掌の中のソーダキャンディ

 あれはたしか、私が小学三年の夏のことだったと思う。
 夏休みに入って、低学年向けに浅く作られたプールを除き(夏休み期間もプールは開放されていた)、校舎はひっそりと静まり返っていた。それに伴い、利用者の減った放課後児童クラブは一時的に閉鎖となった。放課後児童クラブというのは、普段親の帰りが遅い児童たちのために、放課後夕方の六時まで、教室の一室を自習室として開放したものである。さえと私はその放課後児童クラブのヘビーユーザーだった。
 さえも私も放課後児童クラブに行くことがなくなってから、なかなか会えずにいた。それと言うのも、さえと私はもともと別のクラスで、一年の時にこの放課後児童クラブで初めて会ったのだった。それから徐々に仲良くなり、放課後はこの教室でさえと一緒に絵を描いたり、教室を出て中庭でブランコに乗ったりした。他の友人たちが集まって鬼ごっこをしている時でも、さえと私はそちらには加わらず、何故かいつも二人で遊んでいた。ただ、放課後に会うだけのさえと、休日に遊ぶ約束をすることは一度もなかった。さえのほうから誘ってくることもなかったし、私も休日は休日で、家族やクラスの友人と過ごすことが多かったため、特に寂しさを感じることはなかったのである。どっちにしても、私はさえの連絡先も住所も、さえが休日に何をして過ごしているのかも知らなかった。
 夏休みも明日で終わりとなったある日、私は自宅で暇を持て余していた。夏休みの宿題は昨日で全部終わらせてしまったし、両親はいつものように仕事で家におらず、仲の良い友人は家族で旅行に行っていた。冷房の効いたリビングのソファに横たわり、冷凍庫に入っていたアイスキャンディーを舐めながら、学校のプールに行ってみようかな、と私は思いついた。一人で行くのは少し気後れしたが、他にすることも思いつかないため、プール用具の入った袋を持って、学校へ赴いた。
 その日、学校のプールはやけに空いていた。一週間前に友人と来た時は芋洗い状態の混みようだったのに、今では片手で数えられるほどの人数しかいない。きっとみんな、溜まりに溜まった宿題に追われているのだ、と私は少しだけ誇らしいような気持ちになった。しかし、勢いよく家を出てきたのはいいものの、数名しか泳いでいないプールに一人で入っていくのはなかなか勇気がいった。今思えば、近くの図書館に行って絵本でも読んでいる方がいいような気さえする。どちらにしても、この炎天下だ。冷房の効いた室内か冷たい水の中に身を置かなければ気がおかしくなってしまいそうだった。そんなことを考えながらプールの周りを行ったり来たりしていると、突然名前を呼ばれた。

「まなちゃん!」

 校舎の方から手を振っている少女が見えた。さえだった。さえの立っている場所はちょうど校舎の陰になっており、やけに涼しそうに見える。さえは降っている手を下ろし、手招きした。私は急いで駆け寄った。

「ひさしぶりだね、わたしプールに入ろうと思ってきたんだけど、なかなか一人で行けなくて困ってたの、さえもプールに入りに来たの?よかったら一緒に行かない?」
「ううん、プールじゃないの、放課後児童クラブ」
「えっ」

 見るとさえは何も持っておらず、身に付けた薄い青のワンピースを翻し、ひっそりとした校舎の中へ入っていった。私は慌てて彼女の後を追った。

「夏休み期間中は立ち入り禁止のはずだよ、さえも知ってるでしょう」
「うん、知ってるよ」

 超然とした様子で、さえはそう答えた。私はわけのわからぬまま、さえと一緒にその場所へと向かった。玄関から入ってすぐ左側の教室が、放課後児童クラブとして使われている教室だった。教室の引き扉には、『たちいりきんし!』と大きな字で書かれた張り紙が貼ってあった。

「ほら、やっぱり入れないよ」
「でも鍵はかかってないみたい」

 さえはそう言って、仲の様子を伺ったのち、引き戸を静かに開けた。私はドキドキしながら、プール用具の入った袋を抱え込み、さえの後に続いた。
 陽の入らない教室はひんやりとして涼しく、かび臭いような埃臭いような、なんとも言えない匂いがした。窓の外には本来私の目的地であったはずの低学年向けプールが見える。色とりどりの水泳帽、アスファルトに浮かび上がる逃げ水、コントラストのはっきりとした青い空と白い入道雲。それらがみんな、異世界のもののように見えた。いつも児童たちで賑わっていた教室も、今はさえと私、二人きりだ。

「まるで秘密基地だね」

 私がそう言うと、さえは微笑んで教卓の引き出しを開けた。私が覗き込むと、そこには何も入っていなかった。

「からっぽじゃない」
「からっぽだよ」

 そう言って、さえは開けた引き出しの上のあたりを手で探り、そこに貼付けてあった銀色のものを取り外した。さえが手に持っていたのは小さな古い鍵だった。自転車や家の鍵みたいな、よくある形の鍵ではなく、持ち手のところが丸く、絵が円柱状になっている古い鍵だった。

