 和子は薄い唇を丹念に舐めたあと、煙草を軽くくわえた。
「賀茂さんは、酔っぱらってフラフラしてたんで、テントに入るときにその脇に置いてあったホワイトガソリンのタンクを蹴飛ばしたのよ。それがこぼれて、テントのマットにしみ込んだの。そのあと、ヘビースモーカーの賀茂さんは寝煙草をしたのよ。それが引火して、一瞬のうちにテントは燃え上がったらしいわ」
「そうだったのか・・・・・・。悲惨だなぁ」
 智明は眉間に皺を寄せた。
「もし、ガソリンタンクの蓋が閉まってれば問題なかったんだけど、それが空けっ放しだったのよ。桐子がランタンにホワイトガソリンを入れたとき、閉め忘れてそのままテントの脇に置いたんだって。それで桐子は警察に詫びたのよ。私のせいだって。泣きじゃくったらしいわよ」
「うーん、何となくでき過ぎてるな」智明はぼそっとつぶやいた。
「どう思う?この事件」かなり酔っているのか、和子の唇は赤く濡れていた。
「事故じゃないと思う。殺されたんだ」
「ほんとッ?」煙草が和子の指から滑り落ちた。
 和子は何もなかったかのように、ゆっくりと拾い上げて灰皿でつぶした。
「だって、タープテントから成実さんたちのテント、そして幸ちゃんたちのテント。あまりにも離れ過ぎだ。トライアングルの形に距離を取っていたんだろう。俺はアウトドアに関しては素人だけど、普通タープのそばにテントは張るだろう。それに二つのテントを離して張るなんておかしいよ」
「そう言えばそうね・・・・・・」
 和子は右頬をピクリとさせた。
「成実さんはそのときいくつだ。もう子どもじゃないんだろう?何もダイヤモンド富士を見にきてまで、トイレのそばに張ったテントでセックスしたい、なんていうのは異常だよ。それに夜中のセックスの声を気にしてたのに、彼を先に寝かせて、ひとりで起きているのもおかしい。二人で寝るために、幸ちゃんのテントと距離を置いたんだし・・・・・・。ガキじゃないんだからなぁ」
 智明は、辻褄が合わない話にいらだって、語気を強めた。
 和子はとっさに目を逸らし、口をわずかに歪めた。
「そ、そうよね。幸ちゃんたちは、十一時過ぎには寝た、って言ってたしね」
「普通そうだよな。だって、翌日はダイヤモンド富士を見るために、早く起きなきゃいけないわけだからな。それとも若い子のように、夜通しのパーティーをするかだ」
「・・・・・・」和子は大きくうなずいた。
「それに、ホワイトガソリンがテントのそばに置いてあるのもおかしい。電灯の代わりに使うランタンは、タープテントのポールにかけるものだし、ガソリンバーナーはクッキング用だろ?だったら、タープテントの下で食事をするわけだから、バーナーもその辺にセッティングするはずだよ。だから、ガソリンタンクはタープテントの脇にでも置いてないとな。遠く離れたテントのそばに置くなんて、あり得ないね」
「そうね。学校を出てからキャンプなんてやったことのない私でも理解できるわ。でも事件にならなかったんだから・・・・・・、今さら言っても仕方ないよ」
 泡盛をひと口飲んでから和子は言った。
 智明は少し疲れたのか、何度も首を回しながら考えた。
 今の自分は、いたずらに事件のことを勘ぐり過ぎて、うがった見方をしているのかもしれない。どうしてなんだ。もっと素直な気持ちにならなければ・・・・・・。
「でもさ、色々言っても、しょせん俺の邪推だし、ここでいくら話しても本当のところは分からないよな。警察はきちんと調べたんだろう?」
 智明は桐子の潔白を信じたかったが、なぜか得体の知れない蟠りがこころの奥でくすぶり続けていた。
「そうよ、幸ちゃんも色々訊かれたらしいわ。現場にはおかしなところもあったんだろうけど、すべてが燃えつきたわけだから、調べても何も出なかったみたいよ」
「要するに、事故として処理されたんだ」智明はため息を吐いた。
「結局、桐子の供述がすべて。だから結果はシロだって。疑っても仕方がないわ。この話はもうやめようよ」
 和子はカマンベールの串揚げを齧って、妙な笑いを浮かべた。
「そういうことだな」
 でも、やはり不思議だ・・・・・・。成実が関係した男は、転落死、自殺、水死、焼死。死因は異なるが、死んだ男には妙な共通点がある。ただの偶然だろうか。それとも・・・・・・。いや考え過ぎだ。やはり偶然だろう。彼女はそんな悪人じゃない。殺された男たち、いや死んだ男たちに過失があったんだ。
「どうしたの?トモちゃん。もう酔ったの?」
 和子は赤い目で智明を睨んだ。
「何言ってるんだよ。これくらいじゃ酔わないよー」
 智明はグラスに残った泡盛を飲み干して、無理に白い歯を見せた。
「じゃぁ、どんどん飲もうよ。もう桐子のことは忘れてッ」
「おうー」智明も気分を変えるために、一気にシャツの袖を捲り上げて気合を入れた。

 店を出ると、時計は九時半を回っていた。
「うぁー、四時間も飲んでたのか」
 智明は夜空を見上げて大げさな声を上げた。
「まだ宵の口じゃない。もうちょっとだけ飲もうよぅ」
 和子は、智明の腕をつかんで甘えた声を出した。
「だめだ。もうこのへんにしよう」
 智明はタクシーを停めると、和子をシートの奥に押し込んでから、慌てて自分も乗り込んだ。

 天満橋駅を右折すると、左に大手門高校が見えた。奥には贅をつくした大阪城が、ライトアップされて輝いている。高校のすぐ右手が和子の家だ。タクシーは家の前の掘割から少し離れて停まった。
「お疲れさん。じゃぁな」智明は機械的に別れを告げた。
「何言ってるの。うちに寄っていってよ」
「だって、もう遅いよ」
「えっ?冷たいわねぇ。お祖母ちゃんにお線香くらいあげていってよぅ」
 和子の頬はリンゴ色に染まっている。
「ごめん。気がつかなかった。じゃぁ、少し寄っていくよ」
 智明は待たしていたタクシーに料金を払った。
 冠木門を越えて十メートルほど歩くと、竹垣の向こうに玄関が見えた。和子がゆっくりと引き戸を開けると、湿った空気が鼻をついた。
 四畳半はあるのでは、と思えるほどの三和土には、ポツンと赤いサンダルが置いてある。
「懐かしいな。でもこんな広い家に一人でいるのか・・・・・・」
 智明は重い沈黙に耐えきれず、何とか言葉を探し出した。
「そうよぅ」和子は振り向いてニヤリと笑った。
 廊下に上がると、黒光りしている板に天井の赤色灯がユラリと反射している。廊下の左右に三つずつ部屋が並んでいて、突当りは台所だ。和子の部屋は二階にあったような記憶がある。
「こっちに座ってて」台所の奥にある十畳ほどの居間に案内された。
 居間は立派な太い柱が使われており、重厚な雰囲気を醸し出している。が、今風の薄型テレビや、コンポ、パソコンがすっきりと配置されていて、女性の一人住まいだということが改めて実感できる。
 智明は隣の部屋で仏壇に線香をあげたあと、居間の黒いソファーに腰を下ろした。
「ごめんなさい。こんな物しかなくて」
 和子は生ハムとチーズを盛ったガラスの皿をテーブルに置いた。
「もう気を遣うなよ」
 淡い緑のエプロンがとても清楚に見える。
「これ開けてくれる?」和子は高級そうな白ワインを智明に差し出した。
 智明は上手にコルクを抜くと、二つのクリスタルグラスにワインを注いだ。
「乾杯ー」二人は、ともに妙な照れ臭さを感じた。
「ふぅ~、美味しい」和子は小さな口から軽い吐息を漏らした。
「でも、やっぱり一人には広すぎるな」
「そうなの。いつもこの部屋で食事をするのよ。何だか寂しいでしょう」
「いっそのこと、マンションにでも建て替えたらどうだ」
「でもねぇ・・・・・・。長いことお祖母ちゃんと暮らした家でしょう。やっぱり愛着があるのよね。結婚でもしたらいいんだろうけど、そんな人もいないし」
 和子は拗ねたように目線を落とした。
「和子なら大丈夫だよ。きっといい人が見つかるよ」
 言ったあとで、無責任な言葉を吐いたような気がして、智明は一瞬目をふせた。
「ありがとう。でも無理だと思うわ。もう子どもも産めないから、このままこの家で一人年老いていくだけよ」
 和子は上目遣いに智明を睨むと、寂しげに笑った。
「ところでさぁ、最近は潜ってるの?」
 雲行きがあやしくなるのを感じて、智明は突然話題を変えた。
「最近はさっぱりよ。だって一緒に潜ってくれる彼もいないもん」
「あれだけのダイビングの技術をもってるのに、もったいないなぁ」
「だったらトモちゃん、資格を取って一緒に潜ってくれる?」
「俺はだめだよ。泳げないもの」
「最近の男はみんなそう言って逃げるのよ。結局、トモちゃんもそいつらと一緒ね」
「だって・・・・・・、俺たち東京と大阪に離れて生活してるんだよ」
「いいじゃない。私、東京に行くわ。そして東京から二人で沖縄に飛ぼうよ。綺麗な海で魚と戯れて何日も過ごすの、楽しいわよ」
「そうだな。考えてとくよ」
 智明は人差し指で軽く鼻の頭を掻いた。
「気のない返事ね。私、やっぱりこの家で一人年老いていくんだわ。皺皺のオババになっちゃうね。フフッ」
「そんなに悪いように考えるなよ、必ず一度行くから。今夜は飲もう。ガンガンいこうよ」
 湿っぽくなった雰囲気を変えようと、智明は無理にはしゃいで見せた。
「そうね。今夜はつぶれるまで飲むかな。トモちゃん介抱してね」
 和子はピンクの舌をチョコンと出して、ぎこちなく片目をつむった。
「ところでさぁ、話を戻して悪いけど、桐子は幸せにしてるの?」
「東京に来てまだ三カ月だからよく分からないけど、今は吉祥寺の借り上げマンションに住んでるよ。楽しくやってんじゃないのかなぁ」
「そう、ならいいんだけど。あの子も私と同い歳でもうすぐ五十よ。寂しい思いしてないのかなぁ」
「支社で女性の営業所長は彼女一人だけど、仕事のことで別に相談もないし、男性社会にうまく溶け込んでるんだと思うよ」
「でもねぇ。昔の桐子は男性アレルギーだったのよ」
 和子は口元についたワインをペロリと舐めた。
「へぇー、そんなふうには見えないけどな」
「彼女、高校を出たあと、キャビンアテンダントになるための専門学校に行く予定だったのよ。でも入学直前にやめたらしいわ。その後一年遅れでうちに入社したの。きっと当時何かあったのよ。私が入社したてのころ、詳しいことは訊かなかったけど、それが原因で男性アレルギーになった、って言ってたわ」
 和子は、なぜこんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。いずれにしても智明に媚びているのは、桐子に妙なジェラシーを感じたからだろう。
「ふーん」智明はわざと興味がないような振りをしてグラスを空けた。
 和子は、酔っているからもうこのへんにした方がいい、と思いながらも漏れ出る言葉を止めることはできなかった。
「しばらくの間入院してた、って言ってたかなぁ」
「体調でも壊して、一年を棒に振ったんだろう」
「そんな単純なことじゃないと思うわ。色々あったみたいよ。家庭環境も複雑みたいだし」
 和子は染みが広がった天井をじっと見つめたあと、神妙な顔で煙草をふかした。
 そのことが今までの事件に関係しているのか。智明は桐子の空白の一年が気になったが、もうこれ以上桐子の話題に触れるのは控えた方がいいと思った。華やかな東京で暮らす桐子に、和子が嫉妬しているように感じたからだ。
「もうやめようよ、重たい話は。酒が不味くなる」
「そうね。ごめんなさい。トモちゃん、ポテトフライ食べる?冷凍ものだけど」
「うん、いいね。ケチャップをたっぷり添えてよ」智明はニッコリと笑った。
「昔から好きねぇ。ケチャップなんて、子どもみたい」
「いいんだよ、いつまでも子どもでね。ひょっとしたら、結婚できないのはケチャップ好きのせいかなぁ」
 和子は口に手を当ててクスッと笑った。
 淡いブルーのカーテンを揺らして、一陣の風が吹きこんだ。静かな夜だった。

8-10

「雄三、元気そうやなぁ」
「修こそ変わらないよ」
 修は大学時代の友人の結婚式で、金曜日から大阪に来ていた。
「鈴木は五十過ぎて初婚だとさ。考えたら羨ましいよなー」
 雄三はラウンジの他の客に気を遣いながらも派手な声で笑った。
サングラスのお陰で、誰も彼がユウヤだとは気づいていない。
「嫁はんはひと回り以上も下やぞ。それこそ犯罪ばい。明日の披露宴で少しからこうてやらんといかんなぁ」
 大学時代、雄三と同じゼミにいた修は、二年ぶりの再会にすっかりこころが和んでいた。
「相手は三十八歳やて。十四も年下か。人生どこに幸せが隠れとるか分からんなぁ」
「まさにそのとおりだな。俺もあんなことがなかったら・・・・・・」
 雄三はつぶやき、サングラスをはずした。右耳に光る派手なピアスと、うしろで束ねた長い髪が、常人の世界にはいない人間だということを物語っている。
「雄三とはもう三十年以上の付き合いか。まぁ、お互い昔のことは時効ばい」
「俺なんかこんな商売してるから、過去のトラブルは些細なことでもタブーなんだよな」
 修は分かったようにうなずいて、コーラをグビリと流し込んだ。
「四回生の冬やったかなぁ、お前の突然の言葉にビックリしたばい」
「そうだったよなぁ、確か雪が降ってたよ」
「あのときお前、『就職の内定を断るかもしれない。俺は音楽で身を立てたいんだ』そう言うたもんなぁ。俺は、『バカなことぬかすな。世間はそんなに甘いもんやなかぞ』そう諭したど、結局お前は聞かんかった。あげな大企業の内定を袖にするやて・・・・・・、俺たちから見ると尋常やなかった。思うたとおり、お前はデビューしても鳴かず飛ばずやったよな。そして音楽事務所でプータローをしとったとき、お前を元気づけようと、みんなで旅行ばしたよなぁ。そやけど帰ってくると、お前はすぐに消息ば絶った。再会でけたんは俺の結婚式やった・・・・・・。思い出すのう」
 雄三は遠くを見るような目をして、煙草を深く吸い込んだ。
「確か卒業前の三月だったかな。でも、やっぱり就職して地道に暮らそう、と思い直したときだった。付き合っていた女と色々あってさぁ。自暴自棄になってしまった。というか、本当はあの女のしがらみから抜け出したかったのかもね。それに、ちょうど今の事務所から強引に誘われていたしな。仕方がなかったよ。直前になって就職をやめたんだ。それからしばらくして、気晴らしでお前たちと旅行に行ったけど、帰ってきても状況は変わらなかった。まったくやる気が無くなってさぁ、それでみんなの前から姿を消したんだ。すまなかった」
 雄三はバツが悪そうに目を逸らした。
「でも、なんがあったか知らんけど、厳しい芸能界で成功でけてよかったやないか。大したもんや。高三の娘の結花なんか、お前のサインが欲しいて俺に拝みよったぞ。『ユウヤ』のサインが手に入るならパパのこと一生大事にする、ちゅうてな。五十過ぎた男に若い子が群がる。こんなことあっていいのかのぅ」
「修、そんなに持ち上げるなよ。サインなんていくらでもするからさぁ。勘弁してくれよ、お前から言われると妙に照れるよ」
 修は雄三の笑顔が懐かしかった。
「ところで、芸名の『ユウヤ』やけど、どっからきとんのや」
 雄三はニッコリ笑って答えた。
「本名を反対にしただけだよ。山村雄三なんてカッコ悪い名前だからな」
「山村の『ヤ』に雄三の『ユウ』か。で、『ユウヤ』。考えたら単純やなぁ。でも新しい芸名や。心機一転、頑張りやー」
 修は周囲を気にすることなく豪快に笑った。
 ホテルのラウンジに大きな声が響くと、ユウヤがいることに気づいたのか、周りがざわつき始めた。
「すまん雄三。みんな気づいたみたいや」
 修は申しわけなさそうな顔をして周りを見渡した。何人もの若い女たちが口々に「ユウヤ」と名前を呼びながら、雄三に驚嘆の視線を送っている。
「構わないよ。お前と二人で話ができるなんて、もう二度とないかもしれないんだからな」
「なん言いようとか、またお前のコンサートば観に行くたい」
 雄三はそれを聞いて、テレビでは見ることのできない自然な笑みを浮かべた。

「トモちゃん。私もう飲めない」
「だったら、無理して飲むんじゃないよ」
 智明は黒光りする柱にかかった時計を見た。もう午前二時だった。
「ちょっ、ちょっと・・・・・・、飲み過ぎたね」
 和子はまったく呂律が回っていなかった。そしてすでに着替えていたスウェットの袖を捲り上げた。
 智明もすっかり酩酊していて、ポツリポツリとしか言葉が出てこない。
「も、もう泊めてくれ。これじゃ、あ、今から・・・・・・、ホテルは無理だ。ごめん・・・・・・」
 和子は、こんな場面の経験が豊富なのだろうか、すんなりと言った。
「あったり前よ。いっ、いっしょに寝ようよぅ」
 一緒に寝たって、こんなに酔っているわけだから、何もできない。そう、俺は何もできないんだ。智明はかすかな理性で納得して、ふらつく足で浴室に消えた。
 二階には俺用の布団が敷いてあるんだろうか。智明はシャワーを頭から浴びながら、一人で妄想を働かせた。でも、もう限界に近い。ただ寝るだけだろう。和子だって無論そのはずだ。
「トモちゃん、髪を乾かしたらすぐ寝ていいよ。寝床は二階の手前の部屋だからね。絶対に間違えないでよ。私もシャワー浴びるから、先に寝ててよ」
 浴室のドアを開けると、居間の方から和子の声が聞こえた。
「うん、先に寝かせてもらう。今日は飲み過ぎたよー」
 智明は二階にある手前の部屋のドアを開けた。何の香りだろうか、記憶の片隅にある匂いがした。
 八畳ほどの部屋には、真っ白なシーツで包まれた大きなダブルベッドがある。微妙に身体が強張った。
 智明は短パンとランニングに着替え。ベッドに飛び乗って大きなため息を吐いた。そしていっぱいに両手を伸ばした。
「ふぅ~、もうダメだー。限界」
 しばらくウトウトして、二十分ほど経っただろうか。寝入る寸前にかすかに人の気配がした。夢の中をさまよっている智明は、朦朧とする意識の中でからだの左側に暖かいものを感じた。和子の肌だった。
 智明は酔って意識が遠のくことを恨みながらも、そのまま肌の感触を喪失して、深い眠りに落ちてしまった。

 翌朝、智明は鳥の声で目覚めた。左腕に柔らかいものが触れている。からだにかけられた夏掛けを両手で取り払うと、隣で眠る和子の上半身が露わになった。
 薄目を開けた和子はそれを隠そうともしない。すると、おもむろに上半身を起こして智明を覗き込んだ。
「よく眠れた?」和子は冷ややかに笑った。
 智明は、何もつけていない下半身を両手で押さえて天井を見た。
 いつ下着を脱いだのだろう。まったく覚えがない。まさかッ。何もしていないはずだ。そうだ絶対何もしていない。
「う、うん。眠れたよ」
 和子が髪をかき上げると、張りのある形のよい乳房が揺れた。
 子どもを産んでいないせいか、からだの線がまったく崩れていない。桜色の小さな乳首が、乳輪に埋もれているかのように見える。
 智明は自分のものがピクッと脈打つのを感じて、急に和子から目を逸らした。
「寝過ごしちゃった。携帯の目覚ましかけてたんだけどなぁ」
 時計を見ると八時を少し過ぎていた。
「疲れてたのよ。たまにはいいんじゃない」
 和子は軽い笑みを湛えて、シーツで胸を覆った。
「ふぅー」渇いた唇から、後悔とも満足ともとれない小さな息を漏らした。

 一階に下りると、溢れんばかりの日差しが部屋を占領していた。鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくる。
 ゆったりとコーヒーを飲みながら、和子は口を開いた。
「今夜こそ、ちゃんと泊まっていってね。トモちゃん」
 嘘とも本音ともつかない言葉を投げた。
「そうだな」智明はイェスともノーともつかない言葉を返した。
「パンを切らしてるの。ちょっと買ってくるわ。それとねぇ・・・・・・、あまり桐子に近づかない方がいいわよ」
 桐子に対する嫉妬なのか、畏怖なのか、智明には見当がつかなかった。
 和子が出かけると、智明はすぐに帰り仕度を始めた。「もうここから離れたほうがいい」得体のしれない何かが智明を囃したてた。
 智明は慌ててメモ書きを残し、すぐに和子の家を離れた。

  ―和子へ
 楽しい時間をありがとう。
 今日は予定どおり京都に行きます。
 また休みを取って必ず大阪に来ます。
 そのときはよろしく。
               智明―

「のぞみは何時だ?」
「たしか六時やったな」
「じゃぁまだ時間はあるな。でも、名古屋の家には寄らなくていいのか?」
「今回はよか。慌ただしいけん次にしとく。子どものことは、ばあさんがしっかりみてくれとる。明日は単身寮で久しぶりの洗濯や。ぎょうさん溜まっとるばい」
「それなら決まりだ。時間まで最上階のレストランでビールでも飲もう」
「そやな」
 レストランにはすでに西日が射しこんでいた。店内の客は疎らで、フロアには気だるいジャズが流れている。
「しかし、よか結婚式やったなぁ。雄三、お前の演奏も大したもんばい。さすがにプロたい、ギター一本であんだけ客を魅了するとはなぁ」
「そんなに煽てるなよ。でもバックバンドが入ればもっとよかったけどな」
 雄三はほっとしたのか、ニヤリと笑ってやっとサングラスをはずした。
「しかし、お前よう成功したなぁ。本当によかったばい。俺の結婚式で再会ばしたときは、泣かず飛ばずで、ほんまにうらぶれとったもんなぁ」
「でもあのときは、どさ回りでもある程度の収入はあったんだ。だから修の結婚式に出席できたんだよ。本当に地獄を見たのはそれからだったよ」
「そうか、辛か時代が長ごう続いたんやなぁ」
 しばらくして、雄三は西日に目を細めながら切り出した。
「修、実はなぁ。俺、今度東京に進出することになったんだ。この歳で東京は抵抗があるんだけどな。事務所が煩いんだよ、今がチャンスだって」
「へぇー、よかったやないか。またお前と会う機会が増えるばい」
「八月に『渋谷パークホール』でライブをやるから、よかったら来ないか?」
「行く行く。絶対に行くばい」
「今度チケットを送るからよろしくな」
「おう、十枚ばかり買うちゃるばい」
「何言ってんだ。タダでいいよ」
 二人は人目も憚らず大きな声で笑った。
 そのあと、修はコロナをゆっくり飲み干すと、椅子の背にからだをあずけた。
「ところで雄三、お前デビューしてから何年になるんや?」
「大学を卒業してからだからな・・・・・・、もう二十八年目だよ。何だか恥ずかしいよ」
「お前も苦労したとやなぁ」
 雄三はしんみりとした顔で下唇を噛んだ。
「苦労なんかしてないけど・・・・・・、デビュー前のあの女の件が、まだこころの隅でくすぶってるんだ」
「もう時効やて言うたやないかー」
「まぁな。でも、東京で成功できたらいよいよメジャーだ。そしたら彼女も許してくれると思うんだ。だから何としてでも成功しないとな」
「なんがあったんか知らんけど、遠い昔のことやろ。もう忘れえよ」
 雄三は半分ほど残ったコロナを一気に流し込んだ。
「いや忘れることはできない。俺は彼女を捨てた。それも酷い捨て方だった」
 雄三は上を向いてじっと目をつむった。
「彼女は十八だった。妊娠したんだ。あいつはすべてを捨てて俺についていく、って言ってくれたよ。俺も約束したんだ。内定している会社に入社したら、すぐにでも結婚しよう、ってね。でも・・・・・・、同時に音楽事務所からも誘いがあったんだ。俺は彼女との板ばさみで迷いに迷ったよ。ちょうどアイドルではキャンディーズ、シンガーソングライターでは当時の荒井由美が売れ始めたころだった。『お前を和製ロックのシンガーソングライターとして世に出したい』夢のような話だった。当時、俺は自信の塊だったから、自分を試してみたくて迷ったあげくその話を受けたんだ。いつの間にか彼女のことは忘れていたよ。今考えたら俺はバカだったよな。それだけで有名人の気分になって、それこそ有頂天だった。そのときに色々なことが重なってね。それに事務所からもきつく言われたんだよ。スキャンダルはタブーだからね、って。結局俺は彼女から逃げてしまった。彼女も失い、そして芸能界でもうまくいかなかった・・・・・・。人間として大事なものを失ったんじゃないのかな。そんな気がするよ」
 バーボンのソーダ割が運ばれてきた。
 可愛い顔をしたウェイトレスが、サングラスをはずした雄三に気づいて声を出そうとした。
 修はそれを見つけると、口に人差し指を立ててウェイトレスに目配せした。
「でもなぁ。今度の東京公演が成功すると、彼女も喜んでくれるたい」
「そうだといいんだけど・・・・・・」
 雄三は肩を落として上半身をかがめた。
「もうよか。あんまり考え込むな」
「今はどこにいるんだろうか。幸せにしてるのかなぁ」
 そう言うと、雄三はしばらく黙りこんだ。
「お前よかいい男と結婚して、きっと幸せに暮らしとるぞ。間違いなかー」
 修は勝手にその女のことを想像して、無責任なことを言った。
 しかし、雄三があれほど落ち込むとは、いったどんな女だったんだ。
 修は雄三の落胆ぶりを前にして、もうそれ以上訊くことはできなかった。

 九

「いつまでもペチャクチャしゃべってんじゃないよッ。仕事もしてないのに何くっちゃべってんだ。事務所にいたって保険んなんか取れないよッ。もう店閉めるから、とっとと帰えんなーッ」
 桐子はダミ声を響かせた。
 営業社員も気分屋の桐子には慣れたもので、すぐに蜘蛛の子を散らすように帰っていった。
 桐子が勤務する「目黒営業所」は中目黒の駅前にある。
 今日は支社長の山村に呼ばれていた。きっと営業所経営の現状を確認したいのだ。それに支社長とて、たまには女と二人で飲みたいときもあるのだろう。
 桐子は重いからだを引きずりながら、東横線で渋谷に向かった。
 もう七時になろうとしていた。車内は空調が効いていないのか蒸し蒸しする暑さだ。
 桐子はドアのそばに立って外を眺めていた。隣にはハーフパンツに黒いTシャツを着た女が、二歳くらいの子どもの手を引いて立っている。
 しばらくすると、突然その子がぐずり始め、とうとう泣き出してしまった。車内に大きな泣き声が響く。仕事帰りで疲れ果てている乗客は、目を逸らして何食わぬ顔をしている。
 桐子はドアにからだを寄せて、両手で耳を塞いだ。しかし泣き声は酷くなるばかりだ。
「ほら泣かないの。もうすぐ着くからね。パパが駅で待ってるよ」
 柔和な顔をした女は、余裕をもって子どもをあやした。
 しかし子どもは癇癪を起し、火がついたように泣きじゃくった。もう止めようがない。
 桐子は振り向いて、キーッと女を睨んだ。顔がみるみる歪み始める。額からは汗が滴り落ちた・・・・・・。
「ウルサァァァ―イー」
 突然、桐子の怒号が響き渡った。
 車内は水を打ったように静まり返り、ガタンゴトンと車輪だけが重い音を刻んでいる。
 子どもは驚いて、ピタリと泣くのをやめた。女の顔からサーッと血の気がひいた。
「小僧、ビービー泣くんじゃないッ。あんたもこんな時間に子どもを乗せるなッ。混んでることぐらい分かるだろう。子どもの身にもなってみろッ。バカッ!」
 女は何度も頭を下げ続けた。そして終点までの五分間、口を開く客は誰もいなかった。
 渋谷に着くと、桐子は何もなかったかのように電車を降りた。
 電車の中吊り広告に『ユウヤ!いよいよ東京進出。八月にサマーライブ!』という見出しが躍っていた。
「どうしていつもこうなんだろう。気がついたらあんな罵声を。それも幼い子どもの母親に・・・・・・」
 桐子はブツブツとこころの中でつぶやいた。

 後悔の思いに苛まれながら店に着くと、山村はすでにシャンパンを口にしていた。
 指定された店は、エクセルタワーホテルの最上階にある「シャンピニョン」というフランス料理の店だった。
 桐子は可愛らしく首を軽くかしげて会釈をした。
「お待たせしました。支社長さん、もう飲まれているんですかぁ?」
 桐子はドレス風のワンピースの裾を少し上げて、ウェイターが引いてくれた椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「遅かったじゃないか桐子君。我慢できずに一人で飲んでいたよ」
「何を我慢できなかったんですか?女は色々準備があるんですよぅ」
 桐子は片目をつむると、右頬に綺麗なえくぼを作った。
「じゃぁ、乾杯をしよう」
 赤い唇、透きとおるように白い首すじ、はち切れんばかりの胸・・・・・・、山村は桐子の全身を舐めるように視姦した。
 桐子はその濁った目に吐き気を覚えた。
「支社長さん、美人を前にして飲むと、きっと美味しいですよ」
 それでも、その夜のアニメ声は絶好調だった。二人は軽くグラスを重ねた。
「君の方が美味しいかも。ファッ、ファッ、ファッ」
 このッ、セクハラオジン!桐子は頬をピクリと動かした。
 最初に出されたのは、生の海老とホタテを、フレッシュチーズソースで和えた前菜だ。散りばめられたミントが爽やかさを際立たせている。
「美味しいですぅ。支社長さんいいお店知っていますね」
 桐子はほんのりと顔を赤くした。
「たまにはいいんじゃないか?居酒屋ばかりじゃ、味覚がおかしくなるよ」
 山村は落ち着かない様子で、シャルドネのワインを口に含んだ。
「ところで、仕事の方はどうだい?」
「特に・・・・・・」桐子はニッコリと笑った。
「いや、うまくいっているかと思ってね」
「うまくやっています。食事のとき、仕事の話はどうでしょうか?」
「すまん。言われてみればそうだな。もっと楽しい話をしよう」
 山村は右手で薄くなった頭を掻いた。
「ところで、NHKの大河ドラマは見てるかな?あれはためになるよなぁ」
 こんな場所で大河ドラマ?桐子は軽く唇を尖らせた。
「そうですか?見ていません」
 わざわざ来てやってんだから、もうすこし面白い話でもしろよ。ダセェーよなぁ。桐子は聞えないように舌打ちをした。
 山村は桐子の反応に視点が定まらなかった。
 しばらくすると、冷製のコンソメスープとレバーのパテが運ばれてきた。
 山村は音を立ててスープをすすると、また面白くない話を始めた。
「ところで、桐子君は歌舞伎には興味があるのかなぁ」
「ハッー?カブキ?」桐子は大阪歌舞伎に精通していたが、目を白黒させてまったく知らない振りをした。
「今度、勘三郎と團十郎が共演するんだよ。よかったら一緒に行かないかな?」
 知ったかぶりしてんじゃないよ。歌舞伎の趣味なんかないくせに。
「すみません。私高卒ですから、そんな教養ないんです」
「大丈夫だよ。僕がついているから。しっかり解説してあげるよ」
 桐子は無言で山村を睨んだ。
「アッ、ごめん、ごめん。興味がなかったみたいだな。じゃぁ巨人戦を観に行こう。VIPシートを取ってあげるから」
 山村は社内で悪事を重ねて私腹を肥やしてきた、と聞いている。その金を使ってプロの女と豪遊してきたわりには、素人女のあつかいにはまったく未熟のようだ。たまには普通の年増の女とやりたい、という下ごころを隠せないでいる。くどき方はまるで田舎のオッサンだ。
「しょうもないッ」こころの中で、品格の欠片もない山村を軽蔑した。
桐子は煙草に火をつけると、真横を向いて細い煙を吐き出した。
「支社長さん。私、大阪出身なんですよ。だから酷い巨人アレルギー。そのくらい分からないんですか?」
 山村は額の汗を拭きながら慌ててかぶりを振った。
「いやぁ、よっ、よく分かるよ。実は僕も大阪出身なんだ。その気持ち分かるなぁ」
 山村は額に油のような汗を浮かべている。
 桐子は、それを聞いてキラリと目を光らせた。
「へぇー。支社長さんも大阪出身ですか?」
 山村は子どものように大きくうなずいて、やっと意を得たり、と大阪の話を始めた。
「僕も大阪にいた時分はよく遊んだよ。これでも結構もてたんだよ。女もよく泣かせたなぁ。それと、僕は昔から海が好きでねぇ。北海道とか沖縄によく船で行ったもんだよ。僕は一人旅をしたかったんだけどね。いつも彼女が纏わりついて、一人にさせてくれないんだよ。ファッファッファッー」
 山村は嫌らしい目つきをして醜く笑った。
 金がないから、船で行くしかなかったんだろう。桐子はせせら笑った。
「ふーん。そうでしたか、大変でしたねぇ。でも私、船酔いが酷くて・・・・・・。船が嫌いだから海も嫌いです」
「飛行機で行くのならいいんじゃないのかな?」
「ごめんなさい。私、閉所恐怖症なんです」
 山村は、それを聞いてしばらく黙り込んだ。何のことはない、もう話題がつきてしまったのだ。惨めな気持ちがこころの中に広がった。
 そのあと、メイン料理の「鴨のコンフィ」が出てきたが、食べ終わるまで二言、三言しか会話はなく、ナイフとフォークの渇いた音だけが虚しく響いた。
 二人のテーブルに食後のコーヒーが出てきた。山村は手持無沙汰な様子で、ポケットの中をゴソゴソと探っている。
「支社長さん、何だか落ち着きがないですね」
 桐子は、山村の品のない行動に嘆息を漏らした。
「あぁ、すまない。こ、これを触っていたんだ。昔、沖縄で買ったものなんだよ。大したものじゃないんだけど。一度大阪で失くしてしまってね。また沖縄までわざわざ買いにいった代物なんだ。触っていると妙に気持ちが落ち着くんだよ」
 山村は大きなキーホルダーを取り出して、テーブルの上に静かに置いた。
「あッ、それ!」桐子はそれを見たとたん、目が釘付けになってしまった。
 それは、淡水に生息する肉食の古代魚「アロワナ」のキーホルダーだった。長さは七、八センチ。水牛の角をアロワナの形に彫り込んである。使い込まれているのか、全体が黒い光沢を放っている。
「これッ、どこで?」
 桐子はそのキーホルダーを奪うように取り上げ、手のひらにのせてまじまじと見た。
 今までと同様に、今度の転勤についても「リョージ」という男が複数在籍するこの支社を指定して本社に根回しをしたのだ。今回頼んだ男は当時の人事課長の小西だった。どんな悪事を重ねたのか、今では常務にまで出世していた。「昔の関係をセクハラ対策委員会に暴露する」と言って脅して、無理やり人事を承諾させた。しかし転勤したばかりのこの支社で、こんなに早く「アロワナ」を持った「リョージ」に会えるとは思わなかった。桐子は幸運な巡り合わせに感謝した。
「だから、沖縄だよ」自慢げに笑う口元からは、並びの悪い黄色い歯が覗いた。
 桐子がこんなに興味を示すとは、山村は思ってもいなかった。
「だから沖縄のどこッ」
 桐子は背中に悪寒を感じた。
「どうしたんだよ、桐子君。そんなに慌てて」
 山村は、桐子がやっと自分に関心を示してくれた、とにやけてだらしない口元に唾を溜めた。
 桐子の目線は落ち着きなく宙を泳いでいる。
 ほんの一瞬、桐子の頭の中は真っ赤に染まった。
「何か、思い出でもあるのかな?」
 山村はにやけた顔で、鼻と下ごころを膨らませた。
「あっ、すみません。この魚、肉食の古代魚でしょう?私何だか怖くて、びっくりしたんです。ただそれだけですから・・・・・・」
 桐子は慌ててキーホルダーを山村に返した。
 山村は急にうろたえた桐子を、たまらなく愛おしく感じた。コーヒーを飲み終えると、青ざめた顔の桐子を恐る恐る誘ってみた。
「今日は遅くなってもいいんだろう。ちょっとバーで飲み直そうよ。今後の人事は悪いようにしないから」
 山村は赤ら顔をテカテカと光らせて、テーブルに置いた桐子の手に、自分の手をぎこちなく重ねた。
「はあっ?私・・・・・・、『まゆ』が家で待っていますから、このへんで失礼します」
 桐子は山村の手を跳ねのけると、すぐにからだを反転させた。
 一瞬、死んだ山田のことが脳裏をかすめた。あのときと一緒じゃない。桐子のこころは激しく動揺した。
 山村は目を丸くして、失禁でもしたかのように呆然としている。
「えっ!『まゆ』?桐子君、君はそのぅ、独身じゃあ・・・・・・」
 桐子は山村に背中を向けたまま言った。
「よけいなことは忘れてください。いいですね」
 桐子は立ち上がると、急いで出口に向かった。
 山村はあとを追うようにして、用意していたメモ紙を桐子の手に握らせた。
 ツカツカと歩いて店の出口まで来ると、桐子はバッグの中を弄った。すると冷たい感触のものが手に触れた。それはまさしく山村が持っていたものと同じキーホルダーだった。
 桐子はエレベーターの前で一瞬立ち止まり、激しく肩を震わせた。

 桐子は自宅に戻ると、仏壇の前に静かに座った。
 おもむろに、バッグの中からキーホルダーを取り出し、それを位牌の右側に置いた。ろうそくに火をつけ、それをじっと見つめた。少し欠けた尾ひれが、長い年月の経過を物語っている。
 揺れる炎の下で、水牛の角に彫り込まれたアロワナが、一瞬、ブルッと身を反らしたように見えた。
「まゆちゃん。遠回りをしたけど、今度は間違いないわ。本当に長かったよねぇ」
 桐子の目は赤く腫れていた。
「やっぱり沖縄で作られたものみたい。でも、もうどこで作られたかなんて関係ないわ。問題はこれが誰のものだったか、よね」
 桐子の頭の中で、「リョージー、リョージー」と呼ぶ声が繰り返し反響した。

