蛍の夢、蝶の夢 第一部

人生は一夜の夢、夢はほんのつかの間。とぎれとぎれの夢のまにまに、ほの見える恋人の姿。奇数は蛍、偶数は蝶。

一、「誰も、起こしてくれないから、死んだように眠っていた。」

ぬばたまの闇にとまどう蛍火の
枕の夢に留(と)まりぬるかな



プク プク プク プク プク プク

昏い水の中に、光のつぶが浮かんでははじける。光はいくつもの色をはらみつつ回転し、虹の竜巻のようになって底の方に眠る魚を目覚めさせる。

今、蛍は魚だった。



誰も、起こしてくれないから、死んだように眠っていたのに。
鉛のように重たいまぶたをゆっくり持ち上げると、水槽に黒い、白い、青い、赤い、緑の、橙の、それらが混ざりあった色のグッピー達が泳いでいる。エアポンプから小さな気泡が湧き出て浮かんでははじけていく。じっとその様子を見ているうちに、頭の中のもやもやとした思念がだんだんと定まってきた。

・・・・・・仕事にいかなきゃ。どうして? もう時間だから。どうして誰も起こしてくれなかったの? 一人で寝ていたから。どうして一人なの? ・・・・・・蛍はそこまで考えてはっとした。改めて、自分が一人になってしまったことを思い出した。一緒に住んでいた彼は、もういない。彼は――蝶は、どこかに飛んで逃げてしまった。

蝶が逃げた・・・・・・蛍はさっきまで蝶に逢っていた。夢の中で。蝶は水であり、光だった。蝶は彼女を包み込む世界だった。そのなめらかな鱗粉が五色に光る大きな羽で、そっと蛍を庇っていてくれたのだ。
深い眠りの内に、彼女はそれを悟った。今更? そう、今更のことだ。泣き腫らした目をきつくこすりながら、羽化するように布団から抜け出る。何をしようか? 支度したら、バイトに行かなきゃ。蝶を探すのは? 探す? 彼を捕まえるための虫取り網は、もう持ってない。電話番号やメールアドレスを知っていたって、実際に会ったって、あの珍種の蝶を捕まえることはできない。



彼は、飛んで行ってしまった。どこか、知らないところへ。生きていればいいのだけれど――現(うつつ)の景色は、今やひどく色褪せて見えた。

二、「彼の心の中はあまりにも整然と舗装され過ぎていて、彩りに乏しかったから。」

うつそみの命さえこそ物憂けれ
悔いなお冴えたる羽の色かな



気がつくと、蝶は見覚えのない道を歩いていた。先ほどから蝉の声がうるさい。おかげで孤独を感じることはなかったが。

その道はどこまでも続いていくように感じられた。行く道も、帰る道も。大して歩いてはいないはずだったが、なぜか疲れに体中が軋む音を立てている。ひび割れたアスファルトの隙間から、たくましく、かつ不遜に顔をのぞかせている草花を蝶は見た。名も知らぬ草花だったが、蝶にはその一つ一つの姿が心に残った(彼の心の中はあまりにも整然と舗装され過ぎていて、彩りに乏しかったから)。

使い古して擦り減った靴をひきずり、だんだんと曖昧になっていく道を進む。そう、道はますます曖昧になってゆく。視界がぼやけ、草花の輪郭が覚束なくなり、音も聴こえなくなってゆき、にぎやかだった蝉の声は遠のく。ただ草いきれが濃密にまとわりついてくる。濁った感覚たちは機能せず、ただひたすらに嗅覚だけが鋭くなっていった。それにしても、すれ違う人や車さえない。

蝶は、これら、自らを取り巻くすべての世界が、いわゆる夢の範疇にあることに気がつき始めていた。それにしても・・・・・・夢の主が夢を見ていることに気がつけば、その夢の内容も思い通りになるはずである。しかし蝶がいくらこの道行の終わりを願っても、一向にそれが訪れる気配はなかった。

もう、疲れてしまったのかもしれない、俺は。わかりきったことじゃないか。戻ろうか、彼女のもとへ。今更? それは、今更のことだ。だが進むにせよ、あてなどまったくない。もはや、前途は、すべて濃密な草いきれに蔽われて得体が知れない。

