ある星の記憶

書きかけです。予定では6章になる予定。

中世

 今は遥か昔のこと まだ一つしか世界がなかった時のこと
 西の国には大変強欲な王がおり 世界中の宝を集めては欲しいままにしていた
 そして世界の半分を支配したのち 豊かな東の国も手に入れようと 
 西の王は聖なる地に悪しき願いを託した
 実り豊かな天の光を遮り 永遠の闇により人々を我がものとしようとした
 良き心を持つ西の国の妃は闇を恐れ 主人を止めようとするが 西の王は悪しき力で竜となる
 竜は東の国を攻め落とし 世界中を日の光から閉ざして闇で覆った
 西の妃は東の王へ世界を助けるよう懇願する 
 そして妃は自らの身を捧げて その良き願いから竜を討つための剣となった
 東の王はその剣を以って 闇を支配する竜を討ち取る 
 するとその刃は闇を切り裂き天の光を呼び戻し 裂いた竜の身から清らかな水を生み出した
 水と光を取り戻した世界は再び実り豊かな地へと戻る
 東の王は世界を統一し 最高の王として末長く統治したという
                                 ー『討龍神話』ー
 
 

 そこは荒野だった。草木どころか芽一つ岩盤の裂け目から覗くことなく、ひたすらに薄片が乱雑に散らばるだけの起伏すらほとんど無い平地。ただ空だけは不気味なほどの快晴で、直接的な日照りは単純に乾きのみを男にもたらした。
 なぜこんなところに住もうなど考えたのかと、ある建物を前にして足を止める。
 こんな何もない荒野になぜか、不釣り合いにも日干しレンガで建てられた家がある。小屋でもあばら屋でもなく、下手したら普通の人が住んでいるものよりもはるかに上等な立方体の住まいだ。瓦で覆われた屋根なんて久々に見た。フードの下の額の汗をスカーフで拭いながら男は思う。
 この炎天下の中をずっと歩いてきた。喉を潤そうにも水筒にはもう水はない。水分を得ようにもまず水源がない。流石にこの距離を自分の足で来ようなどと思ったことは随分前から後悔していた。
 人が通る道路もここから見れば地平線の距離。最寄りの町ですらもはや見えない。自分がこの果てしない平地の一体どこをさまよっていたのかわからなくなっていたほどだった。
 肩で呼吸をするこちらをよそに、その家の前でここに来て初めての人影を確認する。数日ぶりに見た人間は、やけに浮世離れした仙人か何かであるかのように見て取れた。姿はぼやける距離だ。老いているか若いかも定かではない。
 自身の体が貧弱であることは自分が一番自覚している。魔道具で疲労だけを癒しながらも渇いた体を引きずり、重い足でほとんど起伏がない岩場を踏み進む。
 あと何歩で彼の元にたどり着けるのだろうか?それを計算するだけの体力すらもうない。意識に引きずられるように、ただ前へと進む。
「ようこそお越しくださいました。」
 なぜか彼は笑みを湛えたままこちらへと歩み寄ってくる。近いようで遠い、そんな距離を。なぜ笑っていられるのか男にはわからない。
「見たところ大変お疲れのご様子。よろしければお身体を支えましょう。」
 澄んだ声へと顔を向ければ、裾の長いガウンを引きずったやけに年若な青年がいた。こんな地の果てに不釣り合いな、虚弱で青白く頼りげないお人好し。それが男から見た印象。
「……隠………者?」
 息を荒げ、やっと出てきた言葉は青年へと疑問を投げかけるものだった。
「はい、私がゼヴィアラです」
 唖然とする男が何を考えていたのか、すぐに察しがついたのだろう。青年は苦笑しながら男の肩を支える。
「あなた様の疑問も最もでしょうが、ここで話すのも難です。先に我が家に案内しましょう。中に白湯を用意してあります。」
「あ、ああ…。…すまない…。」
 もはや喉から出る声が搾り出しただけの空気の振動のようだった。思った以上に年若の、自称隠者に支えられながら男は最後の距離を進んだ。

 吹き抜けになっている居間の全面に棚があり、その全てにありとあらゆる種類の書物、文献、遺物、資料が詰め込まれている。紙で装丁された本、革張りの巻物、象形文字の刻まれた粘土板に箱型の複雑な金属機材、精巧な作りの古い魔道具に一見すれば装飾品にも見間違う記憶媒体。所狭しと詰め込まれた四方の棚を覆うように、目には見えない壁のような封印が施されていることが男にはわかった。そのせいで広いはずの居間は視覚的にも感覚的にも圧迫感が強い。しかし中央の天窓から唯一、外の眩しい光が差し込み室内を照らす。
 中央に置かれた石造りの椅子に腰を下ろした男。ため息をつきながら部屋を隅から隅へと見回す。
「珍しいですか?」
 居間の奥、実体のないベールで区切られた部屋からゼヴィアラが盆を携えて出てくる。
「あなた様ほどの方でしたらこのような風景など見慣たものと思っておりましたが。」
 男の前に湯飲みに入った水が一杯、差し出された。男はつい先ほどまで頭を目部下まで覆っていたスカーフを解く。
「いや。資料庫といえど、これほどまでに書物を蓄えてはいなかったな。」
 男は部屋を見渡しながら目を輝かせていた。湯飲みの水をすする。先ほどまでの飢えて死にかけていた様が嘘であるかのように生き生きとしていた。
「こちらではもはや古い資料を復元する者は少ない。劣化したものから捨てられ、必要とあれば都合のいい書物のみをその都度探し出す。……ひどい有様だ、本当に。」
 男は目を細め、眉をしかめる。スカーフの下の男は色の薄い髪を中途半端な長さに乱雑に切りさえしているが、肌の汚れもなく不自然なほどに日にも焼けていない。しかし顔立ちは若い割にやけに厳つく、老齢な形相を崩さない。
「水をありがとう。おかげで助かった。そしてあなたにお会い出来た事に重ねて感謝を表す、隠者殿。」
湯飲みを置いた男は椅子から立ち上がると若き隠者へと手を差し出した。
「こちらこそ、あなた様を歓迎いたします。」
 お盆を抱え、握手を返すゼヴィアラ。
「改めまして、私はゼヴィアラと申します。」
「私はシルフィニアという。隠者と話には聞いていたが、まさかこれほのまでに若いとは思ってもいなかった」
「積もる話もございましょう。まずはお掛けになってください。」
 シルフィニアが椅子に腰掛けるとゼヴィアラはお盆を側に置きながらその向かいに座った。
「この家は亡き師から最近譲り受けたもので、その隠者というのは師のことでございましょう。」
「それで今はあなたがここの主か?」
「そうでございます。」
 若い隠者は緊張感のない穏やかな笑みを浮かべながら傍の本棚へと目をやる。膨大な数の資料。本の一つ一つが大きさ、文字、言語によって細かく段分けして並べられ、巻物は装飾の特徴ごとに山となり積まれる。魔道具や記憶媒体はケースに閉じられて展示品のごとく飾られるか、または紙や布に包まれながら保存さている。石板もまた割れぬようにと額に一つ一つ入れられている。そして棚全体が外界から隔絶するために透明な障壁によって封印されている。
 遺物に囲まれた圧迫感のある居間で、それでもよく見れば資料や文献の一つ一つがシルフィニアの知る限りでは丁寧に管理されていた。
 それでも部屋を見渡した後、シルフィニアは不安な表情をゼヴィアラへと向ける。この若い優男は穏やかで人の良さそうな世間知らずではないのだろうか。おそらくこれまで学問だけに集中すればいい人生を歩んできたのだろう。世間離れした感じがぬぐえず、どこか頼りない。
 そんなシルフィニアの様子に気を悪くすることなく、ゼヴィアラは印象通りの穏やかな笑みをシルフィニアへと返した。
「ご心配には及びません。私は、私の一族はこのために今日まで知識を守ってきました。知識を必要とする方のためにこの土地を住処としたのです。」
「そうか、あなたは…始めに来たときから、すでに私が来ることを知っていたようだったな。」
「はい。」
「私が何のためにここに来たのかも知っているのか。」
「ある程度のことまでは。」
「それでは」
「申し訳ございませんが、いきなりあなた様の望まれる答えをお返しすることは出来ません。」
 言葉を遮られての否定と謝罪だった。言うに連れて力が入ってしまったシルフィニアだったが、いきなり勢いを断たれて落胆してしまう。
「私は来るものは拒みません。しかし出来ることは求める者に必要な情報と助言を与え、お力添えすることのみ。万能ではありません。今あなた様の周りにあるものが私が提供できる全てなのです。」
 シルフィニアをよそに淡々と語り続けるゼヴィアラ。無意識のうちに力を込めて掴まれた湯飲みに気づき、そのまま口へと運ぶ。
「まずは落ち着きなさってください。どれだけ急がれようとも、順序を得なければ目的は達成されない。荒野で導を失い飢え死ぬのと同じこと」
「ああ、それもそうだ」
 湯飲みを置き、一息つく。静かに瞼を閉じたシルフィニアは、自身の当初の目的をゼヴィアラに問いかけた。
「…隠者殿は、『討龍神話』についてはご存知だろうか?」
 瞼を上げて視線を向けた先に、席を立ったばかりのゼヴィアラがいた。若き隠者は何のためらいも迷いもない動作ですぐま後ろにあった本棚へと手を伸ばす。鈍い重低音と共に手が封印の障壁へとめり込んだ後、一冊の革張り装丁の厚手の本を抜き出す。
「はい、存じております」
 そして席に戻りながら本の表紙に挟まれていた紙切れをシルフィニアへと差し出した。
「これはなんだ?」
 紙切れではなく皮切れと呼んだ方がいいだろう皮紙に、炭で達筆な筆記文が書かれている。
『今ハ遥カ太古ノコト コノ世ニ一ツノ世界シカナカッタ時代ノコトーー』
「……討龍神話?」
「かつて師が旅人から伺ったという、民間に語られる『討龍神話』でございます」
 シルフィニアは皮紙を手に取る。自身の手と変わりない大きさの長方形の皮紙に、炭でメモのように綴られた丁寧な筆記体。これを記した人物、ゼヴィアラの師はたいそう立派な御仁であっただろうことが伺い知れた。
「今は細々と昔話として伝わっているだけのものですが、しかしこの元となった歴史なれば存在します。」
 再び腰を下ろしたゼヴィアラが先ほどの本を開く。
「東の王の名はアルザス、西の王の名はトルーガ。それぞれエトアとラグルという国の王でした」