 桐子はシャワーを浴びて部屋着に着変えたあと、椅子に座りじっと目をつむった。
「長い道のりだった。もう明日しかない。ここで怯んだら元の私に戻ってしまう。まゆちゃん、見ていてね」
 桐子は思い切って受話器を取った。そして、帰り際に山村から渡されたメモ紙を開いた。丁寧なことに、携帯と自宅の電話番号が書いてある。
 桐子は迷わず自宅を選び、数字を確認しながらゆっくりとボタンを押した。すると、すぐに山村が出た。期待して、電話のそばでじっと待っていたのだろう。どこまで下劣な男なんだ。
「夜分すみません、成実です。さっきはごめんなさい。支社長と二人きりだったんで、照れがあったのかも・・・・・・。冷たくしたように見えたでしょうね。本当にごめんなさい」
 当然、山村が電話に出ることは分かっていた。単身赴任で一人暮らしだからだ。
 桐子は身もこころも許してしまった女のように、かんぜんに口調を変えていた。声は得意のアニメ声だ。
「桐子君か?僕だよ、僕。リョージだよん。何も気にしてないよん。安心してよ。今から僕の部屋にお泊まりしてくれる?」
 山村は気持ちの悪いおどけた口調で答えた。すでに桐子の罠にはまっていたのだ。
 桐子はその口調にひどい吐き気を覚えた。
「いえ、今日はもう遅いから・・・・・・。明日はいかがですか?」
「い、いいよん。ど、どこで会うのかなぁ?」
「私、山が好きなんです。高尾山に行きませんか?」
「お、おう。い、いいよん」
 山村は高尾山と聞いて少し戸惑ったが、ハイキングのようなものだな、と思い直し、年甲斐もなくこころを弾ませた。
「そのあと、八王子でお食事でもして、夜はゆっくりしましょうよ」
 山村のだらしない赤ら顔が桐子の脳裏に浮かんだ。
「えっ、いいのか?」山村は、おどけるのをやめた。
「いいですよぅ」桐子は若い子のように語尾のアクセントを強くした。
 いいのか、だって。やはり、あのときの卑劣な犯人だ。卑怯だ、最低の男だ。いやその前に、人間として生存してはいけない男だ。あのリョージに間違いない。あんなバカな男に、どうして私が・・・・・・。
「それから、このことは二人だけの秘密ですよ。絶対口外しないでくださいね」
「あたり前じゃないか、絶対に口外しないよ」
 受話器を持つ手が震えている。
「あと、携帯の番号を教えてくれないかな」
 桐子は、受話器を投げてつけてやりたい衝動に駆られた。
「ダメダメ、携帯番号は明日。もっと親密になってからね・・・・・・」
 今度は自分が吐いた言葉に鳥肌が立ち、黄水が込み上げてきた。
「分かった、分かった。今夜は、いや、二人のアニバーサリーナイトは桐子君の言うとおりにしよう。でも明日は許さないぞぅー」
 何とも我慢できずに、桐子は左の手で自分の髪の毛を掻きむしった。
「はい、はい。それから、レストランでの話ですけど・・・・・・。『まゆ』っていうのは家で飼ってる猫のことですからね。じゃぁ、京王線の『高尾山口駅』に午後二時ということで」
「えっ!そんなに遅いのか?」
「大丈夫ですよ。明日の夜はエンドレスでしょう?」
 桐子は受話器を置くと、山村に犯されたような嫌悪感に襲われ、そのまま床に崩れ落ちた。

 十

 日曜の午前十時。東山の旅館をあとにした智明は、知恩院の男坂を上り御影堂に向かって歩いていた。
 昔、京都支社に勤務していたころ、休みの日はよくここに来ていた。実家が浄土宗の寺だということもあり、寺の境内にいると妙にこころが落ち着くのだ。
 御影堂の中に入ると、胸ポケットに入れた携帯が震えた。総務部長の柏原からだった。智明は慌てて御影堂を飛び出し電話に出た。
「もしもし、どうしたんですか?休日に」
「業務部長、大変なことが起きました。落ち着いて聞いてくださいね」
「はい。大丈夫です」
「支社長が、山村支社長が亡くなりました」
 智明は驚いて、思わず携帯を落としそうになった。
「えっ、本当ですか?いつ、どこで?」
「詳細はこちらでお話しします。今すぐ支社に来てください。今どこにいるんですか?」
「今は京都ですから、支社に着くのは、たぶん二時近くになると思います」
「そうなんですか、取り込み中すみません。じゃぁ、待ってますからお願いしますね」
 智明は山村の死を嘆くよりも、自分が支社長代行をやらなければならないことに、まず不安を感じた。
 山村の死は、たぶん心臓発作か脳溢血だろう。致し方ない、冷静になるんだ。そう自分に言い聞かせた。

 支社の応接室のドアを開けると、修と柏原、それと知らない男が二人いた。
 下座にいる二人の男はすぐに立ち上がり、智明に手帳のようなものを見せて会釈をした。
「山瀬さんですね」
 すぐに刑事だと分かった智明は、怪訝そうな顔で頭を下げた。
「はい。業務部長の山瀬智明です」
 男は舐めるように智明を見た。
「八王子西署の柳田といいます。今回の事件を担当しますのでよろしく」
 智明は八王子西と聞いて、山村とどんな関係があるのだろう、と首をひねった。
 続けてもう一人の男も挨拶をした。
「同じく稲垣といいます。よろしくお願いします」
 柳田は歳が智明と同じくらいだろうか、背が高く色黒で、ガッシリとしたからだをしている。こめかみに横長の傷が走り、まるで経済ヤクザのような風貌だ。稲垣は、反対に色が白くずんぐりと太っていた。相撲でもしていたような体型だ。歳は三十前後だろう。いずれにしても、二人は刑事だと思わせる鋭く陰鬱な目をしている。
 もしかしたら、山村の死は事件なのか。智明はとっさにそう感じた。
「ここに刑事さんがいらっしゃるということは・・・・・・、支社長は殺された、ということですか?」
「いえね。まだそうと決まったわけではありません」
 柳田は手帳を捲り始めた。
「山村了司さんは、今朝の七時ころに遺体で発見されました。場所は高尾山の四号路という登山道です。四号路には途中に吊り橋がありましてね。その下の谷底に落ちているのを、女性の登山客が発見しました。谷底の草むらから、わずかに赤いヤッケが覗いていたそうです」
「死因は何だったのですか?」
 智明はからだを乗り出した。
「三十メートルほど下に落ちたのですから、まず頭蓋骨を骨折していました。それと内臓破裂です。橋の欄干の手前なんですが、落下防止用の網が破れているところがありましてね。そこから誤って落ちたようです」
「誤って落ちたのなら、事故じゃないですか?」
「だから、誤って落ちた可能性もあります。ただ落とされた可能性も捨てきれません」
「そういうことですか・・・・・・」智明は上を向いて軽く息を吐いた。
「でも業務部長、支社長は登山なんてやってましたか?」
 硬い顔をした柏原が横から口を挿んだ。
「ストレス解消のために登ったとやないやろか。俺は高尾山ば登ったことなかばってん。いうたらハイキングみたいなもんやろう。ハイキングの最中に人殺しやて・・・・・」
 修は事故だと言わんばかりに、じっと柳田の目を見た。
「僕は、支社長が一人で、たとえ低い山でも登るとは思えませんね。ストレス解消なら海に行くんじゃないでしょうか」
 柏原は、海の好きな山村が、房総とか三浦半島によく行っていたことを知っている。
「今のところ、事故か事件かははっきりしていませんが、死亡推定時刻は、昨日の午後四時から六時の間ではないかと思われます」
 稲垣はみんなの勝手な憶測を遮った。
「ところで、同行者はいなかったのですか?」
 智明は対面して座る柳田を下から見上げた。
「その件ですが、四号路は山の北側を通るルートです。展望がよくないため、他のルートに比べて登山客が少ないそうなんですよ。ですから、今のところ目撃者は見つかっていません。まぁ、明日の朝刊にでも載ると、色々な情報がもたらされると思いますが」
「そうですか・・・・・・。それじゃぁ、次に考えられるとすれば、自殺?」
 柳田は大きくかぶりを振った。
「わざわざ自殺するために登山する人なんていないでしょう。それはないと思いますよ。ただ・・・・・・、山村さんは新品のジーパンをはいていたようですが、その尻の部分に赤い土がついていました。その土が不思議といえば不思議なんですねぇ。それと新品のジーパン。普通は、登山なんてはき慣れたものをはくと思いませんか?」
 柳田はゆっくりと全員の顔を見やった。
 どこが不思議なのか、智明には理解できなかった。他の二人も同じだろう。
「不思議とはどういう意味で?」
 柏原が首をかしげた。
「谷の土とは異なる赤い土が尻についていたんですよ。登山道の土、要するに四号路の土がついていたんです。それもジーパンの生地にすり込まれたかのように・・・・・・。険しい山でもないのに、登る途中で酷い尻もちでもついたんでしょうかね」
 柳田は眼鏡の奥で目を光らせた。
「途中で転んだんじゃないでしょうか」
 智明がとっさに答えた。
「それじゃぁ、膝とか太腿のあたりにもつくんじゃありませんか?それに、強い圧力がかかったのか、ぬり込まれたように土が付着しています」
「そう言われてみれば、そうですね」
 智明は目の動きを止めた。
「新品のジーパンに、高級そうな真っ赤なヤッケ。山村さんはおしゃれだったんですかねぇ。それとも、よほどこの登山を楽しみにしていたんでしょうか・・・・・・」
 応接室が一瞬静まり返った。
「あと・・・・・・、山村さんの血液から睡眠薬の成分が検出されています。これも不思議なんですねぇ。登山の前に睡眠薬を飲む。長いこと刑事をやっている私でも、まったく聞いたことがありません」
「そげなこと・・・・・・。ストレスかなんかで、常用しとったとやなかですか?」
 目を閉じていた修が口を開いた。
「睡眠薬を常用していた形跡はありませんよ。それじゃぁ、前日に眠れなくてスポットで飲んだんでしょうか。それにしては、登山の直前に飲んだような、強い反応があらわれていましたよ」
 智明は腕を組んで口元を曲げた。
「遊び人のように、LSDの類を服用して、テンションを上げる必要があったのでしょうか?それも、支社長ともあろう人が・・・・・・」
 また異様な沈黙が流れた。
「業務部長、ここは警察の捜査を待ちましょう」
 柏原が智明に目配せした。
「どちらにしても、明朝から社員の方に事情聴取をさせていただきます。お忙しいとは思いますが、ご協力よろしくお願いします」
「分かりました」柏原は深々と頭を下げた。
 すると、智明が柳田をじっと見つめて言った。
「協力は惜しみませんが、我々の会社も信用第一です。そのへんのところは、くれぐれもよろしくお願いいたします」
「もちろんです。ただ社内に犯人がいないことが条件ですがね・・・・・・」
 柳田は目の動きを止めたまま白い歯を見せた。

 智明は高円寺の社員寮に戻ると、すぐに正樹に電話を入れた。
「当然聞いているよな、支社長のこと」
「うん。午前中に柏原から電話をもらったよ。優秀な人だったから残念だ」
「弱ったよ、こんな時期に支社長がいなくなるなんて・・・・・・。来月はキャンペーン月だというのに、どうすればいいんだよ」
「まぁ、次の定例人事は十月だ。九月まではお前が代行を務めるしかないな」
「そうか、もう俺がやるしかないのか」
「あたり前だよ。お前ならできるさ。いや、お前の方がうまくやれるかもしれない」
 正樹は含みのある言い方をした。
「分かった。できるだけ頑張るよ。それとなぁ、明日から支社で警察の事情聴取が始まるようなんだ。聞いてるか?」
「えっ!初耳だ。今回の事故もまた事件なのか?」
「その可能性もあるってさ。八王子西署のナントカっていう刑事が言ってた」
「そうか・・・・・・、またかぁ。あいつが転勤した先では必ず何かが起こるな。今度もきっとあいつが絡んでいるような気がするなぁ」
「それはないと思うよ。成実と支社長には仕事以外に接点はない。たまたまの偶然だよ」
「まぁ、それを祈るよ」
「正樹。お前、他人事のように言うなよ。俺はこんなこと初めてだから困ってんだぞッ」
「分かったよ。俺も明日支社に行くから、今日は動くな。打ち合わせは明日だ」
 智明は正樹の言葉に少しほっとした。
 しかし、いつか目撃者が現れて、同行者がいたと証言したら事件になる可能性は大だ。そのことを考えると、智明は気が気でならなかった。

11-12


十一

 翌朝、支社には重苦しい空気が流れていた。事務職の女性社員は口元を手で隠し、ひそひそ話にいとまがない。
 智明は第二応接室のドアを静かに開けた。
「事情聴取は私が最初ですか?」
 奥の壁側に座る柳田は、智明を正視したまま大きくうなずいた。
 智明は、自分が一番疑われているのではないか、と感じ、いくぶん顔を紅潮させた。
 すぐに柳田と稲垣による事情聴取が始まった。二人の手には、現時点での社員名簿と過去三年間の退職者名簿がある。昨日柏原に依頼していたものだ。支社に関係しているすべての人間を調べるつもりらしい。
「いや、山村さんと一番近しい立場におられたのが山瀬さんですからね。全般的なことを含めてお伺いしたいのですよ」
「分かりました」智明は無論初めての経験だ。言いようのない不安を覚えた。
「まず、今年になってから山瀬さんは、山村さんにかなり不満を持たれていたようですね。山村さんから、仕事上で再三注意を受けていた。そして、ときには罵声も浴びせられていた。やり方が甘い、営業所長にもう少し厳しくあたれ、とね」
「そんなこと誰から聞いたのですか」
「数人の方がおっしゃっていましたよ」
 柳田は白い歯を見せて嫌らしく笑った。
 智明は、柳田のその一言でかんぜんに冷静さを欠いてしまった。
「煙草を吸ってもいいですか?」わずかに声が震えた。
 このところ煙草はやめていたのだが、今日は煙草でも吸わないとやっていられないだろう、とキヨスクで買い求めて用意をしていたのだ。
「どうぞ」柳田がジッポーで火をつけてくれた。
 天井に向けて強く煙を吐いた智明は、テレビで見る取り調べの風景を彷彿とさせるな、と客観的に状況をとらえ、少し落ち着きを取り戻した。
「うちみたいな民間企業は、面白おかしく人の噂をする人間が多いのですよ。社内には私利私欲が渦巻いていますからね。バブル崩壊後、出世ための競争は熾烈です。年功序列制が崩壊して、今は年俸制でしょう。いたるところで勤続年数に関係なく賃金の逆転現象が生じています。昔は、賃金闘争をしてわずかでもベースアップが勝ち取れれば賞賛された組合も、時代の流れにまったく適応できていません。ですから、自分で戦うしかないんですよ。今言われたことは、こんな時代だからこそ起こりうる誹謗中傷、要するに足の引っ張り合いですよ」
 一気に捲し立てると、一瞬上を向いて深く煙草の煙を吸い込んだ。
 智明は組合の役員をしていた癖が抜けない。客観的に会社の現状を説くことによって、警察によけいな疑惑を与えたのではとないか、と少し後悔した。
「ふ~ん。我々と違って民間の会社はそういう状況なのですか。しかし、先日も支社長室から大きな声が聞こえてきたと聞きました。相当厳しく注意されていたようですね。これは噂ではなく事実でしょう。部下の方がおっしゃっていましたよ。何ら組合とは関係ありませんよね。ところで、そのとき支社長に反論されたのですか?」
 坂崎はもうしゃべったのか。智明は警察の捜査のスピードに舌を巻いた。そして薄目を開けて、諦め切った顔で返答した。
「残念ながら反論なんてできません。それが民間企業の組織です」
「そうですか、何だか軍隊みたいですね。お宅の会社はかなり風通しが悪いのでしょうね。そんな会社、将来的にどうでしょうか」
「そんな会社?ちょっと待ってください柳田さん。支社長が死んだこととうちの会社の内情に何の関係があるのですか。まったく関係ないことでしょう」
 智明は事実を指摘されて、焦りを隠すことができなかった。
 仕事のことで恨みを持った社員が支社長を殺害した、と柳田は思っているのだろうか。でも、ひょっとしたら・・・・・・、それが当たっているのかもしれない。
「すみませんねぇ、言葉遣いが粗野で。それに商売柄よけいなことまで言ってしまいました。考えたら警察組織も似たり寄ったりかもしれませんね」
 その言葉に、智明は敏感に反応した。
「テレビで刑事ドラマをよく観ますが、上下関係の厳しさは民間の比じゃないでしょう」
 柳田は薄い笑いを浮かべた。
「一握りのキャリアと、砂の数ほどいるノンキャリア、いつも啀み合っていますよ。それが捜査に支障をきたすことだって多々あります。要するに足の引っ張り合いです。旧態然とした組織ですよ」
 柳田の目に悲哀が浮かんだ。
「あぁ、すみません。仕事中によけいなことを・・・・・・。忘れてください」
 柳田は頬を少し緩めて、隣でメモを取っている稲垣に目配せをした。
「ところで山瀬さん。先週の金曜日は大阪で会議があったそうですが、その日は東京に戻っておられませんね。どちらにいらしたのですか?」
 稲垣は姿勢を正して訊いてきた。
「もうそこまで調べているのですか。やはり警察というのは民間と違いますね。怖い組織ですよ。僕ら素人は、その調査の仕組みについてはまったく想像もつきません」
 智明は意識して警察を揶揄した。
「はぁ。それくらい分からないと、警察とは言えないでしょう」
 稲垣は涼しい顔をして目を細めた。
「その日は大阪の友人の家に泊まりました」
「どこのどなたですか?」
 稲垣は透かさず追い討ちをかけてきた。
「そんなことまで言わないといけないんですか?」
「いえ、おっしゃりたくなければ結構です。しかし、間違いなくこの先お話しいただくことになると思いますが・・・・・・」
「うっー」智明は唇を噛んだ。
「大阪北支社の池川和子という人の家です」
「山瀬さんは遠距離恋愛なさっているんですか?」
「失礼じゃないですかッ、どうしてそんなことまで訊かれないといけないのですか。いい加減にしてくださいッ」
 智明は、稲垣の興味本位な言葉に全身の血を逆流させた。
「申しわけありません。よけいなことでしたねぇ」
 腕を組んでいた柳田が、軽く手を振って稲垣を制した。
「当たり前でしょう」怒りの収まらない智明は、強く言い放った。
「ところで、土曜日はどうされていましたか?」
 ここにきて智明は、自分のアリバイを訊かれている、ということがやっと理解できた。そして、素直に話した方が身のためだ、と憤慨する自分に言い聞かせた。
「土曜日は、和子、いや、池川さんの家を九時前に出て京都に向かいました」
「旅館にチェックインされたのは、確か夜の七時でしたよねぇ?」
「何だ、もう分かっているんじゃないですか」
「ですから、京都で何をなさっていたのですか?」
 智明は慌てた。自分の行動を証明してくれる人がいない。世間ではこうやって事件が捏造されていくのか。一瞬頭の中が白くなった。
「天満橋から京阪電車で出町柳まで行きました。それから更に鞍馬まで行って、また宝ヶ池まで戻ってきて大原に向かいました。夕方大原を出て、東山三条にある『法皇館』という旅館にチェックインしました。翌日の日曜日は、総務部長の柏原が言ったとおりです。知恩院にいるときに彼から電話がありました。こんなところでいいでしょうか」
 智明は素直に、しかし事務的に答えた。
「京都での行動を証明してくれる方はいますかねぇ」
「一人で観光してたんですから、そんな人いませんよッ」
「お一人でねぇ」柳田はわざと鼻の頭を擦った。
 男の一人旅なんて、柳田から見ればまったく信用できない話だろう。
「何が可笑しいんですか」智明は憮然として言った。
 柳田はその質問には答えずに、話を逸らした。
「それじゃぁ、大阪にいらしたことは今日にでも池川さんに訊いてみましょう」
「何だか僕は容疑者みたいですね」
「そんなことはありませんよ」稲垣が鼻で笑った。
 智明は黙って和子の家を出たことを後悔した。和子は証言してくれるだろうか、それにしても警察は、証言、証拠がないとまったく納得してくれない。改めて警察の嫌らしさを痛感した。
「柳田さん、言っておきますけど、僕を疑っているのならそれは筋違いですよ。僕は午後七時に旅館にチェックインしたんです。支社長の死亡推定時刻は四時から六時の間でしょう。四時に高尾山で支社長を殺害したとして、東京駅までは移動に一時間以上かかります。それから『のぞみ』に乗ったとしましょうか。五時の『のぞみ』に乗って、六時半に京都に着くことができますか?京都駅から旅館までは、三十分もかかるんですよ」
 智明は頬を引きつらせた。
「そうですねぇ。死亡推定時刻は確かに四時から六時です。でも二時ころに山村さんを橋から突き落として、息絶えたのが四時から六時。それなら可能ですよね。『のぞみ』なら東京、京都間を二時間二十分程度で走ります。すぐに高尾山をケーブルカーで下りて四時ころの『のぞみ』に乗れば、ちょうど間に合いますよ」
 柳田はまた白い歯を見せた。
 この柳田という男は何ていうやつなんだ。智明はほとほと呆れた。
「どうして、そういうストーリーを勝手に作るんですか?僕は何もしていませんよ。もう勘弁してくださいッ」
 智明は、柳田の言葉にかんぜんに自分を見失ってしまい、両手に震えさえ感じた。
「いやぁすみません。別に脅かしたわけではないんですよ。少し言い過ぎましたかねぇ。私どもは山瀬さんを疑っているわけではありません。警察は、今のような探り方をするということです。そのような警察の捜査をご理解いただいて、少しご協力いただこうと思っただけです。お気を悪くされたのなら謝ります」
 柳田は淡々と話したあと、煙草に火をつけてゆっくりとふかした。
「よく調べてみてくださいッ。間違いなく京都にいましたからッ」
 智明は憔悴を隠せずに、泰然自若としている柳田に言葉を投げつけた。
「山瀬さん、ありがとうございました。またお話をお伺いすることになると思いますが、そのときはよろしく」
「あっ、あぁ」怒りの収まらない智明は、どちらとも取れない曖昧な言葉を残した。
「次は西澤さんです。控室にいらっしゃると思いますので、声をかけていただけますか」
 ぼうーっとした頭を抱え、後ろからかすかに聞える柳田の声に、智明は上気した顔で首を縦に振った。
 やはり誰かが山村を殺したのか、それがいったい誰なのかまったく見当もつかない。言えることは、柳田はもう殺人事件だと断定しているということだけだ。しかし、その自信の拠り所はいったい何なのだろう。考えれば考えるほど、頭の中の思考力は弛緩していった。

 部屋を出ると、ちょうど業務係の有希が第一応接室から出てきた。
「有希ちゃんどうしたんだ」智明は囁くように声をかけた。
「こっちの部屋では、若い女子事務員ばかりを事情聴取してるんですよ。そっちとは違う刑事が二人来ています」
 有希は青みを帯びた顔で口を尖らせた。
「そっちの部屋でもやってるのかッ」
「この四、五日で、全員が呼ばれるみたいですよ。だって支社長さんが殺されたんですから・・・・・・。奥の会議室が、事情を聞かれる社員の控室になってます」
 入社したての有希でさえ、殺人事件だと理解しているのか。智明は呆れて大きなため息を吐いた。
「そうかー、困ったもんだ。これじゃぁ、仕事してる場合じゃないな」
 隣の部屋では、若い部下たちが調べられているのか。それも女性ばかりだ。社内に渦巻く噂の本質を問い質すには、若い女性が最適なのだろう。
 智明は控室までの短い距離をゆっくりと歩いた。

 控室のドアをそっと開けた。
 窓際に座る西澤が軽く右手を上げた。言葉は発しない。
 桐子も心細い顔で振り返った。濃紺のジャケットの下に、水色のブラウスを着ている。桐子にしてはまともな色合わせだ。ただ真っ赤な口紅がそれを台無しにしていた。
 広い控室で待っていたのは、その二人と支社の若い男性社員だった。
「西澤さん、僕は終わりました。刑事が待ってますよ」
「どげして、今年の転入組が先に呼ばれるとやろ。わけが分からんのう」
「今度の件は、怨恨による犯行だと思ってるんじゃないですか」
「怨恨なら、そげな可能性はみんな一緒やないか」
 修は口を尖らせた。
「もし、昨年も在籍していた人間が犯人なら、昨年事件が起こっていたはずだ。警察はそう思っているんでしょう。今年転勤してきた人間が、支社長に対して過去に恨みを持っていた。転勤の機会をとらえて、すぐにその恨みを晴らした。そんなところじゃないでしょうか」
「まぁ、どげでもよかたい。なら、行ってくるわ」修は足早で控室を出ていった。
 ドアが閉まると、桐子は怨めしそうに智明の顔を見た。
「私なんて何も関係ないのに、事情聴取されるなんて心外です。そう思いません?」
「そうですよね。成実さんこそいい迷惑ですよ」
 今日は桐子のアニメ声が、何となく空々しく聞えた。
 しばらくすると有希が智明を呼びにきた。
「業務部長、篠田人事課長がお見えです」
「あぁ、すぐ行く」智明は桐子に軽く会釈をすると、急いで部屋を出ていった。

 事務所内を簡素なパーティションで囲った小会議室で、正樹は煙草をくゆらせていた。
「遅かったな」
「本社で山村さんの葬儀の打ち合わせをしていたんだ」
 正樹は煙草を口からはずし、カップコーヒーをすすった。
「俺も、今事情聴取が終わったとこだ。今日の予定は?」
「悪いな。今から大阪に行く。葬儀の準備だ」
「何だよ。今後の支社運営の打ち合わせはどうなるんだ」
 智明は口元を曲げた。
「仕方ないじゃないか、緊急事態なんだから。そう拗ねるなよ」
 すると、正樹はカバンから分厚い冊子を取り出した。
「先にこれを読んでおいてくれ。打ち合わせはそのあとだ」
 正樹は煙草を消すと白い歯を見せた。
 冊子の表紙には『支社緊急時対応マニュアル』と書いてあった。
「マニュアル、マニュアルか。俺はマックの従業員じゃないんだぞッ」
 智明は顔を歪めて下唇を突き出した。
「まぁ、そう言うなよ。大阪で待ってるぞ」
 正樹は重そうなカバンを肩にかけて、そそくさと部屋を出ていった。

 第二応接室からしくしくと泣き声が聞こえる。
 部屋には香水の匂いが漂っていた。豊潤だが何ともきつい匂いだ。柳田はこの匂いに苦い思い出がある。昔の女の匂いだ。その女がかすかに漂わせていたのが、まさにこの香水だった。柳田は鼻をシュンと鳴らした。
「私がどうして疑われなければならないのですか?」
 桐子はマスカラが取れないように、ハンカチを細くして丁寧に涙を拭った。
「疑っているわけではありませんよ。事情をお訊きしているだけですから、どうぞ落ち着いてください」
 桐子はじっとうつむいている。
「どういった事情で金曜日の夜に山村さんとお会いになったのか、ということを訊いているんです」
「誰がそんなことを?」
「ですから誰から聞いたというわけではありません。山村さんの財布の中から『シャンピニョン』という店の領収証が出てきたのです。その店の従業員に、支社の方々の集合写真を見せたところ、同伴者は成実さんだ、ということが分かりました」
「はぁ?『シャンピニョン』?そんな名前でしたか」
 とたんに桐子は目を逸らした。
「ちッ!」そしてこころの中で舌打ちをした。
「それに先に帰られたそうですね。どんな理由からですか?」
 柳田は舐めるように桐子を見た。
「誘われたんですよ。ただそれだけッ」
 桐子は相手を自分の敵だと認識すると、手のひらを返したようにぞんざいなしゃべり方をする。
「食事のあと、二次会に誘われたということですか?」
「違いますよ。ホテルに誘われたんですよ。最初から下ごころがあって、突然、私を食事に誘ったんです。だから、食事が終わるとお決まりのコース。バカのひとつ覚えみたいに、泊っていこう、って強引に誘ってきたんです。下劣な男でしょッ」
 死人に口なし。桐子は安心して嘘を吐いた。
「それで、怒って先に帰られたんですね」
「そうよ。あんなクソジジイ、誰が寝てやるもんですかッ」
 柳田は、桐子のダミ声を不快に感じて、一瞬顔を逸らした。
「それとその日の夜、自宅から山村さんに電話をされていますね。自宅の電話の履歴に残っていましたよ」
「そんなことまで・・・・・・」
 桐子は頬をピクリと動かした。
 やっぱりね。あれは公衆電話にしておいてよかった。桐子はそっと胸を撫で下ろした。
「お礼の電話をしただけですよ。不味くても、とりあえず食事をごちそうになったんだから」
「翌日の打ち合わせをしたんじゃありませんか?」
 稲垣が上目遣いに桐子を見た。
「そんなセクハラされて、何でデートに誘わなければいけないのッ」
 桐子は右頬を引きつらせた。
「私は、成実さんがデートに誘った、なんて言っていませんよ。打ち合わせ、って言っただけです。あまり先走らない方がいいと思いますよ。成実さんのためにもね」
 稲垣は含み笑いをして手帳を開いた。
「煙草を吸わせてちょうだい」
 桐子は慌てて煙草をくわえた。そして心の中で、今言ったことの浅はかさを後悔した。過去の事件のときと違って、今日の桐子は弁解の切れを欠いていた。
「おつけしますよ」柳田がジッポーで火をつけようとした。
「よけいなことしないでッ。自分でつけるから。このライターじゃないと煙草が不味くなるわ」
 苛立つ桐子は細長いカルティエのライターで火をつけた。
 捲れた唇で強くくわえ込んでいるからなのか、真っ白なフィルターが真っ赤に染まっていく。
「ところで土曜日は何をなさっていましたか?」
 柳田は冷静な口調で桐子に訊いた。
「どうせ電話の履歴を調べたんでしょう?翌日、同僚の藤田君とディズニーランドに行く約束をしてたから、その夜の十一時ころ、彼に電話して打ち合わせをしたわ。だから当然土曜日は舞浜にいたわよ」
 桐子は天井に向けて勢いよく煙を吐いた。
「そうですか。一日いらしたのですか?」
「当たり前じゃないッ。一、二時間だけディズニーランドで遊ぶ人なんている?十二時から夜の十時までいましたーッ」
 桐子は腹立たしげに答えた。
「そうでしたか。ありがとうございました」
 柳田はわずかに白い歯を見せた。
「どうせこのあと、藤田君に訊くんでしょう?今日は彼も呼んでるんですよね」
「よく分かりましたね。そのとおりです。今日お呼びしているのは、過去に大阪に勤務された方、大阪出身の方、それと大阪の学校を出られた方です。要するに大阪に関連がある方を全員お呼びしています」
 桐子は、ふ~ん、という顔をして嘯いた。
「何で大阪なの?大阪、大阪、大阪。何の関係があるのよッ」
「すみません。今の段階ではお答えできません」
 柳田は目だけで冷ややかに笑った。
 山村は数年前に大阪北支社にいたことがある。柳田は、そのときに怨恨がなかったか、をまず調べようとしたのだった。
「まぁ、そんなことどうでもいいけど。せいぜい頑張って捜査してくださいな」声はアニメ声に変わっていた。
 桐子が出ていったあと、稲垣がうなった。
「きつい匂いですねぇ。この香水、確か『カマン』とか、『スマン』とかいう香水ですよ。僕の妹が時々つけています」
 稲垣は顔をしかめて、鼻の頭を摘まんだ。
 すると、柳田は呆れ顔で稲垣を見た。そしてこころの中でつぶやいた。
「ウィンザー化粧品の『アマン』だよ。何も知っちゃいないなぁ」
 柳田は軽く鼻を鳴らした。

 十二

「もう弔問客が来とるなぁ」
 修は大きな山門の前で智明に話しかけた。
 箕面市の山間部にあるこの寺で、十一時から葬儀が行われることになっている。
「支社長の実家は名家なんでしょう。こんな由緒のある立派なお寺で告別式をやるんですからね」
 朱の色で塗られた本堂を中心に、広大な敷地が広がっている。敷地内には宝物館や宿坊、更には茶屋までもが点在している。
「それにしてもでかい寺やなぁ」
 修は周りを見渡して、壮大な建築物に何度もうなずいている。
「昔から山岳信仰で栄えた真言宗のお寺ですよ」
 智明はサラリと答えた。
「やっぱり坊主の息子はよう知っとるなぁ」
 修と智明は本堂に向かって、玉砂利の音を立てながらゆっくりと歩いた。
 まだ十時とあって、葬儀の準備の真っ最中だ。そのうち、智明は打ち合わせのために本堂裏の寺務所に消えていった。修は手持無沙汰で、弥勒菩薩の大仏や大師堂の周りを漫ろ歩いていた。
 すると、本堂の隣にある大師堂の脇を、髪をうしろで束ねた男が足早に通り過ぎた。
「あれッ?雄三やないか」
 男は振り向いた。
「おう、修。来てくれたのか」
 修は何が何だか分からず首をかしげた。
「お前、こげなところでなんしようとや」
「何してるって、了司は俺の兄貴だよ」
「えッ!そげなこと聞いとらんぞ」
「兄貴が修と同じ会社に勤務してるなんて、俺には関係ないことだ。それに、今まで兄貴とはほとんど交流がなかったんだよ。今日は葬式だから仕方なく来てるだけだッ」
 雄三は強い口調で言って、視線を逸らした。
「なんや、水臭いやっちゃなぁ。言うてくれたらよかとに」
「すまん。特に他意はなかったんだよ」
「俺は今日泊まりばい。時間があるとならホテルに顔ば出さんか?」
「おう、分かった。何ていうホテルだ」
「梅田にある『大阪サンパレスホテル』ちゅうとこや」
「了解、五時ころには行けると思う」
 修は狐につままれたような顔をして、何度も首をひねった。

 修は、サンパレスホテルの地下にある『天勢』という天ぷら屋で雄三を待っていた。
「しかし、なんで兄貴のことを内緒にしとったとやろ。立派な兄貴やちゅうのに・・・・・・、二人の間になんかあったとやろか。弟がやっと有名人になったと思うたら、兄貴が死ぬやて、世の中うもういかんもんやなぁ」
 ブツブツと独りごとを言いながら、修は灘の冷酒を口に運んだ。すると店の引き戸が、ガラガラと音を立てて開いた。
「待たせたな」雄三は喪服のままネクタイを取ってあらわれた。
 疲れた顔の雄三は、修の隣に座るなり、カウンター前のねたを見ながら天ぷらを注文した。
「大将、これと、これと、これやってよ」
 指差したのは、穴子と小柱、それに新鮮な稚鮎だった。
「へいよ。山村さん久しぶりでんなぁ。今日はオフでっか?」
「今日は身内の葬式でね。仕事はキャンセルしたよ」
「そら忙しおましたなぁ。山村さんも今からやさかい、からだには気をつけなあきまへんで」
「ありがとう。肝に銘じとくよ」
 この店は雄三に指定された店だ。昔から懇意にしているのだろう。
「修、今日はありがとう。お陰で無事に終わったよ」
「でもビックリしたわ。お前がうちの支社長の弟やったとは、知らんかったなぁ」
「昔、色々あってさ。それから兄貴とはほとんど付き合いがないんだ」
 雄三はふし目がちに話すと、冷酒を一気に飲み干した。
「まぁよかよか。人間色々あるたい」
 修は、三十年前の女と関連があるな、と瞬時に察した。稚鮎の天ぷらを口に運ぶと、爽やかな緑の香りがした。
 雄三は修の思いに気が回らないのだろう、ほどなくすべての天ぷらをたいらげた。
「ところで、今日は親戚の人との付き合いはよかとか?」
「親戚のことより、親父がかなり憔悴してるよ。叔父たちがついてくれてるから大丈夫だろうけど・・・・・・。まぁ俺には関係ないよ。親戚とはもう縁を切ってるからな」
 雄三は特に気に留める様子もなく、更に天ぷらを注文した。
「親父さんはあの有名な日本画家、『山村桂月』やったよな」
「今は有名でも何でもない。ただの老人だ。昔から俺には関心を示さない男だった」
 雄三は修から目を逸らして、オクラの天ぷらを頬張った。
「葬式じゃ気丈に振舞っとったけど、自分よか先に子どもが死んだとやろ。そらぁ、相当憔悴しとるはずやで、親父さん」
「あんなやつでも、子どもが先にあの世にいったんだから、そうかもしれないな」
 雄三は苦い顔をして軽くうなずいた。
 そのあと、冷酒を熱燗に変えて、しばらく差しつ差されつの時間が過ぎていった。
「ところで修、お前仕事はうまくいってるのか?」
「転勤ばかりで結構からだがしんどいよ。上はギャーギャー煩いけど、まぁこんな時代やからな。辛抱、辛抱。何とか一人でやっとるたい」
 修は悲しげな笑いを浮かべた。
「それにしても、兄貴はよく出世できたよな。あんなやつが、何で執行役員になったんだ?」
 雄三はおもむろに修を覗き込んだ。
「そりゃぁ、立派な業績を上げたからやで。うちの会社は業績オンリーや。どないなことしてでも、ちゅうのはちょっと言い過ぎかもしれんけど、業績を上げさえすりゃぁ出世するたい。民間の会社はどこっもそげなもんばい。俺は好かんけどな」
 修は不満げに答えた。
「へぇー、あんな兄貴でも出世するんだ・・・・・・」
 雄三は目を閉じた。
「雄三、お前ほんまに兄貴のこと知らんかったとやなぁ。亡くなったから言うとやなかばってん、山村支社長はあんまり部下に好かれとらんかった。いや、ほんまのこと言うと、かなり嫌われとった。そやから、今度の事故も事件やないかて疑われとるんや」
「だろうな・・・・・・」
 雄三は大きくうなずいて、熱燗を二本注文した。
「なんか、兄貴のことにこだわりがあるみたいやな」
 雄三は昔を回想するかのように、天井を見つめてゆっくりと腕を組んだ。じっと何かを考えている。
 突然、雄三は大きめのグラスを注文して、それに酒を注いだ。そして、思いつめたようにその酒を一気に飲み干した。
「兄貴は殺されたのか?」
「そうや。警察はそう見とるたい」
「当然だよな、あんな卑怯なやつ。自業自得だ。まぁ俺も大したことは言えないけどな・・・・・・」
 雄三は一点を見つめながら、徐々に顔を紅潮させていった。
 しばらく沈黙が続いた。雄三は何を考えているのか動きを止めたままだ。
 すると、突然修の方を向いて、おもむろに口を開いた。
「兄貴は人を殺したんだ」細い声だった。
「なんやてッ、もう一回言うてみいッ」
「だから、人を殺したんだよ」
「なん言いようとか。雄三ッ」
 修はうろたえて目を白黒させた。
「殺されたのは子ども。それも俺の子どもだ」
「どないしたんやッ。詳しゅう話してみいッ、わけが分からん」思わず大きな声を出した。
「修ッ、声がでかいよ」
 雄三はこころを落ち着かせようとして、大きく息を吸った。
「ここじゃだめだ。俺は東京ではまだ顔を知られていない。今度リハーサルで東京に行く。そのとき詳しく話すよ」
「今日じゃあかんのか?」
「今からラジオ番組の生出演がある。時間がない」
「分かった。なら仕方なかばい。東京で待っとるぞ」
「俺だって話したい。東京進出までにはお前に話したいんだ。このささくれ立ったこころを何とかしたいんだよ。よく考えてみたら、兄貴は間違いなく殺されたんだ。間違いなく昔の事件が関係してる・・・・・・。だったら今度は俺だ。きっと俺が狙われる」
 雄三はそう言い残すと、呼んでいたハイヤーで店をあとにした。

