兄弟〜Xiongdi〜
*途中。3/13十章更新
1.
俺の肉が無い。張飛は慌てて井戸を覗き込んだ。
ひんやりと冷たい暗闇に眼を凝らすが、井戸の底に肉は落ちていなさそうだ。そんな馬鹿なと、張飛は頭をぽりぽり掻いた。井戸に蓋をしてあった大きな石は脇に放り出されている。重い石は、ここらじゃ一番の力持ちである彼にしか動かせられない筈だ。
「よくも俺の肉を」
大切な売り物を盗まれては許しちゃあおけねぇ。拳を強く握りしめて、張飛はずかずかと歩いて行った。
通りを歩けば、すれ違う子供達が何やら包みを抱えながら幸せそうに走っていく。張飛がその一人を捕まえて問い詰めると、子供は恐れおののきながら「向こうに居る髯の立派な男の人に肉を貰った」と言った。張飛は子供が指差した方へと歩いていった。
木陰に寛ぐ男は、胡座をかきながら肉を焼いていた。子供の言った通り、立派な髯をたくわえている。
「おい! よくも俺の肉を盗りやがったな」
張飛は焚き火を蹴散らして男の胸ぐらを掴んだ。男は少しも動じずに、気怠げな顔で張飛を見上げた。
「何を言うか。『蓋石を退けた者には肉をくれてやる』と周りに言っていたそうではないか。腹が減ったので蓋石を退けて拝借したまでだ」
確かに以前から、張飛は人々にそうふれまわっていた。張飛は悔しげに「ううむ」と唸り、こめかみの血管がヒクヒクと動いた。
「そう言っておかねぇと、肉を恵んでくれとせがむ輩がうるせぇんだ」
「飢えた者には少しくらい恵んでやっても良いだろう。卑しい男め。お前のような輩が大威張りで居るから、世の中がおかしくなるのだ」
「なんだとぉ!?」
張飛は男をいきなり殴った。男は血を吐いて倒れる。
なぁんだ。偉そうな口を叩くが大した事ないじゃねぇか。そのご大層な髯も、只の飾りだったな。張飛がそう思ったその時。彼の腹に男の拳が入った。
立ち上がった男は、大男と自負する張飛に負けず劣らずの体格をしていた。腹をおさえて崩れ込む張飛を、男は冷徹な目で見下ろした。
「やるのか?」
男の静かな声音に満ちる怒りを感じて、張飛は久しぶりに喧嘩し甲斐のある奴に出会ったなと思った。
「やってやらぁ!」
張飛はがばりと男に掴みかかった。
大男二人の殴り合いは目立つもので、次第に人だかりが出来ていった。だが、飛び交う野次も彼等の耳には入らないようだ。二人共血まみれになって、いつまでも決着のつかない喧嘩に夢中になった。
「居たぞ、あいつだ」
しかし遠くからこんな声が聞こえると、男はたちまちに殴る手を止めて逃げ出した。
「おい、逃げんのか腰抜け!」
張飛がどんなに挑発しても、男は戻ってこなかった。男を追って兵士達が張飛の脇を走っていく。張飛は何がなんだか分からず、呆然としながら血のにじむ口元を拭った。
「あいつ、お尋ね者なのか?」
野次馬の一人に尋ねてみる。
「へぇ。商人を斬った長生という罪人なんだと。お前さん、人殺しに喧嘩を売るなんて度胸があるねぇ。斬られなくてよかったよ」
「ふぅん。あいつ、長生っていうのか。なんでまた罪人になっちまったんだろう」
俺の知ったこっちゃあ無いけどな。がははと笑い、張飛は何かを企みながらのっそのっそ去っていった。
2.