三、「ひょっとしたらあれは白昼夢なのかもしれない。」

バイトから帰る途中、蛍は蝶を見かけたような気がした。
道路の反対側をよく似た男が歩いてくる。しかしこちらには目もくれず、道の脇に生える草々をちらちらと見ている。何かを探しているのだろうか。話しかけようとしたが、なぜかこちらの方が後ろめたい気がして、声が出なかった。結局男は蛍の横を通り過ぎていった。蛍は振り向いた。男は振り返らない。

・・・・・・あれは本当に蝶だったのだろうか。小さなアパートに戻った蛍はさきほどの記憶を反芻した。本当にあったことなのか、確信が持てない。ひょっとしたらあれは白昼夢なのかもしれない。それにしてもすれ違った男は、ほかならぬ蝶によく似ていた。忘れがたい、細面の、少し病的な白い肌。そこに懐かしい面影があった。



こんなこともあった。人気のない通りを歩いていると、誰かが遠くから蛍を呼んでいる。彼女の嫌うあの歌で。

「ホ、ホ、ホータルコイ」

子供のころはよくこの歌でからかわれたものだ。いまになってこんなことをするのは、蝶だろうか? 驚きと期待を抱きながら、蛍は耳をそばだてた。彼女に対してこんなフザケタ呼び方をするのは、蝶だけだ。それにその寂しげな声にもどこか聴きおぼえがある。声のする方を確かめると、黒い羽の蝶々がひらひらと呑気に飛んでいる。・・・・・・冗談じゃない。蛍はその曖昧な飛び方になぜか軽い怒りを覚えた。蛍は乱暴に歌い返した。

「チョウチョ、チョウチョ、ナノハニ、トマレ」

蝶は相変わらずひらひらと舞っていたが、やがて、道端の名も知らない花に留まって羽を休めた。蛍はなぜか安堵して、その場から立ち去った。



今となってはいつのことだか思い出せない、霧のような記憶。これもまた白昼夢の一つなのかもしれない。蛍は時々、その霧を吸って喉を潤す。

四、「俺のほうから彼女に近づいたから、離れる時も俺のほうからなんて。」

やがて道はなだらかな坂となって、山の稜線をなぞってなおも続いていく。

蝶は意識の半分だけ瞑想したような心地のまま足を動かしていた。

・・・・・・蛍と別れたのは、夢を追いかけたかったからだ(夢、といっても、枕の上の夢ではなく、将来の理想、といった意味の「夢」のことだ)。勝手な行いを自分でも恥じている。俺のほうから彼女に近づいたから、離れる時も俺のほうからなんて、理由にならない理由だ。泣いて止められたときは、よっぽど決心しかねた。恥じてはいるが、悔いは残っていない。少なくとも自意識の上では。悔いなど残せるか?

それにしても、相変わらず草ぼうぼうの道を歩いている。この夢はいつになったら終わるのだろうか? 悪夢と言ってもいい。もう疑いは確信に変わっていた。自らの妄念がこしらえた幻の中に閉じこめられるだなんて! まるで終わりのない交響楽を聴いているようだ。不意に蛍の顔が浮かんだ。蛍。蛍、ホタル・・・・・・。

「ホ、ホ、ホータルコイ」

なぜだか、思わず口ずさんだ。なかば嗚咽のように。懐かしい響きだ。別れてからどのくらいの時が流れたのだろう? いや、大した時間は経過していないはずだ。この夢の中では、とても長い時間が経っているように感じられるが。やはり俺は悔いているのだろうか? 彼女から離れたことを。だから、こんな夢を見るんじゃないか? 

道は深い森の中へと続いている。

五、「雲ひとつない青空にぽっかりと宇宙までつながる穴が開いている。」

蛍は天空を見上げていた。しかし、これはもしかして夢? 夢の中だってかまいやしない。とにかく彼女は上を向いていた。

雲ひとつない青空にぽっかりと穴が開いている。どうやら宇宙までつながっているらしい。
そこからは大小さまざまの星々がうかがえる。

「だれかが空のキャンパスに墨汁を一滴、垂らしてしまったのだろう。そしてその黒点の上から果てしない数の宝石を蒔き散らしたのだろう」といささか感傷ぎみにに蛍は考えた。今日は詩人だな、と自分で小さくうぬぼれた。

