魔王安倍晴明
電撃小説大賞で一次選考だけ通過した作品です。
芥川龍之介の王朝物から本歌取りして、陰陽師たちの戦いを描きました。
水は火を消し、木を育む。
木は土を糧とし、火を発する。
火は金を溶かし、焼け跡は土となる。
土は水を吸い上げ、内に金を宿す。
金は木より堅く、結露して水を生じる。
これら五行の理を極めし者、天地を手中に収めん。
いざ陰茎を挿し入れようという時、晴明が正体を明かしたのは、ひとえに女の美しさの為であった。
「見ろ。そなたを抱いているのは卑しき山賊風情ではない。気高き陰陽師だ」
饐えた匂いのする荒くれ者が涼やかな瞳の青年へと瞬時に姿を変えたことに、女は大きな瞳をさらに大きく見開いて驚きを示した。しかし声は上がらない。既に口封じの術を施してある。
陰茎を挿し入れ、ゆっくりと、繰り返し腰を突く。その度に、周囲の茂みががさがさと乾いた音を立てる。
「変化は私が最も得意とする術の一つ。先刻そなたが不意に見上げた一羽の鳶(とんび)、あれも私だ」
市女笠の下の瓜実顔。神々しいほどの白い肌。空から一目見た瞬間、胸がときめいた。百年以上も生きている自分にまだそんな情動が残されているとは意外なことであった。
「そなたをここへ誘った老婆は、式(しき)神(がみ)と呼ばれているもの。呪力に形を与え、自在に使役できる。まこと陰陽術とは重宝なものよ」
饒舌になっていた。こうして体を奪いながらも、心は奪われているのだ。
「この晴明、肉欲の捌け口に不自由はしておらぬ。されど、呼ばれて来るような女どもは皆、趣きに欠く。恥じらいというものがない。そこで、様々に姿を変えながら素人女を物色しておったというわけだ」
明かしたところで、女の心が晴明を許し、受け入れるはずもない。が、一介の暴漢ではなく、阿倍晴明自身として、女の記憶に残りたかった。
屈辱を噛み締めるように固く結ばれている唇を強引に割り、舌を吸う。花の蕾のような乳首を掌で潰すように愛撫する。そして、腰の動きを徐々に速める。
しばらくの後、陰茎から精が放たれ、女の目からは涙がこぼれた。
「肉欲は何の為にある?」
繋がったまま、女の髪を指で梳きつつ、晴明は囁くように言った。
「無論、子孫繁栄の為だ。もしこの種が実を結べば、その子はきっと陰陽術の才を持って生まれ、都の平和に貢献するであろう。となれば、母たるそなたもまた、世の為人の為に一役買うことになるわけだ」
晴明が身を起こすと、呪力で織られた衣はひとりでに主の体を包む。
「月のものが来ぬことを願っておれ」
男が愛し、女が産む。それが自然の摂理だ。合意など必要ない。
乱れた着衣を直そうともせず、秘所から残滓を垂れ流したまま虚空を見上げている女を尻目に、晴明は再び鳶に変化して、藪の中から飛び立った。
足を掴まれた。そう感じた次の瞬間、武弘の全身は東堀川の水中にあった。
河童だ。油断した。この季節、水際を歩いてはならぬと教えられていたのに。
水を飲み過ぎた。もう助からない。覚悟を決めた時、今度は腕を掴まれ、凄まじい勢いで地上へと引き上げられた。
「無事か、武弘」
地面に這いつくばり、ひとしきり水を吐くと、武弘は友に礼を言った。
「すまぬ、永雄」
「弓を持て。まだ近くにいるぞ」
見れば、水面に一つの影。こちらを嘲るように悠々と泳いでいる。
妖魔を見つけた際には、三色の音色の呼子笛で知らせ合う決まりである。発見者が一の笛を吹く。一の笛を聞いた者は二の笛を吹く。二の笛を聞いた者は三の笛を吹く。すると、陰陽師が三、二、一と音色を辿って駆けつける。
武弘が一の笛を吹こうとするのを、永雄が止めた。
「待て」
「何だ」
「たかが一匹、それも小物だ。二人いれば十分であろう」
「だが、陰陽師を呼ぶ決まりだ」
「連中ばかりが都の守りではない。我ら検非違使(けびいし)とて無力ではないことを知らしめるいい機会だ」
永雄は諸肌を脱ぎ、革巻きの弓に鷹の羽の征矢をつがえ、よく発達した筋肉を見せつけるように、強く引き絞った。
このところ、陰陽師ばかりがもてはやされ、検非違使はただの見回り役として軽んじられている。鬱憤を溜め込んでいる仲間は、永雄一人ではない。
武弘が言った。
「陰陽頭の晴明様は不眠不休で戦い続けていると聞く。お力になれるならばそうしたいが……」
永雄は弓を引いたまま苦笑した。
「まったく、お前の晴明様好きにはほとほと呆れるわ」
「しかし、我らだけで妖魔を仕留められるのか?」
「できる。今、わかる」
ひょうと空を切る音がして、永雄の矢が飛び、河童は体の真ん中を射抜かれて水底深く沈み込んだ――かに見えた。
盛大に水飛沫を上げて、河童は中空に躍り上り、水掻きのついた手で器用に握った矢を、永雄めがけて投げ返した。
眉間を貫かれ、永雄の巨躯は仰向けに倒れた。絶命していることは明らかであった。
河童は地上に立ち、口元をほころばせながら、狡猾そうな細い目で武弘を見た。
武弘は反射的に一の笛を口に当てた。しかし、音が出ない。息が吹けない、いや、その前に吸えないのだ。恐怖で肺が硬直している。首筋を冷や汗が伝う。
落ち着け。息を吸う、それだけのことだ。できないはずはない。
やっとの思いで武弘が鼻から空気を取り入れると、河童は武弘を真似るように、唇を突き出し、頬を膨らませた。かと思うと、凄まじい勢いで水を噴き出した。
武弘はそれを手の甲に食らい、笛を取り落として、苦痛に呻いた。
ひたひたと足音が近づいてくる。太刀を抜かねば。そう思うが、手が痛んでそれどころではない。
死を目前にして、武弘は時の流れがぐっと遅くなるのを感じた。
――許せ、永雄。仇は討ってやれそうにない。
武久よ、立派な男になるのだぞ。俺の分まで、お母様を守れ。
真砂、お前は俺にはもったいない女だった。どうか幸せになってくれ――。
迫る足音。死が近づいてくる。たかが河童一匹、こんな奴に俺は殺されるのか。無念だ。俺にも陰陽の力さえあれば……。
その時、背後から声がした。
「希望を持て。そなたの命はまだ続く」
振り向くと、そこに立っていたのは、紫の狩衣に黒の烏帽子、陰陽頭安倍晴明その人であった。
「そなた今、陰陽の力を欲したであろう」
「はい」
「生まれつき持たざる者に力を授けることは叶わぬ。だが力の在り様を学ぶことならば、万人に許されている。下がっておれ」
そう言って、晴明は一歩踏み出した――と、次の瞬間にはもう、晴明の体は武弘と河童の間にあった。武弘は下がる間もなく庇われる形となった。
「ふむ、幼体だな。これなら式神を使うまでもない」
そう言いながら晴明は袖から小さな木片を一つ取り出した。
「木簡の欠片だ。木は炎を生ずる」
晴明の手から放たれた木片は、中空で二つに割れ、河童の体の左右でぴたりと止まると、勢いよく燃え上がった。すぐさま二つの火球は河童の体もろとも一つになり、巨大な炎の塊となった。
熱気は離れた位置にいる武弘の顔まで届いた。
「……凄まじい」
武弘の呟きに答えるように、晴明が言った。
「だが、火は水に消されてしまう」
その言葉通り、炎は瞬時にして雲散霧消した。河童の体には火傷一つない。
河童の頬が膨れた。危ない。武弘が叫ぼうとした時、水流は既に噴き出されていたが、晴明の体に達する寸前で忽然と消失した。
「水が火を消すように、土が水を吸う。目を凝らせばそなたにも見えるであろう、土埃で編んだ羽衣が」
確かに、晴明の周囲の空間が黄色く濁り、陽炎のように揺らめいている。
「水は土で吸えば良いのだ」
そう言って、晴明は地面に手をかざした。すると突然、河童の足元の地面が渦を描き、直径一間ほどの蟻地獄となった。河童は上体を激しく動かして抜け出そうとしたが、ほどなくして完全に飲み込まれてしまった。
「陰陽の力も妖魔たちも現世の存在。自然の法則には逆らえぬ」
河童を飲み込んだ地面の上を、風が静かに通り過ぎていく。
武久は敬意を込め、晴明を仰ぎ見た。
「法則を利用すれば妖魔は退治できる。一見容易いことだが、残念ながらほとんどの陰陽師が天より授かる力は一つか二つ。火しか扱えぬ陰陽師では、先ほどの幼い河童にすら手こずる。この都が妖魔に悩まされ続けているのはそういうわけなのだ」
晴明はゆったりと微笑み、跪いて、武弘の着物の汚れを払った。
「火・水・土・木・金、五行の力を全て操れるのは、この安倍晴明ただ一人。同等の陰陽師がせめてもう一人いてくれれば、私ももう少し楽ができるのだがな」
まだ礼を言っていなかったことに気づき、武弘は口を開こうとした。ところが、武弘の声が発せられるより先に、晴明は鳶に姿を変え、みるみるうちに天高く舞い上がっていった。
家の庭で一人、武久は木刀を振っている。七歳の時、父の武弘から贈られたものだ。以来五年間、雨の日も風の日も、鍛錬を欠かしたことはない。将来は父のような立派な検非違使になるのだ。
左斜め後方から、石。武久は前を向いたまま、振りかぶった木刀で払い落とす。投げた人間には偶然としか見えないだろう。続いて、別のものが飛んでくる。罵声。
「やーい、能無し!」
「精が出るなァ、能無し!」
近所の少年たちだ。中心になっているのは、陰陽師蘆屋(あしや)道(どう)満(まん)の息子、道兼。蘆屋道満は安倍晴明に次ぐ実力者と言われている。道兼は父親の威光を傘に着て少年たちを従え、好き放題をしているのだ。
「やれやれ、何も言い返せぬか」
この気取った声。道兼だ。
「やはり能無しの子は能無しだな」
「父を馬鹿にするな!」
と、武久は思わず振り向く。
「俺のことは何とでも言え。だが父を侮辱することは許さん」
「許さぬか。ならばどうする」
「どうもせん。お前たちの相手をするのは時間の無駄だ」
「怖いのであろう? 妖魔と出くわしても助けを呼ぶことしかできぬ父親と同じにな」
少年たちが口笛を吹いておどける。
「ぴぃぴぃ、助けて、陰陽師様ー!」
「お助けをー!」
笑い声に背を向けて、武久は再び素振りを始める。
確かに、妖魔を退治できるのは陰陽師のみ。
けれど、陰陽の力を使える人間は限られている。妖魔を見つけ、その居場所を知らせる人間も必要だ。陰陽師だけが妖魔と戦っているわけではない。
だいいち、検非違使の仕事が妖魔探しだけというわけでもない。盗賊などから民を守ることも務めの一つ。父を能無し呼ばわりするのは完全な的外れだ。
――と思いながらも、武久はわざわざそれを少年たちに言いはしない。理屈で諭しても無意味なのだ。彼らはただ誰かを貶めて優越感に浸りたいだけなのだから。
「おい能無し、無視してんじゃねぇよ!」
石が飛んでくる。武久は背中を見せたまま、小首を傾げるようにしてかわす。
「それ、やっちまえ!」
石の雨。だが、全部が正確に武久めがけて飛んでくるわけではない。向かってくるものだけを見極め、払い落とす。その気になれば打ち返してやることもできるが、そんなことをしても面倒が増えるだけだ。
苛立たしげに道兼が言う。
「猪口才な。チャンバラで妖魔は倒せんぞ」
お前たちぐらいなら倒せるがな。言いかけて、武久は口をつぐむ。言い返せばキリがない。言わせておけばいい。
「我は近々本格的に陰陽術の修行を始める。お主はせいぜい無駄な努力を重ねるがいい」
道兼にならい、少年たちは各々捨て台詞を吐きながら去っていった。
陰陽術の修行――陰陽院に入る、ということだろう。
増え続ける妖魔の被害に対抗する為、最近発足した陰陽師養成学校。それが陰陽院だ。才能を開花させる者は生徒の中でもほんの一握りだが、子が陰陽師となれば一族の繁栄は約束されたも同然というわけで、入学の申し込みは後を絶たないという。
足元に散らばる、少年たちの投げた小石。払い落としたのは、実は剣術などではなく、陰陽術であると、武久は認識している。
大地の力は木の根が吸い上げる。木は土を制する。その法則を、誰に教わるともなく理解していた。木刀を操って石つぶてを払うことなど造作もないことであった。
だが、陰陽師を志す気はない。自分はあくまでも父と同じ、検非違使を目指す。検非違使が能無しなどではないことを、言葉でなく、行動によって示さなければならない。
父は人に優しく、武術に秀で、優れた検非違使であったが、陰陽師に対してへりくだり過ぎるという欠点があった。
「最早これまでと諦めたその時、現れたのがあの安倍晴明様だったのだ」
夕餉の折、父の物語る河童との戦いの話に、武久は口を挟んだ。
「安倍晴明様は、何故その場に?」
「何だと?」
「笛はお吹きにならなかったのでしょう? ならば晴明様はいかにしてそこに妖魔がいると知ったのでしょうか?」
「つまらぬことを気にするな。たまたま通りかかったのであろう」
「そうでしょうか」
「でなければ何だというのだ?」
「いえ、それはわかりませぬが」
「ああ、あるいは空で見回りをされておったのやも知れぬ。河童を倒した後、鳶に姿を変えて去られたのだ。まったく晴明様の変化の術は見事という他ない」
鳶、という言葉に、母の真砂がかすかに反応したのを、武久は横目で見た。母は何故か昔から鳶を怖がる。そのことを父は特に気にかけていないようだったが、武久は違った。母の声が失われていることと何か関係がある気がしてならない。
晴明の術の見事さを興奮した口調でひとしきり話し終えた父は、続けて言った。
「武久、この都を守るのは陰陽師だ。お前も陰陽院に入らぬか」
そら来た、と武久は思った。父はことあるごとに入学を勧めてくるのだ。無理強いをしてこないだけまだ良いと言えるかも知れないが……
「嫌です」
「何故だ」
「私は父上と同じ、検非違使になりたいのです」
「私は幼い河童一匹倒せなかったのだぞ」
「父上はご自分を卑下され過ぎです。検非違使を担う者も必要ではありませんか」
「無論自分の役目に誇りは持っている。だが、今求められているのは陰陽師なのだ。だからこそ帝は陰陽院をお作りになったのではないか」
「父上は、もし自分がまだ若ければ、陰陽院に入りたいと思うのですか?」
「ああ」
即答され、武久は返す言葉がなかった。
「例えば今この瞬間、妖魔が襲ってきたとしたら、私にはどうすることもできない。陰陽の力さえあれば、お前たちを守ってやれる」
母の顔を見た。何を思うか、武久には読み取れない。
「陰陽術の才が芽を出し、育まれるのは元服前の少年期だという。大きくなってから志しても遅いのだ」
「わかっております」
「武久よ、我が子にこんなことを言うのも気は引けるが、私の代わりに永雄の仇を討ってはくれぬか」
「……」
「永雄だけではない。もう何人も検非違使がやられている。悔しいが、私ではどうにもできぬ。もしお前が……」
「仇ならば既に晴明様が討ってくださったでしょう」
「友の仇なのだ。私に叶わぬ望みならば、せめて私の血を引く者に果たしてほしい」
血、という言葉に、母がまたほんの小さく反応した。父はそれに気づかぬ様子で話を続ける。
「せめて一年、学んでみてはくれぬか。お前に才がなければそれまでのこと」
「才があったならば、陰陽師になれと」
「私はそれを望むが、本当にその道を歩むかどうかは、またその時に決めればいい」
武久は思案した。仇討ちとまで言われては、無下に断るわけにはいかない。だが、自分に才があることが知れてしまったら、陰陽師にならないことを周りが許しはしまい。この力、隠しおおせるだろうか?
その晩、武久は夢を見た。
母が巨大な鳶に襲われ、血を流していた。武久は陰陽術で木の蔓を操って鳶を捕らえ、そのまま締め上げて退治した。
夢の中で、母は声が出せた。
「ありがとう、武久」
聞いたことがないはずなのに、懐かしさを感じる声だった。
目が覚めて、武久は思い出した。陰陽術の中には医術に近いものもあるという。もしかしたら、母の声を取り戻すことができるかも知れない。
入学を決意したことを告げると、父はたいそう喜んだ。
武久たちが夕餉を取っている頃、ここは洛外の荒れ果てた山荘である。梁は傾き、襖は乞食を思わせる有様で、廊下は老婆の慟哭のような音を立てて軋む。しかし、大広間の床板だけは一切の汚れも凹凸もなく、そこだけ異世界のもののように、完璧な平面をなしていた。
その床の上に、都の全てを正確に描いた一枚の巨大な絵図が広げられ、さらにその上に背中の曲がった醜い老人が立っていた。老人は良秀という名の絵師であった。
東堀川の位置に描かれた、小さな河童の絵。それが、絵図から剥がれてふわりと浮かび、煙と消えた。誰かが――恐らくは晴明が――河童を倒したのだ。
良秀は手にした絵筆を一舐めすると、頬杖をついた。あの河童は駄作だ。すぐやられて何ら不思議はない。もっと強大で禍々しい奴を描きたいのだが……どうも想像の翼がしおれている。
部屋の隅に安置した骸骨を見やる。鮮やかな紅の着物を着せた、娘の亡骸。ぽっかりと空いた目の空洞をじっと見つめる。
熱かったであろう……。さぞかし……苦しかったであろう……。のたうつ大蛇の如き紅蓮の炎に焼かれて、娘の髪がちぢれ、肌が爛れていくのを、良秀は眺めていた。徐々に弱まっていく悲鳴を、良秀はただ聞いていた。愛する娘の死にゆく様を、時間をかけて思い出し、絵師は狂気を充填する。
よし、いける。久々に得意の「火車」を描くとしよう。
赤の絵具を練っていると、天井から一匹の蜘蛛が糸をつたって下りてきた。それは全長一尺あまりの大きな体と――人間の女の顔を持っていた。よくよく見れば、良秀の娘の顔であった。
式神。趣味の悪い真似をする。
蜘蛛を吊るしていた糸が天井近くで切れたかと思うと、糸はたちまち炎の鞭となって良秀に襲いかかってきた。やむを得ず、絵筆で受け止め、即座に手を放す。巻き取られた絵筆は、蜘蛛の口に入る頃、もうほとんど消し炭になっていた。
良秀は素早く別の絵筆を取り出し、赤の絵具をたっぷりと含ませ、中空に円を描いた。すると、円はたちまち光り輝き、中から蜂の群れが飛び出した。式神には式神。
蜂たちがかちかちと顎を鳴らすと、それぞれの全身が赤熱した。その集団はまるで火の粉の塊であった。
蜘蛛は蜂の群れに向かって炎の鞭を激しく振り回した。蜂の群れはばらばらに散ることでそれをかわし、蜘蛛の本体を包むように、再び集まった。そして、紅に輝く何本もの針が、蜘蛛の全身を滅多刺しにした。娘の顔も、構わず刺した。
まもなく蜘蛛の体は煙を生じながら倍以上に膨れ上がり、弾け飛んだ。その爆発に巻き込まれて、蜂の群れも消えた。
まったく、今さらこの儂が娘の顔ぐらいで動揺すると思うのか。つくづく人を馬鹿にしている。
良秀は天井に向かって怒鳴った。
「そこにいるんだろう。降りてこい、晴明」
空いた穴から一匹の鼠が下りてきて、言った。
「元気そうだな、良秀」
鼠はたちまち若い――見かけの上では――陰陽師に姿を変えた。
良秀は晴明を睨みつけた。
「一体何の真似だ」
「日がな一日絵を描いてばかりで、体が鈍っているのではないかと思ったのだ」
「心配無用。ご覧の通りだ」
「そうらしいな」
「戯れるにしても、術を選べ。火の式神など使って、この絵図が燃えたらどうする」
「お主こそ水の式神で応じれば良かったではないか。火を火で押し返すとは強引な」
「ふん、火行の術は儂の領分だ。張り合いをさせてもらっただけのことよ」
「相変わらずだな」
晴明は絵図の上にふわりと腰を下ろした。
良秀は晴明に絵筆を向け、唾を飛ばした。
「それより、大事な絵筆を一本焼かれたぞ。弁償しろ」
「絵筆ならその手に持っているではないか」
「つまらん冗談はよせ。儂を怒らせに来たのか?」
「わかったわかった。そう息巻かないでくれ。代わりの絵筆はすぐに届けさせる」
「一体何の用だ? よもや戯れに来たのではあるまい?」
「戯れに来てはならぬのか?」
「晴明、油断は身を滅ぼすぞ。もしも誰かに後をつけられ、この自作自演が露見したならば、貴様は今の地位を失うだけでは済むまい。地獄の責め苦に遭わされるだろう」
都のいたるところに現れ、人々を苦しめる妖魔は、実は妖魔などではない。良秀が絵図を用いて召喚した式神なのである。冥界との門が開かれでもしない限り、妖魔はそう都合よく頻繁に現れるものではない。
戦いに長けた晴明が、名声を獲得し、また維持する為、この良秀に命じて、討伐の相手を作らせているのであった。
晴明は平然と言い放った。
「お主も同罪ではないか」
「だから言っているのだ。片棒を担がせておいて、不用心が過ぎる」
「案ずるな、良秀。多少の脚色を加えているとは言え、私が最強の陰陽師であることは動かぬ事実。万に一つ、事実が露見したところで、この安倍晴明を罰することなど誰にできる?」
盛者必衰。世の理が脳裏をよぎったが、良秀は黙っていた。
並の人間の寿命はとうに過ぎているくせに二十歳そこらの容貌を保ち、五行の力を自由自在に操る陰陽師。この魔王を裁ける者など、良秀の寿命――せいぜいあと十数年――までにはまず現れまい。
とは言え、揺るぎそうもないのは晴明一人であって、ただ手を組んでいるだけの自分は決して安泰とは言えない。一切の罪をかぶせられ、捨てられることさえあり得る。危険の種は極力排除しておかなければならない。
「貴様の力を疑いはせんが、この際だ、もう一つ言っておくぞ」
「何だ?」
「儂があの河童を描いてから、消えるまでが随分早かった。貴様、笛の音を聞かずに手を出したのではないか?」
「気づいたか」
「馬鹿なことを。それでは、どこに妖魔(・・)が現れるか、貴様があらかじめ知っていたと悟られかねないではないか」
「普段はきちんと笛の音を待っているのだ。今日の一件ぐらい、誰もがただの偶然と考える」
「儂の身にも関わることなのだぞ。もっと慎重になれ。何故笛の音を待たなかった?」
晴明は少し言葉を探し、微笑んで言った。
「知りたいか?」
「なんだ、まともな理由があるのか?」
「ちょうどその時近くに居合わせたのが、贔屓にしている検非違使でな」
「贔屓と言ったか? 貴様が人を贔屓にするとは意外だな」
「あの男は、まだ生かしておきたいのだ」
「理由を訊いたら答えるか?」
「そうだな……兄弟のような存在、とでも言っておこう」
「兄弟?」
どういう意味だ?
