レクイエム
私が医学部を卒業して研修をしていたころは、受け持ち患者さんが亡くなる臨終の瞬間には一種の儀式のように心マッサージをしていました。癌で亡くなることが判っている患者さんに対してもそうすることが一生懸命手を尽くしましたが駄目でしたと言う医者の誠意を見せる暗黙の儀式でした。それは医者と患者・家族の関係が、契約ではなく信頼関係で成り立っていたころの話です。先輩ドクターから教えられるままに、何故こんな無意味なことをするんだろうと思いながらそれに従っていました。研修が終わり、一度大学の医局に戻り、博士号と言う紙1枚をもらうための研究をして、関連病院へ赴任するころから、医療の世界でも常識が変わって来ました。癌は非告知から告知するのが当たり前となり、終末期の医療に対しても本人の意思が尊重され、延命処置も本人が拒否出来るようになりました。医者と患者・家族との関係もドライな契約関係となり、医療訴訟の数も増えて来ました。
外科臨床を30年あまりして、年に20件×30年=600件ほどの臨終に立会いました。また途中から警察医となり、突然死した方たちの死因究明の仕事もするようになりました。また仕事とは関係なしに、身内・知人が亡くなると言う経験も年とともに多くなってきました。
そんな死と向き合う日常の中で、心に残る死がいくつかあります。そんな死のいくつかを取り上げてみたいと思います。
ピンピンコロリ─安藤源三─
最初に紹介するのは私の父安藤源三です。父は1895年(明治28年)の生まれで、1985年91歳で亡くなりましたが、今生きていれば120歳になります。私の年齢(現在65歳)からすると随分年が離れているのは、母が20歳年下で後妻に入ったためで、私は父が56歳の時の子供になります。私の下にはさらに8つも下の弟がおり、弟は63歳の時の子供でした。父は岡田の名門、安藤家の三男として生まれました。三男でしたが、実家の家屋敷を継いで、小石山にお城のような家を建てて住んでいました。屋敷内には土蔵があり、小さな山と池もあり、門から玄関まで20mほどあって、部屋の数も16部屋ほどありました。3段ほどになった天守閣のような屋根の上に登るのは高所恐怖症の私には勇気のいることでしたが、そこから見える岡田の町はさながら城下町のように見えました。
父は尋常小学校中退で、常滑の方へ丁稚奉公に出ていたようですが、青年期は満州に騎兵隊として戦争に行ったようです。私の年代の親の戦争と言うと太平洋戦争が普通ですが、父の戦争は一世代ずれていてロシア革命の時のシベリア出兵でした。厳寒の満州を馬で駆け回っていたようで、私の知っている父は馬をホンダのスーパーカブに乗り換えて、出かける時には戦友の一節を口ずさんでいました。90歳までスーパーカブで走り回って、最後は出血性脳梗塞で出来て間もない知多市民病院に3日間ほど入院して亡くなりました。
入院するまでは全くボケていなかったのは、若い頃に囲碁の修行をしたせいか、アマチュア3段くらいはゆうにあったと思います。若い頃に桑名に二人強い碁打ちがいると聞いて、その一人桑原三段に弟子入りしたことがあったそうです。もう一人三宅三段という碁打ちがいて、そちらには日本棋院中部総本部を創設する酒井4兄弟の長兄酒井通温氏がいて、互先で競ったと聞いています。私が中学に上がる頃にはもう父は隠居していましたが、父から唯一教わったのが囲碁です。ルールを覚えてから、置いて教わるのに4子以上は悪い形を覚えるといけないからと置かせてもらえませんでした。もちろん負け続けて、初めて4子で勝てるまでには1年半ほどかかりました。大学の囲碁部で腕を磨いて最後は父に2子置かせるまでになりましたが、他の兄弟があまり碁を覚えませんでしたので、一番打とうと言うといつも嬉しそうに相手をしてくれました。
父の全盛期は知多運輸という運送会社を経営していましたが、それも私が中学に上がるころには丸善運輸に吸収合併されて、67歳くらいで仕事からは引退して、以後は教員免許を持っていた母が代用教員として働いて子供4人を大学まで出してくれました。父は年金もなかったようで、それまでに貯めこんで土蔵にしまってあった骨董品を売ってはお小遣いに変えていたようです。中でも栢の柾目の6寸盤とそれに見合う厚い碁石を当時300万で売ってしまいましたが、その盤は取っておいて欲しかったひとつです。私も定職を63歳で引退したのは、長命な家系ですが、父の影響があるのかも知れません。
教育熱心だった母─安藤ツル─
1915年(大正4年)、会津生まれの母は、一時開拓農民だった父親について北海道に住んでいたこともあるようで、その頃は随分苦労したようです。男1人、女3人の4人兄妹の3番目で、成人してからは東京に住んでいたようです。最初の結婚は20代だったようですが、子供がなく、夫を結核で亡くした後、安藤源三の妹の小林時枝宅に住み込みで働いていたようです。小林時枝叔母さんは当時女性では珍しく日本女子大を卒業して、市川房枝の右腕として活躍した人でした。そして母ツルが夫を亡くし、兄の安藤源三が最初の奥さんが女の子6人を産んだところで急死してしまったので、兄さんが困っていると言うことで、母ツルを父源三と引き合わせたようです。最初の結婚で子供が出来なかったので、女ばかり6人もいるところへ嫁に行っても子供は出来ないだろうと言う予定だったようですが、34歳で結婚して見ると、男3人、女1人の子供が出来てしまいました。私はその2番目に当たります。
母は、先妻の子供たちに遠慮してか私たち実子に贅沢はさせませんでしたが、教育にだけは熱心でした。地元では2年保育が普通でしたが、私はその前に長浦にあるカトリック教会の幼稚園に1年半ほど通わされました。それは自宅から2kmほどあるところで、3歳の幼子が歩いて通うには少し遠いところで、地元の子は誰も行きませんでした。最初の日に一度だけ母がついて行ってくれましたが、その後は一人で歩いて通わなければなりませんでした。3歳の子が2km歩いて通うには片道30分はかかり、かなりの負担でした。ある時大きな台風が来て、これは幼稚園も休みになるぞと内心喜んでいたら、母が鬼のような形相で幼稚園を休んではいけませんと言います。泣きべそをかきながら一人で幼稚園まで行く途中傘は風で飛ばされるし、びしょぬれで幼稚園についたら、先生がびっくりしてこんな日に来たの?と言います。流石にその時は母も迎えに来てくれました。もう一つエピソードがあります。先妻の子供たちに遠慮してか、机も本立てもなく、それこそミカン箱が机替わりでしたが、保育園の頃に初めて本立てを買ってくれたことがありました。ワーイ本立てだと言って、漫画本を並べたら、また鬼のような形相で漫画の本を立てるために買ってあげたんじゃありませんと怒られました。この頃のしかられた記憶がトラウマとなって、それから勉強だけはまじめにするようになりました。
その後も、そろばん、習字、オルガン、絵画(大澤画伯に習う)、水泳(観海流の水連学校)とありとあらゆる教室に連れて行かれましたが、これは駄目だと思うと辞めさせてくれました。そして小学校に上がると、近くの学校の先生がしていた塾に通わせたり、中学受験のための模擬テストを受けに名古屋へ連れて行ったりとその当時地元ではそんなことをする親は一人もいませんでした。お蔭様で、小学校では音楽を除いてオール5で、中学は地元の試験なしで入れる公立中学ではなく、学芸大学付属中学と東海中学を受けさせられてどちらも合格しました。どちらを選ぶかと訊かれて、私は迷わず東海中学を選びました。その年の入学試験が学芸大学付属中学では面接試験とマラソンと鉄棒しかなかったからです。小学校の校長先生は推薦した手前学芸大附属に入って欲しかったようでしたが、・・・。
4人兄弟の中で私だけ特別扱いされていたかと言うとそうでもなく、才能に合わせて、兄も名古屋学院、妹も南山中学と私立に通わせるだけでも随分金がかかったことだと思います。とうとう一番下の弟は資金が底をついたのか、地元の知多中から横須賀高校と公立に通わされましたが、無事名古屋大学の医学部へと進学することが出来ました。
そんな母がえらいのは、55歳過ぎて車の免許を取り、社交的で、知多で醍醐という短歌の会の知多支部を作り、短歌を詠んでいました。90歳を過ぎて、足腰が弱くなり、歩けなくなっても、蒲郡で醍醐の総会があるから連れて行って欲しいと言うので、最後の親孝行と思って連れて行ったことがあります。最後は知多のグループホームに入所して、93歳で亡くなりましたが、亡くなる1年前くらいからはもう誰も判らない状態になってしまいました。ピンピンコロリの父と、ボケてしまった母と、その差は何処にあるのか、私の場合はどちらになるんだろうかと考えたくなる年ごろになって来ました。
ここで、私の母が詠んだ歌を少しだけ紹介しましょう。父親に連れられて北海道に開墾に行っていた子供時代のことなど聴いたことがなかったのですが、母の出した歌集にそのころのことを詠んだ歌が載っていました。
─ 吏 ─
安藤鶴子
大正の北海道の植民地 一鍬一鍬開拓十丁歩
未開地を開拓未明に努力する父につきそひ目をしばたたせ
荒地に育ちし人参を土ぬぐひガリガリ食むる少女の頃は
家の前を流れる小川に百匹の山女釣り上げ兄に負けじと
土橋下八つ目うなぎの群がれる足踏み入れてたはむれ遊ぶ
傘蕗を切り取りかざす湿地帯こごめつみ取り持ち帰り来る
スキーつけ妹を背負ひて十キロの分教場へと行く真冬
飛行機代議士─安藤孝三─
今日は私の父の弟、叔父さんについて書きましょう。資料は岡田村誕生四百年記念写真集と中日新聞本社発行のあいちの航空史(昭和53年)です。岡田いろはかるたにも登場する安藤孝三さん(明治31年生まれ)です。私の実家は知多市岡田小石山というところにあります。そこに安藤梅吉という自作農が居ました。4男1女をもうけました。長男竹三(二代目梅吉)、次男繁三、三男源三、四男孝三、長女時枝の5人です。私の父は明治28年生まれの三男源三になります。三男ですが、屋敷を継ぎました。初代梅吉のえらかったのは、当時ではめずらしく、遺産を5人に平等に分けたこと。それぞれが、その遺産をもとに好きなことをしました。長男竹三(二代目梅吉)は岡徳織布を起こして知多木綿の隆盛に一役買い、財をなしました。次男繁三さんは若くしてなくなりましたが、その長男、梅幸さんは後で出てきますが、孝三さんを手伝いました。私の父、源三はシベリア出兵から戻ってきて、知多運輸という運送会社を起こしました。また、長女、時枝さんは東京へ出て、当時女では珍しかった大学へ行き、市川房枝議員の右腕として働きました。
さて、孝三さんの話に戻りますが、空への憧れは18才のとき、名古屋港の上空で米人パイロットのアート・スミスが曲技飛行をしているのを、見に行った時から始まりました。岡田尋常小学校を卒業して、長男竹三の織布工場で働きながら、気に入らないことがあるとオートバイにまたがって飛び出してしまうという、腕白でした。このアート・スミスの曲技飛行を見たことが彼のその後の人生を変えました。「あの外人め、十回以上も宙返りをしやがった。だがな、十年もすればオレだってあんなもの乗りこなしてやるわい・・・」とオートバイにしがみつき、田舎道を走りながら心に誓ったのでした。大正5年5月3日のことでした。彼の願いは意外と早く実現しそうになりました。徴兵検査に甲種合格すると、大正7年12月に所沢の陸軍飛行第四大隊へ入隊することになったからです。もっとも、飛行隊といっても飛行できるのは士官だけ、練習を終えた士官たちに教官が講評するのを整備兵として、遠巻きに聞いて操縦法を覚えたといいます。あるとき、飛行機を格納庫に入れるため、ゆっくり地上滑走で移動する命令を受けたのですが、「えい、ままよ」とばかりにスピードを上げ、空へ飛ばしてしまったのです。大正8年のことでした。もちろん、大目玉、重営倉を食らいますが、所沢にいた徳川好敏大尉(日本人で初めて飛行に成功した空の英雄)の口添えで何とか勘弁してもらえました。というのは、水泳の師範をしていた、親類から徳川が泳ぎの手ほどきを受けていたからです。大正9年10月に孝三さんは大刀洗に移っていた飛行第四大隊に転属、このとき大隊長だった杉山元(のち、元帥、陸軍大臣)にかわいがられ、空の経験をさらに積んで、翌年末に除隊。郷里に戻ったところで、半田の小栗常太郎からモーリス・ファルマン式水上機を譲り受け、古見の海岸で組み立てを始めました。資金約七千五百円という当時としては目玉が飛び出るような大金は、長兄から融通してもらったりしました。最初の4ヶ月くらいは、新品同様のファルマンもモーターボートのように水の上を走るだけでした。兄たちに「お前の飛行機は走っているだけだ。」と言われ、イライラしていたある日、孝三さんは強引に昇降舵を力まかせに引きました。すると、それまで頑固なまでにいうことをきかなかった機体は水面を離れ、伊勢湾の空に舞い上がりました。いったん三重県桑名、四日市の沖合まで飛び、引き返して岡田の上空を得意そうに六回も旋回しました。大正11年の春のことです。18才のときに孝三さんが抱いた夢は十年を待たずに実現したのです。
孝三さんが飛行を始めた古見海岸は、それより前の大正11年1月23日、逓信省から民間飛行場として認可されていました。だが、ほどなく孝三さんは知多郡旭村(現知多市)新舞子海岸に格納庫建設を始め大正13年初めに移りました。すぐにパイロット養成の練習生募集も始めました。戦前の日本民間航空に大きな足跡を残した安藤飛行機研究所の始まりです。大正13年孝三さんは研究所を新舞子に移すとすぐに民間パイロット養成の練習生を募集しました。「飛行機が好きなものはこい。操縦法を教えてやる。」という調子で、始めは学校というより、住み込みの徒弟教育に近かったようです。当時の新舞子は、夏場は海水浴場でしたが、普段は旅館が二つあるだけでした。昭和に入って体裁が整い、練習生は民家に起居して研究所に通ったようです。練習生から馬占山(満州事変で日本と妥協した中国軍人、風貌が似ていた)とあだ名をつけられた、孝三さんは長いアゴヒゲで、モサモサ頭に当時はだれもがかぶった飛行帽もなしでハンザ式水上機に乗り込むと十二人の練習生をにらみつけて離水しました。得意の宙返りに練習生らが見とれている間もなく急降下、沖合いの漁船の近くに着水した。なにやら漁師と話をしている様子だ。「おい、魚をわけてもらっているぞ」と練習生の1人が言った。答えるように別の1人が「この間、大野の埠頭で芸者たちが夕涼みをしていたら、先生が超低空で飛んできたので、何人かが驚いて海に落ちたそうだ」、昭和7年夏のことだ。生徒の中には後に名古屋飛行場長になった奥田鉉一郎、日本初の女性パイロット、NHKドラマ「雲の絨毯」の主人公のモデルになった松本(西崎)キク、各務原高等飛行学校に移った大谷勇次などの顔もあった。開所当時は孝三さん自身も教育に当たりました。ところが、大正12年から逓信省は民間パイロットの養成を陸海軍に委託し、飛行士を教育する制度を始めました。この委託生は一年間の教育後、二等飛行操縦士の免許を得るが、すぐには大手の会社に就職しない人もいて、これらの人たちを毎年安藤研究所では教官として受け入れていました。彼らは教官として教育に当たりながら自身も経験を積み、一等飛行操縦士の資格を取得して民間航空の指導者になっていきました。研究所に常備された飛行機は初め三、四機。次第に増えて多い時は六、七機に達しました。ファルマン、ハンザのほか13式、14式、15式、横蔽式イ号、ロ号、90式二型など十二種類に及びました。水上機か水陸両用機でしたがほとんどが軍の払い下げでした。航空局のあっせんで入札、一機二、三十円程度だったが、バラの部品を入手、組み立てたこともありました。中でもハンザは孝三さんの愛機、百八十馬力のエンジンを三百馬力に改造、海軍の偵察機を追い抜いたシロモノでした。孝三さんの教育方針は「けがをするより飛行機壊せ」、孝三さん自身、四十回以上墜落しているが、1週間入院したのが一番の大怪我だった。何と言っても当時の飛行機は速度も遅いし、木の骨組みに羽布張りだった。「こりゃいかん」となると、竹ヤブの上などはクッションがきいてかえって安全だった。そんなところを見つけて”落ちる”からたいした怪我もしなかった。「安藤の飛行機は飛ぶより落ちる方が多い」と言われたりしましたが、その裏にはそれなりの安全第一の精神が働いていました。
安藤飛行機研究所での飛行士養成が軌道にのってくると、孝三さんは大正15年9月名古屋港-新宮間に定期空路を開設、翌年6月には名古屋港-二見浦-蒲郡を結ぶ三角定期も始めました。使われた機材は主としてハンザ式水上偵察機改造型。大正15年には安藤飛行機研究所は逓信省指定航空機修理工場となり、機体の改造などはさほど難しいことではなかった。偵察席を客席に改造したり、銃座を取ってイスを入れたり。今の旅客機と違って居住性は悪く、客は4人が限度。機長の”孝三”飛行士は、時々飛行帽なしで操縦席に座るが、客は飛行帽をかぶらなければならない。話は逆だがそれでも乗ろうという物好きな客がいました。当時は路線の認可を取れば、どう飛ぼうと勝手、操縦士次第というおおらかな時代でした。その上、航空郵便を引き受けると、逓信省から相当額の補助金が出ました。安藤飛行機研究所の定期空路は両方合わせて週3回くらいだったが、時によっては、「本日郵便物多量につき、乗客はいっさいお断り」の日もありました。このころが、安藤飛行機研究所の全盛期でしたが、戦争の激化で定期空路の運行に当たる一等飛行操縦士資格者が次々と徴兵され、昭和14年には両路線とも廃止に追い込まれました。それにしても定期空路の開設は先駆者的な事業といえます。まだ民間航空のない時代の話でした。「フンドシひとつで操縦した」とか、「名鉄電車に乗るのにいつも研究所近くの線路に立ちはだかって止め、神宮前まで行くのに運賃を払ったことがない」といった伝説がある孝三さんでしたが、非凡な着想も多かった。琵琶湖産稚鮎の空中輸送もそのひとつである。その第1回は昭和6年4月25日に行われた。後半、安藤飛行機研究所の運営をまかされた孝三さんの甥(次兄繁三の長男)、安藤梅幸さんの話によると、その夜「シッパイ スグ コイ」という電報が研究所へ届いた。使用機材の14式水上機が鮎を積み過ぎ、横風を受けて離水に失敗、琵琶湖へ突っ込んで壊れてしまったのだ。急いでトラックに部品などを積んで駆けつけると、孝三さんは大津の町で芸者を呼んでドンチャン騒ぎ。壊れた機体を廃品業者に売り、その金で遊んでいたのである。豪傑~。しかし、このあと多摩川、諏訪湖などに放流する鮎輸送には成功した。
昭和12年4月30日、孝三さんは第20回総選挙に愛知二区から最高点で初当選、終戦まで代議士を務めた。2.26事件の翌年で、日本が太平洋戦争へと傾いていった時期である。当時の内閣は第一次近衛文麿であった。陸軍航空隊にいたころから、ひそかに政治の世界を目指していたという。「技術兵科は徴兵義務年限を五年にせよ」と陸軍大臣に上申書を出したところ「軍人は政治にかかわるべからず」と、上申書が中隊長のところへ戻ってきたことがある。このとき中隊長から「政治にかかわるなら代議士になれ。どうせお前なんかなれやせんがな」といわれ一念発起したのだという。昭和5年以来三回落選し、四度目の正直であった。初登院のとき、孝三さんは名古屋港から自分でハンザ式水上機を操縦して羽田まで飛んだ。”飛行機代議士”とマスコミは大騒ぎ。1時間半はかかると予想されたが、高出力のエンジンにつけ替えていたので、55分で羽田に着いてしまった。取材しようとした新聞記者は間に合わず、またまた大騒ぎとなった。このあと「孝三さんは羽田から国会議事堂まで自転車で走った」という言い伝えがあるが、本人は「そんなことはない。あの時は確か自動車で行った」と否定する。汽車で行った愛知選出の別の議員と競走したというが、羽田から国会議事堂までの時間がかかって結局負けたという話である。国会での活躍についてはあまり資料がないが、古瀬傳蔵文庫収蔵、農政研究第十九巻第五号の中に第七十五議会と農政問題と題して、食料確保と生産資材(安藤孝三)の記載がある。孝三さんが国政の場で忙しくなると、飛行機研究所の運営は次兄繁三の長男、安藤梅幸さんが代行するようになりました。梅幸さんは大正8年生まれ旧制県立半田中学を卒業した昭和12年春、研究所へ入り、11月に二等飛行操縦士、14年末一等飛行操縦士の資格を取っています。梅幸さんのことはまたあとで書こう。昭和10年代も後半になると、太平洋戦争は激化し、訓練半ばで応召する練習生が目立ち始めた。研究所で訓練を受けたのは150人以上、うち約80人が飛行士の資格をとったが、孝三さんはこの三分の一が戦死しただろうという。研究所出身者の中には、戦後初めて飛行二万時間を達成した野寺誠次郎、運輸省の事故調査官、航空評論家として知られる楢林寿一、女性パイロットの久岡(横山)秀子、大韓航空専務理事になった全明燮など戦後の民間航空に活躍した人々が多い。昭和20年8月15日太平洋戦争が終結した。梅幸さんは終戦と同時に練習生のうち帰る実家のある者はすぐ郷里に帰し、家族の消息不明の者はなんとか食いつながせながら、残務整理を手伝わせた。「もう飛ぶことはできないだろう」と覚悟を決めていた。昭和21年の初めに数人の米兵がジープで研究所に乗りつけてきた。格納庫内にある機体の日の丸を指さし、「ミリタリー(軍用)!」とわめいた。梅幸さんは「シビル(民間)だ」と抗議したが、航空に無知な騎兵出身者らしく、話は通じなかった。「リストと作業計画を作り解体せよ」という命令で、組み立ててあった八機、分解してあった三十機をともに数ヶ月かかって処分した。エンジンの一部は紀州熊野川のプロペラ船用に再生された。昭和25年(ちょうど私が孝三さんの兄、源三の次男として生まれた年)までに孝三さんも梅幸さんも新舞子を引き揚げ、知多市岡田の長兄竹三(二代目梅吉)のもとに身を寄せた。昭和28年9月25日、無人の格納庫などは台風13号によって倒壊し、研究所は跡形もなくなった。この近くには女房の姉のご主人の実家がありましたが、子供のころ、この海岸で匂いガラス(飛行機の風防のガラスのかけら)が拾えたという。