日に日に穴は拡がっていくだろう、雲一つないこの空を飲み込んで。
黙示の時、あの穴から、無数の天使と悪魔が降ってくるはずだ。無数の祝福と呪詛を抱えて。嘘ではない、本当にやってくるのだ。
やがて内側は外側に、暗黒は大地に落ち込んで、無上の喜びと悲しみが螺旋を描いてまざりあう、そんな瞬間がやってくるのだ。その瞬間を待ち望んで幾千幾万の夜を祈りで満たした人々は空虚な達成に震え、古風な微笑を湛える仏の顔に似た傷跡をなでさするだろう。あらゆる観念は引力に負け、苦しみの涙を流すのだ。

ふと胸に浮かんだ問い――この最終の時を共に過ごすのは、誰?



誰? という問いに答えるように、蛍はぱっちりと目を覚ました。

・・・・・・なんだか、変な夢だった。言葉も風景も、すべてが意味の分からないことだらけ。すべて自分から出てきたもののはずなのに。他人の妄想を覗いているような心地だった。幸福と不安がないまぜになった夢。・・・・・・もう同じ夢は見ないだろうが、決して忘れることはない、そんな夢。



自分が意識の底で何か――始まりか、終わりか――を求めているのだけは、わかった。

六、「この雨と同じで、俺も己のいた場所に還るしかないのか。」

恵みの雨は樹木の表面に刻まれた迷路を通って大地を目指す。母なる大地に還るまえに乾いて、また昇天する水の分子も、ある。

おそらくこれは夢だった。蝶は森のなかでひとり寝そべっていた。気持ちのいい午後である。そのうちに雨が降ってきて、こんなことを考えたのだった。
雨に濡れた世界は色鮮やかに美しい。雨に濡れた世界はその醜さも残酷さも鮮明に見えるからこそ余計に美しいのだ。

・・・・・・だれも体験したことのないような寂寥をもとめて、自分は独りになったのではなかったか。
誰かが言っていた、「竟には己に還るしかない孤独」、と。この雨と同じで、――つまり、己もまたついには孤独に還るしかない。あきらめにも似た固執が蝶を覆っていた。

樹木は春には花を咲かせ、珊瑚のようにきらめく。俺もまた誰かを彩る五色の花になることができるのだろうか? 秋には色づく実をつけるためにも。

七、「一人で最後まで見通すことはおそろしい。だから道連れをもとめる。」

いったい、自分は何を恐れているのだろう?
おそらくは、なにかの終わりまで見通すことが怖かったのだ。

すでに蛍は気付いていた。
一人で最後までなにかを見通すことはおそろしい。だから道連れをもとめる。何やら不吉な終末の夢ばかり見ているのも、きっとそのせいだろう。悪夢は、その題材にもっとも夢の主がもっとも忌むべきものを選ぶ、悪趣味な幻想なのだ。だから、だれしも悪夢の記憶を胸に刻み込んで生きている。他者にそれを話すことはない、伝えようのないから。悪夢とは素顔を覆い隠す仮面なのだろうか、それとも素顔のそのまた裏の一面なのだろうか? 

蛍は思った、このままでは、また昏い水の底の夢を見る、蝶と出遭う夢を見る、空の墜ちる夢を見る、それが白昼夢であろうと、枕の上であろうと。 なんども始めからやりなおす、終わりを見るのがこわいから。

蝶を求める心を戒めなければならない。そうしなければ、自分が前に進めない。いや、前に進むための蛮勇さえ持つことができないのだ。このまま、後ろ向きに生きてゆくこともできる。だがそれは誰のためにもならない。蛍のためにも、蝶のためにも。

蛍は決意した。声に出して言った。蝶を求めることはやめよう。なりゆきを、一切自然に任せるのだ。

しかしその心は弓を弾いた後の弦のように微細に震えていた。

八、「蝶はそのことを予感していた。だからこそここに来たのかもしれない。」

数か月後、蝶はかつて蛍とともに暮らしていたアパートの一室に戻ってきた。彼をそうさせたのは、なにか本能のようなものだ。動物のような、いや虫のような原初の衝動から彼はこのような奇抜な行動に出た。

