くそったれなドラゴン
最近はやりのファンタジーを書いてみました。
知っていると思うけど、ドラゴンは僕の話を聞いちゃくれない。もちろん君の話も聞くわけがない。ドラゴンは誰の話も聞いちゃくれないのだ。参っちゃうよな。でも本当の話だ。
僕はドラゴンをじっと眺める。これは多分、小型なんだろう。でもって小型ってのは、別に絶対的に『小型』って価値観があるわけじゃない。分かるよね。小型の虫ってのと小型の肉食獣ってのは……なるほど、これで自然行動学の考査書が書き上げられる。少なくとも僕の腕がそのままの状態で帰る必要があるとはいえ。
ドラゴンの瞳(綺麗なすみれ色だ。こういうのって本当に滅入る)は握りこぶしくらいあるし、鼻腔から漏れる息は、籠手が無かったら僕の腕をまずまずの硬さに火を通しているはずだ。何にしたって、肌のきめが荒すぎる。竜の腹の底からぐるぐると音が鳴った。僕の背丈と同じくらいの高さだ。四足歩行でこれなんだからな。
でも、そんなのを聞いている場合じゃないんだよ。僕はただ単に騎兵訓練所の一見習いだし、今日だって実地調査という名前で馬の疾駆けの練習をしに来ているだけだ。別にそれ以外の目的はないし、死にに来ているわけでもない。それにこういうのって無いだろう? だって、ここは草原からほど遠くない森の中だし、小鳥さんがちゅぴちゅぴ鳴いてばっかりの場所で、よくても巨鳥が来ればいいってところだ。視界には背の低い木と草の中間みたいな植物が並んでいるし、僕の後ろには馬鹿でかい木がすっくとそびえている。僕は大きくため息を吐いた。故郷に残した妹の一人や二人でもいりゃあ良かったが、故郷に残してきた妹は、二年前に粉挽きの水車にうっかりすり潰されて死んでいる。やってらんないよな。
「ええっと、名前を……」
僕は肩をすくめて聞いてみたが、竜は頭を捻って威嚇しただけだった。どうしたって動物ってのはこう僕を睨むんだろうな? 僕は出来るだけ痛くない死に方を数通り考えたが、それでもやはり痛いことに変わりはなかった。何にせよ、そういう方向でこの竜と調整が行くとも思えない。全く嫌な話さ。
竜が翼を広げて、一つ大きくうなり声をあげた。辺りの木からばたばたと鳥が羽ばたいて出て行く。弾力のある内膜がばっと広げられて、それと共に共成虫と苔と礫が僕の顔にぱらぱらと落ちてくる。肉に胡椒を掛ける習慣を反省した。
あ、死ぬな、とどうでもいいことを考えていた時に――多分妹もこんな感じだったんだろう――突然、後ろから声が掛かった。どなり声という方が適切だ。
「伏せなさい!」
『伏せなさい』。これだよ。僕はできる限り素早くしゃがみ込んだ。しかし、別に僕じゃない誰かに言ったのかも知れない。そういう時ってすごい嫌な気分になるもんだよな。でも誰もそういうことに興味をもっちゃくれない。皆、自分の望んだ奴が望んだ時に伏せると思っていやがる。後ろから足音が駆け寄ってくる。
僕の背中を誰かが踏みつけるのが分かった。ここで跳ね起きても良かったが、僕はじっと我慢した。すぐさまそれは取り除かれた。踏み台に昇格だ。
ちらりと目線を上にあげる。葡萄色のマントが翻った。直後、細長い刺突用の剣が竜の瞳を斜めから貫いて、その次に無骨な厚い短剣が首筋にまっすぐ突き刺さった。経験的に言えば間違いなく死んでいるだろう。しばらく竜は翼をばたつかせて――というより体全体を痙攣させて――いたのだが、しばらくするとおとなしくなった。今ならこいつとも仲良く出来そうだ。しかし、彼の綺麗なすみれ色の瞳はよく磨かれた剣で串刺しになっている。僕はとても嫌な気分になった。そこで、初めて、僕を――いわゆる通俗的な意味で――助けた人に少し興味を持った。
彼女――女性だ――は僕の教官で、グレール先生とかなんとか言ったはずだった。少なくとも優秀で、まず持って武芸に秀でている。僕は彼女のえび色のマントを体に止め直すと、僕の方に向き直った。白い髪の毛の女性だ。聡そうな目をしているが、感情があるとは考えにくい顔をしている。人間になったフクロウみたいな先生だ。
「あなた、こういう時に何をするべきなのか、少しでも主張がありますか?」
「……そうですね。仮にこの生物が僕の言葉を分かってくれるなら――」
