心のあしあと

 天井からの強い照明を受け続けるセットの中に立っていると、れい子はふと、自分が今どこにいるのか分らなくなる時がある。扇状に立ち並ぶカメラの向うに広がる薄暗いフロアとは対照的な、その儚い煌きの中に身をおいていると、まるで宇宙空間に浮遊する小さな星の上に佇んでいるような錯覚をおこしてしまう。収録をしているさ中にも、そこだけがスタジオ全体から切り離されて、しだいしだいに闇の中へと漂流していく気がして不安になる。特に収録が上手くいかな時は酷くて、さらに疲労も加わると、永遠に戻ることが出来ないのでは中と思うこともある。たとえ戻れると分っていたとしても、現実世界との間に出来てしまった大きな隔たりを考ええるだけで憂鬱な気持ちになってしまう。
 反対にどんなに収録が盛り上がり、華やかな歓声や拍手がスタジオ内に沸き起こったとしても、それらはすべて一瞬の出来事だから、束の間の時が過ぎ去ってしまえば、あっという間に闇の中に吸い込まれて霧散してしまう。マイクを通して録音しておかなければ何事もなかったように、すぐに静寂がスタジオ全体を包み込んでしまう。腕組みをしてこっちを見つめるスタッフ達の厳しい眼差しだけが、闇の中で鋭く光って見える。
 だから野生動物が炎を恐れるのと同じように、沈黙に怯える出演者達は、皆必死になって番組を盛り上げ続ける。
 色分けされた解答者席座る彼らは、良く仕込まれたサーカスの動物そっくりに、司会を勤めるお笑い芸人に話を振られる度に、それぞれのキャラクターに応じた巧みな話芸を披露してみせる。
 普段は無口で物静かな彼等は、セットの中に入りひとたびカメラが回り始めると、たちまち別人に変り、威勢よく声を張り上げ、白い歯を見せ陽気に笑ってみせる。突然であからさまなその変貌ぶりを目の当たりにすると、れい子はいつも戸惑ってしまうし、毎度のことではあるにもかかわらずつい、気後れしてしまう。
 週に一度、深夜に放送されているこのクイズ番組は、勝敗や企画の斬新さを重視するものではなく、むしろありきたりな出題を通して話題を広げ、その内容によって視聴者を楽しませることを主眼としていたから、回答者を務めるプロの縁者達はただ正解を目指すのではなく、話の流れに応じた当意即妙な受け答えを求められた。それ故、プロとしての力量が如実に現れる気の抜けない番組となっていた。勿論、アシスタントを勤めるれい子も決して例外ではなかったから、収録は毎回高い集中力だけではなく、時に大袈裟とも思われる感情表現をも強いられるのだった。
 しかしそれも、あと少しの辛抱だ。長い長い収録が、ようやく終わろうとしていた。
 出題は既に全て終了していて、後は優勝者の発表を待つのみとなっていたが、それまでの経過からしてそれも明らかだったから、後はエンディングを待つばかだ。
 司会を務める芸人が真顔になると、正面に立つ赤いランプの点灯するカメラを見据えた。スタジオが静まるなか、彼はカメラの下にしゃがみ込むADが掲げるフリップに書かれた優勝者の名前を読みあげた。俄かに沸き起こった拍手がスタジオ内に鳴り響く中、芸人は所定の位置を離れると、両者の間にあるスペースを横切り、解答者席へと歩いていった。
 れい子もすぐに後を追った。
 今年最後となるこの日の収録は末に放送される特番用のものだったから、通常一時間のところを二時間の長尺となっていた。その分収録も長くなり、二倍どころか三倍の時間がかかっていた。
 それにもかかわらず、司会を務める芸人は疲れの表情ひとつ見せることなく、席につく彼等に対して今年一年の感想を尋ねていくと、その会話においてさらに二つ、三つと話を盛り上げスタジオを沸かせてみせた。芸人の傍らに立つれい子は、話の腰を折らぬように相槌を打つのが精一杯だった。
 ひとしきり話を終えた芸人は、セット中央に向かうと、不意に神妙な表情に変った。カメラに向かってあらためて年末の挨拶の言葉を述べ始めた。そして最後は台本どおりに、隣に立つれい子と共に声を合わせて、一段高いトーンで締めの言葉を発するのだった。
