届かない願い 前篇 Black sweet ・Canelé カヌレ 第2巻

最愛の人との別れ。
 別れたくはない。別れるなんて、想像もしていなかった。でも、現実は待ってはくれない。
 その最愛の人は、彼女にある言葉を残していなくなった。ただ一方的に。
 時間が経過するごとに別れるその時がやってくる。どんなに強く別れたくないと思っても、運命は二人を引き裂く。たとえどんなに愛した人であっても・・・

 あの時、告白した返事を恵美はしてくれた。でもその返事は、納得のいく答えではなかった。恵美の過去にある悲しい想いが、その答えを物語っていた。

 恵美と一つ屋根の下での生活も2ヶ月が過ぎた。
 三浦氏との間に小さな壁を作っていた僕は彼の妻、ミリッツァの振舞いにより、綻びも少しづつほどけていた。
 恵美と共にある新たな日常もゆっくりと動き出していた。

 恵美にとって忘れる事の出来ない日。

 だが彼女は、前の晩9時を過ぎても家には帰って来なかった。胸騒ぎが治まらない僕は夜、駅に恵美を探しに向かった。

 なぜその日が、恵美にとって忘れられない日なのか、その答えを知っているかの様に、先生は、行先も告げづに僕を連れ出す。
 その地で僕は、恵美の過去にある悲しみと苦しさを知ってしまった。

 そして、僕にとっても、忘れる事の出来ない日になった。

 Contents


第1章 新たな日常
第2章 月あかりの落ち葉
第3章 戻れない想い
   第1節 昼下がりの午後
   第2節 黒い海

Opening

 「おい結城 もうそっちはいいからこっちを手伝ってくれ」
 「はい、今行きます」
 パテシエの仕事は朝がとてつも早い。
 午前5時、最初のベーススポンジが焼きあがる。
 オーブを開けると、熱い空気が僕の顔を包み込む。
 熱せられた鉄板をオーブンから引き上げると、甘く優しい香りが焼きたてのスポンジから立ちのぼる。
 
 この時間はオーブンラッシュだ。

 ここ「カヌレ」の厨房には、大型のオーブンが3台ある。
 上段、上中段、下中段、下段と4つの室内に洋菓子たちが命を吹き込まれている。

新たな日常

 僕が、三浦恵美と一つ屋根の下で生活をともにして二か月が過ぎた。
 まだ、太陽が光をなげかけるときは暑さを感じるが、日がかげるころになるとすーと、頬が冷たさを感じるようになった。

 彼女、「恵美」は日曜の晴れた夕方、だれに何も言わずそれが当たり前のかのように、あの河川敷でアルトサックを奏でに行っている。
 
 それは、あの家では触れてはいけないかのように、彼女の両親も静かに見守っている。

 三浦氏と彼の妻であるMilitza  ミリッツァは、両親を事故で亡くし生活環境が一変した僕を彼女「恵美」同様にやさしく静かに見守ってくれている。でも、三浦氏とは初めなんとなく壁をつくり、ぎこちない日々を送っていた。だがその壁をつくっていたのは自分であることに気が付かせてくれたのは、彼の妻ミリッツァだった。

 彼女は、僕に対しなんのためらいもなく、自分の息子であるかのように接してくれている。
 彼女本来の性格なのだろう。

 気さくなミリッツァは、僕に色々な話をしてくれている。そんな彼女だからだろう、僕も気を使うことはなかった。

 ある日の朝、僕は少し早起きをした。それは前の晩、ミリッツァからの頼まれごとだった。

 「ねー結城、明日の朝食あなたが作ってくれない?」
 「明日のオーダーちょっと多いの、多分朝食作るまで手が回らないと思うの」
 「え、あ、うん、いいですよ」
 「あなた料理得意でしょ」
 「あなたのおかーさんから訊いているわよ」
 「え、それほどでもないですけど」
 「んふふ」
 ミリッツァは軽く微笑んだ。
 「本当は「エミー」にお願いしたいんだけどね」
 彼女は恵美を「エミー」と呼んでいる。恵美、エミー、彼女らしい呼び方だ。
 「エミー、朝弱いのよ。低血圧って言うの?」
 「起こす時間があったら朝食出来ちゃいそうだもんね」
 彼女は、声を低くしてそうと僕に耳打ちした。
 「それにあの子、料理音痴だしね」
 「だれににたのかしらねぇ」
 彼女は苦笑しながら
 「結城お願いね」と言って寝室へ向かった。

 「ふぁ 眠い、5時半かぁ、さーてやるか」
 重い体に喝を入れて、僕は取りかかった。

 まずは、玉葱を薄くスライスし細切りにしたベーコンを鍋に入れ弱火で炒める。ベーコンからの油が溶け出し、玉葱がしんなりとしたら沸かしておいたお湯を鍋に注ぎ入れ、コンソメとブイヨンをかーさんから教わった黄金比率で溶け込ませる。さらに弱火にして灰汁を静かに取り除く。沸騰は厳禁だ。

 卵をボールに割り入れ、少量のコンスターチを溶け込ませたミルクを入れ解きほぐす。この時、卵はよく攪拌してすべてが一体化するのがコツ。レタスを手でちぎりサラダボールに入れ、その上にクレソンをまぶす。

 程よく黄金色をしたコンソメスープに塩、胡椒で味を整える。
 フライパンに、厚切りのベーコンを入れじっくりと火を掛ける。
 6時30分、三浦家の朝食はきっちり7時からだ。

 もう一つのフライパンにバターを入れ、用意していた卵を流し込む。火は強火、フライパンの淵から固まってきたところで、外から内へ円を書くように卵をまわしていく。

 フライパンの柄を攫み、トントンと振動を与えながら手前に寄せて成型をする。これを3回行い3つの皿にベーコンと一緒に盛り付けた。

 そして目玉焼きを一つ焼いた。
 ベーコンから出た油をオニオンドレッシングに併せてサラダとともに添えた。
 「わぁ いい匂い」
 ミリッツァが焼きたてのフランスパンを2本持ってやってきた。
 「結城すごいじゃない。おいしそう」
 「大したことないですよ」
 「うんん、私は合格ね。私バケット切るわ」
 「お願いします」
 ミリッツァは、ウッドトレーにバケットを置き、手慣れた手つきでバケットを切りながら、ふと

 「結城、コーヒー入れてくれる」

 ミリッツァは微笑みながら僕に言った。
 「はい」
 と何も考えずに受け答えた。

 「それとね、あのひとコーヒーにはちょっとうるさいのよ」
 「あなたの入れるコーヒ、気に入ってくれるといいわね。あら、緊張する?」
 「いえ、大丈夫です」
 とは言うものの、僕の入れるコーヒーを美味しいと言ってくれたのは殆んど身内にすぎない。彼、三浦氏は味に関しては物凄く厳しそうだ。まして、コーヒーにはうるさいと聞くと厳しさは掛ける二乗になって僕にのしかかる。もう後には引けない。