僕は口をつぐんだ。グレール先生は黙って僕の方を見ていた。ひどく居心地の悪い気分になった。そういうのって分かるかな。
「分かってますよ。多分逃げるべきだったでしょうね。発光術でも何でも使ってグレール先生を呼ぶべきでしたし、必要最低限の自衛もすべきだったでしょう。具体的には『簡易危険』の手順を踏むべきでした」
彼女は短く頷いて、ドラゴンの眼窩と首筋から獲物を引き抜いた。鉄の匂いがぷんとした。血吸い鳥が早速頭上で旋回している。誰もが用意をせずにはいられない。
「あなたが不慮の事態を引き起こして、自らの命を危険に晒したのはこれが初めてではありません。それについてなにかありますか?」
「先生は僕のことをどう思うんですか?」
僕は自分の支給品の手袋の止め紐を弄りながら聞いた。遠くの方から誰かが駆けてくる音が聞こえた。何頭か馬が駆けてくる。
「こういう言葉があります。『愚者は経験に学び――」
僕は突然、言葉を先取りしたくなった。そうせずにはいられないんだよ。誰だって言葉を考えたら言わずにはいられない。
「――賢者は愚者に学ぶ』。ですよね?」
グレール先生は僕のことをじっと見た。僕は自分自身が間違えているって分かっている。分かってるけどさ、こういうのって本当にいやんなるんだよ。自分が間違えたことを分かっていて、それを誰かが暗示するようなことってね。
「……すいません。失言でした」
「それの是非については言及しません。しかし、あなたは愚者より悪いということを認識して下さい」
僕は肩をすくめた。そういう言い方ってあんまりじゃないと思わないかな。風が馬鹿みたいに吹いて、グレール先生の白い髪を揺らした。その時、一瞬だけだけど、グレール先生はとびきり年老いたフクロウに見えたし、僕は突然ひどく虚しい気分になった。僕は年老いたフクロウに何を言っているんだろう、ってことだ。だってそうだろう? 今更、そろそろ別の世界に移住する予定の人に何を言うべきだろう? 老いってのは嫌な気分になるもんだよな。彼らに対して、何をするのも正しくない気がするんだよ。向こう側では優等生達がきゃあきゃあと馬鹿みてえに騒いでいる。本当にやめてくれよ。叱られているときに聞こえる歓声ほど嫌なものって無い。
「とにかく、早く公舎に戻りましょう。回収班が後の処理を担当します。あなたの評価は合格最低点でつけます」
「なぜですか?」
「――私はあなたの命を救うためにこの実習を受け持っているわけではないのです」
「できればもう一度取らせてもらえませんかね? 僕、グレール先生の講義にとても興味があるんです」
彼女は僕の瞳をじっと見つめた。僕は精一杯興味深そうな顔をした――こういうことってするべきじゃないんだけどね。でも、誰かが、僕と会いたくないってだけの理由で、僕に何か『評価』ってのをくれるのは、結構辛いもんなんだよ。
「あなたがまともに何かをしてくれたことなんて一つもありません。今までで一度も。分かるかしら?」
僕は向こう側を見た。左からトーリエ、アゥサ、レーヒーだ。野蛮な男、ただ真面目なだけが取り柄の女、そして全てに倦怠を感じている男だ。それぞれがひどく優秀だ。やんなるよな。狂ってなきゃ優秀にはなれないってわけだ。
「……グレール先生、経験から学んだんですね」
ああ、許してくれよ。僕は全然こういうことを言うつもりはなかったんだよ。でもさ、僕は時折たまらなくなるんだよ。自分よりずっとずっと優れた人が、僕の全然分からない理屈で、自分がずっと苦しんでいた事をさらっとやっちゃう時にはね。そういうのって本当に耐えられないことなんだよ。
グレール先生は呆れたような顔をして踵を返すと、優等生の方に戻っていった。僕も木に繋いである馬を外して、そのまま誰とも話さずに公舎に戻った。
何週間か経った。秋も過ぎ去ってしまった。冬が日増しに深くなっていった。周りの奴らは訳もなくバカみてえに浮かれ初めた。年の代わりを祝う間抜けなパーティーが近づいているからだ。人間ってのは何にせよ区切りをつけたがるもんだ。区切りといえば、僕の評価はどれも最低評価だったが、何にせよ次の段階に進むことはできている。誰もがすべてに区切りをつけずにはいられない。