「いずれお主が事の顛末を知る日が来るやも知れぬ。だが知る必要はない話だ。お主の喜びは、邪悪な絵を描くことであろう。その絵に私も助けられている。持ちつ持たれつだ。何の不満がある?」
……いや。
「何も文句はない。下手な詮索をする気もない」
「ならば、今後とも、よろしく頼むぞ。次は明後日の夕刻、西の市であったな。そう睨むな。次は笛の音を待つ」
「是非そうしてもらおう」
「雑魚ばかりではつまらん。たまには歯ごたえのある奴を描いてくれ」
「そのつもりだ」
「では、楽しみにしているぞ」
そう言って、晴明は蝙蝠に姿を変え、夜の闇に消えていった。
鼻の痒みが気がかりで、円融は御簾の向こうから聞こえてくる言葉を聞き逃してしまった。
「今一度申せ」
「では、おそれながら申し上げます。陰陽院増築の件、どうかご再考いただけませんでしょうか」
声の主は右大臣藤原頼忠である。明晰にして実直、臣下からの信頼も厚いが、いささか融通の利かないところもある。
「今は妖魔の撲滅こそが急務。そのためには、優れた陰陽師を幾人も育てねばならぬ」
「仰せの通りにございます」
「頼忠はこの都が妖魔に食い潰されても構わぬと申すか」
「滅相もないことにございます」
「ならば何故、増築に異を唱える」
「私は増築自体に異を唱えているのではございませぬ。ただその造りが華美に過ぎやしないかと申すのです」
金箔をあしらった五重塔。完成すれば、この御所を除いて、都中で最も人目を引く建築物になるだろう。他の寺社など比べ物にならない。
ああ、それにしても鼻が痒い。今は妖魔や陰陽院よりこの痒みの方が深刻な問題だ。
「あくまで子供らの修行の場でございましょう。もっと質素なものでも事足りるのでは」
「晴明が必要だと申しておるのだ」
「しかし……」
話を切り上げるべく、円融は早口でまくしたてた。
「この都で最も優秀な陰陽師が、後進の育成には黄金の塔が必要だと申しておるのだぞ。難癖をつけるなら、頼忠一人で妖魔を退治してみせよ。十匹も倒せば認めてやろう」
「……出過ぎたことを申しました」
「わかればよい。もう下がれ」
「おそれながら、もう一つ」
しつこい男だ。苛立ちでますます鼻が痒くなる。
いっそ罷免してしまえればよいのだが……この男なしでは政務が回らない。
「黄金の塔を建てるには、蓄えが不足しております」
「そんなもの、何とでもなろう」
「ならぬが故、申しておるのです」
「税を増せばよかろうが」
「民は既に重税に苦しんでおります。何卒ご慈悲を」
「頼忠、古来より民というものは重税に苦しむものだ。青臭いことを申すな」
「昨年の日照りを覚えておいででしょう。ただでさえ民は困窮しておるのです。これ以上負担を強いては、さらに餓死者を出すことになります」
「それは大ごとだ。人の命は何より尊い」
「左様にございます」
「妖魔を倒さねば人が死ぬ。妖魔を倒すには陰陽師を育てねばならぬ。陰陽師を育てるには、黄金の塔を建てねばならぬ」
「……」
「余は何かおかしなことを言っておるか?」
「いえ」
「では、下がれ」
「は」
やれやれ、漸く済んでくれた。いつもながら頼忠の正義感には辟易する。
だが、いざ口うるさいのが去ってみると、円融の胸にはしこりのようなものが残っていた。
このところ、妖魔だけでなく、盗賊も随分増えている。民が飢えている証だ。まともな手段で生活が立ち行かなくなれば、自然、奪うしかなくなる。
盗賊や乞食、そして餓死者は、当然のことながら税を納めない。税収がなくなれば、黄金の塔どころではない。この社会そのものが崩壊する。
それに、世間が自分をどう見るか、決して気にならないではない。ただ父の後を継いで即位しただけであって、志など何もないが、どうせなら良き支配者として――名君とまでは呼ばれなくていい。無難な評価が得られれば十分――歴史書に書かれたい。民の暮らしを完全に無視するのは得策ではい。
正直なところ、金箔を貼る必要はないのではないかと、円融も感じていた。
だが、先ほどのように突っぱねた手前、今さら掌を返すのも憚られる。
しかし、金箔は確かに贅沢が過ぎる。
けれども、図面通りに造ると一度約束しているのだから、やはり変えたいなどとは言い出しにくい。晴明の機嫌を損ねては大変だ。それだけは避けねばならない。
だが……。
円融はしきりに鼻を掻きながら、堂々巡りを繰り返した。何故よりによって余の治世にこうも立て続けに災難が起こるのだ。取り急ぎ、この鼻の痒みだけでも治まってくれないと、考え事すらままならない……。
「帝、何かお悩みですか」
左目が青、右目が黄色、毛並みは艶やかな黒の猫が、御簾をくぐりながら、人の言葉を話した。
「おお、晴明か。良きところへ」
「お鼻が疼くようですね」
「そうなのだ。すぐに治療を頼む」
「お安い御用でございます」
言うが早いか、晴明は人間の姿になり、狩衣の袖を一振りした。と、その手には一枚の真っ白な紙が出現していた。
「失礼」
晴明は紙を円融の鼻に当て、そっと指でおさえた。膿を吸い取るのだという。
鼻がじわりと熱くなり、毛穴から何か出ていくのが感じられる。痒みに替わって訪れた心地よさに、思わず漏れそうになるため息を、円融はぐっと飲み込む。晴明の端正な顔がすぐ近くにあるのだ。澄んだ瞳が物怖じもせずこちらを見つめている。見つめ返しては気がどうかなりそうで、円融は晴明の手元に視線を落とすか、瞼を閉じている。
「はい、きれいになりました」
晴明が再び袖を一振りすると、膿を吸った紙はその手から消え、替わって小瓶が握られていた。
「あとはこの軟膏を」
「うむ」
晴明の白く細い指が、小瓶から薄緑色の軟膏を少量すくいとり、そっと撫でるように、円融の鼻に塗りつける。
軽く熱を帯びた鼻に、軟膏のひやりとした触感が、これまた無上の快感である。
指を動かしながら、晴明はしおらしい声で言った。
「申し訳ありません、帝」
「何を謝る。晴明の治療には感謝しているぞ」
「もったいなきお言葉。ですが、私には症状を一時的におさえることしかできません。すっかり治して差し上げられれば良いのですが……」
「気にすることはない。他の医者では手も足も出なかったのだ」
それに、完全に治ってしまっては、この至福を味わうこともできなくなる。
「お悩みは病のことばかりではないようですね」
「ああ。帝という身の上にあっては、悩みが尽きることなどないようだ」
「お聞かせいただけませんか。お鼻の病を根治できぬ分、せめて他のことでもお役に立ちとう存じます」
では、金箔をやめにしないか。……とは、言えない。
御所中の武人が総がかりでもまず敵うまい。晴明に何かを強いることは不可能なのだ。もし何か気に入らないことがあって晴明がどこかへ行ってしまったら、都は妖魔に滅ぼされ、円融は鼻の痒みで発狂するだろう。
どうあってもこの晴明だけは繋ぎ止めておかなくてはならない。どんな犠牲を払ってでも。
「陰陽院の件でございましょう?」
ぎくりとして、円融は晴明を見た。
「聞いておったのか」
「いえ、まさか。ただ、民の暮らしぶりを垣間見ておれば見当はつきます」
薬を塗り終えた晴明は小瓶の蓋を閉め、それもまた宙に消した。
「実はその通りなのだ、晴明。民を苦しめることは本意ではない」
思い切って、そう言った。晴明の口から民という言葉が出た。少なからず理解はあるということだ。
「帝のお優しさには感服するばかりでございます」
「何事をなすにも税を取らねばならぬ。一つ、どうだろう。晴明の設計にけちをつける気はないが、か弱き民への慈悲として、金箔で覆うという部分については、一考の余地ありと思わぬか」
晴明の穏やかな顔に、影がさした。しまった。やはり余計なことを言うべきではなかったか。
少しの沈黙の後、晴明が口を開いた。
「かくなる上は、申し上げぬわけにまいりますまい。この晴明、如何な罰も受け入れましょう」
「何のことだ?」
「帝は、私が何の為に件の塔を金箔で覆おうとしていると?」
「いや、考えもせなんだ」
陰陽師の権勢を誇る為……ではなかったのか?
「実は、金箔には妖魔を退ける力があるのです」
「なんと、そうであったか」
「妖魔の中には知恵を持つ者が少なくありません。成長する前に芽を摘んでしまおうと、陰陽院を襲ってくることも十分考えられるのです」
「うむ、ありそうなことだ」
「黄金の塔には才ある子供だけを入らせるつもりです。しかし、才に恵まれようと子供は子供。突然襲われてはひとたまりもありません。特に、瞑想の最中などは心身共に無防備にならざるを得ないのです」
「よくわかった。だが晴明、何故それを先に言わなかった?」
「お怒りにならぬのですか?」
「理由を申せと言っている」
「金箔にそのような力があるなら、まずこの御所をこそ、守護すべきではありませぬか」
なるほど、言われてみればその通りだ。
しかし今までにこの御所が妖魔に襲われたことなど一度もない。晴明が十分に警戒しているのだろう。差し迫った危険はない。
となれば、ここは寛大なところを見せておくに限る。
「何を愚かなことを。妖魔との戦いについて余は何の力も持たぬ。前途ある子供らを優先しようというのは、至極真っ当な考え方ではないか」
晴明の目に涙が浮かんだ。
「ああ、帝。この晴明は帝のような方にお仕えできて幸せにございます」
「大袈裟な奴だ」
「本心にございます」
晴明は品よく涙を拭うと、再び黒猫に姿を変えた。
「では、帝、何か心にかかる事がございましたら、いつでもご相談くださいませ」
「ああ」
黒猫は尻尾をくねらせながら、御簾を出ていった。
金箔を貼る理由さえ話せば、頼忠も納得するだろう。増税はやむを得ない。陰陽師を守らねば、この都に未来もないのだ。
そこら中に死体が転がっていた。戦場ではない。都の中心、朱雀大路である。
真昼時、死臭漂うその道を、二人の検非違使が顔をしかめながら南へ向かって歩いていた。武弘と秋津であった。
死体は鳥辺野や化野、蓮台野へ運ぶ決まりだが、死体運びを生業とする者たちが病で全滅したとかどこぞへ逃げ出したとかで、その決まりはあってなきに等しいものとなっている。
放置された死体は疫病の元となる。疫病が死体を増やす。恐るべき悪循環。仕組みは単純だが、容易には止められない。
赤ん坊の死体を野犬が食い荒らしているのに出くわし、秋津が呟いた。
「世も末だな」
「末などまだ来てたまるか。秋津、お前にも子があるだろう。日々は続いていかねばならぬ」
と、武弘は鷹揚に言ったが、内心はやりきれない気持ちであった。
誰であれ、掃き清められた更地に死体を捨てるのには抵抗を感じるだろう。だが、掃き溜めならば誰かが死体を捨てる。そこに一つ死体があれば、さほどの罪悪感もなく、人は次々とその周辺に死体を捨てていく。
朱雀大路の南端、羅生門は、竣工当時の堂々たる風情は――武弘は想像するのみだが――見る影もなく、廃屋同然の有様で、その楼閣は今やすっかり死体置き場となっていた。
そのことを皆知っているので、門をくぐる時は誰もが足早になる。楼閣に上って景色を眺めようとする者などない。実際上ってみたところで、拝めるのは鼠が走り回るのと烏が死肉をついばむ姿ばかりである。
「なぁ武弘、やはりやめにしないか」
「ここまで来て何を言うか」
二人の検非違使は、今まさに羅生門の下で、楼閣を見上げていた。
誰も寄り付かない。それは、悪事を働く者たちにとっては実に都合の良い場所だ。近頃都を荒らしている盗賊の一団が、この楼閣を襲撃の拠点にしているのではと、武弘は考えた。まさか住処にはすまいが、武器や少量の戦利品を隠しておくのにはちょうどいい。
「勇気を出せ、秋津。盗賊どもの足取りを掴むきっかけになるやも知れぬのだぞ」
「死体置き場だろう、ここは。こんな場所を好きこのんで使う者などいるのか?」
「だからこそ怪しむべきなのだ。夜中にここで人影を見たという声もある」
「死体を置きに来たのだろう」
「こんな気味の悪い場所へ、わざわざ夜中にか? 俺でも御免こうむる」
「もし、妖魔だったらどうする」
「その時は笛を吹けばいい。妖魔が隠れ家を使うとも思えぬがな」
「では、もし、今盗賊がいたらどうする」
「検非違使が何を言っている。その時は捕らえるに決まっているではないか」
秋津は青ざめて俯いたまま、動こうとしない。
「……もういい。俺一人で行く」
と、武弘は梯子に手をかけた。
「待て。俺も行く。置いていかないでくれ」
「わかった。だが、一人ずつだ。梯子が折れるやも知れぬ」
秋津が頷き、武弘は梯子を上っていった。
と、上り切る寸前で、武弘の手が止まった。
秋津が不安げに声を上げた。
「どうした?」
武弘は秋津を睨み、口元に人差し指を立てた。
秋津は慌てて口を手で塞いだ。
武弘は唇の動きで伝えた。
「誰かいる」
微かに衣擦れの音がするのである。
音は一つの場所から動かない。何者だ? こんな場所で一体何を? ……何であれ、構うものか。見ればわかる。
武弘は思い切って梯子を上り切り、大声を出した。
「そこで何をしている!」
楼閣の内部は、噂通り、死体が散乱していて、凄まじい腐臭が立ち込めている。武弘は鼻を押さえながら、周囲を見回した。皆、死んでいる。時が止まっているかのようだ。この空間に生きた人間は武弘一人。
いや、いた。白髪の老婆が一人、平伏して震えている。
「武弘、何があった!」
下から秋津の声と、梯子が激しく軋む音。
「大丈夫だ。ゆっくり上がってこい。足を踏み外すぞ」
老婆は一切動こうとしない。災難が通り過ぎるのをひたすら祈っているかのように。
武弘は相手を落ち着かせようと、低い声で言った。
「今一度訊く。ここで何をしている」
「何卒お許しを……」
「何をしているのかと訊いているのだ」
「お許しを……後生でございますから……」
その時、秋津が顔を出した。
武弘は少し語気を強めて老婆に言った。
「言わねば手荒なことになるぞ」
「待て、武弘」
と、秋津が口を挟んだ。
「何だ」
「婆さん、顔を上げてくれないか」
秋津の言葉に、老婆はゆっくりと顔を上げた。痩せこけた、皺だらけの醜い顔であった。
秋津は柔らかな声でさらに言った。
「その手に持っているものを見せてくれ」
老婆はためらいながらも、衣の下に隠していた手を出した。握られていたのは、毛髪の束であった。
「鬘(かつら)でも作ろうとしていたのだな?」
老婆は再び平伏し、言った。
「お許しくださいまし。他に生きる術がないのでございます」
死体はもう物を言わない。髪を抜かれようと、痛みも困りもしない。ただ朽ちてゆくばかり。だが、これは悪しき行いだと、武弘は直感した。死者への冒涜。
「それでも人間か。死体から何かを得ようなどとは、野良犬や鼠と変わらぬではないか」
「仰せの通りにございます。この婆は卑しき畜生めにございます」
「開き直るな。お主、地獄へ堕ちるぞ」
「これ以上の地獄などありましょうか?」
武弘は返答に詰まった。
秋津が言った。
「身寄りはないのか?」
「ありませぬ。あったところで、飢えることに変わりはありますまいが」
「苦労してきたのだな」
それは心からの憐憫の声であった。臆病で、武芸の腕も並以下だが、こういう声は秋津にしか出せない。
「お侍様がた、ご覧の通り、民の暮らしは逼迫しております。儂とてこの歳まで生き長らえたことが不思議でなりませぬ」
武弘は苛立たしげに言った。
「税を取るな、と申すか」
自分たちは民の税で生かされている。そのことは重々承知している。
「いえ、ただ……」
「何だ。申せ」
「子供らの学び舎に金箔とは、あまりに贅沢ではないかと」
公にされている話ではない。が、人の口に戸は立てられぬということだ。
「愚か者め、金箔はただの飾りではない」
昨日、右大臣より珍しく説明があり、内心疑問を抱いていた武弘も、それで合点がいった。
「未熟な子供らを守る為のものなのだ」
陰陽院には我が子、武久も明日から通い始める。
「優れた陰陽師を育てねば、都は今に妖魔どもの巣窟となる」
「それは恐ろしきこと。されど、今は妖魔などより飢えの方が恐ろしゅうございます」
たまらず、武弘は声を荒げた。
「盗人猛々しいとはまさにこのこと。引っ立ててくれる」
「どうせ明日をも知れぬ身。いっそこの首刎ねてくだされ」
老婆の目が真っ直ぐに武弘を見た。武弘は思わず唾を飲んだ。
虚勢ではない。諦観でもない。生死を超越しているかのようなこの眼差し、果たして飢えだけで培われるものだろうか?