長生は林の中で、じっと身を屈め隠れていた。逃亡生活を続けてもう長い。追っ手をまくのも慣れたものだ。彼は故郷で罪人となってから、各地を転々としていた。
日雇いの仕事を探しかろうじて食いつないできたものの、彼は常に空きっ腹を抱えていた。そんな時に見つけた井戸に隠された肉。もう少し食べたかった、凹んだ腹をさすり後悔する。だが飢えた子供達に肉を分け与えられてよかったと長生は満足げに微笑んだ。
「見ィつけた」
その声に、長生はビクリと体を震わせた。振り向けばそこには先程喧嘩をしたあの男。
「俺は張飛ってんだ。お前、罪人なんだよなあ?」
てことはよぉ。長生に向けられた張飛の笑顔がなんとも不気味だ。
「懸賞金がかかってンのか? お前のその首にゃあ」
その言葉に嫌な予感がして、長生は立ち上がると彼を睨んだ。
「首を獲る気か?」
「悪く思わんでくれぇ。俺には今、金が必要なんだ」
張飛は鉈を構えて彼を睨む。
「我が首はお前の酒代に変わるのか」
見るからに大酒飲みな張飛を眺めて、長生はため息をついた。
「違ぇやい! そりゃあ、ちっとは酒も呑みてぇが。俺は今、矛が欲しい。とびきり上等な矛がよ」
「どうしてだ?」
「世直しをすんのさ。お前も言っていたが、腐った輩が威張りやがるから、民は腹を空かせて苦しまなきゃならねぇ。俺は矛を手に入れたらよ、世の中に喧嘩を売ってやるんだ。んで、貧しい奴らに肉が腹いっぱい食えるようにしてやる」
「ほう」
長生は眉をぴくりと動かした。
「俺の肉をやったって、そりゃあちぃと腹は張るが、奴らまたすぐ腹空かせるだろ? どんだけやってもキリがねぇ。だったらよ、みぃんなが飢えねぇように政を動かした方が良いとは思わねぇか。俺に学はねぇが、武勇には自信がある。この人についていきゃあ間違いねぇってお方に仕えて、そのお方の為に武を振るう。それが、俺が立てた志だ」
そう語る張飛の生き生きとした表情に、長生は思わず目を細めた。この張飛とかいう男、ただの乱暴な男と思っていたが立派な志を抱いているではないか。
「お前はよぉ、なンで人を斬ったんだ?」
張飛の問いに長生はしばらく黙っていたが、ややあって語り出した。
「どうしても、許せなかったのだ。奴はその莫大なる富と権力で、我が故郷を牛耳っていた。皆、奴に苦しめられた。人妻は攫われ、奴に歯向かう者は……殺された」
長生は悔しげに目を瞑った。ぎしり、握りしめた拳が軋む。張飛はゆっくりと、突きつけていた鉈を降ろした。
「そんで斬っちまったのか。そいつぁスカッとしたろう」
彼がさも面白そうに手を叩く。しかし長生は、鬱々とした表情で首を横に振った。
「奴を殺しても何にも変わらない。おかしくなった世の中を変え」
長生が言い終わる寸前に、張飛は彼の口を抑えた。
「シッ。追っ手が来たようだぞ。草陰に隠れてな」
彼に言われた通りに、長生は身を潜めた。
間も無く、追っ手が現れた。
「おい、ここらで髯の立派な大男を見なかったか?」
兵士達は鉈を持つ大男を怪しく思いながらも、長生の居場所を尋ねた。張飛はすぐさま指をさす。
「その男なら、あっちの方へ逃げていきましたぜ」
彼等が去っていき、張飛はほっと胸を撫で下ろした。
「もう出てきても良いぞ」
そう言うと、長生が出てきた。
「お前、我が首を斬って奴等に差し出すのではなかったのか?」
「悪い商人を見事斬ったお前さんに、そんな事できっかよ」
張飛はそう吐き捨て、長生の腕を掴んだ。
「来いよ。俺の家に匿ってやる」
3.
