愛と呼べる日

まるで沖に向かって泳ぐ様にして私はただ真っ直ぐ歩いてきた。
もう、喉元まできた水は冷たく、顎先に触れると現実と夢を神経の中の心の破片が右往左往する。
足などとうに底には触れていない。
向かい来る波を掻き分けてただ真っ直ぐ、総てが浸かるまであと少し。
私を無情ながらも、綺麗に包み込んでくれたことに少し安堵しながらも必死に繰り返す。
愛を海に還すその行為を愛でている私はきっと、生粋の変態なのだろう。

愛は祈りだ。僕は祈る。そんな本があった。

海の青は
いつも正しかった。
成れない悔しさに
抗い続けたわたしは
森の緑にサヨナラをした。

私の話〜杏子〜

眠りから覚めると、いつもと変わらない景色が雪のようにふわりと眼窩に落ちてくる。
無造作ながらも規則的に干された洗濯物と、開けっ放しのクローゼット、左には殺風景にも程があるリビング。
アラーム音を身体中で反芻しながら、今日も今日を迎えてしまったことに憤りとほんの小さなやる気を噛み締める。

「おはよう。」『ワンッ(おはよう!)』
十八歳の時、衝動買いしたポメラニアンは今年で六歳になった。
口周りに増えてきた白い髭は、私が生きてきた年月をも表す。

手早く身支度を済ませ、なかなかやめられない煙草を一本吸い終えると私は今日も街の喧騒に溶けていくべく、連なった鉄の塊に身を任せる。サブバッグの中から文庫本を取り出し、一つ息を吐く。

あなたがここにいない冬を静かに迎える。
あれから、もう季節は二周した。
街の匂いも、人の装いも、何もかもが様変わりし、夏など忘れてしまったかのように身を縮めながら足早に歩くその群れから、私は一刻も早く抜け出したいと更にその足を早める。流れる景色は、まるで私が生きてきた人生のようだ。ただ流れて、私はいつの間にか母が私を産んだ歳に追い付いた。
いつもと同じように、いつもと同じ商店街を歩く。ふと、右側にあるショップに目が止まる。
鮮やかな青と、これまた鮮やかな緑。儚げなオレンジ。革製の色とりどりの財布やバッグがさっきまで私が乗っていた地下鉄の中のようにすし詰めに置いてある。興味本位で値段を盗み見る。捲った札をさり気なく戻す。
「…0一個多いっつーの」
作り物みたいに笑うおばちゃんには聞こえないようにマフラーに埋もれて呟いてみた。
私自身はそこまで革が好きな訳ではない。
「…まだ、私はあなたに縛られているみたい」
派手な原色も好みではない。
「…あなたが私の色と好いてくれた色にも縛られているみたい」

彼が革を好きだったから私は好んだだけで、たまたま履いていたヒールの色やアクセサリーの色を『いい色だ。まるでお前みたいな色だね』と言ってくれたから嬉しくてその色ばかり選ぶようになってしまっただけだ。
本当に、ただそれだけだ。
本当に、なんて私は染まりやすい。

思い出すのは、いつだって正しさを振りかざした諸刃の剣のような彼の弱さと、その弱さを強さだと信じて疑わなかった私の不安定な綿のような弱さだ。

彼にどうしようもなく惹かれた理由に、彼の不安定さが大分影響していると思う。風に吹かれただけで飛ばされそうな、そういう危うさがある。
それでも僕は正当な人生を歩んできた、そう思わせる術に長けており、誰も彼の闇に気づいていない。
だけど私には見せてくれた。その泣き出しそうな子供のような顔を。

誰にも僕の核には触れさせまいと気丈に振る舞いながらも、時々助けて欲しいと言わんばかりに私を抱きしめる。だからもうどうしようもなく胸が張り裂けそうで、あなたを守るためならこの肉が裂けようと、拷問にだってかかってもいいと、そんな風に私は愛の土台をあの日作った。

綺麗に形取られたフェイスライン。
滅多に荒れない大きな唇。
あの頃は上手く上がらなかった口角。
小さな胸の割に重たい身体。
大きなお尻と広い骨盤。
たくさんある語彙の引き出しから惜しげもなく言葉を吐き出す。
感情を正確に言葉にし、時には酷い罵声を浴びせ、時には叱咤激励をしてくれた。

卑屈で意地っ張りでどうしようもない私。あなたみたいになりたい、そう思ったのが恋のきっかけだったのに。
私を傷つけたんだからこれは制裁です、と言わんばかりにあなたを何度も傷つけてしまった。
あの時あなたは泣いていた。
それでも私の全てを受け入れてくれたあなたは愚かな男だ。なんて愚かでなんて愛しい。

些細な行き違いをわざと拗らせて何度となく私は別れたいと言った。
終わらせたかったのだ。愛の呪縛から逃れたかった。
しかもそれは、二人で時間をかけて丹念に作り上げた愛ではない。
当時の私の愛は許すことで、失うことより許して苦しむほうがまだ私は幸せだった。
でももう、許したくなかったのだ。十分過ぎるほど、私は彼を許し続けてきたのだから。
信じたい、でも信じられない。
許したい、でも許せない。
彼のまわりには女性が絶えなかった。普通の女なら許しかねる過ちを数えきれないほど繰り返してきた。迎えに来ると言いながら何十分も駅に放置なんてザラだった。更には同棲の当日、荷物を運搬するギリギリまで別の女の子といた。勿論、同棲中も。
ある日その数々に気づいてしまってからの日々は、許すことに全エネルギーを使ってきた。だって、帰ってくるのは私のところだから。最終的に私の腕の中で眠るのだからと。
それでも限界などとうの昔に超えていて、《過去は過去。大事なのは今だから。》などと言えるほど、もう私の心は大人になりたいとは言わなかった。
そばにいて傷つくことと、離れて傷つくことを天秤にかけていつも後者を選び、決まって彼はこう言った。

『間違えてるとは思わないのかね?』

私はこの頃、自分の間違い探しを繰り返す日々だった。私があるべき姿と、現実の私。
矛盾を感じながらも、やっぱり私にとっては彼が正義で、その正義に従うことに少しの快感を覚えていたことは確かだった。そしていつまでもこの間違い探しは続くと思っていた。最終的に間違いを全部見つけられたら、彼と一つになれるような気がしていた。

『なんでお前はいつも逃げようとすんの?
登ったり、落ちたり、躓いたり、喧嘩したり。そうやっていってさ、今は多分1番落ちてるとこ。』
『でも、ただそばにいるだけでいいってなるはずなんだけどなあ。なんでそこからいつも逃げるんだね?』
『愛は輝いてて、そこにいなさいって言うのに。俺のいない世界に何の用事もないはずなのに』
『ほら、間違いは正さなきゃ進めない。お前はそれに関してすごく早く見つけることが出来るようになった。だからほら、言わなきゃいけないのはありがとうでもごめんなさいでも愛してるでもないよ
そばにいたい、だよ
そばにいて、だよ。』

彼は、言葉に癖のある人だった。
彼は、声の美しい人だった。
彼は、海の青を好んだ。

私は、十八の夏、彼に恋をした。
私は、二十一の夏、彼に二度目の恋をした。
私は、森の緑を好んだ。

冬でも枯れない花は悟り導く

「ねえ、さっきの続きだけどさあ」
彼氏とうまくいっていない様子の同僚の由希は、いつにも増して哲学的なことを聞いてきた。私たちはいつもそう。この類の話は勤務中でもおかまいなしだ。
「うん、恋と愛の大きな違いね。きっと、この人の為に死んでもいいと思えるかと、この人の為に死ねないと思えるか、じゃないかなあ」
「どういうこと?よくわかんないそれ」
「私は柊を残しては死ねないと思う。だから自信を持ってこの気持ちを愛といえる。君の為に死ねるだなんて偽善者もいいとこだって。一人にするほうが無責任じゃん?それなら二人とも死ねばいい」
「…またぶっとんだこと言ってるし」

…いや、そのくらいのネタを振ってきたのはお前だ。
揶揄として、死ねるぐらい好き、というのはある程度美しいけれど、相手に対しての核がそんなにない。
ようは言ってる側の自己満足が殆どだと私は思う。