昂奮した頭が冷静さを取り戻すと、当初の目的も思い出された。
「婆、初めてここへ来たのはいつだ?」
「確か……三、四日前でございました」
「ここで盗賊を見かけたことはないか?」
「はて、死体を捨てに来る者の他に、ここで人を見たことはありませぬ」
秋津が武弘に言った。
「となれば、もうここに用はない。行くとしよう、武弘。死者を弄ぶのは俺も感心せんが、他に生きる手立てがないなら仕方あるまい」
「わかった。お前の言う通りにしよう」
老婆の顔に、微かに安堵の色が浮かんだ。それは死体損壊の罪を咎められずに済んだ、というのとは少し違うように思われた。思い込みかも知れない。が、武弘は敢えて決めつけ、秋津が下りた後、梯子に足をかけながら言った。
「仲間に伝えておけ。たとえ飢えていようと、盗賊は我ら検非違使が許さぬ」
何のことやら……という目で、老婆は武弘を見た。
武弘はそれ以上言わず、梯子を下りていった。
文字を学ぶべきか。真実を伝えるべきか。迷っている間に、臨月を迎えた。生まれてきた子を腕に抱き、涙を流して喜ぶ夫の顔を見て、真砂は迷いを捨てた。
そもそも、あの陰陽師の胤(たね)とは限らない。武弘の胤である可能性の方が遥かに高い。そうとも、この子は武弘の子だ。あの日の出来事は生涯隠し通す。墓まで持っていく。
真砂が声が出せぬ分、武弘は努めて武久の相手をしてくれた。夫の優しさと、成長する我が子の姿に、本当に少しずつながら、真砂の心の傷は癒されていった。
ところが、武久が六歳の時であった。
「母上、ご覧ください!」
武久の両手の上で、風もないのに、一枚の木の葉が踊っていた。
戦慄し、ほとんど無意識のうちに、真砂はその木の葉をひったくった。
武久は驚き、その目に涙が浮かんだ。けれど、涙が出そうなのは真砂の方だった。
陰陽の力は遺伝でのみ伝えられるものではない。平凡な両親から才持つ子が生まれることもある。しかし、武久の子がたまたま才に恵まれたと考えるのは、あまりに都合が良過ぎる。この子はやはりあの陰陽師の子だったのだ。
こみ上げる吐き気をやっとの思いで飲み込み、唇を血が滲むほど噛み締めた。そして、かわいそうとは思いながらも、武久を強く睨みつけ、ゆっくりとかぶりを振った。
この力を使ってはいけない。幼い武久にも母の願いは通じたらしく、それ以来、術を見せることはなくなった。
武久が十一歳の時――今から一年前――陰陽院が創設され、何も知らない武弘は度々、武久に入学を勧めた。武久は検非違使になりたいと言ってそれを拒み、武弘も強要はしないことが救いだった。
その頃には、武弘が安倍晴明の名を口にし、その力を褒め称えても、眉一つ動かさぬ胆力を、真砂はすっかり身に付けていた。
あと少しで、全てを乗り越えられる。そういう実感があった。
武久が陰陽院に入ると言い出したのはそんな矢先のことだったので、真砂はひどく打ちのめされた。私がこの世で最も憎む存在――そして、考えたくもないが、実の父親――に、この子は物を習いに行くのだ。
流石に隠し切れず、顔に出てしまった。しかし、幸か不幸か、夫も息子も、真砂の心の内をすっかり誤解していた。
夫は言った。
「お前が心配する気持ちはわかる。陰陽師となった暁には、自ら進んで危険に身を晒すことになるのだからな。だが、危険な分だけ、誉れ高き仕事だ。武久がいつか晴明様のように戦ってくれたら……そう思うだけで、俺の胸は高鳴るのだ」
息子は言った。
「あの日、母上が私をお叱りになったこと、ずっと不思議に思っておりましたが、あれは将来妖魔との戦いに巻き込まれはせぬかと、私の身を案じてくださったのですね。不義理にも私は今、母上の望まれぬ道を行こうとしております。どうかお許しください。検非違使に未練がないとは申せませぬが、この力はきっと、陰陽師として父を助け、いつか母上の病を治す為に天から授かったものなのです。幼き頃より、体は鍛えておりました。そう易々と妖魔などにやられはしませぬ。ご安心くださいませ」
病ではない。あの陰陽師にかけられた呪いなのだ。陰陽術を用いれば祓うことはできるに違いない。
文字を知らぬことが、歯止めになっていた。強いられていたおかげで、噛み殺せた。声を取り戻してしまった時、果たして私は秘密を守り抜けるだろうか?
真実を知ったら武弘はどんな顔をするだろう? そして、武久は――?
言えない。言えるわけがない。私が耐えなければ、家族が家族でなくなってしまう。心を閉ざすのだ。固く、死者の拳のように。救いなど求めてはいけない。
「それでは、いってまいります、母上」
入学の朝、真砂は全精力を傾けて笑顔を作り、武久を送り出した。一人になると、その場に崩れ落ち、肩を震わせて泣いた。
「何だ、能無しではないか」
背後から聞き知った声。道兼。武久は無視して陰陽院への道を歩き続けた。
「つれないな。今後は学友となるのだ。これまで通り、仲良くやろうではないか」
「お前と仲良くした覚えはない」
「つまらぬ意地を張るな。旅は道連れ、世は情けだ」
「取り巻きがいなくて不安なのか?」
図星だったらしく、次の言葉にやや間があった。
「それにしても、お主が陰陽師を志すとはな。どういう風の吹き回しだ?」
「お前には関係ない」
「まぁせいぜい励むがいい。だが、才がないとわかっても落胆はするなよ。蛙の子は蛙。鳶から鷹は生まれぬ」
才ならある。だが、すぐにわかること。今言い返す必要はない。
問題は使い物になるかどうかだ。母に禁じられて以来、研鑽を積んではこなかった。木の葉や木刀を操れる程度では妖魔とは戦えまい。芽はあれど、育つかどうかはまだわからない。
「おい、能無し」
「その呼び方をやめろ。俺には武久という名がある」
「ふん、これから能有りになろうとしているのだしな。良かろう。名で呼んでやる」
どこまでも高慢な奴だ。こちらからは名など呼んでやるものか。
「武久。お主、今から何を学びに行くか、わかっておるのか?」
「陰陽術」
「そうとも。剣術ではないのだぞ。なんだ、その腰の木刀は」
今のところ、自分が術を行使できるものの一つ。学びの助けになるかと思い、差してきた。
「何を持っていようと、人の勝手だろう」
「捨てていけ、そんなもの」
「うるさい。お前に指図される筋合いはない」
「チャンバラごっこへの執着を捨てねば、身に付くものも身に付かぬぞ」
「剣術を愚弄するな。黙らねば打ち据えてやるぞ」
「打ちたくば打てばいい。だが、木刀で妖魔が倒せるか?」
その時、一陣の風が吹き抜け、どこからともなく声がした。
「心を柔らにせよ。何事も決めつけてはならぬ。陰陽術は森羅万象を操るもの。木刀も立派な武器となる」
その言葉に続いて、周囲の地面が一気にせり上がって壁となり、武久と道兼は中に閉じ込められてしまった。いや、それだけではない。壁は内へ内へと迫ってくる。このままでは、潰される。
あまりにも突然の出来事に、道兼は口を開けたまま固まっていた。しかし、武久は己を失わなかった。
わかる。土ならば、木が制する。
「任せておけ」
そう言って、木刀を抜いた。大きく息を吸い、振り上げる。そして、身体の力と陰陽の力、両方を自然に働かせ、振り下ろす。
土の壁に亀裂が入り、粉々に砕け、何事もなかったかのように元通りの地面に戻った。道兼は未だ口を開けたまま武久を凝視している。
「見事」
声の主は、白い犬であった。かと思うと、犬は狩衣姿の若者に姿を変えた。
「晴明様!」
道兼が叫んだ。
この男が、安倍晴明。噂は父からさんざん聞かされていたが、武久が実物を見るのは初めてであった。
「蘆屋道満の子、道兼であるな」
「は、はい!」
「これでわかったであろう。ただの棒きれとて、侮ってはならぬ」
「はい。ご教授ありがとうございます。私が未熟でございました」
と、道兼は地面に額をこすり付けた。今日は珍しいものを随分見る。
「そこな少年、よくぞ我が術を破った。既に陰陽術のいろは(・・・)は掴んでいるものと見える」
「いえ、立ちはだかったものが土以外の壁であったなら、私にはどうすることもできませんでした」
「ほう」
晴明は細い顎に手をやり、微笑んだ。
「にほへ(・・・)あたりには達しておったか。将来が楽しみであるな。依代(よりしろ)も既に手にしておる」
「よりしろ?」
と、武久と道兼は声を揃えた。
「陰陽術の助けとなる道具を依代と呼ぶのだ。あるとないでは術の威力がまるで違う。少年よ、その木刀、大切にするがいい」
そう言い残して、晴明は再び白犬の姿になり、去っていった。
素質を認められたらしい。しかし、武久は浮かれてはいなかった。
ここまでは、知れたこと。慢心することなく、学ばねばならぬ。母の病を治す為に。
「槌音が聞こえるでしょう。この堂の隣に、今、金箔貼りの塔を建てているのです。選抜され、その塔へ入ることが、諸君らの当面の目標というわけです」
講師、蘆屋道満は、糸のように細い目をした、温和そうな男であった。父上と呼んで駆け寄ろうとする道兼を睨みつけた時だけ、恐ろしい形相になった。道兼は驚き、それきり大人しくなった。どうやら道満が講師であることを知らされていなかったらしい。日頃父親が陰陽師であることを自慢していた割に、父子の関係は円満とは言えないようだ。
「とは言え、塔へ入ることが終着点と思ってはなりません。あくまでも通過点。ゆくゆくは……いえ、実を言えば一刻も早く、諸君らには立派な陰陽師になってもらいたいのです。あの安倍晴明様を超えるほどのね」
俄かに堂内がざわついた。晴明を超えよとは、初日から随分過激なことを言う。
「それではこれより、入学試験を行います」
その言葉に、今度は一同、水を打ったように静まり返った。
武久の隣にいた道兼が手を挙げ、言った。
「父上」
道満は無視して、桐の箱を開け、紙を取り出している。
道兼はもう一度言った。
「父上!」
武久は道兼の袖を引き、囁いた。
「わからぬか、道兼。ここでは父と子ではない。先生と呼べ」
道兼は不満げであったが、やがて諦めたように言った。
「先生」
「何です?」
と、道満は子供たちに紙を配りながら答えた。
「入学試験があるのですか?」
「ええ、今から」
「試験があるなど、聞いておりませぬ」
それは武久も同じだった。
「陰陽術は天賦の才が物を言う呪法です。才がなければ、ここで過ごす時間は一切無駄になってしまいますからね」
「見込みのない者は去れと」
「そういうことです」
唐突だが、もっともな話だった。事前に知らせておくかどうかは、教える側にとってはさして重要ではなかったということだろう。
「試験の方法を説明します。配った紙を見てください」
そこに描かれていたのは五芒(ごぼう)星(せい)だった。一筆書きの星、さらにその五つの角全てに接するように円が描かれている。陰陽術を象徴する紋章。この堂の破風にも刻まれていた。
「今から丸一日、その紙を肌身離さず持っておき、明日のこの時間、私に返してください。以上です」
「父上……いえ、先生、それだけですか?」
「簡単でしょう? では諸君、また明日」
そう言って、道満は堂を出ていってしまった。残された子供たちは、誰一人動こうとしない。
紙を持っておくだけ? そんなことで才の有無がわかるのか?
「お前ら、知らないのか?」
堂の隅で声がした。声の主は、大人びた口調に反して、随分と幼い少年だった。恐らくこの中で最年少――七、八歳だろう。
「これは五(ご)星紙(せいし)といって、呪力の特性を調べる為のものだ。五つの角は頂点から右周りに、木・火・土・金・水を意味する。一日持っていれば、持ち主の力に応じて、どこかの角に穴が開く」
武久が立ち上がり、少年に言った。
「ならば、右下の角が開けば、火の力を持つ証ということか」
「まさしく」
「何故そんなことを知っている?」
「俺は一年前からここで学んでいる」
「一年前から? なら、どうしてここに?」
「正式に習っていたわけではない。金がなくてな。忍び込んで、天井裏や床下で講義を聞いていた。ある時とうとう見つかってしまったんだが、それまで見つからずにいた腕を認められ、晴れて授業料は免除ということになった」
大した奴だ。
「才がなければ、どうなる?」
言ったのは道兼だった。
「そんなこともわからんか、七光り。才がなければ、どこにも穴は空かん。当然だろう」
七光りと侮辱されても、道兼は何も言い返さなかった。不安なのだろう。先刻、晴明に試された時の様子からしても、道兼はまだ自分の才の有無を知らない。
「まぁ、気楽にやるといい。念じても祈っても、結果は変わらん」
少年が去ると、他の子供たちもそれぞれ帰路についた。
「ここがバレただと? ふざけんじゃねぇぞ、猪鹿の婆」
夜半、羅生門の楼上で、一郎は思わず声を荒げた。
「バレたとは言うておらん。バレたやも知れんと言うたのじゃ」
「その検非違使は仲間に伝えろとはっきり言ったんだろ。つまりバレてるってことじゃねぇか」
感情が高ぶると、七年前の痘瘡(とうそう)で醜く潰れた片目がずきずきと疼く。
「カマをかけてきただけじゃ。儂は何とも答えておらん」
「少なくとも相当怪しまれてるってことだよな?」
こちらを見もせず、死者の髪を撚りながら淡々と話す猪鹿の婆に、一郎はいよいよ腹が立ち、婆の襟首を掴んだ。
腕っぷしで一郎の右に出る者はいない。皆が黙って成り行きを見守っている中、一郎の弟、二郎が口を開いた。
「よせ、兄者。婆に非はない。ここが早晩、奴らに知られるであろうことは、はじめからわかっていたではないか」
「非はねぇだと? そうは思わねぇな。怪しまれたならすっとぼけてねぇでぶっ殺しちまえば良かったんだ。相手はたったの二人だったんだろ?」
「我らは義賊だ。無駄な殺生は、さ……」
そこで二郎は言葉を切った。後に何が続くはずだったか、一郎にはわかっている。
「何だ。言えよ」
「何でもない」
「言え」
「……沙(さ)霧(ぎり)の望むところではない」
「へぇ、そうかい。お前にゃ沙霧の気持ちがよーくわかるってか」
先代の頭領――猪鹿の婆のつれあい――が死んで二年、沙霧は若き女頭領として美しく成長した。先代の遺言がなかったとしても、この聡明な女丈夫が後を継ぐことに、誰も異存は唱えなかっただろう。
沙霧は今年で十六。とても十六とは思えぬほど妖艶になることもあり、かと思えば年相応の無邪気さを見せることもある。
一郎が盗賊団に加わり、沙霧と出会ったのは三年前である。一郎の目を見た者は大抵、見てはいけないものを見たという顔をするが、沙霧だけは違った。二人はすぐに打ち解けた。将来は、夫婦になる。そう信じて疑わなかった。
このところ、沙霧は、二郎と近しい。一郎に気づかれぬよう――実際のところ一郎は気づいているのだが――しばしば二人きりで会っている。
いつか娶るつもりでいると、本人に告げていたわけではない。何の約束もなかった。抱いてもいなかった。いつか沙霧を抱くことになるだろうと確信していた一郎は、未だ女を知らない。
二郎はもう沙霧を抱いたのだろうか?
まさか、訊けない。身が焦げるほど、その問いの答えを知りたいが、いざ答えが是であった時、果たして正気を保てるかどうかわからない――いや、決して保てはしまい。既に狂いかけている。
容色に恵まれた弟に向かい、一郎は噛みつくように言った。
「お前はどうせ今夜沙霧がどこに行ったかもわかってんだろ?」
「いや、それは俺も聞いておらぬ」
「どうだか」
「本当だ」
「気ィ遣わなくていいんだぜ」
次郎と近しくなった頃から、沙霧は十日に一度の集まりに顔を出さないことが増えた。どこで何をしているのか、皆知らないと言っているが、二郎だけは知っているに決まっている。
「ま、お二人のことに深入りする気はねぇよ。問題はここが検非違使連中に見つかっちまったってことだ」
「恐らく、じゃがな」
猪鹿の婆がぼそりと言う。
一郎は無視して続けた。
「こうなった以上は、いつ奴らが踏み込んでくるとも知れねぇし、俺らが留守の間に荒らされちまうかもわからねぇ」
金子や武器、変装の道具などが、躯の下や細工した壁の中に隠してある。一目見たぐらいではわからないが、時間をかけて調べられたら十中八九見つかってしまうだろう。
「集合場所を変えるしかねぇぞ」
「だが兄者、そうするにも沙霧の指示を仰がねばならぬ」
「お前は何でも沙霧、沙霧だな」
「沙霧が頭領だ。当然だろう」
「この場にいねぇ頭領の指示をどうやって聞くんだよ」
猪鹿の婆が話に割って入った。
「儂がここで待つさ。次の集まりまでに、沙霧も一度ぐらいはここへ来るじゃろう」
二郎が気遣うように言った。
「ずっとか?」
「死体に囲まれて過ごすのには慣れておる。責任も取らねばならんしな」
と、猪鹿の婆は一郎を見た。
「ああ、そうだな。しかし、その間に検非違使が来たらどうすんだ?」
「そん時は、お前さんのお望み通り、返り討ちにしといてやるさ」
そう言いながら、猪鹿の婆は撚り合わせた髪の縄をぴんと張って見せた。あの縄で絞め殺された人間は数知れない。
「上等だ。じゃ、言伝は婆に任せるとしよう。もっとも、俺に言わせりゃ、二郎の方が婆より先に沙霧と会うはずだがな」
二郎はそれには答えなかった。
そして、その晩は解散となった。
絵図へ筆を下ろそうとしたまさにその時、良秀は気配を感じた。
廊下に、誰かいる。
誰か、と言っても、この大広間へ来られる者と言えば晴明しかいない。
「また戯れに来たのか」
返事はない。
「退屈させていたなら悪かった。しばし待て。今ちょうど久々の大物に取り掛かろうとしているところだ」
やはり、返事はない。そして気配が殺気に変わった。
「おい、待てと言っておろうが」
晴明の相手をするふりをしながら、良秀は既に気づいていた。どうやら殺気の主は晴明ではない。
結界を破って入ってきたのだ。相当の手練。
「やむを得ん。遊んでやろう」
晴明と刺客、どちらに向けたともつかない口ぶりでそう言った直後、障子を突き破って、鉄の矢が射込まれてきた。
常人が見ればごく普通の矢だが、良秀にはそれが陰陽術の矢だとわかっている。
体を反らせて矢を避ける。矢は良秀の顔の横を通り過ぎると、ただちに反転して、再び良秀に向かってきた。
良秀は大きく息を吸い込み、飛んできた矢に対して炎を吹き付けた。矢はたちまち溶解した。
「ここまで侵入した腕は認めてやるが、下調べが足りなかったな。この儂に金行の術で挑むとは」
ところが、次の瞬間、障子が開け放たれると同時に飛び込んできたものは、良秀の予想に反し、水の蛇であった。
(ほう。二本(・・)差し(・・)か、それとも依代を持っておるのか……いずれにせよ、面白い)
良秀は蛇の牙をかわしながら移動し、絵図上のこの山荘の位置に、一筆で蛇の絵を描いた。すると、たちまち良秀の頭上に土の蛇が現れた。
「儂とて、火行の術しか使えぬわけではないぞ」
この絵図が良秀の依代である。絵図を用いれば、良秀は何に属する式神でも使役できる。
土の蛇が水の蛇の体に絡みついた。
「締め合いといこう。もっとも、土と水では勝負は見えておるがな」
それから間もなく、水の蛇は土の蛇に吸収されて消えた。
しかしその時、良秀は身動きが取れなくなっていた。背後に立つ何者かの手で、喉元に短刀を突きつけられていたのである。
土の蛇を召喚した時点で、気配はまだ廊下にあった。回り込むのは不可能だったはず。
「……なるほど。廊下に現れた殺気の主は、貴様ではなく、貴様の分身だったというわけか」
「ご名答」
若い女の声であった。
廊下からも女が現れ、たちまち霧となって消えた。分身の術。自身の偽物を式神として召喚する、高等技術である。
「今のが貴様か。見目を偽っていないなら、なかなか美人だな」
「実物の方が美しゅうございます。ご覧になりますか?」
肝の据わった女だ。
「拝見しよう」
喉元から刃物の気配が消え、目の前に姿を見せたのは、確かに分身よりも遥かに美しい女であった。凛とした眼差し、筆で描いたような鼻筋、あどけなさの残る唇。
もう無駄な抵抗をする気はなかった。その気がこちらにないことを、向こうも理解している風であった。
「絵師、良秀様でございますね。地獄を描かんが為、実の娘を乗せた牛車に火をかけ、その惨たらしく死にゆく様をつぶさに観察なさったという」
「いかにも」
「お目にかかれて光栄です」
「願わくば、名を聞かせてくれ。儂を真の地獄へ落とす美しき女の名を」
「沙霧。若輩ながら、義賊の一党を束ねる者です」
「沙霧、貴様どこまで知っておる?」
「この都にばかり妖魔が現れることを、常々不思議に思っておりました。冥界の王が帝の命を狙っているというのが通説ですが、妖魔は御所に向かうわけでなく、現れた場所で周囲の人間を気まぐれに襲うのみ。まるで狩ってくれとでも言わんばかりに」
