眩暈

「ベルリンにはまだ私のスーツケースが置いてあります。その中には過ぎ去った懐かしい日々が込められています。その中にはベルリンの空気がいっぱいに詰まっています」
                ―マレーネ・ディートリッヒ


「あなたはとても美しい人ね。そして幸せそうに見えるわ」
ロンドンの地下鉄で、向かい側に座っていた年老いた身なりのよいマダムに、突然話しかけられた。私は、特別人目を引くような美人ではなかったので、東洋人がよっぽど珍しかったのだろうか。それとも、この人は少し頭がおかしいのかしらと思いながらも、私は彼女に丁寧に微笑んだ。
「ありがとうございます、マダム」
私がそう言うと、彼女は幸せそうに笑った。それとは反対に、その微笑みにはどこか寂しいものがある気がして、私の心はざわめいた。少し躊躇した後で、私は尋ねた。
「でも、マダム。どうしてそうお思いになるのですか?」
彼女はその質問を予測していたかのように、にっこりと笑って答えた。
「あなた、今幸福そうに微笑んでいたわ」

ロンドンには大きな川がある。地下鉄に乗る少し前、私は一人でテムズ川を見ていた。冬場のロンドンの空は、どんよりと曇っている。私は、この場所が好きだった。現在私は、小説や紀行文のようなものを書いてなんとか暮らしている。小説を書くことは長い間私の夢だったので、満足はしているけれど、それでも書くことに行き詰った時、一人でテムズ川を見に来る。もっと自然の中にある澄んだ川を見たほうがいいと薦める人もいるが、私はそういうものに興味がない。美しいとも思わない。都会をゆったりと流れる川が好きなのだ。
私は寒さに凍えながら、いろんな人を観察する。ビジネスマン、旅行者、恋人たち、ただ歩いている人・・・。私は一人の男の子に目を留めた。三歳くらいだろうか。川べりに座って、動かない。私と目が合うと、彼はにっこりと笑った。私は、ママは?と唇を動かしてみたけれど、彼はもう一度笑って、下を向いた。どこからか、スラブ系の男性がやってきて、彼に向かって“アイデ!”と大声で言った。彼はパパの姿を見て、嬉しそうに立ち上がった。
その言葉を、知っていた。それは私が行ったこともない東欧の言葉だ。その言葉を、かつて毎日のように聞いていた。もう、ずっと昔のことだ。私の青春の最後の日々を、ベルリンで暮らしていた頃のこと。あのセルビア人と一緒に暮らしていた時のこと。その言葉は一瞬にして、私をベルリンへと引き戻す。もう長い間、あの地を訪れてさえいないのに。
ベルリンにも、ロンドンのように大きな川がある。私はよくシュプレー川の岸辺をこんな風に歩いていた。寒くて、暗くて、憂鬱で、貧乏だったベルリンでの日々。冬の間、ベルリンは色彩を失う。広がる灰色の空。たまに重い雲の切れ間から覗く、空の青みと太陽の光。それは、一瞬だ。瞬きをすれば、すぐに消えてしまう程。私は、その一瞬を覚えている。その一瞬を思い出す時、私はいつも幸福に笑っている。自分の体の一部をえぐられたような痛みを感じながら、私は、笑っている。


始まりは、夏の日々。プラタナスの木の隙間から覗く白い太陽の光。それから様々な種類の音楽。来たばかりのベルリンで、ステイ先のホステルで知り合ったカナダ人の女の子とそこを抜け出しては、一杯のビール(時には数杯の)を飲みに近所のバーへと夜な夜な繰り出していた。あの頃、私は“何者でもなかった”。小説を書いて、いつか認められたいと思い続けていた“ただのジャパニーズガール”だった。
有名でもお洒落でも何でもないそのバーに、そのセルビア人はいた。数人の友達に囲まれて、ビールを飲んでいた。Berliner(ベルリーナー)。金色のラベルに、赤い熊がビールを持っているボトルのそれだ。七月が始まったばかりだというのに、夜は寒く、私は凍えそうになりながら彼らと会話を交わした。その出会いは、ベルリンに腐るほど溢れているような出会い。特別なことやドラマチックなことなど、何もないありふれた話だった。
私たちの交わした最初の言葉はなんだったのか、もう忘れた。サッカーの話に興じている彼らの隣に、私たちはたまたまいただけだった。握手を交わして自己紹介した時、ドイツ、それからフランス、ブラジル、そして最後にセルビアの名前を聞いたと思う。そのセルビア人は、驚くほど真っ直ぐに私の目を見た。深い、栗色の瞳。“セルビア”という名前を聞いた時、私はセルビアがどこに位置する国なのか、一瞬混乱した。彼にとってみたらそれはよくあることだったのか、すぐに“ユーゴスラヴィア”と付け加えた。その国は、もう、ない。地図から消えてしまったその名前を聞いて、私はセルビアという国を認識した。彼は微笑んでいた。目の色と同じ、栗色の髪の毛。年齢は私よりも少し年上のようだったけれど、髭に混じる白髪が彼を年上に見せていた。彼らはさっきまで話していたドイツ語での会話を中断し、ドイツ語を話せない私とカナダ人の女の子のために英語で話し始めた。セルビア人が話す英語のアクセントはどこかイタリア人のアクセントを思い出させた。私がそれを伝えると、彼は“Nei(全然)n!”とドイツ語で否定したけれど。
彼らはこの近所に住んでいて、毎週金曜の夜に皆でサッカーをして、その後いつもここで飲んでいるのだと私たちに説明した。私は数日前にベルリンへやって来て、今は家を探しているところだと伝えた。その瞬間、皆がにやりと笑って、セルビア人を指差した。そして彼自身もにやりと笑いながら、親指で自分を指した。
「もう部屋探しは終わりだね。俺のうちにおいでよ!」
誰かが口笛を吹いた。なんて夜なの!カナダ人の女の子が言った。私は酔っ払っていたのか、すぐに入居を決めてしまっていた。ユーゴスラヴィアという、もはや存在しない国に私は惹かれた。そして私の同居人になるだろうセルビア人に。友達に囲まれて、幸福そうに笑っている男。巻きタバコを吸っていた、あの男。まだ彼の家さえも見ていなかったし、彼が一体どういう人かもわからなかったというのに、私の好奇心は私に進めと言った。
「もう一度、名前を聞いていいかしら?」
私は、尋ねた。
「ルカ。君の名前は?」
私たちは握手を交わしながら、会話を続ける。
「ヨーコよ」
私がそう言うと、皆が一同に“オノ!”と言ってベルリーナーのボトルを掲げた。ルカは意味がわからないと言う顔をした。フランス人のダミアンが、ビートルズのジョン・レノンのワイフだった女性だよ、と言うと、大げさに体を仰け反らせて、ohという仕草で額に手を置いた。
「ドイツ語で乾杯ってなんて言うの?」
私は聞いた。そしてまた皆が一同に“Prost(プロスト)!”と言ってベルリーナーのボトルを合わせた。皆が笑っていて、私は家探しの苦労をもうしなくていいと思うと、とてもハッピーな気持ちになった。そのまま近くにあったクラブへ連れて行かれ、私はとても酔っ払い、朝方ホステルに戻った。

 数日後、私がスーツケースを持ってルカの家に着いた時、彼に何度電話をしても、呼び鈴を何度押しても、彼は反応しなかった。私は舌打ちをして、スーツケースの上に座って煙草を吸い始めた。日本から持ってきた赤色のマルボロ。夜は寒いベルリンの七月も、昼に近づくにつれて温度が上昇しているのがわかった。プラタナスの木の隙間から覗く光に私は目を細める。喉が渇いていた。昨夜も遅くまで飲んでいたし、今朝は早起きをして、石畳の道を重いスーツケースをごろごろと引いて歩いて来た。疲れていた。眠りたかった。私はしつこく何度も扉ベルを鳴らした。昨日電話で十時にはそっちに行くからと連絡していた筈だ。そもそもこの早い時間を指定してきたのは、彼の方だった。忘れたとは言わせない。
何度か呼び鈴を鳴らし、半ば諦めた頃、無言で施錠が解除された。私は少し不信に思いながらも、慌てて中に入った。そして、扉を開けた瞬間に、私の新たな戦いが始まった。私の新しい家は欧州で言うところの三階。日本で言う四階なのだ。そしてもちろん、ベルリンの古いアパートメントにエレベーターなど存在しない。あぁ神様!神様なんて信じていないくせに、こんな小さなことで、私は神に救いを乞う。こんなことでは大事な時に、彼は私の願いなど聞いてくれないだろう。もし彼がいれば、の話だけれど。私はルカが下まで降りて来て、私のスーツケースを持ってくれることを期待したけれど、それが叶えられることはなかった。深呼吸を一つして覚悟を決めて、重いスーツケースを抱えた。重くて、当然だった。そこには私の人生のすべてが詰め込まれていたから。私はお金ももちろんなかったけれど、日本に置いて来るものも何もなかった。この中に入っているものが私のすべてだった。ハイヒール、口紅、お気に入りのドレスたち、それから香水。その他には絶望ばかりを詰め込んで。もっとも、ハイヒールもきれいなドレスも、このファンキーな街からは求められてはいなかったけれど。
 何度もスーツケースを突き落としたい衝動に駆られたけれど、私はやっと“Stevanović(ステヴァノヴィッチ)”と書かれた表札の扉の前にやって来た。そして呼び鈴を鳴らした。それでも、ルカは姿を現してはくれなかった。数分経って、やっと扉が開いた時、現れたのはルカではなく、見知らぬ女性だった。私はあの栗色の瞳を想像していたので、下着姿の黒髪の碧眼の女が現れた時、一瞬ひるんだ。女性が一緒に住んでいるなんて、聞いていなかった。私は一瞬がっかりした気持ちになったけれど、気を取り直して、出来る限りの力で、愛想よく自分の名前を紹介した。彼女は、一応握手はしてくれたものの、無愛想にドイツ語で何か言って、扉の奥へと消えた。これから彼女とうまくやっていけるかしら。私はすぐに不安に駆られた。
家の中に入り、右側を見ると開けっ放しの扉から半裸の男性がうつぶせで寝ていた。ルカだった。そして左側を見るとキッチン、それからあまり広くはないそのスペースに古いテーブルと椅子が置かれていた。ドイツ人と思われる長い黒髪の女は、はだけた胸を隠そうともせず、煙草に火を点けて、私をじっと見ていた。私がベッドで寝ているルカを見たことに気がついた筈だったが、彼女は扉を閉めようともしなかった。二人は明らかにセックスした後で、彼女はそれを私に印象付けようとしている気がした。まるで私を威嚇するように。
「よく眠っているから、起こさないでね」
彼女が唯一私に言った言葉は、それだけだった。彼女は一度も私に笑いかけなかった。私は彼女が嫌いだと思った。ルカったら、あんなにいい人そうに見えたのに、女の趣味は最悪ね。私は心の中で毒づいた。私の部屋を尋ねると、あっちよ、と無愛想に答えて、女は携帯をいじり始めた。
部屋に入ると、ちょこちょこと犬が私の後を付いてきた。ビーグルのような犬だ。とてもおとなしくて、私を不思議そうに見ていた。私は舌打ちした。彼、犬がいるなんてことも一言も言ってなかったわ。私は犬が嫌いだった。と言うよりも、今までの人生で犬に触れる機会がなかったので、どういう風に犬と接していいのかわからなかった。犬は私を見ていたけれど、私は犬を無視して、荷解きを開始した。犬はいつの間にかどこかに消えていた。部屋はとても広く、私はすぐにそこが気に入った。でもあの女といい、犬といい、この家にしたことは間違いだったかしら。そんなことを考えていた。