孝三叔父さんは引退し、競艇が好きでよく常滑へ行っていた。たまに家に友達と2人で来ては、父源三と徹夜で3人マージャンをしていました。私が東大受験に失敗して浪人していたとき、私の勉強している隣で毎日毎日マージャンをするので、あるとき堪忍袋の緒が切れて、怒鳴り込んだらそれから来なくなってしまった。ご免よ、叔父さん、楽しみを奪ってしまって。年とともに耳こそ遠くなっていったが、空の話になると生き生きとして年齢を忘れた。私が医者になって名鉄病院に勤めているとき、脱腸について相談を受けた。そのとき83歳でもう寝たり起きたりの状態であった。腫れはひどかったが、痛みもなく、腸閉塞の症状もないので、手術をしなくてもいいよと話した。その3年後に86歳で亡くなった。あるとき、何でも鑑定団に孝三叔父さんの飛行機のプロペラが出た。300万円の値がついた。しまった、手術をして御礼にプロペラをもらっておけばよかった。梅幸さんは、その後愛知県のモーターボート競走会に入って、働きながら、安藤飛行機研究所の史料整理をライフワークとした。ここまでの話は、私が見聞きしたこともありますが、昭和52年から昭和53年にかけて、中日新聞愛知県内版に連載された”あいちの航空史”に加筆修正して纏められた同名の中日新聞社会部編の本から取材しました。取材にあたった沼正、前田弘司、田端成治のお三方に敬意を表します。
鬼の競技委員長─安藤梅幸─
今度は、安藤梅幸さんについて書きましょう。父、源三のすぐ上の兄繁三さんの長男、私の従兄にあたります。梅幸さんは1919年(大正8年)生まれ、終戦の年にはまだ25歳です。孝三叔父さんの安藤飛行機研究所を手伝っていたことは、すでに書きましたが、残務整理が済むと第二の人生として、愛知県モーターボート競走会へ入りました。以下の話は梅幸さんから直接聞いたことより、私の競艇の師匠、河合二男さんから聞いた話が中心となります。その前に河合さんとの出会いは駅前の飲み屋、”志な乃”です。河合さんは豊橋生まれの豊橋育ち、20歳の昭和36年から蒲郡競艇場にアルバイトで入り、昭和38年4月に正式職員となり、平成14年3月に定年退職するまで、競艇場に39年勤めた、まさに蒲郡競艇場の主です。今日蒲郡競艇がトップクラスの売り上げを誇っているのは、河合さんの功によるところが大きいのです。蒲郡の競艇場を借りて、トライアスロンのレースをするようになり、最初のころはまず河合さんと志な乃で来年の日程を打ち合わせして決めていました。今は競艇素浪人と名乗り、週間レースに競艇バカ一代記を連載していたこともありました。
ここで、競走会について少し説明しておきましょう。競艇は、競艇場を管理する施行者と競技・選手を管理する競走会が協力して行っています。全国に現在24の競艇場がありますが、施行者は自治体であったり、企業体であったりしますが、競艇場の設備の管理と、舟券を売り、それを取りまとめて、オッズを表示したり、払い戻し金を決めて、払い戻しをしたり、レースの宣伝をしたり、お客さんのサービスをしたりということをしています。それに対して競走会は競技規則を決め、選手を管理しています。各競艇場のある県の競走会をさらに連合会が統括していて、そこが選手を管理し、各競艇場に選手を斡旋します。さて、梅幸さんですが、最後は蒲郡で競技委員長をしていました。レースの審判、選手に対するペナルティなどを決定する最高責任者です。なかなか気難しくて、施行者、競艇記者は、まずご機嫌伺いをしないと、臍を曲げて協力してくれないということがあったようです。選手からは”鬼の珍念”と言って恐れられていました。年賀状には狂気委員長と書いてあったそうです。几帳面で安梅メモと呼ばれる細かいメモをつけていたようです。また、飛行機以外にはカメラと無線が趣味で(写真を撮るのは下手なのですが)カメラ・ビデオ撮影機はたくさん集めていました。
河合さんはよく心得ていて、宣伝の仕事を担当していたときに、選手の取材をするのにまず梅幸さんを通すと話がスムースに行くことを知っていましたから、まずカメラを持って梅幸さんのところへ行き、写真の撮り方を訊きます。すると、任しておけという訳で、嬉しそうに話が始まります。そして、○○選手の取材をしたいのですがというと、その選手を呼び出してくれます。「○○選手、競技委員長室へ来なさい」○○選手は、鬼の競技委員長に呼ばれると緊張してやってきます。競技委員長の机の前には床にビニールの線が1本引いてあります。知らずにその線の少しでも前に出ようものならたちまち「貴様その線を何と心得るか!」といって物差しがピシッと飛んできます。何しろ、戦前・戦時中、安藤飛行機研究所の鬼教官です。鈴木幸夫というA1レーサーがいます。まだ現役で頑張っていますが、奥さんが鈴木弓子といって女性レーサー(かって、私と一緒に長良川のトライアスロンに出たこともあります)で、初代の女王でした。その鈴木幸夫選手が若手で売り出し中のころ、鬼の競技委員長に呼ばれてきたときに、前に引いてある線を越えることはなかったのですが、気をつけをしたときに手がピンと伸びていなかったというので、やはり物差しの洗礼を受けたそうで、その痛さは忘れられないということでした。またある時、河合さんがある女子レーサーの取材に行ったときのことです。鬼の競技委員長に呼ばれて緊張して入ってくると、梅幸さんが「この河合君が君の写真を撮りたいと言っているので撮らしてあげなさい」というと、その女子レーサーは何を勘違いしたのか、「えっ、脱ぐんですか?」これには流石の鬼競技委員長も爆笑。
昭和62年3月に梅幸さんは67歳で競走会を退職しました。丁度そのとき、蒲郡競艇は第22回鳳凰賞(今の総理大臣杯、SGレースのひとつ)で全国キャンペーンを張り、全国の競艇場で初めての場間場外発売(競艇開催日に他の競艇場の舟券を売ること)を実施し、売り上げの記録を更新しました。最後を蒲郡の競技委員長で終えた安藤梅幸さんは売り上げ新記録を宣伝を張った河合さんとともに喜び合いました。 その年の7月蒲郡の周年記念レース(G1)のときに、レースの合間に突如セスナ機が現れて、超低空飛行をしました。一度舞い上がり、もう一度同じように飛びました。お客さんも選手も施行者すら、連絡を受けておらず、びっくりしました。これが、67歳の一等飛行操縦士、安藤梅幸さんの蒲郡競艇に対する表敬飛行、そして、安藤飛行機研究所の生き証人の最後のフライトでした。この時、1マークから2マークに向かい、2度飛んだそうです。丁度この写真のように選手が走ってくるのと相対するかたちになります。そのころはまだナイターもしていなかったので、写真に写っているような照明塔もなく、障害物はありませんでした。鬼競技委員長が選手に睨みを利かすといったところでしょうか?丁度その年、私は新進気鋭の外科部長として、蒲郡市民病院に赴任してきました。父の兄弟もすべて亡くなり、従兄の梅幸さんも15年ほど前に亡くなりました。最後知多市民病院に胃癌で入院していたときに一度見舞いに行ったことがあります。元気なうちに、安藤飛行機研究所と競艇のことをもう少し聞いておけばよかったと思います。安藤家の人たちは破天荒な人が多かったが、皆好きなことをして、自由気ままに生きました。私は安藤の血を引く者、蒲郡に来て競艇に夢中になるのも無理からぬことでしょう!
束の間の夢
オペで遅くなり、馴染みの居酒屋へ行くと、見たことのある初老の男がカウンターに座ってひとり飲んでいた。まだ先日退院したばかりのUさんであった。Uさんが私の外来に紹介されてきたのは平成5年1月の末であった。虚血性心疾患で1ヶ月入院した以外医者とは縁のない人であった。暮れから食欲が落ちたが、仕事の疲れでそのうちよくなるだろうと思っていた。年があけてもよくならず、1月10日頃から痛みも伴うようになり、嘔吐が始まった。もともと太ってはいないが、1ヶ月で10kgも体重が減ってしまった。還暦を迎えたUさんは奥さんとは仕事の関係で長く別居しており、長男夫婦も独立し、一人で医療関係のセールスをして九州・四国のあちこちを回っていた。仕事のあとに一杯やるのが唯一の楽しみであった。佐賀県の近くの開業医で1月末に胃透視を受けて、幽門狭窄で手術が必要といわれ、娘2人が嫁いだ蒲郡に紹介をしてもらった。病院に来たときは、2日前のバリウムが胃内に残り、食事は全く通らず、時々指を入れては戻していた。お腹の外からも腫瘤を触れ、内視鏡でみると、大きなボールマン3型の胃癌により、幽門は完全に閉塞していた。しかし、割と病識がなく、戻して楽になるとケロッとして、胃の出口が潰瘍の瘢痕で狭くなっているからという説明もそれ以上疑うそぶりもなく、早く切って楽にしてくれという。IVHを2週間行い、胃洗浄を繰り返し、2月12日に手術を行った。腫瘤は全周性で十二指腸にも浸潤しており、リンパ節にも広範な転移を認めた。何とか原発巣は切除し、B-2法で再建したが、組織は未分化型で、脈管侵襲も強く再発は近い将来必発と思われた。術後経過は極めて順調で、6日目に食事を開始し、8日目には「早くさしみで一杯やりたい」と言い出す始末であった。16日目にめでたく退院となり、しばらく娘の家から通院することになった。飲み屋で顔を合わせたのは退院後まだほんの1週間くらいのことであった。また酒が飲めるようになったことを喜び、いままでの身の上話をポツリポツリと話し、天草でとれる海老もおいしいが蒲郡の魚もおいしいといい、車でこの付近を回って、暮らしやすそうだから九州を引き上げてこちらに住むところをさがそうと思うとか、全く将来の不安を抱いていない様子であった。私は告知賛成派だが、こういう人に敢えて予後について話をして不安に陥れることはないだろうと、Uさんの話に相槌を打ちながら、黙って聴いていた。3月中頃に一度九州へ帰って仕事の整理をしてくるというので、最初紹介してくれた近所の開業医にしばらくの経過観察を頼んだ。こっそり、昔市民病院で働いていた長女を呼んで、「組織検査の結果は予後不良である。本人はこう言っているが、本当のことを言うのも気の毒だし、好きにさせた方がいいのではないか。」と話した。3月23日に九州に帰り、2週間くらいしたら、天草の生きた車エビを宅急便で送ってきた。次に便りがきたのは、紹介した先生からの「荒尾市民病院にて5月21日最後を迎えられました。」という報告であった。その間の経過はわからないが、術後3ヶ月と少し、あまりにも早い再発であった。いったい私のしたことは何だったのだろうか、延命という点では手術をせずにIVH だけで様子をみていても大差はなかったろう、唯一の救いは好きな酒がまた暫く飲めたことと束の間の夢をみることができたことであろうか。
ある少女の死と飼い犬の家出
その少女は17才、ポッチャリした健康そうな高校2年生でした。手術歴はなく、腹痛と嘔吐で入院してきて一旦保存的によくなり退院しましたが、また2週間ほどして同じ症状で戻ってきました。丁度1年ほど前のことでした。右下腹部に何となく抵抗があり、少し痛がります。CTではあまりこれといった所見はありませんが、一番頻度の高い虫垂炎から炎症性の癒着でも起こり不全イレウスになったのだろうと考えて、本人家族に説明し手術することにしました。傍腹直筋切開で約2cmの創から指を入れてみた瞬間に私の指は今までの常識を覆しました。ザラッとしたこの感触は、そう年寄りでたまにあるあの癌性腹膜炎の感触そのものではないですか。「ウッソー、こんな若い健康そうな少女が癌性腹膜炎なんて」と否定しようとしましたが、私の指は許してくれません。一部組織を採って迅速組織検査に出して結果を待つ間に徐々に冷静さを取り戻し、これから始まるであろう少女の闘病生活と私の苦しい嘘言生活に思いを馳せました。中分化腺癌でした。両親を手術室の中へ呼び入れ、状況を説明し、その場は試験開腹のみで終わりました。
術後に注腸を行いますと上行結腸の入り口に狭窄があります。当然ながら不全イレウスはよくなりません。原発巣の切除(回盲部切除)と癌性腹膜炎に対する腹腔リザーバーの留置を行ったのはそれから2週間後でした。その間両親と何度か話し合い、少女には非告知で「炎症性の腫瘤が出来ていてそこは取ったけれどもまだ回りに炎症が残っているので、術後に炎症をおさえる薬をリザーバーから入れましょう」と誤魔化しました。創もなおり、食事も食べられるようになり、退院が近づいてきました。退院後、外来で抗癌剤注入を続けていくうちに副作用も出るであろうし、とても誤魔化しきれる自信はなく、退院前に両親と話し合って癌の告知をすることにしました。「実は採った組織を調べたら大腸癌で、周りに少し取り残しがあるかも知れないので、念のため抗癌剤の注入療法を外来でしましょう」と説明をし、少し私の心の負担は軽くなり、少女も素直にそれを受け入れ自暴自棄になることもなく、納得して高校生活にも復帰しました。
腫瘍マーカーは術後少し下がりましたが、その後は抗癌剤治療の効果もなくどんどん上昇を続け、再び癌性腹膜炎によるイレウス症状が出たのは約5ヶ月後でした。それから652号室とその窓から見える五井山だけが少女の世界となりました。イレウスによる痛み、腹満感と嘔吐に苦しみ見るに見かねて回腸瘻を作りましたが不全イレウスは続き、ストーマ周囲のびらんも起こり、それから半年間は緩和ケアチームのお世話にもなり、フェンタニールパッチと塩酸モルヒネによる疼痛管理、IVH とステロイドの使用、適応が通ったサンドスタチンの使用など考えられるあらゆる手段を尽くしましたが癌は確実に少女の寿命を縮めていきました。いよいよ最後の時が近づいてきた時、少女もそれを悟ったのか可愛がっていた犬に会いたいというので、こっそり家族に箱に入れて病室まで連れてきてもらいました。
丁度そのころ私の家の老犬が家出してしまいました。その犬は昔私が毎朝蒲郡緑地公園でトレーニングしていたころ、捨て犬が3匹いて、走ってついてきたのをこんな拾い物をしたら女房に怒られると思いそのまま帰ったもののやはり放っておけず戻り拾ってきた犬の1匹です。メスでしたので、貰い手がなく結局家で飼うことになり、蒲郡で拾ってきたのでガマと名づけました。ガマも拾って十数年、前から飼っていた犬たちも順番に死んで1匹だけとなり、最近では散歩に連れ出してもよたよた、プルプルで遠くまで歩けなくなっていました。女房も屋敷の中では遠くへ行くことはないだろうと昼間放し飼いにして夜だけつなぐようにしていました。女房が前の畑で草取りをしているとその周りを気ままによちよち歩きをしていましたが、ある日夜つなぎ忘れ行方不明となってしまいました。そんなに遠くへ行けるはずはなく、よく散歩で連れて行く裏山や田圃の周りなどおお探ししましたが、結局出てきませんでした。またタイミングよく女房が前の日草取りをしながら「お前がいるから旅行へもいけないんだよ」などと愚痴をこぼすものだからそれを聞いて死に場所を探して家出をしたに違いないと思いました。
少女は動けない世界で可愛がっていた飼い犬に別れを言い、うちの飼い犬は最後の力を振り絞ってひっそりと死に場所を求めて旅立ちました。どちらも私の心の中に思い出として生きています。
日本のゴーギャンとヤシガニ─久留米 裕─
1985年に宮古島トライアスロンが始まってから65歳で宮古島定年を迎えるまで3回ほど欠場しましたが、ほぼ毎年4月には4泊5日で宮古島へ行っていました。この大会ロゴや大会ポスターを一時期創っていたのが、久留米 裕さんと言うイラストレーターでした。2002年の時でしたか、参加賞の中に南国美術館の入館券とポスター引換券がついていたことがありました。そこで初めて久留米 裕さんと言うイラストレーターの作品に触れました。久留米さんはそこでアトリエを持って、地元の子供たちにも絵を教えたりしながら、宮古島の自然を描いていたのです。南国美術館は熱帯植物園の中にあり、亜熱帯の植物とそこに生きる生物を原色の色彩で生きいきと捉えています。フランスのゴーギャンはタヒチの娘を題材に多くの作品を残しましたが、久留米 裕さんは日本のゴーギャンと言ってもよいと思います。
たくさんの作品を展示即売もしていましたが、中でもアダンの実を食べに来たヤシガニの絵がいいなあと思いながら、版画で額付き1万円は高いなと迷って、結局翌年もう一度行って買いました。この絵を見て私はヤシガニはアダンの実を夜、食べにくることを知りました。その後、一度ヤシガニを捕まえてみたいと思うようになりました。ヤシガニは美味しいらしい。ヤシガニのことを宮古語ではマクガンといいます。マクガン獲りのおじいとおばあの話が宮古島には伝わっています。マクガンのはさみは力が強く、指を挟まれると指が切れてしまうという。ある月夜の夜、おじいとおばあがマクガン獲りに出かけた。おじいがマクガンを見つけて獲ろうとして、マクガンに挟まれてしまった。おじいはおばあに向かって「ふぐり(金玉のこと)くにゅくにゅ!」といったら、おばあは勘違いしておじいの金玉をつかんだという話。マクガンはふぐり(おしりの下あたり)をくすぐるとびっくりして離すらしい。女房をヤシガニ獲りに連れて行くのはよそう。
島中いたるところにアダンの樹は生えており、実は丁度4月頃に色づいています。よく熟すと実もぽろぽろと落ちてきて、辺りに甘酸っぱい匂いが拡がっています。地元の人に訊くと「よく夜道を這ってるさ~」といいます。大会が終わって、夜遅くゴールした後にレンタカーで女房が運転してホテルへ帰る途中、道路に黒い影が、私はアッと思ったのですが、女房は思いっきり踏み潰していました。ぐしゃっという音が、・・・。すぐに降りて見に行きました。超手のひらサイズのヤシガニでした。こんな形で初対面するとは、・・・。やはり、夜道を這っているというのは本当でした。
私がこのヤシガニの絵を買って帰った年に、久留米 裕さんは癌で亡くなりました。その後、大会ロゴ制作は息子さんが引き継いだようですが、南国美術館はなくなってしまいました。(2012年より大会ポスター、ロゴは公募により決められているようです)
おばあの造る幻の豆腐─石嶺シゲ─
1985年、宮古島トライアスロンの第1回大会に子供3人を連れて行きました。鉄平が小学校1年生、純平はまだ3歳くらいでした。私のゴールを待つ間に純平は疲れて競技場で寝てしまいました。女房は困ってしまいましたが、そのとき西原の部落の池間正勇さんの奥さんが純平を見てくれたのです。それが縁で、池間さんのお宅にゴール後お邪魔するようになりました。
2年目の時でしたか、近くに美味しい豆腐屋さんがあるからと連れて行ってもらいました。地元でも幻の豆腐と言われて、あまりたくさん造らないので、地元の市場にも出しますがすぐに売り切れてしまうという話でした。その豆腐屋さんは小学校の横の道を入ったサトウキビ畑の中にありました。石嶺豆腐です。
石嶺勇太郎さんとシゲさん夫婦が棲んでいました。昭和22年小さなユクタギ部落の石嶺家長男の勇太郎さんは軍服姿で西原部落から風呂敷ひとつ持ってきたモンペ姿のシゲさんを嫁に迎えました。勇太郎さん22才、シゲさん24才でした。勇太郎さんは生みの母を知らず、シゲさんは父を知らず、二人とも片親に恵まれない環境で育ちましたが、二人は初夜の日に誓い合いました。「明るく楽しい家庭を築こう!!」と、・・・。やがて、正直で働き者の二人は1男5女の子宝に恵まれて、子供たちは大きな病気をすることなく、すくすくと育っていきました。勇太郎さんは農業(さとうきび)と養豚で生活を立てていましたが、6人の子供を育てるには生活も苦しく、シゲさんは43才のときに少しでも生活の助けになるようにと豆腐作りを始めました。昔ながらの生絞り、釜戸で薪を燃やして、呉汁を煮て、海水で固めるという作り方です。たちまち島で人気の豆腐になりましたが、海水汲みと薪の準備はおじいも手伝いますが、作るのはおばあ一人ですから、午前4時ころに起きて2鍋つくるのが精一杯でした。
私が、石嶺豆腐にお邪魔するようになったのは、子供たちも独立して、落ち着いた生活ができるようになったころでした。おばあも豆腐でそんなに儲けなくてもよいのだけれど、島の人たちに人気があってやめられないと言っていました。何しろ本土の豆腐よりでかくて締まっている。大きさで倍、目方では4倍くらいはある。でも1丁が140円でした。最初に行ったときにまず出来たてのゆし豆腐(型に入れて固める前のおぼろ豆腐)をいただきました。海水で固めるので、塩味がついていますが、甘いのです。3~4年、毎年伺ってはご馳走になり、帰りに豆腐をお土産にもらってきました。そのために、おばあはいつもより早く起きて一鍋余分に作ってくれます。
