青天の霹靂

 午後1時。今朝沢木が言っていた企画発表の会議が始まった。
 オフィスの片隅にある小さな会議室で、部署の面々が難しい顔をして沢木の新商品のプレゼンを聞いている。
「今回の企画商品は、ターゲットを10代後半に絞りました。高校生や大学生でも手が出る価格にし、それでいて少し背伸びできるような化粧品を作りたいと考えています。」
 俺の部署は会社の中でも収益の根幹部とも言える化粧品部門である。
 こんな顔の男が化粧品部門というのだから、おかしな話である。
 沢木はひと月ほど前に部長直々に新商品の立ち上げ企画を任されていた。彼女は仕事においても他から一目置かれる存在なのだ。
 そんなことを考えている間も、沢木のプレゼンは先に進んでいく。
 いつも他の社員がプレゼンする際にはいちいち口をはさむ部長も、無言で沢木のプレゼンに耳を傾けていた。というよりも、うっとりと沢木を眺めていたという方が表現としては正しいのかもしれない。
「現段階での問題として生産ラインの確保が挙げられます。当社下請けの工場は、主力であるブランドに押さえられていますので、上層部の方々がそれらの生産量を削ってまでこの新企画商品に力を入れてくれるとは考えにくいので…。」
 沢木はプレゼン終盤になって急に消極的な発言をした。
 頑張ったと胸を張って言っていた企画である。会議室にいる全員が沢木をちらりと見ながら、何かしら思案している風を装っている。
「コンセプトとしては良いんじゃないかな。実際この世代の客層はわが社では不要と考えている。ここに切り込んだのは斬新であるとは思うが…。」
 そう言うと部長は黙ってしまった。おそらく部長はフォローを入れようとしたのだろう。
 しかし、いざ言葉にしてみると、この企画がわが社にとって、そしてこの部署にとってもかなりの冒険になるのではないかと自らの言葉できづいてしまったのだ。
「高橋女史はきついっすね。」
 俺の隣の席に座っている村田が呟いた。
 俺より一年後輩で容姿端麗のチャラい男である。甘え上手で先輩女子社員に仕事を手伝ってもらえるよう、おねだりするのががこいつの仕事だ。
 この村田が呟いた高橋女史というのが、この企画の大きな障害となる。
 わが社の化粧品部門における生産ラインは、すべてこの女帝高橋に握られている。
 自分の気に食わないものは絶対商品化させない。
 化粧品部門がこの女帝に握られているのだから、わが社の収益の大部分を握られていると言ってもいい。
「逆に言うと高橋女史を頷かせれば、事はスムーズに運ぶってことっすよね。」
 村田は誇らしげに語りだした。
「村田君、高橋取締役と言いなさい。あとその若者言葉なんとかならんか、友達じゃないんだから。」
「はーい…。」
 部長の正論に皆笑いを堪えている。しかし村田は自分が笑いを取ったと勘違いし、しょげるどころかますます勢いづいてしまった。
「高橋取締役のおかげでうちの商品おばさん臭いってイメージありありじゃないですか。いい機会なんで若者向けに方向転換した方がいいと思うんですよね。」
 こういうときに能天気は無敵である。
 これまでにも幾度となく方向転換は叫ばれてきた。しかし社長夫人でもある女帝高橋がその度に立ちはだかってきたのである。
 たしかに熟年層の化粧品売上は堅い。似たような商品を新商品として発表すれば手堅い売上は維持できる。
「で、この企画を考えたということは、何かしら高橋取締役を説得できる算段でもあるんじゃないのかね?」
 部長の一言で、皆が一斉に沢木へ視線を送った。
「この企画を高橋取締役に直接持っていくつもりです。」
 一同は何かしらの奇策が沢木の口から出るのではないかと、期待していたのだろう。
 皆一様にがっかりした表情へと変わってしまった。
 そこへ沢木が続けた。
「私だけで行っても多分駄目なので、石田君と一緒に高橋取締役の説得に伺おうと思っています。」
 俺は唖然とした。