「……」
「一年前、私自身が陰陽術に目覚め、式神を使役できるようになって、妖魔と呼ばれているものたちが、実は式神なのではないかと考えるようになりました。もし式神であるならば、そう遠くないところに術者がいるはず。私は義賊の仕事をしながら、洛中洛外をくまなく調べました」
「そして、ここへ辿り着いたというわけか」
「はい」
妖魔の正体に誰かが気づくことを、まるで考えないではなかった。しかし、あの五本(・・)差し(・・)の大陰陽師、安倍晴明に逆らう勇気など誰にもありはしない。そう思っていた、先ほどまでは。
「儂の替えなどいくらでもいる。黒幕を討てる見込みはあるのか?」
「ええ。あなた様が寝返ってくだされば」
そう言って、沙霧は微笑んだ。笑うと花が咲いたようであった。
「仰る通り、替えは利くのでしょう。ですから今あなた様を殺しても何にもなりません。晴明の警戒を強めさせるだけです」
「殺さぬ代わりに、従えというわけか」
「今だって脅されているのでしょう?」
「それは少し違う。地獄を描くことは儂の本懐。晴明と儂の利害は一致しておるのだ」
「でしたら、私とも利害は一致します」
「どういう意味だ?」
「良秀様はこれまで通り、妖魔を描き続けてください。ただ一度だけ、私たちが晴明を襲う時、そこへ渾身の一匹を描いてくだされば良いのです」
「……貴様が現れたことを、儂が晴明に告げたらどうする」
「その時は、殺される前に、あなたを殺しに参ります」
この女なら、それも可能だろう。だが……。
「寝返って討ち損じれば、やはり死ぬ」
「ええ」
「寝返ると口約束をしておいて、いざその時が来たら貴様を裏切る。そうするのが儂にとって最良の道とは思わぬか?」
「いいえ」
「何故だ?」
「そうすれば長生きはできるかも知れません。けれど、晴明の為に絵を描いている限り、あなた様は本当の満足を得られないまま、その生涯を終えられることでしょう」
「……生意気な」
「あの魔王を超える妖(あやかし)を描いてみたくはありませんか?」
良秀は歯ぎしりしたが、同時に、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。
沙霧の言う通りだ。実の娘を焼き殺して得たこの力、あの若造に――歳こそ重ねているが、心は幼い――利用されたまま終わるのでは、あまりに空しい。
「いつ、どこでやる?」
「式神を飛ばして知らせます」
「あいわかった」
「感謝します、良秀様」
恭しく一礼して、沙霧は大広間を出ていった。
一頭の牛ほどもある巨大な庭石が、水中の気泡のように、ふわりと浮き上がる。下に隠れていた蜥蜴(とかげ)が、慌てて別の石の影へ滑り込む。石は空中でゆっくりと横に一回転した後、極めて静かに着地する。
日の出前、陰陽院の縁側に座っていた道満は、閉じていた目を開き、立ち上がって、石に近づいていく。
石の下を見ると、雑草の生えていない地面が少しだけ剥き出しになっている。
(若干、ずれたか。もう一度だ)
道満は再び縁側に戻り、座って目を閉じる。
元あった位置へ正確に戻せるまで繰り返すのだ。道満の日課である。
(何だ? 重いな)
目を開くと、一羽の雀が石の上に止まっていた。
道満は落ち着いた声で言った。
「邪魔をしないでください、晴明様」
晴明は人の姿に戻ると、石の上で胡坐をかき、微笑んだ。
「いや、すまぬ。相変わらず真面目だな、道満」
「子供たちの指導を担う者として、己の鍛錬を欠かさぬのは当然のことです」
表向きは晴明が陰陽院の院長ということになっているが、実際に取り仕切っているのは道満である。晴明が直接子供たちの指導に当たったことはない。
「お主の息子、道兼も今年からであったな」
「はい」
「昨日、ここへ歩いてくるところを見たぞ。道兼の方はわからぬが、一緒にいた子供は光るものを持っておった。木刀を腰に差した少年だ」
あの子か。確かに、なかなか良い目をしていた。
「あの二人、競い合う仲になると良いな」
「もしそうなれば、願ってもないことですが……」
「何か問題があるのか?」
「道兼は入学試験を通れぬような気がしております」
「五星紙か」
「ええ」
「お主の血を引いておるのだろう。才がないとは考えにくいが」
「今年は一つ、細工を施してみたのです」
「ほう」
「才があるだけでは通れませぬ」
道兼は、育て方を間違えた。放任が過ぎた。この父の名を利用して、悪童たちの頭目のようなことをしているらしいが、きちんと叱る機会を逸したまま、今日まで来てしまった。
陰陽術の根本は精神力。心が歪んでいては、大成は望めない。
「初めから目の細かなふるいにかけようというわけか」
「はい。あの塔へ入ることすら見込めぬなら、陰陽師よりも別の道を歩ませた方が、本人にとっても世の中にとっても有益でございます故」
「うむ。やり方はお主に任せる。強い陰陽師を育ててくれ」
「力を尽くします」
雑魚の相手ができる程度では意味がない。精鋭でなければ駄目なのだ――この魔王を止める為に。
妖魔の正体が式神であることも、建造中の黄金の塔が、子供たちの為でなく、実は晴明自身が新たな力を得る為のものであることも、道満にはわかっている。わかってはいるが、道満一人では晴明の足元にも及ばない。故に、育てねばならない。共に戦う仲間を。
道満の考えは恐らく、晴明に見抜かれている。泳がされているのだ。碁の名人が強い対局相手を欲するように、晴明もどうやら遊び相手を求めている。癪なことだが、今はその稚気に感謝し、乗ずるより他ない。
晴明は再び雀に変化し、石の上で可愛らしくさえずっている。いかにも弱々しい。例えば、あの石を二つに断ち割って、その間に挟んでしまえば、容易に潰せそうだ。けれど、本当にそんな術をかけようものなら、石はたちまち巨木の根に飲み込まれ、道満は伸びてきた梢で串刺しにされるだろう。
妖魔のからくりを喧伝したところで、人は信じないだろうし、召喚士が始末されれば証拠もなくなる。問答無用で成敗する以外、手立てはない。
晴明は、その気になれば、帝や近習たちを皆殺しにし、都を恐怖で支配することもできるはずだ。しかし、そうはしない。英雄としての在り方に拘っている。そこに一縷の望みがあるような気がするが、今のところ妙案はない。
陽が差してきた。東の空に、塔の影。じき骨組みは完成し、金箔があしらわれることになる――民の血税であがなわれた金箔が。
「道満」
突然、雀の姿のまま、晴明が言った。
「実の親故に、厳しく接する。その心がけは立派だが、度が過ぎぬようにせねばならぬぞ。親に期待をかけてもらえぬ子は、陽を当ててもらえぬ蕾のようなもの。咲くはずのものも咲かなくなる」
「……は。肝に銘じます」
正論であった。己の正体は偽っているくせに。
晴明が去った後、もう一度石を回したが、先ほどよりもずれが大きくなっていた。動揺の現れと認めざるを得なかった。
朝食が喉を通らない。母が不安そうにこちらを見ている。父が言う。
「どうした、武久。しっかり食べぬと修行に身が入らぬぞ」
「はい」
どうにか顎を動かして玄米を噛み、青菜の汁で流し込むが、後が続かない。
「陰陽院で何かあったのか?」
「いえ、何かあったというほどのことは」
「初めのうちは色々と勝手のわからぬこともあろうが、何、大丈夫だ。ゆっくりと慣れていけば良い」
慣れるまでの時間すら、与えてもらえないかも知れない。
今朝、目覚めた時の絶望といったらなかった。親鳥が卵を抱くように、懐で大事に温めていた五星紙は、どこにも穴が開いていなかった。ごく小さな穴が開いているのではないかと、それこそ穴が開くほど捜したが、どこにもなかった。
あり得ない。そんなはずはない。現に、術は使えるのだ。才はある。何故この紙は反応しない?
あの少年の話によれば、木の力を意味するのは一番上の角。目覚めたら、ここに穴が開いていて、ほっと胸を撫で下ろす。そのはずだった。
あの少年が……もしや、嘘を? あの話が本当だという証拠はない。だが、嘘などついて何の得がある? 上位何名かが合格するという試験ではない。他人を蹴落としても何にもならない。
この紙が人の素質を見定めるものであることは疑いようもない。
自分には素質がないのか? 木の葉や木刀を操れるぐらいの力は、実は平凡なもので、妖魔と戦えるほどの使い手になることは望めないということか?
ならば、晴明のあの言葉は? 「将来が楽しみ」だと――父の憧れてやまない、都一の陰陽師が、自分に向けて確かにそう言ったのだ。
才は、ある。少なくとも道兼よりは。土の壁に囲まれた時、あいつはだらしなく口を開けているだけだった。自分が壁を破ったのだ。この手で、陰陽術で。あれは白昼夢などではなかった。
武久は煩悶する。何故だ? 何故穴が開かない? 知らないうちにこの紙の力を損なわせることでもしてしまったのか?
「具合でも悪いのか?」
と、父が顔を覗き込んでくる。
「緊張しているだけです」
「おかしな奴だな。昨日は堂々としていたではないか」
「道満様のお力を目にして、気持ちが改まったようで」
「おお、そうか。だが、固くなり過ぎてはならぬ。木刀を振るのと同じだ。肩の力を抜いていけ」
「はい」
もともと陰陽師になりたいわけではなかった。拒んですらいた。しかし志を持ってしまった今、なれないと宣告されるのは、崖から突き落とされるような気分だった。
父にも、母にも、絶対に言えない。けれど、これは入学試験だ。落ちれば、陰陽院に通うことはできなくなる。言わずとも、知られてしまう。
父はきっと慰めの言葉をかけてくれるだろう。それが痛い。想像しただけで惨めになる。
病を治すと、母に誓った。その約束も果たせないことになる。母は、顔にこそ出さなかったが――重荷になるまいとしてくれたのだろう――喜んでくれたはずだ。声を取り戻せるかも知れない。一度見せつけられたその望みを絶たれるのは、声を失った時の苦しみを再び味わわせるようなものだ。
両親に気づかれないように、武久は今一度、紙を見た。穴は――ない。あるべきものが、そこにない。
陰陽院までの道、昨日声をかけてきた場所で、道兼が待っていた。また並んで行く気だ、こちらの了解も得ずに。
「穴は開いたか?」
開口一番、道兼は武久が最も聞きたくない言葉を口にした。
「お前こそどうなんだ」
やむなく、訊き返した。
脈が急速に速まるのを感じながら、返答を待った。数歩の後、悲壮な声が聞こえてきた。
「我は、まだだ」
胸中に安堵が広がった。人の不幸を喜ぶなど、良からぬこととは思いながらも、抗えなかった。
顔色を変えないよう努めながら、武久は小さく言った。
「そうか」
「だが、丸一日というなら、まだ少しの時がある。回収の時までに穴が開くこともないとは限らぬ」
「ああ、そうだな」
そうか。言われてみればその通りだ。丸一日経って初めて反応が現れるものなのかも知れない。
まだ希望はある。そう思った時、目の前に突き出された五星紙は、右下の角に、穴が開いていた。あまりのことに、武久は色を失った。
道兼が笑い声を上げた。
「冗談だ、武久。我は蘆屋道満の子なるぞ。才はあるに決まっておろう」
今すぐ逃げ出したい衝動を、武久は必死に抑えた。
「見よ。父と同じ、土行の力を持つ印だ。昨日ここで晴明様が使われたような術を、我もいつか使えるようになるというわけだ」
土行の位置に、穴。確かにある。紙の向こう側が見える。道兼は今まさにこの穴から未来を見通しているのだ。
「もっとも、お主に容易く破られるような術で満足するつもりもない。出足は遅れを取ったが、すぐに追い越してみせる」
道兼は――武久の紙に穴が開いていると、信じ切っているのだ。無理もない。術を使うところをその目に見ている。
曖昧な受け答えをしながら歩く武久に、ある誘惑がまとわりついた。
あの穴、何ら特徴的なところはなかった。刃物で切り取ったような円でもなければ、輪郭に焦げ跡もない。小枝で刺したような、ただの穴――作れる。それこそ小枝で一刺しするだけのこと。造作もない。
才のない者がこの結果を偽ったところで、修行の過程ですぐに知れてしまう。だが、自分には才がある。学ぶ資格がある。五星紙に反応が現れないのは、何かの間違いだ。そうに決まっている。
陰陽院の堂に入る前、武久は道兼の目を盗み、小枝をそっと拾い上げた。
「紙を集める前に、諸君らに訊きます。何かに気付いた人はいませんか?」
答える者はなかった。武久を含め、子供たちは呆然と道満を見つめている。
道満は軽くため息をついた。
「そうですか。残念です。気付いた者は、紙がどうなっていようと、合格にしてあげたのですが」
子供たちの焦りが堂内を満たした。
何のことだ? 何に気付かなければいけなかった?
「この部屋、昨日と違うところがあるでしょう」
皆、一斉にあたりを見渡す。
武久はすぐに気付いた。だが、もう手遅れだ。やられた――。
あの少年がいないのである。昨日、やけに大人びた口調で、五星紙について講釈を垂れた少年。彼がいないということは……。
「何名か、漸く気付いたようですね。そう、諸君らが今持っている紙は、五星紙などではありません。ただの紙です。五星紙なるものは実在しますがね。
この試験は、才の有無以前に、心の強さを測るものだったのです。冷静な観察力で、あの少年が私の式神だと見抜いたら満点。それには至らずとも、現実を受け止め、己を偽らず、まっさらな紙を返すことができたら及第。そういう試験でした」
道満の声が、やけに遠くに聞こえる。夢の中にいるかのように、体の芯が定まらない。手足が自分のものでないように感じる。
落ちた。不合格。己の慢心につまずいた。最早どんな弁明も通じまい。いや、弁明など、恥の上塗りでしかない。
せめて、一刻も早くこの場を立ち去ろう。もうここにいる資格はない。
萎えた足に力を入れて、立ち上がった。
「どうしました?」
道満の問いに答えず、武久は歩き出そうとした。
その時、道兼が立ち上がり、叫んだ。
「先生! 彼は、私に唆されたのです。不合格ではありません。
私は自分の手で穴を開けました。そして、ここまでの道すがら、自然に開いたと偽って、彼にその紙を見せました。人に話すことで、自然に開いたのだと思い込みたかったのです。
私に紙を見せられなければ、彼が間違いを犯すこともなかったはずです。責任は私にあります。
彼には、私と違い、本物の才があります。私はこの目で見たのです、彼が晴明様の術を破るところを。本物の五星紙で試せば、一番上の角に、必ず穴が開くはずです。
それに、彼は、芯の強い男です。私が罵詈雑言を浴びせ、石を投げつけても、涼しい顔でやり過ごしてしまうのです。武久は必ず立派な陰陽師になります。どうか機会をお与えください」
道兼は、深々と、頭を垂れた。
武久は、ただ、立ち尽くしていた。
御所の一室で、右大臣頼忠は頭を抱えていた。金箔貼りの出費はやはり痛い。御所の暮らしを幾分か質素にすればまかなえるが、そんなことが許されようはずもない。
妖魔の存在は確かに恐ろしい。まさに神出鬼没。何の前触れもなく随所に現れ、家屋を壊し、人を襲う。
それに対抗する為の陰陽師であり、陰陽院なのだが、実のところ、対応が過剰ではないかと――いや、過剰であると、頼忠は思っている。
比較すれば明らかだ。妖魔に殺される人間より、飢えたり、盗賊に襲われたりして死ぬ人間の方が多い。陰陽師の活躍で妖魔による犠牲者が抑えられているのも事実だが、陰陽師を必要以上に厚遇することで、民の生活は圧迫され、結果的に死人は増えている。本末転倒というより他ない。
妖魔が大挙して方々に現れるという事態は今までのところ一度も起きていない。そういったことが今後もないとは言い切れないが、現状程度の現れ方なら、陰陽師の数は決して不足していない。
この都に妖魔が現れる原因を突き止め、根絶やしにしてみせると安倍晴明は言っていたが、それができてしまっては自分が困るはず。妖魔がいなければ陰陽師の栄光もないのだ。本気で殲滅に取り組んでいるとは思えない。
理屈で考えれば、世の中が歪んでいることは明白。けれど帝は、理屈よりも感情で、晴明の虜になってしまっている。寵愛し、畏怖してもいる。鼻の治療が晴明にしかできないというのも大きいのだろう。帝の意向が変わらない限り、世の中を変えるのは難しい。
陰陽院の講師、蘆屋道満は、誠実そうな男であったが、この現状をどう考えているのだろう。妖魔より妖魔退治の経費で人が苦しんでいるという皮肉に、まさか気付いていないということはあるまい。自身が優れた陰陽師である道満の口から帝に何か進言してくれれば、帝の考え方に多少の変化は起こせると思うのだが……結局は彼も今の地位と栄誉を手放したくないのだろうか?
「頼忠様」
障子の向こうから、名を呼ぶ者があった。またあいつか、とうんざりしながら、頼忠は答える。
「入れ」
障子が開き、現れたのは検非違使、武弘である。
「頼忠様、羅生門修繕の件、お考えいただけましたでしょうか」
「申したであろう。そんな余裕はない」
加えて「くどい」と一喝しそうになるのを、頼忠は飲み込んだ。
恐らく帝にとっては、自分もこうなのだろう。臆することなく正論を吐く厄介者。
「ですが、都の正門である羅生門が、あのように朽ち果て、死体置き場と成り下がっていることは、帝のご威信にも傷をつけるものかと存じます」
「無論、いつまでも捨て置くつもりはない。だが今はそれどころではないのだ。陰陽院の金箔貼りに加え、羅生門の修繕まで行うとなれば、ますます民から搾り取らなければならなくなる」
「我ら検非違使の手当ては減ろうとも構いませぬ」
「それは全検非違使の総意か?」
「いえ。ですが、他に手立てがないならば、やむを得ぬことかと」
帝や貴族の暮らしこそ改めよ、とこの男は暗に言っているのだ。
わかっている。そうせねばならぬことは、痛いほど理解している。しかし彼らは決して今の安楽を手放すまい――都の滅ぶその日まで。
「何故お主はそう羅生門にこだわる」
「理由は二つ。一つは、あそこに集められた死体の山が、疫病の元となっていること」
「うむ。それは私も深刻に捉えている。だが、死体処理の仕組み自体を改善せねば、羅生門を修復したところで、また別の死体置き場ができるだけであろう」
「はい」
妖魔と陰陽師に悩まされてさえいなければ、頼忠が在任中に解決したいと思っている問題の一つが、死体処理の件であった。
「もう一つは?」
「あの場所は恐らく、盗賊どもの溜まり場になっております」
「……確証は?」
「ありませぬ。ですが、私が先日あの場所で出逢った老婆は、九分九厘、盗賊団の一味と思われます」
盗賊。罪人の集団。都の平安を脅かす者たち。
検非違使は無法者を捕らえることが主たる務めの一つ。妖魔との戦いには加われぬ現状、武弘のような生真面目な検非違使が、盗賊退治に熱を上げることは自然なことなのであろう。
だが――
「盗賊の中には、義を掲げる者たちもいることを知っておるか?」
「義を、掲げる?」
「豊かな者からしか奪わない。そして、貧しき者たちに分け与える」
「それならば、許されると?」
「お主はどう考える」
「……何であれ、奪うことは許されませぬ」
「左様か」
武弘は目を伏せている。本心ではあるまい。
この男は検非違使なのだ。盗賊を捕らえることが、世の為になると信じている。いや、そう信じなければ生きられない。
「恐ろしきことにございます。右大臣である頼忠様が、盗賊を認めるようなことを仰るとは」
「他言は無用だぞ」
「仰せの通りに」
「しかし武弘、盗賊を捕らえようというなら、羅生門の修繕は得策ではあるまい。待ち伏せの方が有効であろう」
「検非違使が待ち構えておれば、奴らは恐らく現れませぬ。しかし、何日より修繕を行うと告示すれば、その期日までに、中に隠しているであろう金品を回収しに現れるはずです。最悪、奴らが現れずとも、金品を押収することはできます」
「……なるほど。悪くない手だ。ならば、本当に修繕を行う必要はあるまい」
「と、申しますと」
「告示だけをすれば良い。事が済んだ後、諸事情により中止になったと言えば良いのだ」
武弘は返事をしなかった。大義があろうと、嘘は性に合わぬのだろう。
「告示は出してやる。盗賊を生け捕りにしてみせよ」
「生け捕り、でございますか」
「見せしめにするのだ。六条河原にて棒打ちの刑に処す」
「承知致しました」
武弘は一礼し、辞去した。
棒打ちにするかどうかは、捕らえてから決めるつもりだった。羅生門にたむろしているという盗賊がどんな連中かわからないが、もし義賊であったなら、その時は――どうする?