 「それでは皆さん、よいお年を」
 れい子も元気な声でそう言うと、カメラに向かって笑顔で手を振ってみせた。白い歯を見せるその表情は、笑っているのか、それとも苦しみを堪えているのか、もはや自分では分らなくなっていたが、それでもれい子は最後の力を振り絞り、手を振り続けるのだった。
 程なくしてADの声がフロア全体に響き渡った。ディレクターからOKの指示がようだ。
 ADの声を耳にした途端、それまで誰よりもはしゃぎ、陽気に声を張り上げていた司会の芸人は、たちまち魂が抜けたかと思うほどに表情を失うと、俯きながら夢遊病者のような姿をしてセットを後にした。
 収録は深夜に及んでいたから、れい子も安堵感とさらに疲労も重なり、その場に座り込みたい気分だったが、出演者の中で最も年の若い彼女は、マネージャーの指示どおりに、他の演者とスタッフ達に対して順々に「お疲れ様でした」と言いながら何度も頭を下げていった。
 虚構の呪縛がとかれてスタジオ内には、再び現実の時間軸が姿を現す。収録用の照明が落とされる中、スタッフ達は手馴れた動作でカメラを所定に位置に戻し、セットが手際よく撤収されていく。解答者席の先輩タレント達の表情には、ついさっきまでの陽気さは何処にも見られない。腹話術師と人形の二つの顔を器用に内在させる彼らの表情には、目を閉ざした人形に変って、早くも狡猾で用心深い術師のそれが姿を現していた。挨拶をするれい子に対しても、鋭い一瞥を投げつけておざなりに頭を下げたきり、居心地悪そうにそそくさと逃げるようにセットを去って行くのだった。
 歩み寄ってきた若手スタッフにピンマイクを外してもらうと、れい子もようやくセットを後にすることが出来るのだが、スタジオ出口の厚く大きな扉に辿り着くまでには、プロデューサーやディレクター等の役職や地位の高い人たちに対して個別に挨拶をしてゆかなければならない。
 光度の高い照明を受け続けた後だから、目の前の視界は黒い霧が一面に立ち込めたようにぼんやりとしている。誰が誰なのか判別しかねるままスタジオ内を歩き進んでいると、いつの間にかマネージャーの若林が傍らにやって来ていて、背中を軽く押されながら行くべき人のもとへと導かれていく。
 スタジオの外に出た後もやるべきことは一緒で、出くわす人毎に、まるで米搗きバッタのようにひたすら頭を下げながら、れい子はようやく小さな楽屋へと辿り着くことが出来るのだった。
 細長い造りをした楽屋の奥は座敷になっていたから、れい子は靴を脱ぐと、そのまま座布団に座り込んだ。小さなテーブルに頬杖をついていると 大きなため息の向うから、ついさっきまで行われていた収録の風景が喧騒とともに蘇ってくる。脳裏に浮かぶその映像は、心の余裕を持てぬままに自分の役割を果たすことで精一杯だった自分の姿だ。離脱した視線が俯瞰するのに似てどれも驚くほどはっきりとしているが、ズームアップされる光景は、決まって自分がミスをした所ばかりだった。台本どおりに説明すればいいだけのところをつっかえてしまったり、司会者と声を揃えて言うべき台詞の呼吸が微妙にずれてしまったり、また番組を盛り上げようと無理をしてはしゃいだ時に、ふと目が合った先輩タレントの冷ややかな眼差し。実際に放送されるものは上手に編集されているので、普通にテレビで見る分には問題ない。自分でもそうと分かっているのだが、今夜のように収録が長引き疲れが酷くなると、なぜだか自分の嫌な所だけが思い出されてきて、たまらない気持ちになってしまう。
 机に突っ伏しているれい子の耳に、マネージャーの若林の声が聞こえてくる。扉の向うの若林は、スタッフ達と陽気に談笑している。彼はどんな現場でも常に快活だった。朝早い時間帯でも、今日のように収録が長びいた時でも、常にスタッフや他の演者と他愛の無い世間話をすることが出来る男だった。感情の無い機械のように振舞える若林のことがれい子には怨めしくもあり、少し羨ましくも思えるのだった。