 智明は、大阪サンパレスホテルの隣にある居酒屋で和子と対面していた。
「トモちゃん。置手紙の約束、早めに実現してくれたのね」
 和子は上を向いて鼻を膨らませた。
 今日の和子は、前回と違い濃い化粧をしている。真っ赤な口紅をぬり、目の周りを緑色のアイシャドーで光らせていた。
「まぁ、突発的な事故で大阪に来たんだから、俺が実現させたわけじゃないよ。偶然だよな」
「いいじゃない、偶然でも。今日は家に泊まっていってね」
 智明は無言で首を縦に振った。
「早速だけど、支社長が発見された日の夕方、警察から電話があったわよ。山瀬さんは事件の前日に池川さんのお宅に宿泊されましたか?だってー」
 和子は、じーっと智明の顔を覗き込んで話し始めた。
「あの日すぐに電話があったのか」
 智明は視線を落とした。
「そうよ。だから私は、山瀬さんとはずっと会ったことがありません。そう答えたわ」
「えッー何でそんな嘘を!」
 智明はとっさに顔を上げた。
「バカね。何でそんなにうろたえるの」
 和子は涼しい目をしてかすかに笑った。
「当たり前だろう。俺のアリバイが・・・・・・、まったく証明できないじゃないか。支社長は泊まった日の翌日に殺されたんだ。せめて大阪での行動が立証されないとヤバイよ」
 和子は煙草をゆっくりふかすと、雪のように白い頬を緩めた。
「うっそッー、ちゃんと答えておいたわよ」
 智明はそれを聞いて全身の力が抜けた。
「本当か?すまない・・・・・・」
 和子は小悪魔のようなえくぼを浮かべてニヤリとした。
「金曜の夜はセックスをしてました。二人は恋人同士です。だから時々大阪で会うんです、ってね。そこまで言ってあげたわ」
「えッ!」智明は愕然として、顔を白くした。
「何でそんな嘘まで・・・・・・。警察は信用するじゃないかッ」
「まんざら嘘でもないわ」
「だって・・・・・・」智明は当惑してしどろもどろになった。
「バカね。はっきり言った方が、二人が一緒にいたことを完璧に証明できるわ。ただ、恋人の証言は信憑性がないけどね」
 和子は智明の方を向いて片目をつむった。
「あのさぁ、いつから俺たち恋人になったの?普通に証言してくれたらいいのに」
 智明は腕を組んで口元を曲げた。
「トモちゃん、何にも覚えてないんだから。あの夜のこと」
 智明は、泊まった夜のことについてはほとんど記憶がなかった。ましてやベッドの上のことなど・・・・・・。言えることは、和子を抱いたのなら、その感覚を絶対に覚えているはずだ。覚えていないセックスなんてあり得ない。
「あのさぁ、あの夜何もしてないよ。俺・・・・・・」
 智明は少し投げやりに言った。
「えっ?間違ったこと、私言った?」
 和子は頬杖をつきながら冷酒をひと飲みした。
「だから・・・・・・、証言で、セックス云々だなんて」
 智明は、何でこんなことの真偽を争わなければならないんだ、と思いながら、ぬるくなったビールを一気に飲み干した。
 和子は、らっきょうを一つ摘まんで渋い顔をした。
「あの夜ね。トモちゃんのパンツを取って、トモちゃんのもの、舐めたり含んだりしたの。でもまったく反応がなかったわ。それもセックスの一つでしょ。覚えてない?言っとくけど、私恥ずかしい思いをしたのよ。もうー、冷たいったらありゃしない。そこまでいったら二人はもう恋人でしょッ」
「えっー、それ本当か?」
 智明は慌てて唾を飛ばした。
「嘘言ってどうするの。本当よ。私トモちゃんを起こそうとして頑張ったんだからね」
 和子の言うことはまったくのでたらめだったが、その嘘で智明を困らせてやりたかった。
 そして男を受け入れることのできない和子は、智明のものが自分のからだに埋没することを想像しながら、こころの中だけでも智明と深く繋がっていたかった。
 智明は目をつむって、じっとあの夜のことを回想してみた。
「そんなことがあったのか。悪かったよ。でもそれだけで・・・・・・」智明は、恋人と言えるのか、という言葉を呑み込んだ。そして唇を少し尖らせた。
「でも・・・・・・、素っ裸で一緒のベッドに寝たら、世間では恋人って言わない?」
 和子は真っ赤なライターで煙草に火をつけた。
「まぁ、一般的にはね。でも俺の場合は・・・・・・」今度は、違う、という言葉を呑み込んだ。
 智明は、何て煮え切らない男だ、と自分を批判しながら、乳白色の煙を吐き出す和子の赤い唇をじっと見つめた。
 しかしなぜだろうか、和子は桐子と同じ臭いがする。こころの底に重いものを抱えているような独特な臭いだ。特に今日は顔さえ似ているような気がする。真っ赤な口紅のせいだけではないだろう。智明は毒を吐き出すような顔をして、大きなため息を吐いた。
 前に会ったときの和子はどこにいったんだろう。明らかに、和子は以前と変わっている。
「ところで、警察は犯人の目星をつけてるの?」
 和子は人差し指を真っ赤な下唇にあてた。なぜか和子の顔には、今まで見たことのない憂いの表情が浮かんでいた。
「まだ、社員の事情聴取が始まったばかりだからな。俺たちは皆目見当がつかないよ」
「そうか・・・・・・。でも桐子が関係しているなら、解決は無理かもね。また事故で処理されるのが落ちよ」
「えっ?」智明は和子の言葉を容易に受け入れることができなかった。
「だって、今までの事件とまったく同じじゃない。いや、ごめんなさい。そんな気がするわ」
 和子は冷めた顔でまた冷酒をひと飲みした。
 桐子が抱えている陰鬱な闇を、和子は知っているはずだ。間違いなくすべてを知っている。
「和子、成実さんのこと、ほかにも色々知ってんだろう?」
 和子の顔の翳りが少し濃くなった。そして煙草の煙を深く吸い込むと、真っ赤な紅で染まったフィルターを見つめながら口を開いた。
「彼女、ある男を捜していたのよ」
「男?それは誰だよ」
「でも・・・・・・、これを言うなら、それこそ貴方と私は本当の恋人同士じゃないとね。そういう関係になったら話してもいいわよ」
 和子は赤い唇をひと舐めして、その両端を吊り上げた。
「恋人じゃないと、こんなこと言えないわよー」
 和子に何があったのか、今日は口にする言葉と酒のペースが尋常ではない。
 智明は、和子のグラスに目をやる度に、徐々に酒が醒めていくのを感じた。
「いやごめん。俺たちもう恋人かもね・・・・・・」
 智明は、わざとじゃれ合う振りをして、自分の鼻が和子の鼻と擦れ合うほどに顔を寄せた。
 桐子の闇を知りたい。どこからくる欲求なのか智明自身も分からなかった。そのためには和子が必要だ。
 和子の鼻が、智明の鼻に軽く触れた。
「捜しているのは殺人犯よ。フフッー」
 和子は智明の鼻の頭に強く煙を吹きつけた。
 智明は、赤い唇から噴射された毒に、まるで痺れたかのように全身を強張らせた。
「今まで順風満帆で過ごしてきた貴方には、まったく分からないかもね」
 和子の真っ白い頬がまた微妙に歪んだ。そのあとは、もう桐子のことに触れなくなってしまった。

 柳田は署から少し離れた行きつけの喫茶店で、大好きな推理小説を読みながら好物のナポリタンを食べていた。
 すると突然、入口のドアに飾られたカウベルを鳴らして稲垣が飛び込んできた。
「柳田さん。やっぱりここでしたか」
「どうした?そんなに慌てて」
 太ったからだが上下に揺れている。
「実は、ディズニーランドで、成実と思われる女が目撃されていました」
「えっ?それはないだろう。成実は高尾山に行っているはずだ。山村の尻についていた土は、靴で蹴り上げたときについたものだ。四号路のぬかるみを踏んだ靴で山村の尻を蹴り上げたんだ。そして山村は谷に転落した。山村の尻を蹴り上げたのは成実だ。俺は確信している」
 柳田は口の周りについたケチャップを拭うと、半分ほど残ったアイスコーヒーをひと飲みした。
「でも・・・・・・、藤田紘一と思われる男と一緒にいたようです」
「詳しく話してくれ」
 稲垣は柳田の正面の椅子に重そうに尻をのせた。
「二人のことを憶えていたのは、ランド内にあるイタリアンレストランのウェイトレスです。午後五時ころ、藤田と思われる男がコーラを飲んだ直後に咳き込んで、口に含んだコーラを辺りにまき散らしたそうです。そのとき前の客の服にかかり、ちょっとした騒ぎになったようですよ。そんなトラブルがあったので、藤田の隣に座っていた成実と思しき女のことを憶えていました。ただ、成実はサングラスをかけて帽子を深く被っていたようなんですが、ウェイトレスは彼女の写真を見ながら、断言はできないけどたぶんこの人です、って言っていましたよ。それともう一つ、きつい香水の匂いをさせていたそうです」
 稲垣は自慢げに厚い胸を反らした。
「午後五時か・・・・・・、それとコーラ。あまりにもでき過ぎてるな。十二時に入場しても、すぐに退場して高尾山に行き、山村を殺害して戻ってくることは可能だ。でも五時までに戻るのは、ちょっと無理だ。それから、コーラの件はわざとだ。う~ん、これで迷路の出口は見えなくなったな」
 柳田は眉間に皺を寄せた。
「その時間にいたのは間違いないようです」
 稲垣も口をきつく結んだ。
「でも、ウェイトレスははっきりと素顔を見たわけじゃないんだろう。からだつきは似ているのか?それと年格好は?」
 柳田はゆっくりと背中を起こして煙草に火をつけた。
「身長は百六十五センチ前後。髪の長さは肩を越えるくらいで、その色は黒。顔は色白、唇紅は真っ赤。派手な服に身を包んでいたようですが、四十代後半に見えたそうです。彼女の供述は成実の容姿にそっくりです」
 稲垣は手帳に目を落として、確認するように言った。額には汗が浮き出ている。
「本当にそこまで憶えているのかなぁ。それで入場券の控えは?」
 柳田は口元を丸めて煙を吐き出した。
「藤田は二枚保持していました。当然成実と一緒だった、と供述しています。控えに印字されている入場時刻は十二時五分でした」
「やっぱりでき過ぎているな」
 柳田は煙草をくわえたまま腕を組んだ。
「とりあえず、アリバイはあるんじゃないですか?」
「・・・・・・どうかなぁ」
 柳田は何度も首をひねった。
「柳田さん。僕は、ひょっとしたらアリバイより重要なことじゃないか、と思って成実の過去の転勤先を調べてみたんです」
「あぁ、過去に勤務した支社のことか」
「そうです。大阪北、博多、鹿児島、愛知。支社があるすべての所轄に問い合わせてみました」
 稲垣は下半身が窮屈なのか、重たい腹を抱えるようにからだを反らした。
「どうしてそんなことを?」
「いや、古株の事務員が言っていたじゃないですか。社内では成実は問題児だ、出世しているかもしれないけど、転勤先で相当あくどいことをしてきている、って」
「それで何か分かったのか?」
 稲垣は背広の内ポケットから、数枚の調書のコピーを取り出した。
「事件にはなりませんでしたが、先ほどの各支社で社員が死亡する事故が起こっています。そのすべてに成実が関係していたようなんですよ。これがそのときの調書のコピーです」
 柳田は大きくうなずいて調書を読み始めた。
 稲垣はまだ昼食を食べていないのか、チキンライスとホットケーキを注文した。
 柳田は、また妙な取合わせだ、と思いながらも、構わず調書を読み進めた。
 しばらくすると、柳田は顔を上げて煙草くわえた。
「どうですか?柳田さん」
 稲垣は、チキンライスを匙でこぼれるほどすくって口に運んだ。
「うーん。不思議なことがあるもんだ。何か面白いよなぁ」
 柳田は胸ポケットから取り出した鉛筆で、今度は調書の数ヶ所をチェックした。
「不思議なことって?」
 柳田はまた「うーん」とうなって、しばらく目を閉じた。
「大阪北は山田。福岡は仲里。鹿児島は飯田だろう。そして愛知は賀茂。東京の首都圏第二は山村か。何かあるな・・・・・・」
「何があるんですか?」稲垣はホットケーキを頬張った。
「鉛筆でチェックしたところをよく見てみろよ」
 柳田はホットケーキが盛られた皿を端に寄せて、テーブルに調書のコピーを広げた。
「山田亮司。仲里良治。飯田遼二。それから、賀茂涼二に山村了司。どうだ?」
「亡くなった社員の名前ですね。それがどうかしたんですか?」
「まだ分からないのか?」
 稲垣はとっさに首をすくめた。
「全員『リョージ』じゃないか。いくら何万人もの従業員がいても、東洋生命は建設会社じゃないんだ。二十年間とはいえ、五人もの、それも女性が半数以上いる企業で、男性の『リョージ』だけが事故死するか?」
「あッ、な、なるほど」
 稲垣はホットケーキを喉につまらせて、激しく何度も咳き込んだ。
「大丈夫か?そんなに慌てるな」
「は、はい。すみません」
 稲垣はおしぼりで涙を拭いたあと、そのまま口の周りを拭った。そしてじっと調書に見入っている。
「本社の人事に確認したところ、確かに女性が亡くなった事故もあるにはあるんですが、二十年間にたった一件だけです。それも交通事故だということです」
 柳田は腕を組んで渇いた唇を舐めた。
「うぅん・・・・・・」
「こんな偶然、あるんでしょうか」
「分からん」
 柳田は首を大きく左右に振って、吸いかけの煙草をつぶした。
「稲垣。山村のポケットにあった『アロワナ』のキーホルダーから、成実の指紋が発見されている。もう少し調べてみてくれ。それと、成実も同じものを持っている。成実が所長をしている営業所の事務員から証言が取れた。自宅の鍵を『アロワナ』のキーホルダーにつけているそうだ」

「トモちゃん。もう、ふうぅー。そろそろ行こうよ・・・・・・、私の家にぃー」
 智明は今夜の事態を予測して、かなり抑えて飲んでいた。
「そうだな。そろそろね」微妙に目を逸らして答えた。
 和子は何かを隠している。いや、消し去ろうとしているのか、前とは比べものにならないほどの酒を飲んでいた。
 智明は、桐子が誰を捜していたのか気にはなってはいたが、訊こうと思っても和子の酒のペースは、その思いを遥かに超えていた。
「しっかりしろよッ」智明は先に会計を済ませて和子の腕を取った。
 和子はすっかり千鳥足になって引き戸に肩をぶつけた。
「痛~いぃーッ」呂律は回っていない。
 桐子に声も似ている・・・・・・。智明は甘えたような和子の言葉を耳にして、瞬時にそう感じた。
 前回と同じように、タクシーを拾って天満橋の家まで行った。運転手が心配するほど和子は泥酔している。
「和子―ッ。着いたよ」
 運転手と一緒に、和子を何とか車から引っ張り出したものの、彼女はちゃんと歩けずよろめいている。智明が和子を背負い、運転手がうしろを支えて、ようやく玄関の前まで運んだ。
「和子、鍵を出してくれよ」
「・・・・・・バ、バッグの中よー」
 智明は玄関前の土間に和子を一旦座らせて、和子のバッグを弄ると、取り出した鍵には魚の形をしたキーホルダーがついていた。その鍵を使い、ゆっくりと玄関を開けた。そして中に入ると、手さぐりで外灯のスイッチを入れ、また外に戻り和子を抱きかかえた。
「ふぅー」大阪城の天守閣の上には、上弦の月がくっきりと見えている。
 玄関上の外灯に目を戻すと、光に浮かび上がった引き戸の右上に、薄汚れて黒ずんだ表札がおぼろげに見えた。
「あれッ!」智明は酒で充血した目を繰り返し擦った。
「成実」・・・・・・。間違いなく「成実」だ。くすんではいるが、「成実」という文字が彫られている。
 智明はしばらくの間、表札を見ながら目をしばたかせた。
「どうしてこの家の表札が『成実』なんだ。大阪に『成実』という姓は多いのか。いや、こんな偶然なんてあり得ない」
 智明はしばらく玄関前に立ちすくんでいたが、すぐに我に返り、和子を抱えて居間に運び入れた。
 一旦ソファーに落ち着くと、和子は朝まで起きないだろう。智明はそのまま和子を背負って、ゆっくりと二階に上がった。ギシギシと板の軋む音がする。部屋に入ると、和子をそのままベッドに沈めた。
「プファー」和子は苦しそうに息を吐いて、大きな寝返りを打った。
 智明はベッドの脇に腰を落とし、和子の顔をまじまじと見た。
 頬骨あたりに淡いシミが浮かんでいる。目尻には熊手のように小皺が刻まれていた。唇には縦皺が・・・・・・。やはり似ている。五十になると多くの女がそうなのか。いや違う。そのシミ、皺、肌理、すべてが似ている。
 智明はしばらく和子の寝顔を見つめた。そして、和子の頭を軽く撫でた。
「成実」あの表札は何だろう。考えてみなくても祖母が「成実」という姓だったことは理解できる。
 和子に姉妹はいるのだろうか?智明はふと思った。尋ねたことはなかった。東京に両親がいて絶縁状態だ、と聞いてはいたが・・・・・・。そうなると「池川」は父方の姓だ。母方は「成実」。そう考えるのが自然だ。和子の母親の旧姓が「成実」なのだろう。両親の離婚、再婚がないとすれば、それしかない。
 智明は酔いもあって、頭の中がかなり混乱してきた。
 一階の居間で飲み直そう、と寝室のドアを開けようとしたとき、右側の壁に張り付くようにしている小さな本棚に気づいた。
 下段の隅に、ワイン色のアルバムのようなものが三冊見えた。
 和子が熟睡していることを確認すると、智明はその中の一冊を手に取った。パラパラと捲ってみると、和子の高校時代の写真だった。和子はバスケ部に所属していたのか・・・・・・。試合のときの写真が多い。屈託のない笑顔の写真であふれていた。アルバムは高校の卒業式の写真で終わっている。アルバムの表紙にはNO3と印字されていた。
 更に二冊目に手を触れようとすると、和子はまた苦しそうに寝返りを打って、うつぶせになった。「プファー」と何度も息を吐いている。 智明はあまりにも荒い息遣いが心配になった。
 苦しそうな顔をしている和子を見かねて、智明は青いワンピースの背中のファスナーを下ろし、ゆっくりと足元からワンピースを抜き取った。濃紺のキャミソールが露わになる。絹のような光沢だ。次にキャミソールのストラップを肘のところまで下ろした。突然真っ赤なブラジャーがあらわれた。真っ白い無垢な背中が目を刺すようにまぶしい。智明は一瞬頭がふらついた。顔を逸らしながらホックをはずし、肩を両手で抱えてからだを少し持ち上げてから、素早くそのブラジャーを取り去った。生温かい布の感触が手のひらに残る。そしてまたキャミソールのストラップを肩に戻して、和子を仰向けに反転させた。透き通るような白い乳房を見ることはなかった。
 でも、本当に熟睡しているのだろうか。智明はしばらく和子の寝顔を見つめた。
 しばらくすると、寝息が落ち着いてきた。智明は二冊のアルバムを抱えて、音を立てないように、そうーっと部屋を出た。
 ふと奥を見ると、前には気づかなかったのか、隣に同じような木製のドアが見える。廊下の突当りはトイレのようだ。隣の部屋は物置きとして使われているのか。それとも誰かの部屋だろうか。しかし、この広い旧家には和子しか住んでいないはずだ。妙な冷気を感じる。
 智明は興味本位でドアのノブを回した。鍵はかかっていない。ゆっくりとドアを開けると、真っ暗な部屋からわずかに香の匂いがした。ドアの横にある電気のスイッチを押すと、突然、原色で彩られた部屋が浮かび上がった。まぶしいほどだ。智明は思わずアルバムを落としそうになった。
 真っ白い壁に黒い床。ピンクのカーテンに真っ赤なベッドカバー。緑色の箪笥に黄色い机。例えようのない幻覚的な極彩色の部屋だ。
 一歩中に入ると、壁の奥に取り付けてある棚の上に、真っ黒い仏壇のような箱が見えた。その中には位牌のようなものがある。智明は何かに呪われているような戦慄を覚えて、一歩も足を踏み出せなかった。
 目を出窓の方に転じると、その手前には、おどろおどろしい二体のフランス人形と三体の日本人形。そして薄汚れたぬいぐるみが、数十体も並べてある。
「何なんだッ。これは!」驚愕のあまり思わず大きな声が出そうになった。智明は慌てて右手で口を塞いだ。全身に鳥肌が立ち、震えるほどの寒気を覚えた。
 しばらく使われてないのか、至る所に薄く埃がかぶっている。長居するところではない。智明は唇を震わせながら部屋のドアをすばやく閉めた。慌てて階段を下りると、大きな冷蔵庫からビールを取り出し、テーブルの隅の椅子にドカッと音を立てて座った。
 勢いよく缶ビールのプルタブを抜いた。プシューという音がおぞましく部屋に響く。汗もかいていないのに喉がカラカラだ。一気にビールを飲み干した。
 誰の部屋だー。あの気味の悪い部屋は。祖母が使っていた部屋じゃないのは明らかだ。和子の部屋は手前にある。じゃぁ、誰の部屋なんだ。誰かが住んでいたのか。どう見ても若い女、いや精神が病んでいる女の部屋だ。・・・・・・それとも、悪霊でも住んでいるのか。智明は非現実的な考えに至るほど、ショックを受けていた。
 智明は、居間のサイドボードに置いてあったバーボンを取り出し、ゆっくりと膠着し始めた意識の中で、チビリチビリと、猫のように琥珀色の液体を舐め続けた。
 ふと床に目をやると、まったく忘れていた。アルバムが落ちている。もうどうでもよかったが、夢遊病者のように、ふわりと拾ってテーブルに二冊を重ねた。
 何気なくNO2を開くと、和子の中学時代のスナップがところ狭しと貼られていた。所々に可愛いアニメのシールが挿んである。すばやく捲ってみたが、どうということはない。
 同じようにNO1を開いた。
 最初のページには、乳母車に並んで座る二人の乳児の写真が貼ってある。写真はそれ一枚だけだ。生後二カ月くらいだろうか、二人とも似た顔をして笑っている。智明は思わず頬を緩めた。その写真の周りには、数枚の写真を剥ぎ取ったような跡が残っている。
 次のページは、もう和子の入園式の写真だった。二、三ページで幼稚園の時代が終わると、それからは小学校時代の写真ばかりだ。和子の子ども時代の笑顔が、妙に大人びて見える。
 最初の一枚の写真。一人は当然和子だろう。しかしもう一人は誰なのか。姉妹にしては歳が同じくらいだ。だとすると、近所の子どもだろうか・・・・・・。
 智明はまた頭が混乱してきた。冷蔵庫から二本目のビールを取り出し、一気に半分ほど空けた。喉が大きな音を立てた。
 あの部屋、あの子ども。この家にもう一人、幻の女でもいるのかー。
 アルバムを和子の部屋に戻したあと、智明はぼんやりとした頭を抱えて、居間のソファーで浅い眠りについた。

13-14


十三

 刑事部屋の柱時計は午後十時を指していた。
「柳田さん、高尾山口駅周辺でも山頂でも、山村を目撃した人間は見つかりませんでした」
「茶店と土産屋はすべてあたったのか?」
「ほとんどあたりましたよ。土日にかけて聞き込みをしたんですが・・・・・・、ダメでした。高尾山は、最近の登山ブームでごった返していました。それに、特に若い女性に人気があって、赤だのピンクだの、それこそ今風のアウトドアファッションの人間がゴロゴロいましたよ。今どき赤いヤッケを着た男なんてまったく目立たない、って茶店のばあさんが言ってました」
 柳田は訝しげな顔をした。
「高尾山なんて、オタク男か、年寄り夫婦が行くとこじゃないのか?」
 稲垣は呆れ顔で口を歪めた。
「そんな考え、時代錯誤もいいとこですよ。今や高尾山は年間二百万人以上の観光客が訪れる場所ですよ。山の中腹にはビアガーデンだってあるんですから。僕ら八王子に勤務する人間が知らなくてどうするんですか」
「そんなに怒るなよ。目撃者を見つけられなかった言いわけに聞こえるぞ」
「まぁ、本音はそうですけどね。今後もしばらく聞き込みは続けますよ」
 稲垣は土産に買ってきた饅頭を、立て続けに二つ頬張った。
「チエちゃんお茶ー」稲垣はまた饅頭を喉につまらせたようだ。
「バカッ。お茶くらい自分で淹れろ」
「チエちゃん、ごめん。もう大丈夫だから」
 刑事課の紅一点チエは、稲垣のそそっかしさに呆れて、ぬるめのほうじ茶を運んできてくれた。
「あまりイライラしないでくださいよ。事件の推理がつまってくると、いつもこうですね」
 チエはニッコリ笑って饅頭を一つ摘まんだ。
「もう十時過ぎですよ。早くお家に帰ったらどうですか?私の事件は昨日で一件落着。明日からお休みしまーす」
「チエちゃん、暇なら『高尾山事件』の応援頼むよ」
 稲垣は目をつむって両手を合わせた。
「ダメだね。明日から四日間は沖縄。せいぜい頑張ってちょうだい」
 チエは、そそくさと机の上を整理して帰っていった。
「チエちゃん、いいなぁ。沖縄かぁ」
「稲垣、羨ましがってるんじゃないよ。事件はこれからだ。少し気を引き締めろ」
「はーい」稲垣は能天気な顔をして、三つ目の饅頭を口に放り込んだ。

 柳田は日野の官舎に戻る電車の中で、事件の流れを整理してみた。
 あの成実という女が、山村を殺害したことに異論はない。成実は何かを隠している。
 しかし、殺害の動機はいったい何だろう。セクハラだけでは殺意など生じない。万一生じたとしても、社内のセクハラ相談窓口に電話をするのが先だろう。突然殺害を実行することなど考えられない。
 事件の前日に山村と食事をともにした。そこで何があったのか?「シャンピニョン」の店員は、成実が怒って店を出ていった、と証言している。成実はセクハラ程度で怒るはずがない。男性社会の中で、酸いも甘いも噛み分けてきたはずだ。彼女と話してみるとそれがよく分かる。ならば、なぜ山村を殺す必要があったのか。成実は「シャンピニョン」で何かを知った。もしくは何かを見つけた。キーホルダーについていた成実の指紋はそこでつけられたのか。もしそうだとしたら、いったい何を意味しているのだろう。
 あの夜、成実は山村に電話をしている。たぶん高尾山に誘ったのだろう。そのあと藤田に入れた電話は、きっとアリバイ工作のためのものに違いない。藤田と一緒にいた女は本当に成実なのか。いや、成実が高尾山にいないと、推理は根本から崩れてしまう。成実が若いころ大阪北支社で起こした事故に、目撃者として藤田が登場している。調書にはそう記されていた・・・・・・。あれを事故ではなく事件とみるなら、成実が関与した一連のことは、すべて事件じゃないのか。すると、共犯はやはり藤田なのか。もう時効になった事件もあるが、調べてみる価値はあるのかもしれない。
 柳田は捜査の疲れが出たのか、電車の中で猛烈な睡魔に襲われた。そして思考が徐々に宙を飛び始めた。
「明日は久々の明けだ。駅前で一杯飲んでいくか」極度の疲労が柳田を繁華街に誘った。足早に改札を抜けて空を仰ぐと、剣のように尖った三日月が輝いていた。

 十四

 狭い借家の居間で、二人は卓袱台を挟んで座っていた。
 猫の額ほどの小さな庭には、数本のコスモスが西日を浴びて揺れている。
 ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。柱時計が四回鳴ってときを告げた。
外の爽やかさとは無縁のように、居間には重い空気が淀んでいる。

「私、絶対育てないわよッ」
 倫子は夫の勇に強く言い切った。
「・・・・・・でも、仕方がないじゃないか」
「仕方がない?何言ってるのよッ。私が汗水たらして働いているときに、貴方はあんな売女と遊び呆けていたのよね。子どもを産めない私は、もう妻じゃないのねッ」
「そんなことはない。お前が子どもを産めないことと、俺が外に女を作ったこととは何も関係がない」
「じゃぁ、どうして愛人の子を私が育てなきゃいけないの?貴方たちが処理すればいいことじゃない」
「俺はお前と離婚する気はない。それを知って、あいつは子どもを放棄したんだ。俺があいつに曖昧なことを言っていたのかもしれない。そうだとしたら謝る。でも、今となっては俺たちが育てなきゃ、施設にでも入れるしかないんだよ。俺の子どもだ。そんな無責任なことはしたくない」
「貴方ッ。無責任なことはしたくないって?何を言ってるのッ。すべてに無責任だったからこうなったんでしょー。それに離婚したくないって?何勝手なこと言ってるの。それって、私の実家の財産を狙っているからでしょう。そうよ、それで貴方はからだの不自由な私と結婚したのよ。売女の子どもなんて、施設にでも入れて貴方が面倒みなさいよッ」
 興奮した倫子は、卓袱台に置いてあったミカンを思い切りつぶした。果汁が血飛沫のように飛び散った。
三年前、倫子は勇と結婚してすぐに医者に子どもができないことを告げられた。
「卵巣が卵子を作ろうとせんのですなぁ」まるで他人事のようにあっけらかんと宣告された。二十二歳の時だった。加えて、子どものときに交通事故に遭い右足が不自由だ。勇に対して常に負い目があった。だからといって、今回のことはまったく別の問題だ。ただ、一生こどもが持てないことを考えると、怒りの中で微妙にこころは揺れていた。プライドと現実の間で、倫子の気持ちは立ちすくんでいた。
「お前も言っていたじゃないか。将来は施設から子どもを譲り受けて育てよう、って。だから、施設にいる子を譲り受けたと思って育ててくれよ」
 勇は顔の前で両手を合わせた。
 夜々、夫と肌を撫で合い皮膚を擦り合わせていた女の子どもなんか、育てる人間などいるわけがない。
「・・・・・・・ウワァァァー」倫子は堰を切ったように大声を上げた。喉をつまらせた子どものように泣きじゃくっている。
 勇は自分が吐いた言葉を反芻してみた。言ってはいけないことを口にしていた、と気づき、しばらくの間沈黙した。
 一頻り泣いたあと、倫子は改めて考えてみた。
このままだと、不実な夫と一生二人だけで暮らしていくことになるのだろう。もしかしたら、二人の間に子どもがいた方がいいのではないか。子どもには愛情を感じないかもしれないが、育てているうちに生まれるのが愛情ではないのか。この際、夫のことなど無視して、子どもにかけてみようか・・・・・・。でも、世間でよくあるように、子どもが不良になったらどうしよう。ましてや警察沙汰にでもなったらどうしよう。夫は自分の過ちなど忘れて、お前のせいだと叱責するだろう。そして、世間は逃げた売女のことは忘れて、不良に育てた私を許さないだろう。苦労など買ってするものではない。まだ子どもは何も知らない。それなら今のうちに施設に放り込まれた方が・・・・・・。
いやッ、違うー。私が育てないことで、私は夫と変化のない暗い人生を送り、子どもは施設で親のいない寂しい人生を送ることになる。今から夫に傅く生活をやめて自分のために生きようとするなら、やはり子どもを持つしかないのではないか・・・・・・。
 倫子の気持ちは、育てる方にいくぶん傾いてはいたが、夕飯どきを過ぎても結論は出なかった。夫の勇は近所の飲み屋にでも逃げたのだろう。もう一生帰ってこなくていい。それならそれで、このまま家も夫も捨てて逃げ出せる。でも・・・・・・、それではあまりにも短絡的過ぎるような気もする。気持ちは揺れ続けた。
 苦渋の選択に結論を出せないまま、倫子は泣き疲れた子どものように、卓袱台に顔をふせて寝入ってしまった。

「お母さん。私どうしたらいいの?」
「勇さんも困ったものね」
 母の節子は驚きもせずに、優しい眼差しを倫子に向けた。
「やっぱり勇には夷人の血が流れているのよ」
「そういうこと言うのはやめなさい。みっともないわよ」
「そんなこと言ったって・・・・・・」涙をじっと堪えた。
 倫子は子どもの退院を前にして、翌日、大阪の実家に戻ってきたのだった。
「あの女がいっそ堕してくれてれば、こんな嫌なことで悩まされなかったのに。勇も本当に優柔不断な男よね。結婚をちらつかせて、子どもを産むように誘導したのよ。間違いないわ。産めない私への嫌がらせよー」
 節子は穏やかな顔で倫子を窘めた。
「貴女の価値観で判断したらダメよ。子どもは命を授かったんだから、もう私たちと同じ意思のある人間よ。自分のことより子ども将来のことを考えて判断しなさい」
 倫子はたちまち頬を膨らませた。
「本当にあのオンナッ、流産でもしてくれればよかったのよ」
「バカなこと言うのはやめなさいッ。子どもはもう手足をバタつかせて、ニッコリ笑っているのよ」
「じゃぁお母さんは、私に育てろって言うの?」
「どんな子でも、誰の子でも、子どもっていうのは純真無垢で大人の希望よ。貴女の人生も、子どもによって大きく変わるかもしれないわ。案ずるより産むが易しよ」
 節子は、今にも涙をこぼしそうな倫子に笑いかけた。それから倫子の右足に目を移して、今度は顔を曇らせた。
 倫子はじっと考えを巡らせている。
「こんな足じゃ、二人なんて育てられないわ。無理よ、絶対に無理よッ」
 倫子はついに涙をこぼした。
 節子も気持ちの置き場に戸惑い、思わず目を潤ませた。
「それこそ、勇さんが助けてくれるわよ。あの人の過ちなんだから」
 倫子はとたんに目を吊り上げて、節子に食ってかかった。
「お母さん、何言ってるのッ。もうあの人なんてあてにしないわ。どうせほとぼりが冷めたら、また外で遊ぶに決まってるわ。子どもが小学校に入学したら、私、絶対に離婚してやる。そして子どもと一緒に生きていくわ」
 倫子は自分が言っていることに驚いた。これが母性というものだろうか。いつの間にか子どもを育てるという女の本能が、どす黒い水を浄化するかのように、倫子の憎しみを駆逐していった。
「貴女、やっぱり育てる気があるのよ。今日は私にそれを確認しにきただけなのよ」
 節子は真顔で倫子を見つめた。
 倫子はわずかに上を向いて目を泳がせた。
「・・・・・・そうかもね」涙はすっかり乾いていた。
「でも、いくら何でもこの足じゃ二人は無理よ。一人ならまだしも・・・・・・。あの女、二卵性双生児なんか産んで、きっと足の悪い私に対する嫌がらせよ」
「いい加減にしなさい。嫌がらせで子どもなんて産めないわよ」
 節子は、また興奮し始めた倫子を窘めた。
「じゃぁ、どうしたらいいの?」
 節子は自分の不注意で倫子の足を不自由にした、と日ごろから倫子に負い目を感じていた。
「ごめんなさいね。お母さんも少し言い過ぎたわ。よく考えたら、一人を育てるのさえ大変なのに・・・・・・、二人はとても無理よね」
 節子は新聞紙に広げた栗の渋皮を剥きながら黙り込んだ。
 すると倫子は、いい考えが浮かんだ、とでも言いたげに、笑みを浮かべて口を開いた。
「お母さん、今働いてるの?」
「お父さんが亡くなってからは、仕事らしい仕事はしてないわ。いっときお父さんの跡を継いで社長になってくれ、っていう話もあったけど、今は非常勤役員として、週に一度経理を見てるだけ。その方が気楽よ」
 節子は番茶をひと口すすった。
「お父さんが死んでもう二年か。お父さん、本当に死ぬのが早すぎたよ。もし生きてたら、勇のことこっぴどく叱りつけただろうにね」
「そうね。正義感の強い人だったからね」
 節子は昔を懐かしむかのように、頬づえをついて目を潤ませた。
「ところで、薬って儲かるの?」
 突然、倫子は節子の生活に言及した。
「まぁ、そこそこね。昔と違って、今は健康保険が普及して病院にかかる人も多くなったからね」
「ふ~ん。じゃぁ、お母さん楽で暇な暮らししてるんだ。まだ四十五だっていうのにね」
「うん。お父さんが残してくれた財産もあるし、お給与もいくらかあるわ。ぼちぼちかしら」
 倫子は勇との生活に疲れて、今まで節子の暮らしを気にするどころではなかった。考えてみると、節子は裕福な暮らしをしているようだし、まだ若い。今からの人生をどう生きていくのだろう。
「お母さん、将来どうするの?」
「今は何も考えてないわ。暗い時代も終わって、ようやくいい世の中になってきたわ。今後は女性もやりたいことをやれるわよ。私もそろそろ何かやらないとね」
 倫子はしばし目をつむると再び大きく見開いた。
「じゃぁ、子ども・・・・・・、育ててよ!」
「えぇー?」節子は開いた口が塞がらなかった。目を丸くしたまま身動きひとつしない。
「い、今何て言ったの?」
「一緒に子どもを育てようよ」
「一緒にって、同居するってこと?私はお父さんが建ててくれたこの家から離れるつもりはないわよ」
「違うわよ。ひとりずつ育てるのよ」
 倫子の顔は熱を帯びて赤味を増していた。
「私と?」節子は思いもよらない倫子の提案に、どうしていいか分からず口を真一文字に結んだ。
「そうよ、お母さんも育てれば。まだ若いんだし、子どもを育てることで生活に張りができるかもしれないよ。そうすることで、結果的に私の応援もできるじゃない」
「でも、そ、それはちょっと。私は無理よ。貴女を育てたのは、もう遠い昔のことだもの」
 節子は何度も目をしばたいた。
「私なんか始めてよ。それに・・・・・・、いや、もううしろ向きなことを言うのはやめるわ。お母さん二人でやろうよ。人生変わるかもしれないよッ」
 節子はぬるくなった番茶に口をつけたあと、そっとため息を吐いた。
 金銭的に問題はないけれど、体力がどうか。子どもが二十歳を迎えたとき、私は六十五歳。自分の体裁よりも子どもが可哀想ではないか。父兄参観日に子どもがからかわれることは目に見えている。でも足の悪い倫子のことを考えると、娘の倫子こそ不憫だ。今は、先のことは考えずに倫子を助けるべきではないのか。彼女を障害者にしたのは、この私。無理に見合いを勧めて、今の亭主と結婚させたのも私。だから・・・・・・、自分にできることはすべてやってあげるべきではないのか。いや、そうするべきだろう。
「お母さん。案ずるより産むが易しよ」
 倫子の顔は明るく輝いていた。
「・・・・・・でもねぇ」
 節子はまだ踏ん切りがつかなかった。
 ぼーっと庭の池を見ていると、小さな緋鯉が飛び跳ねた。
 ポチャンという透きとおった水音が、晩秋に佇む静寂に小さな風穴を開けた。
「二人もいるのよ、不幸を背負って生まれてきた子どもが。私たちが手を差し伸べないと」
 倫子は何かに押されるように、揺れるこころを固めた。
 節子はふせていた顔を上げ、真剣な目をして正面を見た。
「そうね。やってみるか」力強い声だった。
「でも二人を絶対に会わせてはだめよッ。せめて自分を確立する十八まではね」
 節子は口元を硬く引き締めた。
「仲良く育てたらどうなの?」
 倫子は怪訝そうな顔をした。
「そんなのダメに決まってるじゃない。まず二人には、絶対に生い立ちを教えてはダメッ。不幸な生い立ちなんて消し去るのよ。そして姉妹がいることも教えてはダメッ。とにかく、別々の人生を送らせるの。そうしないと、こんな辛い境遇を二人が知ったら、どうなると思う?とたんに人が信じられなくなって、きっと人生に絶望するわ。子どもは他人同士。とにかく会わせないことよ。これだけは守ってッ」
 節子の強い言葉に倫子は大きくうなずいた。
「私が育てる子どもは、本人には可哀相だけど、施設からもらい受けた子にするわ。両親は行方不明。そういうことにする。会社の従業員にも徹底しておくわ。貴女の方は、ただ役所に届けるだけ。自分の子どもとして育てられるわよ。いい、二人は赤の他人。分かってるわね」
 倫子は何かに憑かれたような顔をして、黙って首を縦に振った。
「あなたは長女を育てなさい。育てやすいっていうからね。私が二女を育てるわ。ねぇ分かってるの?もう私たちも当分会えないわよ」
 自分が母に頼んだことだけど、こんなふうに母が納得してくれるとは・・・・・・。倫子は想像を超える展開に、言葉を失くしてしまった。