「私なら綾波レイの真似してあなたは死なないわ、わたしが守るもの。って言ってね」
「なにそれ(笑)」
「でも私も死なないわ、あなたが守るもの。って言ってね」
「うわーマジか」
「二人の愛の形を考える」
「いやいや、どっちかしか生きれませんってなったらどうすんの」
「んー、私はきっと柊に生きてって言うかな」
「いやそれこそ偽善ー!」
ヒッヒッヒと小さい八重歯を剥き出しにして笑う。由希はいつもテンションが上がると笑い方が気持ち悪い。
「でもきっと柊も私に生きてって言うと思うんだよね」
「…なにそれなにその譲り合い」
でもきっと柊ならそう言うのだ。
「でもそれはどっちも酷じゃん?だからもしかしたら気が動転してじゃあ一緒に死んでと請うやもしれませんなあ」
「おおお、急に危ない発言」
「うん、やっぱり柊もそうやって言いそうな気がしてきた」
「てか柊柊言うから違和感なく普通に話聞いてたけどさ、もう波多くんとは別れてるんだよね?」
「うん、別れてるよ」
「まさかあんたと波多くんが本当に終わるとは思ってなかったわ。もったいな」
「それどっちに言ってんの?柊?私?」
「んー、どっちもだな」
すいませーん、と少し苛々した様子の声が耳に飛び込んでくる。
「はーい!お伺いいたします!」
「やっば、お客さんいるの忘れてた」
またヒッヒッヒと言いながら由希は八重歯を光らせた。

「うん、別れてるよ、物理的にはね」
誰に言うでもなく、私は漏らした。

営業スマイルを辺りに振り撒き、由希が足早に戻ってくる。
「アメリカン一つ。単品でーす」
「了解ー」
「あ、ミルクはいらないってさ。砂糖も」
「あいよー」

「そういえばさ、波多くんとの出会いってどんな感じだったの?付き合ってる最中の波乱万丈な話はたくさん聞いてきたけど、なれそめって聞いたことない」
「まあまあ、とりあえずこれ先に持って行って」
「ふぇーい」

コーヒーの香り。空気が一瞬マーブル模様になるこの感じが好きだ。

「おまたせ!さあどうぞ!」
「期待するほどのもんじゃないよ。…ギターを弾いて歌っていたの。ちょうど三丁目のところで」
「この商店街の?」
「そう。十八の時近くのドラッグストアでバイトしててさ、凄いかっこよくて一目惚れして帰りによく聴きに行ったの」
「メジャーデビュー目指してます!的な?」
「うーん、当時はどうだったんだろう…多分そうだったんじゃないかな。そのうちに就職が決まって聴きに行くこともなくなってさ。実は存在すらずっと忘れてたんだけど、二十一の時たまたま地元のお祭りにゲストで歌いにきたの」
「ふぇー!それで再会したんだ。向こうは覚えてた?」
「んや全然(笑)昔ファンでしたーって話から、SNSで繋がって、連絡先交換して、少しずつ距離詰めてった感じ」
「それでまさかのトントン拍子で付き合ったんですか?」
「そうなんです。トントン拍子で付き合いました」

やだーなにそれ運命の再会じゃん!やだー!と一人盛り上がる由希を横目に、私は当時のことを思い出してみた。
初めてメールした時のこと。初めて二人で会った時のこと。初めて彼に触れた時のこと。初めて彼を愛して苦しくなって泣いた明け方のこと。

「でもさあ、ミュージシャンと付き合うって大変だったでしょ。…いや、今まで聞いた限りでは相当大変だったみたいだし」
「そりゃね。ようは私みたいな女の子がたくさんいる訳だし」
「ギター弾けて歌うまいってだけで相当ポイント高いもんなあ。なんかよかった、あいつモテないしチビだし音痴で。あとで電話して謝ろっと」
「なにそれ(笑)」
「いやマジだって。私ならもっと早く終わってたと思うもん。だってこの間聞いた話なんて私殺しに行こうと思ったくらいだよ。うーん、これぞ愛だねえ」
感慨深そうに由希がうーんと繰り返す。
「うん、愛だったよ。ただそばにいたい、それだけで私は動いてた」

そう。
「あとね由希、柊はミュージシャンじゃなくて、アーティストだったの」

そう。彼は最後までアーティストだった。


愛は祈りだ。だからわたしは祈る。


穏やかな明日へも
燦めくあの日へも

愛は願いだ。たからひとは願う。

永遠などないと知りながら
それでも、それでも

愛は願いだ。だからひとは願う。

簡単には見つけられない
気づくことの出来ないものだから
まるで崇めるように
見つけてしまったら最後
無心で願うものだ

愛は光だ。だからすぐそこにある。
みなその儚すぎる速さに
ついて行けていないだけだ。

左様ならば仕方がない

私は柊が大好きだった。
ドラマのワンシーンのように始まった私たちの恋は、二人のそれぞれに対する恋が愛になるまでの時差によって壊れてしまった。
浮気なんて日常茶飯事で、嘘じゃないことのほうが少なくて、お金も時間もなかった柊が私にくれたのは言葉と温度だった。私が欲しかったのは柊、あなた自身が欲しかった。手を繋いで街を歩きたかっただけ。普通の恋人同士のように寄り添いたかっただけ。でもそれが柊の夢の邪魔をすることは百も承知だったからこそ、一線を越えて願った私はもうそばにいてはいけないと思ったのだ。
私は柊の歌う姿が大好きだった。四方八方どこから観ても美しい。でも一番好きだったのは、二人で暮らす家の、家賃の割に立派なバスルームから聴こえてくる歌声をキッチンに立ちながら聴くこと。その次は二人で歩いているときに聴こえるか聴こえないか絶妙な大きさで口遊む子守唄みたいな歌声を聴くこと。
どちらも私だけが聴けるスペシャルライブ。
ただ、それだけで良かったはずなのに、私は求めた。何度も求めた。
その度に自分の底知れぬ欲深さに傷付き、そして切り出した。あの夜も。

「もう別れよう。それが私にとっても柊の未来にとっても一番いいんだって」
もう、これが何度目の別れ話か覚えていない。
「違うんだってそれが。間違えてんだってそれが。」
「違わないんだって。多分私は柊のことに関しては本当に冷静に動けなくなるから。いつか取り返しのつかないことになる前に終わらせたほうがいいよ。柊の未来を台無しにする前に」
「じゃあもう、それでいい。失敗したら、一緒に死んでくれ。それだけの覚悟で、俺はお前を選ぶ」
「違う…違うんだよ柊…ごめんね、たくさんの幸せをくれてありがとう」
「ごめんねじゃないの。お前はいつも間違える。でもお互い様だ。間違えたら俺がちゃんと正してあげるから、俺が間違えたらお前が正すんだ。これまでみたいに。」
「柊はもう大丈夫。自分で間違いに気付けるし、私がいなくても歩いてだってもう走ってだってゆけるよ」
「そんなことないよ。お前がいなきゃ駄目なんだ。歩けないし走れない、今はっきりわかったんだ。そうやって別れることが正しいと思わないで、お願いだから」
「心はいつもそばに。愛は真ん中に。芯は真っ直ぐに。ただ、触れられないだけだよ」
「間違いを正しなさい。触れられなければ、意味がない」
「心に触れてね」
「…結婚したいなんて、俺に一生ついてくる覚悟を決めたなんて嘘だったんだろ」
「違う嘘なんかじゃない」
「じゃあなんですぐ別れるって結論になんの?お前は覚悟してるようでしてないんだよ。身を引くことが正しいなんて理論はやめろ。俺の為にそばにいながら出来ることを考えなきゃいけないでしょ」
「…柊の心も、自分の心も壊しながら…?」
そう聞きながら、壊れそうなのは私の理性のほうだった。
私の愛を蔑ろにしてきたのは柊のほうだ。それを今更、やっと愛に気づいたからそばにいて欲しいなんて都合が良すぎる。じゃあ何故、私が直向きに愛を注ぎ続けたあの日々の中で気づいてくれなかったの。何故、私がひたすらに許し続けたあの日々の中で気づいてくれなかったの。
「そう、二人が、壊しながら壊れながら在るべき形になっていくのが結婚だよ。それはマイナスに見えるけどプラスなんだよ。辛くて、苦しくて、でも楽しくて幸せな明日はこの人がいないと成り立たないと理解して、壊すのはその上で行う作業なんだよ。…なんでそこから逃げるの?」
「だから逃げてな…」
「逃げてないって言うかもしれないけど、それは逃げてるのと同義だよ。俺の両親とお前の両親が離婚したのも、気持ちを相手にぶつけて話し合うことをしなかったからだ。どれだけ好きでも、言葉がなければどうしようもない。どれだけ愛していても、抱きしめなければ伝わらん。なあ、愛しているなら、全てを乗り越えられる筈なんだよ。だから俺のいない人生に何の用事があるんだ、そう聞いているんだよ」
もう
「もう、さよならだよ柊。」
「さよならって…なあ。もう終わりって意味なんだよ?わかってんの?それを言ってしまったら全てが終わるんだ。俺たちの全てが」
「ううん、違うよ柊。さよならは、左様ならば仕方がないって意味なんだ」
もう、仕方がないんだ。私たちがこうなってしまったのも。
「仕方がないって…?それは正しいのか?」
柊、わかって。
「なあ、それは間違えてないのかって…お前のその愛は正しいのかって」