 しかし彼はそうしていながらも、いざ楽屋に戻ってくると、驚くほど冷酷な視線と厳しい口調でダメ出しをしてくる時がある。だからどんなに若林が楽屋の外で饒舌であっても、安心することは出来なかった。最近こそその回数は少なくなったが、テレビの仕事始めた当初は、特に厳しかった。
 真っ先に叱責されたのは、姿勢が良くないというものだった。れい子が最初にはじめたのはモデルの仕事だったから、瞬間瞬間のポーズを決めることには慣れていたのだが、収録の間ずっと正しい姿勢を保つことが出来なかった。特に今夜のように収録が長引き、さらにヒールの高い靴を履いていると、なお更難しかった。知らず知らずのうちに背筋が曲がっていたり、重心が片方の足だけに偏ってしまいだらしなく映ってしまうのだ。
 姿勢に注意を払っていると、次に発音について指摘された。話をし終えたときの語尾がはっきりしていない。声が小さくなってしまったり、発音が曖昧になって最後まできちんと聞き取ることが出来ないというものだった。勿論、日本語についての発音だ。そんな話し方だとテレビを見ている人たちに悪い印象をもたれてしまう。自信の無い子だと思われてしまい失礼だ、と。
 それくらいならば何とか頑張って修正しようと思うのだが、すると今度は、笑い方に品が無いと、それまで親にも言われたことの無い事柄を、真顔で説教してきた。せめてもう少し言い方を優しくしてくれないかと思うのだが、マネージャーの言うことだからと思い、次回の収録では笑うときには注意してみるのだが、あまり意識しすぎると、今度は表情が硬いと一喝されてしまった。
 当初は何をやっても文句ばかり言われて、そのうちどう対処していいのか分からなくなり、もうテレビの仕事は辞めたいと切り出すと、それはダメだと一言のもとに拒否された。れい子はもともと雑誌のモデルをしていたから、モデルの仕事に専念したいと主張したのだが、受け入れてはもらえなかった。それどころか、益々テレビの仕事が増えていった。自分の言うことが受け入れてもらえず、尚ダメ出しも続き、それもテレビの仕事が増え続けると、次第にれい子は若林の言うこと聞かなくなっていった。疲労とストレスで、そんな余裕など無くなっていたのだ。
 しかしそんな或る時、偶然自分と同世代の女子達が多数出演する番組があり、疲労感で一杯だったれい子は、特に緊張することも無く、自分と違って元気にはしゃぐ彼女達の言動を漠然と眺めていた。司会を担当していたれい子が彼女達の一人に何気無く話を振った時だった。他愛の無い話題だったのだが、話をする彼女の遣う言葉の品の無さに愕然とした。使われる語彙の貧困さや、話をしている時の落ち着きの無い態度が突如としてれい子に嫌悪感を引き起こさせた。流行の言葉を疑うことなく使い、面白おかしく彼女は話しているようだった。それまでは自分と同世代だったこともあり、特に深く考えることは無かったが、その醜さに気がつくと急に受け容れ難く思えたのだった。今まで自分もこの娘の様な態度や言葉使いをしてカメラの前に立ち、テレビ画面にその姿を晒していたのかと思うと、疲労感は瞬時に吹き飛び、かつての自分を思い返すと顔が赤くなるほど恥ずかしくなった。れい子はその時はじめて、若林の言葉の意味を理解したのだった。それ以来、若林のお小言は少なくなったが、代わりに仕事はさらに忙しさを増していた。
 れい子は身につけていたアクセサリーを外すと、着替えをし始めた。壁際に置かれた二枚のパーテーションを入り口のドアに向けて並べてから、背中のファスナーに手を伸ばした。白のシルクのワンピースを一気に脱ぎおろした。ストッキングは履いていなかったから、そのまま今度は灰色のスウェットの上下を着込む。上着にはさらに黒のダウンジャケットを羽織り、下は厚手の地味なロングスカートを着重ねた。
 仕事終えた後に身につける服は締め付け感の無い、出来るだけ楽なものにしたかった。若林からはもう少しお洒落なものを着たらどうかとそれとなく注意されていたが、今のれい子にはそこまで心の余裕は持てずにいた。