頼忠にはまだ、明確な道筋は見えていない。しかし、淀み切った泥沼のような現状を打破するには、無法者の力が必要かも知れないと、薄々感じ始めていた。
羅生門の前に忽然と現れた立て札を見て、沙霧は舌打ちをした。
「何と書いてある?」
二郎が言った。一党の中で文字を読めるのは沙霧だけである。
「三日後から、この門の修繕を始めるってさ」
「随分急だな。だいいち、今この都にそんな余裕があるとは思えぬが」
沙霧は立て札の前で長居せず、歩き出した。二郎も続いた。二人とも商人の姿である。
「多分本当に直すつもりなんてない。私らを炙り出そうっていうんだろう」
「なるほど」
「猪鹿の婆は? まだ番をしてるのかい?」
「ああ」
「そう。悪いことをしたね」
「なぁ、沙霧。そろそろ教えてくれないか。お前はいつも一人でどこへ行っている?」
沙霧は、黙した。
「皆、心配しているのだ」
「……すまないとは思ってる」
「陰陽の力に関係のあることなのか?」
その通り。だが、言うわけにはいかない。
沙霧は二郎にだけ、陰陽の力が発現したことを打ち明けている。一人で背負うには大き過ぎる宿命だった。
何故二郎なのか。愛しているから――ではない。一郎には言えなかったからだ。秘密を知れば、いつ、どんな危険に巻き込むことになるかわからない。二郎の、自分への好意を知った上で、沙霧はそれに甘えている。
いつか一郎と夫婦になる。これまで沙霧はごく自然に、そう思っていた。向こうも同じだったはずだ。しかし、このところ一郎は、沙霧と二郎が恋仲になったと思い込んで、嫉妬を隠そうともせず、日に日に粗暴さを増している。
一郎を守る為の秘匿であった。なのに、そのせいで、一郎の醜い面を見ることになってしまった。自分本位が過ぎると己を罵りながらも、気持ちが冷めるのを止めることはできなかった。
二郎に心変わりした、というわけではない。一郎の、潰れた片目の奥に潜む、飾り気のない真っ直ぐな心をこそ、沙霧は愛していた。先代の頭領が死んだ後、それまで無作為に人を襲っていた一党が、義賊として生まれ変わったのは、一郎の成したところが大きい。
「沙霧、話してくれないか。俺はお前の力になりたいと思っている」
二郎は、一郎の嫉妬を承知の上で、沙霧に想いを伝えてくる。が、沙霧はその想いに応えられない。
「あんたは知らなくていいことだよ」
「俺たちは仲間ではないか」
仲間――そう、仲間だ。
盗賊として襲いかかれば、晴明は歯牙にもかけず、同時に現れた巨大な妖魔の相手に集中するはず。その隙を突いて仕留める――当初、そういう算段であったが、沙霧は迷い始めていた。
晴明を討つ。それは一点の曇りもない、沙霧の決意である。だが、如何な正義であれ、他人に強いることはできない。真実を知らせないまま巻き込むなどもっての他である。遅くとも襲撃の間際には、全て話し、賛同者を募らなければならない。
ついてきてくれる者は、きっとあるだろう。だが、首尾よく晴明を討ち取ったとしても、奴が英雄でなく魔王であったことを立証する手立てがない。あの絵師は寝返ってくれたとは言え共犯者なのだ。証言は期待できない。となれば、無事逃げおおせても――それも困難を極めるが――生涯、英雄殺しの汚名を着せられることになる。
そう考えると、やはり――
「二郎、あんた、頭領を継ぐ気はないかい?」
一人で戦うべきだろう。検非違使が羅生門に現れたことも、啓示の一つに相違ない。
「何を言う、沙霧」
話せば、少なくとも一郎と二郎は、きっと一緒に戦ってくれる。けれど、それは二人の気持ちを利用していることになる。これ以上の自分本位は、自分で許すことができない。
「羅生門に隠した金品は諦めよう。検非違使はあそこから何かが運び出されるのを監視してるはずだ。新しい集合場所は、二郎、あんたが決めればいい」
「羅生門を捨てることに異存はないが、急に何を言い出すのだ。お前は俺たちを捨てるのか?」
「そうじゃない」
「わけを聞けぬなら、承服できぬ。お前は何を背負っているのだ。俺が半分請け負うわけにはいかぬのか?」
そうできたら、どんなに楽だろう。
沙霧は女に生まれたことを悔いた。色恋さえ絡まなければ、命を預けてくれと、堂々と言えたかも知れない。
立ち止まり、振り返った。今にも崩れ落ちそうな、羅生門の楼閣。今も猪鹿の婆は一人、あの場所を守っている。もう見張りはいいと、今夜、せめて自分で伝えに行くとしよう。
何度もあくびを噛み殺し、しきりに手の甲をつねっている秋津の肩を、武弘が叩いた。
「替わろう」
「いや、まだ大丈夫だ」
「そうは見えぬ。舟を漕いでいたではないか」
「だが、武弘は先ほど休んだばかりであろう」
「この計略を言い出したのは俺だ。俺が一番働かねばならぬ」
そう言って武弘は秋津を押しのけた。羅生門の全貌が見渡せる廃屋である。
秋津はすぐ、壁にもたれて眠り始めた。武弘はまるで眠気を感じなかった。
必ずや賊を捕らえ、晴明様のお役に立つのだ。妖魔の他は俺が打ち払う。偉大なる陰陽師、安倍晴明様の戦いを、俺は陰で支えるのだ。
月が雲に隠れ、周囲が闇に染まった。その時、人影が素早く羅生門に近づき、梯子に足をかけるのを、武弘は見逃さなかった。
「来たぞ、秋津。起きろ」
やはり、来た。強欲な盗賊のことだ。監視があるとわかっていても、きっと金品を回収しに現れる。そう考えていた。そして、その通りの結果となった。
「何だ? 何が来た?」
秋津が眠たげに目を擦りながら言う。
「盗賊に決まっているだろう」
「盗賊――何人だ?」
「見た限り、一人だ。闇に乗じれば忍び込めると踏んだのだろう」
「妙ではないか? 一人で運び出せる程度の金品しかないということか?」
確かに、そう考えれば少し違和感がある。だが――
「とにかく、行くぞ。問答をしている暇はない」
駆け出した。秋津も後からついてくる。
廃屋を飛び出す。軒先に無造作に置かれた死体を危うく蹴りそうになり、飛び越える。ここにも随分死体が多い。昼間に見た時には乞食もいたが、夜になると死体か乞食か判別がつかない。
門の付近から、足音を忍ばせる。そして、秋津にかがり火を持たせ、弓に矢を番えると、武弘は楼閣の入り口に向かって叫んだ。
「今、楼閣へ上がった者! 武器を捨て、大人しく出てこい! こちらは既に弓で狙いをつけている!」
返答はない。
「時を稼いでも無駄だ! さっさと降りてこい!」
「武弘!」
秋津が叫んだ。何事かと、秋津の視線の先を見れば、襤褸(ぼろ)を纏った男が刀を振りかざし、猛然と突進してきている。
盗賊の仲間。さては乞食に変装して、様子を窺っていたのか。ない知恵を絞ったようだが、敵は一人。どうとでもなる。
男の眉間に狙いをつけ、矢を放つ。男は走りながら身を屈めて矢をかわした。手練。面白い。
「秋津、楼閣から目を離すな」
言いながら、武弘は太刀を抜いた。男はもう間合いまで迫ってきている。
正面から打ち込んできた刀を、下から弾き上げる。刹那、腕に痺れが走る。雑だが、重い。いかにもならず者の剣だ。
見ると、男は片目が醜く潰れていた。かつて痘瘡を患ったのだろう。だが、憐れむ理由にはならない。盗賊は盗賊。
再度、男が打ち込んでくる。振りが大きい。先を取れる。男の喉元を狙い、切っ先を繰り出す。
と、男の口から、何かが飛び出した。含み針。目に当たる寸前、辛うじてかわした。耳たぶを鋭いものが掠める。
針はかわしたが、体勢を崩された。慌てて太刀を振り上げる。次の瞬間、腹に衝撃を受けた。男の蹴りを食ったのだ。
不覚。妖魔ならともなく、盗賊風情に後れを取るとは。
「武弘!」
秋津がかがり火を捨て、太刀を抜き、遮二無二男へ斬りかかっていく。が、軽く弾き飛ばされ、尻餅をついた。その一瞬の間に武弘は体勢を立て直し、大きく息を吐く。
もう油断はしない。全力で討ち取る。
雲が晴れて月が現れ、男の隻眼がぎらりと光った。――来る。
その時、楼上から女の声が響いた。
「よすんだ、一郎!」
声の主は、梯子を使わず、物が落ちるよりは遅い速度で降下し、地面に降り立った。何だ、今の動きは?
「沙霧、何故止める! こいつらはお前を殺そうとしてたんだぞ!」
と、男が喚いた。さぎりと呼ばれた女は、落ち着いた声で言った。
「わかってるよ。けど、私は逃げおおせればそれでいい」
「馬鹿言うんじゃねぇ!」
「それより一郎、あんたどうしてここに?」
「決まってんだろ。お前を守りに来たんだ。猪鹿の婆一人に任せておけるわけねぇだろうが」
「そうかい、ありがとうね。でも、もう私は平気だ。刀を納めな」
「まだそこに検非違使がいるじゃねぇか」
女は男を手で制しながら、武弘に向かって言った。
「お侍さん、私が羅生門から持ち出したかった宝はあの婆さん一人だ。見逃してくれないかい?」
女が目で促した先には、言葉通り、老婆が立っていた。先日、楼閣で会った老婆だ。
それにしても、今の間に梯子を下り切ったとは思えない。女と同じように、薄布が舞うかの如く飛び降りたのだろう。あんな老婆が、一体どうやって?
「あそこに隠してあったものはみんなあんたらにくれてやるよ。何も持ち出しちゃいない。何なら体を調べても構わないよ」
「ふざけんな、沙霧! 検非違使相手に、何をへつらうことがある! とっとと殺しちまえばいいんだ!」
激昂する男をなだめるように、女は優しい声で言った。
「一郎、私らは義賊だ。あんたのおかげで義賊になれたんだよ。忘れたのかい?」
義賊――頼忠様の言っていた、民を救わんとする盗賊。こいつらが?
「義賊だったら何だ! お前を殺そうとした野郎を見逃す理由にはならねぇ!」
男の殺気に対して身構える武弘に、秋津が言った。
「武弘、ここは退こう」
「何故だ、秋津。奴らは盗賊なのだぞ」
「義賊だ。この女は危険を承知で仲間を救いに来たのだ。信じるに値する」
「だが……」
盗賊は、盗賊。俺は晴明様のお役に立たねば――
武弘が逡巡した一瞬の間に、老婆の腕が秋津に向かって伸び、その袖の下から黒い縄のようなものが飛び出した。
即座に、思い出した。死体の髪。あれを撚り合わせたものだろう。鬘を作っていたのではなかったのだ。先刻、楼上から飛び降りた時も、あの縄を使ったに相違ない。
と、見抜いたところで、手遅れだった。縄は素早く秋津の首に巻きつき、その体を引き倒した。
「おのれ!」
武弘が叫んだ瞬間、秋津の体があった空間を、何かが風を起こしながら通り過ぎ、続いて、轟音が鳴り響いた。
木彫りの、鬼。背丈は大人二人分ほどもある。その手に握られた巨大な棍棒が、秋津を狙って振り下ろされたのだ。
老婆は、秋津を助けた?
いや、ともかく、こんな時に妖魔とは。
一の笛を吹く。独特の高音が響き渡る。あとは陰陽師が駆けつけてくれれば――
「逃げろ、武弘!」
秋津に言われるまでもなく飛び退くが、巨体に似合わず、鬼の動きは速い。
横殴りに、棍棒。防がねば。駄目だ、間に合わない!
思わず目を閉じた。衝撃が、来ない。何だ?
目を開くと、鬼の棍棒は根元から失われていた。驚異的な切れ味の刃物で断たれたらしく、真っ平らな断面が見える。
「下がってて」
そう言って、女が武弘の前に立ち塞がった。
女の体の周りを羽虫のように高速で飛び回るものがある。それが瞬時、動きを止めた。二振りの、短刀。
短刀は、鬼に向かって矢の如く飛んだかと思うと、舞いのような動きでその体をなます切りにし始めた。鬼は短刀を捕らえようとするが、その指が、そして手首が切り落とされる。
鬼がばらばらの木屑と化していくのを、武弘も、秋津も、そして男と老婆も、ただ茫然と眺めていた。
道兼の態度はあの日以来、再び高慢なものに戻っていた。武久にとってそれは有り難いことであった。善人ぶられても調子が狂う。
「お主の合格は我のおかげぞ。感謝せい」
「お前こそ俺がいなければ不合格だったではないか」
罵り合いながら、しかし、どこか、通じ合うものを感じてもいた。
「他者との絆こそ、陰陽術の要。諸君らにもいずれその意味がわかるでしょう」
二人の入学を認めた時、道満はそう言った。
晴れて陰陽院の生徒となったのは、武久、道兼を含め、十二名であった。入学試験を終えたその日のうちに諸々の説明があり、本物の五星紙を使って各自の特性が調べられた。そして、翌日から本格的な調練が始まった。
始業は辰の刻。正午まで、延々と「支えの行」を行う。支えの行とは術の持久力が問われる訓練である。まず、講師の道満が各自に合わせた「柱」を術で創造し、配る。木行の武久は今にも枯れそうな一輪の花を、水行の道兼は――父と同じ土行ではなかった――少量の水が入った杯を受け取る。一定の呪力を送り続けなければ、花は枯れ、杯は乾いてしまうのである。
道満の本行(ほんぎょう)――生まれ持った特性――は土であるが、長年の研鑽の末、他の四行の術も初歩的なものは習得し、調練用の柱を作り出せるようになったのだが、この蘆屋道満にしてそれがやっとということが、安倍晴明が如何に恐るべき陰陽師かということを物語っている。
生徒たちは、柱(・)が(・)倒れぬ(・・・・)よう、黙々と呪力を送り続ける。調練初日、ほぼ全員が、受け取ってすぐに柱を倒してしまった。武久も例外ではなかった。入学に先んじて術に目覚めていた武久だが、あくまで使い慣れた木刀を介しての瞬間的なものであり、呪力を長時間放ち続けることはむしろ不得手であった。一方で道兼は、全員の中で最も支えの行を得意とした。
「この支えの行は、持久力のみならず、呪力の総量や質を測るものでもあります。最低でも一刻は柱を維持できなければ、実戦では使い物になりません」
道満の言葉に、武久は焦りを覚えた。必死で呪力を送るが、花はすぐに萎れてしまう。周りの者は徐々にこつを掴み始め、武久は頻繁に新しい柱を求めることが恥ずかしく、焦りが募った。
ある日、道兼が小さな声で言った。
「呼吸を整えろ。息を長く吸い、長く吐くのだ」
言われた通りにしてみると、途端に呪力が安定した。道兼を見ると、横顔で「礼は要らぬ」と言っていた。それから、武久が柱を維持できる時間は段々と伸びていった。
牛の刻からは体術の訓練である。柔術や剣術、弓術など、あらゆる武芸の基礎を学ぶ。
呪力だけでは戦えないのだ。命のやりとりであるからには、体力や身のこなしも要求される。
こちらは武久の得意とするところであり、道兼に助言をすることもしばしばだったが、道兼は常に「礼は言わぬぞ」という顔をしていた。
未の刻、短時間の午睡――「瞑想をしなくて良いのですか」と尋ねると、道満は笑って「ただの昼寝でいいんですよ」と答えた――の後は、夕餉の支度である。
入学当初、武久が最も驚いたのがこの調練であった。夕餉の支度で何を学べるのか? だが、すぐに合点がいった。
土行の者は畑を耕し、木行の者は木の実を取り、水行の者は魚を釣り、火行の者が煮炊きを行う。金行の者は鍬や食器、鍋などの道具を作り、修理する。生活の中でそれぞれの力の在り様を知る調練なのであった。
そういうわけで、陰陽院では調練を兼ねた自給自足が成り立っており、生徒たちは皆、普段より良いものを口にすることができた。
疲れ果て、腹いっぱいに食べて家に戻ると、大抵の者はそのまま泥のように眠り込んだ。しかし、武久は支えの行を――道端で花を摘んで帰った――こなしてから床に入った。武芸の上達ぶりから見るに、道兼も家で稽古をしているのだろうと、武久は思っていた。
そして、ひと月が過ぎた。
支えの行が一刻に達した者は、個別に術の手ほどきを受け始めている。武久はまだ一刻には達していないが、もう支えの行が苦痛ではなかった。
夕餉の折、武久は道満に言った。
「先生」
「何でしょう?」
「陰陽術の中には医術のようなものもあると聞いたことがあります」
「ええ、ちょうどあなたにはその資質がありますよ」
さらりと言われ、武久は仰天した。
「本当ですか?」
「木行の術は植物の生命力に直接働きかけるものです。長じれば、人間の体の中を流れる気の淀みを治したり、自己再生力を高めたりすることができるようになります」
「ならば、普通の医者では直せなかった病も直せるようになるでしょうか?」
「必ずとは言えませんが、可能性はあります。誰か、身近な人がご病気なのですか?」
「はい、母が」
「そうですか。それはお気の毒に。御所では貴族の病の治療に陰陽師が当たることもあるのです。民に開かれた診療所があると良いのですがね」
「いえ、そうまでしていただくわけには参りません。今は妖魔に対して万全の備えを必要としている時です。母の病は、私が治します」
その時、話を聞いていた道兼が言った。
「先生、木行が医術なら、水行には何があるのですか?」
対抗意識を露わにしている道兼に、道満は苦笑した。その目は、父として甘やかすまいと気を張っていたらしき当初とは違う、穏やかな目だった。
「以前、晴明様に会ったと言っていましたね」
「はい」
「その時、晴明様はどんなお姿を?」
「そう言えば、はじめ、白い犬の姿でした」
「あの方は四六時中、変化の術を使っていますからね。水行の訓練なのでしょう」
「変化は水行の術だったのですか?」
と、道兼は目を丸くした。
「生き物の体は半分以上水でできています。自分の体内の水分を操って別の形にするのが変化の術なのです」
「ならば、他人を変化させることもできるということですか?」
そんなことができて何になると武久は思ったが、道満は真面目に答えた。
「いいところに気付きましたね。しかし、それは絶対にやってはいけないことです」
「何故ですか?」
「例えば、自分の指は当然自分のものですが、他人の指を自分の体の一部と思うことは難しいでしょう。他人の体の水分を無理に操ろうとすると、器官を破壊してしまうことがあるのです」
座の空気が一気に冷え込んだ。
道兼は青くなって言った。
「器官を?」
「かつて陰陽師同士の争いが起こった時には、変化の上位術として、わざとこれを使ったそうです。視力を失わせるものは『目潰しの術』、聴力を失わせるものは『音無の術』と呼ばれていました。勿論、今では禁呪とされていますがね。我々の敵は妖魔であって人間ではないのですから」
「では、先生」
武久は、極力平静さを装って言った。
「声を失わせるものもあるのですか?」
「ええ、『口封じの術』も当時、恐れられた術の一つです」
その後、道満は別の生徒からの問いに答えていたが、武久は己の動悸に押し潰されそうになっていた。
母の病は、病でなく、禁呪――? だとしたら普通の医者に治せなかったのも頷ける。
誰が? 当然、陰陽師だ。それも水行術の達人。少なくとも変化の術を使いこなしているはず。
何の為に? わからない。だが、ともかく母は何かを知っている――戦慄すべき何かを。
水行の禁呪は木行の術で治療できるのか? 喉まで出かかった質問を、飲み込んだ。まだそうと決まったわけではない。仲間たちに余計な心配をかけてはいけない。
そうだ、口封じの術をかけられても、文字を習えば、伝えることはできるはず。そうしなかったのは、やはり術などではないからでは? ――いや、もし、母自身も言いたくないことだったとしたら? あり得るのか、そんなことが?