 「いつも通り、いつも通り」

 僕は意を決して、取りかかった。
 ミリッツァはバケットを切り終わると、出来上がった料理をテーブルへ運んでいた。

 お湯が沸き、落ち着いたところで、僕は静かに挽いたコーヒー豆へ注いだ。軽い湯気と共に甘く香り高いコーヒーの香りがダイニングを覆い尽くす。

 ミリッツァはその香りを感じると、微笑みながら僕を見つめていた。
 一通りドリッップが終わり、ポットを保温器に置いた。
 「ねーミリッツァ」
 「なぁに」
 「フランスじゃコーヒーはエスプレッソじゃないの?」
 「あら、よく知ってるわね」
 「フランスでも、私の育ったのはずぅと田舎の方なの、そこではドリップで入れるコーヒーが普通で、私もエスプレッソを知ったのは都会に出てからよ」
 「ふぅん、そうなんだ」
 「それに、あの人はエスプレッソよりallonge(アロンジェ薄くした)の方が好きなのよ」
 「どうして?」
 「ふふっ、それはあなたが訊いてみたら?」
 ドアが開き、三浦氏が厨房から上がってきた。
 彼は、僕を見て「おはよう」と言ってテーブルの席に就いた。
 ミリッツァは、僕の入れたコーヒーをカップに注ぎ、彼の前に静かに置いた。
 カップを持ち彼は、軽く口に含んだ。
 「ん、美味しい」
 「今日は、結城が用意をしてくれたのよ。よかったわね結城」
 ドキドキしていた。
 「本当ですか?」
 「僕は、仕事と好きなことには嘘はつかないよ」
 彼は、笑みを浮かべていたが、目は真剣だった。なんだか、三浦氏に少し認めてもらったような気がしてうれしかった。
 彼は、僕の作った朝食をたいらげると、
 「結城、お前物つくりは好きか?」
 「はい」
 返事をすると僕は思い切って三浦氏に言った。
 「あの、あの時食べた焼き菓子、「カヌレ」の作り方教えてください」
 僕は、どやされるかと思い少し小さくなっていた。
 すると、彼はミリッツァと顔を見合わせて、豪快に笑った。
 「そうか、また大きく出たな。うちの看板をか」
 「厳しいぞ」
 「はい、頑張ります」
 彼は嬉しそうに僕の頭をこずった。
 「よかったわ」
 ミリッツァは、微笑みながら僕を見つめていた。
 「でも、結城は学業優先よ」
 「そうだな、初めは少しずつな」
 「進級できなかったら大変だしな」
 「そんなぁ僕そんなに成績悪くないですよ」
 なぜか三浦氏を身近に感じている自分に気がついた。また彼も嬉しそうに見えた。

 こうして僕は、学校の休みの日、主に土曜と日曜の早朝の仕事を手伝うことになった。でも僕と見えない大きく重い壁を感じる人がいる。
 
 そう彼女「恵美」だ。決して彼女と仲が悪いというわけではない。

 同じ屋根の下に暮らすようになり、彼女とも気兼ねなく話せるようになった。毎日顔を合わせ、朝は「おはよう」の挨拶をし、家の中ではみんなが集まれば普通に僕とも会話をする。ただ、彼女「恵美」と二人きりで会話をしたのは、片手に入るくらいの回数に過ぎない。

 僕が「恵美」と始めて会話をしたのは、引っ越しをした日、部屋をかたずけているときだった。

 「こんこん」
 部屋のドアをノックする音を聞き、僕はドアを開けた。
 そこには、薄く淡い緑色をしたワンピースを着た「恵美」がいた。
 「ねぇちょっといい?」
 「え、あ、うん」
 彼女は、「お邪魔します」と言ってベットの上に寄せて置いていた荷物を、自分が座れるスペースを作り静かに腰かけた。
 「大変ね、まだかかりそう?」
 「そうでもないよ」
 僕は窓の縁に腰かけ、空を見上げながら答えた。
 正直、僕は彼女「恵美」と目を合わせることが出来なかった。
 「笹崎くん、私ね、パパからあなたがうちに来ることを訊いて、本当に驚いたわ」
 「お父様とお母さま、残念だったわね。お二人共よくお店にいらっしゃっていたのに」
 「とても仲がよくって、パパとママとも楽しそうに話をしていたわ。」
 「私と同じくらいの男の子が居るって訊いていたけど、それが笹崎君だったなんて思いもしなかったわ」
 彼女は、肩より少し長い金色の髪先を手で触りながら少しうつむいていた。
 「俺も驚いたよ」
 その言葉の後少しの間、窓から僕を隙抜けるように、夏の匂いがする風が部屋にながれこんでいた。

 少しの沈黙のあと

 「ねぇ笹崎君、あなたよくあの河川敷に来ていたわよね」
 彼女は、両手を後ろにやり僕を見上げながら問いかけた。
 「うっ」
 いきなり、やばいところを突かれた。心臓がドクドクと鳴り出した。
 「えーそ、それは・・・・」
 顔がものすごく熱く感じ、頭の中が真っ白になろうとしていた。あーやばい、いつもの悪い性格が露出しそうになった。
 「み、三浦、」
 彼女を見ると、笑うのを必死にこらえていた。

 「ご、ごめん、変なこと訊いちゃったわね。だってあの時、あなた多分私に「告白?」したんでしょ。顔真っ赤にして、かちんこちんになって、一人で舞い上がっちゃって。だから分かったのわたし、なんであそこに毎週来ているのかって、あれから、学校にも来ていなったし心配したわよ」

 「しかたないかぁ、あんなことあっちゃたしね」

 僕の心臓はさらに早く鼓動し、胸のあたりが締め付けられるような感覚が続き、言葉を出そうにも上手く声にならなかった。
 彼女は、スッと腰かけていたベットから立ち上がり、僕いる窓の方にやってきた。

 「いい天気ねぇ、今日も暑くなりそう」

 窓辺にいる彼女の髪が風で軽くなびいた。今僕と彼女の距離は、今までにない近い距離にいる。手を差し伸べれば簡単に、彼女を抱きかかえることが出来る距離。

 彼女の甘い優しい香りが微かに鼻をかすめる。

 「ねぇ笹崎君」

 僕は苦しいのを押し殺し何とか声にした。
 「結城でいいよ。これから一緒に暮らすんだから」
 「そう、じゃぁ」
 「ユーキ」

 「あの時の答え」

 彼女は、僕の正面を向いて

 「私、ユーキのこと嫌いじゃないわよ。でも、付き合うとか恋人とかそんなこと、今の私には考えられないわ」
 「ごめんね」

 「あ、いや・・・・」
 僕の気持が急速に冷めて行くのと反対に、また心臓の鼓動が高鳴り出した。
 「こっちこそ、ごめん。もしかして、もう好きな人がいたんだ」
 彼女は少し、下をうつむいて頭を左右に振った。

 「今私の恋人は、あのアルトサックスよ」

 「人じゃないわ。でも私、うれしかった。あんなに真剣に告白されたの初めてよ。めちゃくちゃだったけど」
 「それって、よろこんでいいのかな?それとも落ち込むところかな?」
 彼女は、笑みをうかべて言った。その微笑みは優しく暖かくそして、どこか寂しげな
 「ふふ、それはあなた次第かな」
 その時僕は、彼女を愛おしく、胸の中が熱くなるのを感じていた。
 「あぁよかった、これから一緒に住むのにギクシャクするのいやだったから」
 「そうだな」
 「三浦っ」
 「なぁに」
 僕は言いかけた言葉を飲み込んだ。
 彼女は不思議そうな顔をしていたが、ふいに腕を組み
 「私のこと、家の中でも三浦って呼ぶ気?」
 「え、でも」
 「ふう、「恵美」でいいわ。でも、ここでだけよ。学校では三浦さんよ」
 「それとこれは、私の友達しかしらない事なんだけど、実は私、ユーキより一つお姉さんなんだからね学年は同じだけど・・・」
 「ええ、そうなんだ」
 「なによぉ」
 プンと怒った顔が可愛い
 「精神年齢は、絶対俺の方が上だな」
 「ばーか」
 彼女は、くるっと向きを変えつぶやいた。

 「かたずけ頑張ってね」
 そう言って、彼女は部屋を出た。

 一人になった僕は、また窓から空を見上げていた。
 「アルトサックスかぁ」
 ふと、あの時の
 「私の何を知っているの」
 恵美のあの言葉が浮かんできた。
 彼女も何か辛い過去を背負っているような、そんなことを思いながら、僕は青い空に浮かぶ白い大きな雲を眺めていた。