 若林が楽屋のドアをノックした時には、帰宅の準備は終わっていた。肌の綺麗なれい子は、まだ年も若かったから、メイクは薄いファンデーションとそれにつり合う程度の口紅、後は少しのアイラインを入れる以外はほとんど必要なかったから、それは自宅に戻ってから落とすことにしていた。高校時代の部活で使用していた傷だらけのエナメルバックを肩に掛け、黒炭色のワークキャップを目深に被ったれい子の姿を目にした若林は何か言いたげだったが、そのまま背を向けれい子とともに楽屋を後にした。
 若林の後につき、あらためて司会を務めた芸人の楽屋へ向かった。
 目当ての部屋が近づいてくると、扉の向うから笑い声が聞こえてきた。さっきまでの憔悴が嘘のように、スタッフや後輩達と談笑する無邪気な話し声が、部屋の外へ溢れだしている。
 扉の前にやってくると、若林がノックをした。返事を確認した若林が扉を開けると、話をやめた彼等が一斉に入り口に立つれい子達に視線を向けた。タバコを手にする芸人は部屋の奥のソファーに座っていたが、れい子達の姿をみとめると、深く身を沈めたソファーから尻を浮かせて、覗き込むようにしてこちらを見つめた。そして若林に向かって咄嗟にまた何か冗談を飛ばしてみせた。すぐに楽屋の中一杯に笑いが湧き起こった。ついさっきまで行われていた収録となんらかわりの無い盛り上がり様だった。若林は彼らと一緒になって笑っていたが、その後ろに立つれい子は笑みを浮かべるだけが精一杯だった。ここで笑ってしまうと公私の切り替えが出来なくなり、自分を見失ってしまう気がしたからだ。芸人もさすがにそれ以上話を膨らませることはしなかった。収録後はいつもそうやって高ぶった神経を徐々に静めていく。それが彼なりの仕事に対する区切りのつけ方だったのだ。
 タバコの煙の中に笑い声が消え、室内がふと静まると、そのタイミングを見逃すことなく芸人はさらに体を起こして扉の奥を覗き込み、れい子を見つめた。
「来年も、よろしくな」
 独特な関西訛りの芸人はタバコを挟んだその手を軽く挙げ、少年のような屈託のない笑顔をれい子に見せるのだった。素人同然の自分に対して言いたいことは山ほどあるに違いないのに、彼はただ笑顔を見せるだけで、畏まった挨拶も何もしないし、それをこちらに求めることもない。
 誰よりも疲弊しているはずの彼が見せる、その夏の夜風のようなさり気ない気遣いに接すると、れい子はただ深く頭を下げることしか出来なかった。

 自動ドアが開き、建物の外へ一歩足を踏み出すと、たちまち冷たい風に吹き付けられた。たまらず両腕を絞り込み、体を縮込ませるれい子だったが、疲労と緊張で火照った体には、むしろ心地良く感じられる。息を吸い込む度に、鼻が冷たくなっていく。
 収録をしている間の緊張と重圧は深い海の中に潜っているのに似ているから、それが終わり、こうして建物の外へ出てくると、ようやく水面に顔を出せた気分になる。冷たく引き締まった空気を胸いっぱいに吸い込むと、れい子の心の内からは安堵感に続いて、開放感が込上げてくるのだった。
 間接照明のあてがわれたエントランスも、深夜になればさすがに閑散としている。もうじき番組の打ち上げに向かうスタッフや出演者達が大挙してやって来るはずだが、今は静まり返っている。
 出世を目論む局員や富と名声を求めるプロダクションとその所属タレント。彼らを目当てにやってくるファンの一群。それぞれの思惑が入り乱れて、昼間は絶え間なく人々の行き来するところだから、れい子はいつもは地下にある駐車場から直接車に乗り降りするのだが、今夜は外の空気を吸いたくなって、珍しく正面玄関から出ていった。左右に広がりを持つロビーに人の姿は無く、受付に立つ若い女性の姿も無い。右手の突き当たりにある喫茶店も既に店を閉じていて、窓際に置かれたテーブルと椅子の輪郭だけが暗闇の中影絵みたいにくっきり浮かんでいる。反対側のロビーにはまだ煌々と照明が光ってはいたが、明かりの下にあるのはやはりソファーとガラステーブルのみで、メッキの施された脚部が寂しく光を反射させている。碁石のように配置された警備員が所々に立っているだけで、ガラス張りのエントランスからロビーを覗き込むと、魚のいないアクアリウムを連想させた。