そんなことを公舎のベッドに隣の部屋の奴らがクソッタレな騒ぎを始めた。流石にうるさすぎる。僕は大きくため息を吐いて、壁を一回叩くと体を起こした。
「壁殴ってんじゃねーよ! 『ドラゴン殺し』!」
笑い声が続いた。僕は肩をすくめた。あの一件以来、皆が僕のことをこういうようになった。ドラゴン殺し。良い名前じゃないか。一部の人間は本気にしていたし、また別の一部の人間――はっきり言うとトーリエ――はそれをゴリ酒の肴にしている。他人の酒の肴になるってのはめったにできる体験じゃない。
僕は同じ部屋を使っているレーヒーに僅かに微笑みかけた。やんなるよね、みたいな雰囲気を込めて。彼はぼそっと僕に話しかけてきた。
「……最近どうなんだ?」
「どうって?」
「言ったほうが良いか?」
「どうかな?」
彼は首を短く振った。それから短く「いつでも助けてやるよ」と呟いた。『助けてやるよ』。これには参るね。なんと言っても『やるよ』というのが素晴らしい。どことなく気品を感じさせる言葉だ。彼は僕のことをじっと見つめた。ここで彼のブーツでも抱きしめてやったら、彼は誰かさんの足を五、六本折ってくれるんだろうか? 僕はきわめてあいまいに頷くと、部屋を出た。
部屋の外には女の子が三人ほど待ち構えていた。当然ながら僕のためではない。僕はできるだけ気分を害さないように注意しながら言葉を選んだ。
「やあ、調子はどうだい?」
「最高よ。『ドラゴン殺し』」
赤い長髪の女の子が突っかかってきた。こういうのってちょっと失礼じゃないか? 僕は彼女のことをしげしげと観察した。どうやらずいぶん待っていたらしく、ほかの女の子は屈伸をしたり、軽く足踏みをしたりしていた。
「そりゃあどうも。君もこれから狩りの時間?」
彼女は大きく舌打ちをして、僕の肩を軽く殴りつけた。ひどく痛かったが、僕はささやかな笑みで返した。彼女たちはこの部屋の中にいる廃人寸前の人間に首ったけだし、そういう人っていうのは多かれ少なかれ人を傷つける。誰しもが誰かを傷つけずにはいられないし、それを無視せずにはいられない。そういうのってかなり気に障るんだよ。わかるかな。廊下はわずかに照明が残っている。壁には誰かの魔法痕が鈍く光っている。
「人を殴るほどのパーティはありや?」
僕はそう吐き捨てて、彼女たちの横を通り抜けた。完璧に決まったと思ったが、七歩目を踏み出したところで、廊下に落ちていた乾布に足元をすくわれた。僕はしたたかに腰を打った。後ろでどっと笑い声が起きる。
「ほら、あんたってどんだけ間抜けなのよ! そんなんでどの竜が倒せたって?」
「やめなよ、ピーィ、モグラなんだから……!」
くすくすという笑いが続く。背中に向けられた笑い声ってのはほんとに耐えられない。僕は慌てて立ち上がると、足早に廊下を歩いて行った。どこに行くべきか? 知ったこっちゃないよ。だって、誰もどこに行くかなんてわかってないだろう? 早駆けでくそったれにいい成績を残しても、そこら辺の敗残兵に草陰から突っつかれたら一発でおしまいだ。そういうもんなのさ。わかるかな。僕はとにかく果てしなく歩いた。後ろからはまた嬌声が聞こえた。「エリュ、私が最初に言ったんだからね!」「うるさいな、レーヒーは私と一緒がいいって言ってるじゃん!」「……レーヒーはそんなこと言ってない……」「チッレルのおちびは黙ってて!」「うるさい」「うるさいって何? というかレーヒー、はっきりしなさいよ!」……わかるかな。僕はこういうのに本当に嫌気がさしてしまうんだよ。とにかくね。だってそうだろ? くそったれだとは思わないか? 僕の知らない世界が、僕の本当にすぐそばにあって、そしてもしかしたらその世界を覗けたかもしれないってのは、本当に嫌なものなんだよ。なんにせよ僕は歩いた。途中で何人かとすれ違って、そのうちの二人は僕のことを『軽く』小突いた。やってらんないよ。
「ねえ、本気で疑問なんだけど、どうしたって僕を出合い頭に殴る必要があるのかな?」
「さあなあ、ご加護を授けてもらおうと思ってな!」
ご加護。そういうのもあんのかもね。僕は黙って殴られることにした。口の中がひどく切れた。口の端っこから血が垂れるのが分かった。僕は彼らを振り払おうとしたが、どうやら彼らの穢れはあまりにもひどいため、僕をそう簡単に手放してくれるわけじゃないみたいだった。加護ってのは大概誰かの犠牲の上に成り立つもんだ。一人死んでも二人生き残ればそれでいいでしょ、みたいな話。くそったれ。
