博士と小説
私の小説は、寄る辺なき人が憩える場所でありたい。
博士というあだ名で呼ばれていた彼はある午後、そう呟いた。
彼はいつも日の当たる窓辺でものを書いていた。
私は彼の周りに伸びていく、積み上がったものものの影とおんなじように、時々彼に茶を淹れてやったりしつつ、終始無言で規則的に過ごしていた。
赤い線や二重線、糸で括り付けられた挿入句で汚れた彼の原稿は、陽だまりの中で、日々埃のように降り積もっていった。
私は庭を横切る野良猫みたいに、彼の物語をそれとなく見ながら、素知らぬ振りをして仕事をした。
彼の家からの帰り道、夕陽に滲む街の風景はこの世のものとは思えぬほどに物悲しく、空っぽに感じられる。
彼の言う、寄る辺なき人は一体この街のどこにいるのか。
考える度に私の胸は不思議と痛み、言葉なぞいかに無意味かと思わざるを得なかった。
落ちていく茜色の残光がひたすらに目に染みた。
たくさんの枯葉は私の足元で、くしゃり、くしゃりと虚しく鳴き続けるばかりだった。
私は、博士の物語が、どうかあまり強く難しい物語ではありませんように、と毎日願っていた。
泣き方すら忘れてしまった人たちにキャンディをあげるような、少し間違っているかもしれない、そんな優しさのある物語を私は読みたかった。
救われるということの意味を、誰かにわかっていてもらいたかった。
理想よりも、本当よりも、すがりたくなるものを、私は彼の言葉に期待していた。
――――さる年の暮れ、博士はついに本を書き上げた。
私はその本を読みきれなかった。
難解過ぎたためでも、言語に障害を感じたためでもなかった。
私のことが書いてあったからだった。
博士はそっと私にこぼした。
考えてみたんだけど、僕にはどうしても理想の場所というものがわからなかった。だから、見つけられそうな君のことを書いたんだよ…………。
私は何と返せばよかったのだろう。
楽園の場所など、どうして私が知っていよう。
寄る辺なき人のために、私はその日も熱いお茶を注いだ。
終わり
博士と小説