 二つの国は元は一つでしたが、先の王が二人の後継者にそれぞれ領土を分け与えて二つの国が創られたのです。そしてその子孫であるアルザスとトルーガは幼い頃から実の兄弟であるかのように仲が良かったと伝わっており、それゆえ両国の関係は大変良好だったそうです。
 そしてアルザスにはアレアスという名の妹がいました。トルーガがラグルの王位を継承しアレアスが妙齢となった頃、アレアスとトルーガは聖なる地で婚礼を挙げました。
 そしてトルーガの治世となり数年経った後、ラグルの領土は日照りにより深刻な飢饉に陥ってしまいます。聖なる地で神に祈っても無意味で、さらに深く井戸を掘っても水は湧き出ませんでした。飢えた王国を救うため、トルーガは親友であるアルザスの治めるエトアに助けを求めたのです。
 しかしこの時飢饉に陥っていたのはラグルだけではありませんでした。エトアもまた国中が餓えていたのです。
 ラグルから支援を頼まれても、エトアにはそれに応える余力がありませんでした。アルザスは心苦しく思いながらも、使者をラグルへと送りました。
 しかし話を受けたトルーガは大変に激怒し、使者を切り捨ててしまいました。あれほど仲の良かったはずのアルザスは、トルーガを見捨てて己のみ助かろうとしていると受け取ってしまったのです。
 アルザスの裏切りという結論に達したトルーガは自分の妻であるアレアスを捨て、最後の望みとして伝説に伝えられている聖なる地にて禁忌を犯す道を選びました。
 アレアスは兄が親友にひどいことをするはずがないと信じてアルザスの元を訪れました。しかし彼女が目にしたのはエトアのひどい旱魃だったのです。アレアスからトルーガの行いを聞いたアルザスはひどく心を痛めます。しかし誤解を解こうにも苦しむエトアから君主であるアルザスが離れるわけにはいきません。兄の意思を伝えるためにアレアスは再びラグルへ戻りました。
 ところがラグルは彼女が発した時とは大きく様変わりしていました。飢饉ながらも人がいたはずの街は日照りにより崩れ落ち、食べるために細々と耕していた田畑は荒れて草の芽一つすらない。そして何よりも人の姿が消えていたのです。
 不安を抱いたまま城に戻ったアレアスはトルーガを探しますがどこにもいません。それどころか側近、従者すらも見当たらない始末。
 静まり返った城を歩き回り、やがて何やら騒がしい物音に気付きました。アレアスは音を辿って城の裏に出ると、そこには信じられない光景が広がっていたのです。
 トルーガは飢えた民を集め、エトアへと侵攻するための軍を作っていました。いくら苦しみぬいても救われぬことのない不満を持った民。トルーガはこの原因をエトアの策略だとして侵略戦争の扇動に利用したのです。
 一体これはどうしたのかと、アレアスはトルーガへと問いました。しかしそこに立っているのはアレアスの知っていた優しい王ではなく、邪悪な心に支配され魔王でした。トルーガはアレアスへ元友の行いを強く批判します。それに対してアレアスは兄の無実を訴え、母国が今どのような惨状にさらされているかを説明しました。しかしトルーガはアレアスの言葉に耳を貸すことはなく、逆にアレアスを反逆の見せしめとして処刑することにしたのです。
 アレアスはトルーガの変わりように深くなげき悲しみました。そして処刑される直前、自身の魔力全てを一本の剣に注ぎ込み魔剣を作ったのです。そしてそれを兄であるアルザスの元に届けるよう従者に命令しました。
 魂なきアレアスの体はラグルの戦意高揚のために張り付けにされました。そしてトルーガはエトアへと攻め入ったのです。
 なんの知らせもなくいきなり攻め入られたエトアは、トルーガ率いる大軍の前に負けてしまいます。民が死に領土が蹂躙されることも悲しいです。しかしそれ以上に悲しかったのは親友であったトルーガの変わりようでした。アルザスがどれほど声をかけようとしてもトルーガは耳を貸さず、アルザスへと憎悪を向けただけだったのです。
 国を守るために親友と戦うのか、どうすれば誤解を解けるのだろうか。そうアルザスが深く悩んでいたところに一足遅くアレアスの従者が到着しました。そしてアルザスは妹の訃報と遺言である武器を受け取ったのです。
 アレアスの剣を受け取ったアルザスは心を入れ替え、確固たる意思を持ってラグル軍を迎え撃ちました。見事勝利したエトア軍は見違えるような快進撃を続け、そしてついにラグルの城にトルーガを追い詰めたのです。

「やけに詳しいことが書かれた歴史書だな。」
 ゼヴィアラが息をついて話を区切った瞬間、シルフィニアが口を開いた。
「それは歴史書ではなく昔話の元になった伝承か何かなのか?」
「いいえ、違います。」
 ゼヴィアラは読みかけのページに指を挟んだまま表紙をシルフィニアへと見せる。
「『全世界大史』という、昔の世界史の主な出来事が全て書き込まれた歴史百科です。これは『全世界大史』の2つ目の本でございまして、人類の歴史の中でも文字が記され始めたばかりの頃の時期をまとめているものです。そして今日『討龍神話』として伝わっている話もまた、かつてはある国の正史として事細かに記録されていたものなのです。」
「少々拝見させていただいてもよろしいだろうか。」
「どうぞ。」
 そう言うとシルフィニアはゼヴィアラから『全世界大史』を受け取る。ページは元の場所を開けたまま、中身に軽く目を通す。
 まず書かれている文字から違う。筆記体の簡略字、絵を模った象形文字、無機質な記号文字。それぞれ3つのバラバラの言語で書かれている。しかし語っている内容は同じだ。
 世界の各地で文字が使われ始めた理由やその起源、それがどう魔術や生活と結びついていったか。そして政治や戦争、国の興亡のこと。
「先程私が読み上げた一節はアルシエラ史の中世時代、ラグル戦役を記したものです。この時代以前までは正式にまとめられた歴史の資料というものは断片的にしか存在しないのですが、後の時代に成立した帝国により、『創国記』として古代のアルシエラ地域の歴史書が編纂されたのです。」
「断片資料の編纂は著者の主観がよく入る。特に正史という扱いであればさらに信用が低くなる。」
「あなた様がそのようなことをおっしゃられるとは……」
 ゼヴィアラは苦笑した。当のシルフィニアは特に気にする様子もなく、目を通し終えた『全世界大史』をゼヴィアラへと返す。
「この本がどう私に役立つというのだ、隠者殿。」
「多くの書はシルフィニア様のおっしゃる通り、書き手によって歴史の記し方に差が出てきます。しかしその為に我が一族は長い時間をかけてあるだけの資料をこうして収集しているのです」
 ゼヴィアラは再び革張りの分厚い『全世界大史』へと目を落とした。
「それでしたら、まずは『創国記』に記されたラグル戦争の結末から語りましょう」