アゥサが後ろから話しかけてくるまで、結局僕はずっと殴られ続けていた。トーリエのこぶしが瞼の上にあたって、視界が赤く染まっている。彼は僕を壁にほっぽりだした。僕を挟んでアゥサとトーリエが向かい合った。ここで僕が手を差し伸べて「畏敬在れ」とでもいえば一つの英雄譚でもぶち上げられそうだが、実際はそうなっていない。何より腕を上げるには疲れすぎている。
「ちょっと、トーリエ、あなた本気でやっているの?」
「黙れよ、アゥサ、てめえもさ、嘘つきは嫌いだろ? 俺は嫌いだって思ったものにはそういう対応をとるんだよ」
アゥサは――くそ真面目だけが取り柄のアゥサは――ご自慢の黒髪を縛りなおして、トーリエに正対した。
「私も嘘つきは嫌いよ」
「じゃあ殴ってもいいよな? てめえが野ウサギを狩るのと何が違うんだ? もっといいぜ?」
トーリエは眉毛を持ち上げて、肩を大げさにすくめた。僕は床に手をだらんと広げて休んでいる。できればあと二年間話していてほしいところだ。
「私も殴るのは一概に悪いとは言えない。でも、少なくともこの子をここまで殴る必要があったかどうかに関しては、明確に『いいえ』と答えるけど?」
トーリエはしばらく彼女のことを睨んでいた。壁を睨むやつってのは多かれ少なかればかげて見えるもんだよ。わかるかな。そんなわけで、僕は一瞬だけ馬鹿笑いをした。これって結構効くんだ。なんにせよ、自分の過失が大声で馬鹿笑いを始めたら、神様だってくそみてえにキレるに違いないのさ。トーリエは僕の腹を一度蹴ると、僕に唾を吐きかけて廊下を通り過ぎていった。一難去ったというところだ。
僕はアゥサのほうを眺めた。大きな瞳に美しい黒髪の少女だ。全くいやんなるね。『いい心』にはいい外見が用意されるってことなのかね。それとも逆か? なんにせよ僕は肩をすくめた。
「何か言うもんじゃないかしら」
「ありがとう。口げんかに少し強くなれたような気がする……」
彼女は呆れたように目をぐるりと回して、やれやれと首を振った。
「どうやら強がるのが得意みたいね」
差し伸べられた手を取って立ち上がる。実際はまともに立ち上がれたとはいいがたかった。僕は彼女の手を握っていただけだ。彼女が『引っ張り上げて』、『受け止めた』というわけさ。彼女は僕をしっかり立て直すと、顔を覗き込んできた。
「本当に大丈夫? 最近、というか、私があなたのことを見てからずっと、あなたはちょっと具合が悪いみたいに見える」
僕は黙っていた。しかし、彼女は明確に答えを求めていた。それにしたってどう答えろっていうんだろうな。この子ってあほなのか? それとも教えてもらわなかったのかな? 嘘つきは放っておくのが一番だってことさ。
「ほんの少しの間だけで、人を語るのはよくないよ」
彼女は僕の頬を両手で挟んだ。僕は彼女の瞳をまっすぐ見ることになった。すみれ色の瞳だ。やめてくれよ。でもだいたい覚悟はしていたことさ。アゥサはドラゴンと同じ瞳の色をしているってこと。嫌になるよな。でも本当のことで、きっとそれぞれに理由があるんだろうね。彼女の両親の瞳の色とか、そういうのさ。それは正しいんだよ。
「私は本気。本当に、大丈夫なの?」
僕はじっと彼女の瞳を見つけた。ひどく長い間見つめていたんじゃないかな。もうこんな機会が来ることなんてないってわかっていたからね。そして、僕はだしぬけに別れの言葉を切り出した。彼女の暖かい両手をそっとどけた。彼女の瞳が少しだけ揺れ動くのが分かった。僕は突然何もかもやめて、彼女の胸に飛び込みたいような衝動にかられた。そして多分それが正しいんだとも思った。でもそういうのってどうなんだ? 僕は彼女の手のひらを見た。僕の血がこびりついている。ひどくむなしいような気分になった。ひどく嫌な気分さ。僕がいくら努力したところで、僕が生きている限り、僕は誰かの手のひらを血で汚さずにはいられないんだ。さよなら、と僕は口走って、アゥサのもとを離れようとした。
彼女は僕の背中に話しかけた。
「さよならを言うのが早すぎるんじゃない?」
僕は彼女のほうを見た。彼女の足元に話しかけた。