道兼の視線を感じる。そうか、あいつはしょっちゅううちの庭先に来ていた。母が声を出せないことも知っているはず。けれど、こちらが何も言わないうちは、あいつも何も言わないだろう。
鼻の治療を終え、晴明は言った。
「これでまたしばらくは鎮まるはずです」
円融は満足げな顔で言った。
「いつもすまぬな、晴明」
「何をおっしゃいます。帝の御為ならばこの晴明、厭うことなど何一つございませぬ」
「うむ。この奇病を患ったことは不運であったが、晴明がおってくれたことはそれを十二分に補えるほどの幸運であるぞ」
馬鹿な男め。お前は間違いなく不運だ。
その病はそもそも俺がかけたのだ。古より伝わる水行の禁呪をもとに、自ら編み出した。道満や他の陰陽師もまだ気付いていないらしい。もっとも気付いたところでどうにもなるまいが。
俺がかけた病なのだから、症状を抑えるのは容易い。だが、無論、完全に直しはしない。この病にかかっている限り、こいつは俺との良好な関係を保ちたがる。
「帝、本日は、悲しい知らせを一つ、お耳に入れねばなりませぬ」
円融の顔がさっと曇った。
「何だ?」
「今朝の占いで、恐るべき相が出たのです。近々、この都に、百鬼夜行が現れるであろうと」
「……ひゃっきやこう、とは?」
「妖魔の大群にございます。冥界の王がいよいよ本格的に帝のお命を狙い始めたものと思われます」
「余は……余はどうすれば良い?」
すがるような目。俺以外の人間には決して見せない表情だろう。
「ご心配なく。帝は私が必ず守ります」
「晴明の力は疑いはせぬが、はじめに悲しい知らせと言ったからには、相当な軍勢なのであろう?」
「ええ」
「陰陽院での子供らの育成を急がせねばならぬな」
「それはごもっとも。されど、あまり期待はできませぬ」
「何故だ?」
「子供らはこの春に学び始めたばかり。道満が工夫を凝らして従来よりも効率の良い修行をさせてはおりますが、どんなに急がせても、夏までに戦力として数えられる程になる者は何名あるか……」
「左様か。ならば、現役の陰陽師たちにも、今一度修行をさせるべきか?」
「都の守りに立つ六十名。彼らはそれぞれ優れた陰陽師でありながら、慢心することなく日々修練を重ねております。しかしそれはあくまで錆び止めのようなもの。元服を迎えてしまった彼らに大きな成長は望めませぬ」
「うむ、左様か。かくなる上は今ある手駒で戦うしかないということか?」
「一点だけ、増強の余地がございます」
「それは?」
「私めにございます」
円融が期待を込めた眼差しで晴明を見た。
まったく、こんな御しやすい男の治世であってくれて、感謝に堪えない。
「元服を過ぎれば成長はないと申しましたが、この私は例外。昨日完成したばかりの黄金の塔、あの場にて研鑽を積めば、新たな力をこの身に宿すことができましょう」
金箔に退魔の力があるというのは、半分は事実で半分は嘘だ。金箔だけでは金行の守り――木行を祓う――にしかならない。だが、土の力の豊かなあの場所で、木造の塔を建て、金箔を貼り、その金箔を術で結露させ、燈籠に火を灯せば、五行の守りが完成する。どこか一点を破ろうとしても、他の力がそれを阻む。
あの中でならば、安心して蛹(・)になれる。俺はもう一段羽化(・・)するのだ。
「されば、行くが良い。晴明が今以上の力を持つならば心強いことこの上ない」
ここで瞬時、迷いを見せておく。相手に質問をさせるのが人の心を掴む秘訣だ。
「どうした? 何を迷うことがある?」
「修行には幾ばくかの時を要します。その間、私は塔の中へ籠もり切りになります」
「やむを得まい」
「この御所が襲われることはないでしょう。結界を張ってございます故」
そんなものはない。御所の近くには描くなと良秀に言ってあるだけだ。
「ただ、私がおらぬ間、お鼻の治療をいかが致しましょう」
耐えてみせる、と虚勢を張るはず。
「それしきのこと、耐えてみせる」
そら、見込んだ通り。
「よろしいのですか?」
「都の一大事なれば、余も力を尽くそう」
精一杯、威厳を見せつけようとしている。実に滑稽だ。
「ご立派でございます、帝。せめて毒抜きの紙と軟膏を置いて参ります。症状が出た時は、医術に長けた陰陽師をお呼びください」
「うむ」
安堵の気配が漏れる。それはそうだ。夜も眠れないほどの痒みが、何の対処もできないまま幾日も続いたら、きっと正気を保てないだろう。
円融には気の毒だが――実に不運な男だ――置いていく紙と軟膏では、痒みを半分ほどに抑えることしかできない。他の者に治療をさせた暁には、苛立ちと共に、やはり晴明が必要だという思いを一層強くするだろう。
「それでは、ただちに」
「しかと励めよ」
「有り難きお言葉。この晴明、必ずや、百鬼夜行を退ける力を得て、戻って参ります」
さぁ、支度を始めるとしよう――新たなる門出に向けて。
大勢の陰陽師、貴族、野次馬に見守られながら、晴明が厳かな足取りで黄金の塔へ入っていくのを、道満は苦々しい思いで見守っていた。
黄金の塔は子供らでなく晴明自身の為に建てさせたということはわかっていたが、何の為に力を得ようとしているかまでは深く考えなかった。せいぜい今の地位をより盤石にする為というぐらいにしか考えていなかった。
百鬼夜行。その言葉を聞いて、道満は自分の愚かさを恨んだ。何故もっと早く気付かなかったのか。
晴明は来る百鬼夜行に備えて修行に入るのではない。晴明が百鬼夜行を起こすのだ。
誰にも邪魔されず、十日か半月ほど塔に籠もって呪力を高めれば、冥界の門をこじ開けることが、あの晴明なら可能なはず。門を開けば本物の妖魔が大挙して押し寄せる。それが百鬼夜行だ。第一陣を退けたところで、門を閉じない限り、妖魔は次々と湧いてくる。そうなってしまえば、もう召喚士は必要なくなる。召喚士に裏切られる心配も不要となる。人々は従来の比でないほど妖魔に苦しめられ、陰陽師に対する畏敬の念をより一層強くする。晴明にとって理想的な世界が完成する。
早く気付いていればどうにかできたかと言うと、それはわからない。だが、今、手遅れになってしまったということは間違いない。五行の守りの堅牢さは重々承知している。再び外に出てくるまで、もう一切手出しできない。
しかし、五行の守りの中にいる間は、外からの干渉を受けない代わりに、大掛かりな術は使えない。中で門を開けられてしまう心配はない。
それに、手出しができないのは向こうとて同じ。奴が出てくるまでは自由に動ける。
道満は悔悟を切り上げ、策を講じるべく、貴族の中で最も信頼のおける人物、右大臣藤原頼忠の居室を訪ねた。
聞き終えると、頼忠は神妙な顔で言った。
「そこまで話すからには、謀反人として処罰されることも覚悟の上、ということであろうな」
「はい」
当然だ。何も知らない者からすれば、私の言うことは瓢箪から駒。安倍晴明の転覆を図る虚言と捉えられても無理はない。むしろ、そう解釈する方が自然とさえ言える。
「何か証拠は?」
「いえ、何も」
召喚士を捕らえることも考えたが、無駄であろう。共犯者がおめおめと自白してくれるとは思えない。
「ならば、信じろという方が無理だ」
やはり、か……。
「……普通はな」
「と、おっしゃいますのは?」
「実は先日、お主と同じことを言う女に会ったのだ」
「女?」
ある検非違使が妖魔に襲われたところを、陰陽術を操る女義賊に救われた。検非違使は、義賊に興味を示していた頼忠に、その顛末を報告した。そして、その検非違使の引き合わせで、頼忠と女義賊の極秘の会見が実現したという。
「その女とお主の言い分は一致する。かねてより私自身も安倍晴明には不信感を抱いておった。その話、信じるとしよう」
「ありがとうございます」
僥倖。私の他に、それも在野に、真相を見抜いている人間がいたとは。
「さて、どうする? 奴が塔の中にいる間に始末してしまうことはできぬのか?」
「残念ながら、それは不可能です。五行の守りは不可侵の輪。燈籠の炎を消そうと水を放っても土の力に防がれ、土の力を木で抑えようとすれば金箔がそれを阻みます。どうすることもできません」
「ならば、出てきたところを叩くしかないというわけだな」
「はい」
「現役の陰陽師と陰陽院の生徒ら全員で取り囲み、一斉に襲えば、如何に安倍晴明とて対処し切れぬのではないか?」
「上手くはいかないでしょう。今申し上げたように、五行の力には相関関係があります。一斉に仕掛けても、味方同士の力が打ち消し合ってしまうのです」
「一斉が駄目ならば……波状」
「その通りです」
道満は舌を巻いた。この頼忠という男、右大臣などより軍師に向いている。
「少数精鋭で呼吸を合わせ、僅かな時間差を空けてたたみかける。それしか方法はありますまい」
強いて挙げるなら、方法はもう一つある。先祖代々伝わる秘術、円(まどか)。だがあれは現実的ではない。
「問題は帝だ。帝は晴明に心酔しておられる故、決して我らの話を信じようとはされないだろう。となれば、大々的に討伐隊を募り、訓練をすることはできぬ」
「訓練は陰陽院の授業と偽れば可能かと。ただ、人手を集めることは確かに困難です」
「現役の陰陽師連中にとってみれば、晴明の思い描く世界の方が望ましいやも知れぬしな。妖魔が消えれば職を失うことになる」
「ええ。本来、妖魔退治ばかりが陰陽師の務めではないのですが、戦うしか能のない者は、妖魔の存在に救われていると言わざるを得ません。現役の陰陽師への呼びかけはよしておいた方が無難でしょう。帝へ告げ口する者がないとも限りません」
「ああ」
「陰陽術を操るというその女義賊、私も会わせていただくわけには?」
「無論会うべきであろう。検非違使の武久を通じて連絡は取れる。算段を決め、知らせを寄越す」
「お願い致します。その女が、志のみならず、実力も備えた者であってくれれば良いのですが」
「見定めてくれ。晴明を除けばお主が随一の力を持つ陰陽師。命運を握っておるのはお主だ」
「は」
わかっている。私が要だ。
晴明の本行は水。あれほど自在に変化の術を使いこなす者が水行以外ではあり得ない。水を制するは土。私が土行であったことは不幸中の幸いと言えよう。
いや……やはり不幸と言うべきかも知れない――晴明に次ぐ術者の力量がこの程度でしかないのだから。得意とするはずの水行相手なのに、まるで勝てる気がしない。
ともあれ、このままでは都は地獄そのものと化し、数え切れないほどの不幸が民に降り注ぐこととなる。何としても晴明を止めなければならない。
御所からの帰り道、道満は不意に眩暈(めまい)を感じ、跪いた。続いて、割れるような頭痛と、激しい悪寒に襲われた。
毒? いつだ? いつ盛られた?
頼忠? いや、あり得ない。茶の一杯も口にしていない。
解毒を施そうと試みるが、呪力を上手く練ることができない。全身が痙攣し、意識が遠のいていく。
道端に見慣れぬ花が咲いていることに気付いた。これか。毒の花粉を吐く花の妖魔――式神。だが何故これほど強力な式神が、今、ここに?
耳に一匹の蠅が止まった。気の早い奴め。まだ死骸ではないぞ。
その蠅が、人の声を発した。
「大義であったな、道満」
果たして、晴明の声であった。馬鹿な。晴明は黄金の塔に入ったはず。確かにこの目で見た――
「そうか。分身……!」
「その通り」
迂闊だった。入ったと見せかけて、ずっと私を監視していたのか。
「御所には結界が張ってあり、妖魔は現れぬはずだからな。中で殺るわけにはいなかなった。まぁ、あの右大臣も、御所を離れた折に始末するつもりだ」
「盛者必衰なるぞ、晴明」
「私は例外だ。民を直に支配するわけではない。妖魔を蔓延(はびこ)らせ、陰陽師の地位を確立する。その陰陽師の頂きに立つのが私だ。民でなく、構造を支配する。容易には……いや、絶対に覆すことはできぬ」
「覆す者は必ず現れる」
「それは、お主の息子のことか?」
毒と怒りの入り混じったもので、道満の身体は灼熱に包まれた。
「道兼には手を出すな!」
「お主の遺志を継ぐならば、道兼は私に手を出すのであろう。私から手を出してはならぬとは奇妙な話だ」
「ふざけるな。貴様は既に道を外れている。道理を語るとは片腹痛い」
蠅は道満を嘲るように、顔の前を飛び回った。手で打ち落としてやろうにも、もう体に力が入らない。
「いやはや、惜しかったな。お主を欠けば、最早この魔王を止める望みは一片とてあるまい」
「自ら魔王を名乗るか」
「そうとも。我こそは魔王。百鬼蠢く平安の都を陰日向より牛耳るのだ」
何かないか、今から一矢報いる手立ては。何かないか。
間際まで策を思案し、遂にどうすることもできず、道満の呼吸は停止した。
夕刻、都の南東、東寺の崩れかけた土壁の隙間から、書状を取り出す者があった。沙霧である。差出人は右大臣頼忠、配達人は検非違使武弘。
あの晩、木彫りの鬼を倒した後、黙って去ることはできなかった。一郎に問い詰められ、結局、あの場にいた全員に、沙霧の計画を話した。
結果的には、そのおかげで味方が増えた。一郎は「水臭ぇじゃねぇか」と怒鳴り、猪鹿の婆は黙って抱き締めてくれた。後に、二郎や他の者たちも、晴明を討つ戦いに加わると約束してくれた。武弘を通じて、右大臣とも繋がりができた。
それにしても、眼前で陰陽術を用い、命を救ったとは言え、あの頑固そうな武弘という男が素直に話を信じたのは、意外なことであった。横にいた秋津という男も、武弘が話を受け入れたことについては、意外そうな顔をしていた。安倍晴明が都を守る英雄ではなく、都を食い物にする魔王だなどとは、俄かには信じ難い話のはず。以前から何か疑う材料を持っていたのだろうか?
ともあれ、今は書状の内容である。そこには、安倍晴明の恐るべき計画と、まだ見ぬ同志、蘆屋道満の死について記されていた。
道満と言えば陰陽院の講師を務め、その実力は晴明に次ぐと言われていた陰陽師である。その男が、晴明が塔に入っている間、頼忠と会った直後に、死んだ。これをどう解釈するか?
恐らく、道満と頼忠の会話は何者かに聞かれていた。そして、殺された。下手人は、晴明の息のかかった陰陽師、あるいは晴明自身――分身の術を使えば塔に入ったと見せかけることはできる。
惜しい人物を亡くした。陰陽院においても、いずれ共に戦う仲間として子供らを育てていたはず。そう考えれば、未来の戦力ごと失われたことになる。道満に代わる人物はいるのだろうか?
嘆かわしいことだが……嘆いていても始まらない。
沙霧は紙を取り出して、頼忠宛に、当分は御所を離れないようにと書き、壁の隙間に差し込んだ。御所ならば少なくとも、妖魔の仕業と見せかけて殺されることはないはず。
それから、沙霧は道満の住まいへ向かって――義賊として要人の住まいは全て頭に叩き込んである――歩き出した。既に処分されてしまった可能性もあるが、晴明を討つ手がかりが何か残されているかも知れない。
庭先で、二人の子供が柔術の稽古をしていた。兄弟か――いや、尋常でない気迫でぶつかっていくのが恐らく道満の息子で、受け止めているのはその友であろう。
沙霧は腰に差した二振りの短刀、多襄(たじょう)丸(まる)を使い、蝶に変化した。金属は結露し、水を生じる。多襄丸は金行の依代だが、力を生み出す法則――相生(そうじょう)――によって、水行術の助けともなるのである。もっとも、沙霧が化けられるのはこの蝶、一種のみだが。
少年たちの頭上を飛び越え、屋敷に入る。中は静まり返っていた。まるで建物それ自体が喪に服しているかのように。
しばらくの後、道満の部屋と思われる場所で、日記を発見した。人の姿に戻り、そっと開く。人柄を忍ばせる整った字である。
そこには、子供たちの成長に対する喜びや、父親としての反省と共に、晴明を討つ方法を思案したことが書かれていた。
あるところで、沙霧の紙を繰る手が止まった。「円(まどか)」。五人の陰陽師を必要とする、古の秘術。五人は別々の本行を備え、かつ、全員が「結(ゆい)」を使えなければならない。
結、とは? 沙霧の知っている言葉ではない。別の日の記述に、「道兼と武久が結に達した。まだ式神も呼べぬのに、大した子供たちだ」とあった。だが、これではどんなものかはわからない。
それに、円がどんな術かも不明である。ここに書かれているのは発動条件のみであった。だが、道満が晴明を討つ方法の一つとして真剣に考えたなら、調べる価値はある。
ある日の記述にはこうあった。
「道兼が水、武久が木、そして私が土。あとは火と金の術者を見つければ、一応、円は使える。だが、五人全員が相当の実力者でなければ、折角の円も、晴明を圧倒できるほどのものにはなるまい。
現役の陰陽師たちは誰も結を知らぬ上、目を見張る程の使い手もいない。道兼と武久以外の生徒は、皆真面目な少年たちだが、二人よりは数段劣ると言わざるを得ない。それにあの二人も、結を知ったとは言え、まだ青い。実戦の経験もないのだ。
何年かの後、折よく円の条件が整うことがあるかも知れない。それまでは忘れよう。今は絵空事だ。今できることは、陰陽院に通う生徒たちを正しく導くことのみ」
沙霧は日記を開いたまま、考えた。火行は絵師の良秀、金行は私がいる。これで五人は揃う――いや、駄目だ。子供ら二人は未熟だというし、何より、最も強い呪力を持っていたであろう道満が既にこの世にない。
その時、背後から声がした。少年の声。
「動くな!」
しまった。義賊ともあろう者が、日記に夢中になり、警戒を怠った。
「妙な気は起こすな。こちらは既に弓を引き絞っている」
先ほど庭で見かけた、道満の息子だろう。傍らにもう一人の少年の気配もある。
「父の部屋に何の用だ。父を殺したのは貴様か?」
「違う。私は……道満様のご遺志を継がんとする者」
「ならば何故、堂々と正面から来ない」
「敵が待ち伏せをしている可能性があった」
「敵とは?」
「道満様を殺した下手人、あるいはその仲間」
この子らは晴明の正体を知っているのか? 恐らくは知るまい。力が十分でないうちに、深刻な事実だけ背負わされても無意味だ。
「貴様がその下手人でないという証拠は何もない。忍び込み、日記を手にしたのだ。怪しむのは当然」
賢い子だ。流石は蘆屋道満の息子。ここは、切り抜けるしかない。
多襄丸に手を伸ばす。
「動くなと言っている!」
大丈夫。この距離なら、射られても防げる。
多襄丸を抜きつつ、振り返る。少年が矢を放つ。木製の、ごく普通の矢だ。
打ち落とそうと構えた瞬間、もう一人の少年が呪力を放ったのを感じた。と、同時に、矢は三つに分裂し、それぞれが別々の弧を描いて、沙霧の頭上と左右で一瞬停止したかと思うと、一斉に襲いかかってきた。沙霧は間一髪、前方に転がって避けた。
驚いた。息が合っている。子供とて侮れない。
道満の息子がこちらに人差し指を向けると、その先端に水の球が現れた。水行か。もう一人の少年はどうやら木行。では、彼らが日記にあった道兼と武久か?
水の球が沙霧めがけて飛んできた。踏み込んで一閃、多襄丸で切り裂く。球は弾け、沙霧の足元で水たまりとなった。
「今だ、武久!」
道満の息子が叫ぶやいなや、水たまりから木の根が生じ、沙霧の足に絡みついた。その速さも、力強さも、子供の術とはとても思えない。
さては、これが、結か! 他人の術を依代として利用する技術。
水は木を育む。多襄丸が水を発するのと同じ、相生の法則の一つではあるが、ただの水たまりを使ったのでは、これほどの速度、威力にはなるまい。道満の息子の呪力が、もう一人の少年の呪力にそっくり上乗せされているのだ。ずっと一人で――陰陽師としては――戦ってきた沙霧には、思いもよらぬ戦法であった。
「大したもんだね、あんたたち」
沙霧は心から言った。
希望を感じ始めていた。この結と、一党の者たちの協力があれば、円――恐らくは五人掛かりでの結――には至らずとも、晴明を倒し得る。
「戯言に付き合う気はない。言え、女。何故我が父を殺した」
「違うんだよ。私は本当に下手人じゃない」
「ならば何故刃向った」
「疑われても仕方ない、逃げるしかないと思ったからね。けど、思い出したよ。証人がいる」
「証人だと?」
「私が道満様の味方だったことは、右大臣、藤原頼忠様が証明してくれる」
「出まかせを言うな。何故お前がそんな方と……」
沙霧は多襄丸を二振りとも床に捨てた。
「抵抗はしない。信じちゃくれないかい?」
「貴様を御所へ連れて行けば頼忠様が会ってくださるというのか?」
「いや、正面から行っても相手にされないよ。武弘って検非違使を通じて連絡を取らないとね」
その時、もう一人の少年が目を見開いて言った。
「……父を知っているのか?」
武久、起きているか?
――少し散歩でもしないか。
良い月だな。こんな晩には妖魔も現れまい。いや、妖魔でなく、式神であったな。その絵師とやらもこんな月夜には筆を休めるであろう。沙霧の話によれば、狂気こそ宿してはいるが、冷血漢というわけでもないらしい。
それにしても、まったく目まぐるしい一日であった。お前が沙霧を連れ帰ってきた時は本当に驚いたぞ。それより前に、沙霧と俺が知り合いだったことにお前が驚いただろうがな。
やはり、前線で戦う気か?
沙霧は、結は絵師の式神とでも掛け合えると言っていた。お前や道兼は後方で支援に徹すれば良いと。
式神も扱えぬのであろう? かえって足手まといになりはしないか?