月あかりの落ち葉

 僕らの通う私立 森ケ崎高校は、昭和の始め頃に創立された歴史のある高校だ。 鉄筋コンクリート三階建ての新校舎と木造2階建ての旧校舎がある。僕ら2年と1年は新校舎で学校生活をおくる。

 3年に進級すると皆、新校舎を離れ旧校舎へ移り、残りの1年を過ごす。これはこの学校の昔からの方針らしい。

 新校舎が完成した時、歴代のOBたちが想いで深い旧校舎の取り壊しに反対して多くの署名を集めたようだ。その甲斐あって取り壊しは中止となり、OB有志の寄付によりリフォームまで行ったそうだ。

 「古きを慈しみ 新しきを磨け」

 これは校訓ではない。歴代の学校OB関係者が、創り上げたこの学校のしきたりのようなものだ。その言葉の通り、3年生は旧校舎で古きを慈しみ、目標である自分の未来のために勉学を磨けとのことだ。

 いずれ僕たちも、あの旧校舎へ移る日がくるのだろう。
 だが、僕にはまだその実感がない。それは遠い未来のことのようにしか感じえないから。

 今、僕が住んでいる「カフェ・カヌレ」から駅までは徒歩でおよそ10分、そうあの高架橋と共にある駅だ。
 そこから学校のある駅までは二駅だ。

 たった二駅、でもあなどるなかれ歩いて行くとなると、かるく40分は架かる道のりだ。まして、学校の駅から校舎にたどり着くには、さらに10分の道のりを歩かなければならい。

 それは学校が山側の小高い斜面にあるからだ。

 路線バスもあるのだが、僕と彼女「恵美」はなぜか電車派だ。だが恵美は学校のある駅からバスで、森ケ崎高校正門前の停留所で降り立つ。

 そして僕は、坂道を上りながら10分の徒歩コースで正門に向かう。

 どうしてもあの、同じ高校の生徒しか乗らないバスに乗る気はしないからだ。
 僕が電車通学にこだわるのには、もう一つ理由がある。この土地が海に近いからだ。

 ほんの少しだが、電車は海の近くを走る。そのほんの少しの時間、電車から海を眺めるのが僕の日課なっているからだ。

 僕と恵美は同じ時間に家を出ることはほとんどない。
 彼女、恵美が先に出かけ、その後しばらくしてから僕は家を出る。当然のことながら、彼女は3本早い電車に乗り、僕は彼女の3本後の電車に乗る。

 僕の乗る電車には、幼馴染の「村本 孝義」が乗車している。
 孝義とは入学以来この時間の電車に乗っている。僕が三浦家に移り住んでからは、孝義が乗る電車を僕が待つことになった。
 「おー」
 「うぃっす」
 朝、孝義との会話はあまりない。僕は、出口付近のポールに寄りかかり、車窓を眺めている。
 電車を降り、改札にスマホをかざしゲート抜けると、同じ制服を着た生徒たちが同じ方向を目指し移動している。
 バスプールに集まっている生徒たちを横目に、僕と孝義は高架線路の下を通り、駅裏から学校を目指し歩き始める。
 「おーさびー」
 孝義が肩を震わせる。
 「今朝は冷えたからな」
 「ああもう11月だもんな」
 「おう、もうじき雪降ってくるぜ」
 「まだ11月だぜ、それに雪なんて・・・」

 「おはよう」

 彼女は僕と孝義の間に後ろから割り込むように入ってきた
 「なんだよ、真純 割り込むなよ」
 戸鞠 真純(とまり ますみ)彼女は僕、孝義と同じクラスの2年生。
 性格は明るく、スポーツ、特にテニが大好きなクラスメイト。
 「あはは、手でもつないでいた?」
 「おいおい、俺はそんな趣味ないぞぅ」
 「手をつなぐなら可愛い彼女、いくら結城が幼馴染といえ、手をつないで登校はせんぞぉ。あ、幼稚園のときは手つないで行ってたかな」
 「なーにばか言ってんだ孝義、そんな彼女なんかいないくせに」
 「ほんと、あなた達って仲いいのね。嫉妬しちゃうわよ」
 「んーそうか、そうか、真純もようやく俺のよさをわかってきたか」
 孝義が自慢げに言うと、戸鞠は顔のしたくらいで手を振り

 「あはは、ありえなーーい」

 そう言うと、
 「じゃ、先行くね、早くしないと遅刻しちゃうよ」
 彼女は「いそげぇ」と、微笑みながら叫んだ。
 僕らはその声に引き寄せられるように、彼女の後を追った。


 恵美とは学年は同じだがクラスが違う。学校内の授業や活動などは、大抵クラスごとに行われる。だからよく話をしたりする友達は、ほとんどがクラスの中の生徒だ。
 恵美は、休み時間廊下ですれ違っても笑顔一つ見せない。そう言う僕もまた、彼女に対しては同じなのだが・・・

 僕が三浦家に移る前、担任と挨拶をかねた面談をしていた。

 担任、「北城 頼斗 きたしろ らいと」30代半ばくらい、なかなかのイケメンだ。去年、僕らとともにこの学校に赴任してきた。
 ここに来る前は、千葉の房総半島のあたりにいたらしい。そして彼は、この学校の吹奏楽部の指導顧問をしている。
 森ケ崎高校吹奏楽部、以前は全国大会連覇の経験を持つ強豪吹奏楽部だった。だがここ数年は、よくて県大会で終わっている。

 今年は、県大会金賞、いわゆる「だめ金」だった。

 「落ち着いたか?」
 「はい。お葬式のとき来ていただいてありがとうございます」
 「いや、担任だからな。よく頑張ったな、今は苦しいが頑張って乗り越えるしかない」
 「ありがとうございます」
 「まーそれはそうと、これからのことなんだが、もしかして、転校しなきゃならんのか」
 「そのことなんですが、父の知り合いの方のところに行くことになりました」
 「そうか、で 北の方か、南の方か?やっぱ転校か」
 「ちょっと待ってください」
 「はい、これどうぞ 新しい住民票です」
 僕は茶封筒を先生に手渡した。
 先生は、住民票を見て
 「お、よかったな、わりと近くじゃないか、えーとOO市OOO町・・・。おい笹崎、OOO町ってあの橋と一緒になってる駅か」
 「そうですけど、先生知ってるんですか?」
 「ああ、ちょっとな」
 そしてもう一枚の書類を見るなり
 「おい笹崎、保護者欄に「三浦 政樹」ってあるけど、もしかしてあの「カヌレ」の三浦 政樹か」
 「そうです、先生「カヌレ」がどうかしましたか」
 「おれ、そこによく行くんだよ。あの「カヌレ」が好きでな、ということはお前、「三浦 恵美」と住むということか?」
 「そうなります」
 先生は腕を組みしばらく沈黙した。
 「笹崎、お前が三浦のところに行くのを知っているのは、この学校に何人いる」
 「多分、孝義だけだと思います」
 「そうか、孝義にはこのこは秘密だと言っておけ。変な噂がたってお前らが大変になるは避けたいからな」

 確かに、恵美と一つ屋根の下暮らしているなんて他の男子に知れ渡ったら、僕の命は多分いくつあっても足りないだろう。

 「こちらでも十分に配慮はする。お前らもその事については十分にきおつけてくれ。三浦には、俺からも話をしておく」
 「はい、お願いします」
 先生はすべての書類を確認した。
 「よし、必要な書類は揃っているな、手続きには問題はなさそうだ」
 「笹崎、いつから登校できる」
 「もうじき引っ越しする予定ですので、何とか2学期からいけると思います」
 「そうか、大変だけど、あまり無理はするなよ、困った事があったらいつでも俺んとこに来い」
 「はい、有難うございます」
 そして僕らは、談話室を出た。