だが蛍はすでにそこには居なかった。蝶はそのことをどこかで予感していた。だからこそここに来たのかもしれない。
彼は懐かしい部屋に住み始めた、今度は蛍のいない、一人きりで。
はじめて過ごす夜、蝶は夢を見た。蜜の湧く泉の夢だった。その泉には水の代わりに甘い蜜が湧き出た。彼は狂喜してそれに浴した。――甘い蜜には蟻がたかることを知らず、その蜜を洗い落とす清らかな水の湧く泉こそ探さなければならぬとも知らず。

・・・・・・目を覚ますと蝶は、まだ旅は長い、俺はまだ本当に還るわけにはいかない、とひとりごちた。

九、「私に合った部屋だ、と蛍は思った。」

蝶が舞い戻ってくるかもしれないと思って、蛍は部屋を引き払った。新しい住処は家賃も安いし、気が楽だった。なめくじの這っていそうな、日当たりの悪い部屋。窓の一つから顔をのぞかせると墓地が真向いに見える。私に合った部屋だ、と蛍は思った。

最初の晩に、夢を見た。いい加減な絵を大きな紙に描きなぐっている蝶の夢だった。何を描いているの、というと、蛍、と答えた。私、そんなじゃないよ、というと、俺にはこう見えるんだ、と答えた。できあがったら教えて。いや、できあがらない、俺が死ぬまで。じゃあ、蝶が死ぬ前に、私が死んだらどうするの? 大丈夫、夢でまた逢えるさ、それを描くんだ。

寝起きの瞳はなぜだか泣き腫らしていた。
おもむろに蛍は日記帖を取り出し、ページをめくった。なかに、こんな詩のようなものがあった。

「二人の間を引き裂いたのは言葉。
ならば二人の間を癒やすのは沈黙。そうじゃない?
沈黙はもっと激しい痛みを二人にもたらすかもしれない。
それでも耐えること、それしかできない。」

喧嘩したときのことかな。過去の自分に、今の二人のことを伝えたらなんというだろうか? 過去の蛍はそれでも耐えるのだろうか。
蛍は新しいページにまた詩のようなものを書いた。


「二人は言葉でも沈黙でも傷ついた。
それでも耐えられる? 本当に?
どうすれば二人は逢えるのだろう、
初めての恋人のように」

十、「夢がおかしいということは、俺がおかしいのだろうか?」

✕月✕日

あまりにも頻繁に夢を見るものだから、夢を見た日だけでも出来事を書いておこうと思う。日記を書くのはあまり好きではないのだが、しかたがない。こうすることが、なにか大切なことのような気がする。

✕月✕日

今日も夢を見る。おかしな夢だ。
見知らぬ男が俺を追いかけてくる。その男が言うには、男は蛍であるらしい。何を言っているかわからない。どう見ても知らない男だ。蛍ではない。それでも自分が蛍だと裏声で滔々と訴えてくるものだから、根負けして、そうだ、お前は蛍だ、と言ってやった。男は突然立ち止まって、寂しげな目でこちらを見つめた。
かえすがえすも変な夢だ。夢がおかしいということは、俺がおかしいのだろうか? いや、やめよう。自分を疑ってもなにも得はない。

✕月✕日

いきなり蛍のことを思い出す。彼女のことを忘れようとして、しこたま酒を飲んで寝る。・・・・・・こういう夜に限ってまた蛍の夢を見る。
今度は、例の男と蛍がカフェテラスで仲良く談笑している。街並みから言って、おそらくヨーロッパのどこかだろう。俺は年若い給仕で、客と厨房の間とを行ったり来たりしている。俺は客の注文を取りながら、二人の方をこっそりうかがっている。二人の蛍(?)が、どんな関係で、どんな話をしているのか。突然、爆発的な笑いが起こった。見ると、二人の蛍が腹を抱えて笑っている。俺のことを笑っているのか? だが、こちらには見向きもしない。蛍がいい友達を持ったという安堵と、何故だかわからない寂しさとで、俺は応対している客からあやうくチップを受け取り損ねるところだった。

✕月✕日

暇なときは、部屋の隅に座って反対側の天井の梁をじっと見つめている。とくにこれといった意味はない。第一、この記述に意味がない。そう、正気を保つためには仕方のないことだ。・・・・・・俺は何を言ってるんだ?