「この教室の中に、このカギで開けられる箱がある筈だから、まなちゃんも一緒に探してくれる?」

 えっ、と思わず拍子抜けしてしまったが、私は戸惑いながらも小さく頷いた。さえの真剣な眼差しに、思わず尻込みしてしまった。さえはなぜその鍵がそこにあることを知っていたのだろうか。それに、探すと言っても、いったいどういう箱なのだろう。何が入っているのだろう。何故だかそれをさえに聞くのは間違っているような気がして、結局私は黙って教室の後方にあるロッカーを調べることにした。
 普段、私たちはこのロッカーにランドセルをしまっておく。其々のクラスではちゃんと場所が決められており、自分の名前の書かれた場所にランドセルをおさめているのだが、ここでは特に場所は決められていない。放課後、一番にここにきた児童から早い者勝ちでロッカーが埋まっていく。とはいえ、私はたいていいつも同じ場所にランドセルを入れていた。一番窓側の中段である。そしてその一つ上に、いつもさえのブラウンのランドセルがおさめられていた。
 さえが黒板の横の棚を調べているのを確認してから、私は窓際の上段のロッカー(つまり、さえがいつも使っているロッカーだ)から調べていった。上段にも、私がいつも使っている中段にも、箱はおろか塵ひとつ入っていなかった。私たちが入れるランドセル以外には、何も入らないロッカーなのだろう。変化が見られたのは下段だった。私が使っているロッカーの真下のロッカーに、何かが入っているのを見つけた。奥のほうにしまい込まれていたそれは、ちょうどランドセルと同じくらいの大きさの、古い木箱だった。

「あった、あったよ、さえ!」

 私は思わずそう叫んだ。鍵穴があるかどうかも調べないうちに。しかし、私と同じように驚いた顔で駆け寄ってきたさえが手にしていた鍵とぴったり一致する鍵穴が、木箱の前面にあった。

「すごいよまなちゃん、こんなにすぐにみつけちゃうなんて」
「さえと私のロッカーの真下にあったんだよ、こんな箱が入っていたなんて、全然気がつかなかった」
「わたしも」

 さえと私は目を見合わせて笑った。開けるね、と言ってさえは鍵穴に鍵を通した。
 箱の中にあふれんばかりに入っていたそれは、私もさえもよく知っている、ふたりが大好きなものだった。

「ソーダキャンディだ」

 私がそうつぶやいたのを聞いて、さえはうれしそうに笑った。箱の中にぎっしりと詰まっていたソーダキャンディは、いつも、放課後児童クラブに親が迎えにきたときに、必ず先生が私たちの手に一つだけ握らせてくれたプレゼントだった。さようなら、と言って先生が握らせてくれるソーダキャンディには、また明日ねとか、ハッピーバースデーとか、メリークリスマスとか、その日その日によって、違うメッセージが含まれている気がして、私は大好きだった。きっとさえも、同じなのだと思う。

「これが欲しかったの、さよならのときにひとつだけじゃなくて、いつでも、たくさん」

 さえはそう言ってソーダキャンディを一つ、私の手に握らせ、もう一つを自分の掌の中におさめた。そのとき、遠くの方から教室に近づいてくる足音が聞こえた。私はあわててさえから木箱を奪い取り、蓋を閉めた。教室の引き扉が開けられたのとほぼ同時に、私は木箱をロッカーの奥に押しやった。

「わっ、びっくりした」

 教室の引き扉を開けた先生が、驚きながら私たちの心の声をそのまま叫んだ。何も言えずに突っ立っている私をよそに、さえは涼しい顔をして答えた。

「夏休みの前に忘れ物をしちゃって、自由研究に必要だったんです。ほら、明日で夏休みも最後だから」
「わ、私はさえについてきたんです」

 先生は拍子抜けして、私とさえとの顔を交互に見た。夏休み中だというのに、先生の顔を見て、先生の声を聞いて、なんだか不思議な、特別な感じがした。

「それなら、はじめに職員室にきなさい。夏休み中はここは出入り禁止のはずだろう。まあでも、鍵を閉めなかった僕も悪い。ちょうど今、思い出して閉めにきたところなんだ。今回はおあいこだな」

 先生はそういって恥ずかしそうに笑った。私とさえも、顔を見合わせて笑った。先生は私たちが木箱を開けているところをみていないだろうか、ソーダキャンディが今、ふたりの手の中に握りしめられていることを見抜いてはいないだろうか。そんな私の心配をよそに、先生は私とさえに向かって、いつもと同じ笑顔を向けた。

「それじゃあ、桐谷さん、向坂さん、さようなら。よい夏休みを」
「先生、さようなら」

 職員室へと戻った先生を見届けてから、いつもとは違うソーダキャンディのもらい方をしてしまったな、と私は思った。あさってからはまた、いつも通りに先生の手から、ソーダキャンディを受け取るのだ。
 気がつくと、夕日が落ち、外の暑さも和らいでいた。プールも今は静かに水面を揺らがせている。玄関のところで、さえは私にじゃあね、と言った。

「さえは帰らないの?」
「お父さんが迎えにくるの、いつもと同じ時間に」

 いつもと同じ時間、というのはおそらく、放課後児童クラブから帰る時間のことだろうと、私は直感的に思った。さえはきっと、今日が初めてではないのだ。何度かこうして夏休み中にも学校に来て、放課後児童クラブで親の帰りを待っていたのだ。そういえば、さえを迎えにきているのはいつもお父さんだったな、と私は思い出した。優しそうな、どことなく先生に似ている人だった。

「そっか、じゃあまた学校が始まったらね、今日は楽しかったよ」
「うん、まなちゃんも、キャンディをみつけてくれてありがとう」

 さえはバイバイ、といってここにきたときと同じように、私に手を振った。私もそれに応えるようにして、大きく手を振った。
 帰り道、左手に握りしめられていたソーダキャンディの包みを開けて、淡い水色の透き通ったそれを口に含んだ。いつもと同じ、優しい甘さが口いっぱいに広がった。

掌の中のソーダキャンディ

掌の中のソーダキャンディ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-12-14

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