美女と野獣

 今日もまた誰かが笑う。
 俺の顔を見て笑うのだ。
 毎日毎日、鏡と顔を見合わせる俺は、この顔のどこに笑われる要素があるのか理解できない。
 世間一般から見て整った顔ではないかもしれない。
しかし、毎日すれ違う他人にクスクスと笑われるような顔立ちではない、と自分では思っている。
だが自分の認識とは異なる他人の認識によって、数々の嫌な思いをしてきたのは確かだ。
 物心ついたときから親を除いて大体の人間に笑われたり、からかわれたりした。
 中学に入ると壮絶なイジメにあった。それでも自分ではその原因が自分の顔であることなんて理解できなかった。
 高校生になっても彼女ができるどころか女子と話すことすらない。
俺の青春時代は限りなく白に近いほど色褪せたものだった。
 今も十分色褪せた毎日であることに変わりはない。
通勤電車が目的の駅に着くと、また新たに自分の顔を見て笑う人間に出くわす。会社に行けば女子社員が数人で固まりコソコソと笑う。
俺から言わせれば、そんなお前らこそ醜悪そのものだ。
「石田くん、おはよう。」
 いつものように出くわす薄笑いを(頭の中で)蹴飛ばしながら会社の廊下を歩いていると、背後から女性の声がした。
同じ部署の沢木ちづるだ。
彼女とはデスクが隣なので俺の顔にも免疫ができたのだろう。他の女子社員のようにあからさまに笑う様な真似はしない。
1年先輩で、男性社員が皆、声をそろえて賛辞を送る容姿である。
清潔感があり、彼女に微笑まれるといやな気持になる人間はいないだろう。
デスクが隣であることもあって、大した用もないのに彼女に声を掛けに来る男は山ほど見てきた。
「おはようございます。」
 俺は後ろをちらっと振り向き、ぼそっと挨拶だけしてすぐに自分の席に着く。昔からの習慣だ。 俺と話すことによって彼女に迷惑がかかってはいけない。
おそらく彼女は俺と正反対の人生を送ってきたに違いない。俺が味わってきた思いは、俺だけが味わえばいい。
俺の顔を笑わないでいてくれる恩返しともいうべきか、関わらないことしか俺にできることはないのだ。
「沢木さん、おはよう。」
 俺の隣に座る沢木に向かって次々と挨拶が飛んでくる。皆一様に笑顔だ。
俺に向けられる薄笑いとは違う。
彼女は俺とは異なる世界に生きている。
「今日の会議の資料、メールで送っておいたから、目を通しておいてね。」
「はい。」
「新しい商品が形になるかどうか、今日の会議にかかってるからね。昨日は結構頑張っちゃった。」
「そうですか。」
 もういいだろう。これ以上俺に気を遣わせないでくれ。
俺と沢木の間に会話が成立してしまったことで、周りから視線が注がれている。
俺は慌てて席を立った。トイレに行くふりをして部屋をでた。
沢木からしたら愛想のない後輩だとしか思わないだろう。
でもこれはあなたの為なんだ。俺なんかと関わってはいけない。
例えほんの些細な会話だとしても。