 荷解きを終えると、お昼を回っていた。気を取り直すために大好きな音楽を聴いていたので、私の機嫌はいつの間にか直っていた。窓から見えるプラタナスの並木道と青い空も私の機嫌を直すのに有効だった。きれいなところ。私はそう思った。玄関の扉が開く音がした。あの女が出て行ったのかしら、という期待を持ってキッチンへと向かうと、ルカがコーヒーを飲みながら、煙草を吸っていた。テーブルの上にはPUEBROと書かれた煙草の葉っぱの入った紙袋が置かれている。彼は一瞬驚いた顔で私を見た。私はと言うと、彼が上半身裸のままでそこに座っていたので、目のやり場に困った。彼はすぐに思い出したように笑って、握手を求めて来た。
「調子はどう?えっと・・・」
「ヨーコよ。ありがとう、とってもいい気分だわ」
「そうだ、ジョン・レノンのワイフのヨーコ!部屋は気に入った?」
「もちろんよ!」
私が親指を立てると、彼は笑った。私は念のために、あなたのガールフレンドが中に入れてくれたのよ、と説明した。彼女の名前は知らなかった。
「ガールフレンド?」
彼は怪訝な顔をして私を見た。煙草をくわえて、眉毛をしかめる様子に、私は一瞬どきりとした。とてもきれいな顔をしているのだということに今更ながら気がついた。彼は自分で聞き返しておきながら、すぐに理解したように、あの女の名前を口にした。
「あぁ!タチアナのことか!」
その様子は、彼女は自分のガールフレンドではないよ、と言うことのように思えた。少なくとも、特定の、という意味では。
「彼女、君に優しくしてくれた?」
彼は紙に煙草の葉っぱを巻きながら、言った。
「えっと。そうね、優しくしてくれたわ」
私は一瞬口どもったが、そう答えた。彼は笑いながら、私の口真似をした。
「えーっと」
そう言って、笑ってみせた。私の意味するところをすぐに理解したようだった。
「心配しないで、彼女は誰に対してもあぁなんだ。ドイツ人ってあんな人多いだろう?」
「ドイツ人、ね」
私は彼の言葉を繰り返して、苦笑した。
「でも心配しなくていいよ。ベルリンは特別だから。すぐに君もわかるよ」
彼はそう言ってウインクした。私はそのウインクに戸惑いながらも、彼の意見に同意することを忘れなかった。
「そうね、ベルリンはとても特別だわ」
ベルリンに来て、日は浅かったが、私はすでにこの街を愛し始めていた。ドイツであって、ドイツではない場所、ベルリン。かつて多くの人の血を流し、その代償に自身も切り裂かれた街。多様性を否定した過去への反省から、多様性を受け入れようと努力し続けてきた街。様々な国の人が住む、メガシティ。ドイツの首都でありながら、貧しい街。“ベルリンは貧乏だ。しかしセクシーだ”と言う言葉を私は気に入っていた。
「座ったら?」
彼に薦められて、私は椅子に腰掛ける。
「コーヒーでも飲む?」
ありがとうと言った後、私はやっと落ち着いて部屋を眺めることが出来た。アパート自体はとても古かったが、家の中はとてもきちんと手入れされていて、キッチンもきれいに整頓されていた。冷蔵庫にはたくさんのポストカードが貼られている。どれも世界中の旅先から送られて来たものばかりだった。それから一枚の写真。私はそれを凝視した。数人の友達に囲まれた彼。彼は若く、とても楽しそうに見えた。もしかしたらそれはユーゴスラヴィアで撮られたものだったのかもしれない。壁にはヨーロッパ全土の地図、ドイツ全土の地図、それからベルリンの地図が掲げられていた。開け放しの彼の部屋のベッド近くには旧ユーゴスラヴィアの地図もあった。私が地図を見ていることに気がついた彼は、コーヒーを淹れながら言った。
「おっと、世界地図がないね。でも日本がどこにあるかは知っているよ。俺は…ヨーロッパから出たことないけど」
そう言って笑う彼の英語は間違いだらけだったけれど、彼の話し方は嫌いじゃない、と思った。
「日本がどこにあるか知っていてくれて、よかったわ。そう言えば、私、昔ユーゴスラヴィアの歴史についての本を読んだことがあったわ」
私は彼の国のことを知っているよ、と少しだけ媚びた気持ちでその言葉を口にした。本当は“ユーゴスラヴィア内戦の本”を読んだことがあったのだけれど、あまり知らない間柄なのにその話はしたくなかった。
「本当?どんな?」
彼は煙草をふかしながら、私を見た。その顔は、笑っていなかった。その本にセルビアのどんなことが書かれているかということに興味があるというよりも、私が読んだその本はユーゴスラヴィア内戦について書かれていると始めからわかっているようだった。
「ただの歴史の本よ」
私はどこか気まずい気分で答えた。彼の表情が一瞬曇ったことをすぐに理解したから。
「きっと真実なこともあれば、真実じゃないこともある」
彼はそう言って微笑んだ。私は暗い話や政治の臭いのする話を続ける気にはならなかったので、すぐに話題を変えた。下らない天候の話題に。その話題は誰も傷つけない。
彼が淹れてくれたおいしいコーヒーを飲んで、少しだけ会話をした。時計を見るともう一時を過ぎていた。私は違う日にバーで知り合ったアメリカ人男性と出かける用事があったので、席を立った。おいしいコーヒーをありがとうと伝えることを忘れずに。彼は煙草を吸いながら、ベルリンを楽しんでねと言った。キッチンの大きな窓からは日が射していて、そこからはベルリーナーたちの生活が見えた。ベランダの植物にお水をあげる老女、ベビーカーを押す新米ママ。それから向かいのキオスクで朝からビールを飲む中年の男性たち。アンティークの古いカウチに座るルカ、それから彼の隣に座る犬を見て、私はなんだかとてもわくわくし始めていた。母国から遠く離れた異国で、ジョブレス。未来への当ても何もなかったと言うのに。

 夕方、私が帰ってきた時、彼と犬はそこにいなかった。私は昼間から飲んでいて(そのアメリカ人とのデートはとてもつまらなかった)、帰ってからもワインのボトルを開けずにはいられなかった。ワインのボトルを一人で飲み干した頃、どこからか、ヴァイオリンの音が聞えてきた。私は窓際で耳を澄ます。開け放たれた窓からは、たくさんの美しい緑が見えた。ところどころ、音が途切れたりミスしたりするのが私にもわかった。音大か何かの学生だろうか。ヴァイオリンの音、それからプラタナスが風に揺れる音、そのどちらもが私を幸福な気分にした。私はその音たちを聞きながら、煙草を吸った。煙草の煙が夕暮れの淡い空に消えて行くのを見ていた。雲は薄い金色に輝いていた。さわさわと流れる木々の葉の音は、波の音を思わせた。波の音を聞きたくなったら、この音を聞けばいい。この場所から海はあまりに遠かったから。その考えは少し私を安心させた。私の心は、満たされていた。私はルカが帰ってきていたことにも気が付かない程に。その時、私はなぜか泣いていた。
「何が君を泣かせたの?」
彼は真剣な顔で私に聞いた。何か悲しいことでもあったと思ったのだろう。
「何でもないのよ、ルカ。ただ・・・人生は美しいなって思っただけ」
彼は私の隣に座って、私の顔を覗き込んだ。距離がとても近かった。犬は少し離れたところで、私たちを見ていた。
「チキータ、Ajde(アイデ)!」(セルビア語で「おいで」の意)
彼がセルビア語でそう言うと、チキータと呼ばれた犬は素早く彼の隣にやって来て、私たちを上目遣いで見た。首輪の鈴の音が耳に響いた。
「よく躾されているのね!」
私は涙も忘れて、感心して言った。
「彼女はとても賢いんだ」
彼はその雌犬の体を愛おしそうに撫でながら、もう一度私の目を覗き込んだ。私は少し気まずさを感じながら、言った。
「ルカ、何も悲しいことなんてないのよ、本当よ」
「わかったよ、君を信じるよ」
彼はそう言って、私の背中を撫でた。どこからかともなく拍手が聞えてくる。そしてクラシックギターのサウンドと女性のハスキーな歌声。
「あぁ、始まった。今日は中庭でコンサートやってるんじゃないかな。君も行ってみたらいいよ」
と彼は当然のことのように言った。
「私が行ってもいいの?」
私が尋ねると、彼は目を丸めて、なぜだめなの!?と返した。
「これがベルリンさ」
私はとても興奮していた。音楽は、ここからでも聞える。その音を奏でる人の思いは、ここまで届いている。私は窓の横で耳を澄ませた。夜は少し、肌寒かった。ポップなロックンロールが聞えて来て、その瞬間、私はベルリンに強烈に恋に落ちた。犬の糞で溢れかえる、決して美しいとは言えないこの街に。
ルカは冷蔵庫からベルリーナーを二本取り出した。彼はライターで器用に栓を抜き、私にそれを渡す。私はDanke(ありがとう)とここぞとばかりにドイツ語を使ってみる。それを受け取った瞬間に、その中から泡が噴出して、私たちは慌てた。ルカはSchiße(シャイゼ)!(ドイツ語で“クソ”の意)と口走る。この時、私はこの国で一番有効な言葉を学んだ。そして、目が合った瞬間に笑った。その時私たちはまだ酔っていなかったというのに、いつまでもくすくすと笑っていた。
「ベルリーナーは貧乏人には持って来いのビールさ。俺、今ジョブレスだから!」
彼は、言った。
「本当にそうね。だって私もジョブレスだから!」
私はおどけた調子で言った。同じ屋根の下にジョブレスが二人。その響きはとても救いようがない。彼が私の目を見て、Prost(乾杯)と言った。お互いの目を見て、乾杯するドイツのやり方で。私は栗色の瞳を見つめた。
「何に乾杯する?」
私はボトルを掲げながら、彼に聞いた。彼は私の意図を理解したように、
「二人のろくでなしに!」
と言った。チンという鈍い音が響いた。私の愛すべき日々が始まった音だった。