「ねえ、アゥサ、さよならはいつだって早すぎるよ」
わかってくれるかな。僕はわりとこの娘のことが気に入っているんだよ。でも僕はなんだか嫌な気分になるもんなんだよ。自分がとても好きな人が、自分に情けを掛けるような時にはね。彼女はしばらく呆然としたように突っ立っていた。僕は彼女が別の行動を始める前に、彼女のことを忘れることにした。自分のために呆然としてくれた人が、また別のことを始めるってのは、耐えられないことだよ。
結局、パーティは始まった。僕は当然行くつもりは無かった。行ったとしてもそこにはドラゴンもいないし、どこぞのご令嬢と盛り上がった筋肉(これは人のも、それから火の通った鳥のものもだ)を見るだけになるわけだ。そういうのってすっごく気が滅入る。本気でね。僕はどんなご令嬢ともうまく会話が出来ないし、いかなる腕の筋肉にも興味が無いし、まあ、焼いた鳥には少なからず興味があるけれど、そういうところに鳥の肉がおいてあるってことが、僕にはちょっと許せない。そういうのってわかるかな。僕は自分の部屋でじっとしていた。レーヒーは早速パーティーに出掛けていた。出かけると行っても、上の階の大広間でやっているだけだ。僕はぼんやりと天井を眺めた。天井。嫌な言葉だよな。この世に誰か一人でも、天井なんていう言葉があることを正当化できる人がいるんだろうか? 僕は本気で言っているんだ。
窓の外は相変わらずの曇り空で、遠くの草地にはどこかのお馬さんが何頭か早駆けをしている。僕はそれを飽きるまで眺めた。そしてタンスに掛けてあるコートに袖を通して、部屋を出た。グレール先生のところに行こうと、漠然と思った。僕は自分が何をしたいのかわからなかったし、説明もできなかったけど、でもそんなのって誰ができるんだろう? 多分みんなできるのだ。僕はこうしたかったからこうしました、ってことが。順序立ててできるのだろう。僕は周りのもの全てが突然ものすごい早さで変わっていくような気がした。どんどん賢くなる気がした。もしかしたら僕はドアに打ってあるネームプレートより馬鹿になっているのかもしれないと思った。
そしてグレール先生の部屋のドアを見て、もうそうなっているのかもしれないと思った。金で出来たネームプレートには、凝った装飾で『グリエンターロィ・セリードチ』と彫られていて、その上には琥珀か何かで上掛けがされていた。これが僕に出来ない算術を出来たり、エーベル峡にある植物についての知識を持っていても、僕は全然驚きはしない。ほんとにね。
グレール先生は中にいた。多分グレール先生は何人もいて、そしてどこにでもいるのだろう。彼女は僕の方をじっと見つめた。ふくろうのような顔をしている。小首をかしげるところも、ほとんど真っ白になっている髪の毛も、本当にそういう風に見える。
「……何の用かしら。成績は上げられないわ」
「あの、僕がこういうの口を出すのっておかしいかもしれませんけど、成績書と人間の区別はつけられたほうが良いのでは無いかと存ずるのですが」
グレール先生は顔を一ミリも動かさずに、「それで?」と尋ねた。そういうのって無いと思わないか? 僕は彼女の方に一歩近寄った。顔は動かなかったが、テーブルに載せられた手は、少しこわばった。いやんなるよな。僕は「ちょっとお話があるんですが、良いですか?」と答えた。
「ええ。聞きましょう」
僕は一つ深呼吸した。なぜって、僕は何を話すか全然決めていなかったからだ。本気で決めていなかったってことだ。グレール先生に何を言っても無意味だと思ったし、実際そうなのだ。でも僕は話し始めた。
「グレール先生、こういうのを考えてみてください。きっとあなたくらい賢い人には簡単でしょうから。
僕たちは早馬車に乗っている。何人乗りでもいいですよ。とにかく、二人以上が乗れる、何か早い乗り物に僕たちは乗っている。高速輸送なんとか術とかいうのかもしれない。そこには僕とグレール先生が乗っている。他にも数名の――あの嫌なトリーエだとか、品行方正のアゥサだとか――が乗っている。そういうのって考えられますよね。あなたは多分そこら辺の地勢について講釈をしてくださっている。『ナキネスの平原が……』ってね。好きでしょう? わかりますよね?