「なあ、杏子」

そうだね、いつもそうだったね。
でも柊、正しいことはいつでも正しい訳じゃないし、間違いはいつでも間違いではないんだよ。私はそのことに、柊よりほんの少し早く気づいてしまっただけなんだ。

「別にごめんなさいとありがとうを繰り返してまっすぐに俺を愛せば変わるものを、わざわざ手放さなきゃきっと気づけないだろうから、左様ならば仕方がないね。さよなら。がんばろうねお互いに」

ほんの少しの私の沈黙を、柊が見逃す訳がない。立場はすでに逆転しているのだ。前なら私が柊を失わないことに全身全霊をかけた。今では柊が同じように私を引き止める。

「さっさと謝りなさいな。間違えてごめんなさいって。それだけでいいんだ。納得しなくていい、だけど理解しろ。俺がお前を誰より何より愛しているということを。分かったらさっさと言いなさいな」

「…ごめんなさい」
そう、答えはごめんなさいだ。

「そう、それでい…
「違うの。もう戻れない。ごめんなさい」

「頼りないし、お金も稼いできてないし、俺には何もないかもしれないけど、それでもそばにいたいんだよ」
「柊のいない人生に何の用事もないけれど、それでも私は生きていくよ」
「はあ…ちゃんと、ちゃんとしてくれ。愛してるよ杏子。もしこれから先、何があってもお前に愛がある限り、俺に愛がある限り、俺はお前を諦めない。必ず夢の果てまで連れて行って幸せに死ぬんだ。いいか、お前が何を言っても愛すのやーめたなんて出来ないんだ。それは俺の心の中に常にあるし生き続けてるけど、それが一番強く強くあるのはお前の手を握っている時だよ。お前のダメなところなんてどうとでもなる。何をしても何を言っても俺はお前を愛してる。俺もがんばるからお前も負けるな。いつだって正しい答えは、引き裂くように戦った先にあるから。負けるな自分に、俺に、過去に、負けるな。俺はお前を信じてる、何をなくしても、何を選んでも。だから戦え」

涙が頬を伝わないというのを経験したことがあるだろうか。
涙腺から生まれ、睫毛に絡まって溜まり、大きくなり過ぎた雫は、堪え切れなくなって外界へ飛び出す。
一つ、また一つと私の眼から愛がこぼれる。

「そうやって、一生戦うんだ。それが俺の選んだ道で、それが俺の愛の形。お願いだから別れるなんて言わないでくれよ。それが俺の為だなんて言わないでくれよ。俺の願いはお前に抱かれて死ぬことだ。身体だけではなく、心もぜーんぶ。だから俺はいつでも戦う。お前の為に俺の為に。これが俺の愛だ」

柊が、泣いている。愛に泣いている。

「ねえ、なんで神様は女に身籠る能力と産む力を授けたと思う?」
「さあ…なんで?」
「女は、愛情深い生き物だから。人間も動物も、愛だけで命を動かし繋げて生かすことが出来る」
「ふむ」
「でも男は、出産の痛みで死んでしまう。世界中の女は、愛だけでそれをこなすことが出来るの」
「…勝てないな」
「愛に生きれるのは、女の最大の強みね」
「ああ、素晴らしいよ」
「柊、愛しているよ。私は愛だけでこれまで動くことが出来た」
柊の顔が綻ぶ。
「これからもそうしてくれ。俺の側で」
小鳥みたいなキスをして、そっと抱き締めた柊の身体はいつもより小さく感じた。

こうして二、三日に渡る言い争いを乗り越えては、また泥んでしまう。それを短いスパンで何度も繰り返した。

その半月後、私と柊は本当の別れを迎えた。

月と太陽

「ごめん遅くなった!何も今日じゃなくてもよかったのに」
「いや、寄るところもあったし、俺もちょうど焼き鳥の気分だったから。行こう、荷物持つよ」

私は夏の終わりに恋をした。最初は寂しさと、ほんの少しのあてつけで。凌平は柊とは間逆で、まるで月と太陽のようだ。今日も太陽のように笑う。ひだまりのようにいつも優しい。
私たちは並んでカウンター席に座る。威勢のいい声や笑い声が飛び交い、ようやく一日の緊張を解くことが出来た。温かいおしぼりが水仕事で皹だらけの両手を包み込む。その感触に少し懐かしさを覚える。今日は平日ということもあり、比較的すぐ座れた。

「とりあえず生二つと砂肝、ハツ、つくね二本ずつ塩で!」
キンキンに冷えた生ビールがまるで私たちを待っていたかのようにすぐ運ばれてきた。
「かんぱーい!今日もお疲れ様」
「凌平もお疲れ」
「ねえ、もうすぐ二カ月でしょ。記念日には何が食べたい?どっか行きたいとこある?」
「うーん、週末だし多分遅くなるから、いつも通りでいいよ」
「じゃあカレーかラーメンになるよ?いいの?」
「いいの。どっちも好きだから。凌平、記念日だからってそんな背伸びすることないよ。高校生の恋愛じゃないんだから」
なにそれー、と少しつまらなそうに口を尖らせる。私はしばらくこの恋人同士の雰囲気というか、彼女として扱われることから遠ざかっていたせいか、凌平との関係をあまりうまく作れないでいる。
会話も途切れ微妙になってしまった空気に後方から美味しそうな匂いが混じってくる。
「おまたせいたしました!お先に砂肝とハツです」
「さ、きたよー!冷めないうちに食べないと固くなっちゃう。俺砂肝からー」
その雰囲気を一蹴するように凌平がテキパキと割り箸や取り皿を渡してくる。
「熱いよ!ふーふーするんだよ。俺してあげようか?」
「子どもじゃないんだから(笑)」
「ちゃーんとよく噛んでね」
「だから子どもじゃないってば」

凌平は優しい。優しさも柊とは間逆だ。凌平の優しさは春の木漏れ日のように温かい。柊の優しさは冬の晴れの日のように冷たかった。
何故間逆の凌平だったんだろう、と何度か考えてみたことがある。忘れたいからなのか、本来はこういう男性をタイプとしているからなのか。そしていつも答えは凌平側ではなく、柊側に着地する。

「失礼いたします。つくねでこざいます!」
フワッといい香りがする。段々とお腹が空いてきた。
「あー!!」
いきなり凌平が悔しそうな顔をして叫んだ。一体何事か。
「つくね…タレがよかった…」
「塩も鶏の味を楽しめると思えばアリでしょ」
「俺つくねとレバーはタレがいいんだよ」
たかがつくねにしょんぼりとした凌平を可愛らしく思う。落ち込んでるのかと思いきや、あとでまたつくねの気分になったらタレで食べようね、ともう気持ちを切り替えたようだ。
その後も他愛も無い話を肴に酒は進み、お腹も程よく満たされたところで時刻は午後十一時を回っていることに気づく。
「あ、もうすぐ出なきゃ」
「俺明日休みなんだよね、だから帰り送るよ。…というか泊まりに行ってもいいかな」
「あー…ごめんね、連勤で疲れてるから。今日は一人でゆっくり休みたい」
少し棘があったかな、と思いつつ、凌平の反応を見る。
「そうだよね、わかった。今日も疲れた顔してるしね。じゃあこれにてお開き!すいませーん!お会計お願いします!」
凌平は無理に私の生活のリズムに首を突っ込んでは来ない。多分相当色んなことを我慢させているだろうとは思うけれども、私自身がそのリズムを崩すと心のバランスが取れなくなるのだ。だから今日もすんなり帰路につけると思っていた。次に凌平が口を開くまでは。

「ねえ、俺と一緒にいたいとか、会いたいって思う?」
「どういうこと?」
「いつも俺から誘うからさ」
「うーん、正直に言うと、あんまり思わないというかなんというか…あんまり聞きたくない話だってのは分かってるんだけど、ほら前の人もその前の人も長く付き合ってたし同棲してたから一緒にいたいって思うこともそんなに無くてね。というよりいつもそばにいたからさ。だからこう…うまく言えないんだけど、男の人に対してその類の欲求を忘れてるというか…」
言いたいことがうまく伝えられない。もどかしい。
《思わない。》そう口が滑りそうになるのを必死に耐えた自分を心底どうかしてると思った。
「そっか。なんとなくわかった。今は少しだけ俺の一方通行みたいだね」
「そういう訳じゃないんだけど…」
「いいの分かってる。会いたくなったらすぐ言ってね。飛んで行くから」
「うん…」
「大丈夫、俺は好きだから」
そう言って少し斜め前を歩く。繋げない右手が手持ち無沙汰だ。もちろん盾を目の前に突き出したのは私だ。
俺は、に込められた憤りが私には分かる。でもごめんと謝るものでもない。だって私の心も生きているのだから。嘘を吐くよりはマシだ。
こんな帰り道は、駅に着くのも早い。
「じゃあね。すぐシャワーして髪乾かすんだよ」
「子どもじゃないから大丈夫。今日はありがとう。家ついたら連絡する」
「うん、気をつけてね」

