風鈴じいさん

 風鈴屋敷と呼ばれている。
 友人の家のことである。
 友人の家は春夏秋冬、一年を通して風鈴がぶら下がっている。一階の縁側にひとつ、二階のベランダにひとつと、屋外にはふたつのみであるが、二階の空いている六畳間を風鈴専用の部屋として使っており、飾られている風鈴の数は木目の天井が風鈴と風鈴の隙間からしか窺えないほどである。頭上に白いロープを張り、見上げれば天井が縦縞模様になっている。友人は洗濯物を部屋干しする感覚で収集した風鈴を吊るしているのであるが、これがなかなかに壮観であった。壮観ではあるが、部屋の中の風鈴は風を送らない限りただの飾り物でしかなく、音が鳴らなければ邪を追い払うなど元来の意味もなさず、真夏の暑い最中に気休め程度にでも涼やかさを感じられることはない。風鈴屋敷に住む風鈴収集家と言えば聞こえはいいが、実際のところは風鈴マニアのじいさんだ。風鈴に関しての知識は専門家レヴェルだが、風鈴職人だとか、風鈴売りだとか、風鈴に携わる仕事をしてきたわけではない。あくまで趣味である。いや、趣味だなんて生易しいものではなく、憑りつかれているとしか思えない。風鈴部屋の風鈴を眺めているとき、そう、たとえば腹を痛めて産んだ我が子を愛しむかのような眼差しをするのならば、まだ可愛げもあるのだが、なんせ友人の風鈴を見つめる双眼ときたら、まるで神でも崇めるかの如き信仰の色に染まっているのだから、狂気の沙汰である。
 友人は語る。
 風鈴のうんちくを、魅力のアレやコレを、更には自身の風鈴に対する熱情を。誰かに風鈴について説いているようで、実際には大きな声の独り言であることを、私はとっくの昔から知っている。現に私は三十年近く友人の風鈴説法に付き合わされてきたが、
「風鈴を最も美しいと感じるのはガラス鐘のシルエットを見たときだ。ガラスに描かれた金魚や朝顔が、光に照らされて木の廊下に映る。乾いた土に赤や、白や、紫の色が、斑点のように映り、揺れる。それを眺めているだけで、半日は時間を潰せる」
という話を百回は聞いた。もしかしたら百五十回くらいかもしれない。
 けれども私は、嫌いではないのだ。
 だからこうやって週に二、三日は友人の家を訪ねる。今日はまんじゅう菊柄の着物で、田舎から送られてきた蜜柑のお裾分けに行った。
 友人は庭にいた。庭で、土を掘り返していた。足元にはガラスの破片が山を成していて、近づいたらそれが風鈴の残骸であることがわかった。友人はやや鼻声で言った。「この季節はな、風が強すぎていかん」
 外に吊るしてあった風鈴が割れたのだろう。風鈴屋敷の名にそぐわぬ静けさである。そういえば近所の四歳の子どもが、ちりんちりんの家と呼んでいたことを思い出した。ちりんちりんの家に住む風鈴マニアのじいさんは風鈴が壊れては庭に埋める。埋める際には必ず、涙ぐむ。私はお供えにと蜜柑を渡してやった。友人はまるで私を弔問客とし、丁寧に頭を下げ、茶を淹れに家の中に入って行った。私は掘り返されて出来た穴と、赤や、白や、紫の模様が描かれたガラスの欠片の山をじっと睨んだ。
 さて、この庭には一体どれくらいの風鈴の亡骸が埋まっているでしょう。
 私はひとり自問しながら、死んだ旦那と友人の顔を交互に思い浮かべて、少し泣いた。

風鈴じいさん

風鈴じいさん

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-26

CC BY-NC-ND
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