 エトア軍がラグルへと進む最中、領土で目にしたのは打ち捨てられた村と田畑の数々だった。生活用品は家具から小道具に至るまでほとんど消え、家畜は食べ尽くされて死体は皮すらも残らない。そして途中の道ではその両端には人々の張り付けにされた柱が並ぶ。だが残された骨すら割られて中の髄すらも吸い尽くされていた。何よりも不気味だったのは不毛の土地であるにもかかわらず、雨を降らすことのない暗雲が常にラグルを覆っていることだった。
 長い間進軍してやっと見つけた老婆にアルザスは話を聞く。飢餓が起きてから、かつて民に慕われていた国王トルーガは人が変わったように狂ってしまった。国中に住む人々を王都へと強制連行し、従わなければ見せしめとして殺した。そして軍を利用して残った村や町から徹底的に略奪をしたという。
 そして老婆は連行された人々は聖なる地に生贄として捧げられているのだろうと言った。多くの生贄をささげて禁術を行い、世界を支配せんとする野望を叶えようとしているのだろうと。その証拠に、暗雲はラグル城の近郊に面した聖なる地から上り続けていると。
 老婆にラグルを救うよう頼まれたアルザスは老婆から少ないはずの食料の供給を受け、聖なる地へと軍を進めた。
トルーガに会うべく聖なる地へと向かう。その間にラグル軍から攻撃を受けることはなく、更には賊や暴漢に出くわすことすらもなかったという。順調に進軍できる状況はある種の安心をエトア軍へと与えたが、それと同時にえも言われぬ不気味さを感じざるを得なかった。
 そしてついにエトア軍は無人となったラグルの王都、グランクルスへと入る。この時代はまだ低い防壁に囲まれただけの城塞都市に、エトア軍が入りきったところからラグル側の攻撃が始まる。歩を進めるエトア軍に対して上空から火の玉が襲い掛かったのだ。それはグランクルス周辺に壕を作って身を潜めていたラグル軍による攻撃であった。
 アルザスが進軍の途上で出会った唯一の老婆はトルーガの従者であり策士であった。彼女の言葉通りに進んだアルザスはもぬけの殻となった異国の首都グランクルス、地の利のない異邦の地を拠点として坊城戦を行う羽目になってしまった。
 この時代の主な戦争の形態は会戦形式であり、軍が向き合って正面からぶつかることが主であった。しかしそれに反して相手を不利な状況下に追い込み襲撃戦を仕掛けたトルーガ率いるラグル軍の先鋒は当時にしては大変特殊なものだった。
 
「『創国記』の著者は大変な軍略好きであったのでしょう。ラグル戦役の中において、このグランクルスの戦いは特に念入りに書かれております。」

 当時の主力は槍と弓矢という人力による直接的な武器が主だった。魔術は存在したがこの時はまだ仕組みが解明されていなかったため、呪い師や神使が祭祀に使うことが主な”奇跡”でしかなかった。ましてや対人戦に使用するには、威力は無作為であり使用者含め周囲にとっても危険な代物だったのだ。
 グランクルスの戦いはアルシエラにおいて初めて魔法が武器として使用された戦いだった。遠距離から、しかも塁壁に隔たれた位置からの攻撃はエトア軍にとって初体験だったのだ。軍は散りじりになり、逃れようとした者は門の外へと走る。しかし外側からは雷の轟音と炎の爆音が襲いかかる。直接的な攻撃ではない。しかしその大きな音だけでも効果は絶大だった。トルーガは祭祀用の”奇跡”を攻撃用の”兵器”として使用したのだ。
 そして逃げ惑う兵士は羊の群れのごとく誘導され一方向へと動いていく。そしてグランクルスの中で固まってしまったエトア軍は城壁の中にて一網打尽となったのである。
 捕らえられたアルザスからは、もちろん妹アレアスの剣は取り上げられた。しかしアレアスの強力な魔力が宿った魔剣をラグルの兵の誰もが持つことができなかった。しかしながらただ一人、アルザス以外に剣を手に取ることができた人物がいた。それがトルーガだった。
 囚われのアルザスが再会したトルーガの姿は全身に痣のような紋章を浮かべ、まるで人形師に動かされていたようであったと記されている。トルーガは魔剣を手に取ると初めは重くて持ち上げることができなかった。しかし魔剣を握る手に力を込めると、そこから黒い火花のようなものが飛び散る。そしてトルーガを覆う体の紋章もまた鈍く光り輝いた。そして数呼吸の後、火花が止むとトルーガは魔剣を軽々と持ち上げて見せたのだ。
 この時トルーガはアルザスに告げた。この件で貴様の首を跳ねる。我が恨みは聖なる地の泉の底、遥か深遠よりもまだ深いのだ、と。アルザスは謝罪した。エトアも飢饉で苦しんでいたこと、ラグルからの要請に応えられなかったこと。理由はあれど、一番はトルーガの助けとなれなかったことを謝罪した。トルーガはかつての親友の言葉に耳を貸さなかった。言葉の通じぬ元親友を目の前に、失意のアルザスは処刑の日をエトアの兵と牢獄で過ごすこととなったのだった。
 トルーガにとって自らを裏切り、戦争のきっかけとなったアルザスをただ斬るだけでは気が収まらなかったらしい。彼はかつて、アレアスのために作った「王妃の庭」にて自らがアレアスの剣でアルザスを殺すことを兵たちに伝える。そして処刑当日になりアルザスは「王妃の庭」へと連れてこられた。
 アルザスはトルーガ本人の口から庭のこと、そしてラグル戦役開始までの事の一部始終を聞かされた。全てはアルザスが悪い。ラグルが荒廃したのも、エトアがこれから敗れるのも、妹でありかつて妃だったアレアスが死んだことも全て。トルーガの憎悪の篭った魔剣がアルザスへと振り下ろされた。
 しかし魔剣でアルザスの首は斬れなかった。それどころか魔剣はアルザスに弾かれてトルーガの手をはなれ、アルザスの手へと収まったのだ。
 再び剣を取ったアルザスは妹からの遺言を思い出す。そしてアレアスの剣を手にトルーガへと斬りかかった。
 間一髪のところでトルーガは避け、再び魔剣へと手を伸ばそうとするものの二度も触れることを魔剣は許しはしなかった。アルザスの猛攻を数合凌いだ後、後退するのがやっとだった。
 アルザスはアレアスの剣一本を以って処刑場にいたラグルの兵士をなぎ倒し、最後には囚われていたエトリア兵を救い出した。故人の願いと主人の意思に応じるかのように魔剣は一閃ごとに強力な光を放ち、どのような猛者すらも退けて持ち主であるアルザスを一騎当千させた。一方的な処刑だけが残されていたと思っていたトルーガは一転、ラグル城を捨てて聖なる地へと引かざるを得なくなってしまった。
 この出来事はのちに処刑場となった庭の名から、「王妃の庭の攻勢」と呼ばれることとなる。窮鼠たるアルザスがが猫たるトルーガを噛んだ後、一気に形勢逆転したエトアは敵将が逃げ延びた聖なる地へと進んだ。
 聖なる地は古くから強力な魔力が溜まった地として知られており、領有していたラグルのみならずアルシエラ中の国々が祭祀によって大規模な奇跡を起こす場として珍重していた。例えば怪我や病を癒す奇跡、未来の暗示を示す奇跡、国同士の諍いごとを鎮める奇跡、暗い心を晴らす奇跡などなど。目的は多様であれども、その方法は果物や花などの植物、生きた動物などを聖なる地の泉に捧げるという一点では同じであった。つまりありとあらゆる生命の魔力を泉へと捧げたのだ。
 聖なる地に入ったアルザスがまず驚いたのはその周りにあった死体の山だった。トルーガは国中から人を集めて聖なる地に生贄として捧げていたのだ。
 アルザスの裏切りに深く傷ついたトルーガが最後に縋ったのが聖なる地の奇跡だった。初めは飢饉を終わらせ、雨が降ることを願う。だが奇跡が起こり雨雲が起ったとしても、地にある種は籾殻すらも人に食べ尽くされた後。残った命を救う奇跡を願っても、救う命より死んでいく命の方がはるかに多い。ラグルは放っておいても生きながらの屍でしかなかったのだ。
 絶体絶命となったラグルという国が最後にたどり着いた目的こそエトアへの復讐だった。トルーガはラグルに残った生命、ラグルの民である人々の命を泉へと捧げ、そしてアルザスへの復讐を願ったのだ。
 聖なる地の泉は捧げられた大量の人の魔力によって満たされていた。トルーガはアルザスとの最後の戦いのために、残ったラグルの兵士をも生贄へと捧げていた。奥へとたどり着いたアルザスとエトア軍を滅ぼすために。
 そして泉から姿を現したおぞましい影にエトア軍は大いに恐れおののいた。生贄となった人々の憎悪は巨大な人ならざる化け物の体を成し、目の前にでかでかと立ちはだかる。
 大いなる邪悪な奇跡を前にして引かなかったのはアルザスただ一人。アレアスの願いを叶えるため、エトアを守りラグルを救うため、アルザスはトルーガへと魔剣を振り下ろした。
 斬られたトルーガは倒れ、そしてアルザスにより泉へと入れられた。トルーガの体を覆っていた紋章は光を放ちながら泉から生まれた影を飲み込む。アルザスは最後にアレアスの剣を泉に突き立てた。
 これまでの生贄によって得た莫大な魔力を持つトルーガ、そして魔剣に込められたアレアスの魔力を以って、アルザスは泉に戦いの終わりを願った。
 泉から生まれた怪物の影は消え、暗雲は空へと散る。暗かった大地は薄い曇に覆われてうっすらと大地を日の光で照らした。
 鎮まった泉から魔力の抜けた剣を手に取ると、アルザスは聖なる地を後にした。
 こうして「聖なる地の戦い」を最後にラグル戦役は終わる。そしてこのときやっと、薄曇りは乾いた大地に雨雫を落としたのだった。
 戦いを終えたアルザスが、雨の降りしきる中人々の前へと姿を表す。この時の姿が人の目には絶望の世界を救った救世主と映ったのだろう。アルザスは「救世王」と讃えられるようになる。
 この後、アルザスは旧ラグル領を自らのエトアに統合し、ラグトリア王国の高祖となったとしてこの記述は締められている。