何度も伺っているうちに自分で豆腐が作れたらいいなと思い、おばあに作り方を教えてとお願いしました。おばあは気よく教えてくれました。それでは、作り方を説明しましょう。
まず、にがり代わりに使う海水を汲んでくるのはおじいも手伝います。週に1回くらい西平安崎辺りへ汲みに行き、外のポリタンクに貯めておきます。
大豆は国産がよいですが、それほど豆にはこだわっていません。前の日に水に漬けてポリバケツの中に入れておきます。一晩水に漬けた豆をグラインダーにかけて磨り潰します。これが呉汁です。これを大きな脱水機の中に入れて絞り、生豆乳と生オカラに分けます。十分にこなれてないオカラはもう一度水を加えてグラインダーにかけると、もう少し豆乳が採れ、オカラもより細かくなります。
そうしてできた豆乳を釜戸の大きなアルミ鍋に移します。釜戸はふたつあり、おじいが準備しておいた薪をくべて沸かします。ふきこぼれないように見張りながら、おじいが育てている豚のラードを消泡剤に加えます。沸騰しかかった頃合を見計らって、びっくり水を加えて少し温度を下げたところで、にがりの代わりの海水を少しづつ混ぜて行きます。すると豆腐が固まり、水と分離してきて、ゆし豆腐ができます。
それを型に入れて、・・・。重石をします。重石の重さと、時間によって、硬さは調節できます。出来上がった豆腐を切り分けて、・・・。袋につめて出来上がりです。ゆし豆腐も人気があるので、半分はゆし豆腐のままで袋につめます。また、温めた豆乳をニガリを入れずに温度を下げていくときに表面に張ってくる蛋白質が湯葉ですが、湯葉も少し作ることがあります。以上が私がおばあから伝授された豆腐作りです。私は海水の代わりに天然にがりを使っているのと、消泡剤のラードを使っていない点が違いますが、その他は同じです。
おばあが70才を超えて豆腐つくりが少しえらくなってきた時に、四女の洋子さんがご主人の山村日出男さんを連れて宮古へ戻ってきました。(山村日出男さんは千葉県で大手電器メーカーに勤めていて、洋子さんと職場結婚し、それから日出男さんの在所の大分県へ移って会社勤めをしていましたが、なかなか仕事に馴染めませんでした。そんなときに、洋子さんのすすめで、思い切って脱サラして、宮古島に来て、おばあからとうふ作りを継承しました。1993年のことです。)それからおばあの豆腐は山村夫婦に受け継がれ、パーキンソン病を発症したおじいの世話も忙しくなったおばあに代わって作られるようになりました。平成15年3月29日おじいが突然亡くなりました。その年のトライアスロンで訪ねたとき、おばあが一人でさみしそうにしていました。おじいは生前几帳面に日記をつけていましたが、その時におじいの日記を1冊の本に洋子さんがまとめてありましたが、その中にはトライアスロンで訪問した私の名前も何度か出て来ました。1年経たないうちに後を追うようにおばあも逝きました。宮古島風に言えば、おじいとおばあはアメリカへ行ったさ~となります。(ちなみに刑務所に入ることはハワイ大学に行くと言います)
幻の豆腐は山村夫妻に受け継がれ、私も隠れ伝承者となりました。
水難ムーちゃん─オオムラサキ幼虫─
オオムラサキは日本の国蝶です。昭和32年日本昆虫学会40周年記念大会の決戦投票で、ミカドアゲハ、ギフチョウを抑えて選ばれました。私が初めてこの蝶に出会ったのは大学2年の夏、19歳の時でした。京大囲碁部の先輩に2人蝶屋さんがいて、そのうちの一人、滝先輩に誘われて、夏休みに信州の方へ採集旅行に出かけました。一人で行って、日野春の駅で滝先輩と待ち合わせ、その付近のクヌギの雑木林を探索しました。今では丁度その辺りに北杜市のオオムラサキセンターが出来ていますが、昭和45年の話ですからまだ何もない時です。クヌギの樹液にたくさんのオオムラサキが集まっていました。それが飛び立つ時にバサバサと音が聞こえ、まるで鳥でも飛び立つようで、今までの蝶の常識を覆すほどの驚きでした。その後、アサマシジミや当時採集禁止になっていなかったミヤマモンキチョウなど採集して回りましたが、忙しくて展翅をせずに年明けまで半年ほど放置してありました。半年ほどして展翅をしようと三角紙を出してみて驚きました。何とまだ生きていたのです。オオムラサキの生命力の強さに感動し、こんな可哀そうなことをしてはいけないなと思ってそれからしばらく採集をやめるきっかけとなりました。
その後、蝶の写真を撮るようになって、オオムラサキと再会したのは北杜市のオオムラサキセンターでした。愛知県にもオオムラサキがいてもおかしくはないと思っていましたが、まだ愛知県で成虫に出会ったことはありません。冬にエノキの根元でゴマダラチョウの幼虫探しをするようになって、あちらこちらでエノキを見ると幼虫探しをする癖がつきました。豊田市でなにげなく幼虫を探していたら、突起が4対ある幼虫を見つけました。ゴマダラチョウとオオムラサキの幼虫はよく似ていますが、ゴマダラチョウの背中の突起は3対です。これはオオムラサキの幼虫に違いないと思いました。確かめるためには飼育して成虫まで育て上げる必要があります。
冬に採ってきた幼虫をエノキが芽吹いたらエノキの葉に移して育てます。最初は、エノキの枝をペットボトルに挿して飼育していました。そしたら、ある日いなくなっていました。よく見るとペットボトルの水の中に水没しているのです。幼虫はあちらこちら動き回りますが、枝を降りてきてそのまま水の中へ入ってしまったようです。移動したいと言う欲求が水没の恐れよりも勝ると言うことでしょうか?次の年は、越冬中、飼育箱に土を入れてエノキの落ち葉を敷き詰めてそこで越冬させるのですが、つい戸外の雨の当たる場所に置いていたら大雨の日に、飼育箱の中に雨が入って大洪水となりまたまた水没。3年目は気を付けて、そんなことはしなかったのですが、春になって庭の小さなエノキに移して観察していたら、写真のように色も茶色から緑色に変身して可愛くなってきた矢先、大雨の日にまたまたいなくなってしまいました。
今年こそ、飼育に成功させようと意気込んで、豊田でまた越冬幼虫を採集して来ました。ポイントは水に気を付けることと、移動して何処に行ったか分からなくなるといけませんので、袋がけなどする必要があるのではと思っています。
天才山菜料理家─天神坂─
私がその人に会ったのは、ライオンズクラブの例会でした。飯田からその人は来ました。ミカン畑の土手に生えている雑草を採って30分くらいで料理を創ってしまいました。そして、山菜料理についてスピーチをしてくれました。それが、天神坂のママさん、松永モモ江さんとの最初の出会いでした。それから私は月に1回くらい天神坂に通いました。その店は飯田の駅の近くにあるカウンター10席くらいの小さな居酒屋でした。仕事が終わってから2時間くらいかけて、車で店まで行って、飲んだ後は代行を呼んでインター近くの温泉付きのビジネスホテルまで送ってもらいます。次の日は朝早く出て飯田から出勤でした。その店に行って驚いたのはメニューがないことです。座ると勝手にこれはどうですか、これはどうですかとつまみが出て来ます。10品くらい食べて飲んで¥3000円くらいでした。酒もいろいろありますが、焼酎などはボトルが置いてありますが、好きなボトルから飲んで減った量を見て勘定してくれます。
メニューがないと言うのは毎日山で採って来たものが出るからで、ここでは普通食べないような蝉の幼虫の唐揚げとか、オオスズメバチの唐揚げとか他では食べられないものもずいぶん食べさせてもらいました。ママさんは「四季の田舎料理」(春夏篇、秋冬篇)も書いていて、それは今でも山菜料理のバイブルとして山菜を採って来た時には家で参照しています。マツタケ採りの師匠と出会ったのもこの店でした。常連でいつも賑わっていて、私も蒲郡から来て1時間くらい待ったこともあります。田中元長野県知事も3回ほど来たことがあるそうです。
ママさんはもともとは理容師をしていましたが、山菜・キノコが好きで、最初は理容師をしながら夜だけ居酒屋を始めたそうですが、そちらの方が面白くなって居酒屋に転職したそうです。店の名前は好きな山菜、ハナイカダにしようか天神坂にしようか迷ったと言っていました。春には山菜の会、秋にはキノコの会を主催してくれました。山菜やキノコを採ってそれを料理して食べる会です。毎回30名ほどの参加がありました。ママさんは人に教えるのも好きで、天神坂で修行をした人は結構います。蒲郡の木の芽田楽、菜飯の店「ままや」のママさんも天神坂で2週間くらい教わったそうです。
そんなママさんにも弱点はありました。ママさんは糖尿病だったのです。糖尿病性網膜症で視力が落ちて来て、一度レーザー手術を東京の方で受けると言うので1か月ほど店を休んだことがありました。その頃一緒にキノコ採りに行ったこともありましたが、少し不自由そうでした。薬で治療はしていましたが、ママさんの不幸はお客さんから新興宗教を勧められて、それで糖尿病がよくなると信じてしまったことです。投薬治療を止めて直接の因果関係ははっきりしませんが、脳梗塞を起こしてしまったのです。飯田病院に入院していた時に一度見舞いに行きましたが、片麻痺があって復帰を目指して、リハビリをしていましたが、2度目の脳梗塞で亡くなりました。まだ65歳くらいだったと思います。まだいろいろと山菜料理について教わりたいことがあったのですが、残念な早い死でした。
他店の紹介をすることで流行った店─剣菱─
その店は私が名大医学部を卒業して名鉄病院で研修をしていた頃に通った店で、私が居酒屋放浪をするきっかけとなった店です。外科の馬淵先輩に連れて行ってもらいましたが、眼科の道野先生とか産婦人科の堀先生なども好きでよく来ていました。名古屋市の明道町の古い民家のようなところでした。暖簾をくぐるとカウンターだけ10席くらいの小さな居酒屋です。親父は下戸ですが、こだわりを持っていて、酒は剣菱の樽酒、ビールはキリンの瓶ビールだけしか置いてありませんでした。どちらもよく飲みましたが、剣菱を頼むと樽から一合升に注いでくれます。常連で流行っていて、時には満席で外で待っていることもありました。
親父は背が高く、ボーリングが得意で、優勝トロフィーなどが飾ってありました。下戸ですが、グルメであちこち食べ歩いてはつまみになりそうなものを見つけるとそこと契約して店に送ってもらってつまみとして出していたのです。京都の森嘉豆腐店の揚げは冬の定番メニューで、焼いて七味をかけて食べます。飛龍頭、からし豆腐やアンペイなどもありました。その他に、新潟桜屋のうなぎの笹蒸しとか、松本の小口屋の味噌わさび漬けとか大阪山三の海生味(うおみ:牡蠣の塩辛)など、いつも5~6品のつまみが取り寄せで置いてあり、注文するとそのつまみについての親父の講釈を聞かされます。奥さんが一緒に手伝っていて、取り寄せグルメ以外におふくろの味も3品ほどカウンターの上に並んでいました。
店には小さな名刺サイズでふたつ折りにした店の紹介が置いてありましたが、その裏面には地元の美味しい店が数店紹介してありました。三重県多賀の大黒屋(鯉料理の店)、ひつまぶしで有名ないば昇、国道19号線沿いの洋食だいや食堂など、その名刺を見ては食べ歩きしました。そこへ行くと名古屋の居酒屋剣菱で聞いてきましたと言うので、そこの人や他のお客さんもどんな店だろうと剣菱を訪ねて来るということになり、自分の店も流行るという親父の算段です。
道路の拡幅工事で明道町の店が立ち退きになって、浄心の第二ステーションビルに移りましたが、こちらも明道町からの常連さんで賑わっていました。その当時親父は70歳くらいだったと思いますが、移って2年くらいした頃に脳梗塞を患いました。軽い片麻痺が残りましたが、何とか店を始めることが出来ました。半年ほどして次に行った時には親父は宮古島風に言えばアメリカへ行ってました。それでも店は奥さんと嫁に行った娘が手伝ってやっていました。でも奥さんももう80歳近くなっていましたので、それから半年くらいで、店じまいとなりました。
私にとっては居酒屋通いが始まった店、全国のグルメをつまみに飲める店、いろいろな近場のグルメを教えてくれる店、親父の講釈も五月蠅い時もありましたが、懐かしく思い出します。
古武士の風貌のマラソン校長─青山米夫─
青山先生は享栄学園高校の校長先生をしていて、マラソン校長として勇名を馳せていました。1986年に愛知県トライアスロン協会を立ち上げた時に、会長をお願いしたところ快く引き受けていただけました。協会はトライアスロン競技者の団体として作ったのですが、その当時まだスポーツとしての認知度は低く、これから普及を図ろうと言う時に、すでに他競技で名の知れた方を会長にお願いすると言うことがよくありました。JTUでも立ち上げの時にはスキーの猪谷千春さんを会長に、重量挙げの三宅義信さんを副会長にと言った具合です。
青山先生は小柄でしたが、古武士の風貌がある先生で、豊根村の出身で、協会の10周年記念式典の時でしたか、豊根村の花祭りの鬼の舞いを披露してくれました。鬼の面をつけて、2kgほどもある大ナタを振り回して踊る激しい踊りでした。
70歳を過ぎていたと思いますが、チャレンジ精神が旺盛で、「会長、一度トライアスロンに出て見ませんか?」とお勧めしたところ、その気になって、一緒に修善寺のCSCで行われたミニトライアスロンに参加したことがありました。ミニと言っても自転車はアップダウンのある1周5kmのコースを5周回するもので、タフなコースで、下りでは漕がなくても60kmほどは軽く出てしまいます。ところが、新調した自転車のハンドルのネジが緩かったのか下りのスピードが一番出ている時にブレーキをかけたらハンドルが動いて転倒すると言うアクシデントに見舞われます。骨折はありませんでしたが、打撲と捻挫でその後1年ほど歩くのも不自由をされました。その時もそそのかした私を含め誰も責めたりしませんでした。
75歳を過ぎたころでしょうか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまずに「奥の細道」の旅に出られます。芭蕉が歩いた道を、走って(歩いて)2か月ほどかけて、完走されました。それが青山先生のマラソン人生の総決算であったようです。軌道に乗った愛知県トライアスロン協会の会長職を國分孝雄会長に譲り、いっさいの公式行事から引退されました。今、生きてみえれば、100歳を超えるくらい、協会の誰もが青山先生のその後を知りませんが、2010年の享栄高校同窓会記録を見ると評議員として名を連ねて見えますが、その後、名前が出てくることはありません。まさに老兵は消え去るのみを地で行った先生で、今頃は天国で走り回って見えることでしょう。
蒲郡のお母さん─志な乃─
その居酒屋は蒲郡駅前の地下にありました。今ではさびれてしまいましたが、25年ほど前には地下街に飲み屋が軒を連らねていました。最初にその店に行ったのは病院の看護婦さんに連れて行ってもらった時です。最初に私が暖簾をくぐるとカウンターに8人くらいが座れるだけの小さな店で、席は空いていましたが、ママさんが「予約でいっぱいだから、・・・。」と断ります。ママさんは銀行マンや市役所や病院や警察関係など、身なりがきちんとしたお客だけを入れるようにしていて、私はいつものようにTシャツとスニーカーと言う恰好でしたので、怪しいやつだと思われたようです。すぐに看護婦さんが入って、病院の先生だと告げると入れてもらえました。その後常連の一人となるのですが、時々、酔っ払いや一見の怪しい客が来ると断っていました。
5時頃に店を開けて、30分もすると常連客でいっぱいになってしまう店で、他の店が不振で店仕舞いする中で、ずっと賑わっていました。それはママさんが気前よくて、安く飲めるからで、ビール(大瓶)を2本くらい空けて、大盛りのつまみを2品くらい頼んで最後にご飯と味噌汁で締めて、2000円を超えることがないと言う嘘のような勘定でした。しかも年中無休、盆も正月も営業します。何年か通って、一度だけ店が開いてない時があって、心配しましたが、その時は病院に緊急でかかっていました。でもその翌日には何もなかったように営業していました。
この店ではいろいろな方と会いました。競艇の師匠となる河合二男さんと初めて会ったのもここでしたし、SGの時に来た喜多條忠先生や蛭子能収さんや中道善博さんと飲んだのもここですし、亡くなった市会議員の山本和一さんや警察署長や金原市長、蒲郡出身の漫画家、高信太郎などもいれば、蒲信の副理事長になった日銀出身の小清水さんともよく会いました。
とにかく気前がよくて、刺身は上の魚仙で仕入れた新鮮な魚でしたが大きく切ってあります。マグロ、ヒラメ、穴子、シャコはだいたいいつもあり、時にハゼの刺身などもありました。年末に行くとお歳暮だと言っては靴下の箱入りをくれて、お正月3が日に行くと、豆と栗と干し柿をくれて「まめでくりくりかきよせよ。」と言う縁起かつぎだと言います。いつしか蒲郡のお母さんのような存在となり、私も採ってきた、ワラビやタケノコ、果ては海鼠や牡蠣なども持って行きましたが、すぐに他のお客さんにも無料で振舞っていました。
お母さんは飯田の出身で、若い頃は蒲郡の繊維会社で働き、労働組合の女性闘士であった時代もあるようですが、地下街が出来ると同時に居酒屋を始めたそうで、地下で一番古い店となっていました。
そんなお母さんも90歳を過ぎて年には勝てませんでした。耳は遠くなって注文がなかなか通らないようになり、ある時おでんを頼んだらわさびがついて出たり、刺身にからしがついて出たりし出しました。どうもボケと言うのは味覚から始まるもののようです。とうとう、ある時に店に行ったら、「店はやめました。」の張り紙が、・・・。「お母さん、長い間有難う」
蒲郡競艇隆盛の陰の立役者─山本和一─
蒲郡競艇は24場ある全国の競艇場の中でも売上高で住之江と1,2を争っています。住之江では年末のSG賞金王レースがたいてい行われて、その売り上げが大きいですが、蒲郡はSGの来ない年でも住之江に匹敵するくらいの売り上げがありますので、全国一の売り上げと言ってもよいでしょう。私が、蒲郡競艇隆盛の陰の立役者を3人挙げるならば、まず市の職員で蒲郡競艇場に40年近く奉職した私の競艇の師匠、河合二男さん、そして二番目に市会議員の故山本和一さん、そして蒲郡愛艇クラブ会長の私です。私から言わせてもらうとまず場外舟券売り場を朝から開けてもらうように市長に進言したこと、そして市民病院の現役外科部長をしながら週刊レース社から「儲かる舟券の買い方」を出版したこと、そして蒲郡愛艇クラブを立ち上げて、競艇のコンペを開催していることがその理由です。
一番目の河合二男さんは蒲郡競艇一筋で、主に業務課宣伝係、競走会との交渉などをしていましたが、鳳凰賞で全国キャンペーンをして初の場間場外発売を行ったこと、その顔の広さは競艇界で知らない人はいません。河合さんが定年退職する時には、競艇記者さんたちや、全国の施工者や競走会からもねぎらいに訪れたそうで、以後競走会からは出入り自由の記者カードをもらったそうです。今でも常滑、江戸川などの施工者とは年に一度艇友会という飲み会での付き合いがあり、私も呼ばれて時々行きます。
さて、山本和一さんに話を戻しますが、和一さんは蒲郡市議会議員連続12期当選と言う記録保持者で、競艇大好きで、蒲郡競艇ファンクラブの会長をして見えました。いつも来賓席に行くとよく顔を合わせて、「先生、次のレースは何が来る?」と訊きますが、私が「これでしょう!」と言ってもその通り買ったためしはなく、買うのは決まって1-3-5でした。和一さんの一番の功績は岡崎との縁切り交渉をしてくれたことです。どう言うことかと言うと、競艇は創立の時に戦災復興のためと言う大義名分があって始まったのですが、蒲郡はほとんど戦災を受けておらず、岡崎は空襲にあっていました。ですから蒲郡で競艇が始まる時に岡崎市にも競艇開催の権利があり、岡崎市主催と言うレースがあったのです。でも実際には岡崎市は運営にいっさいノータッチで、毎年売り上げの2%を岡崎市が取るという理不尽な約束があったのです。手切れ金を払って、岡崎市と縁が切れたのは和一さんの交渉のお蔭なのです。
和一さんは胃癌で手術をしたこともあり、術後は食が細くなり、随分痩せられました。何度か、旅打ちや飲み会でもご一緒しましたが、年でだいぶん足が弱って来ました。12期目の市議会議員選挙の時にもうそろそろ引退と言う話もあったのですが、最後まで現役にこだわる和一さんは河合さんを選挙参謀に据えて当選しました。その任期の途中で、肺炎で倒れて市民病院に入院して来ました。ある時内科の院長に呼ばれて行って見ると院長が「和一さんが肺炎で入院して君を主治医に希望しているので、主治医になってくれんか?」と言います。えっ、何で肺炎なのに外科の私に?と思わず口に出かかりましたが、和一さんならしょうがないなと思って主治医を引き受けました。肺炎は一進一退、ようやくおさまりかけて、リハビリを始めた矢先に急死されました。現役市議会議員でしたから葬儀は盛大に行われました。天寿を全うされたと言ってよいでしょう。
