幸福と憂鬱の狭間

うっかりサイドボードの上のものをひっくり返し、それをうんざりしながら片付けていると、懐かしいものが転がり出てきた。
指輪だ。私の――私と陽介(ようすけ)の――生まれ年である「87」が象られたナンバーリング。陽介というのは私の恋人で、大学生の時から七年間付き合っていた。そう、付き合って“いた”。今ではもう過去形でしか語れないことを思い知り、改めて現実を突きつけられたようで、哀しみが内側からじわじわと湧き上がってきた。
半年前――六月の、三日ぶりによく晴れた昼下がりに――私は陽介にフラれた。その日私は、せっかくのいい天気だから散歩でもしよう、と陽介に連れ出された。うっすら湿った公園のベンチに新聞紙を敷いて並んで座り、私はアボカドトマトバーガーとポテトとコーラを、陽介はチーズバーガーとアイスコーヒーを口に運んでいた。自分から誘い出したくせに、陽介は初めからてんで元気がなかった。仕方なく私からいくつか話題を振ってみても、むっつりとした顔をしてぼそぼそと短く答えるだけだった。それでも私は、まさか陽介にフラれるだなんて夢にも思っていなかった。せいぜい仕事がうまくいっていないのだろうかとか、近頃の雨続きで風邪でも引いたのかもしれないとか、その程度にしか考えていなかった。
だから、陽介が半分も食べていないチーズバーガーを袋ごと丸めて、独り言のように「未稀(みき)、俺、好きな人ができた」と呟いたとき、私は何を言われているのかさっぱり分からなかった。ろくなリアクションもできぬまま、ただただ唖然とする私の顔をまっすぐ見つめて、陽介はさらに「多分、その人と結婚する」と言った。それから、「ごめん」とひどく苦しそうに吐き出して俯いた陽介の横顔を、私はきっと生涯忘れないだろう。七年間って、こういうことか。私たちが出会ったばかりの頃、もぎたてのオレンジみたいにフレッシュでみずみずしく輝いて見えた陽介の顔には、いつの間にか洗っても洗っても落ちないような現実の色が染み付いてしまったようだ。目尻の皺や心持ち濃くなった髭の跡を見つめながら、ぼんやりとそんなことを思った。
しばらく手の中でもてあそんでいた指輪を、私はなんとなく左手の薬指にはめてみた。ひんやりと、ほんの少しゆるくて危なっかしい、懐かしい感触。同時に、私は陽介からこの指輪をプレゼントされた日のことを思い出していた。
あの日――大学三年生の八月十日は、私の二十一回目の誕生日だった。寒いくらいに冷房の効いたラブホテルの一室で、私たちはうっとりと体を重ね合い、甘い旅をしてきた後で、部屋の中にはそれぞれの衣類が無造作に散乱していた。真っ白なシーツに顔をうずめたまま、「水(を取って)」と呟いて伸ばした手を思いがけずぎゅうっと握られ、私が(いぶか)しく思って顔を上げると、陽介が心臓が止まりそうになるほどいとおしそうにこちらを見つめていた。左手で私の手を支え、右の手のひらの上には、ピンクゴールドに輝く指輪。陽介は無言のまま、それをそうっと――メレンゲをふんわりかきまぜるときみたいな優しさで――私の左手の薬指にはめてくれた。
「誕生日おめでとう」
これまた何かとても大切なものでも扱うみたいに響いた陽介の声。照れ臭そうな表情。乱れた私の髪をしずしずとかきあげてくれた陽介の左手には、色違いのシルバーの、華奢な「87」の数字がきらきらと光っていた。
私はしばらく指輪を見つめたまま、まるで幸福と憂鬱の狭間で、在りし日の陽介を――私たちが互いに寄り添って過ごした尊い七年間を――思い浮かべていた。
はじめてのデート、はじめてのキス、私と向き合う陽介の慈愛に満ちた真剣なまなざし、大きくていつも冷たかった陽介の手、はじめて行為をした日の忘れられない幸福感、太陽みたいな陽介の笑顔、柔らかい栗色の髪、さまざまな記念日に贈ったもの、贈られたもの、大学を浪人した私を励ましてくれた深夜二時の長電話、いつか二人でヴェネチアのゴンドラに乗りたいねと交わした約束、陽介の少ししゃがれた切ない声、他の誰が読んでくれる「未稀」よりもずっと尊く聞こえたその二文字、お互い仕事が忙しくなってすれ違うようになった毎日、久しぶりに流れるよそよそしい空気、つまらない罵り合いの喧嘩、はじめて見た陽介の涙……。
そういえば、いつからこの指輪を身につけなくなったのだろう。大切なものをどこかに置き忘れてきてしまったのは、きっとその頃だろうと思う。長い年月は、ただそれだけで何も保証してはくれない。のっそりと横たわった変わらない景色への依存が、ずるずると七年間も私たちを繋ぎ止めていた唯一のものだった。
私はふいに思い立って、黒々と光るグランドピアノのある部屋まで行き、ふたを開けて両手を置いた。父も母も出かけていて、家には私一人きりだ。大きく息を吸って、鋭く立てた指を鍵盤の上に叩きつける。ジャジャジャジャーンというフレーズから始まる、結婚式で使われる曲としてあまりにも有名な、メンデルスゾーンの結婚行進曲。陽介は明日、結婚する。
陽介は別れてからもしばしば連絡をくれた。私とはこれからも長い付き合いの大切な友人の一人として、これっきりの仲にはしたくないというのが陽介の希望だった。その“長い付き合い”は、決して何も守ってくれなかったくせに、私たちの間に妙な信頼関係を残していた。お互いがお互いのことをなんでも知っているという安心感、あなたなら君なら自分を理解してくれるはずだという根拠のない自信。陽介は、新しい恋人の話を会うたびにとても楽しそうにした。不思議なことに、そんな陽介のことを無神経だなんてこれっぽっちも思わなかった。私たちは、親友の延長線みたいな関係を、うっかり恋と勘違いしていただけだったのかもしれない。
どこでいつ二人が出会って、どうして陽介が彼女に恋をしたのか、聞いたはずの話をなぜだか私はまるで覚えていないが、婚約者の名前は麻友美(まゆみ)さんというらしい。かつて私だけのものだった世界に一つだけの優しい響きで、「麻友美さん」と呼ぶ陽介の声――。
友人として当然のように招かれた陽介と麻友美さんの結婚式に、私は一体どんな顔をして出かけてゆけばいいのだろう。七年間“恋人”という肩書きを背負っていたというだけで、なにもかも許されてしまうというのなら、いっそ今すぐ陽介に電話をしてその答えを訊ねてしまいたい。
ミの音を押さえた薬指の「87」に、ぱたりと音もなく涙が落ちる。陽介の左手の上に、もう私の居場所はどこにもない。

幸福と憂鬱の狭間

幸福と憂鬱の狭間

半年前、七年間付き合っていた彼氏にフラレた――。思い出の指輪を偶然見つけたことから、恋の終わりをひしひしと痛感する女のお話。【NL】

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-01-19

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