「ラグトリアから数百年後に統一帝国が起こり、ラグトリアは過去のものとなってしまいます。アルシエラの統一帝国が編纂した『創国記』内におけるラグル戦役が先ほどのものとなります。」
 腕を組み難しい顔をしながら耳を傾けていたシルフィニア。ゼヴィアラが『全世界大史』を閉じると余韻を切るかのように一言発した。
「…『討龍神話』とさほど内容が変わらないな。」
「想像以下でしたか?」
「当時の風俗や事情が詳しく書き込まれておれど、それ以上の情報がない。」
 まるで白けたかのような口ぶりである。
「まあまあ、まだ物は残っております。どうか早まらず。」
 ゼヴィアラは再三度席をはずすと今度は石板の納められた一角へと歩み寄った。そして障壁の向こうの棚から、糸で留めただけの古紙の束を取り出す。
「こちらは『創国記』編纂以降に発見された文献の復元です。当時は他の資料より価値が低いという理由で考古学の研究資料にはなっても、『全世界大史』を始め主要な歴史書では取り上げられることはありませんでした。」
「……なんなんだ、それは?」
 席へ着いたゼヴィアラは先ほど手に取った束をシルフィニアの前へと置く。よく見ればこれは紙とは少々異なる。たわむように変形こそしているものの、欠けてもヒビが入ってもいない白い紙面は黄ばんでも黒ずんでもいない。手で触れてみれば指に紙特有の繊維の感触はなったくなく、皮膚に引っかかるほどに滑らかだ。
「これは合成樹脂か?」
 そして紙面には一本の線で複雑になぞったような筆記体の文字が並ぶ。
「具体的には『創国記』編纂から何百年も後に発見された文献の復元なんですが、元の文献もほぼ完全な形で発見されていたそうです。」
 そう言いながらゼヴィアラは束をまとめていた麻の紐をほどいた。
「こちらがラグトニア時代に記された戦役の記録です。まあ、記録、という言い方は少なからず誤植があるかもしれませんが…」
「なぜ言葉を濁す?」
「それはお読みになればおのずと」
 それに、とゼヴィアラは言葉を続けた。
「ご様子を伺っていたところ、おそらくあなたが興味がおありなのはこちらのほうでしょう」

 ラグル国でトルーガ太子が王に即位して数年と経たぬ内の祭祀の日、ある使者が王にお目通りしたいと申し出た。
 聞けば使者はラグルよりもはるか西、未開の地から遣わされた者だという。
 王は使者との面会を拒否した。その日の祭祀にて、聖なる地の泉に未来の予知を願われた王は、厄災に見舞うだろうというお告げを受けた。
 数年の後、エトアより西を望む。アルシエラの大地は大変な快晴で一切淀なし。祝祭日にはなんとふさわしい日か。この日、エトア城より王妹アレアスの輿が出発なされた。婚礼の行列は結納品と献上品を多くの車に乗せて長く長く西の隣国へと続いていった。民草が祝賀に沸く中、アルザス王は古くからの仕来りによりエトアで妹姫を見納めねばならぬ立場を寂しく思われたという。
 婚礼より時が経ち、アルザス王は聖なる地へとエトアの祭祀のために訪れる。そこで初めて夫婦となったラグル国王夫妻と対面される。古くから親しい仲であった御三方は和やかな雰囲気の中会話を楽しまれた。アルザス王はラグル国に対し、末長い平穏を願った。
 しかし聖なる地は祭祀によって不吉な予兆を表すのみであった。
 後日、ラグルに再び遥か西よりの使者が現れる。また同じく王にお目通りしたいと申し出る。トルーガ王は祭祀の凶兆続きを受けて使者との面会を許した。
 トルーガ王の前に現れた数人の者たちは大変貧しく年老いた出で立ちだったという。みすぼらしい古布で醜い痩せた体を隠した使者の姿にトルーガ王は大変な不快感を示した。
 なんでも、ラグルよりはるか西の地では地が乾き水は枯れ、すでに食べることができる獣の骨のずいも草の根一つもないのだという。哀れな西の地を救うよう使者はトルーガ王へと申し出た。
 ならば食べるものと必要な分の家畜、井戸を掘り畑を耕す方法を知る学者を遣わそうと王は使者へ伝える。
 しかし、なんとそれに対して使者は激しく怒ったのだった。東方に豊かな地があると聞いてきてみれば、その地の支配者はなんと心狭く利己的であるのかと。これほど豊かな地を治めながら、我々にくれるのはガクシャという名の奴隷だけか。腐る程多くある実りをなぜ今すぐ持ってこないのか。そなたらががその気なら、この地に西の地の一族の運命をかけた呪いをかけると罵倒を続けた。
 トルーガ王は始めは使者の言い分をお聞きになり説得を試みた。だが無礼な言動を返すばかりの使者に王は次第に憤怒し、遂には全員を斬首とした。西の地の民はなんと野蛮なことかとおっしゃりながら王の間を後にされた。
 しかし一年たった後、アルシエラに雨が降ることはなくなった。民は凶作に飢え始め、街には将来への不安から暴徒と化すものまで現れた。
 トルーガ王はアレアス妃と共に聖なる地の泉に雨を願われた。しかし泉の様子がおかしいことにアレアス妃は気づかれる。泉を除けばそこに多くの人の屍が浮いている様子が見受けられた。泉から屍を引き上げてみれば、その身なりは西の使者と名乗った者たちと似通っていた。トルーガ王は大いに怒り、西の使者の身なりの者は見つけ次第城へと突き出すようにとのお触れをだした。
 その日の祭祀では貴重な羊や山羊、大きな牛や千年大木の果実など高価なものを捧げたが、泉が奇跡を起こすことはなかった。
 ラグルが飢饉となって数ヶ月が過ぎた。王や妃自身も生活の質を大きく落とされ、飢餓を救う手立てを国を挙げて探していた。そこへ西の使者を名乗るものが三たび現れる。
 多忙なトルーガ王に代わりアレアス妃が使者と面会された。今度の使者は老婆の姿をした者一人だったという。使者は妃に問うた。我々の苦しみを味わいましたかなと。
 妃は答えることなく逆に問い返す。聖なる地に人を投げ込んだのはあなた達の仕業なのかと。泉で引き上げた西の民の装束を身につけた屍の話を老婆へとなされた。
 するとそれを聞いた老婆は満足そうに頷くと、突然おぞましい形相となって妃へと怒鳴った。これは報復である。この豊かな地を飢えた我らへ譲らなかった醜悪なものたちへの報復である、と。
 彼方達は自らの生まれ故郷でなぜ生活しようとしないのかと妃は問われた。老婆は答えた。昔は我らの地もまた豊かだった。しかし人が豊かに暮らせば暮らすほど土地はやせ衰えていく。だんだんと苦しみに沈んでいく我らに対してなぜ東の地はこれほどまでに豊かなのか。それが憎くて妬ましくて羨ましくて忌々しくて、どうしてどうしてたまらない。
 妃は狂ったように喚く老婆を捕えさせた。そして話した内容を王へとお伝えなさった。
 王はすぐさま西の地を調べさせるために斥候を送られた。しかしどれほど時が経っても戻ってこなかった。
 ついに飢餓が始まって一年。これほど長く雨が降らないとはおかしい。土を掘って水がわかないとはおかしい。水を求めて海まで出るも、海水まで干上がり塩しか残っていないほどひどい有様。
 そしてあいも変わらず泉には西の民の屍が浮いていた。祭祀をしようにも手が出せない状態であった。
 トルーガ王は東方のエトア国のアルザス王に救援を求められた。アルザス王は救援に応じて食料を支援なされた。干し肉や干物、根野菜に種籾などをわずかばかり。トルーガ王もご存知であられた。エトアもまた飢饉であることを。アルザス王は今あるエトリアの余力のほとんど全てをラグルへと送られた。それでもラグルの国が息を吹き返すほどの力は戻らなかった。
 追い詰められたトルーガ王は最後の手段をとる。聖なる地に奇跡を願おうとお考えだ。しかし泉にはなぜか西の民の屍がある。聖なる地を厳重に見張らせ、屍を取り除いても屍はまた現れる。何者かが、おそらくは西の使者の誰かが同胞を生贄として泉に捧げているのだろう。なれば今の泉には別の奇跡が願われているのではないか?別の祭祀が行われているのでは…?
 アレアス妃は王に祭祀の取りやめを進言された。しかしラグル国はすでに八方塞がり。他に手立てもなく、トルーガ王は祭祀を執り行うことを決定された。
 泉から念入りに屍を引き上げ、国に残った最後の家畜と作物、そして王家の宝を捧げる。
 王は泉に国を救うことを願われた。
 しかし泉から現れたのは黒く巨大な霧の山。それは不気味な光を一つ灯すと、王めがけて崩れ落ちた。多くの兵が王を助けようと勇敢にも霧へと立ち向かって行ったが、霧は強固で人を弾き飛ばす。アレアス妃もまた王を助けようと霧に触れた。
 そしてわかったのは、黒い霧があてもない強欲と憎悪の塊だということだった。
 誰一人として近づけぬまま霧は王に吸収された。そして姿を現した王はおおよそ、人とは呼び難い姿をなさっていた。肌は西の使者のようで全身に血の滲んだような痣が浮かぶ。その痣の全てが鈍く輝きながら脈打っている様子から、それが魔力を含んだ紋章であることが見て取れた。
 生気が抜けたトルーガ王はそれこそ、文字通り悪しきものに取り憑かれたように人が変わった。ラグル国の民を救うためではない。飢饉でありながら未だ比較的豊かな土地であったエトアを、内側から湧き出る黒い衝動のまま標的とした。まるで王と面会したばかりの西の使者のように。
 トルーガ王はエトア国を呪うべく国中から人を連れ去り、そして聖なる泉に捧げ続けた。アレアス妃はそのトルーガ王の変わりように大変驚き、そして深く心を痛める。アレアス妃は助けを求めて故国であるエトリアの、兄であるアルザスの元へと向かわれた。

