北の和人

北の和人

蝦夷梟の唄

 鳥さん達が囀り出す雪解の頃の事でした。私は時折此の川の畔で鳥さん達と一緒に歌ひましたが、其の頃は晴れやかな氣分で歌へませんでした。私には許嫁が居りましたが一向に懇意になれなかつたからです。

 私は小さな農家の娘でした。父母と共に暮らして居りましたが、嚴しい父は自由に外に出る事を赦しては呉れませんでした。其の頃徐々に外國文化の影響を受け、村の娘達はよく町に出掛けるものでしたが、私の家は尙保守的で父の言ふ事は絕對でした。
 此の樣な暮らしに於いて外出が適ふのは、水汲みや食料を調達する場合に限られて居りました。料理は女の仕事だつたからです。月に二度三度は生活に用ゆる物を得る必要上から隣の村に出向きました。其れが外の樣子を伺ひ知る唯一の機會でしたが、他の娘達の話を聞くのは近年耳の障る事となつて居りました。其の年私は二十三歳に成つて居り、當時村の娘は二十歳に至れば殆ど結婚をしてゐましたので、私は極めて肩身の狭い思ひをしてゐたからです。村の娘達は我先にと町の男と結婚して居りました。工場に從事する男が增えて町の暮らしは豊になつてゐた為めです。かうした事から他の娘達の着物や暮らしぶりを見聞する度、私の身に置かれた境遇に堪へ難ひ憤りを覺へる事が屢々ありました。
 斯くして私は外出の際此の川に立ち寄り獨りで歌つて居りました。此の川は幼少の時分に父が良く連れて來て呉れ、其度「此の川は海に流れて行くのだよ」と言はれたものでしたが、誰も其処に連れて行つて呉れた事はありませんでした。私は外の世界を見てみたかつたのです。
 其の樣な暮らしをしてゐた折、私を見かねた父は突如結婚相手を決めて了ゐました。其の相手は治さんと言ひました。村の外れで母親と二人で暮らす壮年の方でした。幼ひ頃の火事で父親を亡くし母親は足が不自由と成つて了ゐ、父は其の境遇を不憫に思ふて私を紹介したのでせう。

 其後私たちは訪問を爲し合ひました。治さんは眼鏡をかけ瘦せた方で大變物静かな性格でした。父とは馬が合ひ良く談じ合つて居りました。治さんが歸る時に父は私に見送りをさせて氣を遣ひましたが、私は治さんに特別の興味を持ちませんでした。治さんは本當に寡黙で殆ど私と話をしないのです。併し別れの際にはいつも私の母に渡して欲しいと手土產を渡されるのでした。それは決まつて治さんの御母樣が作つた糠漬けであつたり干した魚であつたり食料品が主な物でした。私と嫁合わせらるる事を治さんの御母樣は大層喜ばれた樣でした。
 さうして私は夫の往き歸りの折にも此の川に寄つて歌つてゐました。私には次第に行き場が無くなりましたので、此の川にゐる時が唯一心地良い時でありました。何故ならば村の娘達との社交も更に苦痛となつてゐた為です。治さんとの關係も忽ち村の娘達に知れ渡る事となり「良い方と巡り會へてよかつたわ。」と皆喜びましたが、私は其処に一種の蔑みが含まれている事を感じ得ずには居られませんでした。村の娘達はこぞつて裕福になつた暮らしぶりを話し、町で外國の食材を手にしたり中には湯沸かし器を手にする者もありました。治さんは出稼ぎの農夫でした。

 扨此の川で歌つていた或日の事でした。木陰の邊に一つの物音が聞こへ注意深く見て居りますと人が現れましたので大變吃驚しました。此の場所は奥山の沢の畔に在る故、全然人氣のしない處だつたからでした。其処に現れたのは良く日に燒けた靑年でした。着物ではなく洋服を着用してゐて、身の丈は六尺あると思わるる程の長身でした。だうやら道に迷つて了つた樣です。更に話を聞きますと彼は地質学者で此の邉の開発事業の為東京から派遣されて來たのださうです。私は知る限りの道を傳へると、靑年は私に握手をして去つて行きました。私は女の人にさえ輕々しく手を握られた事がなかつたので非常に驚きました。その手は大變綺麗だつたのを覺えて居ります。