 沢木の提案は、会議室にいた全員を驚かせた。
 同時に全員が俺の方を見る。
 胃が収縮するのが分かるほど、キリキリと痛みを感じた。
 これまでの苦い経験から、一度に多数の視線を集めると吐き気がするのである。
「え…あの…。」
 言葉にしようにも、何を言っていいのか分からなかった。
「ほう。確かに石田君のこれまでの実績を考えると、高橋取締役にひと泡吹かせられるかもしれんな。」
 俺の言葉を遮るように部長が言った。部長の顔は大真面目である。
 沢木は俺をちらりと横目で見ると、雄弁に語りだした。
「石田君はこの部署に来る前、つまり店舗販売を担当していた時、わが社始まって以来の販売実績を叩きだしました。これについては部長もご存じですよね?」
 部長は黙って頷いた。
「以前から石田君の作る資料には目を引くものがありました。緻密なデータとそれから算出される正確な数値予測。石田君がこちらに来てからのわが社の販売実績は、すべてその数値どおりに推移しています。」
 うんうんと部長は頷き続ける。
 その他のメンバーも沢木の真剣な表情に引き込まれている。
「おそらくわが社始まって以来の店舗販売実績は、そのデータがあってのものだと考えます。そこで石田君にこの新商品について、リサーチから売上予測までしてもらい、確固たるデータをもって高橋取締役にお願いに上がろうと思うんです。」
 会議室は不思議な空気に包まれていた。
 沢木が考えていた策が、奇策などではなく正攻法であったという事に対する落胆。そしてその策の肝がこの俺であるという不安。
 皆一様に顔面にそれらの感情がにじみ出ている。
 発言の機会を逸した俺は、黙って聞いているしかなかった。
「どう?石田君。協力お願いできないかな?高橋取締役をぎゃふんと言わせてみたくない?」
 沢木が大見えを切ると、会議室がどっと笑いに包まれた。
 隣の席同士、笑顔で談笑が始まる。
「でも…。」
 俺が発言した瞬間、水を打ったように静まり返った。
「その…商品の企画について、あまり詳しく知らないので…。」
 俺はそもそもこの新企画にほとんど携わっていない。
 沢木の単独で立ち上げられた企画なのだ。いまさら協力してくれというのも都合のいい話ではないか。
 煮え切らない態度の俺を、部長はじっと見つめている。
「では部長としてお願いしよう。沢木君のサポートに回ってもらえないかね。もちろん君の抱えている仕事もこなしながらだから、大変だろうとは思うが…。」
 俺は断る理由を必死で考えた。
 この企画に携わる事が面倒だからではない。沢木に関わることになるのが一番怖かったのだ。
 俺と関わることで沢木ちずるには災厄が降りかかるのではないか。
 中学の時もそうだった。俺と一緒に日直になる女子は、その日からいじめられるのである。
 この部署にきて半年だが、これまでに俺を蔑む対象として扱わなかった彼女に嫌な思いをさせたくはない。
 ただ別の感情があるのも確かだ。この会議で、沢木が俺の名前を出した時の皆の表情が目に焼き付いている。
 女性である高橋取締役にこんな顔の男をぶつけて何になる。皆一様にそういう表情だった。
 もちろん仕事は顔ではないと思う。いや、思いたい。
 だから俺は今まで必死に頑張ってきた。
 店舗勤務の時だってそうだ。いろんな客に片っ端から声を掛けた。逃げられる人もいた。
 それでもくじけず、話を聞けた客の貴重な意見を吸い上げ、これまでの販売実績を参照しながら、顔と肌質を見ればどの化粧品をどういうメイクを施せばより美しくなれるのかが分かるほどになった。
「やってくれるね、石田君。」
 部長の声で我に返った。全員がクスクス笑いを堪えている。
「そんなに沢木先輩と仕事できるのがうれしいんすかぁ?」
 しばらくの間、なぜ村田が冷やかしてくるのかが理解できなかった。
 会議室にいる全員が笑いながら俺を見ている。
 
 俺は部長の言葉に頷きながら涙をこぼしていたのだ。
 沢木の協力要請を受けた瞬間から、ある思いを抱いていた。
 沢木は俺の作るデータを見ていてくれた。沢木だけではなく部長も俺の仕事を評価してくれている。
 俺の頑張りを認めてくれる人がいた。それを理解した瞬間に答えは決まっていたのだ。
「なんで泣いてるのかよくわかんないけど、これからのスケジュールを説明したいから、落ち着いたら教えて。」
そういって沢木はハンカチを差し出した。
「結構です。持ってますから。」
「うわっ、愛想なー。不安定っすか、石田さん。」
 村田の一言で、会議室がまた笑いに包まれた。俺は村田にも感謝した。
 俺の心の中には、なんとしても沢木の企画を通させるという強い決心が生まれていた。
 俺は今まで感じたことのない高揚感の中にいた。