でも、僕はそういうのって全然好きじゃないんですよ。興味もないんです。それで、アゥサがわざわざ質のいい紙にあなたの金言を書き留めている間、僕はそこら辺の草とか樹とかを当てもなく眺めることになる。止めようが無いですよ。人の話ってのはたいがいつまんないものでしょう。特にナキネスの話は。
そして、そこに僕は傷ついたうさぎを一羽見つけるんです。別に深い傷じゃない。仔ウサギの舌で一晩舐めれば次の日にはふさがっている種類の傷です。よくあることですよ。もしかしたらトリーエのほうが先に見つけるかもしれない。あそこにウサギがいるぜ、轢き殺しちまうんじゃねえかな……。こういうのってわかりますよね。つまり、トリーエが轢き殺しそうだって言ったら、多分そんなことは起きないんですよ。ウサギも馬車に轢き殺されるほど馬鹿じゃない。馬車を引くのは馬ですがね……」
僕は一度言葉を切った。教えてほしいんだけどさ、僕はこんなふうにしゃべるのを、いつ止めればよかったんだ? 一体さ、僕ってのは……。僕はまた喋り出した。喋っている間は何も考えなくて済むからだ。君も使っていいぜ。誰も文句は言わないさ。
「馬車はウサギの方に近づく。みんなが大丈夫さと思う。実際、それは大丈夫なんです。でも、僕は飛び降りてしまうんですよ。馬車がそのウサギの横を駆け抜けるとき、僕はいてもたってもいられなくなるんです。そこに傷ついたウサギがいるっていうだけのことですけど、僕はそうしちゃうんですよ。
もちろん、被害は甚大です。少なくとも、突然飛び降りた僕は、そこにあった岩に頭からぶつかって死ぬでしょう。ウサギは僕の脳みそとはらわたを全身に浴びて、日没までには血の匂いを嗅ぎつけた野犬にでも食われるでしょう。馬車は平衡を失って、ちょっと歩調を乱すかもしれない。犬以外、誰も得をしていない。ウサギは草食でしたよね? 博物学はちゃんと通っているんです」
僕はグレール先生の机においてあったお茶のカップを持ち上げたが、またすぐに戻した。そういうのは良くないことだと思ったんだ。ただたんに、僕がそういうことをするのは『不健全』だって思ったわけだ。もっと言えば、僕はカップを持つことさえしないほうが良かったんだと思う。
でも、どうしようもないだろう? この世に一人でも健全なことができる奴がいるだろうか? 僕はつばを飲み込んでから口を開いた。
「グレール先生から見て、こういうのってどうですかね? 僕が突然馬車から飛び降りて、到着は随分遅くなって、生き延びるはずだったウサギは死んで、害しかもたらさない野犬は一ヶ月寿命をのばす、風光明媚なナキネスの草地は汚れるし、ついでに言えば僕は死ぬ。こういうのってどう見えますか? 先生から見て。先生の出した教科書には載ってなかったんですよ。だから、ちょっと気になっちゃったんです。
だって、僕はウサギが好きなんですよ。それだけなんです。僕はウサギが好きだったんですよ。先生のことと同じくらいにウサギのことが好きなはずなんですけどね、わかってくれますよね」
グレール先生はじっと黙っていた。彼女は相変わらず小首をかしげたふくろうにそっくりだった。彼女は自分の胃の下あたりをそっと撫でた。そこに祝詞が書いてあって、僕にはわからない知識が引っ張り出せるみたいに。そういうのってすっごく嫌な気分になることなんだ。僕にはわからない言葉と、僕には理解できない儀式によって、僕にとっての、なんて言うんだろうね、すごく透明で、ぱりぱりした小さな箱のようなものが、完全に壊されちゃうような気がするんだよ。そういうのってすごく嫌じゃないか? それも、僕の知恵が足りないのが全部悪いんだぜ。トリーエだって知っているような儀式なんだ。だから、全部……。グレール先生はコップに口をつけた。きっと、とんでもなく美味しいんだろう。仕方ないのさ。
彼女はコップをテーブルにそっと置いて、僕の方を見つめた。彼女の瞳だけが、きっかり一秒間隔で、きょろきょろと動きまわって、僕の手や顔を眺め回した。僕はなんだかひどく辱められたような気になった。
「……明日から休暇なの。部屋に戻って、顔の血を拭いて、暖かいものを飲んで、そして寝なさい」
『そして寝なさい』。参っちゃうよな。ほんと嫌になるよ。この世の一番美徳にあふれる奴が言ったとしても、『そして寝なさい』って言葉は僕を傷つけると思うね。僕はしばらくそこから動かなかった。多分、どんなにデカい熊が出てきても動かなかったはずだ。でもグレール先生は、もう一度、「部屋に戻りなさい」と言った。聞こえないと思っているのか? 僕は本当に気になったけれど、黙って後ろを向くと、部屋から出た。
さっき言っていた、薄いぱりぱりしたものの話だけどさ、あれはやっぱり言わなかったことにしてくれないかな。何よりちょっとやわすぎるし、なんだか凄く嫌な気分になる。実際にそれはもちろんそこにあるんだけど――本当だ。何なら僕は今すぐにでもグレール先生に見せてきてもいいんだ――多分、その小さくて透き通った、何よりも薄いガラスみたいな奴は、みんなの笑いものになるか、多分みんな見向きもしないんじゃないかって思うんだ。だって、『何よりも薄いガラスってのは、じゃあ自分自身より薄いのかい?』なんて聞かれたら、僕はなんて答えればいいんだろうな?