肉を売って儲けている筈の張飛の家は、さほど立派なものでもなかった。狭い部屋に通された長生は、雑然とした部屋の空いている処に座した。
「いやぁ、お前さんに会えてよかった」
張飛は上機嫌に言いながら、酒を注いで彼に渡した。
「これも何かの縁ってやつかねぇ」
「どうだろうな」
相変わらず仏頂面な長生に、張飛は顔を顰めた。
「申し遅れた。我が名は関羽。字を雲長という」
「アレッ? お前さんは確か」
長生って言うんじゃなかったか? 張飛は訝しげに首をかしげる。
「これからは、この名で生きてゆこうと決めたのだ」
微かに揺れる関羽の瞳をまじまじと見つめながら、これは訳ありだなと張飛は思った。
暫く沈黙が続き。
「お前は、ひとりで暮らしているのか?」
おもむろに関羽が尋ねた。張飛は盃の酒を見下ろしてため息を漏らす。
「そりゃあ親だって居たし、惚れた女も居たさ。でもよ、なんでだろうなぁ。いつの間にかひとりになっちまった」
「同じだな」
「故郷に家族は居ねぇのか?」
「……もう居ない」
関羽は静かに酒を啜った。
「お前さんはよぉ、これからどうするつもりだ?」
「賊討伐の義勇兵に志願するつもりだ」
各地では黄巾党が反乱を起こしていた。朝廷は義勇兵を募り、反乱の鎮圧にあたっていた。
「良い考えだな、功績をあげれば追われる身分からはおさらば出来るだろう」
「逃げる為ではない。この命、なんの為に、又、誰の為に捧げるべきか。それをとくと見極めるべく、乱世に身を投じようと思う」
「デカい志を持ってるな。俺等、気があうんじゃあねぇか」
笑う張飛がバンと関羽の背中を叩く。あまりの力に、関羽は酒をこぼしてしまった。迷惑そうに睨む彼を余所目に、張飛はこう続ける。
「決めた! 俺を弟にしてくれ。共に世の為人の為、ひとっ暴れしようじゃあねぇか」
関羽は驚いて、張飛の笑顔を見つめた。その屈託のない笑顔に嘘偽りはない。こいつは本気なのだ。確かに、彼は心強い弟となろう。二人が組めば、向かうところ敵無し。共に天下を目指してみたい。素直にそう思えた。
しかし。関羽の表情が曇った。
「もう、弟はいらない」
「どうしてだよ!」
「お前を、巻き込む訳にはいかぬ」
関羽は張飛に背を向けてごろんと横になった。
「おい。なんでだよ。一体何を恐れてンだよ!?」
張飛はその山のように盛り上がる背中を揺さぶるが、関羽は断固として動かなかった。
関羽は故郷を離れた時から、こう決めていたのだ。
ひとりで生きるのだと。もう何も、失いたくはないと。
4.
張飛は寝息を立てる関羽を横目に酒を飲み続けた。そして、いつの間にか彼も寝てしまった。
気がつけば次の日の朝。大きく伸びをして起き上がると、関羽の姿がない。外へ飛び出し彼の姿を探すも、何処にもいない。
「薄情な奴め」
不機嫌そうに頭を掻きながら家に戻ると、布の切れ端に墨で書かれた置き手紙があった。
「ん、なになに? 『数々の厚意、感謝致す。同じ志を持った其方と出逢えたは、天の導きか。然しながら、我は未だ追われる身。我と行動を共にすれば、其方に迷惑がかかろう。もしまた相まみえる時あらば、その時こそは我が弟となってくれ』……ちっ、テイよく断ったつもりかよ」
手紙と共に、金が置いてあった。「肉を勝手に配ってしまった詫び」だという。張飛は手紙を金と共に強く握り締めた。
「俺は諦めねぇからな!」
どこまでも追いかけてやる! 張飛はすっかりムキになって、旅支度を整えると関羽を捜して出発したのだった。
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関羽は一日中歩き続け、やっとのことである集落にやってきた。もう日が暮れそうだ。宿を探して、彼は家々を訪ねた。
「もし。どうか一晩泊めてはいただけませんか」
「悪いが他をあたってくれ」
不審に思った住人達は誰も彼の頼みを聞き入れはしなかった。物騒な世の中になり、人々は用心深くなっていた。見ず知らずの関羽をもてなす心の余裕は、彼等にはなかった。
大地に深い影が横たわると、肌寒い風が吹き抜けていった。今夜は冷えそうだ。
途方に暮れた関羽は、川原に座り込んで身を縮める。薪木を探さねばと思いつつ、川のせせらぎを聴いていた。
川は迷いもなく流れていく。大河へと、まっすぐに。だのに己は未だ行き着く先が分からぬ。
今も手に遺る、呂熊という商人を斬った感触。返り血の匂いも蘇る。
人殺しの身。その首には賞金がかかり、雇われた兵士達は何処までも彼を追ってくる。どうして奴等は血眼になって関羽を捕らえようとするのか。その訳は、仲間だった行商人にばったり会った時に聞いた。