✕月✕日

日中、仕事をしている時の記憶が曖昧で、逆に夢の中の記憶が鮮明だ。このままでは、夢に現実が喰われそうだ! 彼女に訴えたら、なんて言うだろうか? いや、助けなんて呼べない、いまさら。

十一、「大抵の場合、愛することは傷つけることに似ている。」

心は、山だ。たとえどんなに小さくとも、それは山なのだ。

あるとき、二人の心の山をつなぐ橋が崩落したのだ、と蛍は思った。橋の上を通る感情の重みに耐えきれなくなって。きっとそうだ。それなら橋をまたかければいい。もっと丈夫な、長い月日にも耐えうる橋を。だが問題はそれほど単純ではない。今度は、橋をかけた二つの山が、つまり、二人の心が橋の重みに耐えられなくなって悲鳴を上げてしまうかもしれない。

深いつながりは、お互いの心を疲れさせてしまうかもしれない。愛することによって誰かを癒すことのできる人は稀だ。大抵の場合、愛することは傷つけることに似ている。
そもそも、愛? 愛なんて言葉は宗教家がつかえばいい。男女の間には、恋しかないのだ。少なくとも、蛍と蝶の間に、愛なんてものはなかった。

「山と海、どっちが好き?」あるとき、蝶が訊ねてきたことがあった。
「ええと、山かな」
「それはどうして?」
「なんとなく。高いところが好きだし、落ち着くのは山の方。蝶は?」
「俺は海かな。広くて、深くて、しょっぱいところが好きなんだ」
「じゃあ二人で行くならどっちだろう?」
「さあね。でも山もいいと思うよ」

こんな他愛無い話をするとき、蝶はいつも笑っていた。

十二、「海に行こうか、と蝶は思った。」

その休日は、一日中部屋で暇を持て余し、ごろりと横になったり、屈伸運動をしたりした。なぜだか掃除する気にはなれなかった。

晩飯はカップ麺。残りつゆに、昼の残りのご飯を入れて口の中にかきこむ。これはこれで美味い。何度これを食ったかわからない。なにか凝った料理をつくるのはとっくにやめていた。
部屋もすっかり汚くなった、二人で暮らしたこの部屋も。
ふと、シーフード味、というカップ麺の記述が目に入った。海鮮。海鮮。海・・・・・・。

海に行こうか、と蝶は思った。

たまには、新鮮な魚が食いたい。スーパーじゃろくな魚が買えない。今度の休日は、どこかの海へ泳ぎに行こう。それで、美味い魚をたらふく食おう。
蝶は寝っ転がって、大きくあくびをした。

その日は明るい色の夢を見た。太陽も、海も、大地でさえ、まばゆく輝いていた。
蝶は輝く海を悠々と泳いでいた。蛍が浜辺にいて、こちらに向かって何か叫んでいる。

「こっちに来いよ、一緒に泳ごう」蝶は叫び返した。夢の中なら、きっとまだ一緒に泳げるんだな、と蝶は思った。

十三、「はやくこっちに来て! 海からあがって、私のところまで来て!」

にぶい輝きを放ちながら、駒のように百円硬貨は回転していた。やがて力を失い、机の上に寝そべった。
蛍はそれをつまみ上げ、ふたたび人差し指と親指ではじくように回した。



・・・・・・それにしても、昨日の夢は奇妙だった。
蝶が、輝く海を泳いでいる。蛍はそれを浜辺から見ている。蝶は彼女に気づかず、ゆったりと泳いでいる。彼がこんなに上手に泳げることを知らなかった。髪をいじりながら、波と、泳ぐ蝶を眺めていると、「羽が濡れて飛べなくなりはしないかな」「いや、鱗粉が海水を弾くんだ」などととりとめない想念が浮かんできては消えた。

他愛無い平和な時間が過ぎた。遠くでかもめが鳴いている。

ふと、蛍は、楽しそうに、魚のように泳ぐ蝶のあとをつける「なにか」の存在に気がついた。
蝶はぐねぐねと複雑な模様を描きながら移動しているのだが、その動きに器用に合わせて「なにか」が追跡している。蛍は足元に転がっていた双眼鏡を拾って立ち上がった。レンズ越しにそれは見えた。