「フフフッー、アッハハハー」和子は気味悪く笑った。
「・・・・・・今話したことが、私たちの忌まわしい生い立ちよ。たいした話じゃないけどね」
 和子は何もなかったかのように、白けた顔をして厚いトーストの角を齧った。
「そうだったのか・・・・・・」
 智明はそれ以上言葉が出てこない。
「私たちは売女の娘なのよ。気持ち悪いでしょう?」
「そ、そんなこと言うなよ」
 智明は慌ててコーヒーを口に運んだ。目は虚ろだ。額には汗が浮き出ていた。こんな不思議な感覚にとらわれたことはない。からだが寒い。凍えるように寒い。
「トモちゃんがこっそり忍び込んだ部屋、誰の部屋だと思う?」
 和子は眠っていなかったのか・・・・・・。演技だったんだ。俺が隣の部屋を覗いたことを知っていたんだ。智明の顔は青みを増した。
「私の部屋よ。ウフッ。そして、今私が使ってる部屋、そう、昨日トモちゃんとセックスした部屋は、本当は桐子の部屋なのよ。彼女、東京にいるでしょう。だから私が使ってるの。ウフッ」
 和子の頭の中は、前回会ったことと今回のことが錯乱している。智明はもう何が何だか分からなくなりかけていた。
 和子は、齧りかけの厚いトーストに思い切りフォークを突き刺した。鋭い金属音が居間に響いた。
「それと、大事なアルバム、盗み見したのね。あれ桐子のアルバムよ。桐子のことは放っておいて、って言ったのに。どうして?桐子にどんな興味があるの?」
 智明は背中に流れる汗を感じた。
「そ、それはない」
「そう・・・・・・。ならいいけど」
 和子は食卓のケチャップを取り上げ、スクランブルエッグが隠れるほどにその赤を絞り出した。黄色い卵が真っ赤に染まった。
「トモちゃん、朝ごはんしっかり食べてよ。ケチャップ好きでしょう。もうホントに子どもなんだから」
「ん、うぅ・・・・・・」
 智明は和子の陰湿な言い回しに、何と答えたらいいのか分からず、ただ音を立てて何度も唾を飲みこんだ。
「桐子より私よ。私に子どもを産ませて。ねぇ産ませて。子どもが私のからだに宿るように抱いてよ。ねぇトモちゃん」
 隣に座る和子は、目を潤ませてからだを密着させてきた。
 和子の吐息が耳を擽ると、智明は両足がわなわなと震えた。
「そんな・・・・・・、冗談言うなよ」いくぶんからだを引いた。
 そして、和子の虚ろな眼差しに笑いを引きつらせた。
「トモちゃん、つれないわね。汚れた私となんか交わりたくないんでしょう」
 ふぅーっ、とため息を漏らして和子は目を逸らした。目には涙が溜まっている。
「でもいいの。もうどうにもならないから。私、男を受け入れられないからだなの・・・・・・。あのときからね」
 和子はひと滴の涙をこぼした。
「和子、大丈夫か?」
 智明は、そんなありふれた言葉しか口に出せなかった。
「実は、私たちの父親は私生児。白人との混血なの。その白人は、父が産まれるとすぐに日本を逃げ出したんだって。父親にはその男の血が流れているのよ。だからあの売女と・・・・・・。フッフッフッ。そう、私たちのからだも、その濁った血が流れているのよ」
 和子はトマトジュースをひと口飲んだ。口元が赤く汚れた。
「私たちは、両親から譲り受けた濁った血を、清らかな血にしたかっただけなの。濁った血だって、今の私たちを生かしている血よ。普通の女のように普通の男と交わることによって、その血を浄化させたかった・・・・・・。堕胎される、いや、殺される運命にあった私たちよ。生き延びたからには、何代かかってもこの血を綺麗にしたかったの」
「両親のことを悪く言うのはよせ。両親がいたからこそ、和子も妹さんも、今この時代に生きてるんだ」
「ふん、綺麗ごとね」和子は鼻を鳴らして右頬だけで笑った。
「私はねぇ、真剣に子どもが欲しかったの。でも・・・・・・、ある事件、そう、あのことがあってから、どうしてもこのからだが男を受け入れようとしないの。男の卑劣な犯罪は許されても、女は真実を語ることさえ許されなかった。そして深い傷を負ったまま、いつの間にかこの歳。今からなんてもう産めないでしょう。でも桐子は私と違って、一度だけ子どもを産むチャンスがあったの。親に望まれた幸せな子どもをね。桐子の妊娠が分かったとき、私たちは歓喜のあまり抱き合って泣いたわ。でも結局、それも儚く消えた・・・・・・。あの男のせいでね。あの男は、二人のたった一度のチャンスを、虫けらをつぶすように踏み躙ったのよ。許せないッ、絶対に許せないッ」
 和子のコメカミに、今にも破裂しそうな血管が浮かび上がった。
「ふぅー」和子は大きなため息を吐いた。
「私たちが、愛人の子どもだというだけでどれだけ苦汁を嘗めてきたか、ボンボンの貴方には分からないわよ。特に妹の桐子は、親のない子どもというだけで、それは酷い差別の中で生きてきたわ。『拾われた子。ばばあの子。売春婦の子』そう囃し立てられながらね・・・・・・。だから、桐子は大阪を離れて暮らしたかったのよ。そのために、キャビンアテンダントになることを夢見て、その専門学校に進学することにしたの。でも、さっき話したように、桐子は入学前に妊娠したわ。夢を捨てる代りに、新しい希望を授かったのよ。私は自分のことのように嬉しかった。私たちには、この血を絶やしてはいけない使命があったからね。ただそのあと・・・・・・、あの男が子どもを殺してしまったの。そして、あいつも子どもを見捨てたのー」
 和子はつぶれたような声で恨みを吐き捨てた。
 智明は耳を塞ぎたいと思いつつも、辛うじて和子の言葉を受け入れた。
「分かる?こんな酷い男ってどこにいる?あんなやつら、存在自体が許せないッ」
 顔を紅潮させた和子は、音が聞こえるほどにギリギリと歯ぎしりをした。
 待てよ。聞いていると、和子の話は興奮が頂点に達したのか支離滅裂だが、どうも事件に絡んだ男は二人いるような気がする。いつの間にか男が複数形になっているじゃないか。いったい何があったんだ。
 智明の手のひらには、じっとりと汗が纏わりついていた。
 和子の目は泳いでいる。薬でもやっているかのように、呂律が危うくなってきた。
「専門学校に行けなかった桐子はねぇ、一年後に、お祖母さんの知り合いの勧めで『東洋生命』に就職したの。今考えると、誰か有力者のコネだったのかもしれないわ。卒業して一年遊んでいたのに、大手企業に入れるなんて不思議だもの」
「そうだな。あの時代は就職難だったはずだ」
 和子は黙ってうなずいたあと、ミネラルウォーターのボトルを半分ほど空けた。口元からだらしなく水がこぼれ落ちた。
「そして普通の暮らしを始めたわ。でも十年ほど過ぎてこころの傷が癒え始めたころ、偶然あるものを見たのよ。桐子にとって思い出したくないものをね・・・・・・。そう私にとってもね。私も欠員があって、運よく『東洋生命』に入社したけれど、それが不幸だったのか、幸運だったのか、今となってはもう分からないわ。どちらにしても、もうあと戻りはできないから」
 和子は、一瞬息が止まったかのように口をへの字に曲げ、しばらくすると、ゆっくりと長い息を吐き出した。
「それを見てから桐子は変わったわ。そして、そのとき男も死んだ・・・・・・」
 智明は、奇妙な話に顔をしかめた。そしてもう尋常とは思えない和子に、何も問いかけようとはしなかった。
「その男が死んでから、高卒の桐子は上にのし上がるために躍起になったのよ。魅力的なからだ、巧みな言葉、思わせぶりな態度、そしてお金。手段は選ばなかったわ。あの男たちを捜すためにね。出世していくと、ただの事務員と違って上司との出会いも徐々に増えていくでしょう?偉そうでバカな男を使えるだけ使ったのよ。悪いけど私も応援したわ。というよりも、私が主導権を握って男を消していったの。消しゴムで汚れた名前を消すようにね。その名前は「リョージ」。そしてやっとよ。でももういいの。もうすぐ終わるのよ、トモちゃん」
「待てよ和子。何が言いたいんだ?」
 智明は、いくら和子の話の節を繋ぎ合わせても、言おうとしていることがまったく理解できなかった。
「トモちゃんはいいの。どうせ出世して、私のような下々のことなんか忘れていくのよ。貴方は組合で副委員長をして、出世のために箔をつけたんだし、役員の若い娘とも遊べたでしょう?フフッー。結局私は、貴方にも、そして誰にも愛されなかったわ。トモちゃん、今さらいいわよ、私となんか交わらなくても・・・・・・。その代り、もう私と桐子のことを嗅ぎ回らないでね。お願いだからそっとしておいて。本当にお願いだから」
 和子の唇は赤く躍動するように震えている。
 和子には今まで知り得なかった感情が湧き起っていた。初めて本音で人を好きになったのかもしれない。だからこそ、悪戯をして智明を困らせるかのように、秘められた真実を婉曲に表現して見せたのだ。自分の決意が揺らぐことのないよう、智明への思いを断ち切るために。いや、もしかしたら、このまま砕けていく自分を繋ぎ止めて欲しい、と智明に救いを求めたのかもしれない。
「私の恨みもきっと晴らすわ。もう時間の問題よ」
 和子は狂っている。智明はそう断定せざるを得なかった。
 また事件を起こそうとしているのか、また男を殺そうとしているのか。悪夢のような怨念は誰に向けられているんだ。
 智明は血が滲むほどきつく唇を噛んだ。

15-16

十五

 しとしとと降り続く雨が、薄暗い刑事部屋を更に暗くしていた。
「えぇーッ、『アロワナ』を発見した?」
 稲垣はカレーパンを喉につまらせた。
「ど、どこで見つけたの」
 沖縄にいるチエからの電話だった。
「さっきホテルにチェックインしたら、渡された鍵に『アロワナ』のキーホルダーがついてたの」
「色、形は、同じものに間違いないのか?」
「うーん。見せてもらったものと一緒だけど・・・・・・、こっちの方がひと回り大きいかな。でも、ホテルのアメニティーショップで売ってるわ。山村が持ってたものと同じ大きさのものをね。フフッ、お手柄でしょう」
「よっしゃー、お手柄お手柄。で、ホテルの名は?」
「名護にある『ユシナテラス』よ」
「えぇー?そんな高級ホテルに泊まってるのか」
 稲垣は思わず椅子からからだを起こした。
「大きな声出して騒いでいるんじゃないッ」
 突然、柳田が横から手を伸ばして受話器を取り上げた。
「ん?『ユシナテラス』か」
「そう、超高級ですよー」
「いいホテルだな。でもそっちも梅雨で鬱陶しいだろう。こっちは少し前に梅雨入りしたぞ」
「何言ってんですか。沖縄はもう梅雨明けしてますよーだ。本土の梅雨入りはこちらの梅雨明け。空はピーカンですよー」
「そうか・・・・・・。じゃぁ悪いなぁ」
「何がですか?」
「すまない。一連の死んだ男が過去に宿泊していないか調べてくれないか」
「えぇー?私、休暇ですよー」
「だから悪いな、ピーカンなのに」
「でも、そんな昔の客のことなんか・・・・・・」
「そこは沖縄サミットをやったホテルだ。開業からすべての客を登録しているはずだ」
「しょうがないなぁ。分かりました」
「あとで、稲垣が男たちのフルネームと生年月日をメールするからな」
「もう、柳田さんたら強引なんだから。お陰でオフが台無しですよ」
 チエの膨れっ面が受話器を通して伝わってきた。
「分かった、分かった。休暇中だってことくらい重々分かっているよ。だからこうしてお願いしているんだ。帰ってきたら、ナポリタンの大盛り奢るから。お土産?そんなもの遠慮しておくよ。その代り『アロワナ』のキーホルダーを買ってきてくれ。もちろん代金は払うよ。頼んだぞ」
 柳田は受話器を置くと、嬉しそうに笑みを浮かべて片目をつむった。

 今日、稲垣という刑事が突然訪ねてきた。高尾山の事件についてはもう目星がついたのだろうか。いやそんなはずはない。今までと同じように、凶器も見つからなければ目撃証言もないはずだ。ドジを踏んではいない。あれだけ念入りに、考えて、考えて、考え抜いてきたのだから・・・・・・。ただ、山村に近い人間の動向を調べているだけだろう。
 何人もの犠牲を出して、やっと加害者の山村にたどり着いた。あとは最後の一人だ。長い、本当に長い道のりだった。
 桐子の話によると、支社のすべての人間を調べているらしい。桐子は本命ではないはずだ。そのうち、捜査の焦点は山村の贈収賄に移るだろう。福澤が、山村の犯行をすっかり漏らしてくれているはずだ。ほとぼりが冷めるまでもう少しの辛抱だ。
 しかし、智明に対するこの気持ちは何だろう。真剣に人を好きになったことなどなかったのに・・・・・・。智明の前では本当の自分をさらけ出すことができない。そんな自分がもどかしい。もっと素直になりたい・・・・・・。あいつに汚されたこのからだを智明に委ねてしまいたい。子どもなど産めなくてもいい。智明に全身が壊れるほど抱きしめられて、産まれたままのからだに戻りたい。
「智明ッ!智明ッ!お願いーッ」
 和子は暗い居間で、思わず声を張り上げていた。
 こんな気持ち、今さら智明に届くわけもない。ただ虚しく響くだけだ。智明が私を愛してくれてさえいれば、とっくにこころの傷も癒えていたのに。
 でもここまできたら・・・・・・、もうあと戻りなどできない。あと一人。女としての自分をダメにした男を抹殺してあげる。それですべては終わりだ。完全犯罪は終わるんだ。
 和子は買っておいた高級シャンパンをがぶ飲みした。
「ハッハッハッハッー、ウワッハッハッハッー。乾杯よ、乾杯ー」

 大阪北支社と桐子の実家を洗うために大阪に出張していた稲垣が、三日ぶりに署に帰ってきた。
 チエも沖縄から戻り、静かだった刑事部屋もいつもの活気を取り戻していた。
 柳田を加えた三人は、すぐに会議室に集合した。
「柳田さん。新しい事実が分かりました。成実の実家を訪ねましたが、妙な人が住んでいましたよ。誰だと思いますか?」
 稲垣は自慢げに鼻を少し上向かせた。
「焦らさないで早く言ってよッ」チエが横から口を挿んだ。
「それが・・・・・・、成実の実家は山瀬が大阪で泊まった家だったんですよ」
「じゃぁ池川和子がいたのか?」
 稲垣は大きくうなずいた。
 柳田に早く知らせたかったが、休暇届けの確認の他に重要な手がかりをつかんだため、和子のことを連絡しないまま、急いで東京に戻ってきたのだった。
「そうなんですよ。連絡が今になってすみません」
「やはり思ったとおりだな。梅田北署の捜査員によると、大阪北支社の古株の事務員が、それらしきことを臭わせていたようだからな」
「どういうことです」稲垣は口を尖らせた。
「言わなかったかなぁ」
「聞いていませんよ。そんなこと」
「まぁ、黙って聞きましょうよ」チエが可愛い口元に人差し指を立てた。
「大阪北時代、成実は天満橋から会社に通っていたらしい。それと、よっぽど仲がいいのか、帰りはほとんど池川と一緒だったようだ。友人以上の関係みたいだ、ってその事務員は言っていたらしいぞ」
「やっぱり。二人は大阪時代、ずっと同じ家に住んでいたんですね」
 稲垣は小さな目を思い切り開けた。
「二人とも結婚していないのに苗字が違う。これにはきっとわけがあるんだ」
「それじゃぁ柳田さんは、二人は姉妹だと・・・・・・」
「俺の勘はそう言っているよ。どちらにしても、今度の事件に池川という女が絡んでいるような気がするな」
「どういった理由で?」
 チエは興味津々なのか、急にからだを乗り出してきた。
「山瀬のアリバイの件で電話したとき、池川は妙なことを言っていたからな」
「えっ、何て言ってたんですか?」
「俺にこう訊いてきたんだよ。『その事件で誰か亡くなったんですか?』とな。俺はただ、ある事件があって山瀬さんのその日の行動を確認しています、と言っただけなのに。おかしな発言だったよ」
 柳田は腕を組んで口をへの字に結んだ。
「そうですよね。柳田さんがアリバイの件で池川に電話したのは、山村が発見された日の夕方ですからね。日曜日で夕刊は休みだし、事件のことはテレビの首都圏ニュースでも流れていませんでした。だとすると、誰かが死んだなんて分かるわけがないんですよね」
 稲垣はチエが買ってきた「ちんすこう」を口に放り込んだ。
「二人には何かあるわね。それと池川と恋愛関係にある山瀬も怪しいわ」
 チエも訝しげな顔でコーヒーをすすった。
「それで、池川は何て言っていたんだ?」
「最初はビックリして慌てていましたが、しばらく粘ると、不貞腐れた顔で少しだけ話してくれましたよ。『桐子の実家はここ。私は若いときから居候してるだけ』とね。どういう関係なのかと訊くと、『親同士が昔知り合いだった』と言ったまま口を噤んでしまって、最後はけんもほろろに追い返されましたよ」
「池川は慌てていたのか。アリバイの確認のときには余裕をもって答えていたけどな・・・・・・」
 柳田は鋭い目で一点を見つめた。
「絶対何かあるわね」チエは捜査班の一員になったように、首をひねり続けている。
「あぁ、それからもう一つ、いや、もう二つ大事なことを忘れていました」
「有給休暇の件か?」
「そうです。あの日の前後に休暇を取ったものはいませんでした。でも奇妙なことを発見しました。これが一つ目です。それともう一つは、山村の同期の人間から、重要な証言を得ました」
 稲垣は満面の笑みを浮かべて鼻を擦った。

「山村支社長が亡くなった件で、社員の方の休暇届けを確認させていただきたいのですが」
「またえらいことでんなぁ。社員の有給休暇までチェックされるんでっか?」
 大阪北支社の総務部長の佐々木は、入社以来同じエリアを離れない「渡り社員」と呼ばれている。十八で入社して三十五年間、府内にある四つの支社を行ったり来たりしている。家族と離れたくない、という理由で、毎年遠くへの転勤を拒んでいるのだ。家族と一緒にいたい、などとのたまう男はまったく使いものにならないらしい。会社にとっては頭の痛い社員だ。しかし、大阪のことには精通していて、反面使い勝手のいい社員でもある。
 無精髭の佐々木は、アル中のようなトロンとした目で稲垣に応対した。
「うちの支社に容疑者でもいてるんでっか?」
 もう事件のことは十分承知しているのだろう、佐々木は詳しい話を訊こうとはしなかった。稲垣も手間が省けて、単刀直入に用件を切り出したのだった。
「いいえ、参考までです。できれば、三十年前からのものを見せていただきたいのですが」
「そら、あんた。残ってまへんで。休暇届けの保存期間は十年でっさかい」
「じゃぁ、保存されているもので結構です。すべてお願いします」
「そない言われても、ぎょうさんありまっせ。全社員で七百人はおりますさかい」
「内勤の方だけで結構ですが」
「それなら百八十人ほどやから、ダンボール五箱分くらいでっしゃろ。この支社は物持がようて、たぶん十五、六年くらい前からなら残ってますやろ。事務員に書庫まで案内させますわ」
「助かります」稲垣は深く頭を下げて書庫に向かった。
 柳田から受けた指示は、山村が死亡した日の前後に休暇を取った者がいないか調べろ、ということだった。しかし、稲垣は池川に会ったことで機転を利かせ、池川の過去の有給休暇まで調べるつもりだ。
 すでに電話で、成実が過去に在籍した支社がある各所轄に応援を頼んでいる。成実の休暇届けをすべて調べてくれ、と。
 稲垣は、我ながらいい仕事をしている、と暗くカビ臭い書庫でほくそ笑んでいた。
 すると、いつの間にか笑みが消えた。
「いない。誰もいない。どうしてなんだッ」
 六月五日、土曜日に山村は殺された。その前後の日に休暇を取った社員は一人もいなかった。束になっている六月分の休暇届けを隈なくチェックしたが、結局徒労に終わってしまった。
 捜査本部は、大阪北支社に共犯がいるのでは、と踏んでいたのだが、かんぜんに当てがはずれた格好だ。すでに第二統括支社の方は確認済みだった。
「仕方がない。池川に絞ってみるか。もしかしたら池川が絡んでいるかもしれない」
 稲垣は、残されたダンボールを見つめながら大きなため息を吐いた。
「今からが大変な仕事だ」
 休暇届けは月ごとに束になっているため、事件前後の日に休みを取ったものがいないか調べるのは比較的容易だったが、今度は違う。池川に絞るとなると、全部の束から池川のものだけを抜かなければならなかった。気の遠くなるような作業だ。
「これじゃぁ四日はかかるぞ」稲垣は力なくつぶやいた。
 肩を落として座りこむ稲垣は、うしろに人の気配を感じた。
「誰だッ、誰かいるのか!」
 稲垣はとっさに上半身をふせると、日頃の習性で胸ポケットを弄った。当然、今日は拳銃など携えていない。
「驚かせてすみません」
 目を上げると、書類棚の陰から、ワイシャツ姿の初老の男がぬうーっと顔を出した。
 歳は五十代半ばだろうか、ごま塩頭を角刈りにした顔色の冴えない男が立っていた。
 覇気はなく、人生に拗ねたような目で稲垣を見ている。
「佐々木さんから聞きました。お一人では大変でしょう。お手伝いしますよ」
 ぼそぼそと、聞き取りにくい声で言った。
「お仕事があるんじゃないですか?」
「なぁに、仕事なんてありませんよ。あぁ、申し遅れました。私はこういう者です」
 男は少しはにかみながら、アイロンのかかっていないワイシャツの胸ポケットから名刺を取り出した。
 そこには『庶務室長 福澤正一』と書いてある。
 稲垣も立ち上がって尻の埃をはたくと、内ポケットから警察手帳を出して見せた。
「稲垣といいます。山村さんの事件のことでおじゃましています」
「何でも言ってください。暇をもてあましていますから」
「いいえ、室長さんのお手を煩わせるわけにはいきませんよ」
 福澤はニッコリ笑ってかぶりを振った。
「室長なんて名ばかりですよ。この支社に庶務室なんてありません。私が庶務室、要するになんでも屋です」
「なんでも屋?」稲垣は首をかしげた。
「分かりやすく言いますと、窓際族ですかね。わが社もご多分に洩れず、五年前にリストラの嵐が吹き荒れましてねぇ。頑として会社をやめなかった私はこの様ですよ。毎朝、新聞のスクラップを済ませたらもう仕事はありません。この時間、だいたい十一時ころから暇になるんですよ」
「・・・・・・はぁ。そうですか」稲垣は何と答えていいのか、返答に窮した。
「自慢じゃありませんが、四十代に地方の支社長までしたんですがね。業績が悪くて上げられてしまいました。そのあとは体のいい事業費削減。実態は人減らしのリストラですよ。たまたま病気も重なりましてね、今はこんな状態です。生きる屍とでも言うんでしょうか。晩年には人生の清算ができるんでしょうかねぇ。クックックックッー」
 福澤は声を押し殺して笑った。
「今度の事件はもうご存じなのでしょう?」
 福澤はゆっくりと顎を引いた。
「はい、聞いています。山村は私の同期でしてねぇ。彼のことはよく知っています。私とは正反対。いい加減な男でしたが、よく執行役員にまで出世しましたよ。本当は、悪いやつほど長生きするんですがねぇ。まぁ・・・・・・今度の件は自業自得でしょう」
 稲垣の目の奥で何かが光った。これは好都合とばかりに、稲垣は書類がつまったダンボール箱を床に二つ並べた。
「座りませんか、福澤さん」
 福澤は礼を言って、ゆっくりと腰を下ろした。そしてズボンのポケットを弄り煙草を一本抜くと、百円ライターで火をつけた。
「ここじゃまずいんじゃないですか」
「なあに、構いませんよ。子どもの火遊びじゃなし。火事なんて起こりませんよ」
 福澤はいつもやっているかのように、書類棚の裏からコーヒーの空き缶を取り出した。
 柳田は、今回の出張の前に言っていた。「山村はかなりあくどいことをやっていたらしい。大阪で何か手がかりでもつかめればいいのだが」
 山村は数年前に、二年ほど大阪北の支社長をしていたことがある。支社長としては脂がのった時期だった。
 この男から何か訊き出せるかもしれない。稲垣はそう思い、腹を据えて福澤からじっくりと話を訊くことにした。
「福澤さんと山村さんは入社したあと、やはり転勤で地方を回られたのですか?」
 福澤は遠くに向けて煙を吐き出した。
「私たちは入社後、本社で一年ほど研修を受けたあと、地方に転勤しました。私は四国の高知、山村は香川でした。隣の支社だったので、一緒によく遊びにいきました。金毘羅、大歩危、小歩危、四万十川、色々遊び回りましたよ。夢を抱えたいい時期だった」
 福澤は光の入らない書庫で、まぶしそうに目を細めた。
「それから三年後、私はこの大坂北支社に。珍しいことに今の私は出戻りですよ。山村は本社の企画部に転勤になりました。山村は大抜擢でしたよ。まぁ、コネがあったという話ですがね」
 福澤は空き缶に煙草の吸殻をねじ込み、また新しい煙草に火をつけた。
「そのコネとは?」稲垣は興味深そうに福澤の口元を見つめた。ヘビースモーカーにしては綺麗な歯をしている。
「日本画家の『山村桂月』をご存じでしょう。彼の父親です。うちの会社はそのころから毎年、顧客用に『桂月』のカレンダーを製作していましてね。それも格安で・・・・・・。そのコネですよ。『桂月』は政界にも経済界にも顔が利きましたからね」
「その後は?」稲垣は重い尻を床に落として体育座りをした。
「彼は大阪の箕面に実家がありましたから、実家に戻ってきたときは二人でよく遊びましたよ。そしてよく飲みました。彼は転勤した翌年に結婚したんですが、それからは、私が東京に行くようになりました。奥さんの手料理を何度かごちそうになりましたよ」
「そうですか。ところで、山村さんの社内の評判はあまりよくなかったようですが、そのへんのことは?」
 福澤は煙草を消したあと、しばらく目を閉じて考えている。
「山村さんが殺された、いや、亡くなった原因を調べているのです。奥さんも真相を知りたがっておられます。話してください」
 福澤はまた煙草に火をつけた。
「彼は死んだのですから・・・・・・、もう話してもいいでしょう」
 稲垣は音を立てて唾を飲み込んだ。
「彼は企画部から業務部に移って、会社全体の販促商品を扱うポジションにつきました。何万人という営業社員が使う商品ですから、使う金も半端じゃありません。億単位です。当時彼は、『桂月』のカレンダーを世話してやっている、という傲慢な態度がありありで、遊びも派手になり金遣いも極端に荒くなっていました。私も銀座の超高級クラブによく連れていってもらいましたよ」
 煙草の紫煙が立ち上り、天井のすぐ下で傘を作っている。
「まぁ、バックマージンというやつですかね。普段営業社員は、販促商品を会社からの斡旋品の中から選んで、自己負担で買うのですが、年に数回、全営業社員に無料で配布することがあります。我が社では、営業社員は五万人近く在籍していますから、一人当たり十個としても五十万個というロットです。それをうまく悪用していたのですよ」
「あぁ、あの『生命保険のキャンペーン月』とか何とかいうやつですか?」
「そのとおりです。その月には、大量のギフト品を使うのです」福澤は大きくうなずいた。
「昔は、七月と十一月の二回でしたが、今はもうメリハリがなくなって、年の半分以上がキャンペーン月じゃないでしょうか。使い古された戦術はあっても、ちゃんとした戦略などありません。そんな状態ですから、キャンペーンに頼らざるを得ないのですよ。そして余裕のない戦いに、営業社員は疲弊し切っています。経営者はそれに気づいているのに、気づかない振りをしている。挙句の果てにリストラでことを乗り切ろうとする。リストラは経営陣が責任を取ってから行う最後の手段ですよ。まぁそんなこと、私みたいな立場の人間にとってはどうでもいいことですが。・・・・・・でも、まだまだ至る所に見過ごされている無駄があります。現場で使う金もほとんどが飲み食いばかり。販促商品にしても、誰かが私腹を肥やしていますよ。それに山村は絡んでいたのです」
「どのような不正をしていたのですか?山村さんは」
 稲垣は上目遣いに福澤を見た。
「二束三文のギフト品を、何と倍以上の価格で仕入れるんです。例えば五十円のティッシュを百円とか、百円のハンカチを二百円とかで購入するんですよ。そして、その差額をバックマージンとして受け取っていたようです。一個十円を上乗せするとしても、五十万個なら五百万ですよ。先ほど言いましたが、当然百円の上乗せもあったはずです。そうなると、その額は五千万にものぼります。二百円なら億という金がバックされるのですよ」
「本当ですかッー。そんなに莫大な額のお金が動くんですか」
 稲垣は自分の生活とはかけ離れた金額に目を丸くした。
「その真偽は分かりません。今となっては闇の中ですから・・・・・・。でも、少なくとも現金化できるものが渡っていたのは間違いないでしょうね」
 稲垣は口を半開きにしたまま、数字に弱い頭をしきりにひねった。
「でも、恨み、妬みは持たれるでしょうが、殺人にまで発展するでしょうか。告発で終わるんじゃないでしょうか」
「たしかに・・・・・・。そのことで恨みは買っていなかったようです。結果的に、彼は各部署のえらいさんに金をばらまいていましたからね。それで役員にまでなれたようなものですよ。大した大学も出ていない彼が・・・・・・」
「へぇー、民間企業ではそれほど大学が重要なのですか?」
「あの時代はそうでした。入社するにも指定大学制度というのがありましてね。指定されていない大学の人間は、面接さえも受けさせてもらえませんでしたよ」
 福澤は薄い笑いを浮かべて、煙草の煙を深く吸いこんだ。
「当時は、パソコンも普及していない時代でしたから、会社説明会の会場に行って初めて指定校を伝えられましたよ。『国立大学、東京五大学、関西四大学。それ以外の大学の学生さんは退席ください』とね。彼の大学は指定校外でしたから、たぶん入社もコネでしょう。それに比べると、今なんかいい時代ですよ。指定校制度なんてものはないし、誰にでもチャンスが与えられていますからね。選り好みが激しい自分を棚に上げて、会社とか世の中のせいにしている。今の学生は甘えていますよねぇ。そう思いませんか?」
「はぁ、私は警察官なので警察学校のことしか・・・・・・」
 稲垣は、剃り残しの髭が残る顎を何度も擦った。
「すみません、よけいなことでした。歳をとると、昨日のことは忘れているのに、昔のことはしっかり憶えているんですよ。昔の話など稲垣さんの仕事には関係ありませんでしたよね」
「いえ、昔のお話は若い我々にとっては貴重なものです」
 稲垣にとっては、大学の話などどうでもよかったが、いたく感心したような振りをして笑みを浮かべた。
 しかし贈収賄の話については、簡単に聞き流すことはできなかった。稲垣は黙って頭を巡らせた。
 考えてみれば酷い不正行為だ。しかし、しょせん我々とは管轄が違うし、本人が会社から告発されているわけでもない。それに、もう山村は死んでいる。今ここで騒ぎ立てることではないだろう。それより他にこの事件に繋がる何かがあるはずだ。稲垣は贈収賄の件については無視を決め込んだ。
「福澤さん、他に何か思い当たることは?。山村さんが恨みを買うようなことはありませんでしたか?」
 福澤はしばらく目をつむり、煙草をゆっくりとふかした。
「そういえば、これはとっくに時効なんでしょうね。会社には関係ないことですが、私が大阪にいたとき、こんなことがありましたよ」
 稲垣は更にからだを沈め、ダンボール箱に座る福澤を見上げた。
「もう遠い昔の話ですが・・・・・・、私が大阪北に転勤した翌年でした。彼が結婚する少し前だったと思います。そのときは、私もまだ独身で会社の寮に住んでいました。三月だったでしょうか、実家に帰省していた彼が、夜の十一時ころに電話をしてきましてね。『人を撥ねた。どうしよう。助けてくれッ』と泣いているんですよ。今どこにいるんだ、と訊くと、大阪城公園の南側、森ノ宮駅の公衆電話から電話している、と言うんです。すぐ行くから待ってろ、と言って私は寮を飛び出しました。私の寮は京阪沿線の関目というところにありましたので、二十分くらいで森ノ宮駅に着きました。それから、フロント部分がかなりへこんでいましたが、私が山村の車を運転して現場を離れました。彼の呼気からは酒の臭いがしていましたよ」

「何があったんだ、山村ッ。うろたえるな!」
 薄暗い車内で福澤は山村の横面を張った。
「お前ッ、酒を飲んでるなッ」
 山村は虚ろな目をして軽くうなずいた。
「上町筋を少し入った路地で、お、女を撥ねたんだ。もう何が何だか分からないよ。どうしようー」
 山村は子どものように声をつまらせながら、涙をぼろぼろと流している。
「バカ野郎ッ、何で酒なんか飲んで運転したんだ」
 山村の意識は朦朧としている。
「しっかりしろッ。落ち着いて最初から話せよッ」
 福澤は煙草をくわえたまま、山村の胸ぐらをつかんで上半身を前後に揺すった。
「上町筋を北に向かって走っているとき、何を考えていたのか、ぼぅーっとしていて、気がついたら人を撥ねていたんだ。車を降りて現場に戻ったら、意識を失った女を男が抱きかかえて揺り起そうとしていた。スカートの中からは、どこから出てるいのか分からないけど、薄い血が腿を伝って流れていたよ。そして・・・・・・、振り向いたその男を見て、俺は更に血の気が失せた。このまま舌でも噛んで死のうかと思ったよ」
 山村は、はぁー、はぁー、と息遣いが荒いうえに、全身をガタガタと震わせている。
「誰だったんだ。そいつは」
「それが・・・・・・、おっ、弟の雄三だった」
「何だとッ。だったら、女は雄三の彼女か?」
「たぶん・・・・・・」山村は、今度は苦しそうにぜぇぜぇと息を上げた。
「落ち着けッ。落ち着いて話せッ」福澤も口の端から泡を飛ばした。
「雄三は俺に気づくと、逆上して殴りかかってきたんだ。俺は何発も殴られた。でも運のいいことに、周りにはまったく人影がなかった。無性に怖くなった俺は、雄三の手を振り解くと無心で車の方に逃げたんだ。車までは百メートルほどあったけど、走りに走ったよ」
「そのあと森ノ宮まで逃げてきたのか?」
「いや、車のところまで来ると、鍵がないことに気がついた。たぶん現場に落としたんだろうと、俺は慌てた。真っ青な顔が真っ白になったような気がしたよ。遠くからは雄三の嗚咽がかすかに聞こえていた。そして雄三は彼女を抱えたまま振り向いて、犬の遠吠えのように、重く響く声で悲しそうに叫んだんだ。『リョージー、リョージー、戻ってこいよッ。逃げるんじゃないー』
その呪われたような声を聞いた俺は、ふと我に返った。一瞬、現場に戻ろうと考えたけど・・・・・・、からだは動かなかった。それに口の中は唾がなくなって、叫ぼうにもまったく口を開くことができなかった。そのとき急に、五月に控えた結婚のことや、内定した昇格のことが頭の中に浮かんだんだ。迷った、本当に迷ったよ。でも少し落ち着くと、バンパーの裏に予備の鍵を貼りつけていたことを思い出したんだ。俺は素早くそれを剥ぎ取り、無我夢中で車を発進させた。そして気がついたら森ノ宮にいたんだ。もう戻れないよー。あのとき鍵が見つからなければよかったんだッ。鍵が!」
 山村の顔面は蒼白、唇は土色、すでに放心状態だった。
「何てことをしたんだ、俺は最悪だ。最悪だ~」
 山村は、蚊の鳴くような声でうわごとのように繰り返した。
「落ち着けッ、落ち着くんだ!」福澤は助手席の背凭れをうしろに下げて、山村の興奮を抑えようとした。
「いいかよく聞くんだ。お前はもう出世コースに乗ってるんだ。このまま偉くなっていくんだよ。だから今日のことは忘れろ。何もなかったんだ。そして明日の早朝、東京に帰るんだ。いいなッ」
 涙も涸れ果てた山村は、半分意識を失っているかのように、ほんの少しだけうなずいた。
「こんな車は、整備工場をやってるおやじに頼んで廃車にしてやる。お前は知らん顔でやり過ごすんだ。問題は弟だ。それも、俺が桂月に手を回して口を封じる。お前は弟との連絡を絶つんだ。すべて俺が勝手に動いたことにしろ。いいな、私情を挿むんじゃないぞッ。その代りお前が出世したときには、もし俺に何かあったら俺を助けろ。絶対これだけは忘れるなよッ。あとは失くした車の鍵だ・・・・・・。これも何とかする。きっと探し出して何とかするよ」
 山村は全身を震わせて、ガチガチと歯音を立てながらゆっくりと顎を引いた。
「今から電車で実家に帰れ。タクシーじゃ足がつく。あとは打ち合わせどおりだ。いいな」