『呂熊を斬った事で、お前は一躍皆の英雄だ。神の化身として祀りあげる勢いだぞ。皆は金持ちどもの言う事をきかなくなった。困り果てた奴等は、英雄であるお前を見せしめにして俺等を黙らせようとの魂胆だ。たんと賞金をかけて、私兵まで送り出しやがった。長生、出来るだけ遠くに逃げろ』
果たして、逃げきれるのか。不安がよぎる。人相書きが広く貼り出され、街中を歩くのも一苦労だ。義勇兵に志願するには、顔が全く知られていない地へと行かねばならない。
このまま大河に辿り着けず、干上がる定めだろうか。否、こんなところで死んでたまるか。我はまだ何も使命を果たしていない。
物音がして、関羽は立ち上がって振り向いた。
「やぁ、殺さないでおくれ」
そこには子供が二人居た。彼等は関羽の殺気にすっかり恐れおののいていた。
関羽は溜息を吐くと、咄嗟に投げようとした礫を地に落とした。近所の家の子らか。二人は似た顔をしていて、兄弟だとすぐに分かった。兄はあどけなさが残るが利発そうな顔をしていた。弟は幼く、人形を抱いてよちよち歩いている。
「なんの用だ」
「腹を空かせていると思って、持ってきたんだ」
兄は屈託無い笑顔を見せると、湯気の立つ汁物が注がれた椀を関羽に差し出した。
「かたじけない」
関羽は受け取ると、ずずいと啜る。うまい。ここ数日ろくなものを入れていなかった胃袋に染みわたる。
「兄ちゃん、いいの? 兄ちゃんのごはんあげちゃって」
幼い弟が言う。ああしまったと、関羽は思った。いくら飢えているとはいえ、童の食事を頂いては恥というもの。彼は飲みかけの椀を兄に戻そうとした。
「いいんだ。僕は今日食べられなくとも平気。明日かろうじて食べる物はある。でもあなたは、食べる物ひとつも持って無いんでしょう?」
「それもそうだが。ガキに同情される程落ちぶれてはいない」
「同情じゃないよ。あなたが何者か気になったから、話すきっかけをつくりたかっただけ」
不思議な子供だ。関羽は彼等に何処かで会ったような気がしてならなかった。
「僕等の家の脇に、使ってない小屋があるからおいでよ。夜は寒いから、ここに居たら凍えてしまう。小屋に居たって、父ちゃんも母ちゃんも気づかないから大丈夫だよ」
関羽は彼等の厚意に甘える事にした。
5.
油に灯した明かりに、三つの影が揺らめく。畑仕事で使う用具を入れておくだけの掘建小屋だったが、夜の冷たい風を凌ぐには充分だった。
子供達は関羽に興味津々だった。彼等はこの見知らぬ旅人の冒険活劇を期待していたようだが、罪人と知られる事を恐れた関羽が話せる事は、ほとんどなかった。
「兄弟、仲が良いな」
うとうと眠りに入る弟を膝に乗せる兄に、関羽は言った。
「そんな事はないよ。喧嘩ばっかりだ」
そう話す兄の横顔が、ぼんやりとした灯りに揺れる。
「でも。こいつが居なくなったら、僕は心のどっかにぽっかりと穴があいちまう。居ると鬱陶しいのに。なんでだろう」
少年の話に、関羽は少し羨ましくなった。彼にはもとから兄弟が居ない。己に兄や弟が居れば、こうして支え合って、時には喧嘩もして、楽しく生きていけたのだろうか。
『決めた! 俺を弟にしてくれ』そう言った張飛を思い出す。あいつは置き手紙を読んでどう思っただろう。直接別れも告げず、きっと怒っているに違いない。だが、ああするしかなかった。彼には彼の進むべき道がある。
突然、眩暈がした。酒も飲んでいないのに、これは? 関羽は額に手を当て、眩暈がおさまるのをじっと待った。しかし状況は悪化するばかり。小屋の天井がぐるんと回る。
「おい、ボウズ。毒を盛ったのか」
毒。先程啜った汁物に入っていたようだ。
兄は真っ直ぐ関羽を睨んで頷いた。その握りしめたこぶしは、震えている。
「誰の差し金だ」
「李と名乗る兵長だ」
その姓だけで、関羽は全てを悟った。
「ああ、李生だな」
大声で笑いだす彼に、少年は豈恐ろしやと身を震わせる。咄嗟に膝の上で眠る弟を抱きとめた。
「彼らしい。ガキを使って我を罠に嵌めるとは」
李生とは同郷の幼馴染だった。よく遊んだ記憶が関羽にはある。
だが、関羽は不思議と冷酷な幼馴染を憎くくは思わなかった。そして、目の前の子ども等も。
「李生に、金を貰ったのか?」
「上手くやれば、金をくれると。約束してくれた」
「金が必要だったか」
「親は死んだ。こいつには、もう僕しか居ない。僕が稼がないと」
腕の中ですやすや眠る弟を見つめて、兄は言った。
関羽は段々と感覚の無くなってきた手で、少年の頭をぽんと叩く。
「よくやった」
まさか褒められるとは思わずに、少年は目を丸くする。「どうして」と聞き返そうとしたが、既に関羽の意識は無く、大きな図体は音を立てて倒れていった。
6.