僕はむやみに両手をこすりあわせて、随分寒いことに気がついた。そりゃそうだ。冬季の休暇が始まるんだから。それに、今日はみんな――注釈いち、『みんな』に僕は含まれていない――は上の階でパーティをやっているわけだ。暖炉に火が入らないって随分辛いことなんだ。本当の話。誰かが廊下を歩いてきた。それが誰か僕には全く興味がなかったし、これからも興味をもつことはない。それが二人組だとわかるのには少し時間がかかった。本当に興味が無いんだ。(『興味』って言葉が、ちょっとは僕を賢く見せてくれそうな気がしたんだ。君だけに言っとくよ。)
彼らのうちの一人が話しかけてきた。藁の匂いがした。お馬さんと戯れていたってことだ。
「よお、ドラゴンはどうだ? 倒せたか?」
「パーティの肉になっているよ。結構、評判が良いんだ」
僕は無理に笑おうとしたけれど、彼は僕の腹を殴ってそのまま上の階につながっている階段に歩いて行った。でも僕はあいつの名前を知らないんだぜ。これだけは譲れないんだ。僕は一人で笑いそうになった。僕は何を考えているんだろうな? 二人組のうち、どちらかが、「エレー、ありゃないよ、可哀想だぜ」と小さく笑ったのがわかった。これで彼らのことをいうのはやめにしよう。理由くらいわかってくれよ。
僕は彼らの来た方に向かって歩いて行った。外も随分暗くなっているはずだから、多分彼らが最後の騎兵実習の奴らなんだろう。その程度の奴らさ。言いたいことはわかるよね? どういうことが言いたいかって話さ。廊下はひどく長くて、僕は途中で一度立ち止まって、大きく深呼吸をした。
ネームプレートには『アゥサ』と飾り文字で書かれている。つまりそういうことさ。飾り文字。やんなるよな。僕はまた歩きだした。耳はピリピリしたし、鼻で息を吸い込むたびにツンとして、無性にうずくまりたくなった。それに指先は本当に冷たくなっていたし、はっきり言って、僕は早く自分の部屋に戻りたい気分にもなった。
しかし、自分の部屋に戻ったところで何をすりゃあ良いってわけだろう? 太陽が登るのをじっと待っている? そりゃそうかもね。鳥も兎もみんなそうしている。蝋燭を使うのは人だけさ。
でも、それがどうした? 誰かが「お前はなんだ?」と聞いたら、僕はけっきょく「人ですよ。どこからどう見ても。絶対に」と答えちまうに決まっているんだ。でも僕が人間だなんて、誰が保証してくれるんだろう?
僕は廊下を振り返ってみたいような気分にもなった。参っちゃうよな。頭上からは楽しそうな――まるで楽しくないのに楽しいふりをしているみたいに聞こえるといけないから、言い直すけど、楽しい――声が聞こえてくる。グラスが密やかに触れ合うかすかな音。馬の毛がこすれ合う、分厚い綿をすっと突き抜くような音、樹の胴体がさざめくぼんやりとした音、食器のぶつかり合うかちゃかちゃという音、多くの――グレール先生なら『偶数個の』というだろう――靴が床を叩く音、誰かが転ぶ音、引き起こされた笑い声、嬌声……僕はさ、なんて言うんだろうな、結局のところ、とにかく何かを知りたかっただけなんだよ。
本気でそう思っているかって? 嘘だよ。僕は嘘ばっか吐いているんだ。わかるだろ? 僕はドラゴンなんて倒したこと無いんだ。でも、こういうのってわかるだろ? 僕がもし仮にドラゴンを倒しているようにさえ見えなかったら、本気で僕は多分見えなくなっているんだよ。本気で言っているんだ。そういうのってわかってくれるだろ?