――そうか。決意は固いか。恩師の仇、それに、友の父の仇でもあるのだからな。
わかった。存分に戦え。俺はお前のような息子を持ったことを誇りに思う。
――もう一度言うぞ。お前は、俺の誇りだ。
お前が戦うことは認めるが、よいか、俺も戦う。いや、俺こそが戦わねばならぬのだ。
俺には陰陽の力はない。だが、この体ごと奴にぶつかり、この命尽きるまで、術を妨害してやる。
武久。これは本来、お前に言うべき話ではない。だが、共に戦い、恐らく俺は生き長らえないであろう今、お前にはどうしても伝えておきたいのだ。
――ああ、最早生き長らえようと思わぬ。奴と刺し違えられれば本望だ。故に、これは遺言でもある。残酷な遺言だがな。どうか、しかと受け止めてくれ。
そもそも俺が沙霧の話を、つまり、安倍晴明が英雄でなく魔王であることを、どうして信じられたと思う? おかしいだろう。俺はあんなにも晴明様を心酔していたのだからな。実際、秋津という仲間は大層不思議がっていた。
知っていたのだ、俺は。安倍晴明が卑劣極まりない男であることを。
妖魔のからくりだの、黄金の塔をめぐる目論見だのは知らぬ。
だが、奴が、筆舌に尽くし難いほど悪に染まった人間であることは、お前が生まれる前から知っていた。
武久、お前は俺の息子だ。俺と真砂の子だ。それだけは誰にも否定させない。お前は俺の、自慢の息子だ。
だが、心して聞いてくれ。
お前の体に、俺の血は流れていない。
お前は賢い子だ。もしや、幾度か、考えたことがあったやも知れぬな。
真砂が声を失ったのは何故か、それに、お前が陰陽の才を持って生まれたのは何故なのか。不思議に思うことはいくつかあったはずだ。
伊勢にある、真砂の実家へ旅した帰りのことだ。
山道を歩く途中で、ある老婆に声をかけられた。川原に荷物を落としてしまったが、足が悪くて下りていけない。代わりに取ってきてはくれないか、と。
俺は真砂と老婆をその場に待たせ、川原へ下りられそうな斜面を捜し、荷物を回収した。そして、戻ってくると……二人の姿はその場にはなかった。
あの老婆は晴明の式神か、あるいは自身が変化した姿だったのだろう。
少し離れたところの、藪が、揺れていた。がさがさと。真砂がどんな目に遭っているか、すぐにわかった。
太刀を抜き放ち、駆け寄った。藪の隙間から、見た。その時には、男は既に身を起こし、衣を纏っていた。
間に合わなかった。
が、奴は殺す。殺さねば。そう思う一方で、飛び出そうとする自分を強く引き留める思いがあった。
真砂はどうなる? この事実を夫に知られたら、果たして生きていけるのか? ただでさえ今、死ぬことを考えているであろうに。
俺に見られたとなれば、真砂は二度、辱められたも同然。
何もなかった。俺は何も見なかった。そういうことにするのが、真砂の痛みを一番軽くする方法なのではないか?
身を引き裂かれるような逡巡の間に、晴明はその場から消えていた。
俺は、音を立てぬよう気を付けながら、少し離れた場所まで引き返し、真砂が藪の中から出てくるのを待った。
すまぬ、武久。やはり語るべきではなかったやも知れぬ。だが、最早あとには引けぬ。最後まで聞いてくれ。
幸か不幸か、真砂は強い女だった。きちんと着衣を整え、戻ってきた。俺は懸命に、細心の注意を払って、何も知らぬ振りをした。何も知らぬ振りを、続けた。それからずっと、今日に至るまで。心を砕いた。
だが、不幸なことに、俺は弱い男だった。ともすれば怒りが噴き出しそうになる。理不尽にも、真砂を罵ろうとさえしたことも一度ではない。心の中では幾度も罵ってしまった。少しは抵抗したのか。実は悦んでいたのではないか、と。
やり場のない怒りを、俺は、すり替えた。憎悪を、敬意に。憎き相手を、逆に崇め奉り、怒りを隠した。
自分自身を騙すには、なかなかどうして、悪くない方法だった。何年か後には、本当の敬意を持っているような錯覚を覚えることさえあった。
お前に陰陽院に入ることをしきりに勧めたのは、陰陽の才などないことを、はっきりさせたかったからだ。そうなれば、奴の胤ではないかという疑いはほとんど晴れる。ごく稀に例外もあるとは言え、陰陽の才が遺伝で受け継がれることが多いのは事実。
結果としては、俺の血の方が否定されてしまったわけだがな。
だが、血など、何だというのだ。
お前が俺と同じ検非違使になりたいと言ってくれた時も、母の声を取り戻す為に陰陽師を目指すと誓った時も、俺は父親としての喜びに包まれた。
お前の父親は、この俺ただ一人だ。
ともあれ、武久よ。俺はやはり、あの男を討たねばならぬ。真砂を傷つけた罪は捨て置けぬ。偽りの日々はもう終わりだ。
されど、俺が晴明を討たんとするのは、私怨の為であってはならぬ。あくまでも一人の検非違使として、人々を苦しめる魔王を成敗しに行くのだ。
俺の真意が知れてしまったら、今日までの生活が途端におぞましきものとなり、真砂の傷は深く抉られ、今度こそ自ら命を絶ってしまうやも知れぬ。始めた芝居は最後までやり通さねばならぬのだ。
成り行きで心を決することとなったが、俺はこの成り行きに感謝している。お前と共に戦うという巡り合わせにもな。
俺が亡き後は、お前が母上を守れ。晴明を討てば、声が戻ることもあり得よう。そうなれば、真砂は堪え切れず、お前に真実を打ち明けるやも知れぬ。その時は、何も知らなかった風を装いつつ、受け止めてやってくれ。
――泣くな、武久。お前は、この都で一番立派な検非違使の息子なのだ。
俺たちの絆は決して切れぬ。こうして月明かりを背に並んで歩く俺たちは、誰の目にも親子と見えるはず。それだけで、俺は十分に幸せだ。
晴明の帰還は三月三日。その知らせは、晴明から式神を介して御所の陰陽師へ、そして頼忠に伝えられた。二月の末日のことであった。
三月三日は、毎年恒例の「曲(きょく)水(すい)の宴」が予定されていた日である。恐らく、修行はとうに済んでおり、敢えてこの日を選んだのであろう。晴明が帰ってくるとなれば、帝は宴を中止して出迎えをさせるはず。御所の年中行事よりも出迎えが優先されたとなれば、陰陽師安倍晴明が帝よりも優位に立っていることを、強く印象付けることができる。
頼忠は武弘に言伝を託した。決戦は三日後。言伝は武弘から沙霧、並びに、息子の武久と、道満の息子の道兼へ、そして、沙霧から絵師の良秀へと伝えられる。三日後、刺客たちが――良秀は式神を呼ぶのみだが――黄金の塔のもとへ結集する。
晴明にしてみれば、塔を出た後、躊躇する理由は何もない。ただちに冥界の門をこじ開け、百鬼夜行を起こすだろう。それは、帝や大衆の目には、間一髪間(・)に(・)合った(・・・)と映るわけだ。
故に、間髪を入れず、討たねばならない。万全の態勢とは言えないが、やるしかない。
しかし、いざやるとなると、道満の死は大変な痛手であった。聞けば、あの男の術こそ晴明が最も苦手とする類のものだったという。あの男なしで――女と子供ばかりで――本当に晴明を倒せるのか? 沙霧の率いる義賊の一党も加勢するというが、決め手にはなるまい。
やはり今からでも現役の陰陽師を説得すべきだろうか? いや、もし説得に失敗し、計画が露見すれば、私が捕らえられるだけでは済まない。警戒され、襲撃の成功率が格段に下がってしまう。
陰陽の才なき自分には、ただ刺客たちの勝利を祈ることしかできないのか?
それにしても、と、頼忠は思う。何故これほどまでに、晴明は悪なのか? 自分の力を他人の為に使おうとする人間もいる。何故、晴明は、その絶大な力を私利私欲の為に使おうとするのか?
実は私利私欲でなく、何か深い考えがあってのことなのか? あるいは、幼少期に心を歪められてしまうような経験をしたのか? それとも、特別な動機など何もなく、人間は、ただ欲望の為に、悪になり切ることができるものなのだろうか?
できる、ということなのだろう。人間の欲望は底知れない。
民を飢えさせてまで、風雅な暮らしを続けたがる貴族。辟易しながらも、私自身も貴族なのだ。民を思おうが思うまいが、他の貴族と同様に、私が飢えることはない。今までに飢えたことは一度もない。
私財をなげうてば、何人かを飢えから救うことはできる。けれど、それはしない。何人かを救うだけでは意味がない……と、もっともらしい言い訳をしているが、そんなものは詭弁だ。救える(・・・)のに、救わない(・・・・)のだ。何故なら、他人より、自分の方が大切だから。
大切な他人――例えば家族――が死に瀕していたら、人は救おうとするだろう。けれど、それは大切(・・)だ(・)から(・・)だ。大切(・・)で(・)ない(・・)他人なら、おしなべて救わない。
晴明のように、他人を欺き、多くの犠牲を出してまで英雄であろうとする巨悪と、ただ他人を救わないだけの我々との間には、実のところ、根源的な違いはない。私は貴族の家柄に生まれたことに感謝している。もし私が、晴明ほどの力を持って生まれたなら……抱き得る、彼と同じ野望を。
しかし、そんな風に考えたところで、状況は少しも改善されないのだ。誰もが魔王になる素質を秘めている――そんな理由で、奴の凶行が許されるわけがない。自分は、今、偶然にも、魔王ではない。止める立場にいる。責務を全うしなければならない。
行動だ。沙霧と子供たちが勝算を度外視して戦おうとしているのに、自分だけ安全な場所にいて理屈を捏ねている場合ではない。
晴明が欲しているのは、名声。英雄であり続けること。ならば、真相を暴かれることを最も恐れているはず。
語ったところで、大部分の人間は信じまい。何よりまず帝が決して受け入れないだろう。
それでも、誰かが声を上げれば、奴は少なからず動揺するに違いない。まったくの無関心でいられるとは思えない。平静を装いながらも、内心は焦る。たとえ言葉が誰の耳にも届かなかろうと、奴の心を少しでも揺さぶることができれば、刺客たちの一助にはなる。
頼忠は遺書をしたため、油紙で包むと、大きく息を吸い込んだ。そして、決戦の場にて、声を張り上げる自分を想像した。何度も思い描き、備えた。三日間、そうやって過ごした。
「次、お願いします」
「良かろう。しばし待て」
土色の絵具を練って、この山荘の位置に天狗を描く。
現れた天狗に向かい、武久が木刀を構える。その目に微かな緩みがあるのを、良秀は見逃さない。
「土行の敵は御し易かろう。だが、油断するな。先ほどのものより強いぞ」
「はい」
気合いを発し、武久が天狗に突進していく。
片や、道兼は部屋の隅で、じっと水盆を睨み続けている。拵(こしら)えの行。水盆の水で――あるいは土の塊や焚火で――何かを形づくる。式神を呼び出す為の修行である。
沙霧が遣わした燕の式神と共に、二人の少年が現れ、稽古をつけてくれと言ってきたのは、昨日、三月一日のことであった。
決戦は三月三日。男子三日会わざれば括目せよというが、それにも満たぬ、二日間しかないのだ。付け焼き刃とはまさにこのこと。一笑に付し、追い返そうとした。
しかし、少年たちは引き下がらなかった。付け焼き刃は百も承知。それでも、最善を尽くしたい、と。
かつて、絵の弟子ならいたが、地獄変を描く為に娘を焼き殺した時、皆去っていった。あれ以来、他人と話すことさえ稀であった。術を教えるなど、柄ではない。
けれど、断る理由が見当たらないことに気付くと、良秀の行動は早かった。すぐさま、二人の力を測った。無駄な躊躇こそ性に合わない。
結なる技を初めて見た。斬新かつ、実用的でもあったが、頼り過ぎてはならない、と直感した。二人も既にそれを理解しているようであった。相方が先に死ねば、もう使えない。それに、結局は各々の力量がものを言う。
良秀は、別個の課題を与えた。
道兼は流石にあの蘆屋道満の息子であった。呪力の総量だけなら現役の陰陽師連中にもひけを取るまい。この子は、ともすれば、式神を呼ぶ段階に達し得る。そう判断して拵えの行を始めさせたのだが、水は時おり球となって浮かび上がる程度で、未だ何かの形を成す気配は見られない。
通常は一年、早い者でも半年はかかる修行だ。二日で修めようなどとは無茶な話なのだが、その無茶を通すぐらいでなければ、あの晴明とは渡り合えまい。これは賭けだ。納められなければ、それまでのこと。二日間は徒労に終わる。
武久には実戦の経験を積ませることにした。式神を呼び出し、ひたすら戦わせる。
敢えて、木行の武久にとって強敵ではない、土行の式神ばかりを呼んだ。この子は一人で戦うのではない。仲間がいる。故に、好機を見逃さず、力を発揮できればよいのだ。不得手な相手への対策は必要ない。
良秀が驚いたのは、二人の休み方であった。そもそも、休みを取るという冷静さが注目に値する。
倒れるまで続ければ、その後、格段に能率は下がる。それに、目前に迫った決戦に備えて体調を整えておかなければならないのだ。適度な休みは必要。しかし、頭ではわかっていても、なかなか実行できるものではない。
道満が休むことの大切さをきちんと伝えていたのだろう。そして、二人は確かに最善(・・)を尽くそうとしているのだ。投げやりになっていない。
休むと言っても、壁にもたれて僅かに眠るのみ。だが、その短い時間で、体力と気力を最大限に回復させている。休むことへの集中力もさることながら、武久の使う癒しの術もかなりの効果を上げている。
少年たちの寝顔を見ながら、惜しい、と良秀は思った。
彼らは描きかけの絵。まだ輪郭に過ぎない。時をかけて、丹念に描き込めば、大作に仕上がる可能性を秘めている。なのに、明日には送り出さなければならない。
そこそこに勝算があるならばまだしも、極めて低いのだ。水行の晴明に対して、決め手となる土行の術者がいない。土の式神を送り込むつもりではあるが、それで勝てるなら苦労はない。
金属は土中にて生じる。すなわち、沙霧と土行の式神は結を成せる。けれど、それは沙霧の術の助けとしかならず、逆はない。
明日の戦いは、この世界が大地を欠いて、豪雨を浴びるようなものだ。受け止める器がない。ひたすらに溢れ返る。
いっそ、二人をどこか遠くの里へ逃がし、落ち着いて修行を積ませると共に、仲間を探させるべきではないか? ――いや、それは最善(・・)の手ではないのだろう。百鬼夜行を黙認すれば、その損害は計り知れない。
邪悪な絵に傾倒している良秀であったが、冥界の門の向こうには、さして興味は湧かなかった。
地獄は、もう見た。愛する娘が悶えながら焼け死ぬ様。あれで十分だ。
認めたくはないが、悔いていた。
娘の骸骨を見やり、拳を握り締める。救うべきであった。若き命を。救える距離にいた。何故救わなかった? あれを見て得たものなど、命に比べれば、芥ほどの価値もない。
不意に現れ、今は健やかな寝息を立てている二つの若き命に、神か仏か、何者かが祝福を与えることを、柄にもなく、良秀は祈った。
三月三日、正午。
黄金の塔の最上階で、晴明は最後の瞑想を終え、一人、口元を綻ばせた。
力が漲っている。明らかに達した。今なら冥界の門を――明日への扉を開くことができる。
これからは思う存分、本物の妖魔と戦うことができる。危うい自作自演はもう必要ない。本当の戦いをして、本物の英雄になるのだ。栄光がもう目の前にある。
道満と通じていたあの右大臣、あれから御所を離れることがなく、仕留め損ねたが、かえってそれで良かった。塔を出れば、ただちに刺客たちが襲ってくるだろう。望むところ。お手並み拝見だ。門を開く前の肩慣らしには丁度いい。道満亡き今、万が一ということはあり得ない。
道満を殺した後、あの右大臣と繋がっているのは誰か、即ち、誰が刺客たり得るかは把握した。金行は義賊の頭領沙霧、水行は道満の息子道兼、木行はあいつ(・・・)の息子――もとい、我が子――武久、火行は裏切り者の良秀。土行の術者はいない。恐るるに足らず。だが、殺すだけでは一瞬で終わってしまう。敢えて攻防をしてやろう。
期待に胸を膨らませながら、晴明は塔を下りていく。
「お帰りなさいませ、安倍晴明様」
左手に陰陽師、右手に検非違使。整然と居並ぶ男たちが、一斉に頭を垂れた。悪くない出迎えだ。英雄の凱旋に相応しい。
外はよく晴れていた。久々に見る空。澄み渡り、雲が流れていく。いかにも泰平。それも当然。今、都を脅かしているのは仮初めの恐怖に過ぎない。本物はこれから訪れる。
塔を出て数歩――左右から殺気。
(よしよし、そう来てくれねばな)
陰陽師と検非違使、それぞれに扮していた二人の刺客が、左右から同時に短刀で斬りつけてきた。両者ともなかなか鋭い。息も合っている。だが、晴明が危機を感じるほどではない。
ごく自然に、ふと立ち止まるようにして、晴明は短刀をかわした。
周りの人間たちが色めき立つ。
「手出し無用」
ゆったりとした声で晴明は言った。折角の歓迎(・・)、きちんと礼をせねばならぬ。
虚空から扇を取り出し、開く。と、扇は見る間に赤熱し始めた。
如何な手練れが扱おうとも、所詮はただの金属。金を溶かすは火。
刺客たちが仕掛ける。また左右同時。首と胴に迫る短刀を、熱の扇で素早く打ち払う。
短刀はあっけなく溶解する――はずであった。溶けない。払われたのみ。
刺客たちはすぐに体勢を立て直し、追撃を加えてきた。身をかわしながら、晴明は短刀を凝視した。
水を帯びている。さては金行の依代。だが刺客たちに呪力は感じられない。
「火なら効かねぇぜ。こいつは沙霧の愛刀、多襄丸だからな」
「兄者、わざわざ教えてやることもあるまい」
「構うもんかよ、二郎。冥土の土産ってやつだ」
なるほど、借り物の依代であったか。ならば、一度水を剥がされたら、再び結露させることはできぬ。
土埃の羽衣を纏う。刺客たちの攻撃を紙一重でかわし、羽衣を斬らせる。一度、二度。三度もかわした時には、水は完全に吸収され、刀身が剥き出しになった。こうなれば、依代とてただの金属と同じ。
晴明が言った。
「その短刀の持ち主はどこにおる?」
「誰が言うか」
「左様か。ならば、そなたの骨身ごと、溶かしてくれよう」
扇を投げ上げる。すると、扇は回転しながら、炎の鳥になり、刺客の一人に襲いかかった。
「兄者!」
と、もう一人の刺客が叫んだ時、空中から水の虎が現れ、爪で炎の鳥を引き裂いた。
晴明は目を細め、微笑を浮かべた。やはり、他にも刺客がいたか。そうでなくてはつまらぬ。
虎は着地すると、唸り声を上げ、晴明に向かって突進してきた。
愚かな。こちらはまだ土埃の羽衣を纏っている。水の式神が通じないことは明らかではないか。新手も大した使い手ではなさそうだ――と、晴明が落胆した時、虎は無数の木の葉に変わり、風と共に一気に吹き抜けながら、土埃の羽衣を切り裂いた。
左頬に微かな痛み。薄皮を切られていた。見事。この都に結を使いこなせる者たちがいたとは。
風が吹き抜けた先に、一人の少年がいて、木刀を構えていた――武久。我が息子。では、その近くの木陰に身を潜めている気配は、道兼のものだろう。
道兼は、この俺が父の仇だと知っているのだろう。だからこそこの場にいる。
武久は? 実の父親が誰なのか、知っているのだろうか? それとも友の仇討ちに手を貸しているだけか?