                 2
 一緒に住み始めると、彼には特定のガールフレンドはいないことはすぐにわかった。私たちの共同のスペースには私以外の女性の持ち物は何もなかったし、寝ている女の子は何人もいるようだったけれど、その間柄には何も真剣なものはないように思えた。朝方、彼を残して彼女たちは足早に帰っていく。一緒にコーヒーを飲むこともなければ、一緒に朝食を摂ることもなかった。何人もの女友達を紹介された。その中にはタチアナのように、間違いなく寝たことのある女友達もいるように見えたけれど、彼は人前で彼女たちが自分の体にべたべたと触れることを拒んだ。タチアナでさえ、人前ではルカに触れなかった。彼らの間には何もないかのように振舞った。それは彼らの合意事項だったのだと思う。そしてルカにとっては、自分は誰にも属すつもりはないという意思表示のように思えた。私は、彼のその態度をいつも不思議な気持ちで眺めたものだった。彼はいつも、誰に対してもフレンドリーでオープンマインドに接していたから。だけどその一方で、彼の扉は決して開かれないこともなんとなく理解した。いつもどこかで、他人との距離を感じた。それは、もちろん私に対しても。彼の横にはいつもチキータと呼ばれる犬がいて、その雌犬こそ、彼が唯一この世で愛するものだった。その他は、何も。愛するものも、執着するものも。彼はチキータの体を大事そうに撫でながら、時々セルビア語で彼女に話しかけた。私にはまったく理解出来ない言葉だった。私はその雌犬を見た。つり目気味の目が、彼女を気位の高い女性のように見せていた。それとは反対に、垂れ下がった乳は私をとてもやるせない気持ちにさせた。
「十年前、ストリートで彼女を拾ったんだ。まだ彼女は小さくて、やせっぽちで、いつも食べ物を探していた」
ルカからキスを与えられるこの雌犬はなんと幸せに見えることだろう。彼が誰かを愛する時、こういう風に彼はその人にキスを与えるのかしら。私はそれを想像した。彼の隣にいる自分を想像して、その考えをすぐに打ち消した。私たちは、そういう風には始まらなかった。私たちは同居人として、関係を始めた。それ以上では、なかった。ただし、同居人としては、私たちはとてもうまくやっていたと思う。君はとても穏やかだ。彼は私をそういう風に形容した。私は特別穏やかな人間でもなんでもなかったけれど、彼は心の底からそう思っていたようだった。彼の想像するアジア人像に私はぴったりと当てはまったのだろう。と言うよりも、無理やりにでも当てはめていた。彼には私以外のアジア人の友人なんていなかったし、アジアなんて遠い場所に行ったこともなかったのだから。時々彼はアジアのことをきらきらとした瞳で私に質問した。彼のアジアに対する認識は、あまりにも日本の現実とはかけ離れたものだったので、私は時々絶句した。私の生まれた場所は彼にとって、ファンタジーの中の世界だった。
二人の家には、ルカの友達がひっきりなしにやってきた。皆、気のいい人たちばかりだったが、私のドイツ語力の無さに、会話は途絶え気味だった。次から次にやって来る友達の中でも、フランス人のダミアンとブラジル人のパウロはルカの最も仲のいい友人だった。ルカと初めて会った時、彼らもそこにいた。パウロはすぐ下の階にガールフレンドと一緒に住んでいて、家の近所でもよく遭遇したものだった。傘がない時、彼は私に助けを求めたし、私もミルクがない時、彼に救いを求めた。フランス人のダミアンは、私と同世代だったとは思うけれどまだ学生で、ジャーナリズムを勉強していた。将来はジャーナリストになりたいと言っていた。政治には興味が持てなかったけれど、彼の話はいつも興味深かった。真面目な側面の一方で、彼はマリワナを吸ってハイになって、朝の五時まで遊びまわるクレイジーなパリジャンだった。
いろんな人が来た。自称・映画監督、音楽家、それから画家。誰もがお金を稼いでいるようには見えなかったけれど、彼らは“芸術家”だった。ここでは誰もがそれを口に出来た。そして誰もそれを馬鹿にしなかった。
私とルカは、よく話して、笑って、飲んで、お互いを理解しようとしたし、お互いをよく気遣った。彼が何かしら急用で出かけなくてはならない時、私はチキータを散歩に連れていく役割まで果たした。もっとも、近くの公園まで彼女を連れて行き、私は煙草を吸いながら勝手に遊ばせていただけだったけれど。スーパーへの一週間分の食料の買出しも、いつも二人だった。それはいつも木曜の夕方だった。金曜と土曜は、飲んだくれることと踊り明かすことに全力を賭けていたし、日曜はドイツのスーパーはほとんどのところが営業をしていなかったから。チキータを連れて、二人で通りを歩く。常に犬と東洋人を連れたルカの姿は人々の目に奇異に写ったかもしれない。通りを歩いていると、いつもルカの知り合いの誰かしらに出くわした。彼はその度に友人たちと抱き合ったり、頬にキスをしたり、短い近況報告などをしたので、ただスーパーに行くためにとても時間がかかった。だけど、私はそれが嫌いではなかった。私の国が失ってきたものが、まだベルリンには残っている気がして、なんだかとてもノスタルジックな気持ちになった。セルビアンに比べたら、ベルリーナーは冷たいものさ、とルカは私の意見を鼻で笑ったけれど。
お互いが家にいる時は、どちらかが夕食を作ることにしていたので、食材も二人で選んだ。大きなカートで年甲斐もなく遊びすぎて、店員に怒られたこともあった。私たちはまったく悪びれることもなく笑い合って、また同じことを繰り返す。今度は店員の目を盗んで。重い荷物は彼がいつも持ってくれたので、私にとって彼はヒーローだった。スーパーから出ると、そこにはいつも美しい夕日が広がっていた。ベルリンの青い空がピンクに犯されていく様。それをゆっくりと切り裂く飛行機雲。青々と茂った緑の小道。公園から聞える子供たちのはしゃぐ声。それから恋人たちの甘い視線、二人にしか聞えない声。そのどれもがベルリンの夏の一瞬のきらめきの中にあった。私たちはそれらを一緒に見ていた。
スーパーから帰る途中ですでにビール、時には三ユーロくらいで買える安いワインのボトルを開け、二人で飲みながら帰った。飲んだくれの二人を、誰も気にしない。ベルリンでは歩きながら、もしくは電車の中でお酒を飲むことは当然のことだったから。行儀が悪い、とは誰も注意しない。もし誰かそう言ったとしたら、ルカはその“お上品な”人たちに向かって中指を立てただろう。
家に帰ると、ルカはすぐに音楽をかけた。夜の始まりに相応しく、楽しくなるような曲を選んだ。時々その音が大き過ぎてお隣の人がノックをしにくることがあった。ベルリーナーたちは大音量の音楽にも、ある程度寛容だったから、彼は“ドイツ”から来たに違いない、私たちはそう言って笑った。音楽に溢れるこの街で、音楽なしに生きていくことは不可能だった。少なくとも、“私たち”にとっては。
「音楽がなかったら、死ぬ」
ルカはいつもそう言っていた。私もそれは彼と同じ意見だった。好きな音楽のジャンルはまったく違ったけれど、音楽を愛することに変わりはなかった。
いつも見かけも味も悪い私の料理に比べ、ルカの料理はとても美味しかった。私はいつも日本料理のイメージを下げるばかりだった。ルカはお世辞を言うことなど、ほとんどなかった。私たちの家にはダイニングテーブルなんてなかったので、カウチに座って、お皿を膝の上に載せて食べた。そんな行儀の悪い食べ方、日本だったら決してしなかったけれど、ここで私はそれを好んだ。時々私たちは借りてきた映画を一緒に見た。私は彼の国を理解したくて、セルビアの映画を観たいと初めの頃何度かリクエストした。けれど、彼の選ぶ映画はどれもコメディばかりで、私は彼らのユーモアがまったく理解出来ずに、いつもルカが説明しなければならなかった。そのうちルカはうんざりして言った。ユーモアを説明する試みほどナンセンスなことはない。私は、同意した。
映画が終わると、私たちはきっちりとお互いの部屋に戻る。ロマンチックな映画を観た時は、少しだけその余韻を残して。
「おやすみ、ルカ」
「おやすみ、ヨーコ。いい夢を」
彼はいつもいい夢を、と付け加えた。微笑み合って、別れる。その言葉を聞き届けた後、私たちはお互いの部屋の扉を閉めた。私は、それが好きだった。ばたんと閉まる扉の音、それから、眠りに付く前に名前を呼び合うその習慣も。ヨーコなんてどこにでもある名前がとても愛しかった。彼から名前を呼ばれて初めて、自分はヨーコという名の女なのだと自覚できた気がした。
私にとって彼の存在は、確実に“同居人”以上のものとなっていた。もしくは、出会った瞬間から。その栗色の瞳を見た瞬間から。ただし、それは恋などという淡く甘美なものではなかったと思う。もっと即物的な感情。私は、あの男と寝てみたいと思った。いつも閉められるあの扉の向こうで、抱き合って眠ってみたかった。他の女の子が彼とそうしているように。一緒にスーパーに買出しに行く時、一緒に料理を作る時、見詰め合って食事をする時、それから映画を観る時、彼の毛深いざらざらとした肌が一瞬私に触れる時、私は発情した。プリーズ。私はそう言って請いたい衝動に何度も襲われた。だけど、彼は私を抱かなかった。親しい友人として私を扱った。彼が仲間内で私を呼ぶ時、“マイリトルガール”と呼んでいたにも関わらず。私はその言葉を憎んだ。長く続く友情よりも、一瞬の思い出が欲しい場合もあるのよ、ルカ。私は心の中で思った。だけど、同時に私は恐れた。抱き合って、自分の体の至るところを見せ合っているのに、決して彼が心を開かないことは、とても私を傷つけるだろう。縮まらない距離に、私は絶望してしまうだろう。だから彼が女の子を連れて来て、彼の部屋の扉が閉められるのを、私はただ見ている他になかった。
時々飲みすぎた時、決まって彼は私を置いて出かけた。チキータには一つだけ大きなキスをして、私にはチャオと一言だけ言って、どこかに出かけて行く。時にはダミアンやパウロ、他の友達と出かけると言い残して。時には何も言わず。私はチキータと二人、彼の帰りを待つ。私は彼女を撫でたりはしないけれど、その時だけは彼女を同士のように感じる。「行かないで」と言えたら、どんなに楽だったことだろう。私にはその権利はなかった。
そして夜中もだいぶ過ぎた頃、彼は帰って来る。一人で帰って来ることもあれば、誰かと一緒の時もあった。朝起きて、閉められた彼の部屋の扉の前に、女性の靴を見つける。それはまるで”“立入禁止”の合図。私は煙草を吸いながら、そこに置かれた靴を見つめる。スニーカーでこそなかったけれど、ヒールのない靴。色気のない靴を履いている女性を私は想像した。私だったら、男に抱かれるその日にこんな靴は履かない。どんなに足が痛くても、私は高いヒールを履くだろう。苦痛に負けた女たちを、私は哀れに思った。そしてそれをぼんやりと眺めるしか出来ない自分を、それ以上に哀れに思った。ベルリンの女性たちはおしゃれではあったけれど、高いヒールを履いている女性をほとんど見かけなかった。ヒールを履くこと自体、場違いな気もするが、私はルカの部屋の前に置かれたフラットシューズを見る度に、一生ハイヒールの奴隷でいることを決意するのだ。

「パリにいた時はいつもヒールを履いていたけどね、ベルリンでハイヒールなんて必要ないわ。だってこのでこぼこの石畳の上をハイヒールで歩くなんて、無理じゃない?」
アフリカ系フランス人のラマは言った。ラマのスレンダーな体と美しい肌に私はいつも見とれる。きっちりと編み込まれた黒髪に私はいつか挑戦してみたいと思うのだけれど、いかにも東洋の彫りの浅い顔にはそれは似合わないこともわかっていた。
「あら、私はそのストレートな髪が羨ましいわ」
ラマはそう言って私にウインクした。女性なのに、私はドキドキしてしまう。彼女とは、どこかのバーで会ったことがきっかけで仲良くなり、少なくとも一ヶ月に何度かこうやって集まって飲んでいた。廃墟になった工場にアーティストの絵がところ狭しと描かれている。バーやナイトクラブの集まるこの場所は、私がベルリンで最も好きな場所の一つだった。そのクールな場所で、ラマはさらに美しく見えた。彼女にはいつも男性の視線が張り付いていたし、彼女は十分にそれをわかっていた。私はラマに、ルカについてよく話した。彼がどう言った、彼がどうした。時には嬉しそうに、時には憤慨して。ラマは初め、興味深そうに聞いていたけれど、突然真面目な顔をして言った。
「ちょっと待って。あなた、彼に恋しているの?」
私は、ノーと即答出来なかった。
「わからない。でもいつも彼のこと考えているの。時々、寝てみたいとも思うわ」
私は言った。
「同居人と寝るなんて、いいアイデアとは言えないわ、ダーリン」
“ダーリン”ととろけるように言う彼女はとても美しく、女の私でも見とれた。
「わかってる」
私はワインを一気に飲み干した。テクノミュージックが鳴り響く。
「ベイビー、ワインはそういう風に飲むものじゃないわ」
彼女はどこかしらくぐもったようなフランス語アクセントの英語でそう言った。
「とにかく、それでもあなたはラッキーだわ。だって私の同居人なんてBullshit(くそ)だもの。本当に、典型的なドイツ人ね」
彼女はブルとシットを短く区切って、強調した。その汚い言葉は、機械的な音楽に混じって消えた。彼女の唇に塗られたフィッシャーピンクの口紅がとても素敵だと思った。よっぽど同居人に対してストレスがたまっているのだろう。彼女はその後長い時間、“典型的ドイツ人”の同居人について話していた。シャワーは極力短く、キッチンはきれいに使え、音楽のボリュームを下げろ・・・。私と彼女は笑い転げながら、名前も知らないワインを飲み続けた。その時食べたフライドポテトのあまりの不味さに、彼女はもう一度ブルシット!と叫んだ。
「どうやったらフライドポテトがこんなに不味くなるのよ!世界で一番不味いフライドポテトね」
と付け加えて。