改札を通る。まだ凌平は手を振っている。私は振り返らずともそれを背中で見ていた。
帰りの地下鉄で隣に一組のカップルが座ってきた。その仲睦まじい姿を見て、愛くるしく笑う彼女を見て、何故私は凌平にこんな風に普通に振る舞えないんだろう、と酒の影響もあってか軽く自己嫌悪に陥る。ヴヴヴ、と携帯が震える。恐らく凌平だ。私は見ることを躊躇った。
「普通にって…なあに?」
また私は隣に聞こえないようにマフラーに埋もれて呟く。普通ってなんだ。彼女って普通はどうあるべきなんだ。
正直私はそんなことを考えながら今まで誰かと付き合ってきたことがない。凌平だから特別考えてしまうのか、柊の後だからこうも考えてしまうのか。
「…あいしてないからだろ。」
マフラーの隙間から吐く息にほんのりラムが香った。

ねえ、柊。昔はこの地下鉄に乗ればあなたに会えた。あなたがいる家に帰れた。外では雨が降ろうが風が吹こうが、私は駅に着くのを心待ちにしていたよ。迎えに来ると言ったあなたが何故か一時間来なくたって、雪の降る中止まらない震えすら愛しく思いながら、私はあなたを待ったよ。

そんなことを久しぶりに想い更けながら、気づいたら眠っていた。

愛にまみれて

無くした保険証を探していたのに、無くしたブックマークを見つけた朝、ポストに入っていたもの。小さなお菓子と、疲労回復の栄養錠剤と、几帳面に包まれた現金。
みぞおちが震える感覚は何度も経験してきた。ふわりと内臓が浮く感覚。嬉しさと苦しさはどちらが多かっただろう。毎朝毎晩揺られている地下鉄の中でも私は座っている感覚すらなかった。柊は、どんな顔でどんな気持ちでこれをポストに毎月入れているのだろう。私の眠る部屋を見上げたりはするのだろうか…

仕事が終わったら凌平に別れを告げようと思っている。アルコールのせいで答えを無理やり導き出した訳ではない。思考回路は真っ直ぐ答えに繋がっていた。それをただ辿ってそこに辿り着いただけのことだ。今夜待ち受けるものを知らない凌平は、私のほうから誘ってくれたととても楽しみにしているのが伝わってくる。もう私の助走は始まっている。

「なになに、どしたの?」
「ん?なんで?」
「いやいやいやいや。おかしいよ今日」
「ああ、別れようと思って」

…なんてすんなり言えたら楽なのに。

いつもは十時間経つのが長くて仕方ないのに、こんな日はまるで時が意地悪しているとしか思えないくらいに早い。
『終わったら連絡してね!迎えに行くよ』
『多分九時半くらいかな。寒いからどこかお店入ってて!』
『俺が迎えに行きたいの。だから連絡してね』
こういうときの凌平は言い出したら聞かない。今までならほっこりした嬉しさと愛されてるということを嚙み締めるのに、今日はなんだかうんざりする。私はこの感覚を知っている。これは私が人を好きではなくなっていく時の感覚だ。ああ、閉店まであと一時間を切った。時の流れは無情だ。

「ねー今日早く終わりそうだし、飲んで帰らない?」
「ごめんね由希。今日予定あるんだ」
「なんですとー?!由希ちゃんより大事な予定ー?」
甘えた声で拗ねる。私が凌平にこんな風にしたら嘸かし喜ぶことだろう。
「何言ってんの。由希ちゃんが一番に決まってる!…じゃなくて、今日彼氏と会うの」
「彼氏…?え?波多くんと戻ったの?」
「違う違う、別の人」
「何それ全然聞いてない!(笑)え、いつから?」
「もうすぐ二カ月」
「言ってよー!デート?どこ行くの?どんな人?イケメン?」
「いっぺんに聞きすぎ!今日はね…なんと別れ話」
「別れ話かあ…って早くね?(笑)え、早くね?」
「やっぱり何か違ったんだよね。全然普通に出来ないの。大事にしてくれるし、浮気も多分しないだろうし、手に職もあるし、そこそこイケメンだとは思う」
「ならなんで?もったいないことばっかりするね。うちらももういい歳なんだよ?曲がり角だよ?もう気持ちは変わらないの?」
「変わらない。だって気づいちゃったんだよね。愛してないことに」
「愛してないとダメなの?ただ恋を楽しむのも大事なことだと思うよ。私だって彼氏のこと愛してる?って聞かれたら好きだけどやっぱりよく分からないもん」
「ううん、柊と過ごした時間で愛がどういうものか知ってるからもうそういう恋愛に戻れないの。凌平っていうんだけど、二人でいればいるほど痛感するの。ああ、私愛してないなって。凌平ばっかりが私を愛してくれるの」
「それでいいじゃん、愛されてなんぼだよ?まあ…言い出したら聞かない子だからもう何も言わないけど、後悔しないといいね」
「大丈夫。後悔は生きていれば必ずするもの。やっぱり私は非恋愛体質みたい」
「波多くんと出会う前みたいにもっとゆるく恋愛出来るようになればいいね。そもそも私が男だったらよかったのにね。そしたら杏子のことちゃんと分かってあげられるしまるごと全部愛してあげるのに」
「私も由希のことまるごとぜーんぶ愛してあげる」
ヒッヒッヒ、とまた今日も光る。
由希の八重歯が好きだ。由希がいなければ私は今こんな風に笑えなかっただろう。

「お先に失礼しまーす。お疲れ様でーす」
「終わったね今日も!もう迎えに来てるんでしょ?さあがんばれ!」
「うっす。行ってきます!」
「検討を祈る!」

裏通路から出ると、凌平が待っていた。
私を見つけて微笑む。この後何が起こるかも知らずに尚も微笑み続ける。こちらに向かって歩いてくる。私は今からこの笑顔を壊すのだ、その事実に喉の奥に何かが詰まる音を聞いた。

「お疲れ様。今日忙しかった?」
「全然、暇だった。わざわざこっちまで来なくてもよかったのに」
「だから俺が来たかったんだってば。待つの好きなの。だってこれから会えるって思ったらワクワクするでしょ?」
ああ、どうしてこうも言い出しにくくするんだ。とは言っても、凌平は知らないのだから仕方がない。
「お腹空いてる?実は俺昼メシ遅かったからあんまり空いてないんだ」
「うん、私もそんなに」
「じゃあお茶でもしながらお喋りしよう。俺が行ってみたかったカフェに連れて行くことにします!決定!」
「お、いいねえ。甘いもの食べたい」
「ランバンってカフェ行ったことある?調べた限りでは今風のオシャレなカフェっていうよりはどっちかというと喫茶店に近い感じなんだけど」
「ランバン?この通り曲がったところの小さいお店?」
「そーう!近いし、そこでいいかな?一回行ってみたかったんだ」

神は一体いくつの地雷を私の心に埋めたのだろう。
ランバンは、柊が好きだった喫茶店だ。

重たい木製の扉はあの頃と同じく鈍い音を立てた。見慣れた丸いテーブルと年季の入った椅子に小鳥がモチーフのシュガーポット。

「へえ、豆も買えるんだね。いい雰囲気だね」
一拍遅れてしまう。
「、いいね。何飲む?」
「カフェオレかなあ…カプチーノ…うーん。カフェオレのアイスにする!決めた?」
「うん、決まってるよ。すいませーん、カフェオレのアイスと、フレンチで。あとオレンジケーキ」
愛想のない店員は相変わらずだ。
「フレンチで。だってー!かっこいい。同い年なのに絶対杏子の方が歳上に見えるよね。俺も釣り合うようにがんばろっと」
「それ老けてるってことでしょ、全然褒めてないよ。それに凌平は凌平のままでいいの。私に合わせることないよ」
「…杏子はさあ、きっと俺に無理をしないように気を遣って色々言ってくれてると思うんだけど、俺からしたら一枚見えない壁作られてるみたいで、あんまりいい気持ちにはならないんだ。だから俺のしたいようにさせて?したいからするの。さっきだってそうだよ、俺が迎えに行って待ちたかったの。だから俺が次に何かこうしたいって言ったときは素直に聞いて欲しいな」
言葉に詰まる。だって次などもう無いのだ。タイミングよくコーヒーが運ばれて来て助かった。緊張して食道が寒い。
「でも杏子から誘ってくれて嬉しい。実は昨日あんまり眠れなかったんだ」
コーヒーカップから唇を離せないでいる。離せば私は切り出さなくてはならない。別れよう、と。でももう助走は十分だ、言おう。

「あのね凌平」
無垢な透き通った瞳が私を捕らえた。
「ん?なあに?」
カランコロン、とストローで氷を回す音がやけに耳に響く。
「別れよう」
音が止んだ。その瞳が曇った瞬間、わたしは柊のコーヒーを飲む横顔が黒目に映った気がした。