忠犬

「石田君、昨日が締め切りのアンケート結果メールしとくね。データがまとまったら教えて欲しいんだけど、どれくらいでできそう?」
 あの会議以来、沢木と接する時間が格段に増えた。
 部署内で元々任されていた発注関係の仕事は午前中に済ませ、午後は沢木の企画につきあうようにスケジューリングしている。
 今まで一日かかっていた仕事を午前中に終わらせることができるようになったのが、自分でも信じられない。気の持ちようで、こうまで人は変われるものだろうか。
「今データを頂ければ、夕方にはお返しできると思います。」
「嘘!それは早いね。でも助かります。私も負けないように頑張ろう。」
 沢木と普通に会話をしている。
 もちろん仕事以外のことなど話せる訳はない。だが、その距離感が俺には心地よかった。
「ところで沢木さんが考えておられる資料は、あとどの様なものが必要なんでしょうか?」
「考えておられるって、そんなに堅い口調でなくてもいいよ。そうね、ターゲットにしようとしている年代の女の子の生の声とでもいうのかな。それが揃えば、大方準備完了ってとこかな。」
 ゴールは目の前であることが分かった。しかし、これが一番慎重に取り組まなければならない。
 生産から販売に至る過程のコストについては、予測データとして完成している。ただ販売予測データを信用できるものにするとなると、消費者からのニーズがどれほどのものか知らなくてはならない。
 価格を含めて、こういう化粧品が買いたいという生の声は、インターネットでのアンケート集計では実測できないだろう。
 そんなことを考えていると、村田がにやつきながらこちらに近寄って来るのが目に入った。
「石田さん、最近なんか機嫌いいっすね。」
 わざわざ何を言いに来ているんだこいつは。
「そ…そう?」
「って、みんな言ってますよ。」
「え?」
 俺は周りを見回した。すると慌てて顔を伏せる社員の白々しい姿が目に入った。
 直前までこちらを見ていたのが丸わかりだ。
「ちょっと村田君。何言ってるの。さっき部長にダメだしされてた資料の手直し終わったの?」
「あ、忘れてた。何時までに持って来いって言われてたかな。やっば、それすら思い出せね。」
 村田はペロッと舌を出して、自分の席に戻っていった。
 確かにあの意味不明号泣会議から、皆の俺を見る目が違う。
 これまでは蔑むような目であったのが、好奇の目に変わったのだ。どちらにせよ俺と他人には縮めることのできない距離が存在している。
 ただ村田に関しては、他の社員よりも俺に対する興味が強く湧いたらしく、事あるごとにちゃちゃを入れに来るようになった。
 まあ、それも沢木と会話したいだけのことだろうが…。
「沢木さん、消費者の生の声が欲しいとさっきおっしゃってましたよね。そのことでちょっと提案があるんですけど。」
「うん、なにかな?」
「村田君に街頭でアンケート取ってきてもらうのはどうでしょう?」
 沢木は俺の言葉を聞くと驚いた表情を見せたが、俺の意図に合点がいったらしく笑顔を返してきた。
「そうね。彼、うってつけだわ。」
 俺と沢木が村田に目をやると、村田は視線に気づいたらしく再びこちらに駆け寄ってきた。
「なんすか、ふたりとも。ほんとは俺ともっと話したかったんじゃないんですかー?」
「そうね、村田君に折り入ってお願いがあるの。聞いてくれるかな?」
 沢木は立ったままの村田を椅子に座ったまま見上げ、目をずっと見つめている。
 いわゆる上目づかいというやつだ。沢木のような女性からこんな頼み方をされれば、男はなんでもやってのけるだろう。
 村田も例外なく男であった。
 沢木を前にした村田の姿は、飼い主に尻尾を振って忠誠を誓う犬に見えてしょうがない。
「なんなりとお申し付けください。」
 村田は依頼内容を聞くまでもなく快諾したうえ、その身まで捧げる覚悟らしい。
 それにしても沢木は俺とは真逆だと痛感した瞬間だった。
 人が集まる人間というのは、お願いごとも自然にやってのけるのだ。

村田に街頭でのアンケート調査を依頼してからもう2日経つが、一向に進捗状況を報告してこない。というより村田はあれ以来、会社に顔を出していないのだ。
 一応部長からは村田を使う承諾は得ている。しかし、こうもあからさまに自分の仕事を放り出してしまうとは。でも俺には村田の気持ちがわからんでもなかった。自分を必要とされているという事実が、どれだけ気持ちを奮い立たせるものであるか、俺は最近体験したばかりだ。だが今日あたり部長にご機嫌伺いをした方がよさそうな雰囲気である。
「村田君、大丈夫かな?」
 沢木はぽつりと呟いた。
「彼なら女性からの食いつきもいいでしょうし、大丈夫だと思いますよ。」
 俺が言いだした手前、村田を信じるしかなかった。何より街頭で生身の女性に声を掛け、アンケートを取るなんて芸当は俺にはできっこない。その大役を引き受けてくれた村田を、俺が信じずに誰が信じよう。沢木が消費者の生の声を聞きたいと言ったとき、背筋が凍る思いであった。
「そうね、ちゃんと質問事項も資料として渡してあるし、気長に待とう。」
 すでに高橋取締役へ持っていく資料は、アンケート以外揃っていた。沢木の欲しがっていたデータは、すべて指示通りに俺がまとめ、試作品の方もリクエスト通りの品質のものが、先ほど宅配で送られてきた。あとはアンケート結果を添付して完了である。