馬から降りた男は部下を数人連れて、外に突っ立っている二人の子ども等を横目に小屋の中に入っていった。小屋には偉丈夫がうつ伏せに倒れている。身体を転がして顔を確認すると、彼は微笑んだ。
「長生だ。間違いない」
彼は李生という男。涼しげな眼差しが印象的だ。首筋に大きな傷痕がある。彼は元々農家の出だったが、生活に困窮して傭兵になっていた。今では少数の部下を引き連れる長にまでなっていた。
関羽に盛られた毒は微弱で、気を失っているだけだった。連れて行けと、部下達に命じる。縛られて引きずられていく関羽を見つめながら、李生は残念そうにため息をついた。
「どうして罪人になってしまったのだ、長生」
李生とて、褒められた生き方はしていない。しかし、曲がった事が嫌いで正しく生きてきた筈の幼馴染がお尋ね者になっているとは、動揺と失望を隠しきれなかった。
故郷で慎ましく生きるのでは無かったのか。恵まれたお前にはそれができた筈だろう。
「これも天命か」
思い起こされる、ある記憶。古傷が痛む。首に手を当てながら、李生は小屋を出た。
幼い子ども等に、約束通り金を渡す。孤児の兄弟を雇って一芝居をうたせたのは、全て彼の策略だ。己より目下の者に対しては油断をしてしまう。そんな関羽の弱点を、彼はよく知っていた。
「あの人は、どんな悪い事をしたの?」
兄の方が、李生に尋ねた。
「詳しい事は私も知らないが、人を斬ったそうだ。莫大な懸賞金をかけられる程だから、きっと大変な事をしでかしたのだろうよ」
「そうなんだ。じゃあ、あの人はどうなるの?」
「私が受けた命令は奴を生け捕りにする事だ。故郷に連れ帰って、依頼主に引き渡す。渡した後は知らない。しかし、きっと命は無いだろうよ」
そう話すと、少年はひどく塞ぎ込んでいた。何があったのだろうかと訝りながらも、李生は彼等と別れて小屋を貸してくれた農家に礼を渡しに行った。
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朝は、新鮮な光を関羽の瞼に注ぎ込む。眩しげに目を細めながら、彼は目を覚ました。眩暈の残る視界で己の状況を把握しようとする。手足は縛られて荷車の上に括り付けられていた。
「気がついたか」
ふと見ると、見覚えのある男がいた。
「李生」
「久しぶりだな。あの時以来か」
首の傷をそっとなぞり、李生は呟いた。
「失望したよ、まさかお前が罪人になるとは。孤児だったお前を大切に育ててくれた親父さん達が悲しむとは思わなかったのか」
「彼等は、もう居ない」
幼馴染の思い詰めた表情に、李生は何かを悟って口を噤んだ。
「元気にしていたか?」
顔半分が朝焼けに染まりながら、関羽は彼に尋ねた。
「ああ。一度は天に見放されたが、なんとか這い上がってきたよ。傭兵暮らしも軌道に乗ってきた。妻を娶り子も居る。家族の為にも、己が目の黒いうちになるだけ多く稼がねばならん。だからお前を見逃す訳にはいかない。許せ」
「安心しろ、お前を恨みはしない。これも天命。甘んじて受けよう」
関羽は李生を見上げて笑った。
このような状況で笑えるものなのか。この男からは少しも死の恐怖を感じない。やはりこいつは不思議な幼馴染だ。李生は気難しげに短い顎髭をさすると、部下に関羽を乗せた荷車を引かせ、かつての故郷を目指した。
7.