「ずいぶんと前半の記述が違うな。話の冒頭から出てきているこの『西の使者』、『西の民』というものは何なのだ?」
「『創国記』を編纂した統一帝国の祖先です。」
 シルフィニアは表情を固まらせた。
「はい。ラグトリア王国が建国されて数百年後にアルシエラは西の地域から現れた民族に征服されるのですが、それがこの時代では『西の民』と表されているのです。もちろん彼らの子孫が『創国記』を編纂しているものだから、『創国記』の記述からは先祖の行いがごっそり消されているわけです。」
「……己の正統性を唱うのが正史の役目だが、ラグル戦役への先祖の干渉をほとんど取り除いているとは…。壮観だな。」
「人の手に記される歴史とはそんなものです。しかしながら、それはこの文献もまた同じこと。」

 ラグル戦役自体の流れは『創国記』に記されたものと大差はない。始めエトアはラグルに押されるが、アレアスが魔力を込めた剣をアルザスが手に取ってからエトアが攻勢に出るところまでは同じだ。
 しかし進軍の途上、エトア軍に声をかけたのは策士の老婆ではない。ラグル軍の人狩りを生き抜いて隠れ住んでいたただの老婦人だった。
 彼女の証言の内容もまた若干異なる。人は強制連行されたのち、老婦人はラグルに囚われていると伝えた。そしてエトア軍に人々を助け出すよう頼んだ。
 アルザスは老婦人の言い分通りグランクルスへと兵を進めた。武装した兵によって守られたグランクルスは誰もいない廃墟ではなく完全に城砦へと作りかえられていた。おそらく囚われた者たちは内部の牢獄につながれているだろう。そして城砦内で自由に動けるのは兵士たちのみである。
 そこで取ったエトア軍の戦法が『奇跡による爆音』からの奇襲だった。『創国記』とは記述が逆なのだ。

「これはどういうことだ?」
 腕を組み直したシルフィニアがゼヴィアラへと問いかける。
「ずっと後の時代の考古学者がこんな考察を残しています。帝国は『創国記』にほぼ完全な悪人としてトルーガを、英雄としてアルザスを描きたかった。だから当時としては邪道な戦法であった攻撃魔法及び奇襲戦法をトルーガに、一騎当千の強兵をアルザスに当てはめたのだろうと」
「では、『創国記』の著者が記した『グランクルスの戦い』の記述はどう説明される?」
「あれは『創国記』のクライマックスとして書かれたものと考えたほうがいいでしょう。」
「だがあなたは先ほど、著者が念入りに『グランクルスの戦い』を書いたと……、ん?」
「はい。彼は力を入れて念入りに、英雄の悲劇の舞台を”書いた”んですよ。そうでなくては帝国にとって、『グランクルスの戦い』は間抜けに終わってしまいますから。」