 午後2時。発注はいつも通り午前中に完了している。いつもなら沢木の企画を手伝うところだが、それも終わっているのでやることが無い。村田がほったらかしているであろう仕事をやっておいてやろうか。そう考えていると、ガチャンという音とともにフロアのドアが勢いよく開いた。
「おはようございまーす。」
 村田が帰ってきたのだ。
「沢木さん。これ、頼まれてたやつっす。あとこれ、今日発売の期間限定アイス。石田さんもいりますか?」
 村田は沢木に分厚い紙の束を渡したあと、アイスを俺と沢木に配り、自分の分であろうカップアイスに手を付けようとしている。
「おかえりなさい。ていうかこの2日なんで会社に顔出さないの?みんな心配してたんだよ。」
 沢木は部長の方をちらちら見ながら、村田に貰ったアイスに手をつけた。
「あ、おいしい。」
「でしょ?さすが沢木さん、舌が肥えていらっしゃる。あれ、石田さん食べないんすか?」
 村田も村田だが、沢木も大概である。女性は甘いものに弱いという話を聞いたことがあるが、今はそれどころではないだろう。部長もこちらの様子をうかがっている。村田が真っ先に行くべきところは部長の所だ。
「いや…その…村田君、お疲れ様。協力してくれてありがとう。あの…先に部長の所に行った方がいいんじゃないかな?」
「そうっすね。ちょっと挨拶だけしてきます。」
 村田はそういうと部長の席に向かって行った。
 俺は村田がわざわざ買ってきてくれたアイスを無駄にしないよう、買い物袋に手を伸ばすと、袋の隣に何百枚というアンケート結果があるのに気づいた。
「ちょっと沢木さん、これ。」
「ん?」
 アンケート結果の枚数を見て驚愕した。依頼した件数は100件程度であった。それに対して村田はその何倍もの集計結果を持ち帰ってきたのだ。沢木はその資料を手に取ると、部長の席にすっ飛んで行った。慌てて俺もついていくことにした。
「部長、お取り込み中すみません。村田君、これ何件あるの?」
 村田に部署内の視線が集まっていた。
「1000件くらいじゃないっすか。途中から数えるのやめたんで。」
「すごい。内容も全項目すべて詳細に書き込まれてる。たった二日でこんなにも…。」
 沢木は小躍りしそうな様子である。確かにこれだけ詳細な消費者の意見があれば、沢木の企画だけでなく今後の商品計画にも活用できる。
「あの、これはなんですか?」
 俺はアンケート一枚一枚の裏に写真が貼ってあるのに気づいた。
「ああ、これアンケート書いてくれた子と撮った写真っす。アンケート対象者のメイクの特徴も書くとこあったでしょ。あれ、面倒なんで写メっちゃいました。スンマセン。」
 最高のデータだ。ターゲットにしている年代の子たちがどのような傾向にあるか、一目瞭然である。
「ありがとう、村田君。部長、ここは沢木さんと僕に免じて村田君をとがめないでやってください。彼に協力を依頼したのはこの僕なので…。」
俺が頭を下げるのと同時に、沢木も頭を下げた。
「そうだな。じゃあ村田君、さっきも言ったが、ああいうものはまず先に私の所へ持ってきなさい。いいね?」
「はい、了解です。」
「かしこまりましたでしょ。」
「はーい。」
 沢木の指摘も、村田は気にかけることなくへらへら笑っていた。

「村田君、部長になんて怒られてたの?」
 沢木は自分の企画のせいで後輩が無茶したことを気にしていたのだろう。
「ああ、あれっすか。なんで自分の分のアイスが無いんだって言ってました。今日発売なんで、帰りに買うの楽しみにしてたらしいっす。」
「え?」
 沢木と俺は顔を見合わせた。