愛は愛で愛でしかない

「…ねえ、次の休みにはさ、映画観に行こうか、そんで行ってみたいバルがあるんだ。アメリカンなんとか…」
「別れよう」
「ああ、思い出した。アメリカンナイトだ。どんな夜だよってね!」
「凌平、話聞いて」
一瞬が永遠に感じるような無色透明、無音な時が私たちの間を通過した。
「うーん、俺も馬鹿じゃないからずっと別れようか迷って俺といたことなんて知ってるよ」
予想外の返答だった。何故だろう。何故分かっていながら私と関係を作っていこうとしているのか理解出来ない。
「でもね杏子、俺はそれでもいいと思ったんだ。だって、過去に何もないクリアな人間なんている?俺は杏子の陰にずっと名前も知らない誰かを見てたよ。ふと言葉遣いが変わる瞬間だったり、俺への気遣いのどこかにだったり、ずっと誰かを見てた。でもその人との過去だったり、その前の人や関わってきた全ての人のおかげで今の杏子があるんだとしたら、俺はそれを全部愛したいと思ったんだ」
凌平は顔色一つ変えずに淡々と私に想いの丈をぶつけ始めた。
「だから最初はね、俺もなんか適当に過去チラつかせてあてつけてみようかなって思ったりもしたよ。悔しいから。俺だけモヤモヤして漠然とした正体のないものにヤキモチ妬いてさ、でもそんなのはきっと二人の為にはならないし、俺が出来ることって何なんだろうって考えたときに、自分の気持ちに正直に杏子を愛することだけだと思ったんだ。だから俺は今向き合ってるし、これからもここは他の誰にも譲らない。俺B型だからさ、そういうとこ譲らないよ」
ふにゃふにゃしたまあるい笑顔で殆ど溶けてしまった氷の残りを回している。
私はせっかく頼んだオレンジケーキをただフォークでつつくだけで全く食べれないでいる。
「それに杏子、俺と別れたからって杏子の中で何かが変わるの?楽になりたいだけじゃないの?俺への罪悪感から逃れたいだけじゃなくて?」
「そんなこと…」
無いとは言い切れない自分に腹が立つ。そうだ、私はただ自分が楽になりたかっただけだ。凌平は真っ直ぐに私の瞳孔を捕らえて離さない。逃れられないと思った。
「だからね、その人を忘れる為に…うーん違うな、忘れなくていいや。その人から卒業していく為に…うん、これが正解に近い!そうしていく為に、俺を利用すればいい。その人との思い出を俺と塗り替えていこうよ。そして行ったことない場所に行こう。ゆっくりでいいから、杏子の中で俺が増えていけばそれで俺はいいんだ」
「それは正しいのかな…?」
「正しくないとダメなの?抑もその杏子が持つ正しいって価値観は正しいのかな?俺は正誤だけで物事を判断したくはない。正しいことはいつでも正しい訳じゃないでしょ?」
ああ、どこかで聞いた台詞だ。
きっと今の凌平には、私は柊のように映っているのだろう。歯痒さと懐かしさに、目の前に広がる変わらないランバンの風景が揺れる。
「ねえ杏子、俺は杏子が大好き。杏子は俺が好き?」
「好きだよ、でも」
「じゃあそのでもは要らないんだ」
「でも…」
「そのでもも要らない。そうやって自分を要らないものでぎゅーって縛るのやめたら?人生損するだけだよ。特にね、俺と別れたらすごく損する。だって、こんなにも愛してる。俺は杏子に見返りを求めてないよ。自分が愛したいから愛してるんだ。側にいたいから側にいるんだ。俺がしたことに対して何かを期待なんてしてないしこれからもすることはない」
無償の愛ってやつー?と、今度はピカピカの笑顔で照れている。
「凌平ってさ、太陽みたいだよね」
「たいよー!そう、俺は太陽になりたいの。いつだって杏子を照らすよ。俺の中で杏子は…花?いや枯れちゃうからダメだ!んーと…あ、でもドライフラワーは綺麗だよね…」
自然と笑みが零れた。
「凌平、私といたら大変だよ、凄く」
「うん、知ってるよ。今までも凄ーく大変だった。だって全然俺のこと見てくれないの。これからはチラッとでもいいから見てよ」
「オーケー、チラッとね」
「…意地悪だねえ」

これで良いのだろうか。凌平は愛してくれている。多分、とても愛してくれている。でも私はまだ、愛せていない。
「また何か考え込んでる!また別れるなんて暴言吐くつもり?」
「違う違う、…愛って何なんだろうって。愛するって何なんだろう、愛されるって何ってちょっと分からなくなったの。だって多分、私は凌平のことちゃんと愛せてない」
「なんだそんなこと。愛は愛だよ」
「どういうこと?」
「だから、愛は愛なの。愛するってことは、相手に愛を持つってこと。愛されるってことは相手が自分への愛を持つってこと。ただそれだけのこと」
「だからその愛って…」
…あ。
「それ以上にもそれ以下にもならないよ。だって愛は愛だもの。何かに付けて愛とはなんだー!っていらない付録を付けるから皆分かんなくなっちゃうんだよね。愛は愛で十分成り立ってるのに」
ああ。
「そっか、愛は愛か」
「そうだよ。俺は杏子に愛を持ってる。だからあいしてる」
「…ありがとう」

そうか。
私はいつも定義を探していた。愛とは何なのか、恋と愛の線引き理由を明確にしなければいけないとどこかで思い悩んでいた。
だから私はとある本の冒頭の言葉を美しいと思ったし、自分なりに考えてみたりもしてた。最もらしいフレーズを思いついては、愛を理解したような気になっていた。愛に生きたような気にもなっていた。
「杏子、帰ろう。お家に帰ろう」
「どっちの?」
「杏子んちに決まってる。愛娘がお腹空かせてる!ワンワン!」
「さっきまですごい良いこと言ってたのに、急にうるさい。やっぱりいつもの凌平だ」
「なにそれ!もしや減点?」
「うーん…プラマイゼロかな」
「やっちまったー!悔しいからお会計してくる」
「全然意味分かんないんだけど」
「ちょっと待っててね」
店員に美味しかったです、また来ます、と凌平が笑っている。ゆるやかな足取りで戻ってくる。
「行くよ杏子、忘れ物しないでね」
おーし、明日からまた頑張って加点だ!と奮起する肩越しに見えた凌平の横顔は、いつもより角張って見えた。
ねえ、そんなにも食いしばって耐えるほど、凌平にとって私は大事なんだとしたら。
″あいしてない″なんて思ってごめん。
″ちゃんと愛せてない″なんて言ってごめん。
凌平の瞳は、先刻の曇りを拭おうと必死に瞬きをしている。私はというと、柊が映ったのなど見間違いにも程がある、とさらに瞬きをしていた。
凌平の手は私ととても似通っている。私の右手をいつもより少しだけ力強く握る左手。私は恐らく初めてきちんと握り返していた。
トクン、トクンと波打つ想い。
「杏子、ありがとうね」
「なにが?」
「いや、なんでもないよ。言いたかったから言ったんだ。ありがとう」

これからの日々への決心が、この脈拍にのって届け、と心のどこかで願っていた。

愛の行方

いつの間にか私は5年の歳月を消化した。隣には凌平がいる。あの日の宣言通りいつも太陽のように私を照らす。

昨日私は夢の果てを観た。恐らく十年ぶりに買ったであろうCD。初回特典としてBlu-rayが付いていた。

柊の武道館でのライブ映像だ。全国ツアーの最終日、彼は夢だったその場所に立ったのだ。
懐かしい曲から始まる。私は一切を見逃しはしまいと息も忘れ画面を食い入る様に見つめた。左手の薬指に光るものを見つけた。次の瞬間同じものが首元にも光った。見間違いかと思ったが、違う。あれはペアリングだ。別れる時に何故か返してくれと言われたもの。ほんの少しだけ動揺したが、思ったより冷静に観ていられた。時は流れているんだな、と私は自分の成長をみた。
くるくる変わる世界の色。小さいライブハウスで当てられるスポットライトとは訳が違う。彼は本物のアーティストになったのだ。
舞台は暗転する。一つのライトが柊を照らす。海のような青の光に導かれその口が動く。

『この身体が一秒一分一時間一ヶ月一年十年五十年経つうちに、ぽろぽろぽろぽろ色んなものを無くしてくんだ。体力だったり記憶だったり、志しだったり余裕だったり。
そうやって生きていって俺が死ぬとき、この指輪はつけておいたまま火葬するんだ。それが愛の印だ。
色んなもの無くしてくけど最後まで残るのは、最後まで残るものが愛の証なんだ。
だから俺は死ぬときに指輪は外さない。それは俺が死ぬまでその女性を愛した証だから。
これが最後の愛の歌です。もう愛の歌は書かない。
聴いてください。最後の曲、今日は来てくれてありがとう。』