芯の強い明治女─竹内多仁子─
岡田村の初代村長をしていた竹内兼三(かねぞう)の一人息子純一は教師でした。そこへ縁戚に当たりますが6人姉弟の一番上の竹内多仁子が嫁いで来ました。半年姉さん女房でしたが、夫を立てて、前には出ないけれど、芯の強い妻でした。子供は男1人出来ただけですが、純一は大校長となり、息子の竹内 恭も後を引き継いで教師となります。そこで勤めていた学校に代用教員で来た佐治禮子と結婚しました。そして、女の子二人が生まれます。長女は先に嫁に出たところへ安藤家の次男だった私が次女明子の婿養子に入ったと言う訳です。私が竹内家に来た時には純一お祖父さんは62歳の若さで他界していましたが、多仁子お祖母さんは元気で、嫁禮子とは嫁姑の確執もありました。多仁子お祖母さんは漬物を漬け、前の畑で野菜などを作っていて、私の子供4人が次々と生まれるとひ孫の守りもよくしてくれました。
多仁子お祖母さんの姉弟も教師が多く、弟の理三叔父さんは中世の荘園の研究で名を馳せた方で、東大の名誉教授となり、文化勲章ももらった方です。写真は多仁子お祖母さんの米寿祝いの時ですが、右隣に座っているのが理三叔父さんです。多仁子お祖母さんは明治29年生まれで、その当時は女の子は大学などとんでもないと言う時代でしたので、尋常小学校しか出ていませんが、多分頭はよかったと思います。毎日カレンダーに日記を書いていて、いつ何処へ旅行に行ったとか、その時何を食べたかを克明に覚えていました。私が多仁子お祖母さんから習ったのは縄の綯い方と垣根結びの結び方ですが、どちらももう忘れてしまいました。
90歳を過ぎても元気で洗濯物を畳んだり、ひ孫の子守りは多仁子お祖母さんの仕事でした。耳が遠くなり、入れ歯をはめていましたが、病院とは縁のない人でした。酒は多くは飲みませんでしたが、私が飲む時には必ず1杯はもらって美味しそうに飲んでいました。隠居に引っ込むと自分で作った梅酒を寝酒に飲んでいたようです。96歳になったある日、風邪を引いて普段は改源くらいしか飲んだことがなかったのですが、病院で出された風邪薬を飲んだのがいけなかったのでしょうか、下血が始まりました。その頃、私は蒲郡市民病院に外科部長として赴任したころでしたが、多分薬による急性の胃潰瘍かなにか出来て出血をしたのではないかと思い、病院へ行って点滴治療と薬でよくなるだろうと勧めましたが、本人が入院、点滴などは頑なに拒否しました。無理に強制入院させる訳にもいかず、水分だけで、食事も食べずに3日間ほど寝込みました。後から聞いた話ですが、女房が酒を飲むか?と訊いたら飲みたいと言うので内緒でこっそり日本酒を飲ませら、「うまい!」と一言言ったそうです。その翌日に私が仕事に行っている間に亡くなりました。
今でこそ、尊厳死が当たり前のようになり、病院でも点滴や挿管について本人の意思を確認するようになりましたが、その当時では珍しいことでした。家の畳の上で死にたいと言う自分の意思を貫いた芯の強い女でした。
ある走り屋の人生─Sさん─
私は3歳の時に2km離れた幼稚園に一人で歩いて通わされたことは以前に母のところで書きましたが、それが足腰を鍛えてくれたようです。小学校時代は野球やサッカーなどの球技は不得意でしたが、個人競技の陸上や体操は得意でした。5年生の時には担任の先生の勧めで走り高跳びの地区大会に出たこともありました。東海中学に入って2年の時に柔道部に入りましたが、ある時体育の授業で1500m走があり、速かったので、陸上部の顧問をしていた体育の先生にスカウトされて陸上部に入りました。最初は走り高跳びをしていましたが、肩を脱臼したので中長距離に転向しました。建中寺の周りなどをよく練習で走りましたが、東海は受験校でしたから陸上はあまり強くなくて、中学3年の時に2000m、7分5秒、高1の時に800m、2分15秒9と言うのがベスト記録です。
大学に入って、囲碁部に入り、一日座って囲碁ばかり打っている生活をしていましたから、運動からは全く遠のいてしまいました。運動不足は医学部へ転向して、研修をするころまで続きました。体重も75kgを超えて、階段を上る時にも息切れがするようになり、これではいかんと一大決心をします。一説には女の子にもてたいための不純な動機であったという話がありますが、決してそうではありません。当時まだ少なかったスイミングスクールに通うようになりました。週4日ほど通って、クロールでどれだけでも泳げるようになって、体重も軽くなって来ました。そして、昔を思い出して市民マラソンに出るようになります。最初知多市の市民マラソンに出て、そこで地元の走ることが好きな人たちと出会い、出来たばかりの知多ランナーズと言う走友会に入ります。仲間と一緒に、駒ケ根、安城、車山、一色町、石巻山、名古屋シティ、山中湖、東海市、河口湖、青梅、揖斐川、小豆島、防府などのマラソン大会、西濃、渥美、瀬戸、東浦などの駅伝などに参加しました。その間に知多市民マラソン一般の部10kmで優勝、35分35秒、小豆島のフルマラソンで2時間59分59秒というサブスリーも達成しました。そしてランナーズと言う雑誌をとって読んでいるうちにトライアスロンの記事を見つけ、トライアスロンの世界に入っていくことになります。
蒲郡市民病院に赴任したのは丁度トライアスロンにのめり込んで行ったころでしたが、その頃はまだマラソン大会にも平行して出ており、蒲郡にも走友会があることを知りました。蒲郡走友会(蒲郡クラブ)はとてもオープンな会で、規約も何もありません。日曜日の朝6時に中央公園の北側駐車場に行けば、走るのが好きな人たちが三々五々集まって来て、山へ向かって走るだけです。多い時には20人近い人数が集まります。坂本コース、清田コース、相楽コースと3つあって、1週間ごとに変えて走ります。最初はアップを兼ねてゆっくり話しながら走り、坂に入る頃から自分のペースで走り、好きなところで戻って来ます。少ない人で10km、多い人は30kmほど走ります。そんな自由な会ですが、毎年元旦の日には元旦マラソンを蒲郡市陸協が企画して行っています。それにも参加するようになって、石山神社→竹島の八百富神社とお参りしながら走って竹島で初日の出を見て、中央公園まで戻り、ぜんざいとおでんと祝い酒をいただきます。そこで普段の練習ではあまり見たことのないSさんと出会います。Sさんは理容師をしていて、火曜日休みでしたので、日曜日の練習や土日に多いマラソン大会には出ていなかったのです。
元旦マラソンの後の二次会でメンバーの家で夕方まで飲んで、いろいろと身の上話も聞きました。Sさんは蒲郡中学の出身で私よりも10歳年上でした。1学年上に、マラソンが速く、早稲田に進み、東京オリンピック1万メートルに出場した船井照夫さんがいました。船井さんとも親しくしていて、早稲田の後輩の瀬古利彦選手が豊橋に講演に来た時に呼ばれて一緒に飲んだ後、ストリップ小屋へ行ったら、瀬古選手がかぶりつきで見ていて舞台に上がろうとするので、明日の新聞に載るぞと言って止めたという逸話もあります。若い頃に結核になって、片肺を手術していますが、マラソンは好きでやめられません。日曜日は仕事で皆と一緒には走れませんが、朝暗いうちに走るのを日課としていました。ある年の元旦マラソンの後の飲み会で朝一緒に走りませんかと言うのでついうっかりいいですよと言ってしまいました。それから朝4時半頃に先生走るよ!とおこしに来るようになりました。まあ宮古島トライアスロンの前のトレーニングで丁度お尻に火がついていたころでしたので、丁度よいかと思って付き合っていました。朝暗いうちから走り出して、だいたい10kmから15km走ります。今日は東西南北行きましょうと言うと、蒲郡南部小学校から東部小学校へ行き、それから北部小学校、西部小学校と回るコースです。蒲郡川巡り、蒲郡名木50選巡りなど、蒲郡の道と言う道を走り回りました。
東京へ出て、理容学校に通っていたころに、あるやくざの親分の弟子となり、流しのギター弾きをしていたことがあるそうです。楽しいこともあったそうですが、年下の兄弟子がいて、理不尽なことも言うこと聞かねばならず、嫌になって、ある雨の日に屋根伝いに逃げたそうです。蒲郡に帰り、同じ理容師の奥さんと結婚し、旧市民病院の近くで理容院を始めました。酒も好きでよく一緒に飲みに行きましたが、カラオケも好きで、流石に昔とった杵柄、演歌を歌わせるとプロ顔負けでした。Sさんと知り合ってからは髪はもちろんSさんに頼むようになり、話好きのSさんからは髪を切ってもらいながらいろいろな話を聞きました。
そんなSさんが異常を訴えたのは、私が丁度60歳を前に市民病院を辞めようと言う時でした。「先生、最近便が細くなって時々下痢をするんです。」典型的な直腸がんの症状です。すぐに外来に来るように言って、直腸指診をしてみると、もうほとんど閉塞しかかっていました。直腸切断術をして人工肛門をつけ、一時仕事にも復帰しましたが、半年経たないうちに局所再発しました。その後1年ほどの入退院を繰り返す闘病生活の後に亡くなりますが、よい時期には思い出作りにキノコ採りに連れ出したりすることもありました。もう少し早く相談してもらえば結果は違ったでしょうが、2年ほど一緒に走っていて気が付かなかった私にも責任はあるかも知れません。
ハイマツ仙人─田淵行男─
先日、テレビで稀代のナチュラリスト、田淵行男を取り上げた番組を放映していました。田淵行男(1905年~1989年)は鳥取の生まれで、1945年疎開をきっかけに安曇野に移り住んで、北アルプスを愛し、多くの山岳写真を残し、高山蝶の研究に一生を捧げました。中部の高山蝶9種類のすべての生活史を明らかにし、とりわけ常念岳には200回以上登って、そこに棲むタカネヒカゲをハイマツ仙人と名付け、普通の蝶が長くとも1年が発生のサイクルであるのに対して、2年をかけて発生することを明らかにしました。
私が日本の蝶全種の撮影を思い立ち、中部の高山蝶9種類のうち、撮れていなかったタカネヒカゲ、クモマベニヒカゲ、ミヤマモンキチョウを田淵行男がフィールドとしていた常念乗越で初めて撮影出来たのは2012年8月4日のことですから没後23年経っていました。
田淵行男の集大成「日本アルプスの蝶」(1979年、学習研究社)を日本の古本屋で買って読むと、その高山蝶に対する愛着と真摯な研究態度がよく解ります。私も日本土着の蝶、全種類の撮影が終わると、もう少し専門的に特化した分野に進みたいと考えていますが、迷蝶に進むか、高山蝶に進むか、ゼフィルスに進むか、未だに決めかねています。一度安曇野にある田淵行男記念館に行ってもう少し氏の爪の垢でも飲んで来ようかと思っております。
悲劇の青年ドクタートライアスリート─田辺冬樹─
君と初めて出会ったのは宮古島トライアスロンの第3回大会の時でした。宮古島東急リゾートのエレベーターに乗った時に、少し天然パーマのかかった髪に日焼けした黒い顔、クリクリした眼が印象的でした。その時に言葉を交わして、徳洲会病院で研修をしているドクターであることを知り、お互い翌日のレースの健闘を誓い合いました。私はその頃全盛期で総合29位、年代別3位でゴールしましたが、君もその10分ほど後に総合36位でゴールしましたね。その後、第10回アイアンマン・ハワイに君が出ているのをデレビで拝見しました。フラフラになりながらゴールしてもインタビューされて、もう1回走りましょうか?とおどけて答えていた君の姿が眼に浮かびます。
その翌年、君が練習中のバイク事故で脊髄損傷の重症を負い、下半身マヒになったと伝え聞きました。その当時スコットハンドルと言う名前でエアロバーが出始めた頃で、練習中の重大事故が相次ぎました。私の知っている限りでも死亡事故2件、脊髄損傷による下半身マヒ2件が起きました。人伝てに君がリハビリ入院している福島県の病院へ手紙を出したところ、車いすトライアスロンでの再起を目指してリハビリ中であるとの返事をもらいましたね。でもその翌年には血行障害で右下肢切断、そしてその翌年に車いすで電車にはねられて、若い命を絶ったと聞いて言葉をなくしました。スポーツでも仕事でもこれからと言う時に、同じ宮古島で完走した仲間として残念でなりません。
私が、その後JTUのメディカル委員長となり、トライアスロンでの重大事故とその対策をまとめて書き、公道上での練習中にエアロポジションをとることは自殺行為であると警鐘を鳴らし、練習中の事故が格段に減ったのはそれから10年ほど後のことでした。
トライアスロンの草分け─堤貞一郎先生─
熊本の堤先生は創意工夫に富んだ心臓外科医でした。熊本で病院を開設して、心臓の独創的な手術にもチャレンジする一方で、趣味のランニングでは日医ジョガーズの産みの親となります。その独創性はそこでも発揮されました。マラソンの段級位を考えたのです。30歳を超えるマスターズのランナーが目標とするのは10kmを自分の年齢と同じ分数で走れるかどうかで、自分の年齢と同じで走れればマラソン初段、それより1分速ければ2段、遅ければ1級と言う具合です。私は今65歳ですから10kmを65分で走れれば初段と言う訳です。確かに35歳の頃には35分台で走っていましたが、今は60分を切るのは難しくなっています。毎年三河湾健康マラソン10kmの部で初段が取れるかどうかが目標となっていました。
堤先生は日本でまだ始まっていなかったトライアスロンにもチャレンジします。熊本CTC(クレージートライアスロンクラブ)の会長となる永谷誠一さんとともにハワイアイアンマンに挑戦しました。その頃、皆生温泉の旅館組合の人が、何か新しいイベントを作って観光の目玉にしようと言う話が出て、日本ではまだ行われていなかったトライアスロンに注目しました。そして、堤先生と永谷さんがハワイアイアンマンに挑戦したと言う話を聞きつけて、アドバイザーとして迎えました。1981年8月2日、日本で初めてのトライアスロンが53名の物好きを集めて行われました。
悲劇が起きたのは第3回(1983年)大会の時でした。2kmのスイムの途中で、日本初の事故が起きたのです。それも堤先生ご自身(当時59歳)が溺水され、助け上げられましたが、意識不明となり、その後意識が回復することなく、約5年後に転送先の熊本地域医療センターで心不全のため死去されました。私がトライアスロンに初めて出場したのは1984年の第1回串本トライアスロンですから生前に先生とお会いする機会はなかったのですが、その勇名は伝え聞いていました。
その後、JTUの役員、メディカル委員長となり、大会中の事故の原因とその対策についての研究に携わるようになり、泳げる人の溺死の原因について、いろいろなケースがあることが解ってきました。意識を失うような突然の内因性疾患の発症以外にも、低水温による迷走神経反射、錐体内出血による急性平衡失調、海水誤嚥後の急性肺水腫、過換気症候群、パニック症候群などなどです。今年、残念なことに皆生の第35回大会で、同じ愛知県の外科医が溺水で亡くなりました。まだスイム事故をなくせないのかと堤先生に怒られそうです。私が、皆生トライアスロンに出たのは第20回の記念大会の時でしたが、この時には永谷さんも一緒に出ていました。残念ながらバイクの途中でワラビを採っていたためにマラソンの途中で時間切れとなり完走出来ませんでした。来年は原点に帰って、皆生トライアスロンに出て、スイム事故防止について考えてみたいと思います。
首吊りは自殺だけとは限らない─ある不運なケース─
蒲郡で警察医として17年、フリーランスの監察医となって3年、その間に行った検案は1000件を超えているかも知れない。自殺の件数は検案の十数%を占めており、減少している交通事故死に対して、年々増加傾向にあり、今や交通事故死の3倍に達しています。蒲郡署管内で調べたことがありますが、1年平均17人、人口10万対に直すと20人を超えていました。自殺の方法は時代によって流行がありますが、一番多いのはやはりオーソドックスな首吊りで、3割くらいを占めていました。
首吊りはまず自殺と考えてよいのですが、時に自殺に見せかけた殺人や事故による首吊りがあります。事故による首吊りがあると言うことを教えてくれたのは写真のシロハラと言う鳥です。さがらの森で枝のまたに首を挟まれる形で死んでいました。鳥が自分で首吊り自殺をするとは考えられず、多分木の枝越しに何かを啄もうとして首を挟まれたのではないかと思います。経験した検案症例の中には殺人はなかったですが、事故による首吊りは2例経験しました。【症例1】84歳、男性
既往歴:6年前に脳梗塞をしており、後遺症で手足がしびれているが、杖をつき、自立歩行は可能。排尿困難あり、バルン留置、ウロガード装着している。
発見の経緯:午後2時半ころ敷地内に趣味で建てたカラオケ部屋で妻と妻の妹とコーヒーを飲んでいたが、2時45分ころ母屋へマッサージ機にかかりに行くと先に出た。その後、妹が帰ったので、妻が母屋に戻る途中傘と杖が落ちていたが、母屋に姿が見えないので、もう一度捜すと、傘と杖の先のコンクリートブロック斜面に服が切り株にひっかかる形で落ちていた。
検案所見:顔面に軽い擦過傷があるが、骨折、大きな外傷はない。頸部に来ていたセーターが切り株にひっかかって、襟のところで頸部を圧迫したと思われる索状痕があり、両側眼瞼結膜に多数の溢血点を認めた。
頸部圧迫にいたった経緯(推定):何らかの理由でコンクリートブロック斜面近くへ行き、転倒して起き上がろうともがいているうちに斜面を滑り落ち、その時に来ているセーターの背面が切り株にひっかかり、襟のところで、頸部を圧迫する形になったと思われた。なお、死者は猫好きで、野良猫にも餌をやったりして可愛がっていたとのことで、猫がいたので、斜面の方へ近寄った可能性がある。
【症例2】61歳、男性
既往歴:特記すべきことなし。会社勤め、酒好き。
発見の経緯:普段早く起きる死者が起きてこないため、同居の母が見に行って、自室の前の外開きのドアと壁の間に頸部を挟まれて倒れている死者を発見した。
検案所見:頭部、胸部、腹部に外傷なく、頸部に圧迫痕を認め、両側眼瞼に多数の溢血点を認める。上半身裸で、下はブリーフ1枚であり、脱糞を認め、踏んだ痕があった。(普段から入浴後はブリーフ1枚でいると言う)
頸部圧迫にいたった経緯(推定):何らかの体調不良で脱糞し、慌てて出入口ドアを開けようとした際に転倒し、ドアと壁の間に挟まる形になったものと思われる。
【まとめ】通常、首吊りは自殺によるものがほとんどだが、高齢者、体の不自由なもの、飲酒者などでは、思わぬ形で首吊り状態となり、抜け出せなくて窒息死する場合がある。予見不可能な事故ではあるが、1例目では切り株の存在が、また2例目ではドアと壁の距離が近すぎるという構造上の欠陥が問題であったと思われる。
ティッシュートート(手術台上での死)─ある高校生─
手術死と言うのは手術後24時間以内に死亡するケースを言いますが、ティッシュートート(手術台上での死)は手術の最中に患者さんが死亡することを言います。33年間の外科臨床医をしていて、1万例以上の手術に立ち会ってきましたが、その間に2例のティッシュートートを経験しました。1例は産婦人科の手術に呼ばれての手伝いでしたので、まだ責任は軽かったのですが、1例は私自身の症例でした。
交通事故で救急搬送されてきたその17歳の女の子は腹部を打撲しており、意識レベルIII-200、ショック状態でした。急いでCTを撮ると腹腔内に大量出血を認めます。駆け付けた家族に説明をします。「恐らく、腹部打撲による肝臓破裂です。今も腹腔内に出血が続いています。止められるかどうか分かりませんが、助けるには開腹手術しかありません。」CTを撮っている間にも心停止になりそうでしたので、手術しても助かる可能性は低いと思われましたが、外科医として黙って見過ごす訳には行きませんでした。輸血20単位の準備出来るのを待ってすぐに手術を開始しました。上腹部正中切開で大きく開きます。やはり腹腔内は血の海です。開腹した瞬間にさらに血圧は下がります。輸血を全開にして、状況をよく見ます。肝臓の表面には裂傷はありませんが、Winslow孔の辺りから血が湧いて来ます。さらに右側にL字形に切開を拡げて、出血点を探します。その時心停止です。出血している辺りにタオルを突っ込んで圧迫し、横隔膜の下から心嚢を切開し、心臓を鷲掴みにして心マッサージをします。心拍が再開して血圧が測れるようになったところで手術を再開、しかし肝臓を脱転して出血点を探そうとするとまたどっと出血し、また心停止してしまいます。またタオルを突っ込んで圧迫止血し、心マッサージ。それを2~3回繰り返したところで、万策尽きました。
手術室の前で待つ家族につらい説明をしなければいけません。手術の経過を話し、「下大静脈損傷による出血で我々も何とか止めようと頑張りましたが、力及びませんでした。」外科医にとって、これほどつらい説明はありません。まだ手術室に行かずに、30分もすれば同じ結果だったと思いますが、それでも1%でも助かる可能性があれば手術にかけると言うのが外科医です。