さて、張飛はというと。
彼は夜通し関羽を捜した。腹は空き、足は痛んでも、彼は休みもせず山道を走り続けた。
「くそっ、何処行ったんだよ」
道端の岩に座り込むと、張飛は足裏をさすりながら息を吐いた。少し休もうと思った、そんな時。
「兄ちゃん、なんであの人がつかまっちゃうの? わるい人じゃないのに」
子どもが二人歩いてきた。兄弟のようだ。弟らしき幼い子どもは、不服そうに兄に訴えていた。
「うるさい、あいつは人を斬った罪人なんだ。悪い奴だよ。だから捕まって当然なんだ」
「ちがうよ。あのおひげの長いおじちゃんは、わるい人じゃない」
その会話に、張飛はハッと立ち上がった。
「おい、お前ら。もしやその罪人は、名を長生といったか?」
近寄って来る大男に震え上がった弟は、人形をぎゅっと抱えて兄の後ろにまわった。
「何の用だ」
兄は張飛を睨みながら、腰元の小刀を抜き取る。怖いもの知らずなガキだなと張飛は笑った。
「そいつを仕舞えよ。取って食うつもりはねぇ。俺は張飛ってンだ。お前等、名はなんて言う」
「柁。兄ちゃんは馮だよ」
「こら、余計な事を言うな」
馮は弟の柁をきつく叱った。
「なぁ、馮。大事に抱えているその金はどうした?」
馮が抱えている袋。張飛は金が入っているのだと察した。子どもが大金を抱えてうろつくとは妙だ。何かあるぞ、と張飛は眉を動かした。
「実は、長生ってのは俺の兄貴だ。民を苦しめてた悪い商人を斬っちまってよ。その罪で追われてた。お前等、兄貴を売ったな?」
根拠はないが、張飛は確信していた。勘は冴えている男だ。馮は黙ったまま返事をしなかったが、震える足が図星である事を物語っていた。
張飛は太い眉毛を吊り上げ、くわと目を見開くと、兄弟を掴んで担ぎ上げた。
「何をする!」
馮は必死に抵抗する。しかし、小刀は担ぎ上げられる時に地面に落としてしまい、素手では張飛に傷ひとつつける事も能わなかった。
「おい、ボウズ。張り倒されたくなきゃ、俺を兄貴のもとへ案内しろ。どっちへ行った?」
「あっち!」
柁は張飛の肩上で、見晴らしの良い景色に喜びきゃっきゃと笑うと、関羽が連れて行かれた方角を指差した。
「あっちだな? よし、急げ!」
「急げ!」
大男と共にはしゃぐ弟に呆れながら、馮は関羽が毒に倒れる時の事を思い出していた。恨むでもなく、怒るでもなく、ただ『よくやった』と。褒められる事なんてしていないのに。褒められたのなんて、何時ぶりだろう。両親が死んでからはずっと独りで弟の面倒を見ねばならず、なりふり構わずがむしゃらに生きてきた彼にとって、関羽の労いの一言は曇天を駆け巡る稲妻の如き衝撃であった
彼は、罪人。そりゃあ、人を殺したんだ。罰せられるべき行いだ。だが、悪い奴を斬ったのだったら? 彼は苦しむ人を救った英雄なのではないか? 馮は絡まった糸のようにこんがらがった思考をそのままに、張飛に連れて行かれた。
8.