 村田が集めてきた街頭アンケートの結果と、沢木がインターネットで集計した結果に多少の違いがあったものの、大方、沢木の予測通りのデータが得られた。
 高橋取締役へ持っていく資料は膨大な量になったが、量だけではなく質の方も部長から太鼓判が押された。
「いよいよね。」
 沢木と俺は部署内の会議室にいた。
 ついに高橋取締役に直談判する時が来たのだ。
 部長が俺達を高橋の所へ出向かせると秘書に伝えたらしいのだが、どういうわけかわざわざ向こうから出向いてくれることになったのだ。
 重役連中の部屋は決まって最上階にずらりと並んでいる。あのフロアに入らなくて良くなっただけでも良しとせねば。
「来た。」
 部署のドアが開き、秘書と思われる男性を引き連れてカツカツとフロアを闊歩してくる。
 部署内の全社員が立ち上がり、深く頭を下げて高橋取締役が通り過ぎるのを待つ。
 すごい威圧感である。
 だが、どこか妖艶な雰囲気も感じられる。顔立ちは典型的な美人といったところだろうか。男性社員の中でも彼女の美しさは評判で、もう10歳若ければ、というフレーズを何度か聞いたことがある。
 余計なことを考えているうちに高橋が会議室のドアに手を掛けた。瞬時に緊張が走る。
 俺と沢木は席を立ち、直立不動で高橋を迎えた。
「待たせて悪かったわね。」
「こちらこそ、わざわざ取締役の方からおいで頂きまして、恐縮致しております。」
 沢木が一礼したのに合わせ、俺も深く頭を下げた。
「どうぞ、お座りになって。じゃあ新企画の商品について、さっそく聞かせてもらえるかしら。」
「はい、ではまず概要から説明させて頂きます。」

 沢木のプレゼンは膨大な資料の割には早い時間で終了した。
 途中、高橋から質問などは一切なく、彼女はただ黙々と資料に目を通すのみであった。プレゼンが終わった後も資料を読み返している。
 会議室は無言のまま時が過ぎていく。
 外からは部署内の全員が横目で会議室の様子を窺っているのが丸見えである。
 そんな中、高橋が沈黙を破った。
「このデータあなたがまとめたの?」
 視線は俺の方を向いている。俺は高橋の目を見た。
 なんと澄んだ目をしているのだろう。周りの評判や噂話から畏怖の念を植えつけられていたが、一瞬にしてそのような観念は打ち砕かれた。引き込まれるような目力であった。
 沢木の魅力とはまた違うものである。沢木の場合は、この子を助けてあげたいと思わせるものであるが、高橋にはこの人に認められたいという感情を湧き起こさせる。
「はい、私が主にデータ処理を担当させて頂きました。」
「そう、君が噂の石田君か。」
 そう言ったきり高橋は再び資料に目を通し始めた。
 それよりも“噂の”とは一体どういうことだろうか。
 やはりこの醜い容姿は、上のフロアでも話のネタになっているのだろう。これまで沢木と(ついでに村田も)一緒に頑張ってきた企画が、俺の容姿で悪い結果になるのではないかという不安が押し寄せてきた。
 ここ数日、沢木と普通に接していたおかげで、容姿に関するネガティブな感情は薄れていたのに…。

「いいわ、すぐにこの資料通りの数量を市場に回せるよう、生産ラインに発注かけて頂戴。」
「え?」
 高橋の言葉が唐突過ぎて一瞬理解できなかった。
「あとこの仕様だと主要都市にある百貨店には向いてないから、首都圏のドラッグストアで展開すること。いいわね?」
 沢木は満面の笑みで俺の方を振り返った。
 やはりそうだ。この企画にゴーサインが出たのだ。
「ありがとうございます。仰せのとおりにさせて頂きます。」
 俺と沢木は勢いよく立ち上がり、深々と頭を下げた。
「あと石田君、56ページと134ページのグラフだけど、印象操作だけの為に資料を盛るのはやめなさい。私に提出する資料は今後数値だけでよろしい。視覚に訴えようなどと姑息なことはしないこと。いいわね?」
 そう言うと高橋は立ち上がり、それと同時に秘書がドアを開いた。ほのかな香水の匂いとともに高橋は会議室を後にした。
「沢木君、どうだった?」
 部長は高橋取締役がエレベーターに乗るのを見送った後、会議室に飛び込んできた。
「通りましたよ、この企画!」
 沢木の言葉に部署は湧きたった。部長は安堵の表情を浮かべ、今にも泣き出しそうである。