 其後過ぎ行く日々は憂鬱でした。私の意志の働かぬ處で父の獨斷で治さんとの結婚が進められて行きました。治さんは相變はらず淡々としてゐて、歸り際にはいつもの樣に手土產を渡されました。治さんの手は傷だらけでゴツぐしてゐました。私は不謹慎ながら川で出會つた靑年を思い出してゐました。
 それから暫した後再び斯の靑年が川の畔にやつて來ました。彼は此の邉りの調査を擔當してゐる樣でした。彼はもう一度歌を聞きたひと言ひますので、私は恥づかしながら少し歌つて聞かせましたらお禮に髪飾りを呉れました。屹度何十錢もする物だつたと思ひます。男の人に贈り物を貰ふのは初めての事でした。而して私の心はその靑年に傾いて行きました。

 蝉が其の熱狂の度合ひを增します頃、私の胸の高鳴りは一層烈しくなつて行きました。彼は其後川の畔に良く現れる樣になり、其度に私は歌を聞かせてやりました。鳥さん達も一緒に囀つて居りまして、恰も吉報を告ぐる響きの樣でした。

 夫れ以来私は川に行く度に彼が來る事を期待して居りました。彼が再び現れた時は胸が高まるのを抑へる事ができませんでした。彼より聞く話は遠ひ國の夢物語の様でした。事業の話は難解でしたが、村の發展に捧ぐる情熱は非常に輝ひて見へました。村の娘達に東京の事を然りげ無く聞きましたら東京は全ての中心だと知りました。併し誰も行つた事がなかつた樣でした。私は村の娘達に窃かに自慢したくて堪りませんでしたが、其のやうな譯には參りませんでした。當時は少しづつ緩和されて居りましたが、男女が密會する事は賎げな行爲と看做されてゐた為です。村の仕来りはまだぐ色濃く殘つて居りました。
 而して私の治さんへの氣持ちは徐々に薄らひで行きました。私は治さんと必要上最低限の事しか話さなくなりました。父は頻りに私に小言を言ひましたが、治さんは全然いつもと變わらない樣子でした。相變わらず歸り際には手土產を渡され、治さんの手には傷が增えて居りました。

 其後地質学者の彼は頻繁に川の畔にやつて來ました。其度に私に花を呉れました。或る時は別れ際に接吻をしました。結婚をするまでは現今の人々の樣に手を握るとか抱き合ふという事は一切なかつた時代ですから非常に驚き心臟が止まる思ひでした。
 私は治さんとの關係をはつきりさせねばなりませんでした。然もなくば彼を両親に紹介する事は儘なりません。私は父に彼の事を包み隱さず話して、治さんとの許嫁の解消を申し出ました。處が父は激怒して承知しませんでした。彼の事業は森林を伐り拂ふ蛮行だと罵るのです。私は父を疎ましく思ひました。時代の流れを全く分かつてゐないからです。夫れ以後、私は父と口を聞かなくなりました。然し何も知らない治さんは時折家を訪問しましたが、私は体調が悪いと見送りを斷るやうになりました。