 れい子の両脇には二人の警備員が立っている。黒く分厚いコートと革手袋を身につける彼等は、帽子の奥から辺りに真剣な眼差しを送り続けている。れい子の存在に気づいているのかいないのか、どこかよそよそしく、若林の運転する車がやって来るまでの間、気まずい空気が流れてゆく。
 近くの繁華街から、スポーツカーのエンジン音が響いてきた。低い唸り声はこちらに近づいて来たかと思った途端、たちまち遠ざかった。
 地下駐車場へと続く道路を挟んだすぐ目の前にあるイベント施設では、誰も人のいない暗がりの中を木枯らしが自由気儘に駆け回っている。戯れのそ渦は、落ち葉を巻き込みながら、舞台の上からベンチの下へとはしゃぎまわっている。乾いた虚しい響きがれい子のもとまで聞こえてくる。
 れい子は帽子を片手で抑えると、頭上へと目をやった。暗闇に向かって聳え立つ建物の姿が、ガラスの屋根越しに見て取れる。ついさっきまで自分が番組を収録していた建物だ。直線を基調とした建物の造りは極めて重厚で、なだらかな丘の頂上に立つその姿は威圧感に満ちているが、それに反して表面にはガラスが多用されていて、青白い光を放っている。近くのビルの飲食店のものと思われる派手な明かりを高層域で反射させていた。
 もし仮に明日の朝になってこの建物が突然姿を消したとしても、何の違和感も起こらない気がするのは、れい子自身が自分の存在に対してそう思っているからにほかならない。
 れい子は芸能の仕事が好きだったし、出来ることならば今後も続けていきたいと思っている。しかしだからといって無理にこの世界にしがみついていたいとも思っていない。もし今の人気に翳りが射し、仕事の依頼がなくなれば潔く辞める覚悟は出来ていた。
 この一年間、週に一度は必ずこの建物を訪れて仕事をしてきた筈だったが、今だにこの景色に馴染むことが出来ずにいた。近隣に行きつけの店でも出来れば少しは印象も変わるかもしれないが、毎日現場から現場へと水面をスキップしながら疾走し続ける小石のように、慌しく仕事をこなしていく今の状況ではそれもままならない。いつか失速する時がくれば、そのまま水の中へと沈んでゆき、二度と浮上することは無いのだろう。この丘へと吹き上がってくる夜風と同じように、つかの間の戯れが終われば、後はただ誰に気づかれることも無く向こう側へと吹き抜けていくだけなのだろう。
 自分の存在とは、所詮そのようなものに過ぎないのだろうか。そう思うと、れい子は寒々しい気持ちになるのだった。
 地下駐車場を出て来たパールホワイトのミニバンが、左手からやって来た。緩やかなカーブをタイヤを鳴らして走って来たその車は、れい子の待つ入り口の前でぴたりと停車した。ドアのロックが解除され、後部座席のスライドドアが自動で開いた。車に歩み寄っていったれい子は乗り込むとき、思い切って警備員に声を掛けた。
「お疲れ様でした」
 躊躇いがちなその声は、すぐにビル風に掻き消されてしまったが、彼等は横顔だけれい子の方へ向けると、右手でつばに手を触れながら小さく頭を下げてみせるのだった。

 深夜の道路はいつも空いている。師走を迎えても零時を過ぎれば、幹線道路でも車のライトの数よりも街灯のほうが多いくらいだ。
 窓辺にもたれるれい子は黙ったまま、車外に展開し続ける単調な景色をぼんやり見つめていた。仕事の帰りはいつもそうしていた。そのほうが心が落ち着くからだ。
「演技の勉強、ちゃんとやっているか」
 若林の言葉は後部座席のれい子の耳にもしっかり入っていたが、れい子は聞こえない振りをしていた。いつものことだった。
 若林もかまわず話を続けた。
「例の件、いつ決まってもいいように、しっかり準備しておくんだぞ」