 真夜中過ぎに家に戻ると、ルカはまだ起きていて、キッチンのソファに腰掛けていた。カーテンがなかったので、月明かりが彼を照らしていた。テレビを見ているわけでも、パソコンをいじっているわけでも、本を読んでいるわけでもなく、ただぼんやりと外を見ていた。私は何度かそういう彼の姿を見たことがあった。夜中にぼんやりとしている彼。何かとても悲しいものを見たような気がして、私は声をかけることができず、そっとその場を立ち去った。そういう時の彼は、いつもどこか深いところに沈んでいくように見えた。ドイツの暗い夜にひっそりと消えて行くような。そのなんだか悲しい光景は、いつも私の頭の中にひっそりと存在し続けた。
私はハイと小さく挨拶をして、ハイヒールをキッチンで脱ぎ捨てた。ベルリンの石畳の道をヒールで歩くことは、とても私を疲れさせた。彼は脱ぎ捨てられたハイヒールを一瞥して、小さくハイとだけ返して、パソコンをいじり始めた。
「調子はどう?」
私は尋ねたが、彼は何も答えなかった。彼は今、話したい気分ではないのだろうと思い、それ以上言葉はかけなかった。夜中だったけれど、とてもお腹が空いていたので、二十四時間営業しているケバブ屋からテイクアウェイしたケバブを頬張った。数分が経った頃、彼はやっと顔を上げて、英語だかドイツ語だかわからないような発音で私の質問が何だったのかを尋ねた。
「ただ、元気?と聞いただけよ。気にしないで」
私はそう言って微笑んだ。
「ごめん、聞えてなかった」
大丈夫よ、と小さく言うと、私はケバブを食べ続けた。
「仕事を探していたんだ」
彼が履歴書を書いてはどこかへ送っていることは知っていた。私は気楽な旅行者だったけれど、彼はいつまでも無職でいるわけにはいかなかった。ベルリンはドイツの首都であり、街の規模も桁外れに大きかったけれど、その他の“優秀な”ドイツの都市と比べると貧しく、失業率も高かった。ここで“良い仕事”を見つけることは難しいとよく聞いたものだった。
「どんな一日だった?」
彼は聞いた。
「完璧だったわ!」
と私は答えた。ラマとの時間はとても楽しく、音楽もとても素晴らしかったから。
「あなたの一日は?」
「だいたい、いい日だったかな」
彼は言った。そして少しの沈黙の後、
「今日はグランマの誕生日だった」
と思い出したように口にした。いつも家族のことはあまり口にしないので、私は何かとても特別なことを聞かされたような気になった。
「本当?それはおめでたいわ!何歳になるの?」
私は聞いた。彼は少し考えた後で言った。
「八十六歳かな。もし生きていたら。十年前に死んじゃったけど」
私は食べる手を止めた。そう言う彼はいつもより幼く見えた。パーティーボーイの隠された顔。
「ごめんなさい・・・」
私がそう言うと、彼は問題ないよ、と言って微笑んだ。
「グランマのこと、思った?」
私は聞いた。彼は短く、イエスと答えた。
「俺、グランマに育てられたんだ」
彼は続けた。
「マムは旅行が好きでいつも旅行ばっかりしていた。本当にホープレスな女だった。一年に一度だけ一月のクリスマスに帰って来るんだ。外国で買ったプレゼントを持ってね。彼女との思い出なんて、それくらいさ。だから俺にとってはグランマがすべてだった」
私は彼の話をじっと聞いていた。彼の言葉から、行ったこともないセルビアの風景が見えるような気がして。
「バルカンの夏はとても暑くて、グランマが死んだ日も暑かった。マムもその前に死んじゃったから、十年前に俺はたった一人になったんだ」
ドイツへ来たのは、その後だ。不法滞在の外国人として、彼のベルリンでの生活は始まった。その生活は楽ではなかっただろう。私は、まだ若く、エネルギーに満ち溢れていた一人の男を想像した。父親の話は、しなかった。もしも彼が望んでも、できなかった。彼には父親の記憶がなかった。
「そんな風に見ないで」
彼は、言った。私は彼の半生を思って、少し同情した。彼にはそれがすぐにわかったのだろう。
「心配しないで、俺はいつも幸せだから」
私はその瞬間に、自分を恥じた。誰の人生に対しても、同情などすべきではなかった。幸福かそうでないかは誰かによって決められることではなかったからだ。誰かが私のホープレスな人生に同情したとしたら、私はその人を殴っただろう。
彼は煙草に火を付けた。いつも彼が吸う煙草とは匂いが違うことはすぐにわかった。机の上には小さなビニール袋があって、緑の葉っぱのマークが描かれていた。その日の彼は、とても感傷的だった。それはドラッグのせいかもしれなかった。私はドラッグをやらないので、わからなかったけれど。
「さ、もう寝るよ。今日は少し疲れた」
彼は立ち上がり、私のむき出しの右腕を撫でた。
「君の腕は赤ちゃんみたいだ!」
彼は少し驚いたように言った。
「アジア人の遺伝子に感謝するべきね」
私は言ったけれど、彼はそれ以上何も言わなかった。そして私の頬に小さくキスをした。
「おやすみ、ヨーコ」
「おやすみ、ルカ。よい夢を」
いつもルカが私に言ってくれることと同じことを言った。ベルリンの夜はもう肌寒かった。彼がいつも幸福でいてくれますように。私はなんだか祈りたい気持ちだった。



           3
ルカはお昼ごろに起きてくる。いつも眠たそうな顔でキッチンへと入って来て、片手を上げてドイツ語でおはようと言う。朝は英語よりもドイツ語が出てくるらしい。その栗色の髪の毛はぼさぼさで、とても柔らかそうに見える。開け放しの扉から、彼の部屋が見えた。日当たりの良い彼のベッドにはチキータがまだ寝ていた。
 彼は起きてすぐにコーヒーを淹れる。私はいつも真っ白のノートに向かっている。コーヒーの香ばしい匂いで部屋中が満たされる。私たちは会話などしない。彼はコーヒーを飲みながらメールのチェックをする。私は彼の存在など見えないように、小説を書き続ける。出版される予定はおろか、誰にも読まれる予定もない悲しい文字たち。私はそれ以外にすることがない。ベルリンの観光など興味がなかったし、仕事もする気がなかった。今後どうやって生きていくのか、自分でも見当がつかなかった。私の人生はとっくの昔にホープレスになってしまっていた。
「また小説を書いているの?」
彼はノートに敷き詰められた文字たちを好奇心に満ちた目で覗いて、それからすぐに、わからないと言う風に口をへの字にした。私は書いているものを隠さなかった。もし彼が日本人で、日本語が読めたらこんな風に自分が書いたものを晒さなかっただろう。
「日本語が、読めたらな。いつか君の本をセルビア語で読めることを期待しているよ」
彼はなんとも泣かせる台詞を口にした。
「あなたは私の最初の読者よ」
私がそう伝えると、彼は光栄だね、と言って笑った。
彼は音楽をかける。とても古いブラックミュージック。音楽は私の人生の一部だったけれど、音楽を聴きながら小説を書くことは出来なかった。だけど彼が選ぶ音楽が大好きで、私は書く手を止めて、それに聞き入ってしまう。誰が歌っているのかは、知らない。男に捨てられた悲しい女の曲みたいに聞える。そのメランコリックな音楽を聴くと、一日をとてもドラマチックな気分で過ごせた。私の大好きなロックンロールを聴いていると、彼はいつも眉をしかめたけれど。
「誰の曲?」
「誰の曲だったかな。でもすごく古い曲だよ」
「この曲、好きだわ。悲しくて、すごくきれいね」
私たちはしばらく黙ってその曲を聴いていた。その曲が終わっても部屋中に余韻が残っていた。私はノートを閉じた。
「書くことに疲れたわ。散歩に付き合わない?」
朝から何時間もノートに向かっていたが、数行書いては消して、数行書いては消していた。
「いいね」
彼はそう言って笑った。私たちは、コーヒーを淹れ、ポットに注ぎ、サンドウィッチを作り、ピクニックボックスに入れた。マウラーパークの蚤の市で、五ドルで買ったやつだ。グランマみたい!と言って、ルカは馬鹿にしたけれど。
 うきうきした気分で外に出ると、さっきまで晴れていた空はいつの間にか曇っていた。私たちはすぐに自分たちのアイデアを後悔したけれど、どちらもやめようとは言わなかった。チキータは、嬉しそうに尻尾を振っていた。二駅程歩いて、Treptower parkというシュプレー川沿いの大きな公園へ着いた。私たちはそこを愛していた。深い緑。ドイツの森のイメージ。夏場の週末に来ると人で溢れている公園も、平日の昼近く、ましてや肌寒く、曇り空の下はとても静かだった。さわさわと風に揺られる木の葉の音がとても気持ちよかった。川べりの芝生の上に大きなブランケットを引いて、私たちはその上に座った。肌寒かったけれど、私は文句を言わなかった。私が言い出したことだったし、この幸福な時間を自分から無駄にしたくなかったから。ルカが淹れてくれたコーヒーが私を暖めてくれた。彼が持参したアウトレット用のスピーカーからは、さっきのもの悲しい音楽に代わって、スペイン語の陽気な曲が流れていた。
「そう言えば、セルビアの国歌ってどんな曲なの?」
私は突然思い出したように聞いた。彼は私が作ったサンドウィッチを頬張りながら、しばらく考えた後で言った。顔には“このジャパニーズガールはどうして急にそんなこと言い出すのだろう”と書いてあったけれど、私は気にしなかった。彼はしばらく考えた後で、
「実はセルビアの国歌、知らないんだ」
と少しさみしそうに言った。そしてユーゴスラヴィアの国歌なら歌えるけど、と付け加えた。醜い内戦の後、ユーゴスラヴィアが最終的に解体された時、彼はもうそこにはいなかった。でもきっとベルリンから、そのニュースを見ていた。それは一体どんな気持ちだったのだろう。自分の生まれた国が無くなるとは、一体どういう気持ちなのだろう。彼から“ユーゴスラヴィア”の名前を聞く時、私の体の中がいつもざわついた。消滅してしまった国へのノスタルジーのようなものかもしれないし、あまりにも残酷なことがその国で起こったことに対する同情なのかもしれないし、ただ単に、私の目の前にいる男の生まれた国への愛情と呼べるものかもしれなかった。あの戦争について、彼は自分から語ろうともしなかったし、私も聞きはしなかった。まだ美しかった頃のその国を、私は聞いていただけだ。美しい花々、それから家畜の匂い。人々はお互いを労わって、ファミリーのように暮らしていた頃の話を。まるで、その話だけを覚えておいて、とでも言うように。
「ベオグラードもここみたいに大きな川が流れている」
太陽の光が少しだけ現れて、シュプレー川の水面に反射した。彼は目を細めた。私より明るい色の瞳には眩しいのだろう。
「セルビアが恋しい?」
「時々ね」
彼は眉毛を互い違いにして、小さく笑った。
「帰りたいと思う?」
私が聞くと、その質問に対しては首を横に振った。
「帰るところ、ないんだ」
そう、と私は短く言った後、私たちは長いこと会話もせずに黙っていた。その沈黙は、決して不快ではなかった。寝転んで、灰色の空を見ていた。私たちの間にはチキータが寝そべっていた。
「ところでどんな小説を書いているの?」
彼は上半身を起こして、聞いた。小説なんて、まったく読んだことないけど、と付け加えて。彼は真剣に煙草を巻いていた。せっかく買ったマリワナが風で飛ばされてしまわないように細心の注意を払いながら。私の小説の内容よりも、そちらが重要だと言わんばかりに。
「えっと」
私は一瞬口ごもった。自分で何を書いているのか、自分でもよくわからなかった。そしてそれがいつまでも私が一つの小説も書き上げることが出来ない理由だということもわかっていた。
「たぶん、愛についてだと思うわ」
彼はそれ以上、私の未完成の小説について尋ねようとはしなかった。ただ煙草を吸っていた。
「今までで」
沈黙の後、言いかけた言葉を私は飲み込んだ。
「何でもないわ」
彼は煙草をくわえて、眉毛をしかめた。
「言って」
「誰かを愛したことがある?」
私がそう言うと、彼はきょとんとした顔をしたので、私はすぐにその愚かな質問を後悔した。
「忘れて」
私は言ったけれど、彼は私の質問を半笑いで繰り返した。私は馬鹿にされたような気がして彼を叩こうとした。彼が私の腕をつかんだので、私は体勢を崩して彼に覆いかぶさるようにして倒れた。私と彼の目が一瞬重なった。彼の目が空の灰色を反射していた。私の髪がさらりと彼に垂れた。私の手は彼の柔らかな髪に触れていた。私は慌てた。私たちはこんな風に視線を交わすべきではなかった。私たちはただの友人だった。それだけだった。私はすぐに体を離した。そして、言葉を捜した。
「大丈夫?」
彼は聞いた。そしていつものように私の背中に触れた。私は笑って、もちろんよ、と答える。それから私は苦し紛れにゲイの友達の話をした。笑い者にしてごめん、とゲイの友達に心の中で謝りながら。彼はただ笑って、私の話を聞いていた。そしてしばらくして、突然言った。
「一度だけ、あるよ」
私は何のことかわからずに、顔をしかめる。
「人生で一度だけ、人を愛したことがあるよ」
木々が一瞬ざわめいた。私は微笑んでみせたが、私の顔はとてもひどく歪んでいたと思う。
「ずっと昔のことだよ。今はもう彼女がどこにいるかも知らない。生きているかさえ」
彼が千切った芝生が風に乗って流れた。
「戦争は醜い。そして惨めだ。それだけだよ」
そう言った彼の目には私が映っていた。この一人の人間の中にどれほどの思い出が詰まっているのか、私は想像しようと試みたけれど、私の想像力はうまく機能しなかった。
「もう家に帰ろう」
寒さで震える私を見て、彼は言った。Home(私), sweet(たちの) home(家).