「そのあと、すぐ桂月さんに電話を入れました。私は、山村が本社に転勤になっても、しばらくの間、休みの度にやつの実家に遊びにいっていましたから、彼は私の頼みをすんなりと聞いてくれました。当然、桂月さんも思いは同じでした。そりゃぁ、息子が可愛いに決まっています。まず、雄三が所属している音楽事務所に圧力をかけてくれました。今回のことが公になったらデビューの話はなくなる。どんなことをしてでも女の口を封じるよう雄三を説得しろ、何なら金を用意するから、お前たちが直接女に手を下してもいい、とね。雄三は桂月さんの言うことは聞きませんでしたが、事務所の社長に対しては従順でしたからね。桂月さんにとって、あんな事務所をつぶすことなんて簡単なことでしたが、デビューのことがあるので、何百万か包んだんでしょうね、大事な息子のために。それから事故に遭った女の親が経営する会社、そう小さな薬品会社でしたかねぇ。そこにも手を回してくれました。最後は、桂月さんの秘書が、三百万くらいだったでしょうか、その金を女の入院先に届けました。慰謝料としてです。風の便りによると軽傷だったようで、新聞にも載りませんでしたし、警察も動いていなかったようです。示談で済んだんじゃないでしょうか。その後のことは私も知りません」
 福澤は赤い目をして、ゆっくりと煙草をふかした。
「福澤さん。その女の人は誰ですか?何という名前ですか?」
 稲垣は、じっとりと濡れた手のひらをズボンに擦りつけた。
「もう三十年も前のことですからねぇ。記憶にありませんなぁ」
 福澤はじっと天井を見ている。
 この人は知っている、女の名前を。稲垣はもう一度問いかけた。
「福澤さん、本当はご存じなのでしょう?」
 福澤は辛そうな目をして、また煙草の煙を深く吸い込んだ。
「もし知っていたとしても・・・・・・、言えません。加害者にとっても被害者にとっても暴かれたくない過去ですよ。金でけりをつけているのですからね。山村はもうこの世にいませんし、彼女も今は幸せな生活を送っていると思いますよ。今更いいじゃありませんか、遠い昔のちょっとした過ちですよ。ここだけの話にしてください。そうです、山村は死んだんです」
 話し終えたあと、目に涙を溜めた福澤は黙々と休暇届けの束を捲り始めた。
「稲垣さん。この作業は三日かかりますね。私もお手伝いしますから急ぎましょう」
「よろしくお願いします」
 稲垣は、訊き出せなかったことに失意の色を浮かべたが、「俺がきっと暴き出してやる」そう誓って確認の作業を進めた。
 福澤の手際のよさもあって、翌日の午後には作業は終了した。結果は思ったとおりだった。
 大阪北の山田が死んだころについては、二十年も昔のことなので当然休暇届けは保存されていない。それ以外の、福岡の仲里、鹿児島の飯田、愛知の賀茂、この三件については、事件が起こった日の前後に池川は休暇を取っていた。
 稲垣は自分の推理が的中し、一人書庫の片隅で笑いを噛み殺していた。
 それに気づいたのか、福澤が言った。
「池川さんですか。いい人ですよ、あの人は」
 福澤に池川の捜査のことを気づかれまいと、カムフラージュでその他数人の休暇届けも調べていたのに・・・・・・、福澤は察していたのか。稲垣は焦りを覚えた。
「池川さんが犯人というわけではありません。休暇届けは捜査の参考に過ぎません」
「そうでしょうね。あの人は、寂しがり屋でこころ根の優しい人です。悪いのはあの人じゃありませんよ。悪いのは今の時代です・・・・・・。虐待、自殺、孤独死。家族の絆なんてもうとっくに崩壊してしまいました。豊かさは実現できても、結局幸福は実現できなかった。どこへ行くのでしょうね我々は。でもこんな時代を作ったのは我々ですよ・・・・・・」
 福澤は、まったく関係のないことをひとくさり論じて寂しそうに笑った。
「手がかりはつかめた。でも民間人を捜査に交えたことは俺の失態だった。福澤はあまりにも知り過ぎた」
 稲垣はこころの中で自分を責めながら、書庫をあとにした。

「これを見てください」
 休暇届けのコピーを三枚取り出し、稲垣は言った。
「支社の事務員は、ほとんどが月に一度の割合で休みを取っていました。池川も例外ではありません。八年前、十月五日の日曜日に仲里は自殺しましたが、六日と七日に休みを取っています。休暇理由の爛には、『長崎旅行』と記されていました」
 柳田は右手の指で顎を摘まんだ。九州の地図を思い浮かべているのだろう。
「長崎か。対馬は福岡県だろう?」
「えっー?違いますよ。対馬は博多の北にあるので、福岡県だと勘違いしている人が多いのですが、正解は長崎県対馬市です。ただ東洋生命では、対馬営業所は福岡支社の管轄です。よって、ほとんどの社員が、対馬は福岡県だと錯覚しているのではないでしょうか」
「そうか。じゃぁ、池川は周りの目を欺くために、わざと『長崎旅行』と書いたのかもな」
「そうだと思います」
「いや、待てよー」柳田は腕を組んで考えている。
「どうしたんです、柳田さん」
「いや、そうじゃないよ。池川は警察を舐めてかかっているんだ。あとで調べられること予想して、頓知のような仕掛けをしたんだ。殺しの直前に遊びごころか・・・・・・。警察をかんぜんに愚弄している」
 柳田は鉛筆を机に叩きつけた。
「い、池川は間違いなく対馬に行ったんですね」稲垣は怯えた目を柳田に向けた。
「稲垣、対馬で聞き込みをする必要があるな」
「もう手配済みです」
「さすがね、稲垣さん」真っ赤な顔の柳田を気にして、チエは明るく振舞った。
「それから、奄美で飯田が水死した事件ですが。五年前の八月十六日に飯田は亡くなっています。東洋生命はその年、八月十二日から十六日までの五日間を、夏季休暇として設定していました。一斉に休みを取る営業職と違って、休暇中でも支社の窓口は開けているので、事務職は会社が設定した休みを部分的にずらして取らなければいけないのですが、池川は十四日から十八日までを夏季休暇にしていました。それから言い忘れましたが、福澤の話によると、彼女はダイビングの上級ライセンスを持っているそうです」
「うぅーん」柳田は煙草をくわえて腕組みをした。じっと考えを巡らせている。
「まさに臭うな・・・・・・。で、愛知の件は?」
 稲垣は、沖縄土産の「サーターアンダギー」を慌てて口にねじ込んだ。
「そ、その件ですが・・・・・・」
 また喉につまらせたようだ。
「稲垣さん、ほらお茶。慌てないで」チエが小まめに世話をやいた。
「そ、その件ですが、ダ、ダイヤモンド富士を観に行ったのが八月十九日、この日は木曜日です。池川は金曜日に休みを取っていました」
「そうか・・・・・・」柳田も目尻を下げて、サーターアンダギーを頬張った。
「山村の件に関しては、お話ししたとおりです。少し深入りし過ぎて、池川の情報を福澤に漏らしてしまいました。申しわけありません」
 稲垣は神妙な顔をして頭を垂れた。
「まぁいいだろう。そうだとしても、福澤は人畜無害のようだ。よけいなことは漏らすまい。もし池川に漏れたとしても、それを差し引いてもあまりある収穫だ」
 柳田はわずかに白い歯を見せた。
「問題は撥ねられた女ですよね。それが誰だか・・・・・・」
「それと、山村の弟だ。どこにいるのか捜し出すのが先決だ」
 二人はテーブルの上に置かれた休暇届けをじっと見つめた。
「あッー、そういえば。・・・・・・山村の葬儀のとき、親族席の最後尾に座っていたのが弟の雄三じゃないでしょうか」
 稲垣は、右の拳で左手のはらを叩いた。
「髪をうしろで束ねたあの男か?そういえば・・・・・・」
 柳田は、葬儀の席で親族の素性を詳しく確認しなかったことを、今になって深く後悔した。
「大丈夫です。きっと捜し出してみせますよ。彼の居所を・・・・・・」
 稲垣は柳田の横顔をチラッと見ると、威勢よく胸を張った。
 すると、柳田は不安げな視線を稲垣に投げて、疲れたように背中を丸めた。

「まだですか?」突然チエが膨れっ面をして、柳田の肩を強く叩いた。
「痛いなぁ、どうしたんだ」柳田がチエを睨んだ。
「沖縄の話は聞きたくないんで・す・かッー」
 チエは胸の前で「アロワナ」をブラブラさせた。
「あー、すまん。忘れてたッ」柳田は顔の前で手のひらを合わせた。
「チエちゃん、大事な話だから最後まで取っていたんだよー」
 稲垣は薄い笑いを浮かべながら、見え見えの言いわけをした。
「まぁいいわ。お昼、ナポリタンごちそうしてくださいな」
「ははぁ。お安い御用でぇー」
 重苦しい部屋の雰囲気がいくぶん和んだ。
「結果的には、全員『ユシナテラス』に宿泊したことがありました。柳田さんが言ったように、ホテルが顧客登録していましたから間違いありません」
 チエは手帳を開いて、指で素早くページをなぞっている。
「何か共通点はあったのか?」
「今回の調査では、共通点は見つかりませんでした」
「そうか・・・・・・」
「開業当初、三十年ほど前に宿泊したのは山村了司です。友人六人と泊まっていました。さっき話に出てきた福澤さんの名前もありましたよ。ただその三年後と五年後にも一度ずつ宿泊しています。先ほどの稲垣さんの話ですと、結婚後ですね。残念ながらどちらも女性と一緒です。相手は奥さんではありませんでした」
 チエは淡々と話すと、次のページを捲った。
「最初の宿泊は社内の友人との旅行だな。福澤とはかなり親しかったということか。あとは女との隠密旅行だな」
「ふん」柳田は鼻で笑った。
 稲垣は満足そうな顔をして「ちんすこう」を口に入れた。
「あとの四人についてですが、山田亮司は大学時代の卒業旅行でしょう、友人三人と泊まっています。仲里は支社の後援者旅行で、添乗員として宿泊しました。飯田遼二は、たぶん離島巡りの旅行でしょうか、一人旅でした。最後は愛知の賀茂涼二ですが、彼は、両親、妹との家族旅行です。山田は二十一年前。仲里は十年前、ちょうど成実が福岡に転勤する前の年です。飯田も八年前。賀茂も五年前ですから、二人も成実と知り合う前でした」
 チエはスラスラと水が流れるように、調査の結果を説明した。
「いやぁ大したもんだ」稲垣はチエの調査能力に舌を巻いた。
 まだ二十代の新米刑事だというのに・・・・・・。俺もボヤボヤしていられない。このままではチエに頭が上がらなくなってしまう。稲垣は顔を上気させた。
「もしこの五人に共通点があるとしたら?」柳田が唐突に訊いた。
「全員が『ユシナテラス』に泊まったことは当然ですが、そのホテルで同じような事件を起こしたか、あるいはホテルに纏わる同じものを所有していたか、だと思います。日常の生活の中で、そばにいる人間がそれを察知できるとするなら・・・・・・、やはり、ホテルに関連する同じものを全員が持っていた。それも日常頻繁に使うようなものを。そのために彼らは狙われた」
 チエは、細い指で「アロワナ」をブラブラさせながらニッコリと笑った。
「稲垣、事件があった各所轄に頼んで、彼らの遺留品リストをすべて確認するんだ。きっと何か見つかるはずだ」
「はい。分かりました」稲垣はきつく口を結んだ。
「あっ、もう一つ大事なことを忘れていました。山村了司が最初に宿泊した二年ほどあとですが、宿泊客のリストの中に山村雄三の名前がありました。山村を検索したときに、たまたまヒットしたんです。男友だちと泊まっていたようですが・・・・・・」チエはチョコンと首をかしげた。
「何、雄三も?」
 柳田の目が輝いた。
「口コミで行ったんじゃないでしょうか。兄の山村から、とてもいいホテルだ、とでも聞かされたとか・・・・・・」
 チエは、その理由がはっきりしないために語尾を濁した。
「でも交通事故のあと、二人は絶縁しているはずだ」
 柳田は稲垣に目をやった。
「そうですよ。福澤がそう言っていましたから」
 稲垣は窮屈そうに太い腕を組んだ。
 雄三が泊まった日に、誰かほかに妙な人間が泊まっていたのかもしれない。思考がまた宙を飛び始めた。そして、柳田は軽い頭痛を覚えた。

十六

 梅雨の中休みなのか、流れる雲の隙間から午後の太陽がどんよりと鈍い光を放っていた。
 久しぶりに休みを取った修は、二女智花の誕生祝を買うためにお台場に足を向けた。様変わりした東京の風景に戸惑いながら、新橋から「ゆりかもめ」に乗った。車窓に目を向けていると、「芝浦埠頭駅」を過ぎた辺りで眼前にお台場の全景が姿をあらわした。
「ほうー、この辺りばい。ペリー艦隊の来航に触発されて台場を築造したところは。変われば変わるもんたいね。今は家族連れとカップルのメッカばい」
 修は一人納得して、顔を綻ばせた。
 台場駅で降りて駅の周りをうろうろしていると、ショッピングモールのある大きなビルを見つけた。
「こりゃぁ立派なビルたい。たしか、店はこのへんやなかったろか」そうつぶやいたとたん、修は大勢の人たちに押されてビルに呑み込まれていった。
 ビルの中に一歩足を踏み入れると、人の波がいく重にもうねっていた。幼児を抱えた父親と、ベビーカーを押す母親でごった返している。ショッピングモール全体が子どもたちの歓声で包まれていた。
 人ごみを掻きわけながら通路を三十メートルほど歩くと、修の額には汗が浮き出てきた。空調は効いているのだろうが、一人で買い物をする気恥かしさもあって、やたら蒸し暑く感じる。
 修の目指す店は、中一の智花が好きなアニメのグッズを販売している店だ。どうもそれはビルの二階にあるようだ。
 奥のエスカレーターで二階に上がると、一階よりもいくぶん人の波が緩やかだった。しかし、ここのフロアも何台ものベビーカーが往来している。若い母親たちは、ベビーカーを押していなければ一流企業のOLと見間違うほどセンスのいいファッションとアクセサリーで身を飾っていた。
「若いお母さんばかりやなぁ。なんかかんか言うても日本は平和たい」
 混雑しているにもかかわらず、母親たちはみな余裕のある顔をして落ち着いた笑みを浮かべている。裕福そうに見える父親たちも、気遣かうかのように母子に優しい視線を送っていた。
 探している店は、通りの中ほどにあった。入口では入場制限をしているのか、長い人の列ができている。店員はハンドマイクを手に、まるでテープでも回しているかのように、淡々と待ち時間の説明を繰り返していた。
 修が列の最後尾に向かって足を進めていると、突然大きな叫び声が聞こえた。
「キャアァァァー」店の中からだった。
 入口付近に並ぶ父親たちは、喧騒を打ち破る女の声に恐れ戦きベビーカーに覆いかぶさった。
「なんやッ」修はとっさにからだを反転させて、急いで列の先頭に割り込んだ。
 その叫び声には何となく聞き覚えがあった。
「どうしたんやッ。なんがあったんやッ」修は我を忘れて声を張り上げた。
 店員は倒れた女に駆け寄り、何度も肩を揺すっている。
「大丈夫ですか?しっかりしてください」
 店員の肩越しに覗き込むと、倒れた女に出血などはない。どうも失神しているようだ。ジージャンの下に着ている赤いTシャツの裾からヘソが覗いている。それはまだしも、運の悪いことに、紺色の短いスカートが尻の方まで捲れ上がっていた。
「ひょっとしたら、キリコ・・・・・・。桐子じゃなかかッ」
 修は慌てて桐子の着衣を整えた。
「お知り合いですか?」
 女性の店長がうしろから声をかけた。
「え、えぇ。友人です。ご迷惑をおかけしとります」
 修は振り向きざまにペコリと頭を下げた。
 修はその姿態に対する恥ずかしさよりも、桐子の容体が気になって仕方がなかった。桐子は前任地でも数回倒れたことがある。そのときもたまたま修が一緒だった。持病といえば持病になるのだろうか、でもすぐに意識を取り戻している。
 桐子のようなこころの病に病名をつけるとするなら、その範疇の境目はいかにも曖昧模糊で、専門家らしき医者の判断を仰ぐしかない。その医者によると、桐子の症状は「パニック障害」の部類に含まれるということだった。ただ、普通は時間の経過とともに症状は改善していくというのだが、桐子の場合は一般的な症例とは違って、とても改善しているとは思えない。発症の周期にまったく変化がないからだ。
 修は昔、「メンタルヘルス」の検定試験を受けたことがある。そのわずかな知識を元に素人なりに分析してみると、このところその病名に疑問を感じている。桐子の症状は「PTSD」いわゆる「心的外傷後ストレス障害」ではないかと思う。発作のときの症状を見ていると、昔遭遇した事件か何かのトラウマによって、様々なストレス障害を引き起こす疾患のような気がしてならない。
 修は前回と同じように、桐子の頬を叩くと、朦朧とする桐子を背負って屋外に出た。ビルの前には人工の砂浜が広がっている。木陰にベンチを見つけると、修はそっと桐子を座らせた。
 桐子はボロボロと涙を流しているものの、何とか意識を取り戻したようだ。フラッシュバックが少し治まってきたのかもしれない。
「どや、大丈夫か?」
 嗚咽を押し殺して、桐子は小さくうなずいた。
「名古屋のメンタルクリニックから東京の病院を紹介してもろたやろ。その病院には行っとうとか?」
 桐子は無言のまま首を横に振った。修から叱られることは承知しているようだ。
「なんで行かんとや。薬は続けないかん、て先生が言いよったやないか」
 目を閉じたまま、桐子はきつく唇を噛んでいる。
「自分を大事にせんやっちゃなぁ」
 修は桐子にハンカチを与えて、ゆっくりと背中を擦った。涙は止め処なく流れて、足元の砂を濡らした。

 その後、二人は一時間ほど海風に吹かれた。
「気分はどうや?」修の靴は半分ほど砂に埋もれていた。
 桐子はやっと口を開いた。
「もう大丈夫。ごめんね」目にはいっぱいの涙を溜めている。
 桐子は我に返りハンカチを目頭にあてた。
「何でこげなとこにおったとや?」
「まゆちゃんのお洋服を買おうと思ったの」
「誰やそれ」
「オサムちゃんは知らなくていいの。まゆちゃんのことなんか」
 か細い声だった。
「・・・・・・まぁいいわ、知りとうもなか」
 桐子は少女のようにはにかんだ。
 前に失神したときもそうだったように、桐子は発作の前後に口調を変える。変わると言った方がいいのかもしれない。作られたアニメ声ではなく、母親のような慈愛に満ちた優しい声に変わる。まったく人が変わってしまったような気がする。
「腹はへらんか?」
「うん。すこ~しすいたかなぁ」
「もう歩けるとか?」
 桐子は目を細めてゆっくりと顎を引いた。頬にはいくぶん血の気が戻っている。
「新宿で焼き鳥でも食うか?」
 桐子は、修の左手に自分の右手を添えることで彼の優しさに応えた。

 時計を見るとまだ四時前だった。
 この時間に開いている店といえば、昔よく通った「思い出横丁」の焼き鳥屋だ。修は迷わずその店に入った。五十人ほど収容できる店だが、客はまだ疎らだった。
 修は桐子を庇うようにして、カウンターの一番奥に座らせた。そしてメニューを物色したあと、マスターと何やら言葉を交わして桐子の左隣に腰を下ろした。
 焼き鳥のほかに、和食、中華と、数十種類のメニューを書いた短冊が所狭しと貼ってある。桐子は少し驚いたような顔をしたが、ほっとしたのか、わずかに目を潤ませた。
 しばらくすると、ビールと砂肝の炒めものがカウンター越しに店員から手渡された。
 修は桐子が好きなものをしっかりと憶えている。修のなにげない気配りに、桐子はハンカチで目尻の涙を拭った。
「なんでんよかけん、乾杯たい」修はグラスを軽く持ち上げた。桐子もはにかみながらほんの少しグラスを差し出した。
「しかし、こっちに来てから初めてやなぁ、症状が出るとは」
 桐子は唇を曲げて、躊躇しながら二本の指を立てた。
「えっ、二回目か」
「そう、オサムちゃんがいないときに一度あったの」桐子は視線を落とした。
「桐子、ちゃんと病院に行かんとー」
「でも、仕事が忙しいし・・・・・・」
「仕事より病気を治す方が先や」
「でももう治らない。そう思う・・・・・・」
「そげな弱気でどげんするとや。いつもの桐子はどこばいったとかッ」
「でも、これだけは・・・・・・」桐子はじっと目を閉じた。
 修はビールを一気に飲み干すと、思い切って訊いてみた。敢えて避けてきたことだった。
「昔、なんか怖いことば経験したとやなかか?火災とか、交通事故とか、言いにくいばってん、男に襲われたとか・・・・・・。そげな悪夢が甦って、心理的苦痛が続いとうとやないとか?」
「よく聞くわ、それ・・・・・・。外傷後ストレス障害っていう病気よね。でも、もしそうだったらもう治っていてもいいころよ。私の場合まったく症状に変化がないの。回復傾向が見られないのよ。三十年も前のことなのにね」
 自分の過去については頑なに口を閉ざしていた桐子が、初めて自ら漏らした瞬間だった。吹っ切れたように、唇の両端がわずかに緩んだ。
「いつも人混みの中で起こるたい。それも、子ども連れの夫婦が多いときに限っとる」
 桐子は黙ってうなずくと、見る見るうちに目に涙を溜めた。
 修は一瞬のうちに、触れてはいけないことだと悟った。
「すまんな、気がつかんで。ほら、酢豚がきたばい。はよ食え」
 桐子はビールをひと口含むと、思い出したように煙草を手に取った。すーっと煙を吸い込んだあと、天井に向けてゆっくりと吐き出した。
「私・・・・・・、子どもを亡くしたの。若いときにね。昔、言ったことがあったでしょう、会社に入る前に一年遊んでたって」
 修は桐子の突然の言葉に耳を疑った。
「こ、子どもを産んだことがあるとか?」
「・・・・・・そうじゃないの」桐子は修を見つめ、ほんの少し唇を震わせた。
 修の優しさに触発されて、桐子はこころの底に堆積した赤い澱を吐き出そうとしているのか。それとも良心の呵責に耐えかねて、誰かに鬱然とした胸中を吐露したいのか。いずれにしても、桐子のわずかに捲れ上がった唇は、何かを発しようと赤味を帯びて生気を取り戻しつつあった。
 修は怖い話を聞く前の子どものように、期待と怖れで全身が強張り、ゆっくりと唾を呑み込んだ。
「もう三十年も前の話よ」桐子は覚悟を決めて、こころに仕舞い込んだすべてのものを吐き出すかのように、遠くに向けて勢いよく煙を飛ばした。
そして、慈愛に満ちた優しい声で話し始めた。
「私には両親がいなかったこと、知っているでしょう?子どものころは、施設からもらわれてきたって言われて育ったの。もちろん育ててくれたのはお祖母ちゃん。今でこそ、義母の母親だったって知っているけど、当時は、まったくの他人に育てられていると信じていたわ。だから物ごころがついたときから、親のない子だといじめられて、私ずーっと独りだったの。お祖母ちゃんはよくしてくれたわ。でも血の繋がりがなかったから、何となく他人行儀で、こころは通わなかった。そして小学校に入学したころには、母親代りのお祖母ちゃんはもう五十過ぎ、当時は二十歳前後で結婚する人が多かったから、周りの子の母親はほとんどが三十前後なの。だから私の出生は、いじめの恰好の材料だったのよ。それに・・・・・・、誰が噂したのか『飛田の娘』って囃し立てられたわ。オサムちゃんは知らないでしょうけど、大阪の飛田新地は、昔、沢山の遊郭があったところよ。子どもってねぇ、可愛い顔の裏から、時々邪悪が姿を見せるのよ」
 桐子は、グラスに残ったわずかなビールを飲み干した。
 修は桐子の話を咀嚼するかのように、何度もうなずきながら空のグラスにビールを注いだ。
「あこがれだった小学一年生のお誕生会なんて、とても悲惨だったわ。家は薬品会社をやっていて少し裕福だったから、お祖母ちゃんは沢山のお料理とケーキを用意してくれてね。お土産のクッキーまでもよ。それに私が十一月生まれだから、コスモスを部屋中に飾ってくれたわ。私も一生懸命お手伝いしたのよ」
 桐子は思い出し笑いをしながら、また煙草に火をつけた。
 修は苦悶の表情を隠すために下を向いている。
「その日は、十人もの友だちが来てくれるはずだったの。でも、近所の四年生の父親から突然電話があったのよ。箕面に有名な日本画家がいるでしょう?『山村桂月』あの人からよ。彼は、当時天満橋に住んでいてね。私も子どもながらに有名人だと知っていたわ。でも傲慢で卑劣な人だった。『息子はお宅にはやれまへん。売春宿なんかにはやれまへん。町内会の子らにもよう言うときましたさかい。二度と呼ばんようにしてくれますか』あとでお祖母ちゃんに聞いたけど、そう言ったらしいわ。私は電話の内容が分からず、ずっと家の中で友だちを待っていたの。お祖母ちゃんが頭を下げながら友だちの家に電話をしていたのを憶えているわ。どんな内容なのか理解できなかったけど・・・・・・、今考えると、私のために、誕生会に来てくれと頼んでいたのよね。母親らしきことをしてくれていたんだわ」
 修は上目遣いに桐子を見た。
 桐子の唇は怒気を帯びて小刻みに震えている。
「その日、暗くなるまで待ち続けた私は、友だちを捜そうと家を飛び出したの。私を追ってお祖母ちゃんも外に出たわ。近所の公園とか駄菓子屋とかを捜し回って帰ってきた私は、玄関の前で泣き崩れているお祖母ちゃんを見たの・・・・・・。そして、家の塀に貼られた何枚もの紙もね。それには『売春宿』と書かれていたわ。一年生の私はどんな意味なのかも分からず、だた泣くばかりだった・・・・・・」
「桂月か・・・・・・。何ちゅうやっちゃ」
 山村支社長の父親だということは今は言うまい。修は歯型がつくほどきつく唇を噛んだ。
「それと四年生の息子か・・・・・・」
それは雄三だろうか。もしかしたら雄三と桐子は幼なじみだったー。何か釈然としないものが修の脳裏をかすめた。
「あとで聞いたんだけどね。桂月はうちの会社の胃薬を飲んで、胃潰瘍を悪化させたらしいの。それが原因で作品が納期に間に合わなかった、って逆恨みをしていたらしいわ。子どもじみた単純な話よね。今考えたらバカみたい」
 修は桐子の辛い幼少時代に思いを馳せながら、一気に冷酒を呷った。

「柳田さん、これを見てください」
 稲垣がカウベルを鳴らして飛び込んできた。手には何枚もの遺留品リストのコピーを持っている。
「そんなに慌てるなよ。飯くらいゆっくり食べさせろ」
 柳田は口元についたケチャップをナプキンで拭った。
「やはり思ったとおりです。みんなの遺留品リストの中にありました」
 稲垣はリストのコピーをテーブルの上に広げた。
「どれどれ」柳田はゆっくりとからだを起こした。
「これは『魚の形をしたキーホルダー』それからこれ、『大きな淡水魚のキーホルダー』それと、『古代魚のキーホルダー』最後に、『大型熱帯魚のキーホルダー』様々な表現で書かれていますが、すべて『アロワナ』のことですよ」
 稲垣は腰を下ろす前に、焼きそばの大盛りとハンバーガーを注文した。
「そうか、やっぱり・・・・・・」
「共通していたのはこのキーホルダーだったんですね」
 稲垣はグラスの水を一気に飲み干した。
「それと、成実の休暇届けについて各所轄から連絡がありました」
「で、どうだった」
「池川の休暇とピッタリ符合しました。福岡、鹿児島、愛知の三件に関しては池川と同じ日に休みを取っています」
「そうか、ご苦労さん」
 柳田は腕を組むと口を真一文字に結んだ。
 稲垣は、ハンバーガーをまた喉につまらせたのか、慌てて柳田のアイスコーヒーを飲み干した。
「誰のコーヒーを飲んでるんだッ」
「すみません、喉がつまっちゃって。で、でも、もう一ついい報告があります」
「何だ、言ってみろ」
「高尾山で目撃者が、いや目撃したわけではなく、鼻で匂いを嗅いだ、というか何というか」
「何を言っているんだ。もっと落ち着けよ」
「実はあの香水の匂いを嗅いだ人間が見つかりました。当日、リフトで山を下った客の中に、あの匂いをさせていた女がいた、というんです」
「誰の証言だ?」柳田の目が光を放った。
「リフトの案内係をしているアルバイトの女子大生です。あの事件の翌日から学校の試験があったため、しばらくバイトを休んでいたそうです。だから聞き込みの網に引っかからなかったんですよ」
 稲垣は自慢げに胸を張った。
「女は最終時刻寸前に乗り込んだので、記憶に残っていたそうです。夏シフトの運転時間は朝の九時から夕方の四時半までです。土日も延長はありません」
「その香水に間違いないのか?」
「間違いありません。僕が『ロマン』という香水を持って、粘り強く聞き込みをしたんですからね。その女子大生も日頃その香水をつけているので、しっかり憶えていたそうです。それにつけ過ぎで、強い匂いを発していたようですからね。ただ服装とか体型についてはほとんど記憶にないそうです」
 柳田はニヤリと頬を緩ませた。
「アマンというんだ。その香水は」
「すみません、とにかくその香水です。それに四時半なら山村の死亡推定時刻とも一致しますよ」稲垣は焼きそばの青のりで口の周りを汚している。
 柳田はゆっくりと目を閉じた。
 その女は果たして成実だろうか。もしかしたら池川・・・・・・。池川も同じ香水を使っている、と稲垣から報告を受けている。池川が高尾山にあらわれたとしたらどうだろう。山村は以前大阪北の支社長をしたことがある。だから池川があらわれても、「成実は遅れてくる。私はそれまでの代役よ」とでもおどけて、適当な理由さえつけておけば違和感はないはずだ。
 しかしなぜ、山村をはじめアロワナのキーホルダーを持った人間を狙わなければならなかったのか。そして、なぜ二人は共謀したのか・・・・・・。
 ちょっと待てよ。山村が起こした交通事故、これが今度の事件に繋がっているのだろうか。柳田は冷めた番茶をゆっくりと飲み干し、椅子に深々とからだを沈めた。

「具合はどや?」
「ありがとう。もう平気よ」
「少し太ったんとちゃうか?」
「やっぱり分かるのね。休みの日なんか食べ始めたら止まらないの」
「何となく分かるばい。極度のストレスかもしれんなぁ」
 桐子は、中華スープをれんげでゆっくりと口に運んだ。
「最近、昔の嫌なことばかり思い出すのよ」
 修は渋い顔で冷酒を飲み干した。
「そやろな。辛い時代やったなぁ」
「あのときは、ずっと、ずっと思ってたわ。家族、少しでも血の繋がった家族が欲しいって」
「考えたら、小学生なのに天涯孤独やもんな」
 桐子は修の方に少しからだを寄せて、またわずかに目を潤ませた。
「でも・・・・・・、高校に入学が決まったころ、突然、お姉ちゃんが大阪の家を訪ねてきたの。私、もうびっくりしちゃった」
「えっ?桐子にお姉さんがおったとか」
 桐子はゆっくりと顎を引いて煙草に火をつけた。いまから話の本質に入るのだろうか、満を持すかのように目をつむると、深く煙を吸い込んだ。
「私に姉妹がいるなんて・・・・・・、そんな気振りさえ見せなかったのに、お祖母ちゃんも魔が差したのよね。東京にいる義母にお姉ちゃんの高校の入学祝を託したの。こっそり渡してってね。たまたま義母が留守で、その封書をお姉ちゃんが見たのよ。お姉ちゃん宛ての書留だったからすぐに開けてしまったらしいわ」
「どういうこっちゃ。桐子には、ほんまに実の姉がおったとか?それから義母?よう分からん。そら、どげな関係や・・・・・・」
 桐子は時間をかけて、姉との関係、そして義母との関係を詳細に語った。
 特に出生の秘密について話すと、修はしばらく口をつぐんだ。手を動かすことさえ憚られるのだろう。下を向いて必死に涙を堪えている。
「オサムちゃんが落ち込むことないよ。少し飲んだら」
 その言葉を聞いた修は、照れ隠しなのか、慌ててグラスに酒を注ぐとまた一気に飲み干した。
「お祖母さんが娘に、お姉さんから見れば義母宛てに送った封書を、お姉さんがこっそり見たということやな。それで大阪の住所と、桐子の存在が分かったんか」
「そういうことなの。行動的なお姉ちゃんはすぐに天満橋の家を訪ねてきたわ。私、嬉しかったー。本当に嬉しかった。だって、天涯孤独だと思っていたからね」
「お姉ちゃんはその後どげんしたとか?」
「東京の複雑な家庭環境の中で、高校の三年間じっと耐えたわ。時々大阪に遊びにきてたから、大阪の大学を希望して受験したの。優秀なお姉ちゃんは合格、私は第一志望の専門学校に入学が決まり、これから姉妹で楽しい暮らしができると思ってた。辛かった子ども時代を取り戻せる、って二人とも有頂天だったわ」
「それから?」
 桐子が言っていた「空白の一年」とは、その後の何かで引き起こされたのだろう。子どもに関係した何かがあったはずだ。
 桐子は、まだ吸いかけの煙草を灰皿でつぶした。
「慌てないで、もう全部話すから」
 修は正面を向いて居住まいを正した。
「・・・・・・実家のそばの道で交通事故に遭ったの」
「誰が?」
「私よ」
「なんともなかったとか?」
「腰を骨折したわ。だから、今でも腰骨には数本のボルトが埋め込まれているの」
「後遺症は?」
 しばらく桐子は天井に目をやった。こぼれ出る涙を堪えようと、強く唇を噛んでいる。
「子どもが産めないからだになったわ。それと・・・・・・、そのとき子どもを亡くしたの」
「死んだやてーッ。なんやそれはッ」
 修は血相を変えて立ち上がった。
 桐子の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。それを拭おうともしない。
「落ち着いてオサムちゃん。遠い昔の話だから」
 桐子は何度も修のシャツの袖を引いた。
 我に返り周りを見ると、もうほとんどの席が埋まっていた。
「子どもを亡くしたて、どげんしたとや」
 修はバツが悪そうに、声のトーンを落として訊いた。
「流産しちゃった・・・・・・」
 桐子はか細い声でつぶやくように言った。
「えぇー?」
 修は最悪の事態を予想していたとはいえ、その言葉を聞いて愕然とした。しかしすぐに自分を取り戻すと、桐子のフラッシュバックを気遣った。
「桐子・・・・・・、よう分かった。気分が優れんなら、もうこれ以上話さんでもよかぞ」
 桐子は涙を堪えて健気に微笑んでいる。
「私ねぇ、好きな人がいたのよ。高三のときだったわ。そう、オサムちゃんと同じ大学の人。たぶん歳も一緒かな。でも私たち若かったのよね、妊娠しちゃったー」
 目を潤ませた桐子は、努めて明るい表情を繕った。
「また『飛田の娘』と揶揄されないように、お姉ちゃん以外には誰にも話さなかったわ」
 修は黙って顎を引いた。
「当然、入学が決まっていた専門学校も断念したわ。母親になることに躊躇などなかった。だって家族のいない私だったから・・・・・・。彼も喜んでくれたわ。自分が就職したら結婚しよう、ってね」
 桐子の眸に、若いころの郷愁が浮かび上がった。
 修は唇を噛んだままじっと聞き入っている。
「お姉ちゃんも喜んでくれたわ。そして、そのまま荷物をまとめてお祖母ちゃんの家に越してきたのよ」
 桐子は少しだけ冷酒に口をつけた。
「お姉ちゃんは、二人の生い立ちを知るまでは、普通の家庭の子どもとして育ったわ。でも、中三のときに真実を知ってから、父の愛人の子として育ての親と寝起きを供にすることになったのよ。こんなことって、私だったら耐えられない。すぐにでも家を出たわ」
「そのとおりやな」修は唇が渇くのか、上唇を丹念に舐めた。
「それからはお姉ちゃんと一緒に、お祖母ちゃんの目を盗んで、育児の本を一生懸命読みあさったわ。出産のときの呼吸法とか、オムツの替え方、離乳食の作り方、いろいろ勉強したのよ」
 桐子は口をきつく結んで、涙がこぼれないように顔をわずかに上げた。
「一番楽しい時期だった・・・・・・。お姉ちゃんなんて、慣れない手つきで産着まで作ってくれちゃってね」
 桐子は目を細めて、下の瞼を指でなぞった。
「だから・・・・・・」
 修は口ごもった桐子を庇うように、手で肩を抱いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫よー」
 桐子は気丈な顔をしている。
「・・・・・・私が流産したときなんて、それはもう私より大変だったわ。加害者の手がかりといえば、事故現場に落ちていたキーホルダーだけだったの。お姉ちゃんはそれを手に、私たちの夢が潰えたって、狂ったようにその男を捜し回ったんじゃないのかな。でもキーホルダーだけで犯人を捜すなんてどだい無理。雲をつかむような話よね」
 桐子はしきりに目をしばたかせている。
「桐子はどないしとったんや」
「私?私はねぇ」桐子の唇がへの字に曲がった。
「私も捜したわ。逃げたフィアンセをね・・・・・・」
「その男はどげんしたとやッ。行方を暗ましてしもたんか?」
「私が病院に運ばれて、気がついたときには消えていたの、彼・・・・・・。残っていたのは手の中のキーホルダーだけよ」
 修は拳を握りしめて声を荒げた。
「どこに行ったんやッ、その男は。なんちゅうやっちゃーッ」
「オサムちゃん、興奮しないで」
 桐子は優しい目で修を窘めた。
「そ、そやかて・・・・・・」
「私も一生懸命捜したわ。でも下宿はもぬけの殻だし、大学も辞めたのか通っていなかったわ。警察にも届けたんだけど、途中から潮が引くように警察は事件から手を引いてしまったの」
「その男は誰やッ。今どこにおるとや」
 桐子は首をゆっくりと左右に振って、男の名前を言おうとしなかった。
「そのうち、彼のことは諦めたわ。彼が子どもを殺したわけじゃないし、考えたら彼も子どを亡くした被害者なのよね。今はどうしているのかな・・・・・・」
 桐子は懐かしさと寂しさが混じった顔で、ただじっと天井を見つめた。
「逃げたんやな。何ちゅう酷い男やッ」
 修は怒りで顔を真っ赤にしている。
「ただ、事故現場に残された『キーホルダー』が、その後の私たちの人生を変えたわ」
「なんがあったとや」修は憂いを帯びた桐子の眸を覗き込んだ。
「お姉ちゃんの人生も、私の人生も、加害者が落とした『キーホルダー』で狂ってしまったの」
「どういうことや」
 修は上半身を起こすと、頼んでおいた口直しの水を飲み干した。
「彼は、そのキーホルダーを持っていた加害者のことを、『リョージ』と呼んでいたわ」
「じゃぁ、彼と加害者は知り合いやったちゅうことか」
「たぶん・・・・・・」桐子はゆっくりと顎を引いた。
 すると、またあのときの声が甦ってきた。「リョージー、リョージー、戻ってこいよッ」
 桐子は一瞬めまいを感じたが、口元を引き締めて正面を見据えた。
「知り合いじゃないのかな。同級生?親戚?兄弟?分からないけど。たぶん加害者に迷惑がかからないように彼は姿を暗ましたのよ。私とお腹にいる子どものことなんてどうでもよかった。そんな男だったんじゃないのかなぁ」
 桐子は修の手前、愛した男の行動を無理に蔑んだ。
「何やそれは。とんでもない男やぞッ。ふざくんなッー」
「オサムちゃん、もういいのよ。すべて終わったんだから」
 深いため息を吐いて、桐子はゆっくりと目を閉じた。すると、涙がひと滴、糸をひくように頬を滑り落ちた。
 それでも・・・・・・、よく夢に出てくる、流産したあとのことが。
 腕を失くした人は、いつまで経っても腕があるような感覚が消えない、というが、今でもお腹の中に「まゆ」がいて、壁を蹴っているような感覚が消えない。吸わせることのなかったおっぱいが張ったように痛む。乳首が小さくて、おっぱいを吸ってくれるか不安だったのに・・・・・・。一度でいいから「まゆ」を抱きしめたかった。
 子どもが産まれてきたときのために用意していた『産まれてくれてありがとう』という言葉が、頭の中で反響を繰り返している。桐子の口からは、吐いても吐いてもなくならないため息が、また漏れて出た。