美人に気をとられて命を落とす─ヤマトシジミ─
わき見運転をして交通事故を起こしたり、何かに気をとられてつまづいたりと言う経験はありませんか?それは人間だけの話ではないようです。アーユルヴェーダの秘薬となるタカサブロウの葉の上でヤマトシジミの♀が翅を拡げていました。新鮮な♀で青色鱗ものって、なかなかの美人です。一生懸命私も写真を撮っていたら、そこに♂が飛んで来ました。美人の♀をめがけて飛んできた瞬間タカサブロウの葉が動きました。タカサブロウの葉に見えていたのはハラビロカマキリだったのです。ヤマトシジミの♂は一瞬で捕えられて丸齧りされてしまいました。♀はその出来事に全く気付いていません。
ハラビロカマキリも停まっている♀に比較的近い位置にいた訳ですが、♀を襲うことはしませんでした。ハラビロカマキリも動かない♀は獲物として認識していないと言うことなのでしょうか?あるいは、♀をおとりにした方が獲物がたくさん獲れると思っているのでしょうか?ハラビロカマキリの見事な攻撃擬態に感心したのと、美人を見たら、それだけに心を奪われることなく周りの状況もよく確認しないといけないと言う教訓をいただきました。
遅咲きのサブスリー─坂下司幸─
サブスリーと言うのは、市民ランナーが目指す目標のひとつで、フルマラソンで3時間を切ることです。私もトライアスロンを始める前は、市民マラソンの大会から始まって、最後はフルマラソンでサブスリーを達成することが目標となりました。日比野賞中日マラソン(豊橋)にも2回出ましたが、あと1歩のところで(3時間30秒)、逃しました。サブスリーの達成は7回目の小豆島マラソンで、2時間59分59秒と言う奇跡的なサブスリーでした。
私が市民マラソンに出るようになってから走る仲間が出来て、知多ランナーズという地元の走友会に入り、いろいろなマラソン大会へ一緒に行くようになりました。写真は車山高原マラソンに行った時のものです。私が卒後研修を終えて、大学へ戻って2年目くらいですから、35歳くらいのころで、後列右から2番目のレースナンバー4228が会長の坂下司幸さんでした。坂下会長は20歳くらい年上でしたから、多分55歳くらいだったと思います。坂下会長は53歳くらいから走り始めた方で、もともとのランナーではありません。随分すっきりされていますが、走り始める前はメタボであったと聞いています。東海市の大池公園1周2kmのコースがホームグラウンドで、毎日そこを走って見えました。
坂下会長の練習方法は、一定のペースで走り続けられる距離をだんだん伸ばして行くと言う方法でした。大池公園の2kmのコースを8分で走れるようになると、その4分/kmのスピードをどれだけ維持出来るかと、1周→2周→3周・・・と少しづつ伸ばして行って、とうとうフルマラソンの距離を4分/kmで走れるようになったのです。すると42.195kmを2時間50分ほどで完走出来ることになります。実際、当時それくらいのタイムをたたき出しており、マスターズマラソンではその名は全国に知れ渡っていました。私はまずフルマラソンの距離を走れなければ駄目だと思い、遅いタイムでもチャレンジして、そのタイムを少しづつ縮めていけばよいと言う定量的な練習方法でしたから、定速的な練習をして見えた坂下会長のやり方は随分参考になりました。
ところが、坂下会長は60歳を超えた頃に、西知多産業道路で大きな交通事故に巻き込まれます。入院治療、リハビリに1年ほどを要して、もはや再起不能と思われましたが、不屈の努力をされて、奇跡的な復活を遂げて、再びサブスリーに復帰されました。努力のランナー、坂下会長も病魔には勝てませんでした。胃癌を患い、手術、再発、闘病生活の後、70歳くらいで亡くなりますが、我々に多くの希望を与えてくれました。
ある捨て犬の一生─ガマ─
いつものように朝練で蒲郡緑地の周りのジョギングコース(1周1km)を走っている時でした。小さな犬が3匹南側の野球場があるところにさしかかる手前でついて来ました。生後1~2か月くらいの雑種でした。段ボールが近くに置いてありましたので、飼い犬の子供を誰かが捨てて行ったようです。2~3周する間、近くを通るとく~ん、く~んとついて来ます。家には、その時ピッピとその子供のコイとウスと言う雑種の雌犬ばかり3匹もいましたので、連れて帰るとまた女房に怒られると思い、身を断ち切る思いで、そのまま置いて仕事に行きました。でもその日は捨て犬のことが頭にあって、どうも仕事にも身が入りませんでした。
仕事が終わると急いでまた緑地公園に足が向かいました。3匹いた犬が2匹になっていました。誰か1匹拾ってくれたのでしょうか。残された2匹は何も食べていないようで、ますます悲しそうに鳴きます。明日まで放っておいては死んでしまうかも知れません。え~い、ままよと2匹を車に乗せて官舎に連れて帰りました。白い雄犬と黒い雌犬でした。すぐに病院の看護婦さんに里親になってくれる人はいないか聞いて回りました。白い雄犬の方はもらってくれる看護婦さんが見つかりました。でも黒い雌犬の方は貰い手がなく、仕方なく家に連れて行くことにしました。当然女房には叱られました。でも動物嫌いではありませんので、そのうち諦めて飼うことを許してくれました。
拾って来た犬は安易な名前の付け方ですが、蒲郡で拾って来たのでガマとなりました。雌犬でこの辺りでは野良犬もいますので、また子供を産むと困るので、先にいた3匹の雌犬と同じように避妊手術をして飼うことにしました。ガマは先にいた3匹に気を使って、あるいは拾われて来た自分の立場をわきまえているのか、いつも遠慮がちでした。餌をやっても先輩たちの食べ終わるのを待ってから食事をしていました。4匹の犬は外で飼い、時々散歩にも連れて行きましたが、4匹とも元気な時は女房も引っ張られて大変でした。
ピッピが死に、コイとウスも順番に死に、最後にガマが残りました。ようやく先輩に遠慮せずにいられるようになりましたが、その頃には10歳を超えて随分年寄り犬になっていました。今まで卑屈な生き方をしてきたせいか、1匹になっても何か遠慮がちでした。その頃、娘の彼氏が家によく遊びに来ていましたが、ガマのことをよく可愛がってくれましたので、彼には気を許していたようです。写真のガマの絵は、東京芸大のデザイン科の彼が描いたもので、よく特徴が出ています。拾って来た私は、単身赴任で月に1回家に帰るくらいでしたので、帰ると尻尾を振って喜んではくれますが、何かよそよそしい感じでした。
だんだん年を取って、よたよた、プルプル歩きになって来たので、散歩もヒモをつけずに、夜もつながずに置くことが多くなって来ました。犬の世話は女房一人の仕事でした。大お祖母さん、お祖父さんが亡くなり、お祖母さんがいましたが、動物嫌いで犬の世話はしてくれません。女房には懐いていて、前の畑で草取りなどしているとそばにじっと座っていました。ある時、女房がうっかり「お前がいるから旅行になかなか出られないんだよ。」とガマの前で口を滑らせてしまいました。その次の日です、ガマがいなくなったのは。もう足が弱っていましたからそんなに遠くへ行けるはずがないのですが、庭や裏山、近くにあるミカン畑などガマが行きそうなところはすべて探しましたが見つかりませんでした。
女房も余分なことを言ったことを後悔しました。遠慮に遠慮を重ねたガマの一生でした。この話を一番聞いて欲しいのは最初にガマ達を捨てた飼い主です。
崩れた安全神話─宮古島の海に消えたトライアスリート─
写真は小泉元首相が2008年、スターターを務めて、「感動した!」と言った時のものですが、真っ白な砂に紺碧の海、トライアスリートならずとも一度はこんな海で泳いでみたいと思うはずの宮古島前浜ビーチ、1985年からここで宮古島トライアスロンのスイム3kmが行われています。スイム3km、バイク136km、フルマラソンと言う日本では皆生トライアスロンについで歴史のあるロングの大会です。主催者は慎重で、出場資格も高齢者には危険が伴うだろうと65歳まで(年齢の上限を設けているのは宮古島大会だけです)、スイムの監視体制もライフセーバー、監視船、水中ダイバーまでいると言うまさに日本で最も安全な大会であると思われていました。2002年の第18回大会の時に、高齢トライアスリートの強い要望に応えて、年齢の上限を撤廃しました。ところが、その大会で、72歳と41歳の二人のトライアスリートが水泳で溺れると言う事故が起きてしまいました。
私自身その大会に選手として出ていましたが、その時JTUのメディカル委員長もしていて、その事故原因の調査に当たりました。そしてひとつの結論に行きつきました。そして泳げる人の溺死のメカニズムと言うことで、発表し、沖縄のNHKがドキュメンタリーでこの事故のことを取り上げた時にもディレクターが蒲郡まで取材に来ました。
1963年に元東京都監察医務院院長の上野正彦先生が泳げる人の溺死の原因として溺死体の解剖所見で50%に錐体内出血が見られることから錐体内出血による急性平衡失調が関与しているであろうと発表しています。錐体という骨の中には三半規官という平衡感覚を司る器官があります。その機序は次のようになります。
呼吸のタイミングを誤るあるいはバトルなどが原因で鼻の奥と中耳を結ぶ耳管という細い管の中に水が入ることによって、水の栓ができ、それに引き続いて起こる水の嚥下運動などにより、水の栓がピストン運動を起こし、また外耳からの水圧の影響も加わり、鼓室内圧の急変を生じ、毛細血管が破綻して、錐体内出血を起こすことがあります。また同時に海水を少量誤嚥(気管内へ吸引)した場合には引き続いて起こる咳発作(怒積)により上半身の静脈圧が高まることも錐体内出血を起こす誘引となります。そうすると、錐体内部にある、三半規管は急性循環不全を起こして、平衡失調すなわちめまいが出現します。泳ぎの上手下手に関係なく、これが起こると、めまいのために息継ぎがうまくできなくなり、溺れてしまいます。これによる事故を防ぐには次の6点が重要です。
1.かぜ気味の場合、耳管から鼓室に水が入りやすい。
2.耳鼻咽喉科に疾患のある場合
3.飲酒酩酊時(酩酊時には神経系統の総合的反応鈍磨があり、耳管から水が入りやすいし、また急性循環不全を生じやすい)──以上の状態のときは水泳をしないこと。
4.水泳中は口から息を吸い、鼻から息を出すこと。(鼻から水を吸い上げると耳管に水が入りやすい)
5.耳栓をするより、鼻栓をした方がよい。
6.鼻から誤って水を吸い、気分が悪くなった場合は、直ちに水泳を中止し、水からでること。錐体内出血そのものは致命的なものではなく、めまいが起こるだけで意識がなくなることもありません。めまいはしばらく続きますが、1~2週間で出血は吸収され、めまいも徐々におさまります。問題はそのときパニック状態となったり、泳ぎ続けようとするために、うまく呼吸ができずに溺水による窒息を引き起こしてしまうわけです。
私自身100回以上のトライアスロンに参加していますが、幸いまだこのような事態に陥ったことはありません。米国の報告ではトライアスロン大会中の事故は10万人中1.5人と言われていますので、そろそろ起こっても不思議ではないかも知れません。私自身このような事態になった時に冷静に対処出来るかどうか判りませんが、まず異常を感じたら泳ぐのをやめることは絶対に必要だと思います。通常ウェットスーツを着ていますので泳ぐのをやめればお尻が下がり頭が上に来ます。手足を動かさなくても鼻と口は水面から出るはずです。2002年の宮古島大会の時には事故に会われた二人の方は突然異常な方向へ泳ぎ出したことが観察されています。
この事故で72歳の方が亡くなったために、宮古島大会の年齢上限の撤廃は1年だけでまた元に戻されてしまいました。
乳腺専門医として悔しい思い1─患者Aさん─
乳がんは女性の罹患する癌のトップを独走しており、10年ほど前には欧米の罹患率女性8人に一人に対して、日本は20人に一人と言われていましたが、今では欧米に近づいて来て、12人に一人と言われるようになりました。隣町に住むその40代の女性が私がやっていた市民病院の乳腺外来に来たのは、10年ほど前のことでした。その2年ほど前から右乳房にしこりが出来、近くのクリニックで診てもらっているが、乳がんではないと言われているがなかなか治らないので、診て欲しいとのことでした。一目診て、もう潰瘍形成が始まっている進行乳がんです。細胞診をすると乳がんの診断が確定し、CTでは肺・肝転移もすでに起こしていました。
詳しい話を訊いて見ると、その近所の内科のお医者さんは近所では評判がよいのですが、難しい症例が来ると、Oリングテストと言って、ドクターと患者さんが親指と人差し指で輪を作って引っ張りっこをして、どちらのOリングが切れるかで診断をすると言うのです。その方もOリングテストの結果、乳がんではないと言われたそうです。まるで占いです。でも患者さんは自分が癌だと認めたくない人がほとんどですから、癌でないと言われると信じたくなります。治験と実証、科学的な証拠に基づいて築かれた西洋医学に対して、東洋医学やヒーリング医学、ホメオパシーなどに基づいて治療をするのを代替治療と呼んでいます。漢方薬などは確かに効果のあるものもあり、保険適応のある薬もたくさん出ていますが、いくら何でもOリングテストはまやかし以外の何物でもないと思います。
もう診断がついた時点でステージ4、根治手術の適応はなく、化学療法、緩和医療しかありませんでした。入院してハーセプチンによる化学療法をしている時に件のクリニックのドクターが病院まで乗り込んで来ました。その時点では患者さんはまだ半分そのドクターの言うことを信じていました。そして、例のOリングテストをしてハーセプチンは害がないので使ってよいと言うのです。そこまでするかと呆れて物も言えませんでした。
その後、入退院を繰り返し、最後は局所の痛みや肺転移による呼吸困難も出て、モルヒネの使用も余儀なくされましたが、亡くなる前にとうとうあの先生を信じていた私が馬鹿だったと泣きながら短い生涯を閉じました。
ペットロス症候群─ニャンコ─
その子猫は鉄平が拾って来ました。2004年の3月頃だったと思います。自分で育てることも出来ないのに可愛いそうな捨て猫を見ると拾って来てしまうのは私と同じです。最初はゼエゼエ言っていて今にも死にそうでしたが、看病の甲斐あって、3か月くらいで元気になりました。♀でしたので、避妊手術をして飼うことにしました。名前はまたしても安易にニャンコとなりました。それから6年あまり、家族同様になり、次々に生まれる孫たちも来ると可愛がりますし、ニャンコも家の内外を自由に出入りしていました。最初のうちは母親のおっぱいが懐かしいのか毛布を見るとしゃぶりついて、両足で揉む動作をします。その頃天井裏に小さなホッポネズミが棲んでいましたが、ニャンコが退治したのかいなくなりました。いたずらもします。障子を張り替えると最初に破くのはニャンコでした。そのうち諦めて1か所は貼らずにカーテンのようにしておくことにしました。そこから自由に出入り出来ると破くこともなくなりました。
玄関は鍵がかけてない時には自分で開けて勝手に出て行きます。もちろん閉めては行きませんので、開けっ放しの玄関から野良猫が入ったり、入れてもらえない犬たちが羨ましがって入ることもありました。外では自由にあちらこちら駆け回っていますが、自分の縄張りは決めていて、そこから外へは絶対に出ません。車がたくさん通る大通りまでは決して行きませんので、交通事故に会うこともありません。時々隣の家に入り込むこともあったようですが、隣の家の人も心得ていて可愛がってくれました。餌は猫の餌を買って与えていましたが、時々自分でも小鳥を捕まえてくることもありました。捕まえるとどうだと自慢げに見せに来ます。
女房が外で仕事をしている時にはその近くで遊んでいますし、ガマの散歩に行く時には必ずついて来ました。でも自分が決めた縄張りから外へ出るとそこからはついて来ずに、戻って来るまで待っています。たまに1泊くらいの旅行ですと、そのまま置いて行くこともありましたが、トイレの窓を少し開けておくとそこから出入りして、餌もたくさん置いておくと適当に食べていました。猫は犬のように主人に媚びを売ることはないですが、勝手にしているようで主人の行動をよく見ています。
家族一人ひとりの中にニャンコの占める場所が出来、まだそんなに年寄りでもない時に、突然ニャンコが死んでいなくなりました。昨日まで元気に走り回っていたニャンコが玄関のところで心肺停止状態で倒れていたのです。その頃、家の周りでキツネが出没するようになり、時々履物がなくなったり、畑が掘り返されたりという悪さをするようになりました。裏山に毒入りの餌が仕掛けられたと言う噂もありました。ニャンコは毒入りの餌でも食べたのでしょうか?普通猫は死ぬとき(自分で死を悟った時)死に場所を探していなくなると言いますが、ニャンコの場合は力を振り絞って玄関まで辿り着いた訳ですから、まさか死ぬとは思っていなかったのでしょう。以前蒲郡の自殺症例の検討をして自殺の動機に連れ合いを亡くしてというのは1例もありませんでしたが、可愛がっていた猫の後追い自殺は1件ありました。ニャンコが死んでしばらくは私も含めてペットロス症候群となりました。
白い巨塔から追われる─水野 茂先生─
私が外科の師匠と仰ぐ先生は二人います。一人は、大学卒業後、研修に行った名鉄病院で当時外科部長をされていた片岡 将先生です。片岡先生には医者である前にまず人間でなければいけないと言う心構えを教わりました。次に大学医局に帰った時に内分泌研究室のチーフをしていた水野 茂先生です。私は卒後すぐに名大第二外科に入局しましたが、4年あまりの名鉄病院での研修の間に内分泌研究室に戻るか、肝臓研究室に戻るか迷っていました。そんな時に飲み会に誘っていただいた水野先生の話を聞いて内分泌研究室に決めました。まず内分泌では手術する臓器の範囲が広く、いろいろな手術が出来ること、医局員には手術を平等に回すことなど、他の研究室では経験出来ない内容でした。東海高校の先輩であることも親しみを持った理由です。
実際、医局に戻って見るとそれは嘘ではありませんでした。内分泌研究室は講師の水野先生と助手の舟橋先生の指導で運営されていましたが、大学での手術の執刀は教職以外の医局員に平等になるように割り振ってくれたのです。3年4か月の大学生活の間に、150例の手術を執刀させていただき、大学から赴任する時の医局でのあいさつでそのことを言ったら、他の研究室の人たちから羨ましがられました。特に、甲状腺がん、乳がんでは胸骨縦切開を行うD3郭清を標準術式として取り上げていましたから、大血管や心臓を触るような大きな手術もびびることなく出来るようになりました。水野先生は小柄で豪快ですが、繊細で几帳面なところもありました。将来、今出来ないホルモンの測定法が開発されるかも知れないと、既知の測定法で測るだけでなく、血清をフリーズドライして保存しておくということを毎日のノルマとして研究室員にさせていました。朝食前に患者さんの採血を自分たちでするために朝6時には大学へ出勤しなければなりませんでした。
その頃、医局では近藤達平教授の定年退官が間もなくで、次の教授戦が1年くらいかけて行われていました。教授選考委員会が組織されて、全国公募と有資格者のリストアップから少しづつ候補者を絞って行きます。それこそ山崎豊子原作の「白い巨塔」に描かれたような権謀術数を尽くした選挙戦が行われます。最終的に同門ですが、医局に残っている亀井助教授(近藤教授の流れを汲む腫瘍研究班)と愛知県がんセンターにいる高木先生(当時大学にはまだなかった移植研究班を立ち上げる)が残りました。傍で見ている分には面白いのですが、関係する当事者には死活問題です。水野先生は亀井助教授を推していました。最後は教授選考委員会での投票で僅差で高木教授が誕生します。
新教授が決まりますと、医局の人事がガラッと変わり、当然の如く、亀井助教授派は出されてしまいます。水野先生も半年くらいで、赴任助教授となり、中濃病院副院長から尾西市民病院院長として体よく出されてしまいます。乳がんのD3郭清も水野先生が出されると高木教授の意向で100例で中止となり、私も水野先生の下についていたので、医局の駒として、蒲郡市民病院へ外科第二部長として出されます。私の場合は大学に残る気はもともとありませんでしたので、それほど嫌な人事ではありませんでした。
水野先生は尾西市民の院長をしている間に、脳梗塞を患い、1年ほど療養リハビリをして復帰されますが、その間に外科部長の不始末もあり、結局医局が尾西市民から撤退することとなります。その後、岡崎の方の私立病院の雇われ院長をされますが、65歳ほどで肺がんとなり、亡くなります。もともとヘビースモーカーで、タバコの害よりもタバコの効用を説いていた先生でしたから悔いはなかっただろうと思います。もしあの時亀井教授が誕生していたら、水野先生の人生も違う方向に進んだかも知れません。
乳腺専門医として悔しい思い2─患者Bさん─