 先生は、僕を生徒玄関まで見送るため二人で、夏季休業中の廊下を歩いた。静かな校舎の中にセミの声だけが響いていた。

 生徒玄関口で僕が下駄箱に向かうと、先生は想いためらったように

 「なあ笹崎、あいつ恵美から何か訊いてないか」

 先生が、恵美と呼び捨てにしたのが気になったが
 「何もないですよ。先生何かあるんですか」
 「いや、何でもない。訊いていないんだったらいい」
 僕が問いかけようとするのを防ぐように
 「今日も暑いな、きーつけてな、新学期待ってるからな」
 そう言って先生は、すたすたと職員室の方に向かった。
 
 こうして僕は、新学期から今までとは違う環境の中、学校へ行くこととなった。

 この二か月の間、僕と恵美のことに気付いた奴はだれもいなかった。それもそのはず、学校では恵美とは接点がほとんどないからだ。いやそれを言うならば、初めて彼女と出会ったあの日から、学校の中では親しくすることはなかった。唯一あるとするならば、あのハチャメチャな告白だけだろう。

 また、彼女自身も気を使ってくれているんだと思う。



 午後からの授業は睡魔との戦いが始まる。窓際の席にいる僕は、スチームヒーターからくる心地いい暖かさによって睡魔に支配されてしまう。


 「ねぇ笹崎君、笹崎君ってばぁ」

 僕は遠くで誰かに名前を呼ばれているような夢を観ていた。ん、夢?いや違う。
 慌てて起きあがると、戸鞠真純の顔が数センチのところにあった。顔、いや彼女の薄いピンク色をした、ぷるんとはじけそうな唇が、視界を覆っていた。

 「きゃ」

 戸鞠真純は少し動揺した表情で
 「んもぉ、ようやく起きた」
 「笹崎君、学校祭の打ち合わせ始まっちゃうよ」
 今年僕はクラスの学校祭、通称「森祭」の役員になっていた。第2回目の打ち合わせ、今回は生徒会へ予算の申請の重要な打ち合わせだ。

 「あれ、孝義は」
 「とっくに部活行ったわよ、帰る人は帰っちゃったし」
 教室を見渡すと、そこにいるのは、僕と戸鞠真純の2人だけだった。
 「ねぇもう行くわよ、今回は遅刻厳禁って生徒会長言ってたわよ。それで予算削られたらたまったもんじゃないわ」
 そう言って彼女は僕の腕を引っ張り生徒会室へ向かった。

 今年僕らのクラスは、相当もめた末「バザー」をすることにした。売り上げで得た収益は、学校を通じて福祉団体へ寄付をすることにした。

もめた原因は、孝義だった。

 「今年は、絶対にメイド喫茶をやろう」

 孝義の発言に、多くの男子生徒は、大いに賛同した。なんと担任の北城先生までも
 「お、いいねぇ、女子のメイド服姿そそられるねぇ」
 「ちょっと先生、私そんなのいやです」
 ある女子が言うと、こぞって女子から反対の声が鳴り響いた。

 「どうしてもメイド喫茶やりたいなら、男子がメイド服着たらいいじゃない」

 「おいおい、それは勘弁だな、それに俺は吹部で忙しいからあんまり協力はできんぞ。俺はお前らを信用するから、好きにやってくれ。おっと失言、今年は自主性を俺は求めているぞ」

 うまく逃げたな、この担任。

 女子からの猛反対もあり、メイド喫茶は廃案となった。
 色々と意見はあったが結局のところ「バザー」を行うことに落ち着いたのだ。

 「よかった、申請通りの予算が通って」
 「戸毬の資料がよくできたからだよ」
 「そんなことないわよ、笹崎君がすんっごくフォローしてくれたからだよぉ」

 僕らは打ち合わせを終え放課後の廊下をならんで歩いていた。ふと見上げると、首にストラップをかけアルトサックスを抱えながら、恵美がこっちに向かっていた。
 「あ、三浦さん」
 戸鞠真純が手を振って声をかけた。
 「どうしたの?」
 「森際の打ち合わせ、今終わったとこ、三浦さんは部活中?」
 「ええ、これから合奏なの」
 恵美は僕の方をちらっと見てすぐに目をそらした。
 僕も恵美と目を合わせないようにちょっとうつむいた。
 「それじゃ私もう行かないと、じゃあね」

 彼女は僕とすれ違う時、ちいさなこえで

 「ばか」

 と、一言ささやいた。

 「合奏がんばってねぇ」
 「ハーイがんばりまーす」
 と恵美は片手を上げて音楽室へ向かっていった。
 僕がきょとんとしていると
 「ねぇ笹崎君、どうしたの?」
 戸鞠真純が僕の顔を覗き込んでいた。

 「なんでもないよ」
 「うそ、だって顔赤いもん。さては、三浦さんに見惚(みと)れていたんじゃないの。彼女本当に綺麗だもん、女の私さえ見惚れてしまうもんね」
 「それに彼女、サックス本当にうまいのよ。中学のとき地元の楽団に入っていたんだって、今は行っていないみたいだけどね」
 「そうなんだ・・・」
 楽団に所属していたのは知らなかったが、彼女の奏でるサックスの音色は、他の誰よりも好きだった。今でも彼女の奏でるサックスの音色は僕の心を揺さぶっている。

 「ねぇ、知ってる? 三浦さんの家ってケーキ屋さんなのよ。よく雑誌なんかに載ってるわよ。えーと確か、か何とか」
 「カヌレだろ」
 「そうそうカヌレ」
 「笹崎君よく知ってるわね」
 しまった、思わずその名を口にしてしまった。
 「ケ、ケーキ好きなんだ、たまにあの店にも行くよ」
 「ふぅん、そうなんだ。なんだか意外、笹崎君がケーキ好きだなんて」
 「何でだよ、男がケーキ好きでもいいじゃないか。それに俺、料理もするし、コ、コーヒー入れるのうまいんだぜ」
 「うふふ、どうしちゃったのそんなに慌てちゃって」
 「そっかぁ、笹崎君コーヒー入れるのうまいんだ、今度笹崎君の入れたコーヒー飲んでみたいな」
 「機会があったらな」
 「約束だよ。ハイ指切りげんまん」
 戸鞠は、小指を指し出した。
 「早く、はい」
 「指切りげんまん、嘘ついたら「はりせんぼん」のーます。指切った。楽しみだなぁ、笹崎君の入れるコーヒー」

 「ぜーーたい飲ませてよ」
 
 「強引だな」

 「そ、私は強引な女なのでしたぁ」

 戸鞠はにこやかに、振り向きながら言った。

 僕らはいつしか、駅までの道を二人で歩いていた。
 初冬の夕暮れは早く、あたりはうす暗くなり街灯が、僕たちの歩く道をほのかに照らしている。
 「ふぁ、きれいな楓の葉、真っ赤だよ」
 戸鞠は、歩道のわきに落ちている落ち葉を手に取って僕に見せてくれた。
 「ね、綺麗でしょ」
 「ああ」
 「もう、もっとなんかないのぉ。あ、黄色いのもめっけ」
 戸鞠は2枚の楓の葉をノートに挟んでカバンに入れた。
 「どうすんだよ、その葉っぱ」
 「内緒、おしえなーい」
 「あ、そうだ笹崎君、スマホ。えへへぇ、最新のオニューのスマホだよぉ」
 「なーんだ自慢かよ」
 「あーこれ買ってもらうの大変だったんだから、それより、ハイ赤外線」
 僕はスマホを戸鞠の方に向けた。
 「これ、あたしのメアドと番号、よしよし笹崎君のも来ているな。コーヒー飲みたくなったら連絡するから」
 「おーい」
 「あはは、冗談よ」
 「それより、電車来ちゃうわよ、急げぇ」
 僕らはぎりぎり電車に間に合った。
 この時間にしては電車は空いていた、戸鞠(とまり)は出入り口のすぐの椅子に座り、僕はポールにのっかかり出入り口の窓から、夜の町が放つあかりを眺めていた。
 「次は・・・・」
 車内のアナウンスが僕の降りる駅をしらせる
 「戸鞠、俺ここだから」
 「あ、そうなんだ、大分近くなったね。私なんかあと5駅もある」
 「それじゃ、また明日」
 そう言って僕はホームに降り立った。
 「3番線ドアしまりまーす。ご注意ください」
 戸鞠は出入り口の前に立って、小さく手を振っていた。
 僕も胸のあたりまで手を上げて、応えた。
 やがて、戸鞠を乗せた電車はホームをすべるように流れ、駅を後にした。電車が出た後のホームには寂しさだけが僕を包み込む。