 例の件とは、れい子の映画出演のことだった。内定していた主演の若手女優が、出演を取りやめたとの噂が流れていた。知名度も人気もれい子と同じくらいに高く、演技力もある女優だった。自己主張が激しく気分屋の性格だったから、本人が出演を嫌っているとの憶測が流れたが、実はその後にテレビドラマの出演依頼が来て、事務所の判断でそちらのほうを選んだのだった。映画のほうは現代の親子関係の歪を描く地味な内容だったから、ヒットの可能性の高い恋愛もののテレビドラマを選択したらしかった。
 芝居の経験のほとんど無いれい子にとっては、無闇にヒット作を求めるより、映画のほうが演技の勉強にもなるから、そちらが向いていると若林は判断したのだった。
 ゆくゆくはれい子を女優にしたいというのが若林の考えだった。今忙しくテレビの仕事をしているのも、名前と顔を世間に知ってもらう為でもあったのだ。今のうちに知名度を上げ、芝居で実力を認められれば、女優業へ仕事をシフトして行くというのが若林の計画だった。
 れい子は幾度となく、その話を聞かされていた。しかしれい子自身はあまり乗り気ではなかった。何故なら、今しているテレビの仕事もしっかり出来ていないのに、その上さらに女優の仕事をしても、出来るはずが無い。どちらも中途半端になるだけだ。そう思っていたのだ。そもそもれい子はそこまで深く考えて芸能の仕事を始めた訳ではなかった。
 もともとれい子は芸能の仕事に対して、強い興味や憧れがあったわけではなかった。子供の頃からテレビドラマや娯楽番組を見たり、年に数回地元の映画館へ行く程度だった。中学に進学してからファッション雑誌に目を通すようになったのも、同じ部活の友人が持っていたからで、人並みに綺麗な服には憧れはしたものの、自分とは別の世界のものだと漠然と考えていた。
 しかし、高校へ進学した後将来の進路を考えた時、普通に大学へ行き、普通に就職する自分の姿をどうしても思い描くことが出来なかった。あるいは地元に残って、結婚する自分の姿も同様にイメージできなかった。
 れい子は地元が嫌いな訳ではなかった。人口が減少し、高齢化も進んではいたが、それでも地元が好きだった。自然が豊かだったし、東京からもそう遠くはなかったから、都会に対する強い憧れは持ってはいなかった。ただ、成長して体が大きくなればそれまでどんなに気に入っていた服でも窮屈になってしまうように、地元に対して同じような息苦しさを抱くようになっていた。そして、仮に窮屈になった地元を出て行って、東京で進学し就職したとしても、いずれは同じ息苦しさを味わうことになるのではないかと感じはじめたのだった。そんな時、ふと読者モデルの募集の記事が目にとまった。記事自体は毎号巻末に掲載されていて、部活の友人達はみなでオーディションを受けに行こうと話をしているのを耳にしていたが、れい子がその話に加わることは無かった。
 高三の夏休みに、思い切って履歴書と数枚の写真を送ると、すぐに返事が来た。東京でカメラテストをすることになった。親には適当な理由をつけてごまかして、一人で上京し、とある出版社の殺風景な部屋で、支給された衣装を身につけて写真撮影をした。するとその写真がそのまま雑誌に掲載されたのだった。
 軽い気持ちと言うか、何かに吸い寄せられるようにして挑戦しただけだから、親にも友人にも話していなかった。しかし、綺麗で仕立ての良い服を身につけ、さらにプロの手による化粧を施された自分の姿を目のあたりにすると、支流と本流が逆転したかのように、もう他の道を進む気にはなれなかった。
 その後多少の試行錯誤の期間はあったにせよ、れい子は瞬く間に売れっ子となった。しかし仕事が増え、自分の存在がこうして大きくなってしまうと、これからどうして行けばいいのか自分でも分からなくなっていた。ただ若林に言われるままに目の前の仕事をひたすらにこなして行けばいいのだろうか。それとももっと別に進むべき道、やるべき事柄があるのだろうか。気持ちの整理がつけられずにいたのだった。                                                                                                                                                                                                  
