秋声

秋声

 ぎしりと濁った音を立て、月下の牛車の車輪が止まる。牛が不安げにくぐもった声を出したので、私は車を下りて彼女をなだめた。丑三つ刻が近い。
 牛を近くの柳につなぎ、私はくだんの荒れ屋へ歩いていく。蟋蟀が鳴いている。
 門などあってないようなものだった。背高泡立草の茂みが母屋へつづく小径を隠す。昼の光を勢いよくかき混ぜて跳ね散らしたような濃い黄色の花が、煌々と夜空を照らしている。月光と花とのまばゆいせめぎ合いのあいだをかき分けて、私はようやっと玄関へたどりつく。
 戸は外と内とを分ける役割をとうに放棄していた。たたきには女物の靴が一足きちんと揃えて置かれている。荒れはてた空間の中でそれだけが奇妙な秩序を保っていた。
 廊下は暗く先が見えない。ぷんと鼻先をかすめたのは果実が腐ったような甘いにおいだ。屋内の空気は肌にまとわりつくほど重く湿っている。
 私は燐寸を擦って頼りとした。壁を這って逃げていくのは家守だろうか。
 予想に反して屋敷の主はまだ現れない。
 突き当たりに引き戸があった。手をかければ戸はなめらかに滑る。頼りなく揺れる燐寸の火で、ぽっかり覗いた暗やみを照らす。部屋の床いっぱいに牛乳瓶が並べてある。
 足の踏み場がないので、入るのは断念した。
 部屋の用途は分からない。
 引き返すと途中に左へ折れる道を見つけた。
「主よ、まだ姿を見せませんか。もはや人に見せられる姿ではないのですか。あなたにもまだ、人並の羞恥心がお有りか」
 ブーンと低い音がひびく。両脇の障子の内に何かは分からないが生きものがいるようだ。甘ったるいにおいが濃い。鼻から入って喉へびたびたへばりつく。
「あなたが世間で何と呼ばれているかご存知ですか、金吹ヶ原の食人鬼ですよ。奥さんのために何人殺したんです」
 すすり泣きが聞こえる。左か、右か、手前か、奥か。二本目の燐寸を擦る。
「かつてあなたは蜂を育て、草木を愛でる科学者であったでしょう。成果の出ない実験の繰り返しがあなたを鬼に変えたのですか」
 泣き声はだんだんと途切れ途切れになり、ぐつぐつと鍋が煮立つような音に変わった。笑っているのだ。ぐつぐつぐらぐらぐわぐわと空気を揺らす声は、今や哄笑である。
 私はあたりをつけて左の障子の一枚を蹴倒した。影が素早く逃れ、ブーンという音が背後に回る。後頭部に風を感じ、つんのめるようにして私は部屋へ飛び込んだ。濡れた畳につま先がすべり、ぐじゅと柔らかいものを蹴る。
 三本目の燐寸を擦った。脱いだ上着に火を灯し、影に対抗する。
 熟れすぎた果物が発する酒気に、金気を混ぜたようなにおいが充満している。鼻にツンとくる、吐き気をもよおす生臭さ。
 影は火におびえているようだった。照らし出されたのは一匹の大きな獣だ。やせさらばえて肉がところどころ腐り落ちている。右の前足は欠損していた。
 屋敷の主のなれのはてである。彼はかつて人であった。面影はない。
 今はただ、ひどく、みにくい。
 私は懐剣を用意していた。小さいとはいえ鉄の剣は重く、手のひらの熱を吸い取る。腰を落として低く構えたところへ、獣が躍りかかってきた。
 爪より先に牙が来る。胸の前で切り払った刃はたやすく躱され、私の咽喉元を風がかすめる。間一髪のところでのけぞった私は柱に頭をしたたか打った。燃える上着が畳に落ちる。
 獣はそれを恐れて後方へ飛んだ。その隙に私は何とか体勢を立て直す。
「奥さんはもう何をしてもよみがえらない。そんなことは分かっているはずだ」
 通じたのかどうかわからないが、獣は憎しみに充ちた眼で私をにらみ、炎を飛び越えた。かれは怒りのあまり恐怖を克服したらしい。
 とっさにしゃがむ。獣が勢い余って私をも飛び越す瞬間、後ろ脚の腱をねらった。
 肉を断つ確かな手ごたえ。が、細く血を噴き上げる代わりに獣の肉は小さな点に分裂した。ブーンという音が大きくなる。飛び散った点は黒い蜂だ、獣のからだは傷ついたところからぼろぼろくずれて蜂の群れになっていく。
 脚をうしなった獣は私にのしかかるようにして倒れた。すかすかとしたからだのわりに重い。獣は頭を振って私の咽喉を噛み裂こうとし、左前足の爪を私の胸に食いこませる。
 すでに決着はついていた。
 私の握った懐剣は獣の胸に深々と突き刺さっていたのである。かれ自身の重さで刃はより深く刺さり、心臓を貫き、ずぶずぶと肉をやぶり、背からすこし突き出る。
 私の上で彼はゆっくりと崩壊していった。蜂の群れには私を襲うほどの力がないようだった。群れはかつてかれが巣箱で飼い、慈しんだものだったのかもしれない。
 吸いこむ空気のすべてから腐肉のにおいがし、こみあげる胃液を堪えるのに苦労した。
 やがて群れはゆっくりと移動を始めた。
 畳は炎上している。私は群れを追うことにした。
 羽音は外へ向かっている。屋敷の裏へ行くらしい。
 裏庭にも背高泡立草がはびこっていたが、一ヵ所だけ地面が見えていた。そこには大きな人形が座るような形で置かれている。
 いや違う、人形ではない。近づくにつれて腐臭が強くなる。骸だ。
 蜂の群れが老人の姿を取り、骸を抱く。と見るうちにかれは骸を喰らい始めた。食べても食べても肉は胃袋に落ちることなく、かれのえぐれた脇腹からこぼれる。おぞましくむなしい食事風景だった。そうして肉をむさぼりながら、かれは泣いている。言葉ではないが、何かを叫んでいる。