 暫くした或る日の事、川の畔で彼と會つている處に突然人が現れたと思つたら治さんでした。私はどんな處罰でも受ける覺悟でありました。當時の社會狀況から申しまして許嫁の有る者が他の男と戲れる事は絕對あつてはならない事でした。處が治さんはいつもと變はらない樣子で、渡したい物が有ると言ひました。渡された物は私が子供の頃身に付けていた髪飾りでした。此の樣な物を治さんが所有する譯を解せぬまま、治さんは何事も無かつた如くいつもの樣子で去つて行きました。
 夫の事件があつて以来、私は斯の場所を探し當てた治さんを訝るやうになりました。私は屹度追尾されてたに相違ないと思ひ非常に不愉快な氣分になり、遂には夫の髪飾りを捨てました。
 治さんが家を訪れた或日の事、私は治さんの見送りを申し出ました。そして私は有りの儘事実を治さんに傳へ斯う申しました。「私はあなたとは結婚致しません。他の人と結婚致します。」更に今後二度と會はない事を傳へました。治さんは大變悲壮な表情を浮かべ其処に立ち尽くしてゐました。夫れ以来私は治さんの一切を頭から捨て去りました。過去を振り返つては絕對に幸せに成る事は出來ないと思つたからです。而して私は地質学者の彼との關係だけに全てを捧ぐる事に決めました。
 其後私は彼の存在を村の娘達に知らしますと皆心より喜んで呉れました。私は父に勘當されても構わぬ覺悟で居りました。やがて彼は事業が慌ただしくなり東京に戻る機會が增えました。村の發展の為且つ私の為に一生懸命働いて呉れていたのでした。戻つて來たら又澤山話を聞かせて呉れるだらうと楽しみにして居りました。

 夫れから暫くして草叢に虫の音が響き渡る頃、私の鼓動は次第に冷へて行きました。私は彼に欺かれてゐたのです。

 約束の日となりましても彼は川の畔に現れませんでした。其後二日三日經過しても現れませんでした。恐らく多忙で歸つて來れなくなつたのだらうと思ひ、更に一週間待ちましたが彼は現れませんでした。私は意を決して彼の宿舎を訪れました。其処の人に彼の事を尋ねますと、彼は結婚して此の職場を離れたとの言分でした。私は頭が真白になり卒倒しさうになりました。以降、私は生きる糧を失い遂に父は何も言はなくなりました。
 其後ちらくと雪が降り出した或日の事でした。私は毎日泣き暮らして居りました。東の窓に物音がしたので覗ひてみますと、窓枠に梟の彫刻が澤山置かれてゐました。大きな梟が二つ更には小さな梟が幾つかありました。能く見ると大きな梟は私と治さんの顔に大變良く似て居りました。脇には手紙が一通ありました。治さんからです。其処には一言「愛してます。」とだけ書かれてありました。然し治さんが自殺したのを知つたのはその晩の事でした。

 夫れ以来私は抜け殻の樣に成りました。時折母が散歩に連れて行つて呉れたやうでしたが、口を聞く事も物を考える事もしなくなりました。

 暫くしてしんくと雪が降り積もる頃、私の心は雪に吸収されたかの樣に虚無でありました。涙も遂には枯れ恰も植物の樣に成り果てて居りました。其れ故に其後の事は殆ど覺へて居りませんが、一つだけはつきりと覺へてゐる事柄がありました。それは大變しばれる或夜(あるよ)の事でした。私は眠つて居りましたがふと目が覺めて外に出たくなりました。外に出てみますと夜空に大きな御月樣が出てゐて、呼ばれている樣な氣がしました。私はたつた一枚の着物と草鞋を履ひて、夜なく御月様に向かつて歩ひて行きました。不思議に寒さは感じませんでした。何も考え得ぬまま雪の上をただ歩きました。幾度か川を踏み渡つて森を抜けただ歩きました。どれくらい歩ひたのでせう、氣が付ひたら山の麓まで来て居りました。私の村は遥か彼方に見へなくなつてゐました。もう歸れない。私はさう直感しました。目の前には大きな蝦夷松の木がありました。あゝ、此の木の養分に成りたいのだと思ひました。私は切り株に乗つて、枝に絡まつた蔦をほどきました。更に夫れを自分の首に撒きました。そして、切り株から飛び降りました。時間がゆつくり流れて、木の一部に成つて行くのが分かりました。其れは其れは大變幸せな氣分でした。私は歌つてゐました。もう生まれ變はつたのでした。すると急に身体に痛みが走りました。氣が付ひたら地面に落ちてゐました。蔦が切れたのです。目の前にはアトゥイ(海)が見へました。涙が止めどなく、止めどなく、溢れました。梟さんが鳴いて居りました。大變懐かしい響きでした。

北の和人

北の和人

アイヌ民族から着想を得て書いたものです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-28

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