007 スカイフォール以後② Qと007

カビとホコリと紅茶。
それがQ課の管理区域に充満する匂いであり、どこに移転しようと、職員が何人入れ替わろうと、
今も昔も変わることはない。
たとえ課長が三十にもならない青年に代わっても、同じことだった。
「いらっしゃい、007」
薄暗い廊下を抜け、フロア奥のオフィス兼作業場に入るなり、声をかけられた。しかし人影はない。ボンドはあちこちに積まれた段ボール箱を見やりながらも、しっかりとその陰を確認してゆく。だが目当ての人物はいない。やれやれ、どうして身内のオフィスでかくれんぼなんか。
出入口真正面の壁際には巨大なデスク、というより作業台がどっしりとした質量をもって視界に存在している。図面、フラスコやビーカー、無表情な金属の部品、得体の知れない動力機構の類。この部屋の主が愛用するラップトップも台上にあった。
他の職員にもわざわざ確かめたのだし、これが置かれたままということは、間違いなく在室のはずなのだがーー。
とその時、例の作業台の裏からにょきっと人が現れた。
「Q」
「すいません、片付けの最中でして。今度また引越しするので、その準備を」
ああ、道理で、とまとめられた荷物を横目に、ボンドは頷いた。
Qはひどく痩せて長身で、神経質そうな男だった。まだ若いながらMI6の兵器開発を一手に引き受けるQ課の課長であり、そして当然『Q』とはこの課のトップに与えられる暗号名(コードネーム)で、実質00部門の一番槍であるボンドですら本名を知らない。
白皙の横顔にはまだニキビの跡が残っている。パーマというより寝癖を五ヶ月も放置したような髪、サーモントフレームの眼鏡。レンズの向こうから、理知的ではあるが虚弱そうで、自信ありげだがやや気難しげな瞳がふたつ、こちらを窺っていた。いかにもギークという風体だ。
ところでボンドは彼を見ると、いつも育ちすぎたラディッシュの苗を連想する。
「君に呼ばれてきたつもりだったんだが、勘違いだったかな」
苦笑交じりにボンドが尋ねた。
「僕があなたを?ーーああ、失礼。呼びました」
そう答えるとQはボンドを睨み、
「シルヴァの一件ですっかり失念してましたが。007、貴方、僕のワルサーを忘れてきましたね」
しまった。うっかりしていた。
「『無傷で返却を』と頼んだはずです。意外と研究費がかかった作品だったんですよ。でも今トレースしたら、はるか上海にあることになってる。一体どういうことです」
「あー、すまない、Q。揉み合いの最中に落としたんだ。人目を引きすぎていて、すぐに退散しなければまずかった」
ワルサーというのは、ボンドの上海での作戦の直前、Qが彼に託した掌紋認証機能付きのワルサーPPKのことだ。Q特製で、確かに受け取るとき「無傷で返せ」とは言われた覚えがある。だが上海のカジノに潜入した際にシルヴァの部下に襲われ、人食い大トカゲの棲む砂場に落としてしまっていた。
いきさつを説明したボンドにQは溜息をついた。
「あなたが目立ちすぎるのは昔からだって伺ってます。まあ今回は場合が場合なので、大目に見ておきますが。人食いトカゲの巣のほうが、まだ女王陛下(ハー・マジェスティ)の棲家でないだけまだマシだ」
英国の元首、女王エリザベス二世の麗しき美貌をネタにしたジョークがまさかQの口から飛び出すとは思っていなかったボンドは少々面食らいつつも、
「まあバッキンガムまで取りに行くのはぞっとしないな。あそこのトカゲはうちの国で一番のお偉方だから」
そう返事すると、若き兵器開発主任はひひっと笑い声をあげてから、慌てて咳払いしあたりを見回した。警戒する猫の動き。ほっと一息つくと作業台の上のティーカップを手に取り、一口含んだ。首をかしげて見ていたボンドに、おっと、というように向き直った彼はティーポットを指し示し、
「失礼、紅茶は?」
ボンドは口元を引き攣らせて掌をひらひらさせた。
「ありがとう、でも結構。どうも昔から好かないんだ。泥水にしか思えん」
この返答にQは今度こそ気分を害したようだ。急に黙りこくって、ソーサーごとカップを持ち上げ、作業台とボンドの周りを大きく円を描いて歩き始める。革靴の底が、リノリウムの床に打ちつけられる音だけが響く。ときどき、わざとらしくダージリンティーを啜る音が交じる。足を止めることはない。
四周目の第三コーナーに差し掛かったところで、拷問に耐える訓練を受けたベテランエージェントも降参することになった。
「悪かったよ。君の嗜好まで否定するつもりはなかった」
するとQは唐突にその場で静止した。一拍置いて、なんとも言えない満足げな笑みが色白の顔に浮かぶ。カードゲームで叔父を負かした子どものようだ。どうやら遊ばれていたらしい。ボンドは肩をすくめるしかない。
「まったく、若い牝猫より扱いづらい奴め」
「貴方こそ、訓練されすぎた年寄りのシェパード並に無神経では?」
抑えた笑い声が二人分、オフィスに低く広がっていった。

Qはニキビの跡が見られる顎を撫でながら、「しかし」と口を開いた。革の靴先を見つめ、ゆるやかに研究室内を歩き回りつつ、ボンドは耳を傾けた。
「007。おかしいとは思いませんか」
返事はせず、しかし続きを促すような表情が若者のほうへ向けられる。Qは続けた。
「シルヴァです。彼は元々うちの諜報員だった。たしかにあの逃げ足といい、忌々しいハック技術やトラップといい(ここで彼は盛大に顔を顰めた)、凄腕なのは認めますが―」
「いくらなんでも、諜報員崩れが組織ひとつを一から作るには無理がある、と」
口端を薄笑いの形に変えて、ボンドがあとを引き継いだ。
「そこに気づくとはな。見所がある。まだ――若いのに」
この言葉を受けてQは溜息をつく。聞き飽きた皮肉に、早熟の兵器開発主任はうんざりしたようだった。ボンドはにやにやしたまま、
「本心だよ。Mは何も言わなかったが、おそらく彼も気づいているだろう。裏社会で組織を作り、あそこまでのし上がるのは意外と難しい。元が政府の犬なら尚更だ。成し遂げるにはよほどの功績を上げるか、もしくは」
「さらに大きな組織が後ろ盾になっていた、か」
Qはいつになく感心した様子で、何度も頷く。ボンドが気味悪がって顔をしかめると、若者は心底驚いたようにこう述べたのだった。
「いやね、007。こう言っては悪いですが。初めて貴方が敏腕スパイなんだと実感しました」

007 スカイフォール以後② Qと007

007 スカイフォール以後② Qと007

スカイフォールとスペクターのあいだに起こったかもしれない一幕です。 Qとボンド編。BLはありません。 妄想苦手な方はご注意ください。

  • 小説
  • 掌編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-25

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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