三角形の、灰色のヒレ――鮫だ! と彼女は思った。

蝶も追跡者の存在に気づいたらしく、速度を上げてまっすぐに岸へと近づいてくる。しかし鮫はすさまじい速度で彼を追いかけている。

「はやく!」蛍は叫んだ。
「はやくこっちに来て! 海からあがって、私のところまで来て!」

蝶と岸の距離はあとわずか。蝶と鮫の距離もあとわずか――

そこで目が覚めた。



いったい、最近の夢はなんなのだろう? なにを私に伝えようとしているのか。こんな悪夢を見せて、どんな警告を私に送っているのか? 偉い学者先生にはわかるのだろうか? しかしきっと自分自身で見出さなければならない――あるいは蝶と二人で?――蛍は硬貨を回し続ける、答えが見つかるまで。

十四、「蛍の言うことに耳を貸さず海に出てしまったのは俺だ。」

目覚ましの音で蝶は覚醒した。

・・・・・・結局はひどい夢だった。大海を泳いでいたところまでは良かったものの、最後は鮫に追いかけまわされたのだから。蛍がいなかったら、足が少し短くなっていただろう。もっとも、夢の中での話なのだが――俺は何を呑気に考えているのだろう。蛍の言うことに耳を貸さず海に出てしまったのは俺だ。ちょっとばかり泳ぎに自信があるからといって、鮫に追いまわされたのではどうにもならない。あの灰色の背ビレを思い浮かべると、今でもぞわっとする――。

向かいのスーパーに買い物に行く。一度家に帰ってからまたスーパーに戻り、3リットルの容器に無料の水を入れるために、給水所の行列に並ぶ。今日はやけに人が多い。蝶は深刻な水不足になった世界を妄想した。水なら、海にいくらでもあるのに。海の水は塩辛すぎて、人々の喉を潤さない。得体の知れない鮫の喉を潤す・・・・・・。

「今日は並びますね」後ろの老人が話しかけてきた。
「ええ。本当に」
「私も時間はあるんですが、待つのはどうも苦手でね」
「そうですか。僕も待つのは苦手です」
「海に行かれたんですか?」
「いえ、これから行く予定ですが。どうしてですか?」
「いや、こめかみに砂がついているものですからね」
「本当だ。どうして、いつ、どこでついたんだろう」蝶はこめかみをなでながら言った。その声は震えていた。
「これから行くはずの場所に、心だけが行ってしまったのかもしれません」老人は優しく答えた。
「心だけが?」
「その砂は、きっと心の旅の残り香ですよ。夢のお土産でしょう」
「なぜ僕が夢を見たと・・・・・・」
「おっと、もう順番ですよ」

蝶は慌てて前へ出た。彼は給水器で容器になみなみと水を汲んだ。海へ行こう、行かなくては、現実の海へ。供給される水を見つめながら蝶は思った。心が、それを求めている。

水を汲み終わると蝶は老人を探した。しかしその姿はどこにも見えず、老人が存在したことさえもはや怪しかった。

十五「しかし今やそんな小難しい理屈はほとんど忘れてしまっていた。」

久しぶりの長い休暇だ。蛍はある地方の山に出かけた。きっと蝶は今頃海へ出かけているのだろう、などと思いながら。

ひび割れたアスファルトの間から力強く茂る草花を眺めながら、駅から山への道をゆく。
麓に着く。そんなに高い山ではない。だが蛍は山の形が妙に気に入っていて、しばしば登りに来るのだった。蛍は以前、心は山である云々と考えたことがあるのを思い出した。しかし今やそんな小難しい理屈はほとんど忘れてしまっていた。とにかく彼女はうきうきした気分で、よく擦り減った靴をさらに擦り減らしながら歩んでいく。

夢中で登っていると、夢がなんだろう? 心がなんだろう? あるのは身体だけ、この身体だけなのだ、という気分になってしまう。道中、植生する木々や草花、動物、虫などを見かけるたびになおさら、自分はただ一個の肉体であり、自然に生かされているだけなのだ、という心地がしてくる。精神とか、意識とかいうパンドラの箱を開けてしまった人間は、なんと哀れな生き物なのだろう。まあ、そんな事実さえ自然の前には無意味だ。