 爆音により追い詰められたラグル兵の隙をついて囚われていた人々を助け出したエトリア軍。そして『創国記』にあるような強固な軍ではなかったラグル兵は降伏し、エトア兵は彼らを殺すことなく捕虜とした。
 グランクルスを解放した英雄として、アルザスは救い出された者達から歓迎を受けた。
 一見すればこれで大団円かもしれないが、しかしグランクルスの戦いにはまだ続きがあった。
 グランクルスに迎えられたエトア軍。武装を解除していた彼らの隙をついて襲う一団が現れた。
 ラグル軍ではない。意気消沈した彼らは落胆こそすれど、どこか安堵した様子でエトア軍に囚われていた。
 それは先ほど解放したはずの民衆だった。
 エトア軍は丸腰であった彼らに初めは抵抗しようとしなかった。いきなりの襲撃に気が動転したのか、はたまた助けたはずの相手に配慮しようとしたのか。どっちにしろアルザスらには状況の変化に理解が追いつかなかったらしい。エトアの兵士が反撃し始めようとした時にはすでに時遅く、群衆によりアルザスは捕らえられていた。アルザスは結局、丸腰であり素手で襲いかかってきた彼らに一切の抵抗をしなかった。
 将が捕らえられてエトア軍は攻撃を諦める。アルザスは自分を捕らえた者の一人に問いかけた。君たちはなぜこのような行いをしたのか。
 その者は一目見て生気が抜けているとわかるほど、生者としての表情の一切が抜けていた。彼が答える。我々は”彼の方”のために身を捧げることを至高の望みとしている。そのためにお前が必要なのだ、と。
 このときはまだ、アルザスは”彼の方”のことをトルーガだと考えていただろう。そして助け出された人々もトルーガに操られていると。
 生気なき人々の行列は黒い湯気のようなものを上らせながらラグル城へとエトア軍を連れていく。
 武装は群衆によって解かれた。アルザスの持つアレアスの魔力の宿った剣以外は。剣は触れようとしたものの指を弾き飛ばし、アルザス以外を一切触れさせようとはしなかった。結局剣はアルザスの腰に収まったままだった。
 城に入り、エトア軍から離されたアルザスは王の間へと連れて行かれる。兵士によってではない。捕らわれていた民だった者によって。黒い湯気のようなものは体に巻きつき、更には床から伸びており、視線で辿って行った先には王の間への扉があった。
 扉を通されたアルザスの目に映ったのは装飾が荒れ果てて威厳をなくしたラグル城の王の間。そして奥には玉座に腰掛けたトルーガと、見慣れない人影が一人。
アルザスにとっては初めて目にした姿だろう。アルザスの知る限り、エトアでもラグルでも、その周囲の地域でもこれほどのボロ切れを自ら進んで身に纏うものはいなかった。初めて目にした西の使者は妹たるアレアス妃に謁見した老婆だった。
 老婆の操る黒い霧が玉座のトルーガを、そしてアルザスを抑えるラグルの者を操っている。
 貴様は一体何者なんだ。厳しい口調で老婆へと問いかけた。しかし老婆は答えを返さない。王の御前であるぞ。言葉を慎め敗者風情が。そう言い捨てると老婆はトルーガの耳元に口を近づける。その様子を見たアルザスは険しい形相で激しく身悶えした。だが動こうとした体を霧に操られた者により押さえつけられてしまう。
 老婆が囁いた。トルーガは玉座に縛りつけられたように身動きできず、唯一目だけを老婆へと向けた。
 トルーガが口を開く。わが国が飢饉にあえいでいながら、お前は私に一切の助けをよこさず、この国を死へと追いやった。抑揚のない冷めた声が不気味に響く。
 老婆が続く。陛下はこの者に極刑を望んでおられる。しかしながら……。怪訝そうにアルザスの元へと歩み寄った老婆の視線は腰にさされた魔剣へと向けられた。
 この剣はなんとも禍々しく、邪魔ではございませんか、と。老婆はアレアスの剣へと触れようとした。
 触るな!!アルザスが今までにない声で怒鳴った。そして触れようとした老婆が体ごと弾き飛ばされる。見ればアレアスの剣は今一番の眩い光を放っていた。
 何者にも触れられない、触れさせようとしない剣はアルザスにとってこれほど頼りになるものはない。
 悔しさに唇を噛んでいる老婆に代わりトルーガが玉座を立つ。
 目の前に立つ操られた知人の姿にアルザスは困惑していた。
 拒否の言葉を上げるアルザスを尻目にトルーガは剣に触れた。魔剣は始め、老婆の時と同じく眩い光で対抗する。しかしトルーガの方も、肌にまとわりつく霧を鈍く光らせながら指を進ませる。肌を覆う禍々しい光。アルザスの瞳に、全身の不気味な紋章が映された。 
 次第に魔剣の光は引いていき、ついにトルーガの手が魔剣へと触れた。抵抗が収まり、トルーガはアルザスから魔剣を抜き取るとそのまま玉座へと戻っていく。そしてアルザスを押さえ込む者へ、牢に入れておくようにだけ伝えると背を向けた。
 牢へと連れて行かれるアルザスの後ろ姿を老婆はさも滑稽に眺めていた。この時アルザスは強く誓っただろう。この老婆を倒してトルーガを、ラグルを救おうと。
 処刑は史実と同じく『王妃の庭』にて行われた。
 手に枷をはめられたアルザスは処刑台に立たされていた。ただおとなしく斬首の時を待つ。『王妃の庭』に置かれた上座はやはり老婆の姿があり、トルーガはアレアスの剣を身につけて腰を下ろす。 周囲のギャラリーには老婆の眷属となったラグルの民、武装したラグル兵に囚われ、処刑を待つエトア兵が並ぶ。
 処刑人はラグル兵だった。だが霧によって操られてはいない。アルザスの首が晒され、トルーガが命令を下す。
 『王妃の庭』にいる誰も喋らなかった。処刑人が振り下ろした刃が、弾かれてしまい処刑台から落ちる。
 これに狼狽するのは老婆ただ一人。処刑に失敗した処刑人は他の兵に抑えられる。この状況の中、アルザスは一切動揺したそぶりを見せなかった。
 処刑人を罵倒しながら処刑台へと走り寄る老婆。古衣の下から黒い霧が這い出て相手へと伸びようとする。おそらく殺そうとしているのだろう。
 その必要はないと、静止してトルーガは上座から腰を上げた。腰にあるアレアスの剣を抜くと、アルザスの元へ歩み寄って振り上げる。
 アルザスは目の前に立つトルーガを見上げた。その目は凛として揺るがぬ覚悟を秘めている。
 両者の目が合い、観衆は息を飲む。老婆は緊張した空気の中で笑みを浮かべていた。
 重い手を持ち上げ、魔剣を高くかざす。
 そしてトルーガが剣を振り下ろした。斬ったのはアルザスの手枷。
 アルザスは始めは驚いた。だが差し出された剣にすぐさま状況を飲み込むと、トルーガからアレアスの剣を奪い、老婆へと斬りかかった。そして老婆は断末魔を上げて崩れ落ちる。それとともにラグルの人々を縛っていた黒い霧もまた同時に消え去った。
 誰もアルザスを止める者はいない。それどころか『王妃の庭』は歓声に沸き返った。
 全てが終わり友人へと安堵を向けようとしたアルザスの表情が険しくなる。トルーガの身体にこれまでにないほど濃厚な霧がまとわりついていたからだった。
 老いた体一つ切り捨てて終わりだと思うな、と老婆の呪言が庭に不気味に響く。
 アルザスはすぐにトルーガへ、黒い霧へと斬りかかった。しかし霧はトルーガを飲み込むと、庭の地面に、沼に飲み込むかのように体を引きずり込んだ。アルザスの剣は結局当たらなかった。
 その後老婆の遺体はすぐさま回収された。神官や医師が遺体を調べたところ、老婆が全身に紋章の刺青を刻んだ呪術師であることがわかったという。
 ラグルの神官がアルザスに伝えた。トルーガの人柄が変わってしまったのは聖なる地において祭祀を執り行ってからだと。おそらく、今トルーガは聖なる地の奥深く、泉にいるのではないかと。
 早急に装備を整えたエトア軍を率いてアルザスは聖なる地へと目指しグラントリアを後にした。城門を出ようとするとき、人々はアルザスに向かって声援を投げ、希望を託した。
 我々の王を取り戻して欲しいと。
 飢餓が起き、祭祀が行われるまでのトルーガの行いはアレアスからも伝わっていただろう。腰の剣を携え直したアルザスは覚悟を新たに聖なる地へ向かった。
 聖なる地の奥へとたどり着いたアルザスは、泉の前で禍々しい剣を携えるトルーガと向き合あった。
 アルザスが前回祭祀に訪れた時と泉の様子は大きく様変わりしていたに違いない。まるで沸き立つかのように黒い煙を上げる泉の水面、祭祀用の祭壇の上に立つトルーガは煙に巻かれながら全身の紋章を光らせる。
 アルザスはエトア軍のすべての兵士に命令した。聖なる地から出て行くようにと。多くのものが君主と運命を共にすることを申し出たがアルザスは頑なに断った。
 黒い霧の呪いは大変強力である。それを断ち切ることが可能なのはアレアスの剣だけ。私は大丈夫だから待っていてくれと。
 一人残ったアルザスは魔剣を抜いた。トルーガの背後には、まるで背後霊であるかのように不気味な煙が立ち上る。トルーガは朦朧とした目ながらも、身に覚えのない殺意をアルザスへと向ける。
 禍々しい背後霊を断ち切らんとアルザスは切り込んだ。それにトルーガも反応する。数合打ち合って状況は動く。トルーガもアルザスも武術の腕は肩を並べるほど。しかしトルーガを押す不気味な力にアルザスは次第に足を引いていった。
 周囲に人がいれば、両者が一進一退の攻防をしているように見えただろう。だが実際にはアルザスはトルーガに追い詰められていた。
 トルーガは打ち合いが進むにつれて人間らしかぬ反応と動きでアルザスの先手を取らんとした。果てには隙をつき、急所を狙う。アルザスはどうにかしてその攻撃をしのいでいた。
 しかしアルザスに限界がくる。トルーガの急所を狙った一撃を流した直後、トルーガはなんと素手で魔剣の刀身を握った。
 驚くアルザスに魔剣を引き抜こうとするトルーガの力が加わる。必死に奪われまいと踏ん張るようだが、もはや両者の力は釣り合いなどしないほど差がついていた。