 高橋取締役が部署を後にしてから、すぐに発注の準備にかかるよう部長から指示が飛んだ。
 単に発注を生産ラインに依頼するといっても、いくらか面倒な工程をこなさなければならない。
 そのため、部長は沢木の企画に参加するよう、部署内から2人ほど人手を回してくれた。
 もちろん村田もその内の一人だ。今後この企画を進めていく4人は、これからのスケジュールを話し合うため会議室に集まっていた。
「えー本日は私が立ち上げた企画にご賛同頂きまして誠にありがとうございます。」
 村田は席に着くなり彼なりの冗談を披露したが、誰も反応しなかった。
「ちょっと!場の雰囲気を和ませようとしただけじゃないすか。」
「ありがとう、村田君。では改めて今後のスケジュールを決めていきましょう。」
 沢木がにっこりとほほ笑むと、村田はそれだけで満足したのか、えらく上機嫌になった。
「その前に、杉野さんを紹介させて。石田君は彼女と喋ったことないでしょう。」
 新しくこの企画に参加することになったのは、杉野という女性社員だ。
 眼鏡に長い黒髪、顔は常にうつむき加減で、誰かとつるんでいるのを見かけたことが無い。俺がこちらにきて最初に目を引いたのが彼女だった。
 どこか自分に重なるところがある。容姿うんぬんではなく、極度のネガティブ思考なのではないか。そういった印象を受けたのだ。
「はじめまして。とはいっても同じフロアだから顔は合わせてますね。よろしくお願いします。」
「は…はい、こちらこそ、よ…よろしくお願いします。」
 大丈夫かな、この子は…。ひどく緊張しているらしい。
 俺も初めて話すわけで、緊張しているのは事実だった。だが以前とは緊張の度合いが違う。
 沢木と会話ができるようになって妙な自信がついてきている。俺のような容姿の男でも、沢木と対等に会話で来ているという事実が、以前のような謙虚さを失わせているのかもしれない。
「杉野さんは前に販促部で私とペアを組んでくれてたの。彼女の作るPR素材は一級品よ。」
 杉野は顔を真っ赤にしている。褒められ慣れていないのだろう。
「へえ、そうなんすね。俺もイメージビデオとか作ってもらおうかな。」
 部長、やはりこいつは要りません。沢木の作り笑いも限界が来ているようだ。
「じゃあ申し訳ないけど、年長者の特権でみんなにやってほしいことを割り振っていくわね。」

 沢木のスケジューリングは大したものだった。企画が通る前提で、その先のことまで計画していたようにしか思えないほどであった。各人の能力を把握し、できることとできないことがうまく振り分けられていた。
「以上かな。どう?難しそうな人は言って欲しいんだけど…。」
 誰もできないとは言わなかった。完璧な割り振りである。
「すごいっすね。さっきプレゼン終わったばっかでしょ?そん時からこんなこと考えてたんすね。」
 村田も俺と同じことを感じていた。沢木はやはりこの企画が通る絶対の自信を持っていたのだ。
 企画が通ることを見越して、その先も考えていたと言うしかないだろう。
「よし、今日なんだけど祝勝会なんてどうかな?部長や他に企画を手伝ってくれた人も一緒にパーっと…どう?」
 沢木の提案に村田は目を輝かせていた。
「いいともー!今日だけじゃなく、毎日やっちゃいましょう!」
 村田のテンションと真逆のリアクションを取ったのは、俺と杉野だった。
 俺は会社の飲み会に参加したことが無い。というより声がかかったことが無かったのだ。
 俺も他人を敬遠していたが、他人も俺のことを敬遠していた。人付き合いは最低限でいいのだ。
 おそらく杉野も同じような考えの持ち主に違いない。そんな杉野が口を開いた。
「石田さんが参加されるなら…。」
 おいおい、この女はなんてことを言ってくれるんだ。という事は俺が行かないと杉野も行かないことになる。
 空気が悪くなること必至だ。それに俺はこの顔で街中を歩きたくない。飲み屋なんぞに行ってしまったら、店内の連中の自分に対するヒソヒソ話を目の当たりにしなければならないのだ。
 考えただけでもゾッとする。そんな思いは通勤時だけでいい。
「俺は…ちょっと野暮用が…。」
「石田さんと酒飲むの初めてっすね。結構強そうっすよね、お酒。」
 もう参加することになっている。

石田は生まれてからというもの、自分の顔のせいで満たされない人生を歩んできた。そしてこれからもそういう人生が続いていくものだと思っていた。 しかし、社内での人気№1である沢木ちずるの些細な一言で、石田の人生は大きく変わりはじめる。 ※他サイト(小説家になろう)重複投稿作品

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 青天の霹靂
  2. 美女と野獣
  3. 忠犬
  4. 5