ああ、夢の果て。私は幸せだよ。ちゃんと見届けたよ。
私ね、自信を持って言える。愛と呼べる日々を生きたと。あなたと生きた日々そのものが、私の愛だったと。
さようなら、いつまでも忘れはしない。

私はこれから、凌平に会いに行く。結婚指輪を買いに行く。

「今どこ?」
「もうすぐ着くよ」

僕の話〜柊〜

僕が彼女と過ごした日々、それらを″愛にまみれた三年の中で″というには格好付けすぎていて余りにも不甲斐ない。あんなにも燦々と降り注いでくれた彼女の愛に気付けたのはほんの一年前のこと。それまでの二年はただただ傷付け続けた日々だった。彼女の涙は不思議にも色を持っていた。深い森のような緑色のその涙を、情けないが美しいと思っていた。僕の為に流すその緑色の筋が彼女の白い頬に跡を残す度に、僕はほんの少しの快感を得ていたのは事実だ。
僕は僕以外の他人を認めなかった。そして僕自身の中にいる変えたい自分、つまり僕の悪い部分を僕とも認めなかった。その反動はいつでも大きく、他人を傷付けただけ自分も傷付いてきた。悪い部分を突き飛ばす度に大きくなって返ってきた。僕は因果応報の意味を君の涙をもって知る。涙はいつしか色を失っていた。僕の心の中に広い穏やかな海ができると同時に。

何度も何度も彼女は別れたいと言った。至極当然のことだ。一緒に暮らし始めてからの僕は帰る場所があることに甘んじて更に好きに生きてきた。音楽活動の傍らで時間とお金を好きに浪費した。彼女が僕を養う為に必死で働いていた時間に好きでもない女を抱いた。散々抱いた。弱さを盾にして恰もそれが強さであると誇示しながら。
愛に気付いてからの僕は、彼女が俯向く度に、その後口を開く度に構えた。次に出てくる言葉が安易に想像出来たからだ。そしてその読みは当たる。今日は何て伝えたら思いとどまってくれるだろう、僕を選んでくれるだろう、と。
僕は僕を選ばないことを間違いとした。恐らくそれ自体にも彼女はうんざりしていたのだろう。
それも当然だ。《散々好き放題やってきたくせに。》そう言われたら元も子もない。それでも僕は諭し続けた。それは間違いだから正しなさいと。
僕は必死に彼女を失うことを拒んだ。情けないと思いながらも泣いてすがった。彼女は子どもに手を焼く困り果てた母のような顔をして僕の頬に触れた。温度のない温もりを添えて。仕事に行くのを引き止め別れるのは嫌だと駄々を捏ねた。何故なら今のこの僕を作り上げたのは紛れもない彼女だからだ。これから先僕はどうやって僕を作っていけばいい?道標をこんなところで失うのは御免だった。
今思い返せばなんて僕は我が儘な頼りない愛をぶつけてきたのだろう。
彼女が同じ言葉を繰り返す意味を何故考えなかったのだろう。

「もう無理なんだよ柊、こんなに愛しているのに、もう愛せない。怖い」
「また昔と同じこと言ってる。それでまた間違えるの?愛したいけど愛せないっていうのはよく分かるんだよ。でも俺はとてもとても愛している。だからもう一回作り直さなきゃいけない。愛も日々も全部。だからちゃんと俺のところに帰っておいでよ。その気持ちも全部含めて俺はお前がいなきゃダメなんだ。お前だって、そんなに昨日今日で愛が無くなる訳じゃないだろう?」
「無くなってはいない。けど大きさはそのままに、薄くなっていってるんだ」
「うん、間違えてきたことも、今まさに間違えそうになってるのも全部含めて杏子だからそれを全部愛してんだよなあ。だから俺の愛がこれからお前を作るはずなんだ。だから何度も言うけど、ちゃんと俺の腕の中に帰っておいで。ここにしか愛はないよ」
「でも辛い。もう辛いの。過去は消せないし、それを許せない自分も嫌だし…一緒にいてもただ辛いだけなの」
「確かにお前には辛い思いばかりさせてきたし、これからも辛いことばかりだと思う。だからなかなか幸せだとは思えないかもしれないけど、俺はそれすら幸せだと思うんだ。お互いがお互いしか見ないで、二人の為に二人が生きるんだ。だからここからきっと幸せな日々が続くんだ。その為の今だから」

僕は歌うように彼女に伝え続けた。小鳥の囀りのように同じリズムで。彼女がそれに合わせて首を縦に振るように願いながら、僕は伝え続けた。そうしながら僕が犯し続けてきた過ちのことを反芻していると、眩暈と吐き気が同時に襲ってくる。なんて汚れた手で君に触れていたんだろう。だからきっと君は純粋に僕にイエスと言わなくなってしまったんだ。君の愛を汚したのは僕だ。

「…ごめん、いつもならそうだねって、そばにいるねって、間違えてごめんねって言えるのに言えない」
ポタポタと切れ長の大きな目から雫をこぼしながら彼女は繰り返した。二つの意味のごめんねを繰り返した。
僕は少し項垂れたが、ここで諦める訳にはいかない。
「…いつもならって思ってるなら大丈夫だ。抱き締めてあげるから。また間違えそうになったら俺が抱き締めてあげるから大丈夫」
「愛はあるんだ、この心にずっと。前よりずっとずっと大きくて、でも薄い愛に、もう潰されそう。だからもう、戻れないって言ってる。心がそう言ってる。それなのに、辛いって言ってるのに、まだ柊に縛るなんて我が儘でしかないよ」
「うん、お前を離したくないなんて俺の我が儘なんだ。でもね、別れの原因が愛の損失でないならば、ちゃんと話し合えばもっともっと二人はうまくやっていける。俺のライブ前に喧嘩が多くなるのは、俺に余裕が無くなるせいもあるんだよ」
「でもそれを察して動くのが、私の仕事でしょう?それをする余裕が無いの。柊だけじゃなく、私にも無い」
「もう仕事って思わなくていいんだ。彼女の仕事っていう形で俺がお前に色々求めてしまったからそれに疲れてしまったんだよな。お前は本当によくやってくれてる。そりゃ俺も別れた方が楽だよなあって思うときもあるよ。心と脳を行ったり来たりする。でもその度に、俺は杏子じゃなきゃダメだなあってところに戻るんだ。それは今日お前が作っていったご飯を食べた時や、喉が荒れてて声が出ない時に杏子ならなんとか出来るんじゃないかって思った時や、色んな瞬間に思うんだよ。それでもまだ別れたいか?俺がお前を諦めたら、お前は必ず後悔する。俺も必ず後悔する。なあだから、お前も俺を諦めるな」

僕はなんて支離滅裂な持論を彼女にぶつけ、それについての理解を強いていたのだろう。
『諦めるな』そう言う度に、彼女は茶色い瞳を黒くした。『私は諦めたことなんて一度もなかった』と瞳が語った。
彼女は決して諦めなかった。何度も何度も僕が欲求に負け、彼女じゃない誰かを抱いた時も、甘い言葉を囁いた時も、名前を呼び間違えた時も。
僕の為に朝から晩まで働き、家事もこなし、『柊、朝の果物は金なの。だから食欲が無くても果物だけは口にしてね。どうしてもスナック菓子やカップ麺みたいに添加物が多いものを好むでしょ?果物に含まれる酵素が身体の中に溜まってしまった添加物を綺麗に掃除してくれるからね。ビタミンが多いから肌にもいいの。人に見られる仕事だからいつでも綺麗にしていなきゃね』と毎朝新鮮な果物を剥き、僕が好きな時に食べられるように冷蔵庫に大事そうに入れておいてくれた。彼女はオーガニック食材に拘るレストランに勤めているという職業柄もあるが、仕事と家事の合間を縫って栄養素や添加物、内部被曝などの勉強をし、産地にこだわり毎日安心で安全な食事を僕の身体と将来の為に作ってくれた。周りはそれに対し驚き褒めたが、僕の中ではそれが当たり前のことだったし、いつまでもそれが続くと思っていた。《それが俺と付き合う女の務めだ。》とさえ思っていた。

何を見ても、知っても、彼女は諦めなかった。僕に気付かれないようにこっそりと携帯を見ていたことを前から知っていた。彼女が僕の愚業の数々を目の当たりにすれば、傷付くどころの話ではないことを分かっていながら、僕はやめられなかった。《上手くやれるだろう。》或いは《何があっても杏子は俺から離れたりしない。》そんな風に恐らくどこかで思っていたのだろう。若しくはある種の病気だったのかもしれない。