 そして奪った魔剣で、トルーガは自身の体を刺した。
 アルザスは唖然とした。目の前で崩れ落ちる相手の姿に何もできなかった。
 そして倒れたトルーガの手からアレアスの剣が溢れ落ち、その時初めてトルーガへと駆け寄った。
 どうして、どうしてこんなことを。
 困惑した様子のアルザスに抱きかかえられたトルーガ。力の抜けた体から全身を覆う紋章が湯気のように消え去っていく。
 すまなかった。ラグルとエトアの民、そしてお前とアレアスには特に迷惑をかけた。
 力なくトルーガは呟く。
 アルザスは今すぐトルーガの傷を癒すからと言いながら泉へと目を向けた。その為には奇跡が必要だ。しかし泉は使えない。黒い霧が湧いているのだから。
 トルーガが助かるはずはないのだ。
 私の罪は許されるものではない。こうなった以上もう王であるなどもっての他だ。
 力なく紡がれるトルーガの言葉にアルザスはただ涙していた。結局助けられない。妹を失い、果てにはかつての友人すらも助けられない自身の無力さがよほど悔しかったのだろう。
 泉から静かに一筋の影が伸びる。黒い湯気のような魔力を上らせ、二人の元へと音もなく這い寄る。
 迎えが来たようだと呟く。トルーガにはわかっていた。
 次の瞬間アルザスの懐に黒い煙が吹き出す。トルーガの体を飲み込んだ煙は強い力でトルーガを泉へと引っ張った。
 駄目だ!!叫んだアルザスはすぐさまトルーガの腕を掴む。煙の中からトルーガの頭部から肩にかけてやっと露わになった。
 やめてくれ、やめてくれとトルーガは呻いた。
 煙には徐々に重い力がかかっていく。トルーガの体を引き裂くほどの。それでも決して手を離そうとはしない。
 ”あれ”は私を求めている。私さえ渡せば収まる。私は”あれ”を鎮めねばならない。
 トルーガはアルザスに懇願する。しかしそんなことはやらさない。絶対にさせるものか。アルザスは力強く返した。
 腰に力を入れ、渾身の力で踏ん張る。しかし泉は目の前。煙の力は増していく。そしてついにトルーガの体は泉の淵から落ちた。 
 一瞬のけぞった拍子に、この時アルザスは初めて聖なる地の泉の奥底にある「何か」を目にした。
 霧はまとわりついてトルーガを離さない。そして泉の底の「何か」が地を這うような音でうわ言を繰り返している。
 ーヒトオ、ヒトヲ、ヒトを、人を、と。
 怨恨憎悪の塊。この黒い塊を言い表すのはこの文字のみ。日頃人の抱く言葉にし難い負の感情の塊、その権化。
 深淵から覗く禍々しい瞳はアルザスに向けられたまま。トルーガは強い力で底へと引っ張り込まれる。そしてその力ははっきり体感できるほどに徐々に大きくなってく。それでもアルザスは踏ん張っていた。
 まだ引っ張っている。だがトルーガは引き上がらない。まだ張り合っている。だが一体いつまで友人の体が保つのか。重くなっていく。もう限界が近いはずだろう。
 アルザスに向けられたトルーガの目はもういい、もういいと声なく訴える。体が痛いこと以上に、これ以上アルザスを巻き込みたくないと、心の痛さの方がはるかに上回っていた。
 だがアルザスは手を離さなかった。このままではトルーガの腕がちぎれるのが先か、アルザスも巻き込まれるのが先か。明らかに泉の淵でこれ以上は耐えられないだろう。
 歯を食いしばったアルザスは突然右手をトルーガから離した。一瞬力のバランスが大きく崩れる。トルーガの体が泉の底へと傾いた。
 これでいい。恐怖ではなく安堵の色がトルーガの表情から出る。
 だがそう思ったのは本当に一瞬だった。
 アルザスは魔剣で霧を斬りつけた。強力な魔力同士がぶつかり強い衝撃がアルザスを、トルーガの体を直に襲う。そしてトルーガの体は上へと弾かれた。
 たった一閃で黒い霧はトルーガの体を離して四散した。泉の底で「何か」が大きくのけぞる。
 泉の淵にはアルザスと左手に掴まれたトルーガが残された。
 やっと君を助けることができた。
 笑いながらながらアルザスはトルーガへと言葉を投げた。トルーガは驚きの表情のまま固まってしまった。一体何年ぶりに目にしただろうか。この表情自体は覚えているのに、最後にいつ見たのかは思い出せない。
 引き上げられたトルーガは立ち上がれなかった。頭を垂れたままひたすらに謝った。詫びた。それでも許しは請わなかった。これまでやってきたことが一方的だったために、もはや許される資格などなかった。
 アルザスは地に伏したトルーガと同じ目線で語りかける。立ってくれ。もう一度やり直さなければならないんだ。
 君は泉の中に潜んでいた悪意の化身に乗っ取られてしまった。だが君は一度もこの結果を望んだことはないし、自分から他人を憎悪したことなどなかったはずだ。
 君は結局、あの庭で、私を斬りはしなかった。ラグルの兵も民も、君の帰還を望んでいた
 私一人ではどうすることもできなかった。アレアスがいなくなった今、君は帰らなければ意味がない。
 アルザスの涙ながらの呼びかけにトルーガはただ嗚咽した。一体どうすれば、どうすればここまで思ってくれる親友を、唯一無二の友の心に応えられるだろう、どうすれば彼の思いを救えるだろう。トルーガにはどう答えればいいかわからなかった。この先どうすればいいかも。
 互いに泣き合う二人の横で、泉の水が持ち上がる。
 水面が膨れ上がり、そこから憎悪の塊が姿を表す。波が淵から溢れて飛沫が二人を濡らした。
 巨大な漆黒の頭に二つの光る瞳、下からは首が伸び、体からは腕ではなく霧の触手を伸ばす。
 憎悪の塊は周囲へ闇雲に触手を這わせた。しかし泉の周囲にはアルザスとトルーガしかない。
 ーヒトを。人を、誰か。食わなければ、腹が減る。
 憎悪の塊は怨念を繰り返し呻き続ける。
 アルザスは剣を握ると這いずり回る霧を追い払った。トルーガも身を引いて霧から遠ざかる。
 魔剣が霧に触れたことがいけなかったようだった。アレアスの剣が宿す魔力を憎悪の塊が感知したらしい。
 獲物を認識した黒い霧がアルザスへと一本に集中する。魔剣はアルザスに近づく霧の波を弾いた。だが次々に押し寄せる波全てを払えない。
 アルザス!!叫んだトルーガが我が身を以って盾になろうとした。だが憎悪の塊はトルーガを狙わない。
 霧の触手はアルザスの足を絡め取るとそのまま空中へと持ち上げた。即座にアルザスの手を取ったトルーガ。しかし獲物を飲み込まんとする黒い霧がその手を引き剥がす。強く握っていたアレアスの剣さえも霧によって飲み込まれ、そして吐き出された。
 祭壇へと吐き出されたトルーガと剣。体を持ち上げたトルーガの目に飛び込んできたのは大きな穴を開けた影の頭に飲み込まれんとするアルザスだった。
 トルーガはすぐさまアレアスの剣を手に取る。意志に応えた魔剣はしっかりとトルーガに握られた。
 そしてトルーガの耳に声が届いた。
 ー私を食べればお前は満足なのか?
 アルザスの問いかけだった。憎悪の塊に対しての。
 この身体は生贄の総意。塊が答える。
 これまで生贄に捧げられてきた者たちの想いの行き着いた先の姿。だからこそ、だからこそ。この身は人を食い続けなければならない。生贄に捧げられた者は皆人の欲のために犠牲になったため、欲を叶えるために人の魔力が必要。欲は際限ない。だから際限ない魔力が必要だ。
 それが憎悪の塊、憎悪の感情の正体。これが憎悪を願った人々の起こした奇跡。
 ーなら、私は自分を生贄にして、お前の欲になることを望むよ。
 耳にはっきりと届いたアルザスの言葉にトルーガは振るい上げた剣を緩めてしまった。
 ……なんだと?アルザス、お前…なんだと……。
 トルーガの目の前でアルザスは食われた。トルーガの手に握る剣が重い。剣は、アレアスの魔力は呆然とするトルーガの様子に困惑しているらしかった。魔剣はトルーガを拒絶しだす。
 ーそれで君が救えるのならば
 それでは駄目なんだアルザス。
 影に飲み込まれたアルザスにこの声は届いているだろうか?
 お前が、お前がさっき言ったんだろう!君がいなければ意味がないと!なら私は!私はお前に一人取り残さてたまるか!お前に何も出来ないままでいろと!?何一つ償えないまま、何の為にこの命があるんだ!!
 叫ぶトルーガの前で、アルザスを飲み込んだ憎悪の塊は再び形を人に近いものに戻し、触手を伸ばしだす。
 獲物はもう一人目の前にいる。塊に再び穴が開いた。
 ーまだ食べ足りないのかい。
 アルザスの一声とともに憎悪の塊が突然動きを止める。縛られたように痙攣し、霧も煙も揺れることなく空気中で粒を震えさせる。
 ーだが、もう生贄はいらないんだよ。私一人の命があれば全て事足りる。
 痙攣する体が不規則に脈動し始める。見れば黒い霧の体のところどころが糸がほつれたように分解を始めていた。
 ートルーガ、どうか、君がこの手で全てを終わらせてくれ。その剣でこの怪物を刺すんだ。
 アルザスがトルーガに語りかけた。飲み込まれたというのに、恐れなど一切なく、なんとも落ち着いて穏やかな声音だ。
 終わらせるだと?悪いのは私だけだ。お前がこんなことにならなければならない理由はまったくない。
 ーいや、ある。アルザスは返す。
 私たちは長い間共に困難を乗り越えてきた。だから、これからの平和のために私はアレアスと共に君に願いを託す。私が君を救った恩義があるなら、この私の傲慢も聞き入れてくれ。
 トルーガはそれ以上反論しようとは思わなかった。複雑な感情が渦巻く中、トルーガにアレアスの剣を握らせたのはやるせないという気持ちだった。
 自分が招いた結末を、友人の願いを以って終わらせるために。
 トルーガは腹の底から叫んだ。刃を塊へとつきたてた。塊は断末魔をあげた。魔剣からはまばゆい光が放たれ、聖なる地全体を飲み込んだ。