僕は随分歩いた。君たちには多分、廊下の端っこのグレール先生の部屋から、反対側の丁稚たちが馬の鞍をひいこら言いながらラックに積み上げる場所までだって言うかもしれないし、それは絶対に、本気で正しいんだけど、そして他にどんなことを言っても、もっと言うと、僕が、それでも僕は頑張ったんですよ、なんてあほみたいなことを抜かしても、全然距離は長くならないんだよね。知っているよ。僕は十分知っているんだ。
鞍を置く倉庫は、薄暗くて、ひっそりとしていた。革のつんとした匂いが立ち込めている。艶出しの油と、馬の糞と、それから見習いが物陰でこっそり足す用の臭いがする。質の悪い豚の臭いもしたし、何なら君の嫌いな臭いをこっから何だって引き出せると僕は保証したっていい。保証。いい言葉だ。薄い辞書には載っていないってのが何より嬉しい。
僕はあたりを見回した。丁稚の一人がまだしつこく残っていた。どんくさい奴ってのは絶対にいるもんだ。こいつはまあ顔が良ければ、どっかの卒業生が『それ用』にもらってくが、そうじゃなかったら数年のうちに凍死でもするんだろう。んでもって来年の今頃には、彼のおかげで体重を増やした豚さんが上の階で振る舞われるってわけだ。下賤かなあ? 僕は何となく考えている。考えていれば何かを見ることはないからだ。困ったもんだね。
「あ、すいません、今、準備が……」
「いいんだよ、何もするつもりはないからね。君がどのくらいの意味まで察してくれるかにはあまり自信がないけど。どういう意味かわかってくれるかな?」
彼は答えなかった。彼は暗闇からこっそりと姿を表して、僕に向かってぎこちなく一礼をすると後ろを振り向いてかけ出した。きっと誰に対しても、こういうふうにぎこちなく礼をするんだろう。少なくともそう思い込む努力はしてやろう。彼の顔さえ僕はよくわからなかった。体型についての言及は避けよう。たいがいのやつが極端に痩せている。豚も太らない。みんな冬は痩せずにはいられないんだろう。何を言っているんだろうな? 知るかよ。
彼はコソコソと小走りに歩いていたが、途中でラックに足を引っ掛けて、そこに置いてあった鞍を七つか八つ床にぶちまけた。これって、結構、仕事なんだよな。僕は残念そうに見えるような姿勢をとった。気まずい沈黙が広がった。子供は僕の方をじっと見つめて、それからまたかけ出した。彼がこれ片付けていたら、多分彼の食事とお湯は無くなるだろうし、そうなったら彼の魂がどっかにいる地面に埋められるのまでそう時間はかからないってわけだ。
僕は散らばった鞍を眺めていた。明日、一番早く起きてくるのは間違いなくアゥサだ。保証してもいい。彼女はいつも一番早く起きてくるし、というかここに住んでいる人のうち、アゥサ以外の人は、彼女が起きるのを目覚まし代わりにしているんだからな(ほら、僕も『厳密な』ことが言えているように見えないかな?)。そしてあの少年の健康状態なんて彼女は気にするわけもない。
もっと言えば、彼女がああいう丁稚の存在を認めているのか、とか、ああいう少年たちが本気で人なんだって認めているのかから始めたほうが良いとさえ思う。わかりやすく言えば、アゥサ令嬢はほぼ間違いなく鞍が散らばっていたことをしかるべき筋――ええっと、筋肉と掛けたつもりなんだけど――に通すし、その『筋』はしかるべき措置をとるだろうってことだ。
僕は深い溜息をついた。それから散らばった鞍のところまで歩いて行った。僕はドラゴンを倒したことがないんだ。遠くからはさざめきが聞こえてくる。すべての音がぐんにゃりと混ざり合って、ひどく不可解な音に聞こえた。僕はひとつ目の鞍に手をかけた。汗と油でぬるりと滑った。ズボンに手をこすりつけてからもう一度やった。ひとつ目の鞍がラックに載った。僕の周りには誰もいなかった。僕はふたつ目の鞍に手をかけた。外に続くドアからは、子どもたちの笑い声と、犬の遠吠えが聞こえた。そういうのってわかるかな。
くそったれなドラゴン