僕は初恋の相手に浮気をされて振られた。大好きで仕方なかった相手に散々な振られ方をした僕は、悲しみと怒りに溺れた。幼いながらもその人を愛していた。それ故になんて恋とは理不尽なんだと絶望の淵に立った。そして悟った。永遠の愛などこの世には存在しないと。それ以来、《理不尽に傷付けられたのだから、僕だって理不尽に傷付けたって良いはずだ。》と女性を物と同様に扱った。僕が浮気をし、それについて当時の恋人が怒ろうが泣き喚こうが知ったことではなかった。《恋とはそういうものだ。》追うこともせず追われることも拒んだ。《じゃあお前はもう要らない。好きにしたらいい。》そうやって次から次へと数え切れない程の女性を踏み台にしながら生きてきた。
そんなある時、僕は一人の女性と出会った。彼女もまた、こんな僕を諦めなかった一人だ。僕に愛を見せてくれた。しかしそんな彼女も、数冊の本と思い出を残して僕のことを諦めた。もう少しで僕は再び人を愛せるかもしれない、というところまで来ていた。『あなたのこと愛してた』そうやって、愛された過去だけ残して僕の元を去った。

少しだけ愛を取り戻した僕は、杏子と出会う。ようやく音楽と真面目に向き合い始めた頃のことだった。僕は生活資金を稼ぐ為に毎日路上でのライブ活動と各地でのライブに追われ、心に空いた穴を代わる代わる女性が流す涙で埋めながらではあるが以前よりずっと充実した毎日を送っていた。あの日も僕はいつものようにギターを弾きマイクに声を乗せた。
彼女は一番前列の右の方に座っていた。僕の瞳がその姿を捕らえた瞬間、僕はきっと恋をすると思った。周囲とは明らかに違う空気を纏っていた。何色とも言えない華やかな髪の色、目鼻立がやけにはっきりしているが化粧の力ではない、生まれつきのものだ。放つオーラは小さめの身長とは比例しない。真っ白な高いヒールをまるで自分の足のように扱い歩く。《凛》という一文字が脳裏に浮かんだ。僕の声がそんな彼女の耳の中に入っていっている、そう思うと何かを犯しているような気持ちにさえなった。
『昔、路上ライブ通ってました。ファンでした』
ライブを終え物販の最中にそう彼女が話しかけてきてくれた時は、心が震えた。
その後SNSでのやり取りを経て、連絡先を交換し他愛も無い話をたくさんした。好きなお酒の話、幼少期の話、今ハマっているものの話。そして夏も本番に差し掛かった頃、僕は初めて彼女と二人で会うことになる。
待ち合わせ場所に来た彼女は、オレンジ色のロングスカートを履いていた。僕は純粋に美しいと思った。あまり人が挑戦しないような色を難無く着こなす彼女のセンスや佇まいに魅力された。夜だというのに彼女のまわりは明るかった。もうきっとあの瞬間に僕は恋をしていた。
一晩中ドライブして、明け方彼女を宿泊先のホテルまで送り届け『それじゃあ、また』と助手席のドアを開けた彼女を僕は無意識に引き止めた。
『柊さん?』
『…もう少しだけ、一緒にいてくれないか』
困ったように微笑んでドアを閉めた彼女を僕は抱き締めた。
『付き合ってくれないか』
彼女が頷くと同時に僕はキスをした。

最近よく思い出すのだ。僕らが出会った時のことを。そして三年間に想いを巡らせ思うんだ。僕の愛は当時君にどう届いていて、今はどう残っているのだろうと。

僕が彼女を失ってから、もう季節は二つ周り冬になった。ただひたすらに歌い続けてきた。届けることの出来ない想いをがむしゃらに音に乗せ、虚しくなってはその音を壊す。一番聴いて欲しい人が側にいないという現実は、予想以上に僕を苦しめた。
進まない作詞。折角気分を変えようと新しいものを買ったのになかなかインクの減らないペンを置き、僕はコーヒーを買いにコンビニへ向かった。こうしてわざわざ僕が外へ出なくてもいいように彼女がいつも用意してくれていたコーヒーを思い出しながら。ツンとした冷たい空気が鼻腔をノックする感覚を好きになれたのは彼女が冬を好いたからである。昔作った曲を思い出す。あれは確か初めての共同作業だった。彼女が作った詞に僕がメロディーをつけて、半分お遊び感覚で作った一曲。その詞の冒頭を思い返していた。

《冬の始まり僕は言う、『バカは風邪をひかないけど気をつけなよ』と、冬の始まり君は言う、『大丈夫、冬生まれだから』って》

ああ、君が生まれた季節がやってきた、と僕は空を仰ぎ見た。吐く息が揺蕩う紫煙のようにゆらゆらと空に吸い込まれていく。この空は何の隔たりもなく君の元へ繋がっているのに、僕らの間には決して越えることも壊すことも出来ない壁が幾重にも立ちはだかっている。あれもこれも全部、僕が間違えたせいだ。ごめんな。なあ、今だから心から僕は君に言える。あの時は本当にごめんな。

そういえば、彼女は僕が過ちを犯す度によく言ったものだ。
「安い男になってはいけない」

その意味をもっと早く理解していたら、今日とは違う世界になっていたのかもしれない。

「だから言ったじゃない、もう遅いよ」
きっと君はそう言う。うん、もう遅いんだ何もかもが。

別れてからも君のくれた愛は僕にたくさんのことを教えてくれる。タイムカプセルのように、ある一定の時間を経て記憶の蓋を開けるとそこには愛の欠片が入っている。不覚にもにやけてしまう。ああ、君はここにも僕への愛を隠してくれていたのか、と。
実は僕も僕で彼女への愛をある形で貫いているが、それももしかしたら女々しいと笑われるかもしれない。
あれから僕だって恋をしたし、愛みたいなものを持ったりもしたが、その度に僕は悲しくなった。触れた肌に杏子を想うが、次の瞬間には僕ではない男が君の肌に触れていることを想像してしまう。三年間を戒めているという訳ではないが、ある種の覚悟で僕は左手の薬指をずっと彼女に捧げ続けている。彼女の二十四歳の誕生日の夜、婚約指輪としてあげたオーダーメイドのペアリングだ。彼女のものを首に、僕のものは薬指に。いつでも彼女を心臓に一番近い場所で感じてる。

コンビニで買った安いカフェオレを飲みながら、君が淹れてくれた深い琥珀色の愛を思い出した。そうか、そういうことか。
こうしよう。僕は君がくれた日々を《愛》と呼ぶことにする。僕の薬指を君への《愛》とする。
僕は愛することと愛されることについていつも本質を理解したがった。しかしそれらしい形しか見つけることが出来なかった。
そして気付いてしまった。《愛している》という言葉など本来無いのだ。愛は愛でしかない。無論、定義付けることなどし得ないのだ。他の誰かが、僕の《愛》に入り込むことなど出来ない。君じゃない誰かに捧げることも出来ない。僕の愛は終わったけれど、終わらない。生き続けるのだ、僕と君が過ごした日々が無くなりはしないのと同じように。
愛は愛で、愛でしかない。僕が君と生きた一秒一秒を、愛と呼ぼう。

愛と呼べる日々をくれた君に、僕は心から感謝している。
さようなら、いつまでも、いつまでも忘れはしない。
さようなら、君を愛した僕。

僕の話〜凌平〜

「ねえ、君はいつも僕に誰を見せているの?」

僕の恋人は、いつもどこか遠い目をして笑う。茶色味の強い澄んだ瞳の奥に恋人じゃない誰かが時折見える。僕は敢えて聞かない。そいつが恋人の心の中でどんな悪さをしているか分からないけれど、僕が今すぐどうこうするのは物理的に無理難題だ。

夏の空が遠くなり始めた頃、僕は恋人と出会い、躊躇わず想いを伝えた。恋人は少し悩みながらも笑ってくれた。
その出会いは、まるで少女漫画のようなシチュエーションだったなと今思い返すと少し恥ずかしくなる。僕は連日の飲み会での睡眠不足が祟り寝坊し、会社まで今年一と言って良いほど必死に走っていた。『やばい、間に合うかな』とジーンズのポケットに入れた携帯を取り出そうとしたとき、リップクリームを落とした。
あっ、と思い振り返ると、リップクリームの転がる先に一人の女性がいた。拾い上げる動作が急にスローモーションに見えた。
慌てて僕は戻る。『すいません、ほんと申し訳ないです』
彼女はそっと笑う。『いいえ』
受け取るときに指先が触れた。白くて長いひんやりとした指。まだ世界はスローモーションだ。
僕は遅刻しそうなことを思い出し踵を返す。こっそり振り返ると、彼女は物憂げな顔をして溜め息を吐いた。何があの人にあんな顔をさせているのだろう、と思うのと同時に、僕の中で何かが弾けた。
『一目惚れ…なんてな!』
そう思いつつも、頭から離れない。その日僕は一日中凡ミスを繰り返したのは内緒の話だったりする。
次の日、一つの賭けで同じ時間に同じ通りを遅刻承知で歩いた。見つけた、あの後ろ姿はあの人だ。トクンと喉の奥が鳴った。二目惚れなんて言葉などあっただろうか?とくだらないことをぼんやり考えていたら僕の脳はある信号を送り口を動かしたのだ。心を置いてけぼりにして。
『あの…!』
マジか!俺の口!覚えてなかったらどうしよう…。
『はい?…ああ昨日の』
『ありがとうございました。買ったばっかりだったんで、助かりました』
『いいえ』
『あの…えっと…もし良かったらなんですけど…いや違う…えっと…』
脳よ、ここだ、今だぞ…!
『?』
ああ、俺の脳は肝心な時にいつもこうだ。してやられた気分だ。
『俺自身もびっくりしてるんですけど…』