             4
 その冬の始まりは、私はひたすらに小説を書いていた。ベルリンの冬はものすごい速さでやって来る。空から光を奪い、街は灰色で覆われる。ルカは不定期だったけれど仕事を見つけ、朝方五時頃から出かけることもあれば、夕方から仕事に出かけることもあった。私が彼の仕事について聞く度に、まったく違う職種が出てくるので、私の頭は混乱し、結局仕事なのかわからないままだった。私は彼が何の仕事をしていようが興味はなかったので、それ以上尋ねることはなかった。
彼が仕事を始めると、私たちは以前のように二人でいることはなくなった。私はラマや彼女の友達と出かけることが多くなった。彼女の友達もまたクレイジーな人たちばかりで、私は彼らを気に入っていた。ルカが誘ってくれても、私は断ることが増えた。彼はただ、友達が出来てよかったねと言って私の肩を叩いた。
夏場は常に遊びに出かけていたルカも、冬場は家に閉じこもりがちになっていった。だけど、私は知っていた。煙草の量が増えたこと、それからその煙草にはいつもマリワナが含まれていたこと。そして、時にはもっとヘヴィなものに手を出すようになっていたこと。家にも相変わらずいろんな人が来ていた。タチアナとも、何度か会った。相変わらず彼女は私に冷たかった。だけど家に来ている人たちの層が前とは少しずつ変化していることにも、私は気がついていた。私が彼らに挨拶をしても、無視するばかりか、アジア人の私に対する蔑称を平気で口にした。冗談だよ、と彼らは言ったけれど、そのどれもが笑えない冗談だった。ルカは彼らをたしなめるようなことは口にしなかった。ここは彼の家なのに、部屋の隅っこにうずくまって、煙草を吸っていた。焦点の合わない目で、ぼんやりと空を見ていた。私はただ、部屋の扉を閉めた。私の祖母からもらった大切なネックレスをバスルームに置いていたばっかりに、私は一生そのネックレスを失うことになった。ストックしておいたワインも勝手に開けられていて、残りはグラス一杯もない状態で私のところへ返されることも多々あった。彼らが帰った後はバスルームも滅茶苦茶にされていた。汚れきったバスルームをクリーンアップするのは私だった。何かが、変わり始めていた。私は度々そう思ったが、私はただぼんやりとそれらを眺めていただけだった。私はただの同居人。その考えが私から去ることはなかった。
私は外出先から帰る時、どうか今日は誰もいませんようにと祈りながら帰った。そしてアパートメントの階段を昇り、自分の家に近づくと聞えてくる大音量の音楽を聴いて、絶望した気持ちになった。寒さに凍えながら、扉の前で長い時間を過ごしたこともある。私に音楽があったことは救いだ。ヘッドフォンから流れる音楽は、クレイジーな音楽をかき消してくれた。私はその頃いつもパティ・スミスのPastime Paradiseを聴いていた。何度も何度も。美しいピアノの音に何度も涙が出た。本当にきれいな曲だった。
寒さで凍えていると、隣の部屋に住む男性が現れて、私にドイツ語で何かしら苦情を言ったけれど、残念ながらドイツ語のわからない私に何を言っても無駄だった。私は彼に同情した。彼にとってみたら、この狂乱に気が狂う思いだったのかもしれない。人は自分が経験して始めて他人を理解する。そして彼も私が中に入らない理由を察して、私に同情する顔をした。私は肩をすくめた。以前はこのドイツ人のおじさんのことを、ルカと一緒に笑ったのに。ほんの少し時間を戻すだけなのに、なんだかとても昔のことのように思えた。私とルカはもう一緒に笑うことなどないのではないかという不安が、いきなり私を襲った。私は帰りたかった。私たち(、、、)の家へ。私が玄関を開けると、ルカはキッチンで煙草を吸っている。彼の横にはチキータがいる。私に向かってハイと言う。私もハイと返して、今日一日がどんな日だったか彼に話して聞かせる。そんな日が続くと思っていた。彼にステディな恋人が出来るまで。もしくは私に恋人が出来るまで。でももう何かが違う。もしかしたら、ルカは今誰かと寝ているかもしれない。その考えは私をみじめな気持ちにした。私は思い立って、下の階に住んでいるパウロの家の扉をノックした。扉を開けてくれたのは、パウロのガールフレンドのアナだった。鍵を忘れたの、と嘘をつくと、アナは快く家の中に入れてくれた。パウロが凍える私を見て驚いた顔をした。この人もルカと同じ瞳の色だったんだ。私はぼんやりと思った。私は何も見えていなかったのだと悟った。あの栗色の瞳しか。気を利かせたアナがミルクを温めてくれた。
「ミルクに蜂蜜は入れる、ヨーコ?」
気取ったようなアナのブリティッシュアクセントもなんだかとても心地よかった。
家の中は暖かく、“恋人たちの家”という感じだった。二人で撮った写真や、二人で選んだ食器や家具、そのどれもがとてもラブリーで、私の心を切なくした。私たちの家にはそんなものは何もない。二人で選んだものなど、何も。私がミルクを飲んでいる時、彼らは私の向かいに座って、手を繋いでいた。私は自分がなんだか見捨てられた子供のように感じた。
「何時にルカは帰ってくるの?電話はしたの?」
英語が苦手なパウロに代わって、生粋のベルリーナーのアナが捲くし立てるように聞いた。
「えっと、その」
私が言いよどんでいると、パウロがアナをポルトガル語でなだめた。彼らは私の次の言葉を待ったけれど、私が何も答えないところを見て、何か察したようだった。もしくは最近のルカについて、彼らも思うところがあったのだろうか。そうだといいと私は思った。彼の良き(、、)友人である彼らが、彼の今の状況を良くしてくれることを祈った。私はなんだか落ち着かない気分で、煙草を吸っても気にしないかと尋ねた。アナは微笑して、ごめんなさい、と答えた。
「私、妊娠しているの」
まだお腹はまったく目立たなかった。私は自分の無礼を謝罪し、それから彼女の頬にキスをして、ハグをした。
「おめでとう!」
それから私は二人を同時に抱きしめた。
「ありがとう、ヨーコ」
パウロとアナはきらきらと輝いていて、とても幸せそうに見えた。私はこの二人の未来が明るいものであるように祈った。
「四月に出産予定なの。その時まだベルリンにいるわよね?」
アナは聞いた。私は、肩をすくめた。わからない、一言言った。彼らは少し残念な顔をした。
「でもベイビーが生まれたら、必ず連絡してね」
私はそう言った。二人の子供はとてもかわいいだろう。ベイビーの明るいニュースが私の心を励ましてくれたので、私は家に帰る心の準備をした。わざわざ自分の家に帰る心の準備をしている自分をどこかおかしく感じながら。
「幸せを、ありがとう」
私はそう言って、彼らの家を後にした。彼らの子供が誕生する頃、私は一体どこにいるだろうか。それさえも想像できなかったけれど。

家に帰ると、ルカはいなかった。チキータだけが私を迎えてくれた。私は彼女にそっと触れた。毛は短く、柔らかくなどなかった。動物を触ったことがなかったので、犬の毛がどんなものかあまり知らなかったけれど、なんとなく勝手に柔らかいものだと思っていた。
「ハロー」
突然、暗闇の中からわざとらしい甘ったるい声がした。煙草の火を点けるライターの音と共に女の顔が浮かび上がって、それは心の底から私を驚かせた。もう少しで心臓が飛び出るところだった。女は私のその様子を見て、卑屈そうに笑った。タチアナだった。
「ルカもいないのに何しているの?」
私は落ち着きを取り戻すと、皮肉たっぷりに聞いた。電気をつけようとしたが、彼女は大声で、やめて!と叫んだ。その声がまた私を驚かせたけれど、今度は私を見ても笑わなかった。彼女は、泣いていた。私は自分の部屋に戻るべきか、ここに留まるべきか、悩んだ。でも私はこの女が嫌いだったので、何があったかは知らないけれど、この女を慰めてやる義理など持ち合わせていなかった。彼女がひとしきり泣き終わるのを私はただ見ていた。私の前で泣いても無駄だと思ったのか、彼女は取り乱したことを恥じたように言った。
「ワイン、ある?」
彼女はドイツ語なまりの英語で尋ねた。あなたに飲ませるワインはないけれど。私はそう言ってやりたかった。でも私は黙ってワインを出した。せめてもの抵抗で、二ユーロくらいの一番安いワインを。私がワイングラスに注いであげようとすると、彼女はボトルとグラスを私から引ったくろうとして、ボトルが床に落ちて、カーペットの上に赤いシミを作った。グラスは粉々に砕けた。チキータはその音に驚いて、ルカの部屋へ逃げてしまった。私はうんざりした。心の底からうんざりした。誰が後片付けをするのよ。ただでさえ、パーティーの後で散らかっているこの部屋を。彼女はもちろん謝らなかった。私はもう彼女の顔を見たくなかった。シャワーを浴びて、毛布に包まれて眠りたい。それだけが頭の中を支配した。彼女は一つ大きなため息をついた。それを聞いた瞬間に、私は怒りが込み上げてきた。ため息をつきたいのはこっちのほうよ、このファッキンビッチ!怒りに任せて、そう言いかけた瞬間に、テーブルの上に置いてあった木彫りのブッダの像が目に入った。とても穏やかなブッダの顔は、私の汚い言葉を私の口の中に押し留めた。それはルカが私のためにそこに置いたものだった。いつだったか、軽い冗談で私が彼に向かってFuck(くそっ) you(たれ!)!と口にした時、彼が自分の部屋から仏像を出してきた。仏像は彼の友人がインドを旅行した時に、彼にお土産として買ってきたものだった。私のF(罵り)ワード(語)を聞いた瞬間に、彼はとても嬉しそうに笑っていた。私はFワードなんて使わない、いつも礼儀正しいジャパニーズだったから。
「聞いた?彼女、くそったれって言ったよ!」
彼のその振る舞いは、ママに私の悪戯を告げ口する子供みたいで、私をファニーな気持ちにさせた。私は神も仏も信じているわけではなかったから、ミスターブッダに告げ口してもまったく無駄なことだったけれど。そして私以上にシャイゼやファックなどの罵り語を口にするのは彼の方だったのに。
「ありがとう。あなたに影響されたのよ」
私はわざと気取ったブリティッシュアクセントを真似て、言った。彼がそういう気取った話し方を嫌うことを私は知っていた。彼は、それがセルビア人のやり方だよ、と言って笑った。それからというもの、ブッダは私を監視する役割を与えられた。汚い言葉を彼に向かって吐こうとすると、彼はにやにやと笑ってブッダに目線を投げるのだった。私は唇を軽く噛み、行き場のないFの発音をFlower(フラワー)と言い替えた。彼はビューティフルと言って、右の眉を上げて、手を叩いた。ルカの部屋でほこりを被っていた仏像は、毎日彼によってピカピカに磨かれることになった。そしてたまに彼からキスを与えられた。なにかしらの弾みでテーブルから転げ落ちて、チキータが玩具と間違えて噛んで、彼女の歯形がくっきりとついていたけれど。今回ばかりはお礼を言うわ、ミスター。私は心の中でそう思った。タチアナと口論や取っ組み合いで時間を奪われるのはとても無駄なことだったから。私は何も言わずに、自分の部屋に帰ろうとした。彼女はそれが気に入らなかったのか、私に向かって大声を出した。
「何か言いなさいよ!」
涙で化粧は剥げていた。女の化粧が剥げて美しいのはメイクラブの後だけだ。彼女はルカを失ったのだろうか。そもそも、失うようには彼を所持してなどいなかったけれど。誰も。
「彼のこと、愛しているの?」
タチアナはいきなり私に聞いた。
「誰のこと?」
私は聞いた。
「ルカよ。他に誰がいるのよ」
タチアナは目を丸くしてばかにしたように言った。私はその仕草が大嫌いだと思った。それでも私はすぐにノーと答えることが出来た。彼を愛してなどいなかった。寝てもいない男を愛せる筈もなかった。
「いつも物欲しそうに彼を見ていたくせに」
彼女が言った時、私はこの女性を哀れに思った。私にこんなことを言っても、何にもならないのに。そんなこと、すぐにわかるはずなのに。私は、何も言わなかった。
「あなたはとても幸せね、彼と寝たことがなくて。私もそうだったらよかったわ。そうだったら彼ともっとうまくやれたのに。あなたみたいに」
彼女は“とても”という単語を強調した。そしてその後ため息をついた。彼女は人を惨めな気持ちにさせるのが好きらしい。私は彼女のために惨めになってやるつもりはさらさらなかった。
「今日、彼から二度と会わないって言われたわ。そんなのってないわ。私を置いてどっかに行っちゃった。行かないで、って言ったのに」
彼女はそう言ってまた泣いた。私はうんざりした。あなたこそ、ラッキーだわ。少なくとも彼に“行かないで”なんて言葉を口に出来て。私は思った。
「泣くなら、彼の前で泣きなさいよ」
私は言った。私は彼女が泣いてもどうすることも出来ない。彼女は返事をしなかった。彼女はルカの前で泣いたのだろか。このプライドの高い彼女が。私はクリネックスを差し出した。
「泣き終わったら、さっさと出て行ってね。あんたのくそみたいな顔なんて二度と見たくないから」
私の口からはFワードがきれいに発音されていた。ルカはきっとブラボーと言って手を叩いてくれるだろう。タチアナはクリネックスと私の手を払いのけた。私は彼女を見ずに、自分の部屋の扉を閉めた。ビッチと罵る声が聞えたが、どうでもよかった。ビッチにビッチと呼ばれるなんてむしろ光栄だわ。私は思った。ミスターブッダ、ごめんなさい。私はあなたのようにはなれそうもない。チキータが鳴いた気がして、私は扉を開けた。そこには尻尾を垂れたチキータが私を見ていた。
「your(あんた) man(の男)はどこにいったの?」
私はその雌犬を愛しいと思った。私はその日、初めて彼女と一緒に眠った。彼女の体は少し臭ったが、ルカがいつもこうやって寝ていると思うと眠れた。タチアナがいつ帰ったのか知らない。もう二度と会うことはないだろう。でも本当は、私は彼女の悲しさがよくわかった。私たちは愛されない女たちだった。彼を深く想っていながら。