 「ただいま」

 と言っても、まだ店の営業時間、だから2人は店にいる、家にはだれもいない。
 僕はまっすぐ2階の部屋に行き、ベットに倒れ込んだ。
 「戸鞠かぁ」
 スマホを取り出し、彼女から電話が来ていないか見てみた。案の定メールも来ていなかった。ホットしたような、がっかりしたような、そんなことを考えながら僕はうたた寝をしてしまった。

 はっと、目が覚め時計を見ると9時を少し過ぎていた。一階に降りてみると、リビングに政樹さんとミリッツァが店から上がってきていた。

 「あら結城、夕飯は?」
 「まだです」
 「そう、じゃ用意するわ」
 「恵美は済んだんですか」
 「それがね、まだ帰ってきていないのよ。今日は遅くなるって言ってなかったし」

 何か、胸騒ぎがする。

 「ミリッツァ、僕ちょっと見てきます。コンビニにも行くから」
 僕は2階に戻り、ダウンジャケットを取ってきた。
 「外寒いわよ、シチュー温めて待ってるから、気を付けてね」
 「はい」
 そう言って僕は駅へ向かった。
 三浦家から、大通りに出るには、ほんの3分もあればいい。大通りから駅までは一本道だ、もし恵美が駅を出ているのなら僕と出会うことが出来るはずだ。

 だがその期待はものの見事に外れた。

 駅につき、ホームにも上がった。だが恵美の姿はなかった。

 「なんだよ、どこ行ったんだよ」

 胸騒ぎがしてどうにも落ち着かない。

 駅の長い階段を急ぎながら降り歩道にたどり着くと、救急車がサイレンを鳴らし僕から過ぎ去った。

 そのサイレンは、およそ200メートル先で止まった。
 「まさか、恵美・・・」
 僕は全速力でその方向へ走った。

 通勤帰りの人たちが、歩道を埋めていた。僕はその人垣をかき分け中に入った。そこには、70歳ほどのお婆さんが、膝のあたりに手をやりながら苦しそうにしていた。救急隊員がおばあさんをストレッチャーに乗せようと準備をしている。

 それを見て僕は、ほっとした。恵美じゃなかった。

 また来た道を戻り歩いた。
 「まさか、まだ学校にいるんじゃないのか」
 スマホを取り出し学校に電話をかけた。
 「はい、森ケ崎高校です」
 「あのう、すみません2年の笹崎ですが」
 「おう、笹崎どうしたこんな時間に」
 電話に出たのは、なんと担任の北城先生だった。
 「あれ、先生まだいたんですか?」
 「あん、俺が遅くまで学校に居ちゃいかんのか?これでも教員だぜ」
 「なんてな、ちょっと調べものしていてな、で、どうした?」
 「三浦、恵美はまだ学校に居ますか」
 「あん?恵美ならとっくに帰ったぞ。そもそも今学校にはだれもいないぞ」
 「そうですか」
 「恵美、まだ帰っていないのか」
 「ええぇ、今探しています」
 「そうか、お前、恵美に電話かけてみたか」
 「そんなの電話番号知っていたらとっくにかけてます」
 「なんだ一緒に暮らしていて、教えてもらってないのかよ。わかった今俺が恵美にかけてみる」
 「で、お前はどこにいる」
 「駅の土手側の出入り口です」
 「わかった、お前はそこを動くな、いいな」
 「はい」
 電話は切れた。
 僕は、駅には入らず、入口の隅で連絡を待っていた。もしかすると恵美がホームから降りてくるかもしれないと思ったからだ。すると近くで、携帯の着信音?が聞こえた。聞き覚えのある着信音、そうだ恵美が使っている曲だ。
 僕はその音をたどり、駅階段の横にあるオープンスペースへたどり着いた。そこには、備え付けのベンチに座り、スマホを耳にあて話をしている恵美がいた。

 「恵美」

 彼女は、僕の声に気が付き、びっくりしながらこっちを見た。
 「もしかして、電話北城先生?」
 恵美は軽くうなずいた。
 「大丈夫、今ユーキにも会えた」
 「うん、ごめんなさい。心配かけて、それじゃ」
 その会話は、先生と生徒との話し方ではなく、本当に親しい人との会話のようだった。
 恵美は電話を切ると
 「ごめんね。ユーキ、心配かけちゃったね」
 事の成り行きは彼、北城先生から訊いたんだろう。
 「あー心配したよ。本当に」
 「ごめんね」
 「どうしたんだよ」
 「ん、何でもないの、もうだいじょうぶだから」
 彼女は、ベンチから立ち上がると、全体の力が抜けたかのように、僕に倒れ込んできた。

 「おい、恵美大丈夫か」

 恵美を抱きかかえると、彼女の体はとても熱く、彼女のその高熱が僕の体に伝わってきた。
 「恵美、すごい熱じゃないか」
 「大したことないわ、帰りましょ」
 彼女は僕から離れ、ふらふらと歩き出した。
 僕は、ベンチから彼女のカバンを持ち、恵美の腕を取り僕の肩にまし支えた。
 「ゆっくりいこう」
 恵美は、うなずいた。
 少し歩いたところで恵美の力はさらに抜けてきた。彼女は、ほとんど意識がもうろうとしていた。
 「ふう、これじゃ歩けないな」
 僕は恵美に背中を向けて、「乗って、早く」恵美は少しためらっていたが、倒れ込むように僕の背中にしがみついた。
 「よいしょっと」
 僕は、恵美をおんぶしてゆっくりと歩き出した。大通りは明るいが、人通りが多い、そんな中、恵美をおんぶして歩くのは彼女も恥ずかしいだろ。そう思い、僕は大通りから一本外れた住宅街の道を歩いた。

 この道は、ほとんど人通りもなく、街灯も少ないため少しうす暗く感じる。通りには、小さな公園がありそこを過ぎると、家まではもう目と鼻の先だ。

 「おもいでしょ」
 「いいや、このくらい大丈夫さ」
 恵美は、熱のためか僕の背中にぴったりと体を寄せている。
 そのせいだろう、歩くたびに彼女の柔らかく案外大きな胸の振動が背中から伝わってくる。
 「ねぇ、本当に大丈夫?ユーキ顔赤くなってきているよ。もしかしてうつっちゃった」
 「大丈夫だってば、それより・・・・」
 僕は顔が熱くなるのを感じていた。
 すると恵美は、僕がなんで赤くなっているのかを悟り
 「ばかぁ、ユーキのエッチ」
 恵美は、少し胸を僕の背中から離し、僕の首の後ろに彼女は額をつけた。