「ルルルー、ルルルー」修の携帯が突然鳴った。
「桐子、すまん」修は上着のポケットから携帯を取り出した。
「今ごろ誰や」
 修は携帯の画面に表示された相手の名を見つけると、急に声を落とした。
「おー、珍しいな。今どこにおるとか」
「新宿?ライブのリハーサルが終わった?」
「ん、今ちょっとな・・・・・・」
「明日の早朝大阪に帰る?でもなぁ」
 よりによって、先ほどの話に出てきた桂月の息子、雄三からだった。修は桐子に背を向けて、雄三からの電話だということを隠そうとした。
「オサムちゃん。私なら大丈夫よ。また今度ゆっくり話すから」
 桐子は寂しげに微笑むと小声で言った。
 修は桐子の話の核心をまだ聞いてはいなかった。しかし雄三とまた会えるかというと、それも覚束ない。雄三には訊かなければならないことがある。これがどうしても気にかかっていた。
 修は迷いに迷って、苦渋の決断をした。
「分かった。ほな二十分後やな」
 修は申しわけなさそうな顔をして携帯を切った。
「いいの、いいの。気にしないで。今日は疲れたからもう帰るわ。今度また話すよ」
「すまんな。なかなか会えん友だちなんや」
「ところで誰なの?電話の人」
 桐子は煙草に火をつけて、わずかに目を泳がせた。
 今の電話を、おかしいと思い始めているようだ。しばらくは明かさない方がいい。芸名の『ユウヤ』を使えば桐子には分からないだろう。修はそう判断して、高を括った。
「昔からの友だちや。ほらっ、有名人やから桐子も知っとるやろ。あの『ユウヤ』ちゅうやつや」
 修の声は微妙に上擦っている。
「私も知ってるわ。大阪では結構名の知れた人よね」
 とたんに桐子の顔が明るく輝いた。
「へぇー、オサムちゃん。知り合いだったの」
「まぁな」修の顔が微妙に歪んだ。
「たまに会ってるの?」
 桐子は微笑みながらも、冷めた口調で訊いた。
「大学時代からの友人や、この前も雄三に会うてきた」
「あっ!」と思った瞬間、思わず口を滑らせていた。
「もう一度言ってッ、名前は?」
 桐子の笑みが一瞬にして消え失せた。
「・・・・・・」修は絶句した。
「もう一度言ってよッ。なに雄三っていうの?」
 桐子の顔から瞬く間に血の気が引いていった。
「・・・・・・」二人の間に冷めた空気が流れた。
「ヤマムラ、そうでしょう?」
 ユウヤの顔は何度か大阪のテレビで見たことがある。でも気づかなかった、あのユウヤが雄三だなんて・・・・・・。派手な衣装を着て、舞台用の化粧をしているからだろうか、テレビで見る雄三は昔の面影などまったくなかった。
「言ってよッ。どうなの?」
 沈黙がしばらく続いて、修の額には珠のような汗が浮かび上がった。
「・・・・・・そうや」ポツリと言った。
 修はガックリと肩を落として下を向いた。全身が強張って、あとの言葉が出てこない。
 桐子は、今からここに来る男が雄三と分かって、こころの中を猛烈な風が吹き荒ぶような感覚に襲われた。すぐにでも会いたい。でも、どんな顔をして会えばいいのか・・・・・・。雄三はどんな服を着て、どんな顔をしてあらわれるのか。そして今何を考えているのか。
 なぜッ、なぜあのとき姿を消したの?あのとき私のことをどう思っていたの?まゆちゃんのことは?そして、どうしてすべてを捨てたの?・・・・・・私を本当に愛していたの?
 すべて終わったこと、と言いながらも、雄三の思い出が一瞬にしてこころの中を埋めつくした。
 じっと唇を噛んでいた桐子は、掠れた声で言った。
「・・・・・・ごめんなさい。私帰る」
 そして振り向きもせずに、逃げるように店を出ていった。
 修は言葉を呑みこんだまま、歯をカタカタと鳴らした。

「柳田さん、やっと分かりましたよ。雄三の住所」
 柳田は相当疲れが溜まっているようだ。応接のソファーに深くからだを沈めていた。犯人の動機を推理していたのか、テーブルの上には書きなぐったメモ用紙が散乱している。
「おう、早かったな」
 柳田は背中を凭れかけたまま、ゆっくりと煙草に火をつけた。
「大阪北署のマル暴が、あの有名な『京阪プロダクション』から訊き出してくれました。現在、心斎橋にある『工藤音楽事務所』というところに所属していて、住まいは新大阪です」
「新大阪のどこだ?」
「新大阪駅の北側のマンションです」
「ふーん」柳田はしばらく目を閉じた。
 今は雄三のことにまで気が回らないのだろう。仕方なく、稲垣も反対側のソファーに腰を下ろした。
 柳田の思考は二人の姉妹に飛んだままのようだ。雄三の住所にはさほど興味を示さない。
「分からない。成実の動機はもう少しで何とかなる。しかし、共謀したと思われる池川の動機が・・・・・・、何とも分からない」
 柳田は目を閉じたまま腕を組んだ。口の周りには無精髭が目立ち始めている。
「稲垣、福澤正一の携帯番号は?」
「はい、知っています」稲垣は両膝に手を置いて神妙な顔をしている。
「訊いてみてくれないか。三十年前の交通事故のとき、山村が失くした車の鍵のことを。でも・・・・・・、もう憶えていないかもな」
 柳田の声は力がなかった。
「分かりました。訊いてみます」
「それと、雄三の今後のスケジュールを細かく調べておいてくれ」
「はい」稲垣は慌てて応接室を出ていった。

「連絡がありましたよ。柳田さん」
 入れ替わりに、先週から捜査班に加わったチエが飛び込んできた。
「対馬中央署からです」
 柳田はソファーにからだを沈めたままだ。
「やはり二人は対馬にいたのか」
「えぇ、仲里が自殺する前日に泊まっていました。厳原港そばの『つしま屋』という旅館です。たぶん成実と池川だと思います」
「たぶん?」柳田が充血した目を開いた。
「二人連れの女性が泊まっていますが、偽名を使っていたようです」
「どんな名前で泊まっていたんだ」
 チエは一瞬言い淀んだ。
「・・・・・・カズコとキリコです」
「何だ、そのままじゃないか」
 柳田はまた目を閉じた。
「でも、対馬中央署から送られてきたこのファックスを見てください」
「どれどれ」柳田はゆっくりと背中を起こした。
 そこに書かれていたのは「長崎一子」と「福岡霧子」という名前だった。
 それを見た柳田は、すぐに立ち上がると大きな声を上げた。
「何だこれはッ。笑わせるんじゃないッ、あまりにもふざけてる!」
 コメカミには稲妻のような血管が浮かびあがっていた。
「柳田さん、怖~い」
「悪いな。今日は何だかイライラしてるよー」
 柳田はすまなそうに鼻を擦った。
「すまない、続けてくれ」
 チエは気を取り直して、再び説明を始めた。
「対馬中央署は端から自殺として処理したようです。殺人事件なんてめったに起こらない島ですし、飛び降りた屋上には、仲里の靴が揃えて置いてあったそうです。また体内からは睡眠薬も検出されています。よって、精神を病んで自殺したということで事件は解決をみています」
「靴と睡眠薬か・・・・・・。共犯ならどうにでもなるな」
 柳田は無精髭のはえた顎を何度も擦った。
「一連の犯行はすべて凶器が使われていない。物的証拠として凶器が発見されることはないわけだから、やつらは舐めてかかっているんだ」
 チエは眉間に皺を寄せて可愛い唇を尖らせた。
「チエちゃん、成実と池川、それと山村雄三に尾行をつけてくれ」
 チエは大きくうなずくと、いよいよだな、と奥歯をきつく噛みしめた。
「チエちゃん。悪いがもう一つだけ頼む」
「はい。何ですか?」
「以前沖縄で調査してくれたとき、雄三も『ユシナテラス』に泊まっていた、って言っていたよな」
 柳田はくわえていた煙草を灰皿でひねりつぶした。
「そうです。お話ししたとおりです。山村了司の宿泊を確認しているとき、ホテルのパソコンにたまたま山村雄三がヒットしたんです」
「事件に絡む人間が、その日、他に泊まっていなかったか至急調べてくれ」
 チエは、獣のように光る柳田の目を久しぶりに見た。
「は、はい。了解しました」

17-20

十七

「待たせたな」雄三は今日も濃いサングラスをかけていた。
「おう、よう来たな」修は渋い表情を雄三に向けた。
「浮かない顔してるな」
「サングラスは取らんか」
「何だか機嫌が悪いんだな」
「よかけん、飲め」
 修は黙ってビールグラスに冷酒を注いだ。
「今日は泊まりやろう?」
「おう、新宿のリージェントホテルだ」
「贅沢なホテルに泊まっとうとやなぁ」
「事務所が予約してるんだ。俺の好みじゃないよ」
「ほんなら、前の話の続きをじっくり聞かせてもらうばい。東京進出の前に話したい。そう言うとったよな」
 雄三は無言でうなずいた。
「その前に何か食べさせてくれ」
雄三はお腹を空かせているのか、ギョーザと麻婆豆腐、それにチャーハンまで注文した。
 すると、雄三は飲み残しのグラスに気づいて訊いてきた。
「今まで誰と一緒だったんだ?」
 何も知らない雄三は、殴ってやりたくなるほど呑気に見える。
「会社の同僚たい。夕方から飲んどった」
 修は面倒臭そうな顔で答えた。
「休日の酒か、いいよなサラリーマンは。俺なんか土日の感覚もなくなっちゃったよ」
 雄三は機嫌の悪い修に気を遣って、丁寧に冷酒を注いだ。修は注ぎ終わる前にグラスを取り上げ、そのまま一気に呷った。
「兄貴が子どもを殺したとか言うとったよな。それはどういうこっちゃ」
「うん・・・・・・、何か東京に来たら、もうどうでもいいかな、なんて思えちゃってさぁ。俺がメジャーになったら、彼女も昔のことなんて忘れてくれるんじゃないのかな」
 東京でのライブコンサートを前にして、雄三は案の定有頂天になっているようだ。昔の癖は直っていない。
「いい加減なことば言うたらあかん。今でも彼女は苦しんどるはずや」
「えっ?修は言ってたじゃないか、彼女はもう結婚して幸せに暮らしているかもしれないって。だからもういいんじゃないのか?俺が有名なミュージシャンだって分かったら、彼女は過去のことなんて忘れてくれるさ」
 修は業を煮やして言葉を荒げた。
「雄三ッ、お前は過去を洗いざらい話して東京ば進出するて言うたやないか。それが今度はなんや。お前の正義感はどげんしたとやッ」
 修は雄三の傲慢な態度に気水がこみ上げてきた。
「もうどうでもいいような気がしてさぁ」
「なんがかーッ、ふざくんな!」
 雄三は修の大声に翻弄されて、こころはいつの間にか遠い昔に飛んでいた。

当時、桐子は小学一年生、彼女は天満橋の薬品会社の娘だった。ある日、近所の小学生数人が桐子の母親から誕生会に呼ばれた。いつもは俺のことをまったく関知しない桂月だったが、たまたまそのことを知ったとたんに怒り出し、誕生会には行かせてくれなかった。しかし、当時学年が違う桐子とは、近所に住んでいるというだけでほとんど面識もなく、特に誕生会が中止になったことを気にすることはなかった。そのあとすぐに、田舎で創作をしたい、という桂月の我がままで、山村家は天満橋から北の箕面に引っ越しをした。それからは、一度も天満橋に行くこともなく、俺はそのまま大阪の大学に進学した。しかし三回生のとき、学園祭で偶然に桐子と再会した。桐子を最後に見たのは彼女が六歳のときだったが、十七歳の桐子は見違えるほど綺麗になっていた。見事に魅力的な容姿の持ち主に変身していた。風に揺れる黒い髪。甘いミルクを湛えたような純白の肌。漆黒の眸。桜色の可憐な唇。俺は桐子のすべてに魅了されてしまった。桐子は遠い空から地上に舞い降りた天使のようだった。そして俺が天満橋に住んでいたこと、ましてや桂月の息子だということすらまったく忘れていた。いや幼いときのことなど憶えていなかったのかもしれない。そのころ、桂月の絵は世間に認められてはいたが、彼の人間としての評判は芳しいものではなかった。だから桐子と付き合うために、俺は桐子の忘却を歓迎した。そして、自分の生い立ち、ましてや家族のことなどには一切口をつぐんだ。桐子も何も訊こうとはしない。ただ「幸せな家庭を作りたい」と口癖のように話していた。俺は彼女の前では、ギターの好きな田舎出の青年でとおしていた・・・・・・。あの事故が起きるまでは。

「おい雄三、どげんしたとか」雄三は、修に肩を揺すられて我に返った。
しばらく目をしばたいてから、修の罵声に返答しなくては、とポツリポツリと話し始めた。
「俺が学生のとき、一緒に歩いていた彼女が、兄貴の運転する車に撥ねられたんだ。兄貴はそのまま逃げたよ。要するにひき逃げだよ。俺も結局、怪我をした彼女を介抱しなかった・・・・・・。卑怯な俺は、何もせずにそのまま逃げたんだよ」
 雄三は人としての最低の義務を放棄したのか・・・・・・。修のこころの中に、更に憎悪が膨らんでいった。
その彼女の正体は「桐子」だ、と感づいてはいたが、修は桐子の話を切り出そうとは思わなかった。それより雄三にすべて白状させることを優先した。
「なんで、そげなことしたとや」
雄三は辛そうに顔を歪めた。
「彼女は妊娠していた。ちょうど五カ月目に入ったとこだった。俺は彼女から妊娠を打ち明けられたとき、正直いって、しまったと思ったよ。俺は、就職したら結婚しよう、って約束したけど、家族を養うことにどうしようもない不安を感じたんだ」
「なんやとッ、もういっぺん言うてみい。アホなことぬかすなーッ」
 修はカウンターを平手で叩いてまた罵声を浴びせた。
「そんなに怒るなよ」
 雄三はとっさにしかめた顔を逸らした。
「冷静に考えてみい。そげな裏切り聞いたことなかぞッ」
「俺にも事情があったんだ」
「それは、なんやーッ」
 雄三は、グラスいっぱいに満たされた冷酒を一気に呷った。
「大学を卒業してすぐに家庭を持つことが怖かったんだ。父親になることが怖かった。俺の親は桂月なんだよ。そんな親から学ぶものは何もなかった。物ごころついたときから、桂月は家にいたことなんてなかったよ。母親のいない俺は、たまに家を訪ねてくる親父の愛人に育てられたようなものだ。誕生日、クリスマス、それに正月だって、俺にとっては普通の日でしかなかった。普通の家庭の姿形なんて、俺にはとても想像もできなかったんだ・・・・・・」
 修は少し冷静さを取り戻したのか、じっと話に聞き入っている。
「だから彼女のことが・・・・・・、そう、楽しくはしゃぐ彼女のことが鬱陶しくなったんだよ。そんなときに事故が起こったんだ。兄貴が現場から逃げたあとも彼女の意識は朦朧としたままだった。でも、出血もそれほどなかったから、俺は軽傷だと思ったんだ。いや、自分にそう言い聞かせたのかもしれない。そしてこの事故は、彼女と別れるための絶好のチャンスだと思えてきたんだ。ちょうど、デビューの話が持ち上がっていたときだからな。女を妊娠させたこと、更にはこの事故が表ざたになれば、デビューの話はなくなる。そして一生チャンスは巡ってこない。俺はこのまま身を隠して、ほとぼりが冷めたころに芸名でデビューする。それが一番いい方法だと思ったんだ。俺が消え失せて証言しなければ、兄貴も逃げとおせる。そして、俺にとっては自分が経験したことのない家庭を作らなくて済む。そんな気持ちになったんだよ」
「そげなこと言うても、お前がデビューしたら、彼女に告発されて警察はすぐに動くばい。そしたらお前は事情聴取されて、兄貴はすぐに逮捕されるたい」
「そうだよ。自分でも最初は軽率な考えだと思っていた。でも親父から電話があったんだ。『何とかするから、今の女とは別れろ』とね。また親父が収めてくれる。俺はすべて無視してやり過ごせばいいんだ。親父なら府警までは何とかなるはずだ・・・・・・。結果的には警察はまったく動かなかったよ」
「またやて、そげん親父に助けてもろとるとか。オヤジ、オヤジて、お前は親父が嫌いやったんとちゃうか?都合のよかときだけ親父に助けてもらうやて、最低やッ。言うとることとやっとることが反対やなかかーッ」
 雄三はふせていた顔を上げた。
「そんなことはない。沖縄の事件は親父には頼っていない」
「なんやそれ?他にも人に迷惑かけたことがあるんか?」
 雄三は慌てて右手で口を押さえた。よけいなことまで口を滑らせてしまった。
「お前には関係ない。ちょっとしたことだ」
「長い間、売れんで苦労しとうと思うとったけど、親父の庇護のもとでぬくぬく生きとったんやな。結局、だらしのう怠惰な生活を送っとたんやろ。そやないか?いい加減なやっちゃで、お前ちゅうやつは」
 修は肩を落として大きなため息を吐いた。
「仕方ないよ、歌が売れなかったんだから。その間、俺は親父に金の無心を続けたよ。俺に冷たかった親父に、罪滅ぼしをさせてあげたというわけさ。親孝行のようなものだよ」
 雄三は呑気そうに餃子を摘まんだ。
 修は口を歪めて、もうこれ以上聞きたくない、という顔をした。
「・・・・・・雄三。昔のお前と今のお前、どっちがほんまの雄三なんやッ。もう、俺はよう分からん」
「今の俺だ。ここにいるのが本当の俺だよ」
雄三は迷うことなく嘯いた。そして冷酒をなみなみと注いで、知らん顔で半分ほどを空にした。
「雄三、大阪で俺と話をしたとき、売れるまでは大変な苦労をした、て言うたよなぁ。あれは?」
 雄三は人をバカにしたように笑った。
「そんなことくらい分かるだろう?お前だって子どもじゃないんだから。いいか、五十を越えた男がメジャーデビューするんだよ。『苦節三十年』って宣伝しないと売れないだろう。だから身近な人間にもそう言っただけだよ」
 修は、信じられないという顔をして、首を何度も左右に振った。そして目を閉じると、一気に冷酒を飲み干した。
「ふう~、ほんなら俺を騙したんか。おうっ雄三、言うてみい」
「こういうことは身内から欺かないとな。そんなに簡単に世間は騙せないんだよ」
「そげなこと・・・・・・」修は肩で息を吐くと、崩れるようにからだを沈めた。両手はわなわなと震えている。
「こいつは俺まで騙したいうこっちゃ。最低や!」こころの中で思いきりツバを吐いた。
 修は下を向いたまま、声を立てずに涙を流している。
桐子のことが不憫でならない。桐子の女としてのからだを壊したのは山村了司だ。しかし、女としてのこころを壊してしまったのは山村雄三に他ならない。桐子の女を凌辱し、ズタズタに切り裂いたのはこの男たちだ。
 修は、お台場で倒れた桐子の姿を思い浮かべていた。
桐子は腰骨にボルトを何本も打ち込まれ、胎盤を作れないからだにされた・・・・・・。だから幼い子どもを見ると、いつも微笑んだあとに目を潤ませる。更にその子を見守る若い夫婦。夫を見ると昔の雄三を思い出し、隣で微笑む妻に嫉妬する。本当なら私がそこに立っているはずなのに、と。
あの事故から今日まで、桐子は何百回、いや、何千回と幼い子どもを連れた若い夫婦を見てきたことだろう。見る度に神経をすり減らしていったんだ。そしてこころは狂気に侵され続けた。だから・・・・・・、「アロワナ」のキーホルダーを持つ男を捜し続けることで、こころのバランスを保ってきたんだ。そして、水子に「まゆ」という名前までつけて供養し続けることで、誰にも言えない苦悩を抱える自分を癒してきたんだ。
「お前が今座っとるその椅子には、さっきまでお前が捨てた桐子が座っとったんやッ。俺にとって大切な桐子が座っとったんやーッ」修はこころの中で叫けんだ。

「俺はもう帰るぞ。ホテルに女を待たせているからな」
 雄三は面倒臭そうに言った。
「ちょっと待たんかッ。その女の名前は?」
「サヤカっていうけど」
 雄三は鼻で笑って、くわえ煙草のままサングラスをかけた。
「違うッ、アホなことぬかすなーッ。お前がぼろ布のように捨てた女の名前やッ」
 修の目は血が噴き出したように赤く染まっている。
「・・・・・・うっ」雄三は口ごもった。
「帰る前に言わんかッ。お前がボロボロにした女の・・・・・・、お、女の名前や!」
 修の目からドッと涙が溢れた。
「もう忘れたなぁ。三十年以上も前のことだぞ」
 雄三はくわえた煙草を吹き捨てた。
「くさんッ、忘れたとか言わせんぞーッ」
『桐子いう女やろう』という一言を修は呑み込んだ。
「修、お前酔ってるぞ。みっともない。俺はもうホテルに戻る」
 雄三は、金糸を織り込んだ派手なジャケットを抱えて立ち上がった。
 修は大きな息を吐くと、下から雄三を睨みつけた。
「雄三、俺はお前がメジャーデビューを前にして変わったと思うとった。ばってん考えてみたら、お前はなんも変っとりゃせんかったな。お前は昔から悪の権化やッ」
 修は腸が煮え繰り返り、うしろで結んだ髪を引っつかんで雄三を引きずり回してやりたかった。しかしまだ分別のかけらは残っていた。無念にもそう言うのが精一杯だった。
「俺が悪の権化?分かった、分かった。修、もうこれ以上飲むなよ。ライブ当日のスケジュールとチケット郵送しておくよ。ライブの日は楽屋まで遊びにこい」
 修は立ち去る雄三から目を逸らすと、雄三が使ったグラスを床に叩きつけた。

十八

 鬱陶しい梅雨が明けた。中央線の窓から見える景色は、木々の深い藍色が鮮烈だ。
 吉祥寺駅に降り立つと、パソコンからプリントアウトした地図をバッグから取り出した。初めての駅に戸惑いながらも、公園口の改札を出ると、左手に井の頭線の乗り場を見ながら外への階段を下りていった。すると右手に、華やかな飲食店が軒を連ねているのが見えた。大阪の心斎橋筋商店街と比べたらチンケだなぁ。和子は唇を尖らせてそうつぶやいた。
ふとうしろを振り向いた。誰もいない。大阪から誰かにつけられているような気がしてならない。どこからか二つの眼で見られているような・・・・・・。
気のせいだろう。和子は何事もなかったかのように、丸井の横を通り抜けて桐子が住むマンションに急いだ。徐々に緑が多くなっていく。井の頭公園が近いのだろう。真上から射す太陽の光が木々の緑を鮮やかに浮き立たせていた。
公園入口と書かれた案内板の手前を左に曲がると、小ぢんまりした瀟洒なマンションが見えてきた。深い緑に抱かれた白い建物は、場所柄もあってかメルヘンチックに見える。
 あれが桐子のマンションか・・・・・・。和子は逸る気持ちを抑えて立ち止まると、注意深く周りを見回した。誰もいなかった。

 エレベーターに乗ると七階のボタンを押した。桐子は最上階に住んでいる。窮屈な箱から降りると、すぐ隣が桐子の部屋だった。七○七号室。
 和子は、インタフォンのボタンを押さずに軽くドアをノックした。静かにドアが開いた。桐子は無言で目配せすると、素早く和子を招き入れた。
「しばらくね、お姉ちゃん。元気だった?」桐子は声を抑えて訊いた。
 和子は無言のまま軽くうなずくと、縦長に設計された二LDKの奥の部屋に向かった。
「仏壇はどこ?」
 桐子はコーヒーを淹れながら返答した。
「寝室のデスクの上よ」
 和子は天満橋の家にも同じような仏壇を置いている。位牌をじっと見ながら正坐をすると、線香を立てて、桐子に聞こえないようにそっと囁いた。
「まゆちゃん。二人の男がママを置き去りにしなければ、貴女は助かったのよ。そして私たちの周りで楽しそうに遊んでいたはずよ。でも、やっと恨みを晴らしてあげたわ。だから今度は私たちの恨みを晴らすわよ。あいつが死んだ今、やっと私たちの恨みを晴らす番が巡ってきたのよ。祈っていてね、まゆちゃん。大阪のおばちゃんの子ども、「ゆみ」ちゃんのことも忘れないでよ。二人はこの世に産まれてこなかったけど、従姉妹どうしなんだからね・・・・・・」
 和子はゆっくりと振り向くと、今度は桐子に聞こえるように大きな声で話しかけた。
「ちゃんと産まれていれば、『まゆちゃん』もそろそろ三十歳よね。長かったわー」
「えっ!何言ってるの、お姉ちゃん。まゆは、まゆはまだ産まれたばかりよ」
 桐子は突然妙なことを言った。
「ごめんなさい、勘違いしたわ。そ、そうよね。まゆちゃんはこの間産まれたばかりよね」
「当たり前じゃない。まだ歯もはえてないのよ」
 桐子は、突然軽い発作を起こしたようだ。和子は反対に少し冷静さを取り戻した。
 桐子をこれ以上刺激しないように、和子は静かに仏壇を離れた。そして旅行バッグから土産を取り出すと、ダイニングの椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「これお土産。蓬莱の豚まん。珍しくもないけど、お昼に一緒に食べようと思ってね」
「わぁ嬉しいー。懐かしいわ」
 桐子は強張った顔をいくぶん緩めた。
 和子は一頻り部屋を舐め回すと、コーヒーをひと口すすっておもむろに切り出した。
「ところで、あのあと変わったことはない?」
「事情聴取が二度あったきりよ。でも、刑事は私が持ってるキーホルダーに興味があったみたい。きっと営業所の事務員が、私がいつも持ってる、って証言したのよ。間違いないわ。このまま何も起こらないといいんだけど・・・・・・」
「私のところも稲垣という新米の刑事が来たきりよ。でも・・・・・・、支社の福澤に聞いたところによると、私たちのことを結構嗅ぎ回っているらしいわ」
「えっ、本当?大丈夫かしら」
 桐子は心配そうな顔をして、両手で頬を挟んだ。
「大丈夫よ。私と貴女の関係なんて誰も分からないわ。だって戸籍が別なんだから。それに、キーホルダーの連鎖なんて、バカな警察には解明できないわ。死んだ人間に共通するものがあのキーホルダーだなんて、どうやって調べるのよ。無能な田舎警察ならなおさら無理よ」
「そうよね。あんな『アロワナ』が事件の鍵だなんて、神様だって分からないわよね」
 桐子はそっと乳房に手を触れて、胸を撫で下ろす仕草をした。

 土産の豚まんを食べ終わるころ、和子は思い出したように口を開いた。
「それより桐子、貴女少し太ったわよ。高尾山の事件が終わって安心してるんじゃないでしょうね。それに柔になった。仕事のときに演じる荒い性格はどうしたの?」
 桐子は和子の言葉に頬を歪めた。二卵性双生児だけど、和子にすべて主導権を握られている。姉の和子にはいつまで経っても頭が上がらない。
「お姉ちゃんと二人のときは、普段のままでいさせてよ」
 桐子はプイッと横を向いた。
「しょうがないわねぇ。いつまでも子どもなんだから」
 和子は姉らしく桐子を窘めた。
「でも、お姉ちゃんこそ人のことは言えないわ。そうとう太ったんじゃないの?私びっくりしちゃった」
 和子は、とっさにバツが悪そうな顔をした。
「そんなこと言ったって・・・・・・、毎日、夜は家から出られないのよ。誰かが見張ってるような気がするの。だから食べるしかないの。寝てるとき以外は何か食べてるわ。仕方ないでしょう」
 和子は、妊婦のように下腹を擦りながら背中を反らした。
「そんなに心配することないと思うわ。尾行なんてされてないわよ」
「だめよ。次の仕事が終わるまで安心なんてできない」
 桐子はその言葉を聞くと、訝しげな顔で和子を見つめた。
「何言ってるの、お姉ちゃん。もうこれで終わりでしょう?」
 桐子は、山村を殺したことで当然すべてが終わった、と思っていたし、これで長年の恨みが晴れて、支障をきたしていた精神が、わずかながら癒えつつあるような気もする。
 犯人の正体を突き止めるために、どれほどの時間を費やし、どれだけ女を削ってきたことか・・・・・・。

 大阪北の山田の件は、本当に一瞬のことだった。本当によく憶えていない。寮の階段で山田のキーホルダーを見たときから自分の行動は神に操られているようだった。
 車に撥ねられたときの忌まわしい記憶、その後の辛い思いが瞬時に脳裏をかすめた。殺すつもりなどなかった・・・・・・。子どもが死んだ。でもその事実をずっと受け入れられずに、鬱屈した時間を過ごしてきた。だから、子どもが吸うはずだった乳房を山田につかまれたときは、琴線に触れられたというよりも、琴線をプツリと切られたような気がして、からだが勝手に山田を蹴り上げていた。
 それからだ。「リョージ」という名を耳にすると、どうしようもなく胸がざわつき、その男に近づいてしまう。そして男を貪りながら、キーホルダーを飢えた犬のようにあさる。
「アロワナ」という獲物を見つけた瞬間・・・・・・、今度は神が操るのではなく、こころの中に自分の意思としてはっきりとした殺意が湧き起こるのだ。どうにも耐えられない殺意だった。その殺意を行動に導いてくれたのが和子だった。だから和子には感謝している。いくら感謝しても足りないほどだ。そして、姉妹という血縁の暖かさがずっと心身を温めてくれている。どれだけ詫びても済むものではない。復讐のために和子の人生の大半を私が奪ったからだ。
数万の社員がいる東洋生命に、「リョージ」は何人いたことか。気の遠くなるような作業に、途方もない時間を費やした。でも・・・・・・、でも今、本当の犯人である山村が死んで、もう誰も殺す必要などなくなったのだ。これ以上望むものはない。これからは、死んでしまった「まゆ」と一緒に生きていくつもりだ。あまりにも身勝手だけど、もうそっとしておいて欲しい・・・・・・。

「桐子、何寝ぼけたこと言ってるの。もう一人の男を始末しないと、私の過去は終わらないのよ。貴女はいいわよ、山村が死んだから・・・・・・。でも私の最終目的は山村了司じゃないのよッ」
 和子は強い口調で言い放った。
「じゃぁ、誰?」
 桐子は懇願するような目で和子を見た。
「同じ山村でも・・・・・・、山村雄三よ!」
 和子は苦い顔をして吐き捨てた。同時に桐子の顔が醜く歪んだ。
「どうしてッ。どうしてあの人を殺さなければいけないの?あの人は卑怯な男だけど、それでもまゆの父親よ」
「何言ってるのッ。あんな男、貴女とまゆを見捨てたばかりじゃなく、私まで・・・・・・。今度は桐子が私に協力する番よ。そうじゃない?」
 和子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「どうしたの?お姉ちゃん。何があったの?」
 和子は椅子から立ち上がり、ふらふらと奥の部屋に移動した。そして仏壇の前に静かに座った。
「ウワワァァァーン」和子は突然泣き出すと、仏壇の前に倒れ込むようにふせてしまった。
 桐子は慌ててベランダの窓を閉め、すべてのカーテンを閉じた。
「どうしたの?お姉ちゃん」桐子は覆いかぶさるようにして、和子の震える肩を抱きしめた。

「柳田さん、間違いありません。山村が失くしたキーホルダーは、やはり『アロワナ』でした」
「福澤が証言したのか?」
 稲垣は大きくうなずいた。
「事故のあと、仲間数人と『ユシナテラス』に行ったとき、山村は『事故で失くしたキーホルダーはこれなんだ』と言って、アメニティーショップで買っていたそうです」
 柳田の顔に久しぶりに赤みが差した。
 桐子が持っているキーホルダーは、三十年前、交通事故の現場で彼女が拾ったものだ。
「リョージ」という犯人は「アロワナ」を保有していた、たしかにそのときまでは。
しかし、犯人は犯人たる証拠の「アロワナ」をすでに失くしているのに、彼女はなぜその男を、いや、リョージを追い続けたんだ。
 あの「ユシナテラス」は、毎年「全国もう一度行きたいホテル」のベスト3に入る超高級ホテルだ。客の八割がリピーターだと聞く。犯人はまた「ユシナテラス」に行くだろう。そして、ホテルの象徴でもある「アロワナ」を、きっともう一度手に入れるはずだ。彼女はそう踏んだんだ。間違いない。当然、あのキーホルダーが「ユシナテラス」のものだと本か何かで知ったのだろう。
そして桐子が持っている山村の「アロワナ」。二回目の事情聴取のとき、それを持参してもらい確認したが、「アロワナ」の腹部に「T・L・I」という文字が彫られていた。たぶんホテルのアメニティーショップが、客へのサービスで彫ったものだ。「東洋生命」要するにトウヨウ・ライフ・インシュアランスの略というわけだ。愛社精神の強かった山村がやりそうなことじゃないか。
彼女は、紹介されて東洋生命に入社した、と言っているが、これは嘘だ。東洋生命に勤務している「リョージ」を捜すために、作為的に入社したんだ。女を使ったのかどうか、それは分からない。しかし、あらゆる手を使って「アロワナ」に彫られていた「T・L・I」に入社したんだ。
桐子の動機はこれで解けた・・・・・・。

 柳田は、嬉々とした顔で稲垣に問いかけた。
「ところで、池川に動きはないか?」
「池川を尾行している刑事によると、彼女は成実に会うために今日上京しているそうです」
「そうか・・・・・・、いよいよだな」
 柳田は、髭の残る顎を何度も撫でた。
「と、言うと」
 稲垣は、事件の終わりがまだつかめない、とばかりに困惑顔で柳田を見た。
「チエの報告によると、雄三が『ユシナテラス』に泊まった日に宿泊していた人間は、池川和子だ」
「えっー?やはりそうでしたか」
「二人の間に何かがあったんだ。もしくは何か事件が起こったんだ。その『ユシナテラス』というホテルでだ」
 柳田は真っ赤な目をして煙草に火をつけた。
「稲垣、すぐ沖縄に飛んでくれ。急げ!また男が殺されるかもしれない」

