MAMA

ふと重い瞼をあけると、マグカップの取っ手をパンチする猫が見えた。

飲みかけのコーヒーの入ったマグカップが、半回転して微かに傾き、
もちなおして机の上でゴトンと鳴った。

寝ぼけた頭で状況を推理したところ、
すこし舐めてみて、思いのほか苦かったのに驚いたのだろう、
と結論が出た。

この猫は、ミルクたっぷりのコーヒーが好きなのだ。

私が毛布にくるまってうたた寝をしていた隙に、
机の上でいたずらをしていたらしい。

積んでいた書類が無残に床にちらばり、
溜まった仕事の進捗がリセットされた気分になった。

のびをして時計を見ると、午後7時を指している。

あたまが痛い。

眠気が抜けきらない頭でテレビをつけると、
ニュースで最近話題になっていた殺人事件の続報を伝えていた。

犯人は被害者の母親。

事故で植物状態になった息子の呼吸器を止めて、殺してしまったのだという。
母親は76歳。息子は50歳。

アナウンサーに話をふられたコメンテーターは、
「本来であれば、自分が介護を受ける立場であってもおかしくない年齢だ」
と、犯人である母親に同情の声を寄せていた。

年老いた母親一人での介護だ。
将来を憂いての犯行だったのだろうか。

ふと、自分を息子に重ねて、
少しの間、呼吸を止めてみる。

たった数秒で苦しくなる。

眼を閉じると、シトシト雨が降る音が聞こえた。

耐え切れず息を ひゅっ と吸うと、部屋の湿った匂いが鼻をつく。

もしかしたら、家に篭りきりの自分も、
世間から見れば、植物状態のようなものかもしれない。

生きてるぞ!   と、頭の中で叫ぶ。

当然、叫びは誰にも届かない。

もし、被害者の息子に、本当は意識があって、
自分の思いを他人に伝えられないだけだったとしたら、と想像する。

呼吸を止められた瞬間、何を思っただろう。

助けを求めただろうか。
ああ、やっとか、と思っただろうか。

自分の息を止めるのが、母親だと気付いただろうか。

目の前の人間に意思を伝えられないのは苦しい。
それは、伝える人間が居ないのと、どちらが苦しいのだろうか。

猫の ニャーン、という餌の催促の鳴き声で、
現実に引き戻される。

少し間をおいたあと、
私も、ニャーン、と鳴いてみた。

猫がキョトンとした顔で、見つめてくる。

私には、餌をくれる母親も彼女もいないんだよ、
と独りごちる。

猫は、甘えるように足にまとわりついた。

そうだ、 明日雨が上がったら、外へ行こう。
青空の下で、散歩しよう。

絵を描こう。

この世界のディティールを、しっかり目に焼き付けて、記録するのだ。
コレクションを増やして、この部屋に生気を沢山持ち込もう。

猫が、もう一度催促に ミャーンと鳴く。

私は、テレビを消して、スリッパを履いた。

猫に餌をあげたら、
久しぶりに遠方に住む友人に電話して、
飲みの誘いでもしてみよう、と思う。

MAMA

MAMA

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-11

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