いずれにせよ、大した勇気だ。それに、実力も備えている。手傷を負うなどいつぶりのことだろう。
「強くなったな」
父親らしい言葉をかけてみる。さて、どう来るか。
武久は返事をせず、木刀を振り上げた。地面に散らばっていた木の葉が再び舞い上がる。
その表情には、動揺も疑問も浮かんでいない。全て知っている、ということらしい。この俺を、母を辱めた敵と見定め、討つと決意している――返り討ちにされることも辞さずに。健気なことだ。
武久が木刀を振り下ろす。木の葉の刃が一斉に向かってくる。
木は金属より脆い。太刀で容易に切り裂ける。袂から呪力の太刀を抜こうとして、晴明は瞬時、手を止めた。
良秀の山荘はここを見渡せる位置にある。つまり、良秀は呼び出した式神を操れるということだ。ここで俺が金行の術で応じようとすれば、奴が火行の式神でそれを潰しにかかるのだろう。
それでいい。火の式神を先に潰せばいいのだ。右手で黒鋼の太刀を抜きながら、左手に水行の呪力を練っておく。
木の葉が迫る。太刀を振りかざす。ここで火の式神が現れるはず――だが、来ない。買い被ったか? 来ないならばそれまで。結で力を増していようと、所詮は子供の術。切り伏せる。
振り下ろそうとした太刀が、突如意志を宿したかのように、晴明の手から離れた。
その太刀を、手に取る者があった。金色の手甲をした女。沙霧。
これは――磁力。金で金を封じたか。
葉の刃に肌を斬らせながら、晴明は昂奮に震えていた。
予想以上。立派な刺客たちだ。こうまで楽しませてくれるならば、殺してしまうのは勿体ない。敢えて逃がすのも一興か。
「さぁ、次は何だ?」
その気になれば、傷はすぐに治せる。だが敢えて放置した。希望を抱かせ、攻めさせる。来るがいい、思うさま。
通り過ぎた葉の刃たちが、再び武久のもとへ戻っていき、光に群がる羽虫の如く木刀に集い、巨大な緑の剣となった。
同時に、背後から殺気を感じた。振り向くと、砂の竜。良秀の作であろう。
葉の豪剣と、砂竜の牙。二つの脅威の狭間で、晴明はせせら笑った。
晴明が、消えた。誰の目にもそう見えた。
葉の剣は勢いを止めることができず、砂の竜の首に深々と突き刺さった。剣はただちに引き抜かれたが、竜の身体は傷口から崩壊し始めた。
消えたと思われた晴明は、それまでにいた位置から五間ほども離れた地点に立っていた。どんなに身の軽い者でも、一瞬で移動できる距離ではない。
武久は怯むことなく、二の太刀を放った。すると、晴明の姿はまた消えた。いや、武久の目には辛うじて、晴明が地を蹴り、異常な速度で飛び退いていくのが見えた。
火行の裏芸、空蝉(うつせみ)。炎の爆発力を利用した移動術。かつて、晴明が一瞬にして武弘と河童の間に立った時、さりげなく用いていたのがこの術である。
「如何に技を磨こうと、当たらなければ無意味。そうであろう、我が息子よ」
いつの間にか武久の背後に回った晴明が、耳元で囁いた。
「我が父は、武弘ただ一人」
言いながら、武久は振り向きざまに薙ぎ払ったが、剣は虚空を斬るばかりであった。
速い。あまりにも速い。時折、嘲るように動きを止めたところを、一郎や二郎は多襄丸で、沙霧は先刻奪った太刀で、武久は葉の剣で斬りつけようとするが、得物を振り始めた時には、晴明はもう別の場所にいる。
「うざったい。ぶんぶん飛び回りやがって。まるで蚊だね」
呟いた沙霧の目の前で、晴明が立ち止まった。
「蚊か。ならば血を吸わねばな」
そう言って、晴明は左手で沙霧の顎を手に取り、唇を吸った。右手は乳房をまさぐっていた。
「てめえ!」
一郎が叫んだ。二郎は無言で激昂した。武久も、かつて母がされたことを再現されているようで、怒りのあまり、蒼白となった。
しかし、男たちの渾身の一撃も、虚しく空を斬った。
「なめやがって、クソが!」
忌々しげに、一郎が吼える。
捕らえられない。弄ばれている。最早刺客たちに勝機なしかと思われたその時、晴明の目が、何かを見た。そして、晴明はその何かから即座に距離を取った。
高速で動く何かが、晴明を追った。晴明は身を翻し、手刀に炎を宿して、追ってきたものに対して向かっていった。閃光を発しながら、二つの影が交差した。
「持ち場を離れて良いのか、良秀?」
と、晴明が言った。
「空蝉を使えるのは貴様だけではない」
と、良秀が言った。
「問いの答えになっておらぬぞ。お主の本分は式神を呼ぶことであろう。すぐさま自慢の空蝉で、あの山荘へ戻るべきではないか?」
「ごちゃごちゃ言っていると、舌を噛むぞ」
良秀の姿が消え、八方から晴明に向かって火球が飛んだ。晴明が消えた。八つの火球はぶつかり合って炸裂し、消えた。
晴明の行く手に、木の葉の山があった。それが一瞬にして火柱となった。武久と良秀の結である。
火柱を避けようとして、晴明が軌道を変えた。そこに良秀が追いつき、狩衣の袖と襟を掴んで、体を反転させ、背負い投げで晴明を地面に叩きつけた。
驚愕している晴明の顔に、良秀は唾を吐きつけた。
「油断したな、晴明」
「お主もな、良秀」
と、声がしたのは、良秀の背後からであった。
水流の槍で太腿を貫かれ、良秀が苦痛に呻いた時、仰向けに倒れていた晴明の分身は消滅した。
「浅はかなことよ。万に一つ、私を捕らえられたとしても、老人の細腕で押さえておけるわけがなかろう」
「ああ、そうとも。力仕事は若い奴にやらせなきゃな」
良秀が言い終わるのと、武弘が晴明を羽交い絞めにするのとは、ほぼ同時であった。
全力で締め上げる。決して離さない。この男の心臓が止まるまで。
平然とした声で、晴明が言った。
「久しいな、兄弟」
腕の力をさらに込め、武弘が言った。
「貴様に兄弟呼ばわりされる筋合いはない」
「そう邪険にするな。同じ女を抱いた仲ではないか」
「何のことだ?」
「とぼけるな。見ておったのだろう。あの日、藪の外から」
「知らぬな。俺はただ検非違使として、都の平穏を脅かす黒幕を討たんとしているだけのこと」
「左様か。思い出せぬのならば仕方ない。順を追って話してやろう、私がどのようにそなたの妻を抱いたか」
「好きに喋れ。何が末期の言葉となっても構わぬならな」
その時既に、武久の葉の剣は、晴明の脳天目がけて打ち下ろされている途中であった。
晴明が地を蹴り、飛び退こうとする。だが、武弘が全力で取り押さえ、晴明の体は僅かに下がっただけだった。葉の剣の切っ先が、晴明の烏帽子をかすめた。
「浅いぞ、武久。俺ごと斬れ」
「はい!」
武久が構え直す。
晴明が言った。
「私の子供に人殺しなどさせないでくれ」
「俺の子だ」
「真実を歪めるな。そなたらがどう信じようと、あれは私の胤だ。過去を変えることはできぬ」
「ならば、それでいい。我が子の手にかかって死ね。貴様の放った忌まわしき精が刺客となって返ってきたのだ」
横殴りに、葉の剣。晴明は瞬時に地面から木を生えさせ、盾とした。金属で防いでは沙霧に奪われる為である。
木行の術同士がぶつかり合い、千切れた葉が舞う。
その時、側面から近づいてきていた沙霧の太刀が、木の盾を断ち割り、そのまま晴明の胴に食い込もうとした。
晴明は武弘に阻まれながらも、僅かに身を引いて、太刀をかわした。刃は狩衣を横一文字に大きく斬り裂いたが、肌には届かなかった。
晴明が言った。あくまで平然と。
「よくぞここまで私を追い詰めた。褒美を取らせよう」
冷たく、鋭利なものが、武弘の全身に突き刺さった。無数の氷柱(つらら)であった。
痛みなど意に介さぬが、血を失って倒れるわけにはいかぬ。
「治せ、武久!」
叫んだ時には、既に治癒の術はかけられていた。氷柱は刺さったままだが、血は流れず、冷気で凍傷になることも防がれている。
十分だ。これなら押さえ続けられる。
「目論見が外れたな、晴明」
「そうは思えぬな。先に癒し手を消せば良いだけのこと」
武久の背後に、炎の輪を背負った像が現れた。明王。六本の腕にそれぞれ武器を持っている。そのうちの一つ、独鈷(どっこ)が、武久の首筋に迫っていた。
「後ろだ!」
叫ぶと、武久は前方に転がり、辛うじて避けた。しかしその時、治癒の術は途切れ、武久の全身から血が噴き出した。
さらに、明王の羂索(けんじゃく)――投げ縄――が沙霧に迫った。沙霧は太刀で受け止めたが、太刀は見る間に融解した。
二人の義賊が、明王に向かって突進した。
「よせ! お前たちじゃ無理だ!」
沙霧の制止も聞かず、義賊たちは短刀で斬りつけようとし、明王の錫(しゃく)杖(じょう)で打ち払われ、隻眼の義賊は顔面に、もう一人は腕に火傷を負った。
「兄者、無事か!」
「てめえの心配をしてろ、二郎。俺の顔は元々潰れてるからよ、このぐらい、どうってことねぇ」
刺客たちの攻め手が止まり、あたりは静寂に包まれた。
腕の力が抜けそうになる。治癒は再開されたが、冷気が全身にまとわりつき、筋肉の働きを妨げている。
晴明が嘲るように言った。
「もう打つ手なしか?」
武弘も嘲りを込めた声で返した。
「どうだろうな」
その時、静寂を引き破るように、大音声を放つ者があった。
「聞け、皆の者!」
右大臣、頼忠であった。
「あの者らは賊にあらず。安倍晴明こそ、帝と民とを陥れ、この都を我が物にせんとする悪党である」
明王が頼忠に向かって歩き出した。頼忠は構わず続けた。
「これまでの妖魔騒ぎは全て奴の自作自演である。手下に式神を召喚させ、それを妖魔と偽っておったのだ」
「その通り。この儂こそ、その手下よ」
と、応じたのは、足に重傷を負い、跪いたままの良秀である。
聴衆に、狼狽の気配があった。
「そして、百鬼夜行なる予言も、奴の企みだ。門を開こうとしているのは冥界の王などではない。奴自身だ。奴こそが魔王なのだ」
「そんな話を、誰が信じる?」
落ち着き払った声で、晴明が言った。
「信じようが信じまいが、構わぬ。だが、いずれにせよ、者ども、そのまま大人しくしておれ。この戦いに巻き込まれれば命はない」
「妄言で民衆を惑わせた罪だ。そなたの命こそ、今燃え尽きる」
明王の剣が、火の粉をまき散らしながら、頼忠を襲った。
しかし、木陰から飛び出した何かが明王の腕に絡みついて、動きが瞬時止まった。そこへ、全身が水でできた仁王像が現れ、明王に組み付いた。明王は消えこそしないものの、身動きを封じられた様子である。
晴明は木陰に向かって言った。
「ほう、我が子以上だな、道兼。褒めてつかわすぞ。先ほどの虎といい、その若さでこれ程強力な式神を操れるとは」
「いや、まだまだよ、あの小僧は」
言ったのは良秀である。
「晴明、貴様は三つ誤解している。一つ、虎も仁王も、呼び出したのは道兼だが、あの小僧はまだ何(・)の(・)助け(・・)も(・)なし(・・)に式神を呼び出せるようにはなっていない。二つ、砂の竜を呼んだのは儂ではない。道兼だ」
「矛盾しておるではないか。未熟なる者が、本行以外の式神を扱えるわけがない」
「最後まで聞け。三つ、あの木陰にいるのは道兼ではない。あれは沙霧の配下の一人、猪鹿の婆と呼ばれる老婆よ」
晴明が僅かに動揺したのを、武弘は気配で感じ取った。
「気付いたようだな。沙霧が男たちに多襄丸を持たせたように、依代の貸与は可能。道兼は今、山荘におる。儂の絵図を使って式神を呼び出しておるのだ」
そして、晴明の前に、弓を構えた男が現れた。蘆屋道満であった。
「これはこれは、風変わりな式神だな」
「余裕ぶっていていいのか? これこそ、あの小僧が思い描く最強の式神。土行の覇者、蘆屋道満だ」
矢が、放たれた。
晴明が再び木を生えさせ、受け止めた。石の鏃(やじり)が幹から飛び出したが、矢はそこで止まった。
――そう来ることは、わかっていた。
武弘は晴明を捕らえたまま、横へ飛んだ。その先へ、既に二の矢が放たれていた。矢は、晴明の右肩に突き刺さった。
道満は、光の粒となって消えた。今の道兼の力では一瞬が限界だったようだ。けれど、十分。狩衣は血で染まり、晴明は押し黙って頭を垂れている。
「今だ、武久! 治癒はもういい! たたみかけろ!」
父が叫んだ。
わかっている。今、行くべきだ。
しかし武久は治癒の術を止めることができない。
「何をしている! 急げ!」
駄目だ。明王に襲われた時、一度治癒が途切れた。これ以上血を流したら父の命が危うい。
「武久!」
駄目だ――!
沙霧が、負傷した一郎と二郎から多襄丸を受け取り、晴明に斬りかかった。が、刃が晴明に当たるより先に、晴明の足が沙霧の腹を蹴った。沙霧の体は三間ほども飛び、蹴りを受けた部分の衣が焼け焦げていた。空蝉を打撃に用いたのだ。
そして、晴明が哄笑した。肩の傷の痛みをまるで感じていないかのような声であった。ひとしきり笑うと、言った。
「治癒は済んだ」
矢が晴明の肩からひとりでに抜け落ちた。葉の刃でつけた傷もいつの間にか塞がっている。
「流石に土行の術で受けた傷には手こずった。惜しかったな。沙霧に頼らず、武久、そなた自身が迷わずに打ち込んできておれば、討ち取れたやも知れぬぞ」
動くのだ、今からでも。父はとうに命を捨てている。悲願を果たせぬままでは無駄死にではないか。動け。悔いている暇はない。治癒を止め、奴を――。
「この男が心配でならぬか。では、今、楽にしてやろう」
父の目が見開き、喘ぐように口を動かした。しかし声は出ない。羽交い絞めが解かれ、父は仰向けに倒れた。
「父に何をした!」
「あの女にかけたのと同じ、水行の禁呪よ。呼吸器を止めたのだ」
父の口は苦しげに空気を求めている。
「長くは苦しまぬ。感謝せい」
「父上!」
治癒の術を、喉にかける。
「無駄だ。治癒は通じぬ。あの女の声も取り戻せなかったであろう。禁呪を解くには術者を倒すより他ないのだ。すなわち、この私をな」
時間が、ない。
「もう一つ教えてやろう。肌が触れ合う程近寄らねば禁呪は使えぬ。故に、今すぐそなたの息を止めることはできぬのだ。もっとも、できたとしてもそんな無粋は……」
剣を地面に突き立て、柄を握ったまま、晴明に向けて傾ける。姿勢を低くし、念じる。
我が依代、父より賜りし木刀。木は火を生ずる。発火。燃焼。爆ぜろ。飛ばせ。
切っ先から生じた爆風が、武久の体を運んだ。
――入った。既に間合い。貫く。
剣は――跳躍した晴明の足元の空間を通り抜けた。
晴明は武久が先ほどまでいた場所に着地し、手を叩いた。
「つくづく驚かされる。見よう見まねで空蝉を使うとはな。我が血を引くだけのことはある」
もう一度。飛ぶ。振り抜く。
――当たらない。見切られている。
「さて、また次の式神を呼ばれては面倒だ。元を絶つついでに、珍しいものを見せてやろう」
突然、あたりが影に包まれた。黒雲が空を覆ったのだ。
「覚えておけ。雲は氷の粒でできているのだ。そしてその粒同士が擦れ合うと……」
光。遅れて、雷鳴が轟いた。山荘から火の手が上がった。
「このように、稲妻が生じる」
「道兼!」
「これぞ水行術の奥義。見た目は火行術だがな」
――怯むな。
飛ぼうとした瞬間、視界が失われた。真っ白な世界。雷鳴だけが聞こえる。何が起こった?
「光はこんな使い方もできる。しばらくは見えぬはずだ。大人しくしておれ」
「晴明!」
道兼の声であった。
馬鹿な、居場所を明かすなと、あれ程――。
水飛沫の音。道兼の水の矢を、晴明が打ち払ったのであろう。
「これはまた一本取られた。なるほど、この場所に式神を描くだけなら、何もあの山荘の広間である必要はない。絵図を折りたたみ、潜んでおったというわけか」
「父の仇、覚悟!」
姿を現して何になる? 決まっている。時間稼ぎだ。俺の視力が戻るまでの。
治せ。一刻を争う。早く。
雷鳴と重なって、道兼の悲鳴。
「直撃は免れたか。運の良い奴だ。しかし、その腕はもう使い物になるまい」
――回復した目に映ったのは、左腕を真っ黒に焦がされて倒れている道兼と、もう動かない父の姿であった。
それは、直感というより他なかった。
今日は晴明様が修行からお戻りになるのだ。そう言って、いつものように出かけていく夫を見送った後、真砂は漠然とした不安にさいなまれていた。
武久は陰陽院で泊まり込みの修行をすると言い、一昨日から帰っていない。
嫌な予感がする。私の知らないところで、何か不吉なことが起きようとしている。
正午過ぎ、真砂は家を飛び出し、黄金の塔へ向かって駆け出した。
途中、黒雲が空を覆った。
塔の下に辿り着いた真砂が目にしたのは、地獄絵図であった。
二振りの短刀を握ったまま、仰向けに倒れている女。
座り込み、太腿から血を流している老人。
片腕を押さえて跪いている少年――道兼。
いくつかの焼死体――義賊たちと、頼忠の言葉を信じて晴明に立ち向かった検非違使、陰陽師たちである。
両膝をつき、虚ろな目で天を仰いでいる息子。
地に伏して動かぬ夫。
「久しいな、女。息災であったか」
狩衣姿の男――晴明が言った。その手は一人の貴族の首を掴んでいる。その貴族が叫んだ。
「来るな! この惨状は全て、この男の手によるもの」
「降りかかる火の粉を払ったに過ぎぬ」
晴明が貴族の体を宙に持ち上げた。貴族の口から呻き声が漏れた。
「まだ殺しはせぬ。そなたには先ほどの言葉を訂正してもらわねばならぬからな。さぁ、言え。安倍晴明は都の英雄であると」
「奴は、魔王――」
そこで言葉が途切れた。
「世迷言しか申せぬ声ならば不要」
放り捨てられ、貴族は倒れた。
「女よ。あれから時が経ち、一度子を産んだにも関わらず、そなたの容色はまるで衰えておらぬな。その美しさは我が力と同じ、かけがえなき宝よ」
晴明が近づいてくる。
「そなたの声は戻してやろう。今度は是非、声を聴きながら愛し合いたい。悦びに喘ぐ声を」
「逃げろ、女!」
叫んだ老人の顔に、晴明の手から放たれた水球が直撃し、高い音を立てて炸裂した。老人の顔の、穴という穴から血が噴き出した。
「そなたの夫はもうこの世におらぬ。だが、案ずるな。私がいる。そこで呆けている少年の、真の父親である私がな」
晴明はあと数歩の距離に迫っている。
声が――出せる。口封じが解かれていた。叫び出しそうになる衝動を、抑え込んだ。
戦っていたのだ、息子と夫は。私に悟られぬよう、慎重に。命をかけて。
夫は真実を知っていたのだろう。晴明に異常と思える程の敬意を払っていたのは、恐らく、知らぬふりをする為。
そして、共に戦っていたからには、息子も全てを知っているはず。
「そなたは今から、この英雄の妻だ」
真砂の目の前で、晴明が立ち止まった。
この男は裁かれねばならない。その為に、今、何を叫べばいい? どんな言葉が目的に適う?
武久はまだ生きている。名を呼ぶ? それだけで心を取り戻せるか?
私に、私自身に、力があれば――。
戦いたい。何故私は戦えない?
「力を……」
無意識に、呟いていた。
「――力を!」
今度ははっきりと叫んだ。
その声に、短刀の女が微かに反応した。
宿せ、我が身よ。力を――絶望を退ける力を。宿せ。
下腹に掌を当て、真砂は呼びかける。
まだ見ぬ新しき命。母の声に応えよ。悪を討て。兄を救え。
女が、倒れたまま、二振りの短刀を互いに打ち付けた。刀身は粉々に砕け散り、金色の粒が、宙に舞った。
道兼が、その粒に向かい、手をかざした。あたりを霧が覆った。
武久が、霧の中で、木刀を高々と突き上げた。霧は花びらとなって、空へ舞い上がった。
老人が、赤い絵具のついた絵筆を、花の嵐の中へ放り投げた。花びらは燃え上がり、大地に降り注いだ。
火は、土を生じる。
真砂の胎内から力が迸(ほとばし)り、晴明と真砂の間の地面に亀裂が走った。
轟音と共に地面が引き裂かれた。その裂け目が、晴明を飲み込んだ。
しかし、直後、鳶に変化した晴明は、亀裂から生還し、真砂の頭上を悠々と飛びながら、勝ち誇ったように言った。
「愚か者どもめ。私が変化の術を使えることを忘れたか。せっかくの円も無意味であったな」
ところが、晴明の体は再び大地の裂け目に吸い寄せられていく。
落ちていく。真っ逆さまに。
飲み込まれる間際で、晴明は人の姿に戻り、崖を掴んだ。
「これは、まさか――重力」
晴明の掴んでいた崖が、崩れた。
魔王を飲み込んだ裂け目が閉じると、黒雲は去り、青空が広がった。
「武久」
呼びかけた時、武久は武弘の胸に掌を当て、一心に念じていた。
道兼が立ち上がり、傍に寄った。
武久が言った。
「すまぬ、道兼。しばし待て」
「我は後で構わぬ。使え」
武久の掌が、清らかな水泡に包まれた。
「恩に着る」
水泡は、輝く気流に変わり、武弘の胸に沈んでいった。
少しの後、武弘の目が、開いた。
「武久」
もう一度呼んだ。
武久は目に涙を浮かべ、真砂を見た。
「母上」
真砂は、引き寄せられるように駆け寄り、愛する息子と夫を抱き締めた。
(了)
魔王安倍晴明