「あなたはやりとげたのか、奥さんを、つくりあげたのか」
 女の骸はひざに本を載せていた。私はそれを拾い上げ、四本目の燐寸を擦って投げた。かれと骸とに火がつき、すぐに燃えあがる。
 後は振り返らずに牛車へ戻った。
「蝸牛、待たせたね」
 牛は健気に待っていた。背を軽く撫でてやって綱を解き、車へ乗りこむ。牛飼い童が居らずとも、かしこい彼女は必ず主人を家まで連れ帰る。鉄の車よりずっと私は牛車を愛している。
 ごとりごとりと揺られつつ、わずかに差し込む月明りで本を読む。それは屋敷の主による実験の記録だった。几帳面な男らしくあらゆることが詳細に記されている。
 かれが亡き妻をよみがえらせるために実験を重ねていたことは聞いていた。そのために人をさらうようになったことも。その所業が目に余るということで私が駆り出されたのだ。
 実験の内容はそれが常軌を逸しているということ以外、私にはさっぱり理解できないものだった。
 初期は人体実験などに手を出してはいなかったようだ。
 この本を読むまで私は疑問に思っていた、死者をよみがえらせることなど不可能ではないのかと。よしんば肉体を再現することができたとして、その器に魂と呼ぶべき「何か」を宿らせることなどできるのか。
 できたのだ。
 かれにはそれができてしまった。妻の死から二十年で、かれは彼女と再会した。
 けれど、よみがえった彼女は完全ではなかった。
 妻の脳にはかれが周到に調べ上げて用意した記憶が詰まっていた。彼女の人格は生前と変わらないようだった。しかし、何かが足りないとかれは思った。
 おしい、あとすこし、ほんのひとかけら。
 かれは妻の肉体に蓄積された記憶を再現できなかったのだ。彼女の肌にかつてついた傷を、彼女に触れたすべてのものの感触を、彼女が生まれてから死ぬまでのあいだに味わった暑さや寒さを、些細ではあるが確かに彼女を構成する「肉の記憶」を、つくりだすことができなかった。それは魂の欠損であり、かれにとってよみがえった「それ」は妻によく似た別人だった。
 かれはそれでも挑むことをやめなかった。より記憶を完璧に近づけるためあらゆる条件を試した。そして限りなく本物に近い妻をつくりあげ、なかば妥協だったかもしれないが彼女を愛した。この頃にはすでに幾人もの人間を手にかけていたようだ。
 実験は終わったかに思われた。が、妻は生まれてから一年も経たずに死んだ。彼女が最初に死んだ時点の年齢まで成長を促進させ、そこから新たな生を始めさせるというのがかれの計画だったのだが、よみがえった彼女はかつての妻の年齢を越えて生き延びることができないらしかった。これはかれが同じ実験をくり返して突き止めた絶望的な事実である。まるで妻という人間がこの世に存在できる時が予め決められているかのように、見えない剣に突然その生を断ち切られるかのごとく、彼女たちは同じ年齢にあたる段階で死をくり返した。
 かれはまだ足掻いた。彼女を一定の段階のまま留めおこうとしたのだ。
 結果から言ってこれも失敗だった。成長という欠かすことのできない変化を止められて、彼女たちは崩壊していった。
 かれはそうして死んだ彼女たちの骸を喰らった。やがてただ人を取って喰らうだけの化け物に成り下がり、食人鬼と恐れられるようになったのである。
 そもそも初めて妻が死んだとき、かれは彼女を解体していたようなのだ。最初は死体に魂を戻そうとしたのだがうまくいかず、腐っていく肉体に焦りをおぼえたらしい。髪は切って細かくし、骨はすりつぶし、実験用に一部だけを残して、かれは彼女を食べてしまった。かれには愛する妻を火にくべることなどできなかった。土壌の微生物にくれてやるわけにもいかなかった。この時点で、すでにかれは狂っていたのだと思う。それでも、いつかまた彼女に会うという思いが辛うじてかれに人の姿を保たせていた。
 それをうしなって目的も忘れ、かれは獣になってしまった。肉体を持たない幽鬼のような存在となって、この世に留まり続けたのだ。
 だが、どうしてだろう。ふと疑問が頭をもたげる。どうしてなのだろう。
 かれが最後の妻を裏庭に残していたのは。妻の靴を玄関にきちんと揃えておいたのは。そうすることでかれは何をつなぎ止めようとしたのだろう。
 もう逃げる力が無いと悟ったかれは、私に燃やされてしまう前に彼女を食べようとした。
 あんなモノになってもまだかれは。それは愛か、執着か。執着と愛との違いは何なのだ。
 炎の中で死んでいったのは、獣ではなく、ひとりの老人だった。
 牛車は揺れる。車輪が軋む。このらんぼうな揺れは、けれど私にとって心地よいものだ。ごとりごとり、ぎしりという音が鼓動に似ているように感じられて、不思議と心が安らぐ。本を置き、まどろむために私は目を閉じた。
 人喰い鬼がひとり死に、あたりに平穏な日々が戻ったというだけの話である。

秋声

秋声

金吹ヶ原には人食い鬼が住むという。

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  • ファンタジー
  • サスペンス
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-10-18

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