朝が来て、いつもより早く目が覚めるとルカは自分のベッドで寝ていた。チキータはいつの間にかルカのベッドで眠りに就いていた。うつ伏せで寝ている彼の唇の端には古い血がこびりついていた。喧嘩でもしたのだろうか。そんなの、あなたには似合わないわ。私は彼の柔らかな髪にそっと触れ、彼の寝顔をいつまでも見ていた。















                 5
ベルリンの冬は、容赦なく人々から光を奪って行った。この灰色の街で暮らすことがいかにつらいものか少しずつわかってきた。ルカはまた仕事を探しているようで、いつもいらいらしているようだった。私がキッチンにコーヒーを淹れに行くと、彼はいつもパソコンを覗きながら、汚い言葉を口にした。
「ベルリンなんて嫌いだ、ドイツなんかくそだ」
彼はよく言っていた。私はその度にどうしていいのかわからなかった。陰気なベルリンの冬が彼を蝕み始めていた。彼の人生は私の目にも見える程、うまく行っていなかった。
「もう十分だ!もう違う国に行く時だ」
彼はその頃、よくボリビアだとか、南米の国を口にしていた。彼は希望に満ちていて、彼の話を聞く私でさえも、南米がものすごく天国のようなところに思えた。だけどその瞳は濁っていて、ぼんやりとしていた。私には、彼と同じ幻覚は見えなかった。
「そんな風に言わないで。私はベルリンが好きよ」
私は少しさみしい気持ちで言った。ルカはその言葉に鼻白んだような顔をした。私はそれを見てまた少し悲しくなった。

「今、何しているの、ダーリン?」
ラマからの電話はなんだか救いの電話のように思えた。書かなくてはいけない小説が書けなくて、私は自分に失望していた。
「絶望していたところよ」
私がそう言うと、なんて文学的なの!と言って、彼女は笑った。
「あなたにはリフレッシュが必要だわ」
彼女は今夜飲みに行くための場所を一方的に告げた。
「一日中家で小説を書いて、同居人に恋しているなんて、少し視野が狭くなりすぎているわよ、ベイビー。あなたは私たちと出かけることが必要だわ。そしてそれは今夜よ」
「そうね、わかったわ。もちろん行くわ。いつも気遣ってくれてありがとう、ハニー。また後でね」
ファンキーにドレスアップしてくるのよ、そう言って電話は切られた。私はこの美しい黒い肌のパリジェンヌが大好きだと思う。そうね、ラマ。あなたの言う通りだわ。こんなベルリンの片隅の部屋で埋もれているだけが、私の人生じゃないもの。

パーティーは十時過ぎから始まった。私たちは、クロイツベルグから遠くはないラマの友人の家に、食べ物やドリンクを持ち込んだ。その道すがら、オレンジ色に照らされた街並みがとても好きだった。東京の光はいつも私には眩しすぎた。道端にたむろする大きな犬を連れたパンキッシュたちを見ることも、ベルリンにいるという感じがして大好きだった。彼らの前に置かれた紙コップにコインを投げ込むことはなかったけれど。
 ラマは、その美しい体を漆黒のドレスで飾っていた。女の私でも口笛を吹いてみたくなるような美しさだった。
「私のかわいいジャパニーズガール!」
彼女は私の頬にキスをして、ハグをした。私はその言葉を聞いて、少しだけ切なくなった。ルカもいつも私にそう言ってくれていた。私は最近感傷的になりすぎる。ラマが言うように、視野がとても狭まっているのだ。
 キッチンではイタリアから来たマテオがトマトソースを作っていて、とてもおいしそうな香りがしていた。彼がスプーンで一口それをすくってラマの口に運ぶと、ラマは目を丸くして、口の前に指を置き、キスでそれらを弾けさせた。
 そこには様々な国籍の人々がいて、私をとても面白がらせた。フランスイギリス、カナダ、スペイン、イタリア、チェコ、アルゼンチン。もちろん、ドイツ。私たちは食べて、お酒を飲んで、煙草を吸って、そして踊った。とてもクールな音楽がかかっていて、私をとても良い気分にさせた。時間が経つに連れて、中には熱烈なキスをし出す人たちもいて、彼らは途中でどこかへ消えた。私は酔っ払ってはいたけれど、なぜだかとても冷静だった。私はベルリンが大好きだった。だけど、心のどこかでいつまでもここにはいられないことはわかっていた。いつかここを去る時が来るだろう。いつか、どういう形かはわからないけれど。その時、私は笑っていられるだろうか。
「何を考えているの?」
ブリティッシュアクセントが聞えてきて、私は我に返った。顔を上げると、微笑する英国人がいた。端正な顔立ち。それからとても白い肌と鳶色の目。どことなくミック・ジャガーの若かりし頃を思い起こさせた。彼が、先ほどまでせっせと音楽をセレクトしていたことを私は見ていた。
「何でもないわ」
人生についてよ、と答えてみせようかと思ったが、不思議なエイジアンガールにはなりたくなくて、なんでもないと答えてしまった。
「あなたの音楽のセンス、好きよ。とても素敵だったわ」
私は言った。彼は笑った後、サンキューと言った。アメリカ人みたいな“テンキュー”という発音ではなく。
 私たちは踊ることを止めて、カウチに座って音楽の話をした。どのバンドが今クールだとか、あのアルバムはもう聞いた?あれは傑作だね、だとか、ベルリンではどのライブハウスがホットだとか、そういうロックンロールの話を。
 気がつけば、うちには誰もいなかった。ラマでさえも、いなかった。もしかしたら、誰かと抜け出したのかもしれなかったので、電話はしなかった。時計を見ると、朝の五時近かった。
「Berghainって言うクラブに行ったんじゃないかな。そこなら月曜の昼まで開いているから」
彼は言った。
「月曜のお昼まで!?本当にクレイジーね」
私は目を丸くした。彼は皮肉っぽく笑った。
「それがベルリンさ」
私たちはラマたちを追わず、帰路についた。六時近くになっていたが、夜はまだまだ明ける様子はなかった。私たちは凍えながら、メトロまで歩いた。
「またあなたに会えますか?」
駅で別れる時、彼は尋ねた。この人、なんて丁寧な言い回しをするのかしら、と私は思った。もちろんと答え、彼にハグをした。彼は私を抱き締めた。
「またすぐにね、アンディ」
「うん、またすぐにね、ヨーコ」
私たちはそう言って手を振った後、歩き出した。私が振り返って彼を見ると、彼も振り返って私を見ていた。お互いがお互いの行動を予測していなかった様子で、目が合うと二人とも驚いたが、その後に照れながら笑った。そして手を振って別れた。

私とアンディはそれから頻繁に会うようになった。夜な夜なベルリンのどこかで開かれるパーティーの一つで偶然出会って会話を交わし、また会う約束をして、映画を観に行って、その感想を言い合ったり、カフェでどうでもいいことを延々と話したり、蚤の市で古いレコードを選んだり、それを二人で聴いたり、私たちはそうやって始まった。多くの恋人たちがそうやって始まるように。彼は不特定多数の女の子と遊び回るようなことはしなかったし、いつも私を思ってくれるのがわかった。私たちは少しずつお互いを理解して、少しずつ恋に落ちて、ある日私は彼に属した。そして彼も私に属した。朝起きた時、自分の隣に他人が寝ていることはなんと幸せなことだろう。目を開けると、アンディの寝顔が私のすぐ側にあって、私はその寝顔を見ながら彼にぴったりと寄り添う。彼は私の冷たい体に不平を言いながら、私をしっかりと抱き締める。その間に隙間なんてないように。彼はいつも触れることの出来る距離にいた。私はそれを愛した。
 私たちが幸せな恋人同士になったことをラマが知ると、彼女はとても嬉しそうに私たちにキスの雨を降らせた。こうなること、わかっていたわ!そう言って。 
ルカと暮らす家に、私はアンディを連れては行かなかった。ルカとアンディが“やぁ、始めまして。調子はどうだい?”なんて言って、握手をする様子なんて私には想像もつかなかった。私はアンディにルカの話など一つもしなかった。アンディにとって、ルカはガールフレンドの同居人、それ以上のことではなかった。彼はルカの名前さえも知らなかった。
アンディと過ごす時間が増えるに連れて、私は家の中でルカを見ると、何か昔の男を見ているような、そんな不思議な感覚に捕らわれるようにさえなった。ルカとの日々が急速に色褪せて行った。なんだかもうとても昔のことのようだった。私はここに、そしてルカは私のすぐそこにいたと言うのに。ルカは最初、そんな風に浮き足立った私を、それからよそよそしく振舞う私を、不思議そうに見ていた。そしてある日、気が付いたのだと思う。私がもう彼から離れてしまったことに。一度も彼に属したこともなかったというのに、おかしな話だった。