 少し落ち着いた和子は、外の空気を吸いたい、と言い出した。桐子は他人の目に触れることに躊躇したが、姉の憔悴しきった顔を見ると、どうしても断ることができなかった。
 井の頭公園の木々の葉は、爽やかな風に揺れてカラカラと音を立てている。池の水面は、初夏の太陽の下でキラキラとまぶしそうにざわめいていた。カワセミの鳴き声だろうか、時折「チーチー」と静寂を突き抜けるような声がする。
 桐子は池の中央に架かる七井橋を渡り、左側に少し歩いたところで足を止めた。
「お姉ちゃん。このへんに座ろうよ」二人は岸のそばにあるベンチに腰を下ろした。
 水面を走り抜ける風が心地よい。
「気持ちのいい公園ね。貴女いいところに住んでるのね」
「・・・・・・そうかしら」
 桐子はどう答えればいいのか戸惑った。
 じっと水面を見つめながら、おもむろに和子は話し始めた。
「雄三が私に何をしたか、訊きたい?」
「・・・・・・」桐子はコックリとうなずいた。
「私・・・・・・、あいつにレイプされたの」
 和子は、口ごもることなくはっきりと言い放った。
「えッ!」その言葉を聞いた桐子は、両手で顔を覆って唇を震わせている。声も出なかった。
「大阪でしばらくの間犯人を捜し回ったあと、警察も誰も助けてくれないし、精神的に落ち込んでどうにもならなかった時期があったでしょう。あのときは、大学にも通えなくなって自殺を考えたわ。ちょうどそのとき、通院していたメンタルクリニックの医者に旅行を勧められたのよ。それで、思い切って一人で沖縄に行ったの。貴女もそのこと憶えてるでしょう。あのときよ」
 桐子はゆっくりと唾を呑み込んだ。「憶えてる・・・・・・」
「雄三も、逃げ回っていたのか、デビューがうまくいかなかったのか知らないけど、その日友人と『ユシナテラス』に来てたのよ。その男の正体が雄三だって、最近になってやっと分かったの」
 桐子は身じろぎもせずにじっと聞き入っている。
「まぁお互い精神的に参っていたときよね。でも・・・・・・、絶対に許せないッ」
 和子はせせら笑うように頬を歪めた。
「二日目の夜だったわ。ホテルのレストランで早めの夕食を済ませ、興味本位で敷地内にある泡盛の古酒バーに行ってみたの。店に入ると、暗い照明の中で二人の男が飲んでたわ。そのうち、大阪でバンドをやってる、っていう二人の席に呼ばれて一緒に飲んだのよ。私も考えてみたら甘かったし不用心だったわ。あんな高級ホテルには変な人間は泊まっていない、って思い込んでたの。四十五度もある古酒のカクテルを半ば無理やり飲まされて、朦朧としたまま、プライベートビーチのはずれにある岩陰に連れていかれたのよ。それからのことはおぞましくて口にも出したくないわ。遠のいていく意識の中で、膣の中に入った砂がざらついて、火傷したように痛かったことだけは憶えてるわ。しばらく、力の抜けたからだを任せていると、『やばい。人が来るぞッ』っていう声が聞こえたの。それっきりよ・・・・・・。死んでも絶対に許さないッ」
 和子は毒でも吐き出すかのように、口を酷く歪めた。
 桐子は目に涙を溜めて、水面をじっと見つめている。本当に男は雄三だったのか、まだ半信半疑だった。
「そのあと警備員に発見されて、病院に運ばれたの。性器からは出血が酷く、しばらく痛みが取れなかったわ。数日入院したけど、からだの傷は癒えてもこころの傷はどうにもならなかった・・・・・・。入院中に警察にも届けたわ。でも、名前も分からない男は捜せない、ってうやむやにされたのよ」
 和子は唇を震わせながらも、か細い声で何とか話を続けた。
「ホテルに泊まってる男だって、警察に言わなかったの?」
「当然言ったわよ。でもその日は、男性の団体客が多い割には、二人連れの男性客はいなかったのよ。たぶん、四、五人で宿泊したグループの二人が私を襲ったのよ。間違いないわ。結局、ほとんどの男性客は翌日の早朝にはチェックアウトしていて、犯人もそれにまぎれてホテルから逃げ出したのよ。警察によると、証拠なんて何も残ってなかったらしいわ。まぁ、ちゃんとした捜査なんてやってないだろうけどね」
 和子は、三十年前の遠い沖縄に立ちつくしていた。
「宿泊者名簿は見せてもらえなかったの?」
「そんなこと、ホテルがやってくれるわけないでしょう。他の客に迷惑がかかる、って見せてくれなかったわ。地元の警察だって観光協会と癒着していて、捜査はすぐに打ち切りよ。挙句の果てには『狂言じゃないのか』だって。最悪よー。それから私は警察を恨み続けたわ。一連の事件は全部そう。私の恨みを昇華させたのよ。証拠が残っていない、っていい加減にあしらわれたんだから、その仕返しよ。私たちも証拠をまったく残してないでしょう。警察なんて・・・・・・。ケッ!」
 和子は恨みを吐き捨てた。
「桐子も知ってるでしょう。今に至っても、私が男を受け入れることができないのを。事件のあとアメリカに渡ってからも、レイプの後遺症は酷くなっていったわ。そのあとはもう奈落の底よ。どうしてもできなかった、男のからだを受け入れることだけは。からだが拒絶反応を起こすのよね。貴女もそうでしょう?」
 和子は、公園に響くカワセミの声を打ち消すかのように大きなため息を吐いた。
 桐子の顔がまた激しく歪んだ。
「違うわ。私は会社で『リョージ』を捜すために、その手段として好きでもない男を受け入れたわ。こころが歪んでいたからね。でも反対に、好きな人と愛を確かめ合おうとすると、どうしてもできないの。子どもをはらめないと思うと、からだがまったく開かなかった。私は、妊娠すると母子ともに死亡する危険がある、って医者から言われてるから・・・・・・。だから、そんなからだにした男が憎かった。とにかく、リョージという名の男が憎かったの」
 和子はそれを聞いてクックックッと笑った。
「そうよ、・・・・・・そうよね。よく分かるわ。でも子どものことだけじゃないはずよ。貴女を、いや、貴女と子どもを捨てて逃げた雄三のこともトラウマでしょう?そうに決まってるわ。二人とも男運がなかった、ってこと?違うよね。そんなことじゃ済まされないわ。私たち重大な犯罪の被害者だってことよ。女として許し難い犯罪のね」
「・・・・・・そうかもしれない」
 二人は放心したかのように、しばらく岸辺を見つめた。
 桐子は雄三のことを考えていた。事故のあと雄三が逃げたのは、ただの判断ミス、できごころ。そんな類のものじゃなかったのか・・・・・・。それから雄三はどんな生活をしてきたのだろう。修と新宿で飲んだあの日、雄三はどこに消えたのか。そして和子は雄三と会ったのだろうか。もし会っていないとすれば、どうしてレイプの犯人が雄三だと特定できたのだろうか。きっと和子の勘違いだ。雄三は優しいこころを持った人間だ、ということは私が一番よく知っている。和子の雄三に対する怨念は、交通事故を起こした山村了司の弟だということに起因しているはずだ。だから、自分の欲望を満たすために和子の性を弄んだレイプ犯を、お門違いの雄三に仕立て上げたのだ。殺す目標がなくなってしまった今、次の目標を無理やり雄三にせざるを得なかったのだ。もはや殺人の流れを止められない和子はかんぜんに狂っている。
 桐子は、和子を刺激しないように声を抑えてそっと訊いてみた。
「でも・・・・・・、どうしてレイプの犯人が雄三だと分かったの?」
 和子はじっと目を閉じた。雄三が犯人だと確信したときのことを思い出しているのだろうか。
「ちょうど半年前だったかなぁ。私の友人が『ユウヤ』のファンでね。ライブに行こうって誘われたの。私は、『ユウヤ』なんてまったく知らなかったから、興味ない、って断ったんだけどね。それじゃぁ、彼のブログだけでも見て、って言うから、何気なくブログを覗いたの。その中には驚くべきものがあったわ。雄三の若いころのスナップ写真が何枚も貼り付けてあったのよ。その一枚が沖縄のときのものだった・・・・・・。今の雄三とはまるで別人だったけど、その顔は、まさに私が記憶している沖縄の男だったわ」
 和子の表情は醜く歪んでいた。
「なぜ雄三なの?どうして雄三がそんなことを・・・・・・」桐子はこころの中で叫んでいた。
「貴女もブログを覗いてみれば。貴女と付き合ってたころの雄三がいるわよ」
 桐子はじっと宙を見つめている。そして、ついに雄三の犯罪を確信した。雄三の「誤った行為」が「残虐な行為」へと形を変えていった。 わずかに残っていた雄三への未練は、かんぜんに断ち切られてしまった。
「そんな男よッ。貴女が愛した雄三はッ」
 和子は急に語気を荒くした。
 しかし、アメリカに渡ったあとに訪れた悲惨な結末については、和子は一言も触れようとはしなかった。
 我に返った桐子は、からだを和子の方に向けた。
「お姉ちゃん、今からどうするの?雄三をどうするの?」
 和子は薄笑いを浮かべている。
「決まってるじゃない、そんなこと・・・・・・」
 桐子は今にも泣き出しそうな顔で、和子をじっと見た。
 雄三は憎い。でも、もうこれ以上罪は犯せない。お姉ちゃんのためにも、そして私のためにも・・・・・・。
「・・・・・・殺すの?」
 和子は無言で目を閉じた。
「今日は、その打ち合わせでわざわざここまで来たのよ」
 和子は目を大きく見開くと、口を手で押えながらケラケラと笑った。

 十九

 刑事部屋の電話がけたたましく鳴った。
「あぁ、稲垣か。で、どうだった」
「柳田さんの推理どおりです。名護南署に事件の記録が残っていました」
「その内容は?」
「その日、婦女暴行の訴えがありました。届け出たのは池川和子です」
 柳田はニヤリと口元を曲げた。
「犯人は?」
「それが・・・・・・、まったく手がかりがなく、ホテルの宿泊客か、ホテルの近辺に住む男かも分からなかったようです。それに被害者の供述が支離滅裂で、狂言でないかとも疑われていました」
「そうか・・・・・・。池川はよほど取り乱していたんだろうな」
「結局お宮入りです」
「分かった」柳田はくわえていた煙草を灰皿に強く押し付けた。
「やはり、犯人は雄三ですか?」
「たぶんな。とにかくそのときの状況を詳しく調べてくれ。言っとくけど、遊びで沖縄に行ってるんじゃないからな」
「はい、はい。承知してますよ」

「場所は渋谷パークホール。実行日はライブ当日よ」
 和子の声は落ち着いていた。気持ちは揺るがないのだろう。
「そんなの無理よ」
 桐子は怖いものでも見るかのように目を細めた。
「無理じゃないわ。わざわざ『ユウヤ』のファンクラブにまで入って、当日のスケジュールまで調べたし、ホールの見取図も手に入れたのよ」
「もうやめようよ、お姉ちゃん。今度こそ捕まるわ」
 和子は乱れた前髪の隙間から、じっと桐子を睨みつけている。
「貴女ッ、私の苦悩が分かるの?本当に分かってるの?」
 和子はぬるくなったコーヒーをひと口すすると、カップを乱暴にテーブルに置いた。
「私がどれだけ貴女の歪んだ精神を支えてきたか、そして、どんな気持ちで貴女の恨みを晴らしてきたか、分かってるの?」
「・・・・・・分かってる。でも」
「でもじゃないの。雄三は私のからだもこころもボロボロにして、堕胎を免れてようやくこの世に産まれてきた私の未来を修復できないほどに踏みにじったのよ。私が子どもを産んで、またその子が子どもを産んで、私がこの世を去ろうとするころにやっと曾孫ができて、ようやく汚れた血が綺麗になるはずだったのよ。私がこの世に産み出すはずだった何人もの人間の命を、虫けらのように踏みにじったのは、貴女が愛した雄三なのよ」
 桐子は下唇を強く噛んで、こころの痛みに顔を歪めている。
「私から産まれ出る子どもが何人いたと思う?曾孫まで含めると、そりゃぁもう沢山の子よ。それを全員殺したのよ、雄三は。死刑になって当然よ。それを私が執行してあげるの。どこが悪いの?フフフッー」
 和子は口をすぼめて気味悪く笑った。
 お姉ちゃんは私以上に精神を病んでいる。私の倍、いや数倍も病んでいる。今ここで説得するなんて無理だ。ここまできたら、「渋谷パークホール」まではお姉ちゃんの言うとおりにして、現場で何とかやめさせるしかない。どうにもならなければ、警察に捕まえてもらう。殺人を阻止するためにはもうそれしか方法がない。そして私も逮捕されるんだ・・・・・・。
 桐子はこころを決めた。
「じゃぁ、どうやって殺すの?」
 桐子は恐る恐る訊いた。
「ライブは、八月十七日。五時会場、六時開演よ。雄三は十一時に会場入りして、二時間リハーサルをするわ。それからいつものライブどおりに、一時過ぎから楽屋でファンクラブとの交流会。二時から軽い食事を済ませて、部屋で一人になって一時間ほど精神統一するはずよ。そのときがチャンスよ。私たちはファンとの交流会にまぎれて楽屋のそばにある化粧室に隠れるの。交流会が終わるころを見計らって楽屋から雄三をおびき出すのよ」
 桐子は怯えた顔で、言葉を選びながらまた訊いた。
「どんな方法で、どこにおびき出すの?」
 和子は、今さら何言ってるの、と言いたげな顔を桐子に向けた。
「貴女が楽屋に顔を出すと、あいつは必ず懐かしがって貴女を招き入れるわ。それからは対馬でやったことと同じよ。嘘八百を並べて裏の公園に呼びだしてよ。楽屋の奥にドアがあって、そこから公園に出ることができるわ」
「でも・・・・・・、公園じゃ人目につくわ」
 桐子は気を取り直して、計画の盲点を突こうとした。
「貴女、何にも知らないのね。裏手の公園はプライベートパークよ。ライブがない日だけ一般に公開されているわ。だからその日は、公園内には誰もいないの。それに広くはないけど、大きな木が生い茂っていて、管理事務所の裏は死角になってるわ。公園の外側を走ってる道までは、粗大ゴミのように大きな袋に入れて運べばいいのよ」
「管理人はいないの?」
「いるのは、公開日だけ。いい?私はちゃんと調べてるのよ。今日はライブがある日だから、あとで下見もするわ」
 和子は右頬で軽く笑った。
「呼び出したあとはどうするの?」
「何言ってるのッ、決まってるじゃない。また対馬のときのように、栄養剤とか興奮剤とか言って、貴女が睡眠薬を飲ませてよ。それから私が、背後からたっぷりと薬を吸わせてあげるわ。そのあとは、袋につめて待機させてる車に運び込むのよ。そして深夜に東京湾にでも捨てるわ。スクーバの錘をたくさん巻きつければ、絶対浮いてこないわよ。それで証拠も残らないってわけ。フフッ」
 和子は不敵な笑いを浮かべて、汗でベタつく髪を掻き上げた。
「車はどうするの?」
 桐子は今度の転勤が決まると、東京では使う必要のない車をすぐに手放したのだった。
「何柔なこと言ってるの。借りればいいじゃない」
「レンタカーなんかじゃ足がつくわ」
「だから貴女、今まで飼いならしてきたんでしょ?フフッ。西澤って男がいるじゃない。貴女にぞっこんだって噂よ。そいつから車を借りるか、運転手代りに手伝わせるか、どちらかにしてよ。今度は車がないと絶対に成功しないのよ。今から車買ったら足がつくでしょう」
「でも・・・・・・」桐子は困惑顔で下を向いた。
「でも、って、それ何よッ。私が貴女の壊れた神経を治すために、どんなことをしてきたと思ってるの?リョージを何人もやってきたのよッ。今度は貴女が主役になって実行する番でしょう。違う?それとも西澤は車を持ってない、って言うの?」
「持ってるわ。でも・・・・・・、オサムちゃんを巻き込むことなんてできないッ」
「貴女、昔から得意にしてる『いい子振り』っていうの、『可愛い子振り』っていうの、どっちでもいいけど、その裏技を、西澤にもたっぷりと使ってるんでしょう?西澤なんてどうにでもなるじゃない」
「そんなこと・・・・・・」桐子は自分を振り返った。
 営業職になったときからの「いい子振り」は、まだ続いているのか。自覚しなくても周りからはそう見えるのだ。でも、それは事実じゃない。
「修のお陰もあって、自分の病んだこころは治り始めたのよ。そして今は、もう昔の自分じゃない。もう『いい子振り』なんかしていないわ」桐子はそう言いたかったが、自分のために今まで戦ってきてくれた和子には、どうしても口にすることができなかった。
 最近時々思う。本命のリョージを殺したことよりも、ずっと陰で支えてくれた修の優しさの方が、病んだこころを快方に向かわせてくれるのかもしれない。修は私のこころの支え。そんな修を犯罪に巻き込むなんて・・・・・・。もうこれ以上醜悪な女にはなりたくない。
「そんなこと?何よそれッ」和子は冷たく言い放った。
 桐子は顔をふせて唇を震わせた。
「貴女まさか、西澤のこと好きになったんじゃないだろうね?私、調べたんだけど、あの人雄三の親友らしいわね。まだ会ったことはないけど、同じ穴のムジナかもよ。ひょっとして、沖縄のもう一人の男はあいつだったりしてね」
 和子は、クックックッと気味悪く笑った。
「やめてッ、あの人はそんな人じゃないわ」
 波のように、何度も何度も和子の怨念が押し寄せて、桐子の神経を逆なでした。
 西澤には妻がいない。十年前にガンで亡くしたのだ。その後、二人の子どもを西澤の母親が育てている。桐子は今まで西澤を異性として意識したことはなかった。しかしこのところ、西澤の優しさが妙にこころを揺らしている。
「とにかく、貴女がそのへんのこと手配してよッ。支社長をやったときなんて、私、その前日は大変だったんだからね。『明日、高尾山でやるから』なんて、私が家で山瀬と飲んでるときに、公衆電話から連絡してきたでしょう。山瀬がトイレに立ってたから助かったけど。本当に無茶するんだから・・・・・・。あの夜、山瀬が家に泊まったのよ。翌朝、家を出るに出れなくて、パンを買いにいく、って嘘をついて、普段着のままで東京まで来たんだからね。私が家を出たあと、山瀬はすぐに京都に行ってくれたからよかったようなものだけど・・・・・・。貴女はディズニーランド。私は高尾登山。いい気なもんよねー。それにスクーバのときも、バルブを閉めたのは結局私。テントにガソリンを撒いたのも私じゃないッ。貴女はただお膳立てをするだけ。直接手を下すのはすべて私ッ私ッ私ッ。そうよッ、私ばかりじゃない。私は大きなリスクを抱えてやってきたのよッ。それもすべて貴女のために。それくらい分かってよッ」
 和子は般若のような顔をして、長い髪をかき上げた。
「でも、貴女は弱気だから私が手を下す、って言ったのはお姉ちゃんじゃない」
 桐子は唇を震わせた。
「何言ってんのよッ。口答えするんじゃないわよッ」
「・・・・・・ごめんなさい、分かったわ。何とかする」桐子は半ば投げやりに答えた。
「実行日は八月十七日。ちょうど夏季休暇中よ。いいわね、手配ができたら早く連絡ちょうだいよ」
 今度はその表情を一転させて、和子は能面のような顔で静かに笑った。

 二十

 八月のあたまにしては、気温が平年より低く爽やかな日だった。桐子は信濃町駅の改札口で修を待った。
 プロ野球のチケットがたまたま手に入った、と言って修を呼び出したのだ。とにかく無性に修の顔が見たかった。
 決行日まで、あと二週間。桐子は悶々とした日々を過ごしていた。当日、現場で和子を説得してやめさせよう、と思ってはいるが、果たしてそんなことができるだろうか。修は一緒に和子を説得してくれるだろうか。今の和子を説得するのは並大抵のことではない、とは言っても、自分も同じ道を歩いてきたのだ。自分も捕まることを覚悟して、警察にすべてを話した方が・・・・・・。桐子は駅向こうの濃い緑を見ながら大きなため息を吐いた。
 誰か和子のこころの襞に分け入ることのできる人間はいないのだろうか・・・・・・・。

「おう、待ったか?」
 白いチノパンにラルフローレンの紺のポロシャツを着た修が、目尻を軽く指で押えながら笑っていた。手には大きなコンビニの袋をぶら下げている。
 桐子は妙に懐かしい感情を覚えた。修の顔を見たのは新宿の飲み屋以来だ。胸がキュンと鳴る、とはこのことだろうか。
「待ってないよ。今来たところ」
 桐子は髪をポニーテールにして、ヤンキースの野球帽を被っている。ベージュのミニをはき、上着は麻のジャケットだ。
体育会の女子大生のような格好に、修は面食らった。とても歳相応ではない。
「なんやッ?その恰好は。よう分からんけど、女の応援団。いや、ユニフォームに着替える前のチアガールや。いいかげんにしときやッ」
 桐子は待ってましたとばかりに、ニヤリと笑って敬礼を返した。
「そんなにスポーツ観戦向きの恰好かなぁ」
「うへっ」修はしかめた顔を両手で覆った。
「まぁ、どうだっていいじゃない」
 桐子は、修の腕に抱きついたまま駅前の歩道橋に向かった。じっと下を向いたままだ。
 遠い昔の記憶が甦る。相手は雄三から数えて三人目の男だった。高校の同級生で、早稲田に進学したあと、東京で一流会社に就職した。二十六を迎えた秋、大阪に帰省した彼と結ばれた。でも性行為ができたのだから、今考えるとお互い遊びだったのだろう。子どもを産みたい、と思った二人目の男とは性行為ができなかった。雄三との思い出が邪魔をしたのではない。子どもをはらめないという罪悪感で気持ちが萎えて、その男を受け入れることができなかったのだ。
三人目の男を知ってから、桐子は彼に会うために時折上京したが、彼はじきに社内の若い女と結婚した。それでも、なぜか忘れられずに何度か上京した。そのとき、夜を一緒に過ごせない彼は、いつも「東京六大学野球」に連れていってくれた。結局桐子にとって、東京の思い出は「神宮球場」だけだ。今でも東京で知っているところといえば、飲み屋以外には「神宮球場」しかなかった。
 修に相談したいのか、会いたかったのか、自分でも分からない。ただ、昼間に修と気がねなく会える場所といえば「神宮球場」。それしか思い浮かばなかった。

 歩道橋を渡ると、神宮球場への通用路がある。その両側にあるレストランの間を抜け、外苑道路を横切ると、懐かしい絵画館の前に出た。その前の広場ではジョギングをする人が行き交い、サッカーボールを蹴り合う父子の姿があった。そして辺りのベンチには、ハンバーガーを頬張る人がいたり、文庫本を読んでいる人がいたり、みんな思い思いの休日を楽しんでいる。桐子の目には薄い膜が張るように涙が滲んだ。
 あぁ、これが東京の休日なのか。爽やかな風が、いくぶん生活レベルの高そうな人たちの間を通り抜けていく。桐子は改めて東京の休日を肌で感じた。昔は、都会的なその男に合わせるのに一生懸命だった。周りの景色にはまったく目がいかなかった。
 修は何も言わずに、ただ球場を目指している。一歩前を行く修と昔の男がオーバーラップした。桐子はニヤリと頬を緩め、昔の恋を呑みくだした。
 絵画館前から左に折れ、都民に開放されている「日の丸球場」の脇を抜けると、すぐに神宮球場の外野側の正門が見えた。それが見えても修は何も語らなかった。
 修は新宿の夜のことを根に持っているのか、と少し訝ったのだが、いかにも楽しそうに顔を綻ばせている。桐子は今日も修のおおらかさに身をゆだねた。
 チケット売り場の前に着くと、修はやっと口を開いた。
「こっから球場に入るとか?」
「ううん。反対側にも入り口があるから、そこから内野に入ろうよ」
 修は白い歯を見せて素敵な笑顔を作った。
「ホームゲームやから、ヤクルト側に入らな盛り上がらんぞ」
「大丈夫。ヤクルト側のチケットだよ」
 桐子はペロッと舌を出して、修の腕を更にきつくつかんだ。
 球場内に入ると、周りはコンクリートだらけだ。薄明かりが地下壕のような雰囲気を醸し出している。少し歩くと、上方から光が射すところに出た。その光に引き寄せられるかのように上に繋がる階段を上った。すると、「ワアァァー」という歓声が耳に響いた。場内放送がちょうど選手の紹介をしているところだった。選手の名前がアナウンスされる度に、地鳴りのように歓声が沸き起こる。コンクリートの床が縦揺れするようだ。
 階段のトンネルを抜けると、天空に着いたかのように白い光が二人の全身を舐めつくした。
「最高やなぁ。臨場感や!やっぱりこれや、これッ」
 修は、至福のときを迎えたかのように激しく破顔した。
「いいでしょう。オサムちゃん」
「・・・・・・うん」修は目を大きく見開いてゆっくりとうなずいた。
「オサムちゃん。席はあの辺りよ」
 修は一回表の攻防を観ながら、そろそろと階段を下りていく。桐子は指定席まで修の手を引いていった。その手の温もりが、頬が熱くなるほど嬉しかった。
 席はバックネット裏の中段にあった。
「おう、ええとこやないけ」
「そうでしょう」
 桐子は、自分で買ったなどとはおくびにも出さない。
「どこで手に入れたとか?」
「お客さんからもらったの」
 桐子は下を向いて、またペロッとピンクの舌を出した。左隣に座った修は、両腕を伸ばして深呼吸をしている。
「ええ客やなぁ。大事にしいや」
 桐子が野球帽のひさしをわずかに上げると、爽やかな風が客席を吹き抜けた。

 試合は四回の裏まで進んだが、両チームとも単打は出るものの長打がなく未だ無得点。修はその攻防に、右手を突き上げたり、立ち上がったり、一喜一憂している。
 桐子は、そんな修の手をきつく握りしめて耳元で囁いた。
「オサムちゃん、うしろの人が迷惑よ。立っちゃダメッ」
 我に返った修は、うしろを向いて「すんまへん」と頭を下げた。
 桐子は修の手を握ったままだ。そーっと左肩を修の方に寄せた。修の手がピクリと震えたような気がした。
 試合は五回の裏の攻撃に入った。桐子は修の手を握ったまま目を閉じた。
「この前はごめんね」観客の声援にまぎれて桐子の声が聞き取りにくい。
「何やッ」
 修は聞えなかったかのように、つっけんどんに訊き返した。
「だから・・・・・・」
 修は無言でピッチャーの方を見ながら、強く桐子の手を握り返した。
「オサムちゃん。ユウヤのライブ観にいくの?」
「当然やろ」修の声は力強く響いた。
「車で?」桐子は敢えて訊いてみた。
「そうや、車で行く」
「じゃぁ・・・・・・、乗せてって」桐子は目を閉じたままだ。
「だめや。一人で行く」
 修はマウンドのピッチャーをじっと見ている。
 桐子は黙って小さくうなずいた。
「私、ライブのあと警察に行くかも・・・・・・」
「ウワアァァァー」
 三番の牧野がセンターオーバーの二塁打を放った。客席からは渦を巻くように声援が沸き起こる。場内アナウンスがまったく聞こえないほどだ。どこから放たれたのか、頭の上を紙吹雪が舞っていた。
 修は何も聞こえていないのか、立ち上がって拍手を送っている。
 私が捕まれば、何年刑務所に入るのだろう。いや、ひょっとしたら・・・・・・、死刑かも。たぶんもう会えない。修とはもう会えない。桐子は、色を失くした唇を強く噛んだ。
「桐子、やっとやぞ、やっと長打やッ」修は満面の笑みを浮かべて、何度も拳を突き上げた。
「オサムちゃん、よかったねぇー」
 桐子もつられて拍手を送った。
 しばらくすると、桐子ははしゃぐ修の目をじっと見つめた。
「オサムちゃん。今の私の話、聞いてた?」
 桐子は声援にかき消されないように少し大きな声を出した。
「うっ?聞いた、聞いた」
 修は正面を向いたままだ。そして、まぶしそうに目を細めると大きくうなずいた。
 本当に聞えたのだろうか、自分の思いが。究極の決心の言葉が・・・・・・。
 しっかり聞いているのに、その話題を避けているのだろうか。それとも自分の気持ちを分かってくれているからこそ、黙って受け入れたのだろうか。桐子は敢えて問い質そうとはしなかった。ただ、修のすべてを自分のからだに取り込むように、いつの間にか彼の右腕にしっかりとしがみついていた。
 拍手がおさまり、やっと場内アナウンスを聞きとることができた。「四番、ライト秋元。背番号七」再び嵐のような拍手が沸き起こった。
 桐子は野球帽を持って立ち上がり、全身を使って大きく手を振った。
「秋元!かっ飛ばせ~」
 気持ちに踏ん切りがついたのか、桐子はヤクルトファンでもないのに、涙をいっぱい溜めて秋元に声援を送っている。
 秋元が素振りを二、三度繰り返し、軽くヘルメットに手を触れた。そして一瞬振り返り、こちらを見たような気がした。桐子には二人を祝福してくれているとしか思えなかった。
 ボールカウントは、ツー・スリー。二人はバッターボックスに立つ秋元にじっと目をやった。お互いの手はしっかりと繋がれている。
「カキ―ン」紺碧の空に爽快な音が響き渡った。
「ウワワアアァァァ―」
 球場はまた大きな歓声に包まれた。四番の秋元が、外野の右翼席上段にライナーのホームランを叩き込んだのだ。
「オサムちゃんー。わたし、わたしねぇ。オサムちゃんのこと、あい・・・・・・」その先の言葉は歓喜の渦に呑み込まれて消えていった。
 横にいる修を見ると、頬が上気して赤く染まっている。
 秋元のホームランに興奮したのか、桐子の告白に戸惑いを隠せなかったのか、修の本心はまったく分からなかった。
 そのあと修はクシャクシャの顔で、ペットボトルのミネラルウォーターを浴びるように飲み続けた。

21-23

二十一

 八月に入ると、多忙を極めた七月のキャンペーン月が嘘だったかのように、支社は閑散としていた。
 智明が宮益坂の支社に修を呼んだのだ。
「高尾山事件」のとき事情聴取の控室として使われた部屋に、二人は人目を憚るように入っていった。
「西澤さん、七月お疲れさまでした。いい業績でしたね。前年比二割増しですよ」
 智明は無理に笑顔を繕っている。
「そげなこと、どうでもよかやろ。今日俺を呼んだとは、そげなこととちゃうやろ」
 修は腕を組んで、ゆっくりとパイプ椅子に反り返った。
「そのとおりです・・・・・・」
 智明の顔から急に笑みが消えた。
「実は・・・・・・、忙しさにかまけて言うのが遅くなりましたが、池川和子って知ってますか?」
「あぁ、知っとる」まるで興味がないように、修は目を逸らして鼻を弄った。
「成実さんのお姉さんです」
「会うたことなかばってん、姉がおることは知っとる」
「僕は昔組合で一緒だったんで、よく知ってるんですよ」
「それがどげんしたとか?俺には関係なか」
 からだを前に折った智明は、上目遣いに修を見た。
「支社長を殺したのは、成実さんと池川さんです。そして間違いなくまた人が殺されます」
 修はそれを聞いても眉ひとつ動かさなかった。じっと腕を組んだまま、身じろぎせずに目をつむっている。
 沈黙がしばらく続いたあと、我慢できなくなった智明は、和子から聞いた二人の生い立ちや過去の事件のこと、そして和子が誰かを殺そうとしていることまで、こと細かに修に話をした。自分一人で抱え込むにはあまりにも重すぎて、桐子と親しい修に相談しようとしたのだった。
 修の額には大粒の汗が浮かんでいる。でもまだ口を開こうとしない。
「何とか言ってくださいよッ、西澤さん」
 修はようやく立ち上がり、ゆっくりと窓際に向かい外を見た。
「過去に起こった事件はすべて事故ばい。そして、お前が聞いたことはすべて狂言や。支社長の死も例外やなか」
「そ、そんなことないでしょう」修の言葉に智明は酷く狼狽した。そんな言葉が返ってくるとは思ってもいなかった。
 修は背を向けたままじっとしている。
「俺も桐子から聞いとる。それは姉の妄想や。お姉さんはなぁ、こころを病んどるんや。お前もそれが分かったやろ」
 智明はきつく拳を握った。少しからだが震えている。
「でも・・・・・・」
「デモもクソもなか。自分の目で見とらんことは言わんほうがよか」
「しかし・・・・・・」智明は奥歯を噛みしめた。
「そやから、姉は狂っとる言うとんや。夢と現実がごちゃ混ぜになっとる。なんべんも言わせるなッ」
 智明は拳を握ったままだ。
「このまま放っとくんですか?」
 修の背中が少し揺れた。
「あのなぁ。俺たちは医者やなか。ましてやこころを治せる外科医やなか。お前が彼女たちの胸ををメスで開いてこころを治せるんやったら、治してから密告せぇ。そやなかったら、彼女たちを見守ることや。今は快方に向かっとる。よけいなことはすなッ」
「でも、これ以上被害者が・・・・・・」智明は顔を歪めて立ち上がった。
「大丈夫や。もしそげなことになるようなら、俺が責任ばもって阻止するけん心配すなッ。そげなこと心配するよかお前は仕事や。ええなッ」
「うっ」智明は、予想外の修の発言に落胆の色を隠せなかった。
 窓からは夕闇迫る道玄坂が見渡せる。今日も変わりなくネオンを求める人の波が押し寄せていた。

 稲垣が沖縄から戻り、事件の内容を柳田に報告した。しかしずいぶん昔のことだ。詳細に確認できたわけではなかった。
 名護南署の古参の刑事によると、当時入院中の池川から事件の経緯を確認した、ということだった。

 池川は精神的に錯乱した状態が続いていて、二人の男に襲われたことしか理解していな
い様子だった。よって、二人がいくつくらいの年齢だったのか、顔つきにどんな特徴があったのかさえ憶えていなかった。ただ、妙なことをうわ言のように繰り返していた。
「因果は巡る」と・・・・・・。
 何を言いたかったのか、自分には検討がつかなかった。
 二日ほどで退院する予定だったが、錯乱状態が続いたため、その後一週間ほど退院を延ばした。しかし、その間も手がかりはなく、結局捜査らしいことはできなかった。
 退院後、池川はしばらく沖縄に残り独りで犯人の消息を追ったようだが、残念ながら何も見つけることはできなかった。
 しかし、それから三カ月近く経ったころ、アメリカから手紙が届いた。
「今、私はアメリカのフィラデルフィアにいます。例の事件で妊娠しました。どうしても産むことはできません。病院でかかる費用の請求先を教えてください」と・・・・・・。
 連絡先が書かれていなかったため、回答をせずにそのまま現在に至っている。

「以上が、名護南署の刑事の話です」
「ふ~ん。そうか・・・・・・」柳田は苦虫を噛みつぶした。
「でも池川は子どもが欲しかったんじゃないですか、何で産まなかったんでしょう」
 稲垣が少し首をかしげた。
「何言ってるのよッ、単細胞ね。相手が誰だか分からないのよ。そんな子、産めるわけないでしょう。それも遠いアメリカで」
 チエが呆れ顔で横から口を挿んだ。
「レイプされただけじゃなく、妊娠までしていたのか・・・・・・」
 柳田は髭が残った顎を撫でながら、ソファーにドッカリと腰を落とした。
「相手が雄三だと知らなかったわけですから、皮肉ですよね」
 チエは軽く唇を噛んだ。
「知らなくてよかったよ。知っていたとしたら、あまりにも残酷だ・・・・・・。池川が惨め過ぎる」
 今回の事件の主犯は池川だ、と確信しているものの、遠い昔の事件の結末に柳田は同情を隠せなかった。疲れと憐れみが同時に柳田の全身を襲った。
 しばらくすると、稲垣が遠慮がちに口を開いた。
「でも柳田さん、これだけ物的証拠のない事件も珍しいですよね」
 稲垣が言うように、あまりにも証拠がないため、捜査は暗礁に乗り上げていた。捜査本部は、警視庁の応援を要請する直前の状況まできている。そんな中柳田は、星を挙げるのは時間の問題だ、と言って、意固地な態度でその応援を拒み続けていた。
「もうこうなったら、現行犯で確保するしかありませんね。池川はすでにライブのチケットを購入済です。それも二枚」
 チエの言葉に、柳田は腕を組んで目を閉じた。
「そうなるんだろうな。八月十七日、晴れるといいんだが・・・・・・」

 二十二

 八月十一日。東洋生命は明日から夏季休暇の七連休に入る。
 和子はその日の深夜、赤いボルドーワインを口にしながら、ライブに着ていくジャケットを選んでいた。大きなテーブルには、赤、青、緑など、十着ほどのサマージャケットが無造作に並べられている。和子は真っ赤なジャケットを手に取って、その生地の肌触りを確認した。
 テーブルの隅には、クロロフォルムが入った化粧水の瓶と、メンタルクリニックからもらった睡眠薬が準備されていた。重いスクーバの錘は、七つ繋がれて冷蔵庫の横に置かれている。
「やっぱりこのジャケットにしよう。どう?似合うでしょう、トモちゃん」
 和子はいるわけのない智明に話しかけた。
「トモちゃんとの子どもだったら、私産んでたかも・・・・・・。でも、トモちゃんはそのとき中学生だったのか。まだお尻が青い童貞くんだったんだよねぇー。フフフッ。トモちゃん、ライブ会場に来ちゃだめよ。私トモちゃんも殺しちゃうかもしれないから。でも、もう会えないね。二度と会えないね。いい人見つけてよ、トモちゃん」
 すると携帯が鳴った。公衆電話からだ。
「会場の正面入口に午後一時。準備は万端よ」
 桐子はそれだけ言って電話を切った。
 渋谷パークホールは、東急東横線の代官山の駅から歩いて十分ほどのところにある。
 いよいよだ。顔が熱を帯びるのが分かる。和子は一気にワインを飲み干した。
 口の両端から鮮烈な赤がこぼれ落ちた。レモン色のパジャマの襟がみるみる赤く染まった。

 智明は高円寺の寮で、一人白ワインを傾けていた。右手には小ぶりの乾燥イチジクが握られている。
 ライブまであと六日。和子はきっと「ユウヤ」という男を殺すはずだ。俺には分かる。桐子も一緒だろう。やはり二人とも狂っているのか。
 西澤は、もし何か起こったら俺が阻止する、と言っていた。西澤はすべて把握しているのだろう。そうじゃなければ、あんなふうに断言できるはずがない。自分はどうすればいいんだ・・・・・・。
 西澤が言うように、もう事件に首を突っ込まない方がいいのか。しかし・・・・・・、このまま和子を放ってはおけない。
 智明は自問した。
「殺人事件が起きようとしているから、こんなに和子のことが気になるのか。いや、もしかしたら和子という女に惹かれてしまったのだろうか。西澤は、和子は狂っている、と言っていた。俺がそんな女に惹かれるはずがない。でも・・・・・・、本当は正常で、今でも狂言を続けているとしたら、その執念はあまりにも凄まじい。俺などが計り知れないほどの怨念を抱えているはずだ。そんなもう一つの顔に、俺は惹かれたのか。いや、そんなことはもうどうでもいい。どちらにしても何とかしなければ。俺の取るべき行動は?考えても考えても、結論は出ない。とにかく会場に行くことだ。行って真実を見極めることだ。今はそれしか頭に浮かばない」
 智明は、宙を見つめたまま無造作に乾燥イチジクを頬張った。
 無数の種が弾けて、口の中に濃厚な甘みが広がった。