 ふと、空を見上げると、まんまるとした大きな月が暗い夜道を照らしてくれていた。

 「今日は満月かぁ」

 「ねぇ、ユーキ」
 「ん、どうした」
 「今日、ごめんね。変なこと言って」
 「変なことって」
 「戸鞠さんと一緒のとき」
 「ああ、ちょっとびっくりしたな」
 「もしかして、やきもち?」
 「違うわよ」
 恵美はちょっと声を大きくして言った
 「何ていうの、なんだかつい、口に出ただけ。そんなあなた達にやきもちなんて」
 恵美は僕の頭をボンとたたいた。
 「わかったよ、でもやきもちだったら嬉しかったな」
 「ばか」
 恵美は、あの時と同じようにささやいた。

 小さな公園のところに来ると、夜露に濡れた落ち葉が満月の月明かりに優しく照らされていた。

 「ねえ、もうここで下して」
 「大丈夫か」
 「うん、あと少しだもの」
 僕は背中から彼女を降ろし、また腕を取り僕の首に這わせ、彼女を支えながら歩いた。ゆっくりと。
 恵美の息遣いは、苦しさを僕に語りかけるように耳元から聞こえてくる。彼女は僕に全てを委ねるかのように、体を寄せていた。
 「あと少しだから頑張れ」
 「うん、ありがとう」
 公園の街路樹の葉が一つまた一つ、静かに舞ながら地面へつもり重なっていく。この落ち葉の様に、苦しさが散ってくれたらどんなに救われるのだろうか。

 ふと恵美の顔を見ると、長い金色の髪の毛が彼女の顔から、頬にたどう涙を隠していた。
 恵美の涙は、今の苦しさからくる涙ではないだろう。日を重ね暮らしているうちに、恵美にも過去に辛いことがあったのが感じていた。その事は、あの家族にとっても触れてはいけないことなんだろう。

 「ついたよ」

 家のドアを開けると、恵美はすべての力が抜けたように座り込んでしまった。
 「ミリッツァ、政樹さん」
 僕は玄関から二人を呼んだ
 「エミー、どうしたの」
 「すごい熱なんです。早く恵美を部屋へお願いします」
 「あなた」
 「わかった」
 彼は恵美を抱きかかえ部屋へと向かった。

 僕はリビングの椅子に座りほっと肩をなで下し、ぼうと窓の方を眺めていた。

 しばらくすると、ミリッツァが僕の方に来た。
 「恵美どうですか」
 「大丈夫よ、ちょっと熱高いけど今眠ったわ」
 「よかった」
 「ありがとうね、大変だったでしょ。あの子ぐわい悪いんだったら、電話くらいすればいいのにね」
 「結城、夕食まだでしょ、今用意するわ」
 「大丈夫ですよ、じぶんで用意します。それより、恵美に付いててください」
 「そう、じゃお願いするわ」
 「食べたらあなたも早く休んでね、朝早いんだから」
 「はい、そうします。政樹さんは?」
 「あの人、シャワー浴びにいったわ、もうそろそろ来るんじゃない」

 僕は、ミリッツァに恵美の過去に何があったか聞こうとしたが、止めた。その事は、簡単に口にしては逝けないような気がしたからだ。

 だが、思いもしない恵美の過去が、僕の気持ちに重く襲い掛かる。その時がもうすぐそこに来ている事を僕はまだ・・・・

戻れない想い

昼下がりの午後

 次の日、僕は恵美と近くの総合病院へ向かった。

 恵美は一人で行けるときかなかったが、ミリッツァは僕が付き添うようにと強く言った為、恵美もしぶしぶ了解した。とは言っても二人が、並んで大通りを歩いているところを、同じ学校の生徒に見られたら大変なことに成りかねない。なにせ恵美は、男子生徒どもにとってマドンナ的存在なのだから

 とりあえず、普段着ないジャケットにブルージンズ、頭にはこれもまためったに被らないキャップを被り何気なく持っていた、伊達メガネを着けた。

 「ユーキ何それ」

 「何それって、やっぱ変かな?」
 恵美は少し間をおいて
 「ユーキのその恰好嫌いじゃないわよ、意外、眼鏡に会うのね」
 面と向かって恵美から言われるとものすごく恥ずかしかった。
 「さあ、行くよ」
 「ねぇ、私病人なの、そんなに急かさないで」
 「ハイハイ、重病人様」
 「んもう」
 恵美は少しすねたように、頬を膨らませた。

 外に出ると、明るい日差しが満ちていた、昨夜は本当に冷えたんだろう、その光には暖かさを感じるには程遠い力だった。

 「寒い」

 恵美は、まだおぼつかない足取りで歩きだした。僕はその少し後から彼女を見守る様に、後をゆっくりと歩いた。

 病院につくと恵美は受付をし、土曜休日外来の待合ロビーに向かった。
 ロビーには十人くらいの人たちが診察を待っていた。恵美は真ん中の列の椅子に座り、僕はその後ろの列の恵美の後ろの椅子に座った。

 「あんまり話しかけないでよ」
 「わかってるよ」
 僕は、帽子を前に深くかぶり、足を組んで寝たふりをした。
 30分くらい待っただろうか、ようやく恵美の名前が呼ばれた。
 「三浦さん、三浦恵美さん」
 看護師が、恵美の名を読み上げ
 「はい、三浦恵美さん、2番の診察室へお入りください」
 恵美は、看護師が告げた診察室へと向かい診察を受けた。しばらくして恵美は元の椅子に戻ってきた。
 その顔を見ると目に涙をいっぱいに貯めて、今にもこぼれ落ちそうな顔をしていた。
 「インフルエンザの検査だって、鼻に綿棒入れられて苦しかった。それと採血もされちゃった」
 「そりゃ、仕方がないな我慢しな」
 恵美はしゅんとして前の席に座った。
 僕は、近くにあった雑誌を取り時間をやり過ごした。
 再び、恵美の名前が呼ばれ彼女は診察室に入った、検査結果が出たんだろう。
 10分くらいの後、恵美は診察室から出てきた。
 「どうだった」
 「ただの風邪だって、まだ熱高いからお薬飲んで寝てなさいって」

 僕らは、処方された薬を薬局から受け取り家へ帰った。途中スポーツドリンクを一本恵美に渡し飲ませた。

 家に戻ると恵美はリビングの椅子に座り、恥ずかしそうに

 「ありがとう、いっぱい迷惑かけちゃったね。何かお礼しなくちゃね」
 「何言ってるんだ、同じ家に住む家族だろ、当たり前のことじゃないか」

 口には出したもの、僕の心はものすごく痛く苦しかった。
 どんな形にせよ、彼女に告白をして振られてしまった僕は、恵美への思いは捨てきれないでいたのだから。

 「ありがとう、やっぱユーキって優しいね」
 「それより、早く部屋で休みなよ、俺、店に行ってくるから」
 「うん、わかった」
 「あ、恵美」
 僕は恵美を呼び止めた。
「なあに、ユーキ」恵美は、髪をなびかせ振り返り、僕を見た。
 僕は恵美から顔をそらし、スマホを恵美の方に向けた
 「はい、赤外線」
 「えっ」
 「昨夜のような事、またあるといけないから、メアド」
 「そっかぁ、ユーキにまだ教えていなかったもんね」
 恵美はカバンからスマホを取り出し
 「ねえ、赤外線ってなあに?私、あんまり詳しくないし、もしかしたらそれって無いかも」
 「じゃ、電話番号言うから僕に電話かけて」
 「うん解った」
 「090-xxxx-xxxx」
 恵美から僕のスマホに電話が来た。
 「来たよ」
 そう言いって僕はその着信番号を、すでに作成済みの住所録に登録した。
 「ありがとう」
 「うんん、メアドは後でおくるわ」
 そう言うと恵美は2階の自分の部屋へと行った。

