君へ宛てて【ある倒錯者の恋文】

君へ宛てて【ある倒錯者の恋文】

『君へ宛てて【ある倒錯者の恋文】』

 いつも手紙をありがとう。
 最近忙しくて、なかなか筆を取れずにいて、もう八月も九月も過ぎてしまって、本当にごめんなさい。(と謝りはしたけれど、多分僕はもう何度かは同じことを繰り返すだろうと思います。元々まめな性質ではないですし、決してものを書くのが大好きというわけではないですので……)
 先日、風の便りで君が諏訪の家に引っ越したと聞きました。君から先月の分の葉書が届く少し前のことでした。正直に言うと僕はその頃からある事(君からすれば、ほんの些細なことです)に夢中になっていて、あまり君の気持ちや君を取り巻く心理的・物理的状況について考えを巡らすことができなくなっていました。そこで僕はあの噂を、君があの家で過ごすことになったという重大過ぎる問題を、わざと見過ごしてしまいました。あの時はそうすることでしか己のぐらつく心を守れないような気がしていたのです。
 僕はつくづく自分の卑怯さを恥じ入ります。君を守ることは、君に直接伝えてしまうのには勇気が要るし気が引けもするのですが、僕にはとても不可能な仕事のようです。
 僕はあの家で死んだのです。
 今やすべてを失った僕にできることと言えば、こうしてたまに拙い文をしたため、「とりあえず僕は生きています」という、さして色味のない、世界にとって実に取るに足らない知らせを君に届けることぐらいです。こんな連絡が今の君にとってどれだけ大切な情報なのかはわかりかねます。けれどこのことは、かつて君が僕に望んでくれた唯一のことだから、僕は毎回どうにか慣れない文章を書いて、この浅はかな命の証拠を君に託します。(ですので良ければ、どうか心配せずになるべくたっぷり時間を見て返事を待ってくれたら嬉しく思います。僕は必ず君に答えます)
 さて、諏訪の家での暮らしはいかがでしょうか。あの家の家族は万事すこぶる上品な、華々しいやり方を身に付けていますが、その根は滴る程に腐り果てて、下水のごとく芳しくないことを僕はよく知っています。特にあの長子には決して気を許すことのないよう心掛けてください。あの人は最悪の人間です。なまじ他人よりも頭が良く、要領が良いのでさらに厄介です。あれは己以外の人間……それが親兄弟であれ、恋人であれ……のことを微塵も顧みずに生きてきた化物です。やけに体よく人の皮を被って彩りも鮮やかに生活していますが、絶対に騙されてはいけない。僕はあの人に殺されたのですから。
 君は、元気でいると、葉書では言っていましたね。今もそうでしょうか。僕はいつも君の笑顔を願ってやみません。その笑顔が君の心からのものであり、同じく真心によって受け取られていることを僕は強く望んでいます。僕は、君は幸せになるべき人であると確信しています。君は誰からも奪わないばかりではなく、むしろ、与える側の人間になるべきなのです。君は、今はまだ精神的に幼く、自分を育む必要があると思います。ですけれどいずれ、君は桜のような花を咲かせてその運命にふさわしい実を結ぶでしょう。(もう一度言いますが、これは僕の願望ではなく、確信です)
 ……どうか泥沼に溺れないでいてください。君は美しいので。たとえ誰がどのような戯言を君に吐いたとしても、それらが君を貶めることはあり得ません。そうした時には、君は僕の言葉だけを聞けばいい。いずれも等しく亡霊の言葉であるなら、呪いではなく、祈りのこもった言葉をこそ心に留め置くべきです。
 昔の僕には何もわかっていませんでした。僕は、自分にはどんな花も似合わず、しかもやがて咲くはずの蕾も、己でひとつ残らず潰してしまって、ただ諏訪の泥花に紛れることによってのみ、この世に飾られうるのだと信じ切っていました。
 僕は愚かでした。少し考えればわかりそうなことをほんの一顧だにせずに、どんどん深みに嵌って、より愚かしく、虚空に向かって笑いかけて、気が付けば粘つく沼の底で、名も知らぬ花々の苗床と化していました。
 思えばあの男と僕はよく似ていました。僕らはどちらも奪う側の人間で、常に餓えていました。与えられるということならばともかく、与えるなどという行為は(とりわけあの日々の、養分と成り果てていた僕には全く)思いもよらないことでした。僕たちは容赦なくお互いを食らい続けていました。お互いだけですらなく、腐乱したような花の匂いに誘われてきた小さな虫たちのことも。
 そうだ。あの可哀想な虫たちは、今は一体どこへ行ってしまったのでしょうね? 僕は次々と自分の身体に纏わりついてくるあの子たちがただただわずらわしくて、全然、何も、本当に何も考えずにいたのだけれど、近頃になって急に、妙にあの子たちの行方が気になって仕方がないのです。君にとってはごく些細な問題かと思われますが、僕にはもう一夏中そのことばかり考えてしまうような巨大な疑問でした。
 それで、考えてみたのですが、考えれば考えるほどに、僕はどうやら自分が相当恐ろしいことをしでかしたようだとわかってきました。僕は恐らくあの子たちともう一度、どこかで出会わなければならない気がします。きっとそれは僕にとっておぞましい出会いとなるでしょう。償いなどという高尚な機会では決してあり得ないと思います。断罪でもないでしょう。僕はあの子たちの手で、あの未分化な、たくさんのたくさんのたくさんのたくさんの小さな紅葉の手で、摂理的に消滅させられるに違いありません。殺されるよりも奪われるためには、それしかないと僕は思う。……
 あの男と僕との間には、誰が何と言おうとも、愛情なんかはありませんでした。どちらがより多く相手を千切るか、それだけが僕らの繋がりでした。
 結局僕の方が先に尽き果ててしまいました。失ったものは数知れず、得たものは皆無でした。
 あの日の「私」が今の僕となるために、君はどれだけ助力してくれたことでしょう。僕は最早、感謝などという言葉だけでは君への気持ちを表しきれない。君はふいに僕の目の前に現れて僕を救ってくれた。例え君が僕にどんな嘘をついていたとしても、君は間違いなく「私」の天使でした。
 僕は、これまで生きてきて喜ばしいと感じたことは一度もありません。戸惑いと絶望とを毎晩反芻して、この世から露と消え失せる日を今日か今日かと待ち侘びています。それでも君が差しのべてくれた手の温もりと、今夜僕が見られるであろう夢について、僕は揺るぎない希望を抱いています。僕は(ああ、奪う側の人間はいつも「僕」のことばかり話したがる)ずっと以前に君と僕が住んでいた家の庭の、あの桜の老木みたいに、君が成長してくれることを夢見ています。僕は君が好きでたまらなく、あの桜と同様に、この手で守ることは叶わないけれども、いっそ縋ることでしか触れ得ないのだけれども、この世界中の何よりも大切に君のことを思っています。
 もうすぐ紙面が尽きそうです。これまでずっと四苦八苦しながら書いて来たと言うのに、何だか今更になって名残惜しいような心持ちがしてくるのは不思議なものです。
 また便りを出します。今回はあまりに長く書いたので、疲れてしまったので、次までにはまた長い時間が開くかもしれません。けれど、それまでくれぐれもお元気で。
 
 僕の愛する妹へ。
 かつて君の家族であった者より。
 

君へ宛てて【ある倒錯者の恋文】

君へ宛てて【ある倒錯者の恋文】

できることなら、混沌もそのままに。素直に綴られた手紙。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-28

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