そのうちに、なぜだか眠くなってきた。はじめは我慢していたが、だんだんと歩くこともままならないほどに眠くなり、蛍は辺りを見渡した。たしかこの辺には古い山小屋があった。



少しの間だけ、昼過ぎくらいまでそこで眠ろうかな。

十六「彼は泳いだ。真昼の海を泳いだ。魚のように。」

久しぶりの長い休暇に、蝶は一番近くの(それでもなかなかに遠かった)海岸へ出かけた。



海、そう、言葉通り、夢にまで見た海。本物の海は夢の中ほどに輝いてはいなかったが、沖の方は重々しい鈍い光をたたえており、それが蝶の心を高揚させた。そう、俺は本当の目的は泳ぐことでも、うまい魚を食うことでもない、ただ、この胸を焦がす海の輝きを確認したかっただけなんだ、と、いささか感傷ぎみに彼は考えた。

彼は泳いだ。真昼の海を泳いだ。魚のように。何時間も飽くことなく楽しんだ。



疲れ果てて浜辺に戻ると、なんとなく辺りを見回した。すると見知った顔を見つけた。給水所で会った老人と、いつかの夢に出てきた蛍を名乗る男だ。二人で立ったままなにか話し込んでいる。老人は暑さのわりに黒いコートを着込んでいる。蝶は息をころして二人を見つめた。二人の会話が聞こえる。

「・・・・・・彼女は寝てしまった。それで・・・・・・」
「・・・・・・彼の方は気づいていない・・・・・・」
「・・・・・・これは絶好の機会かも・・・・・・」



とぎれとぎれに聞こえる会話だけでは、どうやら埒が明かない。その正体を確かめるために蝶は、大股で二人の男の方へと向かった。

十七「とりあえず、やっとまた捕まえた。一度は忘れようと思ったんだけど」

蛍は蝶とともに暮らしていた部屋にいた。しかし理由はさだかではないが、これははっきりと夢だということがわかっていた。



部屋には様々な物が散乱し、ひどく汚かった。二人で暮らしていた時には、こんなことは決してなかった。今はだれが住んでいるのだろう? ・・・・・・もしかして蝶が住んでいるのだろうか。もっともこれは夢で、現実とは関係がないが。それにしても汚い部屋だ。まるで鱗粉がそこら中に散らばっているかのような・・・・・・。

コツン コツン コツン

誰かが外の階段をのぼってくる。足音は廊下に入ってきて、部屋の前で止まった。鍵を開ける音。



入ってきたのは蝶だった。

「誰かいるのか?」懐かしい声が、といっても夢で何度も聞いているのだが、とにかく懐かしい声が蛍の耳に届いた。

「私よ」小さく答えた。

「蛍か? なんでここにいる? どうやって入った? そうか、合鍵で・・・・・・待てよ、おかしいな?」

「蝶、これは夢の中よ。私、山小屋で眠って、気がついたら、ここにいたの。でも、不思議。なんだか、本当のあなたみたい」

「本当も何も、俺は本物だよ。夢? 蛍、これは現実だよ」

「ううん、違うの、これは夢よ」蛍はなぜだか涙が出そうになった。

「これが夢なら、俺がこの部屋で眠って見る枕の上の夢はなんなんだ? 夢の中で、また夢を見るなんてことがあるのか」

「わからない。・・・・・・でも、とにかく、目を覚まさなきゃ駄目。あなたも、私も。なんだかこの夢、変よ・・・・・・私も最近、おかしな夢ばかり見るの・・・・・・独りになってから」

「悪かったよ」蝶はうつむき加減で、きまり悪そうに呟いた。

「そうじゃないの。誰も悪くないはずなの・・・・・・でも、この夢は絶対おかしいよ」

「おかしいといえば、今日は海に行ってきたんだけど、そこで変な二人組を見かけたんだ。そいつら、夢に出てきたり、変なことを言ったりで、俺にまとわりついてきたもんだから、今度は逆に俺の方から近づいてみたのさ。そうしたら、目の前で突然雲隠れしやがった。確かにあれは夢のようだった」