 僕は恵美の診察結果を告げに店に向かった。もうお昼を過ぎていた時間、この時間なら店の入口がら行った方がいい。

 あのウッドドアを押すとカウベルがカランカランと鳴り響いた。
 ランチ時を過ぎ静かな曲が耳をかすめていく。

 「よう、笹崎」
 聞き覚えのある声で僕を呼んだのは、担任の北城先生だった。

 「どうしたんですか先生」
 「あん、俺がここに居ちゃ何かあるのかよ、俺はここの「カヌレ」のファンだと行ったろ」
 「いや、てっきり家庭訪問かと」
 「笹崎、お前が望むならそれでもいいぞ」
 「先生、あんまり結城を虐めないでください、私たちの大事な家族なんですから」

 ミリッツァは僕に恵美の様子を伺った。
 「ただの風邪だそうです。熱がちょっと高いので薬飲んで寝ててくださいとのことでした」
 「そう、よかったわ、恵美は?」
 「多分、部屋で休んでると思います」
 「そうか、ま、一安心だな」
 「もしかして先生、恵美のこと心配で来てたんですか」
 「ま、まぁな、俺はあいつの部活の顧問だしな、あんな電話もらうとな、普通心配するだろ」
 ちょっと照れ臭そうに言い放った。

 「あ、そうだミリッツァさん「カヌレ」を二つ持ち帰りにしてもらえませんか」

 ミリッツァはその注文を受けると、少し寂しげに

 「そう、今日だったわね」

 と言って、「カヌレ」を箱に2つ入れ綺麗にラッピングを施して先生に渡した。
 「先生、この分はいいわよ、家からの気持ち」
 「すみませんミリッツァさん」
 「今日、行ってくるのね」
 「ええ、これから向かおうかと」
 先生は、ふと僕を見ると
 「あの、お願いついでにもう一つ」
 「こいつ、笹崎、お借りしても良いでしょうか」
 ミリッツァは返事をためらったが
 「一緒に連れていくの」
 「ええ、多分」
 「そう、わかったわ、先生にお任せします」
 「結城、あなたは大丈夫?」
 「ええ、この後特別予定はないですけど」
 事の成り行きを黙って訊いていた政樹さんは、何も言わず、ただうなずいた。
 「よし、笹崎行くか」
 「先生、安全運転でね」
 「大丈夫ですよミリッツァさん、大事な生徒を乗せるんですから」

 こうして、僕は急遽、行先も告げられずに先生の車に乗り移動した。

 僕らが店を出た後、ミリッツァは
 「行かせて良かったのかしら」

 「さあな、その答えを出すのは結城次第だろ、恵美とこれからも付き合う上でな」

 彼は、ミリッツァの肩に手をやりそうつぶやいた。


黒い海

 僕は、言われるまま先生の車に乗り、未だ目的地も告げられず移動を続けている。
 途中先生は、花屋で花束を買い、コンビニに寄って缶コヒーを二つ買ってきた。

 「ほれ、飲めや」そう言って僕に缶コヒーを手渡した。

 車は市街地の外れから高速道路に入る、車はスピードを上げ僕のいる街から遠ざかる。
 「先生、いい加減に行先くらいは教えてくださいよ、なんか誘拐されているみたいで、落ち着かないです」
 「はは、誘拐か。用事があるのは俺だ、お前は付き添いだ、黙って乗ってろ」
 先生は運転席側の窓を少し開け、胸ポケットから煙草を一本取り出し口にくわえた。
 「先生煙草吸うんですか?」
 「ああ、たまにな。いやか」
 「いいえ、どうぞ」
 先生は、加えている煙草に火を着け、軽く白い煙を出した。
 「なあ笹崎、お前恵美のこと好きだろ」
 僕はびっくりして、コヒーを口から吹き出しそうになった。
 「な、なに言うんですか」
 「はは。思い余って告白したものの、返事はNOだったんだろ」
 「ど、どうして知ってるんですか?誰から訊いたんですか」
 「誰って、本人からだよ」
 「本人って、恵美」
 「ああ、あいつ俺によく話に来るからな」
 「よく話に行くからって、そんなことまで話しているんですか恵美は」
 「まあそんなに怒んなよ。あいつはただ勝手に俺に話しているだけなんだから、そんなに気にすんな」
 「気にするなって言われたって」
  僕は思わず聴いてしまった。
 「先生、どうして、どうして恵美はそんなに先生と親しいんですか」
 「あいつ、もしかして先生のこと・・・・」

 「それは無いな」
 先生は、はっきりと断言した。

 「どうして、そう言えるんですか、先生だってあいつのこと名前で呼ぶし、恵美の話し方だって先生と生徒の話し方じゃ無いですよ。恋人じゃなかったら、ずうっと前から知り合いだったとでも言うんですか」

 僕は興奮のあまり、声を荒げて言った。

 「ずっと前からの知り合いねぇ。ま、もうじき解るさ、その為にお前を連れてきたんだから」

 車は、フェリーの入港する港に来ていた。

 先生は乗船券を購入し、駐車場で少し待った後、車をフェリーの車庫に入れた。僕と先生は、車を降り船内へと向かった、先生は客室の椅子に座り
 「着くまで40分くらい掛かるから、俺はひと眠りするぞ」
 そう言うと先生は寝入ってしまった。

 僕はデッキに出て船から外の景色を眺めた。午後3時過ぎ、初冬の海風は冷たかった。
 フェリーは港を離れ一路目的の港へと出航した、およその方向は見えてきたが未だに、その目的地と僕を連れてきた意味は解らないままだった。

 「まったく、どうなってんだよ。それに先生と恵美はどんな関係なんだよ」

 「わかんないことだらけだよ」

 僕はただ、晴れた日の海を眺ていることしか出来なかった。
 さすがにこの時期の海風は体を貫くように僕に入り込む。
 「寒い、風邪ひきそうだ」

 僕はデッキを離れ客室へ戻った。椅子の方を見ると、先生は両手をだらんとたれ下げ熟睡していた。

 「ああ、これじゃ30半ば過ぎても結婚出来ない訳だ」

 でも、指揮棒を振ってる姿はかっこよかった。去年の「森際」で吹部の演奏を訊いた時、孝義が
 「やるじゃん、うちの担任」
 と、言うくらいだった。当の僕は恵美が演奏しているのを見ているのが精いっぱいだった。

 僕は売店でホットミルクティを買い、窓側の席でガラス越しの海を見ていた。

 僕らは、フェリーを降り海岸沿いの道路を走っている。
 「笹崎、疲れたか、もうすぐだからな」
 「大丈夫です」
 僕はそのあと何も答えなかった。

 車は大通りを外れ、小高い丘にある墓地についた。
 「さあ、着いたぞ」
 先生はそう言うと、花束とミリッツァが綺麗にラッピングをしたカヌレの入った箱を持ち出し墓地へ向かった。
 僕はその後を追った。
 ある墓石の前で、二人の足は止まった。
 「先生、このお墓って」

 「ああ、俺の実のお袋と弟が眠っている」

 そのお墓はきれいに掃除がさていて、花束とお線香が供えられていた。
 「もう、来ていたか」
 先生は、花束と一緒に持ってきた線香に火を着け、花束とカヌレを箱のまま供え手を併せた。

 「今日は弟の命日でな」

 「先生、弟いたんですか」
 「ああ、腹違いのな、お袋は俺が小学校のとき亡くなったんだ。 それからしばらく2人で暮らしていたんだが、親父、再婚してな」
 「その時生まれたのが弟、響音(おと)だ」
 「弟と言っても俺とは13も歳が離れていたから、兄弟だとはあまり感じなかったな。だからかな、物凄く愛おしかったよ。」
 「弟さん、いつくらいに・・・」

 「今日で4年になるな」

 先生は、しみじみと思い出を垣間見るように話した。

 「なぁ響音、お前が居なくなってもう4年も絶っちまったな。そっちでどうしてる?相変わらず、サックスばっかり吹いてるんだろうな。響音、よくお前とよく合奏したなぁ。またうまくなったか・・・」