30歳代のその女性は右乳腺のしこりを主訴に私の乳腺外来を受診しました。問診、触診、エコー、マンモグラフィーを撮り、その時点で90%以上乳がんでしたが、本人は乳がんであると言われることを恐れていますので、いきなりそんなことは言いません。「触診と画像診断では悪性の可能性も50%ほどあります。細い針で細胞を採って検査に出してみましょう。」とまず間違いないと思ってもじわじわと匂わせて行きます。「1週間後に細胞診の結果を聞きに来て下さい。」
細胞診の結果はもちろん写真のように核の大小不同が見られクラスV(悪性)でした。腫瘤は3cm以上あり、腋窩リンパ節の腫脹もあってステージIIIBでした。しかしCTでははっきりした肺・肝もなく、補助療法は必要ですが、手術による根治も可能性ありと思われました。そこで、癌の告知をして、右乳房全摘による手術治療をまずする必要があることを告げます。未婚ですが、仕事もしている普通のOLで理解力もあると思ったのですが、意外な返事が返って、来ます。近くに鍼治療をしている先生がいて、同じような乳腺腫瘤の人がそこで治療を受けて治ったので、私も手術でなく鍼治療で治したいというのです。細胞診で癌の診断は確定しており、鍼治療なんかで治るはずがありません。もし治ったとすればその人は化膿性の乳腺炎か何かで排膿によって治ったのでしょう。
そして、それから全く外来に来なくなってしまいました。お兄さんがいたので、一度お兄さんも呼んで診断と治療について話をしましたが、やはり本人の意思は変わりませんでした。人の心は弱いものです。自分にとって楽な選択枝の提示があるとすっかり信じてしまうのは患者Aさんの場合と同じです。その約半年後にその患者さんは亡くなったと風の便りに聞きました。もちろん手術をしても進行乳がんですから100%治る訳ではありませんが、半年で亡くなることはなかったはずです。
心は今もそこに─鈴木龍哉名誉院長─
鈴木龍哉先生は私が蒲郡市民病院に赴任した時に院長をされていた名大第二外科の大先輩です。昭和31年4月宝飯国民病院の時代に名大第二外科から赴任され、蒲郡市民病院の発展とともに、歩んで見えた先生です。「心は今もそこに」は名誉院長となられてから蒲郡市民病院の歴史をまとめられた先生の著書のタイトルです。私が蒲郡市民病院へ赴任したのは、昭和62年1月のことです。その頃は今ではスーパーサンヨネとなってしまった場所に旧市民病院があり、龍哉先生は院長をされていました。外科は永田副院長と医長の板坂先生が見えて、私は卒後7年目で外科第二部長として赴任してきました。知多から自転車で通って来るスーパードクターが来てくれたと言って随分喜んでいただきました。
最初、女房と一緒に挨拶に伺ったら、当時の古い商工会議所にあったナポリと言うレストランでハンバーグをご馳走してくれました。龍哉先生は、病院の職員から名院長として慕われ、人を育てることが上手でした。定年退官後も名誉院長として後進の指導に当たる傍ら、蒲郡の警察医をして見えました。毎年家で採れる柿を干し柿にして持って来てくれましたが、とても甘く美味しい干し柿でした。私の干し柿作りも名誉院長を真似て始めたものです。
趣味は将棋と競艇で、休みの日には競艇場にいることが多く、携帯もポケベルもない時代、龍哉先生を呼び出すのに場内放送で八百富太郎さん(旧市民病院は八百富町にあったので)あるいは新宿のもくべえさんと言うのが約束だったと聞きました。67歳で退官してからは、蒲郡の警察医と競艇場医務室の嘱託医をされていましたが、競艇場医務室勤務となってからは舟券が買えないことを嘆いておられました。70歳になった頃に脳出血を起こして倒れられます。手術で一命はとりとめましたが、重い後遺症が残り、気管切開、胃瘻からの経管栄養、半分寝たきりの状態となられました。次女の素子さんの献身的な介護で、何とか自宅療養出来るようになりました。私も時々お見舞いに伺いましたが、この状態で褥瘡も作らず、3年もの長い間自宅療養出来たのは素子さんの介護のお蔭だと思います。
龍哉先生のしていた警察医を引き受ける人が蒲郡の医師会員にもなく、平成8年4月から外科部長の私が兼任をすることになりました。蒲郡競艇場医務室の仕事は市民病院産婦人科を退職した東野先生が代わりましたが、私も市民病院退職後は手伝うようになりました。結局龍哉先生の後任を引き受ける形になった訳です。
井の中の蛙─永井貞雄─
時々、朝早く呼ばれて、知多から蒲郡へ行く時に、岡田から阿久比へ向かう道を車で走っていると阿久比の方から岡田に向かって走ってくる小柄なランナーがいました。朝5時ごろのまだ薄暗い頃です。夏はランニングシャツにランニングパンツと言う本格的ないで立ちで、首を少し傾けてゆっくりしたペースで走っています。その人がマスターズマラソンの世界では有名な永井貞雄さんであると言うことを知ったのはまだ最近のことです。
永井さんは1932年富山県の生まれで、中学卒業後鍛冶屋に奉公します。23歳で名古屋に出て、町工場で働きます。その後三菱自動車工業株式会社に就職して、60歳の定年まで働きます。定年後は趣味の絵画、マラソン、俳句などを続け、多くの絵画展、個展にも出品し、マラソン大会もフルマラソンを中心にウルトラマラソンにも挑戦します。そして、70歳、80歳でエッセイ、俳句集「井の中の蛙」を文芸社から出版します。
永井さんは毎日休まずに30kmを走り続けました。朝早く、岡田から阿久比に向かって車で走ると必ず出会うのはそのためでした。若い人ならともかく、80歳を過ぎて1日30kmを走り続けると言うのは常人のなせる業ではありません。多くのマラソン大会で年代別入賞をされました。その著書に載っている80歳で詠んだ短歌を少し引用させていただきます。
人生や 早くも八十 長生きで 好きな絵を描き 走る喜び
人生や 井の中いやで とび出して 自然にカエル 生きる幸せ
人生や 好きな絵を描き マラソンと 走り続けて 八十歳に
平成27年12月20日の中日新聞知多版に次の記事が載っていました。
◆知多で男性はねられ死亡
19日午前5時40分ごろ、知多市岡田の市道で、阿久比町卯坂、無職永井貞雄さん(83)が軽乗用車にはねられて頭を強く打ち、外傷性くも膜下出血で死亡した。知多署は、自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、軽乗用車を運転していた・・・・を現行犯逮捕し、容疑を過失致死に切り替え、調べている。署によると、・・容疑者は出勤途中、永井さんは日課のジョギング中だった。市道沿いの歩道は工事中で、永井さんは車道を通行していたらしい。
※女房とお祖母さんは「80歳過ぎまで好きなマラソンをしていて、車にはねられてコロッと逝ければ幸せな人だ。貴方もそのうちに、・・・。」と言います。私は90歳、100歳まで走り続けて欲しかったと思います。
竹内家第8代当主─竹内 恭─
今日は女房の父、私の養父、竹内 恭について書きましょう。大正9年名校長竹内純一と竹内多仁子の一人息子として生まれた竹内 恭は教育者の多かった竹内家で当然のように半田中学から師範学校に進み、教職に就きます。戦争にもかりだされますが、一人息子であったのが幸いしたのか、内地勤務の兵役でした。終戦後、横須賀の小学校に勤めていた時に、代用教員で来た佐治禮子と結婚します。佐治の方も教育者が多く、父親は県の教育長をしていました。結婚して二人の女の子が出来ました。その頃肺結核に侵されます。まだ抗結核剤がなく、結核が不治の病だった頃で、治療としては安静栄養、せいぜい人工気胸療法くらいしかなかった時代です。大府の結核療養所に入って療養していた時に、教育長の佐治の口利きで、当時まだ日本で行われていなかった結核病巣切除+胸郭形成術を進駐軍の医師に頼んでしてもらいました。
それで一命を取り留めて、社会復帰出来た訳ですが、教職へは戻らず、家で養鶏の仕事を始めます。一時は3000羽ほど飼っていて、女房も小学校の頃は旅館に卵を届けに行くのがお手伝いでした。鶏を飼い、ヤギを飼っている生活が一番お祖父さんにとってはよかったようで、その頃が一番生き生きとしていたそうですが、女房が中学になった頃に、当時県の教育長をしていた佐治の方から娘婿が鶏屋ではいかんと言って、知多市の教育長に推挙してくれました。それから4期16年に渡り、知多市の教育長を務めます。私が、次女明子のところへ婿養子に入ったのは丁度教育長をしていた時で、私が京大を中退して名大医学部を受け直すと言う時でした。女房もまだ県芸の大学院で二人とも学生同士の結婚でした。まだ海のものとも山のものとも分からない私に、結婚の前に養子縁組をしなさいと言ってくれたのもお祖父さんでした。
その頃、バブル景気で、知多市の小中学校も新築、改築ラッシュで、教育長と言っても、地権者との交渉など肌に合わない仕事ばかりで、教育長4期目には仕事に行くのが嫌そうで、酒に逃げる毎日でした。私が名大を卒業するころでしょうか、もうやめてもいいかな?と相談されて、好きにしたらと答えたことを覚えています。それからは家で次々に生まれる孫を見たり、お祖母さんと旅行をしたりが仕事で、もともとが無趣味でしたので、趣味と言うとサツキの盆栽くらいでしょうか。
私が蒲郡に赴任してしばらく経って、吐血をします。その半年前には胃癌検診を受けていますが、見逃されたようです。救急車で東海市民病院に運ばれて、胃カメラをしたら、噴門部近くのボールマンII型でした。たまたま大学の同級生の川原田先生から電話がかかって来ました。小さなボールマンII型で手術出来ると思うが、どうしますか?と言うので、それでは蒲郡市民病院へ送って下さいと言うことで、私が胃全摘を行いました。結核にかかる人は癌にならないと言いますが、それはうそです。癌になる前に結核で死んでしまうだけで、結核を患っても長生きすれば同じように癌になります。片肺を手術しているお祖父さんには全身麻酔による胃全摘はかなりの負担でしたが、何とか周術期も乗り越えることが出来ました。でも全摘後は食も細くなり、その後胃切後胆石(胃癌手術後に迷走神経の胆のう枝が切れるために胆汁がうっ滞して胆石が出来やすくなる)で手術したり、腸閉塞を起こしたりして、恰幅がよかったお祖父さんは20kgほど体重が減りました。
栄養状態が悪くなると体力も落ちて、風邪が治りにくくなり、時々入院するようになりました。いよいよ呼吸困難が強くなって、知多市民病院に入院します。酸素投与をしていても時々意識がもうろうとしてくる状態になり、自分で痰を出す力もなくなって来ました。病室に見舞いに行った時に、意識もうろうで去痰困難があり、えらそうにしているのを見かねて、お祖父さんに気管切開をして痰を取れるようにすると少し楽になるけれどどうする?と誘導尋問をしました。その時はやってくれともうろうとした中で答えましたので、気管切開セットを持って来てもらい病室で気管切開をしました。痰を取って、楽になり意識もはっきりすると筆談で「地球の45億年の歴史から考えると人の一生など瞬く間だよ。余分なことはしないでくれ。」と言いました。どうも私は余分なことをしてしまったようです。それから1週間後に亡くなりました。自分の最後を決めるのは自分、意識のはっきりしているうちに遺言はしておかなければいけません。
知多市ゆかりの画家─大澤鉦一郎─
大澤鉦一郎画伯は1893年生まれ、愛知県出身の油彩画家です。1914年東京高等工業学校図案科(現・東京工業大学)を中退し、愛知県知多市古見に療養目的で移住します。1917年若手画家7人で愛美社を結成し、画家としての道を歩みますが、画家だけでは食べて行けず、横須賀高校で美術を教えていました。知多の美術志望の人は多かれ少なかれ大澤先生の教えを受けています。私の幼馴染でデザイナーの道に進んだ竹内 克さんもその一人です。
写真の絵は、家にあったもので、大澤先生が古見に住んでいた頃の美濃川の風景だと思われます。初期の細密画のような写実的な作風から印象派の影響を受けて変わって来た1930年ごろの作品だと思います。純一お祖父さんが校長をしていた頃に、まだ絵が売れなくて生活に困っていた大澤先生を助けるために買ったのだと聞きました。
実は何を隠そう、私も大澤先生の弟子の一人だったのです。私の母が教育熱心であったことは前に書きましたが、保育園から小学校2年頃まで、大澤先生の家に絵を習いに通ったのです。1955年~1957年頃の話です。その頃、大澤先生は常滑市大野町に住んでいて、電車に乗って週に1回大野まで行き、駅から10分くらい歩いた覚えがあります。行くと、たいてい静物画を描かされました。遊びたいさかりでしたから、早く済まして帰りたかったのですが、なかなかOKを出してくれません。「絵を描くときには対象をよく見て描きなさい」というのが口癖で、「3分みて1分描きなさい」と教えてくれました。その教えは今でも自然観察に役立っています。
オートバイは怖い─あるライダー─
この道は25年ほど前に観光道路として作られた道です。市街地から離れて見晴らしのよいところもあり、県の管理する観光有料道路として期待されましたが、残念なことに目的地のない道でした。つまりこの道を通ってどこかへ行こうという道ではないのです。いつの間にか、オートバイや車の暴走族が走る道になっていました。とうとう5年ほど前に県は撤退して無料にしました。料金を取っていると却って人件費で赤字になるからです。走りに来るのはオートバイや車のローリング族だけです。ときどき事故を起こして私の病院に運ばれてきます。開業以来、片手ではきかない数の人が亡くなっています。このカーブも魔のカーブとして有名です。何でもないようですが、結構カーブが深いのです。ここで、この前オートバイの単独事故があり一人亡くなりました。別のグループ3人が丁度休んでいるときに事故を目撃していました。ガード柵に激突したライダーの首が取れてしまいました。丁度その転がったところのガードパイプに枯れた花が飾ってありました。それは昨年この同じ場所で亡くなったオートバイライダーの追悼の花でした。その32才の彼も病院に運ばれた時には丁度そのガードパイプが直腸から骨盤を貫いて瀕死の状態で運ばれてきました。出血がコントロールできなくて、輸血をポンピングで入れながら、ミクリッツタンポンをして、両側内腸骨動脈の塞栓術を行い、何とか救命できたかという状態になり、ICUから一般病棟に移った瞬間に敗血症から多臓器不全で亡くなりました。入院してから2週間くらいのことでした。今回の事故は丁度偶然にもその同じガードパイプの横で首が取れて転がっていました。先の事故霊が呼んだとしか思えないような事故でした。
その事故の検案を私が担当しましたが、皮のライダースーツに身を固め、フルフェースのヘルメットも被っており、並みの日曜ライダーではないと思われましたが、首の前が刃物でスパッと切ったように割れていて、後ろの方が首の皮1枚でつながっている状態でした。現場の状況を見ても首が切れるようなものはなく、結局、カーブを曲がり切れずに転倒して滑走し、道路脇のガードパイプの柱に背中が当たり、直接の打撃を免れた頭部がその慣性力によって頸部が過伸展されて引き抜かれるように牽引されて切れたものと推定しました。検案は遺体を診て死亡原因を推定して、死体検案書を書いて終わりなのですが、このライダーの場合は遺族に引き合わせる前に縫合して首をつけてあげました。日本ではほとんど火葬にされるために、エンバーミング(死体修復・保存)をする職業はあく、葬儀屋さんが化粧をするくらいなのですが、検案をしてあまりひどい損傷がある場合は遺族に引き渡す前に修復をサービスでしてあげる場合があります。
実はその10年ほど前にこの場所のすぐ近くの山中にトヨタのヘリコプターが墜落して8人の方が亡くなる事故があり、その検案も私が担当しました。現場はぐちゃぐちゃに壊れたヘリコプターの周りに遺体が散乱しており、まるで戦場のような惨状でした。それ以来この場所は呪われているようです。
私自身、4年前にホンダのゴールドウィング(1500ccの大型オートバイ)に乗っていて、事故に会います。雨の日、通勤途中に90km/hくらいで走っていて、横から急に出てきたダンプカーを見てブレーキをかけたらロックして転倒、そのまま突っ込みました。意識不明となり、救急車で西尾市民病院に運ばれましたが、幸い、下顎骨骨折、右尺骨骨折、脳震盪だけで、首は取れていませんでした。オートバイも廃車になってしまいましたが、事故のほとぼりも冷めてそろそろまた乗りたいなと思っていた矢先にこの事故を見て怖気づいてしまいました。
花が飾ってある訳を知らないライダーは今日もこの道路を走っています。
乳腺専門医として悔しい思い3─患者Cさん─
乳腺専門医として800例以上の手術をしていますが、その40歳代の女性は比較的早期の症例でしたので、研修に来ていた女医さんに担当してもらい、私の指導のもとに温存手術を行いました。5日くらいで外来に来る予約をして退院しましたが、予約の日に来院しませんでした。たまに予約した日に急な都合で来院出来ない患者さんもいますので、2~3日はそのまま様子を見ていましたが、何の連絡もありません。家に連絡したら、何と交通事故で亡くなっていました。退院して近くで葬式が出来たためにお通夜に喪服で道を歩いていて気づかない車にはねられたそうです。
事故現場も見に行きましたが、蒲郡高校から少し北へ行って新幹線のガードをくぐった辺りで、確かに歩道のない交通量の多い道で、街灯も少ない場所でした。早期乳がんの手術が無事終わり、補助療法は必要ですが、90%以上は根治出来ると思っていた症例をこんな形で失うことになるとは残念でした。夜道を歩いたり、走ったりする時には蛍光色や夜光塗料を塗ったものを身に着けるのが安全のためには重要です。
交通事故に会いやすいアゲハ類─ミカドアゲハ─
沖縄を車で走っているとよく轢かれた蝶が落ちています。沖縄では道路によくセンダングサが生えていて、たくさんの蝶が吸蜜に来ています。どんな蝶が交通事故に遭いやすいかと言うと、ほとんどがアゲハ類です。シジミチョウ科やシロチョウ科の蝶は小さくてすばしこいのと、あまり道路へは出て来ません。マダラチョウ類はアゲハ類と同じくらい大きいのですが、飛び方が緩やかで、風に乗ってフワフワ飛んでいますので、当たりそうになっても逃げられるようです。
知多半島にも珍しいアゲハがいて、常滑市多賀神社周辺には食草のオガタマノキが生えていますので、ミカドアゲハが生息しています。もともと南方系の蝶で、常滑市は分布の北限に当たると思われます。発生時期には毎年写真を撮りに行きますが、たまたま道路脇で飛んでいるミカドアゲハを見つけました。写真を撮っていたら、軽自動車がかなりのスピードで走って来て、道路に飛び出したミカドアゲハを轢いてしまったのです。車は人を轢いた訳ではありませんので、そのまま走り去りましたが、轢かれたミカドアゲハは道路の上でピクピク、瀕死の重傷でした。仕方ありません(内心喜んで)家に持って帰り、標本にしました。採集を最近再開しましたが、それまでは交通事故に遭った蝶を拾って来て標本を作っていました。
写真はミカドアゲハが車にはねられる瞬間のもので、とっさのことで、ピントが合わせられませんでしたが、証拠写真です。
女優人生を全うする─川島なお美─
愛知県出身の女優川島なお美が胆管がんのために亡くなりました。私も外科臨床医として過ごした33年間に癌の手術(乳がん、甲状腺がん、食道がん、胃がん、大腸がん、肝臓がん、胆管がん、膵臓がんなど)を多数手がけ、不幸にして再発・進行で亡くなった患者さんをたくさん見送って来ました。報道から知る彼女のがんとの闘いと死に様を検証したいと思います。
まず彼女は無類のワイン好きとして知られていました。肝臓がんの診断がついた時に、まずワインの飲み過ぎが発がんの原因ではないかと言うことが頭をよぎっただろうと思います。「ワインに申し訳ない」と言って、その後自宅ではワインを控え、外では急にワインを止めては怪しまれるとワインを飲み続けていたそうです。
ワインに加えられる酸化防止剤(亜硫酸塩)に発がん性があると言われたことがあります。しかし、胆管がんの発症リスクに関係していると言う証拠はありません。アルコール類の発がんリスクはタバコや他の食品に比べて総合的には低いと言うのが現在の通説です。胆管がんの発症リスクとしてはっきり証明されたのは印刷業界で校正印刷の過程で使われている「ジクロロメタン」「1,2-ジクロロプロパン」です。厚労省も職業病として認定しました。
昨年8月に診断され、今年1月に手術されたそうですが、最初は良性なのか悪性なのか診断が難しかったようです。切ってみないと悪性か良性か判らないということも言われたようです。
胆管がんは肝臓で作る胆汁が十二指腸まで流れる管に出来ますが、出来る場所により症状の出方は違います。総胆管と言う肝臓から出て十二指腸へ合流するまでの間に出来るとがんによって胆汁の流れが塞き止められて、早くから黄疸が出るために、比較的小さなうちに見つかりますが、肝内胆管に出来た場合には全く無症状で診断が難しいのです。彼女の場合も恐らく検診のエコー検査で見つかったのではないかと思いますが、その時点でかなり進行していたのではないかと思います。
1月に12時間に及ぶ内視鏡手術を受けたとのことですが、果たしてそれでよかったのでしょうか?