 そんな自分の気持ちを顧みることもなく、次から次へと仕事が決められて行くことに対し、れい子は不満を抱いていたし、それ以上に、不安でたまらなかった。
「DVD、ちゃんと観ているよな」
 返事の無いれい子に向かって、若林がさらに問いかけた。
 DVDというのは、忙しいれい子の為に若林が何処からか探してきた、演技用の教材のことだった。中年太りの金髪の女性が、芝居の歴史から発声の仕方、具体的な演技の方法までを、いくつかの場面と登場人物を通して、まるで理科の実験の仕方を教えるように、論理的に淡々と実践して見せて行くものだった。一巻きのカールがとても大きなパーマを当てた女性講師の話は全編英語だったが、大雑把な訳が字幕としてついていたから内容は理解できるのだが、芝居をする時以外の彼女はずっと無表情で驚くほど退屈だったから、疲れて帰宅したときに観ていると、すぐに眠ってしまう代物だった。
 若林の質問に対して、れい子は曖昧な返事をしてごまかすと、再び窓の外へ目をやった。
 幹線道路は相変わらず空いていた、信号で停止するとき以外、車は快調に進んで行った。ゲートのような街灯の下を進んでいると、ふと自分が別の惑星にいるような錯覚を起こす。
 この秋に新調したばかりのハイブリット車は、モーターで動いているときは宙に浮いているような静かさと滑らかさだ。
 右手の車線から、不意に一台の車が追い越して行った。漠然と見つめるサイドミラーの中心部分から微かな光が吹き出したかと思うと、すぐにその輝きはマグネシウムが燃焼するようにミラー全体に激しくほとばしった。地面を這いつくばって疾走する金属製の黒豹は、何処へ向かおうとしているのか、それとも何かに対する逃避なのか、猛スピードでれい子のすぐ脇を通過すると、爆音を残して再び闇の中へと消え去った。
 車は、桜田通りを走り続けていた。
 若林がラジオのスイッチに手を伸ばし、いつもの局にチャンネルを合わせた。
 上品で落ち着いた語り口の女性が司会を務めるその番組は、それとは不釣合いに、内容は深刻なものばかりだった。長引く不況、解決の糸口の見えない外交問題。あるいはれい子と同世代の若者が陥りがちな裏社会とのトラブル。毎回、専門家をゲストに迎へ、女性は地道な質問を重ねながらも、リスナーに語りかけるように淡々と説明していく。若林のお気に入りの番組だ。
「……良い声してるよな、この女」
 無言のままひとしきり聞き続けた後で、若林はいつもしみじみと呟く。れい子は返事をしない。
 アスファルトをしっかり掴み高速回転し続けているタイヤの低い音が、発音の綺麗な女の話し声の下層域で絶え間なく響いている。
「この前貰ったワイン、もう飲んだのか?」
 来春から大手小売量販店とのCMの契約が新たに決まり、その際に担当者から記念に貰ったものだった。
 バックミラー越しにこちらを見つめる若林に対して、れい子は黙ったまま首を左右に振った。
「お前ももう、二十歳になったんだから、酒ぐらい飲めるようにならないとな。今は、忙
しいからと言えば、酒の席も切り抜けられるけど、そろそろそっちのほうも頑張らないと
な。映画の話が決まったら、そういう訳にはいかないぞ。お前も聞いたことあるだろ? 主
役のKさんはかなりの酒好きらしいから、誘われたらお前だけ断るわけにはいかないからな」
 笑みを浮かべながら話す若林の視線はしかし厳しかった。
 れい子は上目遣いに若林を見つめながら返事をした。
「頑張ります」