恋人は当初、今よりもとても深い笑みを持つ人だった。例えるなら森のような奥行きのある笑み。果てが見えないことを不安に思わなかった訳ではない。肝心の一歩を踏み出すことを拒むような、そんな笑い方をする恋人。
そんなミステリアスな恋人を二つ返事で手に入れたのは、恋愛に奥手の僕にしては快挙である。僕は男になったぞ!と両親にも自慢出来る。

恋人は僕と同じ歳だが、妙に大人びている。僕の一挙手一投足に全て先回りしてくるような、絶妙な五感を持っているような。
『どうして俺と付き合ってくれたの?』と聞いたことがある。
『知ってみたいと思ったから。ほら、リップクリームってたくさん種類があるじゃない?その中で私と同じリップクリームを選んだ人をね。』
恋人はまるで短歌と詩の間のような言葉をサラリと口にする。僕は何故かいつも授業で習った俵万智のサラダ記念日を思い出す。
そして時々不意に口遊む。誰の歌か聞くと今はもうない昔の歌、と微笑む。ないとはどういう意味なのだろう?と僕は考えてみたが理解出来なかった。廃盤になったという意味なのか?でもそれなら歌としては残っているはずだし…
僕の恋人は本当にミステリアスだ。

俯いて顔を上げた瞬間や、時々口にする棘のある言葉や、恋人が大切に飾って使わないフォークを眺めてるときなんかにも誰かの影がちらつく。
僕は一度尋ねたことがある。
『ねえ、どうしてそのフォーク使わないの?』
恋人は遠くを見ながら、『これは一生使わない。つがいで置いておくの。』
『ちょっと高そうだね。飾っておくだけなんてもったいなくない?』
『形を形どおりに使ってしまうと価値を失うものもあるから。これはこれでいいの』
ふうん、と僕は納得したふりをしたけれど、あんまり意味が分からなかった。フォークの価値は美味しいものを食べる為に使ってあげたときに初めて価値を見出すのではないか、と。フォークの気持ちになってみた。ただ飾られる為だけに私は作られたのか…なんて具合に。やっぱり分からなかった。
『でもさ、綺麗な色だよね。何色っていうのかなあ。水色でも青でもないよね』
すると恋人は意味深げに言った。
『それはマリンブルー。海の青だよ。この世で一番儚くて強くて美しい色。永遠を願う色』
『へえ、マリンブルーのフォークか…』
そう口にしてふと思い出した。恋人が口遊む歌に、そんな歌詞があったことに。
《トーストにバター、つがいの食器、マリンブルーのフォーク、後片付けは僕》
『…』
《僕は永遠など信じていないけれど、それを作ってみせるよ》
『……』
僕はもうこの話をやめようと思った。何故なら僕の沈黙になど目もくれず、恋人はもうその色に想いを馳せてどこか別の国に行ってしまったような気がしたから。

『ねえ、君の心の中に住んでいる得体の知れない誰かを僕が消し去ることは出来ないのかな』

僕は思いあぐねて深い溜め息を吐く。
そういえば先日も恋人は買っていた。《愛》に纏わる本を。恋人の家には、たくさんの本がある。本に無頓着な僕でも聞いたことがあるような有名な作家のものから、マイナーな古い本まで、勿論ジャンルも幅広い。本棚二つ分に詰められたそれらが恋人の発する言葉や思想を一つ一つ形作っているのだとしたら、漫画しか読まない僕には恋人の頭の中は簡単には理解出来ないなあと納得もする。
しかしながら。愛、という莫大なテーマをもし恋人がずっと考え続けているのだとしたら、なんて無駄なことなんだろうと思ってしまう。何故なら、愛は愛でしかないのに。なんてことをポロリと口にしたものなら、物凄いで勢いできっとこう言うだろう。
『一体凌平に私の何が分かるの?私の《中》に土足で入ってこないで!』
恋人は極端に自分に対して他人が入り込むことを拒む。生活や、思い出や心の中に。僕はいつも覗いてみたいだけだし、知りたいだけだし、思ったことや考えを言っているまでのことだが、恋人にとってはそれが不愉快極まりないことでまざまざとそれを撒き散らしながら少し僕のことを見下す。
まあ僕としては実際に恋人よりずっとずっと子どもだから、正直あまり気にしてはいないけれど、いつまでも同じ土俵に立てない感覚はやっぱり寂しかったりもした。

もうすぐ冬がくるということもあり、僕は少しセンチメンタルになった。
『なんかさあ、冬って寂しいよね。植物も枯れていくし、空は遠くなっていくし、何より寒いし』
『冬でも枯れない花はあるよ』
そう言って恋人は手帳を開き漢字一文字を書いた。
《柊》
『なんて読むの?』
『ひいらぎ。しゅう、とも読む』
『あとね、これも』
《六つの花》
『むつのはな?』
『そう、雪のこと』
その漢字を愛おしげに見つめる恋人を見てしまったときと、シュウ、と発したときに感じてしまった温度に、僕は変な罪悪感を覚えた。それと同量の嫉妬心も。

《季節を縛るように、降り続く六つの花、思い出すよ君を、こんな雪の日には》

点と点を結び合わせたって、良いことなんてない。歪な星は僕の心に深く刺さった。
恋人の恋人だった人は、恐らく名を柊という。そして歌を歌っていたのだろう。
ああ、だからか、と次々に点が結ばれていく。僕は抗えなかった。冬など早く終わればいいのに、と心から思った。
そして最後の点はそれを確信にした。
恋人はこの歌の続きをこう歌っていた。
《例えばそう、寒いこと、僕は冬が嫌いです、だけどいっそ消えてしまえばいいとは思えないから》
そして僕の質問に今はない昔の歌、と答えた。
また別の日、こう歌っていた。
《最後なんだ、嘘はつくな、さよならなんてしたくない、愛しているよ、忘れた日はないよ》

《さようなら、いつまでも、いつまでも忘れはしない》
《さようなら、僕の名を呼ぶ君の声》

ああ、そういうことだったのか。憶測だが全てを僕なりに理解した。
沸々と遣る瀬ない愛が僕の頼りない胸から溢れた。僕など到底入り込めない世界だ。二人は今も、きっとこれからも。

そしてある日、恋人は突然別れを告げた。僕は前日の夜にきた『明日会える?』と打ってあったメールをスクリーンショットした程に歓喜していたというのに。今思い返せば、僕はずっと心のどこかに別れを携えながら恋人と付き合っていたのかもしれない。不思議と冷静でいられたし、だからと言って恋人が僕にしてくれたように二つ返事で別れを受け入れることなどするつもりはなかった。だから僕は恋人へ持つ愛の全てを伝えた。恋人に変わって欲しいとも思わないし、過去を忘れろとも言わない。願うのは、もう少しその瞳に僕を映してくれないか、ただそれだけのことだった。
やはり恋人は愛についてとても囚われていた。可哀想な程に。
もう解放してあげたらいいのに。何もかもから。純粋にそう思った僕は、そっと想いを伝えた。僕の持つこの鍵では恋人の心の重たい扉を開けられないことを覚悟して。
まんまるな瞳を震わせて、恋人は葛藤した。それでも僕は伝え続けた。
《太陽になりたい。いつでも君を照らしたい》と。
震えは止まり、恋人は迷いながら自分の身体の中奥深くに手を伸ばした。
《そうか、君は自分の中に鍵をしまい込んでいたのか》
ゆっくりとその鍵を受け取り、狭い鍵穴に差し込み、重苦しい音を立てて回す。開いた。そこから少しだけ見えた恋人の心は、海の青と森の緑を混ぜた綺麗な色だった。
ありがとう、と、頑張ったね、が半分ずつ。
そして僕は決めた。僕の陽(ヒカリ)で、二度と恋人を愛に曇らせはしないと。
最期を迎えるその瞬間に、愛(ヒカリ)と呼べる日々を生きて幸せだった、と恋人が安らかにその瞳を閉じることが出来るように恋人に燦々と注ごう。僕の愛を。

愛と呼べる日

愛と呼べる日

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-02

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