縛られたまま荷車に乗せられ一目で罪人と分かる関羽に、道行く人等は罵声を浴びせた。中には石を投げつけて来る者もいた。彼等は関羽に直接の恨みは無い。日頃の鬱憤を晴らす格好の的が通りかかったので、ここぞとばかりに八つ当たりしているだけだ。そんな彼等を、関羽はじっと睨む事しか出来なかった。
「人でなし、か」
関羽が突如笑い出すものだから、怪しんだ李生は馬を進め荷車の横に近づいた。
「えらくご機嫌じゃないか。どうした」
「彼奴等、我を見て “人でなし” と罵る。上等だ。堕ちるところまで堕ちてやる。 それで民が救われるならば、鬼にでもなろう。悪を斬り世を正してみせる」
「もうすぐ死ぬというのに何をほざいている」
幼馴染を憐れんで、李生は言った。
「お前はいつもそうだ。己こそが正しいと思い込んで。その傲慢さで、お前はついに身を滅ぼした」
「恨んでいるか。あの時の事」
関羽の言葉に李生は静かに目を伏せる。
「いや。だがな長生、お前が常に正しいとは限らないよ」
李生には、かつて弟が居た。歳が十程離れていたこともあって、彼は弟をいたく可愛がっていた。
しかし貧しい生活が続き、親は弟を手放す事に決めた。一家もろとも飢えに倒れるよりは、他所で生きる方が弟自身の為にもなろう、と。苦渋の決断だった。
若い李生には、家の事情など理解出来ない。弟と一緒に村を出てやる。護身用に鉈をひとつ引っさげて、彼は弟の手を引いて解池の畦道を歩いた。
「覚えているか?」
李生は昔を思い出して、表情を曇らせた。
「あれは事故だった。君が私を斬るつもりは無かったし、私も君を斬るつもりは無かった。そう、あれはただの不運な事故だった」
あの時、関羽は李生を叱責した。兄弟二人で生きていくなど無謀だと。李生の幼い弟は病弱だった。放浪の旅に耐えられるはずが無い。李生と弟の為を思っての怒りだった。
彼の叱りを受けて、李生の頭にも血が上ってしまった。二人は揉み合い、その弾みで李生の持っていた鉈が、彼の首筋を斬った。血が、解池を赤く染めた。
幸い致命傷にはならなかった。しかし、李生が生死を彷徨った末に再び意識を取り戻した時には、可愛い弟は既に売り飛ばされていた。
「私がどんな思いで弟を捜したか、お前には分かるか? そしてようやく見つけ出した時には、あいつは冷たい土の下に埋められていたんだ。どんなに心細かったか。どんなに寂しかったか」
李生は声を詰まらせた。
彼の弟は売られた先で、しばらくは順調に働いていたようだ。しかし程なくして、病に罹り帰らぬ人となった。李生は弟の質素な墓の前で泣いた。声が枯れるまで詫びた。
「確かにお前の言う通り、家出していてもあいつは結局は体を崩して死んだやもしれない。だがな、看取ってはやれた。独りで惨めに死ぬ必要は無かったんだ」
震えながら紡がれた言葉は、関羽の胸を抉る。
「どうすれば正しく物事が進むのかだなんて、誰にも分からないものだよ」
そう言って、李生は馬の腹を小突き去って行った。
9.
子どもを連れての旅は、張飛が思う以上に厄介なものとなった。
「腹へったよぉ」
「喉かわいたよぉ」
弟の柁はこんな我がままを言って、彼を困らせた。我慢しろと怒鳴りつけても、今度は大きな声で泣くばかり。
「おい、お前。弟をなんとかしろよ。お前の言うことなら聞くんだろ?」
しかし馮は二人を静観したまま、手助けしようとはしなかった。
「あんたが僕等を連れてきたんじゃないか。僕は知らないよ」
柁のお守りで右往左往しているうちに、あっという間に日が暮れた。これではいつまで経っても囚われの関羽のもとに辿り着けないではないか。どうしたものかと悩みつつ、張飛は今宵の寝床を整えた。星が今にも溢れ落ちてきそうな空の下、静かに横たわる山の影を眺めつつ焚き火をおこす。何処かで甲高い獣の鳴き声がした。
昼間あんなに手の焼けた柁は、張飛の膝の上で安らかに眠っている。しょうがねぇ小童だなぁと思いつつ、張飛は彼の頭を撫でた。
「お前は夢とかあるか?」
黙々と獣肉を頬張っていた馮は、張飛からの唐突な質問にびくりと肩を震わせた。
「夢なんか、ないよ。飯と寝床を探すだけで精一杯だ」
「俺にはあるぜ。この腐りきった世の中を変えてやる。皆が楽に暮らせる平和な世にするのさ。貧しい民達を助けてやりたい」
「どうせ無理だよ」
「なんでそんな事を言うんだ」
張飛は悲しげに眉を下げる。
「言葉だけなら何とでも言えるさ。平和とか幸福とか、夢とか希望とか、僕はそんな綺麗事をほざく奴が大っ嫌いだ」
少年は眼前の焚き火を睨みつける。薪はパキパキと音を立てて崩れていく。その様が転落していった己の短い人生を思い出させて、幼い顔はますます強張っていった。張飛は少年を不憫に思った。
「ませた口をききやがって。ボウズ、人生を悲観するにはまだ早いぜ。若いお前には未来が広がってんだ。辛い事ばっかだからって諦めんな。俺は足掻いてやる。無理だ言われたからって諦めねぇからな」
========
次の日。張飛と子ども等はやっとの事で関羽達に追いついた。一行はどうやら休憩をとっているようだ。藪の陰に隠れて様子を伺うと、荷台から降ろされる関羽を見つけた。
「兄者だ。厠に行く訳ではなさそうだ。様子がおかしい」
張飛が声をひそめながら言うが、応えてくれる筈の子ども等が居ない。張飛はびっくりしてきょろきょろと辺りを見回すが、兄弟の姿はなかった。
「まんまと逃げやがったか」
小さく舌打ちをする張飛だったが、子ども等を追いかける暇はなかった。囚われの関羽は兵士達に促されて、地面に跪く。ある男が己の剣を抜いて、関羽の背後に立った。首を斬るつもりだ、張飛は唾を飲み込んだ。
10.