「最近、君は幸せそうにしているね」
ある日、キッチンで鶏肉をさばくことに苦戦していると、ルカがやって来て、林檎を齧りながら無表情に言った。鶏肉をスパイシーに味付けをして、アンディに食べさせてあげる予定だった。彼の仕事が終わる前に下ごしらえをしておきたかったのだ。アンディは何を食べてもおいしいと言ってくれるに決まっていた。
「そう?知らないわ」
私は適当に答えた。料理に挑戦する私のあまりの不器用さにルカは呆れたようだった。
「そんな風にやるから、うまくさばけないんだよ。こうやって・・・」
私にアドバイスをしようとして、私の手を握ろうとした。その時私は自分でもびっくりするほどの素早さでルカの手を振り払った。私は自分の行動に自分で慌てて、ルカの顔を見た。
「ごめんなさい」
大丈夫かと尋ねようとした瞬間に、私はぶつかった。見たこともないくらいに悲しい瞳に。まるで小さな子供がママにその手を振り解かれた時のように。そんな顔、しないで。私は、言葉が出てこなかった。こんな時、何も役に立たない私の言葉たち。
「口を、出すべきじゃなかったね」
ルカの方が先に口を開いた。私は、ただ首を横に振った。彼は自分の部屋に戻り、彼の部屋の扉を閉めた。その扉は二度と開くことのないように思えた。私は閉められた扉を長い間見つめていた。

 アンディが一緒に暮らさないかと提案した時、私はすぐに了承した。君が自分以外の男と暮らすことに我慢が出来そうにない、と私の手を握りしめて、アンディは言った。すでにほとんどの時間を彼の家で過ごしていたし、あまり行ったことのない旧西側のベルリンでの生活は私をわくわくさせた。旧東側と旧西側はやはりどこか違った。ベルリンの壁が崩壊して二十数年経った今でも。ルカの顔が一瞬浮かんだが、すぐに掻き消した。私は寝てもいない男のことをもうこれ以上待つ必要も、思う必要もない。私は何かとても自由になれた気がした。
 アンディの家から出ると、外は曇り空だった。空気は、とても冷たい。高いビルディングが何もないベルリンの空はとても広く、果てしなく広がっているように思えた。この街で出来ないことなど、何もない。急に私はなぜかそう思った。旧東側に帰ったら、ルカと話をしなくては。ここを出て行く。ルカにそう言わなくては。彼はすぐに新しい同居人を見つけるだろう。シャワーの時に水を使いすぎる同居人から、掃除が嫌いな同居人から、Rの発音がうまく出来ないジャパニーズガールから、彼の帰りをひたすらに待つばかりの女から、彼は解放される。それだけだ。
 私が帰ってきた時、ルカはいなかった。チキータもいなかった。もう外は、雨が降っていた。ベルリンの冬は、よく雨が降る。いつだったか、アンディは言った。ロンドンの天気はみじめだと。日本で生まれた私はその表現に衝撃を受けたものだけれど、みじめな天気とはこういうことを言うのだろうと思った。どんより曇り空。滅入るような寒さ。それから悲しい雨。でも私は雨がアスファルトを濡らす香りが好きだった。部屋の中から眺める雨の様子が好きだった。部屋に閉じこもって、雨の音を聞いていると、ルカが帰ってきた。話があるの、そう言わなくては。私が部屋を出ようとノブに手をかけると、女の声が聞えた。私は扉を開けなかった。彼らは私がいないと思ったのか、抱き合い始めた。女の声が聞える。それはルール違反よ、ルカ。私は思ったが、耳を塞がなかった。私はただ、雨音が聞きたかっただけだ。私はそれ(、、)が終わるまで、じっと静かに待った。他人の情事。私から数メートルも離れていないその場所で。
 雨が上がる頃、もう声は聞えなかった。遠くから教会の鐘の音が聞えた。窓から外を眺めると、空は少しだけ晴れていて、金色に染まった雲がゆっくりと流れていた。長靴を履いた金髪の子供たちが、水溜りではしゃいでいる。雨に打たれたプラタナスの葉が落ちて、黄色い絨毯を作る。私はそれをぼんやりと見ていた。
 玄関の扉が閉まる音がして、我に返った。私はのそのそと起きあがった。私は下着に近いような格好で、キッチンへ向かう。化粧は剥げている。でも気にならなかった。ハロー。煙草を吸いながら、私は彼に言った。ルカは無表情に私を一瞥して、ハローと返しただけだった。
「私、出て行くわ」
その言葉はするりと私の口から滑り出た。彼は一言、オーケイと言った。私の目も見なかった。Okay(わかったよ)、それだけだった。後はとても事務的なこと。何月何日の何時に出て行くか、二人で使っていたものをどうするのか、それだけだった。私は一ヵ月後にここを出ると言った。そして彼は、それに同意した。私が部屋に戻ろうとすると、彼は一つだけ聞いた。
「誰と住むの?」
私は微笑した。
「ボーイフレンドよ」
彼は、何も答えなかった。私たちは、会話することをやめてしまった。








              6
 あの年は美しかった。ベルリンの空はいつも曇っていたし、空気は湿っていたけれど、分厚い雲の隙間から覗く太陽の光に何度も救われた。こんなにも太陽の光を望んだのは初めてだった。そして美しかったことと等しく、終わりがない程に悲しかった。
 ルカはいつも家にいるようだったけれど、私たちはもう多くのことを話さなくなった。私は彼がキッチンにいる時は、そこには極力行かないようにしたし、彼と会う時のためにいつも心の準備をしていた。家の中で偶然出くわすと、私はもはやどうしていいのかわからなかった。初めてここに来た頃のように、何でもないことで笑い合うことが出来たなら。私はそう切に願ったが、それはもう叶わない祈りだった。あんなに楽しかったここでの生活を、今は残り何日と祈るような気持ちでカウントダウンするようになってしまった。
 その家を出て行く数日前のことだったと思う。珍しく私はこちらの家にいて、することもなく、自分の部屋でカズオ・イシグロの短編集を読んでいた。ノックをする音が聞えて、私は身構えた。一瞬の沈黙の後、ルカの声が聞えた。
「ヨーコ?」
その声はもはや懐かしくさえあった。私はベッドから起きて、扉を開けた。私は明らかに緊張した顔をしていたと思う。思ったよりも近い距離にルカがいたので、私は一瞬びっくりしてしまった。久しぶりに見るルカはなんだか痩せて、髪が伸びた。襟足の栗色の巻き毛が私を切ない気分にした。
「今からテレプタワーパークにダミアンたちと行くけど、君も来る?」
その言葉は私の緊張を解放した。今までの緊張が一瞬でばかばかしいものに思えた。ルカが久しぶりに誘ってくれたので、私はとても嬉しい気持ちになった。それを隠しもせずに、私は返事をした。まるでチキータが、尻尾を最大限に振るときのように。ルカは笑った。
 私たちはまだ日の残るテレプタワーパークのシュプレー川沿いを歩いた。夏場はあんなにたくさんの人がいたのに、皆どこかへ行ってしまった。長い冬が来たのだ。チキータはルカに繋がれて、仕方なさそうに歩いていた。私の長い髪が風になびいて、とても邪魔だった。髪を切ろうかな。ルカにとってはどうでもいいことを独り言のように言うと、彼はやめて、と言った。私はとても意外な気持ちで彼を見た。彼は照れる様子もなく、微笑した。
「君の長い髪、好きなんだ」
あまりにも意外なことを彼が言うので、私は、そう?とだけしか返すことが出来なかった。私たちは黙って歩いた。ベルリンの冬場にしてはとても晴れた日だった。それでも空気はとても冷たく、身を切る程だったけれど。私たちは一瞬の太陽の光を愛した。太陽の下にいるルカはとても幸福そうに見えた。バルカンの太陽はかつてこんな風に彼を照らしたのかしら。私は行ったこともないその地を想像した。ぼんやりと彼を見ていると、彼も私を見た。そして彼は、柔らかに、笑った。私も、笑った。私はあまりにも幸せで、眩暈がした。
 ダミアン、それから他の数人は、この真冬の空の下、バドミントンをしていた。公園には他には誰もいなかった。私たちが着いてすぐだというのに、誰もがすでにここから去りたいという雰囲気だった。結局私たちの家がそこから一番近かったので、そこに集まることになった。私たちを除く皆が自転車でここまでやってきていたので、私はダミアンに鍵を渡し、先に行っておいて、と言った。私とルカは来た道をまた歩いて帰った。美しいシュプレー川のほとりを。私はとても胸がいっぱいで、ルカとの間に沈黙しかなくても、満たされていた。あの時、私たちは確かに幸せだった。

 家に戻ると、パーティーはもう始まっていた。いつの間にかたくさんのワインやらビールやらが持ち込まれていた。そこには私がベルリンに来てすぐに出会った人たちが揃っていた。パウロは後から参加した。今、私はこうやって彼らに会っているのに、その側から過去になっていく気がして、泣き出しそうになった。パウロが来ると、酔っ払った私たちはパウロとアナのベイビーに何度も何度も乾杯した。パウロはとても幸せそうに祝杯を受けて、ブラジルの音楽に合わせて踊った。音楽が部屋中に響いた。隣のおじさんは留守なのか、扉は誰にもノックされなかった。パウロが言った。
「ダミアンにも、乾杯!」
皆がグラスやらボトルを上げて乾杯する中、私だけが乗り遅れた。なぜ、ダミアンに乾杯するのかわからなかったのだ。
「え?ヨーコ、知らないの?」
パウロは心底驚いたように私を見た。ルカは何も言葉を発さなかった。
「タヒチに行くんだ」
ダミアンが言った。私は横目で一瞬、ルカを見た。ダミアンが去ってしまうと、ルカはまた(、、)一人になってしまう。一瞬その考えが私のところにやってきて、私を笑わせた。彼にはたくさんの友達がいる。そんなこと、わかっているはずなのに。
「ヴァカンス・・・じゃないのよね、ダミアン?」
「タヒチで仕事が見つかったんだ。何の仕事だと思う?」
私はタヒチにヴァカンス以外で行く理由が見つけられなかったので、首を横に振った。
「わからないわ」
「ジャーナリスト!」
嬉しそうに笑うダミアンの横で煙草に火を付けるルカは、寂しそうに笑っていた。きっと誰も気がついていなかった。私もそれに気がつかないふりをした。
「素晴らしいわ、ダミアン!おめでとう!」
私はそう言うと、ダミアンの頬にキスをした。ダミアンはMerci(ありがとう)と言って、私を抱きしめた。
「いつ発つの?」
「 一週間後、ベルリンを経つ。それから一週間パリに戻るよ。友達やら家族と会いたいからね。そしてその後タヒチだ!」
興奮した様子で彼はそう言って、私にウインクした。一週間後。私もその頃にはルカの元を去るだろう。
「本当に嬉しいわ、ダミアン。本当よ」
ダミアンはPUEBLOから煙草の葉っぱを取り出して、紙に巻いた。
「楽しみ?」
私は聞いた。
「もちろん!ガールフレンドも一緒に来てくれるって言っている。仕事も見つかって、それは僕が長年夢見て来たジャーナリストだ。パーフェクト以上だよ。どうやってアンハッピーになれるって言うんだ?」
彼はそう言って笑って、冗談めかして眉をしかめた。私は頷いた。タヒチでどういうジャーナリストの仕事があるのか、私にはまったくの疑問だったが、それについては触れなかった。彼が幸せそうにしている。それでよかった。彼がどれだけ幸せか、私にはわかる。私は経験したことがないけれど。ただ、それは毎日想像してきた。いつも、いつも。
「お前も遊びに来るべきだよ、ルカ」
ダミアンはこぶしで隣に座るルカの膝を叩いた。
「サムデイ」
彼は小さく言った。私にはそのサムデイが決して来ないことがわかった。タヒチも日本も、彼には遠すぎた。
「君も来るべきだよ、ヨーコ!君は“旅人”だからね!」
そうね、と私は短く答えた。それからすぐに話題は違う話へと変わった。私は想像した。タヒチの白い砂浜と青い海、それからどこまでも続く青い空の下にいるダミアンを。彼の白い肌は真っ黒に焼けるだろう。いつまでダミアンがそこにいるかはわからなかったけれど、私はいつかタヒチに行く機会があるかもしれない。例えば、浮かれたハネムーナーとして。私はダミアンとそこで再会するだろう。両頬にフランス式のキスをして、抱き合って、久しぶりの再会を喜ぶだろう。おしゃれなバーでカクテルなんかを飲みながら、青い海を見て、波の音を聞きながら、ベルリンの冬がどれ程みじめだったか、そして初めて私たちが出会った夜のことを話すだろう。もちろん、ルカのことも。ダミアンはもはやマリワナをやりながら、朝の五時までもBerghainで踊り続けるクレイジーなパリジャンではなくなるだろう。そして、きっと私も。その時、すべてはもう決定的に変わってしまっている。私たちはベルリンでの日々を懐かしみながら、悟るだろう。私たちはもう遠くに来てしまったのだと。私たちの愛したあの街から。
 私たちはくだらない話をいつまでもしていた。そして笑っていた。五時近くになった時にパーティーは終わった。1人ずつ、家に帰って、最後にダミアンが帰った。私たちは再会を約束して、抱擁した。
 残された私とルカは、散らかるだけ散らかったキッチンのソファに向かい合って座った。二人とも煙草を吸っていた。明日の片付けのことなんて考えていなかった。いい夜だった。それだけを思っていた。私たちは酔っていなかったと思う。私はその夜のことをすべて鮮明に覚えているから。すべてを愛しむかのように、一秒一秒を。
「ダミアンは行っちゃうのね」
私がそう言うと、彼はそうだね、と少しだけ笑って、両方の眉を上げた。
「さみしくなるわね」
ルカはそれには答えなかった。
「私は少しだけ、彼が羨ましいわ」
私は言った。彼は首を傾げた。
「彼、ジャーナリストになるのよ。彼がずっと夢見てきたことよ。夢が叶って、羨ましいわ!」
私は冗談めかして言った。何者にもなれない自分を自虐的に笑って。
「君は作家だよ」
彼は私を真っ直ぐに見た。初めて出会った時と何も変わらないやり方で。私は首を振った。
「やめて、ルカ。私は何でもないわ」
「君は作家だよ」
私は彼の言葉を茶化した。
「ベティみたいなこと言わないでよ」
私は大好きなフランス映画を引き合いに出して笑ってみたが、彼がわかる筈もなかったし、彼は笑わなかった。何がおかしいの?とばかりに。私はすぐに笑うことを止めた。二人の間に静寂が訪れた。彼が煙草を消した瞬間に、目が合った。私たちは、微笑んだ。そして私たちは始めて抱き合った。言葉はなかった。音楽もなかった。朝はまだ、来ない。ベルリンの長い夜。闇の中に私たちは身を隠すようにひっそりと抱き合った。すべて、見えないように。朝が来たら、すべてを忘れてしまえるように。彼の肩越しに旧ユーゴスラヴィアの地図が見えた。まるでユーゴスラヴィアに抱かれているようだった。
 彼は私の子供みたいなやせっぽちの胸に顔をうずめた。私は持てるだけの力で彼を抱きしめた。彼もそうした。私が壊れても気にしない、という風に。
 抱き合った後、彼はすぐに眠りについて、朝が来る頃、私はそこから逃げるように自分の部屋に戻った。朝が来たら、私たちはすべてを忘れなければいけない。なぜだか、そう決まっている気がした。すべてが、決まっていた。ベルリンに来ることも、あのバーに私が行くことも、あの栗色の瞳を愛することも、そして、ここを去ることも。そこには他の道なんて存在しない。私には、それがわかっていた。