 外ではエトア軍のほか、最後の戦いを気にかけた者たちが聖なる地に集まっていた。突然轟音が祭壇から響き渡ったかと思うと、一筋の光が奥地から登るのが誰の目にも映った。
 ラグルを覆っていた暗雲が割れて、天から日差しが差し込んだ。そして次第に暗雲は散り散りになっていき、雨が降り出した。
 日の光に照らされた雨雫は眩く光り輝く。まさに、奇跡の光景。
 雨が乾いた大地を十分に濡らした頃、聖なる地の奥から人影が浮かび上がる。
 誰もが英雄の帰還を心待ちにしていた。皆の視線が一堂に集中する。
 雲間から差し込む日差しに照らされて、アレアスの剣を携えた王が姿を現した。
 王は聖なる地の入り口に立つと、悪の根源を断ち切った魔剣を天へと掲げた。光を反射し、白く眩しく刃は輝いた。威風堂々と立つ王の姿を皆が盛大な歓声に讃えていた。
 
「……これは英雄譚?それとも回顧録か。」
 一区切りついたゼヴィアラが文献を下ろすと、シルフィニアはそう発した。
「なぜそうお考えで?」
「三人称の記録形式で書かれてはいるが、やけに私情の篭った文章に思えたのでな。」
「流石にございます。」
 一息ついたゼヴィアラはめくった紙をまとめ直し、麻ひもで止め直す。
「そいつを書かせたのはトルーガか?」
「いえ、これを記したのは”アルザス”です。」
「何?どういうことだ?」
「ご覧になられますか?」
 そう言って差し出された文献を受け取ると、シルフィニアは文章にざっと目を通した。文章は既存の言語に翻訳されているわけではなく、古い言語がさらに古文体で記されているようだった。そのせいで流暢には読めない。単語の意味をたどっていく限り、文献自体は戦役からラグトリア建国のことまでが記されているようだった。
 文章全体を通して目立つのは”アルザス”という文字。または”王”を様々な形で表した単語。特に、ラグトリアに関しての記述以降に”トルーガ”の文字は全く出なくなった。
「……戦役でアルザスが生贄になったことを記しながら、なぜその後にアルザスが記されているんだ?」
「これは私の推察ですが、トルーガはラグル戦役を境に自らをアルザスと名乗ったのでしょう。後世のラグトリアの高祖がアルザスと一貫して記されているほか、周辺の他国の歴史においてもこの時代の指導者の名はアルザスとあります。」
「トルーガがアルザスに取って代わったと?」
「いいえ、むしろ逆でしょう。トルーガ本人はアルザスに罪悪感があった。だからこそ自らがアルザスとなり、彼が英雄と称えられるよう生きたのでしょう。この文献もまた、アルザスの勇姿を残すが為に記されたものかと。」
「アルザスの為に記された、やけに変わった記録なのだな。」
 シルフィニアの目は文章を走る。ラグル戦役のクライマックス、『龍』について著者は事細かに記述している。泉に物を捧げるという儀式について、その仕組み、効果。その結果が生んだ『憎悪の塊』という泉の奇跡。
 ページをめくり、後を追う。シルフィニアは『討龍伝説』の根源について辿ろうとする。

 アルザス、もといトルーガが記した『討龍伝説』の元となった文献は記す。ラグル戦役の後”アルザス”はラグトリアという国を興し、奇跡を行うための祭祀を滅多なことがない限り禁じたと。しかしながら奇跡の理を解き明かすために学者による魔術の研究を奨励したと。
 そして王自ら専門的な調査団を率いて西の地へ向かったと。
 ラグトリアの西の端、アルシエラの最果てに誰も近づかない丘陵穏やかな荒野があった。
 長きにわたり不毛であったこの地に開拓、植民しようと考えるものは誰もなく、それゆえに長きにわたり未開の地として放置されてきた。
 岩ばかりがむき出しになった大地を一団は警戒しながら進む。文字通りに草木はなく枯れ木や朽ち木すらない。虫や獣の一つも見つかればよかったがそれすらもなかった。
 古衣をまとった者たちは皆一様に自らを『西からの使者』であると名乗っていた。であるならば、集団の拠点であろう村や集落の痕跡があるはずである。しかしただ見渡してもそれらしいものはない。丘の向こうだろうか?足場に開いた洞窟の中だろうか?探し回っても見つからない。
 人が住むには水が必要なはずだと、川や井戸の痕跡を探す。だが水のあった痕跡はあれど、当の水はなかった。
 数日歩き回ったのち、ついには大海に面する絶壁へと出てしまった。陸地の終わりである。
 本当に何もなかった。かつて西から来たという老婆が自らの地を不毛だと言っていたが、ここまでとは誰も思っていなかった。
 このまま何もないのだろうか。誰もが失意に沈む中、一人の団員がある痕跡を発見する。
 荒地の中央付近、丘に囲まれた盆地の中央にかつてのラグルの兵士が身につけた武器や鎧が散らばっていた。だが骨は全く残っていない。そしてついに念願の、焚き火の跡らしき岩の焦げ目も発見した。
 一団が周囲を詳しく調べてみると、大岩に塞がれた洞窟が見つかった。大岩をどかせて中へと入る。篝火に照らされた洞窟の中は外とは違い綺麗に造り整えられていた。四角い通路は丁寧に岩を削り取られて作られ、奥へ続く通路となっていた。
 そして通路の最深部へ到達する。そこは調査団にとっては誰もが見覚えのある場所。聖なる地の奥地にある泉のようだった。祭壇があり、泉がある。そして泉は水で満たされている。
 一人が篝火で泉の底を照らした。波のない水面から澄んだ底を覗き込む。そして照らし出された光景に顔をしかめた。
 後に続いた誰もが同じ反応をした。そして最も泉の底の様子に見覚えがあるのは王自身だった。
 かつて祭祀で捧げたありとあらゆる宝物、家畜、食物が沈んでいる。生物はすでに時間がたちすぎて形を崩し、かろうじて原型をとどめている。それゆえに元が何だったのか、はっきりと見て取れた。ヘドロと化した捧げものの一部は宝物の上に堆積している。その間から覗く装飾はラグル、エトア両国の祭祀でそれぞれ捧げられてきたもの。
 つまり、アルシエラの聖なる地の奉納品は泉を通してこの西の果てへと流れついていたということ。その逆、ここから聖なる地の泉にもまた捧げ物が流れ着くことも可能。それがあの泉で幾度も引き上げられた『西の民』の屍。
 西の地の果てにはすでに『西の民』を名乗った者たちの生活の痕跡は消えていた。だが存在していた証拠だけは残っていた。
 王は後日、一団を率いてこの泉を埋めて洞窟を破壊した。二度と手が加えられないように、二度とアルシエラに悲劇が訪れないようにと。
 文献はこう記して締められていた。

 『討龍伝説』よりも前の話があるのではないか。手がかりらしきものを前に、どこから切り込もうかとシルフィニアは文献をまとめながら考え込む。
「隠者殿、アルシエラ統一帝国では自身の民族の出自はどのように記されているんだ?」
「記されておりません。」
「なんだと?」
「統一帝国の起こりは初代皇帝となる勇者が西の地で剣を天から授かるところから始まります。そして虐げられていた彼らを率いて帝国を打ち立て、民族を救ったと。ですが民族の出自自体は記されておりません。」
「では、虐げられていた時代の歴史は?」
「古くてもラグトリア時代のものからです。仮に先祖の行いが原因でこの時代の子孫が虐げられていたとあっても、帝国時代の歴史書にはただ虐げられた事象のみが残されているだけです。」
「そんなもの、帝国時代の者たちは自らの発祥を知ろうとしなかったと?」
「お言葉ながらシルフィニア様、帝国創世記を深く読み込むほど徒労なことはありませんよ。ここから『西の民』を探ろうとすることこそ無駄なことです。」
 ゼヴィアラは言い切った。シルフィニアは釈然としない。
「なぜだ?」
「痕跡を見る限り、帝国は自国の神話を王朝が存続した約500年にわたって120回以上は書き換えているのです。しかも改定後は神話を基準に帝国の文献の検閲、編算、改変、捏造を国家規模で行っており、そのための専門機関も存在しました。彼らにとっては現在の地位を守ることがはるかに優先すべき事象だったのです。」
「だから『創国記』に『西の民』の記述が抜かれていたのか。」
「はい。『創国記』は最古のラグル戦役を記述している正史といえど、今の形となったのは帝国後期です。一体何度改変されていることか。後年にこの資料の元となったこの遺物が発見されていなければ帝国以前の歴史は埋もれたままだったほどです。」
 歴史に携わる学者としてのプライドに触ったのだろう。ゼヴィアラは語りながらも不機嫌そうに紙の束をシルフィニアから受け取った。しかしすぐに元の人の良さそうな笑みに戻り礼を述べる。
「ありがとうございます。」
 椅子から立ち上がったゼヴィアラは取り出した資料を元の棚へと戻した。シルフィニアは唇を固く結んだまま考え込む。
「…それでは、古代の『泉』についての手がかりは何も残ってはいないのか?」
「いえ、心配には及びません。」
 シルフィニアの問いを受けてゼヴィアラは部屋の奥へと歩いていく。壁を覆う収蔵棚には大小の差こそあれども本以外には収められていない。そして一番下の段、足元にはややぶ厚めの本が整然と並べられていた。ゼヴィアラは腰をかがめると、そこから一冊を取り出す。
「…百科事典か?」
 シルフィニアが疑問を口にする。
「いえ、説話集です。」
「説話?」
「世界各地の民族に伝わる伝説、伝承、神話等を収集した本です。」
 席へと戻りながらゼヴィアラは言葉を続ける。
「世界各地の人々は自ずと古来からの記憶を物語という形で伝える事例は案外多いもの。『泉』という切り口に関してならば、彼の地の周辺に残された伝承や伝説からある程度のことは推察可能です。」
「だが人の記憶は年月を経るごとに変化し、衰退していく。そんな曖昧なものが参考になるのだろうか?」
「参考にはなりますよ。それにはもう一つ、”遺物”も必要となりますが。」
 テーブルの上に説話集を置き、今度は別の棚から樹脂製の箱を一つ取り出す。両腕で抱えるほどの大きさだが、貧弱な体格の割にゼヴィアラは難なく運んでしまう。テーブルに置かれる音からしてそれほど重いものではなかったようだ。
「それは何なんだ?」
「発掘された先史時代の出土品です。」
「そんなものまであるのか。」
 席に戻ったゼヴィアラは先に用意していた本を手に取りページをめくり出した。
「シルフィニア様。一つ、ある童話をお話しいたしましょう。」

ある星の記憶

ある星の記憶

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-14

CC BY-NC-ND
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