 五月生まれのれい子は二十歳になってから、もう半年以上が経っていたが、大人になったという実感は未だに掴めずにいた。仕事は高校三年の夏休みから少しずつ始めていたから、あらためて”大人”といわれても特に感慨はない。むしろ、深い迷いの中にいる気がしていた。周囲の言う大人というものと、自分が感じる大人との差が常にあって戸惑っていた。二十歳になった時、雑誌のインタビューで今後の抱負を尋ねられた際、れい子は答えに困ってしまった。その場ではとりあえず、あらかじめ若林に教えられたとおりのことを言って切り抜けた。責任ある行動をとるとか。目標にされる人になりたいとか。酒を飲んでみたいとか、大人の恋愛をしてみたいといった当たり障りのない発言をしたのだが、心の中はまったく違っていた。決して、大人になりたくないわけではない。ただれい子には、大人になるということが一体どういうことなのかが分らなかったのだ。それが分らない以上、何処へ向かい、何を目標にして良いのかも分らない。だから、大人としての豊富も答えられなかったのだ。
 大学へ進学することを自らの意思で辞め、モデルの仕事を始めたとき、れい子は自分はもう大人であると自覚した。しかし仕事を続けていくにつれ、その思いに迷いが生じてきていた。とくに売れっ子になり、同時に求められる仕事の質も高くなると、迷うことが多くなっていった。仕事を始めた当初は早く一人前になりたい。表紙を飾れるモデルになりたい。ファンからも、スタッフからも好感を持たれる存在になりたい。そう思ってがむしゃらに頑張ってきた。しかしいざ、その思いが叶い、現実に自分がその立場になってみると、その景色は憧れて眺めていたものとは随分違って見えた。
 若さと勢いに任せ走り出し、坂道を駆け上がっているまでは良かったが、いつの間にかその道は途絶えていた。気がつくとれい子はその勢いのまま跳躍しているようだった。それまでの全力疾走が助走に変わり、坂道がなくなった後、れい子は地面を飛び上がっていたのだ。飛躍といえば格好良いが、着地すべき場所を見つけられず、かといってそのまま飛翔を続けることなど出来るわけもなく、むしろ空中を虚しくもがきながら浮遊している感じだった。しかも、迷ってばかりもいられない。目の前の仕事をこなし、それに対する結果も出していかなければならない。自宅と現場を行き来する日々の中、高校生だったあの当時持っていたはずの確かな思いは、気がつくとどこかへ消えていってしまっていた。
 なだらかな上り坂の手前で車は信号待ちをしていた。この坂を越えると、まもなくれい子の住むマンションに辿り着く。辺りの建物の明かりは既に消え、目にする光は街頭と信号だけで、後は道の先、坂の向うに夜空が見えるだけだ。このまま進んでいくと、車は星空へと飛んでいってしまうのではないか。或いはもしかしたら、自分はもう既に別の惑星に来てしまっているのではないか。れい子はそんな不安に襲われていた。
 若林の運転するこの車は、一体何処へ向かっているのだろう。自分は一体何処へ連れて行かれてしまうのか。そしてその場所は、自分が本当に目指している場所なのだろうか。もしかしたら、自分はまったく別の道を進んでしまっているのではないか。
 信号が青に変わった。若林がアクセルを踏み込む。微かなモーター音を響かせながら、車はスムーズに加速していく。スピードが上がるにつれ、視界の先の信号が次々と青に変わっていった。若林がさらにアクセルを踏み込んだ。車はさらに加速していった。

心のあしあと

心のあしあと

モデルとして活躍する主人公のれい子。華やかな成功とは裏腹に、彼女の心は虚しさでいっぱいになっていた。そんなれい子の気持ちとは関係なく、多忙で過酷な日々が続いている。 自ら望んで入った芸能の世界。煩悶と葛藤、そして模索の日々の中、それでも前進し続けなければならないれい子は、やがて自分なりの人生の歩き方を見つけて、新たな仕事へチャレンジし始める。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-22

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