痴愚の王
伯父は今日も満面の笑みでやって来た。雨漏りを直しに来たのだ。
それは、わたくしには至極どうでもいいことだった。天井に穴があろうとなかろうと、四方を囲う、この分厚い壁がいかに立派に仕上がろうと、どうしてそれらがわたくしの身を守ってくれようか。
伯父の、末の息子が彼の後ろからやって来て、わたくしにお辞儀した。
兄様、と、この息子はわたくしのことを呼んだ。
彼は国中からあらゆる種類の花を、色とりどりに咲き誇っていた花を、この部屋に飾りにやって来たのだ。
わたくしは黙っていた。どれも美しいとは思えず、花弁のひとつひとつが右の目と左の目とに分かれて映り込み、何だか異様な、ひどく気味の悪いものの集合に感じられた。透明な、腐肉に似た香が漂ってくるのも不快だ。
部屋はランプの明かりで満たされていた。ゆら、ゆらと、時折、カーペットの上に落ちた花や寝具の影がかすかに揺れている。深紅のカーペットはふっくらとして、わたくしの裸足をじっと辛抱強く包んでくれていた。
わたくしは伯父の笑顔の隙間から、窺うような視線を感じた。その息子は薄っぺらな微笑みの皮を被り、わたくしの姿を、目に開いた大きな穴からまじまじと遠慮なく見つめていた。
わたくしの痩せさらばえた身体には、汚れたボロ布がかかっていた。無残に引き裂かれた法衣を恐れてか、 それとも、纏うわたくし自身を恐れてか。伯父らは決してその手で布に触れることはなかった。
息子の方が、さりげなく伯父に視線を向ける。伯父には彼の意図がわかっている。
兄様、と声がした。
わたくしは車輪の付いた椅子の上で、彼をひたと見つめた。
声の主は怯え、躊躇いながら、わたくしの近くへ寄って来た。そして彼は椅子の前でうやうやしく跪き、しっとりと慎ましく、頭を垂れた。
わたくしは何もしなかった。ただ何となく虚空に手をかざして、下ろした。
終るなり伯父の息子は立ち上がり、再び礼をして戻っていった。次いで伯父も同じような所作をし、わたくしもやはり同じで、何もしなかった。
去り際の伯父の眼に宿った、鈍い、暮れた海に落ちる月光のような光。その直後の、朝霧のような笑顔。
わたくしは今夜も深い、暗い、長い夜を予感した。部屋を埋める妖しい花の香が、わたくしの魂をさらに狂わせるだろう。足は動かねど、わたくしの魂は、ほとばしるように駆け廻ることができる。いかなる悪霊が襲いに来ても、わたくしは走り抜ける。
己に熱狂と、心酔と、恍惚と。……雨と。
伯父はわたくしを、痴愚の王と密かに呼んでいる。それもわたくしを見下してのことではなく、心から、痴愚者への崇敬の念を抱いてのことであった。彼の息子たちはそれを怖れていた。痴愚の王そのものよりもむしろ、わたくしを見る、父親の目と、そのばかげた思想に、怯えていた。
わたくしは空を仰いだ。すると身が勝手に、痙攣を始めた。
伯父は息子を連れ、満足気に去って行った。息子の目からは染み出た恐怖が、どろりと、静かに垂れてカーペットの上に染みを作ったのを、わたくしは見た。
終
痴愚の王