これはかなり問題ありと考えます。彼女は仕事が忙しく、悪性か良性かも判らずに手術を受けることを躊躇し、いろいろな医者を転々としたようです。また手術の方法についても早く仕事に復帰出来るようにと内視鏡手術を選択したようです。しかし、診断のついた昨年8月の時点で開腹手術を選択していれば、結果は随分変わった可能性があります。内視鏡手術は時間がかかりますが、手術侵襲が少なく回復が速いのが特徴で、彼女の場合も1週間で退院してよいと言われもう少し長くと希望して10日で退院したそうです。しかし開腹して直視下に手術するのと比べると、リンパ節の廓清など細かいところで、不十分に終わった可能性があります。
術後の補助療法としての抗がん剤治療も放射線治療も拒否をしたと言いますがそれはよかったのでしょうか?
残念ながら、胆管がんに関しては確実に効くと言う抗がん剤もありませんし、放射線治療も有効性は疑問ですので、これはこれでよいと思います。
舞台の降板会見後10日で亡くなり、あまりにも速い結末に驚きました。
昔はがんの告知はしない、予後告知なんてとんでもないと言う時代でしたが、今はそうではありません。がんの告知はもちろん、余命どれくらいですからその間に出来ることをして下さいと言うのが常識です。恐らく彼女も会見時には死期を悟っていたと思います。その上で最後の大芝居を打って、女優としての人生を全うしたのだと思います。(合掌)
これからと言う時に─山西俊雄─
山西俊雄さんは常滑市矢田にある浄土宗西山深草派の信谷院と言うお寺の長男として昭和22年7月7日に生まれました。横須賀高校に進学し、横須賀に山西ありと言われるほどの秀才となり、京都大学理学部に現役で入り数学科に進みます。私はその3年後に一浪して京大に入りますが、同じ理学部でも私は遊んでいて、理学部と言うよりは囲碁部でしたから同郷でも全く知りませんでした。卒業して、親と同じ教職の道に進み、常滑高校、知多高校で教鞭を取り、昭和58年に母校の横須賀高校へ転任します。私が初めて会ったのは、私の結婚式でした。妹は南山大学の英米科に在籍していましたが、母ツルと俊雄さんのお父さんの俊信さんが知多中で一緒に教鞭を取っていて、8つ下の弟が丁度が俊信さんに担任をしてもらっていました。進路指導で弟が俊信さんの家に行く時に妹も連れて行かれて俊雄さんと会わされたようです。すぐに婚約しましたが、結婚は妹が大学を卒業するのを待って行われました。私の結婚の方が1年ほど早くなりましたが、俊雄さんもすでに婚約していましたので出席して、2年違いで同じ京大理学部にいたと言うこともあり、私の結婚式の時には、京大囲碁部の連中とともに三高寮歌を歌ってくれました。結婚式は名古屋の王山会館で行われましたが、お寺の跡取りになる訳ですから檀家の人たちも集まって信谷院で披露宴も行われました。その時の集合写真には私と私の両親も写っています。
学校では専門の数学を中心に進路相談も熱心で同僚、生徒から信頼を集めていたようですが、酒も好きで強く、会うと必ず酒を飲んで語り明かします。妹の婿さんですが、気さくな先輩と言う感じでした。うちも子供が4人出来、俊雄さんと妹にも女の子ばかり4人出来ました。女房とは丁度7月7日の誕生日も一緒で、女房は県芸の声楽科の大学院で丁度バッハを卒業研究のテーマにしていましたが、俊雄さんもLP盤でクラシックを聴きながら朝コーヒーを飲むのが趣味で、一番好きなのがバッハでしたから女房と話も合いました。女房は卒業後一時知多高校で音楽を教えていましたが、丁度その時俊雄さんも知多高校にいました。
ある時どうも最近胃の調子が悪いと相談を受けて、検査を受けるように勧めます。俊雄さんはまだ38歳で職場での成人病検診も始まっていませんでした。近くの東海市民病院で検査を受けましたが、妹が別室に呼ばれました。そこで、手遅れの癌だと言われて、検査資料を借りて私のところに来ました。検査の結果ボールマンIV型の進行胃癌で、すでに腹水も溜っていて、手術の適応もない状態でした。自宅へ帰り、藁にもすがる思いで、漢方治療と保険適応のないゲルマニウム治療を始めましたが、効果はなく腹水が増えて来ました。腹水の細胞診でもがん細胞が出て、癌性腹膜炎で残されているのは緩和医療しかないと言うことが判った時に、つらい選択をします。妹と話をして、頭のよい人だし、このまま癌と予後を告知せずにいても気が付くだろうし、騙し通すことは難しいだろう、何よりもお寺の跡取りになる人で仏門に帰依している人だし、運命を受け入れる覚悟は出来ているだろう、告知して余命で今後のことを含めて準備をさせた方がよいだろうと告知することを決め、その大役を私がすることになりました。通常、癌の告知をすると反応は人様々ですが、最初はそんなはずはないと言う否定、そして何故自分なんだという怒りが来て、次に何もする気が失せる鬱の状態になることがほとんとです。しかしそういった常人の反応はなく、最初から素直に運命を受け入れ、泣き言ひとつ言いませんでした。
腹水の貯まるスピードが速くなり、自宅療養が難しくなってきましたが、私はその頃大学の医局の内分泌研究室にいたころでしたので、弟の勤務先である名古屋第二日赤を紹介し、そこで緩和ケアを受けることになりました。病床を見舞う同僚の先生にも真っ先に言うのは「生徒や先生に迷惑をかけ申し訳ありません。」と言う他人を気遣う言葉でした。判ってから3か月はあまりに短い期間でした。私はよい飲み友達を失い、妹はお寺の跡取りにはなれない女の子4人を連れて実家へ戻りました。信谷院は同じ京大を出た弟の享君が継ぐことになりました。30歳代に見つかるボールマンIV型胃癌は男女ともに働き盛りの命を奪う癌の第一位です。私はがん検診は胃癌に関しては35歳から始めるべきだと思っています。
世界が認めた日本人女性100人─岸田袈裟─
NEWSWEEKが「世界が認めた日本人女性100人」と言う特集を出したことがあります。その中の一人に岸田袈裟さんがいます。岸田袈裟さんは岩手県遠野市上郷町の出身で、相模女子大を卒業後、昭和50年から食物栄養研究のため人類発祥の地アフリカのケニヤに渡ってトルカナ族やマサイ族の人たちの中に入って食物栄養の研究をされます。そして夢を求めて日本から行っていたご主人とめぐり合い結婚をします。子育てをしながら、地元の人たちの間に溶け込んで、孤児支援から始まって、かまど・草履の普及、森林保護、エイズ予防など色々な支援活動をされ、岸田ママと呼ばれるようになります。取り分け、故郷遠野のかまど・草履からヒントを得て、かまどの上に置いた甕に付けたたった100円の真鍮の蛇口を10万世帯に普及させ、煮沸水によって病原菌からケニアの人々を守り、裸足で歩いていたケニアの人々に草履を普及することで破傷風などから守りました。平成7年JICA(国際協力事業団)派遣員、専門員となり、NPO法人少年ケニアの友本部副会長となります。そして、タイトルの世界が認めた日本人女性100人に選ばれ、その他に第14回読売国際協力賞受賞、遠野市市民栄誉賞受賞などをされます。
私が岸田さんを初めて知ったのは、ブロ友の花菖蒲さんの日記からですが、花菖蒲さんは高校2年の時に岸田さんと同じクラスになって以来の親友だそうで、岸田さんを追いかけてケニアへも初海外旅行をされます。私は岸田さんに会ったことはありませんが、私が花菖蒲さんに送ったヤマモモのワインシロップ煮を岸田さんが花菖蒲さんの家を訪ねた時に一緒に飲んだとの記事がありました。ある時花菖蒲さんが岸田さんが乳がんになり心配していることを聞き、詳しい話を聞いたら、岩手医大の斎藤教授に手術をしてもらったとのことで、斎藤教授ならば内分泌外科の専門だから大丈夫でしょうと答えたことがありました。その3年ほど後の突然の悲報でした。盛岡市内の病院で病気療養中、肺炎を併発して亡くなったとのことですが、恐らく乳がんの肺転移だったのでしょう。35年の長きに渡ってケニアで人道支援に尽力されて恐らく自分の健康を顧みる余裕もなかったのではないかと思います。一度会って話を聞きたかった方ですが、叶わぬ夢となってしまいました。
携帯で通報したものの─ある釣り人─
30日未明、新潟市の港の防波堤で、釣りをしていた45歳の男性が誤って海に転落し、搬送先の病院で死亡しました。(テレ朝ニュース、2015.12.30)
死亡したのは、新潟市の会社員Sさんです。第9管区海上保安本部によりますと、Sさんは午前2時半ごろ、新潟東港の防波堤で釣りをしていたところ、誤って海に転落しました。Sさんは自身の携帯電話で通報し、約2時間後、消防に救助されましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました。防波堤は立ち入り禁止となっていて、付近に明かりはなく、事故当時は風速3mの風が吹いていたということです。
このニュースで判るのはいくつかの問題点です。危険だから立ち入り禁止となっている防波堤に入り込んで釣りをしたこと。落ちた時のことを考えて携帯を防水携帯にしたのはよかったのですが、そのお金でライフジャケットを買って着て行った方がもっとよかったでしょう。
人の掘った穴は危険─事故事例─
【事例1】2011年8月27日午後10時すぎ、石川県かほく市の大崎海岸で金沢市在住の会社員(23)と妻(23)が、妻と友人の掘った落とし穴に転落した。かほく市消防本部の救助隊員らが約2時間後に2人を引き上げ、内灘町の金沢医科大病院に搬送したが、2人とも死亡が確認された。現場はかほく市大崎海浜公園キャンプ場から海側へ約100メートルの砂浜で津幡署によると、落とし穴は約2.4メートル四方で、深さは約2.5メートルだった。穴を掘ったのは妻と友人数人で、関係者の話では夫を驚かせようとしたとの情報がある。
【事例2】2010年11月24日 茨城県美浦村の山林で21日、痛ましい死亡事故が起きた。団体職員のIさん(58)が山芋を採るためシャベルで穴を掘っていたところ、頭から転落、窒息死した。稲敷署によると穴は直径90センチ、深さ約1.2メートルで、上半身を入れた状態でグッタリしていたという。Iさんは10年以上のベテランで、この日は朝から友人と3人で入山、その後別れ、ひとりで掘っていた。同様の死亡事故は今年3月にも群馬県前橋市で起きている。この年2件目であると言う。
事例1の後に第18回日本警察医会で人の掘った穴の危険性について発表しました。人が深い穴を掘ると、運動量が大きく呼吸によって酸素を消費し、二酸化炭素が出ますが、二酸化炭素は分子量が44で酸素の32と比べて大きいために穴の底の方に貯まります。従って穴の底の方は二酸化炭素濃度が高く酸素濃度が薄いためにそこで誤って呼吸をすると瞬間的に意識を失う可能性があり、動けなくなって倒れてしまうと低酸素で脳死にいたると言う訳です。私も自然薯掘りは好きでよく山へ行きますが、穴に首を突っ込んで掘る時には息を止めて掘るようにしています。
暴漢に襲われ命を落とす─丹羽兵助─
丹羽兵助氏(1911~1990)は愛知県選出の自民党衆議院議員で、1955年守山町議から愛知県議を経て初当選、以後当選12回、竹下内閣で労働大臣も務めています。腰が低く「お辞儀の丹羽兵」と言われました。1990年10月21日陸上自衛隊守山駐屯地での記念式典に来賓で出席中、部外者の男(統合失調症で入院中でしたが、その時は一時退院中)に首をナイフで刺されます。頸動脈の損傷があれば恐らく即死でしょうから、多分頸静脈の損傷だったのでしょう。出血多量で近くの病院に搬送されましたが、そこで秘書が申告した血液型とたまたまあった国会便覧の血液型記載を信用して通常行われるクロスマッチテストをせずに異型輸血が行われます。そして12日後に亡くなります。司法解剖も行われて死因は出血死と言うことになりましたが、異型輸血が原因だとならなかったのは政治的な配慮があったかも知れません。誤った血液型が国会便覧に記載されたのは当時の血液型占いブームが原因で血液型による印象が得票数につながると考えたのではないかと推測されています。
たまたま統合失調症の男がいたこと、異型輸血が行われたことなど、いくつかの偶然が重なって命を落としますが、もしその場に首の解剖を知り尽くした私が居合わせたならば救命出来ただろうと思います。政治家が暴漢に襲われるということは井伊直弼、板垣退助、ジョン・F・ケネディなど古来から枚挙にいとまがありません。実は丹羽兵助氏は私と無縁ではなく、縁戚にあたります。丹羽の家は弟の丹羽久章氏も自民党の国会議員でしたが、私の実家の安藤の家系も政治家が多く、叔父さんの安藤孝三さんは衆議院議員でしたし、その長兄の初代安藤梅吉とその長男の二代目安藤梅吉は県会議員、二代目安藤梅吉の弟、安藤嘉治さんは知多市長になります。安藤孝三さんの娘は丹羽兵助さんの長男、孝充氏と結婚して丹羽秀樹氏が生まれます。丹羽秀樹氏は現在、兵助氏の地盤を引き継いで、自民党国会議員として活躍しています。
強さを過信して死ぬ─力道山─
力道山は1924年11月14日生まれで、最初は大相撲の二所ノ関部屋へ入門します。関脇まで登り、殊勲賞も1回獲りましたが、突然引退してプロレスへ転向します。1953年まだ日本にプロレスがなかった時に日本プロレス協会を立ち上げます。リングの上ではいつも正当派の戦いをして反則技を繰り出す悪役レスラーに対していつも最後は殿下の宝刀である空手チョップで勝つと言うのがひとつのパターンで、後に巨人・大鵬・卵焼きと言われるもうひとつ前の時代のヒーローでした。
リングの上では正統派でしたが、酒を飲むと人が変わるところもあったようで、ある会で酩酊するほど飲みながら女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかみました。村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論しますが、口論となり、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放ちます。この時、村田は懐中に手をやります。それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山が、「わかった。仲直りしよう」と言い出しましたが、それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになった。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打する。村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという。
1日目は応急手当を受け帰宅。その後、村田の所属団体の長小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという。
2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい十数針縫う手術を受け成功。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、話が表に出ないように親しい医者のいる病院にしたためという。側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がったとのこと。
7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時50分ごろに力道山は死亡した。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされています。
力道山が死んでしまった理由はいろいろあると思いますが、一番大きい原因は普段生傷の絶えないリングの上で戦っている自分がナイフで刺されたくらいで死ぬはずがないと言う過信ではないかと思います。深く腹部を刺された場合には全身麻酔下に大きく開腹して調べるべきで、腸は腹腔内で動くため穿孔部位を見逃す危険があります。その後の処置も応急手当と2日目の縫合手術もこれを見逃したものと思われます。リングの上での正義のヒーローが暴力団に刺されるという失態を隠したいと言う思惑もあったためと思います。39歳、まだまだ第一戦で活躍出来る時期の若すぎる死でした。
たかが盲腸されど盲腸─玉の海正洋─
蒲郡の天桂院と言うところにに第51代横綱玉の海のお墓があります。
1944年2月5日に大阪府大阪市で生まれますが、大阪大空襲で焼け出されて蒲郡に疎開、以降は蒲郡で育ちます。蒲郡市立蒲郡中学校時代は柔道で鳴らしており、柔道部の1年先輩にあたる和晃(後に東前頭筆頭まで昇進)を遥かに凌ぐ実力で知られていました。警察官を目指していましたが、竹内家の養子となった後、玉乃海太三郎(後の年寄片男波)に勧誘されて二所ノ関部屋に入門。1959年3月場所で初土俵、四股名は玉乃嶋。幕下時代に片男波の独立騒動が発生した際は片男波について行くことを選びましだ。独立が承認された時も、玉乃嶋の素質を高く評価していた二所ノ関からは「どうにか連れて行かず残して欲しい」と言われたこともあると言います。1963年9月場所で新十両に昇進、1964年3月場所で新入幕を果たし、この翌場所に玉乃島と改名する。
全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に急性虫垂炎を発症、夏巡業の最中にその痛みに耐えきれずに途中休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要でした。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後に大鵬の引退相撲が控えており、手術して本場所を休場すれば大鵬の引退相撲にも出場できなくなるため、痛み止めの座薬を刺し続けながら9月場所に強行出場しました。この場所は肋骨を折ったにも関わらず12勝を挙げましたが、これが結果として玉の海の生命をも縮めることとなってしまいました。1971年10月2日の大鵬引退相撲では、最後の横綱土俵入りで太刀持ちを務め、翌日に行われた淺瀬川健次の引退相撲にも出場しました。出場後直ちに虎の門病院へ入院して虫垂炎の緊急手術を受けますが、腹膜炎寸前の危険な状態だったと言います。その時点での手術後の経過は順調で、10月12日に退院する予定でした。なお、この時点で11月場所の出場に関しては未定だったこともあり、本人も「退院後すぐに(相撲)は取れないが、(巡業先では)土俵下から挨拶でもしよう」と親しい人たちには伝えていたと言います。ところが、退院前日の10月11日早朝、起床して洗顔を終えて戻ったところ、突然「苦しい」と右胸部の激痛を訴えてその場に倒れました。その時、既にチアノーゼ反応が起きており、顔は真っ青だったと言います。意識不明の状態で医師団の懸命な治療が行われ、一時は快方しかけたものの、その甲斐もなく11時30分に死亡が確認されました。27歳没。その急逝後、玉の海の遺体を病理解剖した結果、直接の死因は虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では術後の肺血栓)であることが判明しました。玉の海のような力士体型(肥満体)の人間が、手術後に血栓症を発症しやすいのは現代では常識ですが、その当時はあまり知られておらず十分な予防策も取られていなかったものと考えられます。これから全盛期を迎えようとするのは確実だったため、誰もがその死を惜しみました。
余りにも突然の玉の海の死に周囲の人々は狼狽し、ショックを隠し切れませんでした。最大のライバルで親友だった北の富士は、巡業先の岐阜県羽島市で「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、最初は「解説の玉の海さんが亡くなったのか?」と思い確認を取らせました。関係者が「現役横綱の玉の海関のことです」と伝えても、北の富士は「ふざけるのもいい加減にしろ!」と立腹し、全く信じなかったという。しかしその後、亡くなった人物が間違いなく親友の横綱・玉の海本人であるという事実が判った時、北の富士は「むごい…。島ちゃん(玉の海の愛称。かつての四股名であった玉乃島に由来する)があまりにも可哀想だ…」と、その場で人目もはばからず号泣しました。逝去当時、玉の海の死に顔を見た人々は、口を揃えて「無念の形相だった」と語っていました。付き人の一人が、納棺された肩幅の広い(これが最大の武器で、相手に上手を与えなかった)玉の海の姿を見て、「横綱、窮屈そうだな…」と言い、その場にいた人々は涙が止まらなかったという。現役当時はボウリングが大好きで、死の直前には女子プロボウラーとの婚約話も進んでいたと言われている。
歴史に71人存在する横綱の中で、初土俵以来一切休場を経験しておらず、現役死の寸前まで唯一通算皆勤を記録していました。しかし皮肉にも現役最後の1971年9月場所、虫垂炎の痛みをおして強行出場したことが、結果として27歳で急逝となる致命傷にも繋がってしまった。 その玉の海の死因が急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症であったことから、玉の海の悲劇を繰り返してはならないと当時の相撲診療所医師の林盈六が「力士の健康診断に血液検査は不可欠」と判断し、この当時の日本相撲協会健康保険組合理事長だった二子山勝治(初代若乃花)に『力士の健康診断の項目に血液検査を導入する』ことを提案し、実現させたという。現役最終場所となった1971年9月場所には蒲郡市立西浦中学校柔道部の12年後輩である鳳凰(当時壁谷、後に関脇まで昇進)が初土俵を踏んでおり、皮肉にもこの場所を最後に玉の海はこの世を去っている。翌11月場所は番付からも消滅した玉の海と入れ替わるように新序ノ口となった壁谷の名前が番付に新たに掲載されました。