「手配はすべて整いました」
 刑事部屋の柱時計はもう夜の十時を指していた。
「よしッ。会場のキャパは千五百人だ。とにかく客には迷惑をかけないようにな。当日は、すべての客が会場に入ってから捜査員を配置するんだぞ」
 柳田の目は血走っている。
「はい、承知しました」
 稲垣も疲れた表情を隠せないでいる。
「五時開場、六時開演だ。終演は早くとも八時。俺たち三人は午後早めに会場入りだ」
 柳田はじっと遠くを見たあと、ふと気づいたかのように煙草に火をつけた。
「でも、本当に事件は起きるんでしょうか?それこそ沢山の捜査員を手配して、空振りなんかで終わったら・・・・・・、いよいよ本庁が乗り込んできますよ」
 チエは少し頬を膨らませて軽いため息を吐いた。
「だから、今回の件はごく少数の人間しか知らないよ。捜査員も俺たち以外には三人だけだ。それも成実、池川、そして雄三の尾行についていた三人だよ」
「えっー、そんなに少ないんですか?」
 チエは大事件だと認識しているのに、身内だけで事件の山に関わることに落胆した。
「チエちゃん。そんなこと言ったって、犯行は行われないかもしれないんだよ。大勢の捜査員を手配して、もしそうなったら、それこそ大失態だよ」
 稲垣はまだ経験の浅いチエに先輩面を向けた。
「今回やつはへたな小細工などしない。いや、できないはずだ。そして成実のためにライブだけは成功させてやりたいと思っているに違いない。問題はそれからだ。ライブが終わると必ず楽屋に顔を出す。そこで強硬突破するつもりだ。その瞬間に逮捕するんだ。いいか、やつらから絶対に目を離すな。現行犯じゃないと意味がないからな。ただ、万一ライブに支障があってもいけないし、客に迷惑がかかってもいけない。そのへんは十分考えて行動してくれ」
 柳田は遠くに向けて煙草の煙を飛ばした。
「とってもデリケートな逮捕なんですね」
 チエは大きな目をさらに大きくして首をかしげた。
「そうだよ。スタッフジャンパーも六着用意してあるよ。音楽事務所に内緒で手を回したんだ。今回はスタッフになりきるんだよ」
 稲垣がニヤリと笑った。
 チエは逮捕の方法に不満があるわけではない。女として人生の先輩である桐子たちに不安を覚えていたのだ。自分でも、最近かすかに母性を実感することがある。若いころはそんなことはなかった。泣く子を見ると、鬱陶しくさえ感じた。でも今は違う。路往くベビーカーを、いつの間にか視線が追っている。泣き叫ぶ赤ちゃんを見ると、乳房が疼くような思いにとらわれる。普段の生活のなかで、目には見えない漠然とした母性を感じるのだ。すでにそんな母性を湛えた桐子たちこころに潜む狂気。一人の女として、自分では理解不能な桐子たちの狂気に、どうしようもない不安を覚えていたのだ。三十年もの間胎動を続けていた狂気が、最後の殺人を前にして、今まさに羊膜を破ろうとしている。そんな狂気を、たった六人で封じ込めることができるのだろうか・・・・・・。
 チエはその不安を払拭するために、無理に大きな声を出した。
「喉が渇いちゃったね。グイッと一杯いきましょうよ。フフッー」
「そ、そうですね。柳田さん」
 稲垣は柳田を気にしながら、いくぶん赤みの差したチエの顔を、宇宙人でも見るかのような目でまじまじと見た。
「・・・・・・じゃぁー、行くか」
 柳田は曖昧な笑いを浮かべ、慌てて煙草を消した。

 修は小さなテーブルで手紙をしたためていた。ゴミ箱にはいくつもの丸まった便せんが溜まっている。何度も書き直したのだろう。テーブルの隅には、コンビニで買ってきたのか、冷酒とサキイカが置いてある。床にはコンビニの袋が無造作に捨てられ、空になった冷酒の瓶が二本転がっていた。
「やっと終わったばい」修は両手を上に伸ばして、大きなため息を吐いた。もう時計は夜中の一時を指している。
 できあがった一枚の手紙を、無地の封筒に入れて丁寧に封をした。
 ゆっくり立ち上がると、封筒を机の引き出しにしまい、冷蔵庫のドアに貼ってあるカレンダーをじっと見た。
「十六日には投函せんとなぁ」そうつぶやいて、赤いマーカーで十六に印をつけた。
 またテーブルにつくと、グラスに酒を注いで一気に半分ほど空けた。
「ふうー、ちと疲れたわ。慣れんことしたなぁ。明日は子どもたちに、こっちで有名なバームクーヘンでも送らんといかんなぁ。この夏休みは名古屋に帰れんからな・・・・・・」
 修は渋い顔をして残りの酒を呷った。
 しばらくすると立ち上がり、背広のポケットから名刺入れを引き抜いた。足が少しもつれている。そして死んだ妻の写真を取り出した。角がつぶれ、少しセピア色に染まりかかっている。
「万砂子ー、もうそろそろ人を好きになってもええんかなぁ」
 修はじっと万砂子の笑顔を見つめながら、ゆっくりと酒をグラスに注いだ。
「ふうぅー、すまん。俺なぁ、もしかしたらもう好きになったのかもしれん。下の智花が高校を出るまでは頑張りたかった。でも・・・・・・、もう時間がないんや。俺が何とかせんと」
 すると、電灯がチカチカし始め天井がわずかに揺れた。そして、どこからともなく弱々しい声が聞こえてきた。
『ええやないの、好きに生きたら。あんたの人生やもん』
「でも、まだ子どもが・・・・・・」
『ええよ。子どもは親のいいとこだけ取って産まれてきたんよ。親より強いもんよ。あんたがおらんでも、ちゃーんと育ってくれるわ。べたべたして子どもの人生邪魔したらあかん。どうせあんたの思うとおりにはならへんわ』
 徐々にその声がしっかりとしてきた。
「なら・・・・・・、お前は?」
『私はええよう。こころもからだもあんたの世界から消えてしもたんよ。人間死んだらすべて消え去るんよ。あんたの思い、優しさを、誰かに注いであげんともったいないわぁ。そやろ?』
「でも家族に・・・・・・、め、迷惑をかけるかもしれん」
 窓の手前に万砂子の姿がおぼろげに見えた。
『ええやない、ちっとの迷惑くらい。あんたよう頑張ってきたんやもん。自分の思うたこと貫いたらええやん。そうしぃ。ふっふっふっー。どうせあんた、決めたらやり通すやろ?そうしぃ。そうしたらええやん、ねっ。それじゃぁ、私そろそろ行くわ』
「ちっと待ちいやッ。万砂子!」
『ん?じゃぁ、消える前に一つだけ。ええ?』
 万砂子は振り向いた。
「よかよ、なんや?」
『あんた、何でそこまで思いつめるん?』
「・・・・・・自分でもよう分からんけど。このままやと、あ、あいつは、一生失い続ける女のままで終わるんや。子ども、仲間、思い出。すべて失くして、一人で死んでいくんや。そやから、今なんとかしたいんや。俺が止めんと、あいつの人生は終わってしまうんや」
『ふ~ん、殊勝なことやねぇ。まぁええわ、そうしたり。ふふっ、なら行くわね』
「万砂子、待たんかッ。待たんかッ。万砂子―ッ」
 万砂子は霧がひくように、窓の外に消えようとしていた。
 修はすでに冷酒四本を空けている。ゆっくりと消えつつある万砂子に向かって、何度もその名を叫び続けた。
 すべてが消え去り重い静寂が戻ると、修は万砂子の言葉をゆっくりと反芻した。
「あんたの人生はあんたが決めたら。か・・・・・・」
 修は万砂子の写真を裏にしてテーブルに置いた。そして自分もゆっくりと顔をふせた。
 神宮球場で握った桐子の手の温もりをかすかに思い出していた。修は目を閉じたまま固く拳を握りしめた。

二十三

 八月十七日。空は青く燃えていた。風もなく、地上に降り注ぐ陽射しは、ジリジリと大地を焦がしている。
 刑事部屋の時計は十一時十五分を差していた。三人は周りに気づかれないように、東横線の渋谷駅で待ち合わせをしている。柳田はすでに署をあとにしていた。稲垣とチエは、聞き込みいく振りをして急いで八王子駅に向かった。

「何だこの暑さはッ」柳田は、首に巻いたフェイスタオルで顔の汗を何度も拭った。周りから見ると背広にタオルは滑稽だ。しかし蒸し風呂のような暑さに、とても恰好などつけていられない。柳田は上着を脱いで腕時計に目をやった。
「まだ待ち合わせに四十分ほどあるな」
 柳田は、地下にあるファーストフードの店に下りていった。
 アイスコーヒーを手に喫煙ルームに入ると、席は客でほぼ満杯だった。ようやく一つだけ空いている席を見つけて、その場に倒れるように座り込んだ。
 柳田は煙草をくわえると、腕を組んでじっと考えてみた。
 本当に、成実と池川は強行に及ぶのだろうか。成実を尾行した刑事によると、そのこころの動きまでは読めないが、成実は、昔からの友人だった西澤に異性を感じ始めているらしい。池川についても、張りついていた刑事が確認したところによると、どうも山瀬と密会しているようだ。こんな二人が結束などできるのだろうか。山村を殺害するまで、その怨念を何とか維持し続けていた二人が、山村の死後、また力を合わせることができるのだろうか。池川の場合は分かる、雄三に対して狂気を燃やしていることが・・・・・・。しかし成実は違うはずだ。雄三は昔愛した男だ。それに西澤は彼の親友だ。今、西澤にこころを動かしている成実に、西澤の親友を殺せるわけがない。二人は仲間割れするのではないか・・・・・・。
「成実のこころが読めない」柳田は低い声でつぶやいた。
「現場を見るしかない・・・・・・。とにかく何かあれば即座に確保することだ」
 柳田は血走った目で、すでに三十分を経過した時計を睨んだ。

 朝刊の社会面の下部に二段抜きの広告が出ている。
「本日初の東京公演!『ユウヤ』サマーライブ。チケット完売御礼!」
「とうとうきたか、この日が」智明は、新聞を広げたまま苦いコーヒーに顔をしかめた。
 昨夜は和子の顔が頭から離れなかった。何度も、何度も、悪天候で新幹線が止まることを祈った。飛行機で来ることはまったく頭にない。必ず凶器を所持していると思ったからだ。たぶんナイフのようなものだろう。そんな凶器を所持して飛行機には乗れない。
 このまま何も起こらないと、和子はすぐに逮捕されることはないだろう。でも事件が起こってからではもう取り返しがつかない。やはり俺は、この部屋でじっとときが過ぎるのを待つことなどできない。それに、西澤一人では荷が重すぎる。和子のことは俺が何とかしなければ。いや、和子のことだからこそ、俺が阻止するべきだ。それが男としての義務だ。もう自分の立場などどうなっても構わない。
 しかし、昨日から何度和子の携帯に電話を入れても電源が切られている。とにかく会場に足を運ぶしかない。
 極度に緊張しているのか、口が渇いて仕方がない。ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干すと、智明はいつ買ったのか分からない煙草に火をつけた。久しぶりに深く吸いこんで、乳白色の煙を勢いよく吐き出した。
「よしッ、とにかく開場前にパークホールに行くんだ。そして入口でじっと待って和子をつかまえよう。たぶん和子が首謀者だ。だから、彼女さえつかまえることができればいい。警察沙汰になる前に、まず彼女を止めるんだ。そして会場に入れないことだ。和子のことは、殴ってでも俺の手で何とかする」
 智明は強く自分に言い聞かせた。

 昨夜から一睡もできなかった。
 修は赤い目を擦りながらクーラーを止めた。窓を開けると、温風のような「むっー」とした空気が部屋に流れ込んできた。からだが宙に浮いているような感覚だ。
 冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取り出し、ジョッキになみなみと注いだ。何か食べなければ、と思うのだが食欲はまったくない。浴びるようにアイスコーヒーを飲み干した。
 しばらくすると、冷蔵庫のカレンダーをじっと見つめた。夏季休暇に入ってすでに六日が過ぎていた。
「間違いない。今日は八月十七日だ。昨日、手紙も投函した」
 修は大きなため息を吐いた。
 しかし、なんもしてやれんかったなぁ、万砂子。仕事にかまけて、病院に行けとも言うてやれんかった。お前を見殺しにしたんは、間違いなく俺やろう。なんのことはない、俺も雄三と一緒やないか。だけん、もうこれ以上女を見捨てることはでけん。もうこれ以上・・・・・・大切な人を見殺しにすることはでけんぞ、万砂子―。
 桐子はなぁ、ばあさんが入院したときに、毎日、毎日、娘たちのために弁当を届けてくれたんや。それも、四カ月もの間毎日や。結花が高校受験の前で、智花が小三のときやった。子どもらは毎日サンタクロースが来てるみたい言うてなぁ。そらぁ喜んどった。「見つかると噂になるから」そう言うて、桐子は朝刊の配達より早ようにポストに放り込んでいきよった。俺と同じ仕事をしとって忙しかったろうになぁ。万砂子は大したことないて思うかもしれんけど、相当しんどかったと思うわ。桐子は精神の病に侵されて久しかったからなぁ。それだけやのうて、他にも色々助けてもろた。
 智花の運動会の日やった。たまたまばあさんが体調を悪うしてな。ほやけど、俺はどうしても抜けれん仕事があって、近所の同級生のお母さんに、智花と一緒に昼ごはんを食べてくれ、言うて頼んどったんや。それを桐子に話したら、可哀想や言うてなぁ。弁当を作って、友だちまで誘うて運動会に行ってくれよった。智花はニコニコ顔で自慢しとった。「智花のリレーの応援に、パパの友だちがいっぱい来てくれたんよ」言うてなぁ。そういうところがあるんや、桐子ちゅう女はな。
 あいつは色々言われとる。そやけど、すべての事件に関して殺意はなかったと思うとる。それだけやのうて、実行もしとらん。俺はそう信じとる。誰がなんば言うても、俺にとって桐子は善人や。いや・・・・・・、それ以上の人や。昔から「いい子振っとる」とか「男をたぶらかしとる」とか、噂はぎょうさんあった。その噂がありもせん噂を呼んだんや。
 俺は二度と過ちは犯しとうなか。万砂子のときの二の舞はもう踏めん。ほやから、見捨てるわけにはいかんのや。すまんな万砂子。俺はアホな人間やからこそ、ここでやらんといかんのやッ。そうや、俺はどうしようもないアホや。アホならアホでよか。その代り、俺の人生は終わっても、桐子の人生だけは終わらせんッ。
 修は一瞬振り返り、机に置いてある家族の写真に目をやった。しかしそれ以後、二度と振り返ることはなかった。
「代官山まで四十分か・・・・・・」修は時計を確認した。
 大きく長い息を吐くと、ゆっくりと拳を握りしめた。
 修はおもむろに立ち上がると、ショルダーバッグの中の細長い包みを確認した。そしてゆっくりとドアを開け、燦々と降り注ぐ太陽の中に重い足を踏み出した。

 代官山の駅を下りると、右手の角に交番がある。その上には何本もの大きな木が、青々とした葉をかかえた枝を四方に広げている。
 桐子は交番に若い警官を見つけると、瞬時に顔を背けてキャップを深く被った。
 今日は普段と違い、地味な恰好をしている。ブルージーンズにオフホワイトのTシャツ。それに若葉色のシャツを羽織っていた。
 桐子は腕時計を見た。時刻は午後十二時十五分。和子とは正面入口で一時に待ち合わせをしている。会場まではゆっくり歩いても十分だ。
 桐子は緊張のためなのか、猛暑のためなのか、すでに喉がカラカラだった。交番にチラッと目をやると、ネットで調べておいた会場そばの喫茶店に急いだ。こんな状況下で、直接会場に向かうことなどできるわけがない。

 桐子は喫茶店に落ち着くと、一気に水を飲み干した。すると、またじわっと涙が溢れ出した。もう納得しているはずなのに。この期に及んでまだ和子のこころ変わりに期待をしている。
 十一日以降は、何度和子の携帯に電話をしても出てくれない。ひょっとしたら、今回の計画を諦めたのだろうか。常人には分かる、無理な計画だということが。もしかしたら短い間にこころの病が癒えて、強気な和子も、大胆で危険な計画だということを自覚したのだろうか。そうであれば嬉しい。こんな嬉しいことはない。
「お姉ちゃん、今何を考えているの・・・・・・」桐子はこころの中でつぶやいた。
 いくぶん汗が引くとまた時計を見た。もうそろそろ時間だ。桐子は萎えそうなからだにムチを打つと、茹だるような酷暑の中をホールに向かって歩き始めた。
 生き急ぐ蝉の声が、スコールのように桐子の全身を濡らした。

 柳田が改札口に上がると、ホームは大勢の客でごった返していた。
 すぐ右手に二人を見つけた。
「稲垣、どうしたんだ」
「どうしたんだじゃないですよう」
 稲垣とチエは、涼しそうな顔の柳田に少しいらついた。
「人身事故ですよー、まったくう。ついてないですよ」
 稲垣は顔を歪めて舌打ちした。
「代官山駅で人身事故があったんですってッ」
 チエも焦りが顔に出ている。
「よりによって、こんなときにッ」
 柳田も駅の電光掲示板を見て軽く苦笑いをした。
『代官山駅で発生した人身事故のため、現在、自由が丘~渋谷間で運転を見合わせております。振替輸送については・・・・・・』
 電光掲示板は繰り返し振替輸送の案内を流している。
「仕方ない、タクシーで行こう」
 三人は一階のタクシー乗り場に急いだ。柳田の首に巻いたタオルが、生きているかのように左右になびいた。
「渋谷パークホールまで」
 稲垣は運転手に行き先を告げると、早速手帳を捲り始めた。
「あっ、運転手さん。代官山の駅にして」柳田が突然口を挿んだ。
「えっ?どうしてですか」助手席に座ったチエが振り向いた。
「何か気になる。人身事故の状況を確認してからホールに向かっても遅くないだろう」
「ええ、まぁ時間的には余裕がありますけど」
 稲垣は少し首をかしげた。
 タクシーはじきに代官山駅の南口に到着した。
「稲垣、行って確認してこい」
 稲垣は二人を車内に待たせて、駅の事務所に急いだ。
 車内から事務所が見渡せる。救急車の姿はもうなかった。すでに負傷者は運ばれていったようだ。ただ、ワンボックスタイプのパトカーが一台、駅前の交番脇に停まっている。ホームで現場検証の最中なのだろう。
 若い駅員が嬉々として稲垣に説明しているのが遠くに見える。
 じきに稲垣は小走りで戻ってきた。
「中年の女が飛び込んだようです。飛び込んだようですけど・・・・・・。自殺ではなく、ホームを滑り出したベビーカーを助けようとして、誤って線路上に転落したみたいです」
 稲垣は柳田の隣に乗り込むと、一瞬顔を歪めた。
「ベビーカーの子どもは無事だったのか?」
 柳田は少しからだを起こして、辛そうな表情を見せた。
「はい無傷です。ただ赤いジャケットを着たその女は、残念ながら即死だったようです」
「ふぅー、嫌だ」チエは両手で顔を覆って、前方にからだを折り曲げた。
「女が子どもを救ったんだよな?美談というわけか」
「そのようです」稲垣の顔は少し赤らんでいる。
 そのあと、柳田はじっと目をつむって何も語らなかった。
「パークホールですね」行き先を確認すると、運転手はアクセルを強く踏み込んだ。

 渋谷パークホールは、各種コンサートから古典芸能の上演まで、多種多様な催し物を行う地上三階建ての建物だ。大きな大理石の柱に囲まれたエントランスは、重厚で格式を備えている。建物の上から裏の公園の木々がわずかに頭を出していた。
 ガラス張りの建物の周りはまだ閑散としているが、エントランスの隅のドアにスタッフが立ち、ファンクラブの会員らしき女性を招き入れている。

 腕時計を見た。十二時五十五分。もう来てもいいころだ。桐子は慌てて携帯を取り出した。和子から何の連絡も入っていない。しかし考えてみると、足がつく携帯には連絡しない約束だった。
 やっと一時。振り返っても和子の姿はまだ見えない。こんな状況下での五分は、とてつもなく長く感じられる。額と首筋には、珠のような汗が拭いても拭いてもじっとりと浮いてくる。背中を一筋の汗が流れた。歳のせいなのか、最近では昔とは違う場所に、汗が浮き出るようになってきた。
 桐子は、使うことに抵抗がある扇子をバッグから取り出した。歳に見られることが嫌で、極力扇子を使わないようにしているのだが、今日のように湿気を含んだ猛烈な暑さは、とても耐えることができない。
 一時五分。桐子の心配は祈りに変った。
「もしかしたら、和子の考えは変わったのかもしれない。彼女は時間には几帳面だ。今まで、一分たりとも遅れたことなどなかった。でも新幹線に遅れが出たのかも・・・・・・。お願い!来ないで!お願い!」
 桐子はこころの中で呪文のように繰り返していた。
 爽やかな風など望むべくもない。鬱陶しい雨音のように蝉の声は続いた。

「ルルルー、ルルルー」
 タクシーに乗り込むと、すぐに稲垣の携帯が鳴った。
「はいこちら稲垣。ふん、ふん。えッ!何ですって?。今ですか?今は聞き込み中です。分かりました。至急現場に向かいます。はい、柳田刑事にも連絡しておきます」
 聞き込みに出る、と言って署をあとにした稲垣だ。柳田とチエも一緒だとはとても言えなかった。
「どうしたんだ?」柳田は血走った目を稲垣に向けた。
「署の春山課長からです」
「で?」
「今しがた、署に殺人予告の手紙が届いたそうです」
 柳田の目が鋭く光った。
「誰を殺すんだ?」
「山村雄三です」
「どこで?」
「渋谷パークホール」
「誰からの手紙だ?」
「・・・・・・」稲垣は言い淀んだ。
「稲垣さん、誰なのッ?」振り返ったチエの顔も気色ばんでいた。

 桐子の腕時計は一時十五分を指していた。
「和子は、もう来ない」桐子は確信した。
 それと同時に全身の力が抜けた。倒れそうになるからだを、何とか気力で支えた。緊張が解け、かいた汗に寒気を感じる。
 やはりこころ変わりしたんだ。雄三を殺せるわけがない。これでいいんだ。これでよかった。
 震えるほどの安堵の中で、桐子は修のことを思い出していた。
 修に早く連絡しなければ。すぐに携帯を取り出し修を呼び出した。何度かけても留守電に切り替わる。そうだッ、今は運転中のはずだ。
「ふぅー」大きく息を吐いた桐子は、ついに芝生の上に座り込んだ。

 それから五分ほど経っただろうか、幹線道路に面した正門に一台のタクシーが停まった。
 車から飛び出してきた三人が遠くに霞んで見える。敷地の東側の壁に沿って、すごい勢いで走ってくる。桐子には目もくれずに、裏側の公園の方に走り抜けていった。
 誰だろう。桐子は朦朧とした頭で、じっと考えてみた。
 一人若い女がいたが、記憶にない。しかし男二人は、顔の輪郭しか分からなかったが、たしか・・・・・・、あのときの刑事。そうだッ、あのときの刑事に違いない。
 桐子はふらつく足で何とか立ち上がった。そして、裏手の公園に向けてよろけながらもゆっくりと足をすすめた。思うようにからだが動かない。
「何が起こったの?えっー、何が起こったっていうの?」
 桐子は漠然とだが、大変なことが起こった、ということだけは理解できた。
 もしかしたら、和子が先に来て雄三を?そうだッ、お姉ちゃんが来てるんだ。桐子の胸の中を赤い戦慄が走り抜けた。
 すると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。徐々にその音が近づいてくる。
 私を巻き込まないように、姉として私のことを守ってくれたんだ。
「やめてッ!やめてッ!お姉ちゃんを逮捕しないでッ!」
 桐子はこころの中で何度も叫んだ。

 もつれる足を引きずりながら、ホールの裏手に着いた。ちょうど三十メートルほど先に、プレハブ小屋のような公園事務所が見えた。大きな木々で囲まれ辺りは薄暗い。
「アアァー」桐子は思わず手で口を覆った。
 その大木の陰に人が倒れている。警備員なのか刑事なのか、数人の男が立ちつくしていた。一人の男が倒れた人間を介抱しているように見える。
 倒れた人間はたぶんあの人だろう。でも、もう倒れている人間など誰でもよかった。
 桐子は痙攣するかのように全身が震え出した。やはり和子がやってしまったのだ。しかし女性は先ほどの若い女しかいない。和子は?和子はどこ?
 しばらくすると、裏手の門が開き数人の男がなだれ込んできた。きっと警察官だ。
 すると、あのときの刑事が、呆然と立ちつくす一人の男に何やら話し始めた。その男は抵抗する素振りなどまったく見せない。
 桐子はもう少し近づいて、その男を凝視した。
 男は、修だ・・・・・・。
 桐子は口を押えたまま、自分の目を疑った。神宮球場ではしゃぐ修の笑顔が繰り返し頭を過る。
『桐子さん、前を向いてしっかり見てやって』どこからともなく女の声が聞こえた。
 桐子はハンカチを取り出し溢れ出る涙を拭いながら、正面に回って男の顔をしっかりと確認した。
 髪を乱してうなだれる男は、まぎれもなく西澤修だ。
 修の名を叫ぼうとしたが、繰り返す嗚咽で言葉が出てこない。
 修は、右手に握った包丁のような物を警察官に渡している。何度も相手を刺したのか、着ている浅葱色のTシャツは、大量の返り血を浴びて赤黒く染まっていた。
「オサムちゃーんッ。オサムちゃーんッ。オサムちゃーんッ」
 桐子はゆっくりと距離を縮めて、あらん限りの声を出した。しかし、涙は止め処なく流れ、囁くほどの声にしかならない。
 柳田が一言声をかけて、修の腕をつかんだ。
 連行されていくのだ。手錠こそかけられていないが、現行犯で逮捕されるのだ。
「オ・サ・ムちゃーんッ」もう一度声を張り上げてみた。
 修は気づいたのか、振り返ると顔をわずかに上げた。青ざめた顔を血飛沫が赤く染めている。そして、目尻を人差し指で軽く押えた。修がはにかむときの仕草だ。
 そのあと、またゆっくりとこちらに背中を向けた。小さく見える背中は、何かを語りかけるように震えている。
 下を向いた修は、柳田に肩を抱かれて静かに裏門から出ていった。
 修のうしろ姿が見えなくなると、桐子は両手で顔を覆った。そして全身を震わせながら芝生の上に泣きふした。
「オサムちゃ―んッ」桐子はもう一度修の名を呼んだが、まったく声にならなかった。

【エピローグ】(完)

【エピローグ】


 智明が東横線の電車に乗ると、ユウヤのライブが中止になったことを、車内放送が繰り返し流していた。
 智明はそれを聞いた瞬間、電車の揺れもあるのか、めまいを覚えてじっと目を閉じた。
 凶行はこんなに早く行われたのか、まだ開場もしていないのに。俺が和子を止めてやるなんて、バカなことを考えたものだ。俺は甘かった。本当に説得する気があったのか。智明は電車に揺られながら自問自答を繰り返した。
 でも・・・・・・、西澤さんはどうしたんだ。あれだけ言ったじゃないか、俺が阻止する、と。
 結局、西澤さんも怖気づいたのか。何のことはない。俺たちは誰も阻止できなかったのだ。とにかくパークホールまで行くんだ。智明は腹立たしい思いで会場に急いだ。

 会場の入口に着くと客は疎らだった。ファンクラブの人間だろうか、数人の若い女たちが口々に不満を漏らしている。
 智明は思わず高校生に見える女に声をかけた。
「ライブが急に中止になるなんて、何があったんですか?」
「それがさぁ、ださいオジンがユウヤを刺したんだって。ユウヤへの嫉妬よ!超気が狂ってんだからー。そんなやつ絶対死刑よッ」
 そう言うと、女は大粒の涙をこぼした。
「犯人は本当に男なんですか。女性ではないんですか?」
「男に決まってるじゃん。女が刺したりするわけないじゃん。オッサン何言ってんの?」
 隣の女が怒り顔で答えた。
 智明は礼も言わずに、すぐに踵を返して駅に向かった。
 どうしたんだ。誰が刺したんだ。オジさんと言われれば、俺もそういう年齢だが、ひょっとしたら西澤さんじゃないのか。西澤さんだとしたら、彼女たちより先に雄三を刺すことで、二人の凶行を阻止したのか。まさかッ・・・・・・。
「なぜだッ、どうして雄三を殺す必要があったんだ」
 智明は帰りの道すがらまた自問自答を繰り返した。
 油蝉の「ジージー」という声が耳に纏わりついて、その日はずっと離れなかった。

 翌日も茹だるような暑さが続いていた。

【ユウヤ!ライブ直前に胸を刺されて殺害される】
 記事が朝刊の紙面を飾っていた。

 社会面には、見落としそうなもう一つの記事も載っていた。
【身を挺して赤ちゃんを救う】
 十七日、午後十二時三十分ころ、東洋生命に勤務する女性社員(四十九)が、東横線の代官山駅の下りホームで、突然動き出したベビーカーを発見。それを救おうとして誤って線路に転落した。女性は下りの急行に撥ねられ即死したが、ベビーカーに乗っていた大塚ゆみちゃん(生後五カ月)は、間一髪のところで難をまぬがれ無事だった。渋谷西署は、女性社員がホームから転落した詳しい原因について、現在調べを進めている。

「あの美談の主が、池川だったとはなぁ。皮肉なもんだ」
 柳田はゆっくりと煙草をふかした。
「しかし、子どもに対する執着というか・・・・・・、それがあまりにも強かったんでしょうね」
 昨日泊りだった稲垣は欠伸を噛み殺した。
「違うと思うわ。子どもに対する愛情があまりにも強すぎたのよ」
 チエは渋い顔をして、うっすらと目を潤ませている。
「もう、今となっては分からないな。女の母性なんて俺には計り知れないよ」
 柳田は、この類の話は苦手だと言わんばかりに、池川の話題に言葉を濁した。
「ところで、問題は西澤の方だ。昨日は結局、殺害の動機を話そうとはしなかったな」
 柳田は煙草をくわえたまま天井を仰いだ。
「私は、何となく分かるような気がするな」
 チエは錆びて固くなった窓を半分ほど開けて、ゆっくりと深呼吸をした。
「じゃあ、チエちゃんはどう理解してるんだ」
「私は、西澤から届いた手紙が、その動機を物語っているような気がしますけど・・・・・・」
「あの手紙か?。もう一度見せてくれ」
 チエは西澤から送られてきた手紙のコピーを柳田に手渡した。


 前略
 本日、渋谷パークホールで、山村雄三を殺します。
 雄三に殺意を懐いているからではありません。
 そうしなければ、人を救えないからです。
 
 雄三は、女性の人生を奪い去りました。
 凶器も使わず、一滴の血すら流さず・・・・・・。
 何が凶器だったのか?と問われれば、
 子どもを殺害したことだ。としか答えようがありません。

 私には守るべき大切なものがあります。
 だから雄三を殺して、女性の人生を奪い返します。
 みなさんから見れば、とても理解不能な考えであることは重々承知しています。

 私はアホな人間です。だからこそ、これしか選択肢がないのです。
 もちろん同じ理由で、山村了司も私が殺しました。

 アホな私にも、信念はあります。
 アホはアホなりに、それを貫き通します。
                    草々

                    八月十七日  西澤 修 


 柳田は黙って目で文字を追ったあと、煙草をくわえたまま首をひねった。
「ううっー、何度読んでもよく分からない。山村兄弟に対して殺意などなかった、か・・・・・・」
 チエは清々しい顔をして黒髪をかき上げた。
「そうですか?西澤は人を救いたかった。ただそれだけだと思いますよ。不器用な人間だから、その手段を間違えた。西澤こそ救えない男ですよ」
 柳田はコーヒーの空き缶で煙草をひねりつぶすと、チエの言葉に少しだけ頬を緩めた。
「守るべき大切なものか・・・・・・」
「そうですよ。守るべきものがあるかぎり、どんな状況からでもやり直しはききます。救えない西澤の人生だって・・・・・・。そう思いませんか?柳田さん」
「そうかなぁ」柳田は軽く首をかしげた。
「そうですよ、西澤の人生だって・・・・・・」チエは急に目を潤ませた。
「でも、二人も殺しているんだ。死刑かもしれないぞ。万一無期が確定して収監されたとしても、間違いなく誰かの支えが必要だろうな」
 柳田は辛そうな顔をして、また煙草に火をつけた。
「・・・・・・」チエは言葉につまって、口をきつく結んだ。
「西澤は変わったよ。支社長の山村が殺された翌日に彼と話をしたけど、人を殺したあとだとはとても思えなかった。そのときと比べると、昨日の西澤は別人のようだった。あいつもきっとこころを病んでいたんだ。いや、それとも、手紙は・・・・・・」
 柳田は息を止めたように押し黙った。
 チエは思いつめたような柳田の目に触発されて、急にくるりと背中を向けた。そして、おもむろに半開きの窓を全開にした。
 吹き込む柔らかい風に髪を梳かせながら、夕焼けに染まり始めた高尾山を眺めている。
「お二人さん。もうそろそろ秋の気配ですよ。ほらっ、こんなにも赤いトンボが・・・・・・」
 チエは指でそっと瞼をなぞった。
「赤いトンボねぇー」
 柳田は窓の外を見ながら青くなった顎を撫でている。
「トンボはなぁ。まっ直ぐ飛びながらも、軽く身をひるがえして元いたところに戻ってくる習性があるんだよ。トンボ返りっていうだろう。人もトンボのようになぁ・・・・・・」
 柳田は煙草の煙とともに続く言葉を呑みこんだ。
「池川は、何を守ろうとしたんだろうな。そして成実は・・・・・・、何を頑なに守っているんだろうか」
 柳田の言葉に振り向くと、チエはわずかに首を振った。
「うーん。私にも分かりません。女だからなおさらかも・・・・・・。でも、西澤はこれからも、ずっとずっと大切な何かを守っていくんですよ」
 チエはほんの少し舌をのぞかせて、両頬に可愛いえくぼを作った。
 柳田は顔を茜色に染めて、沈みかけた赤い太陽をじっと見ている。
 そして眸に映り込む赤に耐えられなくなったのか、わずかに目を細めた。
 すると、涙がひとしずく頬を伝った。



 それから月日は流れた。

 二〇〇六年 三月―

 女は不自由な足をかばいながら、デパートに向かって急いでいた。
 休日の渋谷は若い女でごった返している。波のように人が押し寄せ、なかなか前に進むことができない。よろめきながらも、やっとのことでデパートの入口にたどり着いた。
 女は相手を見つけると、ニッコリと笑った。
「待たせてごめんなさい」
「ううん。待ってないよ。今来たところ」
 優しい声で女を迎えた。
「お母さん、そんなに慌てなくてもいいのに。ところで足は大丈夫なの?もう七十を越えてるんだから気をつけてよ」
「大丈夫よ。貴女に会うの久しぶりだから、急いで来たのよ」
 女は息を弾ませながら嬉しそうに笑った。
「久しぶりって、毎月会ってるじゃない」
「ううん、私にとってはそのひと月が久しぶりなのよ」
 女は若い娘のように口を尖らせた。
「お母さん、汗をかいてるわよ。少し座ったら」
 二人は入口のドアを開けると、足元に気をつけながら休憩用の椅子に腰を下ろした。
「ところでお父さんは元気なの?」
 女はいくぶん腰を伸ばすようにして答えた。
「アメリカの製薬会社との提携がこじれちゃってね。お父さんは東京とフィラデルフィアを行ったり来たり。忙しくしてるわ」
「お父さんも立派な社長になったわね」
「そうね。貴女たちが産まれたころはどうしようない人だったけど、変われば変わるもんよね」
「でもよかったぁ。あの事故からまだ一年半だけど、お父さんもお母さんも元気になったじゃない」
「そうよ。いつまでもくよくよしていられないわ」
 女はほっと息を吐いた。
「ところで貴女、西澤さんのところにはたまに顔を出してるの?」
「ううん。一度も行ってないわ」
 軽やかな返事だった。
「それでいいの?」
「彼は彼でうまくやってるわよ。塀の中も結構楽しいって話じゃない」
「貴女のためにあれだけやってくれたっていうのに、何だか可哀相ね」
「でも、犯罪者と接触するのは、私らの業界じゃ・・・・・・、ちょっとね」
「ふ~ん。そういうものなの」
 女は皺の刻まれた頬をわずかに膨らませた。
「そんなことよりもお母さん、びっくりしないでよ」
「なあに?驚かせないでよ、心臓が弱いんだから」
「私、また転勤するの」
「えっー、またぁ?」女は顔を歪めた。
「昨日、内示が出たのよ」
「それで、どこに転勤するの?」
「・・・・・・横浜支社よ」
「じゃぁ近いのね。よかったぁ」女はほっと胸を撫で下ろした。
「そうよ。今までどおりいつでも会えるわよ」
「それで、どんな仕事なの?」
「うん。それがねぇ・・・・・・、今度は支社長なの」
「えっー、ほんとに?」
「ほんとよぅ」笑いを何とか噛み殺した。
「すごい、すごい。また出世したのね」
 女は人目も憚らずに、嬉しそうに手を叩いた。
「そうよね。出世したんだよねぇー。私は何もしてないんだけど・・・・・・。周りの男が支えてくれるのよね」
 何気ない顔をして、真っ赤な唇をペロリと舐めた。
 ちょうど正面の壁には、客のために姿見がしつらえてある。
 その姿見に浮かび上がる自分をうっとりと見つめながら、わずかに口の両端を吊り上げた。
「お母さん。わたし、きれい?」
 桐子のアニメ声が気味悪く響いた。
 姿見には、「アロワナ」の黒い影が浮かんで消えていった。
                                       了

「背 信」ーアロワナの化身ー

長い期間ありがとうございました。
次作ももうじき連載いたします。
作家名「修司」を見つけられたらよろしくお願いいたします。

「背 信」ーアロワナの化身ー

大手生命保険会社に勤める成実桐子は、交通事故により発症したこころの病を、三十年もの間ずっと抱えていた。 桐子は二卵性双生児として産まれたのだが、ある事情で姉の池川和子とは別々に育てられ、中学を卒業するまでは姉の存在すら知らなかった。しかし、ひょんなことから二人は出会い、桐子の家で同居を始める。その直後に、桐子は轢き逃げされて重傷を負ったのだ。 桐子の怨みを晴らそうと、和子は現場に残された「アロワナ」のキーホルダーを手がかりに、「リョージ」という男を捜し始める。桐子が交通事故に遭遇したとき、桐子と一緒にいた恋人の雄三が、逃走する加害者のことを「リョージ」と呼んでいたからだ。 しかし、その「アロワナ」だけで加害者を見つけることなど到底無理な話だった。ところが、加害者が残した「アロワナ」には、三文字のアルファベットが彫られていた・・・。

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-30

Copyrighted
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  1. プロローグ&1
  2. 2-4
  3. 5-7
  4. 8-10
  5. 11-12
  6. 13-14
  7. 15-16
  8. 17-20
  9. 21-23
  10. 【エピローグ】(完)