李生達のもとに急遽、依頼主から命令が下った。
「そんな。約束と違うじゃないか」
李生は苛立たしげに竹簡を投げ捨てる。内容はこうだ。
『罪人の首を直ちに刎ねよ。首だけ持ち帰れ』
故郷で民衆の英雄となった関羽。民達の “関羽信仰” が今や手のつけられない程に膨れ上がり、権力者を脅かしていた。依頼主は反乱が勃発する前に、一刻も早く首を刎ねてしまいたいと考えたのだろう。例え首を晒したとて、一度動き出した反乱の渦がおさまる筈はないのに。
「仕方ない。長生を降ろせ」
李生は部下に命じた。
地面に膝をつく関羽の背を、李生は複雑な表情で見つめ剣を抜いた。
「友だった男を、斬りたくはなかったのに」
「我は今でも、お前を友と思っているよ」
関羽はしゃんと背を伸ばし、静かに微笑んだ。李生の目から、涙が溢れる。彼は腕で涙を拭うと、気を取り直して剣を振り上げた。
「待ったぁ!」
突如怒号が聞こえたかと思うと、何かに突進され李生の身体が吹っ飛んだ。猪か。虎か。否、大男だ。
「張飛!」
関羽が叫んだ。
「兄貴、助けにきたぜ」
「お前って奴は」
無邪気に笑う張飛を見て、強張っていた関羽の表情が少しだけ綻びた。
「おい、お前等。タダじゃおかねぇからな」
張飛は拳を鳴らした。
李生はよろよろと立ち上がると彼に斬りかかった。張飛は剣を避け、彼の腕を掴む。今にもへし折らんばかりの張飛の力に、李生は唸り声をあげた。しかし剣は離そうとしない。二人は互いに睨み合い、硬直状態が続いた。
「張飛、やめろ。我に構うな」
見かねた関羽が叫ぶ。
「もうよいのだ!」
「死ぬつもりかよ。俺等の夢は、志は……どうすんだ! 苦しむ民を見過ごして逝く気か? お前は生きなきゃなんねぇ!」
張飛の言葉に李生の眉がピクリと動く。
「叶いもしない理想郷を追い求めて、何になる? 自惚れたお前等が、大事を成せるとは思わない」
李生はそう吐き捨てると、張飛の脇腹を肘で突いて離れる。張飛は迫り来る剣の切っ先を避けて後退りした。すかさず李生の部下が張飛を包囲する。張飛は大きく舌打ちをして、腰に差していた剣を抜いた。
一触即発のその時。遠くで人々の悲鳴が聞こえた。声のした方を見ると、灰色の煙が天を突き破る巨木の如くたちこめている。雄叫びと馬の蹄の音が、地鳴りのように響いた。これは単なる火事ではない。
部下の一人がこう叫んだ。
「大変だ、賊が村を襲撃したんだ」
黄巾賊が、近くの村を襲撃したのだった。
「李生。かつての友の最後の頼みを聞いてくれないか」
関羽は立ち上がった。
「この縄を解いてくれ。村の民を助けたいのだ。逃げはしない。必ずやこの首を差し出そう」
彼が騙して逃げ出す訳がない事を、李生は知っている。それに、李生とて目前で苦しむ人々の叫びを無視は出来なかった。彼は関羽の縄を解いてやった。
「存分に暴れて来い。私達も共に賊と戦う」
李生は部下に命じて張飛の包囲を解かせると、関羽に剣を渡した。
「感謝する。さぁ張飛、ゆくぞ!」
「おう!」
兄弟〜Xiongdi〜
「張飛井戸」のエピソードを踏襲していますが、一部改変しています。
※歴史を考察する目的で作られた話ではありません。
史実の人物とは一切関係ありません。