 朝、私たちはいつものように振舞った。私が小説を書いているところに、ルカが起きてきて、眠たそうな顔でおはようと言う。そして彼は自分のためにコーヒーを淹れる。隣にはチキータがいる。私たちはおはようのキスもしなければ、ハグをすることさえない。ただ一度だけ起こったことだと二人ともわかっていた。

 さよならの日、朝から雨が降っていた。私が荷物をまとめていると、ルカの部屋から音楽が聞えてきた。名前も知らない歌手の、悲しいメロディ。いつだったか、私が彼にこの曲いいわね、と言った曲だった。彼は私にさよならと言っている!私はその日本語を彼に教えたことがある。彼は忘れないように、スーパーのレシートの裏側にSAJONALAとユーゴスラヴィア式にそれを書いて壁に貼り付けた。それはすっかり色褪せていた。夏の光は、こんなにも強かったのだ。私の、愛しい日々。私は彼の部屋の扉にもたれて、静かに泣いた。彼は泣いてなどいないだろう。きっと煙草を吸っている。チキータがいつも彼の側にいて、彼を暖めてくれますように。私は、それだけを祈った。
アンディが車でアパートメントまで向かえに来てくれたので、引越しはとても楽だった。私は何事も無かったかのように部屋を出た。ただルカと男友達のようなハグをして、ただ簡単にSee(また) you(すぐ) soon(にね)と言って。私はルカの目を見なかった。道に出たところで一度だけ振り返り、“私たちの家”を見た。ルカの影は無かった。雨はもう、上がっていた。










           7
 あの悪夢の電話がかかってきた時、私は呑気に昼寝をしていた。日曜だったが、アンディはいなかった。今思い出してみても、何かとてもふわふわとした幸せな夢を見ていた気がするのだ。誰か懐かしい人に抱かれているような。それはまったく知らない人のようでもあり、昔から知っている人のようでもあった。でも私には、あれが誰だったのかわからない。
電話が鳴る数分前に目が覚めた。その電話は私の世界を真っ白に塗りつぶしてしまった。
知らない番号からの電話には普段は出ないことがほとんどだけれど、操作を誤ってしまったために、通話が開始された。シャイゼ。私は小さく言った。罵り語だけはドイツ語が出てくるようになっていた。電話からは懐かしい声が聞えた。
「ハロー?」
その声が聞えても、一瞬誰かわからなかった。次の瞬間に私の名前が呼ばれるまでは、私は間違い電話だと信じて疑わなかった。
「ヨーコ?」
一瞬の沈黙の後、私はダミアンの名前を呼んでいた。何かよくないことが起こったのだとすぐに察したが、あくまで冷静に話しかけた。
「もうベルリンに戻って来ているの?」
彼はそれには答えなかった。
「落ち着いて聞いて。パニックにならないで」
電話を持つ手が震えていた。何かあったのだ。ルカに、何かあったのだ。ダミアンは深呼吸をした後に、静かに言った。
「ルカが、死んだ」
彼は、言った。その瞬間に、様々な瞬間が私の頭を巡った。最後に会った時、抱き合って眠った時、彼が眉毛をしかめた時、そして最初に会った時のこと。ダミアンはその後にいろいろと説明してくれたと思うけれど、私は何一つ思い出せない。いつの間にか電話は切れていた。私は煙草を吸おうと試みた。手が凍えるように冷たくて、火を点けることが出来なかった。そしてその時、やっと理解が出来た。私はルカを失った!涙がやっと出て来た。アンディが帰宅した時、私は子供みたいにただ泣いていて、彼は私をきつく抱き締めた。大丈夫だよと言って私を抱いてくれる彼の腕の中は、とても暖かかったことを覚えているけれど、一体何が大丈夫なのか、まったくわからなかった。ルカが死んだって言うのに。何が大丈夫なの!?私は叫んでみたが、そんなことアンディに言ったところでどうしようもなかった。彼はとても困惑した表情で私を見ていた。ごめんね。私はアンディに言った。ごめんね、ごめんね・・・。何度も何度も。ルカ、ごめんね。私は何を謝っているのかよくわからなかったけれど、謝りたかった。思い出すのは彼が幸せそうに笑った、シュプレー川での夕暮れだ。

 ルカは朝方、ドラッグで朦朧とした状態で道の真ん中を歩いていた。雪が降っていたのに、とても薄着だったと言う。チキータも一緒にいたというから、もしかしたらチキータと散歩に出ただけだったのかもしれない。そこへ一台の飲酒運転の車が突っ込んで、彼を跳ねた。運転手は、そこから逃げた。不法滞在の外国人だった。事故に遭ってしばらくは、彼はまだ生きていたと後から聞いた。動けなくなった彼は、自分の上に降る雪を見ていたのだろうか。目は開いたままだった。夜が明けて、彼は発見された。彼の体には雪が積もっていた。もうその時、彼の体は温かくなんてなかった。チキータは彼の周りを旋回していた。私はその様子を想像したら、気が狂いそうになった。頭の良い彼女のことだ。ルカが息を引き取っていることを知っていたのだと思う。いつも彼の隣にいたチキータ。私は時々彼女を羨ましく思ったものだった。あなたは愛されて幸せね。捨て犬だった子供の頃。ルカと出会ってたくさんの愛をもらった。彼が誰かと寝ている時、彼女はいつもそれを見ていた。もう彼女は、ルカが他の女と抱き合うところを見なくて良いのだ。彼は彼女だけのものになった。永遠に。
 遺体は、ベオグラードへ送られた。彼がそれを望んでいたのか、私にはわからないし、きっと誰も知らないと思う。もう彼は、言葉を発さない。彼の家族の代わりにベオグラードの親しい友達が葬儀をやってくれるということだったけれど、詳しいことはわからない。チキータはダミアンの友達が引き取ってくれることになったと聞いた。チキータのこともそれ以上のことは知らない。
私は、結局ルカに会わなかった。アンディは最後の別れを言うように私を説得したけれど、私は彼に会う勇気がなかった。ダミアンは、会うのも会わないのも君次第だよと言ったきりだった。最後だとはわかっていた。だけど、心の底では信じていなかった。私は、彼の遺体を確認しなければ、彼はどこかで生きていると信じることができると思ったのだろうか。“またいつでも会える”と希望を持っていられると思ったのだろうか。いつかどこかで会えると。だけど、もう、会えない。ルカはさよならも言わなかった私を裏切り者だと罵るだろうか。たくさんのFワードで彩られた文章で。私はそれを懐かしく思う。


            *

 私は一人、シュプレー川のほとりを歩く。金色の柔らかな西日が当たっていた。もうすぐ四月が来る。ベルリンは日に日に陽が長くなっていく。春が来るよ、そう語りかけながら。振り返っても、返事をしてくれる人は、誰もいない。パウロとアナの子供が生まれたと人づてに聞いた。私はその希望の子供を見ていない。
 雪が、溶けていく。私はふと思うのだ。ルカの上に降る雪を彼はどんな気持ちで眺めていたのだろうと。それはきらきらと輝いていて、とても美しかったかもしれない。もしかしたらルカはその時、笑っていたかもしれないと。
 明日、私はロンドンへと旅立つ。アンディがロンドンで仕事を見つけたのだ。私はそこでも小説を書き続けるだろう。好奇心に満ちた目でページをめくってくれる人がこの世のどこかにいることを期待しながら。

私は英国で見る美しい風景に感動するだろう。そして一年後、私はアルゼンチンにいるかもしれない。パタゴニアの自然はどれほど美しいことだろう。そしてさらに一年後、アメリカ。ニューヨークの摩天楼に酔いしれる。デリー、カサブランカ、ナイロビ、それからパリ。世界中の望んだところ、どこにでも行ける。そのすべての場所で美しいものを見るだろう。汚いものも、悲しいものも。いろんな人に出会うだろう。そしてそれと等しく別れも経験するだろう。また地球上のどこかで会おうと約束して。同時に、もう二度と会えないと心のどこかで理解しながら。私たちは進んでいく。ここではない、どこかへ。私は、行かなくては。だけど、世界中のどこに行っても、私のスーツケースはベルリンに置いて行く。生きては二度とその地を踏むことのなかったマレーネ・ディートリッヒの言葉のように。
 私は、そのスーツケースの中に、たくさんのものを詰め込む。夏のきらめき。ルカと一緒に見たベルリンの空の青み。飛行機雲。嗅いだことのないセルビアの香り、それからブラックミュージックの悲しい調べ。頭の中のユーゴスラヴィアの地図。あの一瞬の出来事、美しい思い出、そのすべてを。私は想像する。クリスマスのプレゼントを開ける子供のようにきらきらとした瞳で、それを開けるあのセルビア人を。
「おやすみ、ルカ。」
私は言った。いつも眠りにつく前のように。
「おやすみ、ヨーコ。いい夢を」


                END
べrとお

眩暈

眩暈

作家志望のヨーコは、一行も書くことが出来ずに国から国へと旅をしていた。彼女はなぜかいつも絶望していた。そんな時たまたま立ち寄ったドイツ・ベルリンで、セルビア出身の男・ルカと出会う。彼はユーゴスラヴィア戦争の後、ドイツへ不法移民としてやって来た男だった。そんな2人は一緒に暮らすようになるが・・・。ベルリン、そこはホープレスが夢を見ることが出来る唯一の場所。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-20

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