「・・・・・・蝶、あなた、私と別れた後、現実のこの部屋から飛び出して、どうしたの? どこで、なにをしていたの?」

「俺は・・・・・・確か蝉のうるさい道を歩いて・・・・・・まてよ、あれはたしか夢だった・・・・・・そう、山を登ったのも、森で寝そべっていたのも夢で・・・・・・それから、この部屋に引っ越してきた・・・・・・まてよ、それまでどこに住んでいたんだ? 記憶が曖昧で・・・・・・わからない」

「・・・・・・蝶、あなた、私と別れた後すぐに、どこかでお酒を飲まなかった?」

「そうだ! ・・・・・・確かに飲んだよ。でもそのあとの記憶が・・・・・・夢の中の記憶しか」

「あなたは」蛍は涙ぐんでいった。「眠ってるのよ。今もどこかで」

「俺が? この通り目は覚めてる」

「きっと不良と喧嘩したり、裸で川に飛び込んだりしたのよ、それで瀕死の状態でどこかの病院に今も眠ってるのよ」

蝶は突然大きく笑い出した。

「俺が? 冗談だろ。たしかに酒を飲むと我を忘れがちだけど、そんなヘマはしない」

「じゃあ、今、私たちはどこにいるの?」

蝶は口を噤んだ。



長い沈黙が訪れた。



「・・・・・・驚いたよ、まさか、疲れや痛みを感じる夢があるなんて」その声は震えていた。

「きっと普通の夢じゃない。生と死の境、夢と現のあわい、私とあなたの縁(えにし)なんだわ。・・・・・・信じられないでしょうけど、私たちは事物の中間の世界にいる」

「・・・・・・これからどうすればいいと思う?」

「ここから、抜け出さなくちゃ」

「それなら、例の二人を探さなくちゃならないな。この世界の秘密をなにか知っているはずだ」興奮で蝶の頬には赤みがうっすらとさしていた。

「しばらくはまた私たち二人で生きていくことになりそうだね」蛍が静かに言った。

「俺の方は生きているかどうか曖昧だけどね」蝶はなにか恥ずかしいのか、さらに頬を赤めた。

「とりあえず、やっとまた捕まえた。一度は忘れようと思ったんだけど」蛍はため息をついた。

「なにを?」

「珍しい五色の蝶を。半分死んでるけどね」

「俺の方から呼んだんだよ」蝶は微笑して言った。

「どうやって?」蛍も小さく笑っていた。



「ホ、ホ、ホータルコイ」

蛍の夢、蝶の夢 第一部

第一部完。最後まで読んでいただきありがとうございます。

蛍の夢、蝶の夢 第一部

「蛍」と「蝶」は付き合っていたが、ある日突然別れる。しかしそれからお互いを夢で見るようになる。恋と夢をモチーフにした、純文学小説です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-21

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 一、「誰も、起こしてくれないから、死んだように眠っていた。」
  2. 二、「彼の心の中はあまりにも整然と舗装され過ぎていて、彩りに乏しかったから。」
  3. 三、「ひょっとしたらあれは白昼夢なのかもしれない。」
  4. 四、「俺のほうから彼女に近づいたから、離れる時も俺のほうからなんて。」
  5. 五、「雲ひとつない青空にぽっかりと宇宙までつながる穴が開いている。」
  6. 六、「この雨と同じで、俺も己のいた場所に還るしかないのか。」
  7. 七、「一人で最後まで見通すことはおそろしい。だから道連れをもとめる。」
  8. 八、「蝶はそのことを予感していた。だからこそここに来たのかもしれない。」
  9. 九、「私に合った部屋だ、と蛍は思った。」
  10. 十、「夢がおかしいということは、俺がおかしいのだろうか?」
  11. 十一、「大抵の場合、愛することは傷つけることに似ている。」
  12. 十二、「海に行こうか、と蝶は思った。」
  13. 十三、「はやくこっちに来て! 海からあがって、私のところまで来て!」
  14. 十四、「蛍の言うことに耳を貸さず海に出てしまったのは俺だ。」
  15. 十五「しかし今やそんな小難しい理屈はほとんど忘れてしまっていた。」
  16. 十六「彼は泳いだ。真昼の海を泳いだ。魚のように。」
  17. 十七「とりあえず、やっとまた捕まえた。一度は忘れようと思ったんだけど」