 先生には見えるんだろう、弟の響音さんがそこにいるのが。

 辺りは、薄暗さを徐々に重ねるように暗くなり、いつしか墓地の街灯がおぼろげな光を投げかけていた。その暗さでも先生の目から、こぼれ落ちるのを必死に耐えている涙を、僕は見た。
 ある日、最愛の人が自分の前から永久にいなくなる。考えることさえ出来ないことだ。
 僕もそうだ、未だにあの何も変化のない平凡な生活が終わってしまった事を、心の中では受け入れてはいない。

 多分、幾ら年数が絶ったとしても、あの頃の事は必ず心の中に留まり続けるのだろう。僕が、両親の墓石に行くと、二人は静かに語りかけてくれる。
 同じだろう。今、響音さんも先生に、いつものように語りかけているんだろう。
 その声は、僕にも伝わって来そうな感じがした。

 「おう、そうだ響音、今日は俺の生徒も連れてきたぞ、ちゃんと教師やってるから安心しろ」
 僕は墓石の前にしゃがみ、静かに手を併せた。
 「笹崎結城です」
 僕も一言、響音さんに話かけた。
 ふと、言葉には出来ない何か暖かい気持ちが、僕の胸の中に流れ込んで行くような気がした。
 その後、先生は響音さんに
 「響音、今笹崎は恵美と一緒に暮らしている」
 「それをお前に報告したくてな、こいつを急遽連れてきたんだ・・・」
 そう言って先生は立ち上がった。
 「そうだな」
 先生は何か響音さんから話しかけられたかのように

 「笹崎、恵美のことなんだが、実は生前響音と付きあっていたんだ」

 僕は訊いては逝けないことを、間違って訊いてしまったような錯覚をした。

 言葉が出ない。

 「俺ら、響音が亡くなる半年前まで、今、お前が居る街に住んでいたんだ」

 「親父、楽器の修理屋でな、色んな楽器の修理を手掛けていたよ。若いころ海外で腕を磨いてきたらしい。その腕を、俺らが行っている高校の理事長が知って、5年という約束で、この地から移り住んだんだ。今はもうその建物は無いが、恵美のカヌレからすぐの所に作業場兼自宅があってな、恵美もよく親父の仕事みにきていたよ。まぁどちらかというと、それに託(かこつ)けて響音に会いに来ていたんだろうな。恵美って外見は本当に外人のようだろ、だからあんまり友達もいなくてな、響音はそんなの気にするような奴じゃなかったし、恵美のこと妹が出来たみたいだって言ってたしな」

 先生は、墓石を見下ろしながら響音さんと、恵美のことを話してくれている。
 僕は、その話をただ訊いていた。

 「恵美が中学になって、吹部でサックス吹くようになったんだ、しかもアルトをな。多分、俺より響音の影響だろうな。初めはほんとに下手だったな恵美の奴、音階は取れないわ、キーやレバーの操作も出来なくてな、そんな恵美に、響音は優しくじっくりと教えていた。俺はその二人を見ているのが微笑ましくて、すきだったなぁ」

 「響音の指導のたまものだろう、恵美もそれなりに吹けるようになって、あの地元の吹奏楽団で演奏するようになってな。響音はファースト、恵美はサード、俺はもう教職に就いていたから、時間のある時だけ参加していた。あいつら二人、本当にいい演奏してたよ」

 「俺はこの二人の演奏がいつまでも、永遠に続くのだと思っていた」

 「儚(はかな)い夢だったよ」

 僕はためらいながら、先生に
 「響音(おと)さんは、どうして亡くなったんですか」
 先生は、こみ上げるものをぐっと堪えて

 「病気だった。4年前の夏、恵美が中学3年の時に解ってな、その時にはもう、手遅れだった」

 「恵美には響音の病気のこと、軽いもんだと言って、俺らはまたこの地に戻ってきた。恵美もよく見舞いに来ていたよ。でもあいつ、恵美は薄々感じていたんだろうな、響音はもう助からないって、響音が亡くなる1か月くらい前からぷっつりと来なくなった」

 「それからは、あっという間だった。一日が過ぎるたびに、響音の容体は悪くなっていった。危篤状態になって、俺は恵美に連絡をしようと病院のホールに行くと、恵美が其処にいた。恵美も何か感じたのか、それとも、響音が呼んだのか、あいつは奇跡的に来ていたんだ」

 「恵美は響音の手を握って、涙いっぱい流していた。「ごめんね」響音は恵美にそう言っていたよ、俺らが訊くことが出来た言葉は、それが最後だった。響音は多分、最後の力を出して、声にならないような声で、恵美の耳元で何かをささやいていた」

 「恵美はしっかりと訊いていた様だった」

 「ばかぁ、響音にぃ。私は、私は・・・」恵美がそう言った後
 「響音は、ふうっと微笑んで、逝ってしまった。本当に幸せだったよって、言っているような顔で」

 「それっきり、何度も何度も響音って呼んでも、響音は何も答えてはくれなかったよ」


 先生は辺りを見まわし

 「もうだいぶ暗くなったな」
 「響音、また来るからな」

 そう言って、先生は車の方に戻ろうとしたが、僕は、響音さんの眠る墓石の前から動くことが出来なかった。

 恵美に、こんなにも辛い過去があったなんて、想像すらしていなかった。
 あの、妖精のような面影の彼女に、降り注いだ悪夢、悔しいが二人が楽しそうにしている姿が思い浮かんでくる、それを感じるごとに、目からは耐えどなく、熱い涙が溢れていた。

 「笹崎」
 先生は、僕の肩に手を軽く置き
 「ありがとう」と言った。

 ふと見上げると、その丘からは、暗く吸い込まれそうな海が見えていた。
 
 今の僕の心を映し出しているかの様に。

 僕らは、車に乗り墓地を後にした。


Black sweet ・Canelé
ブラック・スゥイート・Canelé カヌレ
第2巻 届かない願い 前篇 
終わり
著作:榊原 枝都子

届かない願い 前篇 Black sweet ・Canelé カヌレ 第2巻

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Black sweet ・Canelé
ブラック・スゥイート・Canelé カヌレ
第2巻 届かない願い 後編 

latter part Notice
 僕は、恵美が本当に愛した人と出会った。 北城 響音(きたしろ おと)、 彼はもうこの世にはいない。だが彼の強い想いは、生きていた。
 彼の母親と、先生、北城頼斗の父、彼、響音さんはこの人たちの心の想いの中に、今も生きている。僕は、響音さんの家族に出会い、響音さんの存在が僕にとっても大切な存在になった。
 恵美の奏でるアルトサックスの音色は、響音さんの声だった。彼女はその声を確かめるかの様に、そして彼の想いを忘れないために、あの河川敷でアルトサックスを奏でている。
 
 最愛の人との永遠の別れ。
 恵美は、北城響音を愛していた。いや、今も彼を愛しているだろう。でもその人は恵美の前には二度と現れることはない。ただ、彼女の想いのなかで生き続けている。

 僕にとって恵美といるあの町は、特別な町となった。ある覚悟を持って。
 その覚悟は、僕には辛いものになるだろう。
 僕の妖精だった彼女恵美を最愛の女性として愛するために。
、恵美は、僕の大切な女性となり、彼女に対する僕の想いは大きく変化する。

届かない願い 前篇 Black sweet ・Canelé カヌレ 第2巻

「 Black sweet ・Canelé カヌレ 第1巻 夏雲のように」このお話の続きです。 第2巻です 「Black sweet ・Canelé 届かない願い First part 前篇」 最愛の人との別れ。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1.  Contents
  2. Opening
  3. 新たな日常
  4. 月あかりの落ち葉
  5. 戻れない想い