全身麻酔の長時間手術では術後の血栓症予防のために術中に下肢静脈に血栓が出来るのを防ぐため波動式マッサージ器を装着するのが常識となるのはその約20年後くらいです。虫垂炎は腹部外科でも初歩的な手術ですが、小さな創からの手術は結構難しいもので、特に相撲取りのような腹壁の厚い場合には大変だと思います。腹膜炎寸前の状態だったとのことですから、時間もかかったことでしょう。私が蒲郡へ赴任したのは1987年ですから玉の海が亡くなって16年後ですが、その時に玉の海の兄さんがいて、碁が強かったので、一度王将で対局したことがあります。
名伯楽のあっけない最後─中村 清─
お正月の箱根駅伝を見ていたら、解説に瀬古利彦が出ていました。あの六代目三遊亭圓楽師匠に似た人懐っこい顔です。瀬古は現役時代世界のトップマラソンランナーから恐れられた(最速ではないが)最強のマラソンランナーでした。フルマラソン15戦して10勝と言う輝かしい成績を残します。そのマラソンを演出したのは名伯楽、中村 清監督でした。瀬古は高校時代、中長距離で活躍しました(高校2年、3年とインターハイ800m、1500mの二冠達成、国体では1500m、5000mの二冠達成)。大学は箱根駅伝最多出場・最多優勝を誇る名門中央大学への入学が内定していましたが、Sさんの項目で書いた東京オリンピック10000m代表の船井照夫らに勧められて早稲田に行くことを決めました。しかし、その当時運動選手の推薦入学の制度はなく、一般受験者として早大を受験しました。何せ、豊橋でストリップ劇場へ行って、舞台へ上がろうとするような、また後に米永邦夫将棋名人に替わって東京都の教育委員に推された時に、教育委員はキャバクラへ行ってはいけないんですか?と質問するような頭ですから、一発で早大が受かるはずはありません。それでも1年浪人して教育学部に合格します
そこで、夢の箱根路を4年連続で花の2区を任されて、走ります。3,4年次には区間賞の活躍をしますが、早稲田大学競走部監督の中村 清監督の勧めでマラソンに転向します。2年生で福岡国際マラソンに出場して、日本人最高の5位に入り、一躍注目を集め、3年生の時の福岡国際で日本人として久し振りとなるマラソン初優勝を果たします。中村監督とともにSB食品に移ってから「マラソンは芸術です。」と言った中村監督の作戦通りに、出るレース出るレースで優勝を重ねます。そのスタイルは400mを49秒で走れるスピードを武器に、トップグループの中で力をためて、終盤のスパートで突き放すと言うものでした。宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックのラスト100mで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされます。決して先行逃げ切りのレースはせずに、最後のスパートで抜き去ると言うのは、今までにないスタイルで中村劇場とも言われました。
1981年2月の青梅マラソンに参加。仮想ボストンとしてオープン参加。モスクワ五輪銀メダリストのゲラルド・ネイブール(オランダ)に圧勝。このとき記録した1時間29分32秒は現在も破られていません。実は、この時私も青梅マラソンに出ていてニアミスをしています。しかし、私は目標としていた2時間を切ることが出来ませんでした(2時間30秒)。言い訳になりますが、青梅マラソンは人気のあるレースで参加者も1万人以上いて、スタートを後ろの方に並ぶとスタートラインを通過するまでに3~4分かかってしまうのです。瀬古と同じように一番前に並んでいれば2時間は切れただろうと思います。4月のボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝を飾ります。この時の優勝記録2時間9分26秒は前年のビル・ロジャースの優勝記録を1秒上回る大会新記録でした。しかし、このあとトラック欧州遠征中に脚を故障、1年以上にわたってマラソンのレースから遠ざかることになります。この間、トレーニングと治療の両立という厳しい選択の中で中村と瀬古は様々な対応を試行し、最終的には鍼灸師による定期的な療養により克服しました。中村はこの故障を「神様の与えてくれた試練」と表現しました。
瀬古はオリンピックでは不運に泣き、入賞することはありませんでした。一番のよい時期であったモスクワ五輪がボイコットされ、次のロサンゼルス五輪では中村監督が女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いで留守の間に猛暑の東京で無理な練習をしたこと、それに前後して中村がガンを発症している事実を知ったことがその原因としてあげられています。ロサンゼルスオリンピック後、お見合いをし、中村の反対はあったが結婚に踏み切ります。しかし、1985年4月に中山竹通がワールドカップマラソンで瀬古の持つ日本最高記録を更新、直後の5月に中村が趣味の川釣り中に急逝し、瀬古を取り巻く環境は激変します。ソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていた1987年の福岡国際マラソンを負傷のため欠場し、翌年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となる。この代表選出については、瀬古に対する救済策ではないかという意見が当時多く出されました。この代表選考の不透明さは瀬古の責任ではないが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになりました。本番のレースでは9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わりました。
さて、中村監督は1985年5月25日、ソウルオリンピックに向け、瀬古の再起を図ろうと苦心し気持ちを切り替えるべく趣味の渓流釣りに出かけた新潟県の魚野川で岩から足を滑らせて川に転落死しました。(71歳没)恐らく胴長を着ていての事故と思います。中村監督が泳げたかどうか判りませんが、胴長を着ていて、転ぶと胴長の中に水が入ってなかなか立つことが難しくなります。私も天然ワサビを採りに行って川を胴長を着て渡ろうとして足を滑らせたことがあります。そんな時に慌てて立とうとしては駄目です。しばらくは水の流れに身を任せます。そのうちにきっと浅瀬がやって来ますので、そこで立てばよいのです。
脳性小児マヒながら天寿を全うする─杉浦好男さん─
蒲郡南駅前に王将と言うビジネスホテルがあります。単身赴任の私はだいたい毎朝ここで朝食を食べていました。ビジネスホテルですが、大衆食堂もやっていて、朝6時から朝食が食べられるのです。煮物、サバの煮つけ、天婦羅などいろいろなオカズが作って置いてある中から一品を選んで、それに味噌汁、ご飯、漬物、卵、海苔がついて600円(今は630円)でした。王将の主は長男の好男さんでした。王将と言う名前をつけたのは好男さんが将棋が好きで強かったからで、将棋会所もやっていました。好男さんは脳性の小児マヒで生まれてからずっと寝たきりでしたが、頭はよく将棋も強かったのです。一度将棋の大会で愛知県代表になったこともあるそうです。頸髄レベルの損傷だったようで手も不自由でしたから将棋と言っても口で動かす位置を言うメクラ将棋でした。将棋会所と言っても、将棋を指す人よりも碁を打つ人の方が多いので碁会所と言ってもよいかも知れません。私も何度かそこで碁を打ったことがあります。
ある時、好男さんが胃潰瘍出血で市民病院に入院して来ました。胃全摘をして何とか出血を止めて救命することが出来ました。その後、時々朝食の後に好男さんを訪ねるようになりました。春子さんと言う妹さんが好男さんの世話をしていました。古い王将が建て替えられて、将棋・碁会所だけ蒲郡郵便局の南へ移転しましたが、その後も時々様子を見に行きました。行くと、春子さんが様子を話してくれて、訪ねたお礼に大きな出汁の袋やら洋服の生地やらくれるのでかえって恐縮してしまうのですが、春子さんは結局兄さんの世話で一生を終えたようなものでした。好男さんより早く脳卒中で倒れて亡くなりました。好男さんも最後の頃は天井に虫が這っているなどの幻覚を訴えたりしましたが、90歳近くまで生きて天寿を全うしたと言えるでしょう。寝たきりの脳性小児マヒでこんなに長生きした方を他に知りませんがそれだけ家族に大切にされていたのでしょう。
現在、王将は弟さん夫婦の子供が後を継いでいて、朝食は今まで通りしていますが、いろいろなまぶし丼(うなぎ、マグロ、天ぷら、ヒレカツ)+アサリ汁が目玉になっています。鰻まぶし、マグロまぶし、天まぶしは700円、ヒレカツまぶしは1,200円です。蒲郡の官舎を引き払った後は、蒲郡で飲み会がある時は王将に泊まることにしていて、今も時々王将の朝食は食べています。
こんな恐ろしいことってあり?─寄生蠅─
時々、観察のために蝶の卵や幼虫を採ってきて飼育することがあります。渡りをする蝶として有名なアサギマダラは冬、食草が少なくなること、活動する適温が20℃前後であることから秋に北から南へ渡り、春には逆に南から北へ渡って来ます。でも少ないながら愛知県には食草となる常緑のガガイモ科のキジョランがあり、冬でも幼虫がいます。愛知県では多米峠と伊熊神社社叢がキジョランの自生地として有名で、冬に幼虫を探しに行くことがあります。キジョランはツル性でハート形の大きな葉で、幼虫がついている葉には弱齢幼虫の食痕である丸い穴が開いていますので、すぐに判ります。
多米峠で採って来た幼虫を家で飼育したことがあります。順調に脱皮を繰り返し、キジョランの葉の裏で垂蛹となります。蛹は綺麗な緑色で金色のスパンコールのような模様があってそのままイヤリングにしたくなるほど綺麗です。部屋の中の暖かいところだと3週間くらいで羽化するはずなのですが、だんだんくすんだ色となり、そのうちに斑点が透けて見えるようになります。ある日、突然に蛹からウジ虫が穴を開けて出て来て、粘液様のものにぶら下がって降りて来ます。1匹の蛹から2匹、3匹とウジ虫が出て来ることもあります。そのウジ虫は地面に降りて蛹となり今度はそこから蠅が誕生します。マダラキセイバエと言うマダラチョウなどに寄生する蠅なのです。どこで寄生されたかと言うと、蠅が蝶の食草であるキジョランに卵を産む訳です。その卵は当然マダラチョウ科の卵よりずっと小さなものです。それを知らないアサギマダラの幼虫は葉とともに卵を食べてしまう訳です。すると幼虫の腸の中で孵った蠅の卵から出た蠅の幼虫は腸を食い破ってアサギマダラの体内へ侵入する訳です。少しづつ体の中から食べられながら、蛹までは何とか行くのですが、蛹になると、体内の蠅の幼虫は急速に大きくなって蛹を食い破って出て来るという訳です。
まるで、寄生獣の世界ですが、気づかないまま体の中から食べられるって恐ろしいですね。このような形の寄生はスミナガシやウラゴマダラシジミなど他の蝶でも経験があります。人間に寄生する回虫やサナダ虫など普通の寄生虫は宿主を生かさず殺さずで共存するものが多いのですが、宿主を殺して出て来ると言うのがおぞましいですね。
家で死にたい─O看護師さん─
私が蒲郡市民病院に勤めている時、外来にOさんと言うベテラン看護師さんがいました。もう50代にさしかかる彼女は、泌尿器科の外来に長くいましたが、看護師さんは時々勤務交代をさせられるので、ある時外科外来に回って来ました。当時、日本医師会は准看護師を減らして、正看護師を増やそうとしていて正看護師の待遇をよくしていました。市民病院でも若い正看護師は病棟に上がり、看護主任、看護師長と出世していきます。彼女くらいなら仕事も出来ますし、主任や師長になっても当然の年齢なのですが、准看護師であったために、そうした時代の流れで外来で平看護師のままでした。でもベテランでしたから、外来では時々こちらが教わるようなこともあり、特に泌尿器科の外来勤務が長かったので、たまに外科外来に泌尿器の疾患の患者さんが紛れ込んでいたりするととても助かりました。外来には他に若い看護師さんが2人いましたが、外科の外来は午後からの手術に備えて、午前中に終わるようにしていましたので、外来患者さんのいなくなった外来で弁当を取って昼食を食べながら雑談をすることが多く、そこでもベテラン振りを発揮していました。
ある時ご主人が胃癌となり、比較的早期の癌でしたが、出来た場所が噴門部に近く胃全摘をしました。手術も無事終わり、外来に3か月に1回通院するようになりました。家は安城で、子供は男の子二人いましたが、長男はベトナムへ行き、そちらで仕事をしていましたが、現地の女性と結婚しました。次男は少し自閉症があって、親と一緒に住んでいました。安城で新しいマンションに引っ越しして、生活も落ち着いて来たところで、今度はO看護師さん本人が胃癌になってしまいました。手術は副院長がしましたが、1年もしないころに右鼠径部のリンパ節が腫れて来て、生研したら胃癌のリンパ節転移でした。彼女はそのことを副院長から告知され、私にも「先生、私再発しちゃった~。」と言ってケラケラ笑って話してくれました。彼女がそこで、選んだ選択は抗がん剤治療はしない、最後は自宅でと言うものでした。働けるうち働き、もともと小柄で痩せていましたが、だんだん痩せて来ました。もういいだろうと言うところまで働いて、安城のマンションに帰りました。そこで、ベトナムから帰って来た長男の嫁さんに日本のしきたりや料理を教え、次男の今後を考える終括をしました。食事がなかなか摂れなくなってくると、経口栄養剤(流動食)に切り替えて、癌性疼痛も最初は座薬で、それも効かなくなって来ると、私がモルヒネの座薬を処方していました。通院もえらくなって来ましたので、時々安城のマンションまで往診に行きました。
市民病院で在宅治療をすると言うことは原則ありませんでしたが、彼女の場合は特別です。家にいて点滴はいっさいしませんでしたから、ますます痩せて恐らく30kgを切るくらいまで痩せたと思います。家の中でも動く力もなくなり、癌性疼痛が強くなり、座薬では効かなくなってきましたので、往診の時にはモルヒネの注射剤を持って行くようになりました。最後は苦しそうに「先生、もういい、楽にして!」でした。モルヒネ30mgを注射してその時は眠りにつきました。呼吸も安定していましたので、その場はいったん帰りましたが、家族から「先生、眠るように息を引き取りました」と連絡があったのはその日の深夜でした。癌になっても誰を恨むでもなく、家族を気遣い、在宅死を選んだ彼女でした。
悲運の副院長─永田 巌先生─
永田 巌先生は松本出身で名大医学部昭和34年卒です。大学時代は名大第二外科の心臓研究班に所属していました。心研ではS28年卒の阿久根先生、南極観測隊についていった広瀬先生より少し下になると思います。昭和45年に蒲郡市民病院に赴任されますが、赴任先を決めるに当たって少し迷われたようですが、鈴木龍哉院長と奥さんともども会って、奥さんの勧めもあり決心したようです。以来龍哉先生のもとで蒲郡市民病院の外科を支えて定年まで勤めます。龍哉先生が院長を退かれて、名誉院長となる時に次の院長を誰にするかで悩まれたようです。その時永田先生は副院長、1年上で内科に林 尚孝副院長がいました。大きな病院では昔は院長ジッツと言って、大学医局が院長人事権を持っていて、次に院長になるのに相応しい人を医局から送って来ると言うことがありましたが、蒲郡のような田舎ではそう言うこともなく、院内の候補者から絞っていた訳です。結局最後は、龍哉先生が2人を前にしてどちらが院長になりたいんだ?と訊いたと言う話もあります。結局1年上の内科の林先生が院長となり、永田先生は副院長のまま定年まで過ごすことになります。
永田先生は大学時代に若い美人の奥さんをもらい、男の子が2人出来ました。二人とも学業優秀で、特に長男は飛びぬけて優秀で岡崎高校に進み、将来を嘱望されていました。ところが、その長男が急性骨髄性白血病を発症して急逝してしまいます。その当時はまだ抗がん剤+骨髄移植と言う治療法も確立されていなくて、なす術もなかったようです。そのことがあってから永田先生も少し落ち込んで覇気をなくされたようです。次男は名市大の医学部へ進み、港区で内科開業することになります。平成12年3月、蒲郡市民病院が平田町地内に新築移転して3年目に定年退官します。退官後は蒲郡を引き払い、名古屋の本郷の辺りに家を建てて引っ越されました。一度お邪魔したことがありますが、仕事以外無趣味の先生でしたから、毎日家でテレビの番をして見えました。
そんな永田先生が久し振りに蒲郡市民病院を訪ねて来ました。平成18年のことです。もともとヘビースモーカーでしたが、検診で肺がんが見つかったから私に手術をして欲しいと言うことでした。私の専門は乳腺・内分泌外科で肺がんは専門ではありません。他によい先生がいるんではないですか?と聞き直しましたが、親類や同級生の医者にはがんセンターへ行けと言われたけれど、君の手術の腕を見込んで頼みたいんだと言われます。そうまで言われては引き受けない訳には行きません。後側方開胸で大きく開けて、左上葉切除をしますが、肺門部リンパ節にも転移があって、肺動脈幹に浸潤していました。サテンスキーをかけて肺動脈を楔形に切除し、4-0プロリンで血管を縫合するまではかなり緊張しましたが、無事手術は成功します。組織型は小細胞型未分化癌でかなり悪性度の高いものでした。抗がん剤治療を勧めますが、君が手術で取ってくれたんだから大丈夫だろうと拒否されて、名古屋へ戻り、次男の医院で経過を観察することになります。その後時々息子さんから腫瘍マーカーも落ち着いており経過は良好ですと言う手紙が来ました。
訃報を聞いたのは手術してから3年後のことでした。それが肺がんの再発だったのかあるいは別の病気で亡くなったのか怖くて訊くことが出来ませんでした。
それは事件ではありません─ある検案事例─
年末、年始は医療機関が休みになることもあり、検案依頼が多くなります。今年も10件くらいの依頼が半田署、碧南署、蒲郡署からありました。昨日深夜に依頼されたケースは少し変わったケースでした。一人暮らしの70歳代の男の人が、自宅アパートで死後1週間くらい経って発見されます。失禁をしてパンツは脱いだ状態でベットの横にうつ伏せになっていましたが、回りのものが荒らされたように散乱しているのです。その人は几帳面な人で、ごみ屋敷とは正反対の整理整頓が出来る人で、遺体の周り以外は整然としていました。遺体の周りには海苔(焼き海苔)が散乱していて口の中にも食べた海苔のカスがついています。右側頭部と右大転子部に打撲痕が認められます。玄関は施錠してありますが、ベランダの戸が少し開いていました。(部屋は2階です)既往は1年10か月前に小脳梗塞をしていて、ワーファリンを内服していました。
すわ、強盗殺人事件か?と言うことで、県警本部の検視官の指示で病院で死後のCTを撮ってもらいましたが、丁度緊急手術でその後の読影、検案までは出来ないと言うことで断られたそうで、私の出番となった訳です。まず遺体の外表検査を行います。死因に結びつくような外傷や骨折はありません。結膜や粘膜の溢血斑もなく、窒息の所見はありません。右側頭部と右大転子部の打撲痕は致命傷ではなく、傷の周りの生活反応から亡くなる1日前くらいについたものと思われました。硬直はすでに完解しており、死斑はうつ伏せに死んでいたのと矛盾しない位置にあり固定しています。腹部には少し腐敗色が出かかっていました。死後約1週間くらいで、1月3日頃亡くなったものと思われました。新聞が1月3日から(2日は全国的に休刊日)取り込んでなかったのと矛盾はしません。
さて、問題の死後のCTを病院から借りて来て診てみました。すると胸部、腹部にはこれと言った所見はなく、頭のCTで古い左の小脳梗塞の痕はあるのですが、それ以外に左側頭葉から前頭葉にかけての広範な梗塞所見を認めました。念のため1年10か月前の小脳梗塞で入院した時のCTも借りて来て比較して見ました。やはり新しい梗塞と考えて間違いないようです。以上のような検案所見から物語を組み立てます。上野正彦先生流に言えば「死体は語る」です。この方は1月2日頃に左大脳半球の広範な梗塞を起こします。その時に倒れて右側頭部と右大転子部を打撲します。右の片麻痺が起こり立ち上がれなくなります。左手は何とか動いたでしょう。周りにあるものを取ろうとして布団を引きずりおろしたり、引き出しを引っ張り出したりします。携帯は棚の上に置いてありましたが、恐らくそこまで立ち上がって取ることは出来なかったのでしょう。何か食べなければと思い近くにあった焼き海苔を取って口にします。焼き海苔が散らばったのは片手しか使えない不自由のためでしょう。その場を動くことも出来ず、連絡することも出来ずに1日ほとんど飲まず食わずの末に力尽きます。
検案に関して最近法律改正がありました。2012年に自民党に政権が移ってからいわゆる検死二法案が参議院で自民、民主、公明3党の賛成多数で可決されました。これにより、明らかな病死以外の死因究明を初めて警察署長の責任であることを明記し、必要があれば、体液・尿の採取や死後の画像診断(Ai=Autopsy imaging)を行うことが出来ることが明記されました。そして、尿の採取などを除いて医師に行わせるものとしました。
レクイエム
外科医として30年、600例ほどの臨終に立会い、監察医として今も変死体の検案業務に従事するドクターTが見た死生観。志半ばにして倒れる無念の死、人生、好きなことをやり通した悔いのない死、一度は誰にも訪れる死にもいろいろな意味合いがあります。それを決めるのはそれまでの人生です。生物の世界では死は次の世代の生の始まりとなります。私が直面した色々な方の死から学んだことが、次の世代の生に役立てばと考えて書きました。死喰い人、デスノート、レクイエム(鎮魂歌)などタイトルがどれが相応しいかと考えて、亡くなった方から学ぶことで鎮魂になればとレクイエムにしました。歴史上に名のある人物については報道されているものもありますので、実名で記載していますが、私が経験した症例や検案に関する事例では匿名で書いています。